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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

楽器か機械か 

近ごろではピアノ作りに於ける価値基準のようなもの、つまり「最良のピアノ」というものの定義も、昔にくらべるとかなり変質してきているように思われます。

とくにハイテクのめざましい進歩の恩恵から、ピアノ作りに於いても、精度の面では飛躍的に増したことは間違いないでしょう。
優れた工作技術、コンピューター制御の普及によって、手作業をはるかに凌ぐ均質なパーツが苦もなく生まれ、その集積によって正確な機構が組み上がるのは、ピアノのような夥しい数のパーツの集合体である楽器にとっては、精度という面では圧倒的に有利となります。

我々は「手作り」という言葉に弱いところがありますが、これをむやみに有り難がるのは間違いだと思います。最新の機械技術によって誤差を極力排除した正確なパーツが制作されるのであれば、それに越したことはないわけです。そういう精度の高いパーツを作るのは機械のほうが上手いのなら、へんなこだわりは棄てて機械に任せたほうがいいでしょう。

問題なのは、さてどこまでを機械に任せるかということです。
いったんハイテクの恩恵を知ると、なかなか逆戻りはできません。「ここまで」という良心的な一線を引くのは至難の技で、そこにコストや利益が絡んでくればなおさらです。あれもこれもとそのハイテク介入の範囲は広がっていくことになり、その果てにあるものは冷たい機械としてのピアノの姿であり音だと思います。

もちろん、手作りでばらつきのあるピアノがいいピアノだとも思いません。
ただ、製品としての正確で均等均質な物づくりというものは、しだいに本来の物づくりの在り方から乖離して、とりわけ楽器の場合は本質から逸脱していくという危険を孕んでいます。
これが機械的には完璧に近いけれども、楽器としての生命感を失ったピアノが増殖していく大きな要因だと思います。

ピアノの世界にこの流れを持ち込んだのは他ならぬ日本の大メーカーだと思いますが、それが今や他国の第一級のピアノ作りにも悪しき影を落としているような気がします。

現在世界には、凋落していく銘ブランドを尻目に、これこそ最高級ピアノとばかりに躍進し、しだいに認知されているピアノもあり、一部の人達には極めて高い評価をされているいっぽうで、まったく逆の評価をする一派もあるようです。
その人達に言わせると、煎じ詰めれば機械としてのピアノの音でしかないということで、これはマロニエ君も似たような印象を以前からもっていました。

たしかに、製品として隙のない仕上がりで、機能も音も現代の基準を楽々と満たし、見た目にも輝くばかりの高級感にあふれていて立派ですが、ただ、そのことと、最高の楽器というのは、やはり最後のどこかで着地点が微妙に違うもののように感じます。

これらの何が一番違うのかというと、それは陳腐な言葉ではありますが、やはり「感動できない」ということにつきると思います。レクサスのようなピアノが最高級の楽器という風に単純に分類されることにどうしても抵抗があるのです。

よい楽器は、音や響きが美しいことは当然ですが、弾き手も聴き手も、作品世界に忽ちいざなわれ、心が溶けて奪われていくようなもの、あるいはわなわなと震えるようなものではないでしょうか。
どんなにひとつひとつの要素が立派でも、つまるところ人に感銘を与えない楽器は、血の通わない機械の美しさや完全性を押しつけられるようで、マロニエ君は良い楽器とは思えません。


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2014/04/29 Tue. 02:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

力の管理 

櫻井よしこさんの著書『迷わない。』(文春新書)を読んでいると、次のような記述がありました。

「お金を持つと、その人の性格が十倍も強調されて出てきます。立派な人は更に立派になり、だらしのない人は限りなくだらしなく、狡い人は限りなく狡くなります。そういう意味ではお金は魔物です。ですから自分に自信のない人は、お金は持たないほうがいいと思います。」
と書かれています。

前後の脈絡から云うと、ここでいう「お金」というのは、あるていどの大金というニュアンスですが、これは、まさに膝を打つ思いで、激しく頷きました。

マロニエ君の考えでは、この理屈はお金に限ったことではなく、もっと幅広い意味での、人を惑わす要素に共通する定理があるように思えます。
権力しかり、地位や学歴や肩書きしかり、他者と自分を明瞭に差別化する要素そのものが魔物であると思います。

これらの魔物は、上手く飼い慣らすことのできない人の手に落ちると、弱くて暗い心の奥に棲みついて、たちまち内側から侵食がはじまるように思います。

基本的に人は自信をつけることは大切なことですが、本物の自信は、奢りや勘違いや慢心とは違いますが、これがしばしば同一視され混同されやすいのも現実でしょう。

本来の自信は、人格や品位を高めるものであって、これが根を下ろして身につくには長い時間もかかり、まわりの認知も一朝一夕にはいきません。

「オリンピックで金メダルをとった」「ショパンコンクールに優勝した」というような場合は、一夜にして周囲の状況が変わることはあるかもしれませんが、これはあまり一般的ではありません。

いずれにしても、器に見合わないものがその人を支配すると、お金以外のことでも、櫻井氏の表現を借りれば「その人の性格が十倍も強調されて出てくる」わけで、これはもちろん短所も含むということです。これは本人が思っている以上に周りはその変化を敏感に感じ取りますが、悲しいかな本人にはなかなかわからないみたいです。

人は他者のことは苦もなくわかるのに、自分のことは見えずにわからないという典型です。
しかし、周りにとっても、しょせんは他人事ではあるし、これに正面切って異を唱える人はいませんから、いわば自己管理だけが頼りであり、その器や能力が問題になるのでしょう。

ここから失敗を招いたり信頼を損ねたりする場合もあり、結果から見ると、以前のほうがよかったという場合もあるのが人の世の難しいところだと思います。

ある方から聞きましたが、メディアへの露出もそこそこの有名な某演奏家は芸大の教授になったとたん、見てはいられないほど横柄な態度を取るようになり、大変な顰蹙を買っているそうです。ところが、ご当人は大きな肩書きと権力を得て天狗になり、自省のブレーキはかからないようです。

それを話してくれた人によると、「人間は、まわりが頭を下げるような地位に就くと、たちまち育ちが出てしまう」のだそうで、これはなるほど尤もなことだと思いました。
自分が頭を下げるうちはいいけれど、下げられる側になったときに、どういう反応を示すかで「育ち」が出るというのは、まさに真理だと云えるでしょう。

「育ち」のみならず、なにがしかの力を手に入れたときに、その人が辿ってきた人生や素顔など、早い話がその人の「地金」が白日の下に晒されるといってもいいかもしれません。


2014/04/27 Sun. 00:59 | trackback: 0 | comment: -- | edit

魂はスマホに 

先日、用事があって天神に出た際のこと。
いつものように車を立体駐車場に止めて、そこからビルの6階相当の高さに位置する長い連絡通路を通って反対の商業ビル群のほうへ向かいます。

この空中にある連絡通路の中ほどに、ひとりの若い男性がしゃがみこんで下を向き、なにかをしきりにやっている姿が目に止まりました。

前を通過する際に見ると、なんのことはない、その両手の先にあるものはお定まりのスマホでした。
内心なーんだとは思ったものの、背中を壁につけ、深く曲げた両膝の間に両肩が入り込むほどうずくまって、顔は完全に床と水平になるほど下を向いており、見ただけで頭に血がのぼりそうでした。

駐車料金の関係もあって、2時間以内に出庫できるよう、それから2時間足らずで再びこの連絡通路に戻ってきたのですが、なんとその青年はさっきとまったく同じ姿でまだスマホに熱中しているのにはびっくり仰天しました。
若いから身体も柔らかいのだろうし、体力もあるのでしょうが、それにしたって疲れないのかと思われてなりません。マロニエ君はCD店などで棚の下の段を見るためにしゃがんでいても、ものの3分ぐらいで苦しくなり、立ち上がると鬱血した血液が回り出すのか、ふらふらと目眩をおぼえることも珍しくありません。

それにしても、スマホの何がそうまで人の心を捉えて離さないのか、いまだガラケーユーザーであるマロニエ君にはおよそ理解の及ぶものではありません。

先日会った知人もガラケーらしいのですが、その人曰く、地下鉄かなにかに乗ったとき、ふと気が付くと周囲をスマホ画面を操作する人ばかりに囲まれた状況になっていて不気味だったと言っていました。ちょっと覗き込んでみると、なんとほとんどの人が「ゲーム」をやっていたとか。

となれば、あの連絡通路でしゃがみ込んで真下を向いてスマホに興じていた青年もゲームだったのかもと思われます。まあ、それが実際にゲームでもメールでも大差はありませんが。

それにしても生きている時間の多くをこうまでためらいもなくスマホに捧げるというのは、なんだかやりきれない思いになってしまいます。
「若いときは勉強しろ」などと大上段に構えたことを言う趣味はもとよりありませんし、だいいち、そんなことを言う資格も無いようなマロニエ君です。我が身を振り返って、納得のいくような勉強や経験を積んできたわけでもなく、その点ではむしろ後悔と反省ばかりの自分です。

しかしそんなマロニエ君でさえ、ここまで世の中がスマホに汚染されていく社会というのはいかがなものか…と柄にもないことをつい考えてしまいます。

先日も討論番組で聞いて驚いたのですが、若者の間では深刻なスマホ依存症が激増しており、彼らは誇張でなく本当に一日の大半をスマホとともに1年365日過ごしているといいます。さらに驚愕だったのは、あまりに休みなく利用するためバッテリーを充電する時間もなく、そのために複数台をもっている人も多いというのですから、こうなるともはや現代のアヘンではなかろうかと思ってしまうのです。

もちろんスマホはれっきとした合法的なアイテムではありますが、その想定外の可能性を秘めた性能が、いともたやすく、誰にでも手に入ることは非常に危険なことなのかもしれません。

2014/04/24 Thu. 02:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

理想のタッチ 

日曜はピアノ趣味の知人らと誘い合わせて、とある個人ホールのピアノを弾きに行ってきました。

ここにはベヒシュタインのグランド(M/P 192cm)があります。
M/Pは、現代のやや複雑なベヒシュタインのモデル構成の中でも、このメーカーの正当な系譜を引き継ぐ、真性ベヒシュタイン・ラインナップの一台です。

同時に、ベヒシュタインの中でも新しい世代に属し、それに伴って現代的なアーキテクチュアをもつモデルで、伝統のむき出しのピン板はフレームに隠され、華やかな倍音を得るため駒とヒッチピンの間にはデュープレックス・システムまで与えられた、いうなればスタインウェイ流儀に刷新された新世代のベヒシュタインです。

新しいベヒシュタインというのはそうそう触れるチャンスがないために、詳細な比較はできませんが、時代の好みと要求にも応えるピアノになっていながら、根底にはベヒシュタインらしいトーンが残されていて、現役のピアノとしてこのブランドが存続していくには、こういうふうになるんだろうなあという予想通りのピアノだと思いました。

これより前の世代のベヒシュタイングランドは(戦前の旧い世代は別として)、どうかすると素晴らしい同社のアップライトにやや水をあけられた観があったのも事実なので、マロニエ君としてはいちおうは正常進化したと解釈できます。しかし、伝統的なベヒシュタインのファンの中には、こうした方向転換へ大いに異論を感じる向きも多いことだろうと思います。

さて、音はもちろんそれなりに美しいものでしたが、調整の乱れもあって、とりたてて印象に残るほどのものでもないというのが偽らざるところでした。このピアノのサイズとブランドを考えれば、あれぐらいの音がするのは当然だろうという範囲に留まりました。

それとは対照的に、この日の印象としてたったひとつ、しかも強烈に残ったものは、その素晴らしいタッチ感でした。

このタッチにこそ深い感銘を受け、マロニエ君としては、これぞ理想のタッチだと唸りました。
軽やかなのに、しっとりとした感触が決して失われず、なめらかでコントローラブル。強弱緩急が思いのままのタッチとは、まさにこういうフィールのことをいうのでしょう。

通常、軽いタッチになると、どうしても単なるイージー指向な軽さで安っぽくなり、弾き心地も音も浅薄になってしまう危険があります。つまり弾いていて喜びを感じない、ペラペラな深みのないピアノへと堕落してしまいます。そればかりか、軽さが災いして逆にコントロールの難しさが出てくることも少なくありません。

コントロール性を確保するには、軽さの中にも密度感のあるしっとりした動きと、弾き手のタッチの変化やイメージにきちっと寄り添うように追従してくる「必要な抵抗」がなくてはなりません。
がさつな鍵盤/アクションをただ軽くしても、それはただ電子ピアノのようなタッチになるだけで、ピアノを弾く本当の手応えと快感は得られません。

そういう意味ではこのベヒシュタインはまさに第一級のピアノであり、極上のフィールをもっていることにかなり驚かされました。
まるでキーの奥では美しい筋肉が動いているみたいで、その意味では、スタインウェイもタッチにはどこか妥協的な部分があり、このような高みには達していないと思います。

タッチ以外にも、ふたの開閉や突き上げ棒の動きのひとつひとつにしっとりした好ましい手応えがあり、これはドイツの高級車の操作感にも通じるものがあります。

今後、マロニエ君がタッチというものを感じる際・考える際に、このベヒシュタインのタッチは折に触れて思い起こされ、ひとつの基準・ひとつの尺度になる気がします。

そういうものに触れられたという一点でも、遠路はるばる行った甲斐がありました。


2014/04/22 Tue. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

内田の3番 

過日のBSプレミアムシアターでは、英国ロイヤルバレエのドン・キホーテ全幕のあとの余り時間を埋めるように、ミュンヘンのガスタイクでおこなわれた、マリス・ヤンソンス指揮バイエルン放送交響楽団の演奏会のもようが放映されました。

ソリストは内田光子で、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番。

ものものしい序奏のあとに出てくる両手のユニゾンによるハ短調のスケールは、経験的にこの曲のソリストの演奏の在り方を、これでほぼ決定付けるものだと思います。
この上昇スケールとそれに続くオクターブの第一主題が、何らかの理由で収まらなかった演奏は、以降もほぼ間違いなくその印象を引きずっていくという点で、非常に決定的な部分だと思われ、いわばソロの見通しがついてしまうほど重要な意味をもっている…といえば大げさすぎるでしょうか。

いまさらですが、内田の演奏は音量がミニマムというか、場所によっては完全に不足していて、せっかくのきめの細かい演奏も、こういう曲ではあまりその魅力が発揮されるとは思えません。
ベートーヴェンの5曲の中でも、最も内田に向いているのは4番で、逆に3番はザンデルリンクと入れたCDもまるで納得できないものでしたが、今回はそれとは多少違った演奏ではあったものの、もうひとつという印象でした。

5曲中、最も繊細かつセンシティヴなのは4番、そして最も力強さが求められるのは皇帝のイメージがありますが、それはむしろ華麗さとかぶっている面もあるのでは…。皇帝にくらべて和音や重音の少ない3番ですが、それでいて骨格の確かさが要求されるため、マロニエ君の主観ですが、音楽として形にするのが難しいのも皇帝より3番ではないかという気がします。

内田のピアノは、最大のウリである繊細さの輝きに、このところやや翳りが出ているように感じてしまいます。以前のような、ハッと息を呑むようなこの人ならではのデリカシーの極限を味わうような楽しみが薄れ、演奏の冴えのようなものがだいぶ変質してきたようにも感じます。
作品に対する異常なまでのこだわりと熱気という点でも、以前の内田はとてもこんなものではなかったように思うのはマロニエ君だけでしょうか…。

彼女がその弛まぬ努力によって打ち立てた名声が、近年は少々無理を強いる結果を招いたのではないかという心配が頭をよぎります。

ところで、マロニエ君はこれまで折に触れ書いてきたように、日本人の女性ピアニストの多くが好む、フランス人形みたいなお姫様スタイルは、演奏家としての品位に欠ける俗悪趣味としか言いようがなく、どうにもいただけません。そのいっぽうで、これとは真逆の内田の独特の出で立ちにも、これはこれで見るたびに小さな衝撃を感じてしまいます。

とりわけ、ここ数年はいつも同じスタイルで、上半身はインナーの上に、超スケスケの生地で縫われたジャケットともシャツともつかない、なんとも摩訶不思議なものを着ています。

まるで海中をたゆたうクラゲか、はたまた養蜂業者が着る防護服のようでもあり、同じものの色違いを何色も確認しているので、きっと何着もお持ちなんだろうと思います。
こういつも同じデザインだということは、よほどのお気に入りということでしょうが、何度見ても大昔のSF映画のようで、不思議としかいいようのない衣装です。



2014/04/20 Sun. 02:16 | trackback: 0 | comment: -- | edit

今ごろ象牙 

これまでマロニエ君は、折あるごとに象牙鍵盤の機能面に疑問を訴えてきました。

とりわけ多くの人から入れ替わり弾かれる環境にあるピアノの場合、想像以上に酷使され、腕自慢が力の限りを鍵盤にぶつけるような使われ方をするのでしょう。
そのエネルギーをもろに受け、象牙の表面は擦れて艶を失い、同時におそろしいまでに滑りやすい状態になるようです。ほとんどテフロン加工のフライパンの新品みたいで、指先がどこに滑っていくか予想もつきません。

当然、無用無数のミスタッチが発生し、それを防ごうと身体中あちこち突っ張ることで支えてしまいます。まったく脂汗がでるようで、もはやピアノを弾く楽しみどころではありません。

こういうピアノに何台か触れて恐怖体験をしてしまうと、普通のプラスティック鍵盤は、たしかに見た目こそ芸能人の付け歯みたいな真っ白で、味も素っ気もないけれど、差し当たりどれだけ安心かと思ったのも事実でした。

ところが、昨年から使っているディアパソン210Eは象牙鍵盤であるにもかかわらず、幸いなるかな上記のような弾き手を困らせる要素はまったくありません。思い起こせば納品してしばらくは少し滑りやすさを感じていたものの、その後はすっかり我が手に馴染み、1年が経過して、今では仄かな愛着さえ感じながらこのやや黄ばんだ鍵盤に触れる日々といった状況です。

その挙げ句には「やっぱり象牙鍵盤はいいなぁ…」などと思ってしまうのですから、なんと人間は勝手なものかと我ながら呆れてしまいます。
というわけで今は象牙鍵盤の風合いを楽しむまでになり、ついにホームページの表紙に写真まで出してしまいました。

考えてみると長年使ったヤマハも、一時的に使ったディアパソン170Eも象牙鍵盤だったものの、そんな恐怖体験はありませんでした。ということは、酷使の問題もさることながら、品質もあるのでは…と思わなくもありません。
そうはいってもディアパソンのようなブランドが特上品を使うとも思えないので、これは時代によって、使用できた象牙の品質に差があったのではないかと思います。

1970年代ぐらいまでは、とくに意識せずとも普通にいいものが手に入った佳き時代だったと思います。この時代の日本メーカーはアップライトでさえ上級モデルには象牙鍵盤を使っていたほどですから、いかに今とは事情が違っていたかが忍ばれます。

不可解なのは白鍵が象牙でも、黒鍵は普通のフェノール(プラスチックのようなもの)だったりします。マロニエ君のディアパソンも同様でしたが、このあまりの中途半端さはいったいどういう判断なのかと思います。

1年前までは鍵盤の材質にそれほどこだわりはなかったものの、象牙の白鍵には黒檀の黒鍵が当然のように組み合わされるものという認識でしたから、オーバーホールのついでに黒檀に交換してもらいました。
純粋に手触りという点では、白鍵が象牙であることより、黒鍵が黒檀であることのほうが、プラスチックが木材になるわけですから、その感触の差は大きいという気がします。

木の感触はいいのですが、最近のピアノに多く使われる「黒檀調天然木」というのは、これがまた不可解です。見るからにテカテカしてまがい物っぽく、あれは一体なんなのかと思います。だいたい「何々調」というのは、すでに本物ではないということです。

話を象牙に戻すと、あれだけ「象牙は無意味」みたいなことを書き連ねたあげくに、馴染めばやっぱり見た目もフィールも悪くないと思いはじめた自分が、節操なく自説に背くようで恥ずかしいです。
それでも「鍵盤は象牙に限る」というまでの思い込みはありませんが、象牙は象牙の良さがあるとは思えるようになりました。
でももし、あの「つるつるのすってんころりん象牙」ならプラスチックのほうがいいと今でも思います。

2014/04/17 Thu. 01:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

どんだけぇ? 

最近、あるピアニストに関する本を読了しました。
著者はピアニストと文筆家という、いわば二足のわらじを履く有名な方で、マロニエ君はこれまでにその方のCD・著作いずれにもずいぶん触れてきたつもりです。

ずいぶん触れたということは、両分野に於いてもそれだけの実力を認識し、一定の共感や価値を感じているからにほかなりませんが、ひとつにはこの人の着眼点に面白さを感じているのかもしれません。

ただ、以前から感じていたこの方の書かれる文章に対する違和感もないでもなく、それが今回の本ではより決定的になりました。公に活動している方ではあるし、CDも本も、すべてマロニエ君が自費で購入している物ばかりなので、別に名前を伏せる必要もないとは思いますが、すぐにわかることですし、まあここではやめておこうと思います。

本のタイトルを書くのも躊躇われましたが、そうそうなにもかも黒く塗りつぶすような記述ではお読みいただく方にも失礼なので、せめてそれは白状します。
タイトルは『グレン・グールド』で、これはもう説明するまでもない、音楽歴史上に大書されるべき20世紀後半に活躍した異色の大ピアニストです。

ピアニスト関連の書籍では、グールド研究に関する本は突出して数が多く、いわばグールド本はこのジャンルの激戦区といえそうです。そこへ敢えて名乗りを挙げたからには、よほど新しい内容や独自の切り口があるのだろうという期待を込めてページをめくりました。

ある程度、その期待を満足させるものはあったし、よく調査と準備がなされていると感心もしましたから、大きくは購読して得るものはありました。

ただ、この著者自身がピアニストということと、文筆業との折り合いがついていないのか、あるいはこの人そのものの持ち味なのか、読んでいてうっすらとした違和感を覚える(マロニエ君だけだと思いますが)ことが多いのは気にかかります。
これまでにも他のピアニストを題材とした著作をいろいろ出されており、そこには書き手が現役ピアニストでもあることが、他の音楽評論家などとは決定的に異なる個性であり強味にもなっています。いわば現場経験を持つ者としての専門性が駆使され「同業者(この表現が多い)」にしかわからない視点から、専門的具体的な分析や考察が作品の随所に散りばめられています。

しかし、マロニエ君にいわせると相手は天才どころか宇宙人ではないかと思えるほどの桁違いなピアニストで、そんなグールドを語るのに、折々に自分というピアニストの体験などが随所に出てくるのは、「同業者」という言葉とともに、なかなかの度胸だなぁと思ってしまいます。

もちろんそれが悪いと言っているのではありませんが、もし自分なら絶対にできない(しない)ことだけに、読みながら小骨があちこちにひっかかるような抵抗感を感じてしまうのです。

ピアニスト&文筆家という二足のわらじが成り立っていることは、それに見合った才能あればこそで、この点は素直に敬服しています。ただ、グールドと自分をピアニストというだけで同業者として(さりげなく、あるいは分析する上で必要だからということで)語ってしまう部分が散見できるのは、いかにそれが正当な論理展開だとしても、感覚の問題としてそのまま素直に読み進む気持ちにはなれませんでした。

とくに後半はだんだん筆が迷走してくるようで、グールドの身体条件や奏法を自分の修行経験などを交えながら執拗なまでに分解分析を繰り返すのは、くどさを感じさせ、まるでこの天才の弱点や欠陥を暴き出すことに熱中しているようで、いささか食傷気味にもなりました。

他のピアニストに関する著作にも同様の印象があり、現役ピアニストを名乗りながら、文筆家としてペンを持ち、同業者斬りをしているような印象が前に出てしまうのは、才能のある方だけに甚だ残念なことだと思います。

2014/04/15 Tue. 01:43 | trackback: 0 | comment: -- | edit

京響の魅力 

NHKのクラシック音楽館で京都市交響楽団の定期公演の様子が放映されました。

冒頭の紹介によると、常任指揮者に広上淳一さん就任されてからオーケストラの魅力がアップし、「かつてない人気を集めて」おり「定期会員の数もこの数年で倍近くにふえている」ということです。
チケット販売も好調の由で、今日のようなクラシック離れ/コンサート不況をよそに、なんと1年3ヶ月連続のチケット完売、現在も記録更新を続けているとか。

曲目は、前半はラフマニノフのピアノ協奏曲第2番でソリストはニコライ・ルガンスキー、後半はマーラーの交響曲第1番「巨人」という大曲2つです。

来場者によると、京響の魅力は「団員がみんな楽しそうに演奏している」「活き活きして、いろいろな外国のオーケストラも聴いているが、ぜんぜん遜色ない」「京響のほうがすごいなと思うことがある」「京都の宝です」などと、評判も上々のようでした。

こんなふうに聞かされると、いやが上にも期待をしてしまいますが、残念ながらはじめのラフマニノフはあんまりいいとは思いませんでした。
ただし、これは専らルガンスキーのピアノに責任があるようで、あまり音楽的な演奏とは感じられませんでした。なによりマロニエ君の好みでないのは歌わない技巧的な演奏で、随所にある粘っこさも、わざわざ取って付けた表情という感じで、聴く喜びが感じられません。

強靱な音を要する箇所では、ばんばんピアノを叩く奏法で、音に潤いや肉付きがなく、突き刺さるような音の連続となり、どちらかというとスポーツ的な腕前だけが前面に出ているようにしか感じられませんでした。彼は、バッハとショスタコーヴィチの名手でもあったタチアナ・ニコラーエワのお弟子さんですが、ロマンティックな師匠とはなにもかもが違うようです。

そのためかどうかはわかりませんが、京響も期待したほどではなく、全体に精彩を欠いた演奏だったことにがっかりしました。

ところが、マーラーになると状況は一変します。
冒頭に寄せられたコメントも、マーラーに至ってようやく納得できるものになり、活き活きして柔軟な演奏が繰り広げられました。「巨人」はマーラーの中では親しみやすい作品かもしれませんが、あまりマロニエ君好みの曲ではなく、なんだか田舎臭い交響曲というイメージがあります。

ところが広上淳一&京響は、この作品から魅力を損なうことなく、泥臭さだけを抜き取って、清新でみずみずしく演奏したのはちょっと意外でした。解釈もアンサンブルも見事。
ちなみに、広上氏のリハーサルは音楽用語をあまり使わず、日常の言葉や情景に喩えるのが上手いのだそうです。そして各奏者に自分の考えを強要するのではなく、自由度を与えるというスタンスが楽員にやる気をおこさせているようでした。

比喩が上手い指揮者としてまっ先に思い出すのはカルロス・クライバーですが、彼は楽員に自由は許しませんでした。ただ、音楽的イメージや演奏上のポイントを瞬時に何かに喩えて表現できることは、指揮者の伝達テクニックとしては非常に有効かつ重要なものだと思います。

なにをするにも「楽しそうに」というのは極めて大切なことで、そもそもこの広上氏の指揮ぶりが、音楽することの楽しさを全身で表現しているようです。
まさか京都だからということもないのでしょうが、広上氏の風貌はまるで古刹の僧侶が洋装して指揮台に上がってきたようでもあります。小柄な身体のすべてと、豊かな表情を駆使して、常に燃え立つように指揮をされている姿は、音楽に対する真摯な姿であるとともにどこか愛嬌があり、多くの人を惹きつけるなにかを備えているようです。

広上氏の指揮はたえず音楽のために常に全力を注ぎ込んで躍動し、そのエネルギッシュな姿は、どことなく今は亡きショルティを彷彿とさせるようでした。

2014/04/10 Thu. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イベント? 

ついに消費税8%がスタートしましたね。

3月の最後の週末は、報道各社はお祭り騒ぎのようにこれを採り上げ、いつものように国民を煽る事にかなりのエネルギーを費やしたのではないかと思われました。

とりわけ関東圏では、連日買いだめや駆け込み需要のための人出が甚だしかったようで、お得意の長蛇の列も随所で発生したようです。
何の店だったか忘れましたが、プラカードを持つ人が立つ、列の最後尾からリポーターが「では行ってみます!」と列の脇を走りますが、映像も早回しになり、右に左に折れ曲がって、何百メートルも先に先頭があったりします。

こうなると2〜3時間の待ち時間なのだそうで、なんでそこまでという思いが募ります。
最後の土日のデパートやスーパーなどの大変な混雑ぶりを取り上げておいて、4月に入ったとたん、今度は閑散としてひとけのない売り場などを対照的に映し出し、増税後は人はまったく寄りつかなくなりましたという切り口です。でも、1日は平日の火曜日でもあり、通常でも土日にくらべたら衣料品売り場などはガランとするのが普通では?と思いました。

こういうマスコミの在り方も、景気回復に水を差す一因ではないかと思います。

ある経済の専門家によれば、「消費税が8%、8%といいますが、8%上がるのではなく、現在より3%増しになるということですから」といっていました。たしかにマスコミの報道は、まるでゼロから8%になるかのごとく錯覚を誘発するような過熱ぶりでしたね。

福岡はごく単純に言うと、何事においても醒めた感性が根っこにある地域で、消費税増税前の騒ぎもそれほどではありませんでした。今年のNHKの大河ドラマが『軍師官兵衛』で、黒田家は関ヶ原以降、福岡を治めた五十二万石の大名ですから、他所なら地元が注目される年だとそれなりに沸くのかもしれませんが、福岡ときたら見事なまでに盛り上がりません。
きっとNHKの目論見も大外れだったことだと思います。

さて消費税ですが、街頭でインタビューすると、もちろん中には「大変です…」「困りますね…」というような標準的な意見もありますが、「上がるのは嫌だけど、そのために買い置きはしませんねぇ。」「いやぁ…べつに。要るものは要るときに買うだけですよ。」といったコメントはいかにも福岡らしくて笑ってしまいます。

ガソリンも値上がり前に給油しようと、関東圏では路上にまで車が列をなしてまで3月中の満タンが大流行だったようですが、その列がまた大変な車の数で驚きました。中にはたった5Lのために列に並んでいるという猛者もいて、開いた口がふさがりません。

ふと思ったのですが、消費税増税はまぎれもなく税の問題であって、つまりお金の問題であるにもかかわらず、もしかすると、これは実はお金じゃない問題ではないだろうか?という疑念が湧いてきました。

家でも買うというならべつですが、日常生活のレベルでそんなことに奔走しても、それでいくら得をするかという数字上の話になれば、10万円使っても3千円です。その3%のために投じる大元の費用、さらにはそのために要する時間や労力など、多くの人的エネルギー消費を伴うことを考えれば、さらにそのメリットは減じられていくのは理です。
3%にこだわるぐらいなら、そもそも買わないのもかなりお得なはずです。

つまり、これはほとんど心理上の現象であり、情緒的な現象ではないかと思います。
「今のうちに買っておく」というのが国民的なコンセンサスになって、まるで消費税アップを控えての「期間限定イベント」のようになってしまったのではと感じます。

正味どれだけ得なのかという検証はそっちのけで、「今しかない」イベントに参加してお祭り気分を楽しんでいるのだと思うと、多少納得がいくような気がしました。

2014/04/08 Tue. 01:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ジェレミー・デンク 

店頭での商品のディスプレイというものは、やっぱり大事なんだなあと思います。

マロニエ君行きつけのCD店では、クラシックはオペラなど特定のジャンルを除いて、基本的に作曲家ごとにアルファベット順に棚が整理されています。
大半のCDは背表紙をこちらに向けて並んでいますが、その上部には2段ほどジャケットを見せるスタイルで話題盤などが目につくようにおかれています。

バッハのコーナーを見ていると、その上段にJeremy.Denkという見知らぬピアニストによるゴルトベルクの輸入盤がまとまった枚数置かれていました。
ニューヨークで録音されたもののようで、モノクロでデザインされた紙の簡素なジャケットは、本人の写真と控え目な文字だけで、どことなくジャズのジャケットのようでもあり、どんな演奏だろうというささやかな興味を覚えましたが、とくべつ印象的というわけでもありませんでした。

インスピレーション的には、本当ならたぶん買わない筈のCDですが、前回来たときに300円の割引カードというのをもらっていて、それが使えるのは3000円以上からなのですが、この日買いたかったCDだけではあと1000円ちょっと足りません。
そこへ、この未知のゴルトベルクが目に入ったわけで価格は1590円、なんだかちょうどいい塩梅に思えました。でも失敗したら元も子もないし、いくら割引適用といったって、要らないものを買うほうが無駄なわけで、どうするか猛烈に迷いました。しかしこのとき時間もなく、最後まで躊躇するところも含みながら、破れかぶれで買ってみることにしました。

吉と出るか凶と出るかといったところで、いささか緊張気味に聴いてみましたが、まあ大失敗ではないものの、(マロニエ君にとっては)とくに成功とも言いかねるものでした。
ああ、やっぱり自分の直感には素直に従うべきだと後悔しつつ、割引券&ディスプレイの方法という、お店の計略にまんまと乗せられてしまったお馬鹿な客というわけです。

演奏は、初めはこれといった強い個性や魅力を見出すこともないものでした。なにしろゴルトベルクといえば、グールドの数種を筆頭にコロリオフ、シフ、アンタイ等々挙げだしたらキリがないほど第一級の演奏がゾロゾロ揃っている中、この人の演奏は決して悪くはないけれども、耳慣れた演奏に比べるとどこか緊張感が薄く、それが自由といえば自由なのかもしれません。
考えてみるとゴルトベルクのCDは名演揃いでありながら、だれもがある種の緊迫を背負って弾いているものばかりで、それを考えるとデンクのように気負わずに自然に弾いているところは新鮮でもあり、何度か聴いているうちにその力まぬ演奏の目指すところが少し了解できたようでした。

「ほぅ」と思ったのは、ピアノはニューヨーク・スタインウェイを使っているにもかかわらず、ニューヨーク特有の音のゆらめきが前に出過ぎず、良い意味でのアバウトな響きでもない、珍しいほど粒の揃った行儀の良いピアノでした。またニューヨークではしばしば曖昧になりがちな音の輪郭もかなり出ています。
よほど入念な調整がされたのか、生まれながらにそういう個性をもったピアノなのかはわかりませんが、はじめはハンブルクかと思ったほどでした。

ネットで調べてみると、ジェレミー・デンクは、1970年ノースカロライナ生まれのアメリカのピアニストでバッハから現代音楽にいたる幅広いレパートリーで文筆活動も盛んとありました。
「今日の最も魅力的で説得力のあるアーティストの一人」だそうで、現在のレーベルへのデビューアルバムは、なんと、リゲティのエチュード第1~13番とベートーヴェンのOp.111のソナタをカップリングしたものだそうで、その挑戦的な曲目はいかにも今風だなぁと感じます。
このゴルトベルクも3回を過ぎたあたりから、この人の自然かつ繊細な演奏に気分的に慣れてきたこともあって、なんとなくそちらも聴いてみたくなりました。

それでまたデンクのCDを買ったら、ますます店の思惑通りということになりそうですが…。


2014/04/06 Sun. 01:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

メールの違和感 

メールに関連して思い出したことがあります。

べつに大したことではないのです。
大したことではないけれども、人にはどうにも違和感を覚える事というのがありますね。

それは自分が出したメールに返信をもらった場合のこと。
送信されてきた文章の下に、前回自分が書いた文章がそのままべったりくっついていることが意外に少なくないのは多くの方が経験されていることだと思います。

これはメールソフトのデフォルト設定がそうなっていることが多いためで、ただ単に返信ボタンを押すと、自動的に親メールが返信メールの末尾にコピーペーストされるというものです。
ソフトがそもそもそういう作りになっているのだから、別にどうということもないことだと云えばそうなのでしょうが、マロニエ君はこれがどうも気になって仕方がないのです。

自分が人に送った文章を、相手側からの返信の画面上でもう一度目にするのは、半ば送り返されたようでもあるし、そこに自分の文章を見るのは、なんとなく恥ずかしいような気もするし、早い話が見たくないわけです。

これが自分の意志で送信済みメールを確認する場合はその限りではありませんが、相手から送られてきたメールのお尻に、機械的に自分の文章がくっついているという状況というのが、どうしても自分なりの自然の感覚に反してしまうようです。

人によっては、気にし過ぎと思われることでしょう。マロニエ君も割り切って受け流すようにはしていますが、これが性格なのか、そこに毎度違和感を感じてしまうのはどうしようもありません。

これはあくまでも個人間のプライベートなメールに限っての話であって、ビジネス上の特定の問答であるとか、通販の確認メールなどはもちろんその限りではありません。

郵便での手紙に例えるなら、送られてきた封筒の中に、以前出した自分の手紙がコピーされて同封されているとします。その目的が、いくら「アナタが以前出された手紙に対する返事が、今回送った手紙なので、そのコピーも同封します」という意味であっても、やっぱり奇異な感じというか、これを喜ぶ人はいないと思います。

というわけで、マロニエ君は返信を書くときに、まずはじめにすることは、返信ボタンを押して文章を書く前に、そこにコピーされた相手の文章を全部消すこと。
これが最優先の習慣になりました。


2014/04/04 Fri. 01:49 | trackback: 0 | comment: -- | edit

メールと電話 

現代人にとって、もはやメールはなくてはならない通信ツールであることはいうまでもありません。

内容をしたため送信ボタンを押せば、時間/距離を問わず、瞬時に世界中どこへでも届くという驚異的な便利さは、昔だったらおよそ考えられなかったものです。

ただ、問題なのは、この便利さが自分の感覚領域にまで染みついて、思わぬ影響が出てくるときだと思います。
伝達手段としてメールが適当な場合にこのツールを使うのは当然としても、電話でもいいような、あるいは「電話のほうがいい」ような場合まで、メールが中心となり、ついそちらへ流れてしまうのはいささか危険なことだと思うのです。

最近の傾向として、電話をすることは、できれば一歩踏みとどまるべきというふうな暗黙の風潮があるように感じます。普通に電話をすることが、あたかも無遠慮で無神経な、ちょっと厚かましいことのように捉えられているふしがなくもないのは、ちょっと賛同しかねるところがあるのです。

必要以上に、迷惑ではないかとか、悪いタイミングにかけてしまって自分が疎まれたくないというような、いろんな心配や自己防衛が先行し、その結果メールが伝達手段の主流になってしまっているのは自分を含めて好ましい習慣とは思えません。
さらには、電話だとよけいな挨拶とかおしゃべりをするのが面倒臭いという、以前では考えられないような後ろ向きな気分が背後にないとは云えないでしょう。

つまりメールは、あたかも相手への配慮や気遣いのような前提をもってはいますが、全部が全部そうとも言い切れず、ある種の卑屈さ、エゴ、保身のいずれかがその都度、都合のいい指令を出して、要するにメールを選択しているというのが実情ではないかと思います。

しかし、人間関係は音楽や食にも通じる、いわば「生もの」であり、その魅力に委ねられているものだと思います。
メールなどなかった時代は、必然的にナマの関わりしかなく、それ以外の選択肢はありませんでした。だから世の中全体が、今にくらべて遥かに人付き合いがいきいきして、おおらかで、今とは比較にならないほど上手だったと思います。

そういうわけでマロニエ君は、メールのほうがいいと確信の持てる場合を除いては、できるだけ電話を優先するよう心がけているつもりです。そうはいっても、自分の都合でメールになってしまうことも無いと云えばウソになりますが、それでも、できるだけ電話で直接話をするに越したことはないと思っているのは確かです。

その理由はいろいろありますが、そのひとつ云うと、他の方のことは知りませんが、少なくともマロニエ君はどんなにタイミングの悪いときにかかってくる電話でも、それが迷惑とか不愉快に感じるということはまったくないし、嬉しいと感じるからです。

むろん折悪しく出られない状況というのはありますが、そのときはかけ直しをすればいいだけのことで、基本的に人間関係というものは会話を基本とする生きた関わりによって常に関係を維持し、それを更新していくものだという考えがあります。メールにその力がゼロだとはいいません。でも、直接の会話にくらべると遥かに非力でしょう。

もちろん、事柄によっては文字伝達の必要がある場合はありますが、それはあくまでも直接会話を補佐するかたちで用いたいもので、メールがレギュラー、電話が特別という順序立てはいかがなものかと思うのです。

2014/04/02 Wed. 01:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit