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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

感情の軽視 

最近知り合いの方からいただいた方のメールの中に、次のような一節がありました。
「ピアノでいい音色だそうと頑張るのは、気に入った女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張るのと似てるような…」

マロニエ君としてはちょっと思いつかない比喩でしたけれども、これはまさに言い得て妙な言葉だと思いました。この方はいくぶんご年輩の方ではありますが、それだけに若い人よりいっそう豊かな情感をもって音楽を楽しみ、ピアノに接していらっしゃるようで、さりげない言葉の中にさすがと思わせられる真髄が込められているものだと唸りました。

何事も知性と情感がセットになって機能しなくては、なにも生まれないし、だいいちおもしろくもなんともありません。とくに現代は、音楽でも、それ以外の趣味でも、それに携わる人達の心に色気がなくなったと思います。
色気なんて云うと、けしからぬことのほうに想像されては困りますが、それではなく、美しい音楽を求める気持も情感であり、それをもう一歩探っていくと色っぽさというものに行き当たるような気がします。美しい音楽、美しい演奏を細かく分解していけば、音楽を構成する個々の音やその対比に行き着き、それを音楽の調べとして美しく楽器から引き出すことが必要となるでしょう。
その美しい音を引き出す動機は、情操であり、とりわけ色気だと云えると思います。

現代の日本人に感じる危機感のひとつに、感情というものをいたずらに軽視し、悪者扱いし、これを表に出さないことが「オトナ」であり、感情につき動かされた反応や言動はやみくもに下等扱いされてしまう傾向があるのは一体どういうわけだろうと思います。
感情イコール無知性で不道徳であるかのようなイメージは現代の偽善社会を跋扈しています。

感情の否定。こういう生身の人間そのものを否定するような価値観があまりに大きな顔をしているので、人は環境に順応する性質があるためか、ついには今どきの世代人は感情量そのものが明らかに減退してきているように思われます。不要な尻尾が退化するように、感情があまりに抑圧され、否定され、邪魔者扱いされるようになると、自然の摂理で、そもそも余計なものは不必要という機能が働くのか、余計なものならわざわざエネルギーを使って抑制するより、はじめからないほうがそのぶんストレスもなくなり、よほど合理的というところでしょう。

こうしてロボットのような人間が続々と増殖してくると思うとゾッとしてしまいます。
というか、もうあるていどそんな感じですが。
人間が動物と最も違う点は、知性と感情がある点であって、その半分を否定するのは、まさに人間の価値の半分を否定するようなものだとマロニエ君は思います。
感情が退化すれば文化も芸術も廃れ去っていくだけで、人々の心の中でも着々と砂漠化が進行しているようです。

電子ピアノは氾濫、アコースティックピアノもなんだかわざとらしい美音を安易に出すだけの今日、本物の美しい音や音楽の息吹を気持の深い部分から願いつつ、ピアノからどうにかしてそれを引き出そうという意欲そのものが失われて、「女性の満足そうな笑顔をみたくてあれこれ頑張る」というような行為は日常とは遠くかけ離れたものになってしまっているのかもしれません。


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2013/08/31 Sat. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

エルガーのバッハ 

NHKのクラシック音楽館でのN響定期公演から、下野竜也指揮でバッハ=エルガー編曲の幻想曲とフーガBWV537とシューマンのピアノ協奏曲、ホルストの惑星が演奏されました。
ピアノはアルゼンチンン出身で1990年にジュネーブコンクールで第1位のネルソン・ゲルナー。

ゲルナーのピアノは、繊細で彼の音楽的誠実さを感じるものではあるものの、いささか弱々しくもあり、見るからに迫力やパワーのない「この人だいじょうぶ?」といいたくなるような線の細いピアニストでした。
コンチェルトだからといってむやみに鳴らしまくるのがいいなんて暴論を吐くつもりはありませんが、やはりそこにはソリストとしてのある一定のスタミナ感はもっていただかないとちょっと困るなあ…という気がしたのも正直なところです。
必要とあらば力強い演奏も自在な人が、敢えて繊細さを選び取って行う演奏と、それしかできないからそれでやってるというのは本質的に違ってくるでしょう。

とくに第1楽章では、コンチェルトというよりまるでサロン演奏のようで、彼方に広がるNHKホールの巨大空間をこの人は一体どういう風に感じているのだろうと思いました。
もちろん、豪快華麗に弾くだけがピアニストではないのは当然ですし、そういうものよりもっと内的な表現の出来るピアニストの方が本来尊敬に値するとマロニエ君も日頃から思っていることも念のため言い添えておきたいところです。

しかしゲルナーのピアノは、そういう内的表現というよりは、まるで自宅の練習室で音を落として弾いているつもりでは?と思えるほど小さなアンサンブル的な音で、どうみてもNHKホールという3000人級の会場にはそぐわず、演奏の良し悪し以前に違和感を覚えてしまいました。

いやしくもプロの音楽家たるもの、自分の演奏する曲目や、共演者、さらには会場の大きさなどを本能的に察知して、ある程度それに即した演奏ができるのもプロとしての責務であり、その面の判断や柔軟性はステージ人には常に求められる点だと思います。

それでも印象的だったことは、この人には音楽には一定の清らかな美しさがあるということで、表現そのものは品がよく、こまやかな美しさがあったことは彼の持ち前なのだろうと思います。ただし、このままではなかなかプロのピアニストとして安定してやって行くには、あまりにもスター性もパンチもなさすぎで、コンサートピアニストとして一定の支持を得ることは容易ではないだろうとも思いました。

さて、このシューマンの前に演奏されたのがバッハ(エルガー編曲)の幻想曲とフーガBWV537で、これは本来はオルガンのために書かれた作品ですが、この編曲版を聴くのは初めてだったので、どんなものかとりあえず初物を楽しむことができました。
が、しかし、結論から云うと、まったくマロニエ君の好みではなく、バッハ作品をまるでブルックナーでも演奏するような大編成オーケストラで聴かされること自体、まずいきなり違和感がありました。
また編曲のありかたにもよるのでしょうが、マロニエ君の耳にはほとんどこの作品がバッハとして聞こえてくることはなく、後期ロマン派や、どうかすると脂したたるロシア音楽のようにも聞こえてしまいました。

「バッハはどのような楽器で演奏してもバッハである」というのは昔から云われた言葉で、ある時期にはプレイバッハが流行ったり、電子楽器によるバッハが出てきたりもしたし、だからこそ現代のモダンピアノで演奏する鍵盤楽器の作品もマロニエ君としてはいささかの違和感無しに聴いていられたものでしたが、さすがに、このエルガー版はその限りではありませんでした。

かのストコフスキーの時代にはこういう編曲も盛んで、聴衆のほうもそれを好んでいたのかもしれませんが、ピリオド楽器全盛の今日にあって、切れ味の良い鮮やかな演奏に耳が慣れてきているのか、こういう想定外の豪華客船のようなバッハというものが逆にひどく古臭い、時代錯誤的なものでしかないように聞こえてしまいました。
もちろん否定しているのではなく、これはこれで価値あるものと捉えるべきだと思うのですが、少なくとも自分の好みからはかけ離れたものだったという話です。


2013/08/29 Thu. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

自作は悪モノ 

前回、エアコンの室内への水漏れは結露によるもので、それは「自作の風よけが原因」だと断言され、一向に収まらない水漏れに耐えきれずにその風よけをバリバリ剥がし取ったものの、原因はまったく別のことだった顛末を書きました。

この風よけというのは、実は結構苦労して作ったものだったのです。
というのはプラスチック板を曲げて、それをエアコンのルーバーに貼り付けるという発想だったのですが、その素材はというと、ホームセンターで買ってきたものは、いざ曲げようとするとパリンと割れたり、はたまた強度が期待できないような頼りないものだったりの繰り返しで、できるだけ柔軟で「曲げ」に強い素材に到達できるまで数店まわって探し求め、やっとのことで完成したものでした。

こういう素材は、紙やベニヤ板と違い、カットするだけでも大変ですし、それを固定するために特殊な両面テープも必要となり、失敗分を含めると結構な金額やエネルギーを要した「労作」だったわけですが、それが悪者扱いされて、べりべりと剥がし取りました。

ところが、この業者ときたら、水漏れ修理の途中からちょっと変だなと思うことをチラホラ言い始めました。ピアノに冷風が当たってはいけないのなら、風よけはたしか製品化されていますよ…と口にするので、よく調べてもらうと商品名もわかり、なるほど数種類の製品があるようで、あの自作のための苦労はなんだったのかと思いました。

ネットで簡単に買うことができるし、こんなものがあることを知っていればはじめから余計な苦労をすることもなかったわけで、費用もむしろ安いぐらいです。しかしその写真を見ていると、ちゃんと商品化されたものなのでモノとしてはたしかにきれいですが、機能じたいは自作の風よけと大差ないのでは…という疑念がよぎりました。

つまりどっちみち、エアコンから吹き出た風をあるていど強制的に流れを変えるということには変わりはないわけで、それが結露&水漏れの原因になるというお説だったのですから、その危険性という面ではなんの違いもないように思いました。
でも、夜中に必死で作業をやってくれていることでもあり、もうそれ以上の追求はしませんでした。

自作の風よけを再度取りつけようかとも思いましたが、もともと手作りの手曲げだったので見栄えがそれほどいいわけでもない上に、固定に使ったプロ仕様の超強力両面テープというのが、文字通りの超強烈接着力で、剥がし取るだけでも誇張でなく肩が外れそうになるほど猛烈な力でくっついており、これを外すときに当然アクリルにもかなりダメージがあり、これをいまさらまた装着する気にもなれませんでした。

そこで、やはり専用品を買うことにして注文、さっそくアマゾンから送ってきましたが、これはあくまで汎用品なので、そのままポンと取り付けられるわけではなく、あれこれの工夫が必要でした。なんとか工夫して、めでたくピアノへの冷風直撃が回避されることになり、とりあえずひと安心となりました。

が、しつこいようですが、出来合いの専用品になったからといって自作のものと風の流れが劇的に変わったとも思えず、結局マロニエ君が作ったものと、先方のオススメ品は、やってることはおんなじことで、だったらこれでもメーカーの保証の対象外(エアコン自体とは別メーカーなので)になるんじゃないかと、エアコンに目が行く度に思ってしまいます。

自作のものはあれだけ糾弾しておいて、結局似たようなものを勧めるなんて…なんだかわけがわかりませんが、要するに向こうもその場限りのことを言っているだけで、終始一貫した発言を求めるほうが無理ということでしょう。
フゥという気もしますが、まあ何事も紆余曲折があるということで、ようやく落ち着いているところです。

2013/08/27 Tue. 01:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

技術者の独断 

対象がなんであってもそうでしょうが、機械ものの技術者というのは、ときにユーザーの意見や証言を尊重せず、自分の経験則や判断を絶対視する傾向があるようです。

マロニエ君はこれまでに何度この手の「誤診」により、車の故障などで、二度手間、三度手間をかけさせられたかわかりません。これはたぶん医師にもあることだろうと思いますが、こちらは健康、ひいては命にかかわることなので笑い事ではすみません。

おそらく技術者の意識の中には、相手はシロウト、対する自分はその道のプロフェッショナルだという優越意識があって、相手の云うことを貴重な情報として丁寧に聞こうとする姿勢が足りないものだと考えられます。
確かにユーザーは技術的には素人であることは間違いないけれども、その機械なり車なり(あるいは自分の身体)とは、毎日のように関わることで、長時間にわたり不具合の特徴などを深く知るに至っています。これに対して技術者は、解決を求められてはじめてその問題に相対するので、症状を慎重に観察・認識するだけの暇がないというのはわかりますが、ここで独断に走り、ユーザーの訴えに対して謙虚に耳を貸すということを怠ってしまうことが少なくないように感じます。

先日も、この連日の猛暑の中、我が家のツインのエアコンの片側から水漏れが発生し、それが下の棚やカーペットに容赦なくしたたり落ちるので、すぐに設置した業者に電話すると、明日行くので今夜はバケツなどを置いて凌いでくれという対応でした。

翌日、その業者がやって来ましたが、見るなり「これは結露です」と、いとも簡単に結論づけました。その根拠というのが、ツインエアコンの片側はピアノ近くにあるので、冷風がピアノに直撃しないようにアクリル板を自分で加工して、風がやや上向きになるように対策していたのですが、曰くそのアクリル板のせいで風の流れが変向し、それが結露を引き起こしていると断じるのです。さらにはその根拠として、まったく同じ機械のもう一台のほうからは一滴の漏れもなく、この状態はメーカーが想定している標準の使用方法にかなっていないからそうなるわけで、だからこのままでは保証も受けられない可能性がありますよといって、今回の結露は「たまたま起こった現象」ということで、とくにこれという作業もしないまま帰っていきました。

ところが、この結露だと云われた水漏れの症状は日に日に激しくなるばかりで、しまいにはエアコンの下は雨が降るほどにボタボタと水がしたたり落ちる状態となり、このところの暑さもさることながら、部屋の中にそれだけの水が漏れ落ちて来るということは精神的にも非常にストレスとなり、たまらずにまた業者に電話をしました。しかし、向こうが云うには自作の風よけが原因だろうから、どうしても気になるならそのアクリル板を外してみてくださいという指示でした。
それでもダメなら伺いますというので、この頃にはいささか立腹ぎみでもあったので、ピアノのためには必要な風よけ(せっせと作った)をバリバリと一気に外してやりました。「さあどうだ」といわんばかりに。

しかし、結果的にはそれでも水漏れは一向に治まる気配はなく、あいかわらず水はボタボタで、エアコンの下は大小のバケツや受け皿が4つも並んでいるという見るも情けない状況です。
当然その旨連絡をしたことはいうまでもなく、向こうも観念したのか、深夜でしたが、それから一時間ほどして首を捻りながらやってきました。機械のカバーが外されると、その中は業者のほうが驚くほどの水浸しで、さっそくその原因究明と作業が開始されました。

結論から言うと、水を排出するドレンとかいう部品の結合部分や、排出の経路の勾配の付け方に問題があることが判明し、これはすべて取付時の作業に問題があった由、最後は恐縮しながら、件のアクリル板が問題ではなかったことをしぶしぶ認め、作業が終わったのは真夜中のことでした。

まったくお互いにトホホな次第で、拙速に断定するからこんなことになるのです。



2013/08/25 Sun. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

完璧の限界 

前々回、内田光子のシューマンのことを書いていて思い出したのですが、彼女の録音はもちろんのこと、世界中のコンサートにも同行しているのは、ハンブルク・スタインウェイの看板ピアノテクニシャンであるジョージ・アンマンです。

彼は、現在のこの業界では知らぬ者のいない、いわばカリスマ的なピアノテクニシャンで、ショパンコンクールなどでも、いざというときは彼が万難を排してワルシャワに駆けつけ、他者では及ばないような調整を見事やってのけてピアノを輝かせるといった、もっか最高技術の持ち主といった存在とされているようです。内田とアンマンの関係も、内田のほうが彼の技術に惚れ込んで現在のような関係ができているということを聞いたことがあります。

福岡でのリサイタルでもアンマン氏は同行していた由で、その音をきくことができましたが、それは内田のCDで聴かれるものと、まったく同じ「あの音」であり、最近のCDは、音などは人工的に加工ができるから信頼できないということで非難する人がありますが、マロニエ君は断じてそうは思いません。技術的な可能性としては驚くようなことがいろいろ可能でも、それは真実をより良く適切に伝えるための手段として使われているようで、少なくともメジャーレーベルでは原音に忠実になるよう計らわれているようで、結果的にはかなり真実を伝えていると思います。

もちろん、録音現場で聴く演奏とCDの音では違いはあるとしても、それは環境の違いからくるものであって、CDは加工によって切り刻まれた整形美人のように、まったく別物という意味ではなく、そこに発生するものをより完成度の高い商品として仕上げていると思うのです。

さて、そのジョージ・アンマンですが、たしかにその音は美しく、見方によっては完璧といってもいいのかもしれません。彼の手にかかると、スタインウェイのような個性的なピアノも見事に飼い慣らされた従順な馬のようになり、音や響きにもムラがなく、すべてが過不足無く揃って、尚かつそのひとつひとつの音も甘く美しいもので、とりあえず「恐れ入りました」という感じです。

しかし、実はマロニエ君はこういう調律は見事だと思うし尊重もするけれども、好みとしてどうかとなると実はそれほど双手をあげて好みとは云えないものがあるのです。それは、あまりに完璧なもの特有のつまらなさ、それ故の狭さ、そこから何かを予感して受け取る側が楽しむ余地・余白というものが摘み取られてしまい、バカボンのパパではありませんが「これでいいのだ!」と上から押しつけられているような気がします。

マロニエ君は音楽はもちろん、何事も押しつけられるということが嫌いで、それは自分が自分の意志や感性を介して自由に楽しむという喜びやイマジネーションを奪われてしまうからかもしれません。

おかしな喩えですが、ジョージ・アンマンの手がけたピアノは、スタインウェイがヤマハのような均一さを欲しがっているようにも感じるし、同時にヤマハはスタインウェイのようなブリリアンスと強靱さを欲しがって、互いに相手の個性が羨ましくて仕方がないというような印象を持ってしまいます。

メーカーのことはさておくとしても、新しいピアノ、見事な調整というものは、キズのない最高級の献上品のようで、それはそれで素晴らしいものかもしれませんが、そういうもの特有のつまらなさ、閉塞感のようなものをつい感じてしまうわけなのです。
もちろん、くたびれたピアノや下手な調整がいいと云っているのではないことは言い添える必要もないことですが、少なくともある種の「危うさ」「際どさ」というものを常にどこかに秘めているものを求めているのはたしかなようです。

きっと個人的な好みとしては、そこそこの顔立ちに最高のメイクをして、今の瞬間だけを不当に美しく見せるようなやり方にどこか嘘っぽさを感じてしまい、それよりも、たしかな目鼻立ちの美人が、そこそこの化粧やすっぴんでも美しいなぁ…と感じたり発見したりするときのほうが自分には合っているし、根底のしっかりしたものが鷹揚に構えている姿のほうが性に合っているんだろうと思います。


2013/08/22 Thu. 01:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

宝になれない宝 

自分の地元を自慢するわけでも卑下するわけでもないのですが、福岡市という土地は住み暮らすにはとても総合点の高い、好ましい街であるという点では、今も昔もその認識に変わりはないのですが、こと西洋音楽という一面に関して云えば、残念ながらとくに自慢できるような街だとは思っていません。

東京、大阪を別にすれば、他の地方都市がどういう事情かは知りませんが、なんとなくこの分野になると福岡は、マロニエ君は自分が生まれ育った街でありながら、もうひとつ胸が張れないものがあります。

それは例えば音楽ホールについても云えることで、ただ単にホールと呼ばれるものは、福岡市およびその周辺エリアまで入れると数え切れないほどたくさんあって、もったいないようなお定まりのピアノも惜しげもなく備えられていますが、どれもが中途半端。いわゆる街の文化を象徴するような真の意味での音楽ホールがなく、主だったコンサートはいつも決まりきった(しかも甚だ不本意な)会場しかありません。

とりわけ音楽ホールの条件といえば、なによりもその音響の美しさと、座席数、そして存在そのものが醸し出す品格だと思います。

その点では、敢えて例外といえるかどうかはともかく、福岡銀行の本店大ホールは市の中心部である天神のど真ん中にある銀行ビルの地下にあるのですが、なにしろその音響は突出して素晴らしく、座席数も800弱でジャストサイズ。とくにピアノリサイタルにはこれ以上ないのでは?と思えるほどの理想的な音響をもっています。

この建物は1975年に建築家・黒川記章の設計によって作られ、さらにそのホールは日本初の音響を第一に考えられた音楽ホールという事で、当時は全国的にも音楽関係者の間で大いに話題をさらったものでした。
当時の蟻川さんという頭取が非常に文化意識が高く、氏の意向によってこのようなホールが作られたのでしたが、それも時代であり、今はいくら頭取が文化が好きだからといっても本店の設計にそういう贅沢施設を盛り込むなどはなかなかできないでしょう。

そんな福銀ホールですが、一昨日の新聞記事によれば、NPO法人福岡建築ファウンデーションの主催による「福岡市現代建築見学ツアー」というものが開催されて、その中にこのホールが含まれていたとありましたが、それによれば内部はなんとすべて松材で作られているということを初めて知りました。
松材の内装のお陰で美しくやわらかい響きがあるのだということで、あれは「松のホール」だったのかと非常に驚きつつ、その音の素晴らしさの秘密には思わず唸ってしまいました。

松材といえばいわゆるスプルースで、いろんな種類はあるでしょうけれども、弦楽器やピアノなどの響板にも使う木材です。それをステージを含む床以外の広大な壁や天井すべてをこの稀少素材で埋め尽くすことで作り上げたのですから大胆としかいいようがなく、資源保護やコスト重視の現代ではとても不可能な、あの時代だからこそできた贅沢なものだったことがわかりました。
ちなみに現代では、全面木材の内装は安全面からも不可の由。

そんな素晴らしい福銀ホールですが、銀行のホールという性格上、管理も官僚的で、利用がしにくい(以前はホールまで土日は無条件に休みだった)などいろいろな制約があり、利用者がそれほど積極的に使いたいものではないという点は実に惜しいところです。

良くも悪しくも時代というべきでしょうが、駐車場は一切なく、また何度か書きましたが、座席のある地下3〜4階まで自分の足だけで(障害者は別)降りて行かなくてはならず、終演後はその逆で、高齢者などは狭い通路階段を、揉み合うようにしながらビルの4階相当まで階段を登る苦行を強いられ、体力的に厳しいものであるのも事実です。

かの黒川記章の作品といえども、構造の点でもいささかおかしなところがあり、地下2階に相当するホールロビーが客席の最上階部分に作られ、通常のホールのように両サイドからの出入口というものがないため、すべてのお客さんは必ず最上部に位置する左右2箇所のドアから出入りして、薄暗いホールの中を延々と不規則な階段を降りて行かなくてはなりません。

一定以上の規模を有するホールというものは、公共性という一面をもつものなので、いくらそれ自体が素晴らしくても、利用者の快適性を軽視した作りであれば、その魅力を100%活かすことは困難ということの典型のような、いかにも残念なホールなのです。
銀行のようにお金があるところこそ、この宝を真の宝として活かすよう、利用者の側に立った工夫と改装をして、長く福岡の地に残して欲しいものです。

2013/08/20 Tue. 01:10 | trackback: 0 | comment: 0edit

内田の新譜 

CD店の試聴コーナーには、先ごろ発売されたばかりの内田光子の新譜が設置されていました。
前回に続いてのオール・シューマンで、森の情景、ソナタ第2番、暁の歌が収められていますが、彼女のピアニズムとシューマンが相性がいいとはどうしても思えず、なぜ最近の内田は録音にシューマンを継続的に弾くのか、さっぱりその理由がわかりません。

内田の演奏および芸術家としての姿勢には大いなる敬意を払いつつも、このところちょっと懐疑的にもなっているマロニエ君としては、新譜が出ても昔のような期待を感じることはなくなっています。

とりわけグラミー賞を取ったとかなんとかで話題になってはいたものの、彼女の二度目のモーツァルトの協奏曲シリーズは、マロニエ君としては、前作のジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団と共演した全集が彼女の最高到達点であり、如何なる賛辞を読んでも到底同意できるものではなく、なぜいまさらこんなものを出すのかがわかりません。

モーツァルトで再録するなら、初期の固さの残るソナタ全集のほうであると考える人は多いはずですが、彼女の考えおよびCDリリースに当たっては、ビジネスとしてどのような事情が絡んでいるのやら業界の裏事情などはわかりませんから、表面だけ見ていてもわからないことかもしれませんが、とにかく表面的には疑問だらけです。

フィリップスからデッカに移って、ソロとして出たのがたしか前回のシューマンのダヴィッド同盟と幻想曲でしたが、これは購入したものの何度か聴いただけで、もう聴こうとは思いません。
そのときの印象が残っていたので、もう内田のシューマンは買わないだろうと思っていましたが、試聴盤ぐらいは聴いてみようとヘッドフォンを引き寄せました。

なぜか森の情景からはじまりますが(この3曲なら絶対にソナタ2番からであるべきだと、マロニエ君は断じて思う)、第一曲からして「あー…」と思ってしまいました。この人はいわゆるコンサートピアニストという存在からだんだん違う道へと逸れて、まったく私的な、ごく少数のファンだけのためのマニアックな芸術家になったように思います。
その演奏からは、音楽の真っ当な律動や喜びは消え去り、聴く者は、内田だけが是と考える細密画のような解釈の提示を受け入れるか否かだけで、それに同意できる人には魅力であっても、マロニエ君にはもはやついていけない世界です。
とりわけそのひとつひとつの予測のつかない表現と小間切れの苦しげな息づかいは、まったく乗り物酔いしそうになります。

もっとも耐え難いのは、聴くほどに神経が消耗し、息苦しさが増して、心の慰めや喜びのために聴く音楽でありたいものが、まるで忍耐づくめの修行のようで、彼女がしだいに浮き世に背を向けて、まったくの別世界に向かっているような気がしました。

なにしろ内田光子のことですから、多くの書物を読み、音符を解析し、そのすべてに深い考察と意味づけをした上での演奏なんだろうとは思いますが、結果としてそれは非常に重苦しく恣意的で、音による苦悩を強いられるはめになるのは如何ともし難いところです。
まるで名人モデラーが、現物探求をし尽くしたた挙げ句、一喜一憂しながらルーペとピンセットで取り組む、オタッキーなプラモデル製作でもみているような気分です。

以前の彼女には、ちょっと???なところがあったにしても、他者からは決して聴くことのできない繊細巧緻な組み立てや、圧倒的な品格と美の世界に触れる喜びがありましたが、今は彼女の中の何かがエスカレートしてしまい、独りよがりのもの悲しいつぶやきだけが残ります。

ただし、それはソナタの2番までで、シューマン最晩年のピアノ曲集である暁の歌では、そういう内田のアプローチがこの神経衰弱的な作品に合っていて、やはりまだこのような見事さはあるのだと、変にまた感心してしまいました。
この暁の歌だけは欲しいけれど、そのために前45分にわたる苦行の音楽を聴くのも嫌だし、収録時間のわずか1/4だけのために購入するというのも、もうひとつ決断がつかないところです。

2013/08/18 Sun. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

中国の珍百景 

昨日のお昼のこと、テレビの画面をなんとなく見ていたら、タイトルの通りのような言い回しで、この夏の中国の珍風景をおもしろおかしく紹介していました。

今年の猛暑は日本だけのものかと思っていたら、なんと中国も同様だそうで、大陸でも観測史上初の値を記録する厳しい暑さに見舞われているようでした。
それにまつわる写真が3枚紹介されましたが、一つはデパートの健康器具の売り場で、商品の安楽椅子や身体を横にして使う器具の上で堂々熟睡する人達で、涼しいデパートの店内で横になれる場所を見つけては、大勢の人達がずらりと並んでぐぅぐぅ眠っている様子でした。

もうひとつは地下鉄の構内で、ここもクーラーが効いていて、しかも床が化粧仕上げの石造りであるためにひんやりするというわけで、大人も子どもも、その床にべったりと身体をくっつけて眠っている様子ですが、中国の衛生事情は日本人にはかなり厳しいものがあり、駅の構内などはみんなが唾や痰をバンバン吐いたりするのが当たり前なのですが、どうやらそんなことはお構いなしのようです。

最も驚いたのは、中国の巨大なプールで、ここには大勢と云うよりは、ほとんど群衆とでも呼びたいような猛烈な数の人達が殺到しており、人と浮き袋などでびっしりとプール全体が埋め尽くされていて、まったく水面というものが見えないのは恐れ入りました。
かつて見たこともない、まさに中国ならではの桁違いの混雑ぶりでした。
湘南などの海水浴の猛烈な人出でさえ驚くのに、この中国のプールの人の密集度は、とてもそんな甘っちょろいものではないのです。パッと見にはプールに人々が入っているというよりも、まるでなにか得体の知れないものが異常発生しているか、江戸小紋などのこま柄がびっしり詰まった模様でも見るようでした。

それはそれとして、ふと気になったのは水質の問題です。
中国に旅したことのある人ならだれでも知っていることですが、あちらは気の毒なことにきわめて水質の悪いお国柄で、たとえ一流ホテルに泊まっても、水道の蛇口を捻ると、うっすらと濁った、少し変な臭いのする水しか出てきませんし、当然それを飲むこともできません。また、レストランなどで出てくるお茶を飲むと、料理の美味しさとは裏腹に、どことなく嫌な臭いのする水質の悪さを感じさせられて、あまり飲みたくない気になるものです。
したがって、中国に行くと必ず手始めにコンビニなどへ行って、飲料用の水を一抱え買ってくるのですが、その「買った水」でも日本の普通の水道水よりはかなり質は落ちるというのが実感です。

飲み水でさえそんなお国柄ですから、プールという途方もない水量を必要とする施設での水質はどうなっているのだろうと、どうしても考えてしまいます。おまけに上記のような、信じられないような夥しい数の人達が、満員電車のように押しあいへしあいしながら水に浸かるとなれば、こりゃあもう衛生状態なんてほとんど期待できないのではと思ってしまいます。

聞くところでは、この夏は上海あたりでも40度を超える猛暑日があるほか、内陸の重慶などでは42度を超える記録まで出ているというのですから、いやはや今年の暑さは呆れるのを通り越して、どこか恐いような気がしてしまいます。


2013/08/16 Fri. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

一位と二位で 

早いもので、今年もお盆の時期を迎えました。
例年にない猛暑列島の中、多くの人々がフライパンの上を大移動をするみたいで、そのエネルギーたるや大変なものだなあと思わずにはいられません。

家人から聞いた話ですが、お盆の初日13日にあたり、テレビニュースではそれに関するもろもろの話題を採り上げていたらしく、最も興味深かったのが「ストレス」に関するものだったとか。

なんと、現代の日本人が一年を通じて最もストレスを感じる時期というのがお盆休みなのだそうで、その第1位は、この真夏の真っ只中に、家族を引き連れて夫妻いずれかの実家に帰省することが定例化していることだとか。てっきりそれが楽しいのかと思いきや、多くの人達には大変な重荷になっているというのですから驚きました。
今の今だからとくにそう云うのかもしれませんが。

とりわけ実家が遠方になればなるだけ、交通費は嵩み、お土産だなんだと出費はあるし、移動に要するエネルギー消耗も増加するのは当然です。着いた先も、自分の実家だとはいっても、連れ合いにとっては気を遣う場所でもあるでしょうし、単なる旅行のようにポンとホテルに泊まって、あとは気まま遊び歩くというわけにもいかないのでしょう。

さらに驚くべきは、ストレスの第2位はそれを迎え入れる実家側の人々なのだそうで、これまた驚きました。自分の子ども一家の帰省であり、かわいい孫というような喜ばしいファクターもあるのでしょうが、やはりそこには甚大なストレスという本音が隠れ棲んでいるというのが、いかにも人間のおもしろい(といっては悪いなら複雑な)部分だと思いました。

たしかにひとくちに「実家」などと云っても、誰もが部屋の有り余った大邸宅に住んでいるわけではないし、突如増加する人の数といいますか、単に物理的側面だけをみても、相当に苦しい状況が否応なく生まれるのは明らかです。いかに我が子の大切なファミリーとはいえ普段別に生活している者が、束になって帰省の名の下に押し寄せてくれば、それまでなんとか保っていた平穏な生活のリズムは大きく乱され、なんでもが「嬉しい」わけでも「賑やか」なわけでもないというのが実情のようです。

そんなストレスの第1位と第2位が、お互いの本音を隠しながら、真夏の狂騒模様を必死に演じているとすれば、いかにも切ない人間のアイロニーを感じてしまいます。マロニエ君などは、だったらいっそ本音を打ち割って双方了解を得て、そんな疲れることは端から止めてしまえばいいのに思いますが、まあそれが簡単にできないところが人間社会の難しいところなのかもしれません。

マロニエ君宅の知人の女性の話ですが、夫を亡くし、東京で一家を構える息子のもとへ遊びがてらしばらく逗留したところ、奥さんも昼は仕事をして不在、子ども達は学校、息子はもちろん仕事で、必然的に毎日見知らぬ土地で孤独の時間を過ごすハメになり、やっと家族が集う夕食時ともなると、今度は2人いる子どもが、食事をしながらケータイかなにかのゲームに打ち興じるばかりで、まるで会話というものがなく、それを叱ろうともしない息子夫婦にも呆れつつ、たまに訪ねてきてはお説教というのも躊躇われて、とうとう予定を切り上げて帰ってきたという顛末がありました。

身内といっても、しだいに人との関係には元には戻れない深刻な変化が起こっているのかもしれません。

聞くところによると、現代人の最も苦手なものは「人付き合い」なんだそうで、他人同士はいうに及ばず、身内でも自然な人付き合いができないために、人がどんどんバラバラになっていくようで、これをいまどきの社会現象だといってしまえばそれまでですが、そんなバラバラな者同士が増えるだけ増えて、この先どうなってしまうのだろうと思います。


2013/08/14 Wed. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

LEDのメリット? 

多くの方はよくご存じのことかもしれませんが、電気などに疎いマロニエ君は、最近流行のLEDと従来型の製品の明瞭なメリット/デメリットがもうひとつよくわかりません。

我が家は、白熱電球の照明が多いこともあり、わりに早い時期から「電球型蛍光灯」に切り替えることでずいぶん省エネ対策をしたつもりでした。
たしか、耐久力は8倍近くに上がり、消費電力は1/4程度というのが謳い文句だった記憶があります。

その電球型蛍光灯も市場に出てきた当初はかなり高額でしたが、その後は多くの電気製品と同様、普及とともに値段も下がり、ずいぶん求めやすくなってきたことは大歓迎でした。

ところが、その後LEDという、さらなる新時代テクノロジーによる照明システムが現れ、これもまた従来の白熱球と同じ口径のものが売り出されましたが、その価格と来たら、ちょっと気まぐれに買ってみる気になれないほど高額で、その後は少し安くなりはしたものの、電球型蛍光灯ほどには下がらず今に至っているように思われます。

いくら省エネだなんだといってみても、あまりに単価が高くては、真の省エネとは呼べないわけで、電気店などにいくたび箱を手にとって説明書きなどを見てはみるものの、どうも光量が少ない感じで、では消費電力も劇的に少ないのか?というとそれほどでもなく、マロニエ君にとっては購入してみるだけの決め手がもうひとつありませんでした。

ところが困ったことには、長年愛用している電球型蛍光灯が僅かずつであるものの、商品数が減り始め、価格もそれまでのような安いものは姿を消し、そのぶんLEDが幅を利かせはじめている気配です。市場ではなんとかして消費者をLEDに移行させようというメーカーの思惑が働いているように感じます。
電球型蛍光灯は、一時は100円ショップにさえ出回るまでになったのですが、最近では完全に店頭からその姿は消えてなくなり、最低でもホームセンターなどでないと購入できなくなったばかりか、選択肢もだいぶ減りました。

それに対して、LEDはどうかすると売り場の一角に堆く積み上げられて、「これからは、こっちを買うのが当たり前」といわんばかりの光景です。たしかに価格も1000円/1個を切るようなものも出てきたので、電球型のLEDは一度も使ったことはないし、なんとなく買ってみようかという気になり、かなりその気で眺めてみました。しかし、やっぱりどうもしっくりきません。

マロニエ君は昔の白熱球のワット数でしか明るさのイメージが掴めないのですが、それに換算すると、大半のLEDは白熱電球でいう30Wとか40Wが主流で、60W相当となるとかなり少数かつ高額なることがわかりました。ちなみにLEDで60W相当の場合は一流メーカーの品で消費電力は9.8Wとありますが、これまで使い慣れた電球型蛍光灯の60W相当の消費電力は少ないもので12Wと、その差はわずか2.2Wしかないのは???と思いました。

しかも価格はLEDの場合、同じ店でも電球型蛍光灯の約3倍近くにもなり、またしてもLEDのいったいどこがそんなにいいのかがいよいよわからなくなりました。
ついには両方を手に持って店員さんを捕まえて、どんなふうに違うのかを質問してみたのですが、なんと答えに窮するばかりで、これという説明が得られなかったばかりか、ずいぶん考えた挙げ句に「お客さんの中では、LEDは暗いと言われる方がありますね…」と言い出す始末。いよいよLEDを積極的に購入する理由がなくなり、またしても電球型蛍光灯を買ってしまいました。

LEDは、よくよくマロニエ君にはご縁がないようです。

2013/08/12 Mon. 01:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノフェスタ2 

今回のピアノフェスタは、知人からお誘いを受けたことがきっかけで赴いたものでしたが、いささかの訳があって他のお客さんの少ない時間帯に見せていただくことができました。

輸入ピアノのうちの何台かは触る程度のことはしてみましたが、先に書いたようにどれもオーバーホールの出来たてホヤホヤみたいな状態で、本来の音や性能水準に到達しているとはとても思えず、よってあまり積極的に興味が持てなかったことと、やはりどうしても弾いてみたいピアノの人気というのは有名ブランドに人が集中してしまうため、そういう状況ではマロニエ君はいつも気分的に引いてしまうところがあるのです。

多くの外国製高級ピアノの前はこのときの為にかどうかはしりませんが、楽譜まで持参して、たいそう熱心に弾かれている人達があり、そういう光景を見ると、いっぺんに気分が萎えてしまい、それが終わるチャンスをうかがって、椅子が空くと同時にすっ飛んでいくような「がんばり」がどうしてもわかないのです。

いっぽうで、国産グランドのエリアはてんでがら空きで、こちらのほうが静かでもあるし、なんとなくそちらをブラブラしていると、なんと今年は2台の中古ディアパソンが持ち込まれていることに一驚しました。
しかも、そのうちの一台はディアパソンの中でも稀少なDR211で、マロニエ君が今年購入した210Eとまったく同サイズ(奥行き211cm)のピアノですから興味津々でした。これは生産されたオオハシモデルの最後の時代のピアノで、基本的な設計は210Eとほとんど同じだと考えられます。

こちらは誰もいないのを幸いに183と211に触ってみましたが、ピアノとしての状態は決して悪くないと思われましたが、意外にもディアパソンらしさのない軽くて細い音がして、あまりグッと来るものはありませんでした。
とりわけマロニエ君の関心の中心は211にあるのはいうまでもなく、こちらをより多く触らせてもらいましたが、同じサイズと構造のモデルでも昔のものとは何かが決定的に違っているような印象を持ちました。それが何であるかはわかりませんが、よりカワイ的と云ったらいいのか、どちらかというと淡泊で深みのない音になっており、ディアパソン特有のあのズッシリした鳴りとパワー、楽器としての奥行きみたいなものはあまり感じられなかったのは意外でした。

アクションもこの時代にはヘルツ式になっているため、現代的ではあり、バリバリ弾かれる方などはこちらを好む方も多いだろうと思いますが、しっとりとしたセンシティヴなタッチや、楽器との対話を楽しみたいなら、マロニエ君はシュワンダーの方が好ましいとあらためて思いました。
ただし、ヘルツになってもキーが重いのはあいかわらずなのは不思議でした。

音の特徴やタッチに意識が集中しすぎて、何年式であるかを確認するのをうっかり忘れてしまいましたが、やはり、多くのピアノが辿らされた運命と同じく、製造年が新しくなるだけ木の質は落ちているという印象は拭い切れませんでした。
マロニエ君の購入したおおよそ35年前の210Eは個人売買での購入で、あまり使われている印象はなかったものの、ピアノの置かれていた環境や状態はお世辞にも褒められたものではありませんでしたが、それでも基本的には今と変わらない深みと味わいは持っていましたから、ピアノが根底のところにもっている基本は、いかなる環境にあろうとも意外に変わらないのだと思いました。

なんだか、お店の商品と自分のピアノを比較しているような感じの文章になっているかもしれませんが、努々そういう意図ではなく、同じメーカーの同じピアノであっても「時代」によって予想以上の違いがあるということが再確認できたということです。

そういう意味では、たとえばヤマハやカワイの中古ピアノを買われる方がおられるとして、サイズの違いばかりにこだわらず、同サイズでも年式による音の本質的な違いにも留意すべきではと思います。

2013/08/09 Fri. 02:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノフェスタ1 

毎年夏、博多駅ターミナル内にあるJRの大展示場で行われる島村楽器主催によるピアノフェスタに今年も知人らと行ってきました。

楽器販売が低迷する時節柄、大手メーカーのショールームさえも撤退を余儀なくされるなど、ピアノを取り巻く厳しい状況が続く中、とりわけマニアックなピアノ店が少ない福岡では、質・量いずれの点に於いてもこれほど多くのピアノが一堂に集められ、大々的に展示販売される催しは唯一無二のものとなっています。

会場入口からは、いつもながら電子ピアノが無数に並べられていて、きっと素晴らしい製品はあるのだろうとは思いつつ、どうしてもアコースティックピアノの展示エリアに足が向かってしまうのは、個人的に興味の比重が異なるため、毎回素通りになるのは仕方がないようです。

スタインウェイをはじめとする、海外のブランドがズラリと並ぶ中、今年は日本製のグランドもこれまでよりかなり数多く展示されていたように思いました。
珍しいところではグロトリアンやシンメル、古いベヒシュタインなども見受けられましたが、輸入物ではやはりスタインウェイが最も数が多く、記憶ちがいでなければD/C/B/A/O/M/Sのすべてのサイズが揃っており、ほとんどが美しく仕上げられたオールドの再生品だったようです。

島村楽器の扱う中古ピアノの良い点は、高級機でも大半がオーバーホールをされていることで、消耗品の交換はもちろん、外装なども多くが塗装をやり変えてあるので、いかにも中古品というマイナス印象を受けなくて済むことでしょうか。もちろんすべてではないかもしれませんが、多くの個体がこのような状態で販売されているようですし、価格的にも、絶対額は安くはないけれども、あくまでも常識的な納得できる価格である点もこの全国に販売網を持つ大手楽器店の強味なのかもしれません。

ただし、オーバーホールされたピアノに共通して感じられたことは、調整は明らかに未完の状態で、まだ本来の性能を発揮しているとは思えず、これから音を作って開いていくという余地が残っていることでした(意図的にそういう状態でとどめられているのかもしれませんが)。
個人的にはもっと調整の仕上がった澄んだ美しい音や響きを聴きたいところですが、それは購入されたお客さんだけが自分の好みを交えながらじっくりと熟成していく過程を楽しまれる、密かなる権利というところなのかもしれません。

しかし、それは同時にそれぞれのピアノがこの先の弾き込みや調整如何によって、どんなふうに成長していくかをある程度イメージできるかどうかという大きな課題を突きつけられているようで、これはよほどの経験者か目利きでなければその見通しを立てることは相当難しいことでもあり、やはり楽器購入は何がどう転んでも容易なことではないということを実感しました。

それにしても、毎年これだけ大量のピアノを関東から運んで展示会をされるということ、さらにはそれがすでに3年も連続しておこなわれているということだけでも、我々のようなピアノ好きとっては大変ありがたい唯一の催しであるわけで、素直に感謝するべきだと思いました。

2013/08/07 Wed. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit

主治医繋がり 

先日、あるピアニストの方とお話をする機会があって、たまたま話題が調律やピアノ管理に関することに及びました。
すべてではないものの、多くのピアニストは自分の弾くピアノという楽器に関して、本気で関心を寄せている人というのはそう多くはないので、この方は非常に珍しいと思い、ちょっと嬉しくなりました。

ピアノにまつわるさまざまな要素は、どれもが単独で語ることができないほどそれぞれの要素が互いに絡み合い、関係し合い、依存し合っている面が多く、これはいいはじめるとキリがなく、マロニエ君ごときでは言い尽くすこともできません。

例えばどんなに素晴らしい楽器でも、弾く人の音楽性や美意識しだいではその良さはほとんど出てきませんし、ピアノの置かれている場所の環境など管理状態が悪くてもダメ。調整などの技術面での技量や意識レベル。さらにはそれらが揃ったにしても、ピアノが鳴る部屋や音響という問題もあって、これらのことを考えはじめると、とても理想的な状態を作り出すなど、少なくとも通常は不可能に近いものがあると思われます。

しかし、そんな諸要素の中のどれか1つか2つでも持ち主がそこを理解して保守に努め、改善できるものは改善したりすると、それだけでも状況は大きく異なります。
その方はとある極めて優秀な技術者さんとの出会いによって、ピアノに対する接し方やスタンスに変化が起こり、ついには弾き方まで変わったとおっしゃるのですから、やはり技術者というものの存在の大きさを感じずにはいられません。
とりわけ調律はその要素がきわめて大きい部分を占め、ピアノの機械的な技術面でも調律ほどピンキリの世界もないというのがマロニエ君のこれまでの経験から得た結論です。

整調、整音、調律はどれが欠けてもいけないものですが、とりわけ調律は技術者側におけるセンスと才能が最も顕著に発揮される領域で、これはいうなれば技術領域から芸術領域に移行していく次元だといっていいと思います。

整調整音が上手くいっているとしても、調律こそが最終的に楽器に魂を吹き込む作業といいますか、極論すれば、それによって音の出る機械から真の楽器に変貌できるかどうかの分かれ目になると思うのですが、この点がなかなか理解が得られないところのようです。
一般的に調律といえば、ただ2時間弱ぐらいピッチを合わせて、ついでに気がついたところをちょこちょこっとサービス調整してハイ終わり。代金をもらって「ありがとうございました」と言って去っていくというのが大多数でしょうし、ピアノオーナーのほうも調律とはそんなものと思っている人のほうが圧倒的に多いようです。さらには、ピアノの先生や演奏の専門家でさえ、ピアノだけはほとんど素人並の認識しかない場合が決して珍しくないのです。

ですから、その方は大変珍しい方だなあとマロニエ君は思ったわけです。
同時にコンサートなどで方々に行かれる先にあるピアノの管理の悪さには、ずいぶんと辟易されているようで、この点はほとんど諦めムードでした。
同じ福岡の方だったので、そんな素晴らしいピアノ技術者の方が、やはりひそかにいらっしゃるんだなあと内心思いつつ、敢えてお名前は聞かないで話をしていたら、さりげなく向こうのほうからその方の名前を云われたのですが、なんと我が家の主治医のおひとりだったのにはびっくり仰天。
やっぱり世間は狭いというべきでしょうか。

この技術者の方は、別にスーパードクターのように威張っているわけではないけれど、非常に強いこだわりと自我をおもちの方で、ある意味気難しく、頼まれればどこにでもヒョイヒョイ行かれる方ではないので、マロニエ君としても我が家に来ていただけるのは幸いとしても、軽々しく人にご紹介はできないと思っていました。
そういうこともあって、数少ないその方繋がりのピアニストと知り合うことができたことは、不思議なご縁と嬉しさを感じたところです。

2013/08/04 Sun. 01:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

正しきお姉様 

ひと月以上前のNHKのクラシック音楽館で放映されていたN響定期公演から、ヴィクトリア・ムローヴァのヴァイオリンで、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲第1番が演奏されたときの映像を見てみました。指揮はピーター・ウンジャン。

ムローヴァはロシア出身で、年齢も現在50代半ばと、演奏家として今最も脂ののりきった時期にある世界屈指のヴァイオリニストといって間違いないでしょう。
昔からマロニエ君は熱烈なファンというのではないものの、ときどきこの人のCDを買ったりして、「そこそこのお付き合い」をしてきたという自分勝手なイメージがあります。

その演奏は「誠実」のひと言に尽きるもので、バッハなどで最良の面を見せる反面、ドラマティックな曲ではともするとあまりに端正にすぎて、情感に揺さぶられてはみ出すようなところもなく、見事だけれどもどこか食い足り無さが残ったりすることもしばしばです。
ロシア出身のヴァイオリニストといえばオイストラフを筆頭に、コーガン、クレーメル、レーピン、ヴェンゲーロフなど、いずれもエネルギッシュかつ濃厚な演奏をする人達が主流ですが、そんな中でムローヴァは、突如あらわれたスッキリ味のオーガニック料理を出すお店のようで、それは彼女のルックスにさえ見て取ることができます。

長身痩躯の金髪女性が、スッとヴァイオリンを構えて、淡々と演奏を進めていく様はとてもロシア出身の演奏家というイメージではないし、とりたてて味わい深いというのもちょっと違うような、なにか独特の、それでいて非常にまともで信頼性の高い演奏に終始し、一箇所たりともおろそかにされることはないく、彼女の音楽に対する厳しい姿勢が窺われるのは見事というほかはありません。
耳を凝らして聴いていると、非常に深いところにあるものを汲み上げていることも伝わりますが、彼女は決してそれをこれみよがしに表現しようとはしないのです。

とりわけ最近では、ガット弦を用いて演奏するなど、古楽的な方向にも目を向けているようで、この人の美質は本来そちらにあるのかもしれません。
さて、ショスタコーヴィチのヴァイオリン協奏曲は、終始一貫した、まったくぶれるところのない、いかにもムローヴァらしい快演ではあったものの、曲が曲なので、やはりそこにはマロニエ君個人としては、もうすこし大胆な表現性、陰翳感やえぐりの要素とか、エレガンスと毒々しさの対比などが欲しくなるところでした。

このショスタコーヴィチの演奏を聴いてまっ先に思い出したのは、もうずいぶん昔のことですが、小沢征爾指揮でムローヴァがソリストを努めたチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲をCDを買ったことがありましたが、マロニエ君もまだずいぶん若かったこともあり、そのあまりの端正な無印良品みたいな演奏には大いに落胆を覚えたことでした。

最近ではピアノのアンデルジェフスキと共演したブラームスのソナタ全3曲がありますが、こちらもやはりムローヴァらしいきちんと整理整頓された解釈と遺漏なき準備によって展開される良識的演奏で、この素晴らしい作品をじっくり耳を澄ませて集中して勉強するにはいいけれども、作品や演奏をストレートに楽しむにはちょっと違う気がするところもあり、やはりどこかもうひとつ聴く者を惹きつける何かがないという印象は変わりませんでした。
ソロでは個性全開のアンデルジェフスキも、このCDではムローヴァの解釈に敬意を表してか、至って常識的に節度を保って弾いているのが、お姉様に頭があがらない弟のようで微笑ましくもありました。

と、こんなことを書いているうちに、マロニエ君としたことが、ムローヴァのバッハの無伴奏パルティータとソナタのCDを買っていなかったことに気が付き、これぞ彼女の本領発揮だろうと想像しているだけに、はやいところなんとか入手しなくてはと思いますが、この「つい忘れさせる」というのがムローヴァらしいところなのかもしれません。

2013/08/02 Fri. 01:00 | trackback: 0 | comment: 0edit