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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

一級仕事師 

今年の2月にミュンヘン・フィルハーモニー・ガスタイクで行われた、メータ指揮のミュンヘンフィル演奏会の様子がBSプレミアムで放送されましたが、この日のメインは五嶋みどりをソリストに迎えたブラームスのヴァイオリン協奏曲でした。

五嶋みどりさんが、世界的なヴァイオリニストであることに異を唱えるつもりは毛頭ありませんが、美味しい食事にも食後感、読書にも読後感というものがあるように、音楽にも聴いた後に残るイメージといいましょうか、いわば残像のようなものが残りますが、その点で云うと、マロニエ君は五嶋みどりの演奏にはある一定の敬意は払うものの、心底その演奏に酔いしれるとか、音楽としての感銘を受けたという記憶はほとんどありません。

CDなどもそうですが、まったく非の打ち所のない、隅々まで神経の行き届いた大変見事な演奏ですが、この人は本当に音楽が好きなのだろうかと思わせられるのも毎度のことで、芸術家というよりも、完全無欠な仕事師の最上級の仕事を拝見しているという印象しかありません。

ブラームスのヴァイオリン協奏曲はマロニエ君の最も好きなヴァイオリン協奏曲のひとつですが、この曲の持つ暗い陶酔的な世界と、五嶋みどりの演奏にはなにやら超えがたい溝があるように感じました。
第1楽章では、長い序奏を経てソロヴァイオリンが闇の中から突如妖しく現れますが(この部分でマロニエ君が最も理想的と思えるのはジネット・ヌヴーのそれですが)、五嶋みどりはこれ以上ないというほど激しく、曲に挑みかかるように弾いていきます。

それがあまりにも度を超していて、見ていてちょっと呆気にとられるほどで、狙いとしては下手をすると冗長にもなるブラームスで、高い緊張感を保ちつつ聴く者を圧倒しようということなのか…真意はどうだかわかりませんが、この人のいかにもストイックでございますという生き方はともかくも、少なくとも演奏の点に於いては、かなりの自己顕示欲が漲っているようにしか思えません。
協奏曲であるにもかかわらず、指揮者を見ることもほとんどなく、音楽上自分が譲るとか裏にまわると云うことは一切ないまま、徹底してマイペースで突き進んでいくのは共演者に対してもちょっとどうかな…と思います。

全曲を通じて、常に自分の演奏を際立たせ、細部の細部に至るまで自分が主役であり、会場の中心は私であるといわんばかりに振る舞っているように見える(聞こえる)のは、ああ、この人は昔からこうだったという記憶が鮮明によみがえってくるばかり。

それでも、なにしろ基本的に上手いし、チャラチャラしたタイプではないので、最終的に立派な演奏として完結はするけれども、非常に突っ張った、極端に意地っ張りな人の勝負精神を見せられるようで、音楽としての豊かさとか、ほがらかさ、楽しさといったものがちっともこちら側に伝わってこないのは、やっぱり演奏しているその人がそうでないからなんだろうかと変に納得してしまいます。

それでも感心するのは、第2楽章のような滑らかな旋律が延々と続くような部分では、決して息切れすることなく細い絹糸のような芯のある音が、括弧とした動きを取り続けるようなとき、あるいはフレーズの入りの部分では、いつもながら的確で繊細で、こういうところは彼女ならではの上手さを感じます。

逆にいただけないのは、激しい部分ではあまりに切れ味先行型の演奏になるためか、過剰なアクセントの濫用で、ときに品位を欠く演奏へと陥るばかりか、リズムも崩れ、何のためにそんなに力みかえらなきゃいけないのかと、聴いているこちらのほうが気分が引いてしまいます。
そういうとき、ふとヴァイオリンを弾いている音楽家というよりは、どことなく剣術の果たし合いのようで、この不思議な女性の中に、一体なにがうごめいているんだろうと思ってしまいます。

マロニエ君は基本的に情熱的な演奏は大好きなのですが、かといって、こういう演奏をもって情熱的とは解釈できないのです。

あれじゃあ弓の毛も傷むだろうなあという感じですが、たしかに五嶋みどりは演奏中もしばしば切れた毛をプチプチとむしり取る回数がほかの人よりも多いような気がします。




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2013/06/28 Fri. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

雨の夜 

誰にでも、自分だけに不思議に心地よい、これといって明確な訳もないまま好む状況や時間というものがあるのではないでしょうか? 自分だけのある一定の条件が整うことで、取るに足らないささやかなことでも、そこにえもいわれぬ充足した幸福感のようなものを見出す瞬間。

まったくその人だけの固有のもので、普遍性の裏打ちも正当性もない、きわめて個人的主情的なものに限られます。なぜそれほど好ましく、心が安らいで満たされるのか、本人にさえ理由は漠としてよくわからないことが数こそ少ないけれどもあると思うのです。

マロニエ君の場合で云えば、仕事柄か、長年の生活習慣からか、ともかく慢性型の夜型人間なので、本当に自分の時間を持てるのは大抵真夜中の時間帯ということになります。
とりとめもないことをあれこれやっていると、その貴重な時間は瞬く間に過ぎ去って、人によってはそろそろ起床時間になるような時間帯を迎えることもしばしばです。

ここまでは特にどうということもない日常の範囲で、好きというよりも自分にとって必要なものという感覚です。ところが、そこへごくたまに格別な効果が加わることがあって、それがたまらなく好きなのです。

まるで今夜のように…。

それは深夜に降りしきる雨で、自室でようやく落ち着いた時間を迎えようと云うとき、あるいはその途中からでもいいのですが、漆黒の夜の中に雨が降り、カーテンごしの窓の外や屋根づたいにその雨音が聞こえる、あるいは明瞭にその気配が感じられることがあるのですが、その感じがどうしようもなく好きなのです。

そして、幸福の感触というものは、実はこんな取るに足らない、ふとしたどうでもいいような壊れやすいちょっとした瞬間のことをいうのではないかと思ったりするわけです。

ごくシンプルに、たわいもないことで、自分が心底から心地よさに浸ることのできる瞬間なんてものは、日常の中にそうざらにはありません。それも人生上の慶事などという実際的かつ大層なものではなく、さりげなくて、なんの意味もなくて、心地よさの感覚だけが突如として自分に降りそそいでくるような、そんな思いがけないものでなくてはなりません。同時にそれは、一時の儚いもので、いつまでも逗留してくれるようなものであってもダメなのです。

窓の外には雨が降りしきり、ときに激しい大雨になることもありますが、そんなとき、冬ならヒーターで温まり、夏ならエアコンで除湿された部屋の中で、誰からも邪魔されることのない自分だけの時間を過ごすこと。これがマロニエ君とってはちょっと比べるもののないほどの心地よさに取り囲まれるときで、ただもう無性に嬉しくて心地よい時になってしまいます。

このときばかりは、日頃の疲れやストレスもしばし忘れて、今時の云い方をすれば心がリフレッシュできているような気がします。だから日中の雨が夕方止んで、夜はお天気回復なんていうパターンが一番がっかりですし、逆に昼間はお天気だったものが夜から崩れて、深夜には大雨となり、そして翌朝は快晴というのが最も理想のパターンなのです。

人の心には、まったくくだらないことが、しかしとても貴重なようです。

2013/06/26 Wed. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

ベヒシュタインウェイ? 

読む人が読めばわかるでしょうから、大した意味もないとは思いつつ、それでも敢えて名前は伏せますが、さる日本人のイケメン(という事になっているらしい)男性ピアニストが、いまベートーヴェンのピアノソナタ全曲を録音進行中で、先ごろ最後の3つのソナタが発売になったようです。

マロニエ君はピアノの音を聞くのが目的で、興味のない演奏家のCDをしぶしぶ買うことがありますが、この人のCDとしては、以前、日本のあるピアノ会社所有のニューヨーク・スタインウェイで演奏したということで、ラヴェルのコンチェルトと夜のガスパールなどのアルバムを買ったことがありました。
そのどことなく幼稚な演奏にはあれれ?とは思ったものの、その時は正味のピアニストというよりも、どちらかというと女性人気から売り出した観のある人だったので、まあこんなところだろうぐらいに思ったものでした。

そんなアイドル系ピアニストの弾くベートーヴェンの最も神聖なソナタなど、普通ならまず絶対に寄りつきもしないところですが、それに寄りつくハメになりました。
この人は、一時期は非常に癖のあるニューヨーク・スタインウェイをコンサートにも録音にも愛用していて、自らその楽器のことをF1などと呼びながら、ネット上にそのピアノを褒め称える文章まで書いていたほどでしたが、しばらくするとパッタリそのような気配はなくなり、録音も常套的なハンブルク・スタインウェイでおこなっているようでした。

ところが、現在のベートーヴェンのソナタ録音にあたっては、なんとベヒシュタインのD280を使用ということで、えらく大胆な方向転換をしたものだと思いましたが、ベヒシュタインで弾くベートーヴェンというのは、バックハウスが晩年におこなったベルリンでのコンサートライブでそのマッチングの良さに感嘆感激していたので、その強烈なイメージがいまだにあって、どうしても聴いてみたくなりました。

とはいえ価格は例によって割引適用無しの3000円で、そこまでして買うのもアホらしいような気分だったのですが、たまたまネット上で見かけたこのCDのレビューによれば、以前はこのピアニストのことをある種の偏見を持っていたけれども、人から進められて聴いてみると、本当に素晴らしい演奏云々…という激賞文でもあったため、ついついマロニエ君も少しばかりのせられてしまいました。

そうは云っても、以前の経験があるので、演奏には過度の期待はしていませんでしたが、まあ音を楽しむぐらいのものはあるのだろうという程度の気持でついに購入してしまいました。やはりどうしてもベヒシュタイン&ベートーヴェンが紡ぎ出すあの感激を現代の録音で聴いてみたい!という欲求に負けたというわけです。

しかし、結果はまったくの失敗で、アーできるものなら返品したい…と思うばかり。
むかし買ったラヴェルの印象がそのまま生々しく蘇るようで、この人はなんにも変わっていないんだなと思うと同時に、曲が曲であるだけに、いっそう分が悪い感じです。
彼はいま何歳になるのか知りませんが、ただ指の動く学生が音符の通りに平面的に弾いているようで、この世の物とは思えぬop.111の第二楽章の後半など無機質な指練習のようで唖然。

ピアノは上記の通りベヒシュタインのD280ですが、どちらかというと普通で、期待したほどベートーヴェンでの相性の良さは感じられませんでした。このピアノはよくよく考えてみると、おそらくはマロニエ君も一度触れたことのある「あのピアノ」だろうと今になって思われます。伝統的なベヒシュタインのピアノ作りを大幅に見直して、今風のデュープレックススケールを装着した新世代のベヒシュタインですが、あきらかにメーカーには迷いのあるピアノだと当時感じたことを思い出しました。

ベヒシュタインほどの老舗ブランドであるにもかかわらず、スタインウェイ風の華やかな音色とパワーをめざしたのでしょうが、結局はこのメーカーの個性を大幅に削り取ったピアノになっているとしかマロニエ君の耳には聞こえませんでした。バックハウスがベルリンで弾いたのは、Eという古いモデルで、その後のENを経て、現在のD280になりますが、モデル表記もまるでスタインウェイのD274そのままで、もう少し工夫はなかったものかと思います。

しかし、逆にいうと、ベヒシュタインと思うから不満も感じるわけで、一台のコンサートグランドとして素直に聴いてみれば、これはこれでなかなか素晴らしいピアノだと思えるのも事実です。とくに過度に洗練されすぎていない点が好ましく、ドイツピアノらしい剛健さの名残なども感じて悪くないとも思いますが、いささかスタインウェイを意識しすぎた観が否めないのは惜しい気がします。

2013/06/23 Sun. 03:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

紹介の弊害 

前回の続きみたいな内容です。

どんな場合にもある程度当てはまることですが、ある程度の金額のものを買ったりする場合、人の紹介があれば、それがない場合よりも安くしてもらえるとか、なんらかの好条件がもたらされるというイメージがあって、それを信じて疑わない人というのはわりと多いように思います。

しかし、あるころから、これは好条件どころか、むしろまったくの逆の現象が起きているのではないかというふうに疑い始めるようになり、その認識は時間や経験と共に深まっていきました。
一例を挙げますと、(車の購入の場合はわりに以前から云われていることですが)仮に車を購入する際の値引きの条件などでも、紹介者があると、営業マンはニンマリした顔で「○○様のご紹介ですから」といった尤もらしいフレーズに乗せて一定の割引などが提示されるようですが、実は少しもそれに値するような金額ではない場合が珍しくないのです。
むしろ、紹介者なしの飛び込みで、単独で交渉してもこの程度の条件は当たり前では?…と思えるようなものでしかないことはよくあります。

これらは、友人なども同様の一致した見解なのですが、紹介者があるということは、業者側にとっては幸運が勝手に飛び込んできたような美味しい話で、さほどの努力をしなくても紹介者との繋がりが後押しとなって、ほぼ間違いなく買ってくれる安全確実な客だと見なされることが多いようです。
購入者にしても、紹介者の顔を立てて、他店と競合させることもせず、受身で、お店にすればこんなありがたいことはないのです。

しかもお客さんは「自分は紹介者のお陰で特別待遇」だと疑いなく思い込んでいる場合もあるのですから、その認識のまま事が完了すれば、関係者全員がハッピーということでもあり、これはこれで悪いことではないのでしょう。でも、ひとたびそのカラクリに気がついてしまったらとてもやってられません。

自分に置き換えてもそうですが、ある程度値の張るものを購入するとか、何らかの仕事を依頼したりする場合、そこに紹介者が介在していると、紹介者の顔をつぶしちゃいけないという配慮が先に働いて、あまり突っ込んだ交渉はしなくなります。というか、ハッキリいってできなくなります。
そして、相手側はその道のしたたかなプロですから、そのあたりのことは十分に承知していると思われ、だからごく普通の条件でもさも特別であるかのように口では上手く言いますが、実際はさほど努力らしきことをしているようには見受けられないわけです。

こういう嫌な現実に気付いてからというもの、マロニエ君は(場合にもよりけりですが)基本的には紹介者とか、縁故というものを頼りにしなくなりました。
そのほうが遙かに自分のペースで自由に交渉ができるし、率直な質問や要求を提示することができるし、おかしいことはおかしいと主張して、もしそれで決裂すれば他店をあたったりすることも自由ですが、そこに紹介だの縁故だのがあると、すべてこちらはガマンして呑み込むしかありません。
だから、もちろん例外はありますが、大半は紹介なんてものは却って自分の足を引っぱるとしか思えなくなりました。

そもそも、業者やお店の側も、考えたらわかることですが、仲の良いお客さんから知り合いを連れてきてもらうことは、労せずして信頼関係は半分以上できあがっているようなものです。それに比べれば、まったく縁もゆかりもない初めて取り引きする相手をきちんと納得させ、交渉成立に結びつけるほうが遙かに骨の折れる仕事でしょうし、油断すれば遠慮なく去っていきますから、きっと緊張感も違う筈です。

結果的に、信頼できる相手であるほうが、却って条件が悪くなるという結果を見てしまうのは、非常に残念なことだと思いますが、これが現代という殺伐とした時代に流れる真実なのだと思うと、自分を守ろうとする認識と本能の前で、どことなくやりきれない思いが混ざり込んでしまいます。

2013/06/21 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

はじめだけ 

いまどきの現象をおひとつ。

各種の工事など専門作業をおこなう会社、または職人さんについてですが、彼らも厳しい時代の波の中で生きていることはいうまでもなく、昔のように決まった顧客やお得意さんだけを相手に仕事をしていれば済むというよき時代ではなくなりました。

とくに近年では、下請け、孫請けの仕事を獲得するだけでも大変なようで、親会社からは容赦なくコスト切り詰めが要求され、それに応じていかなければ別の会社や職人さんへ仕事がまわされるのですから、これを逃すまいと彼らも必死になって仕事をしているのは大変だろうと思います。

いっぽうで、そんな親会社から請け負う仕事だけではやっていけないのか、上から使われるのが嫌なのか、事情はともかくホームページなどで低価格を売りにして直取引をして仕事や販路を拡大しようという、独立型の小さな会社や職人さんの動きもあるようです。

マロニエ君も、必要があってちょっとした仕事を頼むとき、安い業者を探したことがありますが、縁あって非常に安くやってくれるある業者と知り合うことができました。
業者といっても身内でやっている職人さんで、そのときはさほど小さくもない仕事だったのですが、納得のいく価格で話が決まり、連日にわたって熱心に工事をやってくれました。

ひととおり作業が終わり、支払いも済ませて、いったんは区切りがついたことになりますが、その後もちょっとした作業の必要があったりすると、せっかく親しくなった職人さんなので、その人に頼むと、快く了解してはくれますが、どうしても大きい仕事が優先され、先方の都合に合わせて来てもらうことになります。

こちらとしても大した仕事ではないこともあり、あまり無理をいうわけにもいきませんが、再三の延期や日にちの変更が重なるとうんざりするのも事実です。作業そのものはごく短時間で完了しましたが、代金は最初(前回)に依頼したときの感じからすれば、期待ほど安いものではありませんでした。
まあ、それでも絶対額は大したものではないし、そこは素直に従いましたが、ついでにある器具を付けて欲しくてその旨を伝えると、これまた快諾。おおよその見積もり金額を伝えられ、近いうちにカタログを持ってくるのでその中から選んでほしいといわれました。

数日後、カタログを持って現れ、だいたいこのあたりということなのでその中から一つの器具を選びましたが、今回クチにする金額は、つい先日聞いていた金額より50%も高くなっていて、おや?と思いました。
カタログには販売価格が書かれていましたが、どうみてもそのままの価格での計算であるばかりか、工賃も安くないように感じられて、どうも釈然としません。
うっかりメーカーを確認していなかったのですが、ある夜、ネットで2時間以上かけて探してみたところ、ついにその商品を見つけ出しましたが、果たして聞いたこともないメーカーであるばかりか、ネット通販ではカタログの半額以下で売られているのにはびっくり!

もちろん極限の最安値で勝負するネットと同等を求めようとは思いませんが、せめて少しぐらいの値引きはするのがいまどきの常識というものでしょう。その他、ここには書かない疑問符のつく事例もあり、それらからだんだんわかってきたのは、要するに昔とはまったく逆の流れだということです。

昔は一見さんには高くても、おなじみになるにつれて互いの信頼も増し、値段もだんだん安くしてくれるようになるのが通例でしたが、今は逆で、まず最初は激安価格で人の気を引き、それによってお客さんの信頼を得ておいて、間違いなく自分の顧客になったと認識されるや、その後の値段はじわじわとつり上がっていくということのようです。

もちろん昔とは利幅も違うでしょうし、彼らなりの苦労があるのはわかりますが、それは誰しも同じこと。信頼を寄せ、利用頻度が増すに連れ、価格は反比例的に上昇して来るというのは、いくらなんでもいただけないやり方だと思いますし、がっかりしますね。

2013/06/19 Wed. 02:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

気がつけば寄せ集め 

自作の円筒形スピーカーが、知らぬ間に熟成されて好ましく変化してくれていたのは、まったく予想外のことで、思いがけない贈り物をもらったような嬉しさがありました。

とくに、失敗作だという認識でそれ以上の調整を一切放棄し、さらには目につかないところへ放逐してしまった後の変化だったので、オーディオとはこんな一面があるのかということを認識させられる良いチャンスにもなったのは事実です。手の平を返したように殊勝めいたを言うようですが、この自作スピーカーは、情報収集から材料の調達、組み立て、チューニングにいたるさまざまな過程を経験させられ、音に関する実に多くのことを勉強させてくれたのは間違いありません。

とりわけスピーカーというものがボリュームやパワーでなく、響きそのものが作り出す音響や分離、ダイナミクスのバランス、その他もろもろの要素やそれらの均衡がいかに大切かということも良くわかりましたし、プレーヤーのこと、アンプのことなど、周辺の事情も含めてマロニエ君の無知な部分を一気に埋めることができました。
とはいえ、今だって多くはなにも知らない穴ぼこだらけで、無知なことに変わりはありませんが、それでも知らずに終わっていたであろうことを、いろいろと経験的に知り得たのは素直に収穫だったと思います。

もともと音楽は好きでも、オーディオにはほとんど関心のなかったマロニエ君は、オーディオ装置は何でも良いと云えばウソになりますが、そこそこ好みのいい音が出てくれさえすれば、あとはもっぱらCDを買い漁るほうが主眼で、少しでも良いオーディオ装置に投資しようという考えがまるで欠落していたように思います。

それでも1階のピアノのある部屋には、わからないながらも一応それなりのオーディオ装置を置いてはいますが、それもずいぶん昔買ったもので、とくに満足もなければ不満もないというクチでした。さらに自室のオーディオに至ってはヤマハの中級のコンポのセットで、これを疑いもなく使い続けて、そこからいろいろな音楽や演奏を楽しんでいたのですが、それをどうこうしようという意志も意欲もなく、根底にはオーディオは電気製品という感覚があったのかもしれません。

そんなマロニエ君のオーディオ生活にトラックが飛び込んできたような一大事件が起こったのが、我が家のピアノの主治医のお一人である技術者さんが、Yoshii9なる未知のスピーカーセットをわざわざ持参して聴かせてくださったことでした。
目からウロコとはこのことで、従来とはまったく違ったナチュラルな音の広がりで聴かせるこのミサイルみたいな形をしたスピーカはまさにマロニエ君にとってのオーディオ上のカルチャーショックでした。
演奏者が今まさに目の前で演奏しているような、その自然さそのものがもたらす美しい音は、これまでのハイパワーアンプとそれを受け止めるスピーカーによって豪快に鳴らすことを良しとしていた価値観を、根底からひっくり返すものだったのです。

Yoshii9をすんなり買えればなんのことはなかったわけですが、少々お高いこともあってなかなか手が出ず、その代用の意味もあって自作スピーカーへの道を進むことになりました。その過程で驚くばかりに高性能かつ低価格の中国製デジタルアンプの存在も知ることにもなり、さらには優れたスピーカーコードとは何か、好ましいCDプレーヤとは何かといった、個別の要素の真相などを正に一から教えられることにもなりました。

わざわざ仕組んだわけではありませんが、現在のマロニエ君の自室のオーディオは、いつの間にか(ほんとうにいつの間にか!)ヤマハのコンポはすべて姿を消していて、代わりに自作のスピーカー、中国製デジタルアンプ、そして過日書いた記憶のあるDVDプレーヤーの「3本の矢」で構成されていますが、こんな一見めちゃくちゃな、なんの一貫性もない装置の寄せ集めによって、結果的に従来よりもはるかにクオリティの高い、聴いていて楽しい音響空間になったのですから、いやはや自分でも驚くしかありません。

2013/06/17 Mon. 02:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

それから 

「それから」なんて漱石の小説のようですが、ぜんぜん別の話です。

昨年はひょんなことから筒状の無指向性スピーカーの魅力に取り憑かれ、知人にいくつも自作して楽しんでいる趣味人がいたことも後押しとなり、これまで自分でスピーカー作るなど考えたことさえなかったにもかかわらず、マロニエ君としてはなんとも無謀な挑戦をしてみることになりました。

その顛末は何度も書いていますから、ここでは繰り返しませんが、その間の、とくに2ヶ月ぐらいは一途にこれに熱中、ピアノにもほとんど触れず、毎夜そのための制作と情報収集に励んでいました。

我ながら、仕事や勉強もこれぐらいやれたら…と思うほどの熱の入れようで、使用するスピーカーユニットの選定はじめ、あらゆるものに拘り、時間の許す限りその方策と調達などにエネルギーを注ぎ込んでいました。
この時期はまさにスピーカー制作一筋でしたが、とくにスピーカーがまずは形を成し、音の調整をするようになってからが大変で、集中すべき次元がガラリと変わり、目指す音へ少しでも近づけるべく試行錯誤の繰り返しに明け暮れました。わずかの変化や効果を狙って、なんど分解と組立を繰り返したかしれません。

その結果、ある一定のところ(レベルは低いですが)まではなんとか到達できたものの、同時に超えがたい限界をも感じました。所詮はシロウトの手すさびというべきで、冷静に考えれば、ものの道理から云っても初作からいきなり満足できるようなものができる筈がないし、それを望む方がそもそも無理だという、ごく当たり前のことを悟りました。

無指向性スピーカーの特徴である演奏会場のような音の広がりはあるものの、音には艶やかさも分離感もなく、こもったような、それでいて薄っぺらなサウンドは到底満足できるものではなく、このジャンルの最高峰であるYoshii9などには、遠く及ぶべくもないことを痛感させられました。

これが根っからのオーディオマニアなどであれば、そこからまた果敢に挑戦を繰り返すところでしょうが、マロニエ君の場合そもそもが自分の領域外のことを勢いでやってみたまでで、疲労困憊、もうこれ以上はもう結構、やりたくないと思いました。

それいらい次第にこのスピーカーからも関心が遠ざかり、しまいには部屋に置いておくだけでも転倒の心配もあり(厚みのあるアルミ管を使い、中は鉄のウェイトなどが入っているため重量もそれなりで危険性もあり)、邪魔になるというので、ついには普段使わない部屋の隅っこへと撤退させられてしまいました。

それから数ヶ月間、一時はあれほどの心血を注いだ自作スピーカーは無用の長物として、音を出すこともなくただの邪魔な物体として放置されたままでしたが、わけあって家の中の整理や片づけが契機となり、自室にこれを運び込み、場所を変えてもう一度聴いてみようかと思いつきました。

狭い自室の中になんとか場所を確保して、久しぶりに線を繋いで音を出してみますが、基本的にはやはり以前の状態のままで、やっぱり場所の問題ではありません。しかし、今回は腹を括ってしばらくこのスピーカーと付き合ってみることにしたわけです。
自室では毎夜音楽を聴かないことはまずないので、とにかく毎日続けて一定時間鳴らすことになりますが、すると驚いたことに、だんだん音が鳴るようになってきたばかりか、音の分離感や色彩感もこちらがほぼイメージしていたように少しずつですが出てきたのは嬉しい驚きでした。
少なくとも作った当初とはまるで別物のような、まあまあの繊細なサウンドで鳴るようになってきたことは、まったく楽器と同じだと思わないわけにはいきません。これがオーディオでいうところのエージングというものなのかとちょっと感動してしまったわけです。

手前味噌で恐縮ですが、今の状態ならば、それなりに満足が得られるもので、知識も経験もないクセして、寄せ集めの情報だけで、あれだけ拘り抜いて作った甲斐があったなぁと思いました。
同時にスピーカーでも楽器でも、音の出るモノは(デジタルアンプはどうだかわかりませんが)、いずれも数ヶ月間はそれを本来の性能とは思わずに、慣らしのつもりで付き合わなくてはならないことをしみじみと教えられたような気がしています。

子供の成長ではありませんが、時を経て音がだんだん良くなっていくというのは、実に嬉しいものです。

2013/06/14 Fri. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit

人前演奏の魔力 

人前でなにかのパフォーマンスをすることには、そこに魅力を覚えた人達にとって、抗しがたい強烈な魅力があるのだろうと思われます。

「舞台には魔物が棲んでいる」という言葉は音楽家に限らず、俳優などもしばしば使うフレーズで、どんな失敗や苦労をしても、もうこりごりだと思っても、嫌だ嫌だと言って逃げ出したいと足掻き苦しんでも、舞台が終わったとたん、もう次がやりたくなるのだとか!?

こういう気分というのは、人前で何かをすることが極端に嫌いなマロニエ君にはなかなか理解の及ぶところではありませんが、折にふれそういう話を耳にする(だけでなく目にする)につれ、果たしてそういうものなんだろうなぁという認識だけは持つようになりました。おそらくは一種の依存症的な、独特な脳神経の作用があるのだろうと思われます。

こうなると客観的実力とは無関係に、我欲と自己愛に溺れ、定期的にステージに立ちたがる人がいて、こちらからみればただ唖然とするばかりなのですが、ある種の人達がこの味を覚えてしまうと、なまなかなことでは止められないようです。まさに毒に侵されたとしか思えない世界です。

たぶんカラオケマニアの熱中ぶりがその最もわかりやすい端的な現れだろうと思います。

ピアノでも、マロニエ君などから見ると、ほとんど常軌を逸しているとしか思えないほど、人前で弾くことに喜びを感じている人達がいるのは、いかにそれが人それぞれの嗜好であり自由だと云ってみたとしても、普通の平衡感覚(とマロニエ君が思っているもの)ではおよそ理解が困難なことだらけです。

こういう人達を見ていると、純粋にピアノが弾きたいのか、人から注目を集めるためにピアノを弾いているのか区別がつきません。その熱意に圧倒された結果は、家でひとりピアノを弾く行為でさえも、なにか自分は変なことをしているのではないかという疑いの気持のようなものが忍び寄ってくるようなときがあるのは困ったものです。
やはりマロニエ君の頭の中には、ピアノなどの人前演奏は、それに値する人だけが行うべき特別な行為だという大原則というか、ほとんど本能みたいなものが強く根を張っていて、どうもこういうことを微笑ましいことと捉えることが難しいのです。

そんなマロニエ君の気分とは裏腹に、人前で弾きたい人の欲望というのは、それはもう並大抵のものではなく、驚くべきことにわざわざそのために時間を工面してはあちこち出かけていって、そのための出費も厭わず、そのささやかなチャンスを逃すまいとします。
そんなに弾きたいなら自宅で思う存分やればいいようなものですが、たぶん根本的にそれとは違う感覚で、恐ろしいことですがオーディエンスのいない自宅では満足できないのでしょう。

こういう点を考えると、こういう心理には、どこかセクシャルな要素さえ絡んでいるようにも思います。
おかしな喩えで恐縮ですが、あちらの趣味のご盛んな人の中には、複雑な心理の絡むところがあり、独特なある一定の条件を満たさないと気分が燃えないのだとか。

ありきたりなエロティックなものではダメで、なにかそこに一種の屈折した条件が整ってはじめて満足を見出しているようなのです。
限られたわずかな状況、ある種の不自由感の中で、その欲望がかすかに報いられる刹那、猛然と気分は高ぶり燃焼してくるのでしょう。
したがって、ピアノを弾くにも、きっとただひとりで自由に無制限に弾くのではダメなようです。
自分以外の人達が見守る中で、時間的にも回数的にも限られた条件下での演奏環境でないと「燃えない」「興奮しない」んだというふうに考えると、少しは理解できるような気がしてきます。

べつにマロニエ君が人前演奏したがる人の気持ちが1%もわからないというのではありませんが、それにしても、あまりにもそれが強烈な人の多いのには驚く意外にありません。

小難しいことは抜きにしても、これは人の心の中にある露出願望のひとつの形体なのだと思われます。
まさかピアノが、そういう願望を満足させる手段にもなり得るということを知ったのはそう古いことではありません。
2013/06/12 Wed. 01:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

贅沢はテレビサイズ 

家人の古い友人で、不動産関係の会社をやっている方が来宅されたのですが、曰く、最近の若い人は家やマンションを買っても、今風の低価格な家具を最低限度揃えると、あとは専ら電気製品などに注意が向くだけで、気質に情緒や潤いがないということを話しておられました。

どこの所帯もほとんど区別できないほど似たような雰囲気になってしまうそうで、いずれの場合も目につくのは、一様に物が少なく、パッと目はきれいなようでも、まさに衣食住の生活をするためだけの空間が現代風になっているに過ぎず、それ以外の本や絵や…何でもいいけれども、要するに実用品以外のおもしろいものとか美しいものがほとんど見受けられないのだとか。
そして、殺風景なその雰囲気の中で、ひときわ存在感を放っているのがテレビなのだそうです。

住まいとしての全体の規模、わけてもそのテレビの置かれた部屋の空間の広さに対して、そこに鎮座するテレビだけが、ギョッとするほど大型サイズで、それにだけピンポイントに贅沢しましたという状況なのだとか。業界人から見ると、皆けっこうしまり屋のクセに、テレビだけはどうして大きいのを欲しがるのか、さっぱりわけがわからないと嗤っておられました。

今の若い世代は、新しい住まいを手に入れても、実用品が必要というのは当然としても、そこに絵の一枚でも買って飾ろうという情感や心のゆとり、早い話が文化意志から発生する考えそのものがほとんどないようで、住居に於ける白い壁という、いわば自由な画布を与えられても、そこには大型画面のテレビを置くこと、そのためのテレビ台、もしくはそれに連なる家具を購入し、あとは申し訳程度に観葉植物を置くというぐらいな発想しかないというわけで、言われてみれば大いに思い当たりました。

家には必ず美術品だの楽器だのと何か高尚なものを置かなくてはいけないというものではないし、それはもちろん人それぞれの自由ですが、少なくとも自分の住まいに、その種のものが一切無くても何の抵抗もない、あるいは置いてみたいという発想さえないという感性には、やはりある種の驚きを感じてしまいます。

同時に、これは詳しくは知りませんから想像ですが、おそらく欧米ではおよそ考えられないことではないかという気がしますし、少なくともマロニエ君の知る数少ない外国人は、それぞれがいかに自分の住まいを美的で快適に、しかも自分の求める主題のもとにまとめ上げ、工夫をしながら創り上げるかという点では、かなりの拘りがあったことを思い出します。

いずれにしろ、家の中でテレビが一番エライような顔をしているあの雰囲気というのは個人的には好きではありませんし、知り合いの大学の先生はもっとはっきりと「自分はテレビのある家というものが嫌いだ」とおっしゃって、現にそのご自宅にはまったくそれらしきものは見あたりません。

それはさすがに極端としても、部屋に対して誰が見ても過剰な大画面テレビを置くというセンスは、申し訳ないけれども、そこの住人があまり賢そうには感じられないものです。
とくに薄型のデジタルテレビの時代になってからというもの、その傾向には拍車がかかり、それこそくだらないテレビ番組で紹介されたりするセレブだなんだというような人達の豪邸とおぼしきところには、途方もないサイズのテレビが贅沢さの象徴とばかりに誇らしげに置かれていたりして、それをまたレポーターなどが必要以上に驚愕してみせますが、根底にはそんな影響もあるのかと思います。

文化などという言葉を軽々しく使うのもどうかとは思いつつ、たしかにその面での意識レベルは下降線をたどっているとしか思えませんし、今では文化というと、決まってサブカルチャーだのアニメだのというジャンルばかりに人々の関心が偏重するのは、どうしようもなく違和感と危機感を感じます。

2013/06/09 Sun. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

カラヤンの陰鬱 

クライバーのドキュメンタリーが放送された翌週だったか、今度は昨年制作のカラヤンのドキュメンタリーが放送されました。

基本的には似たような作りで、彼を知る証言者たちが映像や音声を聞きながらひたすらコメントを繰り返すというスタイルであるばかりか、中にはクライバーのときとまったく同じ人なども出てきて、なんとなく二番煎じという印象を免れませんでした。

しかし、視聴者の受ける全体の印象としては、いやが上にも惹き込まれ、その魅力に魅せられ、感嘆するばかりのクライバーとは打って変わって、カラヤンはフルトヴェングラー亡き後の音楽史上、最も有名な大指揮者であるにもかかわらず、どこか陰鬱で暗いイメージが見れば見るほど上から上から塗り重ねられるようで、少しも心の浮き立つものがなかったのは、カラヤンに対する好みを別にしても、まったく意外なものでした。

ひとりの偉大な音楽家というよりは、この世界の頂点に君臨し、帝王などといわれたのはあまりに有名ですが、まずその表情がいつも重苦しく、いつも法外な独占欲と言い知れぬ孤独感に包まれているようで、見ていてちっともひきつけられるところがありませんでした。とくに録音スタジオのモニタールームなどでは、大勢の関係者に囲まれながら、彼がひと言ふた言、言葉を発するたびにまわりが過剰なまでにそれを引き取ってご大層に笑い声を上げる様などは、まさに孤独な権力者と、それを取り巻いて御機嫌を取る人達という構図そのものでした。

彼の演奏に内包される是非をいまさら言い立てる気もしませんが、彼自身、音楽が好きで純粋にそのことをやっているというより、自分の打ち立てた偉業を、より強固で、より大きく、より高く積み上げんがために、必死に業績作りと権力維持に励んでいるようにしか見えません。

また、数人の証言者達は、カラヤンの音楽的な優秀さをこれでもかとばかりに褒めそやしますが、なんだか…どこかわざとらしく、カラヤンの死後も尚、まだゴマをすっているか、あるいは何かの計算が働いてそういう発言をしているというように(マロニエ君の目には)感じられてしまいます。

カラヤンの時代は、指揮者に限らず華やかな大物スターの時代であったことは間違いありませんが、同時になんともいえない、重苦しい分厚い雲がかかっていた時代のようにも思います。
カラヤンのおかげで大活躍したベルリンフィルも、カラヤン故により自由な演奏活動の可能性を厳しく制限されていたとも思います。今のほうがベルリンフィルは世界最高のオーケストラのひとつとしての自由を得て、その存在感をのびやかに示していますが、カラヤンの時代はまさにカラヤン帝国の道具のひとつであり、彼を支えるための親衛隊のような印象だったことを思い出します。

マロニエ君はカラヤンをとくに好きだったことは一度もなく、それでも否応なしにカラヤンのレコードを避けることはできない時代の流れというものがあり、気がつけばLPやCDだけでも夥しい数が手許にあるのが、自分でも不思議な気分です。そして今それを積極的に聴こうとしないのも事実です。

聴くとすれば、今どきの、線の細い、けちくさいのに自然派を気取ったような、要するに貧しくも偽善的な演奏にうんざりしたときなど、その反動から、カラヤンの華麗でゴージャスな演奏を聴くことで、しばし溜飲を下げる役目を果たしてはもらいますが、それが済めば再びプレーヤーへお呼びがかかることはなかなかありません。
無農薬のどうのという講釈ばかりでちっとも楽しくない料理ばかり食べさせられると、単純にケンタッキーフライドチキンなんかをがっつり食べたくなるようなものでしょうか。

カラヤンは、要するに音楽界におけるひとつの時代を象徴するスーパースターであり、いわば彼自身が時代そのものであったのでしょうけれども、その演奏が、クラシック音楽のポピュリズムに貢献したことは認めるとしても、真に人の心の深淵に触れるような精神的核心に根差した音楽をやっていたかとなると、この点は甚だ疑問のような気がしますし、その点をあらためて問い返すような番組だったと思いました。

カラヤンのおかげで、20世紀後半のクラシック音楽界は巨大な恩恵にも与り、同時に損もしたような気がします。

2013/06/07 Fri. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

天才の魔力 

BSプレミアムシアターの後半で、カルロス・クライバーのドキュメント映像が2本続けて放映されました。

彼の死後に、彼とかかわった音楽家をはじめとする、さまざまな人物の証言をもとに構成されたドキュメンタリーです。近ごろの流行なのか(といっても何年も前の制作ですが)、あまりにも各人のコメントは小さく切り刻まれて、ほとんど数秒ごとにめまぐるしく映像が入れ替わりせわしないといったらありません。これがある種の効果を上げているのかもしれませんが、字幕スーパーを読むだけでも後れを取らないようついて行かざるを得ず、およそゆったり楽しむというものではないのが個人的には残念です。

実は、この作品は2つともすでにマロニエ君は見ていたもので、DVDとしても保存しているのですが、レコーダーに自動的に録画されていて、消去するにしても、その前にちょっと出だしを見てみたら、もうだめでした。とうとう止めることができずに2つとも最後まで見てしまいました。

いまさら言うようなことではない、わかりきったことではあるけれど、それでも言わずにはいられないのは、やはりカルロス・クライバーは真の特別な天才でした。天才というだけではなく、他に類を見ない魅力、ほとばしるオーラ、その音楽の水際立った躍動と繊細、活き活きとした美しさは圧倒的で、これぞ空前絶後の演奏家だったことをいまさらながら痛感させられました。

残された数少ない映像からは、彼のしなやかな、その動きそのものが音楽の化身のような優雅でエネルギッシュで美しい指揮ぶりが記録されています。もし彼が生きていて、ヴィンヤード式のホールでコンサートが聴けるなら、マロニエ君は躊躇なく彼とは向かい合わせになる席を取るでしょう。

クライバーは天才特有の、気まぐれでわがままな人物としても有名で、コンサートも世界中のオファーを頑なに断り続けることでも有名でした。しかし、あの尋常ではない全力を尽くした指揮ぶり、とりわけリハーサルにかける猛烈なエネルギーと要求を見ていると、これはもう並大抵のものではなく、こんなことはそうそう日常的に続けられるものではないということを直感させられます。

カルロスのお姉さんが話していましたが、彼はコンサートやオペラが終わるたびに、まるでお産をしたように痩せこけていたというのですが、それも容易に頷ける気がします。自分のエネルギーを全投入して演奏に挑むものの、毎回必ずオーケストラや歌手達がそれに応え切れるとも限らず、そこで妥協をし中途半端な折り合いをつけるのが嫌だったのでしょう。もっと正確に云うなら、彼の薄いガラスのような繊細な神経が自分が承知できない演奏をすることに到底耐えられなかったのだと思います。

こういう純粋さを、世間はわかっているようでわかっておらず、結果的には我が儘とか気難しいという単純なレッテルを貼り付けてしまうようです。
そのかわり、やる以上はまさしく全身全霊を尽くした完全燃焼の奇跡的な演奏だったことが偲ばれます。

ちょっと思い出したのが作家の故・有吉佐和子女史で、彼女も執筆に関しては炎のような意志と情熱を注いで仕事に打ち込み、一作書き上げる毎に療養のためしばらく入院する必要があったといいますから、どんな世界でも本物はそのような狂気と背中合わせの危険地帯で自分の仕事(というよりも天命)に奉仕しているものだということがわかります。
こういう危険地帯に身を置き、我が身の犠牲を厭わず、一途に芸術に奉仕するといったタイプの人はたしかに激減してしまいましたし、だから一昔前までの芸術家は本物だったと思います。

クライバーの演奏は、その断片に接しているだけでもその魔力に痺れていくようで、しばらくは他の演奏が受けつけられないほどの強烈な魅力にあふれています。
番組も終わりに近づくころ、クライバーの眠る墓地の映像が映し出され、流れる音楽はベートーヴェンの交響曲第7番の第二楽章でしたが、興奮さめやらぬまま番組は終了、その続きがどうしても聴きたくなり、部屋に戻るなり手短にあったブロムシュテットの同曲を鳴らしてみたところ、マロニエ君の耳の感覚というか細胞がクライバーに染まった直後だったために、普段はそこそこ気に入っている演奏が、まるで気の抜けた、緩みきっただらしない音楽のように感じられてしまったのは驚きでした。

2013/06/04 Tue. 01:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

買わせる領収書 

冷蔵庫を買うことになり、電気店などをあちこち見てまわった結果、ひとつの機種に的が絞られたので、あまり期待もせずネット通販の価格を見てみたところ、安さ自慢の量販店で15万円前後するものがさらに4万ほど安いのにはびっくり。楽器ならともかく、単なる電気製品で、それもれっきとした日本の大メーカーの製品なので、だったら安いことは大いに魅力で、ネットから購入することにしました。

ところが購入手続きに入ると、ちょっと不可解な点に出くわしました。
ネット販売の場合、送料も無料となっているところが珍しくないのは驚きですが、よく見るとそれは軒先まで、つまり「玄関先まで」という条件付きで、家の中まで搬入し、開梱して設置、さらに梱包材を持ち帰るところまでやってもらうには、3千円強の追加料金となるようです。

量販店で買った場合でも送料はそれなりにかかるわけで、この点はまあ納得できますし、もとが安いからある意味当然だろうとも思います。

いっぽう納得がいかないのが領収書に関する部分で、「基本的に領収書は発行しません」という開き直ったような記述があり、さらには「当店名の入った領収書が必要な場合は発行手数料500円(店によっては700円)が必要となります」となっており、購入操作時に配送方法とならんで、領収書の必要・不必要をボタンで選択するようになっています。

しかしこれ、言い換えるなら領収書をお金で買うという意味でもあり、そんなバカなことがあるものかと思いました。同じ価格帯でサイト内に並んでいる6つほどのお店をそれぞれを調べてみたところ、なんと、すべて横並びに同じスタイルを採っているのには、いよいよア然とさせられました。

領収書を販売者が購入者に発行するのは、正常な商行為であるならばごく常識であり当然の義務であるはずです。こうなると領収書代の領収書を…という感じになるのでしょうか。

いくら販売価格が安いといっても、そのことと領収書発行の有償化は、およそ関連づけるべき事ではないはずで、しかも異なる業者がずらりと同じ方式を採っているところに、日本人の悪しきメンタリティである「赤信号、みんなで渡れば恐くない」という昔流行った標語を思い出しました。

さらに思い出したのは、月極駐車場を賃貸契約している場合、車の買い換えなどで車庫証明が必要となると、貸し主は車庫証明の発行手数料として数千円から、場合によっては1ヵ月分相当の代金を請求するということを聞いて仰天したことを思い出しました。
これは厳密にいえばまったくの違法で、借り主の要請によって車庫証明書類の必要箇所へ貸し主が署名捺印することは、正当な貸借関係が存在しているという事実をただ単に証明するだけのことで、これは手数料どころか、駐車場を貸すことで収入を得ている貸し主側に課せられる責務なのであって、その責務を履行するのに相手から金銭を要求するとは言語道断だと思います。

この件は知り合いの弁護士にも雑談で聞いたことがありましたが、やはり法的な根拠はなく、人の弱みにつけこんだ悪しき慣例として社会に蔓延しているだけとのこと。裁判をすれば勝てるが、それっぽっちのことで裁判費用・弁護費用をかけて係争に持ち込むほどの問題でもないということで、煩わしさから払ってしまう人が多く、それがいつしか当たり前のルールであるかのようになってしまっているそうです。

そもそも領収書を発行しないというのは、税金逃れか闇の商売というふうにしか思われても仕方ないことで、こんなことが堂々とまかり通るなど、世の中ちょっとどうかしているんじゃないかと思います。
要するに手間と切手代と印紙代を倹約しているのでしょうが、これは合法なのか、ぜひいちど各自治体にある消費生活センターなどに問い合わせをしてみたいところです。

2013/06/02 Sun. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit