FC2ブログ

03 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

超お買い得 

マロニエ君がフランスの管弦楽曲を聴く際に以前から好んでいる指揮者&オーケストラのひとつは、ミシェル・プラッソン指揮のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団です。

プラッソンの指揮は流麗で愉悦感に満ち、どんな作品を振らせても明瞭で生命感にあふれているのが特徴でしょうか。フランス的な小味さとメリハリのある表現が心地よく、フランスものにはこれが一番という印象を持っています。

プラッソンの音楽的な資質もさることながら、手兵のトゥールーズ・キャピトール国立管弦楽団とはよほど相性がいいのか、その抜群の息の合い方は特筆に値するもので、まるで少人数で演奏しているような軽快感があり、オーケストラ特有のもってまわったような鈍重さがないのが特徴でしょう。
また、そうでなくてはフランス音楽をそれらしく鳴り響かせることはできないのかもしれません。

作品と演奏の相乗作用で、プラッソンの鳴らす音楽はどの断片を切り取ってもフランスならではの軽やかさと優美に満ちていて、ドイツものやロシア音楽ばかりが続いて、たまに口直しをしたくなったときなどに、プラッソンの指揮するフランスものはもってこいのような気がします。

そんなミシェル・プラッソンですが、EMIには多くの録音があるようで、手許にはその一部しか持っていないために、ある程度を買い揃えたいという思いがあったのですが、この人は重く注目されるタイプの巨匠でもなければ、ベートーヴェンやマーラーやブルックナーを主たるレパートリーとしているわけでもないので、まあ全集が出ることもないだろうと思っていました。

ところが、なんとEMIから、完璧な全集でこそないものの、実に37枚に及ぶBOXセットが発売されて、しかもその内容はベルリオーズ以降のフランスの主要な管弦楽曲をおおかた網羅した内容であるのにびっくりでした。
これはぜひそのうち購入しなければと思い続けていたのですが、マロニエ君には優先的に購入したいCDが常に立て込んでおり、このBOXのことも頭の片隅にはありながら、まだ購入には至っていませんでした。
しかし廉価なBOXセットは、一定の期間内に買っておかないと、なくなればいつまた入手できるかどうかの保証はありません。そうそう猶予はないというわけで、近い将来にはネットから購入ボタンを押すつもりでした。

ところが思いがけないことに、天神のタワレコにいつものごとく立ち寄った際にセール品のワゴンを覗いていると、な、なんと、このプラッソンのBOXがそこにひょいと投下されているではありませんか!
しかも価格は通常の約9500円から、なんと約4300円弱という半額以下のプライスがついています。もともと9500円でも1枚あたり260円弱という、単品で売られていたときの価格に比べたら10分の1ほどですから、それだけでもかなり強烈なバーゲンプライスであるし、さらにはネット購入なら割引条件を満たせば3割ほどは安く買えるのですが、この投げ売りには恐れ入りました。

それを発見したときは思わず声が出そうになりました。
我が目を疑うとはこのことで、一も二もなく、勇み立って購入したのはいうまでもありません。
1枚あたりわずか115円という、ほとんど100円ショップ並のお値段で、これだけの輝くような名演の数々が聴けるのですから、なんたる幸せか!と思うばかりです。

CDはベルリオーズの幻想ではじまりますが、当然これまでに聴いたことのないような作品が随所に溢れかえっており、はやくも5枚目にしてグノーの交響曲という、マロニエ君にとってまったく未知の作品にも接することができました。そのなんともフランス的な柔らかで享楽的な音楽を楽しむにつけ、この先もどんなものが出て来るやら楽しみが増えました。

実は、タワレコのワゴンには、このプラッソンのBOXは2つあったので、残る1セットはたぶんまだあるかもしれません。ご興味のある方はこれほどのお買い物はなかなかないと思います。


スポンサーサイト
2013/04/30 Tue. 01:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

ラルス・フォークト 

リッカルド・シャイー指揮のライプチヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の今年2月の演奏会が放送され、曲目はグリーグのピアノ協奏曲(ピアノはラルス・フォークト)とマーラーの交響曲第5番。

会場も、その名の示す通りこのオーケストラのホームグラウンドであるライプチヒ・ゲヴァントハウスですから、通常の定期公演のようなものだろうかとも思いますが、そのあたりの詳細はよくわかりません。

実を云うとマロニエ君がラルス・フォークトの演奏を聞くのは、映像としても音としても初めてだったので、そういう点でも興味津々ではありました。
というのも、このピアニストの存在はずいぶん前から知ってはいましたが、CDのジャケットなどに見る表情があまり恐くて気分が萎えてしまい、それなりの人かもしれないとは思いつつも、つい躊躇してしまっていたので、今回ついにその演奏に触れることが出来たというわけです。

この超有名曲は、湧き上がるティンパニの連打の頂点に、独奏ピアノのイ短調の鮮烈な和音が閃光のごとく現れて降りてくることで幕を開けるのが一般的ですが、その一連の和音のありかたが一般的なものとはやや異なり、妙に抑えたような、ちょっと違った意味を持たせたようなものであったことに、冒頭小さな違和感を覚えました。

しかし、聴き進むにつれてこの人なりのスタイルと表現の意志力がはっきりしていることがわかり、次第にその音楽に馴染むことができました。ひとことで云うなら柔と剛が適切に使い分けられながら迷いなく前進し、演奏を通じての自己表出より、専ら音楽に奉仕するタイプの演奏であると思いました。
様々なかたちはあっても、結局は自分自分というタイプの演奏家が多い中で、フォークトはまず音楽を第一に置き、作品をよく咀嚼し、慎重さをもって演奏に望んでいるようでした。根底には音楽に対する情熱があるものの、それを恣意的な方法であらわすことはせず、あくまでも抑制が効き、作品に対する畏敬の念が感じられました。

印象的だったのはピアノが表面に出るべきところと、そうではないところをきっちりと区別し、必要時には潔くオーケストラの裏にまわることで、常に作品のバランスを優先させようと努めているのは好感が持てました。
いわゆる英雄タイプの華々しい演奏でアピールするのではなく、協奏曲の中にあっても内的で繊細な表現が随所に見受けられ、聴く者は集中してそれらに耳を澄ませることを要求するタイプの演奏家であったと思います。

それでいて強さや激しさが必要なところでは作品が要求するだけのことが充分できる器があり、まさにテクニックを音楽表現の手段として適材適所に使っているという点は立派です。だからといって個人的には双手をあげて自分の好みというわけでもないのですが、今後は曲目によってはフォークトのCDなども買ってみるかもしれません。

それにしても、なんとなく感じたのは、ドイツの聴衆というのは一種独特なものがあります。
客席にはほとんど空席もなく、座席は整然とむらなく埋まっていて、しかもほとんどがある一定の年齢の大人ばかり。さらには体のサイズまで揃えたような立派な体格の男女が、きちんとした服装で整然とシートに着席しており、それがいつ見ても微動だにしません。笑顔も私語もなく、一同がカッとステージの方を見守っており、肘掛けも使っていないような姿勢の良さはほとんど軍隊のようで不気味でした。

要は音楽に集中しているという事なのかもしれませんが、東洋の島国の甘ちゃんの目には、このえもいわれぬ雰囲気はどうしようもなく恐いような気がします。
要するにドイツ人というのはそういう民族なのかもしれません。

むかし親しいフランス人が言っていましたが、フランス人とドイツ人は基本的歴史的に仲良しではないのだそうで、明確にドイツ人は嫌いだと言っていました。とくに彼らがビールなどを飲んで騒ぐときや外国に出たときのハメの外し方といったら、それはもう限度がないのだそうで、あの聴衆の姿を見ていると、確かにそういう両極両面が背中合わせになっているのかもしれないと思いました。

ヨーロッパでもとりわけ西側のラテン系の人達とはそりが合わないようでしたが、まあそれも理解できる気がします。しかし、彼らが作り出すもの、わけても音楽や機械や医学などあらゆる分野の優れたものは、この先もずっと世界の尊敬を集めることだろうと思います。

そんな中で見ていると、明るくせっせと指揮をするシャイー(イタリア人)は、ひとりだけヘラヘラしたオッサンのように見えてしまいますから、お国柄というのはまったくおもしろいものだと思います。
2013/04/28 Sun. 00:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

『純と愛』 

もう時効だろう…というわけでもないのですが、NHK朝の連続テレビ小説の中でも、3月末で終了した『純と愛』ほどおもしろくないものは過去に無かったように思います。

そもそもこの連続テレビ小説は、昔から話の内容などは説得力のないものばかりで、その点では慣れっこですから、少々のことではこんな風には思いません。

番組作りとしても、半年間、日曜を除く毎日を15分ずつに区切って、一定して視聴者に見せるためには、そう大きな波や偏りがあってはならないでしょうし、できるだけ平坦に、しかも毎回をそれなりにおもしろくすることで「毎日継続して観てもらう」ということが求められるのだと思います。

早い話がテレビ版紙芝居みたいなもので、その内容がどれほど奇想天外で、現実離れしていようとも、あくまでそこはドラマの世界なので、見る側もそれは承知であるし、要は見てそこそこ楽しければそれでじゅうぶんこのシリーズの価値はある筈です。

制作にあたっては、半年間で一作というわけで年間二作、東京と大阪それぞれのNHKによる制作だそうですが、これまでの傾向としては概ね大阪制作のほうが味があっておもしろく、東京のほうがよりNHK的と云うか保守的で、娯楽の要素ではいつも負けているという印象でした。
それもある意味当然で、なんといっても大阪はボケとツッコミを身上とするお笑いの土壌ですから、そりゃあ大阪のほうがおもしろいものを作ることにかけては一枚も二枚も上を行くのは当然だろうと思っていました。

ところが『純と愛』は、その大阪の制作だったのですからちょっと信じられませんでしたし、東京制作にしてはそこそこの出来だった『梅ちゃん先生』からの落差は甚だしいものでした。
まず主人公の純と、その夫である愛(いとし)のいずれも、(マロニエ君には)人物像としてまったく好感の持てない、図太くて押し付けがましい、自己中人間にしか見えず、これが終始番組の中核になっていたのが決定的だったように思います。

連続テレビ小説のヒロインが、何事にもめげない頑張り屋の明るい女の子というだけなら、毎度のお約束のようなものですが、この純は、がさつな熱血女子で、デリカシーがなく、遠慮というものを心得ない人物でした。それに対して愛は、病的で、辛気くさく、むら気で、「一生純さんを支え続けます」などと大言を吐きながら、ちょっとした事ですぐにつむじを曲げ、容赦なく不機嫌になっては相手を苦しめたりの連続でした。

さらにはこの二人に共通していたのは、何かというとお説教の連射で、何度この二人が画面の前で滔々と白けるような人生訓みたいなものを垂れるのを聞かされたかわかりません。しかも、その内容というのが、いまどきのキレイゴトの空疎な言葉のアリアのようで、聞いているほうが恥ずかしくなるようで、耐えられずに何度早送りしたかわかりません。
とくに見ていておぞましいのは、年端もいかない若い二人が、いい歳の大人や他人を相手に、この手のお説教をするという僭越行為であるにもかかわらず、それがさも人の心を動かす尊いことのように取り扱われている点で、聞かされた相手は、ドラマとはいえ、最終的に必ず改心したり生まれ変わったり感動したりというような反応を見せるのですからたまりません。

ほんらい連続テレビ小説は、ごく短時間、ちょっとした楽しみのために見る軽いスナック菓子のようなドラマであるはずなのに、家族を不幸に陥れて最後は溺死する父親、若いのにアルツハイマーになる母親、生活無能力者のような兄と弟、さらには脳腫瘍で倒れ、手術後も最後回まで意識回復できない愛(夫)等々、あまりにも暗い要素ばかりが折り重なって、非常に後味の悪い、暗いドラマだったという印象です。

続いて始まった東京制作の『あまちゃん』は東北の漁業の街が舞台ですが、これは開始早々笑える明るいドラマで、いっぺんに空がパァッと明るく晴れたようです。


2013/04/25 Thu. 01:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

さすがエマール 

少し前にクラシック倶楽部で放送され、聴くのが遅れていたピエール・ロラン・エマールの昨年の日本公演から、ドビュッシーの前奏曲集第2巻をようやく観ました。

まず最初に、エマールのような世界の最高ランクであろうピアニストがトッパンホールのようなサイズ(400席強)のホールでコンサートをすることに驚きました。
どうやらこれはホール主催の公演だったようですから、それならまあ納得というところでもありますが、本来ならこのクラスのアーティストともなると、東京ならサントリーホールぐらいのキャパシティ、すなわち二千席規模の会場でコンサートをやるのが普通だろうと思いますし、最低限でも紀尾井ホール(800席)あたりでないと、この現役の最高のピアニストのひとりであるエマールのチケットを買えない人があふれるのは、いかにももったいないという気がしました。

しかし世の中には皮肉というべきか、逆さまなことがいろいろあって、実力も伴わずして分不相応な会場でコンサートをしたがる勘違い派が後を絶たないかと思うと、意外な大物が、意外なところでささやかなコンサートをやったりするのは、なんとも不思議な気がします。

まあ、大物ほど自信があり、余裕があるから、気の向くままどんなことでも平然とやってしまうのでしょうし、その逆は、やたら背伸びをして格式ある会場とか有名共演者と組むことで、我が身に箔を付けるべく躍起になっているということかもしれません。

さて、エマールの演奏は予想通りの見事なもので、堂に入った一流演奏家のそれだけが持つ深い安心感と底光りのするような力があり、確かな演奏に身を委ねていざなわれ、そこに広がり出る美の世界に包まれ満足することができました。
基本的には昨年発売された前奏曲集のCDで馴染んだ演奏であり、エマールらしい知的で抑制の利いた表現ですが、音楽に対する貪欲さと拘りが全体を支えており、久々に「本物」の演奏を聴いた気がしました。
しかもそこにはピリピリと張りつめた過剰な緊張とか、知性が鼻につくということがなく、あくまで音楽を自然な息づかいの中へと巧みに流し込んでくるので、聴く者を疲れさせないのもエマールの見事さだと思います。

さらにいうなら、演奏家も一流になればなるだけ、その人がどういう演奏をしたいのか、どういう風に作品を受け止め、伝えようとしているかということが聴く側に明確かつなめらかに伝わって来て、芸術が表現行為である以上、このメッセージ性はいかなるジャンルであっても最も大切なことであろうと思います。しかし、現実にはそれの出来ていない、名ばかりのニセモノのなんと多いことか!

ピアノはおそらくトッパンホールのスタインウェイだと思いますが、なにしろ調律が見事で、やはり楽器にもうるさいエマールが納得するまで慎重に調整されたピアノだったのだろうと思いました。
基本的に全音域が開放感に満ち、立体感の中に透明な輝きが交錯するようでありながら、音そのものは決してブリリアントな方向を狙ったものではない、いわば非常にまともで品位のあるところが感銘を受けました。低音は太く、ボディがわななくようなたくましさをもった音造りで、マロニエ君の好みの調律でした。

つい先日、グリモーのブラームスを聴いたばかりでしたが、同じフランス人ピアニストでも格が違うとはこのことで、まさに真打ち登場! ゆるぎないテクニックに支えられた他者を寄せ付けない孤高の芸術を、聴く者に提供してくれるのはなんともありがたい気分でした。

ピアニストがピアニストで終わるのではだめで、やはり真の芸術の域に到達しているものでなくてはつまらないとあらためて思いました。



2013/04/23 Tue. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

知りたがり 

知人がふと口にしたことですが、曰く「苦手な人のタイプは、やたらと他人のことをあれこれ質問してくる人」なんだそうで、その嫌悪感が高じて人嫌いになった面があるという話を聞きました。
ここでいう質問とは、つまり「知りたがり」であり「詮索好き」という意味です。

マロニエ君は、さすがにそれで人嫌いになることこそなかったものの、いわゆる知りたがり屋というのは理屈抜きに嫌なものというのは、まったく同感です。

他人のことをなにやかやと知りたがる人というのは巷に少なくありません。
もちろんマロニエ君もターゲットになった経験は何度もあり、雑談に事よせてこちらのことを根ほり葉ほり聞いて来る人というのは、ひとつ答えるとまた次の質問になり、非礼の意識がないぶん歯止めが効きません。

そんなにいろいろと立ち入ったことを聞いてどうするのかと思いますが、おそらくはそれによって人を分類・整理していると思われ、それがいつしか欲求となり体質化してしまっているようです。だから人を見ればあれこれ聞かないことには安心できないのでしょうし、気持の上でも納まらないのだろうと思われます。

むかしの携帯電話のない時代は、電話をすると、その家のお母さんなどが出られる場合が多かったように思いますが、そんな中にもこの手合いがいて、不愉快になることがときどきあったのを思い出します。
こちらがきちんと自分の名を名乗っているにもかかわらず、友人なり知人に取り次いでもらうよう願い出ると、「どちらの○○さんでしょう?」とか「どういうご関係の方ですか?」などと、まことに失礼なことをズケズケ聞いてくる人がいて、思わずムッとしたことは一度や二度ではありません。

さすがに時代が変わって、そういうシチュエーションこそなくなりましたが、本質的に知りたがりという種族はまったく後を絶たないようです。

例えば、なにかというと他人およびその係累の職業などを聞きたがるのは、のぞき趣味丸出しというべきで、最終的に恥をかくのは自分であるのに、当人に自覚がない為に打つ手がありません。それを面と向かって指摘する人もまずいませんから、よほど身内から厳重注意でもされない限り、永久にその癖は直らないわけです。

マロニエ君は一線を越えると物を申す主義なので、あまりに礼を失した質問攻勢などに遭遇すると、「まるで身上調査をされているみたいですね!」というような皮肉を言ってストップを掛けることもありますが、それでも自省するどころか、今度は「あの人は秘密主義」というようなレッテルを貼ったりするなど、ただただ呆れる他はありません。

あらためて言うまでもまりませんが、よほど必要がある場合を除いて、不用意に他人の職業や家族の内情などプライバシーに触れることは慎むのが本来常識で、それはお付き合いの中からあくまで自然にわかってくる範囲に留めるべき事柄です。
なぜなら、世の中のすべての人が自分が満足する職業でいるわけではなく、むしろ数から言えば不本意な現実に甘んじている人のほうが多いかもしれず、そういう事を言いたくない聞かれたくない人も大勢いるわけで、それは学歴や住んでいる場所なども同様、実に多岐にわたり、今風に云うなら個人情報です。

極論すれば「人に職業を聞くというのは、おおよその収入を知りたがっているのと同じことだ」と言う人もあり、これは云われてみるとまったくなるほど!と思わず膝を打ちました。

ひどいのになると、住まいは一戸建てかマンションか、賃貸なのか、自己所有なのか、土地は何坪なのかなど信じられないようなことまで、とにかく自分の興味の赴くままに、どこまでも追い回して聞きたいわけで人迷惑も甚だしいことです。

一般に辛うじて常識となっているものでは「女性に歳を聞くのは失礼」などですが、それに匹敵するものは実は他にもたくさんあるのに、あまりにも無知で無法状態というのが実情です。

普通の人なら、十中八九そういう質問をされることに不快感を抱くはずですが、それでもなんとかその場はポーカーフェースで我慢するだけで、質問者のほうはまさかそんな悪印象を持たれているなんて夢にも思っていないのだろうと思うと、その意識のズレはやりきれません。
因みにマロニエ君は、自分の職業その他がとくに恥ずべきものとも誇れるものとも両方思っていませんが、しかし興味本位でそういうことをつつかれるのは、その底意や気配を感じるので愉快ではありません。

これは自分のことを知られたくないというよりは、無礼に対する単純な不快感と、のぞき趣味の人間の低級な興味に、むざむざ答えを与えてやって満足させるのが嫌なのです。
それにしても…なんでそんなにも人のことが気になるんでしょうねぇ。

2013/04/20 Sat. 02:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

グリモーのブラームス 

毎週、日曜朝にNHKのBSで放送されていた『オーケストラ・ライブ』が4月からの番組編成でなくなり、事実上その代わりとも云うべき番組が、ずいぶん出世して、日曜夜の9時からEテレで2時間、『クラシック音楽館』として始まりました。

マロニエ君はいつも録画を夜中にしか見ませんから、個人的には朝でも夜でも構わないのですが、世界的なクラシック離れの流れの中にあって、これまで早朝にほとんどお義理のように放送されていたクラシックの番組が、日曜夜9〜11時という、このジャンルではまさにゴールデンタイムに復活してきたことは嬉しいことです。

その第一回放送は、デーヴィッド・ジンマン指揮によるN響定期公演で、ブゾーニ:悲しき子守歌やシェーンベルクの浄夜のほか、メインとしてブラームス:ピアノ協奏曲第2番というものでした。
ピアノはエレーヌ・グリモー。

グリモーは20代の後半にブラームスの第1番の協奏曲をCDで出していますが(共演はザンデルリンク指揮ベルリンシュターツカペレ)、それはいかにも曲に呑まれた、このピアニストの器の足りなさと、さらには若さから来る未熟さみたいなものが全面に出てしまうもので、ちょっと成功とは言い難い演奏でした。
それもやむを得ないというべきか、ブラームスのピアノ協奏曲は両曲とも50分前後を要する大曲で、まともに弾き通すだけでも大変です。ましてやそれを説得力のある演奏として、作品の意味や真価を伝え、さらには音楽としての張りを失わずに、聴く者を満足させることは並大抵のことではないので、そもそもピアニストはブラームスのコンチェルトはあまり弾きたがりません。

一説には、コンクールでもブラームスのコンチェルトを弾くとまず優勝は出来ないというジンクスがあるようです。それは音楽的にも技巧的も難しいばかりでなく、その長大さから審査員の心証もよくないし聴衆も疲れて人気が得られないからだそうです。

しかしマロニエ君は、ブラームスのコンチェルトは楽曲として最も好きなランクのピアノ協奏曲に位置するもので、もし自分がコンサートで活躍するような大ピアニストだったなら、主催者の反対を押し切ってでも弾いてみたい曲だと思います。ヴァイオリン協奏曲も同様。

冒頭のインタビューで、グリモーはブラームスの協奏曲は第1番が書かれた25年後に第2番が書かれており、それは偶然自分でも、若い頃にアラウの演奏で第1番に接しその虜になったものの、第2番はもうひとつ掴めず、これが自分にとってなくてはならないものになるにはちょうど25年を要したなどと、なんとも出来過ぎのようなことを喋っていましたが、そこには今の自分がピアニストとして成熟したからこそこの曲を弾く時が来たというニュアンスを言外に(しかも自信たっぷりに)含ませているような印象を持ちました。

「それでは聴かせていただきましょう!」というわけで、じっくり聴いてみました。
開始後しばらくは、それなりに良い演奏だと思いましたが、次第に疲れが見えてくることと、やはりこの人には曲が巨大すぎるというのが偽らざる印象で、とくに後半では、大きなミスをしたというわけではないけれども、かなり無理をしている様子が濃厚になり、演奏としても破綻寸前みたいなところが随所にありました。

もともとグリモーは、フランスのピアニストであるにもかかわらず伝統的なショパンやドビュッシーのような系統の音楽を弾くことに反発し、10代のころからロシア文学に親しみ、音楽もロシア/ドイツ物などを多く取り上げてきたという、いわば重量級作品フェチ少女みたいなところがありました。

まるで、子犬がいつも大型犬に臆せずケンカを挑んでいるようで、それが見ようによってはほほえましくもあるのですが、やはり器というものは如何ともしがたいものがあるようです。
第一、弾いている手つきがどうしようもなく幼児的で、とても世界で活躍するピアニストのそれとは思えないものがあり、とにかくよくここまできたなあ…というのが正直なところですが、それだけ彼女には光るものがあって、あまたいる腕達者に引けを取らないポジションを獲得しているのだと思います。

ブラームスで云うと、グリモーはソナタでも曲が勝ちすぎますが、この作曲家には極めて高い芸術性にあふれた多くの小品集・間奏曲集等があるので、そのあたりでは彼女の本領が発揮されると思います。

2013/04/18 Thu. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

店内自衛隊 

おもしろい話を聞きました。

その人は土曜の夕刻、天神で化粧品などを買うため、ある有名な薬局兼化粧品店に入ったそうです。
ここは天神の中でも最も人通りの多いエリアで、土曜ともなると大変な人出で賑わっていたようですが、その人が店に入る直前、表通りに外国語(アジアの大国)をさかんに喋る一団があって、雑踏の中でもどことなく目立っていたといいます。

この国の人達は、おとなしい日本人とは違い、どこでも構わず独特の調子でワアワアしゃべりまくるので日本人でないことはすぐにわかるそうで、それはマロニエ君も何度か経験しています。こちらに居住している留学生などはまだそれほど強烈ではないのですが、観光客は旅行中ということもあるのか、その声のボリュームとテンションは傍目にもかなりのものです。

さて、薬局兼化粧品店の店内もかなりの混雑ぶりだそうで、3つあるレジはフル回転状態だったとか。
すると、さっき外で見かけたその外国人旅行者の一団(7〜8人と旗を持つ添乗員がひとり)がどやどやと入ってきて、たちまち各自あれこれ商品を手にとって品定めが始まったそうですが、同時に店員の表情が傍目にもわかるほどあからさまに変化した(こわばった)そうです。

すると、ある奇妙な動きが起きたというのです。

そんな繁忙時間にもかかわらず、5〜6人の店員が各々の忙しい仕事を中断してサッと動き出し、その旅行者達のまわりをさりげなく取り囲むような陣形を布いたそうです。
お客さんに商品説明をしていた人も、すぐにそれをうっちゃってこの態勢をとるし、3つのレジもひとつがすぐに閉鎖され、すかさず監視要員に早変わりしたというのですから驚きです。

こうも息を合わせたように、すみやかな動きが取れるようになる陰には、よほど日頃の丹念な打ち合わせが整っていたに違いないというわけです。
それにしても、日本でこれほどお店の店員が迅速かつ警戒的な動きをするというのは、マロニエ君もほとんど覚えがなく、よくよくの事だろうと思われます。おそらく、その必要を強く認識させるだけの被害がこれまでにも度々発生し、ついにはその自衛策が講じられたのでしょう。

この国の人達は、なんでも勝手に持ち帰るのがお得意らしく、いまや彼らの行く先では、五つ星のホテルなどでもバスローブなど多くの備品が続々と姿を消しているそうで、壁にかけられた絵なども大型のスーツケースに入らないサイズにするとか、シャンプーやリンスも壁の埋め込み式にしても、それを壁から引き剥がしてまで持ち帰るのだそうですから、いやはや凄まじい限りです。

九州のとある観光地のホテルでは、小物の備品はもちろん、ついには大型の液晶テレビまで持ち去られたというのですから、もはや笑うに笑えない実情のようです。
そんな大きなものでも、持ち去りの被害に遭うことからみれば、薬や化粧品は、どれも小さなアイテムばかりで、さらにはこの国の人達には資生堂を始めとする日本製の化粧品や薬品は大人気だといいますから、恰好のターゲットなのでしょうね。

こういうことを書くと、「そうでない人もいる」とか「日本人にも悪い人はいます」などとわかりきったようなことを正論めかして言ってくる人が必ずいますが、こういう現実はもはや個人差の範囲ではないということを証明しているようなものです。

経営者にしてみれば、お客さんというより、窃盗団が堂々とやってくるようなもので、やむなくこのような店内自衛隊が組織されているんでしょう。

2013/04/16 Tue. 01:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

一級ピアノ調律技能士 

「ピアノ調律技能士」という言葉をご存じでしょうか?

これまで、ピアノの調律師というものにこれといった明確な資格があるわけではなく、専門学校や養成所で調律の勉強をした人が卒業後社会に出て、メーカーや楽器店の専属になるなどしてプロとしての経験と修行を積み、さらにはフリーの技術者として独立する人などがあるようですが、そこに特段の基準や資格があるわけではありませんでした。
それだけに、逆に技術者としての実力が常に問われるとは思いますが。

これは何かに似ていると思ったら、ピアニストもそうなのであって、音大を卒業したり、コンクールに入賞したり、あるいは才能を認められるなど、各人いろいろ経過はあっても、ピアニストを名乗るのにこれといった資格や免許などの基準はありません。
まあピアニストのほうがさらにその基準は曖昧かもしれませんが。

資格がないというのは音楽に限らず、文士や絵描きも同様で、そのための公的資格などを必要としないのは当たり前といえば当たり前で、それによって人や社会に著しい不利益や損害を与えるわけでもなく、突き詰めていうなら「人命にかかわる仕事ではない」からだろうとも思います。

つまり、なんらかの方法でただ調律の勉強をしただけの人が、現場経験もないまま、いきなり自分は調律師だと称して仕事をしたとしても、これが違法ではないわけです(ただし、そんな人に仕事の依頼はないとは思いますが)。
それだけ技術的な優劣を客観的に判断する基準というものがなかったということでもあり、新規で良い調律師を捜すことは難しい面があったかもしれません。

ところが、この分野に国家資格というものが創設され、社団法人日本ピアノ調律協会の主導のもとで2011年にその第1回となる試験が行われたようです。

1級から3級まであり、受験者は誰しもこの国家資格に挑もうとする以上、目標はむろん1級にある筈ですが、1級の受験資格は「7年以上の実務経験、又はピアノ調律に関する各種養成機関・学校を卒業・修了後5年以上の実務経験を有する者。」と規定されており、それに満たない人は自分の実績に応じたランクでの受験となるのでしょう。

さて、このピアノ調律技能士の試験は予想以上に狭き門のようで、第1回で1級に合格した人は全国でわずかに32人、受験者数は252人で、合格率は実に13.3%だったようです。筆記と実技があるようですが、とくに実技は作業上の時間制限などもあって相当難しいようです。
ちなみに九州からも、多くの名のあるピアノ技術者の皆さん達が試験に臨まれたようですが、結果は全員が不合格という大変厳しい結果に終わったようです。

これは九州の技術者のレベルが低いということではなく、どんな試験にもそのための「情報」と「対策」という側面があるわけで、この点では東京などの大都市圏のほうがそのあたりの有益な情報がまわっていて、受験者に有利に働いたのは否めないということはあったのかもしれません。

さて、我が家の主治医のお一人で、現在ディアパソンの大修理もお願いしている技術者さんも、第1回で不合格となられ、翌年(2012年)秋の第2回に挑まれました。
その結果発表が今春あって見事に合格!されました。なんでも、九州からの合格者はたった2人(一説には1人という話も)だけだったそうで、これにはマロニエ君も自分のことのように喜びました。ちなみに今回は、前回よりもさらに合格率は低く9.1%だったようで、まさに快挙というべき慶事です。

ディアパソンの修理の進捗を見るためにときどき工房を訪れていますが、先日は折りよく合格証書が届いてほどない時期で、さっそく見せていただきました。
御名と共に、「第一級ピアノ調律技能士」と恭しげに書かれており、現厚生大臣・田村憲久氏の署名もある証書でした。

この主治医殿が、昔から事ある毎に次のように言っておられたことをあらためて思い起こします。
『ピアノ技術者で最も大切なことは実は技術ではありません。技術は必要だが、それはある程度の人ならみんな持っている。それよりも、いかに当たり前のことをきちんとやっているか。要はその志こそが問題だと思いますよ』と。

まさに、今回はその志が結実したというべきでしょう。


2013/04/14 Sun. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・断捨離 

断捨離の精神が『人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れる』という事は、たしかに一面に於いては納得できる話ではあります。

マロニエ君のまわりにも、パソコン上で未読メールを何千通も抱え込んで消そうともしない友人がいたりしますし、巷には「片づけられないオンナ」というのが多いのだそうで、きっと男にも同類がいるでしょうし、これは単なる横着や怠け者というより、ほぼ脳内の問題のような気がします。

ゴミ屋敷などという甚だしく社会迷惑な家も珍しくない時代ですが、物が捨てられない人が決まって口にする言葉は「これはゴミではない。自分にとっては必要な物で宝物、いつか必ず役に立つことがある」などと云うようですが、聞かされる側はとても納得できることではありません。

「モノへの執着から解放される」というのは、ある意味に於いては清らかな精神を持つための第一歩かもしれません。むかしテレビで見たマザー・テレサは、多くの修道女達を従えて彼女達の為に準備された住まいに入るや、いきなりカーペットを剥がし、調度品を屋外に運び出し、物に執着しない高潔な精神の持ち主であることを躊躇なく実践して見る者を驚かせました。(尤も、彼女は実は大金持ちで、いろんな噂もあるようですが…)

また、司馬遼太郎の『龍馬がゆく』では、千葉道場のさな子との別れに際して、龍馬が自分の形見の品を渡そうとするものの、ふと気がつけば彼には刀以外に何一つ持ち物がなく、やむを得ず着物の袖を引きちぎってそれを渡すというところがあり、いかにも私欲のない、器の大きな、些事に恬淡とした龍馬という人物を象徴的に描いています。
史実の上でこれが真実かどうかはともかく、若い頃これを読んだとき、本物の男の究極の姿とは、そういうものなのかと考えさせられたことがありました。

モノに限ったことではないですが、何事においても「執着する」ということは、正当な目的をもつということとは似て非なる事で、執着はその人の本来の能力や自由を奪い、ひとつのことに縛り付けるという副作用があるようです。出世への執着、金銭への執着、権力への執着などは、どれもがその病的な心の作用に翻弄されているばかりで、見聞きして気持ちのいいものではありません。

また最近では、新種の執着族も激増して、たとえばスマホから離れられないような人達もそのひとつかもしれません。便利な道具として賢く使いこなすのではなく、完全に道具に人間が支配されていほうが多いでしょう。とくに若い人ほどその傾向が強く、その執着心に捕らわれている代償として、感情や言葉までも貧しくなり、本来の人間としての能力まで錆びつかせているようにも感じます。

こう考えると、不要物もそんな害悪のひとつであることは否定できませんから、なにも極端な断捨離を目指さないまでも、ほどほどの整理整頓を実践することで、そのぶん心も軽く自由で快活になるとしたら、やはりその価値はあると思いますが、かくいうマロニエ君もなかなか思うようにはできません。

しかし「過ぎたるは及ばざるがごとし」の喩えの通り、あまり何もかもを不要物と見なして捨て去るのもどうかと思います。マロニエ君の私見ですが、ある一定量の物は、心に安心と豊かさをもたらすという一面もあるはずで、その一線は崩すべきではないように思いますが、これも個人差があるでしょうね。

マロニエ君は、稀によそのお宅などに行ってギョッとしてしまうことがあります。
それはあまりにも物が少なく、まるで何かの事情があっての仮住まいか、はたまたウィークリーマンションとか、とにかく生活の実感が持てないほど物の少ない住まいというものを見て心底驚かされたことは何度もあり、あれもどうかと思います。

断捨離の精神からすれば、それは称賛される光景かもしれませんが、少なくともマロニエ君の目には快適空間というよりは、殺風景で寒々とした空間としか目に映らず、気が滅入ってしまいます。
何事も自分に合った程良さというのが肝要だろうと思います。

2013/04/12 Fri. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

インゴルフ・ヴンダー 

過日のアヴデーエワでの落胆に引き続いて、NHKのクラシック倶楽部ではインゴルフ・ヴンダーの日本公演から、紀尾井ホールでのモーツァルトのピアノソナタKV.333が放送されており、録画を観てみましたました。

放送そのものはアヴデーエワのリサイタルよりも前だったようですが、マロニエ君が観るのが遅くなったために、こちらを後に続くかたちになったわけです。

このソナタは、出だしの右手による下降旋律をどう弾くかがとても大切で、マロニエ君なら高いところから唐突に、しかもなめらかに降りてくる感じで入ってきて、それを左が優しく受け止めるように、繊細でこわれやすいものを慈しむように弾いて欲しいと願うところですが、いきなり不明瞭で、デリカシーも自然さもない、なんとも心もとないスタートだったことに嫌な予感が走りました。

その後もこの印象は回復することなく、安定感のない、ひどく恣意的なテンポに満ちた美しさの感じられないモーツァルトを聴く羽目になりました。
驚くべきは、ヴンダーはモーツァルトと同じくオーストリアの生まれで、しかも2010年のショパンコンクールでは堂々2位の成績を収めた、かなり高い戦歴を持つピアニストです。

少なくとも、昔ならいやしくもショパンコンクールの上位入賞者というのは、好き嫌いはともかく、世界最高のピアノコンクールの難関をくぐり抜けてきた強者にふさわしい高度な実力を備えており、それなりの演奏が保証されていたように思いますが、最近はそういう常識はもう通用しなくなったのかもしれません。

モーツァルトのソナタをステージで演奏するには、音数が少ないぶん、他の作曲家の作品よりも明確な解釈の方向性を示し、そのピアニストなりに磨き込まれた完成度の高い演奏が要求されるものですが、ヴンダーの演奏は、いったい何を言いたいのかさっぱりわからないし、技巧的にも安定感がなくふらついてばかりで、好み以前の問題として、プロのピアニストの演奏という実感がまるでありませんでした。

テンポや息づかいにも一貫性がなく、フレーズ毎にいちいち稚拙なブレスをする未熟な歌手のようで、聴いていて一向に心地よさが感じられず、もどかしさと倦んだような気分ばかりが募ります。
また、ヴンダーに限ったことではありませんが、マロニエ君はまず楽器を鳴らせない人というのは、それだけで疑問を感じますし、墨のかすれた文字みたいな、潤いのない音ばかりを平然と連ねることが、思索的で知的な内容のある演奏などとは思えません。

ひと時代前は、叩きまくるばかりの運動系ピアニストが問題視され軽んじられたものですが、最近はその逆で、まずは自然な音楽の呼吸と美しく充実した音の必要を見直すべきではないかと思います。
音色のコントロールというのは様々な色数のパレットを持っていて、必要に応じて自在に使い分けができることですが、ヴンダーなどは骨格と肉付きのある豊かな音がそもそも出ておらず、いきおい演奏が貧しい感じになってしまいます。

本来、ピアニストともなると出てくる音自体に輪郭と厚みと輝きが自ずと備わっており、それひとつを取ってもアマチュアとは歴然とした違いがあるものですが、近ごろはタッチも貧弱、音楽の喜怒哀楽や迫真性もなく、ただ訓練によって外国語が話せるように難しい楽譜が読めて、サラサラと練習曲のように弾けるというだけの人が多く、音色的にはほとんどアマチュア上級者のそれと大差ないとしか思えないものです。

アヴデーエワ、ヴンダー、ほかにもトリフォノフなどを聴いていると、もはやコンクールそのものの限界がきてしまっているというのが偽らざるところで、そういえば一流コンクールの権威もとうに失墜してしまっているようですね。これからは、なにかの拍子に才能を認められて世に出てくるような異才の持ち主などにしか芸術家としての期待はもてない気がします。

2013/04/09 Tue. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

断捨離 

この数年でしょうか、断捨離(だんしゃり)という言葉をときどき耳にします。
テレビ番組で、部屋の収納術とか片づけなどに際して、よくこの言葉が使われているので、なんとなく要らないモノを思い切って捨てるという意味かと思っていましたが、ネットのウィキペディアを見ると、もっと深い意味があるようです。

以下、一部引用

『ヨガの「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え。単なる片づけとは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる』

〜なのだそうで、これはなかなかマロニエ君にはできそうにもないことです。
このところ腹をくくって物置の片づけなどをやっているのですが、いざ手をつけてみると自分でも呆れるほど様々な物が次から次へと出現して、別になくても何の不自由もない物は数多く、いかにそんな不要物に囲まれながら生活していたのかという現実を痛烈に思い知らされます。

これがいわゆる転勤族などであれば、嫌でも物の量は少なくなるでしょうし、むやみに物が増えないようにするという生活習慣が自然に身につくのだろうと思いますが、マロニエ君の家は代々そうではないためもあってか、そのあたりの意識がほとんど欠落しているようです。

たしかに不要な物を捨てることは、物質上あるいは空間のダイエットをするようで、不思議な快感があるものです。マロニエ君の場合、とりたててモノに執着しているというつもりはないのですが、整理と廃棄に着手するのがただ面倒というだけで、いざやりはじめると物を捨てたぶん場所は広くなるし、変な楽しさがあることもわかりました。

というわけで、不要な物はどしどし廃棄していけばいいのですが、困るのは捨てるに捨てられない物に行き当たったときというのは誰しも同じだろうと思います。そもそも、どこで「必要な物」と「不必要な物」の線を引いたらいいか、その点に苦慮するシーンがしばしば訪れるわけです。
例えばいろいろな思い出の要素を帯びた品などもそうなら、亡くなった身内の遺品ともいうべき物ともなれば、そうそう安易にゴミ袋に放り込むということもできません。しかし、取っておいてどうするのかとなると、これは甚だ答えに窮しますし、そういうときは片づけのスピードも一気に鈍ってしまいます。

あるいは、そんな精神的な要素が絡まなくても、使う予定もない物の中には、買ったまま使わずしまい込んで忘れていた物、あるいはいただき物などをそのまま置いていただけという場合が少なくありませんが、古くてもモノ自体は新品(というか未使用品)だったりすると、それをそのまま捨てるというのは、断捨離に於いてはこちらの修行が未熟な故か、どうにも抵抗があるわけです。

むろん「欲しい」というような人でも現れれば喜んで差し上げるところですが、そんな都合の良いことがあるはずもなく、結局どうにも始末に困ってしまいます。

こういう場合は、断捨離で云うところの「物への執着」というのとはいささか違い、何の傷みもない新品もしくはそれに近い物を、あっさり捨てるという行為が、例えば大した理由でもなしに木を切ってしまうことのように、ひどく傲慢かつ野蛮なことのように思えてしまいます。

もしかしたら、そういう甘ったるい気分を断ち切り、乗り越えたところに断捨離の極意があるのかもしれませんが、なかなかそんな高みには到達できそうにもありません。
それでも相当量を廃棄しましたから、ずいぶん風通しはよくなったわけで、ひとまずこれで満足することとします。

2013/04/07 Sun. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

技術者しだい 

このところ、ついついアップライトにも関心を持ってしまい、すでに二度もこのブログに駄文を書いてしまっているマロニエ君ですが、先ごろ、実になんとも素晴らしい一台に出逢いましたので、その印象かたがたもう少々アップライトネタを書くことにしました。

それはヤマハのUX300、十数年前のヤマハの高級機種とされたモデルで、背後にはX支柱(現在はコスト上の理由から廃止された由)をもつモデルです。外観で特徴となるのはトーンエスケープという鍵盤蓋よりも上に位置する譜面台を手前に引き出すと、その両脇から内部の響きが左右に漏れ出てきて、奏者はより楽器の原音をダイレクトに聴きながら演奏できるというもの、さらには黒のピアノではその譜面台の左右両側にマホガニーの木目が控え目にあしらわれ、それがこのピアノのお洒落なアクセントにもなっています。
このデザインは好評なのか、今もYUS5として生産されているばかりか、それが現行のカタログの表紙にもなっているようです。

話は戻り、このUX300は望外の素晴らしいピアノだったのですが、それはヤマハの高級機種だからというよりも、一人の誠実な技術者が一貫して面倒を見てこられたピアノだからというものでした。
以前のブログに書いたようなアップライトらしさ、ヤマハっぽさ、キンキン音、デリカシーのなさ、安っぽさなどどこにもない、極めて上質で品位のある音を奏でる好ましいピアノであったことは予想以上で、少なからぬ感銘さえ受けました。

おまけにこのピアノはサイレント機能つきで、通常はこの機能を付けるとタッチが少し変になるのは不可避だとされていますが、この点も極めて入念かつギリギリの調整がなされているらしく、そのお陰で言われなければそうとは気づかないばかりか、むしろ普通のアップライトよりもしっとりした好ましいタッチになっていたのは驚くほかはありません。
これぞ技術者の適切な判断と技、そしてなによりピアノに対するセンスが生み出した結果と言うべきで、まさに「ピアノは技術者次第」を地でいくようなピアノでした。

このような上質でしっとりした感じは、外国の高級メーカーのアップライトではときどき接することがありますが、国産ピアノでは少なくともマロニエ君の乏しい経験では、初めての体験だったように思います。

海外の一流メーカーのアップライトは、その設計や作りの見事さもさることながら、調整も入念になされたものが多く、あきらかにこの点にも重きをおいているのは疑いようがありません。それが隅々まで見事に行き渡っているからこそ、一流品を一流品たらしめているともいえるでしょう。

ちなみに、海外の老舗メーカーの造る超高級アップライトは価格も4ー500万といったスペシャル級で、普通ならそれだけ予算があれば大半はグランドに行くはずです。いったいどういう人が買うのだろうと思わずにはいられない一種独特の位置にある超高級品ということになり、それなりのグランドを買うよりある意味よほど贅沢でもあり、勢い展示品もそうたやすくあるものではありません。

当然ながら、そんなに多く触れた経験はないのですが、スタインウェイやベーゼンドルファーなどは、たしかに素晴らしいもので、この両社がアップライトを作ったらこうなるだろうなぁと思わせるものがありますが、しかし個人的にはとりたてて驚愕するほどのものではなく、あくまで軸足はグランドにあるという印象は拭い切れません。

ところが中にはそうでないものもありました。これまでで一番驚いたのはシュタイングレーバーの138というモデルで、とにかく通常のアップライトよりさらにひとまわり背の高いモデルですが、その音には深い森のような芳醇さが漂い、威厳と品格に満ち、その佇まい、音色とタッチはいまだに忘れることができません。2番目に驚いたのはベヒシュタインのコンサート8という同社最大のアップライトで、これまた美しい清純な音色を持った格調高いピアノでした。
ベヒシュタインは、実はアップライト造りが得意なメーカーで、背の低い小さなモデルでも、作りは一分の隙もない高級品のそれですし、実に可憐でクオリティの高い音をしていて、むしろグランドのほうが出来不出来があるようにさえ感じます。

アップライトでも技術者次第、お値段次第でピンキリというところですが、最近驚いたのはヤマハのお店には「中古ピアノをお探しの方へ」的な謳い文句が添えられて、なんと399.000円という新品のアップライトが売られていることでした。
ヤマハ・インドネシア製とのことですが、これが海外の老舗メーカーのように別ブランドにすることもなく、堂々とYAMAHAを名乗って、ヤマハの店頭で他の機種に伍して売られているのですから、ついにこういう時代になったのかと思うばかりです。

2013/04/05 Fri. 01:15 | trackback: 0 | comment: 0edit

ロビーは営業現場 

先週金曜の夕刻のこと、付き添いで街の中心にある大病院のロビーで診察の終わるのをずいぶん待たされることになったのですが、そのとき、見るともなしに思いがけない光景を目にすることになりました。

ちょうど時間帯が、一般の外来診察が終わって、以降は急患の対応に切り替わる時間帯であったために、ロビーにはこの病院にしては患者さんの姿はほとんど無くなり、ちょうどその時間が区切りになっているのか、私服に着替えた看護士さんとおぼしき人達が仕事を終えてぞろぞろと引き上げていく姿があり、白衣姿の医師の往来もえらく頻繁になってくるという状況が一時間ほど続きました。

この病院は市内でも最も有名な大病院のひとつですから、そこで働く医師や看護士などの数もおそらく相当なものだろうと思われます。

そんな中にぽつねんと待っていたマロニエ君でしたが、広いロビーに置かれたあちこちの長椅子には、明らかに患者とは様子の異なる種族が散見でき、これがなんとなく不思議な印象を放っていました。

みな一様に真面目な様子で、どうみても病気や御見舞ではなく、仕事時間中という感じにしか見えません。
男性は例外なくスーツ姿で、女性もほぼそれに準した服装です。一人の人もあれば、二人組のような人達もあって、ごくたまに医師と立ち話などをしており、はじめは何なのかと思うばかりでした。

なにしろこっちはヒマなので、それとなく観察しているとだんだん状況が読み込めてきたのです。
それがわかったのは、向こうにいる男性が、こちらから歩いて行ったひとりの医師にスッと近づいて話を始めると、それを見ていた比較的マロニエ君の近くにいた男女二人が俄に落ち着かない様子でしきりに話を始めます。すると、何かを決したように二人ともすっくと立ち上がり、その立ち話をしている医師とスーツの男性のほうに歩み寄りますが、話が済むまで3mぐらいの場所から待機している様子です。

話が終わると、今だ!といわんばかりに二人が近づき、ようやく歩き始めた医師の足を再び止めることになりますが、とにかくお辞儀ばかりして必死にしゃべっています。
ほどなく二人は戻ってきましたが、今度は別の医師が歩いてきたのを見て「どうします?」「行ってみましょうか?」と女性の声がわりに明確に聞こえたのですが、間をおかず再び追いかけるようにして医師を呼び止めます。

もうおわかりと思いますが、このロビーを頻繁に往来するこの病院の勤務医師に話しかけるチャンスを狙って、それが薬品メーカーだか医療機器メーカーだかは知りませんが、とにかく病院相手にビジネスチャンスを目論む業者の営業マン達が、診療時間に区切りがついて多くの医師らが動き出すのを狙って、この時間帯に営業活動にやってくるようです。

パッと目はまるで医者目当てにナンパしているようでもありますが、しかも遊びではない厳しい目的があるわけで、もちろんチャラチャラした気配など皆無で、笑えない、痛々しいような空気が充溢しています。

他の人達もおおむね似たような感じで、今どきの就職難の時代にあっても、営業職は人気がないと云われているそうですが、それをまざまざと実感できる、彼らの仕事の大変さが込み上げてくるような光景でした。まったくあてのないダメモトの仕事を、厳しいノルマを背負わせられて粘り強くやり抜くだけの強さがなくては、とてもじゃありませんがやっていけない仕事だと思いました。

そもそも営業なんて、断られるのが当たり前で、それでいちいち傷ついたり落胆していては仕事にならないでしょう。ストレスに打ち勝つだけのタフな神経も必要とするし、しかも低姿勢に徹して愛想がよく、同時にしたたかさも必要、製品知識も相当のものが必要とされるはずで、これは誰にでも出来る仕事ではないと痛感させられました。

その男女のペア組では、女性のほうがより胆力がありそうで、何度もトライしては戻ってきながら「厳しいですねぇ、ハハハ」なんて云ってますから、仕事とはいえ大したもんだと感服しました。

なんとなく思ったことですが、現役の営業職の人達からみれば、婚活なども日頃の訓練の賜物で、普通の人よりチョロい事かもしれません。なにしろ相手を「落とす」という点にかけては、基本は同じですから、要は人垂らしでなくてはならず、この点の歴史上の天才が豊臣秀吉かもしれません。

2013/04/03 Wed. 01:10 | trackback: 0 | comment: 0edit