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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ハルラー 

先日、知人ととりとめもない雑談をしている中で、たまたま作家の話になり、「…村上春樹とか読まれますか?」とやや慎重な調子で質問されました。

こんなとき、普通なら相手の反応を見ながら徐々に答えを探るものかもしれませんが、「いいえ、まったく!」とむしろキッパリと答えてしまいました。
マロニエ君は村上氏の著作は一冊も持っていませんし、数年前、かなり話題になったときに本屋で30分ぐらい立ち読みしてみて、まったく自分の求める世界でなかったし、いらい手にしたこともなかったからです。

するとその方は「ああよかった、私も読まないです。」と言い、さらに「むしろあの人の作品を好きな人も苦手です。」ということで、どうやらそのあたりが一致しているらしいことに、お互いに安堵した感じになりました。

ところが、これに端を発して、話は思いもかけないような方向へと向かって行きました。
会話調は面倒臭いので省略しますが、主に以下のようなものでした。

村上春樹氏の熱心なファンは「ハルラー」と呼ばれ、さらにその中の、若い世代の中には、いまさらスターバックスが大好きだったりする人達がいるようですが、これだけではなんのことだかさっぱりわかりませんよね。

その人達はコーヒーといえばスターバックスで、それはシアトルズコーヒーでもタリーズでもダメなんだそうで、スタバを一種のブランドとして捉えているのかもしれません。

知人曰く、スタバの客層の中には「ハルラー」もしくは、そのご同類が確実に存在するようで、ときに医大生や若い医療関係者である率がかなり高く、スタバをいうなれば自己アピールの場として利用しているというのです。

ハルラーはスタバの混みあった店内の、あの喧騒の中で、わざと人に聞かせるための語句を混ぜ込んだ会話をし、自分達が医療関係もしくはその他社会的エリートに属する人種であることを周囲にことさらアピールするといいます。
それには小道具も必要で、テーブルの上に置かれるのは医学書などの専門書、難解な哲学書、あるいはビーエムやレクサスなどのキーホルダーをマークが見えるように上を向けて置いたり、ときに指でくるくる回すなどして自己主張を展開するというのです。
俄には信じがたいようですが、持ち物や言動によって自分達はエリートだよという信号を送っているわけでしょうし、じっさいそれで寄ってくる側の人間もいるというのですから驚きです。

世の中にはそんな手合はいるとしても、ごく少数では?と問い返しますが、「とても多いです!」という断固たる自信に満ちた答えが返ってきて、嘘をいうような人ではないだけに衝撃的でした。

その中でも、とりわけ自信がある人達は、外のテラス席に陣取って、思い思いの自己アピールをするのだそうで、彼らの手には最新のアップル製品などと並んで、村上作品が重要な位置を占めているらしいのです。
とりわけ新しいものは価値が高いようで、Macも村上作品も新作発売日にスタバにいけば、そこには必ずと言っていいほどそれを手にした人達がいて、「家に帰る時間が待てずに、今ここで読んでいるところ」という表現になっているのだとか。

そもそも何のためにそんなご苦労なことをやっているのかというと、そういう特別感を醸しだすことで男女の出会いもあれば、自称エリート達はこういう場を使って「お仲間」を探しているのだとか。
もちろん周囲に対する単なる見せつけで楽しんでいる一面もあるのでしょう。
では、何をするための仲間?と思いますが、自分達はケチな一般庶民とは違うのだから、同種で群れたいという意識もあるらしく、お互いに声をかけたいかけられたいという欲望が渦巻いているというのです。

もともとマロニエ君はその手の価値観をもった種族にはひときわ嫌悪感があって、本来なら一歩も近づきたくはありませんが、しかしそこまで突き抜けているのなら怖いもの見たさというか、一見の価値ありというわけで、ちょっと見てみたくもなりました。

とくに繁華街の中にある店舗ではそれが甚だしいようで、実はマロニエ君はそこに何度も行ったことがあるのに、一向にそんな気配には気づかず、ただ馬鹿正直に紙コップ入りの熱いコーヒーを飲むばかりで終わっていました。何たる不覚。
自称ヤジウマとしては、機会があればぜひそのあたりを観察してみたいと楽しみにしています。

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2016/09/27 Tue. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

お役所体質の怪 

一昨日、運転免許証の更新に行ってきました。
マロニエ君はこれでもいちおうゴールド免許なので5年ぶりの更新です。

いざ行ってみれば、何ほどもない簡単なことなのに、「来年は更新…」「今年は更新…」という感じで長いこと心の中にぶらさがっていた事なので、とりあえず終わってホッとしました。

出発が予定より遅れた上、かなりの渋滞でもありもし間に合わなかったら…とハラハラしながら、裏道ばかりをジグザグに走り抜けた結果、なんとか間に合いました。

少し前に届いていたハガキには、午後の受付は「15:30まで」とあり、その10分前の到着でしたが、この時間帯に来る人は少ないらしく、ええ?と思うほどガラガラ状態でした。
福岡の運転免許試験場は、美術館のようにやたら大きくて、こんな広い施設が果たしてどういうときに必要になるのか想像ができず来る度に不思議ですが、朝一とかならそれなりに納得できるのかもしれません。

云われるまま所定の書類に記入して受付に提出すると、まず最初が視力検査です。

自分でも視力が落ちたなぁという自覚があるので、今回はもう裸眼では無理だろうという危惧もあり、いちおう鞄の中には夜間の運転で使っているメガネを携帯していたのですが、直前に念のため目薬をさし、半分諦め気分でいざ検査に挑むと、ややきつい感じもないではなかったものの、いちおう裸眼で「合格」となり、心のなかでガッツポーズ。

考えてみると5年間にも同じ心配をしていたので、次はもうだめに決っていると思っていたのですが、嬉しい誤算でさらに5年伸びたというところです。

手続き開始から新しい免許証を手にするまでには、全部で5~6回の受付とか検査とか窓口への書類提出といった段階を通過するのですが、ここは言うまでもなく公的な施設なので、むろん民間とは違うのは百も承知だけれど、いかにも役所然とした感じの人がたくさんいることは目につきました。
時間帯が遅かったので、更新に来る人に対して関係者のほうが多いのもやむを得ないとしても、その人達の半分くらいは、いかにも手持ち無沙汰なようで、仕事中という緊張感は無いもしくは希薄で、かなり響く無遠慮な声でずっと私的なおしゃべりをしていたのはいささか気に障りました。
とくに、講習が行なわれる教室の入口(つまり廊下)に立って「緑の札をお持ちの方は、こちらにお入りください」というだけのことに、なんで大の大人が三人もいて、しかも大きな声で延々とくだらない私語をしているの?と思いました。

ここが一番ひどかったけれど、ほかでもとにかくおじさんおばさんたち(いずれも職員)のおしゃべりが盛大すぎて呆れたというか、少しは慎んだらどうかと思いましたね。

さらに驚いたのは、30分の講習に出てきた指導員のような方ですが、そこそこご年配とはお見受けしましたが、とにかくはじめの第一声から最後まで、ずっと言語不明瞭な上に早口が重なり、ほとんどなんて言っているのかわからないのはちょっとショックでした。

手許には2冊の冊子があり、「何ページを開いてください」というのはかろうじてわかったし、そこには決まりきったような安全運転に関する記述があって、しゃべっていることは文字を見ればなんとかわかりますが、耳だけで聞き取ることはほとんど不可能でした。
しかもこの方、来る日も来る日も同じことをされているのか、みょうに手馴れていて、しゃべり方もへんな抑揚がついてものすごい早口だし、手許のノートパソコンを操作して、正面のホワイトボードに文字やグラフのようなものを次々に映し出したりと、へんなところの手際だけはよくて、そのトークとのギャップは見ていてとっても奇妙でした。

ただ座っているだけの受講者を相手に、ちゃかちゃかと事は進行し、腕時計をチラチラ見ながらあと5分というところになると、ちょっとした宣伝や交通協会への入会の勧誘などに移り、それらをいうだけ言うと、まるでつむじ風のように講習は終了しました。
受講者はきっとみなさん内心では驚かれていたと思いますが、そこはお互い空気を読む日本人であるし、赤の他人同士、黙って立ち上がりひとことも言葉を交わすことなく教室を後にしました。

別の場合なら聞き取れないトークに苦情もでるでしょうが、ここでは免許更新さえ済めばいいことなので、それ以外のことは知ったことではないというわけです。

階下に降りると、1階ロビーの傍らにある専用窓口で新しい運転免許証をそれぞれ手渡され、各自、無感動な表情で眺めながら帰って行きました。
外に出ると、静かな曇り空が一面にひろがり、駐車場まで言いようのない変な気分で歩きました。

2016/09/24 Sat. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

モスクワ音楽院 

新聞のテレビ欄を見ていると、ふと「~モスクワ」という文字が目に止まりました。

『世界ふれあい街歩き』という番組で、モスクワ市街を周遊するものがあって、なんとなく録画しておきました。
行ったことのある人はともかく、普通はモスクワというと目にできる光景は大抵クレムリンや赤の広場などで、それ以外の街の様子がどうなっているか知らないし、ほとんど見たことがない。

最近は、動画サイトで車載カメラによる衝突映像などからロシアの一般的な風景も昔より目にするチャンスが増えましたが、それらはいずれもロシアならではのいかにも荒っぽい事故やトラックが衝突横転する様子などで、こちらもついそれにばかり気を取られつつ、全体的な印象としてはまあとにかくどこもかしこもやたら広くて、こう言ってはなんですが街中でもあまりきれいとは言いかねる荒涼とした風景が広がっているという印象です。

それでも、モスクワはなにしろあの大国ロシアの首都であるし、NHKのカメラがきちんと撮影したらいったいどういう街なのか、素朴な興味がありました。

果たして、ソ連が崩壊して四半世紀が経ったモスクワの町並みというのは、昔を知っているわけではないけれど、その頃からあまり変わっていないように見えたし、かなり地味で寂しげな街という印象で、そういう意味では少々驚きました。
改革開放以来のすさまじい発展を繰り返す中国の都市とは、まるきり対照的。

おもしろかったのは、マロニエ君にとってはやはり音楽関連で、なんとモスクワ音楽院がでてきたシーンでした。

道端の公園のようなところにチャイコフスキーの銅像があり、その下のベンチで4人の若い男女がしゃべっています。
カメラが近づいて声がけすると、彼らは傍らにある音楽院の生徒で、ピアノの練習をするため、教室が空くのを待っているところだといいます。

番組も彼らについていくことになり、威厳ある建物の、しかしずいぶんと小さなドアから中に入ると石造りの階段があって、そこを登って行くと、ずんずんと音楽院の内部へと潜入していきます。

モスクワ音楽院といえばチャイコフスキー・コンクールの本選会場であるばかりでなく、あの有名な大ホールでは、これまでいったいどれだけの名演が繰り広げられ、世界のコンサート史の一端を担っている重要な場所であるかを思うと、さすがにこの時はドキドキしました。

小ホールの入口というところでは、偉大な卒業としてラフマニノフなどの名を刻したプレートがズラリと並んでいたりと、やはりずっしり重い歴史が幾重にも刻まれていることを感じます。
教室に入ってみると、まったくさりげなくポンと新しめのスタインウェイDが置かれていて、ここにはそんな部屋がいくらでもありそうでした。これを生徒は自由に使えるのだそうで、ピアノは2台の部屋も3台の部屋もあるよね…などと軽く言っています。さっきの生徒ひとりがさっそくピアノの前に座り、弾き始めたのはさすがはロシア、バラキレフのイスラメイでした。
ピアノの音は酷使のせいかビラビラでしたが、でもなんかやっぱりすごい。

彼らが言うには、自分だけでは常に客観的に聴けるわけではないから互いに助言を頼むのだそうで、友人の意見が必要とのこと。至極もっともな意見ですがそんな当たり前のことに、ドキッとさせられる記憶が蘇りました。
それは、日本のトップとされる音大を出たピアニストが言っていたことで、(日本の)音大で最も嫌われることは「人の演奏に意見をいうこと」なんだそうで、だからそれは互いにタブーとされているという、とーってもヘンな現実です。さらには自分の好きなピアニストの名さえも言わないようにする(相手がそのピアニストを好きではなかった場合のことを考えて気を遣う)というのですから、その遠慮の度合には呆れてしまいます。

日本人の演奏能力がどれだけ上がっても、彼我の違いはこういう根本的なところにあるのだなあと思わずにはいられない一場面でした。

モスクワ音楽院で個人的には最も驚いたのは、廊下に長大なコンサートグランドが足を外された状態で、無造作に立てかけられたりしていることでした。それも場所によってはサンドイッチみたいに2台重ねてしかも前後にも2列、計4台がまるでただの大きな荷物みたいにゴロゴロ置かれているなど、「うひゃー」な光景でした。

ビデオで録画していたので、繰り返し注意深く見てみると支柱の形状やサウンドベルの位置から、それらはスタインウェイDであることが判明。また別の場所にはブリュートナーのフルコンが同じように立てかけられていたりと、やはりここはとてつもない所だと興味津々で、なんだかわくわくして胸が踊りました。
こんなところ思うさま探検できたら、どんなに楽しいことか…。


2016/09/20 Tue. 01:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

流麗なんだけど… 

どこか腑に落ちない演奏ってあるものです。

菊池洋子のピアノで、モーツァルトのピアノ協奏曲第20 KV466/21番 KV467のCDを聴いてみて、ふとそんな気分になりました。オーケストラはオーケストラ・アンサンブル金沢、指揮はKV466が井上道義、KV467が沼尻竜典。

日本人として初めて「モーツァルト国際コンクールのピアノ部門で優勝」したことがこの人の特筆大書すべき経歴で、いきおい日本の新しいモーツァルト弾きというようなイメージが定着しつつあるようです。
ところで、そもそも「モーツァルト国際コンクール」というものがどんなものなのかよく知りませんし、このコンクールからこれといった演奏家が出てきたという記憶もありませんが、マロニエ君の不勉強のせいでしょう。

菊池洋子さんは、NHKのクラシック倶楽部などでも聴いた記憶があり、そのときもやはりモーツァルトのソナタやピアノ四重奏をやっていたように思いますが、どちらかというと明るく明快な演奏ということ以外、詳しいことまで覚えてはいません。

印象に残っているのは、ゴーギャンの描くタヒチにでもいそうな、長い黒髪を垂らした異国的な容姿と、沈潜せず、サッパリした語り口で、張りのあるモーツァルトを弾く人というようなイメージでした。

今回あらためてCDを聴いてみて感じたことは、耳に快適で、指も心地よく回っているし、音に華があること、さらにはよく準備された誠実な演奏で、なかなかよく弾けてるなぁというものでした。
ただ、欲を言うと、もうひとつこのピアニストなりの個性が明確にはなっておらず、あくまで譜面をさらって、万端整えて出てきましたという感じが残り、演奏を通じて奏者の語りを聴くという域にはまだ達していないように感じます。

センスはとてもいいものを持っていらっしゃるようだけれど、大きなうねりや陰影がなく、ひたすら全力投球で真っ直ぐに弾いておられるのだろうと思います。モーツァルトは一見まっすぐに見えて、実はかなり屈折した造りでもあるので、そのあたりを感じさせて欲しいのですが。

ブックレットによれば、ご本人はモーツァルトの即興性を大事にされ、その場で音楽が作られたかのように毎回臨みたいというような事を云われていますが、たしかにそれは感じられ、ただの印刷のような演奏でないことは大いに評価すべきところだと思いました。
さらには、いちいちが説明的ではない点も好感をもって聴くことが出来ました。
それはそうなんだけど、惜しいのは全体にせかせかして落ち着きのない感じを与えてしまっているあたりでしょう。

このふたつの協奏曲は、ケッヘル番号も連番になっている通り、ほとんど同じ時期に書かれた作品ですが、短調と長調という違いに留まらず、陰と陽、表と裏、精神的な明と暗という、対照的な関係にあって、もし役者なら同一人物に内包する極端な二面性の演じ分けに腐心するところではないかと思われます。
ところが菊池さんの演奏では、どちらを聴いても同じような印象しか残らず、とくに20番のほうに楽しげな明るさを感じてしまったのは少々慌ててしまったし、第2楽章も川面に浮かんだボートでくったくなくスイスイ遊覧していくようで、いささか面食らいました。

このCDには2曲(各3楽章)で計6つのトラックがあるわけですが、極端に云えばどれを聴いても同じようなに聞こえてしまうわけです。菊池さんにとってモーツァルト作品は長くお付き合いされ本場で研鑽を積まれた結果なのでしょうから、一定の見識のもとにこのような演奏に至っておられるのかもしれませんが、マロニエ君にはその深いところが汲み取れませんでした。

さらに言ってしまうと、マロニエ君は新しいCDはとりあえず何回も繰り返し聴くのが習慣ですが、このCDはそれがちょっとつらくなります。
華やかな同じ調子の演奏が延々と続くことに、聴く側のイマジネーションが入り込む隙がないようで、だんだん飽きてくるし、マロニエ君としては、もともとモーツァルトの精神の暗部に敏感であるような演奏を好むためかもしれません。

プロフィールを読むと、フォルテピアノの演奏もお得意の由で、もしかするとそちらの楽器にマッチする方なのかもしれません。私見ですが、モダンピアノは潜在的な表現力がフォルテピアノにくらべると格段に大きいので、より雄弁で多層的な表現の幅が要求されるのかもしれません。

2016/09/17 Sat. 03:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

『音楽の贈り物』 

ブックオフでの思わぬ掘り出し物に気をよくして、また別の店舗に行きました。
ピアニスト遠山慶子さんのエッセイとCDをひとまとめにした『音楽の贈り物』が目に止まり購入。

これまで書店で買うには至らなかったものが、こうして安く中古で手に入るというのはわりにおもしろいなあと思っているこの頃です。

遠山さんは1950年代にフランスに渡り、あの伝説のピアニストであり教師でもあったコルトーの弟子になられたという経緯をお持ちの数少ない日本人だと思われます。

エッセイはどれも短編で、あっさりした語り口がこの方の人柄やセンスを表しているようで、これまでの経験や感じてこられたことのエッセンスのようなもの。そこにはご自分が接した音楽家や文化人の名前が綺羅星のごとく登場しますが、そういう良き時代だったことを偲ばせるものでした。
文字を追うだけで、まるで1950年代から60年代のパリの空気を吸い込むようで、これを読めただけでもなんというか、薫り立つような体験をさせてもらったような気になり、とても満足でした。

また、本と一緒に1枚のCDが添えられており、遠山さんのソロがいろいろと音として楽しむことができました。本来マロニエ君はこういうスタイルはどこか下に見ていたようなところがあったけれど、それはやはり書く人、弾く人しだいというわけで、これはなかなかに楽しめるものでした。

曲目はモーツァルト:デュポール変奏曲、シューベルト:ソナタD566、ショパン:ノクターンNo,5/8/11/16、ドビュッシー:子供の領分というもの。
この中で、シューベルトのソナタだけは遠山さんのご自宅のベヒシュタインが使われ、それ以外はベーゼンドルファーのインペリアルが使われているというのも、ピアノ好きにとっては興味をそそるもの。

とりわけショパンでは、そのピアノの音の甘くて艶があって繊細なことにまず耳を奪われました。
近年ではこれぞと思うベーゼンドルファーにはなかなか縁がなく、インペリアルなどは図体ばかりでかいくせして、一向に満足な鳴り方をしないピアノを何台も見たり聴いたりしていたので、こういう美音にみちた楽器もあるのだということが思わずうれしくなり、うっとりできました。

またシューベルトに聴くベヒシュタインも、いわゆる普通のベヒシュタイン然とした音ではなく、こちらも色艶があってどこか可愛らしくさえあり、併せて哀愁のようなものまで感じさせるピアノでした。

最も驚いたのは、ショパンのノクターンに聴くベーゼンの音で、どことなくプレイエルを想起させる雰囲気すらあったのには、思わず声を上げたくなるほど驚きました。こういうショパンもアリという点で、まったく予想外なものでした。
耳を凝らせばたしかにベーゼンドルファーの特徴的なつんとした声が奥に聞こえてはくるけれど、全体的な音のニュアンスとそこに流れる空気はあきらかにフランス的で、こういう音を聴かされてしまうと、このピアノを選ばれた遠山さんの意図がわかる気がしました。

遠山さんはコルトー仕込みであるのはもちろん、ご自宅にもプレイエルのグランドをお持ちなので、コルトー&プレイエルが醸し出すあの独特なパリのショパンの世界は重々わかっておいでのことでしょうし、まったく違った楽器を使ってこのような音の世界を創出されるというやり方というか感性にもただただ脱帽。

ここに聴くベヒシュタインとベーゼンドルファーはいずれもまるでフランスピアノのような香りをもっており、これはとりもなおさず遠山さんの美意識が求めた結果の音作りであっただろうと、聴きながらマロニエ君は勝手に深く納得するのでした。
同時に彼女の好みをよく理解し、それをピアノに反映させた調律師の存在も見逃すことはできません。

しかもベーゼンドルファーは、曲によってウィーンと草津、埼玉と3ヶ所で録音さらたもののようですから、当然ピアノも技術者も違うだろうと考えたら、ますます驚かずにはいられませんでした。しいて云うなら草津で録音されたモーツァルトはわりに普通のベーゼンドルファーの感じでしたが、それ以外はかなりフランス風でした。

エッセイの中でプレイエルのことを「軽く透き通るような音」と表現されていましたが、まさにその通りだと思うし、このドイツ系の2台のピアノもそれ風になってしまっているところが唸らせられます。
フランス風な奏法ということもあってそういう音が出ているのだとすると、日本人がただプレイエルを弾いてもそれらしい音は出ないという暗示のようにも感じられます。

演奏はおだやかで良識的で、知性あふれるマダムという感じでした。


2016/09/14 Wed. 01:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

もこもこ音 

ユーラ・マルグリスは楽器にもかなり積極的な興味を示すピアニストで、シュタイングレーバーのピアノに弱音器を装着してシューベルトの作品などを入れたCDも出しており、このブログにも書いた記憶があります。

その第二弾ともいうべきCDがあって、そうとは知らず、アルゲリッチとのデュオがあるために購入してみたところ、よくみれば全10曲中、9曲までがマルグリスのソロで、デュオは最後のムソルグスキー:禿山の一夜(マルグリスによる2台ピアノ版)のみというものでした。

本来ならこんなCDの在り方は大いに憤慨するところですが、アルゲリッチは例外なので仕方ありません。
以前マルグリスが別府のアルゲリッチ音楽祭(たぶん第1回)に参加したときにも、この禿山の一夜を二人で演奏していますが、その後この曲のCDらしきものはなく、十数年経ってようやくそれが手に入ったことになります。

ところで、この弱音器付のシュタイングレーバーはシューベルトの時とおそらく同じ仕様で、よく見ればレーベルもシューベルトのときと同じOEHMS。
弦の下で待機する帯状のフェルトが、ピアニストの操作(たぶんペダル)によって打弦点まで移動し、それによりハンマーはフェルト越しに打弦することになるというもの。
かゆい背中を、直に手で掻くのか、服の上から掻くかの違いみたいなものでしょうか。

ライナーノートには、アルゲリッチがこのマルグリスの消音器がもたらす音の効果を賞賛している一文が、直筆のまま掲載されており、おそらく彼女もこのピアノを試してみたことが推察されます。「ピアノの色彩や能力が増した」というような意味のことが書かれているようです。
まあ、なんでもすぐに褒めまくるアルゲリッチのことですから、大いに社交辞令も入っているものと思いますが。

たしかにその効果は明確で、これを使った音はハッとするほどまろやかになり、このような劇的変化はこれまでの弱音ペダルではとても達成し得なかったものであることは間違いありません。
ただ、しかし、その差があまりに大きく、使用時と不使用時の落差が却って気になることも事実。

通常の弱音ペダルではハンマーの弦溝をわずかにずらすことで、伸びの良いやわらかなトーンを出すものですが、このマルグリスが弾くシュタイングレーバーは、それどころではない変化がONとOFFという感じで起こり、マロニエ君の耳にはある種の違和感が残ります。
もちろんチェンバロやオルガンのストップもそうではないかといわれれば、そうなのですが、慣れの問題もあってモダンピアノではこれだけ大きな音色の変化には聴き手の耳がついていけないのかもしれません。

とくにシュタイングレーバーは弾きこまれると、かなり生粋のドイツピアノといった風情でエッジの立った音がするので、そこへいきなりフェルトが差し込まれることで、唐突にこもった音になったようにしか聞こえないのです。

マルグリスのソロではこのシュタイングレーバーが使われますが、最後のアルゲリッチとのデュオではあっさりスタインウェイになっていて、データによると録音はいずれも2014年のルガーノ音楽祭でのもの。
アルゲリッチもそんなに褒めそやすなら自分も弾けばいいのにと思いますが、どこまで本心かもわからないし、アーティストとピアノメーカーの関係、その他諸々の制約や契約上の縛りもあって、事はそう簡単ではないのかもしれませんが。

おそらく会場や録音環境も似ていると思われますが、一枚のCDでシュタイングレーバーからスタインウェイにかわると、思った以上にぜんぜん違った世界が広がります。
シュタイングレーバーは言うまでもなく素晴らしい第一級のピアノですが、生まれもった個性がまったく異なるため、続けて聴いていると喩えは悪いかもしれませんが、まるで田舎から都会に戻ってきたような感覚でした。
スタインウェイはやはり洗練された美しいトーンで、慣れの問題もあるのでしょうが、これが鳴り出すとやっぱりホッとするような気になってしまうのも偽らざるところです。

いつだったか、2台ピアノで違う楽器を使うことでブレンドの面白みがあるというようなことを書きましたが、その点で云うと、いっそシュタイングレーバーとスタインウェイを組み合わせるとどうなるのか、いっそそれで弾いて欲しかった気がします。
きっとかなり面白いものになるような気がします。

2016/09/10 Sat. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

逆の責任 

どうもここ最近の気象は以前とは違うらしいことは多くの人が感じていることですが、今年は8月という早過ぎる時期から、台風とはあまり縁のないはずの東北地方や北海道にまで上陸するなどして、なんだか嫌な感じがしていました。

そんな中、ついに12号が南の海に発生し、今度は九州を目指しているらしい。
東北・北海道と慣れない地を荒らしまわった台風が、次はいよいよ九州沖縄という本拠地に到来というわけか、先週後半からなにかというと台風の進路予想図に目を留めるようになりました。

地震よりマシとは思うけれど、台風も非常に嫌なものであることに変わりはありません。
とくにマロニエ君宅は、隣家も含めかなりの大木があるので、万一のことを考えると気が気ではないのです。

九州直撃がどうやら確実というのがわかってきたのは金曜のことで、それからというもの、台風に備えての食料品の買い出しや、外の植木鉢やら何やらを玄関に入れるなど、その準備に追われました。
とりわけ今回の12号は速度が7~15km/hとかなり遅く、それだけ暴風雨の滞在時間が長いというようなことをニュースは言っていて、せっかくの土日もこの台風のおかげでお流れになったのはいうまでもありません。

時間の経過と共に、進路や到達時間が詳細になり、北部九州の台風通過は日曜夜から月曜午前中ということで、土曜の夜まではなんとか出かけることができたものの、さすがに日曜は迫り来る台風に身構える一日となりました。
「嵐の前の静けさ」という言葉があるように、日曜は我が家の周辺は終日、ふだんとはまったくちがう静けさに包まれて、その異様な静寂がいよいよ魔物が現れる予兆のようで、これはもう来るんだと観念しました。

ところが、夜のテレビニュースを何度か見ているうちに、画面に映し出される南九州の様子には不思議なほど風が吹き付けている様子はなく、リポーターの背後にある樹木も、ほとんど静かに枝を伸ばしたまま。

その後、ニュースを伝える言葉の中にもちょっとずつ変化が現れ、「この12号は、コンパクトな台風ですが、そのぶん突然風雨が強くなる可能性があり、充分注意してください。」などと言い始めます。「とくに北部九州では猛烈な雨が予想され、5日は200ミリを超えるところも…」などと、むしろ大雨に注意というようなことを言っています。
??
明け方に長崎県に上陸し、昼前に福岡県を通過という予想なので、問題は明朝から昼までということになり、今これ以上気を揉んでも仕方ないということで日曜夜はとりあえず眠りにつきました。

翌朝目を覚ますと、多少風が強くなって雨でも降っているのかと思ったら、どうもベッドの中にいる限りではそれらしい気配がまったくなく、さっそく外を見てみると、なんと風はおろか木々の枝葉は微動だにしておらず、それどころかうっすら太陽の光さえ射しているではありませんか。
木が折れたり倒れたりということが心配だったので、ともかくその危険は回避されたようでホッとはしてみるものの、これはいったいどうなっているのかと思いました。

TVをつけると、8時頃だったか「今、通過の真っ最中…」みたいなことを言っていますが、「うそぉ…」まるで喜劇でも見ているかのように現実にはなんにも起っていませんでした。
それからほどなくして台風は温帯低気圧になったとか。
風は全然吹かない、大雨どころか、小雨すらなく、この3日間すっかり騙されて過ごしたようで、気がつけば鳥の声などがしているのがずいぶんと嘲笑的に聞こえたものです。

どうやら最近の報道は、責任回避が何より優先のようで、少しでも小型台風だとか大したことないと言うことで視聴者が油断し、それでもし万一のことがあったら責任問題になるということなのか、ともかく大げさに大げさに発表する傾向があるようです。

少しぐらいそういう気持ちが働くのは分からないではないけれど、ものには限度というものがあり、これではまさにオオカミ少年のごとく、視聴者が逆に災害報道を割り引いて聞いてしまうという危険に繋がりはしないかと思いました。

今回の台風報道と結果のあまりにも無残な食い違いは、大したことなくてよかったというより、完全に気象庁とマスコミに騙されたというものでした。このため多くの学校は休校になり、休業になった会社も多くあったようでしたが、その責任はないのかと思ってしまいました。
備えあれば憂いなしとはいうけれど、やはり報道というものには正確さのクオリティというのは求められて然るべきで、なんでもかんでも最大限の報道をしておけば間違いないだろうというのでは、ただ世の中をむやみに不安に陥らせるだけだと思います。

正確な報道を前提として、万全の対策をとるという順序でなくてはならないとマロニエ君は思うし、今回のようにほとんどウソに近いような報道では、いかに安全第一とはいえ、いかがなものかと思います。


2016/09/07 Wed. 01:35 | trackback: 0 | comment: -- | edit

保守点検 

今年は年明けからなにかと慌ただしいことが続いて、ピアノの調整もまったくのゼロというわけではなかったものの、ほぼ放置に近い状況が続いてずっと気がかりでもあり、ずるずると引きずる憂鬱の種でもありました。
そうこうするうちに梅雨になり、あれこれの都合もあってさらに延期が続き、このたびようやく本格的な調整の手を入ることができ、やっと大仕事が済んだというところです

今回は思うところあって、はじめての調律師さんにやっていただきました。
これまでお世話になった方々は、むろん言葉では書ききれないほど素晴らしい方ですが、今回は視点を変える意味もあり、この方にお願いしてみようということになりました。

おそらく九州では皆さんよくご存じの方と思われますが、あまりくどくど書くことで差し障りがあってもいけないので、これ以上は止めておきます。
というのも、この業界はきわめて狭い世界なので、どこでどう話が曲がって伝わらないとも限らないし、本来ならばたかだかマロニエ君のピアノ1台を誰がどうしたなどと吹けば飛ぶような些事なのですが、それでもしお世話になった方に要らぬ不快やご迷惑をかけてはいけないと、それだけは常に心がけているところです。
ただ、言い訳のようですが、自分のピアノはあくまでも自分の自由であるわけで、義理や柵に足を取られてその自由を失うことはしたくないという考えがあります。


さて、事前にタッチに関する事など主な内容を相談したところ、スタインウェイのコンサートチューナーということもあり、まずはホールでやっている保守点検にあたることをやってみては…ということで、このなんでもないような当たり前の提案に大いに納得。
というわけで、初回にふさわしく保守点検メニューをお願いすることになりました。

前日の夕方、下見を兼ねて来宅され、1時間ほどピアノ状態を簡単に確認された上で、翌日の本番となりました。

アクションを外し、鍵盤を外し、鍵盤の高さからなにからを規定値に揃えて、さらに各種の調整作業が丸一日続きました。
朝の10時からスタートして、終わったのは夜の8時半だったので、単純計算でも10時間半!
まるでマラソンのようだといいたいけれど、マラソンだって2時間強なので、その4倍というわけです。

午後に遅い昼食をとるため、40分ほどピアノの前を離れられた以外は、ほとんど休憩なしでの連続作業で、あらためてこの仕事の大変さと、技術者の方の忍耐強さに感服しました。
保守点検はほんらい2日で行う作業ですが、それを1日でやろうというわけで、さぞかし大変だったことでしょう。

神経を使う繊細な作業である一方、アクションの載った大きく重い鍵盤を何度も出したり入れたりの繰り返しなどは、かなりの重労働であることも痛感させられます。

終わった時には本当に「お疲れ様でした」という気分です。

これでも本来の項目のうちの9割ぐらいまでしかできなかったとのことで、残りは次回に持ち越しということになりそうですが、ともかくもタッチや音がきれいに整って一安心でした。
とくに音質はきわめて素直な美しさにあふれていて、弾きながら思わず陶然となってしまいます。

こうなると、自分一人がつまらぬ弾き方をしてだんだん乱れていくのがもったいなくて、きれいなものをできるだけ汚したくないといった守りの気分に陥ってしまうのが我ながらダメだなと思います。

マロニエ君は根が貧乏症なのか、車でも内外をバッチリ洗車してしまうと、その状態をすこしでも長く維持したくなり、しばらくはあまり乗らなくなってしまうこともあったりと、却って思い切って使えなくなるところがあります。
そんなに惜しがらずに、良い状態を大いに楽しまなくてはといつも反省するのですが、美しい状態というのに変な執着があって、これを乗り越えるのがなかなか難しいものです。


2016/09/04 Sun. 02:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ネルソン・ゲルナー 

1969年生まれで、アルゼンチン出身のピアニスト、ネルソン・ゲルナー。
その名前は何度か耳にしていましたが、演奏は一度も聴いたことがありませんでした。

今どきなので、その気になればYouTubeなどであるていどその演奏に触れることはできるとは思うけれど、マロニエ君はYouTubeは見るものであって聴くものではないという自分勝手なイメージがあり、音楽でこれを利用することはこのところはありません。
以前はずいぶんのめり込んでこれで夜更かしを繰り返したものですが、タダで盗み見をするようで、だんだんに音楽に対する姿勢も雑で不真面目になるように感じて、自分が楽しくなくなり、しだいに遠ざかるようになりました。

じゃあCDやDVDやテレビならいいのかとなりますが、自分としてはいいことになっています。どのみち実演ではないわけで、そこに明確な理屈は通らないけれど、マロニエ君としてはここに自分なりの一線を引いているのです。
ちなみに、コンサートでは実演に接することになりますが、たった一度コンサートに行ったからといってそのピアニストのすべてが分かるのかというと、これはこれで怪しいもので、出来不出来もあるし、不明瞭な音響のホール(これが多い)では、かえって伝わらないものが多くて悪印象のまま終わることも少なくありません。

ではCDや映像だけであるていどの評価をしてしまうことにも問題はないのかといえば、もちろんないわけではないけれど、マロニエ君の経験では、実演で大きくその印象に修正を迫られたことはほとんどないし、録音のほうが演奏のディテールまでより細緻に迫ることができるのも事実です。

CDをさんざん聴きこんで実演に接すると、一発勝負の粗さや完成度の低さ、ホールの雑な音響やピアノのコンディションなどよるスポイルを感じることはあっても、本質的にはやはりCDの印象はそのままで、信頼性はかなり高いと考えます。
さらに一度や二度では聞き逃していたものを、繰り返し聴くことで網ですくいとるように丹念に拾っていくことができるのも録音ならではの強みです。

つい前置きが長くなりましたが、今回はネルソン・ゲルナーのCDを購入したという話でした。
イギリスのウィグモアホールのライブシリーズで、曲目は大半がショパン。
幻想ポロネーズ、2つのノクターンop.62、アンダンテスピアナートと華麗なる…、12のエチュードop.10他といったものですが、聴き始めてすぐに「ああ、この人は南米のピアニストだな」と思いました。

南米のピアニストはアルゲリッチ、フレイレ、プラッツなどがそうであるように、音のひとつひとつを楷書のようにはっきり弾くことはせず、必要に応じて音の粒にぼかしを入れたり、そこはかとないニュアンスへと置き換えたりしながら、作品のフォルムや性格を尊重します。
さらには陰影の表現にもこだわり、自然な呼吸感を大事にして弾く人が多く、たとえば二度連続するパッセージなどは必ず陰と陽に分けられ、さらにそれが絶妙の息遣いをもっているなど、このあたりが南米の伝統なのかと思います。

ゲルナーは決してスケールの大きな人ではないようですが、非常に感受性の豊かな人ならではの瞬間が随所にあり、なるほどと納得させられるところの多いピアニストでした。
ここぞというパンチはないけれど、この人なりによく練り込まれた、繊細に表現されたショパンを充分に堪能することができました。

いかにもラテン的だったのは、12のエチュードでも、隣り合う曲によっては、ほとんど間をあけずに次に入るところなどがあったりして、そんなところにもこのピアニストの感性の綾のようなものが垣間見えるようでした。
そのまったく逆が、木偶の坊のようなピアニストが24のプレリュードやシューマンの謝肉祭のような作品を通して弾く際に、常に曲と曲の間に判で押したような同じ「間」を取ることで、却って聴くほうのテンションが下がってしまうことがありますが、このゲルナーはそういうストレスとも無縁の快適なピアニストでもありました。

ただ、どちらかというと日本ではこういう人はあまり評価が得られず、多少ダサくても一本調子でも、生真面目に弾く人のほうが好まれるのかもしれません。
少なくとも日本人は粋なデフォルメや遊び心より、職人的な技巧やお堅い仕上げを喜ぶのかもしれません。

残念だったのは、名高いウィグモアホールのライブシリーズというには音質がいまいちで、その点ではコンサートの臨場感があまり伝わらず、どちらかというと記録録音のような趣でした。
近年は名もないマイナーレーベルのCDにも驚くばかりの高音質のものが珍しくないことを考えると、これはずいぶんと不利だなあという気がしました。



2016/09/01 Thu. 01:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit