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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

EX-L登場! 

新シリーズに移行したシゲルカワイ(SKシリーズ)では、EXは果たしてどのようになるのか、刷新されるのか、別の流れなのか、その動きをなんとなく傍観していたのですが、なんと、SK-EXはすでにラインナップから消えていることがわかりました。

はじめにあれっ?と思ったのは、北九州にまもなくオープンするひびしんホールですが、そこには3社のピアノが納入されるということで、スタインウェイDとヤマハのCFX(九州初納入?)、そしてカワイのコンサートグランドが納入される由でした。
カワイのピアノ開きのコンサートのチラシを見ていると、及川浩治さんの演奏でピアノのお披露目リサイタルが催されるものの、ピアノは単に『KAWAI EX』としか記載されていません。

てっきり、スタインウェイDとヤマハCFXを入れるので、カワイは格落ちの従来型EXなのかと思っていたところ、どうもそうではないようでした。

シゲルカワイの新しいカタログにもSK-EXの姿はなく、あくまでSK-7がシリーズ最高機種として扱われており、それはホームページを見ても同様で、SKシリーズとしてはSK-2からSK-7に至る5機種で完結しています。ところがその横のコンサートグランドには『EX-L』という見慣れぬ文字があり、???と思ってそこをクリックしてみると、なんとEX-Lという名の新しいコンサートグランドが登場しており、ボディ垂直面の内側には新SKと同様のバーズアイの木目が貼られた、新SKシリーズで先行した仕様になっています。

価格もヤマハとまったく同じ19,950,000円!
さらには全長も新SKと同様に2cm伸びて278cmになっています。
しかし、なによりも最も驚いたことは、SK-EXの場合はサイドにまで入れられたくねくねしたムカデみたいなロゴと、何の意味も見出せないピアノ形のなかにSKという二文字を入れただけの稚拙なマークが廃止され、伝統的な「K.KAWAI」がドカンと復活している点でした。

K.KAWAIは言うまでもなくカワイ楽器の創設者にしてピアノ設計者の河合小市を意味するもので、これは昔からカワイのグランドピアノだけに与えられた表記でした。そしてこの新しいコンサートグランドでは、サイドにはシンプルにKAWAIの文字が遠目にも見えるように大きく輝いており、もともとこうあるべきだと以前から思っていたので、そのことは「マロニエ君の部屋」にも書いている通りでしたが、まるで願いが叶ったようでした。

これをもって、カワイのグランドピアノの頂点に位置する旗艦モデルは、あくまでもK.KAWAIであるというヒエラルキーになり、シゲルカワイはレギュラーモデルの脇に立つスペシャルシリーズという位置付けになったようです。
海外のコンクールでも、あのロゴマークだけはどうしようもなく恥ずかしかったので、今後は堂々と、あらゆるシーンで胸を張って活躍して欲しいものだと思います。

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2012/05/31 Thu. 01:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

転勤 

世に言う「転勤」というものは、友人知人を通じて身近に接してみると、やはりなかなか厳しいものだなあというのが率直な印象です。
なにしろ行き先もその時期も、自分の意志とは無関係に事は決していくのですから大変であり苛酷です。

ごく最近も親しい友人が東京勤務を命じられ、長年住み慣れた土地を離れることを余儀なくされて、先日お別れ会というほどではないけれども食事などを共にしました。
なんでも、来月の上旬には新しい職場に出社していなくてはならないそうで、この間わずか一ヶ月ほどという慌ただしさですが、それでも内々に教えてくれた上司のお陰で通常よりも早くその事を知り得たのだそうで、本来ならわずか2週間ほどしかないとか。あらためてすごいなあと思いました。

電力会社に勤めている別の友人も、昨年の震災からほどない時期の東京へ移動を命じられて大変驚いたものでした。あまつさえ彼は自宅を新築している最中で、その竣工を待たずして妻子を残して単身上京の運びとなりました。
しばしば帰省しているようではありますが、せっかくの新居ができて早一年が経つというのに、まだまとまった時間をその家で過ごしたこともないらしく、もうしばらくは帰れそうにないというのですから、なんとも気の毒な気分になります。

マロニエ君は職業柄、サラリーマンではないので転勤という上からのお達しによって、突如まったく違う土地へ有無を云わさず引っ越しをさせられるといった事がないために、自分の経験としてその感覚がわかりません。
準備期間らしきものはほとんどなく、しかも命令は絶対でしょうから、まさに生活そのものを竜巻にでも持ち去られるごとくで、それまで築き上げた本人や家族のさまざまな人間関係まで、一気にむしり取られてしまうのは、考えれば考えるほど苛酷なものだと感じます。

今どきは、事柄においては異常な程、さまざまな人の権利が声高に叫ばれる時代になりましたが、どうもこの転勤という社会の慣習だけは一向に変化の兆しがないようです。

そういう意味では、保守的で前時代的でもあり、自らの意志によって一箇所に安定して深く根を下ろした生活を営んでいくことは現実的にできないことでしょうし、サラリーマンになるということは、それを含めた覚悟までがセットのようなものだろうと思います。転勤に関しては昔の武士がいつでも腹を切るがごとく、日頃から転勤命令を想定しておく必要があるのでしょう。

ついでながら、転勤事情にまるきり無知なマロニエ君にしてみれば、とくに根拠もなく、転勤といえば春秋の一定期間におこなわれる事で、とりあえずその時期を過ぎればまた半年はその心配(もしくは希望?)がないものと思っていましたが、これら友人の状況を見ても明白なように、彼らはいずれもいかにも中途半端な時期に移動を命じられているわけで、これは要するにいつ転勤を言い渡されるかは、年がら年中いつでもその可能性があるということらしいというのがわかりました。

慣例に従えば、2、3年でまた移動になる可能性もあるということで、こちらに復帰することもあるでしょうから、それまでしばしのお別れです。

2012/05/29 Tue. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

吉田秀和翁 

音楽評論の大御所にして最長老であった吉田秀和さんが亡くなられたそうです。
御歳98だったとのこと、まさに天寿を全うされたわけでしょう。

最後まで現役を貫かれたことは驚くべきで、レコード芸術の評論をはじめ、氏の文章には長きにわたってどれだけ触れてきたか自分でも見当がつきません。
テレビにも折に触れて出演されましたが、老境に入ってからドイツ人の奥さんが亡くなったときは生きる希望を失い、自殺も考えたというほどの衝撃だったというようなことも語られていたのが今も印象に残っています。

それでもやがてお仕事に復帰され、執筆活動はもとよりNHKラジオの番組(題名は忘れました)は40年以上にも渡って継続して番組作りから司会までこなされるなど、その深い教養と尽きぬエネルギーにはただただ敬服していたものです。

また東京芸大と並び立つ、日本屈指の音大である桐朋学園は、この吉田さんや斎藤秀雄さんの尽力によって「子供のための音楽教室」としてスタートし、吉田さんはここの初代室長を務められるなど、いわば桐朋の生みの親でもあるといえるでしょう。
ここから小沢征爾、中村紘子など後の日本の主だった音楽家が数多く巣立っていったのは有名な話です。

私事で恐縮ですが、マロニエ君が子供の時、この桐朋の「子供のための音楽教室」の福岡での分校のようなところで音楽の勉強の真似事のようなことができたのはとても懐かしい思い出です。

吉田さんが日本の音楽界に与えた功績はとても簡単には言い表すことのできない規模のもので、優秀なオーケストラとして名高い水戸室内管弦楽団を結成したり、音楽を超えたジャンルにまで及ぶ吉田秀和賞の創設など、言い出すと知らないことまで含めてとてつもないものだろうと思います。

しかし、マロニエ君が最も吉田さんの仕事として尊敬尊重していたのは、やはり音楽評論という氏の本業の部分であって、その人柄そのもののような穏やかで格調高い文章、音楽評論という場において日本語の美しさをも同時に紡いで表現されたその文体は、気品に満ちた独特の吉田節のようなものがあり、これは誰にも真似のできないものだったと思います。

吉田秀和といえばあまりにも有名なのが、初来日したホロヴィッツの演奏を聴いて、その休憩時間にテレビインタビューに応じられた際のコメントでした。覚えているのは「彼はもはや骨董品になったな。骨董品は価値のある人には価値があるが、ない人にはもうない。ただしその骨董品にもヒビが入った。もう少し早く聴きたかったな。」というものでした。
まったくの記憶だけで書いているので、多少違っているかもしれませんが、ほぼこのようなコメントだったことを覚えています。

この寸評はたちまち世に喧伝され、ついにはこの神にも等しい世紀の大ピアニストに対していささか不敬ではないか?という論調まであらわれたのを覚えています。しかし、マロニエ君は頑として吉田さんの意見に賛成でしたし、彼はまったく正しいことを言ったのだと思い続けたものでした。

この時のホロヴィッツはそのカリスマ性、伝説的存在、魔性、突然の来日、当時(1983年)5万円也のチケット代など、なにもかもが話題沸騰という状況で、そんな中をついにこの圧倒的巨匠がNHKホールのステージに姿をあらわしました。プログラムにもそれまで彼のレパートリーにはなかったシューマンの謝肉祭があるなど、テレビの前に陣取るこちらも高ぶる期待に胸を躍らせながら、その画面を固唾を呑んで見つめたものです。

しかし、その演奏は呆気にとられるような無惨なもので、この状況にあっては吉田さんのコメントはきわめて妥当で誠実、むしろ知的な抑制さえ利かせたものだったと思いますし、むしろ不自然なほど素晴らしい!と褒めちぎる日本人ピアニストなどの発言のほうがよほど偽善的で、そんなことを平然と言ってのける人の神経のほうを疑ったものです。

今は音楽批評とはいってもいろんな制約に縛られており、おまけに半ばビジネス絡みでやっているようなものですから、大半の批評はマロニエ君はもはや信頼していません。そして最後の良心の象徴であった吉田さんが亡くなられたことで、ますますこの流れに歯止めがかからなるような気がします。

いずれにしろ吉田さんの著作や生き様はいろいろと勉強になった上にずいぶん楽しませてもいただいたわけで、ご冥福をお祈りすると共に謹んで御礼を申し上げたい気分です。

2012/05/28 Mon. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

2つのオペラ 

このところテレビ放映されたオペラを2つ観ました。
…正確には1つとちょっとと云うべきかもしれません。

ひとつはボリショイ劇場で上演されたグリンカのオペラ『ルスランとリュドミラ』。
序曲ばかり有名なわりには、一度も本編を観たことがなかったのでこれはいい機会と思って見始めたところ、どうしようもなく自分の好みとは相容れないものが強烈だったために、全体で4時間に迫るオペラの、わずか30分を観ただけで放擲してしまいました。

これでもかとばかりのくどすぎる豪華な舞台には優雅さの気配もなく、音楽もなんの喜びも感じられないもので、とりあえずDVDには録画して、いつかそのうちまた…という状態にはしたものの、たぶん観ることはないでしょう。
ちなみに開始前の解説によると、初演に臨席したロシア皇帝ニコライ一世もこの作品が気に入らず、途中退席してしまった由で、いかにもと思いました。

いっぽう、6年という期間をかけて全面改修成ったボリショイ劇場ですが、建造物はともかくとして、新たにスタートした新しい舞台の数々には共通したものがあって、これがどうしようもなくマロニエ君の趣味ではありません。

以前も同劇場の新しい『眠りの森の美女』をやっていましたが、このルスランとリュドミラと同様の違和感を感じました。とくにやみくもに豪華絢爛を狙い、深みや落ち着きといったもののかけらもないド派手な装置や衣装は、目が疲れ、神経に障ります。新しいということを何か履き違えている気がしてなりません。

もうひとつはフランスのエクサン・プロバンス音楽祭2011で収録された『椿姫』でした。
マロニエ君は実はこの演目の名を見ただけで、あまりにもベタなオペラすぎて観る気がしないところですが、エクサン・プロバンスという名前にやや惹かれてつい観てしまいました。

というのもこのオペラの有名なアリア「プロヴァンスの海と陸」の、そのプロバンスで上演された椿姫ということになるわけですね。椿姫の恋人であるアルフレードはプロバンスの出身という設定で、第2幕ではヴィオレッタとの愛に溺れた生活を送る息子を取り返しに来たアルフレードの父親が、故郷を思い出せという諭しの意味を込めながらこの叙情的な美しいアリアを歌います。
あらためて聴いてみると、しかしこのアリアはやはり泣かせる名曲だと思いましたが、椿姫そのものが、全編にわたって名曲のぎっしり詰まった詰め合わせのようだと思わずにはいられませんでした。

ナタリー・デセイの椿姫、アルフレードはチャールズ・カストロノーヴォと現在のスター歌手が揃います。さらにはアルフレードの父親はフランスの名歌手リュドヴィク・テジエ、しかもフランスで上演されるオペラなのにオーケストラはなぜかロンドン交響楽団というものでした。

ジャン・フランソア・シヴァディエによる演出は、ご多分に漏れず舞台設定を現代に置き換えた簡略なもので、マロニエ君はこの手のオペラ演出を余り好みません。
やはり筋立てや出演者のキャラクターが、現代にそのまま置き換えるには随所に齟齬を生み、違和感があり、説得力がないからで、それは音楽においても舞台上の進行との密接感が損なわれるからです。

このような現代仕立ての演出の裏には、伝統的なクラシックな舞台を作り上げるためのコストの問題があるらしく、非日常の享楽であるべきオペラの世界までもコストダウンかと思います。

2012/05/27 Sun. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

楽器と名前 

ストラディヴァリやグァルネリのようなクレモナの由緒あるオールドヴァイオリンには、それぞれに来歴やかつての所有者にちなんださまざまな名前が付いています。

そのうちの一挺である「メシア」は数あるストラディヴァリウスの中でも、ひときわ有名な楽器で、それは300年もの年月をほとんど使い込まれることもなく、現在もほぼ作られた当時のような新品に近い状態にある貴重なストラディヴァリウスとして世界的にその名と存在を轟かせています。
「メシア」の存在は少しでもヴァイオリンに興味のある人なら、まず大抵はご存じの方が多いと思われますし、マロニエ君ももちろんその存在や写真などではお馴染みのヴァイオリンでした。

現在もイギリスの博物館の所有で、依然として演奏されることもなくその美しい状態を保っているようですが、その美しさと引き換えに現在も沈黙を守っているわけで、まずその音色を聴いた人はいないといういわく付きのヴァイオリンです。

高橋博志著の『バイオリンの謎──迷宮への誘い』を読んでいると思いがけないことが書かれていました。それは「メシア」という名前の由来についてでした。

19世紀のイタリアの楽器商であるルイジ・タシリオはこの美しいストラディヴァリウスの存在を知って、当時の所有者でヴァイオリンのコレクターでもあったサラブーエ伯爵に直談判して、ついにこの楽器を買い取ることに成功します。
普段はパリやロンドンで楽器を売り歩くタシリオですが、この楽器ばかりは決して売らないばかりか、人に見せることすらしなかったそうです。自慢話ばかりを聞かされた友人が「君のヴァイオリンはメシア(救世主)のようだ。常に待ち望まれているが、決して現れない。」と皮肉ったことが、この名の由来なんだそうです。

あの有名な「メシア」はそういうわけで付いた名前かということを知って、ただただ、へええと思ってしまいました。

ピアノはヴァイオリンのような謎めいた楽器ではありませんけれども、古いヴィンテージピアノなどには、このような一台ごとの名前をつけると、それはそれで面白いかもしれないと思います。

そう考えると、自分のピアノにもなにかそれらしき根拠を探し出して、いかにもそれらしき名前をつけるのも一興ではという気がしてしまいました。自分のピアノにどんな名前をつけようと何と呼ぼうと、それはこっちの勝手というものですからね!
巷ではスタインウェイを「うちのスタちゃん」などと云うのが流行っているそうですが、せっかくならもうちょっと踏み込んだ、雰囲気のある個性的な名前を考えてやったほうが個々の楽器には相応しいような気もします。

名前というのは不思議なもので、モノにも名前をつけることでぐっと親密感が増し、いかにも自分だけの所有物という気分が高まるものです。こういうことは度を超すとたちまちヘンタイ的ですが、まあ、ひとつふたつの楽器に名前をつけるくらいなら罪もないはずです。

みなさんも気が向いたらピアノに素敵な名前をつけてみられたらどうでしょう?

2012/05/25 Fri. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

基本は同じでも 

先週末はフランス車のクラブミーティングがあってこれに参加しましたが、この日はとくに同一車種が集合するというテーマが設けられ、とくに該当する車種だけでも5台が集まりました。

さて、同一車種が5台とは云っても、実は1台として同じ仕様はなく、エンジン、ボディ形状、サスペンション、A/T、生産時期などがすべて異なり、各車のテストドライブではそれぞれの違いが体感できて、貴重な体験となりました。

クルマ好きが集まっての「車前会議」が思う様できて、なおかつ自由に試乗もできる環境ということで、昔からしばしば利用している福岡市西区の大きな運動公園の駐車場が今回も会場となりました。
ここは広大な敷地があって、出入り自由な駐車場も第3まである余裕の施設で、おまけに駐車場は美しい芝生になっているので、このような目的には恰好の場所となっています。

同一車種であるために、5台の基本的な成り立ちはもちろん共通していますが、上記のような仕様の違いは車にとって無視できない違いを生み出しており、一長一短、それぞれに個性があって、こんなにも違うものかと思いました。

なんとなく、これはピアノにも共通していると思われることでした。
基本が同じ設計のピアノでも、材質や使われるパーツの仕様、技術者の違い、管理の仕方によってほとんど別物といっていい差異が生じるのは、むしろ車どころではないという気もします。

とくにピアノで大きいのは技術者の技量と仕事に対する姿勢、そして管理による優劣だろうと考えられます。
ピアノは車のような純然たる工業製品でなく、楽器というデリケートかつ曖昧な植物のような部分を多く内包しているため、技術者の技術力とセンスに多くを委ねられているわけです。

車や電気製品なら機能も明確で、故障や不調は明瞭な現象としてあらわれますが、ピアノのコンディションはきわめて微妙な領域で、判断そのものからして専門的になるので、どこからを好ましからざる状況だと判断するかは価値観によるところもあって大変難しいところといえるでしょう。

好調不調のみならず、そこには好みの問題も加味され、これを受け止めつつ常時ある一定の好ましさに維持するのは、もっぱら技術者の腕ということになりますし、どこまで要求し納得するかは使い手の精妙なるセンサーに頼るしかありません。
さらには、いかに使い手が一定の要求をしても、一向にそれを解さず、あるいは面倒臭がって仕事として着手しない技術者が少なくないのも現実ですし、逆にそういう領域にまで踏み込んだ高度な調整を施しても、まったくその価値に鈍感な使い手もいたりと、このあたりがピアノという楽器のもつ難しさなのかもしれないという気がしてしまいます。

車ぐらいの分かりやすさがあれば、必然的にもっと素晴らしいピアノの数も増えることだろうと思います。

2012/05/23 Wed. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

H.J.リム-3 

思いがけずマイブームになってしまったH.J.リムは、驚くべきことに、なんとベートーヴェンのソナタ全集(ただし第19番、第20番を除く)を完成させているといいますから、もしかしたら、この若いピアニストが、ウー・パイクでコケてしまった韓国人のベートーヴェンで名誉挽回するのかもしれず、懲りもせず購入検討中です。
発売は5月下旬(つまり間もなく)の由。

ちなみにネットで見るジャケットには「BEETHOVEN COMPLETE PIANO SONATAS」と書かれていますが、上記の2曲が抜けているにもかかわらずCOMPLETEと書くのは、ソナタは30曲と見なしているという意味なんだろうかと思いました。
たしかにこの2曲はソナチネだといわれたらそうなんですが…。

ともかく優等生タイプもしくはコンクールタイプの多い今の時代に、このような個性溢れる情熱的なピアニストが出現したことを素直に喜びたいこの頃です。

最後になりましたが、使用ピアノについて。
ライナーノートのデータによれば、この演奏はすべてスイスでおこなわれ、ピアノはヤマハのCFXが使われています。ピアノに関しては過日のチャイコフスキーのコンチェルト同様に、やはりちょっと違和感があって、まったくマロニエ君の好みではなかった点は残念でした。

やはりというべきは、CFXは非常に美しい音のピアノだとは思いますが、いかんせん表現の幅が感じられません。大曲や壮大なエネルギーを表現する作品や演奏になると、たちまちピアノがついていかないという印象がますます拭いきれなくなりました。
整音や響きの環境の加減もあるとは思いますが、強烈な変ロ長調の和音で開始されるハンマークラヴィーアの出だしを聴いたら、このピアノの懐の浅さがいきなり飛び出してくるようでした。
フォルテ以上になったときの楽器の許容量が不足しているのか、この領域ではこのピアノの持つ美しさが出てこないばかりか、いかにも苦しげな音に聞こえます。
金属的というよりは、ほとんどガラス繊維が発するような薄くて肉感のない音で、ときに悲鳴のように聞こえてきて、それがいっそうH.J.リムの演奏を誤解させるもとにもなったように感じました。
音そのものがもつヒステリックで破綻した感じが、まるで演奏者のそれであるかのようにも聞こえます。

H.J.リムがベートーヴェンの録音にCFXを使った意味はわかるような気がします。
いかにも先端的で多感な彼女のピアニズムには、いわゆるドイツ系のピアノよりはヤマハのような新しい感性で作られたピアノのほうが相応しいだろうというのは理解できるところです。
とりわけ軽さとスピード感はヤマハの優秀なアクションだけが達成できる領域かもしれません。

というわけで、このところのいろいろな演奏を聴いて、CFXの弱点も少し露見してきたように感じているところです。はじめは感心したメゾフォルテまでの美しさにくらべて、フォルテ以上になるといきなりアゴをだしてしまうのはいかにも情けない。さらに言うと、その美しさには憂いとか陰翳がなく、いかにも単調でイージーな美しさであることがやや気にかかります。
ここまで高性能なピアノを作ったからには、却ってあと一歩の深さ豊かさがないところが悔やまれます。
今の状態では、俗に言う「大きな小型ピアノ」の域を出ないという印象ということになるでしょうか。

このCDのレーベルはEMIですが録音はなかなかよかったと思います。
すくなくと駄作続きのDECCAなんかにくらべると、まったく次元の異なるクオリティを有していると思いますし、それだけに演奏の新の魅力や価値、ピアノの性能などもよく聞き取ることができたように思います。
2012/05/22 Tue. 01:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

日曜剪定 

夏を前にして、植木の剪定を頼まなくてはと思っていたところ、友人が「おもしろそうだから切ってやる」と言い出したことがきっかけで、まずは自分達でやってみることになりました。

平凡な植木ですが、それでも年月と共にだんだん大木然とした風体になり、せっかく刈り込みをしていても、一年も経つと枝葉はすっかり伸びて生い茂り、気がついたときにはかなり暑苦しい状態になってしまいます。
植物の生命力、とりわけ春先の樹木の繁茂は目を見張るものがあり、日ごとに確実に日陰の量を増大させてくるのは脅威的ですらあります。植物の成長には目に見える動きもなければ、むろん音もなく、それでいて全体が同時進行的に生きているので、そのぶんのえもいわれぬ不気味さを感じます。

…しかしものは考えようで、震災以降は深刻な節電が叫ばれるご時世となり、去年あたりからでしょうか「緑のカーテン」などという言葉を良く耳にするようになったので、今年は枝葉が伸びることを逆手にとって、少しでも暑さしのぎになればとやや前向きに考えるようにもなりました。

とは云っても、本格的な夏になれば、多少の木陰があろうがなかろうが、暑いことには変わりはないでしょうが、それでも直射日光に焼かれ続けるよりは僅かな違いはある筈で、気休め程度にはなるのかもしれません。
とはいえ放っておいたらとんでもないことになるのはわかっているので、やっぱり少しは手を入れないとこのまま伸び放題に委せるわけにもいきません。

マロニエ君は自慢じゃありませんが、まるでアウトドア派じゃないし、土いじりも植木いじりもべつに好きではないので、剪定が楽しいなどという意識は皆無なのですが、それでも最低限やらざるを得ないものは仕方がありません。本来なら本職に委ねるべきところですが、幸い友人が酔狂なことを言ってくれるので運動を兼ねて遊び半分にやってみることになりました。

友人が木に登ることを前提に、命綱なんぞというものを持ってきたのには一驚しましたが、万一のことがあったら取り返しがつかないし責任が取れないので、そんなものが必要なところへ登るのは絶対にないように言い含めて、手近にできるところから植木屋の真似事のようなことを始めました。

我が家には電動ノコギリの類は恐いのでひとつもなく、折り畳み式のノコギリと剪定用の大きな鋏で不要な枝葉を切り落とすなどしましたが、これが意外にもスイスイと良く切れるのは感心します。

日曜はとりあえず2回目の作業となり、のべ数4、5時間の作業でだいぶ見た感じはスッキリしましたが、あと1回は来てもらわなくてはならないようです。
それはいいとしても、あちこちの木の下には切り落とされた枝や葉が山のように積み上げられて、さてこれをどう処分するかが目下の課題です。
これまでの経験では、植木屋に頼んでも支払う金額の過半を占めるのは切った枝葉の処理に要する費用だと云っていましたし、今どきはこれを焚き火にして灰にしてしまうこともできません。

いろんなことが窮屈な時代になったものですが、ともかくいい運動になりました。

2012/05/21 Mon. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・ハンマー実験 

ずいぶん長いこと抱えていた音への不満が、ハンマーをたったひとつ取り替えてみただけで大きく変化するなんて、当たり前かもしれませんが、正直言って思ってもみないことでした。

今ついているハンマー(純正)も決していいものではないだろうとは思っていたものの、その原因はもっと広範囲にわたっているだろう…つまりボディなど別の部分にも広がっていることだろうと思っていたわけで、要は「このピアノはこんなもの…」という諦めが先行して、単純なこの結果にかなり驚いてしまいました。

調律時に引き出されるアクションを見るたびに、そこにずらりと並ぶハンマーがやや小ぶりではないか?という一抹の疑いは常に抱えていたのですが、やはりその点は間違いではなかったようで、おととい調律師さんが持ってこられたレンナーのハンマーは全体に少し大きいようでした。

ただしここで解決の兆しを見せたのは音の問題だけで、ハンマーの変化(とくに質量)によってタッチなどはまったく変わってしまうわけでその問題が残ります。ハンマーのわずかなサイズの増大でも、確実にタッチは重くなり、それに見合うバランスを取るには鉛詰めなどあれこれの調整を必要とするわけで、つまりこのハンマーがただちに我がピアノに向いているかどうかというのは、よくよく慎重な検討と判断を必要とすることのようです。

というわけで、もとのハンマーに戻されることになり、調律師さんはせっせと整音作業をやっておられます。
しかし、マロニエ君にしてみれば、ひとつだけ付け替えたハンマーが生み出す厚みのある音にすっかり惚れ込んでしまって、いまさら好みでもないこれまでのハンマーにいくら整音なんかしたってムダなような気分に陥ってしまいますが、せっかくやってもらっているものをそうも言えません…。

さて、そのレンナーのハンマーはといえば、机の上に置かれた小さな段ボール箱の中に、ちゃんと一台分が揃っており、しかも、特に使う予定はないというところがなんとも悩ましいではありませんか。
なんでも、自分の工房にあるコンサートなどに使っているピアノ(セミコン)のために取り寄せたものだそうですが、好みとは合わなかった為に、アベル(別のメーカー)のハンマーに再び付け替えてしまったので、このハンマー一式は宙に浮いている状態らしいのです。

マロニエ君にしてみれば、現状に比べたら遙かにいい音だったので、もうこれでいいから交換して欲しいと思ったのは自然な流れでした。
しかし、調律師さんというのはどなたもそうですが、技術者としての自分の拘りや厳格な判断基準をもっているもので、すぐに「はい承知」というわけにはいかないようです。

タッチの問題やら、万一気に入らなかった場合に元に戻せるようにする処置のこととか、さまざまなお考えがあるらしく、こちらからすればなかなかじれったいものです。
それでも易々と引き下がるマロニエ君ではありませんので、せいぜい説き伏せて、なんとかこのハンマーを使えないかと迫ったところ、とりあえず検討してくださることになりました。

ということで突如降って湧いたようなハンマー交換作戦となりそうです。
はてさて、どうなりますことやら…。
2012/05/19 Sat. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

ハンマー実験 

約半年ぶりでしょうか、カワイのグランドの調律に来てもらいました。

このピアノ、かねてよりマロニエ君としてはいささか気に入らない点があり、それは奥行き 2m以上と図体はそれなりに大きいくせに音にもうひとつ深みがないということでしょうか。
以前はそれを各所の調整の積み上げによって解決できないものかと考えていましたが、さんざんあれこれやってもらったもののあまり変わらず、要はこのピアノが持っている声の問題だろうということに結論づけて、最近ではほとんど諦めの境地に達していました。

いっそオーバーホールでもして、弦やハンマーを新品に取り替えればまた違った結果もでるかもしれないものの、さすがにそこまでする状態でもなく、いうなればどっちつかずの状況にいたわけです。
通常の調律はともかくとして、マロニエ君がいつも調律師さんにお願いしているのは、専らタッチと音色の問題でしたが、思いがけなくこの点に関して興味深い実験をしてもらうことになりました。

すでに製造から20有余年が経過していることでもあり、とりわけハンマーはとうに賞味期限を過ぎているものと思っていましたが、調律師さんに云わせると必ずしもそうではないらしく、要はこのハンマーのもともとの性格だろうという見立てでした。

さて、その実験というのは、ほぼ新品同様のレンナー製(ドイツの老舗メーカー)ハンマーを持参してくださり、ハンマーの違いでどうなるか、試しにひとつだけシャンクごと取り替えてくれました。
果たして、その音はこれまでこのピアノで一度も聴いたことのなかったような、太くて厚みのある力強い音が現れ、まわりの薄っぺらな音とはまるで違っているのは率直に驚きでした。実際にハンマーのサイズもひとまわり大きいし新しいぶんパワーと柔軟性を併せ持っているのでしょう。
従来どちらかというと音色に明るさのなかったカワイが、この機種からややブリリアントな方向を目指していたようですが、そのためにやや小ぶりで俊敏なハンマーを採用していたらしく、それがマロニエ君の常々感じていた不満に繋がっていたのだと考えて差し支えないようでした。

これにより、とりあえずの問題点はボディや弦ではなく、専らハンマーにあるということが裏付けられたことになりました。予想外の音が出て小躍りしているマロニエ君を尻目に、「じゃあ元に戻しますね」といわれて大きく落胆したのはいうまでもありません。

調律師さんとしては、不満の原因がどこにあるのかを確かめただけでもこのような実験をした意義があったと考えているようですが、マロニエ君にしてみれば味見だけさせてもらって、望外の美味に喜んでいるところでサッとお皿を下げてしまわれるごとくです。

合計4時間に及んだあれこれの作業は終了して帰って行かれましたが、これは悩ましいことになったと思い始めたのはいうまでもありません。

映画『ピアノマニア』でせっかく届いたハンマーが予定していたものより細いので、急遽手配をし直すというワンシーンがなぜかふと頭をよぎりました。

元に戻すのが忍びなかったのか、ひとつだけつけたレンナーのハンマーはひとまず付いたままにしてあります。…いつまでもこの状態にしておくわけにもいきませんけれど。

2012/05/18 Fri. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

難しい季節 

このところやや落ち着いた感じもしなくはないものの、まだまだ今の季節は体調の思わしくない人が多いようですね。

マロニエ君もその例に漏れませんが、だいいちの問題はなんとも安定しない移り気な気温です。
暑くなったかと思うとまた少し肌寒さがあったり、そうかと思うとまた逆戻りしたり…。
しかもその暑さ寒さがいかにも中途半端で、明瞭に暑いとか寒いとかいうのではない範囲での寒暖差が発生するわけで、これがくせものです。

毎日の天気もころころと変化を繰り返すだけでなく、一日のうちでも朝夕など時間帯によって予想しなかったような温度差が生じて、こういうときにうっかりすると風邪をひきそうになりますし、それでなくても身体の調整機能がついていけません。

呆れてしまうのは、自宅にいても、部屋によってまったくバラバラな温度で、同日同時刻でもやや蒸し暑いような部屋もあれば、一転して肌寒くて上からシャツを一枚羽織りたくなるような部屋もあったりと、これはよほど気を引き締めてかからないといけません。

どこのお宅でもそうかもしれませんが、やはり二階のほうが直射日光にも近いぶん温度が上昇するものでしょうか。そうかと思うと二階でも廊下は涼しかったりするし、パソコンや電気機器の多い部屋はそれだけでも温度が微妙に違います。

それに追い打ちをかけるように、湿度にも上下の乱れがあり、個人差もあるとは思いますが、この湿度の不安定というのも体調管理の邪魔をする要因だと思われます。
まだまだあります。
この季節は中国大陸から黄砂がつぎつぎにやってきては街を汚し、車に降り積もり、人々の呼吸器にまで悪さをしているようで、マイナス要因が多岐に渡ることもこの季節を乗り切ることの難しさだろうと思います。

あまたの植物が一斉に芽吹く季節というものは、それだけ大自然の有無を言わさぬ力というものがあり、人の体の中にあるいろいろな要素も併せて芽吹かせてしまうようで、これにはもちろんマイナスの要因も含まれるであろうため、余計なものまで発芽発達して、結果として体調を崩すのではないかと思うのですが、実際のところはどうなんでしょう。

すでにピアノを置いている部屋では除湿器が日によって動き始めていますが、例年よりも取れる水の量が少なく感じるのは、合計3台取りつけているダンプチェイサーのせいだろうか…などと考えているところです。

2012/05/17 Thu. 01:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

昨年のウチダ 

少し前にBSプレミアムで昨年の内田光子の様子が放映されました。

ザルツブルク音楽祭2011からの室内楽コンサートと、3月にミュンヘン・ガスタイクホールで行われたバイエルン放送交響楽団演奏会からベートーヴェンの第3協奏曲で、指揮はマリス・ヤンソンスでした。

ザルツブルク音楽祭ではマーク・スタインバーグ、クレメンス・ハーゲンとの共演でシューベルトの三重奏曲「ノットゥルノ」ではじまり、これは高いクオリティ感にあふれた見事な演奏でした。
続いてはイアン・ボストリッジとの共演で、シューマンの詩人の恋でしたが、ウチダにはシューベルトのほうがはるかにマッチングがいい印象があり、シューマンではロマンティックな「揺れ」みたいなものが不足しており、肝心な部分での歌い込みの熱っぽさとか線の太さがなく、ややドライな印象を受けました。

ボストリッジの歌は、ひとつひとつのフレーズやアクセントがしつこすぎて、深くえぐるような表現に持っていこうという狙いなのかもしれませんが、ちょっとやり過ぎに感じられてあまり好みではありませんでした。

いっぽうのベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番は、これも期待ほどの演奏には感じられませんでしたし、ウチダと共演すると、オーケストラのほうでも彼女の妙技を邪魔してはいけないと考えるのか、妙に力感のないエネルギー感の乏しい演奏だったのが気にかかった点です。

ウチダのピアノはいまさら云うまでもありませんが、繊細優美で格調高いことが世界でも認められているのはもちろんですが、あまりに拘りが強すぎて、あるいは己に没入しすぎて、あちこちで曲の全体像を見失いがちになることが多すぎるのは相変わらずでした。(本人はそうは思っていないのでしょうけれど)
随所に余人には到底真似のできない息を呑むような美しさがある反面、前に進むべき音楽がしばしば停滞し、彼女の独りよがりに陥って、聴く者にしばしば忍耐を強いるのはやはり疲れてしまいます。

それでも、どうかするとこれ以上ないというほどドンピシャリにピントの合った瞬間があり、理想的な優美な音楽を聴かせるあたりが、この人の抗しがたい魅力なのかもしれません。

それと、つくづくと思ったのはベートーヴェンのピアノ協奏曲の中でも第3番はまさに作風の上でも、ベートーヴェンが独自の個性を確立したエポックな作品ですが、演奏するのは極めて難しいものであることも再確認したところです。

曲の規模や構想の大きさのわりには音数が少な目で、大胆さと繊細さの平衡感覚がよほど緻密な人でないと、この作品をベートーヴェンらしく鳴らし切るのは大変だろうと思います。細部の表現性に拘泥するよりも、ぼってりとある意味泥臭く弾ける人のほうが向いている曲のような気もします。
第2楽章は5曲の協奏曲中随一ともいえそうな魅力と芸術性にあふれたもので、ふとこのラルゴのために前後楽章が置かれているような気さえしてしまいます。

少なくともウチダにとっては第4番のほうが遙かに彼女のテンペラメントに合った曲という気がしました。

2012/05/16 Wed. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

新SKシリーズ発表会 

天神のレソラNTT夢天神ホールにて、カワイの新SKシリーズのレセプション・イベントがおこなわれ、お招きをいただいたので参加してきました。

この建物は、下にアメリカの高級デパート、バーニーズ・ニューヨークがある、現在の天神界隈でも最も新しい注目スポットという場所で、このような会場で新SKシリーズのイベントを行うということは、カワイもなかなか思い切ったことをやるものだと思いました。

街中の最も中心的な場所で新機種の発表会をするということは、いつものショールームにただピアノとカタログを置いておくのとはまた違ったインパクトもあり、売る側にも士気高揚の効果があるのかもしれません。

受付を済ませると、記念品の入った袋一式と自分のフルネームを書かれた名札を受け取りますが、こんなものを胸につけるのも恥ずかしいのでどうしようかと思いつつ、みなさんそうしていらっしゃるのでやむを得ずマロニエ君もつけることに。

5FのレソラNTT夢天神ホールには新品のSKシリーズが何台も展示され、さらにホールのステージには新SK-6が誇らしげに鎮座しています。
予定通りにお歴々のスピーチがおこなわれた後は、地元のピアニスト和田悌さんによる演奏が40分ほど行われ、それに続いて立食パーティという式次で、このパーティのスタートと同時にステージを含めどのピアノも自由に試弾できるという趣向でした。

個人的には、期待していた技術的な内容に踏み込んだ説明はほとんどなく、この点は非常に残念でした。
表現力アップのために鍵盤を2センチ長くしていることは再三強調されましたが、これにともなって全面的な設計変更かと思っていたら、やや疑問な点もいくつか残り、これは後日確認したい課題となりました。

会場はカワイの従業員の方々が勢揃いという感じもあり、お客さんのほうもカワイを愛奏する大学の先生はじめ、ピアノの先生などが主たるメンバーだったようにも感じました。

聞くところでは、新SKシリーズが販売が好調なのか、もともとの生産台数が少ないのか、はっきりとした理由まではわかりませんが、ともかく台数が足りないということでした。
ちなみにステージにあった新SK-6は、この後太宰府のショールームに置かれるのかと思っていたら、そうではなくすぐに大阪へ移動とのこと。
このピアノはコンサートで聴く限りはもうひとつ鳴りが硬いようで、これは楽器が新しい故のことかもしれません。直感的に新SKシリーズのベストバイはSK-2、SK-3、せいぜいSK-5あたりではないかという漠たる印象を持ちましたが、これはもちろんマロニエ君の個人的な感想です。

いずれにしろ、この価格帯では最高ランクのピアノだと云うことはほぼ間違いないという印象には変わりありませんでしたし、カワイもそのあたりはじゅうぶんに認識しているのだろうと思います。

いただいた袋を開けてみると、浜松のお菓子で「音合わせ」という名の、袋にピアノの鍵盤のついた焼き菓子が入っており、まるで調律師が名付け親のようなその拘りぶりというか、いかにも浜松ならではという感じについ微笑んでしまいました。
日本のピアノの聖地である浜松にも、また行ってみたいものです。

2012/05/14 Mon. 02:19 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノ三昧な一日 

福岡市南区にある瀟洒なギャラリーを兼ねたホール、日時計の丘でおこなわれた望月未希矢さんのピアノリサイタルに行きました。

曲はバッハのフランス組曲第6番、ベートーヴェンのピアノソナタ第31番ほか。
望月さんのピアノは決して力まない自然体が身上で、清流が静かに流れ下るような演奏が印象でした。冒頭のバッハから羽根のように軽い響きの織りなす美しい音楽が会場を満たし、バッハの作品をこれほど幸福感をもって弾けるのだということを初めて体験したような気分になりました。

この小さなホールのいつもながらのふわりとした美しい響きと、1世紀を生き抜いて尚現役として音楽を紡ぎ続けるブリュートナーの美しい音色にもいまさらのように深い心地よさと覚えました。
ブリュートナーとバッハは、ライプチヒという共通項で結ばれているわけですが、なるほどこのピアノはバッハを弾くには最良の楽器のひとつと言えるのかもしれませんし、実際に耳で聴いてもそう感じずにはいられないものがこのピアノの中には密かに息づいているようでした。

バッハでは旋律にふっくらとした輪郭線が表れ、ベートーヴェンではときにフォルテピアノを思わせるものがあって、その音を聴いているだけでも飽きることがありません。
上部の窓から入る自然光がやわらかに会場を明るく照らし出す中を、心地よい音楽に包まれながら、ときに木の床を伝わってくるピアノの響きの振動が足の裏にまで伝ってくるとき、まるで自分が鳴り響く音楽の中心に身を置いているような気分になることしばしばでした。

終演後は、この日のピアニストやホールのオーナーや偶然お会いした知人らとしばし歓談して、まことに心豊かな時間を過ごすことができました。

オーナー氏の談によれば、なんでも今年の夏を皮切りに10年間にわたってバッハの鍵盤楽器のための作品の全曲演奏をおこなうという、まことに壮大なる企画が進みつつあるのだそうで、これはまた楽しみなことになってきたようです。

この日は昨年遠方に移り住んだ知人が折良く福岡に来ていましたので、コンサートの後は一緒に行った知人のご自宅へお邪魔して、ご自慢の素晴らしいスタインウェイピアノを弾かせていただきながら歓談して、外に出たときは陽が落ちて真っ暗になっているほど時間の経つのも忘れて長居をしてしまいました。

これでお開きになることなく、さらには食事にまでなだれ込み、尽きぬ話題で大いに盛り上がり、深夜遅くの帰宅と相成りました。
まさに丸一日、ピアノ三昧な一日でありました。

2012/05/13 Sun. 01:59 | trackback: 0 | comment: 0edit

H.J.リム-2 

はじめはかなり違和感を感じたH.J.リムですが、繰り返し聴いているうちに、こちらの受け止め方もあるときから急旋回して、これはやっぱり面白いピアニストだと気付くようになりました。
逆に言うと、違和感を感じながらも何度も聞かせるだけのオーラがこの演奏にはあったということでもあると思われます。

その演奏の第一の特徴は、とにもかくにも灼けつくような生命感にあふれていることですが、同時に驚くべきはその例外的な集中力の高さだと感じました。この点は天賦のものがあるのは明らかで、およそ勉学や努力で成し遂げられる種類のものではなく、彼女が持って生まれたものでしょう。
ひとたび曲が始まると、どの曲に於いても彼女の並外れた感性が留まることなく動き回り、まさに曲それ自体が生き物であることをまざまざと思い知らされます。
そして一瞬もひるむことなく、終わりをめがけて一気呵成に前進していく様は圧巻で、聴く者は彼女の音楽の流れの中で彼女が辿っていく喜怒哀楽を味わい、共に呼吸をさせられます。

音楽作品というものが、そこに生まれ立ってから終結するまでを、これほど直截的に克明に描き出す演奏家はなかなかお目に掛かったことがありません。
唯一の存在といえば、あのアルゲリッチでしょう。

「どう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえない」と初めのうち思ったのも偽らざるところでしたが、にもかかわらず、何度も繰り返し聴くうちに、しだいに彼女が感じて表したい世界がわかってくるのは非常に面白い、ぞくぞくするような体験でした。
ひとつ言えることは、H.J.リムというピアニストは間違いなく、ただの演奏家ではなく独立したひとりのまぎれもない芸術家だということです。

はじめ違和感のほうが先行してしまったのは、ひとえにマロニエ君の能力不足だと恥じるところですが、やはり天才というものは初めから確固とした個性の導きによって高い完成度に達しているために、恐れを知らず、既存のものと適当に折れ合いながら徐々に自己表出していくといった、いうなれば処世術を知らないというわけでしょう。
それがまた、さまざまな反発や抵抗感を招くのかもしれません。

ひじょうにフレッシュで生々しい楽想にあふれている点が、何度も演奏されてきた使い込んだ鋳型のような解釈にきれいに収まっている演奏とは異なり、新しく独自に生まれたものは当然そんなものとはは無関係で、そういう馴染みの無さが耳をも拒絶してしまったとも言えるような気がします。

そんな決まりきった慣習から耳が解放されてくると、もう何が真実かなんてわからなくなり、むしろベートーヴェンの頭の中にはじめに浮かんだ楽想とは、むしろこういうものではなかったのか?…という疑念すら湧いてくる始末です。

2012/05/12 Sat. 01:15 | trackback: 0 | comment: 0edit

ボストンブルー 

とあるピアノ店から届いたDMを見てちょっとびっくりしました。

ボストンピアノが発売20周年を記念した初の記念限定モデルの案内で、そこには紺色にペイントされたボストンのグランドピアノが大きく写っていました。
白いピアノというのはありますが、それ以外は、ふつうピアノといえば黒か木目というのが半ば常識で、そんな既成概念にパッとひとふり水をかけるような新鮮さでした。

ごく稀には白以外にも赤や緑の原色に塗られたポップなピアノを写真などで見ることはありますが、それらは到底普通の家庭やコンサートの会場で使う感じではありません。
ところがこの紺色というのは、むしろ黒に近いシックな感じの中に、黒にはないやわらかさと華やかさのようなものがあって、意外に悪くないじゃないかと思いました。

これを見て思い出したのが、本で読んだずいぶん昔の話ですが、アンドレ・クリュイタンス率いるパリ管弦楽団が初来日してついに日本のステージに登場したときに、なによりも当時の日本人をアッと驚かせたのは、オーケストラのメンバー全員が黒ではなく紺色の燕尾服を着ていたということだったそうです。

当時の(今も多少はそうかもしれませんが)常識では燕尾服は疑いもなく黒というのが当たり前で、こんな意表をつくようなことをやってのけるとは、さすがはフランス!と感嘆したのだとか。

ステージのピアノは黒が圧倒的主流ですが、浜離宮朝日ホールには木目のスタインウェイDもあるし、先日見たNHKのクラシック倶楽部でジョン・ケージの特集でスタジオに現れたのも渋い木目のD型でした。

モノはピアノですから、あまり派手なのはどうかと思いますが、このボストンブルーのような上品な色ならば、ピアノにも多少いろんな色がでてきてもいいような気がしました。
このボストンブルーの限定モデルは5種類のグランドと3種類のアップライトの各20台で、合計160台が製作されるようですが、塗装はなんと「ドイツの工場で仕上げられる」と記されていましたから、ボディをわざわざドイツに送って、また日本へ送り返してくるということなのか…だとしたら大変な手間ですね。

よく読むと「スタインウェイピアノの艶出塗装仕上げと同じクオリティの塗装を使い…」とありますが、スタインウェイの工場でという記述ではなく、ならば優れた塗装は日本でも十分可能なはずで、なぜそうまでしてドイツの工場なのかはどうも理由や経緯がよくわかりません。

まあそれはともかくとしても、思いがけなくきれいな色のピアノで、機会があればぜひ実物の佇まいを見てみたいところです。

2012/05/11 Fri. 01:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

H.J.リム 

『韓国生まれの24歳、独特な演奏スタイルと類まれなカリスマ性をもつ魅力あふれるこのピアニストは、12歳でピアノ修行のため単身パリへ渡り、韓国の家族に自分の演奏を聴かせるため、ユーチューブに演奏姿をアップしたところ、たちまち話題となり50万ビューを記録。それが音楽関係者の目にとまり、EMIクラシックスからデビューが決定しました。』

これは韓国人ピアニスト、H.J.リムのレビューの文章ですが、なんとなく仕組まれた感じの内容という気がしなくはないものの、意志的な表情をした強い眼差しがこちらを見つめているジャケットにつられて買ってしまいました。

2枚組のベートーヴェンのソナタで、29,11,26,4,9,10,13,14番の順に収められています。
冒頭の29番はすなわち「ハンマークラヴィーア」ですが、その出だしの変ロ長調の強烈な和音からいきなりぶったまげました。

極めて情熱的で、その思い切りの良さといったら唖然とするばかりで、いわゆるベートーヴェンらしく重層的に構築された堅固な音楽にしようというのではなく、H.J.リムという女性の感性だけでグイグイとドライブしている演奏でした。
マロニエ君は技巧的にも解釈の点においても、ただ整然とキチンとしているだけで、創意や冒険のない臆病一本の退屈な演奏は好きではないので、個性的な演奏には寛容なつもりですが、それでもはじめはとても自分の耳と感覚がついていけず、なんという品位のないベートーヴェンか!と感じたのがファーストインプレッションでした。

その場その場の閃きだけで野放図に演奏しているみたいで、まるでこのピアノ音楽史上に輝く大伽藍のようなソナタが、ガチャガチャしたリストでも聴いているようで、これはちょっといただけない気がしたものです。
さらに気になるのはテンポの揺れといえば聞こえは良いけれども、あきらかにリズムが乱れていると思われるところが随所にあって、表現と併せてほとんど破綻に近いものがあるとも感じました。

すぐには受け容れることができない演奏ではあったものの、しかしこともあろうにベートーヴェンのソナタをこれだけ自在に崩しながら自分の流儀で処理していく感覚と度胸には、とにもかくにも一定の評価を下すべき女性が現れたのだと感じたのも、これまた正直なところでした。
全体をとりあえず3回ずつぐらい聴きましたが、だんだん慣れてくる面もあるし、やはりちょっとやり過ぎだと思うところもあって、評価はなかなか難しいというのが正直なところです。

それにしても、やはり最も驚くべきはハンマークラヴィーアで、この長大なソナタが目もさめる手さばきで処理されていくのは瞠目に値し、長いことピアノ音楽史に屹立する大魔神のように思っていたソナタが、想像外に引き締まったスリム体型でなまめかしく目の前に現れてくるのは思わずドキマギしてしまいます。
マロニエ君の耳にはどう聴いてもこれが純正なベートーヴェンには聞こえませんが、それでも音楽の要である生命感をないがしろにせず、どこを切り取ってもパッと血が吹き出るように命の感触に満ちているのは大いに評価したい点だと思います。
それにこの恐れの無さはどこから来るのかと思わずにはいられません。

実を言うと、マロニエ君は、現代の韓国はかつてのロシアとはまた違った個性で優秀なピアニストを輩出するピアニスト生産国のように思っていたところですが、そこへまた凄い個性が出てきたもんだと感嘆しているところです。

2012/05/10 Thu. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

ららら♪クラシック 

日曜夜のN響アワーの後継番組とでもいうべき「ららら♪クラシック」。
先日の放送ではピアノが特集され、テーマは「もっと自由にピアノ」というもので、ショパンの名曲が主役ということになっていました。

メインゲストは小曽根真さんで、はじめに加羽沢美濃さんとの2台のピアノによる「ららら♪流ショパン」というアレンジ&即興ものでスタートしました。

小曽根真さんはこのところクラシックの領域にも関心を広げているということらしく、このあとでもop.17のマズルカをジャズ風にアレンジしたものが演奏されましたが、マロニエ君は実をいうとこの手合いがどうももうひとつ馴染めません。
ジャズピアノそのものはとても好きだし本当に素晴らしいと思うのですが(詳しくはありませんが)、クラシックの曲を素材にしてジャズ流にアレンジするというのが、たぶん自分の趣味には合わないのだと思います。
小曽根さんもたどたどしくクラシックのことをしゃべるよりは、やっぱり手の内に入った本職のジャズのことを語っている話こそ聞いてみたいと思いました。

ちなみにドミンゴやカレーラスが、ポピュラーソングなんかを胸を張りだしてアリアのように単調に歌うのも、なんかしっくりこないものを感じますし、それらはやはり本家本流の人がふさわしく歌ったほうが表現力も勝り、よほど素晴らしいと感じることと、これはどこかで通じているような気も…。

このようなジャンルを跨いだパフォーマンスを、いまどきはコラボとかなんとか、いろんな言葉で表現するようで、とりわけジャズには昔からある流儀のようですけれど。
おもしろいといえばそうなんですが、ショパンなどはやっぱりオリジナルで聞きたいという気分のほうがどうしてもまさってしまいますし、個人的には棲み分けのキチッとされた安定した世界のほうが自分は好きだなあと思いました。もちろん例外はありますけど。

そのオリジナルでは、なんと昨春若くして亡くなったタチアナ・シェバノワ女史の晩年の映像が出てきたことにも驚きましたし、15歳で初来日した折の天才少年キーシンの映像も実になつかしく思い出しながら見ることができました。
百合の花のような危うい気配を漂わせた痩身の美少年が、ときに顔を紅潮させながらショパンをまるで自分自身のことのように弾くむかしの姿を久しぶりに見ることができました。後半の協奏曲は昨年40歳の映像で、いやあ、どっぷりと肉も付いて貫禄じゅうぶん、初来日のときの2倍はあろうかという印象でしたね。

片やスタジオでは、古いスタインウェイのアクションを取り出して、その複雑な機械部分の大まかな様子や、キーに与えられた力がさまざまなからくりを経てハンマーの動きに変換される様子などが紹介され、この部分ひとつとってもピアノがいかに他の楽器とは違った精密機械の側面を持っているかということが、ごく簡単ではありましたが映像と共に説明されたのは実に珍しいことでした。

印象的だったのは、冒頭の2台ピアノによる即興演奏のときに映し出された上から撮影されたピアノ内部の映像で、互い違いに置かれた2台のCFXのフレームやボディなどから発してくる作りの美しさには目を見張るものがあり、音の好みなどはさておくとしても、このヤマハの最新鋭モデルの製品としてのクオリティの高さ、いかにも日本製品らしいその水も漏らさぬ高品質と眩しいまでの輝きには思わず唸りました。

2012/05/08 Tue. 01:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

自分で評価 

過日書いたCD「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」のライナーノートには、ピアニスト・コレぺティートア・作曲家である三ツ石潤司氏が文章を寄せているのですが、そこに書かれたものはなにも特別な事ではないけれども、大いに同意できるものでした。

とりわけ現代は音楽家の演奏もしくは音楽そのものをどれだけ評価しているかという問題提起には、強く共感させられました。
曰く、コンクールの入賞歴、著名な教育機関での成績、ハンディキャップの克服など、音楽外のことに囚われているというわけで、「どうして──略──自分自身が音楽に本当に耳を傾けて、自分自身で芸術家の音楽を評価しようとしないのだろう。」とあり、これにはまったく同感です。

いやしくも音楽好きであるならば、音楽や演奏は、予備知識よりもまずは自分の耳で聴いて、そこに自分なりの評価や好みを与えるのが至極真っ当な在り方だと思われます。

たしかにプロのコンサートやCD販売はビジネスですから、どんなに優れた演奏をする人であっても、なるほど少しは有名でなんらかの魅力がなければ始まらないでしょう。
だからといって、演奏の質よりとにかく有名度のほうがはるかに重要視されている現状には、さすがに呆れかえってしまいます。有名ということは、そんなにもすべてに優先するほど大事なことなのか!と。
尤もこれは音楽に限ったことではありませんが。

もちろん少しは存在が知られなくては、普通の人が演奏を聴くチャンスもないというものですが、有名になるきっかけそのものが、その人の本業ではない要素に根ざしていたりするのはどうしようもない虚しさを感じてしまうもの。せめてステージに立ったりCDを出すようになれば、そこから先は演奏内容によって評価が下されるべきだと思いますが、現実はかなり違った要素で事は進行しているようです。

どんなに質の高い見事な演奏をしても、最終的にそれを認められるという拠り所がなくては演奏する側にしても精進のし甲斐がないわけで、結局はそれが演奏の質、あるいはコンサートの質を高めることにも直結することだと信じたいところです。

しかしながら、現実にはコンクール歴や容姿を元手にして、いかに巧みなコマーシャリズムに乗るかということが成功の鍵を握っているようで、聴衆が自分の耳で聴いて判断するという最も本来的なことが、あまりにも失われているように思われます。
芸術の世界こそ真の実力主義であるべきところを、それほどとも思われないような一部の顔ぶればかりが、あいもかわらず少ない市場を牛耳っているのはどうにも納得がいきません。

そんなことを思っていたら、お次はやたら世間ズレしたジュニアが出てきて、目下たいへんな勢いで売り出し中のようです。すでになにもかも心得たような笑顔、いかにも今風な計算された口調や振る舞いには、演奏家のタレント化もついにここまできたのかと思わずゾッとしてしまいました。

2012/05/06 Sun. 02:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・皿交換 

目の前で盛大におこなわれる皿交換は、悪いことではないかもしれませんが、同席者に一定の何かの感触を与えるという事実。

もちろんパフェなんかをちょっと一口ぐらいならどうということもありませんが、ある程度食べ進んだ皿をそのままドカッと交換するのは、どこか凄味があり、目の前でやられるとちょっとヒエッと思ってしまいます。

こう感じるのは、かねがねマロニエ君だけではないはずだと思っていましたが、この点を余人に確認したことはありませんでした。
そこであらためて友人などに折あるごとに聞いてみると、案の定、イヤでたまらない、あれはやめてほしい(中には笑える)という人が数人いましたね。しかも口々に待ってましたとばかりその事に関する、これまでにたまりにたまった不平不満をぶちまけはじめます。
夫婦でも「自分達は絶対しない!」と断言する人もいて、ははぁやっぱりなあと思いました。

特につらくなるのは、麺類や丼物、中にはカレーライスまでも食べている途中で器ごと交換する人達で、こういうことにめっぽう弱い友人のひとりは「カレーライスなんて、自分が食べていても途中で汚い感じに思えてくるのに、ましてや…」とガクガクしながら言っており、なるほどなあと納得しつつ笑えました。

これがもし欧米人あたりなら、どうせ彼らは公衆の面前で平気で抱き合うような民族性ですから、あるいはサマになるのかどうかわかりませんが、少なくとも日本人には向かないというか、それを目の前で見せられるのはできれば御免被りたいものです。

そもそも日本人は、むしろそういうことははしたない事として厳に慎む側の民族で、人前では内外(うちそと)の区別をつけるというけじめといいましょうか、分別あるメンタリティにこそ日本人の品性や美しさがあらわれているとマロニエ君は思うのです。
そんな日本人でも許せるとすれば、子供か、せいぜい二十歳前後までで、あとはちょっと…。

失笑なのは、絵になりそうな美男美女ならまだしも、むしろその逆の人達にかぎって街中でもことさらべたべたして歩いてみたり、こういう皿交換みたいな行為をやりたがるようで、何かそれが心理的な空白の埋め合わせであったり、精神的な取り戻しをしているのでは?とも思います。
もしかしたら、心理の奥底には、そういう行為を他者に見られているということに一種の満足を感じているのかもしれないというような気がしなくもありません。

だとすると皿交換も一種の心理的要因を含んだ行動ということになるのかもしれず、だからこそ見ているほうも「わっ」と思ってしまうのかもしれませんね。

2012/05/04 Fri. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

皿交換 

「食べ方」に関する事は、意外に気にかかる場合があるものです。

この手のことは、あまり神経質になってはいけないのでつとめて大雑把な気分を維持するように心がけていますが、それでも、これだけはちょっと…と(内心で)ため息が出るものがあります。

よく夫婦やカップルなどで行われる行為で、互いに別の料理を注文しておいて、途中まで食べた皿をあるタイミングで互いに交換してその続きを食べるというものですが、あれは見る側としては、ちょっとなぁ…という感じです。
当人達にしてみれば、途中でチェンジすればお互い二度おいしいということかもしれまないし、さらには好き嫌いや量の調整もできるということか、はたまた気分的にそういう行為そのものを楽しんでいるのか…。

ご当人達は夫婦であれなんであれ、特定のカップルということで、世間もこれをごく自然なノープロブレムな行為として受け止め、周囲の目からも許容されているというふうに思っているのか、あるいはさりげない主張の要素を含んでいるのか、そこのところはよくわかりません。

しかし、同席者にとっては本人達が思っている以上に、ある種の抵抗感を覚えている人が多いことは事実のようです。

まあ、よほど若くて初々しい二人が可愛くやっていれば、まだいくらか絵にもなるというものですが、どっかりした中年以上のペアがこれを人前で堂々とやってしまうのは、他人にとってその光景はどうででょう…。

ときには夫婦親子兄弟が縦横無尽に食べ物をやったりとったりしているファミリーなどもいて、まあそれだけ仲が良くて結構だと云えばそれまでかもしれませんが、他人と同席する食事の席上でカップルがこれをやってしまうと、場合によっては抵抗感を喚起させるだけでなく、単純なマナーの点からいってもそうそう褒められたものではないような気がします。
この行為は、「する人達」と「しない人達」にハッキリと二分されていて、一種のクセとかというか生活習慣といえばそうなのかもしれません。しかし、こういう事を他人の面前でためらいもなく平然とやってのける人というのは、どちらかというと美意識とデリカシーに欠けるような気がします。

また、付き合ってまだ日も浅い、しかし決して年齢的には若くもないカップルなんかが、いきなり目の前でこんなことをやってくれるのもギョッとするものです。
それまで他人がやってるのをさんざん見せつけられて、よほど羨ましかったのか、今度は見られる番!とばかりにそれをやってみせるのが快感なのか…想像もあれこれと飛び回ります。

いっぽう熟年夫婦などにこれをやられると、こちらは内心で思わず固まってしまいますが、もはやそれが常態化しているのか、あらんかぎりのものがせわしく二度三度と往復することも珍しくなく、こっちは唖然としつつ、いつしか食欲まで減退してくるものです。
ご当人達は夫婦なんだから、そんなの普通でしょう!いちいち気にするほうがおかしい!…といった感覚なのかもしれませんが、あれは率直に言って、同席者はそうとう違和感があるのは事実です。
もちろん、気にならない人は一向に平気なのかもしれませんけれども、気になる人も決して少なくはないようです。

今どきは「人とお鍋をつつきたくない」という神経質な人さえ少なくないご時世ですが、食事中の皿交換も目の当たりにすると、変な覚悟みたいなものをさせられる気分です。

2012/05/03 Thu. 02:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

長尾洋史さん 

久しぶりにギャンブル買いしたCDが大当たりでした。

「長尾洋史 リスト&レーガーを弾く」というタイトルで、実は長尾洋史さんというピアニストの演奏はもちろん、お名前さえも知りませんでした。
にもかかわらず、アルバムに収められたリストのバッハ変奏曲(カンタータ《泣き、嘆き、憂い、おののき》の主題による変奏曲)と、後半のマックス・レーガーのバッハの主題による変奏曲とフーガの組み合わせに惹かれてしまい、どうしても聴いてみないではいられなくなりました。

これは国内版の3000円級のCDなので、すでに何度も書いているように、マロニエ君は今どき内容の分からない日本人演奏家のCDを最高額クラスの代価を払ってまで冒険してみようという気は普段はあまりありません。

しかし、このCDにはなぜかしら売り場を離れがたいものを感じ、ついには購入することに決しました。惹かれた理由は主に選曲とCDの醸し出す雰囲気だったと思います。
果たして聴いてみると、これがなかなかの掘り出し物だったわけで、こういうときの喜びというのは一種独特なものがあるものです。

まずこの長尾洋史さん、抜群にしっかりした指さばきと知性を二つながら備わっていて、その音楽作りの巧緻なことは大変なものでした。むかし「マロニエ君の部屋」で日本人ピアニストには隠れた逸材が少なからずいるというような意味のことを書いたことがありますが、まさにそのひとりというわけで、こういう内容ならまったく惜しくない投資だったと大満足でした。

最初にジャケットを見たときに惹きつけられたとおり(顔写真さえない渋い色調のもの)、このアルバムのメインはリストのバッハ変奏曲と、レーガーの作品であることは間違いありません。両者共に普段よく弾かれる曲ではないものの、難解難曲として知られる作品ですが、これらを長尾氏はまったくなんの矛盾も無理もないまま、自然なピアノ曲として見事に演奏されている手腕には驚くばかりでした。この両曲の名演に対して、リストの「ペトラルカのソネット3曲」と「孤独の中の神の祝福」はやや表現の幅の狭い優等生的演奏で、もうひとつ詩的な深さと躍動が欲しかったという印象。

ライナーノートにある三ツ石潤司氏の文章によれば、この長尾氏の演奏は「てにおはや句読点のうちかたの誤りがない」とありましたが、この点はまったく同感でした。
この点に間違いがあると、たちまち作品は本来の立ち姿を失ってしまいます。マロニエ君としては、これに「イントネーション」の要素を加えたいと思います。いくら正確で達者な演奏ができても、イントネーションが違っていると、音楽がニュアンスの異なる訛りで語られてしまうようで、その魅力も半減してしまうものです。これは結構外国人演奏家にも頻繁に見られる特徴で、その点では却って日本人のほうがそんな訛りのない美しい標準語の演奏をすることが少なくありません。

録音はきめの細かい、ある種の美しさはありましたが、全体に小ぶりな、広がり感の薄い録音だった点は少々残念でした。そうでなかったらさらにこのピアニストの魅力が何割も上積みされたことだろうと思われますし、こういう録音に接するとつくづくと演奏家というものは、自分の演奏能力だけでは解決のつかない問題を抱えているようで、それがマイナスに出たときは甚だ気の毒だと思います。

もうひとつ、ピアノの調律はなかなかの仕事だったと思います。
新しめのハンブルク・スタインウェイから、思いがけなく低音域のビブラートするような豊饒な響きなどが聞かれて、はじめこの低音域を聞いたときは一瞬ニューヨーク・スタインウェイでは?と思ったほどでした。
やはり楽器としてのピアノの生殺与奪の権を握っているのは調律師だと思いました。

もちろん演奏の見事さ素晴らしさに勝るものはありませんが。

2012/05/02 Wed. 01:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

ありそうでない物2 

もうひとつ誰かにぜひ作って欲しいものがあります。
こちらもグランドピアノで使う譜面立てに関する物なんでが、前回のものとはまったく逆の使い道になるものです。

夜など、大屋根をすべて閉じた状態のときに、ほんのちょっとだけ遠慮がちに弾きたくなることがあるのですが、時間的にも状況的にも、音は出来るだけ小さく、弾き方もきわめて抑制した小さな音しか出しません。

そんなとき、暗譜していればいいのでしょうが、楽譜がないのはどうにも困りもので、この点をどうにかしたいわけなのです。
マロニエ君は椅子が低めなことと、目もあまり良くないために、楽譜をピアノの上に水平においた状態ではとてもじゃありませんが音符を見ることはできません。たまにこのスタイルで楽譜をチラチラ見ながら軽く弾いているピアニストの姿などを見ますが、あんなこと、とてもじゃありませんが自分にできる芸当ではないわけです。

そこで、ピアノの上に簡単にパッと置けるシンプルな楽譜立てがあればいいのにと以前から思っています。できればごく単純な構造の折り畳み式で、小さくて軽くて、普段は足元か近くの棚にでもポンと置いておけるぐらいのもので、ぎりぎり一冊の楽譜が立てられたらそれでじゅうぶんです。

写真立ての応用みたいなものでもいいし、はじめから角度の付いたものでもいいから、要は下にフェルトを貼り付けてピアノに傷を付けないようにしておけば、こういうものがあると便利だろうと思います。

ちょっと頑張れば自分でも作ることが出来るかもしれないので、いつか挑戦してみようかと思いながら、材料の調達が面倒臭くてつい延び延びになっていますが、こういうアイデア商品もだれかが作れば重宝する人は結構いるような気がします。

飾り皿を立てるための、左右90度に開くスタンドがありますが、あれにちょっと小さなベニヤ板の一枚でも置いておけば、そこに楽譜を置くことも可能かもしれませんが、それじゃあまりにも不恰好だし、もう少しは見栄えのいいものを作ってみたいところです。

課題としては、決してゴテゴテせず、いかにシンプルな構造に到達できるかがポイントだと思っています。

2012/05/01 Tue. 01:19 | trackback: 0 | comment: 0edit