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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

アヴデーエワを聴く 

「演奏とは、誰のためのものなのか。何を目的とするものなのか。」
こういう素朴な疑問をしみじみ考えさせられるきっかけになりました。

ユリアンナ・アヴデーエワのピアノリサイタルに行きましたが、期待に反する演奏の連続で、虚しい疲労に包まれながら会場を後にしました。

ショパンコンクールの優勝後に初来日した折、N響と共演したショパンの協奏曲第一番では、まるで精彩を欠いたその演奏には大きな落胆を覚えたものの、その一年後のリサイタルでは見事に挽回、ワーグナーのタンホイザー序曲やプロコフィエフのソナタ第2番などの難曲を圧倒的なスケールで弾いたのには度肝を抜かれました。
そして、これこそが彼女の真の実力だと信じ込み、いささか疑問も感じていたショパンコンクールの優勝も当然だったと考え直し、ぜひとも実演に接してみたいと思っていた折の今回のリサイタルでしたから、半ば義務のようにチケットを買った次第。

プログラムはバッハのフランス風序曲、ラヴェルの夜のガスパール、ショパンの2つのノクターン、バラード第1番、3つのマズルカ、スケルツォ第2番、さらにはアンコールではショパンのワルツ、ノクターン、マズルカを弾きました。

全体を通じて云えることは、作品を深く読み解き、知的な大人の音楽として構築するという主旨なのだろうと推察はするものの、あまりに「考え過ぎ」た演奏で、そこには生の演奏に接する喜びはほとんどありませんでした。
冒頭のバッハでいきなり違和感を感じたことは、様式感が無く、度が過ぎたデュナーミクの濫用で、いかにもな音色のコントロールをしているつもりが、やり過ぎで作品の輪郭や躍動感までもが失われてしまい、全体に霞がかかっているようでした。さらには主導権を握るべきリズムに敬意が払われず、これはとくにバッハでは大いなる失策ではないかと思います。お陰でこの全7楽章からなるこの大曲は退屈の極みと化し、のっけから期待は打ち砕かれました。

続く夜のギャスパールは、出だしのソラソソラソソラソこそ、さざ波のような刻みでハッとするものがありましたが、それも束の間、次第にどこもかしこもモッサリしたダサイ演奏でしかないことがわかります。
ラヴェルであれほどいちいち間を取って、さも尤もらしいことを語ろうとするのは、マロニエ君にはまったく理解の及ばないことでした。
終曲で聴きものとなる筈のスカルボでも、終始抑制を効かせた、意志力の勝った、ことさらに冷静沈着で燃えない演奏で、不気味な妖怪などついに現れないうちに曲は終わってしまいました。

かつてのロシアピアニズムの重戦車のごとき轟音の連射と分厚いタッチの伝統への反動からか、この人はやみくもにp、ppを多用し、当然フォルテもしくはフォルテッシモであるべき音まで、敢えてmfぐらいの音しか出さないでおいて、それが「私の解釈ではこうなるのです」と厳かに云われているようでした。
彼女にすれば、メカニックや力業で聴かせないところに重点を置いているということなんでしょうけれども、いくら思索的であるかのような演奏をされても、そこになにがしかの必然性と説得力がなくては芸術的表現として結実しているとはマロニエ君は思いません。
それぞれの個性の違いはありながら、本当に優れたものは個々の好みを超越したところで燦然と輝くものですが、残念ながらアヴデーエワの演奏にはそれは見あたりませんでした。

この人の手にかかると、リピートさえ鬱陶しく、ああまた最初から聴かなくちゃいけないのか…と少々うんざりして体が痛くなってくるようでした。
音楽というものが一期一会の歌であり、踊りであり、時間の燃焼であるというようなファクターがまったくなく、何を弾いても予めきっちりと決まった枠組みがあり、その中で予定通りに自分の考えた解釈や説明のようなものを延々と披露されるのは、音楽と云うよりは、ほとんどこの人独自の理論を発表する学界かなにかに立ち会っているようでした。

開場に入ってまもなく、CD売り場があり、終演後にサイン会があるというアナウンスを聴いて、ミーハーな気分からサインを頂戴すべく一枚購入しましたが、前半が終わった時点で、これはチケットもCDも失敗だったことを悟りました。
それでも、ちゃっかりサインはしてもらいましたから、自分でも苦笑です。

この日はなにかの都合からか、福岡国際会議場メインホール(本来コンサートホールではない)での演奏会ということで、ここでピアノリサイタルを聴くのは二度目ですが、出てくる音がどれも二重三重にだぶって聞こえてくるようで、響きにパワーがなく、つくづくと会場の大切さを痛感しました。

ピアノはヤマハを運び込むような話も事前に耳にしていましたが、フタを開けてみればこの会場備え付けのスタインウェイDで、久々にCFXを聴けるという楽しみは叶いませんでした。見ればこの日の調律師さんは我が家の主治医殿で、なかなかこだわりのある美音を創り上げていらっしゃるようでしたが、なにしろこの音響と???…な演奏でしたから、その真価を味わうこともあまりできなかったのが残念でした。

アヴデーエワに質問が許されるなら、ひとこと次の通り。
「貴女の演奏は、本当に貴女の本心なんでしょうか?」


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2013/03/31 Sun. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

アップライトの音 

アップライトピアノの音というのは、個々のモデルで多少の違いはあるのは当然としても、基本的なところでは楽器としての構成が同じだからか、ある意味どれも共通したものを感じるところがあります。

また、国産ピアノで云うなら(あくまで大雑把な傾向として)より上級モデルで、且つ製造年が古い方が潜在的に少しなりともやわらかで豊かな音がするのに対し、スタンダードもしくは廉価品、新しいモデルではよりコストダウンの洗礼を受けたものほど、キンキンと耳に立つ、疲れる感じの音質が強まっていくように感じます。

とくに、もともとの品質が大したこともなく、さらに状態の悪いものになると、ほとんどヒステリックといっていいほどの下品な音をまき散らし、ハンマーの中に針金でも入っているんじゃないだろうかと思ってしまいます。
もしも、こういうピアノを「ピアノ」だと思って幼い子供が多感な時期を弾いて過ごしたとしたら、本来の美しい音で満たされる良質のピアノに触れて育つ子供に比べると、両者の受けるであろう影響はきっと恐ろしいほどの隔たりとなるでしょう。

もちろん大人でも同様ですが、子供の方がより深刻な結果にあらわれると思います。
食べ物の好みや言葉遣い、礼儀などもそうですが、幼くして触れるものは計り知れないほど深いところへ浸透し、場合によってはその人が終生持ち続けるほどの基礎体験となることもあるわけで、これは極めて大切な点だと思います。

…それはともかく、国産の大手メーカーのアップライトでいうと、せいぜい1980年代くらいまでの高級機は、今よりもずっと優しい音をしていたと思います。これはひとえに使っている材質が良いとまでは云わないまでも、いくらかまともなものだったし、さらには人の手が今よりいくぶんかかっていたから、そのぶんの正味のピアノにはなっていたのかもしれません。

少なくとも、無理を重ねてカリカリした音を作って、いかにも華やかに鳴っているように見せかけるあざといピアノを作る必要がなかったように思います。ダシをとるのにも、べつに高級品でなくても普通の昆布や鰹節を使って味を出すのと、粉末のダシをパッとひとふりするのとでは、根本的にどうしようもない違いが出るのは当然です。

今はネットのお陰で、いろんなピアノをネット動画で見て聴くことができますが、パソコンの小さなスピーカーというのは意外にも真実を伝える一面があるし、さらに信頼できる良質なスピーカーに繋げば、ほぼ間違いないリアルな音を聞くことができて、あれこれと比較することも可能になりました。

そこで感じたことは、マロニエ君は偏見抜きに自分の好みは少し古いピアノの出す音であることがアップライトに於いても確認できました。もちろん、いつも云うように、あくまでも良好な調整がなされていることが大前提なのはいうまでもなく、この点が不十分であれば古いも新しいもありません。

ただ、現実には大半の個体は調整が不充分で、そういうアップライトピアノには、たとえ高級品であっても一種独特の共通した声のようなものがあり、おそらくは構造的なものからくるのだろうと思いますが、それは状態が悪いものほど甚だしくなるようです。

当たり前のことですが、素晴らしい調整は個々のピアノ本来の能力を可能な限り引き出して、人を心地よく喜びに満たしてしてくれますが、これを怠るとピアノはたちまち欠点をさらけ出し、なんの魅力もないただの騒音発生機になってしまいます。

その点では、誤解を恐れずに云うなら、グランドはまだ腐ってもグランドという面がなくもないようで、アップライトの方が調整不十分による音の崩れは大きいように感じます。そこが潜在力として比較すると、グランドのほうがややタフなものがあるのかもしれません。

そういう意味では常に好ましく美しく調整されていることが、アップライトでは一層重要なのかもしれないという気もしないでもありません。

2013/03/29 Fri. 01:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヤマハビルとの別れ 

先の日曜は、福岡のヤマハビル内で行われた室内楽などの講習会へ知人から誘っていただき聴講してきました。

数日間行われたシリーズのようで、マロニエ君が聴講したのはN響のコンサートマスターである篠崎史紀氏が自らヴァイオリンを弾きながら、合わせるピアノの指導をするというものでした。
小さな部屋でしたが氏の指導を至近距離で見ることができたのは収穫でした。

しかし、この日はなんとも虚しい気分が終始つきまといました。
それは博多駅前にある大きなヤマハビル自体が今月末をもって閉じられることになり、一階にあるグランドピアノサロン福岡も見納めになるからでした。
全国的にもヤマハのピアノサロンは大幅に縮小されるようで、東京と大阪を残して、それ以外はほぼ似たような処遇になるようです。これで福岡(というか西日本の)のきわめて重要なピアノの拠点が失われることになるのは、まったくもって大きな喪失感を覚えずにはいられません。

講習の帰りに、知人らと一緒にグランドピアノのショールームにもこれが最後という思いで立ち寄りましたが、昨年発表されて間もないCXシリーズがズラリと並んでいる光景もどこかもの悲しく、惜別の気持ちはいよいよ高まるばかりでした。

社員の方々もさぞや無念の思いで最後の日々を過ごしておられるだろうと思いますが、ショールームではコーヒーをご馳走になったことで最後のお別れがゆっくりできたような感じでした。

ピアノには片っ端から触るわけにもいかないので、数台あったC5Xと、C6X、C7X、S6などに触らせてもらいましたが、この中では、マロニエ君の主観では圧倒的にC6Xが素晴らしく、それ以外の機種が遠く霞んで見えるほどの大差があったのは驚く他はありません。
通常、同シリーズであれば、サイズが大きくなるにつれて次第に音に余裕と迫力が増してくるものですが、このC6Xの完成度というかキラリと光る突出のしかたは何なのか…と思うほどでした。

C5XとC7Xには互いに共通したものと、その上でのサイズの違いが自然に感じられますが、C6Xはタッチも音もまったく異なり、DNA自体が違う気がしましたが、これは久々に欲しくなったヤマハでした。
また価格も倍近くも違うS6は、個人的にはどう良いのかがまったく理解できず、目隠しをされたらこの両者は価格が逆なんじゃないかと思ってしまうだろうと思います。

最後の最後に、自分でも欲しいと思えるような好みのヤマハのグランドに触れることができたのは、せめてもの幸いというべきで、マロニエ君の中では良い思い出の中で幕が降りることになりそうです。

聞くところによると、現在のピアノの全販売台数のうち、電子ピアノが実に85%を占めるまでになり、アコースティックピアノはアップライトが10%、グランドはわずかに5%なのだそうで、いわば模造品に本物が駆逐されてしまった観がありますが、見方を変えれば電子ピアノの普及によってピアノを気軽に習う人が増えたという一面もあると解釈できるのかもしれません。

折しも日本は、やっと暗い不況のトンネルの出口が見えつつあり、景気回復の兆しがあらわれ始めたところですから、近い将来、少し郊外でもいいので、もう一度ヤマハのショールームが復活する日の来ることを願わずにはいられません。


2013/03/27 Wed. 01:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

若い人の動き 

最近の若い人の動きを見ていると、ちょっとどうかしちゃってるんじゃないかと思われることがよくありますが、過日もまったくそんな光景を目撃することになりました。

天神にはジュンク堂という大型書店がありますが、ここはレジが一階の一ヶ所にまとめられていて、たとえ何階にある本であろうと、お客さんはすべて自分の手で一階へ持ってきてからの精算となります。ジュンク堂がオープンした当初は精算を済ませていない本を持って、そのままエスカレーターに乗り降りすることにずいぶん抵抗感があったことを覚えています。

さて、この日は日曜ということもあってかなかなかの人出で、レジ前には入口出口が設けられていて、その向こうには左右合わせて十人以上の店員さんがフル稼働体制で一斉にレジ業務にあたっています。

数が多いので、手が空いたレジ係はサッと手を上げて、並んでいるお客さんの目に「ここのレジは空きましたよ」というシグナルを送ります。
列に並んだ人達は自然にその動きをじっと見守り、たとえ年配の方でも自分の番が来ると手の上がったレジ係を見つけてすみやかに移動されて列は流れていきますが、むしろ若い人のほうがボーッとしていてそんな状況の動きというかテンポが理解できないのか、いかにも集中力がないという感じで目線も定まらず、手を上げているレジ係のほうを見るでもなく、しばし流れが途絶えてまわりがやきもきさせられてしまうのは驚きです。

しかも、それがこの日は3人も続いたので、マロニエ君の目には「たまたま」ではなく、これは世代的な特徴のように見えてしまいました。

それだけではありません。
若い人の友人らしき人物が、列に並ぶ友人の傍らにいて、これまたいかにもぼんやりしているのですが、そこが出口の通路をやや塞いだかたちになっているので、精算を済ませた人がこの場を出ていくのにも、ずいぶん通りにくそうにその人の背中をかわしながら出ていくのですが、そんな事にもほとんど反応がなく、ちょっと場所をずらそうという気配もないまま、何人もの人がささやかな迷惑をこうむっていました。

これに限ったことではなく、今の若い人の動きや反応を見ていると、こういう感じの場面があまりにも多いような気がします。はじめは単なる横着や不作法かとも思いましたが、どうやらそれだけでもないようで、神経の反応とか適応力がそもそも鈍くなってしまっているような気がします。
同じような光景を見て、似たような印象をお持ちの方もたくさんいらっしゃると思いますが、これは一体何なのだろうと思います。

運転も同じで、広い道のドまん中を、意味のない鈍足で平然と走り続ける若い男性などを見て呆れたことは一度や二度ではありませんが、これも安全運転とはかけ離れた奇妙な気配に満ちていて、ドライバーはどういうつもりなのかさっぱりわからなくなることがあります。最近はさすがにこっちの方が慣れてきて、さほど驚きもしなくなりましたが、こんな若い人達が仕事をバリバリこなして、近い将来、社会を牽引する主役になれるとは到底思えないのは困ったことです。

たぶん、どんなに周りの雰囲気には疎くても、ノロノロ運転しかできなくても、パソコンやスマホを触らせたら理解力もあり、スイスイ自然な操作ができるのかもしれませんけれども…。


2013/03/25 Mon. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

アップライト考 

このところ、いささか訳あって国産のアップライトピアノのことを(ネットが中心ではあるものの)しばらく調べていたのですが、わかってきたことがいくつかありました。

もちろん自分ですべて触れてみて確認したことではなく、多くがネット上に書き込まれた情報から得られたものに拠る内容になりますが、それでも多くの技術者の方などの記述を総合すると、ひとつの答えはぼんやり見えてくるような気がしました。

まず国産ピアノの黄金期はいつごろかと云うことですが、それぞれの考え方や見方によるところがあって、ひとくちにいつと断定することは出来ないものの、概ね1970年代からバブル崩壊の時期あたりまでと見る向きが多いような印象がありました。

バブルがはじけた後あたりから、世の中すべての価値が一変します。あらゆるものにコスト重視の厳しさが増して、とりわけ合理化とコストダウンの波というものが最重要課題となるようです。それに追い打ちをかけるように、21世紀になると世界の工場は中国をはじめとする労働賃金の安いアジアに移ってしまい、ピアノ業界もこの流れの直撃を受けたのは間違いありません。
さらには、少なくとも先進国では情報の氾濫によって人々の価値観が多様化するいっぽう、鍵盤楽器の世界では安価で便利な電子ピアノが飛躍的な進歩を遂げて市場を席巻するなど、従来の本物ピアノが生き残って行くには未曾有の厳しさを経験することになります。

ピアノを構成する素材に於いても、一部の超高級機などに例外はあっても、全体的には製造年が新しくなるほど粗悪になり、もはや機械乾燥どころではない次元にまで事は進んでいるようです。具体的には、集成材やプラスティックなどを多用するようになり、ピアノはより工業製品としての色合いを強くしていくようです。

逆に、バブル期までは様々な高級機が登場して、中には木工の美しさなど、ちょっと欲しくなるような手の込んだモデルもありますが、それ以降はメーカーのモデル構成も年を追う毎に余裕が無くなってくるのが見て取れます。

技術者の方々の意見にも二分されるところがあり、例えば1960年代に登場したヤマハアップライトの最高機種と謳われたU7シリーズあたりを最高とする向きがあるいっぽうで、技術者としてより現実的な観点から、よほどひどい廉価モデルでもない限り、製品として新しいモデルの安心を薦める方も少なくありません。

マロニエ君の印象としては、後者はピアノの音を職業的な耳で聞き、機械部分の傷みや消耗品の問題などを考えると、新しい楽器の持つ確かさ、手のかからなさなどを重視して、道具としてコスト的にも機械的にも新しいピアノが好ましいと考えておられるようです。
いっぽうで、前者の主張には、以前の良質の素材が使われた楽器には、素材だけでなく作り手の志も感じられ、楽器としてもそれなりの価値があり、ひいては所有する喜びもあるというものです。その点で、新しいピアノにはプロの目から見ても落胆とため息ばかりが出るということのようです。

概して、前者のほうは人間的に詩情があり多少の音楽的造詣もある方で、後者はより現実的で、専ら技術とコストの関係を正確に割り出すことに長けた人だと思います。両者共に一理ある考えで、いずれのタイプであっても優秀な技術者の方であることに変わりはないと思いますが、要するに基本となる思想が違うんですね。

マロニエ君はいうまでもなく前者の方々の意見に賛同してしまいます。
なぜなら、やはり少し古いピアノの音のほうが、国産ピアノであっても明らかに「楽器の音」がするし、それはつまり音楽になったとき人の耳に心地よいばかりか、音としての芸術が奥深くまで染み込む力をいくらかはもっていると思うからです。

その点、新しいピアノはそれなりのものでも基本は廉価品の音で、それを現代のハイテク技術を駆使してできるだけもっともらしく華やかに聞こえるように、要はごまかしの努力がされているようにしか感じられません。
実は先日もあるお店で新品を見たのですが、一目見るなり、その安っぽさが伝わりました。アップライトでは最大クラスとされる高さ131cmのモデルも何台かありましたが、その佇まいにはきちんと作られたものだけがもつ重み(物理的な重量のことではなく)や風格が皆無で、傍らに置かれた高級電子ピアノと品質の違いを見出すことはついにできませんでした。

上部の蓋にも、なにひとつストッパーも引っかかりもなく、ただ上に抵抗なく開くだけだし、中低音の弦にもアグラフなども一切ありません。良い楽器を作ろうという作り手側の志は微塵も感じられず、そこに信頼あるメーカーの名が変に堂々と刻まれているぶん、なんだかとても虚しい気がしました。

それなら、いっそ良質の中国製の最高級クラスを買ったほうが、まだ潔い気もしますし、楽器としての実体もまだいくらかマシかもしれません。

2013/03/22 Fri. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピリスの新譜2 

数日に前に書いたピリスのシューベルトのソナタのCDですが、日に日にどうしても手に入れなくては気が済まなくなり、天神に出る用事を半ば無理に作ってCD店に行き、ついに買ってきました。

これはメジャーレーベルの輸入盤でもあり、本当はネットショップでまとめ買いした方が安いのですが、そんなことを言っていたら先のことになるので、この1枚を急ぎ買いました。

そして自宅自室でじっくり聴いてみると、はじめの出だしからして過日試聴コーナーで聴いたものとはまるで音が違うのには、思わず耳を疑いました。ちなみにこのアルバムは、シューベルトのピアノソナタ(D845、D960)の2曲が収録されており、曲の並びはD845が先でこれは当然というべきで、不安げなイ短調の第一楽章がはじまりますが、その音は先日聴いたのとはまったく別のピアノとでもいうべきものでした。

数日前、このアルバムを試聴した印象ではヤマハCFXかスタインウェイか断定できないと書きましたが、こうして自分の部屋で聴いてみると、何分も聴かないうちにスタインウェイであることがほぼわかりました。すぐにジャケットに記されたデータを見たのは言うまでもありませんが、ここには使用ピアノのことは一切触れられていませんので、あるいはヤマハとの兼ね合いもあってそういう記述はしないように配慮されているのかもしれません。

スタインウェイということはわかったものの、このCDのように2曲のソナタが収録されているような場合、それぞれ別の日、別の場所で録音されたものがカップリングされることも珍しくありません。しかし録音データにはそのような気配もなく、すぐにD960へ跳びましたが、こちらも変化はなくD845と同じ音質で、いかにもな美音が当たり前のようにスピーカーら出てくるのには当惑しました。
前回「ややメタリックな感じもある」などと書いてしまいましたが、そういう要素は皆無で、CD店の試聴装置がそこまで音を改竄して聴かせてしまっていることにも驚かずにはいられません。以前からこの店のヘッドフォン(あるいは再生装置そのもの)の音の悪さは感じていましたが、これほど根本的なところで別の音に聞こえるというのは、さすがに予想外でした。

録音データにはピアノテクニシャン(調律師)としてDaniel Brechという名前が記されています。
この名前でネット検索すると、この人のホームページが見つかり、多くの著名ピアニストと仕事をしている名人のようですから、きっとヨーロッパではかなり名の通った人なのだろうと思われます。
どうりでよく調整されているピアノだと思ったのは納得がいきました。

ただ前回「どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと」と書いていますが、電子ピアノというのは言い過ぎだったとしても、マロニエ君の個人的な好みで云うなら、新しい(もしくは新しめの)ピアノをあまりにも名人級の技術者が徹底して調整を施したピアノというのは、なるほどそのムラのない均一感などは立派なんだけれども、どこかつまらない印象があります。

職人の仕事としては完璧もしくは完璧に近いものがあっても、ではそれによって聴く側がなにか心を揺さぶられたり、深い芸術性を感じるかというと、必ずしもそうとは限らないというのがマロニエ君の感じているところです。
このようなピアノは、同業者が専門的観点から見れば感動するのかもしれませんが、マロニエ君のような音楽愛好家にとってはあまりにも楽器が製品的に「整い過ぎ」ていて、個々の楽器のもつ味わいとか性格みたいなものが薄く、かえって退屈な印象となってしまいます。

とりわけ新しいピアノがこの手の調整を受けると、たしかに見事に整いはしますが、同時にそれは無機質にもなり、演奏と作品と楽器の3つが織りなすワクワクするような反応の楽しみみたいなものが薄くなってしまうように感じるのです。

最近はCDでもこの手の音があまりに多いので、もしかしたら日欧で逆転現象が起こり、日本の優秀なピアノ技術者の影響が、今では逆にヨーロッパへ広まっているのではないか…とも思ってしまいます。こういう水も漏らさぬ細微を極めた仕事というのは、本来日本人の得意とするところで、まるで宮大工の仕事のようですが、それが最終的には生ピアノらしい鮮烈さやダイレクト感までも奪ってしまって、結果として「電子ピアノ風」になるのでは?とも思います。

その点では従来のヨーロッパの調律師(少なくとも名人級の)はもっと良い意味での大胆で表情のある、個性的な仕事をしていたように思います。

ピリスの演奏について書く余地が無くなりましたが、とりあえず素晴らしい演奏でした。さらにはこのCD、収録時間が83分24秒!とマロニエ君の知る限り最長記録のような気がします。

2013/03/20 Wed. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

石鹸と薬事法 

以前にも一度セッケン(石鹸)のことを書いた覚えがあります。
シャボン玉せっけんのベーシックの無添加石鹸は、たとえパッケージに「何用」と書いてあっても、中は基本的にどれも同じものらしいということを友人から教えられ、確認のため会社に電話して質問してみると、果たしてその通りだったという話です。

それいらい、マロニエ君はバス用には大型割安ということで、同社の洗濯用固形石鹸を使っていました。いうまでもなく中身は同じで、はるかにお得というわけです。

自慢ではありませんが、マロニエ君は肌が刺激に弱く、下手な化粧石鹸やシャンプーなどを使うとてきめんに皮膚が音を上げますし、手洗い用の石鹸でもちょっと添加剤のあるものなどを使おうものなら、すぐに手の甲がヒリヒリしてきて肌に合わないことを痛感させられます。
そういうわけで、我が家ではマロニエ君の手の甲の皮膚は便利な試験台のようなものになってしまっています。

そして、このシャボン玉せっけんの洗濯用というのは、名前こそ「洗濯用」となっていますが、その実体は無添加の純良なやさしい石鹸であることは論より証拠で、使ってみればわかります。ところが、一般的に洗濯用というと粉末洗剤が普及しているためか、なかなかこれを置いているスーパーがありません。

いつでも必要なときにサッと買えなくては実用品の意味がないので、見かけたときはできるだけ余分に買うようにしていました。
たしか「洗濯用」になることで、良質の石鹸が実質半額ぐらいで使えるのが気分がよろしいというだけのことで、裏を返せば甚だセコイ話ではあるのですが…。

中にはいろいろなオイルから抽出した高級品風なものもありますが、マロニエ君の場合はベーシックな無添加石鹸で十分だと考えています。
ところで、この石鹸成分98〜99%の純石鹸というのはなにもシャボン玉に限ったことではなく、別の会社からも同様品が出ているのは皆さんもご承知のことでしょう。

シャボン玉に並んで目にする無添加石鹸にミヨシというのがあり、こちらも見ると成分は変わりませんが、やはり訳あっていろいろな種類というか、つまりパッケージとサイズの違いで商品構成されているのが見受けられます。

こちらにも洗濯用があり、成分は98%石鹸成分なので手洗いやお風呂に使ってもいいだろうという思われ、思い切ってそのような使い方をしてみましたが、案の定、マロニエ君の「弱肌?」で試しても何の問題もないようです。
それが数ヶ月続きましたが、もちろん問題などは発生しませんでしたが、あらためてパッケージを見ると「お客様相談室」なるところがあるらしく、そこに確認の電話をかけてみることにしました。

ただ正面切って貴社の洗濯用をお風呂用として使ってもいいか?と正面切って聞くのもためらわれましたので、戦略を変えてちょっとばかりウソをつきました。
「洗濯用という文字を良く見ないまま、間違ってお風呂で使っていて、後で気付いたんだが、問題はないだろうか?」という変化球を投げてみました。

すると、なんとも柔和すぎる男性の声で「ご安心ください。まったくご心配はございません。普通にお身体をきれいにされる石鹸と同じです。」ときた。「では、どうしてわざわざ洗濯用というふうに区別しているんですか?」と聞いてみると、「それは、薬事法というものがございまして、弊社はそれに従って製造・販売をさせているものですから…」「では、今後も洗濯用をお風呂用として使っても心配はありませんか?」ときくと、「もちろん大丈夫なんですが、はっきり「どうぞ」とは申し上げられませんので、ここはあくまでも「自己責任で」ということでお願い致します。」という、なんとも石鹸の泡のようなふわふわやわらかい答えが返ってきました。

要するに、同じものなんだからドーゾというわけで、ただお風呂にはできれば「バス用」と記したもっと割高な製品を買って欲しいというところでしょう。これが本当にもしダメなら「即刻、ご使用をおやめください!」となるはずですから、99%大丈夫という風にマロニエ君は解釈しました。

そうそう、「純石鹸」と「無添加石鹸」という表記にも薬事法絡みの事情がありそうですが、面倒臭いのでそこまでは調べませんでした。

2013/03/18 Mon. 01:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピリスの新譜 

過日書いたホロヴィッツのスタインウェイ使用のCDと似たような時期に、ピリスのシューベルトの最後のソナタがリリースされており、これも運良く試聴コーナーで聴けました。

ピリスは少なくとも日本ではヤマハのアーティストのようなイメージで、ヤマハの広告媒体にもその名と顔などがいかにも専属のピアニストという感じになっていますが、これまで出してきたCDなどは、大半は(というか、知る限りはすべて)ちゃかりスタインウェイを使っています。

以前、彼女のインタビューがありましたが、「ヤマハは素晴らしいけど日本のホールのような音響の優れた会場ならば使ってもいいが、そうでない場所ではスタインウェイを弾く」というような意味の発言があり、どうも全面的にはヤマハを信頼していないような気配が伺えました。

しかも、不思議なことにはセッションの録音で、モーツァルトのような必ずしもスタインウェイがベストとも思えないような曲を録音するにも、やっぱりなぜかスタインウェイを使っています。

今回のD960(最後のソナタ)の第一楽章を聴いていて、冒頭から聞こえてくるのは軽く弾いても明瞭に鳴る音が耳につきました。とても反応のよいピアノだという印象です。ややメタリックな感じもあって一瞬ヤマハかとも思いましたが、しばらく聴いていると…やはりスタインウェイのようにも感じましたが、試聴コーナーのヘッドフォンは音がかなり粗っぽく断定には至りませんでした。

録音のロケーションはハンブルクですから、普通ならスタインウェイのお膝元ということになりますが、セッションの段取りというのは必ずしもそういうことで決まっていくのではない事かもしれませんし、ピリスが録音にCFXを使うと言い出せば、現地のヤマハはなにをおいても迅速にピアノを準備するのだろうと思います。

HJ・リムがCFXで弾いたベートーヴェンは、演奏はきわめて個性的で見事だったものの、楽器はとうてい上品とは言い難いもので驚きでしたが、このシューベルトに聴くピアノがもしCFXであれば、一転してなかなかのものだと素直に思いますし、逆にスタインウェイであればずいぶん普通の、そつのない感じの音になったものだと思います。もちろん試聴コーナーでちょっと聴いただけでは確証は持てませんし、そんなふうに音造りされたスタインウェイなのかもしれませんが、いずれにしろ調整そのものは素晴らしくなされている楽器だとは感じました。

ピリスのD960はぜひとも買いたいと思っていたCDのひとつだったのですが、この静謐な悲しみに満ちた最後の大曲を、どことなく電子ピアノ風の美しい音で延々と聴かされると思うと、つい躊躇ってしまうようで、昨日は急いでもいたし、とりあえず買うのは保留にしました。

…でも、あとからその演奏はかなり素晴らしいものだったことが思い起こされるばかりで、ピアノの音はさておいてもやはりこれは購入しないわけにはいかないCDと意を新たにしました。

少なくとも、ピリスというピアニストは絹の似合うショパンに質素な木綿の服を平然と着せてお説教しているようなところがありますが、それがシューベルのような音楽には向いていて、彼女の持つ精神性が遺憾なく発揮されるようです。


2013/03/15 Fri. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

車に見えるもの 

このところ険悪な状態となって久しい日中関係ですが、中国の話題に接するたび、過去何度か訪れた中国のことをよく思い出します。現地に行くと、目に飛び込んでくるものには驚かされることの連続で、おかげで退屈しているヒマなんてありません。
すごいことは文字通り山のようにあって、はじめはいそがしくあちこち目が向きますが、しだいに落ち着いてくると、少し冷静な目を向けられるようにもなります。

たとえば車です。
中国にはむろん中国製の車もそれなりには走っていますが、現地生産を含む日米欧の高級車の割合が高く、日本でいうとバブルの頃を思い出すような大型車が街中にあふれています。何でも大きいほどエライ、値段が高いほどエライという尺度がこの国では単純明快すぎるほど支配しているようで、その割りにどれもあまりきれいではなく、街も車も大抵はかなり汚れているのも特徴です。

それに較べると、日本に帰ってきてまっ先に感じるのは、とにかく街が清潔で感動的に美しいことと、走っている車もきれいだけれども小さいことです。どうかすると信号待ちなどをしていて周りはすべて黄色いナンバーの軽自動車に取り囲まれるなんて状況も決して珍しくはありません。普通車でも、今やコンパクトカーの占める割合が大きく、とにかく以前のような高級大型車が肩で風を切って走っているというような光景は劇的に少なくなりました。

マロニエ君は昔からクルマ好きで、いまだに購読を続けている自動車雑誌もありますが、自動車文化としての観点から大雑把に云うなら、必要以上に大きい車に乗りたがる人ほど、平たくいうとハッタリ屋で、拭いがたいコンプレックスの裏返しという事は社会学的にも裏付けられています。
それは社会が未成熟なほど、車がステータスシンボルとしての役目を果たすからで、当然のようにそんな心理にはまった人達は自分のライフスタイルに沿った、TPOに適った、身の丈に合った、知的で良識ある車選びということが出来ません。
もっぱらの問題は収入や預金通帳の残高と、見栄えの良さや話題性の高い注目度の高いモデルであるか否かばかりが判断基準となります。

その点では、現在の日本はというと、日本人の精神的成熟の度合からというより、長引く不景気やデフレが背景となって、誰も彼もが続々と小さい車へと乗り換えました。マロニエ君も一時はおもしろ半分にそんな手合いに乗ってみましたが、やはり自分の用途と体型と趣向に合致しないことがわかり、昨年乗り換えたばかりですが、今の日本の小型車志向、さらには自転車依存はむしろ不健全な印象で、この点はアベノミクスによって今後は少しでも改善されればと思います。

逆に、むやみに大きな、分不相応な車に乗る人というのは、実は本人が思っているほど傍目にカッコイイものではないことは断言できます。ベンツのSクラスやレクサス、あるいは空間を運んでいるだけみたいな大型の仰々しいワンボックスや大きなRV車などを、拙い運転の女性がアゴを突き出しながら乗って来て、スーパーの駐車場などでさも不自由そうに、なんとか駐車枠に止める奇妙な光景などを目にすると、逆に気の毒で、かえって貧相なものを見ているような気分にさせられます。

一方、男もずいぶんと運転に関しては変わりました。
もちろん高価なスーパーカーや大型高級車がもつ車の威を借りて、これみよがしに走り回る連中なんかが男性的だなどとは云いませんが、少なくとも自分の運転技術を磨いてスポーツカーをいかにスムーズで美しく乗りこなすかという、技巧派のモータリストの類などはすっかりマイノリティーになってしまったのかもしれません。「峠を攻めに行く」なんて言葉も死語に近いようですが、この言葉が生きていた時代の男は平均して女性より圧倒的に運転が上手い時代でした。
今は燃費や維持費ばかりを偏執的に気にして、そのためのケチケチ運転をするドライバーが大繁殖していて、覇気もなく、なにか大事なものを失ってしまったかのようです。むろん何に価値を置き、何に熱中しようと、それは人の勝手ですけれども…。

車に限ったことではありませんが、物事の本質を極めたいと願うような純粋な精神はだんだんに失われ、何事も薄味の、甚だ色気のない時代になっていることは間違いないようです。


2013/03/13 Wed. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

調律師ウォッチング 

ピアノリサイタルに出かけるときの楽しみは、云うまでもなく素晴らしい演奏をじかに聴くことであり、その音楽に触れることにありますが、脇役的な楽しみとしては、会場のピアノや音響などを味わうという側面もあります。

そしてさらにお菓子のオマケみたいな楽しみとしては、ステージ上で仕事をする調律師さんの動向を観察することもないではありません。
もちろん、開場後の演奏開始までの時間と休憩時間、いずれも調律師がまったくあらわれないことも多いので、この楽しみは毎回というわけではありませんが、ときたま、開演ギリギリまで調律をやっている場合があり、これをつぶさに観察していると、だいたいその日の調律師の様子から、その後どういう行動を取るかがわかってきます。

開場後、お客さんが入ってきても尚、ステージ上のピアノに向かって「いかにも」という趣で調律などをしている人は、ほぼ間違いなく休憩時間にも待ってましたとばかりに再びあらわれて、たかだか15分やそこらの間にも、さも念入りな感じに微調整みたいなことをやるようです。

ある日のコンサート(ずいぶん前なのでそろそろ時効でしょう)でもこの光景を目にすることになり、この方は以前も見かけた記憶がありました。
開演30分も前から薄暗いステージで、ポーンポーンと音を出しては調律をしていますが、開演時間は迫るのに、一向に終わる気配がないと思いきや、もう残り1分か2分という段階になったとき、あらら…ものの見事に作業が終わり、テキパキと鍵盤蓋を取りつけて、道具類をひとまとめに持って袖に消えて行きます。…と、ほどなく開演ブザーが鳴るという、あまりのタイミングのよさには却って違和感を覚えます。

前半の演奏が終わり、ステージの照明が少し落とされて休憩に入ると、ピアノめがけてサッとこの人が再登場してきて、すぐに次高音あたりの調律がはじまりますが、こうなるとまるでピアニストと入れ替わりで出てくる第二の出演者のような印象です。

面白いのはその様子ですが、何秒かに一度ぐらいの頻度でチラチラと客席に視線を走らせているのは、あまりにも自意識過剰というべきで、つい下を向いて小さく笑ってしまいます。
あまりにもチラチラ視線がしばしばなので、果たして仕事に集中しているのか、実は客席の様子のほうに関心があるのか判然としません。

調律の専門的なことはわからないながらも、出ている音がそうまでして再調律を要する状態とも思えないし、その結果、どれほどの違いが出たとも思えません。
この休憩時もフルにその時間を使って「仕事」をし、15分の休憩時間中14分は何かしらピアノをいじっているようで、まあ見方によっては「とても仕事熱心な調律師さん」ということにもなるのでしょう。

コンサートの調律をするということは、調律師としては最も誇らしい姿で、それを一分一秒でも多くの人の目にさらして自分の存在を広く印象づけたいという思惑があるのかもしれませんが、何事にも程度というものがあって、あまりやりすぎると却って滑稽に映ってしまいます。

もちろんそういう俗な自己顕示には無関心な方もおられて、マロニエ君の知るコンサートチューナーでも、よほどの必要がある場合は別として、基本的にはお客さんの入った空間では調律をしないという方針をとられる方も何人もいらっしゃいます。

だいいちギリギリまで調律をするというのは、いかにもその調律は心もとないもののようにマロニエ君などには思えます。ビシッとやるだけのことはやった仕事師は、あとはいさぎよく現場を離れて、主役であるピアニストに下駄を預けるというほうが、よほど粋ってもんだと思います。

どんな世界でもそうでしょうが「出たがり」という人は必ずいるようで、これはひとえに性格的な問題のようですね。

2013/03/11 Mon. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

松田理奈 

NHKのクラシック倶楽部で、岡山県新見市公開派遣~松田理奈バイオリン・リサイタル~というのをやっていました。
なんだかよく意味のわからないようなタイトルですが、岡山県の北西部にある新見市という山間の田舎町でおこなわれたコンサートの様子が放送されました。

演奏の前に町の様子が映像で流されましたが、山を背景に瓦屋根の民家ばかりがひっそりと建ち並ぶ風景の村といったほうがいいようなところで、ビルらしき物などひとつもないような、静かそうで美しいところでしたが、そんなところにも立派な文化施設があり、ステージにはスタインウェイのコンサートグランドがあるのはいかにも日本という感じです。こういう光景にきっと外国人はびっくりするのでしょうね。

松田理奈さんは横浜市出身のヴァイオリニストとのことで、マロニエ君は先日のカヴァコスに引き続き、初めて聴くヴァイオリニストでした。
よくあるポチャッとした感じの女性で、とくにどうということもなく聴き始めましたが、最初のルクレールのソナタが鳴り出したとたん、その瑞々しく流れるようなヴァイオリンの音にいきなり引き込まれました。

良く書くことですが、いかにも感動のない、テストでそつなく良い点の取れるようなキズのない優等生型ではなく、自分の感性が機能して、思い切りのよい、鮮度の高い演奏をする人でした。
なによりも好ましいのは、そこでやっている演奏は、最終的に人から教えられたものではなく、あくまでも自分の感じたままがストレートに表現されていて、そこにある命の躍動を感じ取り、作品と共に呼吸をすることで生きた音楽になっていることでした。

わずかなミスを恐れることで、音楽が矮小化され、何の喜びも魅力もないのに偏差値だけ高いことを見せつけようとやたら難易度の高い作品がただ弾けるだけという構図には飽き飽きしていますが、この松田理奈さんは、その点でまったく逆を行く自分の感性と言葉を持った演奏家だと思いました。

音は太く、艶やかで、とくに全身でおそれることなく活き活きと演奏する姿は気持ちのよいもので、聴いている側も音楽に乗ることができて、聴く喜びが得られますし、本来音楽の存在意義とはそのような喜びがなくしてなんのためのものかと思います。

全般的に好ましい演奏でしたが、とくに冒頭のルクレールや、ストラヴィンスキーのイタリア組曲などは出色の出来だったと思います。

後半はカッチーニのアヴェマリア、コルンゴルトやクライスラーの小品と続きましたが、非常に安定感がある演奏でありながら、今ここで演奏しているという人間味があって、次はどうなるかという期待感を聴く側に抱かせるのはなかなか日本人にはいないタイプの素晴らしい演奏家だと思いました。
惜しいのはフレーズの歌い回しや引き継ぎに、ややくどいところが散見され、このあたりがもう少しスマートに流れると演奏はもっと質の高いものになるように感じました。

アリス・紗良・オットもそうでしたが、この松田理奈さんもロングドレスの下から覗く両足は裸足で、やはり器楽奏者はできるだけ自然に近いかたちのほうが思い切って開放的に演奏できるのだろうと思います。

このコンサートで唯一残念だったのはピアニストで、はじめから名前も覚えていませんが、ショボショボした痩せたタッチの演奏で、ヴァイオリンがどんなに盛り上がり熱を帯びても、ピアノパートがそれに呼応するということは皆無で、ただ義務的に黒子のように伴奏しているだけでした。

そんな調子でしたが、ピアノ自体はそう古くはないようですが、厚みのある響きを持ったなかなか良い楽器だと思いました。

2013/03/09 Sat. 01:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

変人の純粋 

マロニエ君は世に言う「変人」という人達が、世間一般よりも嫌いではありません。もちろん変人にもいろいろありますから、その中のごく一部ということになるのかもしれませんが。

ある時にふと気が付いたのですが、いわゆる変人というか、ちょっと変わった人というのは、興味深いことに自分以外の変人には極めて冷淡な場合があるようで、これには驚きました。同性や、同じ職業の人の間に流れる緊迫感と同じように、変人同士というのは一種のライバルになるのでしょうか。

こういうことを書いて誤解されると困りますが、マロニエ君は中途半端な常識人よりは、却っていささかぐらいなら変人の方がウマが合う場合が少なくありません。
それはアナタ自身が変人だからでしょう!と言われてしまいそうですが。

変人というのは、人よりもどこか変わっているぶん、俗事に疎く、そのぶん純粋である場合があるということをマロニエ君は経験的に知り、ホッとさせられるものがあるのです。
悲しいかな現代人がなにかにつけ計算高く、人を無邪気に信頼できなくなっているこの時代、そんな中でいささか外れた道を歩んでいる変人には、却って正直で信頼に値する一面があるからだと思います。

尤も、この変人にしろ常識人にしろ、その定義は甚だ難しいので、ここはあくまでも自分の主観によって判じ分けているわけですが、とにかく個人的に苦手なのは平凡で食えない平均人です。
とはいっても変人にも程度問題というのがあって、お付き合いに支障が出るような御仁もいらっしゃいますから、そのあたりは到底マロニエ君の手に負えるものではありませんが、多少ならば純粋さの代償として無意識のうちにこちらのほうを好んでいると自分に気づきます。

では変人の特徴はどこにあるかということですが、まっ先にマロニエ君が単純素朴に思いつく要素は、人に合わせること、つまり協調の機能が弱い人ということになります。さらには、そのためにいろんな損もしている人ということでしょうか。
純粋ぶっていても、それを計算や演技でやっている人は、人一倍損得勘定に長けていて、決して損になるようなことはしませんし、そのあたりは逆に普通以上に用心深かったりしますが、天然の変人はそのあたりはまるでお構いなしで、見事に己の道をまっしぐらです。

これは信念や度胸があるからではなく、それしかできないからみたいです。

変人には変人なりのバラエティに富んだ特徴があり、とても一口に言い表すことはできませんが、困ったパターンとしては他者にめっぽう厳しいということがあるように思います。自分も変人のクセして自分以外の変人とは絶望的に相性が悪く、気持ちの上でも決して寛大さを見せてくれません。自分が出来ないことは多々あっても、自分が出来ることで人が出来なかったら、その批判や追求などは容赦ないものがあります。

このパターンは、思うに変人は変人故に、平生から常に人からハンディといえば語弊があるかもしれませんが、少なくとも相手の我慢によって支えられ、寛大に接してもらうことに慣れている場合が多いのですが、相手も変人となれば、普通の人のように特別扱いはしてくれないために、そこでなんらかの火花が散り、相手を敵視し、本能的に避けようとするようです。

動物が嫌いな人の中にも、このパターンを認めることができますが、動物(とくに犬猫)は、人間にハンディはくれませんし、それでも寛大に愛情深く接することが要求されますから、ある種の変人にこれができないのはなんとなく頷ける気がします。
吉田茂は犬が嫌いな人間とは口もきかなかったと言いますが、それもなるほどひとつの物差しだとはいえるでしょう。

2013/03/07 Thu. 00:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

NHKの変化 

金曜日のBSプレミアムで、旅のチカラ「“私のピアノ”が生まれた町へ ~矢野顕子ドイツ・ハンブルク~」という番組が放送されました。

ニューヨーク在住のミュージシャン、矢野顕子さんがニューヨーク郊外の「パンプキン」という名の自分のスタジオに、プロピアノ(ニューヨークにあるピアノの貸出業/販売の有名店)で中古でみつけたハンブルク・スタインウェイのBをお持ちのことは、以前から雑誌などで知っていました。

番組は、そのお気に入りのピアノのルーツを探るべく、ドイツ・ハンブルクへ赴いてスタインウェイの工場を尋ねるというものでした。ただ、なんとなく奇異に映ったのは、ニューヨークといえばスタインウェイが19世紀に起業し、有名な本社のある街であるにもかかわらず、そういう本拠地という背景を飛び越えて、敢えてドイツのスタインウェイに取材を敢行するというもので、ここがまず驚きでした。

また、あのお堅いNHKとしては、はっきりと「スタインウェイ」というメーカー名を言葉にも文字にもしましたし、番組中での矢野さんもその名前を特別な意味をもって何度も口にしていました。
このようなことは以前のNHKなら絶対に考えられないことで、ニュースおよび特別の事情のない限り特定の民間企業の名前を出すなどあり得ませんでした。とりわけマロニエ君が子供のころなどは、そのへんの厳しさはほとんど異常とも思えるものだった記憶があります。

例えばスタジオで収録される「ピアノのおけいこ」などはもちろん、ホールで開かれるコンサートの様子でも、ピアノは大抵スタインウェイでしたが、そのメーカー名は決して映しませんでした。とはいっても、ピアノはお稽古であれコンサートであれ、演奏者の手元を映さないというわけにはいきませんから、その対策として、黒い紙を貼ったり、スタジオやNHKホールのピアノにはSTEINWAY&SONSの文字を消して、その代わりに、変なレース模様のようなものを入れて美しく塗装までされていたのですから、その徹底ぶりは呆れるばかりでした。

さすがに最近ではそこまですることはなくなって、はるかに柔軟にはなったと思っていましたが、こういう番組が作られるようになるとは時代は変わったもんだと痛感させられました。

同じ会社でもハンブルクの工場は、ニューヨークのそれとは雰囲気がずいぶん違います。やはりドイツというべきか、明るく整然としていて清潔感も漂いますが、この点、ニューヨークはもっと労働者の作業場というカオスとワイルドさがありました。

番組後半では、創業者のヘンリー・スタインウェイの生まれ故郷にまで足を伸ばし、彼の家が厳寒の森の中で仕事をする炭焼き職人だったということで、幼い頃から木というものに囲まれ、それを知悉して育ったという生い立ちが紹介されました。
ヘンリーがピアノを作った頃にはこの森にも樹齢200年のスプルースがたくさんあったそうですが、今では貴重な存在となっているようです。

またハンブルクのスタインウェイでも21世紀に入ってからは、ドイツの法律で楽器製作のための森林伐採が規制されたためにニューヨークと同じアラスカスプルースに切り替えられたという話は聞いていましたが、ハンブルクのファクトリーでも「響板はピアノの魂」などといいながらも、アラスカスプルースであることを認める発言をしていました。

昔に較べていろいろ云われますが、スタインウェイの工場はそれでもいまだに手作り工程の多い工房に近いものがあり、その点、いつぞや見た日本や中国のピアノ工場は、まさに「工場そのもの」であり、楽器製作と云うよりも工業の現場であったことが思い出されます。

番組中頃で矢野さんがある演奏家の家を尋ねるシーンがありましたが、ドアを入ると家人が第二次大戦中に作られたという傷だらけのスタインウェイでシューベルトのソナタD.894の第一楽章を弾いていて、それに合わせて矢野さんがメロディーを歌うシーンがありましたが、そのなんとも言い難い美しさが最も印象に残っています。

2013/03/04 Mon. 01:19 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホロヴィッツのピアノ 

いまさら言うまでもありませんが、以下の感想はまったくマロニエ君個人の印象であることを、あらためて申し述べた上での感想です。

最近発売されたCDの中に、ホロヴィッツが初来日したときに持ってきたニューヨーク・スタインウェイを日本のさる会社が購入し、それを使って録音したCDがあります。
演奏は日本人の若い女性ですが、この人のCDは別の100年前のスタインウェイを使ったとかいうサブタイトルか何かに引き寄せられて一度購入して聴きましたが、二枚目を買うほどの気持ちにはなれないでいました。

しかし、今回のアルバムでの使用ピアノが、ホロヴィッツがステージでしばしば弾いたピアノそのものともなると、勢い興味の対象はそちらに移行してちょっと音だけでも聴いてみたいもんだとは思いましたが、それだけのために買う気にもなれないので諦めていたら、なんとそれが店頭の試聴コーナーに供してありました。

ほとんど買うつもりのないCDであっただけに、聴く機会もないだろうと思っていた矢先のことで、なんだか猛烈にラッキーな気になり、思わず興奮してしまいました。
興奮の種類にもいろいろあって、こんなみみっちい興奮もあるのかと思うと我ながら苦笑してしまいます。

結果から先に言いますと、まったくノーサンキューなサウンドが溢れ出し、とても長くは聴いてはいられないと思って、ササッといろんな曲を飛ばし聴きして、早々にやめてしまいました。
なるほどホロヴィッツの弾いたピアノであることはイヤというほどわかりましたが、演奏者が違うと、正直とても普遍的な好ましさがあるとは感じられず、ひどく疲れました。

あのピアノは、完全にホロヴィッツの奏法と音楽のための特殊なもので、それを普通のピアニストが弾いても、ただ下品でうるさくてメタリックな音が出るだけで、すごいとは思いましたが、魅力的とは感じられません。

ホロヴィッツのあの繊細優美と爆発の交錯、悪魔的な中にひそむエレガントの妙、常人には及びもつかないデュナーミク、そして数人で弾いているかのような多声的な表現が変幻自在になされたときに初めて真価を発揮する、極めてイレギュラーなピアノだというのが率直な印象。

こういうピアノも、なんらかの伝手と、チャンスと、お金があれば手に入れられるのが世の中というものかもしれませんが、こういう楽器を購入し、それをビジネスに供しようという考え自体がとてもマロニエ君にはついていけない世界のように思えてなりませんでした。


2013/03/02 Sat. 01:00 | trackback: 0 | comment: 0edit