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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

浜松ピアノ社 

過日、広島まで行ったついでに、浜松ピアノ社を訪ねました。
街の中心部である本通という広島一番の繁華街のど真ん中で、いかにも老舗然とした感じの佇まいでした。

人通りの多い外の賑やかさとは一転して、店内に入ると楽器店特有の落ち着いた空気と静寂がたちこめています。
一階と二階にはスタインウェイをはじめ、輸入物を中心とした珍しいピアノが所狭しとならんでいるのは圧巻ですし、今回は行きませんでしたが、さらに上階にはスタインウェイのDを備えた小さなホールもあるようです。

運良くここの社長さんがおられ、来意を告げると快く店内を案内してくださいました。
一階は普通のスタインウェイのB型と、同じくB型でありながら、ボディのデザインはスタインウェイの創始者であるハインリヒ・シュタインヴェクがアメリカに渡る前のドイツ時代に完成させたピアノを模したものになっており、これはなんと世界に5台ほどしかないという稀少品でした。
中は10数年前のB型だそうで、フレームなども現行品と同じものでしたから、普通のスタインウェイとして使える上に、古色蒼然としたその造形を楽しむことができるようです。

店内中央にある螺旋階段を上ると、チッカリングの古いグランドや、木目のボストンのグランドが二台、それに他店ではまず見ることのできないエストニアなどが展示されていました。

エストニアは以前も書いたことがありますが、旧ソ連時代に自国のピアノとしてソ連中で親しまれたブランドですが、ペレストロイカ以降はエストニアが主権国家として独立します。もともとこの国の名を冠したメーカーですから、必然的に現在はロシア製ピアノという位置付けではなくなったようです。
社長さんはどのピアノも「どうぞ弾いてみてください」と言ってくださいますが、マロニエ君はなかなか弾くことができない性分で遠慮していましたが、このエストニアだけはかつて一度も触ったことがなく、実物を見たのさえ初めてで、こればかりは湧き起こる興味を抑えることができずに、ついにちょっと弾かせていただくことになりました。

まず印象的だったことは、とても良く鳴るパワーのあるピアノだということ。
この日あったのは奥行き168センチのグランドでしたが、とてもそんなサイズとは思えない迫力がありました。
見ると、鍵盤の両脇も幅が広く、中低音弦が張られるお尻の部分も普通のピアノよりずいぶん幅広になっていて、人間で言えば「安産型」の体型とでもいうのでしょうか。
ともかく全体に横幅が広く取ってあるために、当然ながら響板の面積も普通の170センチクラスのグランドよりかなり広いものになっていると思われます。

音はいわゆる都会的な音とは違い、味わいのある実直な音色で、いわゆる洗練されたピアノではないけれども、そのぶん深く心に訴える非常に魅力のある音だと思いました。
とはいってもペトロフほど泥臭くもなく、しぶさと素直さのある、とても好ましい音色だという印象でした。
それでいて基本的によく鳴るし、弾いていてとても心地よいピアノで、いかにも良い材料を使ってつくられたピアノだけがもつ楽器としての豊かさがあったように思います。
素朴だけれどしっかりダシのきいた料理みたいで、こういうピアノはマロニエ君はとても好きです。

ここの社長さんはマロニエ君と同年代だと思われましたが、とても親切で、本当にピアノが好きな方という感じでした。また機会があればぜひとも再訪してみたいものです。
とても素敵なお店でしたし、こういうピアノ店が地元にある広島の人達がとても羨ましく感じながらお店を後にしました。

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2012/02/29 Wed. 00:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

高速道路で 

先日、ここ最近ではめずらしく高速道路を長距離走りました。
広島までの日帰り往復で、どうしても車の必要があったので新幹線というわけにはいきませんでしたが、ひさびさの片道300キロ、往復600キロはけっこう骨身にこたえました。

昔はそれなりにやれていたことで、東京ー福岡を車で一気に走破なんてこともときどきやっていましたが、最近は歳のせいももちろんあるでしょうし、なにしろこういうことは心身共に慣れていないとダメですね。

久しぶりだと緊張と眠気のバランス取りがうまくいかずに、さすがにぐったりきました。
よく若いお父さんが子供の運動会に参加して、まだまだやれるつもりでいきなり走ったのはいいけれど、日ごろの運動不足から転んだり足がもつれたりということがよくあると聞きますが、似たようなものでしょうか。

早朝に出発して、昼前後に広島市内で用件を済ませて、ついでなのでちょっとピアノ屋さんに寄ってから帰途につきましたが、延々と走って来た道をまた引き返すというのがどうにも性に合わず、うんざりしてしまいます。
これがさらに関西にでも向けて走っていくのならまた気分も違うかもしれません。

それにしても印象的だったのは、以前に較べて高速を走る車の全体的な速度もわりに落ち着いていて、穏やかに淡々と走っている車が圧倒的多数でした。土曜だったせいか、あるいは流通業界も不況なのか、以前なら高速はトラック専用道路か?とでもいいたくなるほどの大型トラックも数が少なくて、ドライブそのものはわりに快適に過ごすことができました。

中国自動車道では、今年のいつだったか、福岡のフェラーリ愛好家達が集団で大事故を起こしたと思われる箇所も通過しましたが、下関から西のルートは高速道路にもかかわらずカーブと勾配の変化がかなり続くので、雨上がりの早朝にこういう場所であんな大パワーのスポーツカーがフルスロットルを与えながら疾走していれば、アクシデントが起こるであろうことはじゅうぶん想像できました。
とくに仲間同士で走ると、いよいよテンションは上がるのが人間でしょうから恐いですね。

恐いといえば、帰りの九州自動車道で、ものすごい女性ドライバーがいて驚きました。
土曜の夕方ともなると、福岡が近づくにつれ交通量も俄然増えてきて、とりわけ若宮ー古賀インター間はトリッキーな下りカーブが続く箇所で、ここはいつも通るたびに運転も慎重になるルートです。このときは車が多くて追い越し車線も前後ずらりと連なって100km/h前後ぐらいで流れていましたが、突如赤い普通のコンパクトカーがマロニエ君の後ろにビタッとくっつきました。
しかも充分な車間距離をとらずにいよいよ近づいてくるので、なんだこれは?と思ってバックミラーを見ると、それは若い小柄な女性が一人で運転している車でした。
それでも前に行こうとする気迫のほうが勝っているらしく、ときおりバックミラーに写るその女性の表情までわかるぐらいまでピッタリと後ろについています。

さらにはイライラしているのか小刻みに車が左右にも揺れていて、これはちょっと…まともな走り方とは思えませんでしたので、早く走行車線に逃げ込みたいところでしたが、走行車線も前後車がつながっていてなかなか左に寄る余地がありません。
そのうち隙間を見つけてどうにか左によけると、その赤い車の女性はすかさず加速して、さらに次の車のうしろに同じように張り付きましたが、そのうち左右どちらの車線も関係なしに、とにかくちょっとでも早いほうへジグザグに車線変更しては周りの車を煽るだけ煽って、とうとう視界から消え去っていきました。

相当危険率の高い運転で、ましてや高速道路ですから見ているだけでヒヤヒヤもので、いま事故が起これば確実にこちらにもとばっちりを被るという状況でしたから、その赤い車がいなくなってホッとさせられましたが、あんな無謀極まる車の巻き添えになったらたまったもんじゃありません。
それにしても凄い女性ドライバーがいるもんだと思い知らされました。
2012/02/27 Mon. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホールの実情 

ホールとピアノの音の関係というものはそれとなく観察としていると、お似合いの好ましいカップルが出会うように難しいもんだとあらためて思いました。
そして、概して言える不思議な現象というのがあって、少なくとも福岡に限って言えば、それなりのコンサートをこなす有名ホールでは、どこもそれぞれに音響がよろしくないほうが多いし、むしろちょっと郊外のホールなどに思いがけなく素晴らしいものがあったりするというのが現実です。

音響のよくないホールでも、一部にはそういう意見を管理者側が汲み上げて改修作業がなされ、いくぶん聴きやすくなったものもあり、そういう場合はひと安堵というべきでしょうが、しかし、良くないものを後から手を加えて改善策を講じたものと、はじめから良い音に生まれついたホールというのでは、根本に超えがたい違いがあるようです。
そういう意味ではホールというのも立派な楽器だと言うべきかもしれません。

昨年、機会があって行ったホールもそれなりに名の通ったホールで、その規模、内装の色調やセンスなどもなかなかのものとお見受けしましたが、シロウトのマロニエ君の耳にさえ音響が良よろしくない。
この場合は、やたら響きすぎるだけの音楽専用ホール風の響きとは少し違って、音に芯が無く、パァーっとばらけて散ってしまう感じの音響でした。
どこに原因があるのかなんてマロニエ君にはわかりませんし、見た感じはたいへん立派な感じの良いホールであるだけに残念というか、音響というものはやはり難しいものなんだなあと思わずにはいられませんでした。

このホールで聴いたのはピアノリサイタルだったのですが、音が響いていないことはないけれども、その響きに方向性と流れがなく、楽器から出た音に流れがなくバラバラになってしまい、いうなれば伸びやかさと収束性に欠けるものだったわけです。
ただし、簡単には良し悪しを断定できないことも経験的にあるのです。
マロニエ君はここで何度もいろいろな楽器の演奏を聴いたわけではなく、この響きが恒常的なものかどうかはわかりません。もしかするとただ単にピアノの位置が悪かったということも考えられます。

以前に何度か、ピアノリサイタルのステージのセッティングに立ち会ったことがありますが、ステージ上のピアノはその位置を手前か奥に少し変えるだけで客席に到達する音がコロコロ変わります。ちょうど映写機のピントをスクリーンに向かって合わせるようなものでしょうか。
理想的には客席に耳の良い責任者がいて、ピアニストがピアノを弾きながら、10センチぐらいずつ位置を変化させていくと最良の音響スポットが見つかるはずですが、もちろんホールによってはどうしようもないところもあるわけで、限られた条件内で調律師やピアニストは最良の判断をして、これだという位置決めをしてほしいものです。

ホールといえば、マロニエ君のような車族にしてみれば、市の近郊ならどこでもいいので、いろんなよいホールでコンサートを聴きたいと思うのですが、一般的には電車やバスのアクセスが悪いと集客が見込めず、どうしても街中の決まりきったところばかりが使われることになるようです。
郊外に点在する素晴らしいホールも少しはそれらしく使わなくてはもったいないと思うのですが…。
せっかく良いホールを作っても、場所が悪いことを理由にほとんど永久にこれといった本物のコンサートが行われないのでは、いったいなんのために巨費を投じてそうした施設を作り、さらには高額な管理費をかけて維持いるのかという気がします。

こういう郊外型施設ではホール主催のイベントなどが最大のコンサートのようですが、それでも関係者は怖がってなかなか大きなことをしません。せいぜい二流芸能人の歌謡ショーとか地元のアマチュアオーケストラ、よくわからない合唱団など、どっちつかずの催しばかりというのでは、ホールは箱物作りで潤うゼネコンの金儲けに利用されただけとなるでしょう。

そういうホール同士が連携して、ラフォル・ジュルネのような安くて良質の音楽が聴ける音楽祭などをやってみるなどしたらどうか…なんて思いますが。

2012/02/25 Sat. 05:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

ようこそ 

ご縁があって、昨年二度ほどコンサートで聴いたピアニストの方が我が家に練習に来られました。

春に東京などでベートーヴェンの協奏曲を弾かれるとのことで、しばらく雑談をしたあと、さっそくピアノに向かわれました。
せっかくなのではじめに第1楽章、終わりに第3楽章を聴かせていただき、途中こちらは仕事に戻りましたが、非常にしなやかなテクニックがもたらす、趣味の良い演奏で、ひさびさに間近に聴く秀演に感銘を覚えました。

やはりステージに立つピアニストというのは、当然ですがシロウトとは次元が異なります。
時間が無くて眠った状態に等しい我が家のピアノでしたが、そんなことはものともせずに非常に安定した確かな演奏を繰り広げられました。
すみずみまで神経の行き届いた緻密さと伸びやかさが同居した演奏です。
呼吸が自然で、聴く者に余計な緊張やストレスを与えず、すっきりと曲を聴かせるところも見事でしたし、作品そのものが持つ自発的な流れにも決して逆らわないというのがこの方の演奏の魅力だと思いました。
もちろん、それはサラサラした安全運転というのとはまったく違う、ビシッとメリハリもきいていて、必要な場所ではしっかりパワーもあるので聴きごたえがあって、ストレートに音楽がこちらへ向かってくるのです。

最近は指運動だけはいやに効率よく訓練されたピアニストが少なくありませんが、音楽は尤もらしいけれども表面的で必然性のない、音楽の本質をまったく感じさせない無機質な表現である事は珍しくありません。そんな中で、この方は音楽性や歌い込みにも確かな裏付けがあり、こちらが期待した通りの同意できる音楽を丁寧に描出させるという意味では、むしろ稀有な存在だと思いました。

作品が要求することを、ごく自然に受け容れて自分自身の感興と指の動きと呼吸に組み入れるというのは、当たり前のようでいて、実は最も難しいことです。

技術的に上手い人というのは沢山いても、演奏が終わってみて、また聴いてみたいと心に思わせるピアニストとなると、これは滅多にいないものです。
その一点においても、この方は注目に値する存在だと思います。

3時間ほど練習されてお帰りになりましたが、その後にピアノに触れると、ピアニストに集中して弾かれたおかげで、楽器が完全にあたたまっていて、とてもよく「鳴る」状態になっていました。
こちらも思わずうれしくなって30分ほど弾いてしまいましたが、コンサートでも後半のほうがどんどんピアノが鳴ってくるのと同じ現象ですね。

久々に上手い人に鳴らしてもらって、ピアノもストレス解消ができたことでしょう。
2012/02/24 Fri. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

ロシアの今 

BSのN響の定期公演で、ロシアのニコライ・ルガンスキーがプロコフィエフのピアノ協奏曲第3番を弾いていました。
この人はかつてロシアのバッハ弾きとしてその名を馳せたタチアナ・ニコラーエワ女史の弟子に当たる人で、ロシア系ピアニストの特徴であるたくましい指のメカニックを持った人というのは確かなようでした。

すでにエラートレーベルからCDなども数多く出ていて、お得意のラフマニノフなど何枚かは手許に持っていますが、買って何度か聴いてみると、以降はパッタリと手に取ることはなくなりました。いらい、ただ危なげなく弾いているだけで、それ以上の何かがないというのがこの人のイメージでしたが、それが間違いでなかったことを、この放送でもあらためて確認することになりました。

あの難しいプロコフィエフのピアノ協奏曲を確かな指さばきによってそれなりには弾いていましたが、不思議なほどそれだけで、なんの感銘も個性もない、見た目ばかりで味のない宴会用の食べ物みたいでした。
さらに言うと若干リズム感がよくないことが、演奏という時間の流れの中で、あちこちにわずかな歪みが生じるところも気にかかりました。

もともとロシアのピアニストというのは、タッチが深く、和音には厚みがあり、ときに強引なくらい感情を露わに音楽をこってりと歌い上げるのが特徴で、それが深い感激を覚えることもあれば、ときにはげんなりすることもありますが、全体には器が大きく、率直で人間くさい演奏をするのが常道でした。

然るに、このルガンスキーはまったく肉感のない痩せぎすのような音楽で、聴いていてどこに重点が置かれているのやらまったくわからない演奏で、それでそのまま終わってしまいました。
ピアニストとしてステージ演奏をする以上、素晴らしい技術をもっているのは当たり前としても、その上でその人なりの練り込まれた固有の音楽が聞こえてこないことには聴く意味がないと思います。

時代も変わって、ロシアもこういう味の薄い、コレステロールゼロみたいなピアニストが出てくるのかと思ってしまいました。

それに時を同じくして、昨年リニューアルされたボリショイ劇場のシリーズで、ボリショイバレエの「眠りの森の美女」も放映されましたが、これも中身はルガンスキーと同じでした。眩いばかりに生まれ変わった劇場、さらには一気に新しく豪奢に作り替えられた装置や派手すぎる衣装など、表向きはたいそう新しく立派になっていましたが、踊りのほうは現在の看板スターであるスヴェトラーナ・ザハロワ演じるオーロラ姫も、技術は立派ですがなんの感銘も得られないもので、ただ決められた難しい振付を次々に消化しているだけという感じでしかなく、こちらにも落胆させられました。

主役のオーロラ姫は16歳という設定ですから、踊り手はその若くて愛くるしい様を表現し、バレエとして踊り演じなければなりませんが、暗くてねっとりした大人の踊りで、老けた女性が娘の借り着をしているようでした。
昔は同劇場のオーケストラもピアノと同様、迫力のある分厚い響きでロマンティックにぐいぐい鳴っていたものですが、これもまたすっかり筋力の落ちたアスリートのようで、火が消えたようなつまらない演奏で、これじゃあチャイコフスキーもご不満だろうと思います。

いまは世界的に、なんでも人の手で作り出す昔ながらのものは文化芸術はもとより、ありとあらゆるものが質が落ちて小さくなっていることは否定しようもありません。
そのくせ、表面的にはより鮮やかで先鋭的で、人の目を惹きつけはしますが、実体はスカスカの軽い内容でしかないのは甚だ残念でおもしろくありません。
2012/02/23 Thu. 01:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

今どき営業マン 

先々週の祝日のことですが、ふと思い出しましたので書いています。
このところ友人の車購入の協力をしていることは以前書きましたが、該当する車が北九州のある輸入車ディーラーの中古車在庫としてあることがわかり見に行ってみようということになりました。

事前にディーラーに電話したところ、間違いなく車はあるという確認がとれましたので、福岡から見に行くことを伝えて、電話に出た営業マンの名前を聞き、時間の約束をした上で北九州を目指しました。

ちなみに北九州のその店は福岡からは70キロほどで、高速を利用してもトータルで1時間半ぐらいかかります。

ディーラーに到着すると、すかさず女性従業員がこっちに近づいてきて、満面の笑顔で「いらっしゃいませ」と言ってきます。電話に出た営業マンの名を告げてショールームで待っていると、ほどなくして若いお兄さんが現れて、型通りの挨拶をして、名刺を差し出します。
なんとなく、自信の無さそうな視点の定まらないお兄さんが、習った通りのことを一生懸命やっている感じで、いま思えばこの時点から少し不安感はありました。

その彼によると、車は別の展示場のほうに置いているため、そちらへご案内しますので少しお待ちくださいといわれ、ほどなくして準備されたお店の車に乗り込みました。
約5分ほどとのことですが、これが思った以上に遠いのにまず驚きました。

ようやく目指す展示場に着いたものの、ちょっと見渡した限りでは目指す車は見あたりませんでしたので、この時点でさらに違和感が募りはじめていました。
その営業マンは車を降りるなり、首をあっち伸ばしこっち伸ばしして車を探しているようですが、どこにもそれらしき車はなく、必死に手許の資料を黙々と繰っていますが、こっちにはほとんど配慮らしき言葉もありません。
だいいち、この段階で車を探すということ自体が驚きです。

ときどき「あれ…」といったようなつぶやきだけが聞こえますが、もうお客さんへの対処はなど、彼の頭の中ではまったく吹っ飛んでいるようでした。
そのうちこのセンターの女性スタッフに声をかけてしきりに話をしていますが、これといった答えはでないようで、信じがたいことにその女性と二人してクルマ探しが始まりました。
その間、我々は寒風吹きすさぶ中を広い戸外にほったらかしにされ、これではたまらないので、とうとう事務所のようなところへ自ら避難しましたが、その営業マンはどうしていいかわからないようで、それを見ているこっちのほうが情けない気になりました。

それから10分ほどして、結果的に車はさらに別の場所にあるにはあったものの、そこは単なる保管エリアのようなところで、まわりは他の車にギチギチに挟まれていて、さらには分厚いホコリを被ったままで、とてもお客さんに見せるというようなシロモノではありませんでした。

普通なら電話して来意を伝えておけば、安いものでもないのですから、車を見やすいようにちょっと表に出すとか、簡単な水洗いをするぐらいのことは当たり前ですが、ごく基本的なことがこれほどまったくできていないのは唖然とするばかりでした。
エンジンすらかけようともせず、ただ車の脇で直立しているのみ。これでは我々も、車をまともに見てみる気も喪失してしまい、気分は一気にしらけて早々に退散することになったのは言うまでもありません。
これが正規ディーラーの看板を揚げている店の対応なのですから、もう笑うしかありません。

あんまりだと思って、少しだけおだやかに思うところを伝えましたが、「申し訳ございません…」をロボットのように繰り返すだけで、まるでそれ以外の言葉を知らないようでした。帰りの車の中でもまったくの無言で、こういう人が車を売るような接客の仕事に就くこと自体が間違いのような気がしました。
おそらく本人は何が悪かったのかさえもわからないのでしょうが、こういうタイプはこのお兄さんに限ったことではなく、けっこう沢山いるような気がします。
2012/02/22 Wed. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

 

この土日の二日間にわたって福岡地方としては大雪になりました。

降雪地帯ではないので、年に一二度見るかどうかの珍しい光景ですし、地域そのものが雪に慣れていませんから、雪が降るとみんなすぐに外出を見合わせたりするようです。

いまさらですが雪の特長の第一は、まったくの無音だということに驚かされます!
雨なら音や湿度などでわかるということもありますが、雪はまさに忍者のように足音もなく近づいてくるようで、気がついたときにはあたりが薄化粧をしたようになり、ふだん見慣れぬ白い雪が懸命に降り注いでいる光景は心がハッとするようです。

通常、福岡の雪なんてちょっとの時間降るぐらいがせいぜいで、積もるということはまずありませんが、この二日間はそれではなくて、それなりに積もって見事な景色を作り出してくれました。
そして、たまに陽が射してきたときには、その雪の白さを反映して部屋の中までパッと明るくなるのは、なんとなく心の中まで光が照らされるようでした。

とりわけ木々の枝という枝にまんべんなく積もった雪は、まるで冬の枯れ木が一気に満開の桜のようで、静かな華やぎがあり、その思いがけない変化には息を呑むようです。
昨日の朝には、更に夜中の間に積もった雪が太陽の光を受けて溶け出したらしく、家の窓から見ているとバサバサとあちこちの枝から積もった雪の固まりが降り落ちてくるのですが、これが家の周りで間断なく続いている状況はなんとも風情がありました。
降っているときは舞台の一場面のようでしたが、こちらはまさに見事な日本画のごとき美しさでした。

向かいのマンションでは、わずかな雪を掻き集めて一家が雪合戦をやったり小さな雪だるまを作っていましたが、ちょっと見ているとこれがいささかヘンテコな光景でした。

何かというと、若い両親は写真撮影に余念がなく、雪合戦さえもしばしば中断させられて、要するに写真撮影のほうが主たる目的のように見えました。
互いにカメラを持ち替えては、メロンを二つ合わせたぐらいの雪だるまを抱えた子供とパチリ、雪を投げてはまたパチリと、ただ素直に自然に珍しい雪で遊んでいる感じ…というのとはちょっと微妙に違うニュアンスを感じました。

たぶんそれをパソコンに取り込んで、保存したり、ブログやホームページにアップするのだろうという、先の狙いが透けて見えてしまうようで、そう思いはじめると不思議に冬の風物という気配も、一家のほほえましさもすっかり割り引かれてしまい、一家総出でひとつの目的のための証拠作りをしているようにしか見えなくなりました。

こう書いてしまうと、マロニエ君のものを見るレンズが皮肉めいているように思われるかもしれませんね。たしかにそうかもしれません。
それを否定はしませんが、しかしそういうものは不思議に伝わってくるもので、あれはやはり雪ひとつでも有効活用したいという現代人の思考回路というか、行動パターンだったように思います。
まあ、そんなことをこのブログにわざわざ書いているマロニエ君も似たようなものといえばそうかもしれませんが、やはり家族の笑顔や遊びまで、どこかやらせの臭いがするのはがっかりしますね。
2012/02/20 Mon. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

音楽の話 

金曜夜はピアニストの望月未希矢さんが主催する「音楽の話」に参加しました。
全6回のシリーズで、今回で4回目とのこと。

会場は赤坂のベニールカフェという趣味の良い喫茶店で、今回はショパンを中心にした演奏と話でしたが、店内は所狭しと椅子が並び、それでも次々にお客さんがやって来るほどの盛況ぶりでした。

まずは簡単な挨拶につづいてノクターンを一曲演奏するところから始まり、ショパンの生い立ちに沿って、わかりやすく話がすすめられました。
ピアノ演奏のほかには、スピーカーを繋いだパソコンからの出力で、チェロソナタの第3楽章やフィールドのノクターン、あるいはショパンが愛していたベッリーニのノルマのアリアなどを聞きながら話が進みます。

ショパンの作風には歌謡性が濃厚ということで、それまでの古典派との作風の違いや和声の特徴なども語られて、なるほどという話をあれこれ聞くことができました。
しかもそれがお堅い勉強のようにならず、望月さんの穏やかなお人柄故だと思われますが、あくまでもサロン的な楽しみの延長として、参加者がこのような話や音楽に触れられるというのは、とても新鮮な感じを覚えました。

会場となったベニールカフェのサイズもちょうどよく、温かな雰囲気の店内に、望月さんを中心としたやわらかな時間が流れていて、とても心地よい1時間だったのが印象的でした。

欲を言うと、お客さんの作り出す雰囲気がどうしても硬くなりがちで、できればもう少しほぐれて自然な感じがあったらもっと良かっただろうと思いますし、そのほうが望月さんも話をしたりピアノを弾くにあたって、やりやすいのではないかという印象でした。
話や演奏をきくことに傾注するあまり、あまりにも一同が身じろぎもせず、かたく息を殺したようになるのは日本人がしばしば陥りがちな状況ですが、もう少しリラックスした気配が聞く側にもあると、さらに楽しさが増すだろうと思いました。
もちろんガヤガヤして、集中力が阻害されるようでは困りますけれども。

近年はトーク&コンサートというスタイルこそ盛んですが、実際はお客さんに媚びただけのつまらないトークを聞かせられることが圧倒的に多く、会場もホールではなかなかしっくりきません。
それなら、いっそこのような親密な空間で静かに珈琲など飲みながら、気負わずに生の音楽に触れるというのは、これこそまさにコンサートホールではできないことで、意外にありそうでなかったスタイルじゃないかと思いました。

望月さんは演奏や音楽に対する造詣が深いのはもちろんですが、お若いのに、奇を衒ったところのない非常にまっとうな日本語を使われる方で、自然体で、ものの感じ方や考え方なども非常に共感を覚える点があるのですが、最近ではむしろ珍しい部類の方といえるかもしれません。

さて、このシリーズは同じ会場で毎月第3金曜日に行われており、3月はドビュッシー、4月は最終回で武満徹とビートルズだそうです。
http://www.mikiyamochizuki.com/blog/

2012/02/19 Sun. 01:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

安城家の舞踏会 

山田洋次が選ぶシリーズで『安城家の舞踏会』というのを観てしまいました。
原節子、森雅之、滝沢修などが出演する、終戦後の没落貴族の黄昏れの様子を描いた映画で、当時はそれなりの話題作だったようです。

戦後に平和憲法が発布され、民主主義の名の下にそれまでとは打って変わった平等の世の中が打ち立てられ、それを前にした貴族の悲哀。収入も途絶え、住み慣れた広大な家屋敷を維持することもできない一家は、それぞれの捉え方によって新しい時代といかに折り合いをつけていくかという現実に直面しながら、最後の舞踏会を催します。

その招待客の中には、ヤミ会社の社長で、屋敷を抵当に金を貸している男も含まれていますが、舞踏会の裏で安城家の当主は屋敷を手放すことが耐えられずに哀願を続けますが、この社長はこの屋敷はもはや自分のものだと言って相手にもなりません。

この男は昔、安城家に世話になった過去もあり、その点でも当主は翻意を必死に訴えるのですが、旧秩序の崩壊と時代の流れで世の中の価値は一変し、そのような過去などなんのその、まったく相手にされません。

また、長年この家の運転手として仕えていた男が裸一貫から商売をはじめて財を成し、昔の主家を買い取ろうとするなど、見方によってはこの終戦の時期というのは戦国時代以上の下克上ともいえるようです。
こういう混乱をかいくぐった末に今日のような時代が到来したのだということが偲ばれました。

そんな中、無気力に生きる安城家長男役の森雅之はいつもだらしなくタバコをくわえ、何事にも無気力、厭世的になり、暇さえあればピアノを弾いていました。

ショパンのエチュードやプレリュードを形ばかり弾いていましたが、密かに遊ばれている女中が、長男の冷淡さに業を煮やして、人目がないのをいいことに、いきなり演奏中のピアノの鍵盤に飛び乗ってお尻をのせつつ気を惹こうとするシーンなどは、当時としてはよほど大胆な演出だったのだろうと思いますが、今の目で見るとあまりにも滑稽で笑ってしまいました。

古い映画というのは、その時代を偲ぶ手がかりにもなって面白いものですね。

いつの時代も、時代が変わることによって、それまで当たり前だとされていた事柄が、そうではなくなるというのは、良いことも多いのかもしれませんが、同時に様々なかたちで計り知れない悲劇も生み出すものだと思いました。

この映画は終戦後わずか2年の、1947年の9月に封切られており、当時は貴族といわず、このような現実がごろごろしていたものと思われます。
世の中がひっくり返るというのは、何にしても大変なことですね。

2012/02/18 Sat. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

発火 

最近はマッチを使うなんてことはほとんどない時代になりました。
もはやマッチそのものがないという家庭も多いことだろうと思います。

ところが、へんな言い方ですがマロニエ君はこのマッチというのが嫌いじゃないんです。
というよりも、あのカチッと音のする100円ライターの感触が嫌いだし、ましてや昨年の夏でしたか、規制がかかっていらいますます固くて指に負担がかかり、ちょっと使う気にもなれません。
ちなみにマロニエ君はタバコは吸いませんからこれに使うわけではないのですが…。

ごく平均的日本人と同様で、我が家には宗教心といえるようなものはありませんが、それでもいちおう先祖の仏壇がありますから、ごくごく習慣的にこれを毎朝お線香を立てて拝む真似事のようなことだけはやっています。

そんなことで、マッチを使う機会というのは我が家に限っていえば、まだ少し残っていて、いまだに使っています。

さて、そんなマッチですが、先日びっくりすることがおこりました。
箱から一本取り出して、先に箱を閉めようとした瞬間、どうやらマッチ棒先端の火薬が箱の脇に接触したらしく、いきなりマロニエ君の指の中で着火してしまって、ワッと激しい炎があがりましたが、それはたかだかマッチ一本とは思えないようなものすごい爆発的とでもいいたいような迫力でした。
反射的にそのマッチを放り出してしまいましたが、お陰で左手の中指の右側にほんの小さな火傷をしてしまいました。

自分でもゾッとしたのは、着火した瞬間の強くて勢いのある火力だったせいか、その刹那プーンと鼻についた臭いは、まぎれもなく「肉」の焼ける臭いで、しかもそれが自分の体から発したものだと思うとゾッとしてしまいました。

マッチはどうかすると何度擦ってもなかなか火がつかないこともあるかと思うと、こんなにも思いがけず、ちょっと先が触れただけで轟然と火がつくというのは恐ろしいもので、たかが一本のマッチといえども油断は禁物だということを痛感させられた次第でした。

幸いにも火傷はごくわずかで、今の季節は水道をひねるととびっきりの冷水が出ますから、これで十二分に冷やしたあと、薬を塗って一晩寝たら、翌日はもうかなり治まり、いまではまったく気にならないまでになりましたが、みなさんも火の取扱いには、いまさらですが注意深くされてください。
牙をむいたら恐いです!
2012/02/17 Fri. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

豪華絢爛は大衆向け 

ある本を読んでいると興味深いことが書かれていました。

いささか下世話な話ですが、ホテルや料亭などには自ずと格というものがあるのはよく知られている通りで、今どきはミシュランガイドの影響によるものか、なにかといえば星の数などがその尺度のようになっています。
しかし、それらは出版社などの、所詮は給料取りの誰かがチェックをして等級を付けたものであって、マロニエ君はこんなくだらない、かつ信頼に足らないものはないと以前から思っていました。

ホテルなども高い評価を得るためには、いろいろな評価基準をふまえて、予めそれに合わせてクリアできるように作っていくだけで、本当の格式とは思えません。

中には一泊いくらというようなスイートの存在などを披瀝して、それがさも高級であるかのようにアピールしますが、なんとばかばかしいことかと思います。もちろんそんな部屋に泊まりたい人がいて、支払い能力があるのなら泊まればいいでしょうが、それが即高級と思うこと自体が価値観の貧しさの表れのような気がします。
そもそも昔から、必要以上に一流ホテルに拘ったり、スイートルームなどに異常に憧れるのは決まって成り上がりだと言われています。
その人の根底に高級というものの本来の尺度が存在しないので、高額であることにのみ頼るのでしょう。

本に書いてあったのは、高級というものにはそこに息づく精神的な価値の領域があり、また昔からの利用者が自然にそれを受け止めて、誰ともなく認識していることが大切で、決して派手で豪華な作りではないということです。
そして、ホテルであれレストランや料亭であれ、大衆を相手にする店ほど見た目を豪華絢爛に仕立て上げて、もっぱら表面的な作りになっているという事実。本物は表面的な誇示や演出などする必要がないし、高級の中身とは目に見えるものばかりではないので、本物はむしろ地味でそっけないものであるということでした。

今どきの高級ホテルなどは、数十年前の高級ホテルとは違って新しいものが出来るたびにこれでもかという豪華で壮麗なドバイみたいな作りになります。しかし、それがまたいよいよウソっぽいわけです。
料亭然りで、昔のそれは外から見るとなんということもない至って簡素なもので、知らない人は大抵見過ごしてしまうようなひっそりしたものでしたが、今はやはり誰の目にもわかる壮麗で明快な豪華さを表面に出してきます。

例えば、本物の料亭とは間口が狭く奥行きがあり、作りは地味で、中も広くはないが、そこに流れる空気が違うし、お客も店側も要は出入りする人間が違うということです。そして本物の尺度というものは甚だ曖昧で、チェック項目のようにして文字の上に表せるような類のものではないということでしょう。

そして本を見て覚えて行くようなものではなく、生い立ちの中でごく自然に身に付いた者だけが行くものであったはずです。
一流というものの概念には、究極的には一朝一夕には得られない経験と精神性がかかわるわけで、そのためには伝統の裏付けなしに真の高級というものは存在しません。そこでは物質的には逆に簡素であることがむしろ必要だったりもすると思われます。
しかしそういうものとは無縁の大衆感情に訴えるには、物理的、視覚的、金額的なもので表現するしかなく、そこで伝統なんて言ってみてもとても間に合うものではありません。

今はあからさまな競争社会ですから、もっぱらビジネスで成功したような人ばかりが社会の上位に位置することになり、かくして本物は次々に静かに姿を消していくのでしょう。

ふと、ピアノの音も最近のものは奥行きのないブリリアントな方向で、なるほどそんな風潮と経過を辿っているようにも感じてしまいました。
2012/02/15 Wed. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

楽譜の版 

同じ作曲家の作品でも、出版社や校訂者によってさまざまな版があるのはよく知られています。

演奏者によっては自分はどの版を使っているか、事前に明示する人などもいますし、コンクールなどは指定の楽譜があったりと、この同曲異版をめぐってはあれこれの事情があるようです。

マロニエ君はこの問題を、大事ではないとは決して思いませんけれども、実際の演奏結果の要素の9割以上はその演奏家の本質的な音楽性に拠るものだと思っています。
ましてや素人のピアノ弾きが知ったかぶりをしてどうのこうのと言うのは失笑してしまいますし、無数にある音符のひとつがどうしたこうしたといって、とくにどうとも思いません。

ピアノの先生などで、趣味でやっている生徒が楽譜を買う際に、さも尤もらしく版の指定などをうるさくいう人がいるそうで、オススメ程度ならともかくも、それじゃなくてはダメだというような主張は少々ナンセンスだと思います。
真実そう信じての事なら、その先生のおっしゃる根拠を具体的に伺いたいものです。
もちろんショパンコンクールに出場するような人が、指定のナショナルエディションを使うというような場合は別ですけども。

繰り返しますが、どの版を使うかがまったく無頓着でいいとは決して思いません。
しかし、それを言っている人がどれだけその違いを理解しているかとなると、甚だ疑問で、ほとんどナンセンスの領域である場合が少なくないと感じるのが率直なところであって、大半の人はそれ以前の段階でもっと磨くべきものがあると思います。
ほんとうにそれを言うのであれば、実際に何冊も買ってみて、弾いてみながら丹念に検証してみるぐらいの覚悟と裏付けが必要だと思うのですが。
さらに、この版の問題は研究の進捗によっても変わってくるもので、優劣を決するのは非常に難しい問題でしょう。

外国にはどれだけいいかげんな楽譜があるのかは知りませんが、少なくとも日本で現在売られているようなものであれば、だいたい信頼性もある程度あり、そんなことに拘るよりは、与えられた楽譜からどれだけ充実した練習をして、より品位ある音楽的な演奏をするかということに心血を注ぐほうがよほど重要だと思うわけです。

たしかに版によってはちょっとした音が違っているとか、装飾音の入れ方、強弱の指示の有無、指使いやフレーズのかかり具合などが異なる場合がありますが、それらを問題とするよりも、もっと先にやることがありはしないかと言いたいわけです。
もっと基本的な作品の解釈や、数多くの優れた演奏を聴くことなど、弾く人の基本的な音楽性を磨く姿勢の方が百倍も重要だと思います。

マロニエ君も曲によっては何冊もの異なる版の楽譜を持っているものもありますが、とくにショパンなどでは本当に自分が納得できるものはどれかと言われたら、即答できるものはなく、数種類からのブレンドのようなものになるし、それも要は自分の主観に左右されます。
どうもそういうことを言いたがる人は、それが高尚で玄人っぽいことだと思っているのかもしれません。

そもそも、音楽的な人は、どの版の楽譜を使っても音楽的に弾けるわけで、基本はそういうものだということを忘れてはいけない気がします。
いくら高価で権威ある楽譜を持っていても、要は弾く人そのものに土台となるべき音楽性がないことには、ただ無神経に指運動的に弾いてしまうのなら、どの版を使ったってさほどの意味は感じません。

2012/02/14 Tue. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

地域性 

このところ知人の車探しの手伝いをすることになり、ネットで中古車検索をしながら、あちこちに電話の問い合わせをしましたが、そこでひとつの事実というか現象のようなものが浮かび上がりました。

それは全国の各地域による電話対応の違いでした。
本来なら近場がいいわけですが、良い物を探すためには距離を厭わず探し回るのがクルマ好きですから、そのためには最大市場ともいえる関東地区まで範囲に収めて、以西、東海、関西、四国などまで検索範囲としました。

現に、マロニエ君の友人知人には、良いものが見つかったときには、仕事の休みを取ってわざわざ飛行機に乗って見に行ったり、長距離バスに飛び乗って目指す車屋に赴き、場合によってはその場で現金決済して乗って帰ってくるという猛者なども一人や二人ではありません。
そうまでしてでも自分の欲しい車を購入するという、好事家特有のパワーがあるということかもしれませんが、まあ傍目にはご苦労千万なことだと目に映るでしょうね。

さて、その電話対応ですが、今回電話をしたものに限って言うなら、あきらかに関東地区が突出して対応がよくありませんでした。話しぶりもどこか横柄で上から目線、さらにお客さんに対しても話のイニシアチブは店側が取ろうと微妙に牽制してくるのがわかります。

その点では、関西はやはり商売というものに対する歴史と土壌があるというか気構えがしっかりしているのか、問い合わせに対しては適度に腰も低いし、温かく気さくに応じてくれます。
四国もまあ普通でした。地元の福岡もその点ではまったく問題ありませんでした。

その点では、関東地区は大半がそれぞれにムッと来るような出方をするのが目立ちます。
この不景気でろくに売れていないくせに、どこか高飛車で、それが「商品への自信の表れ」「べつにへーこらしなくてもモノが良いんだからそれでいい」という類の変な虚栄心が背後にあり、2/3ぐらいの店がお客さんよりも立ち位置を優勢にしようという、まったく勘違いとしかいいようのない歪んだ流儀のあることがビンビン伝わってきます。

挙げ句の果てには、こちらとしてはごく真っ当で当然のことを質問しても、いちいち不快なような示したあげく「うちを信用してもらうしかない」などと阿呆ではないかというようなことを言い始めます。
こういう言葉は昔からいい加減な車を売りつけるときの中古車業者の常套句ではありましたが、時代が変わって、さらにはこんな不景気になっているというのに、悲しいかな悪しき体質をいまだに引きずっているのは、まるで関東だけがひどく遅れて取り残されているように感じられて驚きでした。

このようなネットの時代に、誰の紹介でもなく、ただ単に検索サイトでヒットした結果で電話しているだけなのですから、キチンと商品説明を受け、あれこれと質問があるのは当たり前であって、いきなり抽象的に「うちを信用しないなら、べつにいいですよ」的な発言をするほうがどうかしています。
まるで、意味もなしにすぐいきり立つ自信のない弱い人のようでした。

東京は車店に限らず、マロニエ君がいるころから全般的にこうした「店側が威張る」といった体質がありましたが、たしかに関東地区は何事も同業のライバルも多いので、それらの中で他店より抜きんでるためには、地道で誠実な努力を重ねるよりは、このような高飛車路線でいくのがある意味で常道&早道でもあったのでしょう。
しかも、こういうことはエリア全体の空気の問題だから、なかなか直らないんですよ」ね。

会社でも学校でも当てはまることですが、「悪しき体質」というものほど、なぜか脈々と受け継がれていくものだということを再確認しました。

2012/02/13 Mon. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

新しいSK 

ごく最近、カワイから届いたDMによると、「SK現行商品最終チャンス」と銘打って2台のSK-2と1台のSK-3が最後の販売をする旨のチラシが同封されていました。

現行商品最終ということは、当然モデルチェンジしたことを意味するわけで、さっそくカワイのホームページを見たところ、やはりモデルチェンジはしているようでしたが、製品サイトはうやうやしく「3月公開予定」だそうでガッカリです。
そんなに勿体ぶって、どんな変化を遂げているのかと思いますが、なにもポルシェじゃあるまいし、ピアノなんだから外側のデザインが大きく変わることもないだろうにと思いました。

ところが、封筒の中に入っていた小さなリフレットのようなものを見ていると、ありました!
一枚だけ、ほんの小さな写真で新しいSK-7を斜め上から撮った写真がありますが、それによるとすぐにわかったのはボディの内側に貼られる化粧板が、これまでのベーゼンドルファー風の垂直方向の木目模様(これは良かった)に代わって、ファツィオリ風の雲みたいなウニュウニュした木目模様になっています。

これは音とは直接関係のない部分ですが、いささか豪華趣味というか、率直にいって成金趣味的で、ファツィオリでさえあの木目は好きではなかったのですが、それをカワイというメーカーそのものも華がないのに、いやあ…ちょっとミスマッチじゃないかと思いますね。
上級機種だろうがなんだろうが、カワイにはちょっと似合わない印象ですけれども、やはり新型ではさらに一層の高級路線を目指しているのでしょうね。
価格も全体に約1割値上げされていて、SK-7ではついに600万を超えています。

さらに変わったのは、以前からあまりにセンスがないと思っていた、まるでカレー粉を混ぜたような、どちらかというと安っぽい金色に塗装されていた???なフレームの色が、今風の赤味のあるヤマハやスタインウェイに通じる色になり、これはようやく当然の色に落ち着いたというべきで、ホッと安心です。

Master Piano Artisan なる開発技術者の言葉によれば、調律師は声楽家だそうで(なるほど!)、新しいシゲルカワイには声楽家としての発想を採り入れたとありました。
「歌うピアノ」になっているのだそうで、「輪郭をはっきり」させるとありますが、これはあきらかにヤマハのCFシリーズの路線を意識した処置だと思われます。

まったくマロニエ君の想像ですが、この言葉通りならば、新シリーズは明確な進化を遂げているのだろうという気がします。というのも、一昨年のショパンコンクールのSK-EXでは、あきらかに従来の同型とは一線を画した明るく甘い音色でしたので、この頃から試験的にそういう方向のピアノ作りを密かに進めていたものと思われます。

かつての巨人vs阪神ではありませんが、これでヤマハvsカワイの上級ピアノバトルもいよいよ佳境を迎える時期に来たということのようで、こうでなくっちゃ面白くありません。
おそらくカワイのほうがコストパフォーマンスでは圧倒的に上を行くわけでしょうから、どこまでCF4とCF6のクラスに対して半分の価格で追いまくるのか、楽しみです。

ただし、あんまりよくなると現行のSKシリーズのユーザーは心穏やかではないでしょうが、まあそれは仕方ないでしょうし、マロニエ君もどっちみち自分は関係ないので専ら気楽に高見の見物です。

2012/02/11 Sat. 01:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

最も買ってはいけない車 

車のことで調べたいことがあってネットを見ていると、偶然ある人のサイトに辿り着きました。
世の中にはどんな分野にも「達人」というべき人がいるもので、この方は輸入車の販売業をやっている人らしいのですが、実に多種多様な車に文字通り精通してたスペシャリストで、各クルマごとに分けて非常に参考になる濃い内容がたくさん載せられていました。

プロフィールを見ていると、わりに若い人のようでしたが、どうして立派なものです。
自分が好きなことで、それを職業として毎日関わっているというのは、まさに植物が必要な水や栄養をぐんぐん吸い上げるように、知識や経験がとてつもない量蓄積されていくという見本のような人です。

しかも、その方は主に輸入車の中古車販売を自分でやっているらしいので、関わる車種の幅広さも多岐にわたり、特定の新しい車種しか扱わない、ただの月給取りのディーラー営業マンなんかとは、その知識経験の深さと広さには雲泥の差があるようです。

まさに何でも弾ける、昔のアラウとかアシュケナージみたいな感じですね。

あらゆる車の個性や魅力、モデルの変遷、長所短所、経年変化で起こるトラブルの特徴など、つい「なるほど」と思わせられるものばかりで、もうこれだけで立派な本ができるのは間違いありません。

また、中古車販売販売業者として車種の垣根を超えて、日々多種多様な車に触れているということは、それだけ車を見る目、判断力もより正確で信用度の高い客観性が備わっていて、一部の車種を偏愛したり忌避するということもないのです。

読むほどにどの車種においても的確な判断がくだされ、しかも根底にあるクルマ好きの心情がひしひしと伝わってくるので、読み物としてもついやめられないほど面白いものでした。

文章は、車の国籍ごと、さらにはメーカーごとに分類されていて、最後にいよいよマロニエ君所有のフランス車についての記述を開いて読んでみることに。
はじめは楽しく読んでいたところ、我が愛車の名前なども登場してきて、さあ何と書いてあるかと思ったら、車としての孤高の魅力は大いに認められていたものの、故障やパーツ供給、整備の難しさから「最も買ってはいけない車」!?として結論づけられていたのには、覚悟はしていたものの思わず倒れそうになりました。

「むろんその車のことをわかった人がそれを承知で乗るぶんには、他に変わるもののない良い車」というふうに断りは入れてあり、ゆめゆめ甘い覚悟で購入するべきではないという警告でもあるわけですが、やっぱり総論として、できれば避けたいワーストの部類に入れられたというのはトホホでした。

もっともマロニエ君のまわりには、そのトホホを自虐的な楽しみであるかのようにして悲喜こもごもに乗っているオバカも多いので、まあ笑い話がまたひとつ増えたぐらいの感じではありますが、普通の感覚でちょっとオシャレなクルマに乗りたいぐらいな感覚で買おうものなら、それこそとんでもないことになるのは請け合いです。

2012/02/09 Thu. 02:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

復興支援コンサート 

東北の震災以来、その復興支援のためのコンサートが数多く開かれました。

それが本来の目的に適った通りであるならば、大変素晴らしい結構なことであるのは言うまでもありません。中には内外の著名な超一流のアーティストがまったくのノーギャラで行った本格派のコンサートなどがいくつもあったようで、そういうものには素直に感謝と敬服の念を覚えます。

しかし、世の中、そう麗しいことばかりであるはずもなく、マロニエ君のような人間の目にはどうも不可思議に映るものも少なくありません。
正直を言うと、中には「復興支援」の文字に違和感を覚えるコンサートがかなりの数含まれている気配を感じてしまいました。

本来の復興支援のためのコンサートというものは、いわゆる有名アーティストが、その自分の集客力を使ってお客さんを集めてコンサートをし、その収益金を被災地/被災者に寄付するというものです。
ところが、震災後にこの復興支援に名を借りた、わけのわからない正体不明のコンサートが無数に開かれた(現在もまだ続いている)のは、偽善的な悪乗りのような気がしてしまいます。

もちろんすべてとは言いません。有名アーティストでなくても、純粋な動機と内容で行われた復興支援コンサートも中にはあったことでしょう。

しかし、チラシを見ただけでも胡散臭い感じのするものもあって、復興支援の名の下に、これ幸いにコンサートを開くということを思いついたものも相当あった気配は否定しようもありません。
いっぱしに「収益金(の一部は)は被災地に寄付」というような文言はあれども、さてそのうちどれだけ寄付するのかさえわかりません。
コンサートに来たお客さんに後日、寄付の明細を報告するわけでもありませんし、極端な話、集まったお金からたった1万円寄付しても、言葉の上ではウソにはなりませんから、この手の合法的で限りなく自己満足に近いコンサートはずいぶん行われたと思います。

事はなにしろ寄付であって義務ではないために、多くがアバウトで、善意善行として追跡調査もされない性質のものであるのは、さらに都合の良いことでしょう。

復興支援の看板をかけさえすれば、自分達のコンサートの恰好の口実にもなるし、演奏機会はできて、社会貢献までやったことになり、おまけにちょっとした小遣い稼ぎにもなれば、見方によってはほとんど一石三鳥の世界かもしれません。
日本人は世界的にも信頼のおける優れた民族で、災害時に略奪や暴動などが起こらないなど、外国人の目には驚くべき長所がある反面、ほとんどなんの関係もないような事にまで「復興支援」などというお題目を立てて、このいわば災害特需にあやかってしまうという、暗くてみみっちいクセは…あると思いますね。

まあ、無名奏者のクラシックコンサートなどは、もともとどう転んでもろくに儲からないものだから、それをネコババといってもたかが知れていますが、そんな限りなくグレーな気配のある復興支援コンサートはまだまだ続いているようです。

2012/02/08 Wed. 02:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

マイペースは強い 

いろんな人とお付き合い、もしくは接触があると、いまさらのようにいろいろなタイプの人がいることに感動してしまいます。ここに「感動」という言葉を使うのは不適切のように感じられるかもしれませんが、マロニエ君としてはやはり人は本当にさまざまという意味もあり感動という言葉をおいて他にありません。

そんな中でも痛切に思うのが、何事もマイペースを貫くことができる太い人というのはやはり強いなあと思います。
些細なことが気にならないタイプというか、泰然としている人、おおらかな性格などもあれば、無神経で図太くて鈍感な人というのも少なくありません。
その種類はいろいろでしょうが、なにしろなんでも自分のペースが守れる人、押し通してしまう人というのは、少なくともその部分だけでもおそろしく強いと思います。

人が複数集まる機会というものがあるとして、そういうときについ脇にまわる人と、話の中心に出てくる人というのがありますね。
それも存在感があるとか、話術が巧みなどの理由で自然にそうなるのであればいいとしても、初めからマイペースのトークオンリーで、デリカシーがなく、空気が読めないために中心になる人がいます。けっきょく一種の鈍さから他のことはおかまいなしに自分ばかり押しまくってしゃべってしまう人などがいて、こういう手合いはどうも困ります。

しかも比較的スローテンポな人なんかだと一見出しゃばりのようには見えないので、まわりもすっかりのせられて、ヘタをすると「あの人はいい人、面白い人」などという、まったく的外れな高い評価まで獲得してしまったりする日にゃあ、(面と向かってそれを否定はしませんが)内心はもう驚きと諦めが充満してしまいます。
これも要するに図太くてマイペースが勝ちというわけです。

メールなども、こちらがメールを出してもいつまでも返事が来ない人がいますが、無視されたのかと思っていると忘れたころにひょっこり返信が来ていたりします。
あるいは、「メールは(とくに返信は)一度だけ」と思っている人がいて、返事を返しても、それに再度返信してくることの決して無い人という、人情味のない人も結構いますね。
こういうことはむろんケースバイケースで、延々とやりとりする必要はありませんけれども、いちおうやりとりの上での区切りというのはあるだろうに…と思うのです。

電話も然りで、こちらがかけてもコールバックしない人、電話帳登録している番号以外は出ない人など、昔はなかったような新種の違和感を覚えることはときどきありますね。

社会生活を送るためにはいろんな人の性格や流儀に対して、寛容の気持ちを持って接しなければいけないというのはマロニエ君が常々胸に抱く考えの中心でありますが、それでもちょっとこれは!?と思うようなことが多すぎるのは驚くばかりで(それもここには書けないようなひどいケースも少なくない)、それが冒頭に書いた「感動」なのであって、もはや感動でもしている以外にはないというところなのです。

人は何かと言えば、ちょっと上から目線で「ちょっとしたこと」「くだらないこと」「些細なこと」などと大人ぶって言いますが、マロニエ君は実はこれには猛反対で、人間が日々の生活を快適に送るための生活実体というものは、要するにくだらないこと、ちょっとしたことの連続なのであって、それらがあるていど妥協できる範囲に収まっていないことには、人間関係はやっていけません。
そこで最後に勝つのは視野の狭いマイペースの人なわけです。

2012/02/07 Tue. 02:14 | trackback: 0 | comment: 0edit

ベルリンのハプニング 

昨年大晦日のベルリンフィル・ジルヴェスターコンサートがBSのプレミアムシアターで放映されました。
以前は大晦日の夜中に生中継されていましたが、最近はないなあ…と思っていたところでした。
もしかすると生中継のほうは他の有料チャンネルかネットなどでやっているのかもしれませんが、そのあたりはとんと疎いマロニエ君にはわかりません。

会場は「カラヤンサーカス」の異名を持つベルリンフィルハーモニーのホールで、今回はエフゲーニ・キーシンをソリストに迎えて、グリーグのピアノ協奏曲がメインであったほか、前後にドヴォルザーク、グリーグ、ラヴェル、ストラヴィンスキー、Rシュトラウスなどの管弦楽曲が取り上げられました。
指揮は当然のように首席指揮者兼芸術監督のサイモン・ラトルです。

このベルリンフィルのジルヴェスターコンサート、いつごろからか映像には女子アナ風の司会がつくようになり、演奏の合間の折々にその女性が会場をバックにおしゃべりをします。
ドヴォルザークのスラブ舞曲、グリーグの交響的舞曲に続いてグリーグのピアノ協奏曲が始まりますが、その際にもこの女子アナ(たぶんドイツの)が出てきてキーシンのことなどペラペラしゃべっているとき、画面の脇でおかしな事が起こっているのに気付きました。

背後に映り込んだステージ上では、予めそこに置かれていたピアノのフタを開けるべく、体格のいいおじさんがでてきて前のフタを開け、つづいて大屋根を開けようとしますが、さてこれがどうしても開かないというハプニングが起きました。
そのおじさんは、何度も腰をかがめてはヤッとばかりに力を込めるのですが大屋根は頑として開かないので、ついには会場からどよめきの混じった笑いまで起こりましたが、それに刺激されて焦ったのか、おじさんはいよいよ力を入れたらしく、勢い余ってピアノ本体の位置までずれてしまいました。
それでも依然として大屋根は開きません。

これにはわけがあって、スタインウェイはじめとする多くのコンサートグランドでは、運搬時に大屋根がふいに開かないようにするためにL字形の金具が装着されており、それがかけられていることは見ていてすぐに察しがつきました。ボディ側面のカーブのところにそのための丸いテニスボールぐらいのノブがついているのでご存じのかたも多いと思いますが、このおじさんはそういうことがまったく分かっていない気配でした。

女子アナはこの異常に気付いたようでしたが、チラッと後ろを振り返りつつ自分のトークを続けます。その間もフタは開かずに、ついに様子がおかしいと察した他のスタッフが駆けつけてきて、ようやくノブが回されたようで、ここで大屋根はやっと開いてめでたしめでたしでした。
しかし、舞台奥へ向かってややずれてしまったピアノの位置を元に戻すことはされないままに…。

たぶん興奮していて、そんなことには気付きもしなかったのでしょう。
ほどなくキーシンが登場。彼は気の毒にもこの位置のままで演奏しましたが、それはそれとして、まことに筋目のよい美しい見事な演奏でした。

それにしても、これがもし日本だったら、ピアノの管理を含めた準備や設営などは、臆病なぐらい丁寧の上にも丁寧に行われるはずで、フタの止め具の事も知らないような人間が本番でひょこひょこ出てきて、力任せに開けようとするなどはちょっと考えられない事だと思いました。
何事においても真面目で整然として、高いクオリティで鳴らすドイツといえども、このような未熟なハプニングが起こるわけで、逆にいえば日本人のキメの細やかさこそ例外なのかもしれません。

さてその止め具は金属ですが、おそらくあれだけ男性の体力で猛然たる力を何度もかけられたら、それを取りつけられている土台はボディ側も大屋根側も木なので、とくに大屋根側などはそれなりの損傷があるかもしれません。あーあ。

2012/02/05 Sun. 02:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

MacとWindows 

現在世の中で使われているパソコンは、もちろんWindowsのほうが主流だと思いますが、一時はほとんど風前の灯火だったMacも最近では若干盛り返してきたように思います。

マロニエ君は十数年以上にわたってのMacユーザーで、ここ数年は必要もあってしぶしぶWindowsも使っていますが、その使いにくい(マロニエ君にとっては)ことといったらありません。

iPodに続いてiPhoneの登場あたりから、なんとなくアップルの製品自体が一般的に認知されるようになったと思いますが、それ以前はMacユーザーなんて言ったら、まったく変人か物好きな少数派の扱いでした。
パソコンといえばWindowsが常識で、この2つの言葉はほとんど同義語でした。

お店などに行っても、パソコン売り場でなんらかの質問などをすると、店員は当然のようにWindowsを前提とした話しかしないので、それを遮ってMacであることを告げなければなりませんでしたし、相手はそれを聞くなりあからさまに「へぇ」みたいな顔をされたことも一度や二度ではありません。

さらには大型電気店では、はじめから少数派で儲からないマックを切り捨てた店などもあって、そのうち市場からも消えてなくなるのでは?という危惧さえ抱いていたものです。

それがスマートフォンの登場をきっかけに、再び盛り返してきた観があるのはマック派としては喜ばしいことです。

マロニエ君の印象では、少し前までのWindowsのユーザーはMacのことなどまったく念頭にもなく、比較しようとする考えもなかっただろうと思います。Macは値段も高めにもかかわらず、基本のスペックなどはWindowsのほうが上でしたから、いよいよ相手にもされなかったようですね。

そんな中で、マロニエ君のまわりにはいろいろな「モノ」へのこだわりを持つ変人が多いためか、パソコンもMacユーザーが不自然なくらい集中していましたし、Windowsユーザーも買い換えを機に、まるで悪徳商法のようにMacユーザーで取り囲んでMacへ鞍替えさせたりしていました。
そして、その結果は、ただの1人としてそれを後悔した人はいないほど、ひとたびMacを使った人はすっかりその虜になってしまうようです。

その第一は、画面の美しさというか、そこにMac固有の美の世界があり、気品があって可愛らしい。
また、操作が簡単で明快、なんでも直感的に操作できるようになっているほか、ショートカットなどの機能も多く、ほとんど自分とパソコンがある一定のリズムで繋がることができると思います。

その点、Windowsをこの2年ほど使っていますが、いちいちの操作がわかりづらく、いまだに大半のことがわからないことだらけです。とくにわからない事に直面したときの解決率は圧倒的にMacのほうが上で、Windowsではあきらめて匙を投げたことが何度もありました。
パソコンに詳しい人の話によれば、Macは自分の経験から予測や応用など、ある程度のことが自力で解決できるようになっているのに対して、Windowsはひとつひとつに固有の知識がなくては決して解決しないし、前に進めいないようになっているのだとか。

最近ではiPhoneなどに触れることで、Windowsユーザーの中にもアップル製品がもつ魅力の一端を知った人が多いのではないだろうかと思います。
正直言って、Windowsは画面を見ただけでなんとなく荒涼とした陰気な気分になるのですが、その点Macは隅々に至るまで趣味も良く、気持ちを楽しくさせてくれるのです。

たとえばメールやこのブログなども、Windowsではまったく文章を書こうという気にもなりませんので、そういうことはすべて古くなったMacでやっていますが、これもそろそろ買い換えないといけない時期に来ていることを、先日のHDトラブル騒ぎでより明確に意識しはじめました。

2012/02/04 Sat. 01:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

弾くほどに鳴る 

過日はピアノ好きの知人と共に、県内にお住まいのあるピアノマニアの方を尋ねてお宅をお邪魔しました。

マロニエ君のまわりには輸入ピアノのユーザーが何人かいらっしゃいますが、この方はやや珍しいニューヨーク・スタインウェイをお持ちです。
昨年の暮れぐらいに調律その他の調整をされたということで、一緒に行った方が弾き出すと、なんとも淡く可憐な音色が出てきたのには思わずハッとさせられるようでした。

一般的なイメージとしては、ハンブルク・スタインウェイのほうがドイツ的で落ち着いた音色で、対してニューヨーク・スタインウェイはもっと明るく派手で、しかも硬質な音であるように考えられているふしがありますが、実際はさにあらず、ニューヨークのほうがやや線が細く、そして格段にやわらかい音色を持っています。
日本のピアノやスタインウェイでもハンブルク製に慣れた人の耳には、この音色と発音特性の関係から一見ちょっともの足りないように感じられることもあるようですが、話はそう単純ではありません。

たしかに弾いている当人の耳にはそれほどガンガン鳴っているようには感じられないのですが、少し距離をおくと非常にボディがよく鳴って音が通り、心底から楽器が響いているのがやがてわかってくるのがニューヨーク・スタインウェイの特徴のひとつだと思います。

その証拠に、同行した知人が仕事の連絡で携帯を使うため、ちょっと部屋を出て電話をはじめたところ、ほとんどピアノの音量が変わらず、さらに離れたらしいのですが、漏れ出てくるピアノの音量はほとんど変化しないので大いに焦ったらしく、相手が仕事の関係であったためにちょっとまずかった…と心配しなくてはいけないぐらいだったそうです。

「遠鳴り」で定評のあるスタインウェイは、思いがけずこんなところでもその優秀性が証明されたようでしたが、逆にいうと家庭用のピアノとしては、弾いている本人には手応えよく鳴ってくれて、しかも周囲にはあまり音の通っていかないピアノのほうが、騒音問題という実情には合っているかもしれません。

そういう意味ではスタインウェイはサイズを問わず、楽器の性格としては人に聴かせるためのピアノだということは明らかで、そこが今流に言うとまさに「プロ仕様」のピアノだといえるでしょう。

さて、ピアノ遊びというのは時間の経つのが早いもので、あっという間に時計の針が進んでしまいます。
弾きはじめから2時間ぐらい経ったときでしょうか、ハッと気がつくとピアノの音が大きく変化していることに一同驚きました。はじめの可憐な音色は遙かに影を潜めて、太いのびのびとした音が泉のように湧いてきて、むしろ逞しいとさえ言っていい力強い響きに変わっていました。

日本製のピアノでも1時間も弾いていると鳴りがこなれてくるというのは感じることがありますが、これほどあからさまな変化が起こるのは、いやはやすごいもんだと感心させられました。まさに良質の木材とフレームが弾かれることでしだいに目を醒ましてぐんぐん鳴り出すのは、まるで楽器が掛け値なしに生き物のようでした。

こういう状態を知ってしまうと、一流品であればあるほど、例えば店に置いてあるピアノをちょっとさわってみるぐらいでは、とてもその実力の全貌は見えないということになるでしょう。
とくにもし購入を検討するときなどは、お店の人を説き伏せて1時間でも弾いてみると、そこから受ける印象や判断はずいぶん違ったものになってくると思います。

日本のピアノは製品としてはまったくよくできてはいるものの、状況によってここまで変化するという経験は一度もなく、それだけコンディションが安定しているといえばそうなのかもしれませんが、楽器とは本来、このようにセンシティヴで演奏者をわくわくさせるものであってほしいと思いました。
2012/02/02 Thu. 01:59 | trackback: 0 | comment: 0edit

リーダーの資質 

昨日の朝刊の一面を見て驚いたこと。

それは、大相撲の理事長に北の湖が返り咲いたという写真付きの記事でした。
昨年まで八百長、賭博、薬物、暴力団との交際など、これでもかとばかりにいろいろなスキャンダルを抱えていた相撲界ですが、放駒理事長の後任に、なんとまたあの北の湖が新理事会の決定によって史上初の再任となったというのは、これはどういうことかと思いました。

北の湖はそもそも、前回の理事長を大麻問題や八百長問題の責任を取って辞めたはずなのに、そんな経緯のある人が再任されるというのはどういうことなのか。

相撲界の諸問題がいちおう沈静化して、ようやく琴奨菊や稀勢の里などの新大関も誕生し、先場所では把瑠都が優勝するなど、まだまだとはいえ、とりあえずここまでどうにか復調した相撲界といえるわけで、それには放駒理事長の断固たる改革断行が大きいと言われていただけに(真相は知りませんが)、まったく寝耳に水の理事長交代にはエエッ!?と声が出るほど驚きました。

北の湖の理事長時代といえば、朝青龍問題や八百長問題など諸問題が続々と噴出して、それに対してなんの対策も打てず、連日マスコミから何を聞かれても一切コメントさえもできずに、仏頂面でのっしのっしと逃げ回るだけの見苦しい姿しか印象にないのはマロニエ君だけではい筈です。

今回の再任決定での会見では「残りの人生をすべて懸ける」などと言っているそうですが、何に対してどう残りの人生をすべて懸けるのかまったくわかりません。
そのあたりの経緯に関してはなにひとつ記述がなく、いよいよ真相は不明です。

北の湖が理事長としてなんのリーダーシップもなく、改革はおろか、問題の処理ひとつできないことは、すでに数年前にイヤというほど証明済みなのであって、こんな人がまたぞろ相撲界の頂点に立つのかと思うと、どうしようもなく暗澹たる気分になってしまいます。
しかも新理事10人による理事会において「全会一致」で決まったというのですから、唖然というほかはなく、何の内情も明かされないのは極めてグレーな空気を感じるばかりです。
新聞にも書かれず、ならばテレビはもちろん言いませんから、真相を知るには週刊誌か新潮45(あるいは2ちゃんねる)あたりに頼るよりほか道はないでしょう。

それでなくても、上に立つ人にはそれなりの器量やリーダーシップはもちろん、それなりの「顔」というか、清新さや明るさが必要であって、あの一年365日苦虫を潰したような顔をした人がいまさら何をしに出てくるのかと思いましたね。
まあ、相撲どころか我が国のリーダーを見ても、野田さん、菅さん、鳩山さん、およびその周辺の顔ぶれを見るたび悪夢でも見ているようで、とにかくもう少し健全になれないものかと思います。

上に立つ人には、多くの人達が感覚的にも、ある程度の共感や納得ができるような人であってもらわないことには、世の中に与える、そのマイナスの影響というのは計り知れないものがあると思います。
景気が一向に改善しないのも、ひとつには暗くて無能なリーダーが悪い波動を振りまいているからという気もします。

2012/02/01 Wed. 02:00 | trackback: 0 | comment: 0edit