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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

やってしまった 

マロニエ君はCDをよくネットからまとめて購入するのですが、他のものと違ってCDは発売間近であったり、輸入盤の場合は再入荷待ちといったような状況によく出くわします。

これがひどいときにはひと月ぐらい待たされることもあるわけで、届いたときにはこちらの気分もすっかり変わってしまっていることがあるものです。
さらには、その時期によって聴いている音楽にもマイブームがあって、ひとつの作曲家や演奏家のものを系統的・集中的に聴いているときに、それとはまったく関係のないCDが届いても、とても聴く気になれず、そのまましばらく放置してしまうことが珍しくありません。

マロニエ君はテレビのクラシック放送でもそうですが、録画をしておいて、こちらの気分が向いたときにしか観ようとは思いませんので、このブログでもひと月も前の放送に関して印象を書いたりすることがしばしばとなるのです。

こんな感じですから、未開封のCDもかなりあるわけで、ひどい場合は買ったことも我が家に存在していることも忘れてしまうこともあったりで、これが二重買いもととなり危険なのです。
何度もそんな経験をしているので、できるだけジャケットだけは印象に残しておこうとは日頃から思いますが、なかなか不徹底で、先日もまたやってしまいました。

サンドロ・イヴォ・バルトリの弾く、ブゾーニの対位法的幻想曲と7つの悲歌集で、表紙に肩肘を付いたブゾーニの写真をあしらった印象的なジャケットは覚えがあったのですが、それをマロニエ君はネットで見たものと思い込んでしまっており、天神で購入して帰宅したところ、なんか嫌なものが気に差し込んで、ガサゴソやってみるとなんと同じ物が箱の中から出てきました。

ちょうどワゴンセールで漁ってきたものなので、そんなに高いものでもないのですが、それでも同じ物を2枚買ってしまうというのは気持的に悔しいものですが、自分がしたことですから誰を恨みようもありません。

というわけで、ともかく聴いてみることに。
対位法的幻想曲は休みなしに34分ほどある大曲ですが、もともとは一時間半にもおよぶ長大な作品であったというのですから驚かされます。ブゾーニのピアノ曲としては代表作ですが、つかみどころのない曲想と、どこかグロテスクな彼の精神の錯綜が絶え間なく続く作品です。
2枚も買っておいて、こんなことを云うのもどうかとは思いますが、マロニエ君はどうもブゾーニの作品はあまり自分の好みではなく、いつも聴くたびに恐怖絵を見るような暗さを感じてしまいます。

7つの悲歌集のほうが、まだしも穏やかな表情もありますが、暗く陰鬱な音楽という点では変わりはありません。暗い音楽ならスクリャービンの方がよほど自分の趣味に適っており、ブゾーニは曲想とか精神がもうひとつ作品になりきれていないような気がして、聴く者は翻弄され破綻へと追い込まれていくようです。
ブゾーニは対位法に執着した作曲家だと云われますが、それよりはリストの影響の方が色濃く出ており、とくにリスト晩年の作を彷彿とさせるようなところが大きいように感じます。

これらの二つの作品を合わせて73分にも及ぶ演奏ですが、サンドロ・イヴォ・バルトリの演奏はこれらの曲を聴くには十分な技量を持った、とても優秀なピアニストだと思われました。
楽器も録音もかなり満足のいくものだと思います。

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2013/02/28 Thu. 01:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

東区にホールが 

このところ福岡市東区の国道3号線、およびその周辺道を通ることが何度かありましたが、目を見張るのは、この一帯は昔が何であったのかさえすぐには思い出せないほど近代的な景観に生まれ変わって、高層マンションなどがいくつも出来ているし、周辺の道路も美しく整備されて、以前の面影はまったくないことでしょう。

中心になる2棟の大型高層マンションなどは、数年前までは工事費用の問題からか売れる見込み立たなかったのか、詳細は知りませんが、工事そのものが途中で頓挫して、半分ぐらい出来上がったコンクリートの外壁が、哀れな姿を晒していたものでしたが、その後工事も再開され、それを契機にその他のビルなども建築が進んで完成し、今ではちょっとした福岡の東の副都心的な様相を見せています。

福岡市はいつのまにやら東西に高層のマンションなどが数多く立ち並ぶ街になり、まさに市の両翼を支えているという印象さえなくはないようです。これに合わせるように周囲の道も次々に作られては運用が開始され、カーナビのソフトはいつも古いバーションになってしまうほどです。

さて、そんな東区香椎の新エリアですが、大型高層のマンション群の脇にはまだまだ手つかずの広大な地所があり、こんなところに新しいホールでも出来たらいいのになあと思っていました。しかし、それはマロニエ君の空想であり願望に過ぎず、実際にホールのような文化施設を作るには莫大な費用はかかるし、現在のような冷え込んだ音楽業界やコンサートの現状をみれば、とてもそれで経営が成り立っていくものでもないだろうし、まあ採算の取れるマンションやショッピング施設などしか建設計画には挙がらないだろうと思っていました。

ところが、あるとき楽器店の方から「あそこに」どうもホール建設の方向の話が進んでいるらしいとの情報がもたらされて急に嬉しくなりました。今はまだその広大な空き地はなにも手が着いていない状態ですが、すでに楽器メーカーのほうにはピアノの価格などあれこれの打診がなされているとのことで、ということは、あるていどの基本計画ぐらいは決まったのではないかと思ってしまいますが、果たしてどうでしょう?

福岡市内でも居住者の多い東部副都心部に文化施設ができるということは嬉しいことですが、ただし杞憂がないではありません。
東京でも紀尾井ホールや浜離宮朝日ホール、福岡でもアクロスなどができたのはいずれも1990年代の半ばで、この時期はバブル経済がはじけた後遺症を引きずりながらも、まだ世の中には、いいものを作ろうという余韻と志のようなものが関係者の心の中にはあって、作る以上は地域の誇りになるような一流の施設を作ろうじゃないかという気概のようなものがあったように思います。

それからほぼ20年余、時代の変転は想像以上のものがあり、マロニエ君は昨年県内に久々に新しくオープンしたホールに行ってみて、その露骨なまでの低コストも露わな簡素な施設にただただ驚き、唖然とさせられたのはいまでも強烈な印象となっています。
こういってはなんですが、文化施設というのは、もちろんエリアの人が気軽に利用できる要素も併せ持っていなくてはいけない面もあるとは思いますが、基本的には文化の象徴であり、地域の精神的な中心地であるような、つまり「良い意味であまり気軽ではない」という存在であってほしいと思うのです。

名前や建前は立派でも、実体はただの地元のコーラスの練習だの、アマチュアの便利なステージ、カルチャースクールの集合地のようになると、却って特定の人達の専有物のようになってしまうだけのようにも思います。もういまさら図書館などを併設しなくていいから、ここはぜひしっかりした、百年もつようなものをつくってほしいと思いますが…無理でしょうね。

2013/02/26 Tue. 02:15 | trackback: 0 | comment: 0edit

レオニダス・カヴァコス 

少し前の放送だったようですが、録画していたNHK音楽祭2012から、ヴァレリー・ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団の公演をようやく観てみました。

プログラムはメシアン:キリストの昇天、シベリウス:ヴァイオリン協奏曲(ヴァイオリン:レオニダス・カヴァコス)、プロコフィエフ:交響曲第5番変ロ長調。

中でも、初めて観るヴァイオリン独奏のレオニダス・カヴァコスは、こういってはなんですが、見るからに陰鬱な印象で、長身痩躯で黒のチャイナ服のみたいなものを着ており、むさ苦しい髭面に長い黒髪、黒縁のメガネといった、なんとも風変わりな様子で、ステージに現れたときはまったく期待感らしきものがおこらない人だと感じました。

ところが静かな冒頭から、ヴァイオリンの入りを聴いてしばらくすると、んん…これは!と思いました。
あきらかにこちらへ伝わってくる何かがあるのです。
今どきのありきたりな演奏者からはなかなか聴かれない、深いもの、奥行きのようなものがありました。

とりわけ耳を奪われたのは、肉感のある美しい音が間断なく流れだし、しかも聴く者の気持ちの中へと自然な力をもって染み入ってくるもので、まったく機械的でない、いかにも生身の人間によって紡がれるといった演奏は、密度ある音楽の息吹に満ちていました。
演奏姿勢は直立不動でほとんど変化らしいものがなく、いわゆる激しさとか生命の燃焼といった印象は受けませんが、それでいて彼の演奏は一瞬も聴く者の耳を離れることがなく、ゆるぎないテクニックに裏打ちされた、きわめて集中力の高いリリックなものであったのは思いがけないことでした。

カヴァコスという奏者がきわめて質の高い音楽を内包して、作品の演奏に誠実に挑んでいることを理解するのに大した時間はかかりませんでした。

実を云うと、マロニエ君はシベリウスのヴァイオリンコンチェルトは巷での評価のわりには、それこそ何十回聴いても、いまひとつピンと来るモノがなく、いまいち好きになれなかった曲のひとつでしたが、今回のカヴァコスの演奏によって、多少大げさに云うならば、はじめてこの曲の価値と魅力がわかったような気がしました。こういう体験はなによりも自分自身が嬉しいものです。

しかし、この作品は、少なくとも1、2楽章はコンチェルトと云うよりは、連綿たるソロヴァイオリンの独白をオーケストラ伴奏つきでやっているようなものだと改めて思いました。
もちろんこういう作品の在り方もユニークでおもしろいと思いますし、なんとなくスタイルとしてはサンサーンスの2番のピアノコンチェルトなんかを思い起こしてしまいました。

カヴァコスのみならず、ゲルギエフ指揮マリインスキー管弦楽団もマロニエ君の好きなタイプのオーケストラでした。というか、もともとマロニエ君はロシアのオーケストラは以前から嫌いではないのです。

小さな事に拘泥せず、厚みのある音で聴く者の心を大きく揺さぶるロシア的な演奏は、いかにも音楽を聴く喜びに身を委ねることができ、大船に乗って大海を進むような心地よさがあります。
そのぶんアンサンブルはそこそこで、ときどきあちこちずれたりすることもありますが、それもご愛敬で、音楽を奏する上で最も大切なものは何かという本質をしっかり見据えているところが共感できるのです。

驚いたことには、マリインスキー管弦楽団の分厚い響きはあのむやみに広いNHKホールでも十分にその魅力と迫力を発揮することができていたことで、これにくらべるとここをホームグラウンドとする最近のN響などは、とにかく音も音楽も痩せていて、ただただ緻密なアンサンブルのようなことにばかり終始しているように思われました。

ソロの演奏家も同様で、力のない細い音を出して、無意味にディテールにばかりにこだわって一貫性を犠牲にしてでも、評論家受けのする狭義での正しい演奏をするのが流行なのかと思います。

2013/02/24 Sun. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

猫足 

このところ、ちょっとしたきっかけがあって中古のアップライトピアノのことをネットであれこれ調べていると、やはりここにもいろいろな事実があるらしいことが少しずつ分かってきたように感じます。

当然ながら主流はヤマハとカワイで、比較的新しいピアノが中古市場に出回っているようですが、ひとつハッキリと発見したことは、少なくとも黒が限りなく当たり前のグランドに較べると、色物というか、いわゆる木目調ピアノの占める割合がアップライトのほうが遙かに高いようです。

サイズはいろいろありますが、アップライトの場合は床の専有面積はどれもほとんど変わりませんから、もっぱら背の高さの違いということになり、マロニエ君だったら当然響板も広く弦も長い最大サイズの131cmを選ぶでしょうが、なぜか小さいものが人気だったりと不思議な世界です。逆に言うと、アップライトで敢えて小さいサイズを購入される方というのは、どういう基準でそうなるのか知りたいところです。

そんな折、遠方からピアノのお好きな来客があったので、ある工房に遊びに行きましたが、そこのご主人の話はマロニエ君にとってはまったく思いもよらない意外なものでした。

とりあえずアップライトに限っての話ですが、いわゆる「猫足」という例のカーブのついた前足を持つピアノが断然人気があり、そのぶん値段も高くなるのだそうで、これにはもうただビックリ。
マロニエ君はあくまで個人的な好みとしてですが、あのアップライトの猫足というのはまったくなんとも思わないといいますか、まあもっとハッキリ言ってしまうとむしろ好きではないですし、そうでないストレートな足のほうが凛々しくスマートで好ましいと感じます。

とりわけ昔ヤマハにあったW102という、アメリカン・ウォルナット/ローズウッドの艶消し仕上げのモデルなどは、数少ないマロニエ君の好みのアップライトなんですが、ここのご主人にいわせると、このあたりも猫足でないために値段は少々安めとのことで、その価値観には驚愕するしかありませんでした。

唐突ですが、マロニエ君はマグロのトロなんかが大の苦手で、大トロなど見るのもイヤ、あんなギラギラした脂のかたまりみたいな身なんかだれが食べるものかというクチで、食べるのは赤身かせいぜい程良い中トロまでですが、世の中の好みと、それに沿った価格差はまるで合点がいかないことを思い出してしまいました。

猫足に話を戻しますが、あまり驚いたので人気の理由を聞くと、ひとこと「決めるのはたいてい奥さんだから」なんだそうです。…。
ということは、あの猫足は、よほど女性のお好みということなのかもしれませんが、女性にとって猫足のどこがそんなにいいのかマロニエ君はまったくわかりません。

それに対して、グランドの猫足は別物という気がします。
グランドの場合は、バレリーナのように、三本の足がそのままデザインの大きな要素を担っており、あの特徴的なボディのカーブとも相俟って、いわばピアノ全体の佇まいを決定します。猫足ピアノの多くは、それに合わせてそれ以外の部分も細やかな手が入れられ、ときに細工や彫り物まであって、たしかに独特の優雅さを醸し出しているので、これを好むのはわかります。

しかし、アップライトの場合、基本はほとんどデザインとも言えないような鈍重で無骨な四角い箱であり、そこへ鍵盤がせり出しているだけ。その鍵盤の両脇から下に伸びる小さな足だけがちょっと猫足になったからといって、それがなに?と思いますが、まあそれでも価値がある人にとってはあるのでしょうね。
しかも、それだけで中古価格まで違うのだそうで、ときに格下のピアノが猫足という理由だけでワンランク上のピアノの価格を飛び越すこともあるというのはまったく呆れる他はなく、それが世に言うお客様のニーズというものかとも思いました。

ニーズがあれば相場も上がるというのは世の常なのでしょうが、しかし…いやしくもピアノであり楽器であるわけですから、色やデザインも大事なのはもちろんわかりますが、やはり第一には音や楽器としての潜在力を優先して選びたいものです。

2013/02/21 Thu. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

ゴミ袋 

先日、物置の整理をしているということを書きましたが、大半は市の指定によるゴミ袋に入れて回収日に出すということをひたすら繰り返しています。

大中小あって、45Lというのが一番大きなサイズで、これはどこで買っても一切の値引きも無く450円、つまり一枚45円也の袋です。実にくだらないことですが、この袋を二重(中の袋は普通の市販のもの)にして強度を増し、できるだけ中のゴミを圧縮しながら、できるだけたくさん詰め込むことに一種の楽しさを覚えてきました。

不思議なもので、努力をすればするだけたくさん詰め込めるし、要領も良くなり、出来上がったときには袋全体がまるでオバQのような様相となります。
ささやかながら、なんでも凝り性なところのあるマロニエ君としては、次第にコツが掴めてきて、底のほうに置くものやその形状、入れ方の工夫なども次々に思いついて、我ながら実にセコくてバカバカしいことだと知りつつも、変にこの作業を挑戦的な気分で没頭するようになってきました。

次から次ぎに作っているうちにテクニックも上がるし時間も早くなり、何事も練習というのは本当だなあ…なんて感心しながら、それにしては肝心のピアノはどうして上手くならないのかと思ったりしながら。

それもこれも、ペラペラのゴミ袋が一枚45円もすることに一種の抵抗心が芽生えて、できるだけたくさん詰め込むことで、自治体の思惑にせめて抵抗してやろうという反抗心もあるのです。そうやって詰め込まれたゴミ袋はいよいよ肥大化し、回収日に外に出すのがちょっと恥ずかしいぐらい極限まで成長していきました。
それだけ詰め込み方の手際が上がったというわけです。

そんなある日、おやつを買いに行こうと車に乗ったのですが、このところあまりに同じ店でばかり買っていたので、美味しいけれどもいささかその店の味にも新鮮味がなくなっていたので、その店の目と鼻の先にある、もう一件のお店に行ってみることにしました。
数年前のオープン当時一度買ったことがあり、そのときの印象はイマイチだったものの、もう一回ぐらい買ってみようかという気になり、その日は敢えてそちらの店で買いました。

果たして、陳列ケースを見たとたん、あ、大したことないな…と直感しましたが、もう店のドアは開けて中に入ってしまったことだし、自分のことをかわいいと思っているようなお姉さんが、すかさず奥から出てきて「いらっしゃいませぇ!」とえらく高い声を出してしまった後でしたから、この場は諦めてとりあえず4個ほど買ってみました。

帰宅するなり食べてみると、予想以上になんてことないもので、家人にもまったく不評でした。サイズも小ぶりで、味も単調、ハッキリ言って大失敗。もう金輪際行かない店という認識を自分の中に刻みました。
同時に、ふと、ゴミ袋のことを思い出しました。

こんなしょうもないケーキが、あの10枚入りの指定ゴミ袋とほとんど同額だなんて、到底納得できないし、磨き上げた詰め込みテクニックが、とめどなくアホらしいもののような気がしてきました。
自分のやってきた努力が、出来の悪いケーキ1個によって無惨にも瓦解したようでした。
そういうわけで、せっかく磨いたテクニックですが、それもそこそこ使うことにして、ゴミ袋はもっと大胆にパッパと使うことに決めました。

…とはいっても、実際には大した差はないのですが、でも気分はかなりかわりました。
まあ、冷静に考えれば、あれだけのゴミをひとつ45円で処理してくれるのですから、考えてみればありがたいもんだと思い始めているこの頃です。

2013/02/19 Tue. 02:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

物置の整理 

このところ、暇を見つけては物置の整理をしています。
訳あってどうしてもこの場所にある夥しい量の荷物のすべてを一旦外に出さなければいけなくなり、初めは途方に暮れましたが、やむを得ず少しずつ整理をやっています。

よそのお宅のことは知りませんが、少なくとも我が家に限っていうと、物置というのは、必要な物を一時的に置いておく場所というよりも、大半は使うことのない、どうしようもないものをとりあえず置いておく、いつの日か必要になるなどと思いながら、長い年月をかけてただただ無意味に積み上げられ、多くの品々は時間と空間を食い尽くし、ムダと不便と不衛生を撒き散らすだけの場所だということをしみじみ感じてます。

整理といっても、要するに捨てる物を引っ張り出す作業が大半で、いかに無駄な物によって貴重ともいうべきスペースが惜しげもなく占領されていたかという愚かさを思い知らされる毎日です。

たしかに、中には昔なつかしい大切なものがあるのも事実ですが、そんなものは全体から見ればほんの一部にすぎず、大半は処分にも困るような品々が堆く積み上がっているにすぎません。
当然ながらゴミやほこりもあるわけで、このところ使い捨てのマスクと手袋はすっかり必需品になりました。

あらゆるものが物置という名の永遠の住処に移されて、時間と共に、その量は凄まじいまでに膨れ上がっていました。

実に種々雑多なものがありましたが、困るのはいただき物などに代表される未使用品などで、傷んでいないけれども、さりとて使うあてもないものです。古いというだけで新品もしくはそれに準じるようなモノをポンポン捨てるのも抵抗があり、もらってくれる人でもあるなら喜んで差し上げるのですが、そんな奇特な人もいないでしょうし、だいいち人にもらってもらうためにいちいち時間をかけ、人を呼んで意思確認などしていては整理自体がいつ終わるとも知れません。
やむなく、心を決めて潔く不要なものは処分するという決断に踏み切りました。

それでも一番困るのは、衣服だということも今回初めて知りました。
とりわけ亡くなった家族のそれは、自分の身内が直接身につけていたもので、覚えのあるものもあり、それを他の不要品と同様にゴミ袋に投下するのは精神的になかなかできることではありません。

でも、じゃあどうするの?となったとき、大げさにいうなら「この世に、これほどどうしようもないもの」もないわけです。
再利用の見込みなどまったくなく、客観的価値などさらさらないもの、それが個人の衣服類なんですね。

家人とも相談し、あれこれ悩みましたけれども、結論としては不本意ではあるけれども、それを言っていたらキリがないし、もうそれを着る人はもうこの世にはいないのですから、家族の思い出という名の下に、これ以上留め置くことは意味が無いという結論に達しました。

まあ、ひとたび決心して行動し始めるとそれほどでもなく、処分した後は却ってスッキリした気分になれたのは意外でした。
ある種の物や作品などは、故人の物でも保存することになんら問題はありませんが、いかんせん衣服というのはその点独特で、それ自体が主を失ってすでに死んでいるような気がしました。

これはもちろんマロニエ君の私見ですが、亡くなった人の衣服などを必要以上に取っておくことは、故人を偲ぶこととは似て非なる事のような気がしますし、むしろこういうものが家の中にどっさりあるほうが、ある意味では不健康という気もするようになりました。

2013/02/17 Sun. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

すぐれもの 

日曜大工の大型店をうろうろしていると、思いがけないものが目に止まりました。

各種の磨き剤が集められた売り場では、普通の店には置いていないような各目的に応じたさまざまな専用品がズラリと並んでいますが、そんな中に『ピアノ 家具 木製品 手入れ剤』というのがあり、とくにピアノというひときわ文字がドカンと大きく描かれていて「ん?」と思わず手にとって見てみました。

「美しい艶を与え、汚れやキズから守る!」とあり、ピアノ専用品というわけではないらしく、用途は光沢塗装をした木製家具には広く使えるようなことが書いてあり、メーカーを見るとソフト99とありました。

ソフト99は各種のケミカルクリーニング剤を出している会社で、車のワックスやコーティング剤に興味を持った人なら、その名を知らない人はまずいないほどの名の通ったメーカーです。

歯磨きより少し小さいぐらいのチューブ入りで、価格も500円ぐらいだったので、これはおもしろそうだと思いましたし、なによりこんな偶然はただならぬことのようで、マロニエ君としては買わずに素通りするというような無粋な振る舞いはできないという、半ば義務感のようなものまで感じながら購入したのはいうまでもありません。

裏面の使用法を見ても、グランドピアノの鍵盤蓋のところを布で拭いているところを写した写真があったりと、やはりピアノ専用ではないにしても、メインはピアノ用のようで、その他の類似製品にも応用できるというもののようです。

柔らかい布でうすく塗りのばすと汚れが取れて艶が出るとあり、塗布後2〜3分後、よくからぶきして仕上げるように指示されています。さっそく指示通りに柔らかい布で塗りのばし、2〜3分後に拭き上げるとちょっとムラが出て仕上がりが思わしくありません。そこで、塗りのばして間を置かず、すぐに別の布(メリヤスシャツ)で拭き上げると、今度はものの見事にきれいになりました。

このように書かれた使用方法と実体の違いはよくあることで、マロニエ君は長年洗車に凝っていたのでこの手の応用は利くのですが、説明書にあるからといって「2〜3分後」にこだわっているときれいな仕上がりは望めないでしょう。

さて、仕上がりですが自然でやわらかな艶が出て、かなり好ましいものだと思いました。
だいたいこの手のつや出しは、艶がわざとらしくて下品になったり、塗りムラが出て施行が難しい場合も珍しくないのですが、この製品はその点ではなかなか上品な仕上がりで好感が持てました。
ちなみに製品名は「FURNITURE POLISH」ですが、ほとんど目立たないようにしか書かれていません。

主な成分はシリコンとワックスというごくオーソドックスなものですが、その配分がいいのか仕上がりはなかなかきれいです。マロニエ君は最近こそ使ったことはありませんが、昔はピアノメーカーが出しているピアノシリコンみたいなクリーニング剤を使っていましたけれども、これがもう、なかなか思ったようにならず、脂っぽいしへんなムラが出たりと却って嫌な気分になることが多かったために、その後はすっかり使わなくなり、車用のケミカル品を流用したりしていました。

マロニエ君の場合、この手の製品でポイントとなるのは、仕上がりの清楚な美しさと作業性の良さです。これですっかり印象を良くしたものだから、ヤマハなどのお手入れ剤も俄に試してみたくなりました。
が、いったんこの手のものを試し出すと、結局あるものすべてみたいな感じになる危険もあり、自分の性格が恐いので、よくよく考えた上でやってみるべきですね。

2013/02/15 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

入浴剤 

お風呂の入浴剤にはいろいろあって、それぞれに能書きが書かれているようですが、マロニエ君は一度もまじめに読んだことはないし、たまたま目に入る文言の何一つさえも信じたことはありませんでした。

入浴剤は個人的にとくに好きでも嫌いでもなく、よって使ったり使わなかったり、ポリシーもなにもなく、まるきりいいかげんなものでした。入れる場合もいつも単なる思いつきでしかなく、強いていうならお湯に色が付いてそれが楽しいからという程度で、入れなくなるとまたずっと入れません。

さて、今期の冬は本当に寒さが厳しく、せっかく湯舟につかっても洗い場に出ればたちまち忍び寄る冷気にガクガクと身を震わせることしばしばでした。
さらに巷では「半身浴」なるものが身体に良いと喧伝され、これがさかんに推奨されるようになりました。昔のように首までどっぷりとお湯に入るというのは、むしろ健康によろしくないという尤もらしいお説が蔓延し、これといって定見のないマロニエ君もそうなのか…と思い、お湯の量をやや少な目にして肩が少し出る程度にしてみますが、冬場はやっぱりこれが堪えます。

そんな折、最近のことですが「半身浴はむしろ体に悪い」というような、このセオリーそのものを根底から覆すような新説まで出てくる始末で、あんなに悪だと決めつけられたメタボでさえ近ごろは良否がひっくり返され、本当はややメタボぐらいのほうが望ましいといった意見まであらわれ、もはや何を信じていいのかわかりません。
今は健康ブームが続いて久しく、それに関する情報も多すぎて錯綜しているというべきかもしれません。

半身浴にしたところが、そんなにいいと言われるわりには、テレビでよくやっている温泉巡りの類では、番組リポーターやタレント連中など、だれもそんなポーズを取る者はなく、いろんなお湯に入っては顔をゆるませ心ゆくまでくつろいでいるシーンしか目にしませんね。

何が真実なのか確かめようもない中、だんだん情報に踊らされるのもバカバカしくなり、要は常識の範囲内で、あるていど自分のしたいようにするのが賢明なような気もしてきました。

話が逸れましたが、このところのあまりの寒さに、入浴時に何かささやかでも対策はないものかと考えていた折、このところすっかり入れなくなっていて、存在すら忘れていた入浴剤を入れてみました。とくだん何かを期待していたわけでもありませんが、何か感じるものがあったのかもしれず、自分でもよくわかりませんがとにかく久々にこれを投入。
するとなんと、明らかに体の温まり方が違うのを体感してしまい、思いがけない効果にすっかり感激してしまいました。

それも特別な高級品などではなく、普通にホームセンターなどで売っているお馴染みのものにすぎません。他の効能については知りませんが、身体が温まるという点についてはたしかに体感できる効果があったので、それいらいすっかり癖になり、ちかごろは毎回欠かさず入れるようになりました。

そういえば、先日も実家に里帰りしていた友人から「使わないから」と箱入りの立派な入浴剤をもらったばかりなので、これは期待が持てると思うとひとりとほくそえんでいるところです。

2013/02/13 Wed. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

なかなか言えない 

現代のような社会では、発言という点に於いて一見自由なようでありながら、実際は恐ろしく閉塞的で、まるで言論監視社会のような印象を受けることしばしばです。

聞こえてくるのは、何事も褒めておけば安全で間違いなしといわんばかりの言葉ばかりで、音楽評論などにもほとんど期待が持てません。もしも故野村光一氏のような人が現代に蘇って自分の感じたままの自由闊達な文章を書いたとしても、おそらく出版社がそれを受け容れないでしょうし、先の吉田秀和氏の逝去をもって、ますます音楽評論の世界も欺瞞という深い闇の中へ落ちていくような気がします。

マロニエ君は、ちかごろの音楽雑誌のコンサート批評などまったく一瞥の価値すらないと思っているのは、この分野も営業主義が跋扈していて、コンサートの有料広告を出すピアニストは出版社にすれば「ありがたいお客様」であり、後日のコンサート批評では決まって好意的な文章ばかりが並びます。これは言ってみれば、営業サイドからの暗黙のお返しのようなものだと解釈しています。

なるほど書く人の肩書きは音楽評論家となっていますが、編集方針に従わない人はライターとしてのお声はかからないという営業中心のシステムがしっかりと出来上がっていると推察できます。それを百も承知で有名無名のピアニストは、だから高い広告料を出し、有名雑誌誌上での「演奏会予告」と「好ましい批評」を二つ同時に買っているようなもので、その中からとくに好ましい部分を次のチラシなどに引用するという、持ちつ持たれつの関係となり、これはまさに嘘っぱちの世界です。

自分が普通に思うこと感じることを、生きるために決して言えない社会というのは人間にとってこれほど気詰まりなものはありません。
さる知り合いから「誰にも言えないから」ということでおかしなメールをもらいました。
マロニエ君はベートーヴェンを猛烈に好きなので同意はしませんけれども、一面に於いてこういう感じ方があるということはわかるような気もするし、理解はできます。
とても新鮮でしたので、ちょっとだけご紹介します。


誰も賛成してくれないかもしれませんが、わたしはベートーヴェンだけは嫌いです。

あの、「これが芸術だ」といわんばかりのリキみかえった音楽、聴いてて「カンベンして」という気分になります。

年末に必ず演奏される「第9」。あのくそまじめ風だけどなにいってるかさっぱりわかんない歌詞、なにこれ?ってかんじです。あんなもので「感動」するひとたちの気が知れません。まあ、お正月前の浮世離れした気分でバカ騒ぎしたいっていう程度ならそれもいいかっていうくらいです。あのメロディーもなんのへんてつもない間延びした音の羅列。お経みたい。

「運命」にしても、はっきりいって「くさい」。運命と戦って勝利に至る?そんな音楽聴きたくもない。

ワグナーも図体ばかりでかくて中身はからっぽ、という感じ。「指輪」なんて聴いても疲れるだけでなにも残らない。せいぜい「ワルキューレの騎行」とか、やけに威勢のいい音楽だな、っていう程度。そこだけ取り出せば、「地獄の黙示録」のバック音楽としてならよくできてると思う。

2013/02/11 Mon. 01:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

許光俊氏の著書 

許光俊氏の著書『世界最高のピアニスト』(光文社新書)を読んでいると、あちこちにこの方なりのおもしろい考察があり、たちまち読み終えてしまいました。

各章ごとに、世界で現在トップクラスで活躍するピアニストたちが取り上げられているのですが、最後の2章は「中国のピアニスト」と「それ以外の名ピアニストたち」という括りになっています。

当然ながらこの方なりの感じ方や趣味があり、マロニエ君も全面賛成というわけではなかったものの、許氏の書いておられることは概ね納得のいくものでした。

中でもラン・ランの評価などは大いに膝を打つものばかりでした。

ラン・ランの場合に限らず確かなことは、真の意味で優れたピアニスト・音楽家であるということは、入場券の料金や満席具合とはまったく一致しないということ、さらにはこの点(チケットの売れるピアニスト)と芸術家としての実力との乖離は年々悪化傾向にあるとさえマロニエ君は思います。
興行主からみればコンサートはビジネスなので、チケットの捌けるタレントであることは最良で、だからラン・ランなどは世界中どこでも満席にできるタレントは、チケット売りで苦労の絶えない音楽事務所からすれば神様のような存在なんでしょうね。

日本人にもその手の、本来のピアニスト・芸術家としての力量とはちょっと違ったところで話題を掴んだ人が人々の関心を呼び、チケットはいつも法外なほど完売になるというような現象をこのところ目撃させられています。

また、チケット問題でなく、人気のユンディ・リもレイフ・オヴェ・アンスネスもきわめて低評価でまったく同感。

おかしくて思わず声を上げそうになったのはアルフレート・ブレンデルについてでした。
マロニエ君はこの人が功なり名遂げて、最高級の称賛を浴びるようになったときから一定の疑問を抱き、この人の弾き方のある部分のクセなどは嫌悪感すら感じていたひとりだったので、この稿はとくに快哉を叫びたいほどでした。
一部引用。
『この人には、美的感覚が決定的に欠けていると思う。ダサいリズム、スムーズでない抑揚、汚い響き、とにかく悲しくなるほど感覚的に恵まれていない人だと思う。〜略〜 知的ではあるが肝心な音楽的才能がなかったのが彼の決定的な弱点だった。また、それに気づかぬ人が多いのが、クラシック界の不幸だった。』

この部分を目にしただけでも、この本を買った価値があったと思いました。

しかし、問題はブレンデルどころではない、少なくともマロニエ君などにはおよそ理解不能なピアニストが世界的にもぞくぞくと出てくる最近の傾向には戸惑いを禁じ得ません。
例えばカティア・ブニアティシヴィリも最近出てきた人ですが、美人で指はよくまわる人のようですが、どう聴いていてなにも感じられない。本当にそこになにもないという印象。
パッと見はいかにも情熱的な音楽をやっているような雰囲気だけは出していますが、音は弱く、いかにも疲れないよう省エネ運転で弾いているだけという印象。主張も言葉もなければメリハリもない、マロニエ君に云わせればまるで音楽的だとは思われないのですが、昨年も来日してクレーメルらとチャイコフスキーの偉大なトリオをやっていましたが、あんな名曲をもってしてもまったく退屈の極みで、耐えられずにとうとう途中でやめました。

以前もラフマニノフの3番など、やたら大曲難曲を弾くだけはスルスルと弾くようですが、本当にそれだけ。なんだかピアノの世界もだんだんスポーツ化してきているんじゃないかと感じますね。


2013/02/09 Sat. 02:06 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・重めのタッチ 

自宅のピアノのタッチが適度に重いというのは、とりわけピアニストには有効なのではないかとあらためて感じているところです。
ピアニストのピアノはアマチュアの愛好品とは違いますし、大抵は複数のピアノを所有していらっしゃる方が多いと思われますので、一台は専ら練習機としての位置付けであることも有効ではないかと思います。

そして練習用ピアノは日頃からやや重めにしておくほうが、現代のやたら弾きやすい軽めのピアノばかり弾いて、それが知らず知らずのうちに基準になってしまうのは何かと危険も増すような気がします。本番となれば楽器もかわり、柔軟な対応も迫られるわけですが、これが最終的には指の逞しさにもかなり依存する要素のようにも思うのです。

その点、少し重い鍵盤に慣れた指は、軽い鍵盤のピアノに接しても比較的楽に対応できますし、その余力でいろんなコントロールができるなど、結果的にある種の自信になったり、思いがけない表現やアイデアを試してみることさえできますが、逆の場合は大変です。
軽いタッチに甘やかされた指はいざというときなかなかいうことを聞かず、滞りなく弾き通すだけでも大変でしょうし、出てくる音は芯のない変化に乏しいものにしかなりません。

聞いた話ですが、ピアニストの中にはやたらと繊細ぶって、ほんの少しでも重めのタッチのピアノを弾くと「こんなピアノでは、ぼくは、手を壊してしまいそうだ…」などと大仰に云われる方もおられて楽器店の人を慌てさせたりするんだそうですが、いやしくもプロのピアニストで、その程度のことで手を壊すなんて、一体なにが云いたいのかと思います。
グレン・グールドが云うのならわかりますけど。

ピアニストという職業は、一般にどれぐらい認識されているかどうかはわかりませんが、端から見るより極めて苛酷な、心身をすり減らす重労働であり、これに要するストレスは並大抵ではないと思います。
基本的な体力や精神の問題、繊細かつタフな指先の運動能力、暗譜や解釈はもちろん、最終的にどういう表現をしてお客さんに聴いてもらうかという最も大切な課題など、書き始めたらキリがない。

少なくとも人間の能力の極限部分をほとんど削るようにしておこなうパフォーマンスであることは間違いないと思われます。そんな極限の場において、最終的に頼れるものは才能と練習しかないわけでしょう。

そういうときに、会場のピアノが弾きにくいなどの問題があるとしたら大問題ですが、ピアニストの辛いところはここで文句がいえないばかりか、お客さんにはいっさいの弁解無しに結果だけをキッパリ聴かせなくてはなりません。
そんなとき、ただ楽な軽いタッチのピアノでばかり練習していた指が頼りになるかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

また、こういうことを言うとすぐに誤解をする人が出てきます。
日頃から重いピアノでばかり弾いていれと、筋力的には逞しくなっても、繊細な表現ができなくなるとか、叩くクセがつくというものですが、それはとんでもない間違いだと思います。音楽に限りませんが、チマチマした小さいことばかりすることがデリケートなのではなく、必要とあらばどうにでも対応できる本物の力量と幅広さを持つことでこそ、真に自在な、活き活きとした、時に人の心を鷲づかみにするような演奏ができるのだと思います。

リヒテルやアルゲリッチは基本的に美音で聴かせるタイプのピアニストではありませんが、彼らがしばしば聴かせる弱音の妙技は人間業を超えたものがあり、それはあの強靱この上ない指の中から作り出されているものだと云うことは忘れるべきではないでしょう。

マロニエ君のような下手クソの経験では説得力もありませんが、タッチを重くしたピアノを半年弾いた後のほうが、自分なりによりレンジの広い雄弁な演奏をするようになったと(自分だけは)思いますし、繊細さの領域に限ってももっと気持ちを注ぐようになりました。
これは間違いありません。

2013/02/07 Thu. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヤマハの衝撃 

日曜はヤマハの営業の方からのお招きで、新しいグランドのレギュラーシリーズであるCXシリーズのサロンコンサートがあるというので、これに行ってきました。
お馴染みのヤマハビルの地下のeサロンのステージ上には、いつものCFIIIにかわって、新型のC7Xが置かれていました。

ニューモデルの解説などがあるのかと思いきや、そういうものはなく、女性の方の簡単なご挨拶の後、宮本いずみさんという女性ピアニストが登場され、モーツァルト、ベートーヴェン、ドビュッシー、ショパンの名曲を弾かれました。

なんでも、この方はこちらの地元の方ではないようで、通常の演奏のほかに浜松で開発中のピアノの試奏も仕事としてやっておられる由で、演奏の合間にときおり挟み込まれる短いトークの中で、「このピアノには私の声も入っています」というようなことを言われていました。

このピアノの楽器としての感想/とりわけピアニストの演奏に関しては、マロニエ君はよく理解できないものでありましたので、今回は敢えてコメントは控えます。
ただ、コンサートのあとでピアノの中を少し覗いてみると、フレームをはじめ、内部の作りの巧緻な美しさにはいよいよ磨きがかかっていることは間違いなく、いかにも「日本の工業製品の作りの美しさ」という点では見るに値する出来映えだと思います。
良くも悪くも、昔の手作りピアノとは異次元の、高精度の極みのような作りは目にも眩しいばかりで、日本の技術力を見せつけられているようでした。


それよりも、終演後、営業の方から耳にした話は驚天動地な内容でした。
一階のショールームに立ち寄ってカタログなどをいただいていたときのこと、その営業の方は「ここも3月いっぱいです…」といわれ、マロニエ君は咄嗟にその意味が呑み込めませんでした。
ここはヤマハのビルで、博多駅前の一等地にあり、福岡のみならず西日本地区のヤマハピアノの一大拠点として長年親しまれた場所です。

問い返しなどをしながら、このショールームが3月いっぱいで終わりを迎えるということはひとまずわかったものの、てっきりどこかへ移転でもするのだろうかと思っていたら、そうではなく、ビル自体が売却され、代替のショールームを作る計画もないとのこと。
そのぶん教室などを、より充実させるなどの方策はとられるとのことですが、この駅前のヤマハのプライドともいうべき美しいショールームは、消えて無くなるということがようやくにしてわかり、大きなショックを受けました。

このショールームはとりわけグランドはいつ何時でも、ほぼカタログにあるフルラインナップに近いピアノがズラリと並び、九州におけるヤマハの大看板的スペースでした。
さらに地下にはこの日もおこなわれたように、コンサートや各種講演会など、音楽に関する使い勝手のよいイベント会場としても稀少かつありがたい存在でしたから、福岡およびその近郊の人達は、一気にこれらの場所までも失ってしまうことになるわけです。

今後は天神にあるヤマハが、ピアノでも中心的なショップになるようですが、なんとも残念としか言葉が見つかりません。
先の選挙では、自民党が大勝し、アベノミクスなどという言葉も飛び交うようになり、せっかくこれから好景気の兆しも見えてきたというのに、このヤマハの決断はあまりにも辛すぎるものです。

2013/02/05 Tue. 00:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

重めのタッチで半年 

先日は、今年始めて調律師さんがタッチの件で来宅されました。
といっても、あまり具体的なことはブログには書かないようにと釘を差されていますから、こまかいことは控えます。

この調律師さん、マロニエ君の部屋の『実験室』にも書いたように、我が家のカワイのグランドを実験室ととらえて、マロニエ君の出す無理難題をなんとか克服すべく、まったく画期的な方法を考え出してくださるありがたい方です。

繰り返しになりますが、ハンマーヘッドのフェルトの下の木部前後に小さな鉛のおもりを両面テープで貼り付けるというもので、タッチが慢性的に軽すぎた我が家のカワイの場合は1鍵あたり約1gのおもり追加をしたわけです。
この部分の重さの増減は、鍵盤側ではなんと5倍に相当するわけで、ハンマー側で1g重くなれば、仮にキーのダウンウェイトが46gのピアノであれば51gへと一気に増加するというものです。

この結果、タッチが重くなったことは当然としても、副産物として音色までかなり変わり、好き嫌いはあるだろうと思いますが、音にエネルギー感が増して非常に迫力のあるものになりました。単純に言うと張りのあるガッツのある音になったわけで、長年ヤワな、か弱い音色だったピアノが、一気にベートーヴェンまでを表現できそうな迫力を備えることになったことは大いなる驚きでした。

いま流行のブリリアントでキラキラ系の音が好きな人には好まれないかもしれませんが、昔のドイツ系ピアノのような(といえば言い過ぎですが)、はるかにガッチリとした、良い意味での男性的な音が出てきます。

それはいいとしても、さすがに一夜にしてタッチが5g重くなるということは、なまりきっていたマロニエ君の指にとってはほとんどイジメに等しく、まさに鉄のゲタ状態であることは以前も書いた通りでした。
とくに初めの2〜3日はハッキリ失敗だったと思うほど、弾く気になれない(というか弾けない)ピアノになってしまっていましたが、この施行をしたピアノ技術者さんのすごいところは、そういう場合の対処の事も十分考慮しての方策であることです。

というのは、鉛は小さく、ハンマーヘッドのフェルトすぐ下の木部の前後に強力両面テープで貼っているだけなので、元に戻したいときには、これを剥がし取るだけで特殊技術も何もないのです。素人でもすぐにそれができるということで、つまりピアノを一切痛めないというところが最も画期的な点(なんだそうです)。

人間とは不思議なもので、「いつでもすぐに元に戻せる」ということがわかると妙に安心して、もう一日もう一日とその鉄のゲタ状態で我慢して弾いていたのですが、ひと月も過ぎた頃からでしたでしょうか、あまりそういった苦しさを感じなくなり、指への抵抗感はさらに減少を続け、その後はまったくこれが普通になってしまいました。
あまりに「普通」になったので、まさか両面テープが剥がれて鉛が下に落ちたのではないかと思うほどまで自分にとって自然なものになったのはまったく驚くべき事で、「人間ってすごいなあ」というわけです。

この日、約半年以上ぶりにアクションが引き出されると、果たして件の鉛はひとつとして脱落することなく、きれいに健気にくっついていました。
善意に捉えると、それだけマロニエ君のようなしょうもない指でも、毎日の積み重ねによって間違いなく鍛えられ逞しくなるというわけです。
逆に、ピアノのタッチは軽い方が弾きやすいなんて目先のことばかりいっていると、しまいにはそのピアノしか弾けなくなるのみならず、ショボショボした芯のない打鍵しかできなくなるのは間違いないと思われます。

電子ピアノだけで練習している人の演奏で感じることは、とても努力はしていらっしゃるとは思うのですが、やはり深みとか表現の幅がとても小さいということです。これはご本人が悪いのではなく、道具の性能がそこまでのものでしかないから当然のことで、本物のピアノに移行した人でも、なかなかこの染みついたクセは直りにくいようです。それを考えると、とくに白紙から体が覚える子供にはぜひとも本物を弾かせたいもので、「まだ子供だから電子ピアノでも…」という発想はまったくわかっちゃいないと思います。

2013/02/03 Sun. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

衣類乾燥機 

日本製品の品質がいいのか、我が家の使い方がよほどよかったのか(?)、そのあたりのことは不明ですが、長年使ってきた衣類乾燥機が年明け早々に、ついに最期を迎えました。

それも機械的な故障ではなく、ドアを固定するプラスティックのノッチが壊れたためにドアの開閉が困難になり、やむなく買い換えという運びになったのでした。
考えてみると、この衣類乾燥機は実に28年以上も我が家で働いてくれたわけで、いかにただの家電製品とはいえ、ここまで健気に働いてくれたら本当にお疲れ様という気分になるものです。

我が家の生活形態では衣類乾燥機はいわば生活必需品ですから、待ったなしで新しいものを購入する必要に迫られましたが、現在はドラム型の全自動洗濯機が主流のようで、その影響もあってか衣類乾燥機のみだと選択肢がそんなにはないようでした。
それでも、気分的にどうしても買いたくないメーカーもあるし、それを除外すると日立の製品になりますが、これまで使い続けた衣類乾燥機も日立製だったので、その点は難なくクリア、心情的に恩義さえ感じるくらいで、迷わずこれに決めました。

ネットで注文すると、日本中どこからでも二三日でサッと届くのは頭ではわかっていても、やっぱりすごいなあと思ってしまいます。

現物が届いてみると、想像以上の箱の大きさにまず恐れをなしました。
今どきは電気店からの購入でも、取り付け設置は当たり前という時代ではないので、自分で洗濯機の上部のスタンドに据え付けるつもりでしたが、箱から出すだけでも一仕事です。

同時に、古いほうの機械をスタンドから降ろさなくてはなりませんが、普段触れない部分には長い年月のほこりや乾燥時に出たワタゴミのようなものがでてきて、掃除をしながらの作業となります。
明らかに新しく買ったほうがサイズが大きく、スタンドに載せのも一苦労で、固定穴の位置などは合いません。とりあえずは仕方がないのでこのまま使うことにしましたが、これまでよりなんとなく圧迫感のある光景となりました。

さて、使ってみて驚いたのは、やはりこの手の電気製品は新しいものの方が、仕事の効率は遙かに高くなっているようで、乾くまでの時間がこれまでの半分近くになった気がします。

以前なら2時間前後は回しっぱなしだったのが、新しいのは1時間やそこらで機械は自動停止してしまいます。
それに「乾いたら自動停止」なんて機能も古い方はなかったので、適当に回していたわけですが、その分のムダもあったでしょうし、そもそも基本的な効率が相当違うようなので消費電力を調べてみると、最大時は同じのようですが、使用時間が異なるので一回あたりの電力消費がはるかに大きいものだったようです。

こうなると、冷蔵庫も新しいのはずいぶん省エネ設計だと聞きますから、俄に恐くなりました。
というのも、我が家はこれという正当な理由もないままに冷蔵庫が二つあり、二つあれば便利というだけのことでズルズルと両方使っていたのですが、古いほうはなんと30年以上前のものなのです。
こりゃあ、下手をすると新しいものを買ったほうが、僅か数年で購入額分ぐらいの電気代の差がでるということかもしれません。


2013/02/01 Fri. 01:01 | trackback: 0 | comment: 0edit