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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

バーチャル 

いつごろからのことだったか、「バーチャルリアリティ」という言葉がしばしば使われるようになりました。

いわゆる仮想現実で、マロニエ君も文字にできるほど正しい理解はできていませんが、おそらくはコンピュータの進歩でゲームなどの画面クオリティが飛躍的に上がり、臨場感の増した画面の中で自分が主役となり、そのリアリティあふれる高揚感を気軽に楽しめるようになったというようなことだろうと認識しています。
その出来映えがあまりに秀逸であるためか、人の精神にまで少なからぬ影響が顕れはじめ、ついにはそれら仮想と現実、疑似と真性の狭間がぼやけ、やがてそこを迷走する精神状態が引き起こす笑えない勘違いや、ひいては新手の犯罪まで多発するようになった記憶があります。

例えば、ジャンボ機を操縦できる本格的ゲームでこれに習熟した男性が、実機をも操縦できるという強い思い込みに発展、ついには本物のジャンボ機を乗っ取りクルーを殺害、自ら操縦桿を握り、ゲームと同様にレインボーブリッジの下をくぐり抜けるつもりだったのを、すんでのところで取り押さえられたというような信じがたい大事件があったこともありました。

そんなことを思い出させられたのは、知人から聞いたある地方でのピアノサークルでの様子でした。
ピアノサークルに参加する中にはそこそこ腕の立つ人もいて、ある程度の自信もあるらしいところまでは結構なことですが、でも、この人達はまぎれもないアマチュアであり、ピアノは余技として楽しんでいるものにすぎません。
ところが、場合によっては演奏会用ロングドレス持参でやってきて、演奏前には控え室でこれに着替え、まばゆいアクセサリーまでつけていざ演奏に挑むというのですから、その救いようのない勘違いには、さすがのマロニエ君もひっくりかえりました。

いっそのことコスプレマニアならまだ笑えますが、こういう人達はあるていど本気であるだけ変な怖さと耐え難い違和感があるわけで、大人のママゴトも、欲望と錯覚が高じてここに極まれりというところです。
マロニエ君に云わせれば、これも立派なバーチャルリアリティではないかと思います。

現代人は与えられた目先のルールにはえらく従順ですが、もっとそれ以前の、自分自身が備えるべきもの、つまり常識・良識から発する「分際」をわきまえるという本質を知ることがほとんど消えかかっているように思います。
法や規則に触れないことなら何をやってもいいという姿勢は、政治家や経済界が悪いお手本を示してきたように思いますが、いわゆる自由の濫費と解釈には大いに問題を感じます。

要するに、理屈じゃなく、自然にかかるべきブレーキというものがほとんど機能していない、否、そもそも始めから装備されていないといってもいいでしょう。

いまどきホールやそれに準じた会場を料金を支払って借り受けることは容易です。そのステージにドレス姿で現れて意気揚々と楽器を演奏するということは、なるほどどこにも違法性はないのでしょうし、善良な人間が自由に着飾って演奏を楽しんでいるという建前だけが一人歩きする。

しかも大抵の場合、マロニエ君の知る限りにおいては美の追求とは程遠い、別項に掲載している北米の読者さんも言っておられるように、ほとんど仮装行列に近いもので、こういうことを嬉々としてやろうとする、あるいはやりたいと感じる価値観や救いがたいセンスの無さに、やるせなさを禁じ得ません。

昔は、法だのルールだのというものの遙か以前の問題として暗黙のうちに「してはならないこと」というものがたくさんありましたが、今は崩壊していますね。


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2013/01/29 Tue. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

笑っていない目 

暮れにちょっとしたリフォームに関することを書きましたが、少しその後の続きのようなことを。

結局、マロニエ君の知人の紹介(あくまでも間接的な)ということで、とあるリフォーム会社とやらの女性社長が技術系の男性を伴ってやって来ました。

もちろんその社長とは初対面で、むこうはマロニエ君というペンネームも、ピアノとの絡みなどもまるで知らないし、ましてやこんなブログなんて見るはずもないので、まあ敢えて書きますが、これがなかなかの社長でした。

挨拶もそこそこにこちらの意向を伝えて、しばし雑談などをしたあと、直ちに現場の検分がはじまりました。この社長、何を頼んでも聞いても、決して作り笑顔を絶やさず、いかにも意識的な柔らかな口調で「はい、できますよ。大丈夫です。じゃあ○○しましょうね。」とこちらの意向を次々に受け容れながら、もうひとりの男性とも軽いやり取りを交わしながら、次から次へと現場を見て回っています。

それが一段落つくと、再びイスに座って楽しげに歓談して、適当なタイミングで帰っていきました。雰囲気でいうと、代議士の小池百合子さん風とでもいえばわかりやすいでしょうか。

「できるだけお安く願いたい」ということは何度も念押ししておきましたし、先方もそのことは了解したような応対でしたから、あとは金額の提示を待つだけです。ただマロニエ君としては、その社長の目がずっと気になっていました。
…なんというか、パッと見た感じはいかにも爽やかで優しげ、時にはこちらのことを思いやってのようなフレーズもしばしば口にしながら、いかにも良好な歓談が交わされましたが、彼女の目には常にビジネス人間としての自意識が漲っており、心の内側で決して踏み外さない一線を保っているのがミエミエでした。

どんなに笑っても、真から笑っていないし、どこか常に冷めてことは自慢ではありませんがマロニエ君は見逃しませんでした。帰られた後にそのことを云うと、同席したあとの二人は「そーお?」という感じでしたから、だれにもバレバレというものでもないようです。

それから一週間を過ぎたころ、見積書とやらが大きな封筒に入れられて恭しく送られて来ました。
果たして、何枚もの書類が束ねられ、むやみに項目が多いことに加えて、最終金額はこちらの予想を遙か彼方へ吹き飛ばすような無遠慮な数字がドカンと記されていました。
本来ならもっと驚いたかもしれませんが、マロニエ君はその社長の人物観察を通じて、ある程度こんな結果が出るのではないかという予想をしていたので、それほど驚倒はしませんでしたが、まったく大胆というべき数字でした。

呆れて、しばらくはそのあたりに放り投げておきましたが、後日詳細を見てみると、その見積がいかに巧みに書かれているかがわかりました。あまり具体的なことを述べるのは控えますが、例えば誰にでもわかりやすいクロス(壁紙)の張替代などは商売気なんかありませんよ!と言わんばかりに安く書かれているのに対して、ほとんど意識にものぼらないようなちょっとしたことなんかが、ケタがひとつ違うのではないかと思うほど高かったりの繰り返しでした。
つまり素人に安さがすぐ比較しやすいものに関しては激安にしておく一方で、そうではないものに関しては思い切りよく高額な数字がこれでもかと並んでいます。

よくいえばメリハリがきいているということかもしれませんが、今どきの情報化社会であっても、リフォームの世界は要注意分野というか、よほどこちらがしっかりしていなくてはいけないジャンルだというのが率直なところでした。
まあ男でもどちらかといえば荒っぽいハードな世界とでもいうべき建築関係の会社を、そう歳でもない女性が社長として切り盛りしてやっているのですから、そのしたたかさたるや並ではないようです。そのへんの甘ちゃんとは異次元の猛者なのだということがよくわかりました。

まあ、見積はあくまでも見積であって、依頼するかどうかの意志決定はこちらが握っているわけですが、要はこの世界、努々油断はできないということのようで大変勉強になりました。



2013/01/27 Sun. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

らららのピアノ特集 

先日のNHK日曜夜の「らららクラシック」ではピアノ特集第2弾というのをやっていました。

番組では、現役のピアニストをいくつかのグループに分け、それぞれの特徴に合わせながら紹介していくという趣向でしたが、トップバッターは「圧倒的技巧グループ」というもので、演奏技術の極限に挑み続けるピアニストだそうで、ここで紹介されたのはロシアの格闘技選手みたいなピアニスト、デニス・マツーエフと、もうひとりはなんとピエール・ロラン・エマールということで、いきなりこの「なぜ?」な取り合わせに絶句してしました。

エマールはむろん大変な技巧の持ち主であることに異論はありませんが、かといって圧倒的技巧が看板のピアニストだなんてマロニエ君は一度も思ったことはありません。出だしからして番組に対する信頼を一気に失いました。

次は「知的洞察グループ」で、楽譜の研究を徹底的におこない、定番の作品にも新たな光りを当て観客にも発見の喜びをもたらすということで、ここではアンドラーシュ・シフひとりが紹介されていました。
この人選はなるほど間違いではなく、少し前ならブレンデルなどもこの範疇に入るピアニストであったことは間違いないでしょうね。むしろエマールはこちらに分類すべきだったとも思いますし、内田光子やピリスもそのタイプでしょう。

さらに次は「独走的独創グループ」で、伝統にとらわれず独自の音楽を作り上げ、観客に未知の世界を体験させるということでは、なんとラン・ランとファジル・サイが紹介されました。
サイには確かにこの括りは適切で大いに納得できますが、ラン・ランとは一体どういう判断なのかまったくわかりませんでした。彼の音楽に独自性なんてものがいささかなりともあるなどとは思えませんし、雑伎団的な目先の演奏で人を惹きつける点などは、せいぜい技巧グループで十分でしょう。また現存するこの分野の最高峰といえばマルタ・アルゲリッチの筈ですが、彼女の名前すら挙がらなかったのは到底納得できませんでした。ソロをなかなか弾かないというハンディはありますけれども。

次は「コンクールの覇者」ということで、ショパン・コンクールの優勝者であるユリアンナ・アヴデーエワとチャイコフスキーの覇者であるダニール・トリフォノフが紹介されました。
アヴデーエワの弾く、リスト編曲によるタンホイザー序曲は何度聴いても実に見事なものでしたが、トリフォノフには演奏家としてのなんら指針が見受けられず、このときの映像でのこうもり序曲は、ただの指の早回し競争みたいでテレビゲーム大会に興じる子供のようで、マロニエ君にはまったく感銘を受ける要因が皆無でした。

ちなみに、ファイジル・サイは数年前の来日時にNHKのスタジオで収録されたムソルグスキーの展覧会の絵の終曲が紹介されましたが、逞しい体格と、余裕にあふれたテクニック、すさまじいエネルギー、確信的な音楽へのアプローチなどは他を寄せ付けぬ圧倒的なモノがあり、この強烈さは、ふと在りし日のフリードリヒ・グルダを彷彿とさせるような何かを感じたのはマロニエ君だけでしょうか。
彼はNHKのスタジオにはたくさんあるはずのスタインウェイの中から、おそらくはディテールなどから察するに1970年代のDを弾いていましたが、現代のそれに較べると、明らかにイージーな楽器ではない厳しさと暗めの輝きがあり、こういう力量のあるピアニストはこういう楽器を好むのだろうという気がしました。

最後は昨年のポリーニの来日公演から、ベートーヴェンのop.110が全曲流れましたが、これについてはすでに何度も書いていますので割愛します。
また、メインゲストであった中村紘子さんのトークもあいかわらず健在で、番組冒頭で「これまでに何人ぐらいのピアニストを聴かれましたか?」という司会者の質問に「そうですね、数えたことがないんですが、1万までは行かないと思いますが…」すると司会者が「7、8000人は優に超える」「そうですね」という珍妙なやりとりがあり、なーんだ、ちゃんと数えてるじゃん!と思いました。

この日は、不思議なほど登場するピアニストに女性や日本人の名前が挙がらなかったのは、何かが影響したからだろうかと感じた人は多かったか少なかったか…どうでしょう。

2013/01/25 Fri. 01:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

古紙回収 

我が家には仕事の関係上、古い書籍や雑誌が少なからずあるのですが、とくに客観的価値のあるものでもなく、いつかその整理をしなくてはと思いながら、ずるずると先延ばしになっていました。

最大の理由は、単純明快にまず面倒臭いということでしょう。
引っ越しや何かで、半ば強制的にやらされれば面倒臭がっている暇もないかもしれませんが、これを任意でやるというのはマロニエ君のような人間にとっては生半可なことでは着手できません。

とくに先代から受け継いだものなどがある場合は、よけいその傾向が強まります。
そんな中でも毎年自分で避けてきた時期としては、湿度や暑さにめっぽう弱いマロニエ君としては梅雨から夏場にかけてだけはやりたくないので、やるときは冬だと決めていました。で、この冬は少しその覚悟をしていたのです。

いっそなにもかもというのなら話はまだ単純ですが、手放す(捨てる)ものと残すものを選別することからはじまるのが煩わしくも悩ましい点です。

といってまた先延ばしにしていてもキリがないわけですが、あるとき回覧板に町内の「古紙回収日」と大書された文字が目に留まり、ついにそれに合わせて一部でもいいのでやってみることにしました。

いまさら言うまでもないことですが、紙というものは量が集まると、盛大に場所を取り、凄まじい重量にもなって、とてもじゃありませんが安易な気構えでは太刀打ちできる相手ではありません。
とりわけ古い書籍になると、その価値をどう見るかによっても判断は大きく影響されますし、それだけでなく個人的な思い出などが絡んでいる場合もあり、捨てる行為も大変なら、それと並んで捨てる決断をすることは非常に精神的な作業でもあると思いました。

尤もこれは本だけの問題ではなく、家にあるあらゆるものに共通することなのかもしれません。
マロニエ君は個人的な好みでいうと、モノを「捨てられない人」と「なんでも捨ててしまう人」、この両極端はハッキリ言ってどちらも嫌いです。
両者共に大いに言い分はあるのだろうと思いますが、それぞれが自分とは体質的に相容れず、あくまで程良いことが理想だと思うのです。もちろんマロニエ君がこの点で自分は常識派だと主張するつもりはありませんが、なんでももったいないといってモノの山をつくるのは真っ平ゴメンですし、逆に必要最小限のモノしか置かず殺風景の極みのような寒々しい空間にして、自分こそは賢いエコの実践者のような顔をしているタイプも甚だ苦手です。

というわけで、今回はとりあえず、どう考えても、今後も見ないだろうし先々でも要らないと思われる本を処分することにしました。といっても本来的には本を捨てるという行為は非文化的であまり好きではないのですが、まあそんな理想論ばかりもいっていられませんから、やはりどこかで一線を引く必要があるのも現実です。

果たして数百冊におよぶ本をゴミ回収のトラックに積むことになりました。
古本買い取りなども近ごろは盛んなようですが、聞くところでは労苦のわりには憤慨だけが残るような買い取りしかされないらしく、とくにマロニエ君宅には専門書関係が多いのでとてもそういう対象とも思えませんでしたし、要らないなら潔く古紙回収に出す方がマロニエ君としてはよほどせいせいするような気がしました。

で、実際に車のトランクの2杯ぶんぐらいを持っていきましたが、めでたく「せいせい」しました。

2013/01/23 Wed. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

丘の上のバッハ 

福岡市のやや南にある小さなホールで現在進行中のシリーズ、バッハのクラヴィーア作品全曲演奏会第2回に行ってきました。

会場はもはやお馴染みの感がある日時計の丘ホールで、ここには1910年製の御歳103歳のブリュートナーが常備されていることは折に触れ述べてきた通り。バッハといえばライプチヒで、そのライプチヒで製造されるブリュートナーでバッハを奏するということには、明瞭かつ格別な意味があるようです。

演奏者はこのシリーズをたったお一人で果敢に挑戦しておられる管谷怜子さんで、この日は平均律第一巻の後半、すなわち第13番から第24番が披露されました。

いつもながら安定感のある達者な演奏で、癖がなくのびやかに音楽が展開していくところは、管谷さんの演奏に接するたびに感じるところです。いかにも朗々とした美しい書体のようなピアノで、それはこの方の生来の美点だろうと思われ、非常に素晴らしいピアニストだと思います。欲を出すなら、バッハにはさらに確信に満ちたリズムと音運びがより前面に出てきてほしいところで、ややふわりとした腰高な印象があったとも思いますが、もちろん全体はたいへん見事なものでした。

それにしても、バッハの平均律を通して弾くということがいかに大変なことかという事をまざまざと見せつけられたようでした。そもそもピアノのソロが息つく暇もない一人舞台というところへもってきて、バッハのみのプログラムというのはさらにその厳しさが狭いところへ、より押し詰められているような気がします。

通常CDなどでは平均律クラヴィーア曲集はほぼ例外なく第一巻、第二巻ともに各二枚組(合計四枚)の構成となっており、ちょうどCD一枚ずつに振り分けたコンサートとなっていますが、いかに耳慣れた曲でも、コンサートで通して弾くチャンスというのはそうざらにあるものではなく、実際よりも体感時間が長く感じられたようで、本当にお疲れ様でしたという気になりました。

マロニエ君は幸運にも最前列の席で聞くことができましたが、ここのブリュートナーは聴くたびにその音色には少しずつ変化があるようで、この日はいかにもブリュートナーらしい、ふくよかさの中に細いけれども艶というか芯が入った音で、ときにモダンピアノであり、ときにフォルテピアノにもなる変わり身のあるところが、バッハという偉大な作品を奏でられることで楽器も最良の面を見せているようでした。

コンサートは17時開演。演奏が始まったときにはピアノの上部にある大きな正方形に近い採光窓から見る空は淡い灰色をしていましたが、休憩後の第19番がはじまるころには美しいコバルトブルーになり、その後演奏が進むにつれて濃紺へと深さを増していくのはなんともいえない趣がありました。
最後のロ短調の長いフーガが弾かれているころには、ピアノの大屋根とほとんどかわらないまでの漆黒へと変化していったのは驚きに値する効果がありました。
この空の色の変化を音楽の進行と共に刻々と味わい楽しむことができたのは、まったく思いがけない自然の演出のようで、受ける感銘が増したのはいうまでもありません。

この日は演奏者の管谷さんはじめ、ホールのご夫妻、ヤマハの営業の方や知人、以前在籍していたピアノクラブのリーダーとも久しぶりに会うことができ、しばし雑談などをすることができました。

日時計の丘は、ここ数年で広く認知され、福岡の小規模な音楽サロンとしては随一の存在になっていると思われますが、素晴らしい絵画コレクションにかこまれた瀟洒な空間は趣味も良く、音響も望ましいもので、至極当然なのかもしれません。

2013/01/21 Mon. 02:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

アリス・紗良・オット 

昨年のNHK音楽祭の様子が放送されていますが、13日は巨匠ロリン・マゼールの登場でした。
プログラムはベートーヴェンのレオノーレ第3番とグリーグのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの第4交響曲というもので、ピアノは現在人気(らしい)アリス・紗良・オットでした。

マゼールはむかしマロニエ君の好きな指揮者の一人でしたが、さすがにずいぶんお年を召したようで、それに伴ってか、音楽にやや張りがなくなり(N響というこもあってか…)、テンポも全体的にゆったりしたものになっているようでした。

きっと開催者はじゅうぶんわかっているはずなのに、あえて音響の悪い巨大なNHKホールをこうしたイベントに使うのは、やはりそのキャパシティからくる収入面としか考えられませんが、あいかわらず音が散って散々でした。あそこは本来「紅白歌合戦専用ホール」というか、少なくともクラシックに使うのは本当に止めて欲しいものです。

アリス・紗良・オットはどちらかというとビジュアル系で売っているピアニストというイメージでしたが、トレードマークの長い黒髪をバッサリ半分ぐらいに切っており、なんとなく別人のようでした。
たしかに可愛いといえばそうなのかもしれませんが、いわゆるアーティストとしてのオーラのようなものは微塵もなく、とくに髪を切った姿はどちらかというとそのへんのおねえちゃんというか、せいぜい朝の連続ドラマの主人公ぐらいな印象しかマロニエ君にはありません。

それに、どうでもいいようなことですが、左右両方の指には無骨な指輪を1つずつ嵌めており、マロニエ君はピアニストでオシャレ目的のリングを付けるようなセンスはあまり好きではありません。
どうでもいいようなことついでにもうひとつつけ加えると、この日のオットはブルーのロングドレスの下から出た足はなんと裸足!だったということで、こちらはなんとなくその理由がわかる気がしました。革靴は微妙なペダル操作がラフになるのみならず、下手をするとズルッと滑ってしまうことがあるので、裸足ぐらい確かなものはないでしょう。

この日はNHK音楽祭ということで、ステージの縁は全幅にわたって花々が飾られていましたから、足の部分はそれに隠れて生では気が付かない人も多かったことと思いますが、カーテンコールの時にはわざわざカメラが裸足部分をアップしているぐらいでしたから、よほど異例のことだったのかも。
それにしても、足が裸足なのに指には左右リングというのもよくわかりません。

オットはそのスレンダーな体型に似合わず、手首から先はまるで男性のように大きく骨太な手をしています。メカニックもそれなりに確かなものをもっているようで、いわゆる技巧派的要素も備えているという位置付けなのかもしれませんが、残念なことにその演奏にはなんの主張も考察も情感も感じられず、ただ学生のように練習して暗譜して弾いているという印象しかありませんでした。

お顔に不釣り合いなガッシリした長い指には、指運動としての逞しさはありますが、肝心の演奏は彼女の体型のように痩せていて潤いがなく、音にも肉付きがまったくないと感じました。
オットには男性ファンが多いようですから、こんなことを書くと怒られるかもしれませんが、でも彼女は芸能人ではなくピアニストなのですから、そこは彼女の奏でる音楽を中心に見るべきだと思うのです。

これから先のピアニストが、可愛いアイドル的な顔をしながら難曲をつぎつぎに弾ければいいというのであればこのままでもいいのかもしれませんが、やはり最終的には演奏によって聴衆を納得させないことには長続きはしないだろうと思いましたし、またそうでなくてはならないとマロニエ君は強く思うわけです。

非常に残念だと思ったのは、第1楽章では硬さがあったものの次第に調子を上げてきたにもかかわらず、終楽章では老いたマゼールのちょっとやりすぎな大仰なテンポに足を取られて、ふたたびそのノリが失われてしまったことでした。
もしかしたらいいものを持っている人かもしれないので、もっともっと精進して欲しいものだと思いました。


2013/01/19 Sat. 01:15 | trackback: 0 | comment: 0edit

寒中洗車 

マロニエ君はクルマ好きの洗車好きでしたから、若いころは暇さえあれば車を洗っていましたが、だんだんそうもいかなくなり、今では月に一度も車を洗うことなどありません。

年末年始もとうとう車は汚れたままで過ぎ去りました。
なにやかやで洗車する時間もないことと、天候も不順で、せっかく洗ってもいきなり雨では馬鹿馬鹿しいので、そんなことで自分の都合と天気の様子見ばかりしていると、洗車するきっかけなんて永久にやってこないような気がしていました。

それでも、さすがにもうそろそろと思ってみますが、このところの寒さと来たらただ事ではなく、給油の時にスタンドで洗車をしている人達を見るだけでも歯茎がガタガタいいそうで、とても自分が実行しようという気にはなれません。

マロニエ君が車の汚れでイヤなのはいろいろありますが、そのひとつがホイールがブレーキパッドの粉でだんだん黒くなってくること、もうひとつはフロアマットが汚れるというか、靴底に付いた小石やゴミなどでだんだんと床が散らかってくることです。

どうしてもガマンできなくなったときは、マットだけを外して、水を使わず硬いブラシでブラッシングすることでごまかしますが、いずれはていねいに掃除機をかけなくては解決しません。
とにかく、何をどういってみてもホイールは黒ずんでいるし、洗車をしないことにはどうにもならないところまで来ていたことは確かでした。

そしてついに決断のきっかけがやって来ます。
関東地方にその名も「爆弾低気圧」とかいうのが襲ってきて大雪をもたらし、首都圏が交通麻痺を起こしたその翌日、なぜか我が福岡地方は天気晴朗、天からはなにも降ってくることのない気配を感じたとたん、まるで発作的に重い腰を上げる決心がつきました。

夕食後、とうとう長い沈黙を破ってついに洗車を開始しました。
車の外気温度計によると外は4℃で、家の中でも廊下などは冷蔵庫みたいに冷え切っていますが、いったん覚悟を決めて洗車用の上着を着て外へ出ると、不思議なことにほとんど寒さらしきものも感じません。
それどころか、洗車が好きだった頃の感触がほんの少し蘇ってきて、かすかに楽しいような気分になるのはどうしたことだろうかと思います。

いざやってみれば、あれほどなにやかやと理由を付けてしぶり抜いていた洗車ですが、ひとたび着手すれば次々に作業ははかどり、車はみるみるきれいになるし、何の苦もなく片付いていきます。
やっぱり人間は気持ちひとつなんだなあと柄にもないことをしみじみ思います。

おそらく向かいにあるマンションの住人は、車の出入り口が我が家のガレージの真ん前にあるので、出入りするたびにこんな夜更けに洗車なんぞしていいる様子を見て、さぞ呆れているだろうと思いますが、実は本人は何の苦痛もないまま、むしろ嬉々としてやっているのですから、自分でも不思議です。

よくテレビで寒い中をわざわざ海中に入って気合いを入れるなど、見るからに心臓に悪いような映像がありますが、あれも当人達は余人が思うほど辛くはないのかもしれないと思いました。
洗車をした日は、2時間ほど休む間もなく動きまくるので適度な刺激と運動になるのか、いつもなんとなく爽やかな気分になれるので、こんなことならもう少し頻繁にやろうじゃないかと(そのときは)思うのですが、なかなかそれが定例化しないところが我ながら情けないところです。


2013/01/17 Thu. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

ジョン・リル 

過日、NHKのクラシック倶楽部でジョン・リルの昨年の日本公演の様子が放送されました。

この人はベートーヴェンを得意とするイギリスの中堅どころだと思われますし、我が家のCD棚にも彼の演奏によるベートーヴェンのピアノソナタ全集がたしか一組あったはずです。

もう長いこと聴いていませんでしたし、これまでにもとくにどうという印象もなく、たしか格安だったことが理由でその全集を買ったような記憶があるくらいで、今後もおそらく積極的に聴くことはないでしょう。

ステージにあらわれたリルはもうすっかりおじいさんになっていましたが、イギリス人演奏家らしい良くも悪くも節度があり、際立った個性も強い魅力もない、まさに普通のピアニストだと思われ、それ故に彼の演奏の特色などはまったく記憶にありませんでした。そんなリルの演奏の様子を見てみて、やはりその印象の通りで人は変わらないなあ…というのが率直なところでした。

お定まりに、この日は最後の三つのソナタを演奏したようですが、テレビでは放送時間の関係でop.109とop.111の2曲だけが紹介されました。

決定的に何か問題があるわけではないけれども、とくにプラスに評価すべきものもマロニエ君にはまったく見あたりませんでした。技術的にも見るべきものはなく、CDを出したりツアーに出かけたりするギリギリのランクといったところでしょうか。

まず最も気になったのが、キャリアのわりに解釈の底が浅く、まるで表現に奥行きというものが感じられませんでした。これはとりわけベートーヴェン弾きとしてはなんとしても気になる点です。
さらには音の色数が少なく、表現にも陰翳が乏しくて、ただ音の大小とテンポの緩急だけで成り立っている音楽で、作品に横たわる精神性に触れて聴く者が心を打たれ、高揚するというようなことがほとんどありませんでした。

ただ、二曲とも、なにしろ曲があまりに偉大ですから、どんな弾き方であれ、一通りその音並びを聴くだけでもある一定の感銘というものはないわけではありませんが、しかしそこにはより理想的な演奏を常に頭の中で鳴らしている自分が確実にいるわけで、この演奏ひとつに委ねてその世界に浸り込むということは到底できないと思われました。

こう云っては申し訳ないけれども、とくに最後のソナタop.111では、どこか素人が弾いているような見通しの甘さがあって、この点は大いに残念でした。この曲はマロニエ君の私見では第2楽章がメインであって、第1楽章はそれを導入するための激しい動機のようなものに過ぎないと思っています。

第1楽章の最後の音の響きが途切れぬまま、かすかに残響している中に第2楽章のハ長調の和音が鳴らされたときには「なるほど、こういう解釈もあるのか」と一瞬感心されられましたが、その第2楽章の主題があまりにテンポが遅く、間延びがして、この静謐な美を堪能することができませんでした。
とくにこの楽章の冒頭ではリピートを繰り返しながら少しずつ先に進みますが、そのリピートが煩わしくて「ああ、また繰り返しか…」とダルい気がするのは演奏に問題があるのだと言わざるを得ません。

この主題は大切だからといってあまりに表情を付けたりまわりくどいテンポで弾くと、却ってそこに在るべき品格と荘重さが失われてしまうので、これはよほど心して清新な気持ちで取り扱うべき部分だと思いました。

「二軍」というのは野球の用語かもしれませんが、どんな世界にもこの二軍というのはあるのであって、ジョン・リルの演奏を聴いていると、まさにピアニストにおける生涯二軍選手という感じがつきまといました。

2013/01/15 Tue. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

調律師さんの共通点 

これまで出逢ってきた調律師(本来はピアノテクニシャンというべきですが)の方々は、年齢も性格も出身も活動地も各々違うのに、その職業がそうさせるのか、彼らにはどこか共通した特徴のようなものがあるようです。

調律師さんというのは、ごく一部の例外を除くと、おおむねとても控え目で、どちらかというとちょっと地味な感じの雰囲気の方が平均的だと思います。さらに腰も低いなら言葉もかなり丁寧で、その点じゃちょっとやり過ぎなぐらいに感じることも少なくありません。

マロニエ君に言わせると、ピアノの調律師というのは技術者としても専門性の高い高度な職人なのだから、そこまでする必要があるのかと思わせられるほど低姿勢に徹して用心深い人が多い気がしますが、そこにもそうなって行った必然性のようなものはあるのだろうと察しています。

ところが、この調律師さん達の多くは初めの印象とは裏腹に、お会いして少し時間が経過して空気が和んでくると、大半の方はかなりの話し好きという、そのギャップにはいつもながら驚かされてしまいます。
専門的な説明に端を発して、その後は仕事には関係ないような四方山話にまで際限なく話題が発展するのは調律師さんの場合は決して珍しくはありません。

マロニエ君などは調律師さんと話をするのはとても好きですし楽しいので一向に構いませんし、加えてこんな雑談の中から勉強させてもらったことも少なくないので個人的には歓迎なのですが、だれもかもがそうだとは限らないかもしれません。
もちろんだから相手によりけりだとは思いますが。

職業人として気の毒だと感じる点は、非常に高度な仕事をされている、あるいはしなくてはならないにもかかわらず、それを正しく理解し評価する側の水準がかなり低いということです。
人間は自分の能力が正しく評価され理解されたいという願望は誰しももっているもので、これはまったく正当な欲求だと思います。

ところが、どんなに込み入った高等技術を駆使しても、そこそこにお茶を濁したような仕事をしても、多くの場合、どう良くなったのかもよくわからないまま、ただ形式的に調律をしてもらったこと以外に評価らしいものもされずに、規定の料金をもらって帰るだけという寂寥感に苛まれることも多いだろうと思います。

調律師さんが普通とちょっと違うのは、どんなに低姿勢でソフトに振る舞っても元は職人だからということなのかもしれませんが、それだけ話し好きというわりには、いわゆる基本的に社交性というものが欠落していて、どちらかというと人付き合いも苦手という印象を受けることが多いような気がします。
あれだけみなさん話し好きなのに社交性がないという点が、いかにも不思議です。

もうひとつはその盛んな話っぷりとは裏腹に、メールの返信などは直接会ったときとはまるで別人のように素っ気なく、メールでも返ってくるのはほとんどツイッター並みの最小限の文章だったりするのは甚だ不思議です。もちろんそうでない人もいらっしゃいますけどかなり少数派です。

そこにはやはり調律師という職業柄、知らず知らずに身に付いた特徴のようなものがあるのでしょうね。というか、逆に考えれば、調律を依頼するお客さんのほうの性質もあるから彼等をそんなふうにさせてしまっているのかもしれません。

2013/01/13 Sun. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

快速無灯火魔 

昨日の夜は出かけていて、帰りに博多区の国道三号線を走っているとすごい車を見かけました。
すごいのは車そのものではなく、正確に言うとドライバーがすごいのです。

他地区ナンバーの軽自動車でしたが、いきなりマロニエ君の右後方からスーッと追い抜いてきて、前を斜めに横切って、さらにひとつ左の車線に移動しました。

はじめにあれっ!と思ったのは、夜の11時ごろだというのに完全な無灯火、つまりまったくライトを付けていないことでした。これだけでもどういう神経をしているのかと思います。
この無灯火車というのは意外なことにときどき見かけますが、わりと田舎のナンバーの車などがそうだったりすると、真っ暗闇の田舎道とは違って、夜でも明るい街中に慣れていないんだろうぐらいに笑っているところですが、ゆうべの車はそういう無邪気さとはちがった何か異常な感じが漂っていて、はじめから妙に目立っていました。

しばらくその車の傍を走る状況になったのですが、やや荒っぽい運転ではあるけれども「暴走」というほど激しいわけでもなく、でも、どういいようもなく動きも気配もヘンであるのは間違いない。一体どんな奴が乗っているのかという興味ばかりが募ります。
しかし、信号停車ではなかなか隣に並ぶチャンスがなく、しばらくやきもきさせられましたが、ついにチャンスが訪れました。

はじめは真横ではないものの、斜め後ろぐらいに信号停車すると、なんとその車の運転席にはカーナビどころではない大きさのモニター画面がハンドルのすぐ前にドンと付いていてビックリ。夜目にも鮮やかに映っていて、なにやらアニメ映像みたいなものがずっと流れています。
そうです、この軽自動車のドライバーは運転しながら、この画面のほうに熱中しているらしいことがひと目でわかりました。これを見ながらスイスイ飛ばして走っているわけです。

あんな大きなサイズの車用モニターがあるのかどうかしりませんが、ひょっとしたらタブレット型液晶かもしれません。そこのところは結局よくわかりませんでした。

さらに次の信号では横に並ぶことになり、もうこちらもたまらなくなってドライバーの方を覗き見ると、それなりの年齢のメガネをかけた中年男性が、周りのことなど全く意に介さない様子で、まさに自分の世界を作ってそこに浸りきっており、耳には白いイヤホンが差し込まれています。
おそらくアニメの音声なんでしょうね。

そしてトドメは、口は終始モグモグしていてしきりに何かを食べています。
ときおり助手席に手を伸ばしてはパッと口になにかを放り込んで、またモグモグでずっと食べているうようでした。と、信号が青になると、これがまた結構な勢いでブンブン加速していき、相当のスピードで走っているのには心底呆れかえりました。

夜の国道に、無灯火の黒い物体がかなりのスピードで走り抜けて、まさかこんな全身危険まみれみたいな車を追いかけるつもりもないので、こちらは自分のスピードで走っていると、そのうち見えなくなってしまいました。

あとから考えれば110番通報すべきだったかとも思いましたが、まあとにかく変わった人がいるものです。ただ、事が車ともなれば、あんなドライバーのせいで事故でも起こればたまったものではないですから、本当に注意していなくてはいけませんね。


2013/01/11 Fri. 02:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

休日過多 

やれやれというべきか、いわゆる年末年始といわれる時期がやっと終わった気がします。

どうしてだか自分でもはっきりわかりませんが、マロニエ君はむかしからこの時期がとにかく苦手でした。
とりわけクリスマスを過ぎて、あと数日で新年を迎えるという時期になると、それまでの師走の忙しさや賑わいによる一種の興奮状態がウソみたいに消えて静まり、街中は一転してガランとしてしまいます。この感じがたぶん嫌なのです。

まるでチャイコフスキーの悲愴交響曲のように、第3楽章の異常なまでの活気や喧噪のその向こうに、対極の陰鬱な世界ともいうべき第4楽章があるように、そこには打って変わった、静まりかえった、すべての動きが止まって眠りについてしまったような空気に街全体が覆われてしまのが嫌いなんでしょうね。

昔ほどではないにせよ、お店というお店はあまねくシャッターが降りるなど閉店状態となり、形だけの門松や謹賀新年の文字とは裏腹に、人のいない死んだような真っ暗な店内など、視界に入るだけでも嬉しくはないわけです。

普段は渋滞するとイライラしているくせに、この時期は車も激減して、道は皮肉なほどスイスイと流れ、それが幾日も続くのは何十ぺん経験してもなぜか慣れるということがありません。

とりわけ今年はカレンダーの都合から、休みが異様に長く、世の中が一応動き出すまでに10日はかかったわけですし、それが本当の意味で平常に戻るのはもう少しかかるのかもしれません。

欧米やその他の諸外国では、どのような年末年始の過ごし方をしているのかは知りませんが、日本のそれは表向きの建前とは裏腹に、なんとも暗くて冗長なだけで、人々が真からこの時期を楽しんでいるようには思えないのですが他の人はどうなんでしょう。

マロニエ君は決して勤勉ではないどころか、大いに怠け者の部類であることは自認していますけれど、そんな人間からみても最近の日本はいささか休みが多すぎるように思います。
昔は週休2日なんてものもなかったし、それをみんな不満にも感じずに土曜まで働いていましたし、学校もお昼までですが行かなくてはなりませんでした。
これだけでも年間50日も休みが増えたことになります。
さらに祝日も増え、それが日曜と重なると今度は振り替え休日になり、どうかすると休日の間にポツポツ平日が挟まっているようで、これでは物事がはかどるはずもなく、事を進めようにもむやみに時間ばかりかかって、一体なんのための休みかさえもわかりません。

そういう意味では、昔は携帯もネットもなかったけれど、みんな一人ひとりに覇気があって、世の中全体にも熱気があって、活力ある生活を送っていたようにも思い出されてくるこのごろです。戦後の高度経済成長はそんな活き活きとした頑張りの中から達成されたものでしょう。

個人別に話をすると「休みが多すぎて持て余している」という声はほうぼうから異口同音に聞こえてきますが、一旦休みになったものを制度として返上することはなかなかできないことなんでしょうね。

もとはといえば、政治家が国民へのくだらないゴマすりのために祝日を増やしたり振り替え休日を作ったわけですが、いささかげんなり気味のマロニエ君です。

2013/01/09 Wed. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・五嶋みどり 

五嶋みどりさんのことをもう少し…。
彼女ほどの世界的な名声を得ながら、なにがどうあっても電車やバスを乗り継いでひとりで移動し、夜は自分でコインランドリーに行くという価値観は、それを立派と見る人にはさぞかしそう見えることでしょう。でもマロニエ君は非常に屈折したかたちの一種の「道楽」のようにも感じました。

そんなにまで普通の人のような粗末なものがお好みなら、終身貸与された、時価何億もするグァルネリ・デル・ジェスなんてきれいさっぱりオーナーに返上して、いっそ楽器も普通のものにしたほうが首尾一貫するようにも感じます。

思い出したのは、司馬遼太郎さんは生前、頻繁に取材旅行に出かけたそうですが、なんのこだわりもない方で宿はどこでもいいし、大好きなうどんかカレーライスがあればそれでよし、編集社にとってこんな手のかからない作家はいなかったということでしたが、そういう事と五嶋みどりさんの場合は、流れている本質がちょっと違っているような気がしました。
何かを貫き、徹底して押し通そうという尋常ならざる強引な意志力が見えて疲れるわけです。

ツアー中、ビジネスホテルのロビーでも、ちょっと時間があるとたちまち大学の資料に目を通すなど、まさにご立派ずくめで一分の隙もありません。遊びゼロ。それが彼女の演奏にも出ていると思います。
インタビューの対応も、いつもどこかしら好戦的でピリピリした感じがします。

「同じ服を着るのはよくない…etcと云われるのが、私には、いまだによくわからない」と言っていましたが、頭も抜群にいい彼女にそんな単純な事がわからない筈がない。むしろ彼女は誰よりもその点はよくわかっているからこそ、よけいに自分の流儀を崩さないのだとマロニエ君には見えました。
もちろん随所にカットインしてくる演奏はあいかわらず見事なものでしたが、教会はともかく、日本の寺社仏閣を会場として、キリスト教とは切っても切れないバッハの音楽をその場に顕すというのは、マロニエ君は本能的に好みではありません。

太宰府天満宮、西本願寺、中尊寺など由緒あるお宮やお寺と、キリスト教そのもののようなバッハの組み合わせは違和感ばかりを感じてしまうからです。

こういうことを和洋の融合とか斬新だとかコラボだのと褒め称えることは、言葉としてはいくらでも見つかるでしょうが、どんなに好きな西洋音楽でも仏教のお寺などは、その背景に流れるものが根本から違っているだけに、マロニエ君の感性には両方が殺し合っているようにしか見えませんでした。

以前、アファナシェフが京都のお寺でピアノを弾くという企画をして、それが放送されたときにも言い知れぬ抵抗感を感じました。
これらは決して非難しているのではありません。ただ単にマロニエ君は個人の趣味としてどうしても賛同できず、却って薄っぺらな感じを覚えるというだけです。

ただし、ひとつだけは個人的な趣味を超えていると感じたこともあり、それはとくに京都の西本願寺の対面所の前にある能舞台で弾いたときには、運悪く真夏の大雨となり、盆地の京都ではこのとき湿度はなんと90%にも達していたとか。もちろん屋根と細い柱以外に外部とはなんの囲いもありません。
そんな中で借り物のグァルネリ・デル・ジェスを晒して弾くというのは、楽器に対する芸術家としての良心として、自分なら絶対にできないことだと思いました。

マロニエ君だったら、グァルネリはおろか、ヤマハやカワイのピアノでもできないことだですね。
衣装に凝らず、公共交通機関を使い、ビジネスホテルに泊まって、夜はコインランドリーにいくということは、世界の名器に対する取扱いもこういうことなのか?…と思ってしまいます。


2013/01/07 Mon. 01:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

五嶋みどり 

暮れに民放のBSで、五嶋みどりさんのドキュメント「五嶋みどりがバッハを弾いた夏・2012」という番組をやっていたので録画を見てみました。

彼女を始めて聴いたのはズカーマンとの共演によるバッハのヴァイオリン協奏曲のCDで、修行のためアメリカに渡った日本人の天才少女ということで認められ、大変な話題になったことがきっかけでした。写真を見ると本当に小さい華奢な女の子ですが、その演奏はまったく大人びた堂々たるもので驚嘆した覚えがあります。

その後は実演にも何度か触れましたが、その演奏は繊細かつ大胆で、どの曲も驚くばかりに周到に準備され、隅々にまで神経が行きわたっており、天才たる自分に溺れることの決してない、常人以上の努力家であることを伺わせるものでした。少なくとも楽譜に書かれたものを再現するという点においては、まったく隙のない出来映えで、どの曲を弾いてもそこには徹底して譜読みされ、構築され、練習と努力で磨き上げられた果てに到達する完璧という文字が浮かんでくるようでした。

ただ、マロニエ君は昔から、五嶋みどりはすごい、素晴らしいとは思っても、好きな演奏家というものにはどうしてもなれない何かがつきまとっていました。
演奏は文句の付けようがないほど練り込まれ、なるほど立派だけれど、ただ立派なものを見せつけられて「畏れ入りました」と頭を下げるしかないような不満が残ります。それはマロニエ君にとっては、彼女の演奏は聴いていて良い意味での刺激とか喜び、とくに「喜び」の要素が感じられなかったからだと思います。
要するに味わいや遊び心がないわけです。

それがこの番組を見て、一気に長年の謎が解けたようでした。
今回のツアーは長崎五島からはじまって、各地の教会やお寺などでバッハのヴァイオリンのための無伴奏ソナタとパルティータを演奏するというものでした。その質素の極みのような生き方も含めて10人中10人が感心して褒め称えるようなものなのでしょうが、あくまでマロニエ君が感じたところでは、なんだかちょっと嫌味な感じがありました。

彼女は現在ロス在住で、どこかの音大の弦楽部長という責任ある地位にもあるそうで、毎日朝の6時から夜の12時まできわめて忙しい生活を送っているとのこと。
その合間に自分の練習をし、コンサートやツアーこなし、泊まるのはどこでも常にビジネスホテル、移動は絶対に公共交通機関でなくてはならないなど、まるでストイックな禅僧がヴァイオリンケースを担いで修行のひとり旅をしているようでした。

もちろんマロニエ君は、ちょっと著名なコンクールに優勝するや忽ちコマーシャリズムにのって、売れてくると贅沢に走り、どこへ行くにも特別待遇を当然のように思ってしまう勘違いの演奏家などは云うまでもなく嫌いですし、芸術家としても尊敬できません。
でも、それと同じように、こういう求道者のようなスタンスにことさら固執して、いかなる場合も、何があろうとこれを譲らず、自分の特異なスタイルを堅持していくというセンスも逆に嫌いなのです。なぜなら、それはコマーシャリズムに走る演奏家や価値観を、ただ逆さまにひっくり返しただけの強い主張のように見えてならないからです。

そのために周りの迷惑も厭わず、ひじょうに強情な人間の姿を見るような気がするのかもしれません。昔の言葉ですがやたらツッパッテいて余裕がないし、しかもそれがストイック志向であるだけに、とりあえず立派だということになるし尊敬の対象にさえなり得る。
でも、主催者や周りにしてみれば、ある程度のお膳立てにのってくれるアーティストのほうが楽なはずで、そういうことを無視するのは一見いかにも自分というものがあるかのようですが、同時に甚だしいエゴイストのようにも見えてしまいます。

あくまでもマロニエ君の好みや受けた印象の話ですが…。
2013/01/05 Sat. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

明るい日本に! 

昨年は、秋から年末にかけて政治の世界はめまぐるしい変化の連続で、ついに安部さんが再び日本の操縦桿を握ることになりました。

このブログで政治的なこと書くつもりは全くありませんが、少なくとも民主党政権樹立後から3年間というもの、良いことはまるでなかったなかったような印象しかなく、大半の人々は理屈抜きにホッとしているというのが偽らざるところではないでしょうか。

民主党の稚拙な政権担当能力もさることながら、リーマンショック、東日本大震災、それに端を発する原発問題などが重なって、惨憺たる状態が長いこと続きました。先の見えない円高、株価の低迷、そして消費税増税、尖閣問題など暗い問題を背負いながら、民主党内部のゴタゴタや内輪もめの連続など、日本丸はどす黒い雲の下の荒れた海をあてどもなく彷徨っていたようでした。

野田さんの「近いうち解散」も騙されたということは半ば公然たる事実として諦めムードが漂い始めていたとき、自民党の総裁選が行われ、安部さんが総裁に選出されるや、いきなり株価は上昇しました。これが初めの突破口だったように思います。

その後の党首討論の席上で突如、具体的な日にちまで口にした野田さんの発言によって、一気に世の中は選挙モードに突入し、結果は予想を上回る勢いで自民党が第一党の議席を獲得し、自公連立によって衆議院の3分の2さえ獲得するまでになりました。
聞くところでは民主党内では、総理には絶対解散をさせないでおいて代表だけを交代させる、いわゆる「野田降ろし」が始まり、野田さんは逃げ場のないところまで追い込まれたのが直接的な解散誘因だという説もありましたが、まあ結果から見ればそれもよかったということでしょう。

第二次安部政権では、さっそくにもさまざまな手が打たれ、毎年2%のインフレコントロールなど、即効性のある対策も実行されるようです。むろんこれを疑問視する声もあるにはありますが、ともかく昨年暮れの東京株式市場では大納会で最高値をつけるなど、ここ数年でひさびさに明るい気分で新年を迎えることができたように思います。

安部内閣発足直後には、デパートなどではさっそくにも「ちょっといいものを…」という絶えて久しかったニーズが復活しはじめて即座にそれに対応した商品構成に転じているといいますし、クリスマスケーキもこれまでの平均15センチが早くも21センチへとサイズアップした由です。
これは一見取るに足らない小さな事のようですが、でも、こういうことが積み重なって、明るい気運が湧き起こってくるところこそ景気を盛り上げる最大のエネルギーにつながる気がします。

年末にある調律師さんに電話してみると「この1、2ヶ月は過去にないほどピアノが売れた!」という、これまたえらく景気のいい話を聞きました。
まさに不景気も好景気も、要は「気」、気分の問題といわれる所以がここにありそうです。

いつだったか、選挙の頃、新聞に福沢諭吉の言葉で『政治とは悪さ加減の選択である』というのが載っていて、思わず唸りまました。
この意味でいうなら、なにも自民党や安部さんが最高とは云わないまでも「悪さ加減の選択」によって現在の政権が誕生したことは、やはり消去法によるベターな選択だったということなのだと思います。

今年も始まったばかりではありますが、なんとなくこの明るい調子が続いてくれればと思います。

2013/01/03 Thu. 01:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

謹賀新年 

あけましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い申し上げます。
このブログをはじめて4年目のお正月を迎えることができました。

先月暮れには日本にも政権交代という大きな変化が起こり、なんとなくですがいつになく世の中が少しずつ明るくなっていくような気がしているところです。

マロニエ君の毎年のこだわりである、その年の最初になんのCDを鳴らすかということですが、今年はそれほど迷わずに、すんなり決まりました。

J.S.バッハの平均律クラヴィーア曲集第二巻。
いまやバッハの名手のひとりとして数えられるに至ったハンガリーのピアニスト、アンドラーシュ・シフによる演奏です。

シフはもうずいぶん前にバッハの主だった鍵盤楽器の作品を12枚ほど録音していますが、近年はゴルトベルクやパルティータなど、別レーベルからの再録が進んでいます。
そして昨年も終わり頃になって平均律が第一巻・第二巻あわせて4枚組で発売されましたが、これがまたなかなかの名演でずいぶん聴きました。

昔の演奏よりも、より深く確信を持って、しかも自由で自然に弾いていると思います。
とりわけ第二巻はより明るい作品で、第一曲のハ長調は新年のスタートにもいかにも相応しいように思いますし、とくにフーガでの見事なことは何度聴いても感嘆します。

シフは好んでベーゼンドルファーも弾くピアニストですが、それは作品によって分けているようです。ベートーヴェンのソナタなどは曲の性格によってスタインウェイと引き分けていますが、バッハに関しては一貫してスタインウェイを使っています。
シフのコメントによれば、バッハとウィーンはまるで関係がないのだそうで、だからスタインウェイでしかバッハは弾かないとのこと。ただしベーゼンドルファーでおこなったコンサートのアンコールなどにバッハを弾く場合は、やむを得ずベーゼンで弾くけれども…なんだそうです。

本年もできるだけ思ったこと感じたことを、ブログ/ネットという場所で、許されると判断される範囲で「本音で(でも常にブレーキペダルに足をのせながら)」綴っていきたいと思いますので、どうかよろしくお付き合いくださいますようお願い致します。

2013/01/01 Tue. 13:02 | trackback: 0 | comment: 0edit