12 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 02

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

良識の暴落 

友人からのメールに『人間関係は面倒くさい』とありましたが、まったく同感です。

常識や良識も時代と共にどんどんおかしな方向に変化しており、近年はほとんどついていけない新種の基準が次々に打ち立てられるようです。
それよりも甚だしいことは既存の常識や礼節が信じがたいペースで暴落している点でしょうか。

例えば、誠実に接すれば相手の心には必ずなにかが通じるというのは、確実にひと時代前の理想化された常識であって、現代ではもはや幻想となりつつあるようです。

どんなに誠実を尽くして接しているつもりでも、それを一向に解さず、専ら無反応で、そのボールをキャッチできない人があまりにも増えすぎている印象があります。
昔に比べると、人の反応というものがまったく違っており、まずおしなべて情の濃度が低いようです。
共通しているのは、とくだんの悪気などはないらしいという点ですが、これが却って困りものです。

以前なら変人というか、ちょっと変わり者に分類されたような人が、だんだん増殖し、群れをなしていつの間にか新しい基軸を作っているのは間違いなく、田中角栄の「数は力」じゃないけれど、けっきょく多数派が主導権を握ってしまい、果てはこちらが異端扱いされるようで頭がクラクラしてきます。

この新手の人達は精神構造そのものが著しく自分本位にできているので、何事においても相手のことを考えたり、自然な人情で発意発想するということが、悪気ではなく能力的にできないようです。
そして情義において非常に消極的であり、実際ほとんど不感症であるといえるでしょう。

自分本位とは自己中ということですが、自己中というと、普通はわがまま放題で身勝手な、強欲な意志の持ち主のようにイメージしますが、このタイプは必ずしもそうだとは言い切れません。本人には何も悪意はないのに、考えついたことや折々の判断など、発想そのものが見事に自己中でしかあり得ないわけです。
そのために自覚も罪の意識もないし、むしろ自分は常識に則って正しいことを普通にしているつもりらしいのですから、どうにも始末に負えません。

こういう救いがたい思考回路を脳内にもっているため、人との自然でしなやかな交流が苦手で、なにをやってもあまり上手く行かない。悪気はないのに、行く先々で小さなクラッシュを起こして孤独に追い込まれるようで、見方によっては非常に気の毒にも見えるのですが、現実にはそう冷静なことも言っていられないほど、こういう人達と関わると様々な被害を被ることにもなるのです。

犬養毅が五・一五事件の際に「話せばわかる」と言ったのは有名ですが、それは幻であって、話してもわからない人は少なくないし、この人達は強いです。
自分は正しいと思い込んでいる人ほど、実際は最も無知で鈍感です。
というか、ある意味において、無知や無自覚、鈍感ほど強いものはありません。

知らないし、感じないのだから、なにごとも平然と自分のペースを押していけるし、それで気が咎めることもコンプレックスに苛まれることもないのですから、これぞ最強!というものです。

有り体に言ってしまえば「話してもわからない」のが人であって、現に、犬養毅もその言葉は聞き入れられずに殺害されました。
話せばわかる人のほうが圧倒的に少数派ですから、ごくたまにそういう人を発見すると小躍りしたくなるほど嬉しくなるマロニエ君ですが、そんなことはめったにあることではなく、平生心の内は重装備で鎧を着ていないととんだ目に遭わされかねない時代になりました。
こういう話が通じる相手との合い言葉は『油断大敵』です。

スポンサーサイト
2012/01/31 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

あるヴァイオリンの本 

最近また、1冊のヴァイオリンの本を読みました。

ヴァイオリンビジネスで成功した日本人が書いた本ですが、敢えてタイトルも著者の名も書かないでおきます。
というのも、読んでいるあいだはもちろんですが、読了後の印象、つまり読み終わってからの後味があまりいいものではないかったからです。
食べ物がそうであるように、この「後味」というものは、その本質を端的に表すものだとマロニエ君は思っています。化学調味料などを多用した料理は、口に入れたときは美味しく感じても、だんだん様子がおかしくなり、後味の悪さにおいて本性をあらわします。

ヴァイオリンの本というのはけっこう面白いので、マロニエ君はこれまでもだいぶあれこれの本を読みましたが、でもしかし、なんとなく執筆者に対する印象が良くない割合がやや高いように思っています。
それは、どんなに御託を並べても、結局ヴァイオリンという特殊な高額商品を使って普通の人間の金銭感覚からかけ離れた、かなり危ないところもある商売をして生きている人達だということが根底にあるからだろうと思われます。

この人達は、どんなに美辞麗句を並べようとも、甚だ根拠のあいまいな、虚実入り乱れる、ヴァイオリンビジネスの荒海をたくましく泳いでいる強者なのですから、そこはやむを得ないことなのでしょう。
もちろんビジネスで成功するのは結構なことですが、ヴァイオリンビジネスはかなり怪しい要素も含んだしたたかなプロの、しかも特殊な専門家の世界で、昔の言葉でいうなら「堅気」のする商売ではないという印象を持つに至りました。

とりわけこの本は、自分の成功自慢の羅列のような本でした。
音楽どころか、まったくヴァイオリンや楽器といったものとは何の関わりもない所にいた人が、ふとした偶然からこの世界に入り、一気にこのビジネスの花を咲かせるにいたるほとんど武勇伝でした(もちろん本人の資質と努力もあるでしょうが)。

とりわけ後半は自己啓発本の様相を帯び、お金の話ばかりに終始するのには閉口させられました。
それも一般人とはかけ離れたケタの数字がページを踊り、毎月の家賃が100万、銀行への返済額も毎月2000万などと、こういうことばかりを書き立てながら、一方では信用や出会いといった言葉が乱舞します。

販売と並行して、買い取りもやっているとのことですが、これも著者に言わせれば「縁切り」ということをしてあげるのが自分の務めだとして、有無をいわさず即金で買い取るのだそうです。
そのためにはかなりの資金も必要だそうですが、大半は所有者の期待を遥かに下回る価格になる由。
率直に言って、ほとんど○○○の世界だと思いました。

即金で買い取るのは、ヴァイオリンを手放す人のいろんな未練や迷いが起こる時間を与えないように、その場で極力短時間で買い取ってしまうという、なんとも冷徹な世界だと思います。
しかも手放す人はたいてい事情のある弱い立場ですから、きっと思いのままでしょうね。

株や不動産ならともかく、ヴァイオリンような小さくて美しい楽器がこういう取引の対象になっていることは、薄々感じてはいましたが、現実社会のやりきれなさを思わずにはいられません。
2012/01/30 Mon. 02:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

怒っている犬 

マロニエ君の自宅のとなりの家には一匹のチワワが飼われています。

このチワワはちっちゃくてとても可愛らしいのですが、その見た目とは裏腹に性格はおそろしく獰猛で、何に対してでもことごとく攻撃的で、まるで荒れ狂う武者のような気性をむき出しにするのにはいつもながら呆れてしまいます。

あれでは本人(犬)も気分的にさぞ大変だろうなと思うほど、始終ありとあらゆることに怒りまくっていて、常に本気で、歯をむき出しにして怒りも露わにギャンギャンガウガウ唸ったり叫んだりで、その忙しいことといったらありません。
ネコよりも小さな体ですが、それはもう大変な迫力で、さすがに恐いです。
自分の十倍もある大型犬を見つけても悪態の限りを尽くすように吠えまくり、全身は怒りにわなないて毛並みは荒れて、ネズミ花火のように地面を転げんばかりです。

そのチワワ、ある時期とんと見かけなくなった時期がありました。
しばらくして事情を聞いたところでは、なんと足を骨折して動物病院に入院していたのだそうで、それも二階のベランダから自分で転落したとのこと。
いかに小さなギャング犬といえども、それは可哀想だと思っていると、その転落の顛末がまた驚きでした。

隣の家は二階のベランダにたくさんの植物がおかれていて、奥さんが水をやっているときも、その周りで絶えず道路の往来には神経を尖らせていて、マロニエ君も歩いていて何度頭上から罵声を浴びせるように吠えかけられたかわかりません。
まして犬が通りかかろうものなら、それこそ火のついたような怒りを爆発させていたようですが、あるときその興奮があまりにも苛烈を極めたようで、勢い余って自分から下へ転落したのだそうです。

ここまでくればそのチワワ君の怒りも、ほとんど命がけです。

しばらくするとめでたく退院したようで、またその姿を見るようになり、マロニエ君としては「やあしばらく」という気分でしたが、さて、性格のほうは一向に変化の気配も見られず、あいもわらずこちらを見るや眉間にシワを寄せてひっきりなしにガルルと威嚇してきます。

この家の奥さんがいつもリードをつけて散歩させていますが、そこに人や犬が近づこうものなら、ほとんど後ろ足の二足歩行になるほど興奮して怒りだして敵意むき出しになりますから、さすがの犬好きなマロニエ君をもってしてもこのチワワだけは恐くてまだ頭を撫でたこともありません。

同じ犬種でも、知り合いのピアノ工房にいるチワワは、いつも不安げに目を潤ませて見るからに弱々しいタイプで、ちょっとした物音にも反応して脱兎のごとく逃げていきます。抱き上げると体が小刻みに震えており、やたらビクビクして恐がり屋のようです。

もしかしたら、お隣の年中怒っているチワワもあれは臆病故かもしれず、あんがい根底にあるものは同じなのかもしれません。だとしたら性格の違いで、その表現方法がまるで正反対ということですが、激しく怒る方がはるかにストレスや消耗が多いだろうと思うと、ふと人間も我が身を反省させられるようです。

2012/01/28 Sat. 02:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

波長 

人にはそれぞれに「波長」というものがあります。
科学的には2つの山や谷の間にある波動の水平距離のことだそうですが、普通に言うと互いの気持ちや感覚や価値観などの意志の通じ合い具合のことでしょう。

この波長が合わない者同士というのは、ある意味で悲劇です。

これはむろんあらゆる人間関係において言えることですが、ある意味でこの波長ほど大事なものはないと思われます。
波長の相性が悪ければ、お互いに相手のことを大切な相手で好意的に接しよう、前向きに捉えようとどれだけ努力してみても、何かとギクシャクしてつまらない齟齬やつまづきが次々に発生します。
単純にいうと、笑いのツボひとつもこの波長によって決まってくるのです。

波長が合い、価値観や感性が共有できていると、ちょっとした会話でも、実にスムーズで無駄がありませんし、実際に語った言葉以上にさまざまなニュアンスまで伝えることができるでしょう。
その逆に、波長の合わない人とは、概ねの内容は同意できるようなことでも、会話のいちいち、言葉のひとつひとつに快適感がなく、無駄にストレスが発生し、虚しい疲労ばかりが堆積してゆくようです。

スッと行けるはずのものが、必ずどこか引っかかったり、左右に振れたりして、まるで素直に転がっていかないスーパーの半分壊れたカートのようで、どんなに真っ直ぐに押していこうとしても、変なクセがあってどちらかに曲がろうとしたり、キャスターのひとつが動きが悪かったりするようなものです。

波長が合う人同士というのは、お互いに相手の出方がある程度予測できるのが安心なのですが、逆の場合は常に球はどっちを向いて飛んでくるかまるきりわからず、気の休まるときがありません。

困るのは、お互いが真面目にやりとりをしている場合です。
真面目だからこそ逃げ場がないし、そこには好意も読み取れるからそう邪険にもできない。
そうなるといよいよ気分的にも追い込まれてしまいます。

マロニエ君はこういう場合の有為な解説策を知りませんし、それはきっとないのだと思います。
そういう方とは甚だ残念ではあっても、ビジネス以外のお付き合いは極力避けるようにしないと、結局はろくなことはないだろうと思います。

持って生まれた性格、家庭環境、育った地域、時代などさまざまな要因があるでしょう。
「いい人なんだけど…」という言葉がありますが、この言葉が出始めると、要は合わないという意味です。

人間の快適なお付き合いには、善意と人柄だけではどうにも解決のつかない深いものがあるようです。
マロニエ君としてはその深い部分を文化性だと呼びたいのです…。
なぜならそれは機微の領域であり、いいかえるなら絶妙さの世界だからです。
それを司るのは繊細な感受性とセンスであって、人はそこのところを解さない限り文化の香りを嗅ぐことはできないと思うわけです。

2012/01/27 Fri. 03:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

韓国映画 

人並みに映画が嫌いではないマロニエ君は、このところ映画館に出かけることまではしませんが、たまに友人とDVDの貸し借りをしたり、テレビで放映されたものを録画して見ることはときどきあります。

洋画/邦画いずれも拘りなく見ますから、ハリウッド作品はもちろん、古いフランス映画などもずいぶん観たと思いますし、邦画では小津安二郎から鶴田浩司の任侠物まで、節操なく、おもしろそうなものは手当たりしだいですが、唯一手をつけなかったのは香港映画でした。
あれはろくに見たことはありませんが、どうも体質的に合わないという感じで一度も近づこうとしたこともありません…いまだに。

そもそもアジア映画というのが昔はまるきり見る意欲が湧きませんでしたが、そんな中、次第に面白さに気が付いてきたのが韓国映画で、これはいつごろからかポツポツ見るようになりました。
つい最近もある作品をひとつ観ましたが、だいたいどれもそれなりに楽しめるようになっているのは、いずれも映画のエンターテイメントを心得たプロの作品ということだろうと思います。

マロニエ君が感じるところでは、国を挙げてやっているのかどうかは知りませんが、映画に対する取り組みのテンションやパワーが凄いことと、台本にしろ監督にしろ、あちらでは才能のある人間が本気の仕事をしているように感じます。それなりのセンスもあるし、映画としての切れ味やテンポもある。
クリエイティブな世界までコンセンサスで、臆病で、キレイゴトを前提とする日本では、本当に才能ある人がのびのびと仕事をする環境を整えるのが難しいし、だから才能が育たない。

もう一つは、日本と違って韓国人は「感情」をなによりも優先することかもしれません。
感情というものはきれいなものばかりではなく、喜怒哀楽、清濁、美醜、あらゆるものが激しくうごめくのが当たり前であって、そういう人間的真実が一本貫かれているから、描かれる人物もみな活き活きと人間くさく、観ていておもしろいのだと思います。

出てくる俳優もいわゆる草食系ではなく、とくに主演の男女などはどことなく野性的な色気があるのも魅力だろうと思います。ほんのお隣なのに、どうしてこんなにも違うのかと思います。
韓国では痩せぎすのスッピンみたいな女優が大物ぶっていることもないし、男には男の攻撃的な荒々しさみたいなものがしっかり残っているのも、作品が精彩を帯びている要因だろうと思います。

それと、韓国映画を見ていて感心するのは出てくる俳優達の大半が欧米人並みに体格がいいことです。
それもただモデルのようにむやみに背が高いなどというのではなく、本当にきれいな体型で、それ故に男女が向かい合っただけでも立派な絵になる。

まあ日本人としては、せめてひとまわりと言いたいところですが、実際にはもっと体格がいいから、ビジュアルとしてもサマになってしまうのでしょう。

そういう出演者達が、非常に感情豊かに体当たりで激しく動き回るのですから、なるほど映画も引き立つだろうと思われます。
美しいものと醜悪なもの、愛情深いものと残酷なものを容赦なく対比させるのも、韓国映画が恐れずにやってみせることのひとつで(やり過ぎでうんざりすることはあるものの)たしかに迫力はありますね。
その点は日本人は感情やビジュアルまでも「きれい好き」で、常に箱庭のようにきれいに整理されてしまっているから、ある種の味わいとか繊細さはあるにしても、観る者の心を鷲づかみにするようなパンチはない。

日本人は目的が何のためであっても汚いもの、醜悪なもの、激しいもの、ときに残酷なものを体質的に避けて、小綺麗に文化的にまとめようとする傾向がありますが、そんな制限付きではものごとの表現力はどうしても劣勢に立たされてしまうのは避けられないことでしょう。
音楽の世界でも、非常に優れた演奏家が韓国に多いのは、やはり彼らが広くて深い感情の海を自らの内側に抱えていて、そこから多様で適切な表現をしてくるからではないかと思います。

2012/01/26 Thu. 01:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

見ないで突っ込む 

最近、車を運転をしていてつくづく感じるのは、以前にはなかった独特の注意が必要になったということでしょうか…。

とくに変化を感じるのは、若い世代の男性の運転で、ちょっと普通の感覚でいうなら「それはないよ」というぐらいのタイミングで脇道や駐車場から、走っているこちらの前方に出てきたり、あるいは急に車線変更してきて、こちらが急ブレーキ、あるいはブレーキをかけないまでも、思わずヒヤッとして減速して車間距離を取り直さなくてはいけないぐらいの動きをすることです。

しかも、それでだけではありません。
それだけ危ない割り込みをかけてくるからには、あとはどれほどキレの良い動きをするのかと思いきや、前は空いているのに、妙にトロトロと走りはじめるのには、ただもう唖然としてしまいます。

もちろんマロニエ君は安全を第一としているわけですが、この手の人達は、スピードこそ出さないけれども、実際の動きは流れとか常識に逆らう、かなり危険な運転だと思っているわけです。
実際の路上には、周囲の交通状況に応じた円滑な動きというものがあって、そのために必要なものはまず何かというと、刻一刻と変化するシチュエーションへの反応と判断だと思います。

最近ようやく気がついたのは、無理に前方に曲がってくるこの手の車は、いざその運転操作に入る段階では、もうほとんどこちらを見ていないということです。
そしてあとは他力本願、相手も衝突したくはないはずから、そのぶんは減速するだろう…というこちら側にも安全のための対処を期待した運転なわけで、これは車線変更でもまったく同様です。

つまり、心のどこかでは危ないかも…ということを少し認識していて、それを敢えて責任放棄した結果として本能的にこっちを見ないで動いてくるのでしょう。
それだけ男子の運転感覚が鈍っていて、かつ他者に依存した動きだから驚かされることが多いわけで、昔は女性ドライバーにこのタイプ(見ないで突っ込む)がいましたが、今は女性ドライバーのほうがある意味でよほど責任ある動きをしてくれているようにも思います。

いわゆる空気の読めない痴呆運転なのであって、だから変なタイミングで人の前に出てきたり、異常にチンタラしたスピードで平然と中央車線を走り続けたりするわけです。
横に並んで見てみると、いかにもしまりのない表情をしたお兄さんが一人で真っ直ぐ前を見ていたりして、その様子には、もはや腹を立てる値打ちもないという気分になるものです。

とにかくこの手合いは動作が鈍いといったらなく、見通しの良い、まったく安全な角を曲がるだけでも、まるで老人のようにやみくもに動きが鈍く、これは決して安全運転ではなく、こんな感性で運転されたのでは、ある意味で酒酔いや居眠り運転にも匹敵する危険があると感じます。

しかも現実は酒酔いや居眠りでもないのだから、摘発対象にもならないわけで、もはやどうしようもありません。現代では若者の自動車離れが著しいと言われていますが、さてもなるほど、これじゃあ車なんぞ欲しくなるはずもないのは道理だと思いました。
2012/01/24 Tue. 02:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

小林愛実 

先週、小林愛実さんのリサイタルの様子がNHKで放送されました。

この人は現在16歳で、ずいぶん早熟なようですが、音楽の世界ではよくあることで、本物のコンサートアーティストになる人は10代で頭角をあらわすぐらいでなくてはやっていけません。
マロニエ君の記憶では、彼女はインターネットの動画サイトのYoutubeで、子供のころの演奏がずいぶん投稿されて話題になったように思います。
まだ補助ペダルの要るような小さな童女が、オーケストラをバックにモーツァルトのコンチェルトなどを大人顔負けに堂々と身をくねらせながら弾いてみせる姿に、ずいぶん多くの人がアクセスして話題になったようにも聞きました。

その彼女も成長して10代前半でリサイタルを行うようになり、現在は桐朋の学生で演奏を続けながらもさらなる修練を続けているようです。

いきなり好みの話で申し訳ないのですが、これまでにも何度か見て聴いた経験では、マロニエ君はさほど好きなタイプではなく、実際にも彼女の演奏にはいろいろな意見がうごめいているというようにも聞いています。

もちろん上手いのは確かですが、弾いている構えが、いかにも音楽に入魂しているという様子ではあるものの、独特なものがあって、このあたりなども意見の分かれるところだと思われます。

演奏されたのはショパンのソナタ第2番と、ベートーヴェンの「熱情」という大曲二つでしたが、見ているよりも出てくる音の方がより常識的で、まあそれなりだったと思います。
ただし、現在でもまだ体は小さく、椅子をよほど高くして、上体はピアノに覆い被さるように自信たっぷりに力演しますが、ピアノはもうひとつ鳴りきらないところが残念と言うべきで、これはあと数年して骨格ができてくるとだいぶ余裕が出るのかもしれないと思います。

マロニエ君がひとつ感心したのは、今どきのピアニストにしては全身でぶつかっていく迫りのある演奏をするという点で、多くの若いピアニストが感情のないビニールハウスの野菜のようなきれいだけどコクのない演奏をする中で、小林愛実さんは作品に込められた真実をえぐり出そうという覚悟のある、きれい事ではない演奏をしていると感じました。

そのためにミスタッチもあるし、演奏する上でもかなり危ないこともしますが、それがある種の緊迫感をも併せ持っており、少なくとも表現者たるもの、そういうギリギリのところを攻めないでは、なんのために演奏という表現行為をするのかわからないとも言えるでしょう。
この点では、現在の多くの若手の演奏は周到な計算ずくで、スピードなどはあっても音楽そのものが持つべき勢いとか生々しさがなく、聞いている人間が共に呼吸し、ときに高揚感を伴いながら頂点へ向かっていくような迫力がありません。

愛実さんはその点は、多少の泥臭さはあるけれども、ともかく自分の感性に従って、必要な表現を恐れずに挑むのは立派だと思いましたし、生きた音に生命力を吹き込まず、きれいな家具を並べただけみたいな演奏に比べたら、どれだけいいかと思いました。
2012/01/23 Mon. 01:59 | trackback: 0 | comment: 0edit

苦手な靴選び 

昔の靴を久しぶりに履いて出かけたら、歩きづらくてえらい目にあったのは以前書きましたが、要は生ゴムの底がカチカチに硬化してしまっているためということが帰宅してようやくわかりました。

ほとんど傷みのない靴だったので、棄てるのも気が引けて靴底の張替にどれぐらいかかるのか調べてみることにして、靴のリペア専門の店に2軒ほど持っていったら、両方とも安くても8千円、高くて1万5千円ぐらいだと言われて、ちょっと考え込んでしまいました。

とくべつ気に入っているものならともかく、あまり履かずに長いこと放っておいたぐらいの靴なので、それほどのこだわりはないし、いっそ新しい靴を購入しようか…という気になりました。
より高くついても、気分よく新品が買えるわけで、それもいいかと思ったわけです。

同時に思い出したのはマロニエ君は靴選びが下手だという事実を忘れていたので、この点は思い出すとうんざりです。
色やデザインは単なる好き嫌いなので問題ないのですが、靴の履き心地というのは店頭で試したぐらいではよくわからず、いざ実用に供してはじめて欠点がわかるという苦い経験がこれまでにも何度かありました。
しかも合わない靴ほど疲れて耐え難いものもないので、その点は妥協できません。

実は、今回も懲りもせずにさっそく一足買ってみたのですが、家に持ち帰って試してみると、なんとサイズがやや大きすぎたことがわかりました。店頭ではちょうどいいと思ったのですが…。もちろん下におろしたわけではないので、すぐ翌日交換にいったものの、あいにくこちらが欲しいサイズが在庫になく、入荷予定もないということで残念ながら返品という次第になりました。

それからしばらくして、次に買った靴は、履きやすいと思ったのに、今度は底の感じがしっくりせずよくないことと、足の甲がやや熱くなる特徴のあることが数時間履いてみてわかりました。
しかし今回はもう下におろしたのでもうどうしようもありません。
ああ…なんでこう靴選びのセンスがないのか、自分でもほとほと情けなくなりました。

マロニエ君の靴選びが尋常なことでは上手く行かないことには、我が家では有名で、家人はもはや一切関わろうともしません。よほど高級な靴を、店員が付きについた状況でじっくり時間をかけて選べば失敗もないのかもしれませんが、靴にそこまで気前よく投資する覚悟もなく、要は中途半端なものを自分の判断だけで買うからこうなるのかと思います。

かくして、またもマロニエ君の靴選びは失敗の巻となり、履かない靴がまた増えただけという、一番もったいなくてばかばかしい結果に終わりました。

2012/01/22 Sun. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

靴の性能 

マロニエ君の音楽の先生のお一人は、ご主人が大学の先生ですが、この方はとにかく歩くことが大好きで、家には昔から車もありません。

毎日の通勤を市内の警固から箱崎のキャンパスまで、片道1時間半をかけて何十年も通勤されているというヘビーウォーカーです。往復で3時間、これを毎日と、大学以外にも大抵のところは歩いて行かれるようですから、その距離たるやたいへんなものです。
目と鼻の先でも車で行ってしまうマロニエ君なんかから見たら、人間離れした、ほとんど宇宙人のようにしか見えませんでした。

さてその先生曰く、これだけ日常的に歩くということは、とうぜん靴の傷みや消耗もケタ違いに激しいそうで、年に何度か靴を買い換えておられるようです。
昔は「履きやすい靴」=「高い靴」だったわけで、これだけ歩くからには足に悪い安物靴というわけにはいかないので、靴にかかる出費は相当のものだったそうです。

それが近年になってからというもの、履きやすい、足の疲れない、科学的にも理に適ったウォーキングシューズが出現してからというもの、すっかりこちらに移行して、値段も昔の数万円から、一気に5千円前後で事足りるようになったというのです。

考えてみると、昔はとくに革靴などは、みんなかなり無理をしながら履いていた思い出があり、形状が合わずに足の指にマメができたり、靴屋に補正に出したり、足の小指にテープを巻いたりといろいろやっていたことが思い出されます。ほとんど足を靴に合わせて慣れさせるような一面がありました。

それなりの値段でもこういう調子で、ましてや安物などは推して知るべしという気配でしたね。
ところが今はそういう意味では技術や研究が進んで、足に負担をかけず、軽くて、安いという、昔から見れば夢のような靴がごく当たり前のようになってしまいました。

とりわけウォーキングシューズなどの進歩は目覚ましいものがあり、そのノウハウが逆に革靴などにも活かされているように感じます。その点では靴は科学技術を反映したアイテムでもあり、ものにもよりますが、平均的にみれば新しいもののほうが進歩しているのかもしれません。

とにかくストレスのない快適なものを安価に選べるのは幸せなことだと、その先生はいとも簡単におっしゃいますが…マロニエ君はいまだに靴選びが下手でどうしようもありません。
ああ、靴選びになると気が滅入ってしまいます。

2012/01/21 Sat. 02:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

天守物語 

日曜日に録画しておいた新国立劇場の舞台を観ました。

泉鏡花の代表作である『天守物語』ですが、久しぶりに日本語の美しさを堪能しました。
まさに言葉の芸術。

このような作品が日本に存在することが誇りに思えるようでした。

鏡花の台詞は、その発想から言葉の使い方までまったく独創性にあふれ、同時に深い情緒の裏付けがあり、ひと言ひと言が複雑な音符のようで、役者の発する言葉は、まさに厳しい修練の果てに演奏される音楽を聴くようでした。

我々はこんなにも美しくて格調高い日本語という言語をもっているのかと思うと、あらためて唸らされもするし、それを惜しげもなく捨てていく今の世の風潮がこの上なくもったいなくて、うらめしいようでした。
現在の日本人は日本語というとてつもない言語文化の半分はおろか、1割も使っていないような気がしますし、これほど自分達の言語・母国語を大切にしない国民は愚かだと痛烈に思わせられました。

三島由紀夫が鏡花にご執心だったのは有名ですが、とりわけ戯曲作品においてはかなり強い影響を受けていることがわかります。
言葉のもつそれ自体の意味はもちろんこと、その巧緻で意表をつく組み合わせによって、思いもよらない独特な調子を帯びながら極彩色の輝きを放つことを、彼らはその天才によって知り尽くしているのでしょう。
絢爛たる台詞がとめどもなく流れだし、そして音楽同様にあちこちへと転調するようでもあり、まったく感嘆するほかありません。

詩的で装飾的でもある言葉の奢侈は、音楽はもちろん、絵のようでもあり、闇夜にきらめく美しい織物のようでもあり、あっという間の2時間でした。

今回の天守物語は昨年、新国立劇場で上演されたものですが、主演の富姫は現代劇の女形である篠井英介氏が務めましたが、よく頑張ったと思います。
こういう作品ではなによりも言葉を明瞭に、メリハリを持って伝えることが肝心で、その点は出演の皆さんは自分の演技や主張に溺れることなく、作品への畏敬の念があらわれていて好ましかったと思います。

天守物語の舞台は姫路城の天守閣、まさに妖艶な魔物の棲む独特の世界であるために、主演をあえて女形が務めるのは、鏡花の一種異様な世界を現し、中心に据える重しの意味でも望ましいことだと思います。

この作品では板東玉三郎丈の富姫が有名で、舞台はもちろんのこと、自ら監督・主演して映画まで制作しているのですから、現代では玉三郎の富姫というものがこの役のひとつの基準になっているのかもしれません。

このような格調高い豪奢な日本語の世界があるということを、日本人はもっと知るべきだと思いますが、そうはいっても触れる機会がないのだから難しいところです。
とりわけ戯曲は本を読むのも結構ですが、やはり舞台があって、優れた役者の口から活き活きと語られたときにその真価を発揮するものです。

2012/01/20 Fri. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

レオンハルトとワイセンベルク 

ついこの間、一世を風靡したピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(引退していた)が亡くなったということを耳にしたばかりでしたが、昨日の朝刊ではチェンバロ&オルガンの大物であるグスタフ・レオンハルトが亡くなったというニュースを目にしました。

マロニエ君は、もちろんこのレオンハルトのCDなどはそれなりに持ってはいますが、取り立ててファンというほどではありませんでした。
それはあまりにも正統派然としたその演奏や活躍の立派さ、存在そのものの大きさのイメージが先行して、音楽を聴くというというよりは、まるで石造りのガチガチの荘重な門の前に立たされているようで、それ以上の何かしら意欲がわく余地がなかったように思います。

しかし、彼はピリオド楽器による演奏の推進者でもあり、ひとつの流れを作った一人だと言わなければなりませんし、なによりバッハを中心とする演奏活動の数々、録音、さらには教育に果たしたその功績の大きさは計り知れないものがあったと思います。
バッハなどのCDでは、誰の演奏を買って良いかわからないときは、ひとまずレオンハルトを買っておけば間違いない、そんな人ですが、あまりにそうであるがためにちょっと個人的には引いてしまった観がありました。

バッハといえば、ワイセンベルクもロマン派の作品などをクールに演奏する傍らで、バッハはかなり盛んに取り上げた作曲家でした。
むかし実演も聴きましたが、当時としては先進的でテクニカルな演奏をすることで頭角をあらわし、そのいかにも男性的な風貌と剣術の遣い手のようなピアニズムは時代の最先端をいくものでした。

いかにもシャープに引き締まったその演奏は、それ以前の名演の数々を古臭いと思わせる力があり、同時にそは賛否両論があったと思われます。

一切の甘さとか叙情性を排除した、モダン建築のような切れ味あふれる演奏は一時期かなりもてはやされて、ついには日本のコマーシャルにも出演するほどのスター性を兼ね備えた人だったことを思い出します。

マロニエ君が子供のころに聴いたリサイタルでは、地方公演にまで古いニューヨーク・スタインウェイを運び込んでの演奏会だったことは、今でも強く印象に残っています。
プログラムはバッハやラフマニノフを弾いたことぐらいで具体的な曲目は思い出せませんが、背筋をスッと伸ばして、どんな難所やフォルテッシモになっても、まったく上半身を揺らさないで微動だにせず、スピードがあり、どうだといわんばかりにカッコ良く弾いていた姿が思い出されます。

久々に彼のバッハを聴いてみましたが、ちょっと聴いているのが恥ずかしくなるようで、まるでむかし流行したファッションをいまの目で見ると思わず赤面するような、そんな気分になりました。
まあこれも、いま振り返ると「時代」だったんだと思います。

音楽的にはなんの共通点もない二人の歳を調べてみると、レオンハルトは83歳、ワイセンベルクは82歳と、まさしく同じ世代だったことがとても意外でした。
2012/01/19 Thu. 02:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

路上マナーの低下 

最近車を運転していて気がつくことのひとつは、路上でドライバー同士が「どうも」程度のちょっとした挨拶をする人が激減したということです。

たとえば狭い路地などで、対向車が向かってくるのが見えたら、無理に進入せずに、その車が通りすぎるまでできるだけ広い場所で待っておくことがあります。

そういうとき、以前ならすれ違いざまに軽くクラクションを鳴らしたり、ちょっと手を上げたり、中には軽く頭を下げる人などがいましたし、マロニエ君も逆の場合は(現在でも)必ずそのように謝意を表現するようにしていますが、最近はこんななちょっとしたやりとりが失われたように感じます。

いやしくもドライバーなら、相手が道の向こうで止まって待っているのは何のためか、わからないはずはないのですが、すれ違いざまにも、ただ冷たくサーッと無表情に通り過ぎていく人がずいぶん多くなりました。
まるで「当然」みたいな趣で、こういうときは、どうしようもなくムッとくるものです。
人間は、あまりにもパソコンや携帯を使いすぎて、こんなふうになったのかとも思います…。

こんな変化にも、考えてみるとプロセスがあり、全般的傾向としてですが、はじめはまず30代ぐらいの女性ドライバーがこの礼無し通行をするようになり、続いてさらに若い男性などがそれに加わってきた印象があります。

そのうち老若男女は入り乱れ、最後にはこの点だけは比較的律儀だったタクシーの運転手までもがこれをするようになり、今では道を譲ったり、相手側の通過を待っていたりしても、なんらかのささやかな挨拶を返してくれる人のほうが確実に少なくなり、まったくやるせない限りです。

あと、その手の無礼者の比率が高いのが高級車のドライバーで、車の威を借りて自分が偉くなったような気分なのは、昔からもちろんいましたが、いよいよそれに拍車がかかってきているようです。
高級車の横柄ぶりについては、マロニエ君の印象では、現在は輸入車系よりも大型のレクサスなどのほうが確実に上を行く印象です。

まあとにかく、今の世の中、ちょっとした「お互い様」とか「すみません」というごく自然な気持ちや、それに連なる表現が、どんな場合にも少なくなったように感じます。

そうかと思えば、耳にする歌の歌詞などは薄気味の悪いほど「ありがとう」というような空虚な言葉のオンパレードだし、店で買い物をしていても、店員のほうが泰然として、お客さんの方が何かといえば店員に「ありがとうございます」を連発したりと、いったいどうなっているのかと思うことしばしばです。

車のドライバーには路上の仁義がなくなったものの、まだ建物のドアの開け閉めやエレベーターなどでは、かろうじて「すみません」というような言葉が交わされますが、この調子では、これもいつなくなってしまうかと心細い限りです。
2012/01/18 Wed. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

薄汚れた画面 

兵庫県の現職知事が、今年から始まった大河ドラマの『平清盛』の第一回放送を見て酷評したことが話題になっていたようですね。

テレビを観る習慣の薄いマロニエ君にとっては、毎週ひとつでもドラマを見続けるというのは、結構な義務にもなるので今年の大河も見ないつもりだったのですが、こういうおかしな話題がくっついてくると根が野次馬のマロニエ君としては、ちょっと見てみたくなりました。

我が家のビデオレコーダーには家人のために大河ドラマが録画セットしてあって、幸い消去していなかったので、これは好都合とばかりに再生ボタンを押しました。

結果から先に言うと、知事の発言も尤もだと思いました。
マロニエ君は最近のテレビ特有の、手を伸ばせば人の顔に触れられそうな、あのほとんどプライバシーの侵害のようなシャープな映像は決して好きではないので、多少のフィルターというかノイズの加わったような、すなわちアナログ風のやわらかい画面になることは、今後の方向性のひとつとして好ましいことと思っています。

さすがにニュースやスポーツではそうもいかないでしょうが、ドラマなどはカリカリの鮮明画面より、何らかのフィルターがかかるのは好ましいことだと思われ、NHKのドラマでいうと『龍馬伝』や『坂の上の雲』がそれだったと思います。
とりわけ『龍馬伝』を見たときは、それ以前の、いかにも狭いスタジオのセットにライトを当てて撮影していますと言わんばかりの学芸会的な調子から、落ち着いた雰囲気のある映像に進化したと思ったものです。『坂の上の雲』もほぼ同様。

しかし、今回の『平清盛』は映像それ自体になんの味わいも無く、映像そのものに、なにか作り手が拘っているクオリティがまったく感じられません。
いつもハレーションを起こしているようで人物の顔にはやたら陰が多く、ほこりっぽく、色彩感もない。昔の映画のような渋い美しさのある映像でもなければ、新しいなりのなにか深みや味わいがあるというようにも感じられない、単なるコストダウンのための、手抜きと勘違いのようにしか見えませんでした。
それに、俳優でもなんでも、なんであそこまで汚らしくしないといけないのか説得力がありません。

兵庫県知事がおっしゃるように、「うちのテレビがおかしくなったのかと思うような画面…」というのも頷けるし、なにかのスイッチを押すとパッときれいになるんじゃないかというような、絶えずストレスを感じさせる映像だったと思いました。
知事は「薄汚れた画面」という表現をされたようですが、それも納得で、薄汚れた状況を丁寧に表現している上質な画面と、映像そのものが安っぽく薄汚れているのとは、そもそも大違いです。
そして『平清盛』では、その映像になんらかの美しさがまったく感じられず、斬新なつもりの製作者の自己満足だけが垂れ流されているといった印象しかありません。

ただし、だからといって知事という立場にある公人が、ドラマ作りの内容にまで堂々と言及するのは適当かどうか…。清盛の主な舞台となる兵庫県では、この大河ドラマに合わせて観光客誘致のキャンペーン中だそうで、ドラマへの期待が高すぎて、あの映像では効果が薄いと危機感を募らせたのでしょうか。

このような批判は、一般視聴者の声なら大いに結構だと思いますし、そういうものがあってこそより良い作品が生まれるというものです。
同時に、大河ドラマは特定の県や地域の宣伝目的で存在しているわけではないので、それによる経済効果を過度に期待して、ドラマの仕上がりに文句をつけるとしたら、これは本末転倒というべきではないでしょうか。

というわけでマロニエ君の印象としては、どっちもどっちでは?という気がしました。
第二回まで見ましたが、正直、今後見続けるという自信はもてません。
2012/01/16 Mon. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

威風堂々の歌詞 

イギリスのザ・プロムスをことをもう少し。

これがイギリスの音楽の一大イベントであることはまぎれもない事実のようで、2011年で実に117回目の開催だと高らかに言っていましたから、歴史もあるということです。
19世紀末、もともとはふだん音楽に触れることの少ない一般大衆にもコンサートが楽しめるようにとはじめられたものだそうです。

こんにちまで、その精神が受け継がれているといえばそうなのかもしれませんが、ともかく音楽というより、音楽をネタにした壮大なスペクタクルというべきで、そのド派手な催しを見ていることが目的であり価値のようでした。

ラストナイトも後半になると、お約束のエルガーの威風堂々の第1番が鳴り出して、いよいよこのザ・プロムスも終盤のコーダを迎えるようでした。
実はマロニエ君はこの威風堂々第1番のような有名曲は、音楽ばかりが耳に馴染んで、中間部の歌の歌詞など気に留めたこともありませんでしたが、テレビの画面に訳が出てくるものだからそれを読んでいると、その何憚ることのない大国思想には唖然としました。

「神は汝をいよいよ強大に!」「国土はますます広く、広く」「我等が領土は広がっていく!」「さらに祖国を強大にし給え」というような侵略と植民地支配を前提とした歌詞が延々と続き、ロイヤルアルバートホールはむろんのこと、ハイドパークに結集した群衆も一丸となってこの歌を大声で叫ぶように唱和しています。

もちろん、これはすでに古典の作品ということで、いまさらどうこうという思想性もないということかもしれませんが、かつての大英帝国の繁栄と傲慢の極致を音楽にしたものだと思いました。
それをこれだけの規模と熱狂をもって歌い上げ、その様子を全世界に放映するということはちょっと違和感があったのは事実です。
とりわけ日本人は過去の謝罪だの、靖国問題、教科書の表記などとなにかと近隣諸国に気を遣い遠慮することに馴れてしまっているためか、こういう場面を見ると唖然呆然です。

さらに続いて、英国礼賛の愛国歌「ルール・ブリタニア」をスーザン・バロックが戦士の出で立ちで歌い上げるとまた群衆がこれに唱和し、バリー作曲の「エルサレム」、さらにはブリテン編曲による女王を讃える「英国国家」となるころには、マロニエ君の個人的な印象としては、だんだんただのド派手なイベントだと笑ってすませられないようなちょっと独特な空気が会場全体、あるいは野外の群衆からぐいぐいと放出されてくるようでした。

無数のユニオンジャックの旗が力強く振られ、聴衆の熱狂はいよいよその興奮の度を増していく様は、ちょっと危ない感じさえしたのが正直なところです。

恒例だという「指揮者の言葉」でマイクを持つエドワード・ガードナーのひと言ひと言に、聴衆が熱狂を持って反応するのは、ほとんどこれが音楽のイベントなんて忘れてしまいそうでした。
最後は「蛍の光」を会場全体が両隣の人とみんな手をクロスしてつないで熱唱する様は、まるで国粋的な戦勝祈願の集会かなにかのような感じで、さすがにちょっともうついていけないなと思いました。

断っておきますが、マロニエ君は断じて左翼ではありません。
でも、最後はちょっと引いてしまったのは事実です。

熱狂というのは本来は素晴らしいことだと思いますが、その性質と、度を超すと…恐いなと思いました。

2012/01/15 Sun. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

プロムス2011 

先日、ロンドン名物のプロムス2011のラストナイトをBSでやっていましたが、いやはやその規模たるや、年々巨大化していくようで久しぶりに見て驚きました。
面白いといえば面白いし、ちょっとウンザリするのも事実ですね。

これはいうまでもなくじっくり音楽を聴くためのコンサートではなく、クラシック音楽を用いたロンドンのお祭りであって、演奏や音楽の良否は二の次だと思います。
まあ、完全にイギリス版の紅白歌合戦みたいなもんですね。

空中から撮影される楕円形のロイヤルアルバートホールは、立錐の余地もないほどの人で埋め尽くされ、豪華な照明の効果とも相俟って、会場それ自体がまるで輝く宝石のようです。

ピーター・マクスウェル・デーヴィスの「慈悲深い音楽」という合唱曲で始まり、バルトークの「中国の不思議な役人」やブリテンの「青少年の管弦楽入門」など、ともかくあれこれの音楽が演奏されますが、個人的にはスーザン・バロックの歌う「楽劇『神々のたそがれ』から、ブリュンヒルデの自己犠牲の場面」がもっとも良かったと思いました。

スーザン・バロックはRシュトラウスやワーグナーを得意とするイギリスの名花ですが、その劇的で力強い美声は、6000人の聴衆で埋め尽くす巨大会場に轟きわたるという感じでした。
すっかりその歌声に満足していたら、お次はラン・ランの登場で、リストのピアノ協奏曲とショパンの華麗な大ポロネーズを演奏。

こう言っちゃなんですが、まったくのお祭り用の芸人ピアニストの演奏で、その音楽性・芸術性の正味の値打ちはいかなるものかは、おそらく大半の人が了解していることだろうと思いますし、それがわからないヨーロッパではないはずですが、それでもこういう人にお座敷がかかるご時世だということでしょう。

この人はいわゆる臆するということのない、鋼鉄のような心臓の持ち主で、派手で巨大なイベントになればなるだけ本人もノリノリになってくるという、恐るべきタフな性格なんでしょうね。
いちいち気に障る滑稽な表情や、音楽の語り口は、わざとらしいしなをつくるようで、ほとんど猥褻ささえ感じてしまいます。もっと単純にスポーツのようにカラリと弾き通せばまだしものこと、まあやたらめったら伸ばしたり引っぱったり無意味なピアニッシモを多用したりと、これでもかとばかりに音楽表現のようなことをやってみせるのがいよいよいただけません。

この人の演奏を見ていると、音楽に酔いしれているのではなく、派手な舞台で派手なパフォーマンスをやっている自分自身に酔いしれ、その快感に痺れきっているようです。
ショパンでもリストでも、どこもかしこもねばねばにしてしまって、間延びして、まったく音楽に生命が吹き込まれないのは疲れるほどで、当然ながらオーケストラの団員もガマンして職務を全うしているのがわかります。

それにしても、このプロムスも今どきの風をまともに受けて、あまりにド派手なイベント性が表に出過ぎているのは、ちょっとやり過ぎの感が否めませんでした。昔はどうだったか、マロニエ君はこの手の催しはあまり興味がないので詳しいことは知りませんが、もう少し自然さがあったように記憶しています。

今はハイドパークやらロンドン以外の他のいくつもの会場と結んでの多元イベントとなり、専らその規模を太らせることにのみエネルギーが費やされているような印象で、その目の眩むような途方もないスケールは、クラシックの音楽イベントという本質からはるか逸脱しているような印象でした。

2012/01/14 Sat. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

君の名は 

NHKのBSプレミアムでは、山田洋次が選ぶ日本の映画というようなものをやっていて、面白そうなものがあるときは録画しています。

そこで、かの有名な『君の名は』が放映され、あれだけの有名作品ですが一度も見たことがなかったので、自分の趣味ではないとは思いつつ、どんなものやらと思い、ちょっと観てみました。もともとラジオドラマだったというこの作品は、放送時間になると女性ファンがこれを聞くために、銭湯の女湯が空になるという社会現象まで起こったというのは有名な話です。

東京大空襲のさなか、氏家真知子(岸恵子)と後宮春樹(佐田啓二)は偶然に出会い、共に戦火を逃れるうちに惹かれ合い、翌日数寄屋橋の上で、半年後の同じ日にお互い元気だったら会いましょうという約束をして別れるのですが、これがこのじめじめした慢性病みたいな恋愛物語の発端です。
すれ違いと、当時の倫理観、人間の情念、幸福の観念、運命、嫉妬、他者の目など、さまざまなものに翻弄されて、観る者は止めどもなく巻き起こる苦難の連続にハラハラさせられ、観ているうちに、なんとなく当時爆発的に流行った理由がわかるような気がしてきました。

それは、この映画が当時の自由恋愛(という言葉があった由)を夢見る女性の心理を突いている点と、新旧の時代倫理の端境期に登場した作品であるという点、とくに後年隆盛を迎える昼メロの原点というか元祖のような要素を持っているからだと思います。

お互いに強く惹かれ合っているにも関わらず、様々な運命がこれでもかとばかりに二人を弄びますし、真知子と春樹自身も、今の観点からすればなんとも思い切りの悪いうじうじした人物で、こういうものが流行ったことが、日本では恋愛映画がやや格落ちように捉えられたのも無理はないと思いました。

意外に長い作品で、2時間20分ほどをさんざん引っ張り回したあげく、ついに二人は結ばれるのかと思いきや、最後の最後でまたしても未練を残した形での別離となり、「第一篇 終」となったのには、思わず「うわぁ、こんなものがまだ続くのか!」と思いました。

それでネットで調べてみると、なんとこれ、全三部構成で上映時間は実に6時間を超すというもので、まるでワーグナーの楽劇並の巨編であるのには驚きました。

パリに渡る前の、磨きのかからない状態の岸恵子はまだそれほどとも思えませんでしたが、佐田啓治は息子の中井喜一とは顔の作りがかなりちがう正真正銘の二枚目で、太宰治風の暗い陰のある美男が、いかにもこの陰鬱な役柄にはまっていると思いました。

ここから高度経済成長と歩を共にするように、日本のメロドラマブームが始まったのではないか?という気がしました。
ときおりこういう映画を見るのもいろんな意味で面白いものです。

2012/01/13 Fri. 02:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

不気味なショパン 

昨年のことですが、ちょっと冒険して変なCDを買ってみたところ、それは予想を遙かに超える恐ろしいシロモノでした。

ジョバンニ・ベルッチ(ピアノ)、アラン・アルティノグル指揮/モンペリエ国立管弦楽団によるショパンのピアノ協奏曲第1番他ですが、この協奏曲はカール・タウジヒという19世紀を生きたポーランドのピアニストによって編曲されたものがライブで演奏収録されています。

とりわけオーケストラパートに関しては、編曲という範囲を大幅に逸脱しており、耳慣れた旋律が絶えず思わぬ方向に急旋回したり、まったく違う音型が飛び出してくるなど、突飛だけれども諧謔のようにも聞こえず、滑稽というのでもないところが、ある意味タチが悪い。
やたら頭がグラグラしてくるようで、聴いていて笑えないし、むしろその著しい違和感には思わず総毛立って、脳神経がやられてしまうようでした。

三半規管がやられる船酔いのようで、正直言ってかなりの嫌悪感を覚えてしまい、せっかく買ったので一度はガマンして聴こうとしましたが、ついには耐えられず再生を中止してしまいました。
こんなものを買うなど、我ながら酔狂が過ぎたと、その後はCDの山の中にポイと放り出したままでしたが、よほど身に堪えたのか、そのうちジャケットが目に入るのもイヤになり、べつのCDを上に重ねたりして見えないようにしていても、何かの都合でまたこれが一番上に来ていたりして、ついにはベルッチ氏の顔写真がほとんど悪魔的に見えはじめる始末でした。

ただこのブログの文章を書くにあたって、数日前、確認のためもう一度ガマンして聴いてみようと勇気を振り絞って、ついにディスクをトレイにのせて再生ボタンを押しました。
出だしはまるで歴史物の大作映画の始まりのようですが、序奏部は大幅に削除変更というか、ほとんど改ざんされ、驚いている間もないほどピアノは早い段階で出てきます。演奏そのものは、そんなに悪いものではありませんでしたが、はじめはそれさえもわからないほどに拒絶反応が強かったということです。

一度聴いて、大いにショックを受けていただけあって、今度は相当の気構えがあるぶん比較的冷静で、少しは面白く聴いてみることができました。はじめは、なんのためにこんな編曲をしたのか、この作品を通してなにが言いたいのかということが、まったく分からなかったし分かろうともしませんでしたが、少しだけそういうことかと感じる部分もやがてあらわれるまでになりました。

このCDには協奏曲のほかショパン/リスト編:6つのポーランドの歌や、ショパン/ブゾーニ編:ポロネーズ『英雄』/ブゾーニ:ショパンの前奏曲ハ短調による10の変奏曲なども収録されていますが、それらはしかし、なかなか優れた演奏だったと思います。

ジョバンニ・ベルッチという人は情報によると14歳までまったくピアノが弾けなかったにもかかわらず、独学でピアノを学び、15歳でベートーヴェンのソナタ全曲を暗譜で演奏できたという、ウソみたいな伝説の持ち主だそうですが、その真偽のほどはともかく、まあなかなかの演奏ぶりです。

ピアノについての表記は全くないのですが、ソロに関してはどことなくカワイ、コンチェルトではスタインウェイのような印象がありますが、そこはなんともいえません。

ベルッチ自身はイタリア人のようですが、このCDは企画から演奏まですべてフランスで行われたもののようで、こんなものをコンサートで弾いて、CDまで出してやろうというところにフランス人の革新に対する情熱と、恐れ知らずの挑戦的な心意気には圧倒されるようです。
ま、日本人にはちょっとできないことでしょうね。

2012/01/11 Wed. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

成人式のセンス 

昨日は全国的に成人式が行われたようですね。
本来はおめでたいことなんでしょうが、毎年このニュース映像を見ていると、なんともやりきれない気分になるものです。

常々、日本人は控え目で精神的で、礼節も気品もある、世界的にも稀にみる高度な民族だと自負しているのですが、この成人の日の光景だけはそういった認識を、ポンと蹴ってちゃぶ台でもひっくり返されるようです。

とくに毎回感じるのが、その服装や雰囲気のセンスで、時代によっても多少の変化はあるにしても、基本的にはほとんど見るに堪えないあの演歌歌手顔負けの出で立ちと、若いのに妙に毒々しい雰囲気はどこからくるのかと思います。
成人式ということは、文字通り大人の仲間入りを果たすわけですから、本来ならやや大人っぽいシックな服装であって然るべきでは?思いますが、実際のそれは、どうみても下品なヤンキーのイベントのようにしか思えません。

本来、若くて瑞々しく、美しいはずの新成人たちは、ちっとも美しくない。
そうではない人も中にはいるのかもしれませんが、少なくともそういう人や気配は映像には出てきません。

女性の振り袖姿も、年々その過激度を増して、まるで漫画本の表紙みたいだし、ヘアースタイルなどもほとんどキャバクラ嬢がずらりと並んだようです。
さらに驚くのは以前にも増して男性にも和服姿が目立ち、それも当たり前の黒の紋付き袴などではなく、そこらの芸人顔負けのけばけばしい色物だったりで、どこをどうしたらこういう方向に進むのか訳がわかりません。

従来の日本の和服文化の中にはあり得ないような突飛なものばかりが大挙横行しており、いやしくも武士の歴史をもった日本の男性が、いまや華奢な体に真っ白とか真っ赤の羽織袴を着て、ノリノリでふざけながら写真などを撮っている姿は、ちょっと気分的に忍びがたいものがあります。

とりわけ日本人というのは何をやらせても、繊細さとか控え目な神経がすべてに貫かれているものですが、こと成人式に関してだけは着ているものは和服でも、まるで野卑な外国文化に触れるようで、日本的ではない気がします。

同じ人達が、ひとたび就職活動ともなると、まったく別人のごとく申し合わせたように雰囲気を変えるのだろうとも思いますが、ともかく成人式という段階では、なぜこうまで暴走族の集会のような雰囲気にしなくちゃいけないのか、まったく理解に苦しむばかりです。

今年はどうだったか知りませんが、これまでは式の進行さえできないほどの乱痴気騒ぎが頻発したりと、荒れた成人式というのもずいぶん前から問題にされてはいますが、大半は事実上の野放し状態のようです。

というのも、それを真から叱って許さない社会の空気がないからではないかと思います。
聞くところでは、このようなイベントをとり仕切る地域の中心人物である市長や町長など、いわゆる首長(くびちょう)達は、なんと、若者が成人になることは、すなわち新たに有権者となることから、その票ほしさに、やたらとゴマをすって彼らの暴挙にもニヤニヤ笑うだけで、はやくも選挙目的の行動しかとれないという、なんとも開いた口が塞がらないような構造があるのだそうです。

まあ政治家なんて所詮はそんないやらしい生き物だと思っておくとしても、現代の若者のセンスはもう少しなにがしかの美意識が本当はあるはずだと信じたいマロニエ君です。
あれを見ていると、根底には今だすえた臭いのする演歌の国なのかもしれないという気がして、思わずゾクッときてしまいます。
2012/01/10 Tue. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

連続テレビ小説 

NHKの連続テレビ小説を視ておられる方も多くいらっしゃると思います。

マロニエ君は毎日定時に15分ずつ見るなんて離れ業は到底できることではないので、長年連続テレビ小説は見ていませんでしたが、何年か前からBSで一週間分(15分×6の90分)を土曜の朝に放送していることがわかり、いらいずっとそちらで追いかけるようにして見るようになりました。

さて、現在は言うまでもありませんが「カーネーション」をやっています。
前回が「おひさま」で、共に時代設定が似ているのか、2作続けて時代は日中戦争を経て第二次大戦となり、それまでの楽しい空気が一変して、まるで坂道を転げるように世の中に戦争の暗い陰がさしてくるのは、いかにドラマとはいえ陰鬱な気分になるものです。

とくに連続テレビ小説のような長丁場になると、この時代に突入すると時間的にも少々のことでは抜け出せない長いトンネルになるし、2作続けて劇中でも馴染みの顔に「赤紙」がきて、つぎつぎに出征していく姿はやはりやりきれないものです。

それだけではなく、贅沢禁止、節約が叫ばれ、金属は供出させられ、すべてはお国のためで処理される、暗く悲惨な時代を通過するのはドラマでも疲れますし、ましてや2作連続ともなると少々うんざりしてしまいます。
もちろん「カーネーション」のほうが前作よりも数段面白いとマロニエ君は感じていて、その点は遙かに救われているのですが、それでも戦争は鬱陶しいですね。
まだ見ていませんが、現在放送中の本編ではどうやら終戦を迎えたようで、やれやれです。

考えてみるとNHKの連続テレビ小説ではこの大戦の時代を背景にした作品が多く、最近でパッと思い出すだけでも「純情きらり」「ゲゲゲの女房」など、昭和のはじめ頃というのはドラマ化しやすいのかと思います。

ところで、ご存じの方も多いと思いますが、このNHKの連続テレビ小説は春と秋の半年毎に作品が入れ替わり、東京と大阪、それぞれのNHKが交替で制作しているそうですね。
マロニエ君の見るところでは、この連続テレビ小説に関しては概ね大阪の方が上で、東京チームよりはるかに面白いものを制作するセンスがあると思います。

大阪の気質は本音とお笑いと人間くささですから、それがドラマ作りにも活かされていますが、東京はどうしても絵に描いた餅のようなきれい事が中心で、偽善的であったりお説教調であったりするのは、これはもうどうしようもない体質なのだと思います。

できれば連続テレビ小説はずっと大阪に委せておいて、東京は大河ドラマなど別の作品に専念すればいいのにと思うのですが…。

2012/01/09 Mon. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit

ソロピアノの第九 

管弦楽の作品などをピアノ用に編曲したものは、本当に成功していると思えるものはそれほど多いとは思えず、マロニエ君はそれほどこの分野の賛成派というわけではありません。
しかし、昨年のコンサートで2台のピアノによる第九を聴いてからというもの、こういうものも必ずしも否定できない気になっていたところ、たまたまCD店にソロピアノによる第九があったので購入してみました。

ピアニストは名前だけは知っていたものの、実際の演奏は聴いたことのなかったマウリツィオ・バリーニで、まさにあのマウリツィオ・ポリーニと一字違いのウソみたいな名前のピアニストです。

以前、アンゲリッシュ(Angerich)というアルゲリッチ(Argerich)と非常に字面の似たピアニストがいることを知って驚きましたが、このバリーニというのもファーストネームまで同じだし、つい笑ってしまいます。

さて、その第九ですが、もちろん編曲はあのリストです。
リストはベートーヴェンのシンフォニーをすべてソロピアノに編曲していますし、2台のピアノ版もリストの手によるもので、その生涯に残した膨大な仕事量たるや恐るべきものだと思いますね、つくづく。
演奏はその曲目からしても当然かもしれませんが、ともかく大変な力演・熱演でした。
おそらくはソロピアノとしては最大限の迫力と入魂を貫いた、どこにも力を抜いたところのない、緊張と集中の連続による70分強です。

ただし管弦楽と合唱あわせて百人以上を要する作品を、まさにたった1人で演奏するのですから語り尽くせぬものがあるのは如何ともしがたく、やはりこれくらいの大交響曲になると、せめて2台ピアノは欲しいところです。
しかし、よくよく研究され練り込まれている佳演であることは素直に認めたい点でした。

むしろ疑問に思われたのはピアノでした。
なんと第九をソロピアノで演奏するのに、ファツィオリのF278を使っているのは、これはいささかミスマッチではないかと個人的には思いましたね。
ベートーヴェンの第九をソロピアノで演奏するということは、普通以上にピアノにも重厚で厳しいものが求められ、ピアノとしての器の大きさはもちろん、シンフォニックで多層的かつ強靱な要素が必要なのはいうまでもありません。
とくに音色に関してはドイツ的な荘重で厳粛なものが必要で、やはりそこは最低でもスタインウェイか、できればよりドイツ的なベヒシュタインのようなピアノであるべきではなかったかと思います。

ここに聴くファツィオリは残念ながら音に立体感がなく、ペタッとしたブリリアント系の音であることを感じてしまいます。バリーニ氏も全身全霊を込めながら演奏していますが、その表現性とこのピアノの持つ性格がまったく噛み合っていないというのが終始つきまとっているようでした。

逆にいうとファツィオリの弱点がよくわかるCDとも言えるかもしれず、深遠さというものがとにかくないので、フォルテやフォルテッシモが連続するとこの音や響きの底つき感みたいなものが随所に出てしまって、よけいに平面的になるばかりで、正直いって耳が疲れてくるのです。そして強い打鍵になればなるだけ音がますます蓮っ葉になってくる点がいただけない。
それはたぶん音としてどこか破綻しているからとも思うのですが、こういうドイツの壮大な音楽に対応するだけの懐はまだないと思われ、演奏が悪くないだけによけい残念です。

ファツィオリに向いているのは、スカルラッティとかガルッピのようなイタリアの古典とか、せいぜいモーツァルト、ロマン派でいうならショパンやフォーレ、メンデルスゾーンなどではないかと思います。

第九に話を戻すと、それでも何度か聴いているうちに耳が慣れてきて、やはりそれなりの聴きごたえを感じてしまうのは、ひとえに作品と、それに奉仕する真摯な演奏の賜物だと思われます。
素晴らしい演奏は、最終的には楽器の良し悪しを飛び越えるものだと思いますが、そうはいってもより相応しい楽器であるに越したことはありません。

2012/01/08 Sun. 01:54 | trackback: 0 | comment: 0edit

転がった缶ビール 

ふと思い出した、暮れで混み合うスーパーレジでの記憶をひとつ。

レジの列に並んでいるときのこと、携帯でしきりに話をしている女性がマロニエ君のすぐ前にいました。
今どきですから、この状況がとくに電話をしてはいけないとも思いませんが、どこにも遠慮の気配というものが感じられないのは、やはり良い感じではありませんでした。
そのうち、商品満載のカートはそのまま置いて本人だけどこかに行ってしまっていなくなり、もうレジの順番が次だというのになかなか戻ってきません。間に合わないときは、当然ですがマロニエ君が追い越させてもらうつもりでした。

するといよいよというときになって、ちゃんと戻ってきて、当たり前のように列に復帰し、カートをちょっと前進させてレジに備えています。
ところがこの人、カゴだけをレジ係の前の台に差し出して、カートの下に積んでいる缶ビール(紙のパッケージで6本をひとまとめにしたもの)は一向にレジを通す気配がありません。
こちらから見ると、どさくさまぎれにそのまま通過するようにも見えました。

するとカゴの中の商品を計算し終えた係りの人がそれを目敏く見つけ、やや上半身を乗り出すようにして「そちらのビールもでしょうか?」と言ったのはさすがだと思いました。

そういわれた女性は、ああ…という感じでいかにも横柄な感じでその缶ビールを持ち上げようとしましたが、そのときの動作がいかにも雑で、パッケージの隙間に指を差し入れてぐっと引き上げたので、持ち上がった瞬間に紙パッケージが破れて、そのうちに2本ほどが床に転がっていきました。
落とした本人が棒立ちしている中、レジ係の人がすかさず飛び出てきて、すぐに1本拾いましたが、もう1本がなかなか見つかりません。

それから残りの1本をめぐって、あたりは大捜索となりました。
結局は、となりのレジ台の下のようなところへ転がっていたようですが、このとき2つのレジはすっかり動きが止まり、となりのレジ係の人も一緒に捜索に加わっていました。
その間、マロニエ君はじめ並んで待っている2列のお客さんは黙ってじっとその様子を見守っていました。

やっとのこり1本を店員さんが床に這いつくばるようにして見つけ出したので、めでたく缶ビールは元通り6本揃い、レジ係もやれやれという感じで所定の位置に戻ってさっそくバーコードを読み込もうとした瞬間、このお騒がせな女性の口から信じられないひと言が!
「新しいのと換えてもらえます?」「は?」「破れたから…」

なんとこの人、もともと自分が商品をレジ台に上げず、店員にいわれて持ち上げたところ、その動作が乱暴だからパッケージが破れてしまったわけで、誰が見ても100%この女性客の責任であることは衆目の一致するところでした。
ところが、そんないきさつなんてなんのその、とにかく金を払う以上は傷みのないまっさらの商品をよこせということのようです。
すかさずレジ係は「お取り替えします…」といってマイクで別の従業員を呼びだし、すぐに同じ物をもってくるように指示しましたが、その間、またぞろこちらの列はずっと待たされるハメになりました。

人に迷惑をかけてゴメンナサイのひと言もなく、おまけに交換するのは当然!みたいな態度で突っ立っているその姿は、ずうずうしいなんてもんじゃなく、思わずその拾い上げたビールのフタを開けて、頭からジャーッとふりかけてやりたくなりました。
変なものを目の当たりにして、帰り道もこの女性のことが頭に残ってムカムカきて、イヤな世の中だと思いました。

2012/01/06 Fri. 02:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

実験結果 

『バイオリン名器の音色、現代モノと大差なし?』

Yahooのニュースを見ていると、上記のような見出しが目に止まりました。

読売新聞による 1月4日(水)の配信で、
『何億円もすることで有名なバイオリンの名器「ストラディバリウス」や「ガルネリ」は、現代のバイオリンと大差ないとする意外な実験結果を仏パリ大学の研究者らが3日、米科学アカデミー紀要で発表した。』
とあり、実はこんなことじゃないかと薄々は思っていたところ、あらためてこういう文章を読むとやはり驚かされるものです。
引用を続けると、
『研究チームは、2010年、米インディアナ州で開かれた国際コンテストに集まった21人のバイオリニストに協力してもらい、楽器がよく見えないよう眼鏡をかけたうえで、18世紀に作られたストラディバリウスや、現代の最高級バイオリンなど計6丁を演奏してもらった。どれが一番いい音か尋ねたところ、安い現代のバイオリンの方が評価が高く、ストラディバリウスなどはむしろ評価が低かった。』とのことでした。

最後は、『研究チームは「今後は、演奏者が楽器をどう評価しているかの研究に集中した方が得策」と、名器の歴史や値段が影響している可能性を指摘している。』と締めくくられていますが、これはきっと大きな波紋を呼ぶのではないかと思います。

ヴァイオリニストの間でも、もしかすると我々が思っている以上に新作を評価・信頼して弾いているのかもしれません。
というのも、やはりイタリアのオールドヴァイオリンなどはその素晴らしさはじゅうぶん認めつつも、どう考えてもあの価格は異常としか思えず、それほどの価値があるのかという点で疑問に感じておいでの方は少なくないと思います。

さらにはこれだけ科学技術が進んだ現在でも、300年前のクレモナの名器を凌げないというのも解せない話です。美術品なら話は別ですが、ヴァイオリンはあれほど単純構造の、「使われて、音を出す」という機能を持った楽器なのですから、ちょっとそこは不思議です。

世界的に有名な日本人の名工の著書によると、歴史的にも楽器として完成されて久しいヴァイオリン作りにおいては、最高の楽器作りとは、究極的には「完璧な模倣を目指す」以外にないと語られています。

それと、マロニエ君などにしてみれば、そこまで神経質に新旧のヴァイオリンの音色の質に厳格にこだわるのなら、ピアノでも現行品のすっかりペラペラになってしまった音は、なぜ昔の楽器と比べられないのかと単純に思いますが。
こういうと、決まって「ピアノは金属フレームにものすごい力で張弦してあるので、弦楽器とは違う」という尤もらしいお説が出てくるのですが、それは100年単位でみた場合の話であって、ピアノでも今のピアノよりも少し古い楽器のほうが遙かに力強くて麗しく、圧倒的に芳醇な音がすることは、実際には多くの人が大きな声では言わなくても、内心では認めることだと思います。

新しいヴァイオリンの良さが認められるのと同様に、少し古い時代のピアノの本当の素晴らしさも正しく認めてほしいものです。

2012/01/05 Thu. 01:10 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノ遊び初め 

昨日は数名のピアノの知人が我が家に遊びに来てくれました。

これという目的もなく、個人的な知り合いが集ってピアノを弾いたりおしゃべりをしたり、ちょっと飲み食いをしたりという3時間半でした。

各々が現在練習中の曲を弾いたり、2台ピアノをやってみるなど、とくにどうということもないピアノ遊びをだらだらやっていると、あっという間に時間が経ってしまうのはいつものことです。
とくにそのうちの2人は、共に3月に大舞台での発表会を控えていて、そのための練習には余念がないようでした。

さて、調律の時以外、大屋根を開けることは普段まずないマロニエ君ですが、お正月ぐらい気前よく開けてみようじゃないかと思ってご開帳と相成りましたが、当たり前ですが、普段とはちがった生々しいけれども却って柔らかくもある音が聞こえてくるものだなぁと思いました。
タッチなども、開けるフタの面積がふえるほど軽く自然になり、音も抜けが良くなり、やはりこれがピアノ本来の姿かと思いますが、でもなかなか普段からそうして弾く勇気はありません。

あらためて感じ入ったことは、同じピアノでも弾く人によって、それこそまったく別の楽器のように音が違うことで、このあたりがアコースティック楽器独特の面白味だと再確認しました。
さらには人もそれぞれで、袋いっぱい楽譜を持ってくる人もいれば、一冊も持ってこない人もあるなど、人はそれぞれ個性があって、こういう点も実に面白いもんだと思いました。

マロニエ君は自分の家&ピアノということもあり、2台ピアノ以外はほとんど弾かずに聴く方に徹しましたが、自分のピアノを弾いてもらって聴くのは自分のピアノを客観視できるいいチャンスでした。

一緒に外に出たときは、もう完全な夜になっていて、それから食事に行こうとしたのですが、目指すお店はどこもまだ開店していないのには寒空の下で弱りました。不本意ながら、ほとんどファミレスになりかけたのですが、あるインド料理のお店がかろうじて営業しており、そこへ行ってたらふく食べてお開きとなりました。

今日来られた1人が珍しくバッハの練習中だということで、マロニエ君もはばかりながらバッハの練習を再開しようかという気にちょっとだけなりました。新年明けてバッハに取り組むというのも、どこか清澄な気分があっていいものですね。

日が経つごとに、お正月の空気の濃さが少しずつ薄まってくるようで、どこかホッとするようです。

2012/01/04 Wed. 02:16 | trackback: 0 | comment: 0edit

正月二日目 

ちょっと買い物などで出かけたついでに、暇だし道が空いてるのでドライブでもしようということになりましたが、べつに行くあてもないので、都市高速に入り、環状線を2周近くまわりました。
福岡の都市高速は、首都高の環状線などより環が大きいので、一周するのもそれなりの距離があり、結構走った気分になれます。

当然といえば当然ですが、この時期、路上の交通量が少ない割りには他府県のナンバーの比率が異常に多くて、それだけ非日常な交通の流れである点は要注意です。
ずいぶん遠くからやってきたのか、ここはいちおう高速だというのに若い女性二人が乗る軽自動車が、時速50キロぐらいでトロトロ走っていて、逆に周囲の車に危険を与えていたりするかと思えば、ほとんどカーチェイス並のスピードで車の間を縫うようにして走り去る車などがいたりと、やはりいつもとは違う状況でした。

危険運転は別としても、適度な速度で走っていくポルシェなどを見ていると、やはり多少スピードはオーバーしていても、運転らしい運転をしている、しまりのある動きの車を見るのはマロニエ君などは気分がよいものです。

車をまったくの実用と割り切って、100%移動の手段という以外に何ものも求めない人は別ですが、多少でも車が好きで運転の醍醐味を求めたいマロニエ君などは、そこには音楽の喜びにも通じる意味でのスピードやリズム、緩急のメリハリや躍動などが少しはないと、とうてい我慢のできるものではありません。
どんなに良くできていても、個人的には音のしないトヨタの車なんかに乗る事などまずないだろうと思います。

夜は友人から誘われてお茶をしました。
先日会ったついでに南紫音のイザイのDVDを渡していたところ、彼もその演奏ぶりには驚嘆して、「現在の若手ヴァイオリニストの中でこれほど官能的な面まで表現できる人は自分は知らない」「もちろん知的な裏付けも充分!」といっていました。

当然、使っている楽器の話になりましたが、フィリアホールのリサイタルの映像では、f字孔の形状がストラディヴァリウスのような形状だそうですが、どうみてもオールドのようには見えないという点でも意見は一致しました。
イザイで南さんが使った楽器は見るからに艶やかで美しく、キズひとつないその感じは、もしや新作ヴァイオリンでは?と思ってしまうし、音色も良い意味で古い楽器ではないような弾力のある瑞々しさがあったと思います。

もちろん真相はわかりませんが、ますますもって新作の可能性が出てきたような気になりました。
もしもマロニエ君がステージで通用するようなヴァイオリニストだったら、天文学的な価格のオールドヴァイオリンなどには欲を出さず、きっぱり最上級の新作ヴァイオリンを使うだろうと思います。
何億もするヴァイオリンを手に入れる算段などできるはずもないし、あれこれの財団などからの借り物というのもイヤですから、そんな暇があったらより良い演奏を目指して専念したいものです。

またそう思わせるほど、イザイを弾いたヴァイオリンは力強く朗々と鳴り響いていましたから、最終的には演奏が最も大切だということに落ち着きそうです。演奏の圧倒的な素晴らしさの前では、下手くそがどんな名器を持ち出しても所詮はナンセンスという気がします。

まあ、これだけ言っておいてグァルネリだったなんていった日には爆笑ですが。

2012/01/03 Tue. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

新年初作業 

新年早々やったこと。
それは雑誌のブックカバー作りでした。

マロニエ君はあまりテレビは見ませんが、それでも年末年始の番組ともなると見逃したくないものも含まれてくるわけで、毎年、この時期だけはテレビ番組のガイド本を買ってくるようにしています。
今回は、雑用に取り紛れていつもより遅くなり、ついには大晦日の夕方、書店の前に車をとめて小走りに買ってくるという有り様でした。

毎回感じることですが、やたらめったら同じような雑誌がズラリと並んでいて、咄嗟にどれを買ったらいいやらわかりません。
表紙もほとんど同じ調子で、値段も僅差で、いつも何の根拠もなくその中の一冊をやみくもに選んで買ってくるわけです。どうして日本人って何の世界でもこんなにも同じものをムダに何種類も作るのかと思います。それが結果的に数の決まったお客さんの奪い合いとなり、お互いの足の引っ張り合いを招くという悪しき構造です。

雑誌の世界は我々の想像を絶する経営難だそうで、つい先日聞いたばかりの話ですが、業界でも最も売れている男性ファッション誌などでも、年間数千万という赤字を垂れ流しているというのですからさすがに開いた口がふさがりませんでした。
たとえ売れ行きがトップであっても、決してその売り上げで利益を上げることはできないのだそうで、もっぱら広告収入に依存しているとのことですが、それがまたこのご時世だからスポンサーも広告量も激減して、雑誌出版業界はきわめて厳しい苦境に立たされているという話でした。
大手出版社では、こういうお荷物を雑誌ごと切り売りすることまで考えているのだそうで、これは雑誌に限らずあらゆる業界に共通した事象のようで、どこか世の中の歯車が根本的に狂ってしまっているような気がします。

話が逸れました。
年に一度買うこの手のテレビ番組雑誌ですが、マロニエ君にとってはこれが家にあるとイヤなことがひとつあります。
それはこの雑誌を見る期間中というもの、いつもそれはテーブルの上にあり、表紙のうるさい色彩と見たくもない芸能人の顔が絶えず視界に入ってくるということです。わざわざ見なくても、至近距離にあれば嫌でも視野に入るわけで、それが非常に気になって嫌なのです。

その本を手にするときはもちろんのこと、見ないときでもそのド派手な表紙は絶えずその存在感を撒き散らしてしまうので、今年は、意を決してブックカバーを作ったわけです。

表紙が見えなくなることが主たる目的ですから、作りは大雑把で良いのですが、そんなどうでもいいものでもついついピシッと作らないと気が済まないマロニエ君の性格で、作業にはかなり集中してしまいました。
大型封筒を解体して、きっちりサイズを合わせ、あとで外すことはないから、かたっぱしからセロテープで貼り付けて、どうだ!とばかりに封じ込めてやりました。

そういうわけで一見してはただの真っ白い冊子というだけで、ようやくにして視界を邪魔されることがなくなりました。ところが喜びもつかの間、家人から「これでは一体どっちが表紙なのかわからない」という、ほとんど言いがかりのようなクレームがつきましたので、皮肉を込めて「表紙」と大書しておきました。

2012/01/02 Mon. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

謹賀新年-2012 

新年あけましておめでとうございます。

このブログをはじめたのが2010年の1月1日でしたから、これでとうとう3回目の元日を迎えることになりました。
何事も根性無しで怠け者のマロニエ君にしてみれば、ブログを書き続けるという事をまる2年を過ぎて3年目に突入できたとは自分でも驚くべき事です。

これもすべては、友人が「ブログを書く以上は毎日更新しなくてはいけない」とえらい調子で脅しをかけてきたことに端を発します。さすがに毎日は無理としても、3日のうち2日は書くことを目標としており、なんとか今のところは達成できているようですが、さていつ終わりになるかはわかりません。

気力の続く限り、本年もできるだけ許される範囲での本音でいろいろなことを綴りたいと思いますので、どうかまたお付き合いいただけたら幸いです。

大晦日のNHKでは「クラシックハイライト2011」と称して、今年一年を振り返るダイジェスト番組をやっていましたが、何度見ても佐渡裕指揮のベルリンフィルのショスタコーヴィチの5番は感動的でした。
ピアノではアヴデーエワがプロコフィエフのソナタ第2番の第4楽章を弾いていましたが、これがなかなか良くてびっくりでした。基本的にこの人はショパンよりこういうものの方がいいのかもしれません。
少なくとも意図的に作りすぎた印象のある彼女のショパンよりは、数段情熱的で演奏にも覇気がありました。
この人、何かに似ていると思ったらキリンみたいな可愛い顔をしているんですね。
ピアノの腕前は思った以上に強靱なものがありました。


2012年最初のCDは、結局シューベルトになりました。

シューベルト:交響曲第8番ハ長調D944「ザ・グレイト」
ニコラウス・アーノンクール指揮のロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を聴いています。

それでは、本年もよろしくお願い致します。

マロニエ君

2012/01/01 Sun. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit