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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

アミール・カッツ 

「俺のショパンを聴け!」
ピアニストのアミール・カッツは、あるインタビューでこのように言ったといいます。
それでは仰せの通り聴かせていただきましょうというわけで、2つリリースされているショパンのCDのうち、より新しい録音であるバラード/即興曲の各4曲を購入しました。

バラード第1番の冒頭部分からして技巧に余裕ある、クオリティの高そうな演奏であることが早くも伺われます。
さらには、ひとつひとつのフレーズから彼の音楽に対する細やかな息づかいが感じられ、ただきれいで正確に弾くだけのピアニストではないことが感じられる同時に、どこにも奇抜なことを仕掛けるなどして聴く者の注意を惹こうとしている軽業師でないのも伝わります。
それでいて、少なくとも、これまでに聴いたことのなかった新しいショパン演奏に出逢った気がしますし、その新しさこそ彼の個性だろうと思います。

しかし、どうももうひとつ乗れないものがある。
曲は確かにショパンだけれども、どうもショパンの繊細巧緻な作品世界に身を浸すのではなく、あくまでもこのカッツというピアニストの手中でコントロールされつくした整然とした音楽としての音しか聞こえてこない。

ポーランドの土着的なショパンでもなければ、パリの洗練を経たショパンでもない、あくまでもこのカッツというピアニストの感性を通じて、既成概念に囚われず、正しくニュートラルに弾かれた、無国籍風の堂々たるピアノ音楽に聞こえてしまうわけです。

非常に注意深く真摯に演奏されていることも認めますが、あまりにも筋力と骨格に恵まれた男性的技巧によって余裕をもって弾かれすぎることで、却ってショパンの細やかな感受性の綾のようなものや、複雑で整理のつけにくい詩情の部分などが力量に呑み込まれてしまった観があり、立派だけれども、聴いていてちっとも刺激されるものがありませんでした。

マロニエ君が思うに、ショパンの作品は芸術作品としてはきわめて完成度は高いけれども、どこかに危うい構造物のような緊迫を孕んでいなくてはいけないと思うわけです。
少なくとも、完全な土台の上に建てられた、強固でびくともしない建築のようなショパンというのは、どうしてもしっくりきません。

云うまでもなく、ショパンをひ弱な、少女趣味のアイドルのように奉る趣味は毛頭ありません。
しかし、誰だったか失念しましたが、ショパンのことを『最も華麗な病人』と評したように、ショパンには適度な不健康と煌めくブリリアンスの交錯が不可欠で、過剰な頑健さとか野性味、すなわちマッチョであることはマイナス要因にしかならない気がするわけです。

カッツのショパンは、力強さと構成感が勝ちすぎることで、却ってショパンの世界を小さくつまらないものにしてしまった気がします。
しかし、こういうある意味ではスケールの大きい、荷物の少ない寡黙な男のひとり旅みたいな演奏をショパンに求めている向きもあると思いますので、そこはあくまで好みの問題だと思います。

全体にバラードのほうがよく、それはピアニスティックに弾ければなんとかなる面が即興曲より強いからでしょう。

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2012/08/30 Thu. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

カミナリとテレビ 

このところ、晴れていたお天気が急変して、猛烈な雷雨に見舞われることが何度も続きました。当然のように湿度も耐え難いまでに上がって、まるで熱帯地方のようです。

その日も、昼間の強い陽射しと青空がウソのように夕方から猛烈な雷雨となり、かなり長い時間、まさに荒れ狂う嵐の様相を呈しました。

ようやく外の気配もおさまった夜半のこと、突如としてリビングで使っているテレビが映らなくなり、それこそ説明書と首っ引きで1時間以上、なんとか回復させようと格闘してみたものの、まったく無駄でした。
これはもう素人の手には負えるものではないと観念し、翌日、購入した電機店に修理依頼の電話をしますが、電話口で再三にわたって念を押されたのはカミナリが原因だった場合は、天災ということで保証の対象外となることを、予めご了承くださいということでした。

その電話から待つこと10時間近く、夜になって、ようやくメーカーの修理担当者から電話があり、来宅の日時を告げられました。その際にも、故障の状況を調べた結果、落雷によるものと判断された場合は保証の対象外となる由を念を押すように言われました。
見る前から、何回もこういう承諾の言質を取られるのはあまりいい気持ちはしないものです。

こちらにしてみれば、その日の夕方カミナリが鳴ったのは確かですが、そのあとも至って普通だったこと、他の部屋のテレビはいずれもまったく正常ということから、一概に落雷の影響というのではないのかもという気もしていたわけです。テレビの電源は入るし、ビデオなどを見るぶんにはまったく差し支えがないので、案外ちょっとしたことではないか…という気もわずかにしていました。

異常発生から3日目にして、ようやく待ちかねたメーカーの人がやって来ましたが、はじめは基本的な動作確認などをくりかえしていましたが、いずれも首を捻るばかりで、しだいに細かな領域に入っていきました。
果たしてわかったことは、アンテナの端子の中央にあるべき芯線というのが何故か欠落しているということが判明。これを正しい状態に戻すとあっけなく映像が戻り、テレビはめでたく復旧しました。

部品のひとつも使用せず、出張料金などは保証部分でカバーされているようで、まったく出費もなく、事前にずいぶん脅かされたわりにはあっさりと解決してしまったのはラッキーでした。

ちなみに、あとからネットを見て驚いたことは、たとえカミナリによる故障であっても、少なくともユーザーのほうからわざわざ「カミナリで」という言葉を発するのはタブーなのだそうで、それを認めると保証適用外となって修理費を負担しなくてはならなくなるとかで、あくまでも「ただ単に故障」という事実だけでじゅうぶんなんだとか。へええ…です。

上記の電話内容も、マロニエ君が不用意にカミナリと言ったために、たちまちその方向付けをされているのだということがわかり、今回はあきらかにカミナリが原因でなかったことが幸いでしたが、こんなちょっとした発言にも注意が必要とは、なんだか気が抜けないなぁという気分です。

2012/08/28 Tue. 01:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

調律師という言葉 

家庭のピアノにおけるピアノの調整について少し補足を。

いまさらですが、ピアノの健康管理に欠かせないのは、技術者による入念な調律・整調・整音の各作業、およびオーナーによるピアノを置く場所の温湿度管理という2つが大きいと思われます。

この際、調律を何年もしないような人は論外として、一般的にピアノに必要なケアといえば年一回の調律だと思い込んでいる人は少なくありませんし、これが大半だろうと思います。
したがって多くのピアノが本格的な整調・整音などの作業を受けないないまま、長年に渡って使われて、やがて消耗していくようです。

この作業がおこなわれないのは、決して技術者の怠慢というわけではありません。
人によっては調律だけを短時間で済ませて、他のことは一切手出しをしないで、さっさと帰ってしまう儲け主義の方もあるとは聞きますが、マロニエ君の知る範囲でこの手の方は皆無で、みなさんピアノに対する理想理念をお持ちの良心的かつ強い技術者魂のある方ばかりです。

整調や整音が正しく理想的におこなわれない理由は、ひとことで言うと、その必要性がピアノの持ち主にほとんど認識されていない点にあると思います。極端な話、これらをまともにやろうとすれば、調律どころではない時間と手間がかかり、料金もそれに応じたものになるので、とても現実的に浸透しないのでしょう。

多くのピアノユーザーの認識は、調律師さんにきてもらってやってもらうのは文字通りの「調律」なのであって、それ以外の調整なんて、ついでにサービスでちょこちょこっとやってもらうもの…ぐらいなものです。
だから調律師さんサイドでも、要請もない、調律以上に大変な仕事をすることはできず、ましてやそのために調律代以外の技術料を請求することもできないというジレンマがあると思われます。
いっそ明確な故障とかなら別ですが、ピアノは少々タッチに問題があっても弾けないということはほとんどなく、整音に関しても同様の範疇にあるので、時間的にもコスト的にも、なかなか仕事として成り立たないというのが現実だろうと思います。

そもそも、まず一番いけないのは「調律師」という言葉ではないでしょうか。
この名称では、あたかも調律だけをする人というイメージで、はじめから仕事内容を規定してしまっているように思います。つまり調律師という言葉の概念が先行して、本来の正しい仕事に制限を与えてしまったということかもしれません。

かくいうマロニエ君も、慣習にならってつい調律師さんと言ったり書いたりしていますが、やはり本来は「ピアノ技術者」もしくは、もうちょっと今風にいうなら「ピアノドクター」などでなくてはいけないような気がします。

英語ではTunerというようですが、そこにはきっと「調律」にとどまらない、もっと広義の意味が含まれているような気がするのですが…。

2012/08/26 Sun. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

調整の賜物 

「ニューヨークスタインウェイの音にはドラマがある」ということで思い出しましたが、マロニエ君が塩ビ管スピーカーの音を聴きに行った知人のお宅には、実はニューヨークスタインウェイがあるのです。

この日は、あくまでスピーカーの音を聴かせてもらうことが目的でしたから、前半はそちらに時間を費やしましたが、それがひと心地つくと、やはりピアノも少しということになるのは無理からぬことです。

今回驚いたのは、その著しいピアノの成長ぶりでした。
このピアノは比較的新しい楽器で、以前は、強いて言うならまだ本調子ではない固さと重さみたいなものあり、タッチやペダルのフィールもまだまだ調整の余地があるなという状態でした。
といっても、納入時には調律や調整などをひととおりやっているわけで、それでピアノとして特に何か問題や不都合があるというわけではなく、普通なら取り立てて問題にもならずに楽しいピアノライフが始まるところでしょう。

しかし、オーナー氏は早くもそこに一定の不満要因を見出しており、その言い分はマロニエ君としてもまったく同意できるものでした。
マロニエ君として伝えたアドバイス(といえばおこがましいですが)は、これを解決するには再三にわたって粘り強く調整を依頼して、それでもダメな場合には技術者を変えるぐらいの覚悟をもってあたるということでした。
そもそもピアノの整調(タッチなどアクションや鍵盤の精密な調整)は、家庭のピアノでは慣習として調律の際についでのようにおこなわれることがせいぜいで、それはあくまでもサービス的なものなのでしかなく、当然ながらあまり入念なことはやらないのが普通です。

しかし、ピアノを本当に好ましい、弾いていて幸福を感じるような真の心地よさを実現するための、最良の状態にもっていくには、整調は絶対に疎かにしてはならないことですし、作業のほうもこの分野を本腰を入れてやるとなると、調律どころではない時間と手間がかかります。

そのために、整調を調律時のサービスレベルではなく、それをメインとして作業をして欲しいということを伝えたようで、そのために調律師さんは数回にわたってやって来たそうです。
数回というのは、一回での時間的な限界もあるでしょうし、その後またしばらく弾いてみて感じることや見えてくることもあるからで、どうしても望ましい状態に到るには、とても一日で終わりということにはならないだろうと思います。

そんな経過を経た結果の賜物というべきか、ピアノは見違えるような素晴らしい状態に変身していました。

まずタッチが格段に良くなり、なめらかでしっとり感さえ出ていましたし、以前はちょっと使いづらいところのあったペダルも適正な動きに細かく調整されたらしく、まったく違和感のない動きになっています。
そして、なにより驚いたのは、その深い豊かな音色と響きの素晴らしさでした。
ハンブルクスタインウェイの明快でブリリアントなトーンとはかなり異なるもので、どこにも鋭い音が鳴っているわけではないのに、ピアノ全体が底から鳴っていて、良い意味での昔のピアノのような深みがありました。

このピアノは決してサイズが大きいわけではないのですが、その鳴りのパワーは信じられないほどのものがあり、あらためてすごいもんだと感銘を受けると同時に、このピアノの深いところにある何かが演奏に反映されていくところに触れるにつけ、過日書いた別の技術者の方の「ドラマがある」という言葉の意味が、我が身に迫ってくるような気がしました。

やはり誠実な技術者の手が丹念に入ったピアノは理屈抜きにいいものですし、すぐれた楽器には何物かが棲みついているようです。

2012/08/25 Sat. 00:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

ドラマがある 

いつも思いついたように電話をいただくピアノ店のご主人にして技術者の方がいらっしゃいますが、この方は昔から米独それぞれのスタインウェイをずっと手がけておられます。

以前はニューヨークのスタインウェイにも、ハンマー交換の際にはご自身の経験と考えに基づいて、敢えてハンブルク用のハンマーを付けるといった、この方なりの工夫をしていらっしゃいました。
いまさらですが、この米独ふたつのスタインウェイには様々な違いがあり、ハンマーもそのひとつで、むしろここは著しく異なる部分といっていいようです。

ドイツ製の硬く巻かれたハンマーを、針刺しでほぐしながら音を作っていくハンブルクスタインウェイに対して、ニューヨーク用の純正ハンマーは巻きそのものがやわらかく、それを奏者が弾き込みながら、時には技術者が硬化剤を使いながら音を作っていくというもので、そもそもの出発点というか、成り立ちそのものがまったく違うハンマー理論に基づいているようです。

この技術者の方がニューヨークスタインウェイにもハンブルクのハンマーを使っていた理由は、とくに聞いたわけではありませんが、マロニエ君の想像では、やはりくっきりとした輪郭のある音を求めた結果ではないかと思っています。
この試みは、ある一定の効果は上がっていたようにも思いますが、では双手をあげて成功だったか?というと、その判定はひじょうに難しく、少なくとも、ある要素を獲得したことの引き換えに、失ったものもあったようにも思いますが、何かを断定することまではマロニエ君にはできません。

それが、いつごろからだったか定かではありませんが、ニューヨーク製にはニューヨーク用の純正ハンマーを使われるようになりました。きっと好ましい状態のオリジナルハンマーをもったニューヨークスタインウェイに触れられたことで何か心に深く触れるところがあったからではないかと思います。

その深く触れるところがなんであったのかはともかく、ニューヨークの純正ハンマーには他に代え難い良い点があることに開眼されたのは確かなようでした。とくにピアノとの相性という点で格別なものがあったらしく、その点への理解をこのところ急速に深められ、最近も一台仕上がったピアノがやはりニューヨーク製で、思いもよらないような独特の響きを醸し出すことに、誰よりもまず、ご自身が深い感銘を受けておられる様子でした。

音にはことのほか拘りがあり、その面での執拗な探求者でもあるこの方は、一気にニューヨーク製の音色の素晴らしさを悟り、お客さんの家にある何度も触れてきたピアノからも、今また新たな感銘を受けておられるようです。
たしかに、人間の感性というものは不思議なもので、理解の扉というものは突然開くようなところがあり、そのあとは雪崩を打つように広まっていくという経験は誰しもあることです。

それからというもの、すっかりニューヨークの音色や響きに魅せられておられるようで、抑えがたい興奮を伴いながら電話口から聞こえた言葉は「ニューヨークの音にはドラマがある!」というものでした。
たしかに全般的に響きがやわらかいぶん、温かみがあり、今どきのキラキラした音とはまったく違う価値観の音であり、音がゆらゆらと立ちのぼっていくのがニューヨークスタインウェイの特徴のひとつだろうと思います。

その店には、すでに次なるB型も到着した由ですが、曰く、そのB型にはそのニューヨーク製が備えているべき味がまったく失われている由。上記の仕上がったピアノと併せて、ぜひ見に来るようにとの再三のお言葉ですので、今度は思い切って行ってみようかと思っています。

2012/08/23 Thu. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

塩ビ管スピーカー 

いま一部のオーディオマニアの間で、ささやかなブームになっているのが、塩ビ管スピーカー作りではないかと思います。
実はこういう世界があることは最近知ったのですが、マロニエ君の部屋にて拙文『Yoshii9』として書いている、同名の円筒形スピーカーを模して、自主工作によってその類似品を作るという人達がいるのです。
Yoshii9のもつ比類ない完成度の高さと、そこに聴かれるまさに輝く清流のような美しい音に魅せられた多くの人達がマニア魂に火をつけられ、この数年というもの、このスタイルのスピーカーの自作に挑戦奮闘しているようです。

自作が流行る最大の理由は、その無指向性型のスピーカーから流れ出る音の心地よさと、構造そのものは至ってシンプルで、一説によると通常のボックス型スピーカーを作るよりも簡単で、使う材料によっては安価でもあるということだろうと思われます。
しかし、では、ただ作ればいいのかといえば、そうではなく、問題はそこからいかに美しい極上の音を引き出せるかという点にあり、そのため各々試行錯誤を繰り返し、その悲喜こもごもの顛末はおもしろおかしく記録されて、多くのホームページなどで窺い知ることができます。

しかしそれは、マロニエ君にとって、世の中にはそんな趣味人がいるということでしかありませんでした。ある人からメールを受け取るまでは…。
ひと月以上前のことでしたが、マロニエ君のごく親しくしているピアノの知人がこれを作ったということを、何の予告もなしに、完成後にいきなり写真付きメールで知らせてきたのです。
まるで寝耳に水で、折しもYoshii9のもつ脅威的な音の世界に触れたことで、その鮮烈さに興奮さめやらぬというタイミングでしたので、なおさらのことそのモドキを作る人が、こんなにも自分の至近距離にいたなんて二重にびっくり仰天したわけです。

すぐにも聴かせて欲しいところでしたが、こういうときに限ってなかなか都合が合わずのびのびになっていたのですが、ようやく日曜にそれが叶い、聴き慣れたCDを携えて彼の自宅へ潜入することになりました。

彼はボディとなる円筒の材質別に、すでに3種類合計6本のスピーカーを作り上げており、見るとあれこれのホームページで見たものと同様のセオリー通りに製作されており、ただただ唖然とするばかりでした。

音のほうは、さすがに御本家のYoshii9には及ばないものの、それでもなかなか柔らかで好ましい、心地よい音を奏でていたことは特筆に値するものでした。
マロニエ君も製作してみないかと言ってくれますが、なにしろ工作の類はまったく得意でないというか、これまでにほとんどそれに類する事はやったことがないし、ましてやスピーカーなんてものは買うものであって、自分で作るなどとは考えたことさえありませんでしたから、はじめはまったくその気になれませんでした。

しかし、身近にそれを実行した人がいて、現物を見ると、知らず知らずのうちにその気になっていく自分が恐いような、笑ってしまうような、そんな気分です。

すでに、かなりその気になってしまい、早くも材料調達のためのいろいろなサイトを見て調べはじめていますから、このぶんではどんなヘンテコなものであれ、ひと組は作ってみることになりそうです。

2012/08/21 Tue. 01:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

IKEA続編 

せっかく決死の思いで行ったイケアでしたが、べつに取り急いで買いたいものとてなく、だからといって手ぶらで帰るのもつまらないので、LEDライトで取り付け部分がクリップ状になっている小型の電気スタンドを買いました。

クリップを譜面立てに挟んで、楽譜を見るための照明にしようという目論見です。
ところが使ってみると、照射範囲があまりに小さく、とても楽譜全体を明るく照らすことはできないことが判明。加えて位置や角度を自由に変えるための細い蛇腹のようになった棒状の部分が、狙った通りの位置に止めるのが難儀で、すぐに動いたりくだけ曲がったりして、なかなか思ったようになりません。

少なくともマロニエ君の用途にはまったく不向きであったのはがっかりでした。しかしよく考えると、店内に「気が変わっても大丈夫。90日以内なら返品が」できるようなことが大書してあったことを思い出しました。

しかしです、そのためにはまたあそこまではるばる行かなくてはなりませんから、マロニエ君としてはあまり積極性はなかったのですが、友人が「使わないならもったいないから、行こう!」というので、またしても行くことになりました。
考えてみれば往復のガソリンと時間、そしてなによりそのハードな労力を考えると、引き合わない気もしましたが、他に良いスタンドがあれば交換してもいいという考えが少しあったのも事実。

再び到着し、店に入ると、また例のシステムずくめの世界に突入するわけで、返品・交換のための手続きをどうするのかも、しばし探らなくてはなりません。
やがてわかったことは、入口から見て広大なフロアの一番奥にその手続きカウンターがあること。そこまで行くのがまた遠いので思わずため息が出ます。

3つあるカウンターのうち、ちょうど手の空いている女性に返品のことを告げようとするや、冷ややかに「番号札を取ってお待ちください!」と制されて、あたりを見回すと、側の柱に番号札の発券機がちょこんとあって、それを取って待つことになります。
とくにここは行列というわけでもなく、2組ぐらいのお客さんが返品の手続きをしているようですが、店側の対応におそろしく時間を要し、何かというと2、3人の若い店員が集まってヒソヒソ相談しています。きっと処理の方法を確認し合っているのだろうと思いますが、あとは延々とパソコン画面を見つめてしきりになにかやっているようですが、とにかくそれが遅々として捗らない。
この状態が30分以上も続き、これだけで気分は下がりまくってしまいます。

こちらの手続きを完了させてこの場を離れるまでに、軽く40分以上が経過したことは間違いなく、なんのためにこんなことをやっているのかという気にもなります。
それでも、せっかくここまで来ているわけだし、適当な照明器具はないかと疲れた気分に抗って、ほとんどやけくそ気味に売り場を見てみましたが、結果としてこれというものはありませんでした。

前回同様クタクタになり、ちょっと飲み物か軽食でもという気分でしたが、レジの近くにある飲食コーナーは、セルフサービスはまあ当然だとしても、なんと!すべて「立ったまま飲み食い」しなくてはならず、そんな厳しい場所は御免被りました。
こんな空港みたいに広い売り場をさんざん歩きまわらせたあげくのお客さんを、ちょっとのあいだ座らせようかという考えもないところに、日本とは完全に異なる、異国の感性と思考回路をまざまざと見せつけられたようでした。

2012/08/20 Mon. 01:12 | trackback: 0 | comment: 0edit

IKEA体験記 

お盆前のことでしたが、イケアに行ってきました。
マロニエ君としては、例年にも増して暑い時期ではあるし、人の多い新名所みたいなところは苦手だし、いま必要な家具があるわけでもなく、別に行ってみたいとは思わなかったのですが、友人に背中を押されて、ついに行く羽目になりました。

少しなりとも混雑を避ける意味から、金曜日の午後7時近くに到着しましたが、それでも駐車場には車がぎっしりで空きスペースを探すのもなかなか大変です。
そこからトボトボ歩いて店の入口まで行くわけですが、内心もうこの時点で疲れた気分。

店に入ると目の前に「さあこちら」といわんばかりにエスカレーターが迫り、店内をどう動いていいのかもわからないので、ひとまずそのエスカレーターに乗りました。
果たして2階はメインの展示フロアで、イケアの商品展示の方法は、家具などの各アイテムが実際に生活の中で使われているようにリアルに配置されている点にあるらしく、細かく仕切られたそれぞれのスペースは商品を使ったいろんなスタイルの小部屋のようになっていて、要はそれを見てまわるというもの。

ところが、これがだだっ広いフロアの大半を埋め尽くしており、うねうねと曲がりくねった順路を歩きながら展示物を見て回らされるのは、あまり自由な気分ではありません。しかもその距離の長いことといったら、正直いって2階の展示スペースを一巡するだけでかなり疲れました。
なんとか終点まで達すると、今度は1階へ下りるべく大きな階段があり、そこは各種インテリア小物の売り場でしたが、ここがまたうんざりするような距離を延々と歩かされるわけで、つまり2階を見終わった時点で、歩くべき距離はやっと半分に過ぎないということがようやく判明。

話が前後しますが、2階の家具の展示場には店員らしき人はほとんど見あたらず、おどろいたのは、もし気に入った家具を購入しようとすれば、順路のところどころのスタンドに置いてある紙と鉛筆を使い、自分で商品タグを手繰りよせて、商品番号かなにかをこの紙に書きつけることが手順の第一歩。
その番号をもとに1階の順路の最後のエリアにあらわれる、思わず頭上を見上げるような広大な規模の倉庫の中から、紙に書いた商品番号を頼りにその商品を見つけ出し、それを自分で運び出し、カートに乗せて、レジで精算、さらに駐車場まで運んで車に積むというのがここの基本システムです。
帰宅後には、これを展示スペースで見たのと同じ姿形になるよう、自分でせっせと組み立て作業をやらなくてはならないというものです。

センスの良し悪しや価格のことはさておくとしても、この店に行って好みの家具を買うということは、それなりの体力と、張り巡らされたシステムの理解力と受容力、ちょっとやそっとではへこたれない忍耐強さが必要で、高齢者とか、こういうことが苦手な人には困難がつきまとうというのが率直なところです。

マロニエ君がイケアに行く少し前でしたが、テレビの地方ニュースによると、イケアの出来た周辺エリアでは「イケア効果」なるものが起こっているらしく、イケア開店の影響で、売り上げが伸びた業種と落ち込んだ業種があるらしく、なんと直接のライバルであるはずの大型家具店の売り上げは、予想に反してかなり伸びたといいます。

それによると、少しぐらい割高でも、笑顔の店員に迎えられて、商品選びに同行、適宜アドバイスなどをしてくれ、購入すればお届けから設置までしてくれるし、組立などする必要もないという、日本人が慣れ親しんだ販売スタイルが脚光を浴びているらしく、以前よりも売り上げが3割増!だといっていたのですが、たしかにその日本式のこまやかな接客がひどくなつかしいもののように思い起こされました。

イケアの流儀に較べれば、ドライだと思っていたアメリカのコストコ・ホールセールでさえ、まだフレンドリーさと穏やかさがあり、ほとほと北欧は厳しいなぁ…というのが実感です。きっとものの考え方や商売のセンスがまったく違うのでしょう。
わずか2時間余の滞在でしたが、車に戻ったときは疲労困憊。会話をするのも煩わしいぐらい、ぐでんぐでんに疲れて、マロニエ君にとっては真夏のスポーツにも値するものでした。

2012/08/18 Sat. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

練習用には 

我が家のピアノのハンマーヘッドに1gほどのウェイトを追加したことで、タッチ/音色ともに激変して驚いたことはマロニエ君の部屋に書いた通りですが、いらいひと月以上が経過しましたが、予想に反して今でもそのままの状態を続行しています。

音も太くなって気分がいいし、腰砕けな指をわずかなりとも鍛える良いチャンスだとも思っているわけで、ある一面においては、このように楽ではないタッチのピアノで練習するというのも一片の意味はあるように思うこの頃です。

弾きやすいことだけを主眼に置いたピアノでは、練習の中のひとつの要素である肉体的鍛錬という点でいうと、身体は必要以上のことはしないので、目の前にあるピアノが弾きやすい分だけ、指は逞しさを失っていくという事実はあると思うようになりました。
もちろんマロニエ君のようなアマチュアのピアノ好きにとっては、指の逞しさがあろうがなかろうが、大勢に影響はないわけですが、それでも、まがりなりにも弾くという行為に及ぶ上においては、少しでも余裕を持って弾くことが出来るなら、やっぱりそれに越したことはないわけです。

このひと月半というもの、以前よりもずっと重い鍵盤に耐えながら弾いていると、やはりそれだけ指に力が付くらしく、別のピアノを弾いてみたときに、遙かに楽に、余裕を持って弾けるということがわかり、まあこれは至極当然のことではあるでしょうが、やはり身体というものは甘やかさず適度に鍛えなくてはいけないということを痛感した次第です。

もちろんピアノの練習とは指運動だけではなく、フレーズの繊細な歌い方や、デュナーミクにおけるタッチコントロールの多彩さなど、あらゆる要素が複雑に絡み合っているわけですから、一元的な要素だけでものを云うわけにはいかないことはわかっているつもりです。
一例を云うと、長年、鈍感なピアノで練習してきた人は、やはり耳も感性も鈍感なのであって、ドタ靴で走り回るような演奏を疑いもせず繰り広げてしまうことは珍しくありません。自分の出している音を常に聴いて、そこに注意を払う習慣を養うためには、タッチに敏感なデリケートな楽器に慣れ親しんできた人のほうが強味です。
しかし、その点ばかりを音楽原理主義のようにいっていると、やはり指のたくましさは必要最小限に留まり、どうしても筋力に余裕がなくなるのは否めないと、今あらためて思います。

とりわけピアニストは、普段の練習用のピアノがあまりに楽々と弾けてしまう楽器だとすれば、どうしても身体はそのフィールを中心としてしか反応しなくなり、さまざまなピアノにまごつくことなく対応する能力が落ちてしまって、そのぶん本番は辛いものになるでしょう。

ピアノは自分の楽器を持ち歩けないぶん、いろいろな楽器を弾きこなせるだけの、ある意味で図太さみたいなものが必要で、その図太さ、言い換えるなら楽器が変わったときに慌てないだけの余力を養うためにも、練習用のピアノはちょっと弾きにくいぐらいがちょうど良いのかもしれません。

今回のことでわかったことは、軽いキーのピアノから重いほうへと変わるのはかなりの苦痛と忍耐と時間が必要ですが、その逆はまったく楽で、むしろ面白いぐらいにコントローラブルになるというものでした。
ピアノも他の楽器のように、目的に応じて何台も持ち揃えることができればいいのですが、サイズの点だけからも、なかなか難しく悩ましいところのようです。

2012/08/16 Thu. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

弦楽伴奏版 

ソン・ヨルムは、2009年のクライバーンコンクールおよび2011年のチャイコフスキーコンクールでいずれも第2位に輝いた韓国の若い女性ピアニストです。

少し前にショパンのエチュードのアルバムが発売になっていますが、これは遡ること8年も前に韓国で録音発売されていたものが、ようやく日本でもリリースされたもので新しい録音ではないようです。
同時期に出たもうひとつのアルバムにノクターン集があり、これは2008年、つまり彼女がクライバーンコンクールに出場する前年にドイツで録音されたものですが、これは非常に珍しい弦楽伴奏版というものであることが決め手になって購入してみました。

オーケストラはルーベン・ガザリアン指揮のドイツのヴュルテンベルク室内管弦楽団で、2枚組、遺作を含む21曲のノクターンが収められていますが、そのうちの4曲のみ弦楽伴奏はつかず、オリジナルのピアノソロとなっています。

演奏はいずれもクセのない、繊細でしなやかな、概ね見事なもので、そこへ弦楽伴奏が背後から乗ってくるのはいかにもの演出効果は充分にあると思いました。
編曲は韓国の二人の作曲家によるもので、ソン・ヨルム自身も編曲作業には深く関与したという本人の発言があり、オリジナルの雰囲気を尊重し壊さないために最大限の努力と配慮が払われたということです。

それは確かに聴いていても納得できるもので、ショパンの原曲が悪い趣味に改竄されたという感じはとりあえずなく、どれも情感たっぷりにノクターンの世界を弦楽合奏の助力も得ることで、より印象的に描き込んでいるという点ではなかなか良くできていると思いました。

ただ、不思議だったのは、ひとつひとつはそれなりに良くできているようでも、続けて聴いていると次第にその雰囲気に満腹してしまって、その味に飽きてしまうことでした。

どことなく感じるのは、たしかになめらかなショパンではあるけれども、同時に韓流ドラマ的な臭いを感じてしまうことでした。韓国人の編曲だからということもあると思いますが、一見いかにも夢見がちで流れるような美しい世界があって耳には心地よいのですが、魂に触れてくるものがない。
たとえば弦楽伴奏付きの第1曲であるホ短調op.72などは、聴くなりまっ先にイメージしたのは何年も前に流行った「冬のソナタ」でした。

マロニエ君としては、ショパンはあの甘美な旋律などに誰もが酔いしれるものの、その真価は知的で繊細で、奥の深いどちらかというと男の世界だと思っています。ところが、この弦楽伴奏版ではその甘美な世界が、いわゆる少女趣味的な甘ったるい世界になっているのだと思いました。

世の音楽好き中には「ショパンは嫌い」「ショパンはどうも苦手」という人が少なからずいるものですが、その人達は何かのきっかけでショパンをまるでこういった音で表す少女小説のように捉えてしまっているのではないかと、その気持ちの断片が少しわかるような気がしました。

だからといってマロニエ君はこのアルバムを否定しているのではなく、あまたあるショパンのノクターンアルバムの中にこういうアレンジがあるのは面白いと思いますし、そういうことに挑戦したソン・ヨルムの決断力にも拍手をおくりたいと思います。
少なくとも、正確でキズがないだけのつまらない演奏よりはよほど立派です。

2012/08/14 Tue. 02:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

ひびしんホール 

この夏、北九州市黒崎に新しくオープンした北九州市立ひびしんホールに行きました。

ここには3台の異なるメーカーのコンサートグランドが納入されたようで、7月のオープンに続き一連のピアノ開きのためのコンサートがそれぞれおこなわれ、トップを小曽根真さんがヤマハCFXを、次が小山実稚恵さんでスタインウェイDを、そして今回は最後で及川浩治さんがカワイの新機種EX-Lをお披露目されました。

以下、簡単に感じたところです。

【ホール】大ホールは、今どきのコンサートにちょうど良い800人強のサイズですが、すぐ近く(およそ3kmぐらい?)に同規模の、こちらも「北九州市立」の響ホールがあるにもかかわらず、当節のような景気の低迷とコンサート不況の続く中で、何故いま、このようなホールがもうひとつできたのか、その真相はよくわかりません。

それはそれとして、久しぶりに新しいホールに行くのは興味津々というところでしたが、率直に言って、ちょっと期待はずれなものでした。
その建物は、残念なほうの意味でおそろしく今風で、内も外も、ただパーツを組み上げただけのような無味乾燥なもの。どこをどう見渡しても、低コストに徹したという印象ばかりが目につき、ホールに求める文化的な雰囲気とか有難味のようなものがまったくありません。
その点、ずっしりと作られている響ホールは、何年経っていようが、まるで格が違います。

ホール内にはロビーらしきものもなく、ちょっとリッチな公民館といった風情だと云ったほうが話は早いかもしれません。ホールの内装は木の趣を凝らしたというところだとは思いますが、まるで竹ひごで編んだ虫籠のようで、そのモチーフがステージ上の反響板にまで連続して続くため、大きな虫籠の中央にポンとピアノが置いてあるようで、マロニエ君の目にはちょっと奇異に映りました。

コンサートというよりも、どことなくホタルや浴衣なんかが似合いそうな感じで、ホームページの写真で見るのと、実際に現場で見るそれは、相当イメージが異なるものだというのも痛感。
響きは、取り立てて変な癖やストレスもなく、それなりに素直でよかったとは思いましたし、新しい建物は空調などの効きがよく、その点はこの季節でもあり快適でした。

【ピアノ】カワイのコンサートグランドがシゲルカワイの名を返上し、再びKAWAIを名乗ることになった新機種が今回このホールに納入されたEX-Lです。
それを証明するように、サイドのロゴは鍵盤蓋と同様のがっちりとした書体でシンプルに「KAWAI」となっていますが、以前のいささか安っぽい装飾文字を思い出すと、ようやく本来あるべき姿に落ち着いたようで、この会社の良識的判断にホッとした思いです。

さて肝心の音は、かなりの期待を込めていたのですが、マロニエ君の耳には、従来型に較べてなんら進歩の後がないものでしかなく、これまでとまったく同じようにしか感じられなかったことは甚だ残念でした。 
基本的な音色が暗く(重厚とは違う)、音にザラつきがあるところまで、すべてが引き継がれていて変化らしきものが何も感じられませんでした。

とくに中音域でそれが顕著で、ピアノの個性が決まるともいうべきこの大事な音域が、なんの色気も麗しさもない、濁った水のような音しか出てこないのはどうしてだろうと思います。
それに対して、低音はやや鈍さはあるものの、カワイらしい響きの豊かさとパワーがあり、せめてこの点は評価したいところです。
中音域を中心として、もっと澄んだ音、艶のあるふくよかな音が出たら、格段に良いピアノになると思うのですが、メーカーは不思議なほどそこには目を向けないようです。ちなみに、音の色艶とか美しさというのは、そのピアノのキャラクターに合わない整音をして、耳障りな音にすることとはまったく違うもので、やはり根本的にボディの問題だろうと思われます。

【ピアニスト】については…やめておきます。
2012/08/12 Sun. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

『はじける象牙』 

先日書いた、ピアニスト兼文筆家のスーザン・トムズの『静けさの中から〜ピアニストの四季』には、とりどりの面白い文章が満載ですが、その中で、驚いたことのひとつ。

スーザン・トムズはイギリスを代表するピアニストの一人であるばかりか、幅広い知識を持ち合わせたインテリでもあるようで、その深い教養とピアニストとしてのキャリア、そのトータルな文化人としての存在感にも英国の人々は大いに注目しているところのようです。
さらに夫君は音楽学者の由。

そんな、なにもかもを兼ね備えたようなスーザン女史ですが、こと自分のピアノの管理に関する著述では、ちょっと信じられないようなことが本の中で語られていました。
それによると、部屋の環境のせいで、鍵盤の象牙があちこち反り返っているらしく、ひどいものは剥がれしまうという信じられないような現象が起こり、ときにそれ(象牙)が大きな音を立てて部屋の中をすっ飛んでいくのだそうで、ピアノの横にはそれらを拾い集めるお皿まであるとのこと。

スタインウェイ社に連絡をしても、もはや象牙パーツはないとのことで、古いピアノから調達してくるか、ダメな場合には最終的にプラスチックに甘んじるかということ。

ところが、スーザン女史がフランスで19世紀のプレイエルを使ったコンサートをすることになり、その際にずっと付き添ってくれた、古いピアノの修復などに詳しい技術者にこの事を相談したそうです。すると、その技術者曰く、象牙は温湿度の影響は受けにくいもので、原因は象牙ではなく、その下に隠れている木材が伸縮している!ということを知らされるのでした。

スーザン女史は、自分が大きな思い違いをしていたことに気付くのですが、そのピアノはというと、暖炉の側に置いてあるらしいことが書かれています。
なにぶん現場を見たわけではないので、断定的なことはなにも言えませんが、彼女ほど、良心的な演奏活動をこなし、文化人としての深い教養を持ち、コンクールの審査員の中でもひときわ静かな威厳をただよわせて、周囲からも一目おかれているという彼女をもってして、ことピアノの管理となるとこんなものかというのが驚きだったのです。

何枚もの象牙が我慢の限界に達して、音を立てて、空中を飛んで、剥がれ落ちてしまうほどまで、下の鍵盤の木材が盛大に伸縮をしている環境というのは、ピアノにとって、どう考えても尋常ではない状況だと思われます。

この話は、数ある器楽奏者の中でも、ピアニストほど自分の奏する楽器に対して無頓着、もしくは間接的な関心しか寄せていない、あるいは技術者任せの専門領域のような意識でいる人が、なんと潜在的に多いか!という証左のように思いました。
もちろんそうでない人もわずかにはいらっしゃるでしょうし、中にはピアノオタク的なピアニストもいるにはいますが、それはあくまでも「珍しい」ほうで、圧倒的にピアノに対して愛情不足という人が多いというのがマロニエ君の認識です。

しかも驚くべきは、このスーザン女史が、ピアノをただの道具のようにぞんざいに使うようなタイプの人物ではなく、路傍の花にも必ず温かな手を差し伸べるような深い愛情の持ち主ということがこの本を通読してわかるぶん、この章に書かれていることは、より衝撃的な驚きを伴って迫ってくるのでした。

2012/08/11 Sat. 03:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

音の3要素 

あるピアノ技術者の方からいただいたメールに、面白いことが書かれていました。

これは「マロニエ君の部屋」の実験室という拙文に関することなのですが、つまるところ、ピアノの音はハンマーの「形」と「硬さ」と「重量」でほとんど決まってしまうということでした。

これはなるほどそうだろうと、素人のマロニエ君も直感的に思いました。
ピアノは、自分で設計して一から製作でもしない限り、既存のピアノに自分なりの音色の変化を与えるには、(調律を別とすれば)行きつくところはハンマーしかなく、そのハンマーとはこの3要素の兼ね合いによって成り立っているわけです。

響板やボディが健康な状態なら、あとはせいぜい弦の違いでしょうが、これは古ければ定評のあるメーカーの製品に張り替えるだけですし、巻き線も名人の巻いたものを張るのがせいぜいで、技術者の感性や技によって音を作り出すというような余地はほとんどないと思われます。もし仮にあったにしても、それはハンマーの3要素ほど劇的なものではないのかもしれません。

ハンマーの形は主にダイヤモンド型、洋ナシ型、たまご型で、その形状からしておおよその音の方向性は察しがつくというものです。ベヒシュタインのボムというドイツ語の発生そのものみたいな音がたまご型ハンマーであるなどは、いかにもイメージそのままで嬉しくなってしまいます。

フェルトの硬さは製造時に硬く巻かれたものと、そうでないものがあるし、あとは技術者が作り出すクッションのさじ加減という、これこそ芸術的な領域によるものだと思われます。

そこへ、今回その重要性がマロニエ君にも痛感できた重量の問題が掛け合わせれてくるのでしょう。
これはハンマーヘッドそのものの重さとそれを支えるシャンクとの合計ですが、たとえ総量は同じでも各部の重さの配分によっても音は当然変わってくるはずです。

あとはハンマーのメーカー固有の個性とか、使用されるフェルトの素材そのものがもつ性質からくる違いもあると思いますし、シャンクのしなりの特性によっても変わるでしょう。

この技術者の方が教えてくださったのですが、アメリカにはデイビッド・スタンウッドさんという、ハンマーの重さとタッチや音色の関係を研究している技術者がいらっしゃるのだそうで、ホームページもあるようです。
(LINKページの「海外のピアノ関連サイト」に掲載済み)

アメリカ人でこういう領域のエキスパートがいるというのは、ちょっと意外な印象を持ちましたが、日本人も本来得意な分野のはずで、実は深いところまで突き進んでいる方がいろいろとおられるのではないかと思います。ただ、あまり表にはあらわれず、そこがまたいかにも日本的なのかもしれません。

2012/08/09 Thu. 02:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

聖トーマス教会合唱団2 

この合唱団の少年達は、むろん普通の勉学も課せられますが、しかしなんといっても歌が生活の中心にあり、音楽漬けの日々を送るようです。

日常的にバッハを練習し、毎週礼拝で演奏するというのが普段の流れだそうで、さらにあれこれの行事や海外への演奏旅行なども含まれます。
(バッハ以外の作品も歌うようですが、やはり大半はバッハ)
先生の話では、普通であれば一曲仕上げるのに半年もかかるカンタータを、聖トーマス教会合唱団の少年達はわずか一週間で仕上げなくてはならないのだそうで、そのハードさとレヴェルの高さは並大抵ではありません。

ちなみにバッハのカンタータは教会カンタータだけでも200曲近くあり、これだけでCDの60〜70枚に相当するほどで、カンタータ以外にもたくさんあるのですからとてつもない世界です。

このドキュメンタリーで紹介された南米各地の公演では、なんとバッハの合唱作品における最高傑作といわれるミサ曲ロ短調が演奏曲目でしたが、CDでも3枚にもなるこの大曲を荘重かつ活き活きと披露していたのは圧巻でした。
あんな少年達が当然のような顔をしてこんな大曲を歌い通すだけでも驚きですが、その指導をする先生がまた素晴らしく、あふれ出る音楽は気品に満ちて活気があり、聴く者に感銘を与えずにはおかない彼らの能力にはまったく脱帽でした。

クリスマスには当然ながらこれまた傑作の誉れ高いクリスマス・オラトリオが登場しますし、このドキュメンタリーの後には、今年4月におこなわれた聖トーマス教会での「マタイ受難曲」までやっています。
南米公演に選ばれなかったあどけない少年が、いろいろ質問された挙げ句に「僕は受難曲が好きです」などとごく普通に言うのですからたまりません。
彼らはバッハの膨大な作品と真髄に10代という最も多感な時期に深く触れて、魂の飛翔と超越をその身体に刻み込むのだろうと思うと、素晴らしい反面、なにか恐ろしいような気さえしてきました。

指揮者であり、トーマス・カントール(バッハもここで同じ職務を果たした)のゲオルク・クリストフ・ビラー先生は、自身も同合唱団の卒業生で、生徒達を忍耐強く献身的に指導していらっしゃいました。
音楽的な指導はもちろん、人としての心構えや演奏会での注意など、厳しさと愛情深さに裏打ちされたその教えは実に多岐にわたり、こういう偉大な先生と出会うことひとつをとっても、この合唱団に入って10年の歳月を過ごす価値があるというものでしょう。

このビラー先生というのが見るからにドイツの音楽家然とした風貌で、その面立ちは白いカツラを被せればそのままバッハになるようでしたし、じっさい彼の頭の中にはバッハの全作品が克明にインプットされているといった印象でした。
この合唱三昧の様子を見ていると、いかにバッハの音楽というものがポリフォニックな多声部の重なりによって成り立っているかということを、あらためて、新鮮に、認識させられたようでした。

2012/08/07 Tue. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

聖トーマス教会合唱団 

NHKのBSで放送されるプレミアムシアターは、音楽に関する興味深い映像を見ることのできる貴重な番組ですが、過日放映された「聖トーマス教会合唱団のドキュメンタリー~心と口と行(おこな)いと命~」は、とりわけ心に迫るものがありました。

バッハといえばライプツィヒ、ライプツィヒといえばバッハ。
ほかにもメンデルスゾーン、ブリュートナー、そしてゲヴァントハウス管弦楽団であり、バッハが音楽監督としてつとめ、彼の墓もそこにある聖トーマス教会といった連想をしてしまうほど、この地はバッハの音楽とその魂が地中深くまで染み込んでいるような印象です。

聖トーマス教会合唱団はなんと創立800年!!なのだそうで、そこに在籍する9~18歳の少年たちの寄宿生活と音楽への献身ぶりにカメラが入りました。

各地から集まった少年というよりは子供達の中から、厳しく選ばれた者だけがこの歴史的な合唱団への入団を許されますが、その栄誉と引き換えに、10歳になるかならぬかの若さで、住み慣れた我が家と両親に別れを告げて、この合唱団の仲間との生活に入らなくてはなりません。

ホームシックに耐えながら、彼らはトーマス校での勉学と歌の練習に明け暮れます。厳しい寄宿生活には楽しさもあるけれども、いわゆる個人のプライバシーとか自由といったものとはほとんど無縁で、厳しい集団生活のルールの中に組み入れられます。
新入生の直接の面倒を見るのは上級生の役割で、いろいろな指導から生活の世話をやく兄の役目まで、この合唱団のメンバーが第二の家族となり、寝食を共にしながら、バッハの音楽を中心とする厳格な音楽生活を送るのは驚きでした。

こんなに幼い少年の頃から寄宿生活を強いられ、同時に荘厳かつ豊饒なバッハの音楽の中に身を置いて10年間を過ごすというのは、人生経験として途方もないことだと思います。
もうそれだけで人々の尊敬を集める立派な音楽家であり、卒業間近の青年達は二十歳前というのに皆おだやかな大人のような眼差しをしており、高い人格教養まで身につけているようでした。
謹厳な先生達の面々、聖トーマス教会の圧倒的建築、周辺の威厳に満ちた街の景色、美しい、まるで絵のような森や植物など、とにかくあまりにもなにもかもが違っていて圧倒される他はありません。

どこがどうというような次元の話ではなく、そこにある空気、差し込む光、すべてのものが独特で、根底に流れる精神的価値がまったく違うのは、いわば世界が違うことでもあり、ドイツには今でもこういう部分があることに感嘆しました。
西洋音楽は、国境や地域を越えて広がった共通文化となりましたが、それでも、その地に生まれ育ったものでなくてはわからない機微や領域というものがあるのは確かだと思います。

唐突ですが、今回のオリンピックでは日本の男子柔道が史上初の金メダルなしという結果に終わったのだそうですが、その要因として、日本人は「一本」に拘るからという意見がありました。
でも、柔道のことなど何も知らないマロニエ君から見ても、柔道をするなら一本に拘るのは理屈抜きに当然だろうと思います。それが今後、もし、国際試合に勝つために、判定基準に合わせて、ちびちびと小技のポイントばかりを掻き集めていくような柔道になるとしたら、それは一気に柔道の本質的な精神と魅力を失うような気がします。

聖トーマス教会合唱団のバッハには、歴史の遺物をただ敬うだけではない、まさにその本質と魅力が今も受け継がれて脈々と流れているようでした。

2012/08/06 Mon. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

史上二位の炎暑 

過日はある方のお宅へ伺うことになっていましたが、あいにくこの日は福岡の観測史上に記されるほどの炎暑となり、午前中から気温はみるみる上昇、午後にはついに史上二位の37.5℃に達するほどの苛烈さでした。
ここまでくると、見慣れた景色もどことなく違ってくるようで、とりわけ目に映るものの色がぎらぎらと腐敗寸前のように生々しくざらついて見えるような暑さでした。

途中寄るところがあり、いったん車を置いて外に出ると、まるでフライパンの上に降り立ったようで、頭はボーッとするし、身体の動きも明らかに鈍くなる感じがしますね。
車に戻るって何気なく見たルームミラーに映る自分の顔が、短時間のうちに赤く火照っているのがはっきりわかりました。

以前にも思ったことですが、夏の中でも本当に猛烈に暑い日というのは、誰もができるだけ外出を控えるようで、意外にも道を走る車の数も普段より少な目でがらんとしていますし、我が家の周辺も昨日今日は普段にも増して深閑としているようです。

おそらくはその所為だと思われますが、目的地のお宅まで向かっているつもりが、いつもより車が少ないために予想したよりスイスイと進んでしまうし、そんなときに限っていつもは決まって赤信号になる交差点などでも、陽炎の立ちのぼる無人の青信号だったりして、それでまた車は先へ先へと進んでしまいます。

あまり早く着くのもどうかと思い、さらにゆっくり走りますが、こんなときは何をしても車が止まることがありません。急ぐときに限って渋滞にはまり、にっちもさっちも行かなくなるのとまるで正反対の状況ですが、往々にしてこういうものですね。


夕方、おいとまして車に戻り、走り出してしばらくするとなにやら目の前で物がドサッと落ちてきました。
あまりにも咄嗟のことで、何事か一瞬状況を呑み込めませんでしたが、オンダッシュのカーナビのスタンド部分がこの異常な暑さのせいで吸着力が弱まっているところへ車が動き出したらしく、赤信号が青に変わって発進したときの加速の勢いで、カーナビがいきなり手前側に倒れてきたのでした。

反射的に片手で抑えて完全落下こそ免れましたが、ひとりで運転中とあってはなす術もなく、とりあえず次の信号で停車するまでこのまま走るしかありません。片手にハンドル、もう片方には落ちかかったカーナビ、それを背中を浮かしながら運転している自分が滑稽でたまりません。
ところが、こんなときにも往きと同様で、一刻も早く止まって欲しいのに、信号は信じられないぐらい次々に青信号という皮肉の連鎖となり、可笑しさ半分、思わず叫び出したくなりました。

ようやく止まったのは、2キロほども先で、記憶では5つほどの青信号の交差点を不本意ながらスルーさせられた挙げ句のことで、そこでなんとか吸盤部分を付け直すことができました。

それにしても、今年の暑さは異常な気がします。
2012/08/04 Sat. 02:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

内村航平 

オリンピックもほとんど熱心に観ることのないマロニエ君ではありますが、唯一、体操の内村航平選手の演技だけは見たいものだと思っていたところ、昨日の夜中、「今やっている」と教えられてようやく途中からですが、ライブで見ることができました。
おまけに結果は金メダルですから文句なしです。

彼はひとことで云うなら「天才」だと思います。
むろん他のどの選手も、ここまでくるにはずば抜けた才能と努力があったのは云うまでもありませんが、内村選手には、そういったありきたりな要素ではとても収まりきれないものを以前から感じていました。

努力努力の積み重ねも尊いものですが、一観戦者として演技を見る場合、マロニエ君はなにか突き抜けた天才的なものに触れることに喜びを感じ、そこに非日常的な感銘と刺激を受けたいと思うわけです。

これは音楽であれ美術であれ、天才という、どうにもならない、常人が越えがたい領域に住むことを許された者だけが放つ、一種独特な輝きに魅せられるときの快楽みたいなものが身についているからかもしれません。

内村選手はその佇まいや、顔の表情からして他の選手とはまったく違ったものを感じます。
いつもどことなく伏し目がちで、一見無表情のように見えますが、それが却って彼独特の激しい内面の表れのようでもあり、燃えたぎる闘志の裏返しのようにも解釈してみたりします。
同時に彼のそこはかとない静けさのようなものが、天才特有の孤独性のようにも感じられる…。

スポーツ選手特有の汗くさい、動物的な、ぎらぎらした感じがあまりなく、いつも淡々と自分自身と向き合っているような気配も、並の選手には見られない特徴でしょう。

演技自体の専門的なことはまったくわかりませんが、素人目に感じることは、他の人と比較して動きが非常に軽やかで大きく、閃きがあり、ひとつひとつの動きの緻密さと全体の躍動が有機的に自然につながっていることでしょうか。
無理を重ねて苦しみ抜いている印象がなく、乗れば乗るほど演技が凄味を増し、むしろ解放へと向っていくところにも彼の尋常ではない天分を感じます。

今回はそれでも、オリンピックということもあってか、全体として慎重確実な演技でまとめる意志が働いていたようですが、いつだったか、国内での大会で見せた鉄棒の脅威的な迫力とスピードなどは、恐ろしいようなものがあり、その実力は底知れぬものがあるのでしょう。

彼こそ金メダルに相応しいとは思っていましたが、やはりオリンピックの本番というのはなにが起こるかわかりませんから、ともかくも、その通りの結果が出てホッとしているところです。

2012/08/03 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

節約リバウンド 

少し前の新聞に、「節約はダイエットと似ている」という内容の記事が掲載されていました。

それによると、長引く景気低迷で、どの家庭も何かしらの節約はしているだろうけれども、節約にはリバウンドというダイエットと同様の反動があるのだそうで、無理な節約を続けると「自分へのご褒美」などと言い訳して結局は無駄遣いするのが悪しき典型なんだそうです。

取材に応えた人物は『やってはいけない節約』という本を出版したフィナンシャルプランナー(?)の男性で、危ない節約として代表される4つパターンが表にして記載されていました。
要約して書くと、
(1)スーパーなどの買い物先のすべてのポイントカードをためる
(2)徹底的にクレジットカードのポイントをためる
(3)家族に節約を強要する
(4)雑誌等の節約術をうのみにして実践する

これらの節約で危ない理由は、
(1)ポイントはオマケと考えるべきで、もっと安い店で買うほうがお得
(2)カードはお金を使っている実感が稀薄で、しかるにポイント目的にカードを使うのは危険
(3)無理強いされた節約はストレスを生み、やがてリバウンドという大きな出費を招く
(4)節約に力を入れすぎて、仕事など本来大切な事がおそろかになったりと、本末転倒の事態が起こる

という事だそうです。
これに対して、当たり前のこととして粛々と行える「習慣化された節約」が最も効果があるのだそうですが、マロニエ君に言わせれば、これも個人差によるところが大きいような気がします。
節約などと口では簡単に言ってみても、行き着くところは個人の感性とか価値観、ひいては人生観が問題となってくるのであって、その意義の軽重には個人差があり、極端に云うとそういうことが好きで自然に身に付いている人と、そうでない人がいると思われます。

マロニエ君などはお金もないのに節約が苦手で困りますが、ときどき人格の中にまで節約精神が深く根をおろしているような人を見ると、とても驚くことがあるものです。
こういう人は、必要な節約というよりは、そもそも支出をする事自体が苦痛のようで、だから節約は半ば喜びでさえあり、ごく自然に楽に実践できるのに対して、不本意にやっている人は苦痛を伴うのですから、似たようなことをするにもストレスの量で大差がつくわけで、これもひとえに個人差だと思います。
そして、苦痛の人はリバウンドの恐怖が待ち受けているということでしょう。

思い出しましたが、かのJ.S.バッハは大変な吝嗇家(つまりケチ)で、収入には充分恵まれていたにもかかわらず、何事も節約で通したのだそうです。五線紙の使い方にもそれはあらわれているそうで、手書き稿を研究家が見ると、他の作曲家とは比較にならないほど音符もビチビチに詰めて書いているし、曲のおわりに余白ができると、そこへまったく別の曲の冒頭を書き込んだりしたのだそうです。

音楽の世界ではほとんど神にも等しいようなバッハですが、それが実際に生身の人間として存在し、勤勉で、節約家で、収入の額などに強い拘りがあり、子供が20人もいたなんて聞くと、なんとなくイメージがまとまらないものですね。
バッハとは対極に位置する浪費家タイプの大天才がモーツァルトだそうです。

2012/08/01 Wed. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit