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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ピリスの奏法 

今年3月、すみだトリフォニーホールで行われた、ピレシュ&メネゼスのデュオ・リサイタルの録画を見ました。
ピレシュは日本では長らく「ピリス」といっていたポルトガル出身のピアニストで、グラモフォンなどはいまだにCDの表記はピリスで通しているようです。本来はピレシュというのが正しいのかもしれませんが、これまで長いことピリスと云ってきたので、ここでも敢えてその呼び方で書きます。

前半はホセ・アントニオ・メネゼスによるバッハの無伴奏チェロ組曲第1番で、ピリスはそのあとのベートーヴェンのチェロ・ソナタ第3番で登場しました。

演奏はさすがにある一定のクオリティというか、音楽的な誠実さ、質の高さを感じますが、実際のステージとなるとピリスのピアノはいかんせん軽量コンパクトに過ぎて、CDで聴くような繊細な表現は伝わりません。というか、そもそもこの時はそれほど気合いの入った演奏をしていないという感じだったというほうが正しいかもしれません。
少なくともマロニエ君は、彼女がいま獲得している高い名声に値する演奏をしたようにはどうしても思えないものでした。

それとは別に、この人の演奏を聴いていて、CDなどでも以前から気になっていたことが少しわかったような部分があり、これはこれで収穫でした。

それはピリスの演奏に潜む、ある矛盾についてでした。
弱音域で展開される、目配りの行き届いたデリケートな演奏はたしかに上質なものがあるけれど、フォルテやスタッカート、あるいは弾むようなパッセージになると、たちまち音やリズムが粗雑になり、この人のみせる(聴かせる)芸術性にどこかそぐわない、ちぐはぐな印象を受けるところがあったのです。

それは、少しでも強い音や小刻みなリズムを必要とする場所になると、必ずといっていいほど上から鍵盤を叩くことで、それが音にも反映されていることがわかりました。
それは彼女が小柄で手も小さいということもあるかもしれませんが、ピアノのアクションを含むすべての発音機構はこの点でも非常によくできており、叩いたりはじいたりすれば、正直にそういう音になる。

また、ピリスの場合、叩くときはえらく敏捷に手を上げ下げしていますが、その小さくない上下運動によるロスを取り戻そうとするのか、そのときに若干リズムが乱れ、結果として逆につんのめるように早くなっている気がしました。同時に、これをやるときは注意がそちらに逃げるのか、音楽的な配慮がやや散漫になってしまうのだろうと思われました。

そのためか、弱音のコントロールで非常に高度な演奏表現を達成しているのに、こういう場面では粗い音色と性急なリズムが顔を出し、全体の素晴らしさは感じつつ、どこかもうひとつ引っ掛かる感じが残るのだろうと思います。ピリスは、表向きはいかにも筋の通った高尚な音楽を描き出す数少ない音楽家のようなイメージになっていますが、この点ではまさに技巧上の事情があるのか、矛盾を抱えたピアニストだと思いました。

叩く音は、どうしても硬質な衝撃音となり、音量の問題ではなく、ピアノの音が割れる、もしくは割れ気味になってしまいます。深みのある静謐な弱音コントロールが売りのピリスの演奏の中で、随所にこうした配慮を欠いた音色が紛れ込むのは、他がそうでないだけに一層耳に違和感を与えるのだろうと思います。

小柄で手が小さいと云っても、ラローチャは潤いのある充実した響きを持っていましたし、誰も聞いたことはないけれど、かのショパンも女性のように小さな手であったにもかかわらず、その演奏は一貫して絹のようななめらかさがあったと伝えられていますから、やはりそこは演奏家自身の価値観と美意識によって決定される問題ではないかと思いました。

ピアノはヤマハのCFXですが、どうもこのピアノはデビュー当時のような輝きを感じなくなり、響きがだんだん平凡で薄っぺらになってくるような気がします。ピリス以外でもこのところホジャイノフなどいくつかの演奏で聴きましたが、ちょっとフォルテになるとたちまち限界が見えるようで、そのあたりがいかにもピンポイントで性能を磨いた現代のピアノという印象。生産開始直後の個体はよほど気合いを入れて作られたということかと、つい勘ぐりたくなります…。

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2013/05/31 Fri. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

半額CD3点 

全国的なヤマハ・ピアノショールーム縮小の流れに伴って、福岡では博多駅前の大きなヤマハビルが閉じられ、その一階にあった広いピアノサロンもなくなってしまいました。

その余波で、天神のヤマハ福岡店では、1階はアップライトピアノ/電子ピアノ/管弦楽器などの売り場、2階は楽譜や書籍はそのままに、残りスペースがグランドピアノの展示場スペースとなり、ピアノサロンから引っ越してきたとおぼしき大小のグランドが6〜7台並ぶようになりました。

グランドピアノが大挙してやってきたためにCDの売り場が行き場を失ったらしく、今後CDは注文販売のみという紙が壁に貼られていました。
ここに並んでいた大量のCDは各メーカーに返品などの処置をとられたのかどうか知りませんが、一部のCDがワゴンセールに投じられ、これが一斉に半額になっているので覗いてみると、通常ならまず買わないであろう未知の日本人演奏家の3000円級のCDがあったので、これ幸いと買ってみることにしました。

以下3点、購入して聴いてみた雑感です。

(1)『恩田文江ライヴ・イン紀尾井』レーベル:ガブリエル・ムジカ 定価3000円
2009年に行われた紀尾井ホールでのライブで、ショパン:幻想ポロネーズ/アルベニス:「イベリア」からトリアーナ/メシアン:「幼子イエズスにそそぐ20のまなざし」より/ラヴェル:夜のガスパール/その他というもの。ライヴというタイトルから期待されるような一過性の熱気は感じられず、むしろ固い感じの演奏。冒頭の幻想ポロネーズが始まって早々、その慎重さは全体を予感させるもので、一通り聴き進むもその印象は変わらない。これといって明確な欠点もないきれいに整った演奏といって差し支えないが、この人なりの個性も感じられない、平均化された演奏だという印象。変化に富んだプログラムなのに、なぜかどの曲も同じように聞こえてしまうのは、作品への踏み込みと音楽に欠かせない即興性が不足しているからだろうか。聴衆に対して美しい音楽を魅力的に奏することより、ひたすらミスをしないよう安全運転に努めているようで、結果として匿名的な演奏がそこにあるだけ。録音も平凡なもので、ピアノテクニシャンは有名な方のようだが、このホールやピアノの良さもあまり出ていないように感じた。

(2)『ベートーヴェン:ピアノソナタ第30番、第31番、第32番 澤千鶴子(ピアノ)』カメラータ・トウキョウ 定価2940円
まったく知らないピアニストだったが曲がいいことと、ジュディ・シャーマンという有名プロデューサー(らしい)がおこなったアメリカでの録音ということで興味がわいて購入。ライナーノートではさる音楽評論家が言葉を極めて澤さんの演奏を褒めちぎっているが、残念ながらあまり同意できなかった。全体に、ひと時代もふた時代も前の日本人によくあった演奏で、アーティキュレーションなどがいかにも和風テイスト。リズムも一拍一拍を肩で取っているようで、この最後の3つのソナタの高度な精神世界を、演奏を通じて再構築できているとは思えなかった。ただしマロニエ君にとってはこのCDの価値は結果としてその音にあったわけで、自然で躍動的、親密なのに開放感に満ちた録音の秀逸さにはかなり感心させられ、優秀なプロデューサーが統括するとはこういうことかと感じ入った。ピアノは現代のニューヨーク・スタインウェイだが、響きがやわらかいのに輪郭がくっきりしており、珍しく木の響きのするスタインウェイで、最もベーゼンドルファーに近いスタインウェイという印象。

(3)『小林五月 シューマン・ピアノ作品集 幻想曲/フモレスケ』ALMレコード 定価2940円
近年、日本人でシューマンに取り組んでいるピアニストということで名前は聞いたことがあったが、演奏は未聴だったため、どんなものかと購入。果たして幻想曲の冒頭からいきなりぶったまげた。これほど何憚ることなく盛大に泥臭いシューマンを聴いたのは生まれて初めてで、これを個性だと言い通すことができるのか甚だ疑問。終始、粘っこく一音一音を力ずくで地面に押し込むようで、マロニエ君の理解からは著しくかけ離れた演奏。ライナーノートも抽象論の羅列で意味不明。もしこの人のシューマンが価値の高いものだと考える人がいるなら、皮肉でなしにぜひともそれを教えて欲しいと思う。この人は作品に込められた何かを表現しようとしているのかもしれないが、音楽には流れや呼吸があるということは完全に除外されている気がする。最近の人では珍しくタッチが深いピアニストと云えなくもないけれど、同時にほとんど音色やデュナーミクのコントロールはないに等しく、ところ構わず強いタッチで鳴らしまくるのは、人一倍繊弱な感性を持ったシューマンが聴いたら一体どう感じるだろうか?録音とピアノは共に非常に好ましいものだと感じるだけに残念。

〜というわけで、今回のバクチ買いはほとんどヒットらしいものがなく、失敗の巻となりましたが、強いて言うなら澤千鶴子さんのCDはそのすばらしい録音を聴くだけなら、一定の値打ちがあったと思います。

2013/05/28 Tue. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

別人のように 

ついひと月前のことですが、必要があって携帯電話をひとつ新規契約しました。

これまで使っているケータイとは別会社だったために、事前にショップへ説明などを聞きに行き、そのとき対応に出た女性はあれこれのプランやサンプル機種を目の前に並べて、明るい調子で、なかなか熱心に説明してくれました。

カタログをもらって一旦帰宅し、それからほどなくして正式契約に再度ショップを訪れました。このときの対応は別の男性スタッフでしたが、この人も明るく一生懸命な様子で、次々に必要となる説明や確認事項などをこちらに示しつつ、何度となく端末をテキパキと操作したり、奥に引っ込んではまた出てきたりと、たかだかケータイとはいえひとつの電話を開設するのは、なんとも骨の折れる手続きだなぁといまさらのように実感しました。

時間も優に1時間はかかるし、スタッフとの関わりもそれなりのものになり、結構なエネルギーを要するというのが正直なところです。すべての手続きが終わって電話器その他を受け取って、店のドアを出るころにはぐったり疲れると同時に、お店の人にも素直にご苦労様という気分になるものです。

どの電話会社も似たようなものでしょうが、だいたいどこかに納得できないようなルールもあって、この時もこれこれのオプションをセットで付けると、数千円かかる事務手続き料が無料になり、さらにそのオプションも一定期間は無料で提供され、必要ない場合は契約から1ヵ月経過すれば解約できるということなので、とりあえずお得ということでもあり、そのサービスに入ることにしました。

その後、ひと月が経ったので、へたをすると忘れてしまい料金が発生する恐れがあるので、覚えているうちにと思って解約手続きをしにショップに出向きました。
店内に入ると前回手続きをしてくれた男性スタッフは接客中で、平日ということもあってか、ほかにスタッフの姿はありません。違和感を感じたのは、まずこの男性、いくら接客中とはいっても、営業中の店舗に来客があれば「いらっしゃいませ」ぐらい言うとか、最低限なんらかの反応をするのは接客業云々以前の自然な礼儀だと思うのですが、広くもない店内に人が入ってきて、わずか2m足らずの場所に突っ立っているのに、それをまさか気がつかないとは言わせません。しかし、こちらには頑として一瞥もくれずに目の前のお客さんとのみ会話が続き、こちらは延々とその場に立ちつくすだけでした。

こういうことは、最近よくあることで、気づかないということが通用しない状況でも、あくまで気づかない態度をとって他のお客さんを無視するというやり方が横行しているように思います。マニュアルにないことは一切したくないのでしょうし、建前を悪用して嫌な人の本心を見るようで、人としての基本的な気配りというものが欠落しているわけです。

どうしようもないのでついにこちらから、ほかに誰もいないのかと尋ねると、それでようやくこちらを見て席を立ち、奥に人を呼びに行きました。それでやっと出てきたのが、一番はじめに説明をしてくれた女性でしたが、無料サービスを外す手続きを依頼すると、この女性も前回の熱心な店員の態度とは打って変わって、笑顔のひとつもないまま淡々とパソコンの端末を忙しげに操作しはじめます。
さらには、それにまつわる確認事項をことさら事務的な調子で説明し、このときもそれなりの時間がかかりましたが、なんだかとてもやりきれない気分になりました。

べつにケータイのショップの店員に何かを期待しているわけではないけれど、すでに会話をしたことのある人間と再度顔を合わせれば、「あ、こんにちは」程度の態度というものがあってしかるべきはずですが、二人とも過去のことはたとえ昨日のことでも終った事として断ち切るのか、こうも冷徹な態度をとるのには驚いてしまいます。

なぜそんなにも別人みたいに態度を変えなくちゃいけないのか、さっぱりわけがわからないし、それだったらはじめから同じ態度で通してもらったほうが、まだ潔くもあり、余計な不快感を味わうこともないと思います。


2013/05/26 Sun. 02:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

125周年記念ガラ 

今年の4月10日、オランダのロイヤル・コンセルトヘボウ125周年記念ガラという催しがあり、この時点では退位間近であったベアトリクス女王と、即位を目前に控えたオラニエ公ご夫妻のご臨席のもと、盛大なコンサートイベントが行われ、その様子がBSのプレミアムシアターで放送されました。

指揮はマリス・ヤンソンス、ロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団で、このガラコンサートはワーグナーの楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲で始まりました。
ところが、これは奇妙なほどあっけらかんとした陰翳のない演奏で、およそワーグナーのようには聞こえませんでした。マロニエ君の好みとしては、ワーグナーはもう少し不健康で壮大、そして陶酔的な響きがなくてはそれらしく聞こえないように思いました。

打って変わってトマス・ハンプソン(バリトン)の独唱によるマーラーのさすらう若者の歌などの3曲は、まったく素晴らしいもので、表現力、力強さ、安定感など、どれをとっても立派でした。聴き手が安心して音楽に身を委ねることのできる現代では数少ない音楽家というべきで、作品世界への引き込みが際立っており、大変満足でした。

ああ、なんでこんな場所にまで、この人は必ず出てくるのだろう…と思うのがラン・ランで、朝起きたそのまんまみたいなヘアースタイルで意気揚々と登場し、プロコフィエフのピアノ協奏曲第3番の第3楽章をいちおう演奏。いつもながらの曲芸風で、しかも線の細い響きと、解釈というものが不在のような演奏ですが、彼にはそれは「小さなこと」なのかもしれず、終始「どうだい!」といわんばかりの自信満々なエンターテイナーぶり。スターとしての自分の存在やふるまいを重視して、それでお客さんを喜ばせるというスタンスなんでしょう。ピアニストとしてみるから違和感がありますが、芸人として見れば立派なのかもしれません。

ここ最近、ますます顕著になってきたラン・ランの特徴としては、ちょっとでも空いている左手などを、まるでベテラン・マジシャンの手つきのようにくるくると踊らせて、いかにも演奏に没入している証のように振る舞うなど「見せるピアニスト」としての要素をますます強化しているように感じました。
ほかにも以前からやっていることでは、結構難しいパッセージなどを弾く際など、「ボクにはこんなことなんてことないよ」と言わんばかりに、顔はあえて会場の遠くあたりを見つめるなど、余裕があるから必死になる必要もなくて、つい他のことを考えちゃった、みたいなパフォーマンスで、こんなことを女王の前でも臆せずやってしまう図太さは大したものとしか言いようがありません。

続くチャイコフスキーの弦楽セレナードから「エレジー」では、祝祭アンサンブルと称してウィーンフィル、ベルリンフィル、ミュンヘンフィル、アムステルダムからの団員が集まって演奏しましたが、これはロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団の出す音とはまったく違う、腹の据わったふくよかな響きだったのは、同じ会場でこんなにも違うものかと驚きでした。
その点ではロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団は伝統あるオーケストラではありますが、いささかギスギスした音が気になります。

続くサンサーンスの序奏とロンド・カプリツィオーソではジャニーヌ・ヤンセンという若い女性ヴァイオリニストが登場してきましたが、演奏はやたら気負い立つばかりで粗さがあり、生命感あふれる演奏も魅力は半減というところでした。演奏に熱気というものは必要ですが、そこには品位と必然性が無くては本当の音楽の息吹は伝わらず、マロニエ君の好みではありませんでした。
ソリストとしてラン・ランとはちょうど良いバランスだと感じたところ。

この日のホスト役で、カーテンコールで何度も往き来しては笑顔をふりまくヤンソンスですが、意外にも小柄で、その笑顔の中に覗く白い歯の具合などが誰かに似ていると思ったら、麻生太郎氏にそっくりなのにはびっくりして思わず笑ってしまいました。

2013/05/23 Thu. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

オープンカー 

このところすっかり初夏のような陽気となり、ときに汗ばむほどに気温が上がることも珍しくありません。梅雨に入ればじめじめと鬱陶しい期間がひと月以上は続き、そのあとは間をおかずに本格的な夏が待ち構えていますから、今が穏やかな季節の最後ということになるのでしょうか。
そうはいっても、春先からこの時期にかけては気温などの変化が日替わりのように激しく、必ずしも体調に優しい時期ではないので、実際は過ごしにくい時期とも見るべきですが…。

それはともかく、梅雨や本格的な夏前にして、この時期を寸暇を惜しむように楽しんでいる人達のひとつがオープンカーのオーナー達だろうと思います。

マロニエ君の私見ですが、もともとオープンカーは欧米の文化や気候的な土壌でこそ真価を発揮するクルマで、日本のように四季の変化に富む多湿な土地柄では、年間を通じて屋根を開けて走ることのできる時期はごくわずかで、とても真価を発揮できるとは思えません。
そういう意味でも、春秋の一時期は、オープンエア・モータリングを求める人達にとっては待ちかねた儚くも短い季節ということになるようで、このところもオープン状態で走っている車(大半が輸入車)をたまに目にします。

しかし、マロニエ君はいつも見るたびに、基本的にオープンカーというものは日本人という民族には向いていないと昔から思わずにいられませんでしたし、それは今でも変わりません。
日本人の持つ内向性、開放感の求め方、地味な顔かたち、周りの景観など、すべてのものがオープンカーが本来棲息すべき享楽の環境とは乖離しているようで、要はサマになっている乗り方ができているシーンを見たことはほとんどなく、どれも車に呑まれているようにしか見えないのです。

もう少し踏み込んで云うならば、オープンカーは乗り手の顔かたちまでがボディの一部となるわけで、とくに贅を尽くした高級車のオープンカーともなると、そこに日本人の肩から上が車外に露出しているのは、なんとも収まりが悪いと感じずにはいられません。

さらには乗っている人の様子が申し訳ないけれども苦笑させられてしまいます。マロニエ君も日本人なので気持ちはよくわかるのですが、いわゆる日本人のメンタリティや生活習慣と、オープンカーの屋根を開けて街中を自然に走らせるという感覚とは、根底のところで決定的にそぐわないものがあり、まさにミスマッチのシーンがそこに現出しているようにマロニエ君の目には映ってしまいます。

大半のオーナーは、屋根をオープンにすることで、外部に自分の身を晒しながら車を走らせるという行為に心底からリラックスしておらず、みな一様にどこか緊張を伴っているのが痛いほど伝わります。見られているということに快感と恥ずかしさがない交ぜになり、誰よりハンドルを握る当人こそが意識しまくってカチカチになり、全身に力が入っているようで、あれで本当に爽快なんだろうかと思います。
これは贅沢で爽快で、それができる自分は特別なんだと自分に言い聞かせて、本当は気骨の折れる行為をごまかしているようにも見えて仕方ありません。

とくに高級車になればなるだけ、乗っている方は意識過剰になり、せっかく高価なオープンカーを買い、いままさに屋根を開けて乗っているのに、無邪気に風と戯れることができず、キャップを被ったりサングラスをしたり取って付けたような肘つき運転をするなど、やはり根底にはわずかでも自分の恥ずかしさを隠そうとしているようにも見えます。

とくに多いのが、信号停車時などもほとんど体も動かさず、表情はことさら不機嫌そうな顔をしている人がよくあって、これなども優越感と自意識過剰のあらわれのように見えてしまいます。
そうでもしないと神経的にやってられないプレッシャーもあるようで、そんな労苦を押してでも、オープンカーの持つ華やかさの世界の住人であることを意識して楽しみ、快感を得ようという欲望と戦っているようです。たぶんガレージに帰って屋根を閉め、車から降りたとき、本当に心底楽しかったと言えるのかどうか、本人も実際はよくわかっていないのかもしれません。

かくいうマロニエ君も、ずいぶん前に、その設計思想とスタイリングに惚れ込んで当時話題のオープンカーを所有したことがありましたが、いやはや、とてもじゃありませんが昼日中の街中で「屋根を開けて走る」なんて勇気はどだい持ち合わせておらず、せいぜいクルマ好き同士が集まるミーティングのときにリクエストされて短時間だけ開けてみるとか、深夜にちょっとだけ試しに…といったぐらいなもので、99%は屋根を閉じたままでしか乗りませんでした。

そんな使い方が長続きするはずもなく、だいいちそれでは持っている意味もないので、けっきょく短い期間で手放してしまいました。それもあってか、いまだにオープンカーを全開にして乗っている人を見ると「お疲れさま」という言葉がわいてしまいます。

2013/05/21 Tue. 02:09 | trackback: 0 | comment: 0edit

ファツィオリ雑感 

前回書いた、昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラで使われたピアノは、ピアニストがトリフォノフということもあってか、ファツィオリのF278がステージに据えられていました。
これまでの印象では、この若いピアニストとイタリアの若いピアノメーカーはずいぶんとWin-Winの関係にあるようですから、それも当然のことだったのかもしれません。

なにぶん演奏が演奏だったおかげで、正直いってピアノどころではなく、もうどうでもいいような気もしましたが、ついでなので少しだけ。

音や響きの印象は以前と変わりませんので省略して、視覚的な印象です。
サイドに書かれたFAZIOLIの文字は、一般的な真鍮の金文字だとステージの照明や反射の具合で見えづらくなることがあるための対策なのか、常にくっきり目立つ白文字となっており、しかも遠目にも判読できやすくするためか、少し肉厚に書かれているのはビジュアルとしてあまりいいとは思えません。

もともとファツィオリのロゴは、デザインの美しさと個性が両立した素晴らしいもので、この点では、新興メーカーとしては出色の出来だと思っていますが、しかしそれはあの繊細でスリムなラインの微妙なバランスがあってのこと。これを少しでも肉厚(しかも白!)にすれば、あの雰囲気はたちまち損なわれるとマロニエ君は感じるわけです(少なくともピアノに彫りこむ文字としては)。

さらにはピアノの左サイド(客席側は右サイド)にまでこの白い肉厚ロゴを入れるのはちょっとくどすぎるし、あまりにも宣伝効果ばかりが表に出てしまい、却って好感度を削ぐような気がします。
この点はヤマハも同様ですが。

三方向にまでメーカー名を入れて、なにがなんでもその名をアピールしたいのなら、いっそ後ろのお尻部分にもタトゥのようにロゴマークを入れて、この際全方位対応にすればどうかと思います。

また細かい点では、ピアノソロの場合、多くは譜面台は外したスタイルで、その譜面台を差し込むためのボディ側のガイド部分が丸見えになりますが、これがいかにも安物っぽいただの金属棒(ファツィオリお得意の純金メッキなどが施されているのかも知れませんが)になっているのは、まるでアジア製の大量生産ピアノみたいでした。
ファツィオリは生産も少数で価格も最高級、何から何まで贅沢ずくめのセレブピアノを標榜し、それに沿った巧みな宣伝にも努めているメーカーのようですが、これはちょっとイメージにそぐわないというか、案外つまらないところで割り切った造り方をするんだなあと思いました。

それにしても、舞台上手(つまりピアノの後方から)のカメラアングルで驚くのは、そのお尻部分の大きさ幅広さで、これは圧巻です。女性で云うなら安産型体型とでもいうべきで、ボディからなにから、徹底して華奢なスリム体型を貫くスタインウェイとは対照的な豊満なプロポーションだと痛感させられます。
たぶん、ファツィオリは響板面積も他社よりかなり広く取る設計なのかもしれません。

使われていた椅子は、見慣れたポールジャンセンでも、バルツでも、ランザーニでもないもので、確認はできていませんが、おそらくはスペインのイドラウ社のコンサートベンチだろうと思います。
ずいぶん肉厚の大ぶりなベンチで、個人的にはあまり好ましくは思いませんでしたが、ファツィオリのむちむちした雰囲気とプロポーションには妙に合っていたと思います。

2013/05/18 Sat. 01:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

ゲーマー? 

演奏家としての道義が感じられない演奏というのは今や珍しくもないので、少々のことなら慣れているつもりですが、ひさびさにそんなものでは処理できない演奏に出逢いました。

BSのクラシック倶楽部で昨年のチャイコフスキーコンクール優勝者ガラというのがあり、ピアノではダニール・トリフォノフがショパンの作品10のエチュード全曲を弾いていました。

あの素晴らしいハ長調の第1番からして、まさに無謀運転のはじまりで、華麗にして精巧なアルベジョの美しい交叉は、ただの粗雑でうるさい上下運動と化し、いきなり度肝を抜かれました。
どの曲も呆れるばかりにぞんざいで、やたら早く指を動かし、高速で弾き飛ばすことだけがエライということしか、この人の感性にはないのでしょう。

まあ、広い世の中にはそんな単純思考のオニイチャンもいるとは思いますが、そんな人があのショパンコンクールで3位となり、続くチャイコフスキーで優勝というのですから、いかにこのところのコンクールの権威が失墜しているとはいえ、ちょっと信じられないというか、この現実をただ時代の波や風潮として受け容れることはマロニエ君にはなかなか困難です。

あれではまずショパンに対してというだけでなく、栄冠を与えてくれたコンクールに対しても、コンサートのチケットを買って聴きに来てくれた聴衆に対しても、さらにはファツィオリのピアノやその様子を収録して放送しているNHKに対しても、礼を失しているのではと思ってしまいました。

中でも最も驚いたのは最後の「革命」で、ただもうめちゃくちゃなロックのステージか、はたまた格闘技でも見ているようで、それを生で聴かされている会場のお客さんの気持ちを思うといたたまれない気分になりました。

その演奏は強引な自己顕示欲の塊で、技巧的な曲では自分の能力をはるか超えたスピードで飛ばしまくり、当然コントロールはできていないし、それで音が抜けようが破綻しようが知ったことではないという様子です。またスローな曲では執拗にネチョネチョした気持ち悪さで、身体のあちこちが痒くなってくるようで、ともかくこの人の音楽的趣味の悪さといったらありません。

ふつう若くして世に出たピアニストには神童といわれる人が多く、彼らはその技巧もさることながら、若さに不釣り合いなほどの老成した音楽性と抜きん出た個性を持っているものですが、トリフォノフはその点ではただの幼稚で凡庸な子供というべきで、むしろ実年齢よりも遙か幼い感じにしか見えません。

ピアノを弾いている姿も、終始背中を丸めて汗だくで遊びに熱中している小学生のようで、最後に弾いた自分の編曲によるJ.シュトラウスの『こうもり』の主題による変奏曲などは、まるでテレビゲームの難易度の高い技を競い合う子供が、嬉々として技のための技を繰り広げて悦に入っている痴呆的な姿のようにしか見えませんでした。

マロニエ君はファツィオリのF278とF308が比較して聴けるという理由とはいえ、たとえ一枚でもこの人のCDを購入して持っているということさえ恥ずかしくなりました。
こんな人がコンサートピアニストとしてやっていけるのだとすれば、今のピアニスト稼業は、ある一面においてはずいぶん甘いんだなぁと思います。

夜中にもかかわらず、口直しならぬ耳直しをしないではいられなくなり、自室に戻るや、とりあえず目についたものの中から関本昌平氏のショパンコンクールライブCDを流してみましたが、なんというまともで立派な演奏かと感銘を新たにしましたし、こういう演奏をする人もいることにとりあえず安堵しました。


2013/05/16 Thu. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

蛮行CM 

北米在住の方がおもしろいCM映像を紹介してくださいました。
正確に云うと、おもしろいというよりもおぞましいと云うべきかもしれませんが、GMのキャデラックの開発にどういうわけか使用されたというグランドピアノの破壊シーンです。

いかにアメリカが物質社会・消費社会とは云っても、こういう文化意志の欠落したCMを作るという感性そのものが驚きですし、しかもそれがアメリカで最高の高級車であるキャデラックのCMというのですから、まったく開いた口がふさがりませんでした。
キャデラックのユーザーは、開発や宣伝ためにピアノを破壊しても何も感じない、傲慢な人種だと示しているようなものです。

https://www.youtube.com/watch?v=rwLMOB6s2ps&seo=goo_%7C_Cadillac-Awareness-YouTube_%7C_YT-LUX-ATS-PIANO-DUMMY-TVST_%7C_Dummy_%7C_

こんなものが一般消費者にとって何の役に立つのか、あるいはどういう意味があるのか、さっぱりわかりませんし、彼らは人々が愛でて大切にするものを敢えて踏みにじり破壊することに、一種の快楽と嘲笑的なよろこびをもっているようにさえ感じます。

以前、ふとした偶然からみつけたのですが、アメリカにはいろいろなジャンルの高級品を破壊しまくって楽しむという悪趣味極まりないクラブがあって、その中にはピアノも含まれており、なんとスタインウェイのグランドピアノを鉄の大きなハンマーを手にした数人の会員(?)によってめちゃくちゃに壊すというのがあってさすがに気分が悪くなりました。原型をとどめないまでに無惨に破壊されたピアノの残骸の前で、ヤッタゼ!といった様子で悦に入っている様子には、なんという悪趣味な思い上がった民族かと思いました。

イラク戦争の折にも、イラク人の捕虜に対して宗教上人前で肌をさらすことを戒める彼らを、敢えて全裸にし、まことに破廉恥な行為を集団で強要し、挙げ句に勝ち誇ったようにその前で写真まで撮っていたのは記憶に深く刻まれる出来事でした。

ほかにもピアノでは、Youtubeの投稿映像でアメリカの若者が、家から運び出したピアノをピックアップの荷台に乗せ、それに縄をかけ、ある程度の速度に達したところで一気にピアノを地面に落とし、ロープで引きずられながらピアノはまたたく間にバラバラに崩壊してしまいますが、その様子に若者達は熱狂的な雄叫びをあげ、爆笑を繰り返すというものでした。
まさに西部劇に見る悪党の残忍な仕業そのものです。

アメリカだけではなく、山下洋輔氏も若気の至りだったのかどうかは知りませんが、恥ずべき過去の行為があることはご存じの方も多いと思います。
海辺にグランドピアノを置き、それに灯油か石油かをぶちまけて火をかけて、燃えさかるグランドピアノを山下氏がガンガン弾きまくるという、音楽家として最低のパフォーマンスでした。

ネット動画で探せば、現在でも見ることは可能なはずです。
私はもともと彼のことはあまり興味もなく、好きでも嫌いでもありませんでしたが、それを見てからというもの、いまだにこの蛮行が頭に焼き付いていて彼のことは好きになれません。

マロニエ君は、なにも「ピアノ愛護団体」のようなことを言い立てるつもりは毛頭ありません。
ただ、実用品とは一線を画すべき楽器を粗末にし、ときに破壊さえするという行為は、個人的には食べ物を粗末にする以上にその人の人格や教養を疑われる恥ずかしい行為だと思いますし、理屈でなく体質的感覚的に不快感を覚えてしまいます。

とりわけミュージシャンと名の付く人がそれをするのは許しがたいものがあり、外国のロックグループにもステージ上のピアノに火をつけて、その炎の周りで狂人のように歌い踊るシーンを見た記憶がありますが、なにをどう説明されようともマロニエ君にはその手の行為は受け容れることはできません。

それをGM(ゼネラルモータース:アメリカ最大の自動車会社)がCMとして堂々と広告媒体に載せるのですから、宣伝のためならペットでも虐待するのかと思います。

2013/05/14 Tue. 02:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

ネット通販のリスク 

連休前のこと、仕事上での必要があり、木製のテーブルを購入しました。

限られた予算の中では、いくつか覗いた店舗にはこれといって該当するものがなく、ネットで探したところ、ちょうど良いものが見つかりました。同じ製品を数社の通販業者が取り扱っているようで、店によって価格も少しずつ異なり、送料を含めるとそれぞれかなり条件が異なります。

どうせ同じものを買うわけですから、数店を比較して、販売価格+送料の合計金額の安いところから購入することにして、パソコン画面から購入手続きをおこないました。

この店のホームページによれば、営業日のある時間までに注文確認が取れしだい「即日発送」と自慢げに謳われており、それを裏付けるように、店休日を色表示したカレンダーまで二ヶ月ぶんが表示されています。
さらには配達希望日を指定することもでき、その会社は中国地方の都市にあるので、経験上、福岡ならまず一日で届くのでじゅうぶん余裕を持って日にち指定をして注文を確定させました。

それから数日後、配達希望日当日となりましたが、一向に荷物が届く様子もなく、なんの音沙汰もないまま日が暮れて、翌日から長いゴールデンウイークに突入しました。
在庫の関係などで発送が遅れることはあるにしても、画面上では「在庫あり」となっていたし、それならそれでなんらかの連絡があってもよさそうなものだと、この時になって思いました。

そういえば、注文時に先方より自動的に送られてくるメール以外には、発送が遅れる、もしくは希望日の配達はできないなどの連絡は一切無いままで、なんだか不安がよぎり、つい安さを優先したことが失敗だったかと思いましたが、ともかく大型連休に入ったので、この間じたばたしても仕方がないと腹を括りました。

連休明けは、配達希望日から実に10日も経過していますが、その間もついに商品が届くことはなく、7日に電話をかけてみましたが、これがなかなか出ない。このころになると、かなり嫌な予感がしていて、時間を置いて何度もかけていると、午後の2時近くになってようやく女性が電話に出ました。
事情を話すと、とくに恐縮した様子もないまま淡々と「注文番号をお知らせください」といって、調べてメールで連絡するというので、ここでメールではなく電話連絡を強く希望。

すると一時間ほどして電話があり、「注文は間違いなく確認できましたので明日発送いたします」と平然と言うので、なにひとつ連絡もないままで、即日発送とは程遠いではないかという主旨のことを云いましたが、ただ機械的に「申し訳ございません!」と、ぜんぜん申し訳なく思っていない感じで云うだけです。

その2日後、ほとんど2週間遅れで商品が届きましたが、やれやれと思いながら開梱してみると、なんとテーブルの縁に大きなキズと、その衝撃に伴う凹みが二ヶ所もあって愕然!
すぐにまた電話したものの、また出ない。

今度はこちらも意地になってかけ続けると、やはり前回と同じような時間になってようやく同じ女性が電話をとりました。どうやらこの事務所にはこの女性ひとりしかいないようで、しかも午後にならないとやってこないようです。すぐに状況を伝えると、また前回と同じ調子で「申し訳ございません」といって、代わりを発送するのが最短で月曜になるといい、これは4日先の話で、とにかく即日発送どころではありません。

さらには、その女性、こうつけ加えてきました。
「その部分の写真を送っていただくことはできますか?」ときた。
はあ!?なんでこれほど不愉快な思いをさせられた上にそんな面倒臭いことまでしなくちゃいけないの?と思いその点を問い質しましたが「商品はお届けとの同時交換となり、こちらからはキズの確認ができませんので、写メールで結構ですから確認が必要になります」といって、暗に自分の指示に従わなければ交換品も送れませんよ脅されているニュアンスに聞こえました。

こういう一方的な理屈はまったく納得できませんが、もうこの頃になるとマロニエ君としては、相手のことをまったく信用しておらず、ろくでもない業者だと感じており、でもしかしカード決済はしているし、下手をすればそのまま放置されるという危険性も感じ、ともかくもちゃんとしたものを送らせるまではひたすら忍耐だという自分なりの計算が働きました。

そして、やっと届いたばかりのテーブルのキズを、甚だ不愉快な気分の中で撮影し、先方のアドレスを携帯で一文字ずつ入力して、コンニャロ!という感じに送信ボタンを押しました。
さて来週、無事に代替品が届くかどうかというところですが、やはりこういう目に遭うと、相手の見えないネット通販はリスクがあるという当たり前のことを身をもって感じた次第で、みなさんもじゅうぶんお気を付けくださいね。


2013/05/11 Sat. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

買い物カート 

日常生活の中には、あらためて言葉にすれば大したこともなくても、どうしようもなく嫌なことというのがあるものです。

こういうものは日常茶飯で、しかもその数はひとつやふたつではありませんが、特段の重要事項でもないために、すぐに忘れてしまうのが特徴です。

たとえばマロニエ君がすぐ思い出すのは、スーパーなどにあるカートの不具合があります。日常的に繰り返される酷使のせいで、下部に取りつけられたゴムのキャスターにガタや不揃いが出て、動きに変なクセがついてしまい、ついには利用者の思い通りにはまったく動かなくなってしまっているのがありますが、あれがとても苦手です。

とくに真っ直ぐ進みたいときに、この手のカートがまるで自分の意志でもあるかのように左右いずれかへ猛烈にステアしようとして、利用者は思いがけないカートの反抗に遭い、買い物中は終始この身勝手な動きと格闘し続けなくてはなりません。
多くの人がそうだと思いますが、曲がることが苦手なことよりも、シンプルな直進が思い通りにならず勝手に左右に行こうとするのを絶えず修正しながら前進するというのは、神経を逆撫でされるようで、しだいに腹立たしくなってくるのです。

クルマでも曲がりのハンドリングが痛快なことは重要ですが、まずは安定した直進性が確保されていないことには、ほとんど意味を成しません。

このじゃじゃ馬のようなカートに当たったが最後、不愉快で慣れるということはなく、イライラは募り、少しでも早く買い物を済ませて店を出たくなるもので、勢い余計な買い物もしなくなります。
ごく稀に新しいカートに入れ換えられたり、あるいは一部追加されたりすることがありますが、やはり新しいものは心地よく、スムーズで難なく使用者の思い通りに動いてくれるので、お店の印象まで無意識のうちに変えてしまうようです。

かくてマロニエ君はカート選びはできるだけ慎重にするように心がけていて、2〜3m動かしてダメだと感じたら引き返して別のカートに交換ということもします。それでも、どれもこれもがなかなか思い通りにならない場合があり、どうしようもないときは、カートと格闘するのが嫌なので、最後は押すのではなく、引っぱるように使います。

人によってはいかにもくだらないことのように思われるかもしれませんが、こういうことは気になる人にとってはかなりのストレスになるので、マロニエ君は決して軽視しないようにしています。

それでも所詮はスーパーの買い物時間中ぐらいだから事は重要でないまま終わりますが、これがもし、毎日数時間使わなくてはいけない道具だとしたら、きっと多くの人の神経にはかなり深刻な悪影響があるに違いないと思います。

経費節減がなにより優先される折、なかなかこれが刷新されることはありませんが、できることなら定期的に入れ換えて欲しいものです。
たかがカート、されどカート、素直じゃなきゃいけません。

2013/05/09 Thu. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

上原彩子 

今年の3月にサントリーホールで行われた上原彩子さんのピアノリサイタルから、ラフマニノフの前奏曲op.32とリラの花、クライスラー=ラフマニノフ編曲の愛の喜びがBSで放送されました。

このリサイタルは、オール・ラフマニノフという精力的な取り組みだったようです。

上原さんはチャイコフスキーコンクールに優勝したときから、さまざまな噂や憶測が飛び交い、日本人による同コンクールの優勝は史上初ではあったものの、世界的コンクールの優勝者の扱いはあまり受けられなかったような印象があります。そういう事は抜きにしても、マロニエ君はテレビなどで断片的に垣間見るこの人の演奏には、まったく興味が持てず、まさに関心の外といった存在でした。

最近で云うと、ヤマハホールのオープンに伴うコンサートでは、風水の金運ではないのでしょうが全身真っ黄色のドレスを纏い、真新しいホールで最新のCFXを弾いていましたが、そんなお祝いイベントとは思えないネチネチと愚痴るばかりのようなショパンで、ちょっといただけない感じを受け、このときもまともに最後まで聴くには至りませんでした。

ところが、今回のサントリーではプログラムのせいかどうかは自分でもわかりませんが、なぜかちょっと聴いてみる気になったのです。結果から云うと、マロニエ君の好みの演奏ではないにしても、この人なりの良さや持ち味のようなものが少しわかった気がして、そのぶん見直してしまいました。

ラフマニノフが上原さんに合っていたのかもしれませんが、まず今どきの演奏にありがちな薄っぺらい表面的な感じがなく、よほど丹念に準備をされたのか、そこには深いところから滲み出るものがあり、これはこれで説得力のある収まりのついた演奏だと思いました。
見るところ、椅子はかなり高めで、ピアニストとしては小柄な方のようですが、それに反して出てくる音はなかなか堂に入ったもので、最近では珍しいぐらいピアノをよく鳴らし、プロの音色が聴かれたのはまずそれだけでも評価に値するものでした。

上原さん固有の特色としては、音楽に対するスタンスに一種独特な暗さと厳しさが支配しているように思います。今どきのピアニストには珍しい、滾々と湧き出るような深い悲しみと孤独感が立ちこめて、それが少なくともラフマニノフでは、この亡命作曲家の深い哀愁にも重なり、独特な効果となっていたように感じました。
クライスラー原曲の『愛の喜び』でさえ、ほとんど悲しみの音楽のようでした。

音楽に限らず、よろず芸術に携わる者は、自分が幸せいっぱいでは人間的真実の本物の表現者とはなり得ない場合が多いのは紛れもない事実で、あくまでマロニエ君が感じたことですが、この人の心には何かがわだかまっていて、それが演奏上のプラスにもマイナスにもなっているように思いました。

音色の面で感心したのは、音が繊細かつ大胆で潤いがあり、フォルテでも決して音ががさつにならず、常に安定した輝きと重みをもっていることや、各声部の音の強弱のバランス感覚は非常に優れたものがあると思いました。少なくともあの小柄な体つきからは想像も出来ない充実した厚みのあるサウンドが、きっちりコントロールされながら広がり出るのは立派です。

アーティキュレーションも細緻で、東洋人特有の非常に行き届いた配慮のある点はこの人の美点だと思いますが、惜しむらく弾むような色合いやスピード感という点ではあまり期待ができないようで、言い換えるなら作品の喜怒哀楽すべてを自在に表現できるプレーヤーではないように思いました。
したがって自分に合った作品を選ぶことは、上原さんにとっては非常に重要なファクターだと思います。

この日のピアノはまったく素晴らしい朗々と鳴るスタインウェイで、とりあえず文句なしという感じでした。聴くところによると上原さんのご主人は松尾楽器のピアノテクニシャンなのだそうで、もしかしたら、その方の手になる渾身の調整だったのかもしれませんが、これはあくまでマロニエ君の想像であって事実確認はできていません。
いずれにしろ、美しい響きのピアノでした。


2013/05/07 Tue. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

DVDプレーヤー 

久々にオーディオの話になりますが、手作りスピーカーは、音のチューニングをやっているとキリがないということがわかり、同時に自分の経験や知識にも限界を感じて一応の区切りをつけています。

ところで、CDプレーヤーについてですが、最近はめっきりその数が少なくなり、一部のメーカーを除くと、昔のように適当な値段でこれを買うことが難しくなっているようです。
僅かに残っているのは、オーディオマニア向けの高級機などで、それは金額的にもケタが違います。

そんなときに思いついたのが、タイムドメインのYoshii9にまつわる話として聞いたもので、中途半端なCDプレーヤーなどは無意味ということで、この会社が推奨しているのが品質の良いポータブルのCDプレーヤーですが、それも最近は絶滅寸前で、電気店などをくまなく見てまわっても大半が名もなき中国製などしかありません。

そんな傍らで、一定の売り場面積を占めているのがいわゆるDVDプレーヤーで、いまやブルーレイレコーダーでもかなり安くなっている中で、再生だけを目的とするDVDプレーヤーなどは数千円のレベルでごろごろしています。

ここも中国ブランドらしきものが少なくはないのですが、日本のメーカーの製品も一応あることはあって、生産国は中国かもしれませんが、一定の品質管理はされていそうで、辛うじて一応の信頼性はある気がします。
そんなDVDプレーヤーを見ていると、なんと普通のCD-Rなども音声再生可能とあり、店員さんに聞いてみると、普通の音楽CDでも使えるということがわかりました。

なんとなくひらめくものがあり、値段もポータブルCDプレーヤーとそう大差ない金額なので、これを買ってみました。

もはや我が家では常用するに至っている中国製デジタルアンプに繋いで音を出してみたところ、果たしてこれが望外のクリアな音であることにびっくりさせられました。本格的なオーディオ装置を広い部屋で鳴らすときはわかりませんが、私室で適当な音量で聴くぶんには、少なくともマロニエ君の耳にはなんの不満もない美しい音が溢れ出して、非常に満足しています。

同時に、高級機以外のCDプレーヤーなどが姿を消してしまう背景が一気に理解できるようでした。これだけの音声の性能が、安いDVDプレーヤーのオマケ程度についているのですから、なにも図体の大きい単一機能のCDプレーヤーなどを買う必要もないし、だから売れない作らないという構図になることを悟りました。

現代人はiPodなどを常用し、家でもパソコンに繋いだ小型スピーカーなどで、音楽だけに留まらない、いろいろな音声を聞いて楽しみ、もはや音楽ひとつに熱中するということもないのでしょう。

ともかく、安いDVDプレーヤーからこれだけの高いクオリティの音があっけなく出るというのは嬉しいことのようでもありますが、どこかわりきれない、腑に落ちないものも感じてしまいます。それでも毎日使っているのですから、人間は勝手なものです。

ちなみにマロニエ君が買ったのはパイオニアのDVDプレーヤーで、価格はわずか4000円ほどのものでしたから、作り自体はちゃちですが、おそらく昔なら何万もするような性能に違いありません。
ネットなどの評価を見ると、この手のDVDプレーヤーの音質に関しては見下したようなコメントをしている人もいなくはないものの、それはよほどのオーディオ通か専門的な厳しい耳を持った一握りの人で、大半の人は大満足する筈だと思います。
少なくとも価格を分母にして判断すれば、これで文句を言ったら罰が当たるような素晴らしい音です。

2013/05/05 Sun. 02:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

何かが欠落 

この頃の若い人の運転ときたら、本当にまずいんじゃないかと思います。
とくに甚だしいほうの大半は男子。

過去にも書いたことがあるので、ああまたか!と思われそうですが、昨日も心底呆れるような車に立て続けに2台も遭遇し、お陰でこっちがいわれなきストレスをかかえるハメになりました。

そのひとつ。
夜、たまたま人を迎えに行くことになり、すでに相手には「これから行く」という連絡をしていたのですが、家を出てほどなくしてやや大きな通りに出ると、運悪く、あきらかに動きのおかしい車がノロノロ前を走っていました。

夜でもあり、昼間以上に安全運転が求められるのは当然ですが、そういう範囲のものではなく、この手の車は見るからに周囲から浮いており、いくら速度が遅くても、独特の危険なオーラがあふれています。
スピードのみならず、ひとつひとつの反応が異様に鈍く、車線をキチンとキープして走ることさえおぼつかない様子。

その証拠に、ふつう信号のない交差点などは少し減速して注意しながら通過するはずですが、そういう気配もなく平然と同じ速度で突っ切って行くし、そうかと思うと、たまたま自転車などが左脇を走っていると、たちまち自転車と同じ速度になり、右側は対向車もまばらで充分かわしていけるのに、まったくそういう意志がないようでトロトロと自転車の斜め後ろを走り続けるのですから、後続車はたまったものではありません。

そのうち自転車が左折しましたが、今度は元の速度(大した速度じゃないですが)に復帰するのもなかなかできずに、しばらくは超低速で平然と走ったりする有り様です。
本当なら一気に抜き去ってやりたいところですが、片側一車線の道路なので、やはりそこまでするわけにもいかず、とにかくイライラしながらこの車の後ろを追尾するしかありません。

そのうち前方の交差点が赤信号となり、ただ単に停車中の車の後ろについて止まるにも、考えられないほど手前から異様に減速し、しかも前車とは理解できないほど間隔を置いて止まってしまいます。
しかし、交差点内には右折車線があって、マロニエ君はここを右折するので、いよいよこの車ともおさらばのチャンスと思っていると、信号が青になり先頭から数台の車が動き出すと、なんと、その車も「いまごろ!」というタイミングで右にウインカーを出して年寄りのような足取りで右に寄り、あくまでもマロニエ君の前方を塞いでくるのですから、もうこの頃にはいいかげん血圧が上がっていたかもしれません。

こんな動きの車ですから、当然というのも妙ですが、右折ひとつするにも相当の時間がかかります。直進してくる対向車線も夜なのでそう多くはなく、じゅうぶん曲がれるタイミングは何度もありましたが、もちろんこいつはそんな気の利いた曲がり方はできるはずもなく、信号が再び赤になり、右折用の青信号が出るまで微動だにしませんでした。

ついに右折用→の信号が青になりましたが、思った通り、それから車が動き出すまでにも、一呼吸も二呼吸もおいてから、ようやくじんわりと車が右に曲がりはじめます。
右折した後の道は片側2車線なので、こちらは左車線に入って一気に抜き去ってやろうと思いますが、その前にどんな奴が運転しているのか、ついつい顔を見たくなるものです。

追い抜きざまに、ちょっと併走して右を見ると、髪の毛はピンピン立てたようなかなり若い男性がひとり、携帯をいじるでもなく前を真剣に見て運転しています。昔はこういう状況にひどく驚きもしましたが、最近は「ああ、やっぱり」という感じしかなくなりました。ですが、こういう車にしばしば遭遇すること自体、非常に憂慮すべきことのように思います。

事は単に運転がめちゃめちゃ下手だということに留まらず、もっと根本的で深刻な問題のような気がします。物事に対する基礎力や感性・感情の低下というか、運転という流動性の高い行為にあっても、まわりの状況を逐一察知して反応することが出来ない、いうなれば、これまで普通だった適応力とか反射神経みたいなものが恐ろしいまでに退化しているとしか思えません。

運転も本当の安全運転なら結構なことですが、マロニエ君の観るところ、ただ交通状況や周囲の流れなどを読んで協調する能力が欠落しているようにしか見えません。スピードを出すことは、良い悪いの問題以前として、たぶん技術的にできないのだと思います。
これが運転だけのことで、車から降りればメリハリのある聡明な人かもなんてとても考えられません。あの調子では、きっと充実した仕事も恋愛も出来ないだろうし、テンポのいい会話や相手に対する気配りなどもできるわけがないと思います。


2013/05/02 Thu. 02:06 | trackback: 0 | comment: 0edit