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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

高倉健 

唐突な話題を持ち込むようですが、高倉健というのは不思議な俳優だと思います。

任侠映画の主役で一世を風靡したものの、その後はきっぱりそちらの世界とは訣別します。一説によればこのハマリ役、ご本人としては不本意であった由。壮年期以降は自分が納得する映画にのみ出演して、その都度話題になりながらおじいさんになって、ついには文化勲章にまで辿り着いた人です。

マロニエ君は映画は好きで気が向けば見ますが、とても映画ファンといえるようなレベルではなく、邦画も洋画も区別なく、なんとなく自分が見たいと思ったものをときどき見る程度です。
昔は深夜の時間帯に任侠映画をテレビでさかんにやっていましたから、高倉健はもちろん、鶴田浩司、藤純子、江波杏子らの活躍する映画は、見てみると結構おもしろいので、子供だったくせにこの時間帯にそこそこ見た記憶があります。

高倉健はとくに好きではないが、かといってとくに嫌いというわけでもない。じゃあどうでもいいのかというと、それもまた否定するのも肯定するのもちょっと難しい俳優さんです。
その存在感は大変なものだと思いますが、マロニエ君の好むタイプの俳優という枠からは大きく外れた存在ですし、かといって彼に代わるような俳優がまったく見あたらない、きわめて独特な存在であることも間違いないようです。

とくに好きではない理由は、高倉健その人ではなく、周りから寄ってたかって作られた「健さん」のイメージのほうです。前時代的な男の理想像、男が考える「男の中の男」という、あれが鼻についてイヤなのです。
アウトサイダーで人生を真っ当に歩めなかった負い目、不器用でヤクザな生き方をするしかなかった諦観、根底に流れる正義感、寡黙で、無学で、腕っ節だけは人並み外れて、シャイで破天荒…等々、そういうイメージが高倉健の双肩に遠慮会釈なく積み上げられてしまったのだと思います。そう云う点では、彼こそは多くのファンと映画会社の求めるイメージの被害者であるようにも思えます。

さらに悲壮感が漂うのは、昔の俳優は今とは比較にならないほど多くの縛りがあって、恋愛や結婚など私生活にも厳しい制限が多く、とりわけ高倉健ほどのドル箱ともなるとそれはいっそう厳しいものだったと思われます。彼はついにそのイメージを守り通し、俳優高倉健を現在只今でも維持しているという点で、まさに自分に科せられた宿命に殉じる覚悟の人生なのではないかと思います。

そういう自分の宿命に身を苛み、半ば投げやりにも似た感じで諦観している姿が、また男の叙情性や孤独性のような作用を生み出して、倍々ゲームのように高倉健らしさに色を添えていく。

これはまったくマロニエ君の想像ですが、高倉健の数少ない密着映像などをみていると、本人はそのイメージとはかなり違った好みや憧れを秘めながら、一生をかけて「高倉健という役」を演じている人のように感じられてしまいます。

若い頃に離婚して、その後結婚しないのも、彼が好む女性は高倉健のイメージを大いに損なうような人なのではないかと、明確な根拠はないけれども思えてきます。
すくなくとも我々がスクリーンを通して思い描くような高倉健にお似合いだと感じる女性は、実はご本人はぜんぜんタイプじゃないような気がしてならないのです。

なぜこんな事を書いたのかというと、自分に合わない曲を弾きたがるパイクからはじまり、栄光と喧噪の中で自分の弾きたい曲さえ弾けなかったクライバーンを思い出し、そこからファンの期待するイメージの犠牲になった高倉健という連想に繋がったわけでした。

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2014/02/26 Wed. 01:24 | trackback: 0 | comment: -- | edit

好みと資質 

クン・ウー・パイクのピアノは以前ならバッハの作品集やフランスもの、リストの作品、あるいはショパンの協奏曲およびピアノとオーケストラのための作品等を聴いていましたが、まあ確かな腕前のピアニストだという印象があるくらいで、それ以上にどうということもないぐらいのイメージで過ごしてきました。

ところがきっかけはなんだったか忘れましたが、プロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDに出会って聴いたところ、その凄まじいばかりの演奏にすっかり圧倒されて、これほどすごい人だったのかとそれまでの中途半端な印象が一気に払拭され、このプロコフィエフがパイク氏の印象の中核を成すことになりました。

ラフマニノフの協奏曲全曲もあり、プロコフィエフほどではないにしろ、これもなかなかのもの。
ところが、その後フォーレのピアノ作品集を聴くと、たしかによくよく考え抜かれた演奏のようではあるけれども、音楽を優先したつもりが過剰な抑制がかかり過ぎたような息苦しさがあり、フォーレの本質とはこういうものだろうか?という印象でした。一部には高く評価されている方もあるようですが、さらりと流せばいいものを必要以上に考えて深刻になっているみたいで、マロニエ君はそれほどのものとは思えませんでした。

それでもプロコフィエフでの衝撃は収まらず、そのころ日本では発売されていなかったデッカによるベートーヴェンのソナタ全集にこそ、この人の本領が込められているのでは?と輸入盤を入手して聴いてみたところ、これがまたどうにもピンとくるものがなくガッカリ。一通りは聴いてみたものの、このときの落胆は決定的で、その後はまったく手を付けていません。

つづくドイツグラモフォンからブラームスの協奏曲第1番と、インテルメッツォなどの作品集が2枚続けてリリースされ、これも聴きましたが協奏曲はそこそこ期待に添うものでしたが、ソロアルバムのほうは悪くはないけれど魅力的でもないという、なんとなくフォーレのアルバムを聴いたときの慎重すぎる感覚を思い出しました。

そんなわけで個人的には評価が乱れるパイクですが、昨年来日した折のトッパンホールでのコンサートの様子がBSで放送されました。このときはオールシューベルトプロという意外なもので、しかもマロニエ君の好きなソナタはひとつもなく、即興曲、楽興の時、3つのピアノ曲からパイクなりの意図で並べられるかたちでの演奏でした。

冒頭のインタビューでは、若い頃にソナタなどの大曲は弾いていたけれど、あるときにシューベルトの歌曲に魅せられることになり、それによってシューベルトへの理解が進んだというような意味のことを穏やかな調子で喋っていました。

しかし実際の演奏では、その言葉がそれほど演奏に反映されているようには思えませんでした。いささか乱暴に云うなら、どれを弾いても同じ調子で、昔のロシアのピアニストのように重く分厚く、それでいて非常に注意深く弾かれるばかりで、シューベルトの作品に込められている可憐な歌とか不条理、サラリとした旋律の中に潜むゾッとするような暗闇など、そういったものがあまり聞こえてこないのは残念でした。

やはりこの人は逞しさで鳴らす重厚長大な協奏曲などが向いているのかもしれないと思いますが、ご当人はそういうレッテルを貼られるのは甚だ不本意のようで、それがどうにも皮肉に思えてなりませんでした。
ひじょうに穏やかな話し方や物腰ですが、実はコンサートグランドがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫で、端的に言ってシューベルトをこんな大男が弾く姿が、なんともミスマッチに思えてしまうものでしたし、実際の演奏もそういう印象でした。
しかも、それが非常に周到に準備された、誠実さのあふれる演奏であるだけに、よけいにミスマッチを痛切に感じられてしまいました。

演奏家は自分の好みも大切だけれど、コンサートに載せる以上は自分の資質に合ったものを演奏しなくてはいけないということを考えさせられます。

2014/02/24 Mon. 01:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

マイペース 

大病院のことはよくわかりませんが、開業医レベルの病院に行くと、「うわ、でたぁ!」と思うことがときどきあります。

自分よりも順番が前の人に話し好きの高齢者の方がおられたりすると、受付、診察、会計、薬局という一連の流れの中で、後続者は甚大な影響を被ることがあります。

この手の方は、むやみやたらと話し好きで、人とみればあれこれ喋り出し、おまけに周りの空気を読むなんてことは天晴れと云うほどなく、聞えてくるのは、大半がその場で直接何の関係もないような話を中心とする、一方的おしゃべりのオンパレード。

受付で診察カードと保険証を提示するだけで済むことが、まずこの場からおしゃべりはスタート。前回来たときからどうしたこうしたというような茶飲み話みたいなものがはじまります。
さらにヘビー級の方もいらっしゃいます。
傍らに次の順番を待っている人がいるなんてことは頭の片隅にもないらしく、自分の話が一段落つくまで決してこれを中断して次の人に譲るなどということはないまま、ただ自分の気が済むまでしゃべりまくります。

診察室でも、そういう高齢者の方の一方的なおしゃべりはとどまるところをしりません。「先生、この前の○×がどうしたこうした…」といった調子からはじまって、病状というよりは主に日常生活そのものをしゃべっているようです。医師のほうでもハイハイといいながら、できるだけ早めに切り上げようとしている気配を感じるのですが、そんなことはまったく通じません。
ときには、医師と看護士の両方を聞き役にして、自分のことを際限なくまくしたてています。やっと終わり、医師が「はい、じゃ、それで様子を見てくださいね」などと云うも、「あっ、そうそう、それと…」といった具合に、ここからまた延長戦です。
ひどいときなどこういう方ひとりのために30分近く待たされたこともあります。

それに耐えて、ついに自分の名が呼ばれて診察室に入ると、いつもの薬がなくなりましたというような場合は、「じゃあ前回と同じでいいですか?」「はい」というやりとりで事は決着。マロニエ君の場合は1分も診察室にいないようなことになり、この差はなんなんだ!?と、まるで自分がひどく損でもしているような気分になってしまいます。
べつに診察室に長く滞在することが得なわけじゃありませんけれども。

それから会計ですが、ここでも先行する高齢者の方の猛烈おしゃべりにブロックされて、窓口はべちゃくちゃ話に占領され、その間のストレスと来たら相当のものになります。病院側も「アナタはお話が長いので、次の方を先にお願いします」とは言えませんから、苦笑いを浮かべながら消極的に話の相手をしているのがこちらにも伝わります。

これで終わりではありません。
次なるは薬局が控えていて、この流れである限り、ずっとこの順番がついてまわります。そこでもまったくひるむことなく、次々に相手を変えながらしゃべりのテンションはまったく落ちません。
本来薬局の受付では、病院から出た処方箋を渡すだけなのに、この場面で、なんでそんなにしゃべることがあるのか、まったく理解の外です。薬の準備ができる間も立ったまましゃべり通しで、薬剤師が薬をいちいち説明をするのに乗じて、またも以前の薬がどうだったけど今度のは…とか、寒くなったらこうなったとか、先生に云ったらこういわれたのはなんでだろうか…というような話が延々と続きます。

それも1分2分ならいいですが、いつ果てるともなくしゃべり続けるのですから、こうなると気分が悪くなってくることもあって、完全に社会迷惑だと断じざるを得ません。
病院の受付からはじまって、自分が薬を受け取って、すべてが終わるまでに小一時間もかかるようで、その間、こちらの神経はイライラヘトヘトで、全身がなんとも収まりのつかない疲れに締め付けられて硬直してしまいます。

いっそ薬局なんだから、精神安定剤のサービスでも追加して欲しいところですが、そんな事があるはずもなく、ただただ「運が悪い」としか云いようがありません。この手の高齢者のスタミナはとてつもないもので敵いっこありません。
どうか、いつまでもお元気で!


2014/02/22 Sat. 01:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

写真登場 

このブログを始めるにあたってひとつ心に決めたことがありました。

それは「決して写真に頼らない、文字だけのブログで行く」というものでした。
文才もないくせして、そんなことを考えたのはまったくおこがましい限りですが、そもそも自分のブログを持つということがマロニエ君にとってはすでに充分おこがましいことでしたので、そのついでというところでしょうか。

しかし、今回ついにその自ら立てた掟を破ることになりました。
なぜならまさに「百聞は一見にしかず」というべきテーマに立ち至ったからです。

CD店にある、フリーペーパーなどが置かれた一角で『ぴあクラシック』の表紙が目にとまりました。ベーゼンドルファーのインペリアルを真上から撮した美しい写真だったのですが、いまさらながらその巨大さが醸し出す魁偉な様にはギョッとさせられ、思わず持って帰ってきました。

あらためて見てみると、ヒトデのような不気味な形状のフレームの下には、途方もない広大な響板が前後左右に容赦なく広がっていることを痛感させられました。
音質については好みや主観がありますが、インペリアルは少なくとも図体のわりには声量がないというイメージがあります。にもかかわらず実際にはこれほどの響板を必要とする、まさに規格外のピアノであることにいまさらながらびっくり仰天です。

そこでスタインウェイDとどれほど違うのか、フォトショップを使って重ね合わせてみることに。
同縮尺にすべく、スタインウェイDの黒鍵を横に半分ほど切り落とし、そこへインペリアルと88鍵を揃えるように重ねました。(当然ながらスタインウェイの黒鍵の最低音はBなので、ベーゼンのAsは半分切れています)

bosen-stein.jpg

どうです?
インペリアルの巨大さ、スタインウェイのスリムボディ、いずれもが一目瞭然です。

ふと思い出されたのは、ピアノではなく、なぜか昔の相撲でした。
一時代を築き上げた横綱の千代の富士は、その圧倒的な強さとは裏腹に、その体躯はどちらかというと小兵力士の部類で、このため「小さな大横綱」ともいわれました。
同時代の巨漢力士といえば小錦で、彼はその目を見張るような巨体をいささか持て余し気味でした。
べつにインペリアルを小錦だと云っているのではありませんが、大きさの対比としてパッと思いついてしまいました。

おそらくこの感じでいけば、インペリアルを3台作る分量の響板で、スタインウェイDは楽にもう1台はいけそうな気がします。むろん使う響板は互いに別物ですけれども…。


2014/02/19 Wed. 01:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

信頼の崩壊 

佐村河内氏の事件に何度も言及するつもりではないのですが、若い頃の彼を知る証言者の言葉の中には、マロニエ君の心にわだかまる、昔のある出来事を思い出させるものがありました。

20代の彼は、ロックにも挑戦したらしく、当時プロデュースの仕事をやっていた男性がインタビューに登場しましたが、佐村河内氏のルックスや名前、背景がおもしろいと感じ、一度は育ててみようかと思われたのだそうです。
ところが言動におかしなところがあれこれあり、これではとても信頼関係が築けないということで、結局その方は手を引かれ、佐氏の歌手デビューも沙汰止みになった由。

その話の中で、大いに頷けるものがありました。
このプロデューサーはむろん業界の人で、そこに連なるお知り合いなどが数多くおられるのでしょうが、佐氏はそういう人達へ、無断で直接連絡を取ったりするというような挙に及んで、大いに不興を買ったというのです。

実はマロニエ君にも以前、似たような覚えがあったのです。ある演奏者に対して、一時期身を入れて可能な限りの協力していたことがありました。
具体的なことは控えますが、それこそマロニエ君にできるあらゆる方面の協力をし、その人の音楽活動を多面的に支えるところまで発展しました。あれほど心血を注いで他人様をサポートしたのは後にも前にもこれだけで、この状態は数年間にも及びました。

その過程でマロニエ君の知り合いなどともお引き合わせすることもありましたが、その方は、順序も踏まずその人達にいきなり自分で連絡をとったりする人でした。当人からの報告もないまま、それを後になって思いがけないかたちで知ることになったりの繰り返しで、なんとも言いがたい嫌な気持ちになりました。

もちろん、自分の知り合いを紹介したわけですから、直接連絡をしてはいけないということではありません。むしろそれがお役に立つなら幸いです。しかし、そこには自ずと礼節やルールというものがあるのはいうまでもありません。

いきなり頭越しの連絡をして相手の仕事にも結びつけ、それが知らぬ間に常態化するというようなことが重なると、しだいに信頼は崩れ、善意の糸も切れてしまいます。
世の中は、それが情であれ利害であれ、要は人の繋がりで成り立っている部分は少なくありません。故にその部分でのふるまいや挙措には、その人の全人格が顕れるといっていいと思います。
芸能界などは、これがビジネスに直結しているぶん、厳しいルールや慣習が確立されているようで、そういう常識を欠いた行動は御法度として即刻糾弾の対象となるようです。

念のためにつけ加えておきますと、マロニエ君はこれっぽっちも損得絡みでやっていたことではなく、いわば趣味がエスカレートした結果の奮闘でした。

こういうことが重なり、その人とのお付き合いはピリオドを打つことにしましたが、これに懲りて、いわゆる「音楽する人」とのお付き合いが、以前のように無邪気にできなくなったのは事実です。
もちろん個人差はありますし、立派な方もいらっしゃいますが…。

要は甚だしい自己中ということです。
そもそも自己中か否かは、自分の言動を社会規範に照らして判断することなので、そもそも社会性が欠如していれば、認識さえもおぼつかない。つまり自覚もない、もしくは頗る甘いために判断も制御も効かないというわけです。
良く言えば「悪気はない」ということになるのかもしれませんが、いざそのときは、そんなことはなんの救いにもなりません。

貴重な社会勉強にはなったと思っています。

2014/02/17 Mon. 02:01 | trackback: 0 | comment: -- | edit

響きを引き出す 

響きすぎの緩和や防音のための工夫の逆が、音を鳴らすようにするためのものです。

ピアノを鳴らさない特性をもつ部屋というのがあり、床が敷き詰めタイプのカーペットであるとか、壁が布地タイプのクロス、あるいは書架などで壁一面が埋め尽くされているなどの場合、ピアノの音はかなり強く吸収されてしまいます。

これは実を云うとマロニエ君宅の環境がそれに該当し、図らずもある程度の防音効果が得られているとも云えますが、とにかくこれらの要素が重なっているために、響くという要素がまるでありません。

ピアノから出た音は、文字通りそのボディから出ている音だけで、それを増幅させるものはなにもなく、鳴ったそばから虚しく消え去るのみ。ピアノ自体の音を聴くにはよけいな響きや色付けがないぶんごまかしが利かず、繊細な調整の環境としてはいいとも云えるかもしれません。
…とかなんとか云ってみても、快楽的見地でいうと、やっぱりそれではいかにもつまらないのです。

そこで数年前のことですが、一策を講じて、ピアノの下に敷くための木の板を買ってきました。
はじめに買ったのは普通の広い合板で、それを響板の真下にあたる床に置きましたが、まあ心もちという程度で、期待したほど効果は上がりませんでした。無いよりはいい…という程度です。

しばらくそれでお茶を濁したものの、やっぱりもう少し効果がほしくなり、同じく合板ですが表面に簡単な艶出し塗装をされている大型の化粧ボードを購入、縦横にカットしてもらって4枚の板切れにしてもらって置いてみました。するとあきらかに音の立ち上がりがよくなるというか、鮮明さが出て、以前のものよりぐっと効果がありました。

このことから、同じ合板でも表面の処理ひとつで音に影響があることがわかりましたし、試してはいませんが、木の種類、あるいは石やガラスなど、それぞれに響きの違いがあることが予想でしました。

この艶出し塗装をされたボードを床に敷いていたところ、調律に来られた技術者さんから思いもよらない秘策を授けていただきました。マロニエ君としては響板の真下にということで疑いもせずペダルと後ろ足の間に置いていたのですが、それをもっと手前に置いたほうが効果的だというのです。具体的には、ペダルよりも前、鍵盤の真下ぐらいまで板が出てきた方が良く響くというものです。
その技術者さんが言うには「自分の足元より手前まで板を引き寄せる」ところがポイントだとか。

ならばというわけで、さっそくボードを手前に50cmほど移動してみると、なんとアッと思うほど音に輪郭と鮮烈さが加わりました。これはボードをより手前にもってくることで、反射する音が弾く人の耳によりストレートに立ち上がってくるのだろうと思います。

したがって離れて聴いている人の耳にどう変化しているかは未確認ですが、ともかく弾いている当人は、音にキレと輪郭が加わり、弾きごたえが出て断然愉快になりました。

この結果からいえば、ペダルより後ろにボードを置くと、音はある程度反射していると考えられますが、それが奏者の耳に達するには、足元周辺のカーペットなどが尚も邪魔をしているのだろうと思われました。尤も、部屋全体の響きという点では話は別ですが、これは少なくとも奏者がその効果を楽しむことができるという点では絶大な効果がありました。

スピーカーの音調整しかりで、こんなちょっとしたことで思いもよらない変化が起こるのですから、なるほどおもしろいもんだと思いました。

こういう体験してしまうと、それに味をしめてまたあれこれとやってみたくなるものです。

2014/02/15 Sat. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

響きを抑える 

ピアノを自宅その他に据える場合、その部屋の環境によって同じピアノの鳴り方がさまざまに変化するのは周知の事実でしょう。

部屋の広さや形状はもちろん、壁の材質、家具との関係などに左右され、厳密にいうならひとつとして同じ環境はないとも云えます。これを一括りに論じることは不可能で、まさに現場対応の分野だろうと思います。

床がフローリングなど堅い素材の場合は、どうしてもカンカンと固めに響いてしまう場合があるようですし、これも単なるフローリング材と本物の木(さらにその種類)の床でかなり違うようです。

また、音への配慮は、純粋に音質・音量の問題だけでなく、近隣への騒音対策として意図的に響きを抑えるという処置を講じられることが現代は非常に多いようです。
その第一歩といいますか、最も基本的なものではピアノの前足と後ろ足の間にあたる床部分にカーペットを敷くことで音を吸収させるというのが一般的です。これで絶対的な音量が劇的に変わるということはありませんが、音の角が取れるという点で、ひとまずまろやかさを出すということかもしれません。

グランドの場合、響板が水平なため音は上下方向に強く出るという性質があり、上にはいちおう開閉できる大屋根がありますが、下は響板の下には支柱と呼ばれる木の梁が伸びているだけでとくにフタのようなものはありません。下から覗けば響板は外部にむき出し状態ですから、大屋根を閉めていれば、あとはここから出る音が最大のものでしょう。アップライトでは背後が同じ状況。

音質や響きの調整の意味で、まずはピアノのお腹の下の床に小さめのカーペットを敷いてみるだけでも、音の響き方はガラリと変わります。それを状況に応じて順次広げていくとか、素材を変えてみることで、いろいろな工夫ができますので、その経過で自分の好みの音がでる素材やサイズを探っていくのも面白いものです。

しかし、これが防音ともなると、やることの目的もレベルも一気に変わりますから、こちらの対策はいっそうハードなものになりますし、究極的には二重窓や防音室ということに行き着くのでしょうが、そこまでのコストはかけずになんとかしたいという人がほとんどだと思います。
知人にもマンションでグランドピアノを置いている方が何人かいらっしゃいますが、その防音の方法はさまざまで、みなさんいろいろと工夫してご近所に気を遣っておられるのがわかります。

また、防音効果を謳ったカーペットやカーテンなども市販されているらしく、それを使って階下への音を和らげようと役立てておられる方がありますが、実際に防音カーペットというのはどれ程の効果があるのか、できればその違いを自分の耳で確認してみたいものです。
そうはいうものの、防音カーペットの効果がどれほどのものか、通常のカーペットとの比較など実際問題としてできないのが実情で、どうしても未確認のまま購入ということになるようです。

ただ、この手合いはお値段のほうも意外に安くもないようで、やはり費用対効果という点では実際の「性能」を知りたいという方は多いと思います。

もっとも効果的な方法としては、アップライトピアノの防音によくある背後を専用の吸音材のようなもので覆ってしまうのと同じで、グランドの場合もこのお腹の下の部分を板や吸音材などで塞いでしまうと、音は劇的に抑えられるようですから、どうしても一定の防音効果が必要な場合はこれは最も効果的だと思われます。

この理論で、より丁寧な作り込みをして、メーカー自ら製品化したのがカワイのピアノマスクで、お腹の下はもちろん、その他の音が漏れ出る箇所を細かく塞いでしまう特注ピアノで、その圧倒的な効果に驚いたことがあります。体感的には「音量は半分以下だろう」という印象でした。
しかも、下部は換気窓のように開閉できるようになっているので、任意に調節できるという点も便利なようです。

ただし、これは本来朗々と鳴らしたい楽器の音を、敢えて押さえ込んでしてしまうというわけで、ピアノには可哀想なことをするようですが、現実の社会生活に於いてはピアノが中心というわけにはいきませんから、近隣への配慮という観点からすればやむを得ないことでエゴは許されません。

できることなら、楽器にではなく、部屋のほうに防音室に迫るぐらいの吸音効果のある対策が、現代の高度な技術を持ってすれば、もっと簡単・安価にできないものかと思います。

2014/02/13 Thu. 01:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

愉快と不愉快 

このところマスコミを賑わした佐村河内氏の事件は、彼が注目されるきっかけになったNHKスペシャルを、途中からですがマロニエ君も偶然見ていた経緯もあって本当に驚きました。

曲は番組内で流れるもの以外には聴いたことがなく、もちろんCDも買っていませんので、例の交響曲も通して聴いたことはありませんが、そもそもマロニエ君はあの手の副題が付いた類の、感動を半強制されるような曲は苦手なので、あまり興味は持っていませんでした。

ただ、今回の事実が発覚した後に出てきた情報によれば、青年時代までの彼は音楽とはおよそ無縁の生活を送り、高校の友人によれば当時からかなり目立ちたがり屋で大言壮語の癖があったとか。将来は役者志望だったそうで、なるほど「現代のベートーヴェン」という壮大な人物を演じきっていた「役者」だったんだなぁと納得しました。

こういう事件はむろん社会的には許されざることですが、誤解を恐れずに云うならば、マロニエ君にとって、週刊誌的ネタとしては甚だ面白く、大いに興味をそそる事件であったのも事実です。
詐欺詐称のオンパレードで、NHKはじめ各マスコミ、プロのオーケストラや音楽家、そのチケットやCDを買って涙する人々など、いわば世間をペテンにかけてしまった手腕には驚くほかはありません。はやく再現ドラマのひとつでも作ってほしいような、そう滅多にはない事件でした。

思い出しても笑ってしまうのは、さる音楽学者という人が、この交響曲のスコアを分析して、ひとつひとつの根拠を示しながら、これ以上ないという最大級の賛辞を惜しみなくならべ、大絶賛を送っていた様子などを思い出すときです。

マロニエ君もまさかこんな壮大な茶番とは思わなかったものの、ヴァイオリンの演奏を間近に聴くシーンで、弾いている女の子の体の一部に指先を添えて「その振動で聴いている」というのは、ちょっと不思議な感じがしました。

もちろん関係者は大変でしょうけれど、野次馬の一人としてはずいぶん楽しめました。

これとは逆に、笑えないばかりか、見ていてちょっと嫌な感じがしたのは、テレビでお馴染みの知識と知性を看板にしたコメンテーターの男性M氏でした。
「自分はこの人の曲を聴いたことがなかったけれど、この問題が起こってから聴いた。すると、申し訳ないけれど、後期ロマン派のマーラーにそっくりだということはすぐにわかったし、(別の曲では)バッハに似ているところがあるなど、聴く人が聴けば、どこにもオリジナリティというものがないことがわかるはず。それを検証もしなかったマスコミの軽率にも問題がある」というような意味のことを、いつもの偉そうな、自分は何でもお見通しという調子で、首を振りながら滔々と語っていました。

さらに驚いたことは、この「マーラーに似ている」という指摘は、そもそも日本フルトヴェングラー協会の野口さんという方が昨年の新潮45に書かれたものだそうで、ご本人が別番組に出演されておっしゃっていたことですが、M氏はそれにもいちおうは触れておくことも忘れず「新潮45に書かれた専門の方も私とおなじことを言っているようですが…」と、さりげなく言及。自分は音楽を専門としていなくても一聴すればその程度のことはパッと分かるし、現にそれは音楽の専門家が言っていることと見事に一致しているようだと云いたいようでした。
しかし、これはあまりにも苦しいこじつけにしか聞こえませんでした。

マロニエ君の印象では、マーラー風というのも言われればあの仰々しさなどそうとも思えますが、フィナーレなどは映画音楽的でもあったし、大河ドラマ風でもあったような覚えがありますが。

いつも時事問題に鋭い知性のメスを入れてコメントするというのがこのM氏のウリですが、要は知識こそがこの人の命のようです。しかも、この人の口から音楽に関する話を聞いたのは初めてでしたが、正直いっていかにも板につかない急ごしらえの発言という感じで、そうまでする果てしない自己顕示欲には、さすがにやりすぎの印象は免れませんでした。
この人はある程度は明晰な頭脳の持ち主かもしれないけれども、なんでもこの調子で、予定されたテーマを急いで調べて、読みかじって、集めた情報を頼りに、それをさも深い知識と見識から出てくるコメントであるように恭しく聞かせるというのが、カラクリとして見えてしまったようでした。

このときの、この人から受けた言いようのない不快な印象は、佐村河内氏と同じとは云わないまでも、そう遠くもない類似の種族ではないか…というものでした。

2014/02/11 Tue. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

紘子さんのお宅 

先月の下旬だったと思いますが、民放のBSで中村紘子さんへのインタビュー番組が1時間ほど放送されました。

港区の古くからある高級マンションに彼女の自宅があり、マロニエ君が東京に居た頃からずっと紘子さんはここにお住まいで、わりにお近くでしたからしばしば近くを車で通っていたものです。

実は紘子さんのご主人が大のクルマ好きで、その関係から一度ご自宅へご一緒しましょうか?というお話がありましたが、ある意味興味津々でもあるけれど、なんとなく抵抗もあってグズグズ決断しきれないでいるうちにタイミングを逸して、その話も立ち消えになってしまいました。

ちょっと残念なような、まあそれでよかったような、当時はそんな気分でした。

番組では女性リポーターがこの高級マンションのご自宅を訪問するという趣向で、エレベーターのすぐ脇に玄関ドアがあり、それを開くとあの紘子さんが登場、笑顔で出迎えます。中へと招き入れられ、カメラもそれに続いてお宅の中へ潜入していきます。

玄関を入るなり、とにかく目につくのは、あちらにもこちらにも、たくさんの花々が活けられていることで、まるでなにかの会員制クラブのような雰囲気でした。この色とりどりの花々にとり囲まれた空間というのも、多くの人が中村紘子さんに抱くある種象徴的なイメージのひとつなのかもしれません。

いつも雑誌やテレビで見る、後ろにスタインウェイの置かれたお馴染みのリビングの他に、今回は特別サービスなのか防音設備を整えた練習室にもカメラが入りました。そこは紘子さんのいわば道場というべきスペースで、さすがにストイックな感じがあり、いつもここでさらっていらっしゃるのだそうです。

さて、インタビューの具体的な内容に触れても仕方がないので、ここでは映像からマロニエ君なりに目についた枝葉末節の、甚だくだらない印象を述べますと、意外だったのはピアノの前に置かれた椅子でした。
中村紘子さんは昔からコンサートでは決してコンサートベンチではなく、決まって背もたれのあるトムソン椅子が使われます。しかもそれを子供の発表会のように目一杯最高位置まで引き上げて、座るというよりは、ほとんどその前縁にお尻をちょこっと引っかけるようにして「全身で」ピアノに向かわれますから、よほどこの椅子がお気に召しているのかと思っていました。
ところがご自宅リビングのピアノの前には今流行のガスダンパー式のベンチが置かれ、さらにその脇には、通常のポールジャンセンのコンサートベンチもあって、普段はこれらをお使いだというのが察せられました。
どうやら、あのトムソン椅子は紘子さんのいわば本番用「勝負イス」のようです。

また、いつもお馴染みのリビングのスタインウェイはこれまでにもほとんど全身が映ることはなく、鍵盤付近のロゴが見えるアングルが固定ポジションのようで、この場所から紘子さんがいろいろなコメントを発するのがお定まりのかたちでした。そのピアノの足の太さから察するに、てっきりD型だと思っていましたが、最後の最後にほんの一瞬映ったピアノの全景によるとC型だったのはなんだかとても意外でした。ちなみにDとCは同じ足で、B以下が細くなります。
普通はDではない場合は定番のB型になるのがほとんどですから、Cというのはまたオツなチョイスです。

練習室もスタインウェイでしたが、こちらは艶消しで、おそらくはリビングにあるものよりも古いピアノだろうと思われました。こちらもサイズ的にはBかCのようでしたが、わずかなカメラアングルからは決め手が得られず、どちらかまではわかりませんでした。

今回最も印象的だったのは、さしもの中村女史も発言がずいぶん丸くなっていることで、この方からやや枯れた感じを受けたことは初めてでした。以前だったらとてもこういう言い方はされなかっただろうと思えるところがいくつもあり、ずいぶんと落ち着いた、どこか平穏な感じがしたのは、ああ中村紘子さんも歳を取られたのだなあと思います。
むろん、それだけ自分もまた確実に歳を取っているということでもありますね。

2014/02/08 Sat. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

娯楽の倒錯 

それが今どきの世の中のニーズなのか、はたまた別の理由からか、そこのところはわかりませんが、このところのテレビで取り上げられる「病気」に関するネタが多いのには辟易させられてしまいます。

この傾向はいつごろからだったかと思いますが、間違っていなければ『あなたの知らない…』とかなんとかいう番組あたりがきっかけだったのではと思います。

はじめのころ、ためになるような気がして何度か見た記憶がありますが、まったくのデタラメとは云いませんがが、ほとんど偶発的な一例にすぎないような事象が脅迫的に取り上げられ、すべての人の身の上におこる可能性があるという調子で話は進み、スタジオに陣取った芸能人達も異様に恐れおののいて見せるものだから、視聴者としては際限のない不安に煽られっぱなしというものです。

しかし次から次へと内容は拡大し、これをいちいち鵜呑みにしていたら、とてもじゃありませんが普通の生活なんて送れません。
もちろん、自己管理の基本として心得ておくべき医学の常識程度なら必要ですが、あまりにそれが多岐に渡って注意々々の連続ではやってられないし、却って最低限の心得まで投げ出してしまいそうになります。

そもそも「可能性」ということになれば、人はそれぞれ生活環境も異なれば体質もそれぞれで、あまり執拗にそこをつつかれても、果たして自分の身体に有効な情報かどうかも疑わしい。
おまけに医学的研究は日々進化していて、それに基づく学説にも諸説混在して、以前の常識や定説が一夜にして覆されたりと、この点でも極めて不安定だということも忘れるわけにはいきません。

ともかくもこのようにして、スタジオに各専門の医師を呼んでは再現VTRを流して人々を脅してまわるのは、番組作りにも抑制と見識が必要で、健康管理の美名のもとに視聴者の不安を弄んで視聴率を取るのだとしたら甚だしい悪趣味だと思います。

これよりもさらに悪趣味きわまりないのは、仰天ニュースやアンビリバボーのたぐいです。
これらはほぼ類似の番組ですが、毎回取扱うテーマが異なり、世界の珍事件や魔性のオンナ、天才詐欺師の半生など、以前はそこそこおもしろい内容があるので暇つぶしに見るために録画設定していました。

ところが、最近やたらに多いのが「病気ネタ」で、中でも目を背けるのは「難病奇病に取り憑かれた子供」などを美談という逃げ道を作りながら、その病気に苦しむ人々の凄惨な様子を容赦なく写しまくりで、大半が密着取材&再現ドラマで、どうかうすると番組全体がそれひとつで終わってしまいます。

見るに耐えないような恐ろしい病気に蝕まれて苦悶している人や子供の様子を、その患部を含めてテレビカメラがこれほど追い回すこと、しかもそれが娯楽番組によって放送されるということに、マロニエ君は強い違和感を覚えるのです。

取材される側は、いろいろな事情もあって納得してそれに応じているのかもしれませんが、少なくとも放送のスタンスとして、この現状をなんとか改善に向けるための問いかけというより、ほとんど視聴率獲得のためのネタとしての扱いでしかなくのは驚くべき事です。

そのいっぽうで、現代は、ちょっとした発言ひとつが問題になり、追求を受け、責任を問われるという意味では、番組出演者もうかうか自分の考えも述べられない現状があるのも事実です。視聴者からクレームがつき、スポンサーからクレームがつけば事の是非を問うことなく、問題発言は削除され、その人は番組を降ろされるという構図が横行しています。

そうかと思えば、こんな悲惨な病気の話ばかりを娯楽番組が全国放送でお茶の間に垂れ流すのは、倫理的にも何の問題もないのか…今の世のルールというものがどうなっているのか、マロニエ君にはまったく見当もつきません。
早い話が、娯楽番組は潔く娯楽に徹するべきで、難病奇病がレギュラーネタとは、娯楽の在り方があまりに倒錯的すぎはしないだろうかと憂慮の念を禁じ得ません。


2014/02/06 Thu. 01:46 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ワクワク? 

最近は郊外のドライブスポット「道の駅」に代表されるような、各地域の物産などを扱う集合直売所のような形態がずいぶん流行っているようです。

友人から教えられて、いわゆる「道の駅」ではないものの、ほぼそれに近いもので話題の店があるということを聞きました。しかもそこはこのスタイルの店舗としてはなんと全国一の売り上げを誇っているとかで、さぞかし新鮮な食材が山積みなのだろうと思い、先週末行ってみました。

マロニエ君宅から車で1時間ほどかかる田舎の幹線道路の近くにそれはあり、やはり行ってみるとそれなりに遠いなぁという印象は免れません。なるほど大きな建物、広い駐車場など、期待を抱きながら車を止めていざ店内に入りました。

しかし、結果から先に云うとまったくマロニエ君好みの店ではありませんでした。
もともと低血圧で、午前中から外出するということが嫌なマロニエ君としては、どうしても昼食後の出発になり、到着したのは3時をまわっていましたが、肉魚などの生鮮品は大半がなくなっており、あちこちのケースにはかろうじてぽつぽつと売れ残りがある程度で、なんだこれは!?という状況でした。

野菜などはまだいくらかありましたが、いずれにしても完全にここのゴールデンタイムは過ぎ去った後の残りカスといった風情です。
一気にシラケて、普段ならそのまま店を出るところですが、せっかくそのために時間を費やし、ガソリンを使ってせっせとやって来たわけですから、せめて何かを買って帰ろうと無理にあれこれ探し回って、とりあえず不本意ながらカゴ一杯の買い物をするだけはして店を後にしました。

そこでマロニエ君の印象を総括すると、多くの生産者がそれぞれの商品を持ち寄って売っているために、商品の種類や量に一貫性がないこと、売れ残りを嫌ってか、全体のバランスから云うと肉魚のスペースが小さく、野菜などの農産品がむやみに多いようです。
さらに感じるのは、田舎の直売と聞くといかにも新鮮で安いというイメージを抱きがちですが、鮮度はどもかく、値段は決して安くはないということです。

この点に関しては田舎とか地元だからという配慮は皆無で、まさに街のド真ん中と同レベルもしくはそれ以上の強気の価格設定で、まずはがっかりしましたが、考えてみればこれは実はよくあることなのです。

田舎の皆さんが商売をされるときの多くは、都会の価格を参考にされるのか、それと同等の価格設定にしてしまうことですが、利用者にしてみればそんな遠くまで行った挙げ句、街中と同等の値段であればちょっと説得力がないように感じます。生鮮品の価格というのは、産地から消費地への輸送費はじめ、様々な経費がかかってはじめて算出されているもの。

いかにも本来なら業者に支払うべき中間マージンをそっくり自分達の儲けにしているという印象が免れません。スーパーやデパートは、多大な設備投資、人件費、税金、宣伝費など膨大なコストがかかる中で、さらに厳しい価格競争にもさらされ、売価は緻密に定められたものですが、そういう途中経過ぬきに同等の数字だけをもってきた印象です。

ぜんぜん安くないと首を捻っていたら、偶然、ある日の朝刊にここの記事が大きく採り上げられていて、「価格はスーパーより高い」ということがはっきり書かれていました。
それでもお客さんは、生産者が持ち寄る野菜などが日によって違うため「今日は何が出てくるか」というようなことをワクワクしながら楽しみに来ているのだとか。ということはお客さんも比較的ここの周辺在住の方が主流じゃないのかと思われます。

なんとなくよくわからない世界ですが、これはこれで不思議に成り立っているようです。
近ければまだしも、苦手な早起きをし、往復2時間のドライブをしてまで、日替わり野菜を求めてワクワクするなんて、とてもじゃありませんがマロニエ君にはできそうにありません。

2014/02/04 Tue. 01:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ピリオド調律? 

最近のN響定期公演ではロジャー・ノリントンの指揮が多いようです。
彼の得意なベートーヴェンのみによるレオノーレ第3番、ピアノ協奏曲第3番、交響曲第5番というプログラムの演奏会の様子が放映されました。

ピアノはラルス・フォークトで、ノリントンの要求によりこの日もピアノはオーケストラの中に縦に押し込まれ、フォークトは客席に背中を向けるかたちでの演奏となりました。

この日の映像で目についたのは、NHKホールのステージ奥には縦長の巨大な反響板とおぼしきものが5枚立てられていることで、これによってオーケストラの音は一気にクリア感を取り戻し、同時に空間に抜け散ってしまうパワーも以前に比べるとだいぶ出ていたように思います。

とくにステージ奥に横一列に並んだコントラバス群がその反響板の恩恵に与っているためか、低音のずしりとした響きが加わって、レオノーレ第3番ではおやっと思うほどの効果が出ていたようでした。

続くピアノ協奏曲第3番では、長い序奏に続いてピアノがハ短調のスケールで力強く入ってきますが、ここでいきなり肩すかしを喰ったような印象を受けました。
単純に言ってしまえば、まるでピアノが鳴っていないかのような音で、はじめはマイクの位置の問題だろうかとも思いましたが、どうもそうではない。そもそもスタインウェイの平均的トーンすら出ていないし、カサついたまるで色艶のない音には違和感ばかりが先行しますが、ほどなくその理由がわかったような気がしました。

あくまでもマロニエ君の想像の域を出ませんが、ノリントンのピリオド演奏の様式に合わせるように、ピアノもフォルテピアノ的なテイストを与えるべく、意図的にそのような調律がされているのだと理解しました。
同時に、調律でそこまでのことができるという可能性にも感心して、ある種の面白さも感じなくはありませんでしたが、とはいっても、とても自分の好みではないことは紛れもない事実でした。

そこまでするのであれば、いっそ本物のフォルテピアノを使うべきではないかと思いますし、テンポやピリオド奏法や解釈など、作曲当時の諸要素に徹底してこだわるというのであれば、当然ながら会場のサイズにも配慮が必要で、ベートーヴェンがNHKホールのような巨大ホールをイメージしていたとは到底思えません。

枯れた弱々しい伸びのない音を味わいだと云うのであればあるいはそうかもしれません。しかし、一方では骨董的な甚だ貧相な音にも聞こえるわけで、どうにも消化不良気味になるという側面を持つのも事実だと思います。さらに大屋根を外しているので音は上へ散ってしまい、せっかく立てられた反響板もピアノにはほとんど役に立っていないようでした。
いろいろな試みに挑戦することは創造行為に携わる芸術家として見上げたことだと思いますが、結果がある程度好ましいものに到達できていなければ、やっている人達の自己満足のようで、幅広い意味を見出すことはできないのではと考えさせられてしまいました。

ノリントンの好みや方法論によれば、協奏曲でも独奏楽器とオーケストラが融和し一体となって音楽を作り出すことのようで、それは大いに結構なことですが、だからといってピアノ協奏曲に於けるピアノの音がオーケストラの中へ埋没したように音が弱く、p/ppでは聞き取ることさえ苦労するようでは、一体化もいささか行き過ぎではないかというのが正直なところでした。

フォークトの演奏は、基本的なものがしっかりしている反面、ディテールの表情に恣意性と誇張がみられ、音楽が自然な流れからしばしばはみ出すようで、聴いていて心地よく乗っていけない部分があるのが残念だと感じました。

2014/02/02 Sun. 01:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit