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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ピアノポリッシュ 

車の艶出し剤のことを書いた流れで思い出しましたが、昔からマロニエ君はピアノの付属品の中に必ずといっていいほど入っている定番商品──ピアノユニコンはどうしても上手く使いきれず好きになれません。

ユニコンという言葉の意味が調べてみてもいまひとつよくわからず、なんとなく成分がシリコンなのかもしれないと思ってボトルを見てみると、案の定、成分表示に「シリコンオイル/非イオン界面活性剤」と記されています。
「汚れや手アカを落とし、つきにくくすると同時に艶を出す」という効果を謳っているので、表面の滑りを良くして輝きを出すという目的からシリコンオイルという判断なのかとも思いますが、能書きはどうであれ、要するに使ってみてこれほど使い方が難しく、仕上がりに満足できないものはないというのが昔からの印象でした。

白い液体を柔らかい布地に含ませてピアノの塗装面に塗り広げるものですが、自分で云うのもおかしいですが、洗車マニアでならしたマロニエ君としては、自分なりの磨き技術を駆使してやってみるものの、どんなに丁寧に拭き上げようと努力しても、あちこちに油性のムラが無惨に広がるばかり。これを無くそうとすると、延々とこの液体を塗りまくってムラを埋めていくことになりますが、結局は油性のベトついたイヤな部分が増えていくだけで、本質的な解決には至りません。

感触もギシギシした油っぽいもので、艶もオイルを浸透させることで得られるコッテリ系のもので、品位のある美しさとは程遠い印象です。
ピアノの表面は斑の艶に覆われ、かえって薄汚れたような感じになってしまいますから、これだったら単純な水拭きか、艶が出したければ自動車用ワックスでもかけたほうがまだいいような気がします。

こういうわけで、メーカーなどから販売されているピアノユニコンの類は一切使わないできましたが、昨年たまたまこのピアノユニコンの新品をいただく機会があり、さすがにもう時代も変わって改良されているだろうという期待を込めて恐る恐る使ってみると、果たして結果はまったく変わらずで、なにひとつ進歩していないことに愕然とさせられました。

車の塗装面のケア剤が日進月歩で驚くばかりの高みに達している事実に比べて、メーカー推奨のピアノユニコンは旧態依然としたものを作り続けているようで、そもそも大半がサービスでつけるだけのピアノ磨き剤なので、より良い品を開発しようという意志も意欲もないということなのか…。

それにしても不思議なのは、実際にこれを使った人達からよくまあクレームがつかないものだということです。とりわけ新品ピアノを購入されたお客さんなどは、真新しい一点の曇りもないピアノにこの艶出し剤を塗りつけることで、直前までの完璧に美しい均質な塗装面は、油による艶とも汚れともつかないような斑状態に変化してしまい、ショックじゃないのだろうかと思います。

その点では、車関係のケア剤は遥かに良品が揃っていますが、これをピアノに応用することは一応目的外使用になるので、自己責任でおやりになる方以外、やはりこういう場でのおすすめはできません。

そこで「ピアノ用」としてマロニエ君が知る唯一の合格点アイテムは、以前も少し書いた覚えがありますが、ソフト99から発売されている『ピアノ・家具・木製品 仕上げ剤』という商品で、これはホームセンターなどで500円ほどで売られているものです。
歯磨きのようなチューブに艶出し剤が入っていて、それを柔らかい布でうすく塗って、さらに着古した下着(メリヤス生地)などで拭き上げていくものです。

これはピアノユニコンとはまったく別次元の美しい仕上がりで、そのための特別な技術も必要とせず、ムラもほとんど出ることなく、どちらかというとクルマのコーティング剤に近い使い方と仕上がりだと思います。
おまけに艶にも節度があってこの点も好ましいものです。そもそもピアノの艶の美しさはやや控え目なものでなくてはならず、むやみに油性系のぎらつきを与えてオートバイみたいに自慢するようなものではないというのがマロニエ君の好みです。



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2014/01/31 Fri. 01:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

端正と解放 

日曜は、「日時計の丘」という瀟洒なホールがシリーズで開催している、バッハのクラヴィーア作品全曲連続演奏会の第4回に行きました。

演奏はこのシリーズを初回から弾き進んでおられる管谷怜子さんで、今回はフランス組曲の第4〜6番、トッカータのBWV913、914、912。
冒頭フランス組曲第4番の開始早々、予想外の静けさとたっぷりしたテンポは意表を突くもので、ハッとさせられましたが、すぐにこれは熟考されたものであることが了解でき、たちどころにこの日の音楽世界にいざなわれます。

まるでこの日のコンサート全体の幕が、この悠揚たるアルマンドの提示によって静かに上がっていくようで、こういう出方をされると、いやが上にもこれから始まる音楽への敬意と期待で胸が膨らみます。

管谷さんの特徴は、まったく衒いのない表現が、澄みわたる完成度をもって聴く者の心に直に響いてくることだと思います。思慮に満ちた端正なアプローチでありながら、その演奏は常にのびやかに解放されており、決して型の中だけで奏でられる小柄な音楽ではないことは特筆すべきことです。

とりわけ弱音の美しさとバランス感覚には目をみはるものがあり、どんなにピアニシモになっても音の肉感が損なわれず、音楽の実相がまったく弛緩することがないため、繊細な部分ならではの音楽の豊かさを感じる喜びに満たされます。そして必要とあらば圧倒的な推進力をもってその演奏が勇躍するさまは感銘を覚えずにはいられません。

フランス組曲では、各舞曲が決然としたテンポ設定で弾きわけられているのが印象的で、良い意味で前後影響し合うことなしにそれぞれが独立しながら隣接しており、だからこそ組曲としての端然とした姿が描き出されていることを実感できました。

トッカータでは、デリカシーとドラマ性、潔さと苛烈さが的確に機能して、若いバッハのほとばしるエネルギーを赤裸々に皮膚感覚で体験するようでした。

アンコールはカプリッチョ「最愛の兄の旅立ちにあたって」。

ピアノはこの会場の1910年製ブリュートナーですが、104歳にしてますます音の重心が座って色艶を増してきており、決して大きくないボディから朗々たる美音が放射されて会場の空間を満たすのは驚くばかりです。
専門家の中には、したり顔で「ピアノは弦楽器と違って完全な消耗品、せいぜいン十年が寿命です」などと断じる人がいますが、ぜひこういうピアノを聴かせてみたいところです。枯れた音色を消耗した音だとみなすなら、ストラディヴァリウスでも消耗品で、決して未来永劫のものではありません。

マロニエ君は古いディアパソンを購入してからというもの、新しいピアノに対する興味が減退する一方で、このような佳き時代の、馥郁とした温かさとパワー、人の情感に寄り添うような多彩な表現力をそなえた「楽器」を感じるピアノがこれまでにも増して魅力的に映るようになりました。
この魅力の前では、多少の鳴りムラや些細な欠点など問題ではありませんし、味のない機械的な音がいくら均質に揃っていてもそこに大きな価値があるようには思えないのです。

それだけ自分が歳をとったということかもしれませんが、やっと身をもってわかってきたような気がします。

2014/01/28 Tue. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ゼロウォーター 

前回の続き。
拭き取り不要のコーティング剤を比較するサイトなどを参考にさせてもらって、ひとつの結論に到達しました。

シュアラスターのゼロウォーターという製品で、このメーカーは自動車用ワックスメーカーの中では老舗中の老舗で、むかしからその品質には定評がありました。
これは自動車大国アメリカの製品で、これに追いつけとばかりに日本製にもいろいろと優秀な製品があらわれたものの、この分野でのシュアラスターのトップの座は揺るぎませんでした。

そのうちに、ワックス一辺倒の時代からコーティングが主流となる時代が到来しますが、そのつどシュアラスターも時代の要請に応じた製品作りをしてきたようです。
そのシュアラスターが送り出した拭き取りの要らないコーティング剤が「ゼロウォーター」というわけで、メーカーも自社の威信をかけて開発した製品だろうと思われます。

使い方はごく簡単で、車を水洗いして水分を拭き取る際に、このコーティング剤をシュッとスプレーし、付属のウエスで拭き上げていくだけです。しかも使用量は50cm四方にワンプッシュとあり、しかも作業が簡単なことは、これまでの洗車の常識からすればウソじゃないかと思ってしまうレベルで、クルマの艶出し作業に於ける、あまりのドラスティックな変革に感覚が付いていけない感じでした。

しかもスプレー式のノズルからは発射される液量は少なめで、さすがに耐えられなくなってそれよりも余計に使ってしまいますが、いずれにしてもこんな呆気ない作業というか、そもそも「作業」と呼ぶのも憚られるような施工で、本当にコーティング効果が得られるものなのか甚だ疑問でした。

ともかく一通り全体にこの作業を施して、そのあとはガラス磨きの仕上げなどをやって、ふともう一度車を見ると、!?!?、たしかにボディがひとまわり輝いていることがわかりました。
それは昔のワックスとも、各種コーティング剤とも違ったタイプの輝きで、皮膜の厚みは感じませんが、もっと底からカチッと光る状態になっており、これはすごい!と思いました。

しかも従来のワックス/コーティング剤とは桁違いの安楽な使用法が最大の特徴でもあり、洗車の度に、水滴の拭き上げのついでのような形で重ね塗りができるので、たちまちゼロウォーターに乗り換えてしまいました。

さて…。
実を言うと、マロニエ君は昔から車のコーティング剤などの中から、これは!と思えるものはピアノにも応用して、それなりの効果を確認してきた面がありました。
中にはピアノ専用などと謳われているものより遥かに優れたものもいくつかあり、長らくピアノのポリッシュなどは買ったためしがないほどこれで間に合っていました。

というのも、車の塗装のほうがある意味ずっと繊細かつデリケートで、その点ではピアノの塗装はがっちり分厚く、塗装というよりはほとんど黒もしくは透明のプラスチックでコーティングされているようなものなので、こちらのほうがよほど頑丈のように感じます。

この分厚いチョコレートみたいな塗装こそがピアノの音色を大いに阻害している面もあるようで、純粋に音だけでいうなら塗装を全部剥いでしまったほうが遥かに軽やかでナチュラルで柔らかな響きが得られるはずです。そういう意味では、とことんピアノの音にこだわり、そのためには何事も厭わないというのなら、ピアノの塗装を全部落としてしまうといいと思います。

話が逸れましたが、このゼロウォーターをピアノに使ってみるか否か、それを思案しているこのごろです。

2014/01/25 Sat. 01:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

拭き取り無し 

少し前の事ですが、友人と電話でしゃべっていると、洗車に関して新情報が寄せられました。

マロニエ君はむかし、ちょっとした洗車マニアだったのですが、さすがに最近ではそれを発揮することも激減し、ごくたまに仕方なく車を洗っているに過ぎません。
ちなみにマロニエ君は、身についた愛車精神の観点から、いかなることがあっても洗車機に車を突っ込むというようなことはしませんから、この点だけは今でも洗車=自分での手洗いを貫いています。

むかしは洗車後はワックスをかけるというのが、いわばこの道の常道で、ワックスのかけ方にもさまざまなワザやノウハウがあったものですが、時は流れ、そのうちコーティングの時代がやってきます。

ワックスでは文字通りのカルナバロウでできた固形物を塗装面に薄く塗り、まさに今だというタイミングで拭き上げて深い艶を出すのが目的でしたが、コーティングの時代になると仕上がりの美しさと同時に塗装面の保護という意味合いを帯びてきて、ただギラギラ光らせて喜ぶ時代から、その目的も複合的なものへと変わって行きました。

マロニエ君にも長年の経験から、これだと決めているコーティング剤があって、もうずいぶん長いことこれ一筋でしたが、このところ新製品にはすっかり疎くなっていました。

ところが、友人の情報によると、もはやその手のコーティング剤は使っていない由で、いま流行の「拭き取り無し」タイプを使っているのだそうで、これが話によるとなかなか良さそうで、聞くなり試してみたくなりました。

もともとマロニエ君は、「カーシャンプーと同時にワックス効果がある」とか、「水洗いナシで汚れを落として艶を出す」などという便利型の製品は、自分の経験からろくなものがなく、要するに妥協の産物だということを知っていましたから、この手の拭き取り無しタイプもてっきりその手合いだと思い込んでいて、存在だけは知っていましたが、まったく見向きもしていなかったのです。

しかし、考えてみると使いつけのコーティング剤もまだ販売はされているものの、既にずいぶん古い製品ですから、世の中の他のジャンルの発展ぶりを考えてみても、この分野とてかなり進化していても不思議はないと思われました。

洗車で最も大変なのは、ワックスにしろコーティング剤にしろ、その拭き取り作業にあるわけで、時間もかかり、それなりに集中力と体力を要し、ただやみくもに頑張ればいいというものではなく適正な技が要求される作業で、これを満足に仕上げるのはなかなか大変です。そこが洗車の醍醐味だといえばそうですが、かといってその大変な労力が激減されるのであれば、やはり今の自分には魅力だとも思いました。

友人はマロニエ君が(かつての洗車マニアなので)満足するようなものではないかも…と言いながらも、その製品名などを教えてくれて、久しぶりにすっかりその気になり、いそいそとカーショップへ赴きました。

ところが、店頭には同種の製品があれこれと並んでおり、友人が使っているというものの他にも良さそうなものがいくつかあって、これは即断せず、いったん引き上げて調査をしてから出直すべきだと直感的に感じ、このときはなにも買わずに帰ってきました。

その夜、さっそくネットでこの分野を検索してみると、やはりいろいろと情報が出てきて、中には自分の車を試験台にして、あらゆる種類の「拭き取りなしのコーティング剤」をテストしているディープなマニアのサイトまでありました。
この人は、もちろんシロウトですが、なんとメーカーからも一目置かれて新製品など使ってみないかと申し出られるほどの人物のようです。作業性や艶、耐久力、値段など実に10項目に及ぶ採点までしていて、さすがに参考になることが満載でした。

驚いたことには、洗車そのものを楽しむクラブまで存在していて、いやはや、どの世界も道も極めるということはなんと奥深い、楽しい、そして馬鹿馬鹿しい世界かと、呆れつつも共感させられて笑ってしまいました。

2014/01/23 Thu. 03:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

貧しき遺伝子 

厳しい寒さが続いています。

お鍋の季節真っ只中とあって、スーパーや食料品店に行くと鍋料理の食材を集めたコーナーがあちこちに設置されています。そこにはパック詰めされた各種お鍋のスープがこれでもかとばかりに並んでいますが、以前に比べるとその種類も飛躍的に増えて、聞いたこともないような名の新しい鍋料理もいろいろあって感心させられます。

代表的なところでは寄せ鍋や、博多なら水炊きといったところでしょうが、これらのスープにはいつも不思議で仕方ないことがあります。

大半のスープの量は750〜800mlで、触るとブカブカした袋には決まって「3〜4人分」と書かれていますが、これってそもそも表示された人数に対して適量だろうかと思います。この手はストレートタイプなので、袋の中に入ったスープが正味の量となるのですが、とてもじゃありませんが我が家はいつも足りません。

3〜4人はおろか2人でも甚だ心もとない量で、本当にこれでみなさん量的に満足されているのだろうかと思います。二つ使いたいところですが、そうなると金額的にばかばかしくなりますし。

マロニエ君は大抵のことは日本のモノや習慣や尺度は好きですし、むろん慣れてもいますが、ことこういう食に関する量の基準だけは、日本って貧しいなぁと思ってしまいます。

上げ底なども日本の悪しき文化のひとつで、世界的にもとりわけ商品クオリティの高さで信頼される国でもあるにもかかわらず、量的な部分になるととたんにしみったれた習性が露わになります。海外に行くと、欧米はむろんのこと、たとえアジアの近隣諸国でさえ、量に対する尺度が日本とはまるで違うことを痛感させられます。
べつに高級店でなくても「一人前」というものに対する量の保証がきっちりあるのは、本来当たり前のことかもしれませんが、日本人の目にはそれが感動的に映り、その量だけで彼我の違いを感じます。
この点では日本人は昔から量的ミニマムに慣れっこです。

こんな他国の社会のなんでもない量的尺度からみると、日本は食に関しては所詮は貧しかった遺伝子が大和民族の心底からいまだに抜けきれないのだろうと思わずにはいられません。
昨年は日本料理がユネスコの無形文化遺産へ登録されたそうで、それはそれで結構なことですが、思うに日本料理のもつ気品と洗練の元を辿れば、そもそも食の貧しさと絶対量の不足に源流があるのではとさえ思います。

高度な技や凝った盛りつけ、器との対比、季節ごとの貴重な食材を珍重するなど、繊細な感性や精神性までも取り込んで、ついには芸術的な高みにまで到達したのはなるほど見事だと思います。
しかし、見方を変えれば皿数ばかりで、盛りつけというより飾り付けのようで、どれもこれもがつまみ食いのように少なく、それに不服を唱えればたちまち風流も情趣も解さない野蛮人のように扱われてしまいます。

しかし、やっぱり元を辿れば少ないものをいかに尤もらしく美しく見せるかという、知恵や言い訳から出発した文化ではないかと思うのです。日本の伝統的な美術が空(くう)を多用し、そこに深奥なる意味をもたせることで表現の粋を凝らしているのはわかりますが、食にまで空を求めるのだとしたら、これはいささか逸脱が過ぎるようにも感じます。

冒頭の鍋用スープも、あれで3〜4人分という表記でも一向に問題にならず、各社一斉に同じ量で横並びに製造販売され、消費者のほうも常にカスカスの量でガマンするが普通なのは、世界中でも日本だけではないかと思います。
国際基準的にいえば、あれはたぶん一人分じゃないかと思います。

2014/01/21 Tue. 01:56 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ロバート・レヴィン 

過日のツィンマーマンのブラームスに続いて、貯まった録画からノリントン指揮N響、ロバート・レヴィンのピアノでベートーヴェンのピアノ協奏曲第2番を聴きました。

ノリントンは今日の大きな潮流である古典奏法を用いる指揮者の一人で、一貫してヴィブラートと使わない演奏は好みが分かれるところだと思います。
ロバート・レヴィンはフォルテピアノ奏者として有名な人なので、てっきり古楽器による演奏かと思っていたら、サントリーホールのステージ置かれているのは現代のスタインウェイでした。

それでも普通と違うのは、大屋根が取り払われ、オーケストラの中央に客席にお尻を向けて、縦にピアノが突っ込まれている点で、客席とレヴィン氏の顔が向き合う形になることでした。

ノリントン氏は協奏曲の場合はいつものようにオーケストラの中に入り、ピアノのすぐ横の向かって左から、やはりレヴィン氏と同じく客席側を向いて愉快そうに指揮をします。
開始早々からレヴィン氏はオーケストラに合わせてオブリガート風にというか、とにかく思うままにピアノを弾いており、やがてソロパートになればそれを弾き、そこを通り過ぎればまたオーケストラと一緒に弾いているというもので、まるでバッハの協奏曲のようなスタイルでした。

以前ほどこういうスタイルも珍しくはなくなったとはいうものの、まったくの違和感がないといえば嘘になり、一定の理解と慣れができてきているものの、マロニエ君はいまだに長年慣れ親しんだスタイルのほうが落ち着くのも正直なところです。
しかし、すでに以前ほどの抵抗はないどころか、これはこれで面白いと素直に思えるようになったことも正直なところで、なによりもロバート・レヴィンはモダンピアノを弾かせてもなかなか見事なものでした。

古典奏法の第一の意義は、作曲された時代考証に沿った演奏スタイルを取り入れることで、作曲家がイメージしたオリジナルの姿に近づけることで、その響きや音楽言語も作品本来の声やイントネーションで語らせるということだろうと思います。
テンポやアクセント、楽器の鳴らし方などが違うから、より鮮やかで活力のあるもののように云われますが、マロニエ君は考証や奏法の問題だけには留まらないないという気がします。
それはまず、新しい挑戦をする演奏家達の、音楽に対する覇気や意気込みの違いが大きいのではないかと思います。

今回もレヴィンの演奏を通じて感じたことは、演奏者の音楽に対する最も基本となるスタンスの問題でした。モダン楽器の奏者が十年一日のごとく同じ曲を決まりきったように演奏することで、ある意味、狭さとマンネリが避けられないまでに迫ってきているのに対し、古典奏法の奏者は常に思索的で挑戦的で、音楽の意義と原理に対してより謙虚で敏感であろうとしていることを痛感させられます。
演奏に際して、常に創造性をもって模索を怠らないことは大いに注目すべきであるし、モダン奏者はこの点でいささか怠惰であると感じずにはいられません。

モダン楽器の演奏家は、作品への畏敬の念や音楽が本来もつ愉悦性や率直な魅力を忘れ、自己が先行するなど、やや本道から外れ気味のところへ意識が行っていると感じることがしばしばです。

かといってマロニエ君自身は、ピリオド楽器や古典奏法のすべてを受け入れ切れているとは云えず、やはりモダンのほうに安堵と喜びを感じる部分が多分に残っているのも事実です。
それでも演奏家が音楽と対峙するすずしさや喜びの姿勢が、モダンではやや崩れている、あるいはないがしろにされていると感じるのは否定できず、その点では心地よい時間を楽しめたように思います。


2014/01/19 Sun. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プロ意識の奥行 

ここでは必要ないと思われますので、敢えて固有名詞は控えます。

それでもわかる人にはわかる事でしょうが、そのときは、あくまでマロニエ君が個人的に感じたことということで寛大に受け止めていただけたらと思います。

先ごろ日本人のさる有名アスリートが活躍の拠点を海外に移すべく、大変な注目の中、日本を旅立っていきました。
その様子をニュースでチラッと見ましたが、空港に詰めかけた大勢のファンに対する謝意やサービスはおろか、これという反応や挨拶もなく、この人物はこのような報道カメラの砲列と夥しいファンの歓声は、自分にとって空気のように当たり前だと思し召すのか、不機嫌そうにサングラスをかけ、黙して昂然と搭乗ゲートへと歩を進めて行きました。

マロニエ君が以前聞いた話では、野球選手がメジャーリーグなどへ移籍して、はじめに彼我の違いに驚かされるのは、彼の地での選手達に科せられたファンサービス義務の厳しさだということでした。
プロたるものはファンに対する多くの責務を負っており、とりわけ人気プレイヤーともなるとその義務の度合いもいっそう高まるのだそうで、いかなるスター選手といえども、ファンあってのプロ活動であり、ファンを大切にしなくてはいけないという鉄のルールが身体に叩き込まれているといいます。

日本人選手にはまるでそういうプロフェッショナルとしての厳しさが見受けられず、むしろ逆のような印象です。有名プレイヤーになればなるほど笑顔は消え去り、ことさらに不遜な態度で、ファンとは身分違いのようにふるまうことが一流プレイヤーの証しのごとくで、まるで封建時代のお殿様と民衆の関係のようです。

件の選手は、野球でないためかさらにその傾向が際立つ印象で、それがスターとしての自分のステイタスであるかのようですが、日本人はファンもマスコミもそのあたりに関しては寛大なのか、だらしがないのか、いずれかわかりませんがとにかくそれでまかり通る社会のようです。

ところが、一歩海外へ出れば、そんな日本だけで許される慣習は通用しないと見えて、到着後さっそく厳しい言葉が現地の新聞に踊ったようです。

「彼にはスーツは似合わない」「あのスーツが良くないのではなく、スーツが彼には似合わない」「もっとスポーティな服装のほうが似合うのでは」「あのサングラスはなんだ」「まるでヤ○ザのようだ」「○○(過去の日本人選手の名前)のほうがまだ洗練されていた」などと、はやくもズケズケと手厳しい言葉が連なったのはちょっと痛快でしたが、この程度の批判をされるほうがむしろ自然であって、却って日本での過剰な扱いの不自然不健全さが浮き彫りになるようでした。

あとから知って驚いたことに、なんとこの方は、本業のスポーツの次に大事なのが自分のファッションなのだそうで、高額なブランド品に身を包み、ヘアーのお手入れだけでも数時間をかけているというのですから驚倒しました。
その本業の次に大事なものを、ファッションの国のマスコミからいきなりダメ出しのカウンターパンチを喰らったわけですから、なんともお気の毒といったところです。

でも、そもそもスポーツの選手というものは、大衆相手の人気商売なんだから、周りから勝手放題なことを浴びせられるのもいわば仕事のうちで、日本のように腫れ物にさわるように、高いところへ奉って有り難がって、なにひとつ率直なものが言えないということのほうが、よほどどうかしていると思います。

熱烈なファンともなると、応援のためには会社を休み、高い航空券を買って海外にまで赴く人も珍しくないそうで、瀬戸内寂聴さんではありませんが、そんな無償の愛をありがたいと骨身に刻んで粉骨砕身励むのがスター選手のプロ意識であり、社会もそれを選手に教えていく環境が必要だと思います。
つまりこの選手個人というよりも、ずっとそういう態度を容認してきた日本のマスコミとファンの甘やかしにも責任の一端があるように思うのです。

2014/01/16 Thu. 01:36 | trackback: 0 | comment: -- | edit

機械的強味 

昨年末、ステファン・パウレロのピアノのことを教えられたことがきっかけで、このところ、いろいろとこのキーワードに触れることになりました。

ステファン・パウレロ氏はピアニストでピアノの設計者、さらにはピアノ製作家でもあるようで、一部では天才技術者とも認識されているようです。
さっそく稀少なCDを購入して、パウレロ氏の設計製作によるピアノの音を聴いてみたのは以前書いた通りですが、とりあえず音の傾向も(自分なりですが)掴めてきたような気がします。

また、彼の設計だという中国生産のウエンドル&ラングやフォイリッヒの218もYoutubeで可能な限り聴いてみました。このふたつと、その製造会社であるハイルンの、少なくとも3つのブランドでこの218モデルを共有しているのは間違いなく、ブランドによって最終的に味付けなどが異なっているのだろうかと思いますが…そこはよくわかりません。

パソコンにタイムドメインのスピーカーを繋いでさんざん聴いてみましたが、たしかに今風の音でよく音が出ていると思われ、まずは率直に感心しました。しかし、もうひとつ惹きつけられるものがなかったことも事実です。

もちろん値段が値段なので、それを分母に考える必要はありますが、低音にはそれなりに轟然とした迫力があるし、中音以上は音の周りに柔らかな響きの膜みたいなものがまとわりついていたりと、なかなかのものだと思ったのも正直なところです。
ただし、なんとなく音の芯が強めで、あくまでもマロニエ君の好みですが、どこかクールといった印象を受けます。それは安い中国製から超高級なフランス製ステファン・パウレロ・ピアノまで、どことなく共通しているようで、設計者が同じというのはこういうことかと妙に納得してしまいました。

そんなとき、携帯に知人からメールがあり、「ステファン・パウレロ氏はかつてヤマハのC3Bも設計したらしい」と書かれており、はじめは驚きましたが次第に合点がいきました。最新のヤマハはよく知りませんが、言われてみれば昔のヤマハと相通じるものを感じていることに気付いたからです。

一台だけを聴いていとパワフルだし、ムラもなく確実な音が出るし、製品としてもそれなりの筋が通っているので、つい納得させられてしまうのですが、時間を置くと、ピアノという楽器を聞いた後の余韻の美しさみたいなものが心に残らない…そんな印象を持ちました。
聴いているときは悪くないと認めつつも、酔いしれるということがなく、感心はしても平常心のままで、それ以上には至りませんでした。

全音域に均質感があり、適度に迫力やパンチがあるので、こういうピアノは短時間の試弾などでインパクトを得やすく、わかりやすい訴求力があるので、広い層からの支持を得られやすいだろうと思います。
まさにヤマハがそうであったように。

218は文字通り奥行きが218cmなので、ヤマハで云うとC6XとC7Xの間ぐらいのサイズです。
価格は日本国内の定価が280万円で、値引き幅もあるようなので、コストパフォーマンスは相当高いと思われます。同工場製のウエンドル&ラングも、最近では国内の優良ピアノ店でもぽつぽつ取扱いがあるようなので、そのあたりを考え合わせると、いわゆる巷にあふれる中国製のデタラメなピアノではないのだろうとも思います。
もしもピアノを好きなだけ買えるような大金持ちなら、どんなものやら試しに買ってみるのもおもしろいでしょうし、一定の興味はそそられます。

ただ、楽器として長い付き合いのできるピアノかどうか、あるいは道具と割り切ってガンガン使うには機械的な耐久性などがどうなのか…このあたりはまったくの未知数でしょう。
実はそのあたりを疑問視する声を間接的に聞いたことがありますが、耐久性はピアノの極めて重要な要素のひとつなので、いくら音がよくて安くてもわずか数年で問題が起こるようでは困ります。
その心配のないことが証明されれば多くの支持を集めるのかもしれません。

その点では、ヤマハの機械的な耐久力が抜群であることは世界にも定評がありますから、とにかく冒険を避けたいという向きにはやはりヤマハは最終的に強いですね。

2014/01/14 Tue. 01:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

休日過多 

昔に比べて休日があまりに多いのは、ときとして有難味がなくなってしまいますが、多くの人はこの多休(造語)を本当に楽しんでいるのでしょうか…。

マロニエ君の子供のころは、学校はもちろん、会社やお役所など、土曜も休みではなく、つまり世の中全体が一週間のうち6日間を仕事や学校に費やすのが当たり前でした。
そのうえ祝日も今よりも少ないし、おまけに日曜と重なっても月曜への振り替えなどもありません。

週末といえば土曜のことで、日曜日というわずか一日の休みを大事に楽しく過ごしていた事がウソのように、最近は休み休みの連続で、週休二日が定着するようになった頃から社会の活気もだんだん失われたきたように感じてしまいます。
むかしの日本人は「働き蜂」とか「蟻のよう」などとさんざん揶揄されながらも、せっせと勤勉に働くことで国や社会を盛り立て、一方では仕事一辺倒だの余裕がないだのと非難の的にもなりました。

しかし、もともと日本人は欧米人のようにバカンスの習慣はないし、彼らとはしょせん遊びのケタが違います。よって長期休暇を心ゆくまで楽しむようにはできていない民族のようにも思えるのです。長い歴史を通じて民族の身体に染み込んだ習慣や感性は、一朝一夕に変更できるものではありません。
日本全体が一生懸命働くことが美徳とされていた時代のほうが、どうも日本人には合っていたし、同時に現代のような水面下での苛酷労働なども少なかったように思います。
そしてなにより、世の中がずっとほがらかで活き活きしていたようにも感じます。

今回の年末年始に至っては9連休という長大なものとなり、やっとそれが済んだかと思ったら、わずか一週間を挟んで、またしても3連休ですから、ここまでくるとさすがにウンザリです。

とりわけマロニエ君などは生来のナマケモノですから、本来は休みが多いことは嬉しいはずだし、仕事など少ない方が嬉しいのが本音です。しかし、ずっとやらないで済むものならそれも大歓迎ですが、もちろんそうもいきません。嫌々ながらやっている身にすれば、嫌なりにもリズムというものがあって、やっとこさ平日の流れに慣れてきたかと思うとすぐまた休みになり、そのたびになんとか乗ってきた調子は寸断され、また休み明けの怠さへリセットされてしまうのは気構えの上でも収まりが悪く、なんとかならないものかと思います。

とりわけ12月の半ばから1月の半ばまで見ると、特殊な職業の方は知りませんが、カレンダーの上では休みの日数のほうが多いという信じ難い状況で、これで景気回復だのアベノミクスだのといっても虚しいような気がします。

多くの企業なども、やっている仕事ははかどらず停滞して先に進まないので困るとか、この休みの多さがそもそも不景気の要因のひとつにもなっているというような話を聞いたことがありますが、いまさらながらそうだろうなぁ…と思います。
また収入面でも、遊ぶと働くでは出納は正反対ですから、いいかげん仕事のほうがいいと思われる方も実は多いのではないかと思います。

プライベートでも、昔とはちがって大家族は激減、大半は少ない家族構成であるばかりか、高齢者にいたるまで一人暮らしをしておられる方なども想像以上の数に及んでいると聞きますが、みなさんはいったいどんな風にしてこの多休の日々を過ごしておられるのでしょう…。

結局、この休みの多さも、社会の不健全化の一因になっているような気がします。

2014/01/12 Sun. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

正攻法の興奮 

貯まっている録画から、ブロムシュテット指揮のNHK交響楽団、ソリストをフランク・ペーター・ツィンマーマンがつとめたブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴きました。

これが思いがけなく見事な演奏でした。気が付いたときには身体の一部を硬直させてまんじりともせずに聴いている自分に気がつきました。硬直というと、なにかよくない事のように思われがちですが、マロニエ君は集中するとつい身体のどこかに妙な力が入ってしまう癖があって、それほど演奏にのめり込んでいたということだろうと思います。
少なくとも、自分にとって本当に素晴らしいと思える演奏を聴いている時間は、とてもリラックスなどできません。

素晴らしい演奏というのは定義が難しく、多種多様です。
ツィンマーマンのヴァイオリンはまさに正攻法の折り目正しいスタイルですが、にもかかわらず決して優等生的でないところが特筆大書すべきだろうと思います。周到に準備され、作品を隅々まで知り尽くしたものだけが可能な演奏でありながら、けっしてマンネリではなく、常に音楽に必要な新鮮さと即興性を孕みながら演奏が展開して行くので、集中が途切れる部分がなく、聴く者にたえず程良い刺激を与え続けてくれるようです。

とりわけ感心したのは厳格さという枠の中で呼吸する生きたリズム感で、これはこの人の生来のものでしょう。とりわけ協奏曲ではオーケストラからソロに引き継がれる部分に些かでも遅れやズレがあると、聴いている側はガクッと気持がシラけるものですが、こういう箇所でのツィンマーマンは聴く者の期待を決して外すことなく、渡されるものを間髪入れず受け取って自分の演奏として繋いでいくので、聴いていて快適この上ありません。

演奏家の中には自分の個性をことさら強調してみたり、新解釈のようなものを披瀝したがる人が少なくありませんが、ツィンマーマンにはそういう要素はまったくの皆無。演奏のフォルムは至って真っ当でありながら、正味の彼自身がそこにあって明瞭、作品と演奏の両方を結束させながら、聴く者を音楽の世界に引き込んでいくやり方は、まったく見事な演奏家の仕事というほかありません。

ひとつだけ意外だったのは、彼の使うヴァイオリンは、はじめストラディヴァリウスだろうと思いつつ、途中からちょっと違うかなあという印象もありました。しかし彼の演奏スタイルからして、グァルネリではないだろうと思うし、f字孔の形もやはりそうではないと思い、楽器についてはまったく確信が持てずに終わりました。
後でネットで調べてみると、ツィンマーマンが現在弾いているヴァイオリンはクライスラーが所有していた1711年製ストラディヴァリウスだということがわかりました。

違うような気がしたのは、ストラドは単純にいうともっと派手な艶っぽい音というイメージがあったのですが、一流のプロには演奏家自身の音というものもあり、やはりヴァイオリンの音はなかなかわかりにくいものだと思いました。
ただ、演奏中に映し出されるそのヴァイオリンは、側板から裏板にかけて「おお!」と思うほど鮮やかな虎目の、いかにもただものではなさそうなヴァイオリンでしたが、その音は見た目ほど華麗ではないような印象だったのです。
ただし、会場はなにぶんにもあの広大で音の散るNHKホールですから、楽器の音を正しく吟味できる環境ではありませんし、だいいちこちらも会場でナマを聴いたわけではありませんけれども。

楽器はともかく、久しぶりに満足のいく素晴らしい演奏に接することができ、思わずテレビ画面に向かって拍手したくなるようでした。


2014/01/10 Fri. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

音楽もごちそうさん 

昨年のNHKの朝ドラは『あまちゃん』がたいへんな人気を博し、大ブレークといってもいい盛り上がりをみせたので、次の番組はどうなるのかと思っていましたが、大阪NHK制作の『ごちそうさん』も個人的には大いに楽しんでいます。

その『ごちそうさん』ですが当初から「おや」と思うことがありました。
番組内で流れる音楽のことです。
というか、マロニエ君はこれを何というのか名前を知りません。もちろん主題歌のことではなく、ドラマの進行と合わせて挿入される効果音的な役割を担う音楽のことです。ネットで調べたらわかるのでしょうが、面倒臭いので調べていません。

このドラマの雰囲気とは打って変わって、多くが弦楽器のみ(管のときもあり)で奏でられるもので、ときにクァルテットのようでもあり、ときにはもっと大勢の弦楽合奏のようにも聞こえます。

それも15分の番組中の後半に集中している印象で、内容がだんだんに佳境に入ったり、なにか秘密めいたことが出てきたり、主人公が窮地に立ったり、意外な展開が起こったり、見てはいけないものをみてしまったりするようなときに、弦楽合奏が意味深かつ効果的に入ってきて視る者の気持をぐいぐいと押し上げていきます。

マロニエ君の知る限り、こんなきれいな音楽に支えられた朝ドラは初めてのことで、この点でも接する楽しみがもうひとつ増えたように感じています。だいいち、多くの効果音的な音楽が弦楽合奏というのはやっぱり品があるし、それを他愛もないドラマの喜劇性と組み合わせることによって独特な効果を生みだしているように思います。

とりわけ、いつものように家族5人がそれぞれの思いを抱えながら緊迫した食事時間を過ごしているようなとき、弦のアンサンブルは静かにはじまり、しだいに険悪な事態になったり、あるいは重大な事実が発覚すると、一気に音楽もそれに呼応して高まりをみせ、各登場人物のそれぞれの困惑、驚き、してやったり、開き直りなどの表情と音楽が一体化していやが上にも盛り上がりをみせます。
まるでモーツァルトのオペラブッファによくある幕切れの多重唱の場面のようでもあり、それが必要以上に可笑しさをそそったりしますが、製作者はよほどオペラが好きなのだろうとも思わずにはいられません。

タンゴ調だったり、はたまた、どことなくR.シュトラウスの『ばらの騎士』を思い起こさせるときがあり、そもそも『ばらの騎士』はシュトラウスがモーツァルトのようなオペラが書きたくて書いたという逸話もあるぐらいですから、なんだかそのあたりを狙っているのかもしれません。

それぞれの登場人物も、性格の振り分けがオペラ的に明快で、主人公夫婦がいつも困惑し必死で思い詰めたような表情をしているのに対して、いじわるや不道徳者などが周りを取り囲んで、次々に可笑しなトラブルを巻き起こすのはオペラブッファで採り上げられる、市井の題材そのものみたいな気がしてきます。

こういうことを思わせるのも、音楽の力に負うところが決して小さくないことの証明ですね。


2014/01/08 Wed. 01:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

初期型が最良 

正月はこれといった予定もなく過ごしましたが、ピアノ好きの知人達が遊びに来てくれました。

ディアパソンを主に弾いてもらい、やはりタッチの重さは気になったようですが、同時にヤマハやカワイとは一線を画する厚みのある力強い鳴りには意外な印象を持ってもらえたようでした。

いつものことですが、他の人に弾いてもらうことで、自分のピアノを普段とは違った位置から聴くことができるのは大いに楽しみでもあり、同時に評価や反省の材料にもなります。
ピアノに限ったことではないかもしれませんが、楽器の本当の音や響きというものは、少し離れた位置から聴くほうが本来の姿がわかるもので、演奏者が間近で聞く音は必ずしも本物ではないということをあらためて感じます。

来られた方のお一人は長年カワイのグランドを愛用されていましたが、なんと年末に半ば勢いで買い換えたという突然の告白にすっかり驚かされました。
年末にひととおりあちこちで試弾してみたそうですが、最終的にカワイのSKシリーズに絞られていき、数台ずつあったという2、3、5の中からついにSK-5に決定したそうです。

その理由はSK-5がやはり低音にも余裕があるなど、要するに音が断然よかったからという明快なものだったようです。ところがいざマンションの自室に入れてみると、ショールームでの印象とはまるで違ってしまって、今はその点に大いに悩んでいるとのことでしたが、これはままあることで、楽器は出た音を鳴らす空間をも要求するということのようです。

なにしろまだ納品から数日という状態のようで、初回の調律が済んだらお披露目に招待してくれるということになり今から楽しみです。

ところで意外な話を聞きましたが、ある大手メーカー(カワイではない)の方が言われたそうですが、ピアノは新型が出てすぐのものが最も出来がよいという興味深い話でした。
その理由は、ピアノはシリーズの初期型こそが開発者達の理想や意気込みが最も強く注ぎ込まれているらしく、それによって新しい製品の高評価を勝ち得るのだそうです。これがうまく運ばないと以降の販売にも影響してくるから、とくに出始めのモデルには力が入っているというものでした。

これはまったく気が付かないことでしたが、云われてみればたしかに思い当たることがあります。
某コンサートグランドなどはえらく力の入った新型を出して、「ほう!」と思わせるものをもっていましたが、最近ではあきらかに質が落ちてきているんじゃないかという残念な印象を立て続けに抱いていたので、この話が忽ち信憑性を帯びることになりました。
新品ピアノは、普及型も含めて、たしかに発売から時間が経つほどそのピアノの密度みたいなものが薄れてしまい、いわばメーカーの気合いが感じられなくなってくる印象があります。

車などは初期型はセッティングの未消化や想定外のトラブルがあったりと、発売開始直後はいわばプロトタイプに近い側面があってユーザーからは敬遠され、以降数年をかけて対策・改良されたモデル末期がもっとも熟成が進むのでその辺りを狙って買う、もしくは最低でも2年は待つというのが見識あるカーマニアの車選びの通例です。

しかし、ピアノの場合は新しい機構というものはほとんどなく、構造体としては100年以上前に完成されたものを模倣・踏襲・改良しながら作っているに過ぎないので、違いはもっぱら細部のちょっとした設計や工夫程度で、肝心なことは主に材料の質と作り込み精度、さらには出荷調整こそが命だといえるのかもしれず、これはなるほどと思いました。

具体的なモデル名は控えますが、日本のピアノでも同一モデルで古いものと新しいものを比べると、新しいほうは新築の家や新車と同じで新品ならではの気持ち良さのほうに目が行ってしまうものですが、本当に楽器としてよくなっていると心底感じたことがあるかと云われると、あまりないのが実感です。

となると、ピアノは新シリーズがでたら発売直後から一定期間(それが具体的にどれぐらいかはわかりませんが)が旬だということになるようです。


2014/01/05 Sun. 01:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イベント指向 

お好きな方には申し訳ないですが、個人的な好みということで許していただくと、マロニエ君にとってNHKの紅白歌合戦はどうしようもなく苦手なもののひとつです。

当然ながら毎年これをわざわざ視ることはしませんが、テレビの電源を入れると、チラッと見えたりすることがあったりで、そのたびにウワッと驚いてしまいます。
演歌や歌謡曲が苦手ということもありますが、それより、あの紅白の舞台上に繰り出されるやたら派手々々の、老若男女、都市から田舎までフルカバーしようというNHK的娯楽の世界がどうも苦手で、さらにはそれが大晦日の日本の茶の間の相当数を牛耳っているところがまたたまりません。

思い起こせば、マロニエ君の子供のころは紅白歌合戦の全盛時代だったように思いますが、その後は時代の移り変わりとともに、民放でも打倒紅白というような気運が高まり、紅白以外は「裏番組」といわれながらも、その時間帯を各社なんとか対抗できる番組を作ることにしのぎを削っていたようでした。

さらに時代は流れ、ついに紅白は衰退の道を辿りはじめたと記憶しています。
紅白はあくまでも演歌や歌謡曲が国民の娯楽として高い位置にあることを前提として、大晦日にその一年の総決算として、このジャンルの頂点に君臨する娯楽歌番組の最高峰だったわけですが、世の中が多様化して飽満になり、演歌や歌謡曲の人気が下降線になると、紅白そのものの存在意義すら危ぶまれるところまで行った時期がありました。
社会の価値やニーズもすさまじいスピードで変化し、視聴者の世代も代替わりして、もはや年の瀬の紅白歌合戦で無邪気に喜ぶような時代ではなくなったという新しい流れでした。

ところが、いつごろからかはわかりませんが、再び紅白は不思議な感じに復権の兆しを見せ始めてきたように思います。
世の中からある種の活力がなくなり、人々がより画一化された動きを取るようになったからなのか、一時は「多様化」の言葉の通りいろいろな遊びや楽しみの在り方があふれていましたが、それさえも衰退しはじめ、世の中はやたらとイベント参加型の乾いた時代を迎えたように思います。

要は遊びまで人から与えられる規格品のようになり、本当の意味での娯楽や享楽の醍醐味がなくなります。
イベントとはしょせん主催者が作った遊びの枠組みですが、それに受身で参加することで満足してしまう事があまりに氾濫しているようにも感じるのはマロニエ君だけだろうかと思います。
各地各所では大小のイベントが目白押しで、昔なら見向きもされなかったようなものまで不思議なくらい人々が押し寄せ、参加すること、あるいは参加したことを楽しんでいるようです。

これは何かを主体的に選び取って熱心にあるいは奔放に楽しんでいるというより、一般に「楽しい」と規定されているものに自分も関わり参加するというカタチを得ることで安心し、その安心は満足や達成感に拡大解釈されているような気配を感じます。

紅白歌合戦も、本当に登場する歌手や歌を堪能しているというより、年末の風物詩としての大イベントに「視ることで参加する」というカタチを手に入れようとしているだけの人も案外多いのかもしれません。
44.5%というとてつもない視聴率の数字を視ると、本心ではどうでもいいと思っている人でさえ、視るように無意識に追いつめられてはいないのだろうかと、つい変な勘ぐりをしてしまいます。
もちろん、ただヒマだから…という単純な動機の方もいらっしゃるでしょうが。

2014/01/03 Fri. 01:50 | trackback: 0 | comment: -- | edit

2014年始動 

あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

毎年、新年の最初にどのCDを聴くかということにささやかなこだわりを持っていますが、今年は静かにスタートしたいという気分で、年末に購入したイザベル・ファウストのヴァイオリンによるバッハの無伴奏ソナタ&パルティータから、ソナタ第3番で始めました。

当代きってのトップヴァイオリニストの一人であるイザベル・ファウストのバッハは、以前から必須の購入候補でありながら、何かの都合でつい順送りになっていたために、年末ついに手にしたときは聴いてもいないうちから目的を達成したような気分でした。

以前、イザベル・ファウストの演奏に初めて接したときは(ベートーヴェンの協奏曲とクロイツェル)、慣れの問題もあってか、クオリティは高いけれども、なにやら妙に落ち着き払ったような演奏という印象を受け、それが少々無愛想というか可愛気がないような気がしたものです。
しかし、繰り返し聴いていくうちに、しだいに彼女の透徹した演奏スタイルというものが了解できてきたのか、聴く毎に印象が変化していきました。

ドイツの演奏家ということもあってか、熱っぽい語り口の演奏ではなく、あくまでも音楽の枠組みがきっちりと張り巡らされ、そこに彼女なりの練り上げられた音楽が理知的に組み上がっていくというもので、正確な設計図をもとに確かな工法によって建てられた繊細な建造物という印象です。
ただし、イザベル・ファウストのすごいところは、それが決して四角四面なものでは終わらず、あくまで自然体の魅力ある演奏になっているところが、いかにも現代の好みにも合致して高く評価される所以だろうと思います。

深い精神性と清らかな静寂感、ピリオド奏法も取り入れ、すみずみまでゆるがせにしない第一級の演奏精度とくれば、どこか日本文化にも通じるものさえ感じます。その音色も艶やか一本なものではなく、自然な美音の中にどこか枯れた響きのあるところも日本人が好むものかもしれません。

純粋な好みから言うと、やや整い過ぎという面もなきにしもあらずですが、これほどの精緻な演奏でありながら、固さや息苦しさがまったくないところは大したものだと思います。


新年にあたって少し話題を変えますと、昨年末に視たテレビ『たかじんのそこまで言って委員会』に出演した櫻井よしこ女史が、「人生ってのは迷わないでひたすら行かなくちゃいけないときがあるんですよ。そのときに迷わないで行けるかどうかが、その人の人生を決めてしまうんです。」と言い、なるほど尤もなことだと大いに膝を打ちました。
実行は難しいですが、極力迷わず前進していきたいものだと思います。

本年もよろしくお願い致します。

2014/01/01 Wed. 12:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit