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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

クロイツァー豊子 

レオニード・クロイツァーといえば、戦後の日本に於けるピアノ教育の中心的存在であったことは誰もが知るところです。
そして、その夫人は門下生でもあった日本人のクロイツァー豊子さんです。

クロイツァー豊子さんご自身も教育者・演奏家として活躍され、現在でも多くのお弟子さん達が活躍されており、その功績は大変なものがあるようです。ところが、その演奏はまったく耳にしたことがなかったため、彼女の晩年の演奏がCDとなったので聴いてみることにしました。

これは、カメラータ・トウキョウの有名プロデューサー、井坂紘氏がプライベートCDを耳にする機会があったことに端を発して製品化され、発売されたもののようです。
演奏は1987年、1989年、1990年のものから集められたもので、豊子さんは1916年の生まれですから、すべて70代前半のものということになり、しかも1990年に亡くなられているので、ほとんど晩年の演奏ということになるようです。

その演奏には洗練があり、時代背景などを考えてみれば、やはり驚くべき演奏であるというのが率直なところです。
1916年といえば大正5年で、こんな時代に日本で生まれ育った女性がピアノを学んで、ここまでの演奏をものにしたということは、ご自身の才能や夫君の影響などがあったにせよ、豊子さんのピアノに託した純粋で高潔な精神の賜物であることは疑いようもないでしょう。

とくに西洋音楽の分野は、マロニエ君の子供のころでさえ、まだまだ今とは遙かに事情が違っていましたから、ましてや祖父母の世代にあたるこの時代の日本人が、クラシック音楽の真髄を目指して一心不乱に人生を全うされたことに、ストレートな感動を覚えずにはいられませんでした。

このCDに収められたのはすべてショパンの作品ですが、豊子さんの時代は、ショパンといえばコルトー、コルトーといえばショパンという絶対的な尺度がありました。このCDの演奏にもマロニエ君の耳にはコルトーの影をうっすらと感じる部分があるようにも思われましたが、同時に、より普遍的で、夫クロイツァー氏の影響も大きかったのか、そこにはロシア的ドイツ的な要素も帯びていうべきなのかもしれません。

その演奏に時代を感じさせるのは、豊子さんが生きた時代そのものに、今日のような音楽上の土壌がない分、とにかく真面目に「学んだ」、必死に「身につけた」という固さがある点ですが、まずはこの時代の日本人が、これだけの演奏術と音楽的教養を習得されたというだけでも天晴れといったところでしょうか。

徹底して真っ当でごまかしのない、美しいお点前のような見事な演奏ですが、表現性という点に於いてはいささか型通りというか、ややお行儀が良すぎて、もうひとつ自然体の語りがないのが本質的に素晴らしいだけに残念です。
そこに一片の閃きや冒険があれば云うこと無しなのでしょうけれど、それを今の基準で求めるのは酷というものかもしれませんし、それを求めたくなるほどの高い次元に到達しているという証明でもあるでしょう。おそらくこの時代は、楽譜通りに弾くというだけでも大変だった筈ですから、いかに豊子さんがそういう基準とは一線を画した、高度な演奏を目標とされていたかが伺われます。

ライナーノートの見開き一面には、クロイツァー夫妻の仲睦まじい様子を捉えた写真がありますが、それは結婚直後の茅ヶ崎の自宅の由。そこに置かれたピアノは、かのクララ・シューマンやヴァルター・ギーゼキングが愛した銘器グロトリアン・シュタインヴェークでした。


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2013/10/29 Tue. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

中国の衝撃映像 

テレビの衝撃映像物は嫌いではないので、ときどき録画して見るのですが、この手の番組では中国の映像が数多く採り上げられるのは毎度のことです。

最近見た番組(といっても録画してすぐ見ないので少し前の放送)では、そんな中でもとくに印象的な中国の衝撃映像があって、いずれも車に関するものでした。

ひとつは、あるカップルが車のショールームに行ったところ、その女性のほうが一台の車を気に入って「これ買って!買って!」と相手の男性におねだりを始めました。
しかし男性は「買わない」とあくまでも拒みますが、「どうしても欲しい」「ダメだ」「これが欲しい」「いやダメだ」と激しい押し問答が続きます。

すると興奮した女性はいきなり運転席に乗り込み、ドアを閉め、躊躇なくエンジンをかけました。
この想定外の行動にはさすがの男性とお店の店員はひどく慌てますが、二人の懸命な制止も聞かず、その女性はついに車を発進させました。断っておきますが、これは野外ではなく、あくまでショールーム内での話です。

数メートル走ったところで、ついにその男性も根負けしたのか、「わかった、買う!買うから車から降りて!」と必死に訴えて、ようやく女性は車を止め、ともかくこの場は事なきを得たというものでした。
その後、本当に買ったのかどうかはわかりませんが、中国女性のおねだりの仕方もすごいし、そもそもショールームに展示中の車にエンジンキーが付いているということにも驚きでした。

もうひとつは、ある街の交差点の監視カメラの映像で、信号停車しようとする一台の赤いスポーツカーに、となり車線から来た大型の黒いセダンがググッと幅寄せしたかと思ったら、たちまち二台は接触。すると赤い車はその場を逃れるように走り去りますが、黒い車もすぐ後に続きます。
しばらくすると、またさっきの赤い車が別方向から現れ、交差点を右折しようと停車中、そこへ黒い方が再びやってきて、今度は赤い車の側面をめがけて猛牛のように突進し、黒い車のフロントが赤い車の側面へ食い込むかたちでの激しいクラッシュとなりました。

すると、それぞれの車から人が降りてきて、黒い車のドライバーが、赤い車のドライバーを走って追いかけ、ついには画面上からいなくなり、交差点の真ん中にはぐちゃりと大破した二台の車が放置されることに。

ナレーションによると、なんとこの二人は父と息子で、親子げんかの挙げ句、赤い車で家を飛び出した息子を、怒り心頭の父親が別の車で追いかけ回し、その挙げ句に車ごと体当たりを繰り返して、最後に激突させたというのですから、そのすさまじさたるや、ただもう唖然とするばかり。
しかもこの車、赤い方はBMWのZ4、黒い方はベンツのSクラスという高級車同士なのですから、最低でも2台合わせて二千万円はする筈で、きっとこれは世に言う中国の富裕層の親子に違いありません。

しかも中国では、関税などの関係からか、日本で買うよりも車の値段はずっと高く、さらには登録などにも法外な費用がかかると云います。加えて国民の平均所得の低さ、とりわけ一般人の安い労働賃金、就職難など、GDP世界第二位という華やかさの陰で、この国が抱える貧困は深刻な社会問題にまでなっていると云われてます。そんな衆人環視の中で、こんなリッチなケンカを公道でするとは、道徳心、金銭感覚、危険意識、いずれの観点からみても日本ではちょっと考えられないことだと思いました。

「それが貧富の差というもの」といわれればそれまでですが、夥しい数の貧しい人民の不満と絶望が国中に充満し、中国政府はその爆発を最も恐れているといわれますが、そんな人々の苦しみをよそに、富裕層だけがこんな調子じゃ一般人の怒りは収まるはずはないと思ってしまう、まさに笑うに笑えない衝撃映像でした。

2013/10/26 Sat. 01:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

そこそこの幸い 

前回の終わりの部分で、マロニエ君はこんなブログは書いてはいるけれども、実はホールにもピアノにも、それほどうるさくはないということで結びました。

その理由を少々。
まず第一には、マロニエ君には多少の好みはあるにしても、ホールやピアノをどうこう言うに値するような鍛えられた耳を持ってはいないということ。第二には、それをやりだしたら何一つ満足のない、不満だらけの世界の住人になるしかないという結果をじゅうぶんわかっているからなのです。

例えば、オーディオ。
ひとたびこれに凝り出したが最後、終わりのない追求地獄のはじまりで、オーディオを構成するすべての器機や付属物に対して、たえずより良いものを求める試行錯誤や買い換えなどが果てしな続くことになります。
とりわけオーディオは高い物がすべて良しというわけでもなく、器機同士の相性やセッティングの妙、さらには好みや多様な価値観が入り乱れ、終極的には家から建て直さなくてはいけないところまでエスカレートすることもあるようです。

それでも最終的には音を出してみるまではわからないし、その判断には主観も入れば、人によって評価も異なります。さんざんやったあげく、結局はじめのセットのほうが良かったりと、究極を極めるゴールの前にはご苦労地獄が際限なく広がっているようなものですし、そもそもゴールなんてないのかもしれません。それを承知で楽しんでいられればいいけれど、それは人によるでしょう。

ピアノしかりで、ある一定の予算の歯止めがかかって、その範囲内でのピアノの良し悪しや調整などに拘っているうちはまだいいのですが、中には経済力もあり世界の名器を購入して技術者も有名な方を自宅に呼び寄せて、自分がこうだとイメージしたピアノにすべく、最高最上を目指す方がおられるようです。

こういう方は、自分の中にすでに出来上がった理想の音というものがあって、妥協を許さず、その拘りの強さはハンパなものではありません。それを実現するため最高級のピアノを購入し、自分の描いた恍惚の世界に浸り込もうと躍起になるようですが、現実はなかなかそう思った通りにはなりません。客観的にはかなりものになっていても、理想が先にあって、それを具現化することに捕らわれてしまった人は、許容範囲というものが無いに等しく、良いと思ってもまた不満が募って悶々とする日々が続きます。

そのうち技術者のせいではと別の人に交代、それでダメなら今度はコンサート専門のピアノテクニシャンなんかを呼びつけたりしますが、こうなるとまわりの人達も大変なら、その間の当人のイライラは相当のもので、せっかく憧れのピアノ買ったにもかかわらず、思い通りに行かないことに却ってストレスは嵩み、理想はいつしか不満の裏返しに…。

こうなると、もはや冷静な気持で自分のピアノの良さを見つめることもできないわけで、せっかくの素晴らしいピアノも持ち主から愛されることなく、最悪の場合、とうとう別のピアノに買い換えるなんてことまであると聞きます。結局は、理想が高いばかりに、並大抵のことでは満足できない大変不幸な状態に縛り付けられてしまうようです。

マロニエ君としては、なにより自分が好きなピアノや音楽を、こうした不満やストレスの対象にするなんてまっぴらです。だから自分のピアノにもある程度のコンディションの良さは求めはしますが、決して過度の追求はしないことにしています。点数でいうなら70点でまあまあ。80点もあればじゅうぶんで、まぐれで90点ぐらいになろうものなら超ラッキーぐらいに考えています。

それでなくても、自分が何者でもないくせに最高のものを手にしたいなどとは傲慢な考えであり、そういう勘違いだけはしたくないわけです。そもそも音の追求などマロニエ君のようなナマケモノには性が合いませんから、そのぶん却って自分は幸いだったようにも思います。

2013/10/24 Thu. 01:41 | trackback: 0 | comment: -- | edit

音響の憂鬱 

前回の「音響」ということで思い出しましたが、少し前、久しぶりにピアノリサイタルに行きました。久しぶりであるだけに多少の期待も込めながら席に座りました。

あえて個々の固有名詞は使いませんが、会場は福岡在住で多少なりとも音楽に関心のある人なら誰でも知っている、かなり稼働率の高い小さなホールです。

交通の便と260席というサイズからここを利用する演奏者は多く、小規模のコンサートはこのホールがその需要の大半を握っているといっても過言ではありません。
しかしその音響の酷さは以前から悪評高く、マロニエ君自身もこの点で最も行きたくないホールのひとつなのですが、それでも、これに替わる使いやすい小ホールがないという現状を背景に、オープンから約20年を経過して尚、ここばかりが頻繁に使われています。

その理由は専らロケーションで、少し郊外にいけばもっと良いホールはいくつもあるのですが、もともと集客の見込めないクラシックでは、場所が少しでも不便になるともうそれだけで人の足は向きません。従って音響に多少の問題があろうと、都心にあるこのホールばかりが利用されるという状況が生まれてしまうようです。

その音響ですが、何度行っても慣れるどころか、そのたびに「うわぁ、これほどだったか!」と新鮮なショックを受け、終演の頃にはフラフラになるほど神経が疲れてしまいます。
壁などのホールの内装材は、見た目には木材らしきものが使われており、いちおう尤もらしい姿形にはなっているものの、そこで耳にする音はおよそ美しい音楽のそれとはかけ離れた衝撃音の滝壺にでもいるようです。

知人によれば「あそこは古楽器とかギターのリサイタルがせいぜい」といいますが、まさにその通りで、ピアノリサイタルともなると、まるで温泉の大浴場にスタインウェイを置いて弾いているようで、その音はまさに暴風雨のごとくホール内を暴れまくります。

この日は、あまつさえピアノのコンディションも芳しくなく、品性の欠片もない音がビンビンと出てくるばかり。ピアノを聴く期待と喜びは一気に苦痛の2時間へと暗転です。
こうなるとスタインウェイの特性が裏目に出て、荒れた倍音が神経を逆撫でするのは拷問のようでした。よほど途中で帰ろうかとも思いましたが、そうもできない事情もあって最後までこの苦行になんとか耐え抜き、終演後は足早に会場を飛び出しました。
帰宅後はすぐに食事をして、そのままベッドに倒れ込みましたが、誇張でなく本当にそれほど疲れてしまったのです。

ピアニストはテクニシャンを自負しているのかもしれませんが、ほとんど格闘技のようにパワーで押しまくり、力でねじ伏せて拍手喝采を取りつけるやり方は、まるでスポーツ系だと思いました。
ほんらいプロの音楽家は、ホールの響きとピアノの状態を察知して、可能な限りそれにかなったやり方で最良の演奏を聴衆に提供すべきですが、弾ける人は弾けるところを見せつけて会場を圧倒し、夜ごとヒーローにならなくては気が済まないものなのかもしれません。

コンサートにも後味というものがありますが、なんとなく良い気分になって帰路に就くことは、なんと難しいことかと思わずにはいられません。

念のために言い添えておきますと、マロニエ君はこんなブログを書いてはいますが、実際にはホールもピアノも演奏も、決して厳しいことを言い立てるタイプではないのです。そこそこのものであればじゅうぶんで、単純に満足できますし、だいいちそのほうがずっと自分が幸せというものです。

理想を追い求めるのは、常に不満の充溢する嶮しい道を進むことで、マロニエ君はとてもそんな道に耐えていくだけの気概も胆力も能力もありません。
ただ、それでも、じぶんがいやなものはいやで、そこにウソはつきたくないというだけのことです。


2013/10/22 Tue. 01:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

響きの二極化 

スピーカーの音質改善で試みた結果、レンガはカーペット以上に音を吸収する性質があるのでは?という疑念を植え付けられてしまいました。そして、オーディオ装置や楽器のまわりは、素材の使い方しだいで予想を超えた影響が生じるらしいということが身に滲みました。わかっておられる方にすれば当たり前のことで、何をいまさら!という事なんでしょうが…。

さらには最近テレビで偶然目にした歌の録音現場は、美しい寄せ木で張り巡らされたスタジオの床や壁に対して、ガラスで仕切られたモニタールームの背後の壁は、凹凸をつけて配置されたレンガのようなもので埋め尽くされていて、こちらはできるだけ音を出したり響いたりしてはいけない場所なので、その素材としてレンガが使われているのだろうか?と考えてしまいました。

その真偽のほどはわかりませんが、要は音楽を奏する場所の床や壁の素材は、楽器に準じるほど慎重でなくてはならず、この使い分けを間違えると大変なことが起こるということで、そう思うとマロニエ君にも思い当たる場所がいくつか頭に浮かびました。

福岡市には市が運営する音楽・演劇の大規模な練習施設があり、そこの大練習室というのはオーケストラの練習もじゅうぶん可能な広さで、専用のスタインウェイのDまであり、ちょっとしたコンサートなら十分可能に見えるのですが、以前ある知り合いのピアニストがここでリサイタルをおこなった際、別の人が会場を手配したために本人の事前確認ができず、当日あまりデッドな音響に驚愕することになり、お客さんにお詫びをして、とうとう後日べつの会場でやり直しコンサートを開催するということがありました。

その原因は、壁のあちこちに音を吸収する素材が無数に貼り付けてあり、意図的に音が響かないよう対策が講じられていたためでした。(その理由は不明)
また市内には個人ホールで大変立派なものがあり、最上級の素晴らしいピアノも備え付けられて、見た感じはまことに申し分ないのですが、果たしてそこで聴く音は信じられないほど広がりのない詰まった音で、あまりのことに休憩時間中壁を観察すると、ここもまた響かないための材質で四方がびっしりと覆い尽くされていました。
ホールが作りたかったのか、ホールのような防音室が作りたかったのか、まったく不明です。

その逆もあって、ある楽器店では床も壁も固い石材とガラスで覆われており、こちらは響きというよりは音がむやみに暴れて混濁するだけ。おそらく音響のことを念頭に置かずに、ただ高級ブティックのようにしたかっただけなのかもしれませんが、最低限の配慮はほしいところです。

もちろん好ましい例もあり、以前にも書いた福銀ホールや、個人ホールにもうっとりするほど響きの美しいところがありますし、ピアノ店にも音の微妙さをじゅうぶん感じられる環境のお店もあるわけで、音響に関しては見事に二極化しているような印象です。

ホールの音響のことは専門領域でわかりませんが、普通のピアノ店レベルでいうなら、床はよく会議室とかスポーツ施設のフロントの床などで使われる、毛足の短い化繊のカーペットがありますが、あのあたりが最適なような気がします。おそらくはあの硬くてタフなカーペットは、中途半端にしか音を吸収できず、それがピアノには偶然いい具合に向いているのかもしれません。

いずれにしろ、楽器が音を出す場所で響きに対してあまりに無頓着だと悲惨な結果を招くということで、何事も最上というわけにはいかないものですが、なんとか妥協の範囲であってほしいものです。

2013/10/20 Sun. 02:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヤン・リシェツキ 

カナダの若手ピアニスト、ヤン・リシェツキのピアノリサイタルの様子を録画で観ました。
1995年生まれで、一昨年2011年の来日公演ですから、このときわずか16歳というのは驚くべきですが、その風貌はというと、とてもそんな歳とは思えない長身の金髪青年で、ピアノがひとまわり小さく見えるほどの偉丈夫ぶりでした。

リシェツキの存在は数年前から時折聞こえていましたが、いわゆる天才少年というものは、音楽の世界では決して珍しいものではありませんし、世界的演奏家は大半が天才だといっても過言ではないかもしれません。
ただし、その天才にもランクというものがあるようですが。

マロニエ君はショパン協会公認とかいうポーランドお墨付きのCDで、彼がワルシャワでショパンの2つの協奏曲を弾いたライブ盤を購入していましたが、そこに聴く印象では、技術的にも立派で滞りなく弾き進められているし、それが14歳の少年であることを考えると、もちろん大したものだとは思いましたが、では本当に心底驚いたのかといえば、実はそれほどの何かはなかったというのが偽らざるところでした。
その昔、同じくこの2曲による12歳のキーシンのデビューライヴ録音を聴いたときの、驚愕と衝撃には較べるべくもなく、往々にして第一級の天才というものは、聴いている大人の心の深い綾のようなところにまで迫る真実とオーラを有しているものです。

リシェツキのこのCDは、もうずいぶん長いこと聴いていないので記憶も曖昧ですが、そんな真の天才少年少女にみられる、ナイーヴな感性の支配によって切々と語られる純潔な詩情と憂いに、聴く者の心が大きく揺さぶられるような要素は乏しく、どちらかというと常套的・優等生的な演奏だったという印象だったことは覚えています。

そのCDいらい、はじめて接するリシェツキでした。
曲目は、バッハの平均律第二巻から嬰ヘ短調のプレリュード(フーガはなし)ではじまり、メンデルスゾーンの厳格な変奏曲、ショパンの作品25のエチュード。

全体の印象として、凡庸かつ平坦なものしか感じられませんでした。一般的なピアノ演奏技術の習熟という意味において、彼が並外れて早熟な能力をもつ青年であるという点では異論はありませんが、それ以上のもの、すなわち演奏芸術としての何らかの価値を聴く者が受け取るまでには至らなかったというのが偽らざるところでしょうか。

若くて純真な感性の独白が音楽を通して語られ、したたり落ちるのではなく、意志的に構成された、思索的な演奏である点がむしろ音楽として中途半端となり、却って彼の年齢からくる未熟さを露呈してしまうようで、修行半ばにしてステージに出てきてしまったという印象。
また、このリシェツキに限ったことではありませんが、若い演奏家にしばしば見られるのは、芸術家としての成熟を深めることより、チケットの売れる演奏家として出世することのほうに意欲が注がれ、音楽に対する率直な憧憬とか尊崇の念が不足するのか、指は動いても空疎な感覚がつきまとう点でしょうか。なんであっても構いませんが、そこに真実の裏打ちがない演奏の多いことは非常に気になります。

ピアノはヤマハCFXでしたが、少ない音を普通に弾くぶんにはとてもよく鳴っているという印象があるのに、音数が増えて折り重なったり、強い重低音を多用する場面になると収束性に乏しく、ショパンのエチュードop.25の10、11、12番で連続して出てくる激情的な部分、あるいはフォルテが主体となり強いタッチが交錯する場面では楽器の性能が頭打ちになってしまうようで、ダイナミックレンジの狭さを感じてしまいました。
個体差であればとは思いますが…もうすこし懐の深さが欲しいものです。

2013/10/18 Fri. 01:39 | trackback: 0 | comment: -- | edit

音質調整その後 

スピーカーの音質改良で「試行錯誤のアリ地獄にはまるのはイヤなので」と書いた通り、あと一回だけのつもりで、表面が平滑なタイルを探していたところ、ある店でまさにドンピシャリのサイズのイタリア製タイルというのを見つけました。

イタリア製などと云うとさも特別なもののようですが、無地のなんということもないもので、価格も一枚100円ほどにすぎません。

これを素焼きレンガの上に置くつもりですが、レンガとタイルでは接触面が均一にならずに斑な点で接触してしまうことを避けるべく、柔軟性のある滑り止めシートを間に挟んで重ねました。
果たして結果は上々で、これまでで一番良い結果が出たように感じますが、かといって劇的変化といえるものでもなく、心もち変わったなぁ…ぐらいの変化ではありました。

これまでにやってみた経過としては、まずカーペットに直接置いていたときに較べて、ステンレス製バットを置くと音にやや明晰さが加わります。次いで素焼きレンガに換えると一転して音がかなりこもってしまいこれは大きな変化で、カーペット以上のこもりだったことに驚きました。
逆に云えば、素焼きレンガはかなり強力な吸音効果があるようで、これは防音対策などで上手く使えば有効かもしれません。

これはまずいというわけで、レンガの上に再びステンレス製バットを置くと、とりあえず以前の明晰さは復活します。
さらにステンレス製バットをタイルに換えてみると、明晰さという点では似たようなものですが、強いて云うなら音に落ち着きと重心が加わり、響きの安定感が増しました。

音質そのものはスピーカーが変わったわけではないのでそれほど変化するわけでもないのは当然ですが、やはり土台がしっかりしたぶん、響きに腰がすわったというか、例えばピアノなどでは、音そのものもさることながら、音が出た後にふわっと漂うホールの残響などに明瞭さがでたように感じます。

人間とはおかしなもので、こういうことをせっせとやっていると、わずかなことでも自分の労力が加わっているぶん、それを報われたいという思いが判断を甘くするのか、なにやら変わったような気がしてくるもので、多少の贔屓目ではあるかもしれません。
そういう意味では気のせいかもしれませんが、ま、これぞまさしく誰に迷惑をかけるわけでもなく、自分だけが楽しんでいることなので、結果的に自分が良いと思えるなら、思えるだけやった甲斐があるというものです。

着手するまでは腰が重いのですが、やってみると結構楽しく、音質を手ずから調整するなんてことは、この自作スピーカー以前はまったく未経験の分野だったのですが、オーディオマニアの楽しみの一端を垣間見ることができたようでした。
もちろんマロニエ君がやっていることなんぞ、達人達から見れば幼稚園以下のレベルのことでしょうけれども、それでも自分なりにおもしろいものです。


2013/10/15 Tue. 01:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

成人力がトップ? 

10月9日の朝刊は『日本「成人力」世界で突出』という大きな見出しが一面トップに踊りました。

記事によると
「これは社会生活で求められる成人の能力を測定した初めての「国際成人力調査」(PIAAC)で、経済協力開発機構(OECD)加盟など先進24カ国・地域のうち、日本の国別平均点が「読解力」と「数的思考力」でトップだったことがわかった。日本は各国に比べ、成績の下位者の割合が最も少なく、全体的に国民の社会適応能力が高かった。」
となっています。

これは事実上の世界一ということでもあるようで、むろん日本人として悪い気はしませんが、でも、とても今の日本人が「成人力」があるだなんて、マロニエ君はまったく思えないでいますので、いささか狐につままれたような気がしたものです。成人力という言葉のイメージから云うと、世界一はおろか、日本人は寧ろそこがひどく劣っているのでは?という疑念を抱いているこの頃でしたから尚更でした。

首を捻りながら、さらに記事を読み進めると、やはりそこにはある理由が見つかりました。
この調査では、日本人が苦手とする「コミュニケーション能力」などの項目がなかったことが好成績に繋がったと記されているので、これでいちおう「納得」という感じです。

その翌日の新聞のコラムには、これに関連したおもしろい文章が載っていました。

そのまま丸写しというのもなんなので、かいつまんで云いますと、スーパーで買い物をして6,020円の勘定だったとすると、一万円札に20円を足して4,000円のおつりをもらうのが我々日本人は普通であるのに、海外ではこれが通用しないというのです。

長くアメリカで暮らす人によれば、18ドル86セントの買い物をして、20ドル36セントを差し出せば、日本人なら1ドル50セントのおつりを期待するが、それがそうはならず、20ドルからのおつりとして1ドル14セントがまず渡され、さらに36セントがそのまま返ってくるのだとか。

まあ、たしかに、へぇぇという気はしました。
自分が常日ごろ普通だと思っていることが、そうではない場面に出くわすことでちょっとした驚きや違和感を覚えるのはわかりますが、それをいうなら、最近の日本人がみせる人とのかかわり方などに接するにつけ、ありとあらゆることがその違和感の洪水だと思ってしまいます。
マロニエ君などは、現代を生きるということは、いわばこの「違和感の洪水に耐えること」だとも思っていて、それに較べれば、たかだかそんなおつりの計算ができないぐらい、ものの数ではないという気がします。

いくら合理的な計算が素早くできても、人として社会に交わりながら、肝心のコミュニケーション能力が最も苦手というのでは、これこそ最も恥ずかしいことではないかと思うのです。

日本人が読解力にすぐれ、計算が上手いのは、デフレで、しみったれて、なんでもタダもしくはより安いものに目を光らせ、それを探して飛びつき、10円でも損はしたくないという損得の戦いのような気構えが、その計算能力や情報の読解力に繋がっているんじゃないの?と思いたくもなります。

成人力というのは、もう少し深くて本質的な意味であってほしいものです。

2013/10/13 Sun. 01:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

軽さの意味 

最近は中古ピアノもネット動画で宣伝する店が増えて、店主もしくは店員が自ら出演し、折々の在庫ピアノを紹介するというスタイルが流行ってきているようです。
これは、今ではすっかり有名な関西の業者がはじめたやり方で、それが他社へもしだいに広がっているというところでしょうか。

この手の宣伝動画は概ねパターンが決まっており、まず簡単な挨拶に続いて紹介するピアノの概要の説明、状態、続いて音出しや演奏がおこなわれることで、それがどんなピアノであるかをざっと知ることができるという点では、差し当たってのきっかけになることは確かでしょう。もちろん購入を検討するときは店に出向いて現物確認をする必要があるのは当然としても、すくなくともアピールの第一歩という目的には有効な方法なのかもしれません。

そのネット動画をみていると、ちょっと興味深い事がありました。
あるピアノ店で、1980年のヤマハのC7(1980年)とディアパソンの210E(1979年)の2台を比較しながら紹介する動画がありました。

よく見ているとこの2台には、それぞれのピアノの譜面台には機種やサイズ/価格などを記したカードが添えられていますが、ヤマハのC7は奥行きがこの当時のものは223cm、ディアパソンの210Eは210cm(実際は211cm)ですが、重量表記はC7は415kg、210Eは250kgとなっています。
この250kgというのは明らかな誤表示と思われ、これは一般的にアップライトの重量です。210Eは通常370kgとされていますので、単なる間違いだろうと思います。

よって210Eは370kgと考えるとしても、C7と210Eの長さの差が12cmであるのに対して、重量差は45kgということになります。ちなみに現行のヤマハのC7XとC6Xでは全長の差が15cmであるのに対して、重量はわずか10kgの違いにすぎません。

ではのこり35kgの差は何なのか。
もちろんこの二台は設計自体が異なりますから単純比較をすることが適当かどうかは異論の余地があるところだとは思いますが、強いて云えばおそらくピアノを構成する材質の違いではないかと思われます。接着剤を多用する合板や人工素材は、無垢の木材よりもはるかに重量が嵩むとされています。つまり合板は接着樹脂と木材をミックスしたものと考えるべきで、これは重い上に、音の伝達性が劣るのはいうまでもありません。

もちろんディアパソンとて合板を使っていないはずはありません。しかし、ひとくちに合板といってもいろいろでしょうし、使用比率の違いなどもあろうかと思われます。ヤマハのピアノは昔から長らく付き合ってきましたが、天板の開閉をはじめ手触り的にも重量が重いピアノというイメージがあって、それはいまだに拭えません。
最新の現行モデルを調べてみても、ヤマハのC6X(212cm)は405kgであるのに対し、カワイのGX-6(214cm)は382kgとなっており、ヤマハのほうが若干小さいにもかかわらず重量は23kgも重いということがわかります。

コンサートグランドでは、むかしのヤマハとスタインウェイでは、なんと100kgもの重量差がありましたが(全長はほとんど同じにもかかわらずスタインウェイが軽い)、これも構造的なものと材質的なものだと思われます。
ただし初代からCFIIIまでがずっと580kgだったものが、単なる発展型に過ぎないCFIII-Sになると突如500kgと一気に80kgも軽くなり、そんなことがあるものだろうか…と思ってしまいます。

ちなみにストラディヴァリウスを弾いた経験のある人の著述によると、まず驚くのは手に持ったときの「軽さ」だったと云いますから、楽器は基本的には軽い方が好ましいという原理があるのかもしれません。

2013/10/11 Fri. 01:46 | trackback: 0 | comment: -- | edit

新たなストレス 

信じ難いようなニュースが日常的に飛び交うこのごろですが、子供を含む未成年者への残虐行為などが毎日のように伝えられるのは、社会がどうしようもなく歪んでいるようで恐ろしいことです。

先日も驚愕するとともに考えさせられる事件が発生しました。
高校生ぐらいの数人が、ひとりの年上者(未成年)を呼び出して殴る蹴るの暴行を加え、さらに両足を縛って川に突き落とし、書くのも嫌なようなことが行われてひどい重傷を負わせられたというものでした。

しかもその理由というのが驚きを倍加させました。
何度かメールや電話をしたのに、返事をしなかったということに腹を立てて、このような酷たらしい懲らしめに至ったということでした。

これに関連した説明によれば、世の中はいまやスマホの全盛期。そのスマホにはLINEという通信アプリケーションを備えるのが常識だそうで(マロニエ君はいまだにガラケーのユーザーですが)、これにより同じアプリ同士ではメールはもちろん通話も無料になるのだそうで、これはネット電話なので外国との通話も同じになり、海外の相手と何時間しゃべってもタダというのは、そのような機会の多い人達にとっては圧倒的な魅力になっているようです。

そのLINEの機能のひとつに、送ったメールを相手が開いたか開いていないかを送信者が知ることができるというのがあるそうで、これによって「メールを見たにもかかわらず相手は返事をしてこない」という新たな不快感が利用者の心の中に発生しているのとか。

こんな機能があるばっかりに、多くの利用者の間で新たなストレスが呼び起こされて社会問題になっているというのです。つまり知らなくていいことまでわかるからよけいに不快要因が増えるというわけで、一部にはこの機能を撤廃してはという案も出ているとか。マロニエ君もそんなものはないに限ると思います。

すこし話の軸がずれますが、まあごく単純な意味としてだけで云うと、出したメールに返事がないことは精神的に愉快でないのはわかります。
もちろん、現代は誰もが忙しく疲れているのに、むやみにメールのやりとりを続ける必要はないとしても、最低限の反応は儀礼上あってしかるべきで、反応があるものと思っているメールに一向に返事がないのはやっぱりいい気はしないし、存外心にひっかかるものです。そうなると、さらにこちらから重ねてメールする気にもなれず、そんなささいなことがきっかけで、相手への連絡そのものが途絶えてしまうような局面を迎えることにもなり、そんな展開なんてバカみたいでやりきれません。

何事も程度問題というわけですが、社会生活を送り、そこに人間関係がある以上、メールが来れば反応するぐらいの気持がないと、相手は無視されているような、自分という存在が切り捨てられているような気分になる場合だってあるでしょう。いわば話しかけているのに返事をしないことと同じですから、そこには常識的な配慮の気持は欲しいところです。

もちろん上記の事件のような「犯罪」は断じて許されるものではありません。同時に、現代人はひじょうに不安で傷つきやすくなっているという点も、お互いが認識しておきたいところです。

メールは相手の状況が見えないぶん、解釈が悪い方へ広がる余地もあるわけで、だからよけいに配慮が問われるのかもしれません。


2013/10/09 Wed. 01:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

音質調整 

ひさしぶりに、自作の円筒形スピーカーの音質調整を思い立ちました。

製作当初よりもエージング(慣らし)が進み、だいぶ聴きやすくなってはきたものの、できればもう少し音の精密さというかクリア感のようなものが欲しくなり、そのあたりを少し改善できないだろうかと思ったわけです。
具体的には、スピーカーを置いている環境は床がカーペットなので、そこにもなんらかの影響があるのではないかと前々から少し感じていたのです。

円筒形スピーカーは直径約10cm、長さ1mのアルミ管が左右に二本、垂直に立っており、下部は直径約20cmの木製台座に固定され、さらにその台座は3本の足で支えられています。
台座には意図的に穴が開いていて、真下から覗けばスピーカーから長く伸びた鉄のロッドが吸音材に巻かれた状態で、むき出しになっています。この穴から、なんらかの音、低音や雑音など、それがなんであるかはよくわからないものの、ともかく下へ向かって常に放出されるものがあるだろうことは推察されます。
その真下がカーペットであることは、もしかしたら音質に不利に働いているような気がしたのですが、その判断も正しいかどうか、実のところよくわかりません(笑)。

で、まずはカーペットによる音の吸収を取り除くべく、100円ショップに行くと、ちょうどよいサイズのステンレス製バット(食材などをのせる台所用品)を発見。これを2つ買ってスピーカーの下に敷きました。
その結果は、ほんのわずかながら音がクリアになったような気がして、まあとりあえず210円の投資には見合う結果が得られたようで、ここでまず出だしは好調という感触を得ました。

さて、通常の箱形スピーカーの場合、音質アップの方策として、箱本体の下に硬く重いものを置いて、間にインシュレーターなどをあてがうとされているようです。これにより安定性が増すのか低音が豊かになり、全体もよりクリアな音が出るというような記述を読んだことがあります。この分野にはまったく知識も経験もないマロニエ君としては、とりあえずそのセオリーに従うことで改良してみようと思いました。とくにコンクリートブロックやレンガなどが、簡単で安く入手できるものとして重宝されているようでした。

そこで、改造第二弾として、そのコンクリートブロックやレンガを物色した結果、とあるホームセンターで厚さ2cm、一辺が20cmの正方形の素焼きのレンガというのがあり、まさにうってつけのサイズだったので、これを買ってきて、ステンレスのバットと入れ換えてスピーカーの下に敷きました。

ところが、期待に反して音が逆にこもったようになり、明らかに明晰さが失われているのは疑いようもありませんでした。エ、なんで??と思いましたが、よくよく考えてみれば、素焼きのレンガには無数の微細な穴があって、音を響かせるどころか、逆に吸収してしまうのではと思うと妙に納得。

通常の箱形スピーカーの場合は、下へ向けて音質に関わりのある何らかの流れがあるわけではないので、ただ単に重くて硬い土台の上に本体を置くことでボディの剛性がアップし、より本来の性能を引き出すということだろうと思われますが、円筒形スピーカーではそこに一種の反響特性のようなものが求められるような印象を持ちました。

現に、その素焼きブロックの上に、ステンレス製バットを重ねて置いてみると、またもとのフィールが戻ってきました。でも、たかだか100円ショップで売ってるペラペラのステンレスでは効果も心もとないので、今度はタイルなどで挑戦してみようと思いつきました。
ただし、またこうして試行錯誤のアリ地獄にはまるのはイヤなので、結果がどうであれ、次のタイルで終わりにしようと思います。


2013/10/07 Mon. 02:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

偉大なる発明 

あるテレビ番組で、正確ではないかもしれませんが「あきらめない男達!」というような副題と共に、ひとりの努力と執念が生んだ偉大なる発明が紹介されました。

その名は安藤百福(1910-2007)、ウィキペディアによればもとは日本統治時代の台湾で生まれた人のようですが、両親を亡くして祖父母の元で育てられ、22歳のときに繊維会社を創設。翌年には大阪に会社を設立し日本の大学に通いながらも、数々の事業を手がけるという多才な人であったようですが、大変な苦労人でもあり、それをバネとして時代の波の中を逞しく生きた人のようです。

戦争では空襲により大阪の会社を失うなど、つねに数々の困難を乗り越えながら、多方面への事業や社会貢献を続けるものの、ある信用組合の倒産により理事長であった安藤氏は、これまで築き上げてきた財産のすべてを失います。

妻子の暮らす自宅の家財道具にまで差し押さえの赤紙が貼られる中、安藤氏は裏庭にある小屋である研究に日夜没頭します。
困窮を極める家族を背後に抱えながら、猛烈な執念とともに寝るひまもないほど試行錯誤を続けた末、ついに完成したのは日本初、そしてもちろん世界初のインスタントラーメンで、これがこんにち私達が良く知るチキンラーメンの誕生だったのです。

そしてこのチキンラーメンこそが、今や世界常識ともなったすべてのインスタントラーメンの原点だったことを初めて知りました。
安藤氏はさっそく製品の売り込みに奔走しますが、時は昭和33年、うどんひと玉が6円の時代に、チキンラーメンは一食35円と高価だったために、そんな高いものが売れるわけがない!とまったく相手にもされません。
それでも安藤氏の熱意はまったく揺らぐことはなく、置いてもらうだけでいいからと何度も頭を下げ食い下がるように頼み込んで店に並べたところ、店主達の予想に反して大反響となり、今度は注文が追いつかず自宅には業者の列ができるほどに。
このころは、まだ自宅で作っていたようですが、家族総出でフル稼働したところでたかがしれており、ひきも切らない注文には到底追いつくものではありません。そこで、ついに安藤氏はチキンラーメンを製造販売する会社を設立し、この時「日々清らかに、豊かな味を」という意を込めて作った会社が日清食品だというのですから、へええというわけです。

テレビでは言いませんでしたが、ウィキペディアに記されるところでは、チキンラーメンの好評を見て追随する業者が多く出たため商標登録と特許を出願し、1961年にこれが確定したため、実に113もの業者が警告を受けるハメになったとか。
しかし安藤氏は3年後の1964年には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡したというのですから、やはりこの人は根っこのつくりが何か違うんだなあと思います。

その後もアイデアマンとしてのパワーは止まらず、1966年に欧米を視察、アメリカで現地の人がチキンラーメンを二つ折りにして紙コップに入れ、フォークで食べる様子を見たことが今度はカップ麺の着想になります。そして5年後の1971年、次なる大ヒット商品となるカップヌードルが発売されるも、またも世間は冷ややかな反応しかなかったというのですから、いかに発明者に対して、それを受け入れる側の感性が遅れているかがわかります。

こんにち、スーパーのインスタント麺の売り場でも、従来型のインスタント麺とその勢力を二分するカップ麺ですが、発売当時はマスコミ各社は「しょせんは野外用でしかないキワモノ商品」としてしか認識せずに苦戦したということですが、またしても安藤氏の狙いは的中してブームが到来。その後は輸出もされるようになり、ついには世界80カ国で売られるまでになったそうです。

そしてこの50年間という、とてつもなく変化の著しい激動の時代を生き続け、いまだに現役の定番商品としてまったく翳りがないどころか、インスタント麺そのものが世界中に広がって、まったく独自の「食文化」を作り出したというのは、これこそ偉大な発明だったという他ありません。

こういう人こそ政府は国民栄誉賞を授けるべきではなかったのかと思いますし、そもそも国民栄誉賞というのはそういう性質のものではないのかと思います.
日本という国は、どういうわけか文化勲章では歌舞伎役者に甘く、国民栄誉賞ではスポーツ系に甘いとマロニエ君は思います。





2013/10/05 Sat. 01:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

紙一枚の差 

ピアノの調整は奥に行けばいくほど、非常に繊細で緻密な領域であることはいまさら云うまでもありません。以前もタッチの軽すぎるカワイのグランドのハンマー部分に、わずか0.5gの鉛片を貼り付けただけで、タッチが激変したばかりか、音質までもがはっきりと力強くなり、まさに一挙両得だったことは既に書いた通りです。

それと似たことがあったことをふと思い出しました。

少し前に、ディアパソンの調律に来ていただいたときのことですが、そのころはまだ交換した弦もハンマーも馴染みが足りず、もうひとつ鳴りがパッとしないように感じていたのですが、その対策としてあれこれの手を入れてもらいました。

そのひとつで、通常はかくれて見えませんが、キーの下には緑色の丸いフェルトが敷かれており、これが打鍵によって降りてきたキーを受け止めるようになっています。そして、さらにそのフェルトの下には同じ直径のフロントパンチングペーパーという丸い紙が複数枚敷かれています。
この紙には厚さによる違いがあり、技術者さんはその都度必要に応じてこの紙の厚さや枚数を入れ換えながら、キーのわずかな深さを調整しますが、それは同時に音にも密接な関係があるようです。

紙の厚さは何種類もあるのですが、驚かされるのはその違いはまさにミクロの世界で、普通の厚紙ぐらいのものから、本当に極薄の、わずかな鼻息でも飛んでしまうほどペラペラのものまであり、こんなもの一枚あるなしでタッチが変わるとは、俄には信じがたいような気になるものです。

そんな中で、もう少し力強い音が出るようにと、技術者さんは主だった(というか必要と判断された)部分を、おおむね0.2mm薄くされました。
薄くするということは、つまりキーの沈み込みが0.2mmぶん深くなるということですが、通常キーが上下に動くのは10mm前後、つまり約1cmですから、そこでたかだか0.2mmの違いがどれほどの意味があるのか?と考えてしまいますが、それがピアノ調整の世界ではきわめて大きな意味をもつようです。

「0.2mmはこれです」と抜き取った小さなドーナツ状の紙を触ってみても、ただの薄い紙でしかなく、こんなもので何かが変化するとしても、たかがしれていると思うのが普通です。

しかし技術者さんは、黙々と作業を続け、いろいろな色(色によって厚さが違う)のパンチングペーパーを出したり入れたりと、その変更・調整に余念がありません。

どれくらい経った頃だったか、その作業が終わり「ちょっと弾いてみてください」といわれ、これがマロニエ君はいつも嫌なのですが、そんなことも云っていられないんので、素直に従って弾いてみると、なんと僅かではあるものの、でも明らかに前とは違っています。

たったの0.2mmの違いが、紙を触ってもわからなかったものが、ピアノの鍵盤の動きとしてなら明瞭にその差を感じることができることは驚きです。具体的に何ミリということでなく、感覚的にあきらかにキーが少し深くなっていることが体感できるし、さらに驚くべきは明らかに音にメリハリが出て、力強さが加わっていることでした。
あんな小さな薄っぺらな紙一枚の差が、これほどピアノのタッチや音色まで変化させるとは、実際に体験みてみると呆れるばかりで、いまさらながら楽器の調整というものが、いかにデリケートな領域であるかを再認識させられました。

それだけにひとたび調整の方向を誤れば、まさにピアノはあらぬ方向を彷徨うことになり、技術者の能力の一つは、問題の原因は何であるかを、短時間のうちに的確に見極めることだと思います。見当違いのことをいくら熱心にやられても、望む効果は得られず、だから世の中には潜在力は高いものがある筈なのに、どこか冴えないピアノが多いのだろうとも思われるわけです。

ピアノは高級品になればなるほど、出荷調整にも優秀な技術者の手間と時間が惜しみなくかけられるようですが、このフロントパンチングペーパーの厚さひとつをとっても、ほんの僅かなことが大きな違いになる世界では、製品としていくら完成していても、楽器としてはまったくの未完成で、各所のこまやかな調整が滞りなく行きわたっていなければ、その真価は決して発揮できないことがあらためてわかります。

そういう意味では、普通のピアノでも、技術者の正しい調整を受ければ受けるだけ、そのピアノはある見方においては高級ピアノだとみなすこともできるのかもしれません。



2013/10/03 Thu. 01:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

じぇじぇじぇ! 

9月29日の朝刊一面には、なんと『あまロス続出』という大きな見出しが踊っていました。
ちなみにスポーツ新聞の話ではありません。

これはいうまでもなく、その前日に最終回を迎えたNHK連続テレビ小説の「あまちゃん」のことで、半年間このドラマにどっぷり浸かっていたファン達が、一斉にその喪失感をネット上に訴えたのだそうです。

記事によれば、多くの人達が被ったその喪失感は大変なものらしく、「燃え尽きた」「もう午前8時には起きられない」「やる気が出ない」「これがあまロスか…」といった調子でつぎつぎにツイッターやネット上に最終回後の感想を投稿したと書かれてます。

マロニエ君も連続テレビ小説だけはいつも録画して見ていますが、たしかに今回の「あまちゃん」はこれまでとは一線を画した面白さがあったと思います。
とりわけ印象的だったのは、第一回目からなんともいいようのない楽しさというか、惹きつけられるものがあったことを思い出しますし、たしかこのブログにも、あまちゃんスタート直後に「いっぺんに青空が広がったような」というような記述をした覚えがあります。

通常は出来不出来はべつにしても、前作に半年間慣れ親しんでいるぶん、新作に切り替わった直後の朝ドラというのはどうもしっくりしないものです。見る側もしばし気分の切り替え期間が必要で、最低でもはじめの一週目はよそよそしい感じがあるものですが、「あまちゃん」にはそれがまったくありませんでした。

このドラマの良かった点は、とにかく理屈抜きの明るさと笑いがあったこと、どの登場人物にも個性と味があって飽きることがなかったこと、東京のような大都市が決して絶対の価値ではないということを上手く訴えた点、さらに云うと日本人が心の中ではもう好い加減うんざりしているキレイゴトや建前の支配でストレスを受ける心配がここにはないという解放感があったように思います。

娯楽で見るテレビドラマからまで偽善や同意できない正論を押しつけられる鬱陶しさがなく、全編を貫く明るさと、センスあるお笑いが随所に盛り込まれて、すっかり疲れてしまっている日本人の気分を束の間でも愉快爽快にさせてくれたところが、これだけの人気を勝ち得たのだろうと思います。

そもそも、あんな二十歳前の東京育ちの女の子が、東北に移り住むなり、なんの躊躇もなく東北弁をしゃべりまくり、憧れの先輩にも「せんぱい、おらと付き合ってけろ!」となどと大真面目に言ったり、GMTメンバーによる各地の方言が盛大に飛び交う様なども、無定見に定着してしまった今どきの価値基準をひっくり返してしまうような面白さがありました。

現代は、みんな暗くて鬱屈しているからこそ、ひとたびスポーツ観戦だの、最新スマホの発売だのと、それほどでもない事を口実に不自然なバカ騒ぎを演じ、空虚な高笑いや興奮を通じて、別件の憂さ晴らしをするのだと思います。それだけ自然体の楽しいことに縁遠くなっているから、このドラマは心の中の干からびた部分にスッと染み入ったんでしょうね。

マロニエ君はいつも、土曜の朝、BSで一週間ぶんまとめて放送される朝ドラを録って、つねに二週前後ぐらい遅れて見ていますから、実はまだ最終回に到達しておらず、したがって「あまロス」ももう少し先になりそうです。


2013/10/01 Tue. 01:31 | trackback: 0 | comment: -- | edit