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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ウインドウズの恐怖 

マロニエ君はパソコンはもともとマックでスタートを切ったということもあり、もうずいぶん長いことマックユーザーなのですが、数年前から事情があってウインドウズも少し使うようになりました。

このピアノぴあのホームページは、開設時たまたまウインドウズを使っている友人がお膳立てをしてくれたために、あえて不慣れなウインドウズがベースになりました。

これが今考えても出だしを誤ったと思われてなりません。
以前も書いたかもしれませんが、マックユーザーにとってのウインドウズというのは、これほど使いにくいものはなく、マロニエ君も使い始めから早3年以上が経ちますが、いまもって勝手がわからず、できる限りはマックを使っていますが、ホームページに関してはどうしてもウインドウズを使わなくてはなりません。

そのウインドウズでは、インターネットエクスプロラーを使っているのですが、今年の梅雨頃だったと思いますが、何の前触れもなく、とつぜんホームページの更新ができなくなりました。
はじめは何がどうなったのやら訳がわからず、パソコンの前で自分なりにずいぶん格闘しましたが、ようやくわかったことは、インターネットエクスプロラーのバージョンが新しくなってしまっているようで、そのために突如環境が変わり、ホームページの更新機能などが一斉に停止してしまったのでした。

パソコンのメーカーのサポートセンターなどにも何度電話したかわかりません。
みなさんもよくご承知だと思いますが、近ごろは名前こそサポートセンターなんぞと頼もしげな名前がついていますが、一度電話するだけでもこれが一苦労です。しかも、基本的には故障やトラブルはメールで質問して、メールで回答を得るというスタイルのようですが、緊急の時にそんなまだるっこしいことはやっていられないし、だいいちパソコンなどがめっぽう苦手なマロニエ君にしてみれば、適切な言葉で今自分が立ち至っている症状を書き綴ってメールにするなんてとてもできません。

そこで「何が何でも電話」ということになるわけですが、それがまた番号を調べて、音声ガイダンスとやらでいくつもの段階をくぐり抜けて、いよいよオペレーターと会話ができる状態に漕ぎ着けるまでが大変です。
おまけに会話は「録音されている」というのですからたまりません。

必死に状況説明を繰り返すもなかなか原因がわからず、ついにはパソコンを異常になる以前の状態に戻すべく、「修復」という作業を、電話で逐一指示を受けながら操作すると、たいそうな時間を要した挙げ句にパソコンは数日前の状態に戻り、やっと解決したかに思えました。

ところが悪夢はまだまだ続きます。夜中になると、なにやら潜水艦みたいな変な音がポヮーンとしてパソコンを開くと、またおかしな状態に戻ってしまっています。これが5、6回も続くと、さすがに神経がおかしくなりそうでした。
要は、インターネットエクスプロラーは新しいバージョンを、ユーザーへの通告も断りも選択の余地も無しに、一方的かつ強制的にバージョンアップしていたわけで、それによって否応なしに環境が変わってしまい、甚だ不本意な状況に追い込まれてしまうのでした。これをどうするかという対策はもはやマロニエ君の能力を大きく超えてしまっていたのです。

結局は、友人に自宅に来てもらい、アンインストールとやらの設定とかいうのをやってもらいましたが、それはというと普段見たこともないような専門的な画面での専門的な操作による設定で、こんなにも大変な処置をする必要があることを勝手に自動更新するなんて、まったく信じられませんでした。

その後もまた別件でトラブル発生、この解決にも大変な労力を要することとなり、ほとほとマロニエ君とウインドウズは相性がよくないようです。

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2012/09/29 Sat. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

CXシリーズ 

ヤマハのグランドピアノのレギュラーシリーズとして、長年親しまれてきたCシリーズがこのほどモデルチェンジを行い、新たに「CXシリーズ」として発売開始されたようです。

サイズごとの数字がCとXの間に割って入り、C3X、C7Xという呼び方になりました。
外観デザインも何十年ぶりかで変更になり、鍵盤両サイドの椀木の形状はじめ、足やペダル部分のデザインはCFXに準じたものとなっています。個人的にはどう見ても(登場から2年経ちますが)美しさがわからないあのデザインがヤマハの新しいトレンドとなって、今後ラインナップ全体に広がっていくのかと思うと、なんとはなしに複雑な気分になってしまいます。

先週ヤマハに行ったとき、はやくもこの新シリーズの人気サイズになるであろうC3Xの現物を目にしたのですが、正直いってあまりしっくりきませんでした。
しかも一見CFシリーズと同じデザインのように見せていますが、よく見ると椀木(鍵盤の両脇)のカーブはえらく鈍重で、足も、ペダルの周辺も微妙に形が違っており、これはあくまでレギュラーモデルであることを静かに、しかしはっきりと差別化されていることがわかります。
決してCFシリーズと同じディテール形状なのではなく、あくまで「CFシリーズ風に見せかけたもの」でしかないことは事実です。

いずれにしろ、新型の意匠はどことなく、今やヤマハの子会社であるベーゼンドルファー風であり、より直接的に酷似しているのはドイツのグロトリアンのような気がします。
とりわけヤマハのC6Xとグロトリアンの同等サイズ(チャリス)、C7Xと同等サイズ(コンチェルト)は全体のフォルムまでハッとするほど似ているとマロニエ君には思われて仕方がありません。

もうひとつ、C3Xの現物の内部をのぞいてドキッとしたのがフレームの色でした。近年のヤマハのグランドのフレームは、シックで美しい金色だったのですが、それがCXシリーズでは、一気に赤みの強い金になり、この点も弦楽器のニスの色に近いとされるベーゼンドルファーの色づかいをヒントにしたのかとも思ってしまいますが、それにしても色があまりにもハデで、ちょっと戸惑います。

この色、見たときまっ先に連想したのは、ウィーンの出自という名目で、現在は中国のハイルンピアノで生産されている格安ピアノのウエンドル&ラングのそれでした。
ウエンドル&ラングの赤味の強いフレーム色は、中国的なのか、ちょっと日本人には抵抗のある色だと思っていたところへ、なんとヤマハが似たような色になったのは驚きでした。

全体的には、そこここに昔(Cシリーズ)のままの部分も多く、マロニエ君の目には要するにちぐはぐで中途半端な印象でしかなく、なんとなく釈然としないものを感じるばかりでした。
なかでも足の形などは、シンプルというより、ただの3本の棒がボディを支えて、下には車輪がついているだけのようで、その造形の良さや狙いが那辺にあるのか、これはデザインなのかコストダウンなのか、一向に理解できないでいます。

本当にその気があれば、もっとヤマハらしい個性に沿った美しいピアノのデザインというものはいくらでも作り出せたのでは…と思うと残念です。

2012/09/27 Thu. 01:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

診断力 

ピアノ好きの知人が、自宅のスタインウェイの調整に新しい技術者の方を呼ばれることになり、その作業の見学にということでマロニエ君もご招待をいただいたので日曜に行ってきました。

狭い業界のことなので、あまり具体的なことは書けませんが、その方はお仕事のベースは福岡ではなく、依頼がある毎にあちこちへと出向いて行かれるとのことでしたが、地元でもいくつものホールピアノを保守管理されている由で、周りからの信頼も厚い方のようでした。

作業開始早々から、あまり張り付いて邪魔をしてもいけないと思い、マロニエ君は4時過ぎぐらいから知人宅へと赴きましたが、到着したときはすでに作業もたけなわといったところでした。
はじめてお会いする技術者さんですが、事前にマロニエ君が行くことは伝わっていたらしく、とても快く受け容れてくださり、作業をしながらいろいろと興味深い話を聞くことができました。

また、このお宅にあるピアノに対する見立てもなるほどと思わせられるところがいくつもあり、当然ながらその診断によって作業計画が立てられ、仕事が進められるのは云うまでもありません。つくづくと思ったことは、技術者たる者のまずもって大切な事は、何が、どこが、どういう風に問題かという状況判断が、いかに短時間で適切に下せるかというところだと思いました。
作業の内容や方向は、すべてこの初期判断に左右されるからです。

どんなに素晴らしい作業技術の持ち主であろうと、事前に問題を正しく見抜く診断能力が機能しなくては、せっかくの技術も意味をなしません。いまだから云いますが、マロニエ君も昔はずいぶん無駄な労力というか、不適切だと思われる作業を繰り返されて、こんな筈では…とさんざん苦しんだこともありました。そんなことをいくら続けても、決して良い結果は得られるものではないのですが、技術者というものは誰しも自分のやり方やプライドがあり、とりわけ名人と言われるような人ほどそうなので、そういうときは無理な要求はせず、思い切って人を変えるしか手立てはありません。

ピアノに限りませんが、技術者が問題点を見誤って、見当違いの作業をしても、依頼者はシロウトでそれを正す力も知識もないまま、納得できない結果を受け容れる以外にありません。少しぐらい疑問点をぶつけても、相手はいちおうプロですから、あれこれと専門用語を並べて抗弁されると、とてもかないませんし、おまけに「仕事」をした以上、依頼者は料金を支払う羽目になるわけで、こういう成り行きは甚だおもしろくありません。

そういう意味では、技術者の技術の第一のポイントは「診断力」であるといっても過言ではないと思われます。これさえ正しければ、結果はそれなりについてくるように思われます。とりわけ専門的に鍛え上げられた鋭い耳と、指先が捉えるタッチの精妙さは(ピアノの演奏はできなくても)、いずれも高度に研ぎ澄まされたカミソリのようでなくてはならないと思いました。

それなくしては、作業の目的も意味も立ちませんし、これを取り違えると核心から外れた作業をせっせとすることになりますが、この日お会いした方は、この点でまずなかなかの鋭い眼力をお持ちのようにお見受けしました。
驚いたことは、調律の奥義の部分になると、使う工具(チューニングハンマー)によって、作り出す音が変わってくるということでした。なんとも不思議ですが、きっとチューニングハンマーにも「タッチ感」みたいなものがあるんでしょうね。

素晴らしいピアノ技術者さんと新たに知り合うことができたことは望外の喜びですし、それはピアノを弾く者にとってはなによりも心強い存在で、有意義な一日でした。

2012/09/25 Tue. 01:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

アヴデーエワ追記 

ユリアンナ・アヴデーエワのことを商業主義に走らない本物のピアニストと見受けましたが、それはショパンコンクール後の彼女の動静を見てもわかってくるような気がします。

大半のピアニストはコンクールに入賞して一定の知名度を得たとたん、このときを待っていたとばかりに猛烈なコンサート活動を始動させ、大衆が喜びそうな名曲をひっさげて世界中を飛び回り始めます。中でも優勝者は一層その傾向が強くなります。そして大手のレコード会社からは、一介のコンクール出場者から一躍稼げるピアニストへと転身した証のごとく、いかにもな内容のCDが発売されるのが通例です。

ところが、アヴデーエワにはまったくそのような気配がありません。
コンサートはそれなりにやっているようですが、他の人に較べると、その内容は熟考され数も制限しているように見受けられますし、CDに至っては、まだ彼女の正式な録音と言えるものは皆無で、どこかのレーベルと契約したという話も聞こえてきません。
すでにショパンコンクールの優勝から2年が経つというのに、これは極めて異例のことだといえるでしょう。同コンクールに優勝後、待ち構えるステージに背を向けて、もっぱら自らの研鑽に励んだというポリーニを思い出してしまいます。しかもポリーニのように頑なまでのストイシズムでもないところが、アヴデーエワの自然さを失わない自我を感じさせられます。

とりわけ現代のような過当競争社会の中で、ショパンコンクールに優勝しながら、商業主義を排し、自分のやりたいようなスタイルで納得のいく演奏を続けていくというのは、口で言うのは簡単ですが、実際なかなかできることではありません。それには、よほどのゆるぎない信念が不可欠で、芸術家としての道義のあらわれのようにも思われます。

選ぶピアノもしかりで、ショパンコンクールでは一貫してヤマハを弾き続けた彼女でしたし、ヤマハを弾いて優勝者が出たというのも同コンクール史上初のできごとでした。折しもヤマハは新型のCFXを作り上げ、国際舞台にデビューさせたとたんヤマハによる優勝でしたから、きっと同社の人達は嬉しさと興奮に身震いしたことでしょう。これから先は、この人がヤマハの広告塔のようになるのかと思うと、内心ちょっとうんざりしましたが、事実はまったく違っていました。
まさかヤマハがさまざなオファーをもちかけなかったというのは、ちょっと常識では考えにくいので、アヴデーエワがそれを望まなかったとしか考えられません。

事実、コンクール直後の来日コンサートをはじめとして、その後のほとんどの日本公演では、さぞかし最高に整えられたCFXが彼女を待ち構えているものと思いきや、なんと予想に反してスタインウェイばかり弾いています。あれだけヤマハを弾いて優勝までしたピアニストが、ヤマハの母国にやって来てスタインウェイを弾くというのも見方によっては挑戦的な光景にさえ見えたものです。
さりとて、まったくヤマハを弾かないというのでもないようで、要するにいろいろな事柄に縛られて、ピアニストとしての自分が無用の制限を受けたくない、楽器もあくまで自由に選びたいということなんだろうと思います。
現に昨年の日本公演の重量級のプログラムなどは、ヤマハではちょっと厳しかっただろうと思われ、スタインウェイであったことはいかにも妥当な選択だった思います。

これはピアニストとして最も理想的というか、本来なら当たり前の在り方だと思いますが、それを実行していくのは並大抵ではない筈で、アヴデーエワがまだ20歳代のようやく後半に差しかかった年齢であることを考えると、ただただ大したものだと思うしかありません。



2012/09/23 Sun. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

感動のアヴデーエワ 

一昨年のショパンコンクールの映像やCDを見聞きしてもピンとくるものがなく、さらには優勝後すぐに来日してN響と共演したショパンの1番のコンチェルトを聴いたときには、ますますどこがいいのか理解に苦しんだユリアンナ・アヴデーエワですが、彼女に対する評価が見事にひっくり返りました。

BSで放送された昨年11月の東京オペラシティ・コンサートホールでのリサイタルときたら、そんなマイナスの要因が一夜にして吹っ飛んでしまうほどの圧倒的なものでした。

曲目はラヴェルのソナチネ、プロコフィエフのソナタ第2番、リスト編曲のタンホイザー序曲、チャイコフスキーの瞑想曲。当日はこのほかにもショパンのバルカローレやソナタ第2番を弾いたようですが、テレビで放映されたのはすべてショパン以外の作品で、そこがまたよかったと思われます。

どれもが甲乙つけがたいお見事という他はない演奏で、久々に感銘と驚愕を行ったり来たりしました。やはりロシアは健在というべきか、最近では珍しいほどの大器です。

あたかも太い背骨が貫いているような圧倒的なテクニックが土台にあり、そこに知的で落ち着きのある作品の見通しの良さが広がります。
さらには天性のものとも思える(ラテン的でも野性的でもない)確かなビート感があって、どんな場合にも曲調やテンポが乱れることがまったくない。政治家の口癖ではないけれども、彼女のピアノこそ「ブレない」。

どの曲が特によかったと言おうにも、それがどうしても言えないほど、どの作品も第一級のすぐれた演奏で、まさに彼女は次世代を担うピアニストの中心的な存在になると確信しました。
こういう演奏を聴くと、ショパンコンクールでのパッとしない感じは何だったのだろう…と思いつつ、それでも審査員のお歴々が彼女を優勝者として選び出した判断はまったく正しいものだったと今は断然思えるし、やはり現場に於いてはそれを見極めることができたのだろうと思います。

アヴデーエワに較べたら、彼女以外のファイナリストなんて、ピアニストとしての潜在力としてみたらまったく格が違うと言わざるを得ません。その後別の大コンクールで優勝した青年なども、まったく近づくことさえできないようなクラスの違いをまざまざと感じさせ、成熟した大人の演奏を自分のペースで披露しているのだと思います。

彼女の演奏は、ピアノというよりも、もっと大きな枠組みでの音楽然としたものに溢れていて、器楽奏者というよりも、どことなく演奏を設計監督する指揮者のような印象さえありました。
良い意味での男性的とも云える構成力の素晴らしさがあり、同時に女性ならではのやさしみもあり、あの黒のパンツスーツ姿がようやく納得のいく出で立ちとして了解できるような気になりました。

さらには、いかなる場合にもやわらかさを失わない強靱な深いタッチは呆れるばかりで、どんなにフォルテッシモになっても音が割れることもないし、弱音のコントロールも思うがまま。しかも基本的には、きわめて充実して楽器を鳴らしていて、聴く者を圧倒する力量が漲っていました。芯のない音しか出せないのを、叩きつけない音楽重視の演奏のようなフリをしているあまたのピアニストとはまったく違う、本物の、心と腹の両方に迫ってくる大型ピアニストでありました。

それにしても、他のピアニストは大コンクールに入賞すると、ぞくぞくとメジャーレーベルと契約して新譜が発売されるのに、アヴデーエワはショパンコンクールのライブと、東日本大震災チャリティーのために急遽作られたライブCD以外には、未だこれといった録音がなく、そのあたりからして他の商業主義と手を結びたがるイージーなピアニストとは一線を画していて、あくまでも独自の道を歩んでいるようです。

ああ、実演を聴いてみたい…。

2012/09/21 Fri. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

オーディオ道 

オーディオにほとんど興味のないマロニエ君でしたが、今年は降って湧いたような自作スピーカーという課題ができてからというもの、俄にこのジャンルに興味を持つようになりました。

もちろんこのジャンルなどと一人前のことを云っても、たかだか自作スピーカーを中心とするその周辺のことに限定されていて、何十万何百万といった高級機器なんぞは自分にはまったくご縁のないものとして見向きもしておらず、あくまでも現実的な安物の範囲の話です。

ただし、昔からそうでしたが、オーディオの世界ばかりは高級品さえ買っておけば、その価格に応じて音質が段階的に間違いなく上がっていくのかというと、これはまったくそうとも云えない難しさを持っていて、このあたりの実情は現代でもさほど変わっていないようです。

もちろん、基本的には安物は安物で、それなりの音しかしないでしょうし、高級品も同様にそれなりの製品になると、それなりの音が出るという原則はあるでしょう。
ただし、そこには設計者の思想や理念もあれば、聴く側の主観や好みもあるし、組み合わせる機器の間に生まれる相性や、部屋の環境、聴く音楽のジャンルなど、そこにはもろもろの要素がそれこそ無限大に絡み合っていて、これが絶対という答えが永久にないだけに、そこがオーディオの奥深さにも繋がっているようです。

とくに高級品になればなるほど、その音の違いと価格差は甚だ曖昧かつ微細な領域に突入し、それだけの客観的な価値を見出すのは極めて難しいものとなっていくでしょう。
しかし、低価格帯ではある程度、価格と品質の関係というのは信頼に足るものがあり、たとえば2万円のスピーカーと10万円のスピーカーを較べたなら、ほとんどの場合は後者のほうがまず優れていると思われます。
しかし、これが高級品の世界になると、100万のアンプより300万のアンプのほうが確実に素晴らしいのかというと、これは一概に何ともいえない世界になるようです。

スピーカーも然りで、オーディオは高級品の世界になればなるほど、道楽の様相を一気に帯びてきて、それこそそれなりの経済力があって、この世界に足を取られてしまうと、まさに湯水のごとくお金を使ってしまうようです。最後には、オーディオの能力を発揮させることを前提にした家を造ったりすることにも及ぶようで、まさに終わりのない世界です。

しかも絶対というものはなく、たえず何らかの不満が残り、どこまでやっても「妥協」という文字から解放されることはないようです。

だからかどうかはわかりませんが、そんな頂上決戦の真逆を行くのが、チープなものを掻き集めて、いかに尤もらしい音を出すかという挑戦が昔からあって、マロニエ君にしてみればマニア道としても、こっちのほうがよほど無邪気であるし、知恵を絞り、アイデアを紡ぎ、失敗に笑い、発見に喜び、どれだけ面白いかと思っていますが、それは貧乏人の言い訳なのでしょうか…。

2012/09/19 Wed. 01:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

テレビの不思議 

台風16号が沖縄本島に上陸、さらに北上を続けているとのことですが、台風情報を見ようにもテレビでは決まりきった天気予報やニュースの一部以外ではなかなかその情報が得られません。

こんなときしみじみと感じるのは、そもそもテレビというものは、どうでもいいようなことはまたかと思うほど繰り返し放送するくせに、こちらが必要とする肝心なものはほとんど放送されないという矛盾です。

自然災害など、終わった後はえらく盛大に報じられますが、台風のような今まさにこちらに向かって近づいてくる危険に関しては何故こうも情報が最小限で不親切なのかと思います。

今回の台風は「猛烈な大型台風」「瞬間風速は最大75m」といいますから、こんなものがこっちに向かってやって来ると思うと身も縮む思いになりますが、テレビのどのチャンネルを見てもほとんどそれらしいことは伝えておらず、すまして平常通りの番組が放送されているだけです。

NHKもまったく同様で、台風なんぞまるで消えて無くなったかのような知らん顔状態なのには呆れてしまいましたが、夜になってかろうじて総合だけが、申し訳程度に台風情報を流し始めたのみです。
どうかすると、せっかく録画した映画や音楽番組にも、遠く離れた地で小さな地震が発生したというようなテロップが出てきて、大事な画面が台無しになってしまうことがしばしばなのは多くの方が経験されていることだと思います。

しかも、ひとたびこれが出はじめると、その無粋な文字は何度も何度も繰り返し画面に表示され、そのしつこさといったらありません。
それでも、NHKなどは公共放送であるという性質でもあるのでしょうから、そこは諦めて我慢しているわけですが、自分のいるエリアが実際的な危険にさらされる恐れがあって、くわしい状況を知りたいと思っても、その情報がほとんど得られないのはまったく腑に落ちない気分です。

少なくともよほど注意して天気予報やニュースを待ち構えていないかぎり、台風情報などはほとんど伝えられないのが実情だということがよくわかりました。

要するにテレビは、済んでしまったことを後から殊勝な調子で報告するだけのメディアではないかと思いましたが、こんなことを書いている間に外は次第に風がザワザワしはじめたようです。

2012/09/17 Mon. 01:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

ノラや2 

動物好きにとって、自分で飼って生活を共にしている動物というのは、まさに家族同様の存在で、ときにその存在の大切さは人間以上のものにさえなってしまうこともないことではありません。

お隣の犬猫ハウスから猫がいなくなったという必死な捜索の電話があってからしばらくすると、今度は新聞紙面で、市内の方のビーグル犬がいなくなったとのことで、写真付きの捜索の広告が出ているのを見て思わず胸が塞がりました。

興味のない人からすれば、たかだか犬猫にそこまで必死になることを、愚かで馬鹿らしいことのように感じられるかもしれませんが、飼い主にしてみれば、それは家族を失うことに匹敵するような出来事で、さぞかし沈痛な毎日を送っておられるだろうと思います。

この新聞広告というところから、また内田百聞の「ノラや」を思い出したわけですが、高い新聞掲載料を払ってでもこのような広告を出した時点で、すでにかなりの時間が経過しているのでしょうし、八方手を尽くした挙げ句の苦渋の決断だろうと思われます。
おそらくは、めでたく見つかって飼い主のもとに戻ってくる可能性は極めて低いとマロニエ君は内心思ってしまい、それがまたいよいよお気の毒なところです。

すでに、この新聞広告は2度、目にしていて飼い主の方の悲痛な心の裡が忍ばれます。
なんでも、ある女性がこの犬を連れ去るところを見たという目撃証言があるのだそうで、写真を見てもなかなか器量好しのビーグルでしたので、そういう証言があるところをみると、心ない人によって連れ去られたのだろうとも想像します。

この広告が「犯人」の良心に訴えるものがあって、もとの飼い主へ返そうという気分になってくれたらそれに越したことはないのですが、なかなかそうはならないだろうと思われます。
相手が動物とはいえ「誘拐」もしくは「盗み」という悪事をはたらいておいて、いまさら名乗り出るのは引っ込みがつかないという心理があるでしょうし、動物は飼い始めるとじきに愛情愛着がわいてきますから、エゴであっても手放すこともできなくなるという事情があるだろうと思います。

警察に届けても、犬猫は飼い主にとってはどんなに家族同様でも、法的にはモノとしか扱ってもらえないのだそうで、そこがまた悲しいところです。

2012/09/16 Sun. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

楽器と同じ 

このブログの8月21日に書いた塩ビ管スピーカーは、ネットを見ると、ずいぶんたくさんの人が作っているように思えますが、マロニエ君のまわりには自作はおろか、御本家のYoshii9の存在すら知らない人が圧倒的ですから、やはり全体としてみれば今どきオーディオなどというものは、ごくごく少数のマニアだけが騒いでいるだけのことかもしれません。

昔は、オーディオマニアは決して珍しい部類ではなく、電気店に行っても、オーディオ売り場は一種独特のハイグレードな空気があってひときわ魅力あるカテゴリーのひとつでしたが、最近はすっかり衰退して、かなり隅っこに追いやられてしまっています。
やはり今は音楽分野もネットやiPodのたぐいが主流で、オーディオそのものが世の中の関心事から大きく遠ざかってしまっているようですが、それでも、本当に音楽を聞き込もうとする欲求と姿勢がある人なら、小さなイヤホンを耳にひっかけるだけでは事は済まないはずで、最低限のオーディオ機器は絶対不可欠だとマロニエ君は思います。

これはどんなにすばらしい電子ピアノが登場しても、生ピアノから得られる喜びや感動を超えることは出来ないことにも通じることのような気がします。

さて、その塩ビ管スピーカーの名前の由来ですが、小さなスピーカーユニットを先端に乗せるための細長い筒の材質のことで、塩ビ管とは、すなわち配水管などに使われるネズミ色の塩化ビニールのパイプ(管)を使ってスピーカーを作ることから、この名前が生まれ、やがて定着したようです。

長さ1m、直径わずか10cm前後の筒を垂直に立てて、その先端に8cmほどのフルレンジのスピーカーが乗っているという形状で、通常のスピーカー同様に左右2つで一対になるわけですが、なにも知らないと、パッと目はスピーカーに見えることはなく、新型の空気清浄機とかちょっと変わった照明器具のように見えるかもしれません。

マロニエ君も、柄にもなくすっかり作ってみる気になり、だいぶあれこれ調査しましたが、このスピーカーのいわばボディにあたるパイプの部分は、使う材質によっても音がずいぶん変わってくるらしいことがわかりました。
塩ビ管は要するにプラスチックで、ホームセンタなどわりに簡単に手に入る上、安いのが魅力ですが、硬度の関係から音がやや柔らかめでクリア感には乏しいようです。

塩ビ管以外にも、あえて硬い紙の筒を使って作る人もいるようですし、硬さの点からアルミ管やアクリル管という選択肢もあるようですが、こちらは塩ビ管に較べるといささか値が張ります。
御本家Yoshii9は何を使っているかというと、これもネットで知り得たところではアルミだそうですが、それにさらに特殊な処理が施されていて、それもあの美しい音に一役買っているものと思われます。

塩ビ管には塩ビ管なりの味わいがあるらしく、これはこれで奥の深い世界なんだそうですが、Yoshii9の素晴らしさのひとつがすっきりとした音のクリア感にあるので、やはりここは硬さのある材質が望ましいように思われます。その点ではアクリルもいいらしいのですが、アクリルは万一倒したりした場合、割れたりヒビが入るということもあるらしいので、そのあたりも考えあわせてマロニエ君の第一作としてはアルミ管とすることにしました。

基本となるスピーカーユニットの選択、パイプ部分の材質、中の構造物など、これはまさに楽器の構成要素にも大いに通じるところがあって、それをどのように組み合わせて、どんな音を引き出すか、これは考え始めると相当おもしろい体験になるような気がしています。

2012/09/13 Thu. 01:19 | trackback: 0 | comment: 0edit

ノラや 

我が家のとなりには、昔の家でいう物置小屋ほどもある大きな犬小屋があります。

それというのも隣家のガレージがいつのまにか犬小屋となり、もう長いこと、そこを近所の愛犬家が借りているのです。
中では数匹の犬猫が飼われていますが、飼い主はここから少し離れたところにお住いで、毎日、夕方になると散歩をはじめエサやら掃除やらで、必ずやってきては懸命にお世話をされています。

今年の夏、そのガレージが建て替えられて、より大きく立派な犬舎に生まれ変わりました。
新築の住まいを与えられて、飼われている犬猫たちもさぞ喜んでいることだろうと思っていたところ、先日その飼い主さんから電話があり、その中の猫が一匹いなくなって、もうずいぶん探し回っておられるようですが、いまだに見つからないとのこと。

特徴などを知らされ、見かけた折には一報をと頼まれ、もちろん快諾したのはいうまでもありませんが、猫の場合、いったんいなくなって帰ってきたという話はなかなか聞いたことがなく、そこが必ず飼い主のもとに帰ろうとする犬と猫の最大の違いのようにも思われます。
猫は猫なりに、人になついているのだと思われますが、犬のそれのようにまっしぐらなものではなく、一捻りも二捻りもある愛情の持ち方のようでもあるし、そもそも猫には犬に備わっているような方向感覚なんかも少し弱いのかもしれないと思ったりもしています。

この話を聞いて思い出したのが、内田百聞(正しくは「聞」ではなく、門構えに月ですが)の作品「ノラや」でした。
野良猫だったノラが内田家にいついてから、だんだん百聞先生の愛情を受けるようになり、日々おいしいものを与えられて、幸福な毎日を過ごしていた真っ只中、いつものように出かけたきりノラは帰ってこなくなり、その悲嘆の顛末を縷々書き記した作品。

来る日も来る日も、夫人とともにノラを探し回る日々が続き、その間、百聞先生ほどの文豪が、心身をすり減らし、涙に明け暮れ、捜索の新聞広告も数度にわたり掲載されますが、月日ばかりが虚しく流れていきます。そして、その悲願も虚しく、ついにノラは帰ってきませんでした。

猫は、人の愛情を受けながらも、どこか勝手気ままで謎の部分が多く、それ故に猫に魅力を感じる人も多いようですが、マロニエ君はやっぱり犬が好きである自分を見出してしまいます。

もちろん一日も早く見つかることを願っていますが、正直言うと難しいだろうなぁと思ってしまいます。そもそも突然いなくなる飼い猫というのは、その後いったい、どこでどんな行動をとっているのか、できればNHKのドキュメントなどで取り上げてほしいテーマです。

2012/09/11 Tue. 01:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

高橋アキ 

天神の楽器店でCDの半額コーナーを漁っていると、いくつか目につくものがありましたが、その中から、以前何かで読んで評価が高いとされている高橋アキさんのシューベルトの後期のソナタを発見し、これを購入しました。

シューベルトの後期の3つのソナタとしては、すでに最後のD.960を含むアルバムが先に発売され、今回購入したのはそれに続くもので、その前の後期ソナタ2作であるD.958とD.959でしたから、曲に不足のあろうはずもありません。

また、前作のD.960を含むアルバムは第58回芸術選奨文部化学大臣賞を受賞しているらしく、レーベルはカメラータトウキョウ、プロデューサーはこの世界では有名な井坂紘氏が担当、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアルで、とくに高橋アキさんお気に入りのベーゼンがある三重県総合文化センターで収録が行われたとあって、とりあえず何から何まで一流どころを取り揃えて作り上げられた一枚ということだろうと思います。

というわけで、いやが上にもある一定の期待を込めて再生ボタンを押しましたが、D.958の冒頭のハ短調の和音が開始されるや、ちょっと軽い違和感を覚えました。

まずは、名にし負うカメラータトウキョウの井坂紘氏の仕事とはこんなものかと思うような、縮こまった曇りのある感じのする音で、まるでスッキリしたところがないのには失望しました。マイクが妙に近い感じも受けましたが、インペリアル特有の低音の迫力などはわかるのですが、全体としてのまとまりがなく、ピアノの音もとくに美しさは感じられず、ただ鬱々としているだけのようにしか聞こえませんでした。
もう少し抜けたところのある広がりのある録音がマロニエ君は好みです。

また肝心の高橋アキさんの演奏もまったく自分の趣味ではありませんでした。
後期のソナタということで、それなりの深いものを意識しておられるのかもしれませんが、むやみに慎重に弾くだけで、演奏を通じての音楽的なメッセージ性が乏しく、奏者が何を伝えたいのかさっぱりわかりません。
作品全体を覆っている深い悲しみの中から随所に顔を覗かせるべきあれこれの歌が聞こえてくることもなく、ソナタとしての構成も明確なものとは言い難く、暗く冗長なだけの作品のようにしか感じられなかったのは、まことに残念でした。

全体として感じることは、重く、不必要にゆっくりと演奏を進めている点で、そこには演奏者の解釈や表現というよりは、主観や冒険を避けた、優等生的な演奏が延々と続くばかりで、聴いていて甚だつまらない気分でした。
これでは却って晩年のシューベルトの悲痛な精神世界が描き出されることなく、作品の真価と魅力を出し切れずに終わってしまっていると思いました。

今どきは、しかし、こういう演奏が評論家受けするのかもしれません。
音楽として演奏に芯がないのに、いかにも表向きは意味深長であるかのような演奏をすることが作品の深読みとは思えません。どんなに高く評価されようと、立派な賞をとろうと、聴いてつまらないものはつまらない。これがマロニエ君の音楽を聴く際の自分の尺度です。

高橋アキさんはやはりお得意の現代音楽のほうが、よほど性に合っていらっしゃるように思います。

2012/09/09 Sun. 01:19 | trackback: 0 | comment: 0edit

ばわい 

「言葉は時代とともに移ろいゆくもの」という原則はわかってるつもりでも、このところの言葉の乱れはあんまりで、耳を疑うようなものが多すぎるように感じられてなりません。

とくにテレビは直接生きた言葉が流される媒体なので、放送局は正しい日本語を発信するという役割は極めて大きいはずですが、実際には、ほとんど元凶のごとき役割を果たしているのがテレビであり、唖然とするばかりです。

民放はいうに及ばず、NHKでさえこの点は例外ではなく、なんでもないようなことまで変化が起こっています。
例えば、むかしは当たり前だった「○○するかどうか検討中です」というようなフレーズは今はほとんど消えて無くなり、最近はニュースのアナウンサーなどは、例外なく「○○するか検討中です」「命に別状はないか確認中です」というように変わり、間に「どうか」という副詞(たぶん)が入らなくなってから、言葉はずいぶん乾いた、味わいのない、殺伐とした響きをもって耳に届くようになりました。

また、一種の流行的な使い方なのかもしれませんが、寒い、暑い、旨い、安いというような言葉を使う際にも、今は「寒っ」「暑っ」「旨っ」「安っ」という言い方が大勢を占め始めており、はじめはなんということもなかったようなことが、だんだん耳に障るようになりだしています。

語尾にむやみやたらと「…みたいな」や「…かな?」をくっつけるのなどは、もはや方言を飛び越して日本列島にあまねく定着した観があり、ほとんど共通語のようで、ちょっと不気味でさえあります。

最近、薄々感じはじめていたことで云うと、「場合」を「ばわい」という言い方で、はじめはメールなどの書き込みでちょっとふざけた、可愛気を出した感じの使い方が広まっているぐらいに思っていましたが、なんとテレビ局のキャスターがごく普通にこう言っているし、さらには、れっきとしたアナウンサーが、真面目なニュースを読み上げる際にもこの言い方をするのは、どうかしているんじゃないかと思います。

つい先日なども、電力供給の問題をスタジオで解説する際に、準備されたボードを指し示しながら、大真面目な表情で何度も「このばわいは」「そのばわいは」とあきらかに「わ」と発生していることに愕然とし、もしかしたらこっちの勘違いではないかと、念のため手許にある国語辞典で確認してみましたが、むろん「ばわい」などという日本語があるはずもなく、場合は「ばあい」と明記されています。

さらにこまかく云うと、テレビで聞く「ばわい」の言い方は、それをせめてなめらかに言うならまだしものこと、「わ」を敢えて強調するかのような、「ばウァい」という感じに発音するのには、ほとほと呆れてしまいます。

未来の辞書には場合=「ばわい」(「ばあい」とも)などと書かれるのでしょうか…。
2012/09/07 Fri. 01:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

テレビその後 

過日、画面がいきなり暗黒になってしまった我が家のテレビは、アンテナケーブル接続部の不具合という些細なことが原因と判明、めでたく復旧したことは以前書きましたが、実は続きがありました。
メーカーの技術者は画面が復旧したというのに、なにか違う問題にしきりに関心を寄せている様子で、それからまたずいぶんと時間を要して、予想外の第二幕となりました。

てっきり修理完了後の調整や確認をしているのだろうと思っていたのですが、技術者いわく、なんと液晶に異常があるとのことで、そう言われて目を凝らしてみればなるほど、ほんのかすかな筋が左側にあること、また通常の放送画面ではまったくわからないものの、調整のための単色に近い画面にすると、右下にわずかな曇りのようなものがあるとのこと。とくに曇りなどは、言われるまでまったく気づきもしませんでした。

すると、これを要修理と判断したようで、技術者の方は持参してきたノートパソコンを見ながらパーツ類の調達のために電話で会社としきりにやりとりしているようで、こちらが頼みもしないうちから交換のための手はずがどんどん進んでいて、その流れは呆気にとられました。

「部品の準備が出来たらまたご連絡しますので」と言い残してこの日は帰って行かれたのですが、この時点でマロニエ君はそんなことよりもテレビ画面が3日ぶりに復活したことばかりを喜び、そのうち液晶のことなど忘れていました。

数日後、本当に忘れていたら、メーカーから電話があり、準備が出来たのことですぐに来宅され、作業には1時間半ぐらい要するとのことで、そのときはずいぶん大変なんだなあ…ぐらいに思いました。玄関脇にはテレビがそのまま入りそうな大きな段ボールが置いてあり、ちょっと違和感は感じていましたが、礼儀正しく淡々と作業を進めているので、そのまま部屋を後にしました。

2時間近く経過して、やっと作業が終わったと知らされて戻って説明を聞くと、なんと液晶画面をそっくり新品に交換しているほか、メインをはじめとするいくつかの基盤などまで新品に交換されていると聞いたときは驚愕しました。
素人考えでも、ということは、これまで使っていた部分は、主に外枠や背後のカバーなどと思われ、中の主要な部分はほとんど新品になっているようです。

しかもすべて保証扱いですから、こちらの負担こそゼロなんですが、なんとも大胆なことをするもんだと思うと同時に、つい先日「カミナリ」という言葉を口にしたが最後、保証の適用から外されかけた危機を思い出すと、今度は、どこが悪いのかわからないような些細なことで、これだけの大胆な修理をするというのは、なにがどうなっているのやら、まったく狐につままれたような気分でした。

要するに、いずれの場合も定められた「システム」がそうさせるということでしょう。
システムに適ったことなら、いかに高額な修理でもどんどんするし、逆に適用外となったが最後、たとえユーザーが自分の落ち度でもなく、かつ、どんなに困っていることでも保証とはならず、かかった料金を請求するというわけで、たしかにある種の理に適ったことではあるのでしょうけれども、とてもじゃないですが心情的についていけない世界だということがわかりました。

テレビが実質新しくなったことはいかにも結構な結果だったわけですけれども、なんだか釈然としないものが残り、妙ちくりんな世の中になったもんだというのが率直なところでした。

2012/09/05 Wed. 01:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

低コストオペラ 

今年8月のザルツブルク音楽祭から、プッチーニのオペラ『ボエーム』が放送されましたが、お定まりの新演出によるもので、時代設定は現代に置き換えられるという例によってのスタイルは、まったくノーサンキューなものでした。

本来のオペラなら演出家の名前も記しておきたいところですが、この手合いは覚える気にもなれません。
フィガロでもマノンでも、とにかくなんでもかんでも最近はこの新演出という名の安芝居みたいなステージが目白押しで、かつてのようにまともにオペラを楽しむという気分にはなれません。

今回のボエームもとりあえず全4幕のうち第2幕まで見ましたが、これが本当にあのザルツブルク音楽祭だろうかと思うような軽薄で品位のない舞台で、どこかに良さを探そうとするのですが、どうしてもみつかりません。

たしかに芸術は、ただ伝統的なものを継承し、おなじことを繰り返すだけではだめで、絶えず新しいものが創り出されて、それらが淘汰され昇華しながら後世に受け継いでいかなくてはならないという面はありますが、近ごろの新演出は、マロニエ君の目には到底そんな芸術的必然から出たようなものには見えません。

なぜ最近のオペラは伝統的な舞台が激減して、斬新ぶった子供だましのような空疎な舞台が多いのかと思っているオペラファンは多いはずです。
一説によれば、それはもっぱらコストの問題だという話を聞いたことがありますが、それも頷けるような露骨なまでのやっつけ仕事で、ことによると作品への畏敬の念すら疑わしくなるようです。

たしかに本来の伝統的な舞台を作るには、高額な装置や衣装などが必要で、生半可ではないコストがかかるのはわかりますが、そもそも、それを含めてのオペラじゃないかと思います。
少なくとも、あんなものを堂々とオペラと称するぐらいなら、いっそ演奏会形式でやったほうがどれだけ潔いかわかりません。

今回のボエームに限りませんが、主役をはじめとするせっかくの出演者達が、本来の扮装とはかけ離れたジーンズやTシャツで堂々と舞台に現れて、下品な仕草で現代の役柄を演じるのはさぞかし不本意だろうなあと思います。
そればかりか、時代設定を現代に置き換えることで、劇の進行や台詞のひとつひとつの意味にも矛盾や齟齬が生じて、まるで説得力がありません。音楽的にもステージ上で展開されているものとは何の繋がりもないようなものが噛み合わないまま空虚に流れていくのは、なにやら耐え難い気になってしまいます。

もし若い人で、はじめて見たオペラがこの手の新演出で、オペラとはこういうものかとその経験を記憶に刻むとしたら、とても恐ろしいことのように思います。

主役のミミにはアンナ・ネトレプコ、オーケストラはウィーンフィル、合唱団はウィーン国立歌劇場合唱団といかにもな一流揃いですが、演奏はそれぞれが上手い点はあるものの、全体のまとまりや流れもなく、みんなバラバラな印象で、ろくに練習も積んでいないといった感じでした。
一体に、最近はテンポもノロノロした演奏が多いという印象がありますが、これも要は練習不足の表れのような気がします。かのカルロス・クライバーの快速は、まわりが呆れるほどの練習の賜物だったわけですが、練習を繰り返すことも、つまりコストのかかる事というわけでしょう。

オペラさえまともに上演できないほど、ヨーロッパの不況も深刻だということなのでしょうか…。
2012/09/03 Mon. 01:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

利害関係 

現代の人間関係は、ひとむかしの前のそれとはまったく様子が異なるようです。

これは時代のめまぐるしい変化によるもので、わけてもネットをはじめとするいろいろなツールの出現は、社会に深く根を張り、私達の実生活はむろんのこと精神的にも大きな影響を与えたことは間違いないようです。それに伴い、人とのお付き合いの在り方も、気がつくとかなりの変化が起こっているように思います。

さまざまなツールの登場は、便利さや多様化する選択肢などという点において劇的な変化をもたらしましたし、じっさい以前なら思ってもみなかったような新たな可能性が生み出されたことも、なるほど事実でしょう。
しかし、本当に人はそのぶん、その通りに、豊かに、幸福になっているかといえば、マロニエ君はとてもそうは思えません。

携帯やネットには目には見えない弊害も多く、結果だけを見るなら、世の中の多くの人が、結局は深刻な出口のない閉塞感と孤独に追い込まれたように思います。

友人知人の関係というものにも今昔の違いがあり、かつては無邪気に気の合う者同士が結びつき、ごく自然で率直な付き合いをしていたものですが、今は、携帯やパソコンのアドレス帳には人の名が溢れていても、いざ本当の友人ということになると甚だ怪しいものです。

そして、現代の人間関係とは、何をもって互いを結びつけているかといえば、多くは「利害」であることも少なくありません。この場合の利害というのは、もちろん金銭やビジネスのことではなくて、主にプライベートな時間を過ごす上での意味合いです。

予定帳の空白欄を埋めたい、無為な休日を楽しく過ごしたいといったたぐいの者同士が、ネットを介してふと結びつき、傍目にはあまり相性がいいとも思えないような組み合わせが誕生。互いに相手を利用して寂寥を埋め合うという点で利害が一致、まさに相互メリットによって交際が成立してしまうこともあるようです。

そもそも人間は本質論的に孤独といえばそうなのですが、それが観念の上ではなく、実際的孤独へとしだいに変質しているといえないでしょうか。多くの人は孤独に陥っても、それを声にすることもできず、ひたすら耐え忍ぶしかありません。そこへ、たまたまなにかのチャンスがめぐってきて、似たような境遇の人同士が出会うと、堰を切ったように空虚な交流が続けられることがあります。
しかもより多くの期待をかけたほうがパワーバランスで不利になり、このような関係はなかなか上手くいきません。

マロニエ君もそういう例をここ数年で何度か目撃したことがありますが、そこに漂うどこか必死な感じは、なんともいたたまれないものがありました。もともと何の繋がりも実績もない即席の関係は、いつどこで終わりになるかもしれないという危うさを常に孕んでいて、そこは当人達も空気としてどこかで悟っているのかもしれません。
もしそれで本当の友人になれたらめでたい事ですが、それはいわばくじに当たるぐらい難しく、大抵終わりは突然サラリとやってくるようです。

こういうことになる原因のひとつは、ネットなどでまったくバックボーンのわからない者同士が、安直に出逢うことのリスクであり代償だと思います。その点、時間や手間暇はかかりますが、人との出会いは従来のスタイルのほうがよほど確かだと思いますが、それもある程度の世代から以降はほとんど消滅しているのかもしれませんね。

2012/09/01 Sat. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit