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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

カツァリス 

浜松のアクトシティで3月7日に行われたばかりのシプリアン・カツァリスのピアノリサイタルの様子がクラシック倶楽部で放送されました。

カツァリスはマロニエ君が昔から苦手とするピアニストで、その名声がどこからくるものなのか、彼の真価はなんなのか、何度聴いてもわかりません。
若い頃からテクニシャンで鳴らした人のようですが、マロニエ君にはこの人が本当の意味でそうだとは思えませんし、音楽的にも好感をもって聴けるところがほとんどありません。好感でなくても、この人なりの音楽に対する心はこうなんだろうというものが見えてこないわけです。

以前、カーネギーホールで行われたショパンの生誕200年かなにかのリサイタルなどは、まるで記念碑的な名演のように書かれた文章も目にしたことがあり、だったらもう一度、虚心に聴いてみようとライブCDを買ったこともありました。
しかし、聞こえてくる演奏は、まるで身体が受けつけないものを無理に食べさせられるようで、最後まで聴くこともないままディスクを取り出し、その後はこのCDを見かけることもないので、よほどどこかへ放擲してしまったらしく、自分でも確たる記憶がありません。

そんなカツァリスなので、かえって恐いもの見たさで再生ボタンを押してしまいました。
あらたなアイデアなのか、近年はコンサートのはじめに「即興演奏」をするということで、日本の「さくらさくら」を皮切りに、オリンピック等で使われた世界の有名なクラシックの旋律をメドレーで流すという、まるで観光地の土産品みたいなものが弾かれました。
こういうものが「即興演奏」というのもちょっと不思議でした。

続いてシューベルトの3つのピアノ曲から第2番、そのあとはカツァリス編曲によるリストのピアノ協奏曲第2番というもので、リストが一番良かったようにも感じつつ、やっぱり今回も最後まで自分がもちませんでした。

クラシックの作品を対象にしてはいるものの、印象としてはクラシックのピアニストというより、ピアノ芸というイメージです。音数の多い作品をサラサラとさも手慣れた感じに弾き進みますが、その手慣れた感じを見せることがステージの目的のようにも感じてしまいます。

タッチは全般に非常に浅めで、すべての曲はせいぜいフォルテからピアノぐらいの狭いレンジで処理されてしまうようで、まるで自動演奏のような平坦さを感じてしまいます。少なくとも真剣に耳を澄ます音楽ではないと(マロニエ君は)思いますし、とりわけこの特徴的な浅いタッチは、超絶技巧とやらを売りにする裏で、手に疲労をため込まないための秘策なんでしょうか。
どの曲を弾いても同じ調子の、意味のないおしゃべりみたいな音楽であるためか、シューベルトなどは品位のない、ひどく俗っぽい感じを受けてしまいました。

ただ、ピアノファンとして面白いのは、この人はスタインウェイがあまり好きではないようで、日本ではヤマハを弾くし、以前も書いた記憶がありますが、ショパンのピアノ協奏曲第2番をスタインウェイ、ベーゼンドルファー、ヤマハ、シュタイングレーバーという4種類のピアノを使って録音し、そのCDも発売されています。
これほど面白いことをやってくれるピアニストはまずいないので、その試みは大いに歓迎なのですが、肝心の演奏が表面的で俗っぽいため、そちらが気になってピアノを楽しむことはついにできません。

今回のコンサートでは、場所も浜松であるためか、当然のようにヤマハCFXが使われていました。
上記のようにカツァリスは決して多様なタッチは用いず、常に一定の軽い弾き方に徹しているので、ある意味でCFXの美しい部分だけが出せたコンサートだったと言えるのかもしれません。

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2014/03/30 Sun. 02:01 | trackback: 0 | comment: -- | edit

消費税と婚約指輪 

消費増税がいよいよ目前に迫りました。

誰しも税金が上がるのは好みませんし、この増税はもともと民主党政権時代に野田さんが熱心に押し進めて決ったことで、安部さんの本心は甚だ不本意であるらしいという説もあります。
この時期の消費税アップは、目下の急務である景気回復基調に水を差すものという見方も強く、専門家の間でも賛否がうごめいていますが、そうはいっても事ここに至って、いまさらじたばたしてもはじまりません。

テレビでは連日のようにそれに関連したニュースをやっているようですが、各局は申し合わせたように、増税前の駆け込み需要、買いだめ、まとめ買いなどに焦点を当てて、いつものようにそういう気分のない人までわいわい煽っているように感じます。
デパートの食料品売り場はじまって以来の「箱買い」なるものまで登場して、箱単位で保存のきく商品が売れているのだそうです。

さて、そんな中で驚くべき話を聞きました。
マロニエ君が直接見たわけではありませんが、家人がたまたま目にしたニュースによれば、デパートなどでは高額商品も増税前に購入という動きがある由で、その中には、今とばかりに婚約指輪を買いにくる若い男性がかなり多いというのが注目されたようでした。

ただこれ、信じられないことに、現在婚約者がいるわけでもない男性が、まだ見ぬ相手との婚約に備えての購入だというのですから、そのセンスにはさすがにでんぐり返りました。

たしかに結婚を視野において、準備しておくものというはあろうかと思います。
経済力さえあれば、将来を見越して土地やマンションを買っておくというのならわかりますし、不動産物件ともなれば金額のケタも違うので、これはまだ理解できます。

でも、婚約指輪の買い置きなんて聞いたこともなく、そもそもマロニエ君世代にはそんな発想すらできません。もし仮にそんなことをしようものなら、語りぐさになるほどの笑い者になるのは必至で、いわば男の沽券にかかわることだと思います。

マロニエ君は今どきの婚約指輪の相場がどれほどかは知りませんでしたから、ネットで「婚約指輪の相場」で検索してみました。すると、だいたい20〜30万、中には30〜40万というのがあって、少数派を除けば、大半が50万円以内のようでした。
仮にその最高の50万円としても、4月以降のアップはたかだか15,000円であって、いま婚約指輪を駆け込み購入するメンズは、つまりその15,000円惜しさに買っているということになります。

これは本当にびっくりでした。そんな事をするぐらいなら、いっそ株でも買って儲けてやろうというほうがまだしも豪快というものです。

そういう次元の金額にねちねちこだわる金銭感覚や価値観を持った男性は、いくら時代が変わったとはいっても、やっぱりモテない奴だと思います。
仮にいつの日かそれを受け取る女性にしてみても、「増税前に買い置きしていた婚約指輪」をもらって、果たしてそれで嬉しいだろうか…と思います。

それっぽっちの金銭に執着する代償に、男としての値打ちをめちゃめちゃ下げていることに、どうして気がつかないのかと不思議でなりません。しかも、自分で見立てられないものだから店員に相談する、あるいは職場の女性などに付き合ってもらって選んでいるというのですから、聞いているほうが悲しくなります。そんな買い物に付き合っている女性も、内心ではかなりその男性を馬鹿にしているんじゃないかと思いますが、女性って「この人は自分の彼じゃない」という明確な前提の上で、そういう親切あそびは案外楽しいのかもしれませんね。

婚約指輪というものは、あくまで気持ちの問題であって、双方が納得すれば無いなら無いですむものだと個人的には思うんですけどねぇ…。

2014/03/27 Thu. 01:40 | trackback: 0 | comment: -- | edit

見切り性能 

マロニエ君の部屋の『ディアパソン210E-7』に少し連なることですが、ピアノに限らず、楽器の表現力というものは、予め限界を作るべきではないというのが、マロニエ君の考えるところです。
言い換えるなら、常に無限へ向かってその表現の扉は開いていて欲しいと思うのです。

もちろん、そんなことを言ってみたところで、現実に限界はあるし、それどころかマロニエ君の稚拙なピアノの腕前を考えれば、どんなにその点に磨きをかけてみたところで、その真価を発揮させることはできないかもしれません。…いや、間違いなくできません。

ただ、たとえ自分の腕前ではできないことでも、できる人が弾いたときにはちゃんとそれに応えられるだけの潜在力というのはもっていて欲しいという拘りがあるのです。

軽く小さなハンマーのもたらす功罪として、昔の日本車を思い出しました。
現在はよく知りませんが、少なくともある時期までの日本車は、街中を走るには並ぶもののないほど快適で静かで高級感たっぷりなのに、ひとたび山道や高速道路を本気で走ると、いっぺんにぼろが出てヨーロッパの大衆車にも遥か及ばないという現実がありました。

ワインディングロードではよろよろと腰くだけになり、法定速度を超える高速では、その挙動はまったくだらしないものでした。街中でのジェントルな振る舞いとは別物のごとく、120km/h以上出すと安定性も操縦性も破綻へ向かい、騒音も一気に増大するというような車が多く存在しました。これは基本的な技術力というより、日本の道路法規に定められた道路環境や、高速道路の最高速度が100km/hであることから、常用域さえ乗りやすく快適であればよいとばかりに、それ以上の性能をはじめから切り捨てた結果であったようです。

かたや欧州車は、日本車の静かな安楽椅子みたいな快適さはないけれども、山道や高速では一段と腰の座った乗り心地となり、いざとなれば最高速度でも安心して巡行することができました。こそには彼我のバックグラウンドの違い、さらには価値観の相違が浮き彫りになりました。

要は性能の焦点をどこに向けるかという、きわめて重要な本質論だと思います。
もちろん音の可能性さえあれば弾きにくくてもいいなどというつもりはありません。しかし、弾きやすければ音は二の次とも思えないわけです。運動的な弾きやすさの代償に、草食系の薄っぺらですぐに音が割れてしまうようなピアノを弾いても、結局は楽しくもなんともありません。

ピアノはまずなにより弾きやすく、音は小綺麗にまとまっていればいいというのも、そういうニーズがあるのならひとつの在り方かもしれず、べつに否定しようとは思いません。
しかし、少なくとも弾き手とピアノと音楽という関係性に重きを置く場合は、こういう価値観は少なくともマロニエ君個人は賛同しかねるわけです。

簡単には弾かれてくれない骨太のピアノのほうが、弾く者を鍛え、喜びを与えてくれる時が必ずやってくるという信念といったら大げさですけれども、そういう考えがあることは確かです。

平生スーパーの野菜などをひどく下に見るかと思うと、こういう安易で底の浅い、いわばビニール栽培のようなピアノにはまるで無抵抗な感覚というのはよくわかりません。
マロニエ君なら、野菜はスーパーでもいいけれど、ピアノはオーガニックなものと過ごしたいと思います。どんなに秀逸でも、突き詰めれば機械でしかないピアノがあるいっぽう、欠点もあるけれども楽器と呼びたいピアノもあるわけで、やっぱり楽器がいいなぁ!と思うのです。

2014/03/25 Tue. 01:35 | trackback: 0 | comment: -- | edit

納得できない 

皆さんは最近の駐車違反の取締の厳しさをご存じでしょうか?

昔は警察官が違反車両を見つけたら、チョークで地面に時間を書いて一定の時間経過をもって「駐車違反」が成立し、はじめて摘発できるというものでした。
しかし、それは昔の話のようです。そこにはもはや「何分以上」というような猶予はなく、時間はまったく無関係となっていたことにびっくり。

すなわち、たとえ1分でもドライバーが車を離れたら、即違反・即検挙という、これはもうほとんど独裁国家並みの強権的摘発だというほかはありません。

というのも、つい先日、知り合いの方が2歳のお子さんを保育園に預けるために、園の前に車をとめてエンジンを切りハザードを出して車を離れたところ、そこへ巡回警官が通りかかり、たちまちキップを切ったのだそうです。
そのお母さんが慌てて戻って「私です、すみません!」といって駈け寄ったものの、その状況や事情は一切考慮されることなく、問答無用で斬りつけるがごとくの摘発だったようです。
今どきこんな無慈悲なことがあるのかと聞いた当初は信じられない気持ちでした。

反則切符によれば、なんと警察官が車輌を確認してからそのお母さんが現れるまでの時間は、わずか2分だそうです。
しかも現場は交通量のある幹線道路でもなく、車の往来も少ない静かな住宅街にある、比較的幅も広めの道だっただけによけいに驚きでした。

昔のような一定時間を経てはじめて違反が成立するという摘発方法がなくなったのは、要するにそれに要する手間や時間がかかるという以外に、マロニエ君には合理的な理由が見出せません。
あまりに憤慨したので警察の交通課に問い合わせをしてみましたが、果たしてその回答は、現在はドライバーが車内に運転免許を持つ者を残さずに車を離れ場合は、「一瞬であっても」放置車両として摘発されるとのことでした。

こちらもそんな馬鹿げた話に唯々諾々と従うほうではないので、精一杯あれこれ反論しましたが、何を言っても向こうは「法律」と盾にとって一歩も譲る気配はなく、これ以上不毛な会話をしてもナンセンスだと悟って、自分で青筋が立つのを感じながら電話を切りました。

警察のほんらいの目的は、犯罪の防止や捜査・摘発でしょうけれど、その根底にある大儀として市民(人々)の安全や財産を守り、安心できる住みよい社会の維持を担っていくことにあると思います。

一時にくらべると、その悪辣な摘発方法が反感を買い、問題視された速度取締の「ねずみ取り」はずいぶん姿を消し、ようやく反省に転じたのかと思いました。しかるに、またしてもこんな汚い取締の仕方をして市民から怒りと反感を抱かれることになったのは驚くばかりです。かたやストーカー事件などでは度重なる訴えにも耳を貸さず、被害者が殺害されるに及んだりと、これでは税金泥棒・罰金泥棒ではないかと思います。

電話に出た担当者は居丈高な口調で、「時間の問題ではないですよ。子供さんであれなんであれ、そういう理由はそちらの言い分です。もしそれで歩行者妨害になって事故が起きたらどうしますか?」などと痴呆症のような理屈を言い立てます。
しかし、ネットの情報によると、郵便局の車輌は摘発対象外であるなど、必ずしも法の下の平等でないことが明らかです。

また、その後聞いたところでは、トラックなど様々な業種の関係車輌は実際はその対象ではないのだそうで、これはどういうことでしょう? 同じ人がたまたま下見などで普通車で現場に行って止めていると、3分でも即キップを切られ、トラックなら安心というのですから、開いた口がふさがりません。

警察が主張するように、本当に歩行者や自転車の保護、あるいは交通の妨害ということであれば、目的がなんであれ、普通車よりトラックなどのほうがよほど危険で迷惑なっことは論を待ちません。おまけに、最近ではこのきわめて冷血で機械的な取締が、民間の業者にまで委託されているというのですから、なんとも嫌な話です。
そうなれば、どんな言い訳をされても、ますます金銭的ノルマの要素は濃厚となるでしょう。市民がその「反則金という名の金銭収奪システム」の犠牲になるなんて、たまったものじゃない。

人を処罰するということは重大なことです。それに際して悪質度の検証を一切せず、十把一絡であまりにも安易に摘発。そうかと思えば、特定の業者車輌などは見逃すという慣習には、社会の汚い一面を見せつけられるようです。

2014/03/23 Sun. 01:56 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シフに感謝 

近年、自分でも不思議なくらい新しいピアノにそれほど興味が持てなくなってきているマロニエ君ですが、CDの世界では、意図的に古いピアノ使った新録音が発売されているのも事実で、これはとても素晴らしいことだと思います。
もちろん全体からすれば、まだまだごく少数ではありますが、こういうCDがひょっこり手に入ることはとても嬉しいことです。

最近で云うと、プレイエルを使ったバッハのインベンションに大興奮したところでしたが、メジャーピアニストの中では、アンドラーシュ・シフはわりに楽器に拘るほうです。彼はスタインウェイとベーゼンドルファーを使い分けながらベートーヴェンのピアノソナタ全集を作り上げたようですが、最近は全集と重複する最後のソナタop.111、さらにはディアベリ変奏曲とバガテルなどを、古い2台のピアノを使って録音しています。

そのひとつが1921年製のベヒシュタインで、このピアノはなんとバックハウスが使っていたE(コンサートグランド)で、こういうことをやってくれるピアニストが少ない中、シフのピアノに対する感性とチャレンジ精神にはただただ感謝するばかりです。

バックハウスによる1969年のベルリンライブで聴く、豪放なワルトシュタインのあの感動の陰には、この時使われたベヒシュタインEの存在もかなり大きいとマロニエ君は思っていますが、それと同じ個体かどうかはわからないものの(たぶん同じだろうと勝手に思い込み)、そのピアノの音を再び現代の録音で聴くことができると思うと、これまたワクワクでした。

もちろんピアニストが違うので、いくらベートーヴェンとはいえ同じテイストには聞こえませんが、しかしやはりベヒシュタインで聴くベートーヴェンには、格別な意味と相性があるようにも思います。
スタインウェイでは音が甘く華麗で、それが大抵の場合は良い方に作用すると思えるものの、ベートーヴェンにはもう少し辛口の実直さみたいなものが欲しくなり、かといってベーゼンドルファーではちょっと雅に過ぎて、その点でもベヒシュタインはもってこいなのです。

ツンと澄んだ旋律、男性的な低音域、アタック音の強さと互いの音がにじみ合うように広がる枯れた響きの中に、ベートーヴェンの苦悩と理想、歓喜とロマンがいかにもドイツ語で語られるように自然に聞こえてくるのは、物事が収まるべきところに収まったという心地よさを感じます。

ただしマロニエ君の耳には、全般的に古いベヒシュタインには、なんとなく板っぽい響きを感じてしまうことがしばしばですし、全体的にも期待するほどのパワーはないという印象があります。これは経年によって力が落ちてきているのか、あるいはもともとそういうピアノなのか…そのあたりのことはわかりませんが、もうすこし肉付きがあればと思います。

そういえば近藤嘉宏氏が進めているベートーヴェンのソナタ全曲録音には現代のベヒシュタインが使われているようですし、先ごろ発売されたアブデル・ラーマン・エル=バシャによる二度目のベートーヴェン・ソナタ全集にもベヒシュタインDが使われているとのことで、まだ購入には至っていませんが、これも期待がかかります。

さらに今年は、なんとミケランジェリがベヒシュタインを弾いた唯一のディスクという、ベートーヴェン、シューベルト、ドビュッシー、ショパンの2枚組が発売されたようです。ジャケットを見るとずいぶん古そうなベヒシュタインで、ミケランジェリの冷たいのか温かいのかわからないあの正確かつ濃密なタッチに、このドイツのピアノがどう反応しているのか興味津々ではあります。


2014/03/21 Fri. 01:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ライト2 

かなり前のことですが、来日した黄金期のポリーニが得意のベートーヴェンのソナタを弾いたとき、NHKのインタビューで述べた言葉を覚えています。

「ベートーヴェンはありふれた断片から崇高なテーマを作り上げます。」と、当時のすさまじい演奏とは裏腹な、至って控え目な調子で語り、傍らにあったピアノに向かって『熱情』の第一楽章の出だしをほんの軽く弾きました。(もしかしたら、弾いてから語ったのだったかも。その順序は覚えていません。)

これにはまったく膝を打つ思いで、多くのベートーヴェンの作品に共通した特徴です。
形而上学的世界といわれる最後の3つのソナタでさえ、第一楽章の第一主題など「ありふれた断片」といえばそのように思われます。
ひとつの主題をこれでもかとばかりに彫琢し、推敲し、いじりまわた挙げ句に壮大なフィナーレへとなだれ込む。また、変奏がとりわけ得意だったこともそんな彼の特徴があらわれていると見ることもできるように思います。

頭にベートーヴェンをもってくると話が大げさになり、ちょっと後が書きづらくなりますが、前回のライトの設計にもあるように、本物のクリエイターには独自のイメージや美学が力強く流れていて、むしろ素材にはそれほどこだわらないという場合も少なくありません。これはすべての分野に通じる一流とそれ以外の差でもあると思います。

極論かもしれませんが、何でもないものを最高の価値あるものへ変身させ、あらたな命を吹き込むことこそ芸術の極意なのかもしれません。

しかし、それは必ずしも芸術の世界の専売特許というわけでもありません。
余り物で美味しい料理を作ってしまう才能、はぎれやリフォームによってオシャレな服をこしらえる才能、棄てられる廃材を見た人が自分も欲しいと思うようなモダンなインテリアに変えてしまうなど、ある種の制約の中にあってこそ、人間の能力はより真価を発揮しやすいものではないだろうかとも思うのです。

場合によってはそんな制約があるほうが、ある意味では目的と方向性が明快となって、生み出されるものも心地よい調べをもっていることが少なくないように思います。
まったくの自由意志からなにか立派な作品を作ることも素晴らしいけれども、これこれのものが必要である、あるいは使い道のない素材を活かしたい、指定された予算と材料だけで何かを作らなくてはならないというような一見不自由な発想点からも、多くの傑作が生み出されていることも事実であり、それはそれで立派なモチベーションなのだと思います。

むかしお邪魔したある個人宅に、細長のなんともシックで美しいテーブルがあってまっ先に目に止まりましたが、なんとそれは市販の集成材にダーク系の艶のないオイルニスを重ね塗りし、そこへ足をつけただけというものでとても驚いた記憶があります。その趣味の良さとえもいわれぬ風合いには痛く感銘を受け、何十万もするような輸入家具を買うよりよほど尊敬に値すると思いました。

動機は部屋のサイズにジャストフィットするテーブルがどこにもなかったので、だったら自作してやろうと思い立ったとのことで、結果的にコストも望外の安さで事足りたということでした。

マロニエ君にはそのような技も才能もありませんが、それでも、そんな真似事のようなことをやってみたいという憧れのようなものがあるのも確かです。
なにか虚しい挑戦を、いつかやってみたいという気持ちだけはくすぶっています。

2014/03/18 Tue. 01:18 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ライト 

テレビ東京の番組『美の巨人たち』では、ときどきあっと驚くような事実に接することがあります。

少し前の放送でしたが池袋にある自由学園明日館が紹介されました。
これはアメリカの誇る世界的建築家、フランク・ロイド・ライトの作品です。

第二次大戦前につくられたその校舎は、シンプルな中にも気品と叡智とすがすがしさに満ち溢れています。そしてなによりライトの突出したセンスがこの作品の内外のいたるところに光っていて、現在は修復され、国の重要文化財にも指定されている建築物です。

例えば正面ホールのガラスには、なんともモダンで可憐で美しい装飾が配されていますが、これももちろんライト氏の考案によるもので、これがこの校舎の中心であり象徴ともなっている部分。

さて、この番組で初めて知ったのですが、その装飾に近づいて目を凝らせば、なんと素材は着色されたベニヤであることがわかり仰天させられました。それだけではありません。美しい色に塗られた教室のドアや、その上部の欄間からヒントを得たという装飾も素材はベニヤなのです。

自由学園の創始者である羽仁吉一の夫人もと子さんが直接ライトに設計を依頼したそうですが、その折に云ったことは「予算がないので、できるだけ安い材料でつくって欲しい」というものだったそうです。
その意向を汲み取って、ライト氏は安い資材を多用しつつ、それでいてまったく独自の美しく洗練された、他に類を見ない校舎を完成させました。ライト氏は建物の内外装はもちろん、照明、机、イスなどもデザインしましたが、食堂などの机やイスは、安価な二枚板を貼り合わせ、繋ぎ目は朱色の効果的なアクセントにするなど、その意匠や造形は今の目で見てもきわめて洗練されたものです。

云われなければ、その美しい建築に感銘するだけで、まさかそんな安い素材が多用されているなどとは思いもよりません。

マロニエ君はこういう何でもないありきたりの素材を使いながら、価値という点では最高のものを作るという感性が昔から殊のほか好きでした。
高級でもなんでもないものから、ハッと息を呑むような優れたものを作ることは、素材そのものがもつ力をあてにできないだけ、作り手の才能や真の実力がものをいうのです。
優秀なシェフの手にかかれば冷蔵庫の残り物から、素晴らしいご馳走ができたりするのも同じです。

素材に頼らないぶん、素の技と美意識が問われますし、幅広い経験や本物を見てきた眼、自由でしなやかなアイデアも必要です。

たとえばの話、処分されるような素材から、人も羨むような素敵な家具などを作ることができたら、こんな愉快なことはありません。
高級品や高額であることを喜んだり、なにかというとモノ自慢をするのは大嫌いですが、もしこういうことができたら、そのときこそ大いに自慢したいものです。

もちろん最高の素材を使って最高のものを作るということを否定はしません。
たとえば、最近では式年遷宮を終えた伊勢神宮の内宮などはその最たるものでしょう。
しかし、そういうものはごく限られた特別なものだけに限定されていれば良く、通常はなにもかもが最高ずくしというのは、どこか物欲しそうで、却って貧しい感じがしてしまいます。

むろん素材なんて何でもいいと暴論を吐くつもりはありませんが、それよりも遥かに重要なのはセンスだとマロニエ君は思うのです。

2014/03/16 Sun. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

大発掘 

やっぱりCD店はときどき覗いてみるもので、おもしろいCDを見つけました。

フランスのピアニスト(イタリア生まれ)、シャンタル・スティリアーニが弾くバッハのインベンションとシンフォニアなのですが、ピアノはなんと1910年に製作されたプレイエルが使われています。

この時代のプレイエルはマロニエ君が最も心惹かれるピアノのひとつで、よくあるショパンが使ったとされる時代楽器としてのプレイエルはフォルテピアノであって、あちらは歴史的には大変な価値があるのかもしれませんが、個人的には一体型鋳鉄フレームをもつモダンピアノになってからのプレイエル(しかも第二次大戦前までの)が好きなのです。

この時代のプレイエルの音はコルトーによる数多くの録音で聴くことはできますが、なにぶんにも録音が古く、コルトーの演奏の妙を楽しむにはいいとしても、プレイエルの音そのものを満喫するには満足できるものではありません。
数年前、横山幸雄さんがこの時代のプレイエルを使ってのショパン全集CDが出始めたので、これぞ待ち望んでいたものと意気込んで買い続けたものですが、ここに聴くプレイエルはマロニエ君の求めるものとはやや乖離のある楽器で、残念ながら満足を得ることは出来ませんでした。(全集が不揃いにならないよう、半分以上は義務で買ったようなものですが、たぶんもう聴きません。)

さて、演奏者もピアノもフランスとなると、バッハといってもかなり毛色の違うものであろうことに覚悟をしつつ、1910年のプレイエルという一点に希望を繋いで購入しました。

果たしてスピーカーから出てきた音は、まごうことなきこの時代のプレイエルのもので、柔らかさと軽さと歌心にあふれていて、すっかり聴き惚れてしまいました。
マロニエ君はドイツピアノのような辛口の厳しい音のピアノを好む反面、その真逆である、羽根のように軽い、モネの絵のような、この時代のプレイエルの明るさと憂いをもったピアノも好きなのです。

明るさといっても、現代のピアノのようなブリリアントで単調な明るさとは違って、プレイエルの明るさは自然の太陽の光が降りそそぐような温もりがあり、その明るさの中に微妙な陰翳が含まれています。
バレエでいうと重量級の技巧の中に分厚いロマンが漂うロシアバレエに対して、あくまで軽さとシックとデリカシーで見せるパリオペラ座バレエの違いのようなものでしょうか。

CALLIOPEというレーベルですが、録音も良く、ウナコルダの踏み分けまで明瞭に聞き取ることができるクオリティで、これほどこの時代のプレイエルの音の実像を伝えるCDはかつてなかったように思います。
それにしても、惚れ惚れするほど感心するのは、中音から次高音にかけてのくっきりした品のいい歌心で、どうかすると人の声のように聞こえてしまうことがあるほどで、これぞプレイエルの真骨頂だろうと思いました。
旋律のラインをこれほど楽々と雄弁に語ることのできるピアノはそう滅多にあるものではありません。その歌心と陰翳こそがショパンにもベストマッチなのでしょうし、インベンションとシンフォニアも交叉する旋律で聴かせる音楽なので素晴らしいのだと思います。

フランス人はピアノという楽器をむやみに大きく捉えず、繊細さを損なわない詩的表現のできる美しい声の楽器として彼らの感性と流儀で完成させたように思いますが、これはまぎれもないサロンのピアノで、決してホールのピアノではないことが悟られます。


2014/03/14 Fri. 01:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

共犯 

例の作曲家のゴーストライター事件では、発覚からひと月を経て、ついに佐氏本人が姿をあらわし、ものものしい「記者会見」に及びました。

恥ずかしながらマロニエ君は、この手のスキャンダルというか週刊誌ネタ的なものの中には、非常に興味をそそるものがあり、この事件も発覚いらいなんとなく注目していました。とりわけ本人が出てくる会見はぜひ見たい!と思っていたので、ここぞとばかりにワイドショーのたぐいを録画しておきました。

いまさら言うまでもないことですが、くだらない話題も大好きなマロニエ君です。
とくにこの本人登場の記者会見はワクワクさせられました。

会場に詰めかけたマスコミの数はハンパなものではなく、壇上におかれたテーブルには、近ごろではついぞ見たこともない数のマイクが蛇の群のように置かれ、いやが上にも関心の高さが伺われます。

カメラのフラッシュの中にあらわれたご当人は、あっと驚くばかりの変身ぶりで、特徴的な長髪はバッサリと短く切られ、サングラスを外し、深々とお辞儀をする姿はまるで別人でした。これを一目見ただけでも、いかに彼は巧みに「芸術家」に化けていたかが一目瞭然でした。

内容はお詫びを連発しつつも、この人の体の芯にまで染みついたウソと攻撃性が随所に見て取れるもので、いち野次馬としては、これはもう滅多にないおもしろさでした。
むろん発言が真実などとは到底思えませんし、すでにそういう人物という認識の上なので、はじめの変身ぶり以外は別に驚きもしませんでした。

驚いたのは、むしろ翌日のワイドショーで繰り広げられる論調でした。
どうせ前日の会見の分析が翌日の番組のネタになると踏んでいたので、二日続けて録画していたのです。

今どきの特徴ですが、司会者やコメンテーターは普段の発言は鬱陶しいほど慎重で、これでもかとばかりに偽善的な発言に終始します。ところが、いったん相手に悪者というレッテルが貼られると、状況は一変。批判は解禁とばかりに、誰も彼もが寄ってたかって問題の人物を吊し上げます。それも自分は極めて良識ある誠実で温厚な人物ですよというわざとらしいニュアンスを込めながら。

それでも、この楽譜も読めないエセ作曲家が非難されるのは当然としても、ちょっと違和感を感じたのは、その相方であったゴーストライターのほうが、あまり悪く言われない点でした。
そればかりか、この相方の作曲者がまるで正直者で、ときに被害者であるかのようなニュアンスまで含んでくるのはあんまりで、これには強い抵抗感を覚えました。

もちろん役どころとしては、気の弱そうな作曲者が佐氏にいいようにコントロールされたという構図のほうが収まりはいいのかもしれませんが、それはちょっと違うと思います。

この人が突如として「告白会見」をしたときから見れば、単純に「正直」で「善良」で「良心の呵責に耐えられなくなった」人物であるかのようなイメージになるのかもしれませんが、それはいささか認識が甘いのでは?とマロニエ君は思います。

一度や二度ならともかく、実に18年間という長きにわたって、この秘密の共同作業を続けていたという2人です。さらにそれなりの高額な報酬の授受もあったということは、これはまぎれもなく本人の承諾と意志によるものだと考えるのが自然です。となれば、ご当人がいわれるようにまさに立派な「共犯者」であることは忘れるべきではない。本人によほどの熱意と積極性がなければ、あれだけの大曲を書き上げるだけのモチベーションも上がる筈はないでしょう。

この2人のいずれが主導的であったかはともかく、結局はお似合いのいいコンビであったのだろうと思います。
そして、なによりそれを裏付けているのが、18年間にわたりその秘密の関係が維持されていたということだと思います。

2014/03/12 Wed. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ミクロの権利2 

ミクロの権利の行使は駐車場だけではありません。

ちょっとしたお店や書店などに行っても、今はさりげない譲り合いの精神というものはまず期待できません。むしろその逆で、自分が見たい商品の前に人がいたりすると、少し横から見るようになりますが、昔なら人の気配を感じると、互いに場所を譲ったり、ちょっとした遠慮がちな動きや反応などがありました。
「謙譲の美徳」などはもはや死語だとしても、少なくとも、どうぞとかお互い様という気持ちがあったように思います。

ところが今どきは、そんな気配を察知するや、却ってそこに執拗に居座ろうという「意志的な独占」を感じられることも少なくなく、何のためにそこまでしなくてはいけないの?という疑念に駆られます。

過日もスーパーで急ぎの買い物を済ませようと立ち寄ったときのこと。生鮮食品の売り場で、こちらの目的の商品の真ん前にひとりの女性が立っていました。冷蔵の棚は2段になっており、上の段の商品をしきりに見ています。マロニエ君の買うものはその真下の段にあります。

その女性のほうが先なので、もちろんしばらくは待ちますが、他者が自分の次を待っていると気配でわかっている筈なのに、いくら待ってもその女性は尚も食い下がらんばかりにその場を離れません。

しかもその女性は手押しカートを使わず、買い物カゴを下の段の商品の上にどっかり置いています。
ラップがかけてあるとはいうものの生のお肉ですから、感心できない行為です。

おそらくその気持ちはこんなところでしょう。
人が自分と同じ場所を見たいと思っているなら、今の瞬間は自分が先着して見ている(あるいは品定めしている)最中なのだから、そこには優先権がある。これは常識でなんらルール違反ではない。である以上は自分が納得するまでその場を独占する権利があり、むやみに明け渡す必要などない。他者は自分の必要が終了しその場を立ち去るまで、黙して静かに、そして無期限に耐えて待つべきであろう。

…。こんな小さな小さな、みみっちい権利を行使することに、一服の薄暗い快楽を覚えているのだというのがひしひしと感じられるのです。もちろんその快楽の中には、自分が先であるというただそれだけの優越性と、遅参者に対するささやかな意地悪がこめられているのはいうまでもありません。
しかもその快楽は、この状況に流れる合法的行為という安全の上に成り立っているわけですから、まことにくだらない心情だとしか思えません。

自分が商品を見ていて、そこに別の人がやってきたら、ちょっと半身でも左右いずれかに動いて譲るぐらいの気持ちがどうして持てないものかと不思議で仕方ありません。
残りわずかというようなことならまだしも、商品はじゅうぶんあったのですが…。

これと対照的なのは、エレベーターなどで先に中に入った人が「開」ボタンを押して、人が乗り込むのを待つときなどです。人の目が多いほど、いつまでも遅れてきた人にも気を配り、少しの乗り損ねもないよう最大限の気配りをするする人がいて、これはこれでちょっぴり芝居がかった印象を受けます。
これに呼応するように、乗る人も、降りる人も、ありがとうございますという言葉をいささか過剰では?と思えるほど連発しますが、そこだけ切り取って見ていると麗しい日本人の礼儀正しさのように思えないこともありません。

でもきっと同じ人が、別の場所では、別人のような行動をとるような気がして、そういう意味では、最近の親切や礼儀も、どうも信じられない一面があるのは残念です。

2014/03/10 Mon. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ミクロの権利 

以前にも書いた覚えがありますが、当節、満車の駐車場などでは、人が車に戻り、乗り込んでエンジンもかかり、今にも動き出しそうな車があるからといって近くで待っていても、そんな車はなかなか出て行ってはくれません。

待ちわびて、じりじりするこちらの心情を弄ぶかのように、車内ではガサゴソとなにかをやっている気配をみせたり、あるいはことさら泰然として、遮二無二時間をかけたりして、とにかく出発を「1秒でも」渋っている様子が見て取れます。

こう書くと「それはアナタがそんな風に見ているだけでは?」と言われるかもしれませんが、人間は長いこと人間業をやっていれば、それが本当に自然なものか、邪心から出ていることなのかの判別ぐらいはつくようになるものです。

世代的にはさまざまですが、とりわけ若者から中年になりかけぐらいの場合が多く、さらにいうなら女性のほうがよりその傾向が強いように感じます。マロニエ君も最近ではいい加減このパターンがのみ込めているので、こういう人の視界に入る場所でおめおめと待っているようなことはしなくなりました。
あえて待機する場所を変えたり、場内を一周したりと、空くことを「期待していない」素振りに出ると、逆にすんなり出発するのがわかっているからです。

ちなみに年配の方は、こちらが待っていることがわかると、急いで車を出してくださったりする場合が多く、ありがたいだけでなく、どこかホッとして「あぁ昔の人はいいなぁ…」と思ってしまいます。

こういう傾向からも、昔にくらべると世の中の人は精神的に決して幸福ではないことがひしひしと感じられます。生活のほとんどすべてが否応なく競争原理にさらされている現役世代にとって、いま自分が手にしている権利は、他者も欲しがっているものであればあるだけ、ささいなことでも手放したくないという悲しい我欲が本能的に表出するようです。

その証拠に、逆もあるのです。
料金精算所が混んでいたりすると、必然的に出庫する車はその列に並ぶことになり、土日の夕刻などはたいていこのパターンです。

車に乗り込んでエンジンを始動、シートベルトをして、ギアを入れて動き出すという一連の操作の中、時を同じくして近くで車に乗り込んだ人は、今度は我先に早く動き出そうと、変にこっちを意識して緊迫しているのが伝わってきます。
しかも真剣そのもので、そのむき出しの競争心には、こちらもつい刺激されてしまいます。

するとどうでしょう。
大変な早業で車はそそくさと動き出し、本当にコンマ1秒という差で列の先へと並ぶわけで、これを見ればわかるように、満車状態で他車が待っているのに車を出さないのは、やはり弄ぶターゲットがいるからこその故意であることが明瞭です。

社会がきれいなものじゃないことは先刻承知ですが、しかしこんなくだらない場面で、これだけ赤裸々に他人の悪意に触れるというのは、やはりいい気持ちはしないものです。

巷ではやたら「オトナ」「オトナの対応」などという分別くさい言葉が濫用されていますが、実際は強欲なオコチャマだらけです。


2014/03/08 Sat. 01:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

楽器解体新書2 

前回書き切れなかった、もうひとつ。

それはピアノのハンマーの材質を、本来のフェルト以外のものを代用して使ってみたら、さてどんな音になるのかという実験です。

まず(1)通常のフェルト、次に(2)発砲ウレタン、なんと(3)段ボール、笑ってしまった(4)消しゴム、そして(5)革、そしてなぜか(6)紙粘土という素材が使われ、それぞれがきれいにハンマーのかたちに成形されて、ちゃんとシャンクの端に取りつけられ、アクション機構を介して打弦されるというものです。

この6種類がそれぞれクリックひとつで音を聞くことが出来るようになっていて、その下には解説も付記されています。

発砲ウレタンは、フェルトよりも軽い素材とありますが、そのぶんアタックの力がなく、覇気のない弱々しい音しかしません。
段ボールも質量が足りないのか、頼りない音で、表面が硬いためかやわらかさとはまったく逆のピチピチという硬質な音がするだけ。
消しゴムは、コメントに「重さがあるので期待しましたが、予想外に小さな音」とある通り、ショボイ音しかしません。きっと弾力がありすぎて、打弦したときに消しゴムが弦に食い込んで、弦の振動を阻害してしまっているのだろうと思います。
一番良かったのは、「細かく切って何層にも巻いた」という革で、これがダントツによかったと思います。コメントでは「適度な弾力があって、性質がフェルトに近いのかも…」とありました。
紙粘土は、重くて硬いので、チャンチャンした音でピアノの音とはいえません。コメントでは「大正琴のよう」とありました。さらには重さが災いして連打性にも劣るということでした。

人によってはばかばかしいと思われるかもしれませんが、マロニエ君は実に楽しい実験だと感じます。またフェルトがいかに適切な素材であることがひしひしと感じられ、手間ひまをかけてこういうことをしてみせる技術者さんは好きだなあと思ってしまいます。

上記の結果からすると、新しい素材でも、革のような適度な固さをもつものと組み合わせるなどして追求を重ねると、これは存外いいハンマーが出来るのでは?という思いに駆られてしまいました。

こういう新素材による開発が進んで、もしも新しい発見が得られるとしたら、フェルト以外のハンマーをもつピアノができないとも限りません。

もちろんフェルトを凌ぐものが簡単に出来るとは思いませんが、技術者、開発者が新しいことへ挑戦するという姿勢はどんな分野でも大切なことです。

良くできた別素材のハンマーを使ったピアノの音、さらにはそれによる演奏なども聴いてみたいし、なんだかとても楽しそうな気もします。
どうせ、ボディはじめあちこちが人工素材が多用されている現代のアコースティックピアノなんですから、いっそ開き直って、新素材ばかりで新時代のピアノも作ってみてはどうでしょう。

今どきはペットボトルの素材で作った服とか、なんでもありなのですから、これも一興というものかもしれませんし、少なくとも電子ピアノよりは夢がある気がするのですが…。

2014/03/05 Wed. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

楽器解体新書 

ネットで偶然見つけたのですが、ヤマハのホームページ内には意外におもしろいページが隠されていることを知りました。

「楽器解体新書」といって、いろいろな楽器の仕組みや弾き方の解説などが掲載されていて、そこには「楽器のここに、こういうことをしたらどうなるか?」というような一般向けのわかりやすい実験を紹介するコーナーまであります。

ピアノの覧では、グランドピアノの金属フレームには、いくつもの丸い穴が開けられていますが、それを塞いでみるとどうなるか?というような実験をやっています。
通常の状態と、そこにフタをした状態で、それぞれ和音が鳴らされますが、パソコンスピーカーからの音では明確な差ではないものの、塞がれたほうが広がりのない単調な音になるのはかすかにわかります。

さらにおもしろい実験が2つありました。

そのひとつ。
調律のユニゾン合わせに関する実験で、ピアノの中高音にはひとつの音に対して3本の弦が張られていますが、これは単純に3本をきれいに同じに合わせればいいのかというと、まったくそうではなく、そこに微妙な変化をつけることで、音に色や味わいがでるわけで、それはどういうことかという実験です。

つまり3本をどの程度合わせるか、あるいはどれぐらい微妙にずらすか、それらの差を耳で感じるもので、少しずつ差をつけることで4種類の音が聞けるようになっています。

ひとつは3本がまったく同じピッチに揃えてあり、これはただツーンという感じでおもしろくも何ともない無機質な音。伸びもないし、まったく楽器らしい息づかいもニュアンスもありません。

残る3つは1本を正しいピッチに合わせ、のこる2本はそれぞれ上下にわずかに音をずらして調律されています。このずらし方が3段階あって、それぞれどんな音になるか、その違いを聴いてみるということができるというもので、これは画期的なものだと思います。
ずらしすぎると汚いうねりが出て、まったくいい音とは言いかねるもので、いわゆる調律の狂ったピアノそのものの音でした。

ところが3本のユニゾンのズレがほんのわずかとなる狭い領域では、微妙な味わいや音の伸びなど出てきて、ピアノの音が音楽として歌い始めるスポットが存在しているようです。
揃いすぎればただのつまらない音、ずれすぎれば汚い非音楽的な音、その間のスイートスポットは極めて狭いけれども、ここが腕のふるいどころのようです。

このごくごく狭いスポットの中で、調律師は目指す音をどのようにもっていくか、そこに技術者の経験が問われ、音楽性や美意識があらわれる部分で、しかもこれが絶対正しいというものもありません。
調律をつきつめると芸術領域になるというのもこのためです。

もちろん調律師さんなどは先刻ご承知のきわめて初歩的なものですが、このように簡単な比較として、シロウトが誰でも聞くことができることによって、ユニゾンの合わせかたしだいで楽器の性格や音楽性がくるくる変わってしまうという「基本」が自分の耳で理解できるのは素晴らしいことだと思います。

池上章さんの「そうだったのか」ではありませんが、こうして解っているようで解っていないことを丁寧に噛み砕いて教えてもらえるのは非常に大事なことだと思います。
そういう意味で、さすがはヤマハだなあと感心させられました。

もうひとつは次に書きます。


2014/03/03 Mon. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

献上のメロン 

昨年来日したマレイ・ペライアのサントリーホールに於けるコンサートの様子を、BSクラシック倶楽部で見ました。
ペライアはどちらかというと日本に来ることが少ないピアニストですが、これは表現するのが非常に難しいコンサートだと思いました。

音楽の世界では、演奏者のプロフィールは誇大表現するのが普通で、たとえば「世界的に活躍」という言葉は毎度のことで、とても額面通りには受け取れないというのが常識です。
その点で云うと、ペライアはこの言葉と事実が一致する数少ない存在で、世界でも高い位置にランクされるピアニストという点で異論はありません。

マロニエ君自身も、ペライアのCDなどはどれだけ持っているかわからないほど、昔からよく聴いており、ある意味避けては通ることができないピアニストだろうとも思います。

遠い記憶を辿ると、たぶんペライアのCDを初めて聴いたのが、ごく若いころに弾いたシューマンのダヴィッド同盟と幻想小曲集だったような気がします。

ペライアは、徹頭徹尾流暢で、音楽の法則に適った気品ある音の処理、まさに真珠を転がすような粒の揃った潤いのある音並びの美しさには、この人ならではの格別の輝きがあります。細やかな音型の去就や立ち居振る舞いにも秀でており、完成度の高い演奏をする人という点もペライアの特徴だと思います。
ハッとさせられる美しさが随所で光り、音色も瑞々しく艶やかですが、表現の振幅や奥行きという面では、けっして精神性の勝ったピアニストではないという印象があります。

作品の本質に迫るべく、清濁併せもった表現のために技巧を駆使するというのではなく、あくまで美しい精緻なピアニズムが優先され、そこに様々な楽曲の解釈があたかも銘店の幕の内弁当みたいに、寸分の隙もなく端正に並べ込まれていくようです。

何を弾いても語り口が明晰で耳にも快く、どこにも神経に引っ掛かるようなところはないのですが、そこにあるのはいわば音と技巧のビジュアルであり、おまけに常に一定の品位が保たれているので、はじめのうちはそのあたりに惹きつけられてしまうのですが、それから先を求めると忽ち行き止まりになってしまう限界を感じます。

ピアノを弾くのが本当に巧い人だとは思いますが、芸術的表現という点ではそれほど満足が得られるというわけではないというのが昔から感じるところで、今回あらためてそれを再確認させられてしまいました。

この放送で聴いたのはバッハのフランス組曲第4番、ベートーヴェンの熱情、シューベルトの即興曲でしたが、個人的にはバッハ、ベートーヴェンはどうにも消化不良で、かろうじてシューベルトでやや楽しめたという印象でした。
本人がそう望んでいるのかどうかわかりませんが、この人の手にかかると、どんな作品でも体裁良く小綺麗に整い、予定調和的にまとめられた感じを受けてしまいます。

演奏を聴くことで受け取る側が何かを喚起され、さまざまに自由な旅に心を巡らす余地はなく、いずれもこざっぱり完結していて、それを楽しんだら終わりという感覚でしょうか。

半世紀も前に、日本では『献上のメロン』という言葉が比喩として流行ったそうですが、ペライアのピアノはまさにそういう世界を連想させるもので、デパートの高級贈答品のようなイメージです。どこからもクレームの付けようのないキズひとつ無い、見事づくしの出来映え。マロニエ君はどうもこういう相反する要素の絡まない、無菌室みたいな世界は好みではないのです。

インタビューでは指の故障でステージから退いていた期間、ずいぶんとバッハに癒されつつ傾倒し、その後はベートーヴェンのソナタ全曲の楽譜の校訂までやっているとのことですが、「熱情」の各楽章をいちいちハムレットの各情景に例え、実際にそういうイメージを思い浮かべながら弾いていると熱っぽく語るくだりはいささか違和感を覚えました。
音楽から何を連想しようとむろん自由ですが、マロニエ君は本質的に音楽は抽象芸術だと思っているので、そこに行き過ぎた具体的イメージを反映させながら弾くというのは、いささか賛同しかねるものがありました。
もちろん、作曲者自身が特にそのように作品を規定していたり、劇音楽の場合は別ですが。


2014/03/01 Sat. 01:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit