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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

静けさの中から 

わりに最近出た本ですが、スーザン・トムズ著『静けさの中から〜ピアニストの四季』を読みました。

スーザン・トムズはイギリスのピアニストでありながら、すでに何冊かの本を出版するほどの文筆家としての顔も持っているようです。
女性として初めてケンブリッジ大学キングス・カレッジに学んだというインテリだそうで、またピアニストとしても極めて高い評価を得ているらしく、ソロのほか、フロレスタン・トリオのメンバーとしても多忙な演奏活動をおこなっているそうです。CDも室内楽などでかなりの数が出ているとのことですが、残念ながらマロニエ君はまだこの人のピアノを聴いたことはありません。

ピアニストにして文筆家といえば、日本では青柳いづみこさんをまっ先に思い出しますが、世の中には大変な能力の持ち主というのがいるもので、どちらかひとつでも通常なかなか出来ないことを、ふたつながら高い次元でやってのける人間がいるということが驚きです。

この本は、いわゆる随筆で、彼女が日々の生活や演奏旅行の折々に書きためられたものが本として出版されたものですが、その内容の面白いこと、強く共感すること、教えられることが満載で、大いに満足でしたが、もうひとつびっくりしたのが翻訳の素晴らしさでした。

訳者はなんとロンドン在住の日本人ピアニスト、小川典子さんで、彼女がこの本を読んでいたく感銘を受け、すぐに自分が翻訳をしたい!という気持ちになったといいます。
この衝動から、すぐにスーザン女史にその旨を申し出たのだそうで、めでたく諒解が得られ、日本語版の出版への運びとなり、やがてそれが書店に並んで、現在の我々の手に届くようになったということです。

ピアニストとしての小川典子さんはマロニエ君は実は良く知りません。CDも棚を探せばたしか1、2枚はあったと思いますし、リサイタルにも一度行きましたが、とくにどうというほどの印象はありませんでした。
しかし、この本の文章の素晴らしさに触れることで、こちらの側から小川さんの人並み外れた能力を見た気がしました。

なによりそこに綴られた日本語は、力まずして雄弁、適切な語彙、自然なリズムを伴いながら、どこにも不自然なところがないまま、もとが英語で書かれたものであることを忘れさせてしまうような、心地よい品位のある文章で、頗る快適に、楽しんで読み終えることだできました。

以前、このブログで、技術系の専門書で、愚直すぎて読みにくい翻訳文のことを書いたことがありましたが、まさしくそれとは正反対にある、活き活きとした流れるような日本語での訳文に触れることができたのは、望外の驚きでした。
小川さんによる巻末のあとがきによれば、彼女の翻訳作業には、もうひとり春秋社のプロによる編集の手を経ていたのだそうで、やはりそれだけの手間暇をかけなくては本当に淀みのない美しい文章は生まれないということを痛感しました。
もちろん原文を綴ったスーザン・トムズ女史のずば抜けた頭脳と感性、小川さんの広い意味での語学力があってのことではありますが、さらに編集によって丁寧に磨かれることで、ようやくこの本ができあがったのだということをしみじみと思うのです。

あたかも、ピアノが優秀な技術者の手をかけられればかけられるだけ素晴らしくなっていくように。

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2012/07/31 Tue. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

氷ドロボウ 

ちょっとした事情と流れから、福岡市の郊外にあるスーパーで買い物をして帰ることになりました。

自宅まではやや距離があり、この季節なので、レジを通ったあとサービスで備え付けられている氷をビニール袋に入れようと製氷器の前に行くと、そこには身をかがめて氷を袋にせっせと詰めている男性がいました。
中年のごくごく普通の、いたって善良な感じの男性です。

繰り返しスコップを氷に差し込んでは、かなりの量を袋に詰め込んでいるようで、ちょっと違和感がありましたがやがて終わったので、その後に続いてマロニエ君も氷を袋に入れますが、買ったものが傷まないための保冷が目的ですから、その量もたかがしれています。

適当に入れ終わって、製氷器の扉を閉めようとすると、さっきの男性が近づいてきて「あ、いいですよ。」と言うので、なにかと思ったら、またさっきと同じように氷をザクザク取り始めました。

マロニエ君はすぐ脇のテーブルで買ったモノを持参した袋に入れていると、その男性は目の前に戻ってきて、同じテーブルに置かれた発砲スチロールの大きな箱の中へビニール袋へ詰めた氷を入れていますが、なんとその中にはズラリと同じ状態の氷ばかりが入っています。そして、またもピッと袋を一枚とって製氷器の前に戻り、繰り返し氷を袋へせっせと掻き込んでいます。

その製氷器の上には特大サイズの警告の紙が何枚も貼られていて、「クーラーボックスなどで氷を持ち帰らないように」といった類の注意書きが嫌でも目に入るよう大書してあるのですが、その男性の態度はまったくそんなことは意に介する風でもなく、むしろ淡々とした調子で、氷を袋に詰めて上部を縛っては箱の中へとどんどん投入していきます。

しかもその男性の周辺には、ここで買い物をしたらしい形跡はなにひとつなく、来店したのは氷を持ち去る事だけが目的というのがしだいに明らかになってきました。
こういう不逞の輩がいるから店のほうでも困ってこんな派手な貼り紙をしているのだと思いますが、そんなことはまるで知ったことではないという態度で、ひたすら氷を発砲スチロールの箱の中へ移す作業だけが続きます。

やがてその箱は蓋が閉まらないほどの氷であふれ、もはやこれで終わりと思いきや、今度は目の前の閉鎖中のレジに悠然と向かい、そこに置かれている店名が印刷されたレジ袋の大きいのをサッと取ってきて、今度はそっちにビニール袋入りの氷を入れ始めました。

その態度たるや、なんの悪びれたところもなく、製氷器の前ではときどき他のお客さんに「どうぞ」などとわざとらしく身をよけて順番をゆずったりしながら、あくまで悠然と氷の盗み出し作業に専念しており、その慣れた感じからしても、到底これが初めてではない常習犯であろうと思われました。

店の氷を大量に盗んでいることに加えて、そのナメたようなふてぶてしい態度に、すでにこちらの心中は穏やかであろうはずもなく、気分は不快感でムカムカしてくる始末です。
…とはいうものの、今どき本人に直接注意する勇気もないし、いきなり逆ギレされちゃ敵いません。

しかし、このまま捨て置くのも業腹なので、店を出るとき、レジの店員さんに「氷泥棒がいますよ、ものすごい量を今持ち去ろうとしていますよ。」と伝えました。
店員さんは目が点になって、ひとこと「ありがとうございます…」といったきりマロニエ君は店を出ました。その店員さんはすぐにレジを離れて動き始めたようでしたが、さてそのあとどうなったかまでは見届けませんでした。

それにしても、あんなに大量の氷を盗んでいったい何にするのだろうと思いましたが、おそらくはこれから釣りにでも行くのだろうとしか思えませんでした。
そこは海がわりに近いのです。

2012/07/29 Sun. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

行ってみたい! 

いまや中国は世界最大のピアノ生産国であるばかりでなく、ピアノを習う子供の数も桁違いに多く、それは必然的に世界最大のピアニスト生産国ということになるのかもしれません。

ラン・ラン、ユジャ・ワン、ニュウニュウ、ユンディ・リなどはみな逞しいメカニックの持ち主で、ここ当分は、この国からスターピアニストが登場してくる状況が続くのだろうと思われます。
現在の学習者の数は、一説には2000万人とも3000万人とも言われますので、それはもう途方もない数であることに間違いなく、世界中の権威あるコンクールには中国人が大挙して参加してくるのは当然の成り行きなのでしょうね。

かたや欧米ではピアノを幼時より始めて音楽家を目指すという流れが、ここ20年ぐらいでずいぶん変わったと聞いています。まず根底には欧米における若者のクラシック離れの風潮に歯止めがかからず、多くの若者はより実利的になってステージから客席へと移動してしまったと言われます。
つまり音楽を演奏する側から、観賞する側に、自分達の居場所を変えてしまったというわけでしょう。

それに変わって台頭したのがアジア勢で、いまや中国を筆頭に韓国なども、次から次へと傑出した才能を世界のステージへ送り出しているようです。

そんな中国ですから、当然ながら大都市では楽器フェアだのピアノフェアだのといった見本市の類が開かれているようで、しかもそこは中国のやることですから、その規模も大きなものであるらしく、マロニエ君もいつかは一度行ってみたいものだと思っているところです。

そんな中国のピアノフェアですが、最近ネットで偶然にもその様子を捉えた写真を見かけたのですが、それはやはり期待にたがわぬ驚愕の光景でした。
まずピアノは黒というような、固定したイメージのある日本とは真逆の世界がそこにはあり、無数に並べられたあれこれのピアノはアップライトもグランドも、まるで遊園地かおもちゃ売り場の商品のようにカラフルな原色であるばかりでなく、それぞれのピアノには、奇抜などという言葉では足りないほどの、度肝を抜くアイデアや様々な趣向が凝らされ、あらんかぎりの装飾の数々が散りばめられていたりします。

少し前にヨーロッパのツートンのピアノのことを書きましたが、ここにあるのはそんな生易しいものではありません。
赤、青、黄などの原色に塗って模様があるぐらいは当たり前、グランドピアノ全身が陶器の絵柄のようなもので埋め尽くされていたり、全身ヒョウ柄のピアノだったり、極め付きはさすがに展示用とは思いますが、UFOらしき物体の一部がくり抜かれてそこに鍵盤がついていたり、ロケットかスペースシャトルのような形のグランドピアノで後ろのエンジンの部分がかろうじて鍵盤になっているなど、その発想は日本人が逆立ちしてもできないものばかりで、その底抜けな無邪気さにはただもう楽しんで笑うしかなく、世界中でこんなおもしろピアノフェアが見られるのは中国をおいて他ではまず絶対ないでしょう。

中国といえば、いうまでもなく日本の隣国で、漢字や仏教なども中国から伝わったものであるし、だいいち同じ東洋人ということで、肌の色から顔立ちなども近似していますから、つい東洋という共通点があるように思いがちですが、マロニエ君に言わせれば、かの民族は最も日本人とはかけ離れた、欧米よりもさらに遠いところにあっても不思議ではないほどの異国のそれであり、とくにそのメンタリティは悉く我々とは根本から違ったものを持っているようです。

その最たるもののひとつは美意識に関するジャンルで、これはもう我々にはまったく理解の及ばない世界があり、美術の世界などでも、彼らの作り出すものには何度腰を抜かすほど驚いたかわかりません。

いつの日か、機会があれば恐いもの見たさに、ぜひ覗いてみたいものです。

2012/07/28 Sat. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

梅雨のおきみやげ 

ようやく梅雨が明けたのはいいのですが、我が家の庭には、今年の梅雨の途中からたいそう不気味なものが現れています。

はじめてそれを見たときは、朝方から激しく降り続く雨でうっすらとぼやけた視界の向こうに、いやに生々しい白っぽい物体が浮かび上がっているようで、目の錯覚かと思いつつゾッとしたものです。

以前、お隣との境界線近くにわりに大きな木があったのですが、どうしたわけかその木は隣家の敷地へばかり枝を伸ばし、落ち葉はもちろんのこと、これ以上成長しては隣家に多大な迷惑がかかるために、やむを得ず引き抜いてしまうことになりました。

とはいって胴回りが1m以上はありそうな木だったため到底素人で手に負えるものではなく、植木屋さんを呼んでその旨を伝えました。ところが、これぐらいの木になると地中にも相当強い根が張っていて、専門家をもってしても簡単に引き抜くなどできわけがないと、当方の無知を薄笑いされるほど。どうしてもやるというのなら重機などを使った相当大がかりな作業になるといわれました。

しかし、まるでお隣の敷地に寄りかかるごとく盛大に太い枝々を伸ばしている状態をこれ以上放置するわけにもいかず、引き抜くのは無理だから、そういう事情なら切ってしまうこと勧められ、やむを得ずそうすることになりました。

果たして植木屋さんが切ったのは(いまだにその理由はわかりませんが)、地面から1メートルぐらいの部分で、おかげでその後は太い切り株というよりは、もっと背の高い、奇妙な太い木のオブジェみたいな恰好で我が家の庭の隅に居残ることになりました。

それから数年間というのはとくにこれという変化はなく、ときどきあらぬ方向から新芽が出てくるので、まだ生きているらしいとは思いつつ、そんな新芽をそのままにしていると、気がついたときにはまた手遅れになることになるので、早め切ってしまいます。

この切断された太い木は、目立たない普通の木の色をしていましたが、今年の梅雨も半ばに差しかかった頃、ある朝、気がつくとハッとするほど白くなっていて、それもちょっとやそっとの変化ではなく、まるで人の手で色をかけたようなあからさまな白色に変わっています。

まずは、ただ驚き、とっさに何かこの長雨のせいだろうと推量しましたが、なんとなく近づくのも薄気味悪いのでうっちゃっていましたが、数日後やはり気になり、思い切って傍まで見に行ってみることにしました。
近づくにつれて、それは想像以上の不気味な様子に変化していることがはっきりしてきて、思わず肌が粟粒立ちました。

全体にびっしりと分厚くて白いスポンジのような物体が覆い被さり、嫌だったけれど、おそるおそる指先で押すとかすかな弾力がありました。
きっと変な種類のキノコかカビか、とにかく今年の厳しい梅雨がもたらした熱帯雨林みたいな環境のせいで、そんなようなものがこの背の高い切り株を覆いつくしてしまったのだろうと直感しました。

こんなもの、どうしたらいいものか…何ひとつ対策も考えも浮かばず、仕方なくそのままにしていますが、部屋の窓から見ると、梅雨の明けた強い陽射しの下に、まるで巨大な怪物の骨がゴロンと庭の向こうに置かれているようです。

2012/07/27 Fri. 01:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

速読はエライ? 

週末の昼間だったか、なにげなくテレビをつけてみると、ある女優さんが数人のアナウンサーらしき人達に囲まれて話をするというスタイルの番組をやっていました。

すると、同じドラマで共演する別の女優さんからメッセージのような映像が流され、そこで「○○さんは雑学にとても詳しくて撮影の合間などにいつもいろいろ教えていただいてます」というようなことが語られました。

それがきっかけとなって、スタジオではこの女優さんは雑学知識が豊富だということに話題が転じて、実は大変な読書家だということが視聴者に紹介されました。
読書家というのは大変結構なことで、今どき感心な人だなぁとはじめは思いました。

そもそも読書家になったきっかけというのが、優秀なきょうだいの末っ子であったらしい彼女は、少しでもなにかの知識を披瀝することで自分を主張し、いわば出来の良いきょうだいをやっつけるために、知識の情報源としてあれこれの本を読み出したのだそうです。

ちょっと変な動機だなとは思いましたが、それは子供の時分のことではあるし、たとえどのようなきっかけからであろうと、本をよく読むようになるというのは素晴らしいことだと、この時点ではまだマロニエ君は好意的に捉えていました。

ところが、だんだん話は思わぬ方向へ向かい始めます。
この女優さんは大人になってからも読書家であることは変わらず、司会者の手許には事前の情報があるのか、今でも相当お読みになるんでしょう?というようなことを話しかけながら、童話に至るまでのあれこれの本をひと月に200冊ぐらい読まれるそうですね、というと、なんとなくその場にどよめきが起こりました。

その女優さんは、謙虚そうに「いえいえ、今は忙しいのでそこまでは…」といいつつも、大筋は否定せず、時間さえあればそれぐらいのペースで読めますよということを暗に匂わせました。
すると、その場にいた数名はいかにも感心した態度を露わにし、かたわらにいた女性が話を引き取って「だいたい、読書家の人って、読むのが早いんですよねぇ…」と、本は早く、たくさん読むことが価値であるかのように、この女優さんの速読の能力を褒めちぎりました。

以前にも、別の番組でこちらは男性のコメンテイターでしたが、やはり一日に本を4、5冊ぐらい読んでいるというようなことをさも誇らしげに言っていたのを思い出しますし、書店に行くと速読ができるようになるためのHow to本が何冊も集められているコーナーを見た覚えもあります。

でも、マロニエ君から見ると、本を読むのに速読なんて基本的な読書の姿勢として価値があるとは到底思えません。現代人は何をするにも忙しくて、時間がなくて、本を読むにもスピードが必要ということなのか、理由はどうだかしりませんが、本を読むのさえそんなに急がなくてはいけないものかと思います。

とりわけ文学書を速読なんぞしようものなら、その人の教養さえも疑いたくなります。
作家の書いた文章をゆっくりと味わい、しばしその世界に身を委ねることがマロニエ君にとっての読書です。
いってみれば、本は読みたいから読むのであって、その結果として言葉や、知識や、思想や、その他の文化意識が身に付いてくるものだと思っていましたが、はじめから情報収集のために目的を絞って速読でむやみにあれこれの本を読み漁って、それで私は読書家でございますと言われても、それはまったく別の次元の話のようにしか聞こえません。

それでも、今どきは、こういう人が一般的には有能な勉強家ということになるのかもしれませんが、なんとなく寂しい気がします。

2012/07/25 Wed. 01:06 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホジャイノフ 

ロシアの若手ピアニスト、ニコライ・ホジャイノフのリサイタルがBSで放映され、やっとその録画を見ました。

今年の4月19日に行われた日本公演の様子で、会場は武蔵野市民文化会館小ホール。
曲目はプロコフィエフのソナタ第7番、ショパンのバラード第2番、シューベルト幻想曲さすらい人で、初めのプロコフィエフの演奏が始まってすぐに、これはなにかありそうだと直感しました。

全体に実のある、流れの美しい演奏で、戦争ソナタでさえも非常に澄んだ叙情性を保ちながらこの暗いソナタの内奥に迫りました。全体的に3つの楽章が自然と繋がっているような演奏で、プロコフィエフの蔭のある香りのようなものが、叩きつけるような攻撃的な表現でなしに、気負わず自然に(しかも濃密に)描き出してみせるその手腕は若いのに大したものだと思いました。

さすらい人でも詩情が豊かで、衒いのない、自然に逆らわない流れが印象的でした。しかも繊細さや作品の意味などをわざと誇張してみせるようなことはせずに、攻めるべきところはどんどん攻めながら果敢に弾いているのですが、その合間からシューベルトの作品が持つ悲しみがひしひしと伝わってくるのは見事だったと思います。

彼はまだ20歳で、モスクワの学生とのことですが、すでにはっきりとした自己を持っており、単なる訓練の成果をステージ上で再現しているのではなく、音楽の内側にあるものを自分の知性と感性を通して表現しているピアニストでした。
テクニックなども立派なものですが、いかなる場合も音楽上の都合と意味が最優先され、そのために僅かなミスをすることもありますが、ひたすらキズのないだけの無機質で説明的な演奏ばかり聴かされることの多いなかで、ホジャイノフの内的な裏付けのある演奏を聴いていると、そんなことはほとんど問題ではなく、純粋にこの人の演奏を聴く喜びが味わえたように思いました。

唯一残念だったのは、真ん中で弾いたショパンで、これだけは評価がぐんと下がりました。
合間のインタビューでは、バラードの2番が持つ静寂と激しさのコントラストが好きだというようなことを言っていましたが、それを表現しようとしているのはわかるものの、作品とのピントが合っているとは言い難く、このバラードの本来の姿があまり聞こえてこなかったのが残念でした。他の作品であれだけ見事な演奏をしているわけですから、おそらく彼の資質とショパンの音楽がうまく噛み合わないだけかもしれません。

ショパンの作品は本当にたくさんの人が弾きますが、実際にショパンと相性のいいピアニストというのは滅多にいないことがまたも証明されてしまったようでした。ショパンは演奏者の多様な個性に対してあまり寛容ではありませんから、そこにちょっとでも齟齬があると作品が拒絶反応をしてしまうようです。

このホジャイノフは、2年前のショパンコンクールでファイナルまで進みながら、入賞できなかったのですが、それはこのバラードひとつを聴いてもわかるような気がしました。
どんなに優れた演奏家にも作品との相性というものがあり、彼は今のままでも十二分に素晴らしい演奏家だと思いますし、ピアノのレパートリーは膨大ですから、今後が非常に楽しみな逸材だと思いました。

ピアノはヤマハのCFXでしたが、印象はこれまでしばしば述べてきたことと変わりはありませんので、とりあえずおなじことを繰り返すのは控えますが、陰翳が無く不満が残ります。
ただし、シューベルトのような曲では、このピアノの良い部分がでるように思います。

2012/07/24 Tue. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

都市高速環状線 

福岡都市高速道路の環状線がついに全線開通しました。

とはいうものの、これまで福重JCTの繋ぎのところで一部未開通部分が残っているだけでしたから、今回開通したのはわずか1kmにも満たない区間に過ぎません。
それでも、これまではいったん下の道に降りて、すぐ先のランプへ再び入るという乗り継ぎをしなくてはならなかったことを思うと、そんな必要が一切なくなり、これをもって環状線としてきれいに完成したわけで、ずいぶん長かった工事期間を思うとやれやれという感じです。

なにも開通の当日早々、勇んで走る必要もなかったのですが、ちょうど休みで友人と行ってみることになり、夕食後とりあえず外回りを走ってみました。

日本の都市高速道路で環状線があるのは首都高速都心、阪神高速1号、名古屋高速都心に次いで福岡都市高速が4番目とのことですが、内回り外回り、いずれの方向へも走行が可能な環状線ということでは首都高速に次いで全国2番目とのことです。

新しく開通した区間を通るとき、おや?と思ったのは、これまでの福重ランプの降り口のすぐ先に福重JCTが続き、いきなり道が3つに枝分かれするようで紛らわしいことと、さらにはJCTの構造が進行方向に対して左に向かう西九州自動車道へ連なるルートが右の車線で、ほんらいそれよりも右方向に向かうべき天神方面が左の車線によって左右に分かれるということでした。

一度覚えてしまえばいいのかもしれませんが、実際の方角と、自分が進むべき車線の左右の関係がまったく逆というのは、人間の自然の感覚に反することで、これではとっさに間違ってしまうドライバーがいるのではと思われていささか心配になります。直前に気付いて急な車線変更でもしようものなら事故の危険もあり、これはぱっと見た感じは納得のいかない造りではありますが、おそらくいろいろな事情が絡んでこのような構造になったのだろうと思います。

さて、その環状線ですが、首都高速のそれが14.8kmなのに対して、福岡都市高速では35kmと首都高の優に2倍以上という長さになります。
新聞によるとJR山手線が一周ちょうど35kmでほぼこれに匹敵しますが、ひとまわりするのに何分かかるか時計を見ていると、夜で流れがよかったせいもあってか、快調に走って約25分ほどでひとまわりできました。

ただし、言葉では「環状線」と云うものの、途中通過する千鳥橋JCT、月隈JCTでは別方向へ向かうルートのほうが本線の扱いとなっており、環状線へ進むには特に意識してそちらへ積極的に枝分かれしながら走行しなくてはならず、首尾良く走るには安閑とはしていられないという印象を持ちました。

ループ橋を越えたあたりで気付いたのですが、昨夜は夜だというのに博多港には例の超大型客船が入港・停泊しており、船からこぼれ落ちる眩いばかりの無数の光にあふれたその一場面は、周辺の景色まで違って見えるようで、まさにゴージャスな映画のワンシーンを彷彿とさせるようでした。

マロニエ君は特にそういう趣味はありませんが、この景色はさすがに圧倒的で、好きな人にはきっと感に堪えないものがあるだろうと思われます。
だからというわけでもないのでしょうが、昨夜はとりわけ他県ナンバーの車が多く目につきました。

2012/07/22 Sun. 02:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

湿度計の針 

昨日はいつにも増して暑苦しい、ムシムシした不快な一日でした。

もともとピアノの為以前に、自分自身が温湿度にめっぽう弱いマロニエ君ですが、今年の厳しい梅雨のお陰で、自分自身が歩く湿度計になったように湿気を肌で感じるようになりました。

部屋に入るなり、現在の湿度がどれくらいか、およその見当がつくようになり、湿度計で確かめるとそれほど外れてもいません。

この蒸し暑いのに用事があって、夕刻天神に出たのですが、その不快感ときたら、最近よく耳にする言葉でいうなら「これまでに経験したことのないような」ものでした。
とりわけ猛烈だったのは湿度の高さで、小雨が降ったり止んだりと、こういうお天気は一定した雨天よりもよほどムシムシするところへ、人の往来で混み合う天神の雑踏の熱気とコンクリートの風通しの悪さが加わると、そこはまったく熱帯ジャングルのようでした。

むしろ外のほうがいくらかまだマシなぐらいで、天神のあちらこちらでは時節柄、節電も実施されているようで、その環境の厳しさは自分の体がおかしくなったのか…と思うほどでした。
場所やエリアによってはエアコンの効いているところと、そうでない部分とが入り交じってまだら状態になっており、ただ歩いているだけでも身体の調節機能もぐらぐらに狂ってしまいそうでした。

早めに用事を済ませてなんとか車に戻り、エンジンをかけると天国のようで、ようやく生き返りました。

帰宅して、ものは試しにピアノの上にある湿度計を外に出してみると、5分もしないうちにたちまち70%を突破しました。
普段そんなところを指したことのない我が家の湿度計に、急激にそんな環境の変化をあたえて壊れてしまわないかという気がしてきて心配になり、早々に屋内へ戻しました。
すると、部屋に戻るなり、湿度計の針はみるみる下がってもとの定位置へ戻ろうとします。

湿度計の反応はよほど遅いものと思い込んでいたところ、状況次第ではこんなにも動きが早いとは予想もしなかったことで、その針の動くのを肉眼で見たのは生まれて初めてのことでした。

2012/07/20 Fri. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

light 

少し前にこのホームページの「マロニエ君の部屋」にタイムドメインのYoshii9というスピーカーの事を書きましたが、さすがにすぐに購入という価格でもないので、ひとまず小型で安い、同社の「light」というスピーカーを買い求めました。

マロニエ君の自宅には、普通のステレオ装置はあるものの、夜間など落ち着いて音楽を聴く時間の大半は自室のほうで、そこでは小型のヤマハのCDコンポを使っています。
とくに自慢するような高級機ではありませんが、まったくの安物でもなく、オーディオに興味のないマロニエ君にとっては狭い自室で聴くにはこれで充分だと(今でも)思っています。

しかしYoshii9の純粋でやわらかな美音を耳にしてからというもの、少しでもその手の音に触れてみたいという気持ちがあるのも事実で、それがlightではあまりに格が違うとは思いつつも、ものは試しという気分も手伝って購入にいたりました。

タイムドメインのスピーカーに詳しい調律師さんの談によると、同社のスピーカーを楽しむにはCDのプレーヤーなどは安い簡素なものでいい(というか、安物のほうがいい)とのことなので、量販店に行って3千円もしない中国製のポータブルプレーヤーを買ってきて、さっそくこれに繋げました。

lightは全体が白で形も可愛らしく、どことなくアップルの製品のような品のよさと存在感があります。
スピーカーコーンそのものの直径は4cmにも満たない超ミニサイズで、箱から取り出した感じでは、ほんとうにこんなもので聞くに堪える音が出るものだろうかと思ってしまうほどですが、果たしてそこからなんとも可憐な美音がでてくるところが不思議です。

さすがにヤマハのCDコンポに較べるとパワーはなく、ボリュームを大きくするとたちまち音が割れてしまうところなどが残念ですが、このスピーカーに無理のない、やや絞った音で聴いてみると、Yoshii9に通じる(気がするような)音が立体的に立ち現れるのはさすがです。

とりわけ良い意味での生の音がして、演奏者がドラえもんのライトで10分の1ぐらいに縮小されて、近くで演奏しているような気分が味わえるのはこのスピーカーの一番の魅力だろうと思います。
このスピーカーにはアンプも内蔵されているので、なんにでも繋げて手軽に楽しめるのはなかなか便利で、いろいろな可能性があるように思います。

便利なのはいいのですが、マロニエ君には困ったことも起こりました。
当然パソコンに繋ぐこともできるわけで、そうするとiTunesの音源はもちろん、広大な海のごときYouTubeをこのタイムドメインのスピーカーで聴けるようになったのは甚だ困りました。

それからというもの、ひとたび見始めると際限のないYouTubeの魅力が倍増し、真夜中に、たちまち2〜3時間が過ぎ去ってしまうのは新たな悩みの種になりました。
アル中の人が悪いとわかっていながら、あと一杯…あと一杯…と繰り返すように、もう一曲…もう一曲…と深みにはまってしまい、本当に止めてトイレに立とうとすると身体がまるで硬直していて、あちこちの骨がきしむような目に何度も遭いました。

さすがにこれはまずいと思い、できるだけ自重して、これまで通りにコンポでCDを聴くなどしていますが、休日前の夜などはつい誘惑に駆られて始めてしまうと、やはりどんなに短くても2時間はパソコンの前にまんじりともせずに身体を固定することになり、これはどう考えても不健康だと思わずにはいられません。

美しい音が心を慰めるのか、はたまた健康を害するのか、目下わからなくなっている状態です。

2012/07/19 Thu. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノフェスタ 

博多駅のJR九州ホールで開催されるようになった島村楽器のピアノフェスタが今年も3連休に合わせておこなわれ、覗きに行きました。

マロニエ君が行ったのは3日間ある開催期間中の最終日で、この日はザウターピアノの6代目社長ウルリッヒ・ザウター氏による同社の紹介と、ザウターピアノを使った島村楽器のインストラクターによる演奏も聞くことができました。

入口からロビーにかけては電子ピアノの数々、さらにホール内部にはアコースティックピアノが数多く展示されていましたが、最終日の夕刻ということもあってか売約済みのピアノもちらほら目に止まりました。

昨年と違っていたのは、とりわけ輸入物のグランドピアノが数多く並べられているエリアでは、若干の「厳戒態勢」が採られ、ピアノのまわりには物々しい赤い布のテープが張り巡らされて、容易にはピアノへ近づけないように配慮されている点でした。
これらのピアノを見ようとすれば、たとえそれが目の前にあっても、いちいち赤いテープの途切れる地点まで回って、そこから「入場」しなくてはならず、ちょっと煩わしいという印象。

さらにはいずれのピアノにも「試弾ご希望の方は係員に…」という札が鍵盤の上に立てられており、ちょっと音を出してみるのも厳重に管理されている雰囲気でした。

わずかな音出しでも係員に断りを入れなければいけないというのも面倒臭いので、マロニエ君は忽ちどうでもいいような気になりましたが、同行者もあるし、わざわざ駐車場に車を止めて、休日でごった返す苦手な駅の人混みの中を掻き分け掻き分けした挙げ句にやっとここまで辿り着いたのだから、その労苦に対してもやはりちょっとぐらいは音のひとつも聞いてみなくては、なんのためにやって来たのかわかりません。
やむを得ず、近くに立っている係員に許しを請うと、はるか向こうで弾いている人が一人いることを理由に「もうしばらくお待ちください」と制される始末。

こんなにも、どれもこれもが「触れられないピアノフェスタ」というのも、なにやら諒解しがたいものがありましたが、かくいうマロニエ君も覗きに来ただけなので、べつに何か困るわけでもなく、それならばそれで構いません。

ところがその後で状況は一転することになります。
夕刻の1時間、ウルリッヒ・ザウター氏のお話と演奏によるイベントが終了した後は、社長自らステージ上にあるザウターピアノを「みなさん、お時間の許すかぎり、どうぞ弾いてください!」という試弾おすすめの言葉があり、それがきっかけとなって、その場に居合わせた多くの人々は、以降ピアノに自由に触れて歩く許可を得たかたちとなりました。

するとザウターピアノに留まらず、会場にあるピアノが弾かれはじめ、次第に騒然とした雰囲気に変わりました。
さも厳重な感じに張り巡らされていた仕切りの赤いテープも、この時点ですっかりその意味を失って、とくにベヒシュタインやスタインウェイが居並ぶエリアでは、入れ替わり立ち替わり腕に自信のあるらしいピアノ弾きの人達の自由演奏会のような光景と化してしまったのはびっくりでした。

何人もの人が難易度の高い曲をずいぶん熱心に弾いていらっしゃいますが、隣り合わせにズラリと並べられた何台ものピアノがそれぞれの弾き手によって、同時にまったく違う曲を弾かれているカオスが延々と続き、あれでは自分が弾いているピアノの音色や響き具合などわかるはずもありません。

このときに至って、ようやく厳かなる赤いテープの意味が少し理解できた気がしました。
ピアノの展示会では「無礼講」になったが最後、それはもう収拾のつかない状況が繰り広げられてしまい、限られた時間の中で本当に購入を検討する人は、到底その目的が達せられないだろうと思います。

そのあたりのお店の判断も難しいところでしょう。

2012/07/18 Wed. 01:50 | trackback: 0 | comment: 0edit

強力な助っ人 

昨日あたりからようやく少し晴れ間が覗くようになったものの、今年の梅雨が、こんなにも長くて重苦しいものとは想像もしていませんでした。

梅雨の入口あたりから酷使されていた我が家の除湿器ですが、購入後わずか数年にして明確な故障ではないものの、いまひとつ除湿能力に翳りが出てきたように感じていました。

これは以前にも少し書きましたが、これを故障であるかどうかの診断を仰ぎ、もし故障の場合は修理をするとなると、本体をメーカーへ送るなど、その手間暇と時間、さらにはコストを考えるならとてもそんなことを実行する気にはなれず、思い悩んだ末に新しい除湿器を購入しました。

これまでのものよりより除湿力の高い機種を選ぶことで、少しでもその能力に余裕を持たせたいという目論見もありましたし、そのほうがトータルでは得策だろうと判断しました。

マロニエ君はCDなどを購入するときは、巷の評判など人の言うことはまず信じませんが、こと家電製品などを選ぶ場合は一転してネット上のユーザーの評価などを大いに参考させてもらっています。
とくにサイトによっては機種毎の評価や口コミなどが事細かに寄せられており、しかもこういう場所には普通のユーザーからやたら詳しいマニアックな人まで、いろんな人達がたくさんいて、いいことしか書かないメーカーのホームページよりも格段に頼りになるという印象です。

そこでは、さまざまな評価をもとにしながら、これだと思える機種を絞り込むことができるだけでなく、購入の意志が固まれば、そのまま一般の電気店で買うよりかなり安く購入できる点も併せて便利でありがたいところです。

注文すると数日で届き、さっそく使っていますが、これまでの除湿器が本調子ではなかったということもあってか、まったく次元の違う除湿能力にはすっかり満足していると同時に、今年の厳しい梅雨の途中で、この強力な助っ人があらわれたことは本当に幸いでした。

やはり家電製品などは、全般的に新しいもののほうが効率が良く、性能にも余裕があるような気がしますが、確かなことはわかりませんし、耐久性という点に於いては疑問もあるかもしれません。先代ではほとんど休みなく回りっぱなしでかろうじて40%後半を維持していたのが、新機種では、油断すると湿度計の針が30%台になることもあって、ときどきOFFにしたりしていますから、やはり潜在力が違うようです。

この除湿器が稼働しはじめてからほどなくして、北部九州は各地で被害が出るほどの猛烈な雨に見舞われることになり、当然のように家全体、街中全体がジメジメしたジャングルのようで、連日の分厚い雨と高湿な空気に包まれ続けています。しかもそれがとてつもなく長期間にわたっているところが今年の梅雨の厳しさだったように感じますし、未だ終わったわけでもありません。

マロニエ君としては他のことはさておくとしても、ピアノだけはなんとか湿度から保護したいわけで、今年の手強い梅雨を相手になんとかそれができているのは、ひとえにこの新しい除湿器のお陰であって、買って正解だったとしみじみ思っているところです。

2012/07/16 Mon. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

遊びごころ? 

最近、新しいピアノが入荷した旨、あるピアノ店から写真付きメールをいただきましたが、そこには荷を解かれたばかりのヨーロッパ製の美しいグランドピアノが写っていました。

以前、マロニエ君もちょっと触らせていただいて好印象を得ていたメーカーのピアノで、より大型のものが入荷してきたようでした。以前のものよりもよりやわらかな音がするとのことです。

今回のピアノの特徴は、その外装の仕上げでした。
黒と木目(赤っぽいブビンガ)のツートンで、木目は主に内側に貼られており、大屋根の内側、ボディ垂直面の内側、譜面台、鍵盤蓋の内側などが派手な木目になっています。

このスタイルはヨーロッパのピアノではときおり目にするものですが、国産ピアノでは一度も見たことがありません。もともと日本人はピアノといえば厳かな黒というイメージがあることに加えて、木目仕様では安くもない追加料金も発生することもあってか、それほど人気があるようには思えません。
ましてやツートンなどとんでもないというところかもしれませんが、たしかカワイなどは輸出向けモデルには、あらゆる色やスタイルの外装がラインナップされていて驚いたこともあります。

ヨーロッパの人達は、ピアノを置く際にもインテリアとの調和を大事にするようで、部屋の雰囲気や他の調度品とのバランスなどにも大いに意を注ぐのは、それだけ自分達の居住空間には東洋人よりも強い拘りと伝統に根ざした美意識があるのだろうと想像します。

そんな中で、この「内側だけ木目」という仕上げのピアノがどのような位置付けなのかは東洋の島国のマロニエ君にはわかりませんが、ひとつの遊び心でもあるような気がします。
蓋を閉めている状態では普通の黒のピアノが、演奏するために蓋を開けると、そこへ強い調子の鮮やかな木目が現れるのは、それだけでも人の心をハッとさせる意外性が込められているように思います。

というのも、このツートン仕上げは、マロニエ君の個人的な印象でいうと、普通の木目ピアノよりもさらに鮮烈な印象を与えるようで、それは主に黒と派手な木目の強いコントラストが生み出す独特な雰囲気のせいなのは間違いないでしょう。まるでネクタイやカマーバンドだけ色物を使ったタキシードのようで、多少の遊び心もありますが、それだけ好き嫌いの分かれるところかもしれません。
ちょっと前に流行った言い方をすると「ちょい悪オヤジ」みたいな感覚でしょうか。

見方によっては一種のエグさみたいなものがあって、そこがこういうセンスの心意気であり魅力だと思うのですが、たぶん日本人にはそのエグさがあまり幅広くは受けないのかもしれません。

しかし、考えてみれば日本人もむかしのほうが遊び心というのもあったようで、地味な羽織の裏地に目もさめるような派手な柄をあしらったり、琳派の絢爛たる屏風や襖絵などをみると、今よりよほど遊びに対するセンスと文化意識があったようにも思われます。

その点では現代のほうがよほど保守的で堅実になってしまった観がありますね。
2012/07/15 Sun. 01:14 | trackback: 0 | comment: 0edit

好ましい変貌 

一昨日の夜は久しぶりの田中正也ピアノリサイタルに行きました。

曲目はショパンの英雄、子守歌、op.48のハ短調のノクターン、ベートーヴェンの熱情、ラヴェルの夜のガスパールからオンディーヌ、ラフマニノフのエチュードタブローop.33-9、スクリャービンの3つの小品、プロコフィエフの7番の戦争ソナタ、アンコールはワーグナー=リストのイゾルデの愛の死、リストのカンパネラという、ずっしりしたものでした。

田中正也さんのピアノはすでに何度も聴いていたので、ある程度の予想はしていたところ、わずか2、3年の間に著しい変化が起こっているのは驚くべきことでした。冒頭の英雄で「んっ?」と思い、ノクターンに至ってそれはやがて確信に変わりました。

10代の半ばからロシアに渡り、モスクワ音楽院で修行され、とりわけパーヴェル・ネルセシアンに師事したことが彼の根底となるピアニズムを決定したという印象があり、良くも悪くもネルセシアン臭を感じないわけにはいかない演奏であったことが、これまで聴いた彼の特徴だったように思います。

ところが今回の田中さんはかなり違っていて、見事に一皮剥けたというか、独りよがりではない客観性が備わり、いずれの作品も磨かれたレンズではっきりと見通せる好ましい演奏に変化しているのには驚きました。
どこか恣意的で自己完結風でもあった演奏が、あきらかに人に向けて聴かせるに演奏になり、説得力のある堂々たる音楽を紡ぐピアニストへ変貌していました。

テクニックは以前から見事なものがありましたが、それに心地よい曲の運びと情感が加わったのは、まさにそこが以前の彼には足りないと思っていたものだっただけに瞠目しました。
さらには、ほどよい緊張とリラックス感の調和が取れており、聴く側もまったく安心してその演奏に身を委ね、彼の演奏に乗って音楽を旅することができました。

ごまかしのない丁寧さがありながら、音は決して痩せることがなく、分厚い響きや、ときには轟音のような力強さも兼ね備えているし、クオリティも高くなかなか立派なものです。

終始ゆるぎのない、筋の通った見事なピアノリサイタルで、過去に聴いた田中正也さんの演奏会中、最もよい出来映えであっただけでなく、おそらくマロニエ君があいれふホールで聴いたコンサートの中でも最高レベルのものだったと思われ、久しぶりにピアノらしいピアノを聴いた気分で会場を後にしました。

そのあいれふホールですが、マロニエ君は後ろから2列目の席で聴きましたが、あいかわらず音が鋭くわめくような響きのホールで、音響的には快適とは言えないものでしたが、これは如何ともしがたいところです。

ピアノはここのスタインウェイで、ちょっと違和感のある調整でしたが、田中さんはそれをものともせず、まったく手抜きのない素晴らしい演奏によってホールやピアノの不備を見事に覆い隠してしまい、途中からそんなこともまったく気にならなくなりました。
逆説的な言い方ですが、少しぐらいの不備があったほうが却って演奏家は真価を発揮しやすいのでは?という気さえしました。完璧に調整されたピアノを、理想的な響きのホールで弾くのでは、なにやらあまりに条件が整いすぎという感じで、弾く方も聴く側もどことなく居心地が悪いようにも思います。

もうひとつ、改めて感銘を受けたのはスタインウェイの底知れない真価でした。少々の不調などものともせず、重量級の曲をどれだけ壮絶に追い込んでも、激しい和音がどれほど折り重なっても、決してピアノが崩れるということがないのは呆れるばかりで、その比類ない音響特性の逞しさは、まさに圧倒的なものがありました。

2012/07/14 Sat. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

オトナを演じる 

世の中はすっかりネット社会で、もはやそれなしには何事も立ち行かなくなってしまいました。

テクノロジーの進歩は、それを使う側のあり方が常にこの分野の尽きない副主題であり、優秀で便利な革新技術が生まれれば、それだけ倫理性や節度というものが問題となるは当然ですが、これが難題です。

とりわけネットの普及には、世の中の在り方自体をひっくり返してしまうほどの力があり、今やほとんどすべての物事がネット主導で動いており、現実社会は、それを追認し具体化するだけの場所になり果てているように感じることもままあります。

昔は(といってもたかだかマロニエ君が知っている昔ですが)、何をするにも今にくらべると何かと手間暇がかかり、不便といえば不便でしたが、それは現在の便利を知ってしまった結果そう思うだけで、当時はそれを不便だなどと感じることはほとんどありませんでした。

振り返ればそこにはいいこともたくさんあり、その手間暇の中には、今から思うととても人間的な情緒的な温かみや味わいがあって、昨今、加速度的に失われていく多くの人間臭いものが、ごく自然な手続きとして含有されていたように思います。

もはや生の人間関係すらどことなくネットの延長上にあるようで、直接会っている人との感触においても、ネットのルールや発想から完全には逃れることはできず、そこになにかしら縛られている気配を感じてしまうこともしばしばです。

すくなくともネット上での慣習、パソコンの操作感触や体験が、しだいに人の心の深奥にまで侵食してしまい、現実社会でもその流儀が横行してしまっていると感じることが多々あるのは、とても恐ろしいことのように思います。

人との関係も、なんの縁故もない者同士がネットで出会うなど、そのこと自体にも賛否がありますし、その手の出会いは僅かな例外を除いて大抵は関係が希薄で、ささいなことであっさり終わってしまいます。

それで得心がいったこともあり、だから今の人間関係には、いつかそんな瞬間が来るのではという予感と覚悟を多くの人が本能的にしているようで、よけい表面的に関係が良好であるよう振る舞うことにエネルギーを費やし、口にすることも必然的に無害な当たり障りのない安全なことばかりになるのでしょう。

「ケンカをするのは仲が良い証拠」という言葉はもはや死語に等しく、今どきはケンカはおろか、どこか不自然な感じがするほど良い人ばかりなのは、つまりケンカができないからなんですね。むかしは、ケンカは、煎じ詰めれば「もっと仲良くなるためにすること」ぐらいな認識でいられましたが、いまはちょっとでも関係がつまづくと、まずそれで関係は終了です。

つまり失敗が許されない。双方が理解し許し合うだけの許容量も情愛もない。
しかし生身の人間関係で失敗がないなんてことがあるでしょうか? だから誰もが本音は胸の奥深くにしまい込んで神経をすり減らしてでも偽りの善人を装い、それを徹底して貫くために毎日を芝居のように演じているのだと思います。
そしてその芝居が上手くて持続力のある人のことを、現代では「いい人」とか「オトナ」という尊称で呼ぶようです。

不思議なもので、役者が役になりきるように、そんな芝居でもとにかく毎日やっていればそれに慣れもすれば上達もして、しまいには意識まですっかり立派な人物のような気になるのでしょう。

要は、みんな孤独で、恐くて、ピリピリしているだけのことかもしれません。
2012/07/12 Thu. 01:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

フレイレのショパン 

ネルソン・フレイレの弾くショパンのノクターン全集の評判がいいようなので聴いてみました。
2009年12月に録音された2枚組CDで、レーベルはデッカ。

とくにハッとするような何かはないけれど、なるほどどれもがよく錬られた誠実な演奏で、趣味も悪くないし、どこにも嫌なところのない好ましい演奏だと思いました。
とくに自分の主張は二の次で、ひたすら作品に献身している姿は印象的です。

この人はいまさら云うまでもなくブラジル出身の世界的ピアニストで、その信頼性の高い深みのある演奏には以前から定評がありました。それでも若い頃はもう少しはラテン的というか、ときには激しいところもあったように記憶しますが、近年はいよいよ円熟を深めているようです。もともと音楽優先で自己顕示性の少ないピアニストでしたが、その度合いをいよいよ増しているようで、決して作品の姿を崩さず、さすがと思わせられるところが随所にあります。

南米出身でありながら、ヨーロッパの音楽にこれほどまでに正面からひたむきに取り組むピアニストとして思い出されるのはアラウですが、彼らはヨーロッパの生まれでないぶん、よけいに虚心な気持ちで数々の偉大な作品に畏敬の念を覚えながら好ましい解釈を求めて演奏に取り組むのかもしれません。

フレイレを聴いていつもながら見事だと思うのは、まさに練り上げられた大人の演奏に終始する点で、ときに演奏家の存在感さえも見えなくなるほどです。
昔から感じていることで唯一残念なのは、あと一歩というところの華がないというところでしょうか。
これだけの素晴らしい演奏をしていながら、もうひとつフレイレでなくてはならないという積極的な理由が稀薄な点が、裏返しの特徴なのかもしれません。

もちろん、ここでいう華というのはうわべの派手さという意味ではなく、一人のピアニストとしての存在感とでもいえるかもしれませんが…それは欲というものでしょう。あまたのピアニストの中でこれほど誠実な演奏をする人が今円熟の真っ只中にいることをなにより尊重したいというのがマロニエ君の素直な気持ちです。

このCDに関して特筆すべき残念な点は、やはり最近のデッカ特有のまったく理解に苦しむ音質だったことです。トリフォノフのショパン、プラッツのライヴ、ウー・パイクのベートーヴェンなどすべてに共通した、広がりのない詰まったような音、中音域は衝撃音が突き刺さって来るような不快なあの音だったことは、この美演の真価を何割も割り引いてしまっていると思うと、甚だ残念で仕方がありません。

プロデューサーの名前などを調べると、必ずしも同一人物ではないにもかかわらず、出来上がった音にこれだけの著しい共通点があるということは、よほどデッカではこれを良しとしているのかと、その不可解な疑問はいよいよ深まるばかりです。
しかし、いずれにしてもこれだけ音質に落胆させられることが明瞭にわかってくると、今後はデッカのCDは極力避けるしかないということでしょうか…。
本当に気の毒なのは、優れた演奏をしているこのレーベルのピアニスト達です!

2012/07/11 Wed. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

オープントップバス 

福岡には今年の春から、若い市長の肝いりでオープントップバスなるものが運行開始して、市内の要所や都市高速を走り回る昼夜3コースが設定されています。

その名の通りオープントップ、すなわち屋根の空いた2階建てバスで、乗客は爽快な外の風に触れつつ高い位置から下界を睥睨できるという楽しげな遊び目的のバスのようです。

マロニエ君もいつか乗ってみたいと思いつつ、まごまごしているうちに季節は温湿度の上がる時候に突入してしまい、ここしばらくはとても無理なので、また秋口にでもなったら乗ってみたいと思っています。

つい先日の午後、市内のけやき通りを車で走っているとこのオープントップバスに邂逅、しばらく併走することになり、後ろから横からと数分の間この珍しいバスを間近に観察することができました。
後部に乗降のための階段があり、座席はなるほどかなり高い位置に並んでいて、顔にけやき並木の枝葉が触れはしないかと思うほど高く見えました。まだ見慣れぬせいか、ちょっと異様な感じも覚えて、ずいぶん昔にハワイのアロハ航空の737が、飛行中に屋根が吹き飛んだにもかかわらず、そのまま無事に帰還したときの奇妙な姿を思い出してしまいました。

しかしそれよりも、もっと奇妙な感じを覚えたのは実はそのオープン部分でなく、バス全体の動きにありました。
マロニエ君の友人には大変なバスマニアがいて、彼につられてバスに興味を持つようになったもう一人というのもいて、彼らの会話をきいていると、まるでなんのことだかわからないような専門的なことを次々に言い合っています。
そこで聞いたのは、東京などにもオープントップバスというものはあるけれども、これは既存のバス車輌を改造することでオープン化されたものであるのに対し、西鉄が運行する福岡のそれは、はじめからオープントップバスとして製造された専用車輌だというのが大きなポイントのようです。

しかも注目すべきは操舵輪が前後に二つ連なっている点で、つまり左右合わせて4輪つのタイヤがハンドル操作に合わせて左右に動くというものです。
彼らに言わせるとここがポイントで、ベースはバスではなくトラックではないかという推論を抱いたようでした。それもただのトラックではなく、なんと競馬用の馬を運搬するためのトラックというのがあるのだそうで、それがこの4つの操舵輪をもつ車輌だというのです。つまりこれが福岡のオープントップバスのベースではないかというわけです。

そんなことを聞いた上で、今回マロニエ君が実物を見て感じたことは、バスといえばふつうは動きも鷹揚でゆったりした車体の揺れ方をするものですが、このオープントップバスはサスペンションが硬いのか、まるでスポーツカーのように路面状況に応じてその巨体が小刻みにピクピク揺れているのが目につきました。

さらにはこれだけの大型車輌にしては変に加速などもいいし、4つの操舵輪のせいなのか、ハンドリングも鋭く軽快な動きをしているのが肉眼にも明らかでした。けやき通りは上下4車線の道路ですが車線の幅が狭くて普通車でもわりに走りにくい道なのですが、このバスはカーブでもセンターラインを見事にトレースしながら難なくシャープに動いているのがわかります。
この動きを見ただけでも、このオープントップバスの正体がタダモノではないことがわかりました。

いよいよ興味は高まり、秋にはぜひ乗ってみたいもんだと思っています。

2012/07/09 Mon. 01:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

家内工業の音 

ピアノの音で、時おり感じることですが、それは良し悪しの問題ではなしに、2つに大別できるのでは?と思うことがあります。
上手く言えませんが、きっちり計算されたメーカーの音と、より感覚的でアバウトさも残す家内工業の音があるということになるでしょうか。

純粋な音の良し悪しとは別に、たとえレギュラー品でもある一定の計算が尽くされたメーカーの音を持ったピアノがある一方で、どんなに素晴らしいとされるものでも、よしんばそれが高額な高級ピアノであっても、家内工業の音というのがあるように思います。これはちょっと聴くぶんにはまことに凛とした美しい音だったりしますが、残念なことにしたたかさというものがなく、いざここ一発というときの強靱さや、トータルな音響として形にならないピアノがあるようにも感じます。

車の改造などに例えると、専門ショップなどの手で個人レベルのチューニングされたものは、パッと目は局部的に効果らしいものがあらわれたりもしますが、トータル的に見た場合、深いところでのバランスや挙動でおかしな事になっていたり、性能に偏りが出たりして、本当に完成された効果を上げるのは、それはもう生半可なことではありません。

その点、メーカーが手がける設計や変更は、おそろしく時間をかけ、いくつもの異なるパーツやセッティングを試して、テストと改良をこれでもかと繰り返したあげくのものですから、その結果は膨大な客観的データやテストなどの裏付けの上にきちんと成り立っているものです。
すなわち街のショップのパーツ交換とは、どだいやっていることのレベルが違うというわけです。

同じことがピアノの音にも感じることがあり、どれほど最良の素材で丹誠込めて作り上げられたピアノであっても、家内工業規模のピアノには手作り的な温もりはあるものの、どこか未解決の要素を感じたり、全体として一貫性に欠けていたりします。

その点でいうと、大メーカーのピアノはそれなりのものでもある種のまとまりというか完成度というものがあり、ある程度、客観的な問題点もクリアされているので、そういう意味では安心していられる面がありますね。
とりわけ観賞を目的としたコンサートや録音ではそれが顕著になります。

大メーカーのピアノは、広い空間での音響特性や各音域のパワーや音色のバランス、強弱のコントラスト、楽曲とのマッチングなど、あらゆる項目が繰り返し厳しくチェックされていると思われますし、問題があれば大がかりな改修が入るでしょう。そのためには多くの有能なスタッフや高額な設備なども欠かせません。必然的に試作品も何台も作ることになりますが、このへんが工房レベルのメーカーでは、どんなに志は高くてもなかなかできないことだと思われます。

家内工業のピアノは材料や作り込みは素晴らしいけれども、弱点は完成度のような気がします。
素人がパラパラっと弾いた程度なら、たとえば中音から次高音にかけてなど、なんとも麗しい上品な音がして思わず感銘を覚えたりしますが、プロのピアニストが本気で弾いたら、思いもよらない弱点が露見することも少なくありません。
プロの演奏には、表現の幅や多様性に対する適応力、重層的な響きにおける崩れのない立体感などが求められますが、そういう場面でどうしても破綻したり腰砕けになってしまうことがあり、それを徹底して調査して、場数を踏んで補強してくるのが大メーカーなのかもしれません。

2012/07/08 Sun. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

翻訳の文章 

いま、あるピアノの技術系の本を読んでいます。
買ってすぐに通読して、現在はもう一度確かな理解を得たいと思い、少しずつ再読しているところです。

技術的なことを書かれたいわば専門書で、あえて書名は書きませんが、おかしなことに、この本を読むと催眠術にかかるように眠くなるのです。もっとありのままに云うと、必ずといっていいほど強い睡魔に襲われてしまい、まとまった量を読み通すことがなかなかできません。
実は最初に読んだ時も同様だったのですが、なにしろ内容が専門的なところへこちらはシロウトときているために、他の本ようにスイスイ読み進むというわけにはいかないのだろう…とそのときは単純に思っていました。

でも不思議なのは、内容が理解できないとか面白くないのであれば眠くはなるのもわかりますが、内容はマロニエ君自身も強い関心を持つもので、そこに書かれている内容はむしろ積極的な興味をそそられる面白い内容なのです。

そのうちに、その睡魔の元凶がなへんにあるかついにわかりました。
この本は海外の技術者が書いたもので、それを日本人の同業技術者が翻訳して国内の出版社から発売されたものなのですが、原因はどうやらその文章にあるようです。

翻訳者は、外国語は堪能なのかもしれませんが、あくまで技術者であって少なくとも翻訳の専門家ではないはずです。
外国語ができればその意味を理解することはできるかもしれませんが、それを右から左に日本語に正しく訳しても、なんの面白味もない、味わいのない、どこかおかしな日本語になるだけです。
したがって多くの文学作品などの翻訳を手がける際は、その原文理解はもちろんですが、人並み以上の日本語の能力と文学性、さらには深い教養が必須条件となるのは云うまでもありません。

要は最終的な読者に違和感なく、心地よく、快適に文章を読ませるためには、日本語固有の文章構成、すなわち日本語による思考回路にまで配慮が及んで表現されるよう、述べられた意味と言語特性を一体のものとして奥深いところで取り扱わなくてはいけないのだろうと思います。

ところが、そういうことに重きを置かない人は、書かれた原文の文法および内容の正確な和訳ということが主眼になってしまうのか、読者の心地よさや、述べられた意味やニュアンスを日本語の文章として捉えやすい表現に昇華するという思慮に欠けているのではないかと思います。

言葉や文章というものは、言うなれば各言語固有の律動と抑揚をもっており、そのうねりに乗って語られないことには、読む側はなかなかテンポ良く読み進むことができません。この本の文章は、そういう意味で原文記述には忠実なのかもしれませんが、相互の文章間にしなやかな日本語としての流れと脈絡が欠けているので、数行読むのにもひどく神経が疲れます。

この本が翻訳の専門家の手に委ねられなかった理由はマロニエ君の知るところではありませんが、ピアノ技術者のための専門書であるがために、発行部数もごく限られており、同業の日本人が奮起して訳することになったのではないかと思います。技術者らしい非常に丁寧な仕事ぶりだということは読んでいて伝わってきますが、それだけになおさら残念に思うわけです。
諸事情あったのだろうとは思ってみるものの、価格もかなり高額であった点から云っても、やはりそこには不満が残りました。

2012/07/06 Fri. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピニンファリーナ 

世界的な自動車デザイナーの大御所であるセルジオ・ピニンファリーナ氏がトリノの自宅で亡くなったそうです。1926年の生まれで享年85歳。

ジウジアーロやベルトーネなど、造形の国イタリアには、数々の自動車デザイナーの巨匠が綺羅星のようにいましたが、そんな中でもピニンファリーナは傑出した存在だったと思います。

その斬新な造形には、モティーフの中に古典的な優雅の要素が息づいており、気品と官能性が結びつき、それが見る者の心を鷲づかみにしていたと思います。

ピニンファリーナのデザインには、きっぱりとした完成された独自の存在感と情感が脈々と流れ、ただの奇抜な挑戦的なデザインとは常に一線を画する孤高の美しさがありました。簡潔だけれども蠱惑的で優美なラインがあって、見る者を虜にし、しかもまったく飽きのこない普遍的な美しさを湛えた造形。それが自動車という機械を命ある有機的な存在へと高めることに、彼ほど貢献した人はいないようにも思います。

自動車という枠を逸脱するようなデザイナーの思い上がりでなしに、まるでモーツァルトのように最良最適の美しさを作り出したその才能と手腕は、まったく芸術家のそれに劣るものではなかったと思います。

マロニエ君も過去に何台かピニンファリーナのデザインによる車を所有したことがありますが、そこには必ずメーカーや車名などのエンブレムとは別に、ピニンファリーナの優雅な書体によるエンブレムが付けられていていて、それがまたマニア心を甚だしくくすぐる要素でした。
洗車してワックスをかけるにも、それがピニンファリーナのボディともなれば、いやが上にも熱が入ったのはいうまでもありません。

デザインがピニンファリーナであることは、ときにその車のメーカーの価値と比肩されるほどに尊ばれる場合も珍しいことではなく、オーナーはそれが車であると同時に、作品であり芸術品であるということを諒解しており、それは並々ならぬプライドと満足にもなりました。

今のデザイナーでこれほどの格別の想いと満足を個々のオーナーに与えて撒き散らすことのできる人がいるかといえば、残念ながらそれは見あたりません。
音楽を含む他のジャンルと同様、自動車デザインの世界も全体の組織レベルは途方もなく大きくなっているようですが、個人のデザイナーで芸術家に匹敵するような世界的大物はいなくなり、とりわけ若い人でそういう位置を受け継ぐような人は出てきていないようです。

セルジオ自身が二代目だった思いますが、さらに息子達が事業を引き継いで、大きなデザインメーカーになり、その後はどうなっているかは知りませんが、時代も変わり、おそらくセルジオの功績によるブランド会社になったのかもしれません。

天才級の煌めくような大物がいなくなり、効率や平均値が上がるばかりの世の中というのは、どうしようもなくつまらないものです。
個々の製品は素晴らしくても、心からわくわくしたり真の感銘を受けるようなことは…もうないようです。

2012/07/05 Thu. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

深い梅雨 

今年の梅雨は例年にない厳しさだと感じているマロニエ君ですが、皆さんは、この季節をどのようにお過ごしなのでしょう。

今まさに梅雨の真っ只中にありますが、今年の梅雨ほど重さみたいなものを感じたことはこれまであまりなかったように思います。梅雨というのはその字面を見ただけで、いかにも鬱々としたイメージがあり、夏を迎えるための通過儀礼といった趣がありますが、実際には覚悟ほどもないままにこの時期が過ぎていった年がいくらでもあったように思います。

梅雨に入ってみたものの実際にはそれほど雨は降らず、逆に春よりも晴天が続いたりする「空梅雨」の年も何度もありました。それほどでなくても、数日に一度は必ずほがらかな陽光が差して、梅雨の中休みのようなこともしばしばあるものでした。

ところが、今年の梅雨ときたらまさにその字面通りで、過ごしにくい不快な天候が毎日をすっぽり覆ってしまっており、前線が立ち退く気配もなく、昨日はついに九州各地で深刻な水の被害まで出る始末です。

なんにしてもこの連日の不愉快そのもののような天候は、気分までカビが生えるようで、ここ当分は収束の気配もないままいったいいつまで続くのやら…。

先日など、夜外出した折、玄関を一歩出ると外は風呂場のような蒸し暑さで、ガレージから車を出すと、内外の湿度差からか、いっぺんに車の前後左右の窓は真っ白になってしまい、動き出そうにも何も見えなくなるほどでした。まるで熱帯地方のようです。

ほとんど休むことなく回っているピアノの横の除湿器は、日頃の酷使が祟ってきたのか、どうも本調子ではないようで、タンクに溜まる水量から本来の除湿能力を発揮しているとは思えず、それが追い打ちをかけるように気がかりです。

それでも湿度計の針は50%を超えることのないよう意地で保っていますが、やはりどうもおかしい…。メーカーに電話してみると、果たして「基盤の不良があるかもしれない」とのことですが、そのためには機械ごとメーカーに送って診てもらうことになる由、送料と大まかな修理代を考え合わせると、そんなことをするのもばかばかしいし、だいいち修理を終えて戻ってくるまでの幾日ものあいだ、除湿器なしの状態になるわけで、これは直ちに却下しました。

けっきょくは除湿器を買い直さなくてはいけないのでは?と急遽考えているところですが、わずか数年しか使っていないのにもうダメになるなんて、日本の家電製品も質が落ちたものだと思います。

週間天気予報を見ても、ここ当分は雨と雲のマークばかりで、まったく望みナシと思っていたら、まったく不思議なことに昨日の午後は突然、何日ぶりかでウソのように陽が射してきて驚きました。
しかし、これもほんの一時的なことだろうとすっかり疑い深くなっていたら、やっぱりそうで、一時間もするとまた小雨が降ってきました。

2012/07/04 Wed. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

オールソン&尾高 

ずいぶん久しぶりにギャリック・オールソンの演奏を映像で見ました。

先日放送されたBSのオーケストラライブでのN響定期公演で、ショパンのピアノ協奏曲の2番を弾いていましたが、ステージに現れたオールソンはもうすっかりおじいさんになっていて月日の流れを感じます。

演奏はいかにも手の内に入ったベテランのそれという印象で、ショパンコンクールに優勝したときから早40年以上が経過しており、彼の身体がショパンの演奏を覚え込んでいるといったように見えました。

まったく自己顕示欲のない、とても誠実な演奏でその点は感服しますが、惜しむらくはコンサートピアニストとしての存在感や華がないことでしょう。それでも、この世代のアメリカ人としてはよくぞここまでショパンの音楽に真摯なスタンスで己を捧げてきたものだと思います。
普通なら、ショパンコンクールにアメリカ人として初めて優勝し、それ以降のキャリアを積み上げるとなれば、もう少し華やかなピアニストを目指して喝采を得ることはいくらでもできただろうと思いますが、決してその道には進まず、節度をもった、良心的な活動一筋に努めてきたことには、人間的に敬意を払いたいところです。

尤もそれがオールソンの信念によって厳しく選び取られた結果だったのか、それともそういう道を進むことのほうが性に合っていたから自然にそうなったのか、そこのところはわかりませんが。

今回、オールソンの姿に接してみてあらためて思ったのは、大変な偉丈夫だということで、この点はまぎれもないアメリカ人だと思わずにはいられません。身長も高く恰幅も大変立派で、そのいかにも優しげな表情と相俟ってまるでサンタクロースのように見えました。彼を前にすると、ピアノもどことなく小さくなったようで、なんとなく身をかがめるようにして弾いているのが印象的でした。

ショパンの音楽を彼なりの細やかさでひじょうに注意深く、さらにはこの体格から来るところもあると思うのですが、常に遠慮がちに弾いているという風に見えました。音もその体格から期待されるような太く逞しいものではなくて、むしろ肉付きのない、さっぱりした音色だったことが少し気にかかりました。

全体にはこの人なりの首尾一貫したものがあって、安心して聴いていられるものでしたが、強いて云うならあまりにもおとなしくて善良すぎるきらいがあり、ショパンにはもう少し洗練や洒落っ気やエゴが欲しいものだと思いました。


指揮はN響の正指揮者である尾高忠明氏でしたが、これが思いがけずなかなかの演奏で驚きました。
普通なら、ピアノ協奏曲の中でも、とりわけオーケストレーションの脆弱さを指摘されるショパン、しかもより詩的な2番とくればオーケストラは大半において甘美に歌うピアノの伴奏をやっているだけといったところですが、そんなオーケストラがハッとするほど美しく、しかも聴いていて自分の好みにごく近いもので、やわらかでメリハリがあり、潤った感じに鳴り響いたのはまったく意外でした。

オーケストラはいつもと変わらぬN響ですから、これはひとえに尾高氏の音楽性とセンスの良さに負うものだと思う他はありません。告白するなら、オールソンのピアノもそこそこにオーケストラについ耳を傾けてしまうことしばしばで、ショパンのピアノ協奏曲でオーケストラのほうを有り難く聴いたというのは初めての経験だったように思います。
この美しいオーケストラに支えられて、オールソンもさぞ満足だっただろうと思います。

2012/07/03 Tue. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

カタログ比較-追記 

このような場所で価格の話をするのもどうかとは思いますが、前回価格のことに少々触れたついでに、参考までに一例を書いておきますと、ヤマハの現行モデルには奥行き212cmのグランドが3種類も存在し、価格は次の通りです。C、S、CFというシリーズ名は、平たく云えば梅、竹、松とでも思っておけばいいでしょう。

C6=2,730,000円
S6=5,040,000円(Cの約1.8倍)
CF6=13,200,000円(Cの約4.8倍)
というわけで、まったく同じサイズのヤマハグランドピアノ(外装はいずれも黒艶出し)であっても、グレードによってこれほどの価格差があるのは、単純に驚くほかありません。C6とCF6では、同じメーカーの同じサイズのグランドピアノでありながら、価格はほとんど5倍、差額だけで10,470,000円にも達するわけですから、誰だって驚くでしょう。

これはCF6がよほど高級なピアノだという印象を与えると同時に、じゃあC6はよほど廉価品なのか…という気分にもなってしまいますね。世界広しといえども、同じメーカーの、同じマークの入ったピアノが、グレードの違いによってここまで猛烈な価格差があるというのは、少なくともマロニエ君の知る限りではヤマハ以外には無いように思います。

また、CFシリーズとSシリーズはひとつのカタログにまとめられていますが、それでも価格は同サイズで約2.5倍となり、これもかなり強烈です。そこで生じる疑問としては、何がどう違うのかということだと思いますが、その価格差に対する説明らしきものはどこにも見あたりませんでした。

要は「材料と手間暇」ということに尽きるのかもしれませんが、それにしても…。
これが稀少なオールドヴァイオリンとか骨董の世界ならともかく、れっきとした現行生産品の話なのですから、その価格は製品の価値を裏付けるはずのものであり、そのためにも、もう少し具体的な説明によって納得させてほしいものだと思うのはマロニエ君だけでしょうか?


おもしろかったのは、ヤマハ、カワイ両者に共通した巻末のピアノのお手入れに関する記述ですが、ピアノにとって望ましい環境は、
カワイでは「室温15-25℃、湿度50-70%」とあるのに対して、ヤマハは「夏季:20-30℃/湿度40-70%、冬季:10-20℃/湿度35-65%」と夏冬二段階に分かれている点でした。
いずれも湿度に関してはかなり許容量が広いなあというのが印象的でした。

壁から10-15cm離して設置するようにというのは共通していますが、へぇ…と思ったのは弦のテンション(張られる力の強さ)に関してで、ヤマハは「弦1本あたり90kgの力が張られています」とあるのに対して、カワイでは「1本あたり80kgの力が掛けられています」という記述でした。

昔からスタインウェイの張弦は比較的テンションが低いことで有名ですが、現行のヤマハCF&SシリーズとカワイSKシリーズでは、一本あたり10kgもの違いがあるとは意外でした。これを全弦数(平均約230本)の合計にしてみると相当の差になるでしょうね。
一般論としてテンションが低い方が設計に余裕があり、耐久力もあるとされますが、最近のピアノではどうなのでしょう…。
いずれにしろカタログを見ているといろいろと発見があっておもしろいものです。

2012/07/01 Sun. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit