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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ラベック姉妹 

多くの皆さんもきっと同様ではないかと思いますが、いわゆる人間の第一印象といいましょうか、初めに受けたイメージや、そこから発生した好みというものは、これが意外なことに自分が考えている以上に正確で、途中で覆るなんてことは非常に稀というかむしろ例外的です。

大半の場合においては、何十年経ってもその印象が変わることはまずないのが自分を振り返っての結果ですし、少なくとも自分という主体においては、ある意味、第一印象ほどぶれがない信用度の高い情報は他にないように思います。

マロニエ君にとっては、ピアノのラベック姉妹がそのひとつで、彼女達が楽壇に華々しく登場したのはもうかなり昔のことでしたが、そのころから何度かその演奏を聴いてみましたが、彼女達の何がどんな風にいいのか、当時からまったく理解ができませんでした。

ビジュアルとしては美しいフランスの女性ピアノデュオで、姉妹であるにもかかわらず二人のキャラクターはまったく異なり、お姉さんは饒舌で、演奏の様子もジャズマンのように情熱的で野性的、片や妹はもの静かで黒髪を垂らしたひっそりとしたタイプ。

それはさておいても、その演奏には、マロニエ君は初めて聴いたときから、良いとか悪いとか好きとか嫌いとかいうものが不気味なほど発生せず、ひとことで云うなら「何も、本当になんにも」感じませんでした。フランス人の演奏家にはいろいろなタイプがいて、初めは違和感を感じても、なるほどそういうことかと、好みとは違ってもこの人が何をやりたいのかや、どういうところを目指しているかということは、日本人以上に強いメッセージ性をもっているので、だいたいわかってくるものです。
それがこの姉妹の演奏には、まったくなにも感じるところができないし、ま、どうでもいいようなことですがずっと自分なりにひっかかっていたように思います。

つい先日、久しぶりにそのラベック姉妹を見たのです。
NHKのクラシック音楽館でデュビュニョンという現代作曲家による「2台のピアノと2つのオーケストラのための協奏曲“バトルフィールド”作品54」というものが日本初演されました。
なんでもラベック姉妹の委嘱によって作曲されたものらしく、2台のピアノとオーケストラが舞台上で二手に分かれ、しかもこの音楽は戦争であると公言し、それぞれが「戦う」というのですから、これはなかなかおもしろい試みじゃないかと思いました。
ピアニストはそれぞれの軍を率いる隊長という設定なのだとか。

指揮はビシュコフで、初めて聴く異色の作品であるにもかかわらず、ピアノが鳴り出すと昔の印象がまざまざと蘇り、早い話が、曲がどうとか、楽器編成の面白さがどうということなどもそっちのけで、とにかくまたあの「何もない、何も感じない」演奏が延々と続き、かなり我慢してみましたが、とうとうこらえきれずに途中で止めてしまいました。

お姉さんのほうは、左足でパッタパッタとリズムをとりながら、獲物に噛みつくような表情をしばしば見せながら、オンガクしてます的な弾き方をし、妹のほうは常に冷静沈着、何があろうと淡々と指だけを動かしているようで、両人共に見た感じも音楽的必然がないのであまり惹きつけられるものがないし、何より肝心なその演奏はというと、マロニエ君にとっては好きも嫌いもない、ひたすら退屈というので、本当に不思議なデュオだと思いました。

ラベック姉妹の魅力がどこにあるのか、おわかりの方がいらっしゃれば教えて欲しいような気もしますが、そうはいってもたかだかマロニエ君にとっては趣味の世界のことですから、人から教わってまでこの姉妹の演奏の魅力を追求する必要もないというのが正直なところです。


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2013/07/31 Wed. 02:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

1905年製のB 

またまたCDのワゴンセール漁りの話で恐縮ですが、今回はマロニエ君にとってはかなりの掘り出し物となりました。

輸入盤で、Ko Ryokeというピアニストの演奏するバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタop.109、ショパンの第3ソナタが収録されたCDを手にとって見ていると、使われた楽器が1905年製のスタインウェイBということが記されており、マロニエ君はこういう古い楽器で録音されたCDといいますか、要するにそういう楽器で演奏された音楽を聴くのが好きなので、当初の販売価格の1/3以下の値下げになっていることも大いに後押しとなり、躊躇することなく買ってみました。

Ko Ryokeというピアニストはこれまでに聞いたこともなく、はたしてどこの国の音楽家なのかさえわからないままでしたが、帰宅してネットで調べてみると、なんと領家幸さんという大変珍しいお名前の日本人ピアニストであることにまず驚き、さらには60歳という若さで、なんと今年の5月25日に逝去されたばかりであったことを知り、それからまだ2ヶ月ほどしか経っていないという事実に、重ねて驚いてしまいました。

このCDはドイツで2009年に収録され、PREISER RECORDというレーベルから発売されたもので、使われた楽器はこの時点で104歳のスタインウェイBというわけで、なにやらとてつもなく貴重なCDを手に入れてしまったことにあとからしみじみ実感が湧いてきました。

演奏は、奇を衒ったところのない真っ直ぐなもので、このピアニストの誠実さを感じさせるもので、録音もきわめて優秀。しかもついこの5月に逝去されて間もないことを思うと、その演奏を聴くにつけいやが上にも人の命の生々しくも儚さのようなものを感じてしまいました。

その音ですが、104歳なんてとても信じられない色艶にあふれた、まさに熟成を極めたオールドスタインウェイの音で、その色彩感、透明感、輪郭のある溌剌とした音と響きは、現代のピアノがとても敵わない風格とオーラを持っていました。パワーや音の伸びにもまったく衰えを感じず、この時代のスタインウェイの底力を見せつけられる思いです。
サイズも中型のBですが、ごく稀に現代のB型で録音されたものを聴くと、もちろんありふれたピアノよりは美しいけれども、やはりサイズからくる限界と、どこか狭苦しい感じ、ふくよかさが足りない感じを受けてしまう場合が少なくありません。ところがこのCDを聴いている限りに於いては、まったくそういう部分は感じられず、あえて意識すれば若干低音域で迫力が足りないことを若干感じなくはないものの、そうと知らなければ、これがB型だと気付く人はほとんどいないだろうと思われるほど、どこにも不満のない、本当に素晴らしい楽器でした。

同時に、オールドヴァイオリンにも通じるような使い込まれた楽器だけがもつ深い味わいと、無限の創造力をかき立ててやまない奥行きがあって、なぜ現代のピアニストはこういう美しい音の楽器にもう少しこだわりを持たないのだろうと思わせられてしまいます。

しかも古い楽器の凄味を感じるのは、それがどんなに華麗で明瞭で艶のある音をしていても、少しも耳障りな要素がない点です。耳障りどころか、むしろ深い安息や喜びを感じさせてくれるのは、やはり楽器というものは良い材料で作られ、演奏されることを重ねながら時を経るぶん、新しい楽器には決してない芳醇なオーラがあふれてくるのだろうと、いまさらのように思います。

こういうピアノはわざわざブリリアントな音造りなどをしなくても、楽器そのものが充分に、必然的に、本当の意味での華やかさを根底のところで持っているようで、現代のピアノはそういった往年の本物の音の良い部分をちょっと現代化し、かつ短期間で模倣するために、あれこれと科学技術を使っているようにしか思えなくなってしまいます。

いわゆる古楽器ではなく、モダン楽器の古いものというのは、マロニエ君にとって本当につきない魅力があることをまざまざと感じさせられたCDでした。
この楽器で録音に挑んでくださった領家幸さんには心からの敬意と感謝とご冥福をお祈りします。

2013/07/29 Mon. 03:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

恐怖症 

仕事上の必要が生じて、人前で挨拶らしきことをしなくてはいけないハメになり、大いに心を悩ませています。

おそらく、99%の人には理解できないことだろうと思いますが、マロニエ君は人と話をするのは人一倍好きなくせに、多数の人を前にして、自分が一方的に喋るシチュエーション、つまりスピーチとか、なにかの挨拶、自己紹介などが病的なほど苦手な珍人間なのです。

過日、趣味のクラブのことを書きましたが、この手のクラブにも新しく入会した場合はもちろんのこと、新人登場の折などにもそれをチャンスに一斉に自己紹介というのがありますが、これになると、直前までそれこそ先頭を切ってベチャクチャ喋っていた自分が、突然押し黙って硬直してしまいます。

たぶん多くの視線が自分へ注視されることが、最も耐え難い原因かもしれませんが、いまだにはっきりしたことは自分でも分かりません。こういうことが平気な人を見ると、もうそれだけで羨ましくもあるし、自分とはまったく異なる人種を見るような、なんとも説明のつけがたい妙な気分になってしまいます。
それどころか、普段はかなりもの静かで控え目な女性などでも、ひとたび自己紹介の場ともなると、すっくと立ち上がり、自分のことを尤もらしく、ごく普通に話すことができる様子などを見るにつけ、まったく自分という人間が情けないというか嫌になってしまいます。

ずいぶん昔、ある節目にあたる演奏発表会があって、皆の演奏が終わってパーティとなり、先生を囲んで門下生がそれぞれ自己紹介という流れになりました。その場になってそれを知り、恐れをなしたあまり、まわりの二人の友人を誘って場外に逃げ出て、ついには外の庭(会場はホテルだった)を30分ほど散策して、自己紹介が終わった頃、ソロソロと息をひそめて会場に舞い戻ったものの、結局見つかって、3人共叱られた経験などもありました。

マロニエ君のこの癖はもはや仲間内では有名で、自己紹介タイムになるとこちらの様子をおもしろがり、首を伸ばして観察する輩までいる始末で、人からみればなんということはない普通のことかもしれませんが、マロニエ君にとっては、バンジージャンプさながらの、まさに寿命を縮めるような一大事なのです。

一度だけ、大勢の前で最も長くマイクを持ってしゃべったのは、忘れもしない6年ほど前、上海の最大の目抜き通りにある大きなギャラリーである日本人作家の個展があり、そのオープニングで挨拶をさせられたことがありましたが、その規模は趣味のクラブの自己紹介どころのさわぎではなく、まさに大勢の観衆の見守る中でのご挨拶となり、数日前から生きた心地がしませんでした。いよいよそのときがきた時はまさに刑場に曳かれていくような気分でふらふらと演台に登りました。
せめてもの救いは場所が中国なので、大半の相手は外国人であること、さらにはセンテンス毎に訳が付き、そのたびに呼吸を整えることができたことでした。

しかし、今回はそういう助け船もなく、もう考えただけで顔が真っ青になっていくようです。
なんでこんな性格に生まれついたのやら、いまさらそんなことを考えても始まりませんが、世の中にはどう知恵を絞ってみても代理では事が片付かないこともあるわけで、こんな文章を書いている間にも、憂鬱がかさんでどんどん血圧が低下していくようです。

なんとか回避する方法はないものかと、この期に及んでまだしつこく考えてしまう往生際の悪さです。

2013/07/26 Fri. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

パリの野次馬2 

前回の続き。

『パリを弾く』の著者新田さんが、「60歳の友人」とレストランで食事中、突然、向こうで女性同士の叫び声が聞こえ、見ると二人の女性が取っ組み合いをしていて、お互いの髪を引っ張り合っており、店内は騒然となったようです。
すると、この社長は「面白いことになってきた!」と言って自ら人混みを掻き分けながらちゃっかり最前列を確保してこの騒動の見物をはじめたとか。
そして言うことは「オペラ座なら3万円はくだらない上等席だ」と子供のように上気した頬を輝かせて二人のレスラーに見入っている、のだそうです。

そのうち犬(フランスのレストランは犬も同行できる)の鳴き声までこれに混ざり込んで、お互い罵詈雑言を浴びせ合っているとか。
この二人のうちの片方の女性は彼氏と犬を連れて来店しており、もう片方は夫と二人の幼い子供を連れている家族連れだというのですから、そんな二人が突如公衆の面前で取っ組み合いをするなど日本では考えられないし、しかも両方の男性は比較的おとなしくしているというのがさらに笑ってしまいます。

反射的に野次馬と化した社長は、最前列で仕入れた喧嘩の原因などを新田さんに報告すると、再び続きを見るためにすっ飛んでいくのだとか。
原因はなんと、この犬が吠えたとかどうしたとかいう、ごくささやかなことだったそうです。

やがて子連れのファミリーのほうが憤慨して店を出ていったそうですが、その際にも自分達が正しいことをまわりがわかってもらえているかどうかを観察しながら去っていったとか。

ケンカの片方が店を退出したことで一段落となり、やがて社長も席に戻ってきて支配人らとこの話をしていると、店のドアがバーンと開いて威勢のいいおじさんが走り込んできたそうです。
なんと犬連れのカップルのほうの女性の父親で、おお!と娘を抱きしめながらも右手にはこん棒のようなものを握っていて、「相手はどこだ?」と言ったとか。

すると例の社長は新田さんにひと言。
「ちぇっ、もっと早く来ないと駄目じゃないか!」

日本では到底考えられない情景ですが、マロニエ君は実を言うとまったくこの社長そのものみたいな人格で、こんな風に陽気に本音を包み隠さずに毎日を活き活きと過ごすことができたら、どれだけ素晴らしくストレスも少ないことかと思います。
マロニエ君もなにを隠そう人のもめ事などくだらないことが大好きで(暴力的なものはその限りではありませんが)、内心「やれやれ!」と思うのに、したり顔で割って入って「まあまあ」などと利口者ぶってなだめる奴が一番嫌いです。そんな奴に限って、自分は立派で、大人で、善良で、道徳的で、人として正しい態度を取っているつもりなのですから救いようがありません。

日本人が欧米人に比べると、多少引っ込み思案で遠慮がちなことぐらい、もちろん自分が日本人なのでわかっていますが、それにしても今どきのどうにもならない閉塞感はどうかしていると思います。

心の中はひた隠して、うわべの振る舞いや言うことだけは立派で、そういう人がうわべだけで評価される社会。ああ、彼の地は、なんと羨ましいことかと思いました。

2013/07/23 Tue. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

パリの野次馬1 

新田美保さんというピアノを弾く女性が書いたエッセイ『パリを弾く』というごくごく軽い本を読みましたが、彼女はカラッとした性格である上に、パリの水で顔を洗っただけのことはあってセンスがあり、くわえてなかなか筆の立つ人ときているので、とてもおもしろく読み終えることができました。

この人は、エリザベト音大を卒業後、パリに渡りエコールノルマルの名教授ジェルメーヌ・ムニエのクラスで研鑽を積み、卒業後して後もこの地が気に入って、ずっと留まって生活をしている女性のようです。

本にはピアノや音楽のことはそれほど語られず、もっぱらフランスでの生活の情景がさまざまに切り取られ、おもしろ可笑しく描かれていますが、社会そのものが硬直した原則論やキレイゴトにまみれた、なにかにつけ息苦しい日本よりは、よほど自然体で共感できる点も多く、なんだか不思議な開放感に満たされたのが読了後の率直な印象でした。

パリっ子は我々が思っている以上に率直で自由な感覚で人生を生きているという、いうなれば人間的には至極真っ当なことを感じ、考え、発言し、あれこれ実行しているだけなのでしょうが、その点が非常に羨ましく思えましたし、時代の空気に気を遣うばかりで、どこか自己喪失してしまいそうな自分を少し取り戻すことができたようにも思いました。

それほど現代の日本は、建前に縛られ、人情に薄く、空虚な原則論ばかりが大手を振って歩いている、ある種全体主義的な管理社会という気がします。善人願望、利益優先、自己中、本音はタブー、喜怒哀楽の否定、情報の奴隷、文化意識・情感・冒険心の喪失などなど、日本の空気をいちいち挙げていたらキリがありません。

先日も日本在住のアメリカ人と会う機会がありましたが、なんでもないことが非常にまともで、知性と感情のバランスが普通で、やはり日本人は今とてもおかしなことになっていると感じたばかりです。

つい話が逸れました。
『パリを弾く』に戻ると、全編にわたりおかしなところは多々ありましたが、もっとも笑えて、かつ共感できたことのひとつ。新田さんがボーイフレンドと喧嘩をしてしまったので、友人を誘って愚痴りながら食事をしていたときのことです。
この友人というのがまた、歳もぜんぜん違って60歳にもなる、ある有名ブランドの社長なのだそうですが、そもそも日本では世代も性別も、ましてや国籍も違う者同士が、なにげなく食事に誘ったり誘われたりするなんてことは、まず考えられません。

直接の友人と会ったり電話でしゃべるより、スマホで見知らぬ人とコミュニケーションを取る方が楽で楽しかったりするのだそうですし、聞くところによるとちょっとした自分の考えや好みを言うのさえ、もし相手が逆だったときのことを考えて口にしないよう習慣づけているそうで、これは気遣いでも思いやりでもなく、それで自分が嫌われることを恐れての防御策なのですから、いやはや保身術も病的な領域に突入していると思います。あるテレビの報告に拠れば、現代の日本人の思考力や言葉の能力は、昔に較べて確実に退化しているのだそうで、ゾッとします。

ああ、またまた話が逸れました。
その新田さんが、その60歳の友人とそのレストランで食事中、突如、向こうのテーブルで突然激しい争いが起こったとか。
長くなったので、続きは次回。

2013/07/21 Sun. 02:09 | trackback: 0 | comment: 0edit

ウマ 

離婚の理由などでよく耳にするのが「性格の不一致」という言葉ですね。
本当は広い意味の問題を、抽象的かつなんの工夫もない形式的な言葉に変換して、無造作にくくりつけただけのような、いかにも浅薄な響きを感じてしまいますが、実際には人と人との間に起こる非常に難しい永遠のテーマであるとも思います。

これは、べつに夫婦や恋人や友人でなくても、どんな場合でも、そこに人間関係が存在する以上、大小深浅の差はあれども必ずあり得るものです。

「性格の不一致」というと、まるで男女間限定の言い回しのような印象もありますが、別の言い方をすると人には「ウマが合う/合わない」という摩訶不思議で説明不可能なものがあり、これはいうまでもなく事の善悪や理屈を超えた生理的次元に属する問題なのかもしれません。そして、合わない場合はまずこれという解決策もないのが普通でしょう。
すぐに縁の切れる関係なら接触を断てばとりあえず解決ですが、嫌でも顔を合わせるしかない場所での関係になると、これほどきついことはなく、ひとたびこの淵に落ち込むとなす術がありません。

いっそ明確な落ち度や、分かりやすい善悪の裏付けなどがあればまだ救えるのでしょうが、そうでないところが辛いところ。ことさら悪いことをしているわけでもないのだけれど、ちょっとしたものの言い方とか、その人の癖、かもしだす負のオーラなどが無性に気に障ったりしはじめると、もう止めどがありません。

極端にいうなら、別の人がもっと酷いことをしても許せるのに、その人がすることは、客観的にはまったく大したことではないのに、どれもこれもが不快に感じたりする。そんなことで人に対する好悪の感情を抱く自分の人間性のほうが悪いのではないかと、今度は自分を責めるようになってみたりと、まさに出口のないストレスの渦に巻き込まれることにも発展します。

仮に人に打ち明けても、理解してもらえれば幸いですが、下手をすると「それしき」の事にガマンができないこちらの人格や良識、度量の無さ、ひいては道義性まで問われかねませんから、それを恐れてひとり抱え込んでしまう人も少なくないだろうと思います。

「ウマが合わない」とは、つまり一般論では解決できない極めて不幸な関係のことだろうと思います。さらには、こちらの心中を悟られてはいけないと精神的にもかなり無理をするので、いよいよ疲労やストレスは積み重なり、ついには相手の存在そのものが疎ましくなってしまいます。
その人がいる場所には行きたくないし、用があっても、メールや電話をするのも億劫になります。

マロニエ君は決して八方美人ではありませんが、わりに老若男女を問わず広くお付き合いのできるほうだと勝手に自惚れていますが、稀にこういう相手と出会ってしまうと、もうどうにもなりません。

残念なことに、世の中には必ずそういう相手が少しはいるもので、ときどき不慮の事故のようにヒョッコリ出会ってしまうということだろうと思います。
そういう相手とはできるだけ接触を控える以外に、有効な手立てはないようです。

2013/07/19 Fri. 01:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

趣味の条件 

先日、ピアノ趣味の同好の士を募ることの難しさを書きましたが、それはひとくちにピアノといっても、その楽しみ方があまりに多岐に渡っているため、まとまりを取ることが非常に困難という、ピアノの特殊性があるという意味のことでした。

それはそれとして、趣味道というものは可能なら仲間が集い、その魅力はもちろんのこと、苦楽や悲喜劇をも楽しく語り合って共感を得、同好の士との親睦を深めつつ情報交換にもこれ努めるなどがその醍醐味だということに今でも異論はありません。

そのいっぽうで、専ら人前で弾くことが好きな人という種族もあるわけで、これはあくまでも聴く人(もしくは見てくれる人)を必要とするのが、マロニエ君に云わせれば通常の趣味道とはちょっと趣が異なるような気がします。こういう人の中には、家にも立派なピアノがあり、その気になれば存分にそれを弾くことも可能であるにもかかわらず、それでは精神的に飽き足らないようです。

それも拙いながらも人に聴かせたいという純粋な動機ならまだ微笑ましいと解釈もできるのですが、人前で弾いている自分やそれに伴うある種の緊張や興奮の虜となり、それがために自分が主役となるための互助会的関係で人と繋がっているというのは、純粋な音楽の演奏動機とは似て非なるもののように感じます。

そうはいっても反社会的行為でない限りは、個人の自由であることはいうまでもなく、その範囲内でどのように楽しみを見出そうとも、それは咎められるものではないでしょう。ただ、ピアノのある場所を借りて互いに何時間も取り憑かれたようにただ弾きまくるということが、果たして趣味といえるかどうかとなると、少なくともマロニエ君には甚だ疑問です。

趣味というものに、附帯的に仲間がいるということは嬉しいことであり、心強いことでもありますが、そもそも趣味の根本にあるものは突き詰めれば「孤独」ではないかと思います。
もちろんスポーツなど、集団であることが必要とされるものも中にはありますが、それはレクレーションであったりイベントであったりで、マロニエ君の認識で云うところの趣味の概念からいえば、趣味というものはもう少し違った精神世界であるし、基本的には仲間がひとりもいなくてもじゅうぶん楽しめるという自分自身の基盤を持っていないと趣味とは呼びたくないというこだわりが自分にはあるようです。

その上で、好ましい仲間がいれば、もちろんそれに越したことはありませんし、そこから趣味の道も人間関係も広がればこんな幸福なことはないわけです。
ただ、同じピアノでも、互いに弾き合うイベントや教室の発表会だけを唯一最大の目標にするようでは、これは趣味人としてもずいぶん浅瀬ばかりを這い回る遊び方のように思います。もちろんそれを否定しているわけではないですが。

繰り返しますが、趣味というものは基本的にひとりでじっと楽んで、それでじゅうぶん愉快でなくては本物じゃないというのがマロニエ君の持論です。同時に、どんな楽しみ方があっていいとは思いますけれども、そこに一筋の純粋さが貫かれていなくてはマロニエ君自身はおもしろくないわけです。

マロニエ君は理屈抜きに人と関わることは人一倍好きですが、趣味の合わない人と趣味を語り、不本意に価値観や歩調を合わせることはまったく不本意で、正直疲れてしまいます。
きっと自分が一番好きなことは、他者から土足で踏み荒らされることが嫌で、自分にとって理想の形態で温存しておきたいという防衛本能が働いているのかもしれません。


2013/07/17 Wed. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノ趣味の困難 

これまでに、いくつもの趣味のクラブに属したことがあり、中でも車のクラブはいったい幾つ入ったかわかりません。既存のクラブに入会したのはもちろん、自分が発起人となって作ったものもいくつかあり、その中のひとつは設立から20年以上を経て、今尚存在しているほどで、最盛期には実に200人近い会員数を誇りました。この間、多くの素晴らしい人達と出会ってきたことを思うと、趣味というものの素晴らしさをこれほど切実に感じたこともありません。

そんな趣味のクラブには慣れっこの筈のマロニエ君ですが、その多くの経験をもってしても、入っても、作っても、どうしても上手くいかないものがあり、それが何を隠そうピアノのクラブなのです。

ピアノのクラブでは既存のクラブに入会したものの価値観が合わずに退会したものがあるほか、自分でもこの「ぴあのピア」を立ち上げて作ってみたものの、さてどう動いて良いのやら、ピアノに関してだけはまったく動きの取り方がわからないし、運営方法が皆目掴めないという状態が今尚続いています。
もちろん、マロニエ君の力不足、能力不足、努力が足りないと云われたらその通りなのですが…。

趣味のクラブというものは、いまさら云うまでもなく、趣味を同じくする者同士がつどい、その苦楽を共にし、語り合い、情報交換に興じ、そしてなによりもその素晴らしさを深く共感し合えるところにあり、さらにそこから趣味人同士の友誼や連帯が生まれて、それを軸にした人間関係が構築されていくところに醍醐味があると思います。

しかし、ピアノに関してだけはその趣味性という点に於いても、まるでつかみどころが無く、いっかな焦点さえ定まりません。ひとつの主題の元に全体がゆるやかに結束することが、ピアノほど困難な世界も経験的に珍しいというのが偽らざるマロニエ君の実感です。

それというのも、ひとくちにピアノと云っても、自分が弾くことがが好きな人、音楽が好きでピアノにも興味がある人、いろいろなピアニストや楽曲に強く興味を覚える人、はたまた楽器そのものへ興味を持つ人など、そこには、そのアプローチにはおよそまとまりというものがないわけで、これは裏を返せば、ピアノは弾くけど音楽にそれほど関心はない、CDは買わない、コンサートには行かない、楽器の個性や構造なんてどうでもいい、電子ピアノでじゅうぶんという、まさに十人十色の接し方があるということです。

さらには「弾くことが好き」な人も、その内容はさまざまで、愛聴する曲をなんとか自分でも演奏しようと努力をしつつ楽しむ人、ある程度技術に自信があって難易度の高い曲を弾くことにプライドを持っている人、とにかく有名どころの通俗的な曲を自分で弾いてみたくて練習に励む人、ピアノなんて安い電子ピアノで充分という人、いや絶対に生ピアノに限るという考えの人、あるいはとにかく人前で弾くのが快感でステージチャンスを欲しがっている人、中にはピアノといえば女性が多いと当て込んで、ピアノは二の次で彼女探しに来る人など、まあとにかく書いていたらキリがありません。

さらに付け加えるなら、たとえ簡単な曲でもいいから、少しでも音楽性あふれる素敵な演奏を目指して、CDを聴いたり、あれこれと工夫をしたり、少しでも自分の理想とする演奏に近づけようと精進する人は意外なほど少数派だと思いました。

趣味の有りようはまさに各人各様で、どのような切り口から楽しんでもそれは個人の自由なのですが、ピアノの場合その実態はあまりに多様を極め、共通点はただひとつ「ピアノ」という単語以外には見あたらず、それでは集まっても、それぞれ別の方向を向き、別のことを考えているようなものでしょう。

これほどまでにその目的や楽しみの中心点が定まらないということは、上記のように「苦楽を共にし、情報交換に興じ、素晴らしさを共感し合う、趣味人同士の連帯」などという趣味人の交流はなかなか生まれようもありません。
ピアノは弾くのも、趣味として集うのも、なかなか難しいものです。


2013/07/15 Mon. 01:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

技術者の音 

メールをいただくようになったディアパソンファンの方は、ついにご自分の好みの1台に対象が絞られ、その購入を前提とした交渉を続けておられるようです。

ただ、この方によると、お店によってはとても丁寧に整備されたピアノであっても、なぜかそれがディアパソンが本来持っている個性と、調整の方向が乖離してしまっている(という印象を受ける)ために、せっかくの技術がピアノに必ずしも反映されない場合もあるようでした。

せっかく良いもので、きちんとした工房が併設され、高い技術を有する技術者によって仕上げられたピアノでも、最終的に判断するのは購入者であって、その人の心に触れるものがなければ購入には結びつかないというのは、当たり前といえば当たり前ですが、主観に左右される点も大きいために、技術者側にしてみれば難しいところでもあるのだろうと、この分野の微妙さを感じてしまいます。

あるお店では、Y社のグランドなどと並んでディアパソンも店頭に並べられ、その店の自慢の技術者がずいぶんと腕をふるった調整をされていたようでした。どのピアノもとてもよく調整され、中には望外の響きがあって感激さえしたということでした。
その話は聞いていましたが、ネットからもその音が聴けるとのことで、マロニエ君もさっそく聴いてみました。この時ばかりはさすがにパソコンのスピーカーというわけにもいかないだろうと思い、このところあまり使っていないタイムドメインのLightを引っぱりだして、パソコンに接続して聴いてみましたが、たしかに非常によく整えられたピアノだという印象でした。

同時に、本体や消耗品が平均的なコンディションを持つピアノなら、高度な技術を持った技術者がある程度本気になって手を入れたピアノは、だいたいあれぐらいの音にはなるだろうと思ったことも事実です。
技術者の仕事としてはもちろん素直に敬意を払いますが、同時に、今が調整によって最高ギリギリの状態にあるという断崖絶壁の息苦しさみたいなものもちょっと感じました。このピアノがこれからコンサートで使われるというのなら話は別ですが、お客さんが普通に購入して自宅に運び込むとなると、この特上の状態がはたしてどこまで維持できるのかという逆の心配も頭をよぎります。個人的には、あまり詰めすぎず、もう少し可能性ののりしろというか、どこか余裕を残した調整であるほうが楽器選択もしやすいような気がします。

一流の技術者さんに往々にしてあることですが、各楽器の個性とか性格を重んじることより、ご自分の技術者としての作業上のプライドと信念がまずあって、もちろんそれを正しいことと信じて、結果的にはやや強引かつ一律な調整をされてしまう場合があるとも思います。それでも技術がいいから、ピアノはどれもそれなりのものにはなりはするものの、悲しいかなどれも同じような音になってしまう傾向が見受けられる気がします。

おそらくはその方の中に「理想の音」というものがあって、それが常に仕事を進めるときの指針となっているのだろうと思います。Y社K社のようなピアノであれば、ある意味それもアリで、いい結果が得られることもある程度は間違いないだろうとも思われますが、ディアパソンのようなピアノの場合は、やはり楽器の特性を念頭に置いた上での調整でないと、理屈では正しいことでも、場合によっては裏目に出る場合もあるわけで、本来の能力や魅力が押し殺されてしまう危険性がないとは言い切れません。

どんなにスタインウェイに精通した技術者でも、それがそのままベーゼンドルファーに当てはまるわけではないのと同じようなものでしょうか。航空機はいかに優れたパイロットであっても、機種ごとの免許がなくては操縦できませんが、それは人命がかかっているからで、ピアノで人は死にませんからね。

だれからも平均して評価され、好まれるということももちろん立派なことで、それを技術によって音に具現化するのは簡単なことではありませんが、でも、本当におもしろいもの、尽きない魅力に溢れるものは、なぜか好き嫌いの大きく分かれるものの中に見出すことが多いようにマロニエ君は思いますし、ディアパソンそのひとつだと思います。
願わくば、その特性や長所を理解した調整であってほしいのが我々の願いでもあります。

ディアパソンの最大の弱点は、多くの人がこの素晴らしいピアノに接する機会が、現実的にほとんどないということに尽きるだろうと思います。
接することがなければイイと思うことも、嫌いだと感じることも、両方ないわけですから。

2013/07/12 Fri. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

炎暑到来 

一昨日は、その前日の雨模様から一転して、朝から猛烈な真夏日となりました。

通常であれば、梅雨明け宣言から日を追うごとに気温が上がりはじめて、しだいに夏のピークに向かっていくところですが、7月8日はまさに猛暑日を飛び越していきなりの炎暑日となり、その強烈さにはとてもじゃないけれど心身がついていけないというのが率直なところでした。

午後のことですが、所用で出かけるため、車を車庫からバックで出そうとしていたところ、驚くべきものを目撃してしまいました。
この日は、我が家のほど近い場所で道路工事をやっていてその部分が片側通行となり、その両脇には通行する車を交互に止めたり行かせたりするための誘導係が、照りつける直射日光の中に立ってその仕事に従事していました。

車を出すべく、後ろを見ながらバックしていると、ちょうどその工事中の光景が視界に入るのですが、まさにそのとき、その誘導員の方がとつぜん地面に倒れてしまいました。それもよろよろと座り込むというような動きではなく、まさにパタンと、縦の物体が横に倒れるというような、まるでマネキンなどが倒れるような倒れ方だったので、これはタダゴトではないと仰天してしまい、バック途中だった車を止め、急いでドアを開けてそこへ走りました。

その方が倒れられたときの、カツンというヘルメットが地面に当たる小さな音も、いやな感じに耳に残っています。
駈け寄るなり「大丈夫ですか!?」と何度か声をかけますが、まったく応答が無く、熱せられたアスファルトの上に仰向けになったまま、苦痛の表情ばかりが目に入りますが、声も出せないという状況でした。
まわりを見ると、工事の仲間の人達は、少し離れた場所にある工事現場と、さらにその向こう側の誘導員の方の姿があるだけで、まだこの事態に気付いていません。

咄嗟にそちらに走っていき、彼らに声をかけて、急いでこっちに来てくれるよう大げさに手招きをすると、何事かという感じで数人の人がはじめは普通の感じで来てくれました。
すぐに道に倒れている仲間の姿を見てその状況を理解すると、たちまち他の人も呼ばれて、あっという間に4〜5人の作業員の人達が集結して、その人のまわりをしゃがみ込んで取り囲みました。

しかし、どんな呼びかけにも明瞭な反応はなく、大変な苦痛の様子は変わりません。
集まった人のうちの誰かが「救急車!救急車!」と大きな声を上げ、ほとんど同時に全員の手で水平状態のまま持ち抱えられて、目の前のマンションの車寄せにある日陰へと移動させられていきました。

これだけ人が揃えばとりあえず大丈夫だろうと判断して、マロニエ君は車に戻り、そのまま出発しましたが、しばらくはあのショッキングな倒れ方の情景が目に焼き付いて離れませんでした。

おそらく熱中症だろうと思いますが、新聞やテレビでは耳目にする言葉でも、現実の怖さをまざまざと見せつけられた思いでしたし、野外で仕事をする人は本当に過酷な条件の中で、身を苛んで働いておられるんだなあとあらためて思わずにはいられませんでした。

それも、じわじわと時間をかけて到来した猛暑であったらなまだしも、この日のような突然の炎暑ともなると、だれでも身体がそれに耐えていくだけの準備もできていなかっため、よけいに堪えたのかもしれません。
マロニエ君自身もこの日は、さすがに身体に堪える暑さで、帰宅後も普段とは明らかに違う疲労感に包まれました。
どうかみなさんも、くれぐれもご用心ください。

2013/07/10 Wed. 02:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

各店各様 

マロニエ君の部屋に書いた、ディアパソンの210Eを購入予定の方とは、その後もずいぶん頻繁に連絡を取るようになりました。その方もディアパソンには格別な惚れ込みようで、購入されるのはもはや時間の問題だという強い意気込みを感じます。ディアパソンを心底気に入っているマロニエ君としては、こういう方の存在は大変うれしい限りです。

ほとんど市場に出回る個体はないに等しいとメーカー自身が言って憚らない210Eですが、ネットの普及とこの方の情熱、そして優秀な調査力の賜物か、数台の候補が挙がってきているのは驚きでした。
価格もバラバラですが、お店のほうも各店各様で、話を聞いているだけで興味深いものを感じてしまいました。

マロニエ君はいうまでもなく、それらのどの一台も現物を見たわけではないので、聞いた話からだけしか判断できませんが、210Eあたりになると必然的に製造後30年前後を経過したピアノということになり、そのコンディションもそれぞれ著しく異なる筈です。
ピアノには生まれながらに個体差があるといいますが、このぐらい古くなると、そんなことよりはこれまでどういう時間を過ごしてきたかのほうが圧倒的に問題であり、どんな所有者からどんな使われ方をしたか、きちんと技術者の手が入れられ大切にされてきたか、学校のような場所で容赦なく酷使されたか、置かれていた場所はどうだったかなど、いうなればピアノが嫁いだ後の環境差こそ問題とみるべきでしょう。
さらに今現在の整備状況や消耗品の状態などが重要な要素として加わります。

聞くところでは、販売価格こそ安いものの、話だけではちょっと躊躇したくなるようなものや、すでに売れ筋から除外されているのか、倉庫内に梱包したまま置かれているだけなのでお店側も詳しいことは確認不足であるなど、この日本の名器の扱われ方も実にさまざまのようです。

さまざまといえば、ピアノ店の在り方も同様で、規模は小さくとも技術で勝負をして、一台一台をきちんとした状態で(もちろん商売なので、採算に合わないことはできないにしても、できるだけ良心的な状態に仕上げて)売っている店があるいっぽう、やたら在庫数にものを云わせ、高級ブランド高額ピアノを前面に押し出している店、あるいはその中間的な性格の店など、お店によってピアノに対するスタンスも大きく異なるのは以前から変わらないようです。

意外なことには、ほとんど何も手を入れずに、酷い(と想像される)コンディションのピアノを売ることにも、いわゆる大型店のほうが畏れ知らずで、しかも価格はその状態に見合ったものとは思えない金額を堂々と提示してくるかと思うと、モノが売れない世相を反映してか、だんだん条件が好転してくるなど、逐一報告していただくお陰で、まるで連続ドラマを見るようにおもしろい思いをさせてもらっています。

聞けば、店によってはメールで問い合わせなどをしても、なかなか返事がないなど、あまり本気度が少ないようなお店があるいっぽう、技術者の工房系のお店などは、メールなどにもすぐに明快な応答があるようで、こういう部分の反応というものはお客さんの心証に大きな影響や先入観を与えてしまうのはやむを得ない要素です。ピアノ販売に限りませんが、問い合わせに対して迅速な対応というのは人間関係の基本だと思わずにいられません。

とりわけディアパソンは、お店によってその捉え方が相当違いますし、極端なところでは仕入れも販売もしないようですが、そのいっぽうで極めて高い評価をしている店があるのも事実で、どうかするとお店の看板商品的(新品)な扱いをしているところもあったりと、考えてみれば、日本のピアノでこれほど評価の別れるブランドも珍しいと思います。


2013/07/08 Mon. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

熱帯雨林並? 

7月3〜4日は最悪とも云える空模様で、朝から絶え間なく雨が降り続き、それがときどき恐ろしい生き物のように激しくなったりの繰り返しでした。
雨よりも甚だしかったのは尋常ではない湿気で、家全体が蒸し風呂にでもなった気分でした。

だからといって家中のエアコンをやみくもに入れるわけにもいかず、なんとも気の滅入る、そして気分だけでなく身体的にも猛烈に過ごしにくい、一年を通じて滅多にないような悪天候でした。
ピアノを置いている部屋では、もちろんエアコンが除湿をしてくれるものの、冷えすぎなど温度事情もあるために、基本的には除湿器に依存しているのが我が家の実情です。

このところは除湿器が停止する僅かな時間もなく、ほとんど24時間フル稼働が続いていますが、除湿器の予備があるわけではないので、酷使が祟って故障でもしたらどうなるのかと思うと、気が気ではありません。なんとかがんばってこの夏を乗り切ってほしいと手を合わせるように願うばかりです。
毎日、タンクに貯まった夥しい量の水を捨てるたびに、こんなにも大量の水分が部屋の空気中に漂い、それがピアノの内部へと侵入していくのかと思うと、毎度ゾッとしてしまいます。

この季節の高温多湿はそれなりに慣れているつもりでも、3〜4日の湿度はちょっと異常で、まるで街ごと熱帯地方にでも放り込まれたかのようでした。
エアコン+除湿器のある部屋から一歩廊下に出ると、ヌッとした重くて分厚い空気から身体が押し返されるようで、それがどこまでも続きますから、いやはやたまったものではありません。

これでは除湿器のない部屋に置かれたピアノなどは、ガタガタに狂ってしまうだろうということは、もう理屈じゃなく本能で感じてしまいますし、世の中の多くの楽器や美術品なども例外ではないでしょう。

そういえば、ピアノの管理もさることながら、人間にも(過度な)湿度はよくないということを、いつだったか、テレビニュースで実験映像とあわせて報じていたことを思い出しました。
同じ人物が、同じ場所で一定時間の運動をするのですが、低湿の場合、運動によって湧き出た汗が10分ほどで乾いてしまいますが、湿度を梅雨並の高さに変化させた上で同じことをすると、今度は汗がいつまでたっても乾きません。
乾かないことで、水分が皮膚の表面に張り付き、それがクールダウンの邪魔をして、いつまでも身体の温度を下げてくれなくなるのだそうで、結果として体温が無用に高く維持されてしまい、これが身体の疲労につながってしまう原因だという説明でした。

とくに持病をお持ちの方や高齢者の方などは、こうして高湿によって体力を著しく奪われるので、温度だけでなく湿度にもじゅうぶん注意が必要ということです。

それだけの疲労を生み出すのですから、不快に感じるなどは当たり前ですね。
同じ気温でも低湿だと涼しく感じるといわれていたことが科学的に立証されたわけで、なるほどなぁと思いました。やっぱり人の身体も楽器も、快適環境は同じのようです。


2013/07/05 Fri. 01:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

語る演奏家 

先のブログに関連することですが、N響定期公演でベートーヴェンの皇帝を弾いたポール・ルイスは、番組の冒頭でNHKのインタビューに答えていました。

いつごろからだかわかりませんが、昔に比べると、演奏者はインタビューに際してだんだんと音楽学者のような語り口になり、演奏作品について、より学究的な内容を披瀝するのがひとつの風潮であるように思います。
それも、一般の聴衆や視聴者に向けたものというよりは、自分は演奏家であるけれども単なる演奏家ではなく、音楽史や作曲家のことを常に学び、それらと併せて楽曲も深く掘り下げて分析し、しかる後に演奏に挑んでいるのですという姿勢。ただ単に曲を練習しているのではなく、それにつらなる幅広い考察を怠っていないのですよというアピールをされているように感じてしまうことがあります。

もちろんそこには個人差があり、どうかすると専門的な言及が行き過ぎて、ただ単に音楽を楽しんではいけないような印象さえ与えてしまい、逆にクラシックのファンが離れていくのでは?と感じるときも少なくありません。
そうかと思えば、近年流行りのトーク付きのコンサートでは、チケットを買って会場にやってきてくれたお客さんに向かって、ほとんどわかりきったような、いまさらそんな話を聞かされなくても…といいたくなるような初歩的な話を延々と繰り返したりで、どうせ話をするのなら、どうしてもう少し聞いていて楽しめる内容のトークができないものかと思うことがしばしばです。

つまり専門的過ぎるか、初心者向け過ぎるかの二極化に陥っているという印象です。

その点でいうと、この番組冒頭でのポール・ルイスの話はそれほど専門的なものではないのは救いでしたが、「誰でもこの曲を大きな音で弾いてしまうし、それはそのほうが楽だから」とか「協奏曲でありながら室内楽的要素が多く、そこに注意すべき」とか「オーケストラの中の一つの楽器とピアノの対話の部分が多い」など、いかにもブレンデル調の切り口だと思いました。しかし、それが皇帝という名曲の本質にそれほど重要なこととも思われないような事という印象でもありました。

そもそも、演奏家自ら曲目解説をするようになったのは、やはりブレンデルあたりがそのパイオニア的存在であったし、ポリーニや内田光子などを追うように、より若い世代の演奏家もしだいに専門性を帯びた内容に言及するようになり、それがあたかも教養ある演奏家であることを現すひとつのスタイルになっていった観は否めません。

そんな中にも、もう好いかげん聞き飽きた、すでに錆びついたようなコメントがあり、残念ながらポール・ルイス氏もそれを回避することはできなかったようです。
それは「ベートーヴェン(他の作曲家でも同じ)は演奏するたびに新しい発見があります。」というあのフレーズで、これはもはや演奏家のコメントとしては賞味期限切れというべきで、聞いていてなるほどというより、またこれか…としか思えなくなりました。

少し前のアスリートが、オリンピック等の大勝負を前にして「まずは自分自身が楽しみたい」などと、ほとんど決まり文句のように同じことを云っていたことを連想してしまいます。

往年の巨匠バックハウスが『芸術家よ、語るなかれ、演奏せよ』というけだし名言を残していますが、今はまるきりそういった価値観がひっくり返ってしまったのかもしれません。
『芸術家よ、語るべし、演奏する前に』…。

2013/07/03 Wed. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

師匠譲り 

Eテレのクラシック音楽館で少し前に録画していたヒュー・ウルフ指揮のNHK交響楽団の定期演奏会から、ポール・ルイスをソリストにベートーヴェンの皇帝を聴きました。

ポール・ルイスはイギリス出身で、ブレンデルの弟子と云うことで有名なようで、そのレパートリーもブレンデルとかなり共通したものがあるようです。とりわけベートーヴェン、シューベルトを中心に置き、後期ロマン派にはあまり積極的でないような点も似ています。尤も、ブレンデルは若い頃にショパンをちょっと録音したり、円熟期にはリストを弾いたりはしていましたけれども。

まずさすがだと思われた点は、ポール・ルイスのピアノは自分は二の次で、あくまでも音楽や作品に奉仕しているという一貫した姿勢が崩れないことで、テンポも非常にまともで、最近流行の意味不明の伸縮工作などは一切なしで、気持ちよく音楽が前進していくところでした。
そのためか、演奏を通じての自己顕示欲をみせつけられることもなく、安心してこの名曲を旅することができました。

ただ、師匠譲りなのはマロニエ君から見れば好ましくない点までそのまま引き継がれているようで、たとえばその音は、音楽表現のための必要最小限の朴訥なもので、ピアノの響きの美しさとか、肉感のある音やニュアンスで聴かせるというところはほとんどありません。

また、あくまでもそのピアニズムは作品の解釈を具現化するだけの手段でしかなく、精緻な音の並びとか、音色を色彩豊かに多様に表現するといったところはありません。そういう意味では良くも悪しくも技巧で聴かせるピアノではなく、そちらの楽しみは諦めなければなりません。

また冒頭のインタビューでは、「皇帝には室内楽的な要素がある」と云っていましたが、それはそうなのかもしれませんが、それを大ホールの本番であまり過度にやりすぎるのもどうかと思いました。皇帝だからといって終始ガンガン弾くのが正しいとは思いませんが、やはり決めるべき場所ではビシッときめてもらわないことにはベートーヴェンが直に鳴り響いているようには聞こえないし、この曲を聴くにあたっての一定の期待も満たされないままに終わってしまいます。

とくにフォルテッシモや、低音に迫力や重量感がないのも、ピアニストとしてもうひとつ食い足りない気分になり、第三楽章の入りなどにも、あの美しい第二楽章からそのまま引き継がれながらも突如変ホ長調の和音の炸裂が欲しいところですが、これといった説得力もないままに、ヒラヒラッとアンサンブル重視の姿勢をとられても、聴いている側は当てが外れるだけでした。

音色の使い分けとか、タッチの妙技によって深い歌い込み、細部に行きわたるデリカシーが少ないために、第二楽章の美しすぎる「歌」もただ通過しただけという感じで、その感動も半減となってしまいます。全体として好ましい演奏であるだけに残念な印象が残ってしまいます。
そうそう、これもブレンデルそっくりだと思ったのは、例えばトリルの弾き方で、マロニエ君の考えではトリルにはトリルのさまざまな弾き方、あるいはそのための音色や意味があると思うのですが、ポール・ルイスのそれは単なる音符のようにタラタラタラタラと平坦で無機質に弾いてしまうところで、ブレンデルにもこうしたところがあったなあと思い出しました。

望外の出来映えだったのはN響で、いつもはどこかしらけたような、予定消化のための義務的な演奏をしているかにみえるこのオーケストラが、この日はいかにも音楽的な、厚みと覇気のある、つまり魅力的な演奏をしてみせたのは驚きでした。指揮のヒュー・ウルフの手腕といえばそうなのかもしれませんが、そうだとしても、いざとなればそれだけの結果が出せる潜在力を持っているということはやはり大したものだと思いました。
日本の誇るオーケーストラにふさわしい、聴く者を音楽の魅力にいざなうような演奏をもっともっとやってほしいものです。

2013/07/01 Mon. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit