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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ジャンボ機再び 

昨日の新聞を見ていて、おやと思う記事が載っていました。
アメリカの航空会社の発表によれば、日本便は、今後大量のお客が見込めると云う判断から、デルタ、ユナイテッドなどの大手はこの先、懐かしいジャンボジェット(ボーイング747)を投入していくのだそうです。

一度はジャンボ機から、やや小さく効率重視のボーイング777にその座を譲っていたにもかかわらず、再びこの存在感あふれる大型機が国際線の表舞台に戻ってくるというのは嬉しいような気になりました。

ボーイング747は、空の大量輸送時代を予見したパンアメリカン航空の提案によって1960年代にボーイング社が開発、70年代初頭に就航した、それまでの常識を覆す巨大旅客機でした。
当時のパンアメリカン航空は世界に冠たる圧倒的な航空会社だったので、これに続けとばかりに世界の主要な航空会社は、そんな大型機を飛ばす見込みもないままこの想定外の新鋭機をこぞって発注しました。

その後、その予見通りに空の大衆化は進み、やがては厳しい航空運賃競争の時代に突入しますが、なんとも皮肉なことに老舗気質が抜けきれないパンアメリカン航空は企業の体質改善が追いつかず、しだいに競争力を失い、ついには倒産してしまいます。

パンアメリカンなき後、そのジャンボジェットの最大のカスタマーは日本航空で、長いこと世界最大の保有機数を誇りました。通算の導入機数は軽く100機を超えており、ひとつの航空会社でのこの記録はたしか世界記録です。しかし日本航空もその飽満経営が祟って破綻となり、ジャンボ機は燃費問題を理由に全機が退役、全日空もこれに倣ってか保有する数十機のジャンボ機の大半を売却し、残るは国内線用の数機、それ以外では日本貨物航空が運航する貨物機、そして2機の政府専用機だけになりました。
かつてジャンボ王国といわれた日本でしたが、わずか数年で、まるで前時代の稀少機種のような存在となってしまいました。

マロニエ君にいわせると、旅客機にも一定の趣があったのはこのジャンボ機までで、今どきの飛行機にはロマンも色気もない、ただの効率化と低燃費の塊で、見るからに安普請、いかにもコンピュータが作った飛行機という無機質さしか感じられません。
乗客としての乗り心地も、ジャンボ機はその安定感、やわらかさなどは格別で、とくにダッシュ400という後期型はひとつの究極で、いわば佳き時代のスタインウェイDのようなもの。これに勝る飛行機にはまだ乗ったことがありません。

燃費問題というのはいささか誤りで、これは日本航空の経営建て直しにあたっての世間ウケの良い方便でもあるようで、実際は旅客ひとり当たりの燃費で云えば決して大食いではないのですが、大型機は不景気になると融通性に欠けるという問題を抱えていると見るべきでしょう。
より小さな飛行機を数多く飛ばす方が利用者も便利なら、会社側も利用率に応じた無駄のない機材繰りの調整もしやすいということで、最近はこれが時代の潮流のようです。

この流れを作ったのがそもそもアメリカで勃興してきたLCCであったのに、そのアメリカの航空会社が再びジャンボ機を日本線に投入してくるというのはまったく思いがけないニュースでした。

なんでもコストや効率という、面白味のない、しみったれた世の中で、たまにはこういう好景気の象徴みたいな豪快な飛行機が再び脚光を浴び、太平洋を飛ぶようになるというのは、なんとなく嬉しいことです。

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2013/09/29 Sun. 01:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

古いヤマハ 

前回書き切れませんでしたが、この広島の「平和の祈り」コンサートで使われたピアノは、思いもかけないヤマハの古いピアノでした。

かなり前の、たぶんCFIIIの初期型か何かで、コンサートグランドにもかかわらず足元はダブルキャスターでもなく、サイドのロゴマークもない時代のピアノで、フレームの穴の形状も丸ではない、この一時期のCFだけにみられる細長い開口部の大きなタイプのピアノでした。

さて、この古いCF、正確なことはネットで調べればわかるかもしれませんが(面倒臭いので調べてはいませんが)、たぶん30年ぐらい前のピアノではないかという気がします。
テレビ収録も入る、小曽根氏のような有名ピアニストが出演するようなコンサートで、こういう古い日本製ピアノが使われることは非常に珍しいことなので、その点はマロニエ君などは却っておもしろい気分になりました。

日本では、都市部の一定規模のホールと名の付くところには、たいていスタインウェイなどがあるものですが、わざわざこういうピアノを使うこと自体が、よほど特殊な事情があったのかと思います。このホールのホームページによると、ここには他にスタインウェイもカワイもあるようで、したがってなんらかの意図があって選ばれたヤマハということのようです。

その事情がなんであるかは別にして、この時代のヤマハは、何年か前にもリサイタルで1度聴いたことがありますが、マロニエ君は意外に嫌いではありません。それは、今どきのブリリアント系のキラキラ輝くような音ではなく、はるかに実直な音がして、ともかく真面目に作られたピアノという感じがあるからです。さらには後年のヤマハと違ってどんなフォルテッシモでも音が割れるなどの破綻が少なく、強靱な演奏にもしっかり耐え抜くだけの逞しさももっています。

こういうピアノのほうが、一面においては演奏や音楽に集中でき、聴いていて耳も疲れません。
だいいち主役は音楽であり演奏であるのに、あまりピアノ自体がキンキラして出しゃばるのは、タレントと勘違いした女子アナみたいで、むしろ目障り耳障りなることしばしばです。

この広島のピアノも、さすがに音の伸びがなかったり、古さ故の短所もあるにはありましたが、ではそれでこの日のコンサートの足をどこか引っぱったかというと、けっしてそんなことはなかったと思います。たしかに音の伸びはあったほうがいいに決まっています。でも、それよりも音の実質のほうがもっと大切だと思います。結局のところ、あまり表面的な華やかさではなく、ピアノはどっしりとピアノらしいのが一番だとあらためて感じました。

ブリリアント系のキラキラ音は、指の弱いアマチュアなどが家で弾くぶんにはいかにもきれいな音という感じで楽しめるかもしれませんが、プロのピアニストがコンサートの本番で弾くと、どうかするとうるさくもなるし、音符が不明瞭になったり表現力やパワーが逆に失われて、本来の演奏の妙が伝わらない危険もあるとマロニエ君は思っています。

ダブルキャスターでないコンサートグランドも久しぶりに見ましたが、やはり本来の姿はこうあるべきだと思いました。むかしスタインウェイが1980年代ぐらいから巨大なダブルキャスターを装着するようになったとき、そのあまりの無骨さ醜さに驚倒したものです。さらにはそれ以前のモデルまで次々に足を切断され、この下品なダブルキャスターが取りつけられて行くのには血の気が引いた覚えがありますが、慣れとは恐ろしいもので今ではすっかりこれがフルコンのデザインの一部に溶け込んでしまいましたね。
最近は、さらに転がり性能のよい、しかしビジュアル的にはもっと醜いキャスターがつけられていますが、あれはまだ目が慣れません。

コンサートグランドはその役目上、頻繁な移動が必要ですから、移動しやすい機能は致し方ないとしても、肝心の音に関しては、今どきの表面ばかり華やかな音造りは、もう少しどうにかならないものかと思います。

2013/09/26 Thu. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

音楽の本能 

広島交響楽団による「平和の祈り」というコンサートが、今年の平和記念式典前日にあたる8月5日、平和記念公園内にある広島国際会議場フェニックスホールで行われ、その様子がつい先日クラシック音楽館で放送されました。

コープランドの「静かな街」で始まり、続いてショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番、ピアノは小曽根真、トランペットはベネズエラ出身のフランシスコ・フローレス、指揮は秋山和慶。

実はここまでしか見ていないので、ここまでの印象となりますが、「静かな街」ではイングリッシュホルンとトランペットをソリストとした作品、ショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第1番もトランペットが重要な位置を占める作品なので、いずれもこのフランシスコ・フローレスが演奏しました。

ピアノの小曽根真は今や言わずとしれた有名な日本人ジャズピアニストで、その活動はときどきクラシックにも足を伸ばし、以前もモーツァルトのピアノ協奏曲ジュノムなどを弾いて、とくに鮮やかな演奏というものとは違うけれど、クラシックのピアニストからは決して聴くことのできない味わいがあって、へええと思った記憶がありました。

今回のショスタコーヴィチでも、指さばきは明らかにクラシックのそれとは違い、どこかおっかなびっくりした様子があって、やはり畑違いのパフォーマンスという感じは拭えませんが、しかしそれで終わらないところに小曽根真の本当の価値があるようです。
ただ譜面通りに正確に弾くだけのカサカサしたピアニストとはまったく違い、どこかたどたどしくもある語り口のなかに、音楽に対する温かな情感がこもっていて、それこそが彼の魅力なんだと思いました。
技術や知識や経歴に偏りすぎて、音楽ほんらいの単純な楽しさや喜びを失いつつあるクラシックの世界に対するさりげないアンチテーゼのようにも感じられました。

第4楽章のカデンツァでは、得意のジャズテイストが織り込まれ、まあとにかく聴いている側としては飽きるということがありません。

しかし、本当の驚きはこのあとでした。
ショスタコーヴィチが終わってカーテンコールの末に、小曽根氏が客席に向かって「これらか皆さんを南米にお連れします」とやわらかに語りかけ、アンコールとしてピアノとトランペットによる演奏が始まりました。

これが大変な魅力に溢れたもので、それまではどこか冷静に見ていたマロニエ君も、思わず身を乗り出して本気で聴いてしまいました。詳しくは知りませんが、字幕によればラウロ作曲の「ナターリャ」「アンドレイナ」、フェスト作曲の「セレスタ」の三曲で、いずれもラテンアメリカの作曲家なのでしょうが、それらが切れ目なくメドレーのような形で演奏され、ここに至って小曽根氏も本来の力を発揮、フローレス氏も全身でリズムに乗って、二人とも何かから解放されたように自由で自然な演奏となりました。

曲がまたどれもすばらしく、ラテン的な哀愁と官能が交錯する悩ましいばかりの音楽で、否応なく圧倒されてしまい、この望外の演奏にただただ感激してしまいました。日本人的倫理観でいうならば、明日はこの記念公園内で恒例の平和記念式典があるのかと思うと、よく主催者が認めたなあと思うほど、ちょっと危ない感じさえ漂うものでしたが、ともかく、これはしばらく忘れられない演奏になりそうです。

音楽を聴く喜びを、根底からリセットされてしまうようで、マロニエ君にとってはまったく予想だにしなかった衝撃でしたし、クラシックの演奏家がどんなに偉そうなことをいっても敗北を感じるのでは?と思われるような、音楽の本能に触れて酔いしれた6分弱でした。
むろん、われんばかりの拍手でした。

2013/09/24 Tue. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

チョ・ソンジン 

パユのモーツァルトを褒められなかったばかりなのに、また似たようなことを書くのもどうかと思いましたが、まあ主観的事実だからお許しいただくとして、同じくNHKのクラシック音楽館で、かなり前に放送録画していたものをやっと見たので、そこからの感想など。

6月のN響定期公演で、チョン・ミョンフン指揮でモーツァルトのピアノ協奏曲第21番とマーラーの交響曲第5番というプログラム。ソリストはチョ・ソンジンで、この人は何年か前に浜松コンクールで優勝した韓国の若者ですが、伝え聞くところではわりに良いというような話で、実はマロニエ君は韓国には意外に好きなタイプのピアニストが多いので、そういう点からも機会があれば一度聴いてみたいものだと思っていました。

知人が主催する音楽好きの集まりで、そこに居合わせた年配の方が云われるには、福岡で行われたあるオーケストラの演奏会にこのチョ・ソンジンが出演し、ショパンの第1番を弾いたとのこと。その解釈といいテンポといいその方は大変満足であったという話を聞いたことがあったこともなんとなく覚えていました。

チョ・ソンジンは浜松コンクールで優勝したためか、わりに日本でのステージチャンスが多いようですが、マロニエ君は残念ながら彼のピアノは1音たりとも聴いたことがなく、今回が初めてということになりました。

前回、N響とモーツァルトは相容れないものがあると長年マロニエ君が感じてきたことを書いたばかりで、その印象は今でも変化はありませんが、しかし指揮がチョン・ミョンフンともなると、明らかにいつものN響のモーツァルトとは違った水準に達しているのは、さすがに指揮者の力だなあ!とこのときばかりは感心させられました。
それはこのハ長調の協奏曲の出だしを聴くなり感じるところで、演奏の良し悪しや好みは、だいたいのところはじめの1分以内に結論が出てしまうようです。

さて、今回一番の興味の対象であったチョ・ソンジンですが、こちらはその出だしからして、んんん?と思いましたが、残念ながら最後までその印象が覆ることはなく、いささか期待が大きすぎたというべきか、はっきり言ってマロニエ君としてはいささか同意しかねるタイプのピアニストでありました。

あくまで個人的な印象ですが、「ピアノの上手い少年」という域を出ておらず、モーツァルトの語法というものがまったくわかっていないで弾いているように見えました。どんな曲も同じスタンスで彼は譜面をさらって、せっせとレパートリーを増やし、お呼びのかかるステージに出ていくのでしょうか。

曲のいたるところで意味ありげな表情とか強弱をつけてはみせますが、いちいち的が外れて聞こえてしまうし、全体としても表面的でまったく深いところのない、感銘とは程遠い演奏。曲の内奥にまったく迫ったところがないし、音色やタッチのコントロールなども感じられず、強弱のみ。とくに第3楽章は飛ばしすぎの運動会のようでした。
それなのに、顔の表情だけはえらく大げさで、いかにも作品内に潜んでいる大事なものを感じながら弾いていますよという風情ですが、それは内なるものがつい顔に出てしまうというより、専ら観賞用のパフォーマンスのようでもあり、どことなく彼はラン・ランを追いかけているのかとも思ってしまいました。

パユと共通していたのは、チョ・ソンジンも非常に線の細い演奏家ということで、聴く者をその音楽世界にいざない引き込む力が感じられません。彼より優れたピアニストは韓国にはごろごろしているし、これなら、ピアノの名手としても有名なチョン・ミョンフンが自らピアノも弾いて、振り弾きしたほうが遙かに素晴らしい演奏になったことだろうと思います。

はたして韓国内での評価はどうなのだろうと思いますが、韓流スターの中には、日本でしか人気がない俳優もいるとか。まだとても若いし(19歳)、きっと才能はあるのだろうと思うので、ともかくもっと精進してほしいと思いました。

2013/09/22 Sun. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

洗剤とお米 

連休のある日の午後のこと、自宅のインターホンが鳴ったので出てみると、新聞販売店の人が「ご挨拶に伺いました!」といって表に立っていました。

実は、つい二ヶ月前までここの新聞をとっていたのですが、どうしても別の新聞を購読したくなり、契約期間終了までの数ヶ月間を辛抱して、ようやく切り替えたところでした。
まともに他社の新聞にするからなどといっても、とてもじゃありませんがおいそれと引き下がってくれるような相手ではないことは、この新聞社のこれまでの猛烈なつなぎ止め工作のすごさを知っていたので、作戦を変えて「新聞はあとの処分も大変で、もうとらないことにしたので」ということで、どうにか納得させて終わりにしたという経緯があったのです。

ところがこの日は販売店の店長が代わったという名目で、再度勧誘にやってきたようで、表に出てみるとこれまでとは違うおじさんが立っていました。こちらを見るなり、これ以上ないというほどの満月のような笑顔を浮かべながら、いきなりあれやこれやと喋りまくり、そのつど深々と頭を下げられるなど、内心これはまた大変なことになったなと思いました。

まさか別の新聞を購読しているとは逆立ちしてもいえないので、「また新聞をとるときは必ずおたくにしますので」というと、また笑顔と感謝でこわいぐらいに頭を何度も下げられ、こちらとしてはこんな応対は早く終わりにしたいと思っていたら、「実はいま、洗剤とお米を配っていますので、ちょっとお待ちください!」と言い出しました。

これをもらったら大変だと思い、「いやとんでもない、また新聞をとるときにでも」と云いますが、相手もさるもので耳を貸さず、「いえいえいえ、きょうはみなさんにずーっとお配りしていますから!どうぞどうぞ!」といって、さっさと車から大きな段ボールに1ダースぐらい入っていそうな洗剤とお米を上下に重ねて両手に抱えて、よいしょとばかりに持ってきます。

もらえないと何度も固辞しますが、向こうはなにがなんでも押し込んでいく気迫があるのを感じます。
そのうち、将来またとっていただくときのために、せめて名前と住所だけでいいので、ここにちょっと書いてもらっていいでしょうか?と、これも「すいません、すいません」と頭を下げながら頼んでくるので、やむを得ず住所と名前だけ手渡された伝票に記入しました。

すると、そこに何年何月から何年何月までという項目があり、そこをいつでもいいのでとりあえず書くだけ書いといてくださいと迫られました。たったいま名前と住所だけといったにもかかわらず!
ここで言いなりになっては向こうの思うつぼ!とこちらも意を決し、「またお願いするときは、必ずおたくに連絡しますけど、今ここで時期まで書くわけにはいかないです」ときっぱり云いますが、「いやいや、何年先でもいいんですよ、ただ書いてもらうだけでいいんです」というので、「そんな無責任なことは書けないです」とキッパリ言うと、その言葉にこちらの意志の固さを見たのか、わかりました、ではまたそのときは宜しくお願いしますといってついに引き下がりましたが、あれだけ「みなさんに配っている」と云って、まさに足元にまでもってきていたお米と洗剤その他を、サッと両手に持ち上げて持って帰っていきました。

べつにそんなものが欲しかったのではありませんよ。
むしろもらったが最後、また折々に攻勢をかけられるのは明白ですから、もらわないことがこちらの意志なのですが、その何年何月からという項目に何らかの数字を入れるかどうかが彼らにとって大きなポイントのようで、贈答品はそれへのご褒美であり、こちらへの貸しであり、今後もまたしばしば勧誘にくるための通行料のようなものだと思いました。

やっぱりわけもなくモノをくれるはずはないというのが当たり前という話ですが、世の中、上には上がいるもので、この激しい新聞勧誘合戦を逆手にとって各社からあれこれの品をもらうのが常態化し、「洗剤なんか自分で買ったことがない」と豪語する主婦などもいるというのですから、いやはや凄まじいですね。

2013/09/20 Fri. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

N響とパユ 

NHKのクラシック音楽館で放送されたN響定期公演から、エマニュエル・パユをソリストに、モーツァルトのフルート協奏曲第2番、フォッブスの「モーツァルトの“魔笛”による幻想曲」を聴きました。
指揮はアンドルー・マンゼ。

のっけからこう云うのもなんですが、マロニエ君はエマニュエル・パユは昔からあまり興味がなく、ほとんど聴いたことがありませんでした。というのも、ずいぶん前に1枚買ったCDがまるで好みではなかったため、この人の演奏にはすっかり関心をなくしてしまったのです。
ニコレやランパルの時代も終わり、ゴールウェイも歳を取って、現在ではパユがそのルックスも手伝ってかフルート界の貴公子などといわれて、事実上フルーティストの中では一番星のごとく君臨しているようです。

その美男子もすっかり歳を重ねて壮年の演奏家になっていましたから、さてその演奏はいかにと思いましたが、結果は芳しいものではなく、少なくともマロニエ君にはその魅力がどこにあるのか、一向にわからないものでした。

まず端的にいって、これという説得力もないまま、むやみにモーツァルトを崩して好き勝手に演奏するという印象で、もうそれだけで好感がもてません。聴く側が何らかの共感ができないようなデフォルメをしても、それは作品本来の姿が損なわれるだけで、この人がどういう演奏をしたいのかという表現性がまるきり感じられないだけで、だったらもっと普通にきちんと吹いてくれる人のほうがどれだけ音楽を楽しめるかわかりません。

不思議だったのは、これほどのトップレベルにランキングされる演奏家にしては、演奏には不安定さが残り、しかも全体に音が痩せていて温かみやふくよかさがないし、なにより一流演奏家がまずは放出する安心感も感じられません。それどころか、ところどころでリズムは外れ、フレージングは崩れ、音にならない音が頻発、楽曲の輪郭がなさすぎたと思います。
一番の不満は、モーツァルトの優美な旋律や展開の妙、活気とか、その奥にわだかまる悲しみとか、つまり彼の天才がまったく聞こえてこないという点で、その場その場を雑で気ままに吹いているようにしか思えませんでした。

基本的な音符が大事にされない演奏というのは好きではない上に、わけてもそれがモーツァルトともなれば、いやが上にも欲求不満が募るばかりでした。そのくせカデンツァになると意味ありげに間を取ったり突然テンポをあげてみせたりと、自己顕示欲はなかなか強いことも感じます。

またパユほどではないにしても、アンドルー・マンゼの指揮もなんだかパッとしない演奏で、冒頭にはフィガロの序曲をやっていましたが、おもしろくない演奏でした。

指揮者の責任もありますが、そもそもN響じたいが、マロニエ君にいわせるとモーツァルトとの相性が悪く、この官僚的オーケストラとは根本的に相容れないものがあるような気がします。モーツァルトのあの確固としているのに儚く、典雅なのに人間臭い作品は、もっと個々の演奏者が喜怒哀楽をつぎ込んで演奏して欲しいのに、いつもながらだれもが冷めたような表情で、ただ職業的に演奏する姿は、どうにかならないものかと思います。

2013/09/18 Wed. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

優雅さの裏で 

有名音楽雑誌のモーストリー・クラシックの9月号は『スタインウェイとピアノの名器』と銘打った、世界の一流ピアノに焦点を当てた巻頭特集が組まれていました。

以前にも同誌では『ピアノの王者スタインウェイ』という特集があり、内容的にはその焼き直しでは?という気もしましたが、それでもこういう表紙を見るとつい買わずにはいられません。

今回はスタインウェイオンリーではないために、それ以外のピアノについてもいろいろと触れられていますが、そのなかでもベーゼンドルファーに関する記事はマロニエ君にとって、非常に興味深いものでした。

ベーゼンドルファーというと、ウィーンの名器であることはもちろん、貴族的で、優雅な音色と佇まいの別格的なピアノであり、厳選された材料を手間のかかる伝統工法で制作される最高品質の楽器であること、さらにはどことなく近寄りがたい貴族御用達の工芸品でもあるような、とにかく何かにつけて特別で、孤高のピアノというイメージがありました。

製造番号も通常のシリアルナンバーではなく、作曲家の作品番号と同じくオーパス番号であらわされるなど、通常のピアノという概念を超えた、それ自体がまるで芸術品のようでもあり、ある人など「そもそもベーゼンドルファーなんて、庶民が買うピアノじゃないですよ!」とまで言わしめるような、そんなイメージを一新に纏っているピアノであり会社だったような気がします。

量産ピアノとはかけ離れた手の込んだ作り、少ない生産台数などは、およそガツガツしたビジネスとは無縁で、とりわけ昔は王侯貴族をはじめ裕福な一握りの顧客だけを相手に、それにふさわしい最高級ピアノを悠々と提供してきたのだろうと思うのはきっとマロニエ君だけではないはずです。

ところが、この特集にあるベーゼンドルファーの小史によれば、創始者のイグナツ・ベーゼンドルファーは「才長けた経営者であり商人でもあった」のだそうで、経営拡大のために「まず狙いを定めた」のがあのリストで、彼の強靱な奏法に耐えるピアノがなかなか存在しないことに目をつけ、それにぴったりのピアノを製作して進呈するという思い切ったやり方で、当時のピアノのスーパースターであるリストからベーゼンドルファーを贔屓にしてもらうという手段に出るのだそうです。
それだけに留まらず(ベーゼンドルファーが品質の良いピアノであったことはあるにせよ)、販路拡大をめざして東欧諸国や北イタリアを含む広大な地域を支配していたオーストリア帝国の各地、さらにドイツ、フランス、イギリスにまで積極的なセールスを展開したとあります。

また、リストのような名だたるピアニストが演奏旅行をおこなう際、会場のピアノの銘柄や質がまちまちだったことにも目をつけて、ヨーロッパの主要演奏会場にベーゼンドルファーが置かれるように計らい、こういうシステムの先駆者でもあったようで、とにかくきわめて野心的な商売人であり、それを可能にする才気の持ち主だったというのは驚きでした。

また、イグナツの息子のルードヴィヒは父の会社を受け継ぎ、さらなる工場の大規模化を敢行。その快進撃は止まらないようです。あの有名なウィーンの学友協会の新会館がオープンして、そこへ引っ越した学友協会の音楽院へもさっそくベーゼンドルファーを寄贈、そして優秀な学生にもベーゼンドルファーをプレゼント、さらに新開館のホールにもベーゼンドルファーを置いてもらう、さらにさらにそこを会場としてベーゼンドルファー・国際ピアノコンクールを創設という、逞しい商魂と抜け目の無さで、まるで現代のサクセスストーリーを聞いているようでした。
まだまだあります。
ウィーンの中心街にあった名門貴族のリヒテンシュタイン家の宮殿を間借りしてショールームをオープン、その後はその宮殿の一部を改造してベーゼンドルファー・ザール(ホール)を建設、まだありますがもうここらでやめておきましょう。

少なくとも、これが設立から19世紀後半までのベーゼンドルファー社がやってきた経営であり、それは現在のブランドイメージとはまるでかけ離れたものだったことを知って驚かされました。
もちろんビジネスである以上それを悪いというのではありませんが、あまりにも抱いていたイメージとは違っていて、たおやかな貴婦人だとばかり思っていた人が、実は手段を選ばぬ猛烈ビジネスのやり手社長だったと知らされたみたいで、その過去の事実にちょっとばかりびっくりしたというわけです。

2013/09/16 Mon. 01:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

調律の価値 

NHKのクラシック音楽の番組で、ある地方都市で行われた演奏会の様子が放映されました。
ピアニストは現在日本国内でしだいにその名を聞く機会が増えてきた方ですが、今回はその方の演奏の話ではありません。

ピアノにとって調律とはいかに大切であるかを、たかだかテレビを通じてではありますが、痛いほど感じたコンサートだったので、このことを書いてみようと思います。
内容がきわどい要素を含むため、特定の固有名詞は一切控えることとします。

この会場にあったスタインウェイは、ディテールの特徴からして、20数年経過したD(コンサートグランド)で、手荒に使われた様子も、頻繁なステージで酷使された様子もないもので、こういうことは不思議に映像からもわかるものです。

第一曲がはじまり、まず感じたことは、この時代のスタインウェイは、明らかに現在のものとは音のクオリティが異なり、それを言葉にするのは難しいですが、まず簡単に云うなら重厚で音に密度があって、底知れぬ奥の深さみたいなものがあります。
どんな巨匠の演奏でも、テクニシャンの超絶技巧にも、まったく臆することなく応じることのできる懐の深さと頼もしさを生まれながらにもっているという印象。

とりわけ今の楽器との差異を痛切に感じさせられるのは、音に太さとコクがあること、あるいは低音域の迫力とパワーで、このあたりはスタインウェイの有無を言わさぬ価値が、まだはっきりとしたかたちで残っていた時代ということを実感させられます。こういう音を聞くと、やはりむかし抱いていたスタインウェイへの強い尊敬と憧れの理由が、決して一時の勘違いではなかったことが痛切に証明されるようです。
「昔のスタインウェイをお好みの方もいらっしゃるようですが、我々専門家の目から見ればピアノとしては現在の新品の方がむしろ良くなっている」などという話は、楽器店の技術者や輸入元の責任者がどんなに熱弁をふるおうとも、ビジネスの上での詭弁としか聞こえません。

利害の絡んだ専門家といわれる人の話を信じるか、自分の耳を信じるかの問題です。

このホールのスタインウェイに話をもどすと、これが自分が本当に好きだった最高の時代のスタインウェイとは云わないまでも、その特徴をかなり色濃く残した時代のピアノであることは、もうそれだけで嬉しくなりました。
しかし、しばらく聞いていると、せっかくの素晴らしい時代のスタインウェイであるのに、まるで迫ってくるはずの何ものもないことに違和感を覚えはじめます。ピアニストも熱演を繰り広げているのですが、それが即座に結果として反映されないことに、多少の焦りがあるようにも感じられました。

それが今回書きたかったことですが、これはひとえに調律の責任だと思いました。
まったく冴えがなく、音楽に対するなんら配慮のない無味乾燥なもので、音は解放どころか、完全に閉じてしまってなんの表現力もないものでした。
どんな調律が良いのかは、マロニエ君ごときが云えるようなことではありませんが、すくなくとも演奏という入力を雄弁な歌へと変換することで、有り体にいえば、聴衆の心にじかに訴えかけるような「語る力」を楽器に与えることでしょう。

さらに技術者も一流どころになれば、調律に際し、ピアニストの奏法やプログラムにまで細やかな考慮が及ぶことで演奏をサポートするわけです。
当然ながら、ピアニストの足を引っぱるような調律であってはならないわけですが、今回の調律はまったく凡庸な、音楽への愛情のかけらもないもので、音はどれもがしんなりとうなだれているようでした。

おそらくはあまり使われることのないピアノで、調律師もコンサートの経験の乏しい方だったのだろうと思わざるを得ませんでしたが、あんなに立派な楽器があって、なんと惜しいことかと思うばかりでした。ホール専属でも、競争の少ない地方などでは、きっちり音程を合わせることだけが良い調律だと本気で思っている調律師さんもいらっしゃるのが現実なのかもしれません。

素晴らしく調律されたピアノは、その第一音を聴いたときから音楽の息吹に溢れていて、わくわくさせられるものがあるし、音が解放され朗々と会場に鳴り響くので、必然的に演奏のノリも良くなり、それだけ聴衆も幸せになるわけで、調律師というものは、それだけの重責を負わされているということになるわけです。
マロニエ君に云わせると、良い調律とは、音が出る度に、空間にわずかな風が舞うような…そんな気がするものかもしれません。


2013/09/13 Fri. 01:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヴェンゲーロフ 

長らく肩の故障で演奏休業状態に追い込まれていたヴァイオリニストのマキシム・ヴェンゲーロフが数年ぶりに復活し、日本でもヴェンゲーロフ・フェスティバル2013と銘打つ一連の公演をやったようです。

その中からサントリーでのリサイタルの様子がNHKのクラシック倶楽部で放映されましたが、ずいぶんと恰幅のいいおじさんにはなってはいたものの、基本的な彼の特徴は昔とはなにも変わっていませんでした。たしかに透明感の増した音やディテールの処理などは、より大人のそれになったとは思いますが、音楽的な癖や音の言葉遣いみたいなものは、良くも悪くも以前のままのヴェンゲーロフのそれでした。

曲目はヘンデルのヴァイオリンソナタ第4番、フランクのヴァイオリンソナタ、アンコールにフォーレの夢のあとに&ブラームスのハンガリー舞曲というもの。

ヴェンゲーロフは1980年代にソ連が輩出した最後のスター演奏家のひとりといえるのかもしれません。
ブーニンが1985年のショパンコンクールに優勝して、日本ではロック歌手並みの大フィーバーが起こり、ついには日本武道館でのピアノリサイタルという前代未聞の社会現象まで引き起こしましたが、その一年後に天才の真打ちとして来日したキーシン、さらにヴァイオリンではヴァディム・レーピンとこのマキシム・ヴェンゲーロフがそれに続きました。

このヴァイオリンの二人は年齢こそ僅かに違うものの、同じロシアのノボシビルスクという極東よりの町から現れた天才少年で、先生もザハール・ブロンという同じ人についていました。
何から何まで天才肌で、どこか悪魔的な凄味さえ漂わせるレーピンに対して、ヴェンゲーロフはあくまでも清純で叙情的、まるで悪魔と天使のような対比だったことを思い出します。

マロニエ君は昔からヴェンゲーロフのことは決して嫌いではありませんでしたが、だからといって積極的に彼の演奏を求めて止まないというほどのものはなく、魔性の演奏で惹きつけられるレーピンとは、ここがいつも決定的な差でした。

そして今回38歳になったというヴェンゲーロフの演奏に接してみて、またしても同じ感想をもつにいたって、天才というのは幾つになってもほとんど変わらないということを実感させられました。
ヴェンゲーロフの演奏には間違いなくソリストにふさわしい強い存在感と華があり、テクニック、演奏家としての器ともにあらゆるものを兼ね備えているとは思うのですが、ではもうひとつ「この人」だと思わせられる個性はなにかというと、そこが稀薄なように思います。画竜点睛を欠くとはこういうことをいうのでしょうか。

その音は力強くブリリアント、しかも情感に満ちていて美しいし、音楽的にもとくに異論の余地があるようなものではないけれど、あと一滴の毒やしなやかさ、陰翳の妙、さらには細部へのいま一歩の丁寧さがどうしても欲しくなります。どの曲を聴いても仕上がりに曖昧さが残り、ひとりの演奏家の音楽としてはやや雑味があって仕上げが不足しているように思えてなりません。

ピアノはヴァグ・パピアンというヴェンゲーロフとは親交の深い男性ピアニストでしたが、この人の特殊な演奏姿勢は一見の価値ありでした。これ以下はないというほどの低い椅子に腰掛け、さらには背中を魔法使いの老婆のように丸めて、その手はほとんど鍵盤にぶら下がらんばかり。さらには顔を鍵盤すれすれぐらいまで近づけるので、どうかすると鼻や顎がキーに触れているんじゃないかと思えるほどで、まるで棟方志功の鬼気迫る版画制作の姿を思い出させられました。
でもとても音楽的な方でした。

2013/09/11 Wed. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

なんと東京五輪 

開けてびっくり、2020年夏のオリンピック開催地が東京に決定したことは、まずは喜ばしい、おめでたいことだったと思います。
実を云うとマロニエ君の予想では、東京はほぼ落選するものと思っていました。

いきなりこう云ってはなんですが、そもそもマロニエ君はオリンピック誘致にさほど熱心な気持があるわけでもなく、観るとしてもどうせテレビだし、どこでやっても自分にとっては同じ事という考えでした。それどころか、あの過密都市東京で、この上にオリンピックのような壮大なイベントをやるなんて、考えただけでも息が詰まるようでした。

それに、その東京の、いつも怒っている猫みたいな猪瀬知事の様子にも違和感があり、それがいつしかこわばったような悲痛な笑顔を作り始め、無理してテンションあげているような、同時に何かに取り憑かれたような不自然な言動を見ていると、いよいよ東京は無理だろうという予感が強まってくる気がしていたものです。

下馬評でもマドリードが優勢のように伝えられていましたし、さらに東京不利を決定付けたと見えたのは、ブエノスアイレスで行われたJOC会長の竹田氏の記者会見で、大半の外国人記者から福島原発の汚染水に関する環境面の質問を受けた折の対応で、英語はたちまち日本語に切り替わり、おたおたして適切な対応も出来ないまま「政府が説明する」「安部さんが来る」「福島と東京とは距離がある」などの繰り返しで、これが長年JOC会長を務め、さらにはIOCにも深く関与している人物の発言とは信じられない思いでした。

質問した記者からも、会見後、氏の対応には驚いたという声が聞かれ、これで完全に東京の芽はなくなったと思っていたところ、フタを開けてみれば順序から云うと最有力視されていたマドリードがまずはじめに落選し、決選投票によって東京に決定したのは、とりあえず日本人として素直に良かったとは思ったものの、なんだか狐につままれたような印象でした。

これはロシアで開催中のG20を中座してまでブエノスアイレスに駆けつけた安部さんによる強力な巻き返しが功を奏したのか、皇族の慣例を破ってこの地に赴かれた高円宮妃久子様など周りの皆さんの功績とフォローが大きかったのかとも思いました。ネットニュースによれば「最終プレゼンが勝因」とありましたから、だとすると安部さんの汚染水に関する安全説明が決め手ということでもありますが、いずれにしろ結果は東京誘致は成功したのですから、ものごと最後までわからないものですね。

あとから聞いた話では、近い将来フランスが開催の野心をもっている由で、そうなると前回がロンドンだったこともあり、今回マドリードに決まれば、ヨーロッパの開催が増えすぎることでフランス開催が難しくなるため、ここはいったんアジアへもっていこうというバランス感覚も作用したとか…。

それはそれとして、オリンピック開催にかくも世界が躍起になるのは、とうてい崇高・純粋なスポーツ愛好精神からではないことは明白で、今の世界で最も有名で最もわかりやすい世界最大規模のイベントを開催することでもたらされる開催国の発展や経済効果、知名度アップなど、そこについてまわるもろもろの「オリンピック特需」が欲しいからにほかならないと思います。

アベノミクスという言葉にもそろそろ効力が薄まりつつある今日、東京オリンピック開催という新しい目的が出来ることによって、この疲弊しきった日本の社会が少しでも息を吹き返せるのであれば、それはそれで結構なことだと思います。
景気は気、まさに気分の負うところが大きいと云われますから、これで少しは日本人が明るい気分に転換できるよう期待したいと思います。
今の日本は自分を含めて、あまりにも暗くてみみっちくて不健康ですから。

2013/09/09 Mon. 01:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

メーカーの遺伝子 

あるピアニストについて、長いことファンを任じているマロニエ君としては、この人のCDが発売されれば、それがいかなるものであろうと購入する事にしています。

先ごろも、イタリアのとあるレーベルから、ピアノデュオコンサートのライブCDが発売され、正直あまり気乗りはしなかったのですが、これはマイルールでもあり、半ば義務なのでしかたがありません(ばかばかしいですが)。
レーベル同様、コンサートが行われたのもイタリアのようです。

聴いてみても、予想通り内容があまり好ましいものではなかったこともあり、名前は敢えて書きませんが、もちろんお詳しい方にはおわかりかもしれませんし、それはそれでいいと思っています。

このピアニストはご自分のことはさておいて、客観的にどうみても大したこともないような変な若者を連れてきては、絶賛したり共演したりということが毎度のことなので、実力に見合わない相手との共演もいつものことで、我々ファンはそんなことにもとうに慣れっこになっています。

それにしても、このお相手はあまり音楽的な趣味のよろしいピアニストではなく、せっかくの演奏もかなり品性を欠いた残念なものになってしまっていました。しかも相手が相手なので、この時とばかりにいよいよ張り切るのでしょうが、根底の才能がてんで違うのだから、どうあがいても対等になれる筈もないわけですが…。

それはそれとして、このコンサートでは2台とも日本製ピアノが使われており(イタリアではわりに多いようです)、しかもその録音ときたらマイクが近すぎるのが素人にさえ明らかで、うるささが全面に出た録音になっており、一人のスターピアニストがそこにいるということ以外、すべてが二流以下でできあがったコンサート&CDだという印象でした。

クラシックの録音経験の少ない技術者に限って、マイクを弾き語りのようにピアノに近づけたがり、リアルな音の再現を目指そうとする傾向が世界中にあるようにあるように思われます。しかしピアノの音というものは、近くで聴けば雑音や衝撃音、いろいろな物理的なノイズなどが混在していて、まったく美しくはありません。これはどんなに素晴らしい世界の名器であってもそうだと言えるでしょう。

ピアノの音を美しく捉えるためには、まず楽器から少し離れないことにはお話にならないということですが、ブックレットに小さく添えられた写真を見ると、至近距離にマイクらしきものがピアノのすぐそばに映り込んでいるので、ほらねやっぱり!と思いました。

結果として、ピアノの音が音楽になる前の生々しい音が録られているわけですが、そこに聴く日本製ピアノの音と来たら、なんの深みもない軽薄な、あまりにも安手の音であったことが、図らずもひとつの真実として聞くことができたように感じられました。

もちろん使われているのはフラッグシップたるコンサートグランドなのですが、こうして近すぎるマイクで聴いていると、同社の普及型ピアノとほとんど同じ要素の音であることに愕然とさせられ、血は争えないものだということがまざまざとわかります。
製品にもメーカー固有の遺伝子というのがはっきりあるということで、聞くところではコンサートグランド制作は、普及型とはまったく別工程で限りなく手作りに近い方法によって入念に作られているというような話を聞いたことがありますが、こうして聴いてみると、ほとんど機械生産のそれと同じような音しかしていないのが手に取るようにわかりました。

だったら、まだるっこしいことはせずに、試しにいちど普及品と同じラインで、同じように機械生産してみたらどうかと思いましたが、ときどき本気のピアノを作るとき以外は、もしかしたらそれをやっているのかもしれないような気がしました。

2013/09/07 Sat. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

興味がない! 

過日読了した本、高木裕著『今のピアノでショパンは弾けない』(日本経済新聞出版社)の中に次のような記述があり、仰天させられました。

「有名私立音大のピアノ科の教授から聞いた話です。教え子に(略)上手いピアニストのコンサートに行きなさいと言っても行かない。どうも興味がないようだ。仕方なく、これはというコンサートに無理やり連れて行っても、そのピアニストのどこが上手いのかわからずに、周りが拍手するのでつられて自分も拍手する。上手いピアニストのここが上手いとわかったら、うちの音大では5本の指に入るんですよ…と嘆いていました。」

???
まさかウソではないのでしょうから、やっぱり事実なのでしょうが、まったく開いた口がふさがらないとはこのことで、ここまで今の若い人は感じることも情熱を燃やすこともなくなってしまったのかと思います。
そんなに上手い人の演奏にも興味がないほどどうでもいいのだったら、その学生は、そもそもなんのためにピアノなんてやって、尤もらしく音大にまで行っているのかと思います。しかもこれは特殊な一人の話ではなしに、全体がそうだと言っているわけで、そんな人間がいくら練習して、難曲をマスターして、留学してコンクールで入賞しようとも、所詮は聴く者の心を打つ演奏なんてできるわけがないでしょう。

昔は、いかなるジャンルでも、芸術に携わる人間が集まれば、いろいろな作品などに対する批評や論争で議論沸騰し、さらに昔の血気盛んな芸術家の卵たちは見解の相違から殴り合いになることさえあるくらい真剣だったと聞きます。お互いの批評精神が審美眼として厳しく問われ、論争の絶える間はなかったのは、芸術家およびその予備軍は常に鋭敏な感性が問われたからでしょう。
そしてともかくも純粋だったのですね。

少なくとも自分達のやっていることの、最高峰に属する一流といわれる人達の仕事に興味がないなんてことは、逆立ちしてもマロニエ君には理解できません。

これはサッカー選手を目指して学生チームで奮闘しながら、ワールドカップにはまったく興味がないようなもので、そんなことってあるでしょうか?
あまたのアスリートが血のにじむような努力と練習を重ねながら、オリンピックには無関心なんてことがあるでしょうか?

そういうことが、いやしくも音楽の道を志し、幼少時から専門教育を受け、来るべき時には海外留学したり、コンクールにでも出ようという人達の間で普通の感性だというのなら、その心の裡はまったく謎でしかありません。
自分はそれだけのことをしてきた、あるいはできるんだという単なるアクセサリーなのでしょうか。あるいは卒業したら、その経歴をひっさげて芸能界にでもデビューするのでしょうか。いずれにしろ、そんな人達に音楽の世界を汚して欲しくないと思いました。

ピアノを弾くことを特に高尚なことだなどとは思いませんが、少なくとも芸術に対する畏敬の念とか、より素晴らしい音楽表現を目指して音楽に接する情熱がなく、醒めていることが当たり前のようになっているのはいかがなものかと思います。

高尚とはいわずとも、少なくとも音楽の持つ美と毒とその魔力に魅せられて、どうにも始末のつけようがないような人にこそ、芸術家はふさわしいものであって、ただ単にコンクール歴を重ねることが目的のような人は、もうそんなまだるっこしい事はしないで、せっせと勉学に励んで一流大学にでも行き、しかるべき職業に就くほうがよほどせいせいするというものです。

2013/09/04 Wed. 02:56 | trackback: 0 | comment: 0edit

大器発見 

録り貯めしているNHKのクラシック倶楽部の中から、今年の4月のトッパンホールでおこなわれたラチャ・アヴァネシアンのヴァイオリンリサイタルを聴きましたが、ひさびさにすごいヴァイオリニストが登場してきたというのが偽らざる印象でした。

曲目はドビュッシーのヴァイオリンソナタ、ファリャ/クライスラー編;歌劇『はかなき人生』より「スペイン舞曲」第1番、チャイコフスキー/アウアー編;歌劇『エフゲニー・オネーギン』より「レンスキーのアリア」、R.シュトラウス/ミッシャ・マイスキー編;「あすの朝」、ワックスマン;カルメン幻想曲など。

冒頭のドビュッシーのソナタの開始直後から、ん?これは…と思わせるものがムンムンと漂っています。アヴァネシアンはまだ20代後半のアルメニア出身の演奏家ですが、要するに大器というものは聴いていきなりそれとわかるだけの隠しおおせない力や個性があふれているという典型のようで、確固とした自分の表現が次から次へと自然に出てくるのは感心するばかりです。

技巧と音楽が一体となって、聴くものを音楽世界へとぐいぐいといざなうことのできる演奏家がだんだん少なくなってくる最近では、小手先の技術は見事でも、要するにそれが音楽として機能することのないまま、表面が整っただけの潤いのない演奏として終わってしまうのが大半ですから、アヴァネシアンのいかにも腰の座った、力強いテンションの漲る演奏家としての資質は稀少な存在だと思います。

演奏の価値や形態にも様々なものがあるは当然としても、このように、とにもかくにも安心してその演奏に身を委ね、そこからほとばしり出る音楽の洪水に身を任せることを許してくれる演奏家が激減していることだけは確かで、そんな中にもこういう大輪の花のような才能がまだ出てくる余地があったということに素直な喜びと感激を覚えました。

演奏中の表情などもタダモノではない引き締まった顔つきで、尋常ではない高い集中力をあらわすかのような目力があり、その表情の動きと音楽が必然性をもって連動しているあたりも、これは本物だと思いましたし、太い音、情熱的な高揚感、さらには極めて力強いピッツィカートはほとんど快感といいたいほどのものでした。
まだこれというCDなどもないようですが、マロニエ君にとって今後最も注目していきたい若い演奏家のひとりとなりましたが、時代的にはこういう人があまりいないのが非常に気にかかる点ではあります。

ピアニストは、このコンサートで共演していたのはリリー・マイスキーで、チェロのミシャ・マイスキーの娘さんであることは、名前が出てから気付きました。両親によく似た顔立ちで、彼女が小さい頃の様子をむかしミシャのドキュメントで見た記憶がありますが、その子がはやこんな大人になっていたのかと驚きました。

演奏自体は、これといって傑出したものもなく、全体に線が細いけれども、それでも音楽上の、あるいはアンサンブル上の肝心要の点はよく知っているらしいというところが随所に感じられたのは、やはり彼女が育った場所が世界の一流音楽家ばかりが行き交う環境だったということを物語っているようでもありました。

決して悪くはないとは思いましたが、なにしろヴァイオリンのアヴァネシアンとのバランスで云うなら、残念ながら釣り合いは取れていないというのが正直なところです。それでもこの二人は各地で共演をしているようなので、何か波長の合うものがあるのでしょう。
それはそれで大事なことですが、ここまで傑出したヴァイオリンともなると、共演ピアニストももっと力量のある人であってほしいと願ってしまいます。

2013/09/02 Mon. 01:27 | trackback: 0 | comment: 0edit