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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

サムライ 

早いもので今年もとうとう大晦日となりました。

残すところあと6日ほどというときに、ひとりのピアノ技術者の方からメールをいただきました。
まっ先に目に飛び込んできたのは「調律は愛」という聞き慣れぬ言葉でした。

この方は大手メーカーの調律師としてその職務に就かれ、また調律師養成機関の講師をつとめておられたという経歴をお持ちのヴェテランチューナーでいらっしゃるようです。
永年勤められた会社を退職され、今は「趣味は調律」と公言しながらお仕事を続けておられる由。

文章をそっくり引用というのも憚られるので、おおよその意味を要約すると、
「調律の世界は奥深くて際限がなく、形として捉えられず、感覚・感性の世界の問題が終局になる。 ピアノが好きでピアノに恋する。ピアノを愛して愛したい。先ずはこの境地に立てなければ技術者としては居場所は無い。」という専ら観念論のようでありながら、その言葉はきわめてキッパリとしたものでした。

その後、引き続いていただいたメールには次のような、こんにち失われて久しい日本人の苦しいまでの精神世界を垣間見るような内容でした。

養成機関の講師時代の信条は、「調律は愛」「実習中のトイレ厳禁」なのだそうで、調律師たるもの午前中の2〜3時間、午後の4〜5時間程度の生理現象コントロールが出来なければ顧客宅訪問などもっての外というのが信条だったとあります。
また「調律師の基本姿勢の心・技・体にわたり厳しく指導」と書かれていて、こんにち我々がこの言葉を耳にするのは、せいぜい大相撲の横綱の条件ぐらいなもので、これが調律師としての心得に用いられるとは思いもよりませんでした。

さらに続きます。この方はすでに40数年の調律師人生を続けられているようですが、丸一日ピアノと付き合う場合でも、仕事先でのトイレは借りられないのだそうです。そのためには「前日から戦闘態勢に入るというか、水分摂取と体調維持に気を使います」とあり、ピアノ技術者として一見過剰とも思えるこの精神訓のごとき気構えにはただただ圧倒されるばかりです。

ピアノの調律や調整をするのに、トイレ云々が作業として直接の問題があるかといえばおそらくないでしょう。しかしそういう覚悟をもって仕事に挑むというスタンスとして見れば、やはりこれは小さくない問題だろうとも思われます。
調律師というよりは調律列士とでもいいたくなるもので、心・技・体と相俟って、まさにチューニングハンマーを持つ日本のサムライを連想させられます。

今の世はあまりにも安易にプライドという言葉を濫用しますが、大抵はつまらぬ見栄やエゴのことに過ぎません。しかし、本来はこういう外に見えない信条や自ら打ち立てた誓いを静かに守り抜くことがプライドではないかと思います。

かつての日本人は、何事においてもこれぐらいの厳しい縛りを課すことによって心を整え、常に誠実に事に相対することが珍しくない民族であったことを思い起こさせられました。
それがいつの間にやら浅ましいばかりに即物的になり、評価軸は損得と勝ち負けだけ、このように目に見えないものに価値を置くということが絶えて久しいように思われます。
自らの使命には整えられた精神を下敷きとして、ある種のストイシズムを伴いながら邁進していくとき、我々日本人は格別の力が発揮されるのだろうと思います。

悲しいかな、かくいうマロニエ君が最もダメなくちなのは自分でもわかっていますが。

多くの教え子の皆さんと再会された時、真っ先に「講師!私お客さまのところでトイレ借りてませんよ」という言葉が聞かれるそうです。はじめに接した先生が口癖のようにされた教えは、生徒のメンタリティの奥深いところへ強い影響を及ぼすもののようです。

そして最後は次のように結ばれていました。
「トイレが近くなったら、、それは引退の潮時と肝に銘じ、今しばし愛を込めてハンマーを握ります。」


今年一年、拙いブログにお付き合いいただきありがとうございました。
どなた様も良い年をお迎えください。


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2013/12/31 Tue. 01:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

心理 

過日、知り合いの先生の教室のピアノ発表会があり、手伝いにもならいない程度のお手伝いをさせていただき、子ども達のかわいい演奏を聴かせてもらいました。

とても純粋で無垢な演奏が次々に披露されましたが、それとは別に、ここで目にした人々の行動にもついつい注目させられました。

会場設営は先生のご夫妻がされ、出演する子ども達が待機するための椅子がピアノの側に並べられ、あとはそのご家族などのための小型の椅子がランダムに置かれました。そして椅子が足りない場合はカーペット敷きであることから床に座っていただこうという趣向です。

ところが人の動きというものはそうそう思い通りにはなりません。
時々刻々と集まってくる家族連れのみなさんは、会場の最後部にある入口から入ってくると、ほとんどの方ができるだけ後ろに陣取ってしまいます。
これが続くと、最後部だけが混み合って、中ほどは空いているという偏った状態になります。

マロニエ君は入口すぐのところに立っていたために、来られる方々には、「中のほうへどうぞ」と何度も促すのですが、口ではハイといいながら、やはり混み合った後ろの中になんとか潜り込もうとされる方がほとんどでした。
重ねて「奥へどうぞ」と言いますが効果はなく、後ろがどうにもならないことがわかると、やむなく前に移動されますが、それでもほんのわずかで、とにかくできるだけ後ろがいいという強い意志が感じられました。

中には腰を屈めながらも珍しく前に進む方いらっしゃいますが、それはたまたま前のほうにその方のお知り合いがおられて手招きがあったりしたためで、そういう事情のない方は窮屈でも後ろの混雑の中へ分け入ります。

結局、中ほどはそれなりのスペースがあるのに、うしろ1/3ほどは満員電車のような状態で、もうどうすることもできません。みなさんよほどの慎み深い方ばかりのようですが、演奏がはじまると少し事情が変わります。ほうぼうからカメラやビデオを持つ腕がコブラの頭のように立ってきて、とくにビデオの方は良いポジションを得ようと、左右にしきりと位置を変えてこられます。

ついさっき奥へどうぞと何度もおすすめしても遠慮がちに頑として前には行かれなかった方が、ことビデオ撮影となると別人のようにアクティブな動きになり、最後は椅子に座っている女性の頭の真上に最良のポジションを定められたようですが、写真と違ってそれがずっと続くわけですから、下の方もかなり気になっただろうと思います。
ここには人の不可思議な心理の働きがあるのは疑いようもなく、大勢の中で自分が目立つ前方には行きたくないし、みんなが自然に後ろに固まっていれば、なおさら自分もそちらがいいという気持に拍車がかかる。でも写真やビデオとなると、一転して良好なアングルで写したいという別の願望が出て、相矛盾する気持が渦巻く中でこういう状態が生まれるのだろうと思います。
マロニエ君なら、後ろなら後ろでおとなしくしているか、カメラやビデオ撮影という目的があるのなら、はじめから良いアングルが確保できる場所に座るか、どっちかに定めると思います。

いったん会場に人が入ると、なかなか現場で対策が打てることではないので、前もってできるだけ前方に椅子を置き、個人の意志とは関係なく人の流れが中央へ来るように持っていかなくてはいけないのだということがこの経験でよくわかりました。

電車でもエレベーターでも、中は空いているのに、ドアの近くだけ揉み合うように人が集まるというのがありますが、まあそれは乗り降りという実際的な問題もあるのでまだわかりますが、ピアノの発表会でもそういう現象が起こるというのは思ってもみませんでした。

専門的なことはわかりませんが、この状況もいわば集団心理のひとつだろうとマロニエ君の目には映りました。ただし、外国人ならどうでしょう。なんだか今どきの日本人特有の現象のような気もするのですが…。

2013/12/28 Sat. 01:35 | trackback: 0 | comment: -- | edit

思わぬところで 

装飾目的にヴァイオリンを買うことは、音楽好きの端くれのやることではないとの判断から一度は諦めていたのですが、思わぬところからチャンスはやってくることになります。

マロニエ君がたまに立ち寄る、とあるショッピングモールの中には、今どきの不景気な世相を反映してか、以前は雑貨と家具を扱っていた店舗が撤退して、知らぬ間にリサイクルショップになっていました。

実を云うと、そんな事情と知らずに入店したところ、なんとなく気配が変わっているなぁと感じたことから商品がリサイクル品だと気が付いたぐらい、パッと目はきれいなものばかりを売っているのですが、ここに一挺のヴァイオリンがケースに入った状態で売られていました。

いろいろな家具や電気製品や雑貨などにまざって、ちょっとした楽器が集められた小さいコーナーがあり、ほかにはギターやフルートなどもあり、ヴァイオリンは子供用の1/8と大人用の4/4があったのですが、なんと子供用は一万円近くするのに、大人用はわずか二千円でした。

ものはためしという気分で手に取ってみてみたのですが、とてもそんな値段が信じられないほどきれいで、キズもなくそれほど使い込まれた様子もありませんでした。ケースには弓や松脂なども揃っていますが、よくみるとヴァイオリン本体にはE線のみなくなっていて、弦が3本しかありません。
どうみても新しく弦を張ったりするような気配はなく、このE線がないことが価格を著しく安くしているのだろうと察せられました。

一瞬どうしたものかと迷いましたが、今どき二千円で何が買えるかと思うと、ほどなく決断がついてヴァイオリンを慎重にケースに戻し、それごとレジに持っていきました。
楽器のことなどなにもわかりそうにもない女性が「いらっしゃいませぇー」といいながら中にある値札を見ながら、「弦が一本ありませんが、よろしいですか?」と確認してきました。
もちろんハイと答えて支払いを済ませて店を出ました。

生まれて初めて、ヴァイオリンのケースを手に持って外を歩きますが、ヴァイオリンというのはその圧倒的な存在感とは裏腹に、なんて軽いんだろうと云うのが率直な印象でした。

帰宅して恐る恐る開けてみると、そこには店で見た以上に立派で美しいヴァイオリンが悠然と横たわっており、慣れない手つきで取り出しますが、本当に心もとないぐらい軽くて小さな楽器であることに却って感激してしまいました。
名器ともなると、こんな小さな楽器が、ステージでは500kgもあるコンサートグランドと互角に張り合って、あれだけの素晴らしい音楽を奏でるのかと思うと、俄には感覚がついていけないような不思議な気がするばかりでした。

それにしても、なんと美しい楽器かとしみじみ思いました。その究極のデザイン、女体にも例えられる飽満かつ繊細なカーブの織りなす魅惑の造形は、いやが上にも見る者の目を引き寄せ、ぐいぐいとその世界に吸い込んでいくようです。

弦を一本細工して、さっそく壁にかけてみましたが、一気にあたりの雰囲気が変わり、繊細なのに凛とした佇まいは見ていて飽きるということがありません。
芸術的で、色っぽくて、清々しく、華奢で、堂々としていて、様々な要素がこんなに小さな形の中に凝縮されているようです。

2013/12/26 Thu. 01:54 | trackback: 0 | comment: -- | edit

壁飾りには… 

これまでにヴァイオリンの話題を何度か書きましたが、楽器店などでガラスケースの中に並べられたヴァイオリンを見ていると、小さいけれどもなんという蠱惑的な形をしているんだろうと思います。

ニスの色もいろいろある中、とくに赤茶系の透明感と深みのある色彩を帯びたヴァイオリンは、なんだか心が引き込まれるようで、つい手にとってみたくなるものです。
ヴァイオリンはまったく弾けないマロニエ君としては、さすがにこれを見たいと店員に申し出たこともないし、そんなひやかしをする意志も勇気もありません。
ときおり楽器店の売り場で足を止め、ガラス越しにじっと観賞するだけです。

天神のいくつかの楽器店に展示されているヴァイオリンは、価格にして下は10万円を切るものから、上はせいぜい4〜50万円ぐらい、高くても100万円以下までのもので、店によっても異なりますがだいたい4〜5挺は展示されています。
場合によってはさらに、子供用の小さな分数ヴァイオリンが段階的にならんでいたりしますが、そのいかにも繊細な佇まいや音楽そのものみたいなその美しい形はついつい欲しくなってしまいます。

海外のインテリアの写真などでは弦楽器を壁の装飾として使っているものを何度か見たことがありますが、なんともいい雰囲気を醸し出していて、下手な絵や写真を並べるよりよほど素晴らしい効果を出していたりします。

それからというもの、自分はヴァイオリンは弾けなくても、室内装飾として安い楽器を手に入れるということはあり得るという小さな意識が心の片隅に残ることになりました。
中国へ行くと、さりげなくヴァイオリンショップがあって日本円にして2〜3万ぐらいからたくさんあることもわかり、一度などはかなり本気で買って帰ろうかと思ったこともありますが、やはりもう一歩踏み出すことができずに終わってしまいました。

その後はネットオークションなどを見ていても、どうかすると1万円を切るぐらいから本物のヴァイオリン(中古ですが)が出品されていることがわかり、こういう下限の世界では、やはり構造が簡単なぶんピアノとはずいぶん違うものだと思います。もちろん品質は価格が語っているわけで、それなりの品だろうことは推して知るべしですが、それにしてもこんな値段でまがりなりにも本物のヴァイオリンが買えるというのはなんとも不思議な感じです。

ヴァイオリンは数多い楽器の中でも妖しさというか魔力のようなものがあるという点ではダントツだろうと、とくに最近思います。ストラディバリウスを頂点に、同じかたちをした楽器で、これほどまでに凄まじいピンキリの世界が広がっているジャンルというのが他にあるだろうかと思います。

壁の装飾としてですが、インテリアとしてなら音はどうでもいいわけで、ここでまた何度か買ってみようかという誘惑に悩んだことがありますが、やっぱり断念が続きました。
その理由は、マロニエ君のようにまがりなりにも音楽を愛する者としては、たとえ安物とはいえヴァイオリンをただインテリアの目的だけで購入し、それを壁にかけて楽しむという行為に抵抗がなくもなく、早い話がやってはいけないことのような気がしてきたからです。

亡くなられた俳優の児玉清さんが最後まで司会をつとめた「パネルクイズ・アタック25」のスタジオにも、以前のセットにはどういう意図からかヴァイオリンが何挺もつり下げられていました。

音楽とは関係のないクイズ番組になぜヴァイオリンなのかは意味不明のままでしたが、ともかく演奏以外の使われ方をする楽器というのは見ていて心地よいものではなく、そういう理由で購入を踏みとどまってきたのですが、あれこれのヴァイオリンの本を読んでいると、知らず知らずのうちに誘惑されてしまうようで、そこがこの楽器の生まれもつ魔力なんでしょうね。

2013/12/24 Tue. 01:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

カサカサと潤い 

今年の前半にわけあって家のエアコンを入れ換えたのをきっかけに、この冬から再びエアコン主体の暖房に切り替えることになりました。

「再び」というのは、以前も基本はエアコン暖房だったものの機械全体が古びていたので、石油ファンヒーターを常用していたのですが、灯油を数日に一度、ポリ容器を車のトランクに積んでスタンドへ買いに行かなくてはならず、その煩わしさだけでも馬鹿になりませんでした。

エアコンはわりに強力なものを取りつけたので能力的に不足はないのですが、その代償として恐ろしい勢いで湿度が下がってしまいます。
これでは温かさは得られても心地よさはないし、喉はカラカラ、皮膚も乾燥気味で痒くなるし、なによりピアノが心配な状況に陥りました。この冬のはじめから、湿度計の針は連日40%を割り込むようになり、慌てて加湿器を引っぱりだしましたが、これをフル稼働させても過乾燥には追いつかず、寒さが募るにつれてエアコンの出番が増えると加湿器を回していても40%台に届かず、ついにもう一台、加湿器を買い足すことになりました。

この一週間ほどは常時2台の加湿器のスイッチが入っていますが、それでもどうにか40%強にもっていくのがやっとです。しかもそれほど大型でもないためか、一日に2台ぶん水を何回も補充しなくてはならなくなり、部屋に入るたびに加湿器の水量をチェックするのが、すっかりこのところの日課となってしまいました。

この状態で数日経過してみると、多少は部屋の温湿度が改善されて過ごしやすくなりましたが、自室に戻るとまたカラカラで、こんどはこっちが耐え難くなり、やむを得ずまたまた小型の加湿器を買ってしまいました。

こうしてみると、石油ファンヒーターは灯油を買って入れるという面倒な問題があるものの、温かさは心地いいし、燃焼時に適度な湿気も発生させるらしく、過度の乾燥状態になることもなく、なんだか懐かしいような気がしています。
プラスチックや人工素材より木のほうが身も心も落ち着くように、暖をとるにしても、やはり電気で作られたカサカサの温風より、たとえ石油ファンヒーター程度でも、灯油を燃やし火をたいて作り出す温かさのほうが数段心地よいという当たり前のことが、いまさらのようにわかりました。

だったら以前のように石油ファンヒーターに戻せばいいのですが、そうすると、またあの寒い夜の灯油買いの往復が始まると思うとそれはそれでウンザリで、おまけにエアコンのほうがはるかにランニングコストが安いらしいこともわかると、そうまでして敢えて石油ファンヒーターを使うというのももうひとつ決断がつきません。

このように、現代人は本当の心地よさはどこにあるかをちゃんと知っていながら、それを犠牲にしてでも、便利さや低コストに走ってしまうという浅ましさと愚かさがあるのが自分でわかります。結局それにかかる手間ひまや面倒臭い労働、さらにはコストを考慮することで、つい大事なものを犠牲にするという業のようなものだろうと思います。

ましてやそれがビジネスともなれば、原価はもちろん、手間暇、効率、時間などもすべてコストとして換算され、それを前提とした厳しい利益の追求になるわけで、普及品のピアノなんぞが木の人工乾燥はもちろん、人工素材を極限まで多用して製造されるのは当たり前という感覚がひしひしと伝わってくるようでした。

その点、むかしは何事においても選択肢がなかったため、ごく自然に一定の質を得られたという一面があり、そのために資源の無駄遣いもしたでしょう。でも、お陰でなんとなく社会全体がおだやかで潤いがあったような気もします。


2013/12/22 Sun. 01:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

1874年製と1877年製 

エリック・ルサージュとフランク・ブラレイという、当代フランスの中堅ピアニストの代表とも云うべき2人によるモーツァルトのピアノソナタ集を久しぶりに聴いてみました。
曲目は、2台のピアノのためのソナタKV448、4手のためのソナタKV521、KV497という、いずれもモーツァルトのソナタとしては比較的規模の大きい3曲で、生活の拠点をウィーンに移してからのいわば後期かつ絶頂期の作品ばかりです。

演奏そのものは人によって受け取り方はそれぞれだろうと思いますが、マロニエ君の個人的な印象としては、決して悪くはないが、とくに賞讃するほどのものでもないというところです。
フランス人が弾けば、お定まりのようにフランス的云々などという聞き飽きたような感想は云いたくはありませんが、全体的に明るめの溌剌とした華やかさの勝った演奏で、これはこれで結構と思いつつ、そこにもうひとつモーツァルトの音符を美しく際立たせるような緻密さと、同時に(矛盾するようですが)即興性というか多感な遊び心がバランスよく良く織り込まれていればと思ったりします。

とくにモーツァルトの場合、その即興性によるテンポの必然性のある揺れはいいとしても、基本的なリズムの刻みがおろそかになる場面があるのは気になってしまいます。こういう演奏上の骨格にあたるような部分のしっかり感がフランス人は苦手のような印象があり、そういう意味でもフランス的といえばそうなのかもしれません。

さて、このCDで特筆大書すべきは、使われたピアノです。
それぞれ1874年製と1877年製という2台のスタインウェイのコンサートグランドが使われていますが、創業が1853年ですから、そのわずか21年後/24年後のピアノというわけです。
この時代のスタインウェイは現在のものとは大きく異なるピアノで、奥行きもたしか260cmぐらいだったと思います。しかし、わずか後の1880年代には現在まで受け継がれることになる274cmとなり、さらに内部機構も改良を重ねられ、20世紀初頭にはほぼ現在のモデルが完成します。

そういう意味では、創業初期に製造されたスタインウェイの源流とでも云うべき音を聴くことができる貴重なCDというわけです。
楽器に関する詳しい説明はないので、どういう状態のピアノかはわからず、ただ2台ともピアノ蒐集家のクリス・マーヌ氏の所有ということだけが記されていて、響板などが貼り替えられているのかなど、どれだけオリジナルを保っているのかはわかりませんが、CDの音を聴く限りでは、後年のスタインウェイほどの圧倒的なパワーはないけれども、とにかくやわらかで美しい音を出すピアノだということがわかります。

ややフォルテピアノ的な要素も兼ね備えつつ、それでも感心するのは、このごく初期のスタインウェイが、もうすでに確固としたスタインウェイサウンドをもっているということでした。

そして、こういう音を聴くと、昔の楽器の音というのはとにかく耳や神経に優しい点が驚くばかりで、何度聴いても心地よさばかりが残って、また聴きたくなる。その点では非常にリラックス効果もあるというべきで、理屈抜きに「楽器の音」というものを感じます。

それにひきかえ現代のピアノの多くは、ピアノの音のようなものを出す機械という印象を免れません。特徴的なブリリアント系の音も、どこか化学調味料で作られた計算ずくの美味しさみたいで、もうひとつ気持が乗っていけませんし、本当の心地よさとは何かが違うようです。うわべはきれいでもすぐに飽きてしまい、やがてうるさくなって無意識のうちに疲労を感じていることが、昔のピアノの音を聴くとごく自然に気付かされるようです。

2013/12/20 Fri. 01:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

現代の神業 

ほかの方はどうだかわかりませんが、マロニエ君にとっては恐ろしいと感じる光景を目にしてしまいました。

11月28日に『ふしぎ』というタイトルで、「近ごろの若い人は、能力の使い方が昔とは根本的に違ってきているのか…」という出だしで駄文を書いていますが、それを証拠づけるようなことを目撃してしまったのです。

日曜の夜、車で出かけたときのこと、信号停車していると、助手席の人物が「見て見て、すごいよ、ほら!」というので左に並ぶ軽自動車のほうに目をやると、運転席に座る若い女性が、赤信号中にスマホでメール打ちをしています。
むろんただそれだけなら驚きもしませんが、すごいのはそのメール打ちの途方もないテクニックでした。

右手にスマホをかざして、人差し指から小指までの4本はスマホ本体を支え、画面上で動いているの親指だけなのですが、その動きの猛烈な早さは見ているこちらの目がついていけないぐらいの超高速でした。まるでキツツキか機関銃のように、親指一本がめまぐるしい速度で、しかも正確でとてもなめらかに動いていることがわかり舌を巻きました。

この速度の中でちゃんと目的をもって文字を選らび、句読点を打ったり、漢字変換したり、場合によっては絵文字や記号などを挿入しているのかもしれませんが、とてもそんな作業とは信じられないような神憑り的な動きでした。やみくもに打っているわけではない証拠に、その親指は画面下部を上下左右、斜めに駆け回り、ときどきは連打しながら、親指だけがまるで別の生き物か、はたまたコンピュータ制御の動きのように見えました。

さらに凄味があったのは、それだけのことをやっているにもかかわらず、その女性にはまったく緊張とか集中しているといった様子もなく、至ってリラックスした様子であったし、ちょっと言葉は悪いですが、顔の表情などはむしろ阿呆的にゆるんだ表情で、これがこの女性にとってまったくノーマルの、平常の動きなのだと云うことが察せられました。

子供のころからケイタイのキーに触れて育ち、スマホのような新鋭機種が出てくれば、それをたちまち使いこなすのは苦もないことなのでしょうし、メール打ちなどそれこそ一日も休むことなく、それも日がな一日やっているでしょうから、それが自然の猛稽古にもなり、結果的にこんなとてつもないテクニックを身についたということだろうと思います。

あの尋常ではない指の正確な動きを見ていると、ピアノの練習でもすればさぞ上手くなっただろに…と思いますが、このように若い人は自分の豊かで瑞々しい能力を、あまりにも意味のないことに投じているように思えて、なんだかやるせない気分になりました。
もちろん、本人にとっては意味は大ありでしょうし、「ケイタイやスマホは命の次に大事なもの」などと高らかに言って憚らない世代ですから、なるほど命の次に大事なもののためには、エネルギーも惜しみなく投じるのは当然のことなのかもしれませんが。

最後にダメ押しで驚いたのは、信号が青になり二台ともスタートしましたが、なんと車が動いても彼女はメール打ちを止める様子もなく、しかもまわりとまったく遜色ない快調なスピードに乗せて走っています。その後、道は立体交差の長い地下部分に入りましたが、そこでもまったく様子は変わることなく、左にウインカーを出したかと思うとサッと一車線分左に寄り、そこからスイスイと側道に入って上の道に出ていきました。もちろんスマホ操作は続行しながらです。

この時の速度は約70km/hほどですが、運転、メール打ち、ルートや交通の状況判断、文章を考えるなどを同時に(しかもハイスピードで)やっていたわけで、これはものすごい高等技術だと驚嘆させられました。
それにひきかえ、何度か書いた、トロトロ走りをする若い男性なども同世代だろうと思うと、この差はいったい何なのか!? もうこの世に男の役目はないという兆候のあらわれかもしれない気がしました。

2013/12/18 Wed. 01:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

特別なピアノ 

知り合いのピアノ技術者さんから教えていただいたのですが、現在、世界で製造されるピアノの中で、本当に特別だと云えるものはわずか数社しかないらしく、そこには三大名器といわれるスタインウェイもベーゼンドルファーもベヒシュタインも含まれていません。

その特別なメーカーは4社で、すべてヨーロッパに集中しており、いずれも小さな会社ばかりです。
その数少ないメーカーのひとつがステファン・パウレロというフランスの小さな会社で、マロニエ君はこのときに初めてこのメーカーを知りました。

過日、フランスの老舗ピアノメーカーであるプレイエルが製造を中止したということを書いたばかりで、ついにフランス製ピアノの火が消えてしまったと思っていたところ、思いがけないところに思いがけないかたちでフランスのピアノがいまなお棲息していることを知り、たいへん驚かされました。

さっそくホームページを探したところ、たしかにその会社のサイトが見つかり、ずいぶんとマニアックなメーカーのような印象を受けました。
外観はひと時代前のハンブルク・スタインウェイに瓜二つで、はじめはファブリーニのようなスタインウェイベースのスペシャルピアノかと思ったほどです。

中型グランドとコンサートグランドがあり、なんとそれぞれに交叉弦と並行弦のモデルがあるのが驚きでした。いまさら並行弦に拘るというのはどういう意図なのかと興味津々です。

サイト内にはステファン・パウレロ・ピアノを使った数種のCDが紹介されており、クリックすれば短時間のみ音が聞けるようになっていますが、なんとかして手に入れたくなりネットで検索してみると、アマゾンなどで辛うじて引っ掛かってくるものがありました。
こういうときは、ネットの威力をまざまざと思い知らされ、昔だったらとてもではないけれどもそんなCDを海外から探し出して個人が簡単に手に入れるなどという離れ業は不可能だったに違いありません。

さっそく届いたCDの包みをひらいて、はやる気持ちを抑えながらプレーヤーにのせる瞬間というのは、何度経験してもわくわくさせられます。
果たしてステファン・パウレロのピアノはパワーもあるし、まず印象的だったのは、まとまり感のある完成度の高いピアノという点でした。多くの工房規模のピアノには、この上なく上質な美音を聞かせる一面があるかと思うと、ある種の未熟さみたいなものが解決されずに放置されているように感じることが少なくありませんが、このピアノはそういうアンバランスがなく、よほど設計が優秀なのだろうと思いました。
ホームページの図によれば、支柱の形状には独特なカーブなどがあるなど、随所に独創性があるようですが、音そのものは今風の至って普通の感じだったのはちょっと肩すかしをくらったようでした。

その技術者さんが海外のお知り合いなどへ問い合わせをされたところによれば、ここ20年ぐらい、年に3台ぐらいのペースで作られているそうで、これは生産というより、限りなく趣味か道楽に近いスタンスのようにも思われます。
もともとはステファン・パウレロ氏はピアノ設計者として有名だったのだそうで、他社からもいろいろなピアノの設計依頼があるようです。

生産を中止したプレイエルの中型グランドもステファン・パウレロの設計だったようですし、中国製のピアノにもここの設計によるピアノがいくつかあるようです。もしそれが高度な生産クオリティで設計者の意図に忠実に作られているとすれば、かなりコストパフォーマンスの高いピアノが期待できそうです。
ただしピアノ(というか楽器は)はエモーショナルな要素を多分に含むものなので、中国製ということに抵抗感がなければの話ですが…。

本家ステファン・パウレロのピアノは、ヨーロッパならともかく日本ではまず本物の音を聴ける機会など今後もまずないでしょうね。

2013/12/15 Sun. 01:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit

人の本性 

車検の時期が近づくのは車を持つ者にとって誰しも憂鬱なことだと思います。

マロニエ君の古いフランス車も今月が車検で、いつも自ら検査場に出向いてユーザー車検で通しているのですが、車検場を取り仕切るのはすべてお役人で、彼らはどんな小さなことでも問題点だと認識したが最後、こちらがくだらないと思うようなことでも絶対にお目こぼしはありません。

毎度のことながら緊張の連続で、いつも心身ともにヘトヘトになるのがマロニエ君にとっての車検の常です。今回もいろいろあって、半日がかりでやっと全項目に合格印を取り付け、残るは書類の提出のみという段になって、最後の最後にとんでもない目に遭わされました。

陸運支局の事務所前に車を止め、検査終了の書類を窓口に提出したところ、足りない書類があると指摘され、あわてて車へ取りに行ったときのこと、マロニエ君の車の前に白いクラウンが駐車しようとバックしていましたが、その動きにぶつかる気配を感じ、慌てて駈け寄り声を発しながらそのクラウンの後部ボディを叩いて、止まるように合図を送ったのですが、間に合わずにこちらの車の鼻先とクラウンのリアバンパーがわずかに接触してしまいました。

中から初老の男性が降りてきて、「当たった?」と云いながら後ろへまわり、接触部分を見るや苦笑いしながら「あー、すんません」といいました。
当方のバンパー先端に付いているナンバープレートが、ステーごとクラウンのリアバンパーに軽くめり込んでいましたが、だいたい今どきの車のバンパーは柔らかい材質でできているので、大したことはないことはすぐにわかりました。
さて、事務所内では窓口の人が書類を持ってくるのを手を止めて待っているので、とっさにその書類を持っていくことを優先させたのですが、これがいけませんでした。

再び現場に戻ると、そのクラウンはすでに30cmぐらい前に移動し、幸いキズらしきものはありませんでしたが、なんとそのドライバーの口から出た言葉は、「どこも当たってない。だいたいね、アンタの車が線から出てるからいけない(たしかにちょっと出てはいました)。自分はいつもここに止めるから慣れてるし横のラインを目安にして止めるようにしている。そっちの前がはみ出しているからで、アンタこそ止め方を注意しなくちゃいかんよ」と昂然と言い立ててきたのには耳を疑いました。
線から出ていればぶつけてもいいという理屈です。

「その上、自分の用事で勝手に俺を待たせた」などと思いもよらないことを次々に言い始め、接触直後とは態度がまるで別人です。目撃者も数人いたのですが、みんな自分の用で動いているので、そうそう一箇所に留まってはくれません。
「なにを言っているんですか?当たっていたのは、さっきアナタも見たじゃないですか!」というと「いーや、当たっていなかった」「当たってましたよ!」「当たったという証拠があるのか!」とほとんど居直ってきたのには、さすがに怒りと恐怖が同時に襲ってきましたが、その男性は「証拠がない!」と云いながら、さっさと目の前の建物内に消えていきました。

マロニエ君はキズもないようだし、あったにしてもわからない程度なので、このまま和解する心づもりだったのですが、お詫びどころか、黒を白だと言い張るあまりの無礼な態度には、さすがに怒りが収まらず警察に通報しました。
しばらくして警察官が2人やってきて、その男性を探し出して事情を聞きますが、警察が来ておどろいたのか、事実とは真逆のことを淀みなくベラベラと警察官に説明するスタミナにはさらに仰天させられ、人はこんなにもあからさまなウソがつけるものかという驚きと、言い知れぬ虚しさが身体全体を突き抜けるようでした。

そもそも当たっていないのなら、こちらはなんの目的で警察を呼んだりするでしょう。人の目もあり、そんな自作自演をすることになんの意味も合理的理由も利益もありません。

警察官は二人ともこちらの説明に当初から納得してたようで、マロニエ君とその初老男性を引き離し、ずいぶん根気よくその男性相手に説得していましたが、1時間近く経った頃、ついには「当たったかもしれない」というところまで発言が変わり、最後はだらしない笑みを浮かべて「すいませんでした」といいましたから、これでお開きにしました。
警察官を含めた4人のうち、その男性だけがまっ先に薄汚れたアイボリーのクラウンに乗り込み、サーッと駐車場を出ていきました。

きっとその男性は、こちらが「外車」だと見て、高い修理代などを請求されるかもという恐れが頭をよぎり、マロニエ君が書類を出しに走っていった間に、キズがないのをいいことにこのような豹変劇を思いついたのだろうと思いますが、いい歳をした人生の先輩が当たり構わずつきまくる恥知らずな大ウソの洪水には、さすがに打ちのめされました。
当たったところの写真があれば何よりの証拠で、ケイタイのカメラはこういうときこそ活用するもんだとつくづく思いましたが後の祭りです。

まったく後味の悪い1時間あまりでしたが、警察官のひとりは「こういうことをいつまでも考えているのはいい事じゃないですから、できるだけ早く忘れてください。よろしくお願いします。」と丁寧に云ってくれたのがせめてもの救いでした。
ちなみにこのクラウンが「いつも止めている」という場所は身体障害者用スペースでした。

2013/12/13 Fri. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

Fの成長 

先日たまたま買った2枚のピアノのCD(バケッティのマルチェロ:ピアノソナタ集 ベクテレフのスクリャービン:練習曲集)は、いずれもファツィオリのピアノが使われており、スクリャービンはその旨の表記があったので購入前からわかっていましたが、もう一枚は中を開けてみてそうだとわかり、その偶然に驚きました。

これまでに主にCDで聴いてきた数々のファツィオリの印象をベースにしながら、今回あらたに2枚のCDを聴いてみての個人的な印象を少し。

ファツィオリが現在生産されるピアノの中でも、最上ランクに位置する一流品であることには異論はありませんし、事実そうなのだろうと思います。

ファツィオリは材料その他すべてにこだわったピアノといわれ、その音にはある種の濃厚な色彩と密度感があり、こういう音はコストダウンの思想からは決して生まれ得ないものであることは聴いていても容易に頷けるところです。
アップライトを作らず、大量生産にもシフトせず、あくまでも納得のいく工法で良心的な楽器造りを貫いているという点でも、ほんらい高級ピアノの生産とはこうあるべきだというスタイルを示している数少ないメーカーのようです。

ただ、まったく個人的な好みで云うと、ファツィオリは聴いていて、ピアノを聴く喜びというか心地よさが不思議に稀薄で、これは何が原因だろうかというのが、いつも聴きながら感じる疑問です。その音の美しさと、生きた音楽としての脈動には、いささかの乖離があるのか…。
ひとつひとつの音は、よく練り込まれ、磨かれて、じゅうぶん美しいにもかかわらず、表現が上手くないのですが、楽器として息が詰まっている感じが拭えません。

音は美しいけれど、響きに開放感がないのかとも思いますが、あくまで個人的な印象で決定的なことはわかりません。音量もずいぶんあるようで、以前、知り合いの技術者さんがファツィオリのピアノを調律するときは耳栓をして作業をすると云っていたことも思い出しましたが、とにかく音がかなり大きなピアノだろうというのは聴いていてそれとなく感じます。

ところが、マロニエ君の印象では、それだけの音質音量に見合った響きの飛距離が不足しているのか、ストンと落ちてしまう紙飛行機のような印象です。(これは音の伸びのことではありません)
楽器の音は、発音された音そのものも重要ですが、それが空気に乗って飛翔するところに聴く者は酔いしれ、味わいとか心地よさ、ポエムもファンタジーも激情も、その広がる響きの中に姿をあらわし、ひいては音楽として精神が旅をするものではないかという気がします。

この点では、ずいぶんと品質も落ちてしまったスタインウェイなどは、この響きの特性と開放感によって、辛うじてそのブランド力を維持しているようにも思います。

マロニエ君にとってはファツィオリが新興メーカーであるどうかなど、まったく問題とはしませんが、結果から見て、やはり歴史あるメーカーは深いところにあるどうしようもない何かが違うのだろうかとも思います。
以前はあまり良さのわからなかったベヒシュタインのDなども、最近になってそれなりに素晴らしいと思えるようになりましたし、シュタイングレーバーなどは能楽のような精神的高貴を感じます。

それぞれに個性というか哲学のようなものを感じますが、ファツィオリにはもうひとつこの楽器ならではの顔がわからない。ファツィオリの濃厚さがコクになり、あの豪奢が頽廃の陰を帯びたとき、本当の一流品になるのかもしれませんが、今はまだ一生懸命というか、頂点を目指してひた走っているという印象のほうを強く感じてしまいます。

それでも、とくに最近のモデルの傾向なのか、この2枚のCDに聴くファツィオリは以前よりもしなやかさが勝り、素直に感心させられる面が多々あったことも事実です。いずれもファツィオリの所有のようで、とくにスクリャービンで使われた楽器は同社の貸出用らしく、これまで数多く聴いたものの中ではとくに風格や余韻もあって最良の楽器という気がしました。
いずれもF278で、これがベストバランスのような気もします。

F308はイタリアお得意の12気筒スーパーカーみたいな印象でしょうか。

2013/12/11 Wed. 01:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

けちんぼ 

吝嗇家とは、早い話が「けちんぼ」のことです。

いきなりですが、圧倒的な異才で一世を風靡したパガニーニは大変なけちんぼのようで、コンサートともなると会場の手配からキップ売りまですべてを自分で差配し、当日もお客さんの受付が済むと会場に鍵をかけてから演奏したというのですから驚きです。
パガニーニといえばグァルネリ・デル・ジェズの「カノン砲」と呼ばれる名器を使っていたことでも有名ですが、この名器もさる篤志家から進呈されたもので、そのタダでもらったカノン砲を人に見せるのさえも断じて拒んだという、筋金入りのけちんぼだったそうです。

パガニーニほどの天才なら何をやっても超越できるでしょうが、凡人はなかなかそうはいかず、所詮は人との関係を良好に保って生きていくしかなく、そうなるとけちんぼというのは割に合わないというか、その副作用も大きいと思います。

むかしから「けちんぼは得をしない」と言われていますが、これはまさに正鵠を得た言葉だと思います。けちんぼにもタイプがあって、それをある程度カミングアウトして陽気にいくタイプと、決してそういう顔はせずに、けちんぼであることをひた隠しにしながら、あくまで表向きは常識人の顔を作ろうとする、いわばむっつりタイプがあります。

前者は笑って済まされますが、後者には独特の冷たさと暗さを周囲に与えます。
陽気なけちんぼは自分はけちんぼだという自覚と笑いがあるのでまだ救えるのですが、後者は薄暗い心根にたえず支配され、ここはまさに明暗を分けるところ。人には悟られていないという甘い判断と、開き直っていないぶん内面の緊迫があり、これが最も始末におえないものです。

そのむっつりに限った話ですが、けちんぼというのはなにも物質や金銭に限ったことではなく、思考そのもの、つまり脳の機能が自動的にケチの方向に働く人のことですが、当人はそれを自分の才覚や賢さとさえ考えたりするようで笑ってしまいます。賢いどころか人に悟られていることさえ気付かない愚鈍な感性の持ち主でもあります。

かくいうマロニエ君も自分がケチではないと言い切る自信はありませんが、むっつりけちんぼのそれはどだい次元が違います。本物のけちんぼというのは思考を超えて体質であり、生理であり、細胞の問題なのかもしれません。彼らはそのせいで自分の人間的評価を大きく落としてしまっている。

商売の極意は「小さく損して、大きく儲ける」だそうですが、これは萬すべてのことに当てはまるように思います。けちんぼはまず儲けのための呼び水ともいうべき「小さく損すること」そのものが体質に合わず、頑なにそこから逃げてしまうので、当然ながら大きく得する展開に与ることはできません。

しかもそれで確実に得をするというものでもなく、当然ながら損のままで終わってしまうことも多々あるわけで、それが耐えられない。小さく損をしておく事は物事に対する広い意味での投資と見なすこともできるわけですが、けちんぼさんはそういう不確実なことに投資することに価値を見出せないようです。

人間関係の基本はギブ&テイクです。しかし、むっつりさんの特徴としては、他者からの恩恵は受けても、自分のほうが何かをしなくてはいけない局面になると、たいてい知らん顔を決め込みます。まったく気がつかない訳ではないようですが、そこでちょっと黙って過ごせばそれで事は済み、その一回分得すると脳が指令を出すから、できるだけそういうときは「意志的に消極的に」なるのでしょう。
ただこれは、当人はうまくやっているつもりらしいですが、相手には残酷なほどバレています。それを口にしないだけで、知らん顔VS知らん顔です。現代人はそういう演技はお手のものですから。

「小さく得して、大きく損する」のは人生経営としては甚だ割に合わないことだと思いますが…。

2013/12/09 Mon. 02:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガマンの風船 

間接的にですが、知り合いの医師から興味深い話を聞きました。

今の人が、表向きはひじょうにおだやかで、人間関係にも昔では考えられないほど用心深く、専ら良好な関係を保とうと努力しているにもかかわらず、ごくささいな行き違いやつまずきが原因で、あっけなく絶縁状態になってしまうことが珍しくないのは多くの人が感じているところでしょう。

何かあればそうなるであろうことを互いによく知っているから、ますます慎重に、ソフトに、ことさら友好的に振る舞うようですが、そのために少なくないストレスと疲労を伴います。それほどの努力を積み上げていても、何かちょっとでも気にそわない事が発生すると、多くの場合は無情にもそれで関係なりお付き合いはThe Endになるというのです。

聞いたのは、なぜそれほど些細なことで、絶縁という深刻な事態に発展するかというと、表面上良好な関係が維持できているときでも、すでに水面下ではあれこれとお互いに気に入らないことが頻発しており、それを常に押し殺し、ガマンにガマンを重ねているのだそうで、つまり常にいつ破裂してもおかしくないパンパンの風船みたいな状態になっていると見ていいんだそうです。

だから、小さな針の一差しで風船が破裂するように、そんなストレスまみれでぎりぎりに保っているバランス状態に、ちょっとしたミスやつまずきが起こると、それで最後の均衡が崩れ、ガマンの堤防は一気に決壊するという、甚だ不健康なメカニズムなのだそうです。

ではなぜそこまでガマンするのか。
ここからはマロニエ君の私見で、上記の話のパラドックスにすぎないことかもしれませんが、要するに現代は人とケンカができない、利害と打算と建前の世の中になってしまったということだろうと思います。
別にもめ事が良いことだと暴論を唱える気はありませんが、ケンカをしないようにするために、昔のように気を許した本音のお付き合いができなくなり、ノーミスが要求され、絶えず気を張って善良に振る舞うことに努めなくてはならなくなります。

しかし、ビジネス上の接待などならいざ知らず、通常の人間関係に於いてそんな演技のような関係ほど息の詰まることはありません。こういう風潮になってからというもの、本音をひた隠しにして、当たり障りのないことばかりを唇は喋り続け、ほとんど腫れ物に触るように気を遣いまくります。しかもそれは、本当に相手に対する気遣いではなく、これだけ気遣いをしていますよという自分の善良な姿を周囲にアピールしているだけ。要は自分の点数稼ぎにすぎないし、最低でもマイナスポイントだけは付けないように気を張っています。

現代人が表向きはおしなべて人当たりがよく、良好なような人間関係を保っているように見えるけれども、内情はまったくその逆というのは、かねがねマロニエ君も感じていたことでした。
良好なような振る舞いを見せられれば見せられるほど、そこには虚しいウソっぽさが異臭のように漂ってくるものです。

少しでも本音らしきことを漏らせば、すかさず「まあまあ」とか「いいじゃないですか」というような、オトナぶった、温厚の仮面を被った、極めて抑圧的な官憲の笛のような警告が飛んできます。
うかうか自分の考えもなかなか言えない世の中ですから、そりゃあ、破裂するのも当然でしょうね。

2013/12/07 Sat. 01:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ベーゼンは頑丈 

過日、あるピアノリサイタルでのトークで聞いた話を少々。

この日のプログラムは主にロマン派のピアノ曲がひとつの主題のもとに配され、当時のいろいろな音楽事情やそれに絡む作曲家の恋愛話などが興味深く語られました。

マロニエ君は基本的にトーク付きのコンサートというのは好きではなく、できることなら演奏者は演奏のみに専念してもらいたいところですが、これも時代の風潮というべきか、旧来のスタイルは今どきの人にとっては甚だ無愛想でつまらないものと感じられるのかもしれません。

トークといってもいろいろで、それこそ人によって様々です。
演奏を補佐するようにトークをほどよく織り込みながら、お話と演奏をバランスよく進めていかれる方もなくはないものの、大半は内心「こんなトークを聞くために、今ここに座っているわけではないんだけど…」と、ついため息が出るような、紋切り型の話をくどくどされる方も少なくありません。きっとご本人もトークをするのが不本意なんだろうと思いますが、そういう人の話は聞いているほうも楽しめないのは当然です。

逆に、本業は演奏家であるのに、妙にトークずれしてしまって、変に笑いを取ろうとするような人などもあり、そんなときは聞かされているこっちの方がなにかいたたまれない気持になるものです。

前置きが長くなりましたが、この時のトークは珍しく楽しいもので、演奏家のトークというものは演奏以上にその人が出てしまうものだとも思います。

さて、リストの話題になったときのこと、思いもかけない言葉がピアニストの口から出てきて、おやと思いました。
若い頃のリストはまさに超人気ピアニストで、それは彼の美貌と圧倒的な当時随一の超絶技巧による華麗なピアノ演奏にありました。まさにスーパースターです。
そのリストのリサイタル会場には常時2〜3台のピアノが置かれていて、それはリストの激しい演奏に楽器が耐えられず、演奏中にピアノが壊れてしまうので、そのために数台のピアノがいつも準備されていたようです。

この日のピアニストが言われるには、そんなリストの激しい演奏にも持ちこたえる頑丈なピアノを作ったのがあのベーゼンドルファーだったということでした。(このことは、9月半ばのこのブログにも書きました)

いまでこそベーゼンドルファーは、貴族的なウィンナトーンをもつ繊細優雅なピアノとされており、スタインウェイやヤマハとは生まれも目指すところもまったく違いますよという高貴なイメージになっていますが、歴史を紐解けばどうもそういうことばかりでもないようです。

このピアニストが言われることに説得力があったのは、リストの時代には頑丈さこそが身上だったベーゼンドルファーは、他のピアノに比べてフレームなどもとりわけ強固で頑健に作られている由で、それは今日のモデルにも受け継がれているので、皆さんも機会があったらぜひ中を覗いて見てくださいと言われるのです。

通常ベーゼンドルファーは、楽器としての素晴らしさもさることながら、工芸品としての仕上げのクオリティでも見せるピアノでもあるので、ついそっちにばかりに目が向いてしまいますが、実際はずいぶん頑丈そうなフレームをしていて、ブリッジも縦横に伸びていますし、太いネジなどもバンバン打ち込まれています。エクステリアデザインも、頑丈さから来たピアノといえば確かにそうだと思われます(例外は今はなき優美なModel275)。
ベーゼンドルファー=ウィーンの伝統に根差した気品あふれるピアノという強いイメージが刷り込まれているので、そういう固定観念をもって見ていた自分にハタと気がつきました。

それとは別に近年感じていたことは、ベーゼンといえば「やわらかな木の音がするピアノ」というイメージが長らく定着していますが、そちらのほうは最近は少しずつ印象が変化してきているところではありました。
というのも、ベーゼンで多く耳にするのは意外にも鋭い金属的な音のするピアノが多く、個体によっては音がつき刺さってくるようで耳が疲れることがあるように感じます。

ウィンナトーンなどと云われると、ウィーンフィルやムジークフェライン、シェーンブルン宮殿などをつい連想して、それだけでもうなにやらありがたくて評価の対象ではないような気になってしまっています。
そんなウィンナトーンのピアノの筆頭であるベーゼンで耳が疲れるなど、こっちの耳がおかしいのだろう…ぐらいに思ってもみたのですが、でもやっぱり感じるものは感じるわけで、あまり硬質な、きつい感じの音がすると、んー…という印象をもってしまいます。

伝統あるものに敬意を払い尊重することは大切ですが、同時に自分の感性に対しては常に正直でなくてはいけないと思います。

2013/12/04 Wed. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

事務用品で代用 

一般的にみなさんどうなのかは知りませんが、少なくともマロニエ君が自分でピアノを弾くにあたって、音やタッチのことは別とすれば、もっとも嫌なのは滑りやすい鍵盤です。

鍵盤が滑りやすいということは、むやみにミスタッチの誘因となるばかりでなく、そればかりに気を遣って、安心して弾く楽しみが得られません。滑りやすい鍵盤のせいで、しなくてもいいミスをするのは本当にいやなものです。
そもそも自分が下手クソなのは致し方ないことで、いまさらこの点を嘆いてもはじまりませんが、最低限自分のもっている甚だ乏しい演奏能力さえ指が滑ることで大きくスポイルされてしまうのは、ひとえに滑りやすい鍵盤のせいで、これは甚だおもしろくありません。

とりわけ質の良くない象牙鍵盤が弾き込まれると、表面は異様なほどサラサラスベスベになり、指先を適度に止めるという性質が完全に失われてしまいます。
現在、我が家で愛奏しているディアパソンは、幸いにもこの点ではそこそこの象牙のようで、それほど悪くはないのですが、マロニエ君の手や指が脂性でも汗っかきでもないためか、やはりやや滑り気味です。

滑るといえば、黒鍵の黒檀も、見た感じや指先の触れる感触こそ良いけれども、こと滑りやすさという点ではむしろプラスチック以下だというのが正直な印象です。
これがさらにスタインウェイなどの外国製ピアノになると、欧米人の太い指を想定して、黒鍵の間に指が入るように日本製ピアノより黒鍵がひとまわり細く作られているので、滑りやすい感触と細さの相乗作用によって、これがまたかなり弾きにくいのは事実です。

見てくれや質感を別にすれば、少なくともマロニエ君にとって最も安心できるのは白鍵も黒鍵も、あの安っぽいただの白黒の無味乾燥なプラスチック鍵盤ということになります。
よほど高級品が体に合わないというということなのかもしれませんが…。

これまでにも、市販の肌水などで手を揉むなどして試してみましたが、それなりでしかなく、決定的な解決策はありません。
即効性と一瞬の効力という点でいうなら、圧倒的なのは、名前はわかりませんが、オフィスなどで紙を数えるときなどに指が滑らないように指先にちょっとつける事務用品が文具店に売っていますが、あれは効果てきめんです。

ただし、この事務用としてつくられたケミカル品は、指先に硬いジェル状のそれを塗りつけて弾くとしばらくはまったく爽快なのですが、悲しいかなものの数分でその効果が失われてしまうことです。この製品で、もっと持続力があるものがあれば、例え値段は十倍してもマロニエ君は躊躇なく購入するでしょう。

それでも、ないよりはマシというわけで、譜面台の端にはいつもこの丸い容器に入ったピンクの事務用品を置いていますが、これをつけるたびに他の人はどうしておられるのだろうとしみじみ思ってしまいます。

よくレストランのお盆などに、載せた食器が滑らないように、ややネチャッとした素材で出来たものがありますが、まあさすがに鍵盤をそんな素材で作るわけにもいかないでしょうけれど、やはり滑りすぎが嫌な人のためのなんらかの対策グッズが、ピアノメーカーから開発されても良さそうな気がします。滑らない鍵盤は好ましいタッチに匹敵するほどの、演奏者にとって重要なファクターだと思うのですが、どうしてその手がまったく出てこないのか、こればっかりは不思議でしかたありません。

「持続力のある指先もしくは鍵盤滑り止め剤」みたいなものを開発したら、かなり売れると思うのですが…。

2013/12/02 Mon. 01:54 | trackback: 0 | comment: -- | edit