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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

カタログ比較 

ヤマハの知り合いの営業の方にお願いしてCFシリーズのカタログを入手しました。
さんざん眺め回したあげく、さてこれをシゲルカワイのカタログを比較してみるとなかなか面白い違いが出てくることに気がつきました。

本来はレギュラーシリーズも比較するといいのかもしれませんが、そこまでするのは面倒臭いし、どうせカタログの上だけなんだから、ここは気前よく上級シリーズ同士を較べました。

共通していることは、A4版の横開きのオールカラーで、カワイは表紙を含む28頁に対してヤマハは24頁と若干ながら薄いようです。
いずれも豪華さや高級感を強調したもので、重厚さを全面に押し出している点は甲乙つけがたいものがあるようです。

ヤマハはCFシリーズとSシリーズ、併せて5機種が紹介されているのに対して、カワイもSK-2,3,5,6,7という5機種が掲載されていますが、その重点の置き方にはいささか違いがあるようです。
カワイが新SKシリーズ全体を紹介説明する、ある意味でオーソドックスなカタログであるのに対して、ヤマハは頂点に君臨するコンサートグランドのCFXの存在をメインにして焦点が合わせられているようで、よりイメージ戦略的だという印象です。

それを裏付けることとして、ヤマハではピアノの機構や技術的な解説はほとんどなく、あっても必要最小限に留められて、専らエモーショナルで抽象的な文章が全体を包んでいます。
マロニエ君などにしてみれば、CFIIISからCFXへの移行についてはどのような点で変化・進歩をしたのか、あるいはCFシリーズは具体的にどういうところがどう素晴らしいのかという点についてメーカーとしての主張が欲しいと思いましたが、そういう個別の説明はほとんどありません。
主に美しい写真を見せて、それに沿うような観念的な文章がナレーションのように添えられているだけで、あとは見る者がイメージするものに委ねるというところでしょうか。

これに対して、カワイのカタログではヤマハに較べると文字が多いことが特徴で、文章もより具体的で、わかりやすい説明が必要に応じて記載されています。
もちろんそこはあくまでもカタログですから、専門的になりすぎるようなことは一切ありませんが、その許される範囲の中でのきちんとした技術解説もあって、こちらのほうがいろいろな面から商品を知る手がかりになるという点では、見応え・読み応えがあるように感じました。

ヤマハは技術的なことはいうなれば舞台裏のことであって、カタログは広告の延長のようにイメージ主導に徹しているのかもしれませんし、その点はカワイのほうがカタログはカタログらしく作るという生真面目な一面があらわれているようでもありました。

ただし、ヤマハの敢えて多くを語らない戦略は一応わかるものの、いささか納得できないものが残ります。例えばCFシリーズとSシリーズはよほど意識しないとわからないほど黒バックのほとんど同じ意匠による連続するページによって連ねられていますが、驚くべきはその価格差です。

この両シリーズにはサイズの共通した奥行き212cmと191cmのモデルがそれぞれ存在していますが、価格はCFシリーズはSシリーズの実に2.5倍以上!!!というとてつもない開きがあって、思わず口あんぐりになってしまいます。
カタログの表紙には恭しく「PREMIUM PIANOS」と書かれていますが、同じプレミアムピアノでもこれだけの甚だしい価格差については、見る側としてはもう少々説明が欲しいと思いました。

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2012/06/30 Sat. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

リシッツァ 

こんなくだらないブログでも読んでくださる方がいらっしゃることは、ありがたいような申し訳ないような気分です。先ごろは北海道の方から、ヴァレンティーナ・リシッツァというピアニストをどう思いますか?というメールをいただきました。

>私の素人耳には、型に囚われない自由な音を出すピアニストに聴こえるのです。
>ところが、日本のメディアには完全に無視されている人です。
>この人には目ぼしいコンクール歴がありません。

というような事が書かれています。(引用のお断り済み)

リシッツァというピアニストはマロニエ君もYouTubeで見た覚えのあるピアニストだったので、名前を見たときにあの女性ではないか?と思ったのですが、あらためて動画を見てみるとやはりそうでした。

長いストレートの金髪を腰のあたりまで垂らしながら、ものすごい技巧で難曲をものともせず演奏しているその姿は、どこかジャクリーヌ・デュ・プレを思い出させられますが、調べるとウクライナはキエフの出身で現在42歳とのことです。
その指さばきの見事なことは驚くばかりで、とくにラフマニノフやショスタコーヴィチなどの大曲難曲で本領を発揮するピアニストのようです。そして、このメールの方がおっしゃるように、実力からすれば応分の評価を得られているようにも思えません。

このメールが契機となって、マロニエ君も動画サイトでいくつかの演奏に触れましたが、その限りの印象でいうならリシッツァの魅力はコンクール歴がないという経歴が示す通り、こうあらねばならないという時流や制約からほとんど遮断されたところに存在しているように思います。自然児が自分の感性の命じるままに反応しているようで、彼女の飾らぬ心に触れるような演奏だと感じました。
それでは、よほど自己流の破天荒な演奏をしているみたいですが、そんなことは決してなく、きちんとした音楽の法則や様式を踏まえた上で、あくまでも自分に正直な自然な演奏をしているのだと思います。

今どきのありふれたピアニストと違うのは、既存のアカデミックな解釈やアーティキレーションに盲従することなく、あくまでも自分が作品に対して抱いたインスピレーションによって演奏し、音楽を発生させているということだろうと思います。これは本来、音楽家としてはむしろ自然の法則に適ってようにも思うのですが、世の中がコンクール至上主義になってしまってからというもの、訓練の過程で「点の取れる演奏」を徹底的に身につけさせるという傾向があり、その結果若い演奏家の中から面白い個性が出てこなくなってきたことで、逆にこういう人が珍しい存在のようになってしまっているのかもしれません。

事実コンクールでは自分の色や表現を出し過ぎたために敗退することも多いのだそうで、その結果、教師も生徒も個人の個性や主観という、本来芸術の中核を成す部分に重きを置かず、ひたすら審査員に受け容れられる演奏を身につけるために奮励努力するのですから、その結果は推して知るべしです。

その点ではリシッツァという女性は、自分の作り出す演奏だけを元手に果敢に勝負をかけているピアニストのようで、それに値する才能も度胸も自我もあって実にあっぱれな生き方だと思います。そういう意味では単なるピアニストというよりはクリエイティブな芸術家のひとりだと云うべきかもしれません。

日本で評価されないのは、知名度が低く、いわゆるタレント性がないこと、そしてコンクール歴というわかりやすい肩書きを持たない故だろうと思います。さらにいうなら彼女の得意のレパートリーには重厚長大な難曲が多く、そこも日本人にはやや向いていないのかもしれません。
他国のことは知りませんが、少なくとも日本の聴衆ほど発信された情報のいいなりになるのも珍しく、マスコミの注目を集め、チケットをさばき、CDを買わせるには、コマーシャリズムと手を結ぶしかないのでしょう。

評判に靡かず、頑として自分の耳だけを信じるという人は専門家もしくはよほどのマニアということになり、これはほとんど絶滅危惧種みたいなものです。

リシッツァには、どこかそういう不遇を背負ったアーティストの悲哀のようなものがあり、そこがまた彼女の支持者には堪らないところかもしれません。

2012/06/28 Thu. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

たかじん委員会 

人気テレビ番組に『たかじんのそこまで言って委員会』というのがありますが、これはテレビ嫌いのマロニエ君にしては珍しくよく見る番組です。

この番組の魅力は、折々の時事問題が話のテーマとなって、おなじみの論客達による歯に衣きせぬトークが聞かれるところにあり、さらには大阪発のこの番組は、やしきたかじん氏の意向によって、これだけの全国的な人気番組にもかかわらず「東京では放送しない」という拘りが守られているのも痛快なところです。

元を辿れば東京の出身でもない、現在の東京を構成する多くの人々が、なにかというと東京の威を借りて、ここがすべての中心だと思い込んでいる中で、今や永田町にさえ多大な影響を与えているといわれるたかじん委員会、例の橋下さんもこの番組の出身であるそれが、すべての中心であり発信地であるはずの東京にあからさまに背を向けているというのは、それだけでもユニークです。

むろん公共放送であるかぎり完全な放言の場ではありませんが、かなり辛辣できわどい意見が飛び交うのは毎度のことで、およそ他局や他の番組では不可能と思われる領域をぎりぎりまで攻めていくのは、こんな時代にあってささやかでも溜飲が下がることしばしばです。

そんな中でもなにかと過激な発言を連発する勝谷誠彦氏が、過日の放送で主に次のような発言をしました。
「私は現在でもテロやクーデターは必要だと思っています。ただしそれは武器や暴力によるものではない。現代の最も腐っているものは言論である。その言論界にクーデターを起こす必要があり、そのツールはウェブであって、だから自分は毎日のようにテロ行為をやっている。」

これは彼独特な過激なスパイスを効かせた偽悪的な言い回しであって、テロやクーデターという言葉にはさすがに抵抗を覚えますが、しかしそれでも、彼の言わんとしている意味は大いに頷けました。

もう少し礼節と勇気をもって、自分の考えがごく自然に発言できる本当の意味での健全な世の中になってほしいものですし、それにはまずその道の本職である筈のマスコミに先陣を切って欲しいと思います。
言論が腐るということは、民主主義が腐り、すなわち人間が腐るということを意味しているでしょう。

昨日も永田町はひとつの山場を通過したようですが、見たくもない顔ぶれがデジタル放送の鮮明画像によって映し出され、腰の引けた解説やコメントが流れるだけで、そこに「言論」らしきものは不在です。

2012/06/27 Wed. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

音を望む 

小冊子「ピアノの本」をパラパラやっていると、イタリア人ピアニストにして徳島文理大学音楽学部長であるジュゼッペ・マリオッティ氏のインタビューが掲載されていました。

氏は自身がベーゼンドルファー・アーティストでもあるため、主にこのピアノを中心とした話になっていましたが、曰く、ピアニストにとって「音をつくる」ことは容易なことではないし、学習者でも音をつくるところから始めなければならないと述べています。

ヴァイオリンやフルートなどの楽器では、はじめから音をつくることと同時に練習を進めて行くのに対して、「ピアノは正しい音程のきれいな音が簡単に出るので、音をつくることへの意識が希薄になる」とおっしゃっていますが、これはいまさらのように御意!だと思わせられました。

マリオッティ氏の友人のドイツ人ピアニストは生徒に「音を望みなさい」としばしば言うそうです。
音を望むということは、マロニエ君の解釈では実際の楽器が発音するよりも前に、どのような音を出すかをイメージして極力それに近づくように気持ちを入れて演奏するということだと思いますし、この手順を身につけるということは、そのままどのような演奏をするかというイメージにも繋がるような気がします。

しかし、これは意外と日本人には苦手なことのようで、プロのピアニストはひとまず別としても、アマチュアの演奏に数多く接してみると、ほとんどの人が音色のイメージというものをまったく持たないまま、ピアノの音はキーを押せば出るものとして油断しきっており、そういうことよりも、ひたすら難曲に挑戦しては運動的に弾くことにばかりにエネルギーを注ぎ込んでいるようです。
そこには音色どころか、解釈も曲調も二の次で、とにかく最後まで無事に弾き通すことだけが全目的のように必死に指を動かしているように見受けられます。

マリオッティ氏の言葉にもずいぶん思い当たることがあり、「日本人は体を硬くして、ピアノの鍵盤を叩くように弾く傾向があるので、肩や腕、手首、指の緊張を解いてリラックスして弾けるようになるといい…」とのことです。

日本人がある独特な弾き方をするのは、ひとつには日本のピアノにも原因があるのかもしれないと思わなくもありません。日本のピアノは間違いなく良くできた楽器だと思いますが、強いて言うなら音色の微妙な感じ分けやタッチコントロールの妙技をあまり要求せず、誰が弾いてもそこそこに演奏できるようになっています。
これはこれで我々のような下手くそにはありがたいことではありますが、やはり楽器である以上、そこには音色に対する審美眼とか演奏表現に対する敏感さや厳しさがあるほうが、より素晴らしい演奏を育むことにもなると思います。

人間の能力というものは、必要を感じないことには、無惨なほど無頓着となり、ついには開発されないままに終わってしまいますから、汚いタッチをしたら汚い音が出てしまうピアノに接することで、より美しい音をつくる必要を身をもって体験するのかもしれません。

驚いたことに徳島文理大学には大小合わせて9台ものベーゼンドルファーがあるのだそうで、このようなタッチに対して非常にデリケートかつ厳格な楽器に触れながら勉強できることは、将来的にも大いに役立つ貴重な修行になるだろうと思われてちょっと驚いてしまいました。
家庭での親のしつけと同じで、成長期に叩き込まれたものは、その人の深いところに根を下ろして一生をついて廻るものだけに、こうした体験の出来る学生は幸せですね。

2012/06/26 Tue. 01:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

雨にまみれて 

全国的に水の被害が出ていますが、北部九州も日曜日は明け方から夕方まで滅多にないほどの猛烈な雨でした。

雨足は終始強く、おまけに雨間というものがまるでなく、よくぞ上空にはこれだけの雨があるもんだと感心するほど、降って、降って、降りまくりでした。
深夜のニュースによれば九州の多いところでは300ミリの雨だったとか。

そんな日に、チケットを買っていたものだから九響のコンサートを聴くために宗像まで車で往復するという、マロニエ君のような怠け者にしてみれば、とてつもない行動をした一日でした。
朝からただ事ではない激しい雨模様で、これはよほど断念しようかと何度も思ってみたものの、この日登場する白石光隆さんの演奏を聴くことを以前から楽しみにしていたことでもあるし、彼はそれほどメジャーなピアニストでもないため、今回を逃すと次はいつまた聴けるかわからないという思いもあって、手許にはチケットがあるし、思い切って車のエンジンをかけました。

福岡市の中心部から会場の宗像ユリックスまでは距離にすれば30kmほどですが、普段より早めにお昼を済ませて、15時の開演に間に合うよう到着するにはかなり厳しい時間的スケジュールになります。

なにしろこの悪天候である上に、途中には新たな渋滞ポイントとして予想されるイケアと新規オープンしたイオンモールがあるので、遠回りになることを承知で高速で迂回するなどしながら、なんとか開演20分前に会場入りすることができたものの、出発から到着までの一時間半近く、一瞬も衰えることのない強い雨足には参りました。オーディオの音も邪魔になるほどの、ルーフやフロントガラスを雨滴が叩きつけるバシャバシャいう音、路面から水を巻き上げる音、せわしいワイパーの動きだけでもいいかげん疲れました。

濡れた合羽や傘をまとめつつ席について開演を待ちますが、こんなお天気にもかかわらずほとんど満席に近いのは驚きでした。
曲目はバッハ=レーガーの「おお人よ、汝の罪の大いなるを嘆け」に始まり、続いてベートーヴェンの「皇帝」で、白石さんの登場となります。

これまでCDでのベートーヴェンのソナタで感嘆していたほか、TVでもトランペットリサイタルのピアノなどで見ていましたが、とても品の良い丁寧な演奏であるし、やはり上手いというのが印象的でした。
ただし、ご本人の性格的なところもあると思いますが、どちらかというと穏やかなキッチリタイプの演奏で、個人的には、そこへもう一押しの迫りがあるならさらに好ましいように感じました。
でも、自己顕示欲のない、とてもきれいなピアノでした。

後半は同じくベートーヴェンの「運命」でしたが、久々に聴いた九響はやっぱり九響でした。
迫力はあるけれども、全体に粗さが目立ち、とりわけ弦の音色にはなんとなく細かい砂粒でも噛み込んだようなざらつきがあって、やわらかさ、艶やかさに欠けており、いささかうるさい感じに聞こえました。
アンサンブルにもより高度なクオリティが欲しいところですが、ここから先のもう一段二段というのが難しいところなのでしょう。

ピアノは新しいスタインウェイで、この日の悪天候のせいもあるとは思いたいものですが、鳴りが芳しくなく、白石さんの敏腕をもってしてもピアノの音はしばしばオーケストラに掻き消され、まったく精彩がないのは聴いていてなんとももどかしいような気分でした。

終演後はロビーで白石さんのサイン会がある由で、新しくリリースされたハンマークラヴィーアなどのアルバムが目を惹きましたが、そこに白石さんの姿はまだなく時間がかかりそうでした。外を見るとさらに激しい雨足で、帰路のことを考えるとなんだか気が急いて、結果的に後ろ髪を引かれる思いで傘を開き、横殴りの雨の中を駐車場へ向かいました。

ともかく無事に帰宅できてやれやれというところですが、今思えば、やっぱりCDを買って少し待ってでもサインしてもらえばよかったなあ…と思っているところです。

2012/06/25 Mon. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

ノリントンの世界 

日曜朝のBSプレミアムのオーケストラライブには、このところ3週続けてロジャー・ノリントンがN響定期公演に登場しています。

曲目はお得意のベートーヴェンがほとんどですが、最後にはブラームスの2番(交響曲)もやっていました。
面白かったのは4月14日のNHKホールでの演奏会で、マルティン・ヘルムヒェン(ピアノ)、ヴェロニカ・エーベルレ(バイオリン)、石坂団十郎(チェロ)をソリストにしたベートーヴェンの三重協奏曲で、これはなかなかの演奏だったと思います。

マルティン・ヘルムヒェンはドイツの若手で、以前もたしかN響と皇帝を弾いていたことがありましたが、その時は気持ちばかりが先走っていささか独りよがりという感じでしたが、今回はピアノパートも軽いためかとても精気のある適切な演奏をしていましたし、ヴェロニカ・エーベルレはソリストの中心的な重しの役割という印象でした。
石坂団十郎は確かドイツ人とのハーフですが、まるで歌舞伎役者のようなその名前に恥じない、なかなかの美男ぶりで、なんだかステージ上に一人だけ俳優がいるようでした。

ノリントンの音楽はいわゆるピリオド奏法でテンポも遅めですが、どこか磊落で、彼なりの解釈と信念が通っており、マロニエ君の好みではありませんが、しかし確信に満ちた音楽というものは、それはそれで聴いていて心地よく安心感があるものです。

また、4月25日のサントリーでの演奏会では河村尚子をソリストに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番が演奏されましたが、これが実に見事な演奏で非常に満足でした。

正直言うと、マロニエ君はこれまで河村尚子さんの演奏にはあまり良い印象がなく、以前これもまた皇帝を演奏した折に、あまりに曲の性格にそぐわない自己満足的な演奏にがっかりして、それをこのブログに書いた覚えがありますが、それが今度の4番ではまるで別人でした。

まずなんと言っても感心したのは、ノリントンの演奏様式に則った、バランスの良い演奏で、ほとんどビブラートをしない古典的演奏スタイルによるオーケストラとのマッチングは素晴らしいものでした。しかも音楽には一貫性があって、呼吸も良く合っており、妙にもったいぶって自分を押し出そうとする以前の振る舞いはまったく影をひそめて、いかにも音楽の流れを第一に置いた姿勢は立派だったと思います。

おそらくはノリントンという大家の監視が厳しく効いていて、勝手を許さなかったということもあったのでしょうし、事前の打ち合わせと練習もよほど尽くされた結果だと思いますが、だからこそ、先のトリプルコンチェルト同様に聴く側が違和感なく音楽に身を委ねることができたのだろうと思われます。
そういう意味では、音楽上の民主主義的な指揮者は結果的にダメな場合が多いし、近ごろは練習不足の本番が多すぎるようです。

河村さんはベートーヴェンの偉大な、しかも繊細優美なこの作品の大半をノンレガートを多用して極めて美しく、かつ熱情をもって弾ききり、こういう演奏をやってのける能力があったのかと、一気にこのピアニストを見る目が変わりました。

印象的だったのは、上記いずれの演奏会でも、ピアノは大屋根を外して、オーケストラの中に縦に差し込んで、ノリントン氏はピアノのお尻ちかくに立って指揮をしていましたが、まさに彼の音楽世界にオケもソリストも一体となって参加協力しているのは好ましい印象でした。

さらにおやっと思ったのは、いずれもピアノはスタインウェイでしたが、あきらかに発音が古典的な、どこかピリオド楽器を思わせる不思議な調整だったことで、そこまで徹底してノリントンの音楽的趣向が貫かれているのはすごいもんだと思いました。

2012/06/24 Sun. 00:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

巨大客船 

昨日の午前中、友人が博多港に巨大客船が入港していることを知らせてきました。
彼は高速バスで職場に向かう途中、都市高速からときおりこの手のクルーズ船が入港していると言っていましたので、また見かけたときは知らせて欲しいと頼んでいたのです。

マロニエ君は、とくに船に興味があるわけではないものの、巨大なクルーズ客船というのを一度も見たことがなかったので、いつかチャンスがあれば一度は現物を拝んでみたいもんだと思っていたのです。

友人の情報では同日午後7時には出発するとのことで、見るならぐずぐずしていられません。
そこで夕方近く、用事にかこつけてちょっと港のほうへ廻って見物に行ってきました。
博多港には大小いくつもの埠頭があり、停泊している旅客ターミナルそのものがある埠頭へ行くよりも、その対岸に位置する埠頭から見た方がいいような気がして、まずはそちらに向かいました。

天神の北にある那ノ津埠頭は、広大な道路とアクション映画さながらの荒涼とした倉庫街のようなところですが、車で走りながら建物の合間から遙かむこうに停泊する巨大船の上部がチラッと見え始めて、その化け物的な大きさに思わず息を呑みました。

この埠頭では、大型トラックが縦横に行き交い、貨物船の荷役作業などがおこなわれている関係者のみのエリアが大半で、なかなか見物に適した場所がありません。
ようやく一箇所、海面に面した場所を見つけて車をとめると、目の前には桁違いに大きい、白い高層ビルを横に倒したような途方もないサイズの船が、その偉容をこちらに向けて静かに停泊していました。

聞きしに勝る大きさ!としか云いようがなく、周りにいる船がまるでコバンザメのようで、他を圧するとはこういうことを云うのかとしみじみ実感しました。
写真を撮るなどした後、ついでなので、停泊している埠頭のほうへも廻ってみましたが、近づくにつれますますその巨大さが露わになります。車を運転しながら手前の景色の向こう側に船の上部が見えてくる感じは、船と云うよりも、ほとんど普通のビルのような趣です。

船首にVoyager of the Seasとあり、帰宅してネットで調べてみると、なんと「1999年就航当時、タイタニックの4倍、QueenElizabeth2世の2倍の大きさを誇る世界最大客船として注目を集めた」とありました。
…どうりで大きい筈です。

さて、大きさは大変なものでしたが、では客船として優美な姿かといえばさにあらずで、漠然とタイタニックのような船を豪華客船のイメージとするなら、そういう美しさとはおよそかけ離れたものというのが率直なところでした。

まるで大型リゾートホテルを海に浮かべたようで、これでもかといわんばかりの構造物が船の床面積いっぱいに、上へ上へと積み重ねられており、パッと見たところでも10階はあるようです。
しかも、こんなにも大きいのに、なんとなく余裕のない、息苦しい、ケチケチした感じに見えました。
人は数千人単位で乗っているらしく、なんだか現代のざわざわした日常生活がそのまま海に浮かんで移動しているようです。
船内の眩く豪華な様子の写真も見ましたが、それもホテルと遊園地とショッピングモールを一緒にして遮二無二押し込んだようで、いわゆる船旅の優雅とは違ったものに見えました。

ちなみにネットのデータによれば、総トン数137,276トン、乗客と乗組員を合わせると約4000人以上にも達し、全長は310mとほぼ東京タワーの高さに匹敵するようです。

ともかく、思いがけなく、とてつもないものを見物できました。

2012/06/22 Fri. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

復元か新造か 

つい先日、あるスタインウェイディーラーから送られてきたDMによると、1878年製の「The Curve」という名のニューヨークで製造されたスタインウェイのA型が、メーカー自身の手で修復されて販売されているというもので、なんとケースとフレーム以外の主要パーツはすべて新品に交換されている旨が記されています。

単純計算しても134年前のピアノというわけですが、修復というよりは骨組み以外は新規作り直しという感じで、楽器の機械的な耐久性という意味ではなんの心配もなく購入することができるということでしょう。
当然ながら、ボディやフレームにも新品と見紛うばかりの修復がされていると思われますので、旧き佳き時代のピアノとして見る者の目も楽しませるでしょうし、今やこのような選択肢もあるというのはなにやら夢があるような気になるものです。

たとえ世界屈指の老舗ブランドといえども、現今のピアノに使われる材質の低下、それに伴う音色の変化などに納得できない諸兄には、このようなヴェンテージピアノをメーカー自身がリニューアルすることによって、新品に準じるような品質で手にできるということ…一見そんな風にも思われますが、厳密にはその解釈の仕方は微妙なのかもしれません。

ともかくリニューアルの施工者がメーカー自身というのなら、一般論としての価値や作業に対する信頼も高いでしょうし、それでいて価格もハンブルクのA型新品より3割近く安いようですから、こういうピアノに魅力を感じる人にとっては朗報でしょう。

ただし、強いて言うなら、新しく取り替えられた響板やハンマーフェルトの質が、1878年当時と同じという事はあり得ず、少なくともその質的観点において、当時のものと同等級品であるかといえばそれは厳密には疑問です。枯れきったよれよれの響板が新しいものに交換されれば、差し当たり良い面はたくさんあるでしょうが、ではすべてがマルかといえば、事はそう簡単ではないようにも思います。

また作業の質や流儀にも今昔の違いがあるでしょうから、現代の工法に馴れた人の手で、どこまで当時の状態の忠実な再現ができるのだろうとも思います。仕上がった状態を、もし昔の職人が見たら納得するかどうか…。まあそういう意味合いも含めて、おおらかに解釈できる人のためのピアノと云うことになるのかもしれませんね。

やみくもに古いものは良くて新しいものはダメだと決めつけるつもりは毛頭ありませんが、おそらく19世紀後半であれば、良いピアノを作るための優れた木材などは、当時の社会は今とは較べるべくもない恵まれた時代だったことは確かです。

聞くところによれば、現在ドイツなどは環境保護の目的で森林伐採は厳しく制限され、ピアノ造りのための木の入手も思うにまかせないという状況だそうですが、そんな時代に新品より安く販売されるリニューアルピアノのために、オリジナルに匹敵する稀少材が響板に使われるとは考えにくいし、それはハンマーフェルトも同様だろうと思います。

さすれば、スペックの似た現代のエンジンを積んだクラシックカーのようなものだと思えばいいのかもしれません。そう割り切れば、パーツの精度などは上がっているはずで、もしかしたら部分的な性能ではオリジナルをむしろ凌ぐ可能性さえもあるでしょうね。
これはつまり、新旧のハイブリッドピアノと考えれば理解しやすい気がします。

2012/06/21 Thu. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

あいまいな国境 

楽器メーカーのゼネラルマネージャー兼技術者として海外で長く活躍された方をお招きして、ピアノが好きな顔ぶれと食事をしながらあれこれの話を伺うことができました。

ピアノビジネスの黄金時代は過ぎ去って久しく、今はメーカーも生産台数も激減、さらにはアジアの新興勢力の台頭によりピアノ業界の様々な情勢にも、かつては思いもよらなかったような変化が起こっているようです。

少し前に、チェコのペトロフピアノの社長さんが「ペトロフはすべてヨーロッパ製」と発言されたらしいという事を書いたところ、さるピアノ技術者の方から「建前はそうなっているけれども、一部に中国の部品を使っている」ということを教えていただきました。

どんな世界にも表と裏があるようで、様々な事実は、事柄によってセールスポイントにされたり、はたまた積極的に語られないなどいろいろのようです。

考えてみれば、日本のピアノでもヤマハがヨーロッパのハンマーフェルトを輸入して自社工場で加工して使っているとか、カワイにも機種によってはイタリアのチレサの響板やロイヤルジョージのハンマーを使ったモデルもあるし、両者共に多くのモデルはアラスカスプルースを使うなど、海外からの輸入品を必要に応じて使っていることは昔から当たり前です。

こう考えると、純粋に一社は言うに及ばず、一国、もしくはひとつのエリア内だけで産出された材料を使って一台のピアノを作り上げると云うことのほうが、もはや難しいのかもしれません。
フランスのプレイエルに至ってはコンサートグランドのP280は、丸々ドイツのシュタイングレーバーに生産委託しているというし、そのシュタイングレーバーやシンメルは以前から日本製のアクションを使っているとのことで、その実情は様々なようです。

純アメリカ産モーターサイクルとして名高いハーレーダヴィッドソンも、そのホイールは長らく日本のエンケイなんだそうですし、多くのヨーロッパ車が日本のデンソーのエアコンやアイシン製オートマチックトランスミッションを載せているのは今や普通のことで、イギリスのミニに至ってはBMW製で既にドイツ車に分類されているなど、驚かされると同時に、ときに我々はそれを「安心材料」として捉えている場合さえあるほどです。

エセックスが中国で作られ、ボストンもディアパソンもカワイ製、ユニクロもアップル製品も中国製だし、要するに今や政治的な国境線を遙かに跨いで、さまざまなビジネスが自在に往来しながら効率的に成り立っていると云うことだと思います。驚いたのは、ニューヨーク・スタインウェイの純正ハンマーは日本の有名なハンマーメーカーが作っているという話まであるらしく、中には虚実入り混じっている部分もあるかもしれませんが、マロニエ君はこれを追求しようとは思いません。
ことほどさように物づくりの現場においては良いと判断されれば(品質であれ価格であれ)、現代の製造業はどこからでもなんでも調達してくるのが当たり前になったということを、我々は認識すべき時代になったことは間違いないようです。

とりわけピアノ製造のようにきわめて存立の難しいビジネスでは、理想論ばかりを振りかざしていても仕方がなく、相互に補助し合い、需給を生み出すことでコストや品質を維持するのは自然でしょう。

まあ、日本などは食糧自給率が40%と、ピアノなんぞのことをつべこべいう前に、自分達の食べ物の心配をしろということになるのかもしれませんが。
2012/06/19 Tue. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

チャイコフスキーガラ 

昨年のチャイコフスキーコンクールの優勝者のうち、声楽を除くピアノ、ヴァイオリン、チェロの優勝者(および最高位)によるガラコンサートの様子をテレビから。
今年4月に行われた日本公演のうち、サントリーホールでの23日のコンサートです。

それぞれダニール・トリフォノフ、セルゲイ・ドガージン、ナレク・アフナジャリャンという3人でしたが、最も好感を持ったのはヴァイオリンのドガージンで、ロシア的な厚みのある情感の豊かさが印象的でした。

しかし全体としては、3人とももうひとつ演奏家としての存在感がなく、世界的コンクールを征した青年達とは思えない精彩に欠けた演奏だったことは残念でした。おまけに合わせものでのトリフォノフは練習不足が露わで、コンサートの企画ばかりが先行して肝心の準備が追いついていないのはちょっと感心しません。

最近の欧米の若い演奏家全般の特徴としては、音楽に対する情熱やエネルギーがどうも以前より痩せていて、ビート感などはむしろ弛緩して劣ってきているように感じることがしばしばです。
全体を見通したがっちりした構成力、その上での率直な感情表出などの聴かせどころなど、音楽を聴く上での醍醐味がないことが大変気にかかります。よく言えば小さく整った優等生タイプで、悪く云えば強引なぐらいの喜怒哀楽の波しぶきなどもはやありません。

自分が表現したい何かではなく、書かれた通りの音符を音に再現し、無事に弾き終えることに目的があるようで、だから聴き手に伝わってくるメッセージ性がない(あるいは薄い)。ただ練習を重ねたパーツとパーツがネックレスのように繋がっているようで、これでは聴くほうも音楽に乗ろうにも乗れません。
具体的な傾向としては全体に確信と流れがなく、それなのに速いパッセージに差しかかるとやたら急いで見せたり、反対に、間の取り方などはさも恭しげで意味深ぶって、そこがまたウソっぽい。

現代は、科学の裏付けのある合理的なメソードが発達しているので、練習を開始した子供の中から難しい曲を弾けるようになる人は昔より高い確率で出てくるはずですが、それと引き換えにオーラのある天才の出現は久しくお目にかからなくなりました。
とくに欧米は音楽を志す人そのものが激減しているそうで、つまり畑が狭くなり、育てる種の数が少なくなれば、それだけ光り輝く才能が出にくくなるのもやむを得ない事でしょう。
これでは楽器を習う子供の数が桁違いに多いアジア勢が優勢なのも当然だと思います。


トリフォノフは一昨年のショパンコンクールのときからファツィオリにご執心のようで、この日もサントリーのステージにはF278が置かれていました。

右斜め上からのアングルで映したときのフレームや弦やチューニングピンなどの工芸品のような美しさは印象的ですが、楽器としての危うさみたいなものがない。ディテールの造形も鈍重で、全体のフォルムはとても大味ですね。
ピアノを造形で語っても仕方ありませんが、音は華やかですが硬くて立体感に乏しく、しばらくすると耳が疲れてくる感じに聞こえました。

遠鳴りのスタインウェイをホールで弾くと、むしろ音は小さめなぐらいな印象がありますが、その点でファツィオリは弾いているピアニストに力強い手応えを与えるのかもしれません。やはり好みの分かれるピアノだと思いました。

2012/06/18 Mon. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

サド侯爵夫人 

『サド侯爵夫人』は『鹿鳴館』などと並んで、三島由起夫の戯曲の最高傑作に数えられる作品で、深い交流のあった澁澤龍彦の『サド侯爵の生涯』に着想を得て書かれたものであることは良く知られています。

初演以来、世界的にも高い評価を得て何度も上演を重ねていますが、今年4月に世田谷パブリックシアターで上演された舞台の様子がBSプレミアムで放映されました。

この作品には、サド侯爵夫人のルネ、その母モントルイユ夫人をはじめ、わずか6人の女性しか登場せず、当のサド侯爵はいわば影の主役であって舞台上に登場することはありません。

驚いたことには、演出は狂言師の野村萬斎によるもので、能や狂言の手法を取り入れたものということで「言葉による緊縛」などと銘打った公演だったようですが、率直に言って未消化の部分も多く、装置や衣装も同意できない点が多々ありました。
主役の蒼井優は膨大な台詞をよく頑張りましたが、この役に対していささか軽量という印象を免れませんでしたし、奔放で悪徳の擁護者であるサン・フォン伯爵夫人を演じる麻美れいはいささか力みすぎで、役のキャラクターに対して表現過多かつ台詞まわしの雑なところが目立ちました。

しかし、もっとも驚いたのは白石加代子扮するモントルイユ夫人で、しつこいばかりの、もののけのような演技の連続で、あまりにも品位に欠けるという他はありませんでした。表情はいつも大げさに目を剥き、声は始終だみ声を張り上げては不可解なアクセントがつき、中でも驚いたのは、ほとんど台本に書かれた日本語の意味とは無関係にしばしば句読点を打ったり勝手気ままにブレスをしている点でした。
「言葉による緊縛」はこの人には適用されなかったようです。

白石加代子は役柄によっては存在感を示せる強さのある役者なのかもしれませんが、およそ三島作品、わけてもサドのようにパリが舞台の貴族社会が舞台ともなると、まるで場違いな異質な感じが際立って、この芝居の大きな柱のひとつとも云うべき重要な役を江戸時代の怪談語りのように変えてしまい、三島の芸術世界や、作品の本質をまったく見誤っているとしか云いようがありません。

三島の戯曲は、その格調高い絢爛とした日本語の美しさを、言葉の調べのように再現するためにも、役者は複雑な台詞を音楽的かつ明晰にしゃべらねばなりません。同時に並外れた洗練も必要で、その考え抜かれた豪奢な文体に過剰な緩急をつけたり、新劇風の感情表現を加え過ぎたり、恣意的な表現があるとたちまち作品の持つ密度感が損なわれます。
おそらく三島が観たなら、決して満足できない舞台だったに違いないと思いました。

それでも、今どきはたえて聞かなくなった美しい日本語の洪水に耳を傾けるのは抗しがたく、とうとう3時間半を超すこの言葉の劇を明け方まで見てしまいました。

昔は感銘を受けた作品ですが、今にして感じることは、いささか長すぎるのではないかという点で、あまりにも装飾的な台詞が延々と続き、さすがに緊張感が途切れるところがあり、ヴァーグナーの影響でも受けたのでは?などとふと思ってしまいました。

2012/06/16 Sat. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

CD漁り 

久しぶりにタワーレコードに寄ってみましたが、ワゴンセールなどを物色せずに素通りすることはなかなか困難です。

今回もあれこれとセール品漁りをしたあげく、ついまた博打買いをしてしまいました。
「博打買い」とは、なんの情報も予備知識もないまま、まったく価値のわからないものを、専ら直感だけで購入してしまう事を自分でそう呼んでいます。

ひとつはユーリー・ボグダーノフ(1972年生まれ)によるショパンの2枚組で、ワルツ、バルカローレ、スケルツォ、ソナタ、ポロネーズ、即興曲、エチュード、ノクターン、バラード、マズルカといった、ショパンの作品様式をほぼずらりと取り揃えたような演奏が並んでいます。
曲目はいわゆる名曲集的なものではないものの、すべてが馴染みの作品ばかりで、ピアニストもまったくの未知の人であるほか、「Classical Records」という名の、これまで見たこともないロシアのレーベルで、表記もロシア語だったことが惹かれてしまった一因でした。
かつてのソヴィエト時代のメロディア・レーベルのような、鉄のカーテンの向こう側を覗くようなドキドキ感が蘇って、ちょっとそのロシア製のCDという怪しげなところについ引き寄せられてしまったようです。

調べてみると、ボグダーノフはモスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワやミハイル・ヴォスクレセンスキーに師事したらしく、ロシアのピアニストにはよくあるタイプの経歴の持ち主のようです。

期待したわりには演奏は至って普通というか、むしろ凡庸といった方がいいかもしれないもので、ロシア的怪しさはさほどありませんでした。むしろロシア的だったのは数曲において途中のつぎはぎが下手なのか、しばしば微妙にピッチが変わるなど、予期せぬ意味での雑味のある点が「らしさ」と云えないこともありませんが、純粋に演奏という意味では、正直言って期待値を満たすものではありませんでした。

もうひとつは、19世紀末に生まれ20世紀に活躍したイギリスの作曲家、ベンジャミン・デイルとヨーク・ボーウェンのピアノ曲のCDですが、こちらはまさにアタリ!でした。
こういうことがあるから博打買いはやめられないのです。

20世紀の作曲家といっても無調の音楽ではなく、ロマン派やドビュッシーの流れをくむ中に独自の新しさが聞こえてくるという、いわば耳に受け容れやすい音楽で、ベンジャミン・デイルのピアノソナタは、決して重々しい作品ではないものの、途中に変奏曲を内包する演奏時間40分を超える大曲で、何度聴いても飽きの来ない佳作だと思いました。
この曲はヨーク・ボーウェンに献呈されているもので、いかにもこの二人の同国同業同時代人同士の信頼関係をあらわしているようでした。

後半はそのヨーク・ボーウェンの小組曲で、こちらは3曲で10分強の作品ですが、即興的なおもしろい個性の溢れる曲集で、これまた存分に楽しむことができました。

演奏は知られざる名曲をレパートリーにしながら独自の活動としている、これもイギリス人ピアニストのダニー・ドライヴァーで、その安定感のある正確で爽やかなテクニックと見通しのよい楽曲の把握力は特別な才能を感じさせるものです。
彼はほかにもヨーク・ボーウェンのソナタ集や、バラキレフの作品、はたまたC.P.E.バッハの作品集などを録音するなど、独自な活動をするピアニストのようでそれらも聴いてみたいものです。

2012/06/15 Fri. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヴンダーの日本公演 

2年前のショパンコンクールで第2位だったインゴルフ・ヴンダーの、今年4月の日本公演の模様が放送され、録画をようやく見ました。

紀尾井ホールでのリサイタルで、リストの超絶技巧練習曲から「夕べの調べ」、ショパンのピアノソナタ第3番とアンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズというものでした。

率直に云って、なんということもない、むしろ凡庸な、まるで手応えのない演奏でした。
普通はショパンコンクールで第2位という成績なら、好みはさて置くとしても、指のメカニックだけでも大変なものであはずですが、テンポもどこかふらついて腰が定まらず、ミスをどうこう云うつもりはないけれどもミスが多く、この人の大きくない器が見えてしまって、なんだか肩すかしをくらったような印象でした。
全般的に覇気がなく、楽器を鳴らし切ることもできていないのは、デリケートな音楽表現をやっているのとは全く別の事で、聴いていてだんだんに欲求不満が募りました。

音楽の完成度もさほど感じられず、彼が果たしてどのような芸術表現を目指しているのか、さっぱり不明でした。
見ようによっては、まるで軽くリハーサルでもやっているようで、こういう弾き方なら、ピアノもさぞ消耗しないだろうと思います。

この人はコンクールの時には聴衆に人気があったというような話を聞いた覚えがありましたが、このリサイタルを聴いた限りでは、到底そのような片鱗さえ感じられませんでしたし、むしろ惹きつけられるものがないことのほうを感じてしまいます。この人の聴き所がなへんにあるのか、わかる人には教えて欲しいものです。

見た感じは人の良さそうな青年で、映画「アマデウス」でモーツァルトに扮したトム・ハルスのような感じです。演奏しながら細かく表情を変化させながら、いかにもひとつひとつを表現し納得しながら演奏を進めているといった趣ですが、実際に出てくる音はあまりそういうふうには聞こえません。

たしかコンクールが終わって程なくして、上位入賞者達が揃って来日してガラコンサートのようなものがあり、その様子もTVで放送されましたが、このときヴンダーはコンチェルトではなく、幻想ポロネーズを弾いたものの、別にこれといった感銘も受けなかったことをこのブログにも書いたような記憶があります。
やはり第一印象というものは意外に正確で、それが覆ることは滅多にありませんね。

これで2位というのはちょっと承服できかねるところですが、聞くところでは彼はハラシェヴィッチ(1955年の優勝者でポーランドのピアノ界の大物のひとり)の弟子らしいので、そのあたりになにか影響があったのか、詳しいことはわかりませんが、コンクールには常に裏表があるようです。
直接の関連はないかもしれませんが、4位のボジャノフがえらく憤慨して表彰式に出なかったというのもなんとなくわかるような気がしました。

その点で、優勝したアブデーエワは通常のリサイタルではコンクール時よりもさらに見事な演奏を披露し、彼女が優勝したことはピアニストとしての潜在力の点からも、とりあえず正しかったのだと今更ながら思うところです。

2012/06/14 Thu. 02:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

名器は蘇る 

夕方、時間が空いて、ちょっとうたた寝をしていると、5分も経ったかどうかというタイミングで電話がけたたましく鳴りました。

さるピアノ店のご主人からで、昨年秋にそのお店を訪問した際に、古くてくたびれた感じのニューヨーク・スタインウェイのM型が置いてあり、見た目も芳しくなく中はホコリにまみれて、調整もほとんど無きに等しい状態であったので、とくに意に止めることもしていませんでした。

ただ目の前にあるというだけの理由で、いちおう弾く真似のような事はしてみましたが、古くてくたびれたピアノというだけで、オーバーホールの素材にはなるだろうけれども、現状においては特に感想らしいものはありませんでした。

正直を云うと、個人的にはこれだったら日本製の新品の気に入ったものを買ったほうがどれほどいいかと思いました。それでもスタインウェイだからそれなりの値段はするのだろうし、果たしてこのままで買う人がいるんだろうか…と思ったほどでした。

そのピアノを、さすがにその状態ではいけないとここの社長さん(技術者)が思われたのか、はじめからそのつもりだったのかは知りませんが、ともかく今年に入ってオーバーホールに着手したという事は聞いていました。

マロニエ君がピアノの話なら喜ぶというのを知ってかどうか、別に買うわけでもないのに、とにかくそのオーバーホールの進捗を逐一報告してくださり、とりわけハンマーをニューヨーク・スタインウェイの純正に交換したことによる楽器の著しい変化については、熱の入った説明をたびたび(電話で)聞いていました。

ちなみに、スタインウェイのハンマーといってもハンブルク用はレンナーのスタインウェイ用で、フェルトの巻きが硬く、それを整音(針差し)によってほぐしながら音を作っていくのですが、ニューヨーク用ではまったく逆で、比較的やわらかく巻かれたフェルトに適宜硬化剤を染み込ませながら、輪郭のある音を作っていくという手法がとられます。

この社長さんによると、やはりニューヨーク・スタインウェイ用の純正ハンマーは楽器生来の個性に合っているという当たり前のような事実をいまさらのように強く体感された由で、弦も張り替え、塗装もやり直して、以前とは見た目も音も、まるで別物のようになったという話でした。
そして今回の電話によると、ある事情からこのピアノを吹き抜けのある天井の高い場所に設置してみたところ、アッと驚くような美しい響きが鳴りわたったのだそうで、「あれはなかなかのピアノだった!」と電話口で多少興奮気味に話されました。
つい「みにくいアヒルの子」の話を思い出しましたが、ともかくオーバーホールと調整と、置く場所によって、およそ同じピアノとは信じられないような違いが生じるという現実を、自分が案内をするからマロニエ君にもそこに行って、ぜひとも体験して欲しいというお話でした。

たいへん魅力的なお誘いで、近くならすぐにでも行きますが、そこは博多から新幹線で行くような場所ですから、いかにピアノ馬鹿のマロニエ君といえども二つ返事で行くわけにはいきませんが、やはり再び命を吹き込まれたスタインウェイというのは、元がどんなに古くてみすぼらしくても、ものすごい潜在力を秘めているんだなあと思わせられる話でした。
まだ自分でじかに触ったわけではありませんが、これが巷で云われるスタインウェイの復元力というものなのかと思うと、どんなものやらつい確かめてみたくなるものです。

2012/06/12 Tue. 02:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

主観で狙い撃ち? 

久しぶりの顔ぶれの友人達が集まって食事をしましたが、そこで出た話。

そのうちの一人が最近スピード違反で捕まったんだそうです。
場所は国道3号線の北九州市に近い上り方向だったとか。

いわゆる「ネズミ取り」ですが、よく通る道なので、そこでしばしば取り締りが行われているのは知っていたものの、すぐ前にも同じ速度で走っている車がいたために、その後ろを走っているぶんには大丈夫だろうと高をくくっていたそうです。
ところが実際にネズミ取りはおこなわれており、しかもすぐ前を走る車は捕まらず、後ろを走っていたマロニエ君の友人のほうが赤い旗を振られて停車を命じられたというのです。これにより「前に車がいたら大丈夫」という安全神話はもろくも崩れ去ったことになります。

あきらかに狙い打ちをされた形だったようで、結局はどの車に照準を当てるかという判断はレーダーを操作する警察官個人の判断と意志により決定されるようで、この場合、なんらかの理由、つまり目につきやすい車であるとか左ハンドルというような要素が不利に働くということだろうと考えられるそうです。

現に他に止められていたのは国産の高級乗用車などで、ますますその印象を強くしたと言います。

呆れたのは警察官の対応で、いきなり「すみませーん、ちょーっと速度が出ていたようですねぇ!」と満面の笑顔で第一声をかけながら、車から降ろされ、傍らに止められたマイクロバスのような警察車輌に移動させられる際にも、入口のステップに注意してくれという意味で「ここに、ひとつ段がありますので気を付けてください!」などと、必要以上に腰の低い、まるでどこぞの明るい営業マンのような口ぶりと対応なのは、却って嫌な気がしたそうです。

もちろん、速度違反者ということで警察官が居丈高になったり横柄な態度に出るのは絶対に好ましいことではありませんから、それに比べればマシだといえばそうなのですが、物事には自ずと限度というものがあり、あまりにも取って付けたような低姿勢に出られるのも違和感があるのは聞いていて同感でした。
そんなにまでへつらうような態度が必要なほどの内容なら、初めから取り締まるなと言いたくもなります。

すると別の友人がすかさず解説を差し込んでくれました。
違反検挙の場では、違反そのものを認めないとか、取り締まりの方法自体に問題があるというような言い分によって正当な主張をする人もいれば、いわゆる不当にゴネる人もいるわけで、警察としては極力ソフトな態度に出ることによって警察官および取り締まりそのものへの心証を良くして、できるかぎり素直に違反キップの処理に応じさせ、スムーズにサインさせるようというのが目的なんだそうです。

なるほどそういうことかと一応は思いましたが、どうも何かがどこかが間違っているような気がするのはどうしようもないところです。
それに、同じ速度のスピード超過であっても、やはり先頭を走るのと、それに続くのとでは、やっぱり罪の軽重でいうなら、先頭を走るほうが検挙されて然るべきだと思うのですが…。

2012/06/10 Sun. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

巻き線の名人 

岡山の浜松ピアノ店の通信誌からもうひとつ興味深い話を。

浜松にある、巻き線の名人がおられる工場取材というものでした。
ピアノの低音部は、芯線に銅線を巻き付けた「巻き線」が使われることはよく知られていますが、この巻き方がとても重要であるにもかかわらず、現在では生産効率とコストの関係でしょうか、機械巻きが圧倒的に主流となっているようです。
しかし、本当にすぐれた巻き線は、名人の手巻きによるものだと云われています。

この道の名人に冨田さんという御歳67になられる方がいらっしゃるそうで、小学校の高学年の頃からこの仕事に携わり、すでに仕事歴60年近いという大ベテランだそうです。

どんなピアノでも気持ちのよい低音を確保するためには、巻き線の品質が重要だそうで、植田さんのお店では新品のピアノであっても、より良い響きを求めてこの冨田さんの巻き線に交換することがあるそうですし、修理の際の弦交換の場合はいつもこれを使っておられるそうです。

この名人冨田さんの談で、なるほど!と思ったのは、『ピアノの弦というものは、弦の材質もさることながら、同じピアノでも張る弦の太さで張力が変わり、張力が変わると音色も響き具合も変わる』というものでした。
品質はまあ当然としても、太さで張力が変わり、そこから音色や響きにも違いが出るというのは気がつきませんが、云われてみれば確かにそうだろうと、おおいに得心のいく気分でした。

現在の巻き線は機械巻きが圧倒的主流で、ピアノの聖地浜松でさえ、この手巻きのできる技術者が極端に少なくなっているのだそうです。さらにはその少ない技術者の方々は皆さん年配の方ばかりで、この分野の若い技術者が育っていないというのが現状とのこと。
これはつまり、将来、手巻きによる優れた巻き線は、よほどでないと手に入らなくなることが予想されます。

現代のピアノは製品としての精度はとても高いし、中にはなるほどよく鳴るものもあるようですが、いわゆる馥郁たる豊かな響きを持った、自然でおっとりしたピアノが生まれなくなってしまったという事を、こうした事実が裏付けているようでもあり、とても残念でなりません。

現代社会はどのようなジャンルでも効率や平均値は猛烈に向上しましたが、それは同時に一握りの輝ける「本物」を失ってしまうことでもあるような気がします。
その波が文化や芸術までも容赦なく呑み込んでしまうのは、どうにかして食い止めて欲しいところですが、時すでに遅しといった観があるようです。

2012/06/09 Sat. 01:06 | trackback: 0 | comment: 0edit

ペトロフと中国 

岡山の浜松ピアノ店から、ここの植田さんとおっしゃる社長さんが書かれる「もっとピアノを楽しもう通信」という通信誌をいつも送ってくださいますが、今回も興味深い記述があれこれとありました。

このピアノ店の取扱いブランドのひとつであるペトロフの本社に視察に行かれたようですが、社長のペトロフさんが強調されるには、「ペトロフピアノはすべてヨーロッパ製である」ということだったとか。これは最近のヨーロッパピアノは一部の高級品を除くと、その多くがヨーロッパ圏外で作られるようになったということの証左でもあるようです。

そしておそらくその大半は、アジアの労働賃金の安い国々で作られているであろうことが推察できます。部分的なものから完成品に至るまで、そのやり方はメーカーによって様々だと思いますが、ともかくペトロフのような純ヨーロッパ産ピアノというのはずいぶん少なくなっているのは確かなようです。


もうひとつ紹介されていたのは、中国は大連から大学のピアノの先生が岡山のお店に来られて、中古のカワイを2台買って行かれたとのことでした。
そこでの話によると「中国製のピアノはすぐ壊れるし、中国にはまともなピアノ技術者がいないようで、中身にまったく手が入っていないのでダメ」とのことでした。

そのため、納入調律には「旅費・宿泊費を負担するので、ぜひ大連まで来て欲しい」という依頼まであったそうです。その先生の話によると、中国ではヤマハとカワイのブランド価値はほとんど同じで、国立大学の大半はカワイで色は黒が人気だそうです。
たしか中国の音大教授の間では、シゲルカワイを所有することがステータスになっているという話も思い出しましたが、なるほどそんな背景があるのかと納得です。

以前、別の方から聞いたところでは、中国製のピアノといっても品質はピンキリだそうで、外国メーカーによる技術や品質の管理も行き届いてかなり優秀なものもある反面、本当にどうしようもない粗悪品も珍しくないようで、まさに玉石混淆のようです。
ただし、マロニエ君も何度か中国に行った経験では、店に並んでいるピアノはどれも、およそ調整などとは程遠いという感じで、それは中国には高等技能をもったピアノ技術者がほとんどいないであろうし、美しいピアノの音の尺度もあまりないと思われ、その必要も未だ認識もされていないことをひしひしと感じさせるものでした。

どの街の、どの楽器店も、ホテルのピアノも、かろうじて音階のようなものだけはあるビラビラな音で、グランドもアップライトもあったものじゃありませんでした。
そんな中国のピアノ店でごくたまに見かけるヤマハやカワイは、それはもう大変な高級品という感じに見えたことを思い出しました。

2012/06/08 Fri. 01:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

貧しい時代 

昨日書いた音楽雑誌ですが、なにかこう…かすかに無常感を覚えるものとして繋がっていくことに、そのグラビアに見るウェイルホールのスタインウェイにもその要素を発見しました。

件の邦人のニューヨークでのリサイタルでは、ご当地のニューヨーク・スタインウェイが使われたようで、新しいモデルのようですが、なんとニューヨーク製の特徴である凝ったディテールのデザインにも、さらなる簡略化が進んでいました。
もはや、かつての威厳は感じられず、なんとなくしまりのないのっぺりした印象でした。

戦前のモデルに較べると、基本は同じなのに、その時代毎に装飾的なラインやデザインの大事な部分がだんだんに姿を消して行き、現在ではもうほとんどボストンピアノに近い感じにまで細部が省略されて、すっかりドライなデザインになってしまったようです。

むろん、ピアノは外観ではなく、音が勝負というのはわかっていますが、これほどはっきりとコストダウンの証を見せられると、音に関する部分だけは「昔通り」なんて夢見たいなことはとても思えません。
尤も、今はホロヴィッツやグールドのような超大物がいるわけでもなく、コンサートの世界も大衆化・平均化が進んだことも事実。それに呼応するように楽器であるピアノもかつてのような「特別」なものである必要はなく、製造・販売のビジネスが成り立つことこそが大儀であり、要するに商品としてはその程度で良いという企業判断と解釈すべきなのかもしれません。

まあそれが仮に正解だとするならば、なんとも虚しい現実なわけで、願わくは思い過ごしであってほしいものです。

その点に関しては、まだなんとか見た目の面目を保っているのはハンブルクです。
ハンブルクのほうは少なくとも外見上は、それほどの簡略化は今のところ見られませんが、内容に関しては風の噂では相当厳しいコストダウンの実体を耳にしますし、にもかかわらず最近ではアメリカのコンサートでも、以前とは比較にならないほどハンブルク製が使われることが多くなっており、そのあたり、一体どういう事情なのかと思ってしまいます。

米独両所のスタインウェイは、パーツに関しても以前より共通品がかなり増えたとも聞きますし、近年はついにハンブルクも響板にアラスカ産のスプルースを使うようになったらしく、ニューヨークは伝統のラッカー&ヘアライン仕上げの他に、黒の艶だし仕上げのピアノもかなり作っているようで、そこまで互いにおなじことをするのなら、そのうち製品統合でもするんじゃないかと思います。

来年は奇しくもスタインウェイ社の創業160年周年でもありますが、一台のピアノを作り上げるのに切り詰められた合理化やコスト削減は、おそらく歴史上最も厳しい時代ではないかとも思います。

まあ、要するに、金に糸目を付けないというのは極端としても、こだわりをもった製作者の良心の塊のような優れた楽器造りなどというものは、今のご時世にあってはほとんど夢まぼろしに等しいということなのかもしれません。
厳しい条件や限られたコストの中から、いかに割り切って、精一杯のものを作り出すかが現代の生産現場の最大のテーマなのだろうと思われますが、文化にとっては実に貧しい時代というわけです。

2012/06/06 Wed. 01:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホールもブランド 

書店で音楽雑誌を立ち読みしていると、ある日本人ピアニストがカーネギーホールデビューを果たしたということで、巻頭のカラーグラビアで大々的に紹介されていました。

さらにはその流れなのか、表紙もその人で、カーネギーホールとニューヨーク名物のイエローキャブ(タクシー)をバックに余裕の笑顔で写っていらっしゃいました。
まさに世界に冠たるこの街を実力で制覇したといった英雄のような趣です。

普通カーネギーホールというと、ホロヴィッツやニューヨークフィルで有名な「あの」カーネギーホールかと思いますが、実はカーネギーホールには大小3つのホールがあり、日本人の多くがコンサートをやっているのはウェイルホールという最小のホールのようです。

世界中のだれもがイメージするカーネギーホールといえば、あまりにも有名なメインホールのことだろうと思われ、ここは2800席を超す歴史的大ホールです。
19世紀末のこけら落としにはチャイコフスキーが指揮台に立ったことや、多くの名曲の初演(例えばドヴォルザークの交響曲「新世界より」など)がおこなわれるなど、まさに数々の伝説を生み出したホールです。

ピアニストに限っても、ラフマニノフやホフマン、ルービンシュタインなど音楽歴史上の綺羅星たちがこのステージに立って熱狂的な喝采を受けるなど、まさに100年以上にわたり音楽の歴史が刻まれた場所です。

さて、カーネギーホールとは云っても、ウェイルホールは座席数268と、規模の点でもメインホールのわずか10分の1以下の規模で、これで「カーネギーホールデビュー」というのも、まあ言葉の上ではウソではないかもしれませんが、ちょっとどうなんだろうか…と率直な感覚として思ってしまいます。
260席規模のホールというのはマロニエ君の地元にも有名なのがありますが、ニューヨークどころか日本の地方都市の尺度でも、それはもうかなり狭くて小さいところです。

現在のカーネギーホールは市の非営利運営だそうで、お金を出せば誰でも借りられて、さらに料金はどうかした日本のホールよりも安いぐらいだそうで、実際には無名に近い日本人演奏家なども箔を付けるため続々とこのウェイルホールでコンサートをやっているという話もあります。
そんな実態を知ると、ここでリサイタルをやったからといって、有名雑誌までもがそんな過大表現に荷担しているようでもあり、かなり異様な感じを覚えてしまいました。

これだから今の世の中、信用できません。
かつての歴史や権威性がブランドと化して、合法的に大安売りされるといった事例は枚挙にいとまがなく、なんとなくいたたまれない気分になってしまいます。

個人的には、カーネギーのウェイルホールで小さなリサイタルをするよりも、日本国内でも、例えば東京なら、サントリーホールや東京文化会館の大ホールでピアノリサイタルをすることのほうが、遙かに一人の演奏家としての真の実力と人気が厳しく問われると思いますが。

2012/06/05 Tue. 01:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

なまくら気分 

日増しに気温が上がっていくこの頃、この変化がどうも苦手です。
とくに日本では温度と湿度はセットのようにして両方上がっていくので、マロニエ君にとっては甚だしい二重苦となり、なんとなく気分までじりじり蒸発してしまうようです。

世の中には、冬が嫌いで温かくなると木々が芽を出すように元気増大していくひまわりみたいな人がいるものすが、マロニエ君はそれとは真逆の人間で、気温の上昇とともに次第にパワーを奪われていくようで、なんでもだらだらと億劫になっています。
仕事場に買ったノートパソコンも届いたのですが、すぐに使うものなのに初期設定さえも甚だ面倒だし、もう一台自分用に買った最新のマックも、とっくに届いているというのに、まだ箱さえ開けないまま物置に放り込んでいて、このままじゃ使わないうちに型遅れになりそうです。

いまここに書いたことでそれを思い出し、またまた暗澹たる気分になってきました。
こんな時期に内田百聞の阿呆列車を読んでいると、巨匠の味わい深い文章の力もあって、なまくら気分にいよいよ拍車がかかってくるようです。


週末はあるピアニストが遊びに来てくださいました。

ピアニストが来られたら弾かないまま帰すマロニエ君ではありませんから、当然ピアノを弾いてもらいましたが、快くいろいろと聴かせていただきました。
ショパンをいくつかの他は、バッハ、ベートーヴェン、ブラームスとまさに文字通りのドイツの三大Bがお並びになり、大いに楽しませてもらうことができました。

中でもブラームスでは、マロニエ君の楽譜の中から目敏くコンチェルトを見つけて、近ごろこの1番を弾いてみているとのことで、譜面を広げて少し弾いてもらいました。
これは個人的にも最も好きな協奏曲のひとつです。
ブラームスだけが持つ、仄かな影が差し込むような和声展開の美しには、思わず心が持って行かれるようです。

その後はさらに数名が合流して夕食会となりました。
ピアノは弾くだけでなく、それを基調としながら、あれこれとくだらないことまで楽しく語り合うのも大いなる楽しみのひとつです。

そのうちの一人は、最近より精密なタッチ調整をやってもらったとかで、結果はほぼ満足のいく状態になったということでしたが、ここまで来るにも優に一年以上かかっていますから、やはりピアノは根気よく「育てる」という認識を持って粘り強く接していかなければならない楽器だなあと思います。

この席には不在だった別の友人は、うらやましいことに現在フランス旅行中で、出発前からパリのピアノ工房に連絡を取ったりしている様子だったので、まかりまちがって戦前のプレイエルなんぞを買ってきやしないかとドキドキです。折からのユーロ安ですから、もしかして…。

2012/06/04 Mon. 01:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

愛情物語 

いつだったかタイロン・パワーとキム・ノヴァーク主演の名画『愛情物語』をやっていたので、録画しておいたのを観てみました。

子供のころに一度見た覚えがうっすらありましたが、主人公がポピュラー音楽のピアニストで、やたらデレデレしたアメリカ映画ということ以外、とくに記憶はありませんでした。
1956年の公開ですから、すでに56年も前の映画で、最もアメリカが豊かだった時代ということなのかもしれません。ウィキペディアをみると主人公のエディ・デューチンはなんと実在のピアニストで、その生涯を描いた映画だということは恥ずかしながら今回初めて知りました。

あらためて感銘を受けたのは、この映画の実際のピアノ演奏をしているのがあのカーメン・キャバレロで、彼はクラシック出身のポピュラー音楽のピアニストですが、昔は何度か来日もしたし、まさにこの分野で一世を風靡した大ピアニストだったことをなつかしく思い出しました。

最近でこそ、さっぱり聴くこともなくなったキャバレロのピアノですが、久々にこの映画で彼の演奏を聴いて、その達者な、正真正銘のプロの演奏には舌を巻きました。指の確かさのみならず、その音楽は腰の座った確信に満ちあふれ、心地よいビート感や人の吐息のような部分まで表現できる歌い回しが実に見事。まさにピアノを自在に操って聴く者の感情を誘う歌心に溢れているし、同時にその華麗という他はないピアニズムにも感心してしまいました。

タイロン・パワーもたしかある程度ピアノが弾ける人で、実際に音は出していないようですが、曲に合わせてピアノを弾く姿や指先の動きを巧みに演じてみせたのは、やはりまったく弾けない俳優にはできない芸当だったと思います。

映画の作り自体は、もうこれ以上ないというベタベタのアメリカ映画で、その感性にはさすがに赤面することしばしばでしたが、きっと当時のアメリカ人はこういうものを理想的な愛情表現だと感じていたのだろうかと思います。

画面に出てきたピアノはボールドウィンが多かったものの、一部にはニューヨーク・スタインウェイも見かけることがありましたが、実際の音に聞こえるピアノが何だったのかはわかりません。
ただ、この当時のピアノ特有の、今では望むべくもない温かな太い響きには思わず引き込まれてしまい、こんなピアノを弾いてみたいという気になります。

今から見てヴィンテージともいえそうな時代には、ボールドウィンやメイソン&ハムリンなど、アメリカのピアノにも我々が思っている以上の素晴らしいピアノがあったのかもしれません。

今でもそんな豊かな感じのするピアノがアメリカには数多く残っているのかもしれません。
2012/06/02 Sat. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit