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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

アップライトの魅力-2 

前回に引き続き、アップライトピアノの魅力について。

現実的な住環境の中での使ってみると、アップライトはスペース効率において優れているのみならず、弾いた感じにもアップライトならではの良さがあることも次第にわかってきて、むやみにグランドはいい、アップライトはその下、という単純な図式がマロニエ君の中ではやや崩れつつあります。

《音の特徴》
アップライトは弦と響板が床に対して直角に立っており、音の発生源が弾く側の全身にまんべんなく近い位置にあるためだと思われますが、グランドよりも音の立ち上がりがよく、より身近にピアノの音に接することができるという独特な気持ち良さがあって、この感触はグランドではなかなか得られないものではないかと思うのです。
よってアップライト特有の迫力というのがあるし、自分の出している音のニュアンスや強弱に対しても敏感にチェックができるという点では、曲を仕上げる際に、よりデリケートな部分にまで意識が行き届くという面があるように思います。

《タッチ》
もちろんタッチは理想的とはいえませんが、慣れてくるとそれほど不満にも感じなくなるし、音もよく聴けて、丁寧な練習をするにはアップライトというのは思ったより有効なものだと思うのです。
とくに繊細なタッチコントロールがグランドより難しいため、アップライトであえてそこを練習することは、より精度の高い練習にもなり、悪いばかりではないと感じます。

《気分》
心理的なことをいうと、グランドの場合、奥に向かって広がる空間が寒々しく虚しく感じることがあるのに対して、アップライトでは床から頭のあたりまで縦にピアノで、そのすぐ向こうは壁なので、これが妙な安心感と落ち着きを覚えます。
感覚は個人差もあるとは思いますが、グランドの下の空間なんて、考えてみればちょっと不気味で、冬とかは必ずしもいい感じはしません。

また、弾く気まんまんのときはともかく、はじめの譜読みや、フィンガリングを決めて練習を重ねていく段階では、個人的にはアップライトのほうが環境的にじっくり取り組めるし、こじんまりした楽しさがあって、これってけっこう大事なことではないかと思うのです。

もちろんこれはマロニエ君のように趣味でとろとろと弾いて楽しむ場合の話であって、プロのピアニストやコンクールを目指すような方はアスリート的勝負の要素もかなりあるから、そんな甘っちょろいことを言ったり思ったりしているヒマはないでしょうけれど…。

《音》
音は個々のピアノによって千差万別なので一概には言えませんが、これだけは言っておきたいこととして、一般に思われているほどグランドがどれもこれも素晴らしくてアップライトを凌駕しているわけではないということ。
とくに小型グランドでは低音の巻線部分などはかなり情けない音しか出ないものはたくさんあるし、それに比べてもはるかに大人びたキザな低音を出すアップライトもあるあたり、巷のイメージほどなにもかもグランドがエライわけではないし、場合によってはアップライトが勝っているところもあるので、そこは正しい認識と冷静な判断が必要だろうと思います。

それに誤解を恐れずにいうと、ピアノの練習はいつもいつも弾きやすい素晴らしい楽器でばかりやるのが、すべての面で効果があるとは言い難い面もあるという事実。できる限りいろいろと楽器を変えて弾くほうがゆるぎないものがあり、いつも同じ部屋、同じ楽器でばかり弾いていると、場所やピアノが変わっただけで狼狽してしまうことがある。
ピアノを奏するというのは、非常にセンシティブな行為なので、楽器が変わってもすぐ対応できる柔軟性をもつことも非常に重要だと思います。

実際に使ってみると、アップライトもかなり魅力的な存在だということが身をもってわかりました。
大型高級車が常にいいわけではなく、日常生活のなかでは、取り回しの良い小型車がしっくりくる場面があるように、それぞれの得意分野があるというところでしょうか。

2018/11/13 Tue. 02:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アップライトの魅力-1 

自室にシュベスターのアップライトピアノを置いてから2年近くになりますが、はじめの半年ほどは良くも悪くもその印象があれこれと変わりました。
それはアップライトピアノという機構に対してでもあったし、シュベスターというメーカーに対する評価でもあり、とにかくいろいろなことに感じるものや思うところがさまざまあって、それが定まるまで一定の慣れみたいなものが必要だったのかもしれません。
ピアノ自体もはじめはどこか不安定さがあり、調整なども何度も繰り返しましたが、今年になってからでしょうか、落ち着きが出てきて、それなりの艶やかさがでてきたようにも感じます。
そういう時間を経ながら、自分自身のピアノへの接し方も少し変わりました。

ピアノとしての機能とか楽器としての潜在的な能力でいうとグランドのほうが優れているのは論をまたないことで、とくにアクション構造の違いからくるタッチについては、いまさらここで言うまでもないこと。
ほんらいピアノとはグランドのことであり、グランドのかたちで創り出され発展したものだから、こちらのほうが楽器として自然であるのはいうまでもなく、アップライトはそれを敢えて縦置きにした、いうなれば妥協の産物です。

しかし、自室という自由空間で普段からピアノに気軽に触れられるようになると、タッチはともかく、限られたスペースにともかくもピアノを置けるというのは、現実問題としては大きな魅力として実感しています。
しかもアップライトは単に設置に要するスペースが小さいというだけでなく、壁に寄せて、見るからにきれいに収まるというのも魅力だといえるでしょう。
グランドはそれなりのスペースがあればもちろんこれに勝るものはないけれども、単に部屋に収める物体としてはやはり大きく、おまけにカタチも特種で、ふたつの直線とS字カーブをもつ変則的な形状であるため、これを落ち着きある感じに収めるのは至難の技。

加えて、鍵盤のある手前側は演奏するだけでなく、整調や整音で鍵盤からアクション一式が無理なく出し入れできるだけの余地を残しておく必要があり、そのためには鍵盤から手前に1m近い空間を取られることもあり、どうしてもグランドを置くとなると、部屋の景色はピアノ中心ということになるのは避けられません。

さらに3本の足の間には中途半端な空間が残りますが、ここは美観の点でも響きのためにも、できることならなにも置かずに空けておくほうが望ましく、その点では大屋根の上も同様。
上下いずれも使いみちのない空間の生まれることもグランドの場合は避けられない。

その点ではアップライトは配置する上でのムダや割り切れなさがなく、すっきりカチッと収まるべきところに収まるという点では精神衛生上も大変よろしいことを日々実感します。

見た目に対する印象も、時間とともにずいぶん変わりました。
以前のグランドを見慣れた目では、ただの四角い箱から鍵盤が飛び出しているだけで、なんと無粋なものかと思うばかりでしたが、毎日一緒にすごしているとだんだんに良さが見えるようになり、愛着さえわいてくるのですから人の感覚なんて勝手なものです。
部屋全体として眺めると、これはこれでとても好ましく、見方によってはグランドがいかにも無遠慮な感じでデンと鎮座する姿より、よほど節度と慎みがあって、雰囲気もよろしいことが最近になってわかるようになりました。

グランドに対してアップライトはすべてが劣り、妥協の産物という偏見と思い込みやがあったのだと今は思えますし、それを取り去るにはかなり時間もかかったと思いますが、そのかいあってアップライトも大いに興味の対象になりました。
もちろん楽器単体でみればグランドの優位性が揺らぐことはないけれど、日常生活という現実の中で、限られたスペースその他に折り合いをつけながらピアノに親しむためには、アップライトというのはかなり優れたものではないかと思うこの頃です。

適切な使い分けができれば、それぞれが最高の役割を使い手にもたらすわけで、何にしても決めつけはいけませんね。
アップライトピアノは、インテリアとしてもなかなか素敵な存在ですが、そのためにはダサいカバーや椅子などでぶち壊しになることもありますので、細かい点が意外に要注意ですが…。

2018/11/08 Thu. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

いやはや… 

某日某所、あるピアノのコンサートに行ったのですが、その会場のピアノがあまりに冴えないもので、いまどきこういうこともあるのかとびっくりしました。

そこは多目的スペースなどではなく、プロの音楽家のための施設であるし、ピアノも世界的ブランドのコンサートグランドであるだけに、その驚きたるやいやが上にも大きなものになります。

あれではピアニストも思い通りの演奏はできなかったと思うし、聴かされる側にとっても、およそピアノの音や響きを楽しむという期待からかけ離れたものになりました。
作品の素晴らしさ、演奏の魅力、コンサート会場で生演奏につつまれる喜び、そういうなにもかもがピアノによって多くが堰き止められてしまったようで、欲求不満と不快感ばかりが募りました。

良い音楽を我々聴衆側が受け取るのは、優れた演奏はもちろん、楽器という媒介あってこそであり、そのためにはまず一定水準をもった楽器の音が聴こえてくるという基本が満たされない限り伝わりようもないし、それが阻害されるということは、それだけでかなり精神的に疲労してしまうものだというのがよくわかりました。

なによりも気の毒なのは、本番へ向けて準備をし、練習を重ね、全力を賭して当日を迎えてステージに立つピアニストであって、そのすべてを託すべきピアノに問題ありでは、なんと報われないことかと胸が痛みました。
こんなことならメーカーは何でもいいから、まともなピアノを弾かれたらずいぶん違っていただろうと思うと、ただただ気の毒というか残念でした。

休憩時間には、すぐ近くにおられた知り合いの方が「ぼくの耳がおかしいのかもしれないけれど、この会場とピアノがどうも合っていない気がする…」と言われました。
きっと、多くの人が違和感を持たれたことだろうと思います。

どういうピアノかというか、まず単純にピアノがまるで鳴らない。
音はうるおいなく痩せこけ、普通に弾いてもショボショボしているし、fやffになると音が割れて、ペチャンとした衝撃音になるだけ。
ピアノの音の美しさはもとより、本来あるべきパワーも響きもまったく失われていました。

ある人は「あそこのピアノは古い感じがした」となどといっているらしいのですが、それほど古いピアノでもなく、適切な調整と管理がされていれば十分に現役として通用する筈の、本来は立派なピアノ。
いずれにしろ、みんながなにかしら違和感を持っているようです。

休憩時間によく知る調律師さんに会ったので、思わずややトーンを落として「あのピアノ…」と言いかけたところ、その方はこちらの言いたいことを十分以上に察しておられるようで、ゆっくり頷いて、その表情が異様なほどの笑顔になりました。
あれこれの言葉より、その無言の笑顔がすべてを語っていました。

ピアノの業界も、いろんなことが渦巻くデリケートな世界というのはそれとなく知っていますが、どのような理由があるにせよ、その結果として迷惑を被っているのは演奏者であり聴衆なのですから、こんな状況はとても納得できません。
ピアノが泣いています。

2018/10/30 Tue. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

お寺とピアノ 

日本のお寺や神社で行われるクラシックコンサートは、否定しているわけではないけれど、あくまでも個人的な感覚から言わせてもらうとあまり好みではないことは以前何度か書きました。

今は何事も物珍しさや耳目を集めることが優先され、異なるジャンルを組み合わせるコラボがブームのようですが、お寺で西洋音楽のコンサートというのもそういった発想に基づくものが発祥ではないかと思います。
大半が仏教や神道である日本人が、何の抵抗もなくクリスマスやハロウィンを楽しむという世界的に見れば変わったお国柄なので、その許容量からすればこれしきのこと朝飯前なのかもしれませんが…。

ただ、西洋のクラシック音楽というものが、根っこにキリスト教が通底していることを思うと、マロニエ君としてはそれを仏教や神道の施設内で演奏してその音楽を鳴り響かせることが、理屈ではなしに抵抗があるわけです。
そもそもお寺や神社でクラシック音楽を聴いたからといって、そのどこが素晴らしいのかが素朴にわからない。
異なる文化の融合であるとか、なにかひとつでも感覚に落ちるところがあればまだしも、ひたすら違和感しか感じないのです。

それぞれが素晴らしいからといって、異質なものを安易に組み合わせることは、下手をすればどこか冒涜的な色あいを帯びる恐れさえあり、個人的には関係者だけの自己満足ではないかと思うのです。

それにつらなる話かどうかはわからないけれど、知人がとある大型ピアノ店に行ったときに聞いてきた話によると、中古のスタインウェイのコンサートグランドを購入するのは、宗教関連が少なくないのだとか。

それってどういうこと?って思いました。
お寺の本堂にスタインウェイDを置くのか、あるいは宗教家の個人的趣味なのか…。

それを解明する手がかりになるかどうかわからないけれども、お寺とピアノの組み合わせを偶然にもテレビで目にしたので、うわぁ!と思わず食い入るように見てしまいました。

某所の由緒ある由のお寺には、高台に付設された広い墓所があり、その管理室という建物に入って行くと浴室に温泉がひかれていたりするほか、そこには総檜造りというホールがあって、そのステージにはスタインウェイDとベーゼンドルファーが置かれていていました。

ここをドヤドヤと訪ねて行ったのは、名前は知りませんがテレビで顔を見たことのある4〜5人のお笑いタレントの一団で、彼らを迎えるご住職がえらく気さくで、芸人さんたちに調子を合わせながらピアノに近づき「これはドイツのスタインウェイというピアノです!」と言い出し、「プロが使うものです」さらには「これで家が一軒建ちます」などと自慢しながら、慣れない手つきで蓋を開けて、大屋根の支え棒の刺し場所もおぼつかないご様子。

もちろん安いものではないでしょうけれども、剃髪して、いちいち合掌のしぐさをする和尚さんが口にする言葉としては「家が一軒建つ」などとは大げさだし、いささか世俗臭が強すぎではないかという感じが否めませんでした。

そのピアノは1960〜1970年代のダブルキャスターになる以前の時代のもの。
塗装は新品のように塗り替えられており、その際に入れられたのか、当時のスタインウェイにはない大きなサイドロゴがついているのがいかにもな感じだし、しかもかなりまちがった低い位置に付いていて、それが却って中古ピアノといった感じを強調する結果となり、非常に「残念な感じ」に映りました。

さらにタレントさんのひとりが音を出してみて「うわー」とか言っていたけど、くたびれた弦が交換されていないのか明らかに伸びのない音で、要するに世界の二大銘器がおかれているという、ブランド性こそが大事なのかもしれません。

この墓所の横のホールでは、しばしば演奏家を招いてコンサートが開催され、その収益を貯めて某基金に寄付しているとのこと。
その際の「僅かばかりですが」という言葉が妙に意味深で、コンサートの収益そのものが僅かなのか、あるいはその中から本当に僅かばかりを寄付というのことなのか、どっちにも取れる言い方だったのが苦笑を誘いました。

結構立派なホールでしたが、もしあそこでバッハの宗教音楽なんかやろうとしたら、OKが出るんだろうか?
一流ピアノにも、実にさまざまな生涯があるんだなぁと思いました。


2018/09/28 Fri. 02:43 | trackback: 0 | comment: -- | edit

小菅優 

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。

2018/09/17 Mon. 15:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

似合いの音 

音楽評論家の故・宇野功芳氏が、著書『クラシックの聴き方』の中での山﨑浩太郎氏との対談で、バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集について触れておられました。
「すごく褒める人もいるが、僕は全然買わない。」としていて、さらに「とくに何があるかというと何もないし、響き自体が汚い。意味がない。」と手厳しく続きます。
オケはベルリン・シュターツカペレですが、山崎氏も批判的で、要約すると「シカゴ響のような機能性の高いオケを使わず、響きを整えられないシュターツカペレのような雑然とした響きがベートヴェン的だとバレンボイムは考えている気がする。様式の模倣に過ぎず安易」というようなことを言っておられます。

とくに宇野氏の主張は、バレンボイムのピアノにもそっくりそのまま当てはまることで、マロニエ君は昔からなぜ彼があのように一定の評価を得て、第一線の演奏家として生きながらえていられるのかがまったくわかりませんでした。
お好きな方には申し訳ないけれども、何もない、響き(音)が汚い、意味がない、はピアノでもまったく同様。

上記の交響曲全集は、バレンボイムの価値がわからないマロニエ君としては、指揮なら多少マシなのか?と思って、ずいぶん前に買ってみたようなあまりはっきりしない記憶があったので、CD棚を探してみるとやはり「あった」ので、我ながらずいぶん奇特な買い物をしたもんだと呆れながら、はてさてどんなものか恐る恐るプレーヤーに入れてみました。
全部を聴く気は到底ないので、とりあえず「英雄」を鳴らしてみると、宇野氏の言われる以上にまったく真摯な姿勢の感じられない、作品の表面だけをなぞったような、やる気あるの?これを褒める人がいるの?と思うような腑抜けな演奏に仰天。
神経にもあまりよくないので、第一楽章の途中でやめてしまい、CDは再び棚の奥深くへと戻しました。

ただし、この対談の言葉の中に、ちょっと気になるものがあったのも事実。
それは「雑然とした響きがベートヴェン的…」というもので、この対談では、それがバレンボイムの選択の誤りとして述べられてはいたものの、マロニエ君としては「場合によりけりだけど、それはあるかも」という思いが頭をよぎりました。

ピアノの場合、現代の整った美音のスタインウェイで奏されるベートーヴェンは、その音楽の内容とか特有の書法に対して、あまりに整然としたスマートなトーンすぎて、なにか物足りないものが残ることも個人的には感じていました。
かといって、バックハウスのようにベーゼンドルファーを使えばいいのかといえば、そうとも思わない。
グルダは昔はベーゼンドルファーでよくベートーヴェンを弾いていたようだけれど、録音ではスタインウェイだし、シフは全集の中で曲に応じてスタインウェイとベーゼンを使い分けているし、敢えてベヒシュタインを使うピアニストもちらほらいる。

そこでふと思い出したのが、オーストラリア(オーストリアではない!)の手作りピアノメーカー、スチュアート&サンズを使ったベートーヴェンのピアノソナタ/協奏曲全集。
演奏はジェラルド・ウィレムス(ジェラール・ウィレム?)で、非常に正統的な安定した演奏ですが、注目すべきはその音色です。

久々に聴いてみたら、むろん演奏にもよるだろうけれども、概してベートーヴェンにはこういうオーガニック野菜みたいな音のほうが単純にサマになると思いました。
一聴したところはドイツピアノのような感じが色濃く、個人的な印象としては、ブリュートナーとベーゼンドルファーを合わせたような感じで、基本的には木の音がするけれど、ほわんと柔らかい音ではなく、むしろエッジの効いた鋭く切り込む感じのピアノ。
さらには、ほどよく野暮ったさが感じられる音で、都会的なスタインウェイはじめ、今どきのヤマハやファツィオリとは真逆の、自然派ピアノとでも呼びたくなる音です。

あまりに整った美音ずくしで奏でられるベートーヴェンには、どこか落ち着かないフォーマルウェアで締めつけられたようなよそよそしさがあるけれど、スチュアート&サンズで弾かれるとそういう違和感がなく、より自然にベートーヴェンの世界に入っていける心地よさがありました。

やはり人それぞれ似合いの服や家や車があるように、似合いの音というのがあるんだなぁと感じたしだい。
それにしても、バレンボイムっていったいなんだろう?

ちなみにスチュアート&サンズ(Stuart&Sons)はたしか97鍵で奥行きも290cmぐらいある手作りで木目の大型ピアノで、マロニエ君は昔、結構苦労してこのCDを手に入れましたが、今はYouTubeなどでも音を聴くことが可能になりましたので、よろしかったらどうぞ。

2018/09/05 Wed. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

楽器か道具か 

ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。

ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。

今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。

さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。

ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。

ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。

ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。

もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。

せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。

かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。

先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。

ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。

またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。

2018/08/30 Thu. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏の意味 

テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。

このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。

しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。

どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。

その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。

それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。

いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。

演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。

昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。

指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。

これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。

今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。


2018/08/25 Sat. 02:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アレクサンドル・トラーゼ 

たまっているクラシック倶楽部の録画から、今年トッパンホールで行われたアレクサンドル・トラーゼのリサイタルを視聴しました。
曲目はハイドンのソナタ第49番変ホ長調、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章をカデンツァを含めてトラーゼ自身が編曲したもの、さらに2台ピアノによるピアノ協奏曲第3番の第3楽章。

本来なら、この手の外国人の(わけても旧ソ連系の重量級という言うべき人の)リサイタルとあらば、すぐにでも聴いてみようとする筈ですが、このトラーゼというピアニストはあまりよくは知らないというか、ずい分前に期待を込めてゲルギエフとの共演(オケはどこだったかわすれた)でプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDを購入、ロシア人(当時はそう思っていたが、トラーゼはジョージア人)によるネイティブな演奏を期待していたところ、それはまったく当方の期待に反するものでした。

具体的にどうだったかは忘れたし、そのためにわざわざCDを探し出して確認してみようというほどの熱意もないからそれはしないけれど、とにかくちょっと変わっているというか、ピアニストの個性なのか耳に逆らう変なクセのようなものばかりが目立った、すんなり曲を聴き進むことができないことに甚だしく落胆し、たしか全曲聴かずに放置した記憶があります。

「こういう演奏を期待して買ったわけではなかったのに!」という典型のようなCDでした。

なので、どうせ自分の好みではないだろうという先入観があり、つい先延ばしになっていたのです。

トラーゼ氏は番組内でインタビューに答え、正確ではありませんが、ざっと以下のようなことを言っていました。
「最近つくづく思うが、私は演奏そのものには興味がない」
「私の心を引きつけるのは、曲に秘められたストーリーを語ることだ」
「ハイドンのソナタ(この日演奏する曲)は、恋愛関係にあった女性歌手に献呈されたもの」
などといって第2楽章などを弾いてみせる。
「(作曲家の意図やストーリーを語ることは)間違っている事もあるかもしれないが、ただ音符をならべるだけの演奏より楽しんでもらえることは確か」
〜等々、この人なりに作品に込められたものを聴く人に伝えたいということが、人一倍あるらしいことはわかります。

ただし、ではトラーゼの演奏を聴いて、それが具合よく実現できているかといえば、残念ながらマロニエ君は成功しているとは思えませんでした。

冒頭のハイドンでは表情過多で、曲が必要とする軽快さや洒脱の味わいがまったく失われているというか、もしかしたら本来の曲とは少し違ったものに変質してはいないかという疑問さえ感じます。
トラーゼのいうストーリー展開も語りも、話としてはわかるけれど、古典派には、古典派なりのスタイルというものがあって、表現はその一定の枠の中で行われるべきものと思います。
古典派に限らず、音楽には音楽独自の語法というものがあり、さまざまな要素は音楽的デフォルメをもって間接的に表現されるべきで、言葉そのもののようなあまりに生々しい直接表現はマロニエ君は好みではありません。

トラーゼの演奏は、まるで一言一句が大げさな芝居のセリフのようで、ひとつひとつに意味を被せすぎ、音楽に必要な横のラインが随所で寸断されてしまうのは賛同しかねるもので、あれをもってハイドンの言いたかったこととは、マロニエ君にはとうてい思えませんでした。

次のプロコフィエフの編曲は、やたらと長ったらしく恥ずかしいほどもったいぶった曲でしたが、ただ第2協奏曲のモチーフを散りばめた即興演奏のようでもあり、コンサートに行って現場の空気を吸いながらこれを聴かされたらそれなりの魅力があるのかもしれないけれど、テレビで冷静に見る限りでは、あまり意味の分からないものでした。

最後のプロコフィエフ、ピアノ協奏曲第3番の第3楽章は愛弟子である韓国人の女性にもう一台のピアノでオーケストラパートを弾かせての演奏でしたが、旧世代のロシア系ピアニストを彷彿とさせる炸裂するフォルテなどが多用されるものの、テンポや曲の運び、アーティキュレーションなど、いずれも鈍重で恣意的、スピードの出ない旧式な戦車みたいな印象でした。
ただ、大きな音は出せる人で、低音域のそれはたしかに迫力があり、薄くてサラサラの演奏が大手を振る現代では、溜飲の下がるような瞬間もなくはないけれど、でもやっぱりそれだけでは困るのです。

指の分離もあまり良くないのか、個々の音のキレが良くないことと、特に右手が歌わないのは終始気になるところ。
こういう演奏に触れてみると、巷で言うほど好きではないソコロフなども、やはりあれはまったく次元の異なる第一級のピアニストであることを思い知らされました。

会場はトッパンホール、ピアノは二台ともスタインウェイDでしたが、トラーゼはソロでもコンチェルトでも手前のピアノを弾きました。
キャスターの感じからして奥のピアノのほうが新しいようで、勝手な想像ですが、やはり新しい個体のほうが鳴りが不足するというか、ピアノとしてのスケールが小さいのだろうか…ともかく相対的に古いほうがトラーゼの好みに合ったのかもしれません。

実際の演奏会では、コンチェルトは全楽章、他に戦争ソナタも演奏されたようです。

2018/08/19 Sun. 03:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ときには刺激を 

とある休日、以前ピアノを通じて親しくしていた方々が、お揃いで我が家にいらっしゃいました。

中には実に数年ぶりにお会いする方もあり、懐かしい限りでした。
挨拶もそこそこに、やはりこの顔ぶれはピアノを弾いてこそということもあり、さっそく演奏が始まりますが、ひとり始まれば、次から次へと回りだし、まるでプチ発表会の様相となりました。

皆さん、ピアノを弾くことに格別の喜びを感じておられて、日々の練習を怠らず、レッスンに通い、発表会その他で人前での演奏もかなり頻繁にやっておられる方ばかり。
口々に「緊張する!」と言われますが、なかなかしっかりした演奏をされることに感心させられます。

ピアノを弾くことは、自分自身が楽しいのだから、自分一人で弾いて楽しんでいればいいというのが、趣味としてのマロニエ君の基本スタンスで、それは昔も今も変わりません。
しかし、現実にこうしてアマチュアながら人前での演奏に臨んで、緊張と喜びに身を投じつつもピアノに向かい、楽しさと真剣さが同居する様子を目の当たりにしてみると、それはそれで価値のあることだと感じたのも事実でした。

人によって、曲も違えば、弾き方も違い、同じピアノが弾き手によっていかようにも変わってくるあたり、こうした遊びの中にも気付かされるピアノの奥の深さのような気がしました。
目の前で弾かれるピアノの音に身を委ね、のんびりくつろぐのも悪くないものです。

マロニエ君は普段、自分の好きなCDを聴き散らすばかりで、これといって目的を持って練習することはありません。
せいぜい、そのときときに弾いてみたい曲の中から、技術的に自分でもなんとかなりそうなものを探しだしては、だらだらと練習の真似ごとのようなことをやるだけ。
レッスンに通っているわけでも、なにか人前で弾くという機会があるわけでもなく、こういう状況ではどうしたって練習にも身が入りません。

基本的にはそれでいいと思っており、たいして弾けもしないものを、いまさらこの歳で目標を作ってまで遮二無二やらなくちゃいけない理由はないし、身が入らないなら入らないなりに楽しんでいられれば、それでいいという考えです。

と、普段はそうなのですが、この日、何人もの方が代わる代わるにピアノに向かい、とても熱心に弾かれている様子を見ていると、自分のそんな怠惰なあり方がちょっと恥ずかしくなるようでもありました。

だからというわけでもないけれど、ただシンプルにピアノを弾くということに素直な刺激を受けたと思われますが、この日を境に、マロニエ君にしては珍しくピアノに向かう時間が長くなりました。
すると、不思議なことがいくつか起こりました。

まず、ピアノというのは弾けば弾くほど調子が上がり──とはいってもいまさら上手くなるわけではなく、要は弾くことに集中度が増していくぐらいの意味で、ありていにいえば弾けば弾くほど楽しくなってくるということでした。
これまでは、まったくピアノに触りもしない日がいくらでもあり、触っても5分ぐらいというのはごく日常でしたが、少し続けて弾きだすと、それだけ自分が曲の中に没入し、それがピアノを離れても意識として残るようになって、そうするとまた弾いて、あれこれの表現やアイデアを試したり、なにかを解決したくなったりといった衝動にかられてくる。
そういう一連の行為や気分がだんだんおもしろくなるわけです。

下手は下手なりに、音楽にこだわってくると、理想の表現を求めて繰り返し弾いてみることが(自己満足といえども)こんなに楽しいことだったことを、このところ実感として忘れていたように思いました。
それを思い出させてくれて、ピアノに向かう時間が長くなっただけでも、この訪問者の方々にはお礼を言わなければならないと思っています。

それと、当たり前かもしれませんが、弾けば弾いただけ自分なりに指がほぐれて、少しずつ自分の体がピアノと仲良くなってくように感じるのは、ほんの僅かであってもやはり嬉しいものです。
当面の目標としては、目の前にある数曲の仕上げ(仕上がらないだろうけど)と、新しい曲をいくつかものにしたい(できないだろうけど)と思っているところです。

何年ぶりかで、ピアノに集中していると1時間なんてパッと過ぎてしまう感覚を、久々に味わっています。
CDで胸のすくような素晴らしい名演に接するのもいいけれど、やはり下手でも自分の意志で楽器を鳴らすのは、他に代えがたい格別なものがあることは間違いないようです。

2018/08/10 Fri. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit