FC2ブログ

09 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

里親になるには 

マロニエ君は、自分がこの世に生まれたその日から、家には大型犬がいたほど動物には親しんで暮らしてきました。といっても大半は犬ばかりで、人生のあらゆるシーンにはさまざまな犬達と暮らしてきた深い思い出があり、最後に飼ったのがひときわ愛情深く賢いラブラドールレトリーバーでした。

その死があまりに強いショックとなり、それ以来、もう当分はペットは飼わないことに家族で結論が出るほどどその喪失感は大きなものでしたが、それから早5年が経ち、生活の中に動物がいないのは、やはりあまりにも不自然な気がしてきたのです。

夜、寝床などにはいると、無性に犬と遊びたくなってそれで寝付けないような日も出てくるまでになりましたが、そうはいっても、犬は何かと手がかかるのはまぎれもない事実です。それでも小型犬は我が家の好みではないので犬を飼うなら必然的に大型犬ということになり、それはやはり現実的にどう考えてみても現状では無理というのが偽らざるところ。

そこで比較的手のかからないとされる猫を飼ってみようかという、マロニエ君にしてみれば小躍りしたくなるような流れになり、もともと血統やブランドなんかはどうでもいいので、里親探しのサイトを覗いてみることにしました。福岡限定でもかなりたくさんあるのには驚かされました。

見ているといろいろいるもんです。
その中の一匹が気に入ったので、ログインしてさっそく相手と連絡を取りました。
もちろんマロニエ君がこの手のサイトを利用するのは初めてですから、なにかにつけて不慣れなことばかりです。

気が付くと、ほとんど見落として当然みたいな場所へメールが来ていて、それによるといきなり何時何分に電話をして欲しいということが書かれていました。すでに数時間が過ぎていましたがとにかく電話してみると、電話口に出てきた女性は、いかにも今風な乾いた感じの話し方で会話もなかなか続きません。それでも全体としての「流れ」の説明をなんとかはじめました。

まず意外だったことは、現在猫のいる場所が北九州市なのですが、まずこちらからその猫に会いに出かけて行かなくてはならず、それは当然としても、そこで相性やらなにやらを保護者(現在の猫の所有者でこれから人に譲渡しようと云う人)の人からこちらが里親として適任か否か「審査」された挙げ句、お眼鏡に適えば晴れて「合格」とみなされるようです。
じゃあそれで終わりかと思うとそうではなく、その次は、我が家に場所を変えて「トライアル」という一週間の猫との共同生活お試し期間が始まるとのことでした。

その際には、必ず現在の保護者の人(この場合は北九州の方)がこちらの自宅まで猫を連れてくるのがルールなんだそうで、要するに他人様の家や居住環境を「猫のため」という大義名分のもとにあれこれとチェックされるようです。
しかもそのための交通費の負担もさせられるようで、自分から敢えて行くというのに、その交通費を相手に請求というのもそんなもんだろうかと思いますし、だったらはじめに北九州まで見に行く交通費も負担して欲しいというのが、偽らざる素直な理屈です。

また、これまでに接種されたワクチンなどの各医療費も新しい里親が(さすがに全額ではないようですが)負担しなくてはいけないとのことで、このあたりから話が少しおかしいなあという気がしはじめました。
サイトによっては金銭の要求は一切してはいけないと謳っているところもあるようですが、そのあたりはサイトの管理者の考えによっても変わるということかもしれません。

もちろん相手は動物なので、事は慎重にという基本の考えはわかりますが、こちらの意向を問われることはあまりないまま、先方の都合ばかりを一方的に押しつけられるような気がしはじめて、少し気分が萎えてくるようです。

スポンサーサイト
2012/10/31 Wed. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

汚い音が混在 

とりあえずわかったことは、スピーカーにコードを結びつけて、コードと電源でアンプを中継し、そこへプレーヤを繋げばなんにしろ音は出るというです。そんなこと当たり前だ!といわれそうですが、なにしろ自作スピーカーなんて初挑戦なものでこんな段階から感心しているわけです。
しかし、その段階で出てくる音は、本当にただ単なる電気的な非音楽的な音なのであって、なんの秩序も無く音が好き勝手にガンガン出いてる状態であって、円筒形スピーカーの場合は、その筒の中を音があてどもなく走り回り、ぶつかり合い、反射して、音楽なんぞというものからはかけ離れたものであることがわかりましたね。

いわばリズムと音階の付いた騒音と云ったほうが正しいかもしれません。

ここで痛感したことは、市販のスピーカーは例え安物であってろうとも、その道のプロがそれなりにチューニングをして、チープなものはチープなものなりの尤もらしい音になるように、最低限の音響みたいなものには整えられているということです。

マロニエ君も初めて知ったのですが、スピーカーというのはそれがお馴染みの箱形にしろ、今回のような円筒形にしろ、ユニットさえいいものを買っておけば、とりあえずそこからは美しい音が出るもんだと思っていたのですが、そこからしてまず大間違いだったようです。

たしかにスピーカーユニットの前面では美しい音が出ているのかもしれませんが、それもなにもぶちこわすように背後から汚い、聴くに耐えない、すべてを台無しにする雑音が盛大に、遠慮会釈もなしに出ているということでした。

つまり、極言するなら、スピーカー作りの基本は、いかにして汚い音を消し去り美しい音だけを残すかと云うことのようでもあります。
と、口で言えばいかにも簡単ですが、これが大変なのであって、ある意味これほど難しいものはないのだということがわかりました。汚い音を消すと、同時にせっかくの美しい音やダイナミクスまで消してしまうことにもなりかねません。そこのノウハウや技についてはもうさんざんネットで視力が明らかにおかしくなるほど調べていたわけですが、ついにはこれという決定打は見つかりませんでした(あまりに専門性の高いことは理解できないほど高度でした)。

それは皆さんが、自分の技術を出し惜しみしているのではなく、数学のようなこれだという決定的な答えがないからということもやってみてわかりました。
ですから、人様がやっていることは大いに参考にはなるけれども、それが自分にとっても即実践できるものとは限らず、大抵はヒントや大まかな方向性ぐらいにしかなりません。

そうして、実際に自分の手足を動かしてあれこれと試してみるよりほかに道がないということも肝に銘じました。だいいち筒の長さや、材質や、直径、さらには使用するスピーカーユニットが変わるだけで音はいかようにも変化するし、さらには個人の好みの問題や聴く音楽のジャンルにもよっても評価は異なってくると思われます。

というわけで、とどのつまりは大枠での理論を勉強した後は、あとはひたすら実践しかないわけです。何度も言いますが長年DIYの趣味もなく、必然的にこれといった工具も作業場もないので、作業は毎夜ピアノの横の床スペースになり、ここはかつてなかったほどまでに盛大に夥しく散らかり、まさに足の踏み場もありません。

お客さんなんてきたら、まさかここに上げるわけにもいかないので近所の喫茶店にでも連れて行くしかないでしょう。
まあ、ここまでして、最後にそれなりのスピーカーができれば救われますけどね。

2012/10/29 Mon. 00:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

聴くに耐えない音 

知人と一緒に円筒形スピーカー製作することになり、この三ヶ月ほどでお互いに揃えたパーツ類が相整い、いよいよ互いの手許にあるものを交換する時期になりました。それによってスピーカーを組み立てるための基本的な材料は揃ったというわけで、いよいよ組立作業に取りかからなくてはいけません。

前にも書きましたが、マロニエ君はDIYの類はもともとまったくやらないのですが、そのくせ性格的にモノを作ったりする際には、自分で云うのもなんですがキチッときれいに仕上げないと気が済まないところがあります。
とうぜん今回のスピーカーも当初の目論見としては、一分の隙もなくなんていえばいかにも大げさですが、まあそれぐらいビシッとしたものを作ってやろうじゃないか!という意気込みのようなものはありました。(ま、少なくとも、ちょっと前までは…)

ところが、前回も書いた通り、土台部分になる木の円形カットがこちらが考えていたような仕上がりにはならなかったことで、一気にそのあたりの自己満足的完全主義みたいなものが一気に崩壊していくことになります。
当初は組み立てる前に塗装もするつもりで、そのための下地から上塗りまでの計画もあれこれ立てていたのですが、土台のカットが満足できなかったことがすべての原因となり、これひとつのせいでなにもかがイヤになりました。

意欲がなくなったら、そもそも塗装なんて面倒臭いこと、やってられるか!というところで、とりあえず部品を組み立ててみることから先に手を付けることに決定。半ばやけくそで2枚ある土台の板を木工用ボンドで貼り合わせますが、そんなときにも2枚の板がキチンと段差なく美しい円にならないことに、ついため息が出るし、作業にも熱が入りません。

この他にも片側3本、左右合計6本の足の接着や、アルミ管内部の金属の構造物(詳しいことを書いてもつまらないので省略しますが)に金属同士の強力な接着を要する部分があって、とりあえずそれらを予め取り揃えておいた各接着剤で接合し、一晩置くことになります。

翌日見てみると、どれもがっちりと接着されているのは予想以上で、とくに金属同士の接着は、その下に相当の重量物が取りつけられる事を考え得ると一抹の不安も残りますが、ともかくビクともしないまで強固に接合されているのは、接着剤もたいそう進化したんだろうなあとこんなところで感心させられます。
パッケージに踊らんばかりの文字で大書されていた「速乾!超強力接着!」というのもあながちウソではないようです。

なにやかやで、ともかく組み立てるだけの準備は整ったわけで、あえてここで作業中止する理由も見あたらないので、ついに慣れない手を動かして、散々ネットで見て覚えたスピーカーをいざ自分の手で組立ることになりました。

はじめはざっくりと組むだけ組んでみて、まずどんな音がするのやら様子見の気持ちでやってみると、組立そのものは1時間もあればすんなり出来上がり、さっそく音を出してみました。
第一声がでる瞬間というのは、やっぱり緊張するものですし、ある種の厳粛な気持ちも手伝います。ましてやマロニエ君は生まれて初めて手作りスピーカーというものに挑戦していることもあるわけで、その期待と不安はかなりのものに達しています。

ついに音が出ました…。
それは、なんと形容詞して良いやらわからない、いかにも低級で、間の抜けた、変な音でした。少しなりともYshii9に近づこうなどと淡い夢のようなことを考えた自分の甘さが、これほど愚かであったかと痛感したのもことのときでした。
このときに直感したことは、スピーカー作りは材料を揃えて組み立てることよりは、試行錯誤を繰り返して最もこのましいチューニングを施すことのほうがよほど大変だということです。

これからが、マロニエ君の不慣れな「音造り」のための奮闘の日々がスタートすることになるようです。

2012/10/27 Sat. 01:16 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアニストの意見 

音楽雑誌の記事やメーカーのホームページなどでしばしば目にすることですが、楽器メーカーはピアノの新機種の開発、とりわけコンサート用のピアノの製作にあたっては、かなり積極的に外部の人物の意見や感想などの、いわば聞き取り調査を行っている由で、それらを検討し、反映させながら開発を進めていくのだそうです。

中でも重きを置かれるのがピアニストの意見で、メーカーに招いて試弾をしてもらって、その感想や要望、アドバイスなどを拝聴するというもののようです。

では実際の現場でそれがどの程度の重要性をもっているのかということになると、マロニエ君はそれを見たわけではないのでなんともわかりませんが、少なくともそういうことをしばしばやっていると書いてある文章を何度も目にするので、それならそうなのだろうと思っているわけです。

たしかにピアニストこそは実際にピアノを演奏し、訓練された身体と感性を駆使して直接的に楽器を鳴らす現場人という意味で、メーカーとしても一目置くべき格別な存在であるのは頷けます。演奏者なくしてピアノはピアノの価値や魅力を広くあらわす機会はないわけで、だからこの人達の意見は尊重され、深く受け止められるのは当然だろうとも思います。

ただし、まったくマロニエ君の個人的かつ直感的な意見ですが、だからといって、これも度が過ぎるといかがなものかと思わないでもありません。
ピアニストも様々で、本当にピアノのことをわかっている優秀な人も中には少数いらっしゃいますが、逆な場合が実は大多数だという印象があります。何曲を弾きこなすことは得意でも、楽器としてのメカニズムの知識はまったく素人並みで、それでも自分はピアノの専門家という自負があるので、ときにとんちんかんな意見となり、これはよくよく注意すべきでしょう。

いろいろ耳にすることですが、ピアニストのピアノに対する要望というのは、多くがまったく個人的な事情に基づいたものであることが多いし、中にはとんでもないことを真顔でまくし立てる人もいらっしゃるそうです。とりわけホールのピアノにそういう個人的な感性を要求し、場合によっては元に戻せない状態になってもなんの斟酌もないというのはどういうことかと思います。

ましてや、これが普遍性をもった全体の響き、広い意味での音色、様々な特性を持つホールで、いかに理想的に音が構築され、あらゆる環境に適合する最も理想的に音が鳴り響くかという点においては、ピアニストにそれが適切にわからないのは当然です。

別にピアニストに判断力が頭から無いと云っているのではなく、その分野の判断力は、彼らの専門とは似て非なるものだと云いたいわけです。

だいいちピアニストは誰でも、永久に、自分の生演奏を客席で聴くことはできません。
要するにピアニストの好みと都合で作られたピアノというものが、聴衆にとって理想的な楽器であるとはマロニエ君はどうしても思えないわけで、もちろんメーカーがそういう側面だけでピアノを作っているとは思いませんが、あまりそれに翻弄されないほうが、むしろ素晴らしい楽器が生まれるように感じてしまいます。

優秀な専門家達のコンセンサスと科学の力によって、キズのない、上質な、優等生的な楽器を作ることはチームの力でできるかもしれませんが、果たしてそれで聴く者の魂が真に揺さぶられるかというと、大いに疑問の余地あると思います。

やはり、楽器造りはそれそのものが芸術だとマロニエ君は思いますので、すこぶる優秀な、できれば天才級の製作家が、自ら厳しく追求し判断し最終決定することだとしか思えないのです。煌めく楽器造りのためにはどこかにエゴがあってもいいと思うのですが。


2012/10/25 Thu. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

なんじゃこりゃ! 

自作スピーカーの続きになりますが、製作にあたってはマロニエ君が懇意にしているピアノの知り合いの方と、材料等を互助的に共同購入しながら調達しています。

というのもマロニエ君一人では材料を揃えるだけでも、たぶん絶対に無理だったと思われ、この方がいたからこそ不慣れな挑戦もやってみる気になれたのです。
いうまでもなく、それぞれが自分のスピーカーを作るわけで、二人分の材料を同時購入するなどして、手間と情報の共有化を図るほか、送料なども合理化しているというわけです。

さて、前回書いた土台ですが、これなくしてはスピーカー本体(アルミ管)を垂直に立てることが出来ませんが、他の材料は日々揃ってきているのに、これが思うに委せないからといって、いまさら後へも引けません。

人の顔を見るたびにこの件をぼやいていたら、ある友人の情報でここに聞いてみたら?という話が舞い込み、さっそく連絡を取ってみると、いささか距離はあるものの円形カットを引き受けてくれるという職人さんが見つかりました。
次の日曜にさっそくその人のところへ行きましたが、かなり年配の方で、お見受けした感じでは昔はその道のプロだった方がリタイアされて、今はちょこちょこと簡単な木工仕事などをやっていらっしゃるという印象でした。

見取り図を見せると、至って単純なものなのですぐに理解してもらえましたが、なんでもジグソーという機械を使って手作業で切るため、コンパスで線を引いたような正確な円のカットは出来ないという話で、これは実はかなりガックリきました。
そういうことがピシッとしていないと性格的に気が済まないマロニエ君としては、内心ひどく落胆したのは事実でしたが、そうかといって他にあてもなく、すでにこの土台の件だけでも問い合わせ等相当の労力を費やしているので、もうこのあたりでそれぐらい妥協しなくてはいけないと諦め気分にもなり、ついにお願いすることになりました。

お願いしたのはいいけれど、ええ?っと思ったのは、待っている間に出来るような作業じゃないのだそうで、出来たら電話しますとアッサリ云われてしまい、往復50キロある道矩を、もう一度取りに来なくてはいけないのかと思うとウンザリしましたが、ここまできたらやるしかない!という使命感みたいなものに突き動かされて、その点もついでに呑み込んで承知し、後日取りに行くことになりました。

数日後、平日の夕方に時間を作って取りに行ったところ、なぜか作業をされたご当人は不在で、若い人から袋入りのカットされた品物をドサッと渡されて受け渡しはそれで終わり。すぐさま来た道を引き返し、いざ自宅で中のものを手に取ってみたときはびっくり仰天でした。
円のラインはガタガタで、中には木の一部が欠損していたり、大きなヒビがあってなんと明らかに割れている部分もあり、なんだこれは!と途方に暮れました。だいいち断面は無惨なほどガザガサで、普通ならお愛嬌にも軽くペーパーぐらいはかけるもんじゃないのかと思いました。
さらに驚いたのは、作業の際のものと思いますが、生木の表面に油性ボールペンで何本も線が引いてあり、とてもじゃないけどこんなものは知人には渡せないと思い、もう目の前は真っ暗。

知人には事情を説明して、その中から良いものを2つ渡し、マロニエ君は残ったものでガマンするつもりでその通りに実行しましたが、やっぱりどう考えても、見れば見るほど、これでは使う気になれす、正気なところ「ふざけるな!」と言いたかったですね。
そもそも、安いとはいえ工賃もちゃんと払って依頼した作業なんですから、文句のひとつも云って然るべきところですが、なにぶんにも相手は年配の方ではあるし、「自分は心臓が悪くて来週は検査入院する」というようなことも云われていたので、そんな方へ抗議するのも忍びず、結局は割れがあったことなどを伝えてもういちど作ってもらうことで決着しました。

その結果できたものは、前回の作業とクオリティこそ大差はありませんが、割れがないぶん良しとしなくてはいけないようです。
こういうことが重なってくると、もともとDIY人間ではないマロニエ君としては、だんだんやる気を失ってイヤになってくるのですが、すでにこの「共同プロジェクト」にはかなりの費用も投じていることでもあり、ここはなにがなんでもやり遂げるしかないようで、こういう場合にも一人だったら投げ出していたかもしれません。


2012/10/23 Tue. 01:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

草間彌生 

先月のNHKスペシャルだったか、水玉の芸術家、草間彌生さんのドキュメンタリーをやっていましたが、これがなかなかおもしろい番組でした。

草間彌生さんといえばまっ先に思い出すのはもちろんあの原色の水玉に埋め尽くされた絵画や彫刻ですが、さらには自らも作品だといわんばかりの独特な出で立ち──とりわけオレンジ色の髪の毛とそこから覗く強い眼差し──は見る人に強烈な印象を与えるでしょう。とくにいつも何かをじっと凝視して創造力を働かせているような大きな瞳は独特で、ほとんど笑顔らしきものはありませんけれども、そこになんともいえない不思議な愛らしさと純粋な魂が宿っているよう気がするものです。

マロニエ君は勝手に彼女はニューヨークに住んでいるものと思っていたら、それは大間違いで、ニューヨークはもう何十年も昔に引き上げた由、現在は日本に在住して東京都内にアトリエがありました。

驚いたのは御歳83歳ということですが、実年齢を知らなければ誰もそんな高齢とは思わないでしょうし、現に毎日のようにアトリエにやってきては、高い集中力をもって精力的に大作に挑んでいらっしゃいます。
足元などはたしかにふらふらとおぼつかないことがあり、主な移動は車椅子のようですが、アトリエに入ると人が変わったようにエネルギーが充溢しはじめ、原色が塗られた大きなキャンバスに向かって一気呵成に筆を進めていくのは圧巻でした。さらに驚くべきはその筆の動きと決断の速さで、彼女は番組の中で「自分は天才よ」と言っていましたが、普通なら自らそんなことを云うのはどうかと思うところでしょうが、草間さんに限ってはその迷いのない筆さばきや旺盛な製作意欲などをみても、とても常人の出来ることではなく、つい自然に納得させられてしまいます。

今年はヨーロッパのモダンアートの殿堂といわれるロンドンのテイト・モダンで、アジア人初の大規模な個展が開催されて大きな注目を浴び、大盛況のうちにヨーロッパ各地とニューヨークまで巡回したようでした。
番組では、その為の100枚の新連作として、200号はありそうな巨大な画布に、毎日果敢に挑み続ける姿を追いましたが、そのゆるぎない才能と製作態度には圧倒されっぱなしでした。

この番組では驚かされることの連続でしたが、これだけの大芸術家となり世界的な名声も獲得したからには、さぞ立派な自宅があるのかと思いきや、草間さんの生活拠点はなんと精神病院で、院内の粗末な個室が彼女の家で、ここが一番落ち着くというのですから唖然です。そして毎日この病院からアトリエへ通い、夕刻仕事がおわったら病室に戻ってくるという、俄には信じられないような生活です。

なんでも若い時分から統合失調症という病を患い、いまだにその治療を受けながらの創作活動ですが、番組中も彼女の口からは自殺したいという言葉が何度も飛び出してくるのですが、長年彼女のお世話をしてきた人達がそのあたりのこともじゅうぶん心得ているようで、できるだけ草間さんの負担にならないよう配慮しながら上手く支えている献身的な姿がありました。

この番組の中で、ヨーロッパの巡回展のほかに、ニューヨークではルイ・ヴィトンとのコラボが進行中で、そのオープニングには草間さんも駆けつけ、例の水玉模様の製品が数多く作り出されていましたし、ショーウインドウの中は草間さんの作品である無数のタコの足のような彫刻が上下から空間を埋め尽くし、もちろんその不気味な物体は赤い水玉でびっしりと覆われています。

それから一週間ほど後、マロニエ君が天神を歩いていると、偶然バーニーズの前を通りがかったのですが、一階のルイ・ヴィトンのショーウインドウはなんと数日前にテレビで見たのとまったく同じ、ニョロニョロした物体に無数の水玉をあしらった草間ワールドになっているのには思いがけず感激してしまいました。グロテスクと紙一重のところで踏みとどまったそれは、とても斬新で美しく芸術的でした。

「もうすぐ死ぬのよ」と連発する彼女に、「草間さんはあと何枚ぐらい絵を描かれますか?」という番組の問いかけがあったのですが、すかさず「何枚でも描きたい。とにかく描きたいの。千枚でも二千枚でも描けるだけ描いて死にたいの」と、何の躊躇もなくあの射るような目つきで真顔で仰っているのが印象的でした。

ほとほと感心したのは、どんなに体調が悪く、頭はグラグラで、起きあがることも出来ずに死にたくなっているようなときでも、絵を描き始めると俄に調子が良くなってくるのだとか。まさに彼女の肉体・魂・血液・細胞はひたすら作品を作り出すことにのみ出来上がっているようで、これぞ天職であり天才なのだろうと思います。

あのような芸術家に対して「いつまでもお元気で」などと平々凡々とした言葉は浮かびませんが、強いて云うなら天が彼女を見放すその瞬間まで創作活動に身を捧げて欲しいものですし、実際そうされるだろうと思われます。それが天才の使命というものだと思いますから。
2012/10/21 Sun. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

予想外の不便 

この夏からYoshii9型の円筒形スピーカー(通称;塩ビ管スピーカー)の自作に向けての情報収集や材料を準備していましたが、スタートから実に約3ヶ月余を経てやっと材料が揃いつつあります。

この円筒形スピーカーは、至ってシンプルな構造にもかかわらず、なにがそれほど時間がかかるのかというと、製作者であるマロニエ君に基本となるスピーカーの知識や経験がまるでなく、大半の知識をネットから辛抱強くすくい上げることと、そもそも通常の箱形であれば、手作りスピーカーのためのある程度の材料は専門店であれば揃っているものの、円筒形スピーカーの場合はまるきりそういう環境がないという点が大きなネックになったと思います。

この円筒形スピーカーの構成部品の中で必ずオーディオ用のものを使う部分といったら、基本的にはフルレンジのスピーカーユニットぐらいなもので、あとは筒本体、土台、仮想グランドという筒の内部の構造体など、あらゆるものが市販の建築資材などを随時応用しながら使うのですが、建築資材など、まさに無知のジャンルでしかもとてつもなく膨大ですから一朝一夕には事は運びません。

そんな中からスピーカー作りにちょうど良さそうなものを探し出すのは、工作少年でもなかったマロニエ君のような者にとってはまさに気の遠くなるような作業なわけです。
時間がかかるのは当たり前、調べ方さえもよくわからないし、部品部材の名称もわかりません。形状やサイズも様々なので、簡単に購入するわけにもいかず、手許に届いて少しでもサイズが違えば何の役にも立たないのでいよいよ慎重にならざるを得ません。

ごく単純な部品の調達などでも、専用品がなく規格外ともなると、ちょっとしたことでも困難が生じて、思いもよらぬ足止めをくらいます。
たとえばスピーカー本体となる1mのアルミ管を垂直状態に支えるための土台は、木の板を円形のドーナツ状に切り抜く必要があるということになり、そのためのカット作業は自分ではできないけれども、専門家に頼めば簡単にすむだろうと思っていたところ、さにあらず、とてもそう思い通りにはいきませんでした。

少し具体的に言いますと、厚さ3、4センチほど板を直径21センチの円に切り出して、さらに真ん中に10センチの穴を開けるという、たったそれだけのことが今どきはものすごい困難なわけです!
板は厚いものがなければ薄いものを貼り合わせればいいと思っていましたが、板なんてものはいくらでもあるようで、要は「円形に切る」というのが少々の所ではできないのでした。

ホームセンターの類に聞いても、直線のカットはできるようですが円形となると軒並みできませんという返事が返ってきますし、昔は結構あったように思える木工所の類も、ネットで見る限りよほど遠方に行かないとありません。

やむを得ず、複数の知人にこの件を相談したのですが、彼らはマロニエ君が送った寸法見取り図をもとに、すぐに知り合いの木工職人の方に掛け合ってくれたのですが、結果はいずれもマロニエ君にとってはゼロをひとつ間違えているんじゃないの?といいたくなるような金額を提示されて、驚きつつ、とてもではないとすごすご引き下がりました。

最近では、いわゆる普通の素朴な木工所というものがなくなっているようで、たまにあるのは手作りの高級家具をオーダー製作するといったような、いわば家具作家の工房のような性質の店になっており、とてもこちらの目的と予算に合うような手軽な感じで引き受けてくれるところがありまません。

素人の考えとしては、たかだか土台なんですから、そんな上質なこだわりを持った仕事ではなしに、目的と要望に応じて、二つ返事でサッと作ってくれる職人さんみたいな人がいそうなものだと思っていたのですが、どんなにネットで探してもそういう店はありませんでした。
何事も世の中が飛躍的に桁違いに便利になったこの頃ですが、その陰で、こういう人の手を必要とする類の作業依頼となるとものすごく不自由で、「なんで?」と思うほど小回りの利かない世の中になってしまったものだと思いましたね。

2012/10/19 Fri. 01:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

旧時代の設計 

過日、ベーゼンドルファー最小の新機種がでたということを書いたことをきっかけに、あらためて同社のホームページを見てみたのですが、そこには意外なことが書かれていました。

Model 280 の説明文の中に、新型は「鍵盤の長さを低音から高音へと変化させ、それに従うハンマーヘッドの重量配分で最適なバランスを実現」とあるのですが、これまでベーゼンドルファーのアクションなどをしげしげと見たことがなくて知らなかったのですが、わざわざそう書いているということは、旧型のModel 275 では鍵盤は92鍵もあるにもかかわらず、鍵盤の長さはすべて同じだったのか!?と思いました。

ふつうグランドピアノの場合、おおよそですが2m未満の小型グランドの場合、鍵盤の長さ(ハンマーまでの長さ)は全音域で大体同じですが、それ以上のピアノでは低音側がより長くなり、さらにはピアノのサイズ(奥行き)に比例するように、鍵盤全体の長さもかなり長いものとなります。
もちろんそれは鍵盤蓋から奥の、普段目にすることのない部分の長さですから、演奏者にはわかりませんが。

確証がないので何型からということは控えますが、スタインウェイでもヤマハでもカワイでも、中型以上では鍵盤長は低音側がより長くなるというは常識で、これはてっきり現代のモダンピアノの国際基準かと思っていました。

そういう意味では、ベーゼンドルファーは旧き佳き部分があり、それ故の美点もあった代わりに、現代のピアノが備えている基準とは異なる点があって、そこを現代の基準を満たすべく見直すという目的もあったのかもしれませんね。
マロニエ君はいまだに新しいシリーズのベーゼンドルファーは弾いたことがありませんが、これまでに何台か触れることのできたModel 275 やインペリアルは、その可憐でピアノフォルテを思わせるような温かで繊細な音色には感銘を受けながらも、現代のホールなどが要求するコンサートピアノとしてパワーという点では、どちらかというとやや弱さみたいなものを感じていました。

もちろんマロニエ君のささやかな経験をもって、ベーゼンドルファーを語る資格があるとは到底思いませんけれども、それぞれの個体差を含めても概ねそのような傾向があったことは、ある程度は間違いないと思ってもいます。

そのあたりを思い出すと、鍵盤の長さなども旧時代の設計だったのかもしれないと考えてみることで、なんとなくあの発音の雰囲気や個性に納得がいくような気がしてきます。

そういう意味では、新しいモデルがどうなっているのかは興味津々です。
福岡県内にもModel 280 を早々に備えている新ホールがありますが、なにぶんにも距離もあるし、開館前の話ではピアノを一般に解放するイベントも検討中とのことでしたが、なかなか腰も上がらないままに時間が流れました。そのイベント自体も実行されているのかどうかわかりませんが、もしやっているようならいつか確かめに行ってみたいところです。


2012/10/17 Wed. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

楽器の受難 

今年8月、堀米ゆず子さんの1741年製のグァルネリ・デル・ジェスが、フランクフルト国際空港の税関で課税対象と見なされて押収されたというニュースは衝撃的でしたが、翌9月にはさらに同空港で有希・マヌエラ・ヤンケさんのストラディヴァリウス「ムンツ」が押収されたと聞いたときには、さらに驚かされました。

「ムンツ」は日本音楽財団の所有楽器でヤンケさんに貸与されており、入国の際の必要な書類もすべて揃っていたというのですからいよいよ謎は深まるばかりでした。

それも文化の異なる国や地域であるならまだしも、よりにもよって西洋音楽の中心であるドイツの空港でこのような事案が起こること自体、まったく信じられませんでした。
しかも税関は返還のためには1億円以上の関税支払いを要求しているというのですから、これは一体どういう事なのかと事の真相に疑念と興味を抱いた人も少なくなかったことでしょう。

その後、幸いにして2件とも楽器は無事に返還されるに至った由ですが、これほどの楽器をむざむざ押収されてしまうときの演奏家の心境を考えるといたたまれないものがありました。
背景となる情報はいろいろ流れてきましたが、そのひとつには高額な骨董品を使ったマネーロンダリング(資金洗浄)への警戒があったということで、途方もなく高額なオールドヴァイオリンは恰好の標的にされたということでしょうか。さらには折からの欧州の不況で、税徴収が強化されている現実もあるという話も聞こえてきます。

それにしても、こんな高額な楽器を携えて、世界中を忙しく飛び回らなくてはいけないとは、ヴァイオリニストというのもなんとも因果な商売だなあと思います。
マロニエ君だったら、とてもじゃありませんが、そんな恐ろしい生活は真っ平です。

その点で行くと、ピアニストは我が身ひとつで動けばいいわけで、至って気楽なもんだと思っていたら、ピアノにもすごいことが起こっていたようです。
そこそこ有名な話のようで、知らなかったのはマロニエ君だけかもしれませんが、あの9.11同時多発テロ発生の後、カーネギーホールでおこなわれるツィメルマンのリサイタルのためにニューヨークに送られたハンブルク・スタインウェイのD型が税関で差し押さえられ、そのピアノは返却どころか、なんと当局によって破壊処分されたというのですから驚きました。

破壊された理由は「爆発物の臭いがしたから」という、たったそれだけのことで、詳しく調べられることもないままに処分されてしまったというのです。関係者の話によれば、塗料の臭いが誤解されたのでは?ということですが、なんとも残酷な胸の詰まるような話です。

この当時のアメリカは、どこもかしこもピリピリしていたでしょうし、とりわけ出入国の関連施設は尋常でない緊張があったのはわかりますが、それにしても、そこまで非情かつ手荒なことをしなくてもよかったのでは?と思います。
現役ピアニストの中でも、とりわけ楽器にうるさいツィメルマンがわざわざ選び抜いて送ったピアノですから、とりわけ素晴らしいスタインウェイだったのでしょうが、当局の担当者にしてみればそんなことは知ったこっちゃない!といったところだったのでしょう。

そのスタインウェイに限らず、この時期のアメリカの税関では、似たような理由であれこれの価値あるものがあらぬ疑いをかけられ、この世から失われてしまったんだろうなぁと思うと、ため息が出るばかりです。



2012/10/15 Mon. 02:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

信頼できる技術者 

現在、ヤマハのアーティストサービス東京に在籍される曽我紀之さんは、ピリスやカツァリス、仲道郁代さんなど多くのピアニストから絶大な信頼を寄せられるヤマハのピアノ技術者でいらっしゃるようで、マロニエ君もたまに雑誌などでそのお名前を目にすることがありました。
小冊子「ピアノの本」を読んでいると、その曽我さんのインタビューがありました。

それによると、なるほどなぁと思わせられたのが、曽我さんがヤマハのピアノテクニカルアカデミーの学生だった頃に、『調律は愛だ。愛がなければ調律はできない。』というのが口癖の先生がいらしたとのこと。
当時の曽我さんたちは、それを冗談だと思って笑って聞いていたそうですが、今ではその意味がわかるとのこと。

これは素人考えにもなんだか意味するものがわかるような気がします。
調律に愛などと言うと、なんだか意味不明、ふわふわして実際的な裏付けがない言葉のような印象がありますが、調律という仕事は甚だ繊細かつ厳格であるにもかかわらず、ある段階から先はむしろ曖昧な、明快な答えのない感覚世界に身を置くことになるような気がします。
このインタビューでも触れられていましたし、通説でもあるのは、同音3本の弦をまったく同じピッチに合わせると、正確にはなっても、まったくつまらない、味わいのない音になってしまいます。

そこでその3本をわずかにずらすというところに無限性の世界が広がり、味わいや深みや音楽性が左右されるとされていますが、いうまでもなくやり過ぎてはいけないし、その精妙なさじ加減というのはまさに技術者の経験とセンスに基づいているわけです。それは、云ってみれば技術者の仕事が芸術の領域に変化する部分ということかもしれません。
そのごくわずかの繊細な領域をどうするのか、なにを求めてどのように決定するか、その核心となるものをその先生は「愛」と表現されたのだと思います。

この曽我さんの話で驚いたのは、彼には技術者としての理想像となる方がおられたそうで、その方はピアノ技術者ではなく、なんとかつての愛車のメンテナンスをやってくれた自動車整備士なんだそうです。
しかもその愛車というのはマロニエ君が現在も腐れ縁で所有しているのと同じメーカーのフランス車で、信頼性がそれほどでもないところにもってきて非常に独創的な設計なので、なかなかこれを安心して乗り回すことは至難の技なのですが、曽我さんはその人に格別の信頼を寄せていて、「彼がいる限りこの車でどこに出かけても大丈夫だと思っていることに気がついた」のだそうです。
そして、自分もピアノ技術者として、ピアニストにとってそのような存在でありたいと思ったということを語っておられます。

マロニエ君もふと自分のことを考えると、2台それぞれのピアノと、ヘンなフランス車、そのいずれにも非常に信頼に足る素晴らしい技術者がついてくれている幸運を思い出しました。このお三方と出逢うのも決して平坦な道ではなく、回り道に次ぐ回り道を重ねた挙げ句、ついにつかまえた人達です。

この3人がいなくなったら、今のマロニエ君はたちまち不安と絶望の谷底に突き落とされること間違い無しです。お三方ともそれぞれにとても個性あふれる、やや風変わりな方ばかりで、相性の悪い人とは絶対に上手くいかないようなタイプですが、本物の仕事をされる方というのは、えてしてそういうものです。

2012/10/13 Sat. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

栄冠の在処 

いま、スポーツの世界ではオリンピックをはじめ、勝利したアスリート達は差し向けられるマイクに向かって、判で押したように「これは、自分一人で取ったメダルではない」「支えてくれた人達がいたからこそ」「家族の励ましがあったから…」というような言葉を並べ立てるようになりましたが、聞く側・観る側は本当にそんなことが聞きたいのでしょうか?

このようなコメントが一大潮流となったのは、横並びの大好きな日本人のことだから、自然に同じような言葉を発するようになったのかとも思いましたが、あまりの甚だしさに、あるいは上からの指示で、受賞インタビューではそういう受け答えをしなさいと厳命されているのでは?とさえ疑います。

もちろん、スポーツに限ったことではありません。
どんなジャンルであろうと、その頂上へ登りつめるまでの厳しい道のり、血のにじむような努力など、本人はもとより、その過程において多くの人の協力や支援があったことは紛れもない事実だと思います。
しかし、そうではあっても、最終的に各人が世に出て認められるに至ることは、あくまでも本人(あるいはチーム)の実力や才能、研鑽、さらには運までも味方につけて達成できた結果なのであり、その栄冠は当人だけのものだというのがマロニエ君の考えです。

むしろ、恩師や支援者、家族、その他背後にある人間は黒子に徹するところに美学があり、それにまつわる周辺の尽力談やエピソードは、あとから追々語られてゆくほうがよほど麗しいとも思います。

ところが、今では本人以外の面々も堂々と表に出て称賛をあびるし、本人の口からもまっ先にその事が語られるのは礼節を通り越して、いささか美談を押しつけられるようで、なんだかスッキリしないものが残ります。

お世話になった人達に感謝の意を表すのは人として大切ですが、何事も度が過ぎると主客転倒に陥り、まるで集団受賞の代表者のような様相を帯びてきています。もし心底本気でそう思っているのなら、もらったメダルも人数分に切って分けたらいいようなものです。

それに、どんなに手厚い周りの支えがあったにしても、結果が出せないことには世間から一瞥もされないというのが現実なのですから、やはりそこは当事者とそれ以外の一線があるべきだろうと思います。

このほど、ノーベル医学・生理学賞を日本人が受賞したのは誇らしい限りですが、その山中教授までもが記者団の前に夫妻で登場し、いきなり「家族がいなければ…」「笑顔で迎えてくれた…」という調子のコメントが始まったときは、さすがにちょっと驚いてしてしまいました。

もしも、モーツァルトが生きていて、自分の芸術に対して「僕の音楽は僕ひとりが作ったものとは思っていません。これまで育ててくれて、ほうぼう演奏旅行に連れまわしてくれた父と、一緒に演奏した姉のナンネル。パリでなくなったお母さん、結婚した後は側で見守ってくれたコンスタンツェなど、多くの人の支えがあったからだと思っています。だから、みんなで作り上げた作品だと思っています。これからも御支援よろしくお願いします。」などと答えたら、果たしてまわりは納得するでしょうか?


2012/10/11 Thu. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

いい顔と信頼感 

来月大統領選挙を控えるアメリカでは、現職有利の原則に反してオバマ氏の支持がもうひとつ定まらず、対する共和党のロムニー候補は失言などをかわしながらも残りをどう巻き返すかというところですね。

政治のことはよくわかりませんが、オバマ氏苦戦の理由として考えられるのは、アメリカ経済の建て直しにこれという手腕が発揮できないだけでなく、彼はなにかにつけていい顔をしすぎて大統領としてのふるまいが消極的という印象があります。

彼は、一般的な理想論を魅力的に演説するのはお得意だそうですが、山積する現実面での諸問題に対する有効な対処能力には欠けているとされ、決定的な失策とかスキャンダルがあるわけでもないのに人気がなく、なんとなく孤立しているような印象があります。

就任早々にもヨーロッパで核廃絶をテーマに大演説をぶちましたが、アメリカこそ世界最大の核保有国であるのに、その大統領の口からそんな空想的な理想論が飛び出たことで、表向きは歓迎されたかたちにはなったものの、実際にはしらけきったという話を聞いた覚えがあります。

今もイスラム諸国が反米の気炎をあげていますが、オバマ大統領には不思議なほどこれといった明確な反応も発言もなく(あっても少なく)、なんとなくこれまでの合衆国大統領とは違った雰囲気を感じてしまいます。

ここからつい連想してしまうのですが、我々の周囲を見ても、さも分別ありげに誰にでもいい顔をする人というのがいるものだということです。
そういう人は、なるほど誰にでもあたりはいいのですが、その不自然なほどの温厚さは、どこまで本気にして良いのかわからず対処に困る場合があるものです。

誰とでも均等にそつなく上手くやって、本人もそこそこ楽しめるというのは、これはこれで今どきの有効な処世術でしょうし、マロニエ君などはこれが大いに欠落している点なので、ときには少し勉強させて欲しいぐらいなものです。

でも、そうは言っても、そうしてまでお付き合いのチャンネルばかり増やしても、それではどこにも実体がないように思います。もちろん個人差もあり、それで充足できる人も今どきは多いのかもしれませんが、そうではない人もいるということで、これは要するに価値観とスタイルの問題かもしれません。

ただ、ご当人はいくら中立的に上手く立ち回っているつもりでも、周りからは察知されているし、結局はいつでもどこでも誰にでも同じ調子なわけですから、有り難みもないというものです。そればかりか、あまりあちこちでいい顔ばかりしていると、最後は誰からも信頼されなくなる危険性も孕んでいるようにも思います。

マロニエ君は個人的には、少々変わり者でも、困ったところのある人でも、人間的に真実味のある人ならかなり許容できるのですが、いわゆる「いい人」はどうも苦手で、接していてもお付き合いの機微とか悪戯心がなく、勢いそつのない演技になり、表面は良好でも後に疲れが残ります。

実際のオバマ氏がどんな人間なのか知る由もありませんが、彼をメディアで目にする度に、なぜかいつもこういうことを連想してしまいます。

2012/10/09 Tue. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

Model 155 

ベーゼンドルファーは、製品ラインナップを長い時間をかけながら順次新しい設計のモデルに切り替えているようで、現在生産モデルは新旧のモデルが入り乱れているというのはいつか書いたような覚えがあります。

そんな中で最大のインペリアルは古いモデルの生き残りのひとつであると同時に、今尚ベーゼンドルファーのフラッグシップとしての存在でもありますが、あとは(マロニエ君の間違いでなければ)Model 225を残すのみで、それ以外は新しい世代のモデルに切り替わってしまっているようです。

新しいシリーズでは、ベーゼンドルファーの大型ピアノで見られた九十数鍵という低音側の鍵盤もなくなり、現在のコンサートグランドであるModel 280では世界基準の88鍵となるなど、より現実的なモデル展開になってきているようです。いまさら88鍵に減らすというのは、従来の同社の主張はなんだったのかとも思いますが、ある専門業者の方の話によると、さしものベーゼンドルファーも新世代はコストの見直しを受けたモデルだとも言われています。

どんなに世界的な老舗ブランドとはいっても、営利を無視することはできないわけで、それは時勢には逆らえないということでしょう。完全な手作り(であることがすべての面で最上であるかどうかは別として)であり、生産台数も少なく、製造番号も「作品番号」であるなど、高い品質と稀少性こそはベーゼンドルファーの特徴であるわけですが、そんなウィーンの名門にさえ合理化の波が寄せてくるというのは、世相の厳しさを思わずにはいられません。

そんな中にあって、つい先月Model 155という小型サイズのグランドが新登場して、これはスタインウェイでいうSと同じ奥行きが155cmという、かなり小型のグランドピアノです。ヤマハでいうとC1の161cmよりもさらに6cm短く、日本人の考えるグランドピアノのスタンダードとも言うべきC3の186cmに較べると、実に31cmも短いモデルということになり、このあたりがいわゆるグランドピアノの最小クラスということになるようです。

この一番小さなクラスが加わったことで、ベーゼンドルファーのグランドは大きさ別に8種ということになり、そのうちすでに6種が新世代のピアノになっているようです。
合理化がつぶやかれるようになっても、お値段のほうは従来のものと遜色なく、この一番小さなModel 155でさえ外装黒塗り艶出しという基本仕様でも840万円という、大変なプライスがつけられていますが、どんな音がするのやらちょっと聴いてみたいところです。

マロニエ君は以前から思っていることですが、メーカーは各モデルで演奏したCDを音によるカタログとして作ったらいいのではないかと思います。
もちろん楽器のコンディションや録音環境、演奏者によっても差が出ると言われそうですが、しかしそれでもすぐに現物に触れられない人にとっては、ひとつの大きな手がかりにはなる筈です。

2012/10/07 Sun. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピントのずれ 

ひと頃は、公共の場で小さな子供が奇声を発したり、あたり構わず走り回るなど好き勝手に騒いで、周囲の顰蹙を買おうとも、我関せずまったく叱るということをしない若いお母さんの姿などを見ることがしばしばでしたが、このところほんのわずかな変化が起こっているような気がするときがあります。

その変化とは、つまり親が子に躾をしている場面を目にするようになったということで、そのこと自体は大いに結構、喜ばしいことなのですが、ただちょっとそこに違和感を感じることがあります。

例えば、ふつうのお店で買い物をして、支払いが終わり、品物を受け取ってその場を離れる際に、ほら、ほら、と子供の背中を軽くつっついて店員に向かって「…ありがとうございました」と云わせるような光景をマロニエ君は何度か目にしています。

また、ある病院でのことですが、診察が済んで、受付で保険証や処方箋などを受け取ってその場を立ち去るとき、子供の手を握っていた若いお母さんは、しきりに子供になにかをさせようと小声でぶつぶつ言っています。握っている手もそのつど何度もぐいぐい引っぱられて、その子はどうも嫌だったようですが、お母さんの度重なる指令に抗しきれずに、ほとんど出かけたドアの向こうからひときわ大きな声で、「ありがとうございました!!」と叫ぶように言って帰っていきました。

お店で買い物をした際は、そもそもマロニエ君の目には、最近はお客さんのほうがしきりに店員に対して「すみません」とか「ありがとうございます」という言葉を乱発して、双方の立場が逆転しているのでは?というような奇妙な状況をよく目にします。
礼儀はとても大切なことですし、それが最近ではだいぶ失われていると嘆く気持ちがある反面、こういうどこかちぐはぐなやりとりをしばしばに目にするのは、どうにも心が気持ちのよい場所に落ちていきません。

店で買い物をしたら、御礼を言うのは基本的に店のほうであって、お客さんのほうは自然に「どうも」程度のことで済ませればいいわけで、丁寧も度が過ぎると却って卑屈にしか見えません。

でも、この手の人達は、それが礼儀にあふれた大人の正しい振るまいだと信じ込んでいるのでしょうし、小さな子供の親などは、それを我が子にまで教え込もうとしているのかもしれません。
病院も、これは経営サイドから言わせれば、患者はまぎれもないお客さんでもあるわけですが、そこは長年続いてきた慣習もあり、診察を受けた際、医師にお礼を言うところまではわかりますが、受付の事務仕事をしている女性に向かって、帰る際に親が自分だけでは飽きたらず、小さな我が子にまで「ありがとうございました」と盛大に言わせるというのは、どこか躾のピントが外れている気がします。

誰しも低姿勢に出られて、御礼を言われて怒る人はいませんけれども、礼儀や挨拶というものは、なんでも丁寧なら良いというものではなく、それをどれだけ適切的確に正しく用いる(使い分ける)ことができるかどうかに、その人の育ちや品位・見識が現れるとマロニエ君は思います。

これらのお母さん達は、もちろん親なので子供のためということもあるでしょうが、心のどこかにそういう挨拶をさせている親としての自分と、それを実行する子供の両方を世間に見せることで、まわりから感心されている筈だと思い込むことに満足しているように感じてしまいます。

現にその病院でのお母さんは、最後だけはいかにもという感じでしたが、待合室ではマロニエ君と肩が触れ合うぐらいの隣に座っていながら、真横にいるこちらのことなどまったくお構いなしに、かなり大きな声で子供にしゃべりまくり、あげくには変な抑揚をつけながら絵本の読み聞かせが延々と続き、なにしろ真横ですからかなり迷惑でした。

人にそんな不愉快を与えない気遣いができることのほうが、礼節という点ではよほど大事だと思うのですが、どうも本質的に感覚が違うようです。


2012/10/05 Fri. 01:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

表情過多 

昨年6月にパリのサル・プレイエルでおこなわれたパリ管弦楽団演奏会の様子が放送されました。
指揮は日本人の若手で注目を集める(らしい)山田和樹で、曲はルスランとリュドミーラ序曲、ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲、チャイコフスキーの悲愴というオールロシアプログラム。

山田さんは芸大の出身で小林研一郎の弟子、2009年のブザンソンコンクールの優勝者とのことで、このコンクールで優勝する日本人は意外に少なくなく、その中で最も有名なのが小沢征爾だろうと思います。

マロニエ君は実は山田さんの指揮を目にするのは(聴くのも)初めてだったのですが、いろいろな感想をもちました。演奏は、現代の若手らしく精緻で隅々にまで神経の行き届いた、いかにもクオリティの高いものだと思いますし、とくにこの日はロシア物とあってか、パリ管も最大級の編成でステージに奏者達があふれていましたが、その演奏は完全に山田さんによって掌握されたもので、どこにも隙のない引き締まった演奏だったと思います。とりわけアンサンブルの見事さは特筆すべきものがあったと思います。

ただ、そこに音楽的な魅力があったかということになると、少なくともマロニエ君にはとくにこれといった格別の印象はなく、悲愴などでは、どこもかしこも、あまりに細部まで注意深く正確に演奏しすぎることで流れが滞り、これほどの有名曲にもかかわらず、却ってどこを聴いているのかわからなくなってくるような瞬間がしばしばありました。
そういう意味では、山田さんに限ったことではないかもしれませんが、今どきの演奏はクオリティ重視のあまり作品の大きな輪郭とか全体像というような点に於いては逆にメリハリの乏しいものに陥ってしまっている気がします。ひたすらきれいに仕上がったピカピカの立派なものを見せられているようで、もっと率直に本能的に音楽を聴いて、その演奏に心がのせられてどこかに連れて行かれるような喜びがない。

ちょっと気になったのは、山田さんの指揮するときのペルソナは、いささか過剰ではないかと思えるような情熱的・陶酔的な表情の連続で、これは少々やりすぎな気がしました。
指揮の仕方もどこか師匠の小林研一郎風ですが、彼の風貌および年齢ではそれが板に付かないためか演技的になり、いちいち目配せして各パートを指さしたり、恍惚や苦悩、歓喜や泣き顔などの連発で、いかにも音楽しているという自意識が相当に働いているようで、あまり好感は得られませんでした。

マロニエ君の私見ですが、そもそも演奏中の仕草や顔の表情が過剰な人というのは、パッと見はいかにも音楽に没頭し、味わい深い誠実な演奏表現をしているように見えがちですが、実際に出てくる音楽とは裏腹な場合が少なくありません。ヨー・ヨー・マ、小山実稚恵、ラン・ランなど、どれも音だけで聴いてみるとそれほどの表情を必要とするほどの熱い演奏とは思えず、むしろビジュアルで強引に聴衆の目を引き寄せる役者のようにも感じてしまいます。
小山さんなども、その表情だけを見ていると、あたかも音楽の内奥に迫り、いかにも深いところに没入しているかのようですが、実際はサバサバと事務仕事でも片づけるようなドライな演奏で、その齟齬のほうに驚かされます。

ハチャトゥリヤンのピアノ協奏曲では、ジャン・イヴ・ティボーデが登場しましたが、このピアニストもこの曲も、昔からあまりマロニエ君の好みではないので、とりあえずお付き合い気分で第1楽章だけ聴きましたが、あとは悲愴へ早送りしてしまいました。

2012/10/03 Wed. 01:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

驚愕の模型 

模型を作る人達のことを、俗に「モデラー」というようですが、この人達の作り出す作品の凄さには、子供のころから人一倍強い憧れを持っていたマロニエ君です。
どれほどガラスケースの外側からため息を漏らしたことか…。

マロニエ君はもっぱら完成したものを眺め尽くすのが好きなクチで、とても自分からその世界に入って、自らから挑戦してみようなどと思ったことはありませんでした。これはきっと自分の特性には合わない世界であり、たぶん無理だということを本能的に感じていたからだろうと思います。

それでも、飛行機やお城などの完成模型を欲しいと思ったことは何度あったか。でも完成模型というのはいつも「非売品」で買ったことは一度もありませんし、もし売られることがあっても、相当に高額なものになるに違いないでしょう。
いちおうはプラモデルなども相当数作りましたが、その出来はとても自分が満足できるようなものではありませんし、それでも自分の技術を高めようという思いにはついに至りませんでした。

あるとき、なにげなくネットを見ていると、「ピアノを作ろう!」というブログに行き当たりました。これまでに見たこともないフレーズで、しかも「1/10で」となっているのは、はじめは何のことやらまったく要領を得ませんでした。

さっそく見てみると、なんとその方はスタインウェイのD型(コンサートグランド)の1/10のサイズの模型を数年かけて作られたようで、その製作の過程や、完成後の動画などが見られるようになっていましたが、そのあまりにも見事な出来映えには、ただただ驚き、感銘さえ覚えました。
ディテールなどもここまでできるものかと思うほど忠実で、ぱっと見た感じは、写真の撮り方によっては本物に見えてしまう可能性が十二分にあるほど、それは抜群によくできています。

もちろんプラモデルなどではなく、すべて自分で型を取るなどされて、100%手作りによってここまで完成度の高いものが作り出せるという、その技と情熱には驚きと敬服が交錯するばかりです。
ここまで精巧なピアノの模型というのは初めて見ましたが、これまでのマロニエ君の経験では、よくできた車や飛行機の模型でさえ、ディテールの細かな形状が不正確であったり、全体のシルエットにちょっと違和感があったりと「残念」が散見されるのが普通ですが、このスタインウェイにはまったくそういったところがないのです。

なんでも一台完成させるのに5年近くを要されたとのことで、それも驚きですが、その作品は完成後まもなくさるピアニストのところへ行ってしまい、現在は2台目を制作中とのことですが、その制作過程からも窺える見事さにはまったく呆れるほかはありません。

さっそくその作者の方と連絡を取って、リンクの承諾を得ていますので、論より証拠、どうぞみなさんもその素晴らしい作品をみてください。
リンクページの一番下に『ピアノを作ろう!1/10で』というのがあります。

2012/10/01 Mon. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit