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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

お鍋はイヤ 

時代の風潮もあるのか、ちかごろではいろいろなこだわりや苦手を抱える人が多いものです。

タバコが迷惑というのはマロニエ君もまったく同感であるし、とくに喫煙できる場所が大きく制限させるようになってからというもの、煙のない環境に体が慣れたのか、わずかなタバコの煙でも敏感になりました。
気付くだけでなく、実際それがかなり苦痛になって、どうかすると席を替わりたくなることもあるわけで、野放し状態だった昔を思い出せば自分自身を含めて隔世の感があります。

マロニエ君自身は一度もタバコを吸っていた時期はありませんが、昔は世の中はどこに行ってもタバコの煙だらけで、喫茶店などはほとんどタバコを吸っている合間にちょっと珈琲などを喉に流し込んでいるような感覚だったかもしれませんね。
むろん、喫煙者には何の遠慮も躊躇もなく、どこででも委細構わず思うさまプカプカやっていたもので、今だったら刑事コロンボもあのスタイルはできなかったでしょうね。

こちらも平気なもので、ほとんど白く煙った部屋の中にいてさえ、一向に平気だったことが我ながら信じられません。さすがに辛かったのは車の中で、あの小さな空間だけは苦痛でしたが、逆にいえばそれぐらいほとんど平気だったということですね。

時代は変わり、部屋の掃除から何から、とにかくあれこれとみなさん衛生面などに神経質になってこられたようで、昔はマロニエ君などがどちらかというと神経質なくちで恥ずかしく思っていたものですが、いまじゃとても敵わないといった趣です。

ここまできたかと思うのが、人とは「お鍋をしたくない」という人が意外に多いことでしょうか。
いうまでもなくひとつの鍋を他人とつつき合うのが衛生的感覚的に耐えられないというものですが、個人的にはそこまで究極的にイヤとは思いませんが、もちろん相手次第ではご遠慮したい場合もあります。

ただ、だからといって美味しい鍋料理を全否定するのも忍びないものはあり、これは微妙です。店によっては鍋専用のお箸を置いているところもありますが、それにいちいち持ち替えるのも面倒臭いし、うっかり自分のお箸を鍋に突っ込んでしまうこともあるでしょうから難しいところです。

そんなことより嫌だったのは、昔の宴席などでは、とくに男性は杯のやり取りをすることがひとつの礼儀であり交際上の形式になっていて、マロニエ君の親の世代などではそれがごく当たり前のようでしたが、あれは見ていて内心抵抗がありました。
杯をやり取りする際には形ばかりの杯洗なるものがあるにしても、基本的にはのんだくれの老人やおやじが口を付けた杯でもありがたく頂戴するわけで、それは「お鍋はイヤ」どころの騒ぎではありませんが、昔の日本人は当然のようにこういうことを繰り返しながら互いの情誼を深めながら生きていたようで、これもまた時代ですね。

まあ、杯はともかくとしても、マロニエ君も以前あるところで篤く歓待していただいて、そのことは大変嬉しかったのですが、その折、そこのご主人が焼けた肉やなにかを自分のお箸で次々にこちらのお皿に入れてくださるのは、それがご厚意だけにさすがにちょっと参りました。
そこにも菜箸とかトングのようなものはありましたが、そんなものには見向きもせず、たった今までむこうの口に突っ込まれていたお箸が、方向を変えてこちらへ向かってきては何かをぽんぽん入れてくれるのにはギョッとしましたね。
目の前でそれをやられたら食べないわけにもいかず、もちろん顔にも出さずにありがたくいただきましたが、こういう場合「お鍋はイヤ」な人などは、一体どうするのだろうと思います。
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2011/11/30 Wed. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

アンデルジェフスキ 

話題のピアニスト、ピョートル・アンデルジェフスキが4年前にワルシャワのフィルハーモニーホールで行ったリサイタルの様子を映像で見ました。

曲目はバッハのパルティータの第2番と第1番がプログラムの最初と最後にあって、その間にシマノフスキの仮面劇とシューマンのフモレスケが置かれるという、なかなか個性あふれる異色なものです。

はじめのパルティータ第2番は期待に反してちょっと同意しかねるところの多い演奏で、アンデルジェフスキとはこんなものかとやや落胆しました。演奏家としてやりたいことがあるらしいのはわかるのですが、それがちっとも形になっておらず、完成度がなく、ただあまりに作為的なバッハがそこにあるだけという印象でした。

普通はこういうスタートになると続きを見るのが億劫になるものですが、シマノフスキの仮面はぜひ聴いてみたい曲だったこともあり、とりあえずもう少し我慢して聴いてみることにしました。
すると、いきなりこの人の演奏と作品に一体感が生まれてきて、しかも非常に大きな演奏をするので、思わずこちらのだらけていた体の姿勢まで変わりました。

仮面はシマノフスキの代表的なピアノ曲で、作品としては中期のものです。一般にはスクリャービンやドビュッシーなどに繋がる作風といわれることもあるようですが、リアルな描写性に満ちたそれは幻想的な要素に拘泥していないという点でもシマノフスキ独特なものだと思います。

アンデルジェフスキの演奏からは、なにかムンムンと濃密なものが伝わってくるようで、その逞しいスケール感あふれる演奏には圧倒されっぱなしで、彼の本領はこういうものにあるということを象徴的に示されたようでしたし、では…はじめのバッハはなんだったのだろうと思いました。
続くシューマンのフモレスケも同様の印象で、このとらえどころのない断片の寄せ集めみたいな作品を、実に見事な構造体として重量感をもって描ききったことは、アンデルジェフスキというピアニストの特異な才能を生々しく見せつけられたようでした。
ときにテンポは極限的に遅くなるなど、アゴーギクなども思う存分に揺れ動いて、普通なら容認できないようなところもあるのですが、彼なりの思惑と道筋がしっかりと通っているために、演奏として破綻せず、それはそれで納得させられてしまうのは大した才能だと思います。

アンデルジェフスキの演奏の魅力は、ありきたりな作品解釈の再現ではなく、あくまで彼が綿密に設計した演奏形態の中に作品を落とし込んだ後の結果を聴かされるところにあり、ときには彼のエゴイスティックな部分を含めて、これに身を委ねるところに、このピアニストを聴く、本質的な意味があるのだろうと思います。

もっとも印象的だったのは、現代では指だけはめっぽう回る無個性なピアニストが多い中で、彼は非常に自我の強い、時に傲慢ともいえるような個性的な芸術家であるという点でした。
標準的解釈というものにがんじがらめになり、あくまでも作品から自分の感じ取ったものを表出させるという演奏家本来の使命にさえも異常なまでに臆病な演奏者が多い中、彼ほどそれを恐れず赤裸々に表現してくるピアニストであり、これは時代的にもきわめて稀有な存在だと言えるでしょう。
音楽をとても大きなところから捉えて、それを臆することなく泰然と表現しようという点でも、彼はともかくも大器だと思いました。

ひ弱な演奏が目立つなか、ピアノを非情に力強く男性的に鳴らし切る点においても傑出しており、とりわけこの人の左手の強靱さは目を見張るものがあると思いました。
左があれだけ逞しいことも、音楽のスケール感をいっそう大きくしているのだろうと思われます。

最後に弾いたバッハのパルティータ第1番は、はじめの第2番よりもよほど素晴らしい演奏で、やはり興が乗って、彼の個性とバッハの作品とのピントが合ってきたのだろうと思われました。
久々に聴くに値するものを聴いたという意味に於いて満腹できました。
2011/11/29 Tue. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

「さん」と「先生」 

昨日のブログで「先生」という言葉を何度も使いましたが、マロニエ君は人の呼びかけに際して「さん」と「先生」の区別は人一倍意識しています。
もっと正確にいうと、「先生」はめったなことでは言いません。

世の中には、その人の職業に応じて「先生」をつけて呼ぶことが礼儀に適って正しいことだと思っている人、あるいはそこまで意識しなくても自然にそういう風に呼んでしまう人が少なくありません。

マロニエ君は、自分にとっての恩師ならむろん「先生」と呼びますが、その数は非常に僅かです。
もう一つは、病院で診察してもらう相手は「先生」ですが、たとえ医師でも、ただ単に同好の趣味人としての関係で職業が単に医師というだけなら決して「先生」をつけることはなく、敢えて「さん」と呼ぶようにしています。

そもそもプライヴェートな対等な人間関係の場において、相手の職業がなんであろうとも、そんなことは関係ないことですし、むしろ関係づけることのほうが不適切だと思っているからです。
そもそも「さん」は我が日本で広く通用する立派な敬称なのですら、ほとんどの場合がこれで通用するわけですし、そうあるべきだと思っています。

あるいは、音楽関係でいうなら演奏家、たとえばピアニストで先生もしているような人のことを、多くの人は迷いもなく「先生」をつけて呼びますが、マロニエ君は自分が教えを受けた方、あるいはそう呼ぶことの方が状況的に自然だと判断した場合以外では決して「先生」とは呼ばない主義です。
さらに言えば、ピアニストなどは仮に先生を兼ねていても、「さん」のほうがひとりの演奏家として認めていることにもなるという考えから、マロニエ君は「さん」で呼ぶことのほうに寧ろ敬意を表しているのです。

テレビなどで大学の教授なんかが出てきてその人の専門の話を聞くときに「先生」と呼ぶのはまだ許せるとしても、国会議員に対しても「先生」、弁護士にも「先生」は耳に障るし、さらにおかしいと思うのは、ここ最近はやたらめったら肩書き優先主義で、お笑い出身の知事が現役の頃なんぞ、まわりは「知事、知事」と連発するのには閉口しました。「社長」などというのも部外者までが言うのは過度のへつらい以外のなにものでもない。

総理でも昔は「さん」でした。中曽根さん、細川さん、小泉さんと言うのがテレビであれ普通の会話であれごく当たり前だったのに、最近は管総理、野田総理といちいち肩書きをつけるのが慣習のようになってきたのはなんなのだろうかと思います。巷では味わいのないビジネス用語が幅を利かせ、たおやかな日本語が失われているひとつの兆候のようです。

それらが現役を退くと「元総理」「元知事」とかぎりなくその人の最高位の肩書きを引きずって呼ぶのにはさらにうんざり。どれもただ単に「さん」をつければ充分ではないでしょうか。
そのうち卒業生にたいしても「○○元東大生」とでも言うのかと思います。

ついでですからもう少し言うと、今は自分の親のことを「父」「母」といわず、大半の人達(とくに若い人)は「チチオヤ」「ハハオヤ」と判で押したように言うようになったのは著しい違和感を覚えます。
今どきの心理として「チチが、ハハが」というのはなにか抵抗があるのでしょうか?

驚いたのは、先だって歌舞伎の中村芝翫さんが亡くなって、追悼番組をやっていた折、次男の中村橋之助さんが思い出などをコメントをする際「チチオヤが…」「チチオヤは…」と何度も言うのには、ははあ、成駒屋の御曹司にしてこんなものかと驚きました。
2011/11/27 Sun. 02:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

お別れ… 

このようなブログで病気の話をするのもどうかと思われますが、マロニエ君は昔から呼吸器が弱くて、梅雨や季節の変わり目などは喘息が出てしまう、いわば気管支の持病持ちというわけです。

当然ながらかかりつけの病院があって、そこの先生は呼吸器の専門で、お若い頃はそちらの分野で有名な大病院にお務めだったようで、後年現在の医院を開業されたという経歴をお持ちのようでした。
知り合いに紹介されてここに通院することになったのが、約4年ほど前のことです。

ひどいときは毎週のように通院したりした時期もありましたが、その後は小康を得てご無沙汰することがあったり、またちょこちょこ行ったりの繰り返しでした。

それが昨年ぐらいだったか、先生ご自身が病気(病名は知りません)になられ、どきどき代診の先生などがこられるなど心配していたのですが、その後はまた復活されて診察を続けておられました。
しかし、今年に入ってからというもの、傍目にもわかるほど弱られた様子で、お若くもないこともあり、これはいつまでもつかという危惧が頭をよぎっていたのは正直なところでした。

この医院はある特殊な治療をしてくれるということもあって、自宅から十数キロ離れた不便な場所ではあるものの、面倒くさがり屋のマロニエ君にしては、珍しくこれだけは熱心に通っていた一時期もありました。

さて、最近のように寒さが日増しに厳しくなってくるような季節の変わり目は喘息持ちにとってはキツイ時期で、このところちょっとまたいろいろと不都合が出てきはじめていたので、吸入薬などの薬のひと揃いを準備しておくべく電話をしたところ、現在また先生が入院されているので診察は出来ず、薬のみ出しますということになりました。

夕方、病院に到着して中に入ってみると、なるほど受付以外はもう人影もなく真っ暗で、すでにマロニエ君のぶんの薬は窓口に準備されていました。
保険証を出して支払いをしようとすると、なんと今回はそれには及ばないと言われました。
驚いてなぜかと聞いてみると、先生曰く、自分が診察ができず患者さんに迷惑をかけているのだから薬代はもらわない、また普通は診察なしで薬は出さないのだけれども、呼吸器の場合、患者さんが薬が必要なときにそれが手に入らないと皆さんが困られるので、長くかかりつけた患者さんに限って今回は敢えてそのような処置をしているとのことでした。

今回はとくに薬の量が多く、しかも吸入薬はけっこう高額なので、それをすんなりいただくのはどんなものかと思いましたが、「皆さんにそうしていますから、ご心配なく」と何度も言われて受け取ることになりました。
さらに驚いたことには、今後のために別の病院を紹介するとのことで、呼吸器専門の病院の手書きのリストのコピーが添えられていて、どこに行くか決まったときには紹介の電話(紹介状が書けない状態なので)をするということでした。

そんなものまで添えられているということは、もうここの先生が診察に復帰されることがないことは明らかで、「そんなにお悪いのですか?」と聞くと、病院の事務の女性はしずかに頷きました。
気が付くと、いつも3〜4人は必ずいた看護士さんもまったくいなくて院内はしんと静まりかえっています。

お歳でしたが、とても可笑しみがあって可愛いところのある先生でしたが、なんだかお別れの品をいただいたようで、高い薬代を払わなくて済んだかわりに、なんだかすっかり打ち沈んだ気分で帰りました。
期間から換算してもたぶん100回近くは行ったはずで、それがもう二度とお会いすることがないと思うのは、なんともやるせない気分でした。

そして、今どきの儲け主義の医師と違い、最後までこのように患者の心配をしてせめてものけじめをつけられる姿勢にもいたく感銘をうけました。
なんとなく、がっくりしてしまい、病院のリストにはまだ目を通していません。
2011/11/26 Sat. 01:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

幻想即興曲 

横山幸雄のプレイエルによるショパンピアノ独奏曲全曲集は、7/8/9巻が発売されいよいよパリ時代の佳境に入りました。

正直いってこういう全集は一括してならまだしも、順次発売されていくのは、途中で気分がダレてくるときもあるものです。
他に欲しいCDもあるのに、店頭で目に入れば、途中で打ち止めにする決意をしない限り購入し続けなければなりませんし、正直気分も常にそちらを向いているわけではないので、あぁ…とため息が出たりもするのですが、まあ乗りかかった舟ですから、気を取り直して購入しました。
それに全集物などは、キチッと揃っていなければ気の済まないマロニエ君の性格もありますし。

横山氏のピアノはあいかわらず安定した仕事というべきで、確かな平均値を保持した演奏が続いています。
もちろんその中にも僅かな出来不出来はあるわけだし、マロニエ君の好みに合うものと合わないものがあれこれと含まれますが、概ね一貫した足取りで着実に録音が進められているのは大したものだと思います。

今回の発売分の中には有名な「幻想即興曲」が含まれているのですが、この曲はあまりにも有名で、ショパン本人が友人に破棄するように頼んでおいたといわれるほど本人も満足できない作品だったという話もありますが、結果的には超有名曲になってしまっています。
そのせいか、いまさらこれをCDで進んで聴こうという気にもなれない人も多いはずです。

ところが、横山氏はこの幻想即興曲を、かつて聴いたことがないほど見事に弾いています。
あの特徴的なオクターブに続いて開始される左手のアルペジョの上に、まるで一塵の風が吹くように右手の細やかな旋律が流麗に乗ってきます。
テンポもやや早めで、繊細で、軽やかでしかも劇的、ショパンが着想したときにはこのようなイメージを頭の中に思い浮かべたのだろうと思われるような素晴らしく際立った演奏でした。
旋律はまるで波打つ線のように、グリッサンドのようにうねりながら深い悲しみを露わにします。

これまでに聴いたどの演奏よりも秀でた理想的なもので、この歳にして、はじめてこの曲の真価がわかったようで、これ一曲でも買った甲斐があったというものです。
スケルツォの2番などもなかなかの秀演。

横山氏の演奏にはどうかするとドライで情緒不足に感じるものも少なくないのですが、たまにこういう大当たりがあって、そういうときは非情に嬉しくなるものですし、やはり大した潜在力をもったピアニストだなあと感心してしまいます。

こういう傑出した演奏をいっぽうで支えているのがプレイエルの音で、まさにこれは音色・奏法ともにフランスのショパンであり、ポーランドのそれとは大いに趣が違うところが注目すべき点でもあります。

また「ん?」と気が付いたことは、このあたりになってくとピアノ音に明らかな変化が起こってきていることです。
以前に何度か書いたことがありましたが、このピアノはスタート時から舌を巻くほどに素晴らしく調整されていたのですが、そのあまりに巧緻な水も漏らさぬ調整が、この100年も前のプレイエルに相応しいものかという点ではいささか疑問の余地があったのです。

それがだんだんとほぐれてきたというか、本来のプレイエルのトーンをやや取り戻してきている気がするのは嬉しい発見でした。おそらく調律の観点が変わってきたのではと思われるのですが、以前に見られた完璧主義みたいな気負いが取れて、より自由に歌うプレイエルに近づいてきたようで、この点も好ましい限りです。
2011/11/25 Fri. 01:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

先生は音楽が嫌い 

昔から長らく変わらない印象ですが、ピアノの先生とかピアニストという人達は、あまり他人のコンサートにはいらっしゃらない気がします。

とりわけピアノの先生などは、そもそも音楽がそれほどお好きではないようで、積極的に好きだという人のほうが珍しいし、コンサートなどほとんど意識にもないというタイプが多いのは驚かされます。
では、よほど込み入った理由があるのかといえば、そうではなく、要するに音楽に対してほとんど無関心という場合が大半なようです。
もちろん中には例外はありますが、それはあくまで例外です。

さらには、ピアノの先生なら仮にコンサートに行くにしてもピアノのコンサートしか行かないし、自分の自由な意志でシンフォニーや室内楽を聴きに行くなんてことは、あまり聞いたことがありません。

だいたい先生がそれでも行くコンサートというのは、出演者などとの絡みがある場合がほとんどで、自分の恩師の系統の人が出るとか、学校や教室などの関連といった色合いばかりで、純粋に自由な立場から、この人の演奏を聴いてみたい、このコンサートに行ってみたいということで、自分のお金でチケットを買って聴きに行くということはあまりないようです。
それで生徒にはチケットを押しつけたりするのですから、ちょっとねぇ…。

以前はマロニエ君も人並みに、あれこれのピアノの先生を知らないわけではありませんでしたが、昔からコンサートでこの先生達にお会いするということはまずないので、そういう意味では安心してホールのロビーなども自由にウロチョロできたものです。
いらい、マロニエ君はピアノ先生とはそんなものというイメージが形成されていったわけです。
「先生」と呼ばれる立場でありながら、これほど音楽や楽器の本質に疎く、もっぱら指運動の難易度と優劣だけに関心が注がれているのは昔も今もあまり変わりないようです。

それに対して、この2年ほどピアノクラブというものに所属してみたら、そこではピアノがなんら義務ではなく、本当に自分の自由な意志から好きで楽しんで弾いているという、まったくそれまでに接触したことのない人達を目撃し、新たなご縁ができることになりました。
趣味なんだから、べつに間違っても下手でもいいから、ともかくピアノを弾いて楽しんで、そこから同好の仲間との交友関係を築くというのは、ある意味ではまことに新鮮な感覚でした。

クラブの人達がいわゆるピアノの先生や、そこにまつわる人達とはまったく違う人種であることを如実にあらわしていることのひとつが、コンサート会場でときどきお会いするということです。
ピアノクラブの人達もマロニエ君と同じように、誰から強要されるでもなく、自分のまったく自由な気持ちからチケットを買って、時間を作って、楽しみでコンサートを聴きに来ているわけで、これは実に素晴らしいことだと思うのです。
まあ本来ならこれはそう感心するほどのことではなく、自分が好きなことならごく当たり前のことなのですけれども、その当たり前と思われることが、ピアノの先生などの世界の人達にはウソみたいに欠落しているのですから、それに比べればやはり感心するのも仕方がないでしょう。

きっと先生達はCDなんかも特定の目的以外ではろくにもっていないはずで、コンサートにも行かない、よい音楽、よい演奏を普段からほとんど遠ざかっていて、なんのために音楽に関わっているのか疑問に感じてしまいます。
たまさかコンサートに行けば、全体の演奏の良し悪しに心を向けるでもなく、あの曲のあそこのところが違っていた!なんてことだけを指摘してご満悦だという話もよく耳にしますね。

プロでもアマチュアでも、音楽に関わりを持つからには、それが心底好きで、良い音楽は少々の無理をしてでも聴きたいという純粋さと意欲だけは失いたくないものです。
2011/11/24 Thu. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

遅かりし発見 

調律師の方がピアノの調整に来宅された折り、思いがけなくCDを頂戴しました。

この方は、さるドイツのヴァイオリニストのリサイタルのときに使われたピアノの調律の見事さに、マロニエ君がいたく感激してしまい、どなたかを辿って特約店へ問い合わせて、めでたくご紹介をいただき、ついに我が家へ来ていただく事となって、この日は2回目の調整でした。

この方はコンサートの仕事が多いようで、いただいたCDのピアノもこの方の調律によるものです。

ヴァイオリンは豊嶋泰嗣さん、ピアノは美輪郁さんというコンビで、クライスラー、サンサーンス、ガーシュウィン、コルンゴルト、シマノフスキほか、多彩な作品が収められたCDです。
レーベルはEXTONというCD店でもよく見かけるものです。

はじめは音を出さない作業なので、よかったらかけてみてくださいと言われ、さっそく新品のセロハンを切って真新しいディスクをプレーヤーにのせてみました。
冒頭の曲はクライスラーのギターナ(ジプシーの女)でしたが、いきなり飛び出してきたその張りのある艶やかな音、腰のすわった技巧の上に広がる大胆かつしなやかなその演奏にはホォ…と驚きました。それはまさに一流プレーヤーにしか出せない磨かれた音だったのです。本当にいい演奏、いいCDというのは、極端な言い方をすると聴いた瞬間にわかると言っても過言ではありません。

ピアノの美輪郁さんがこれまたヴァイオリンをしっかりと支えた素晴らしい演奏で、曲への理解も深く、出過ぎず隠れすぎずの、まさに理想的なピアノでした。

そしてさらにそのピアノの音はというと、以前ホールで聴いた正にあのピアノだったのです。
といっても同じピアノというわけではなく、会場もピアノもまったく別のものですが、その調律がまったく同じで、その時の記憶がたちまち蘇りました。
それほど調律には個性と、形と、技術者の音に対する志向や価値観が色濃く投影されているものであって、それはでもまったく別のピアノ(メーカーは同じ)であるにもかかわらず、以前の記憶といま目の前で聴いている音が、ピタリと一致するという不思議な体験でした。

ところで、豊嶋泰嗣さんという方は、ずいぶん前から九州交響楽団のコンサートマスターをされていて、お名前と存在はよく知っていましたが、肝心の演奏にはほとんど触れたことがありませんでした。
一度だけ、ずいぶん前にいろんな奏者が出演するドビュッシーだけのコンサートがあり、2台のピアノやらチェロなどあれこれとプログラムされていた中、最後のトリをこの豊嶋氏率いる4人が弦楽四重奏を演奏したことがあり、そこで目のさめるような集中力と音楽の勢いにハッとして聴き入った覚えがあったぐらいでした。

マロニエ君はそもそもオーケストラのコンサートマスターをやっていた人のソロというのは昔からどうにも好きになれず、ソロとコンマスは同じヴァイオリンを抱えても、そこには埋めがたい隔たりがあるというのが自分なりの認識でしたから、豊嶋氏の演奏にもその先入観からこれまでなんの興味もなく、したがってこれという演奏を聴いたこともありませんでした。

そこへ突如として降って湧いたようなこのCDの素晴らしさはどうでしょう! 
軸がしっかりしていてパワーもあり、繊細な表現も見事にこなしながらさまざまな性格の多種多様な曲を次々に鮮やかに聴かせていく手腕は、まさに目からウロコでした。

ながらく九響のコンマスであったが故に、マロニエ君にとっては却って灯台もと暗しとなったのは、ただただ自分の不明を恥じるばかりでした。
なんの誇張もなしに、この人は世界で通用する器を持った人だと思いました。
聴いてみたいと思ったときには、豊嶋氏はもう福岡にはおられず、ああ、なんたる事かと思うばかりです。
2011/11/23 Wed. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

キーレスエントリー 

修理のためにずいぶんと長期入院していた愛車が最近やっと戻ってきました。

ほとんど4ヶ月ぶりの帰還で、それほど時間がかかったのは必要なパーツが手に入らないため、海外に発注をかけたり、やっと届いた部品が間違っていたり、どうしようもないものはパーツそのものを部分修理したりと、本来なら大したことではないようなことなのですが、こういうちょっとしたことですっかり無駄な時間を取られてしまうのです。

この車は、あるフランス車で、ピアノに喩えるならまさにプレイエルであることは、折に触れて書いてきたように思います。
新車で購入してから、もう丸15年になりますが、非常に大切にしていることもあってとても元気で、消耗品さえ供給されればまだまだ当分は乗れそうな状態です。

さて、この車には今は少数派かもしれませんが、普通のエンジンキーがついていて、ドアロックの開閉だけは赤外線によるリモコンが、キーの握りの部分に装着されています。

しかし、今の趨勢からいうとこの旧式のキーは次第に姿を消しつつあるようです。
マロニエ君の普段の足代わりの日本車もそうですが、いわゆる「キーレスエントリー」というシステムが主流となり、キーに代わる小さな器具を持って近づくだけで車がそれを認識し、ボタンや取っ手に触れるとロックが開閉するというものです。
要は車の乗り降りやエンジン始動に際して、敢えてキーが要らない「キーレス」になっているのは多くの方もご存じのことでしょう。

これなら雨の日に傘や荷物を持った手で敢えてキーを取り出す必要もないし、カバンなどに入れておけばいちいちズボンのポケットをゴソゴソさせる必要もないというものです。

理論的にはそのはずなんですが、マロニエ君は一見この便利なシステムが、実はそれほど便利という実感がなく、すでに5年ぐらいこの機能を使っていますが、いまだに一抹の違和感が拭えません。
車から降りる際は、このリモコンを入れたカバンは常に外に持って出なければロックができない、車に忘れ物をしてもカバンがないとドアが開かない、などなど逆の不便もあるわけです。

そして、久しぶりに戻ってきた上記の車に乗ってみると、やはり従来のキーというものがあって、それを手にしながら乗り込んでハンドルの根元に突き刺し、いざそれを捻ってエンジンを始動するという一連の操作が、なんともしっくりくる心地よいものだということを実感したわけでした。

「それはアナタが旧い世代の人間だから」と言われるかもしれませんが、どんなに新しいものでも、使い慣れないものでも、本当に優れた便利なものなら、時間と共に昔のスタイルを追い越していくもので、マロニエ君の身の回りも大半はそういうものばかりです。
しかし、人の直感にどこか逆らうものからは決して真の快適は得られません。

車のキーも、それを出し入れして、エンジンをかけて出発進行するという一連の動作には、どこか情緒的な安心感やメリハリにも繋がっているようで、その証拠に、とても心地よくホッとさせられるのです。

それは体の動作と脳内の認識が有機的に美しく結びついているような気がしますし、なんでもかんでも便利だからといってボタン操作だけで済まされたのでは、人の気分を活性させる要素が欠落しているようにも思うのです。

車にとってのキーの存在というのは、人と車を結びつける鎹の役目も負っているようで、車というものをさりげなく象徴するものであるということにあらためて気が付きました。
とはいっても車を100%移動の道具としてのみ使う人にはそういう情緒は無用かもしれませんが、運転の楽しさとかエモーショナルな何かを感じている人にとっては、やはりキーというちっちゃな実体があったほうが心情的にも収まりがいいようです。

これは、どうしても紙の本で読書をしたいという心理と共通しているのかもしれません。
2011/11/22 Tue. 02:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

民族による音色の好み 

昨日の続きで、「ピアノの本」には、もうひとつ興味深いコメントが載っていました。
あるベテラン調律師の方によると、ピアノの音色に対する趣向が次のように述べられていました。

『アメリカ、ことに西海岸では芯のある明るく突き抜けた音色が好まれ、日本人は除夜の鐘のように澄んだ深みのある音色を好み、ヨーロッパではビッグベンの鐘の音のようなどこか濁りを帯びた柔らかい音色が好まれる』

ほととぎすに喩えた信長、秀吉、家康の話のようで、なるほど象徴的な言葉だなあと思いました。

とくに共感できたのはやはり日本人のそれで、澄んだ深みのある音というのは、いかにもそうだろうと思いますし、自分でもやはり行き着くところそういう音を好んでいる、あるいは無意識のうちにそういう要素で音を判断しているような気がします。
アメリカのような明るく突き抜けたというのは、彼らを見ていると納得できるのですが、日本人とはまったくメンタリティが違うと思いますね。とくに日本は文化的な長い歴史もあって、こと芸術に関して無邪気に明るいものを容認はしません。わびさびなどという精神があるように、どうしてもある種の奥深さと、そこに到達する精神的な清澄さを要求するのだと思います。

アメリカのピアノが芯があるかどうかは疑問ですが、どれも音色そのものというよりは、性格的に明るくフレンドリーなのは、アメリカ人の持つメンタリティの表れだろうと思われますし、いわれてみるとたしかにアメリカピアノには夜のような暗闇はない。
その点、日本のピアノはどれひとつとっても、ある種の暗さが漂っているように感じます。
ハデハデな音を出すヤマハでも、その根底には無彩画のような一種のネクラがある。
その意味では暗さをより上手く使いこなしているのはカワイやディアパソンだと思いますし、ボストンにもこの暗さは少しばかり影を落としているかもしれませんね。

ヨーロッパが濁りを帯びた柔らかい音色というのも頷けます。
とくに彼らが重視するのは音の伸びと倍音ではないかと思いますし、濁りに関しては、これがあるほうを好むというよりは、この点では日本人ほど厳しくないだけじゃないかというのがマロニエ君の印象です。

少々濁っていようとそこはあまり頓着せず、それよりは歌があり、ある種の肉感のようなものがあるピアノのほうが好ましいのだろうと思いますね。
例えばファツィオリがわりに評判がいいらしいのは、そういう理由ではないだろうかとマロニエ君は思うのです。その点では日本人はより精神的要素を求め、ひとつひとつの音にも細やかな美しさや観念を欲しがるので、やはりCFXのようなピアノを作りだしたのだろうと思いますし、一方ではベーゼンドルファーのような繊細な美音を紡ぎ出すピアノを高く評価するのかもしれません。

そういう意味ではアメリカピアノとドイツピアノは両極に位置するピアノで、その両方に拠点を持って国籍不明のようなピアノを製造しているスタインウェイというのは、実におもしろいメーカーだとも思いました。
2011/11/20 Sun. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

音色のひみつ 

ヤマハが発行する月刊の小冊子『ピアノの本』を読んでいると、小特集「ベーゼンドルファー音色のひみつ」というのがありました。
簡単な歴史からはじまり、現在もいかに少数のピアノを丁寧に作り続けているかということを説明しています。

ベーゼンドルファーの最も特徴的な面として、木の使い方を挙げていました。
通常は響板のみに使われるスプルースを支柱や側板など、木全体の実に8割にわたりこれを使うとのことで、全体を共鳴体として作り上げるのだそうです。しかもその使い方が独特で、加工する際に無理な圧力をかけて湾曲させるなどせず、削る・接着する・積み重ねるといった木材にストレスのかかりにくい工法がとられているとあります。
ちなみにスプルースは、マツ科トウヒ属の常緑針葉樹で、軽くて弾力性に富み、きめが細かく、加工性に優れているという特徴があり、ピアノだけでなく弦楽器にも使われる、楽器造りには欠かせない素材です。

そんなスプルースをこれだけ多用するということが、ベーゼンドルファー特有のとろみのある優雅な響きを作り出すことに貢献しているのだろうと思われますし、世界広しといえども、これほどスプルースにこだわってピアノを作っているのは、マロニエ君の知る限りではベーゼンドルファー以外にはないように思われます。

ただし、スプルース材を多用したからといって、それが即、より良いピアノになるということではなく、そこにはベーゼンドルファー特有の優れた設計があってのことであるのはいうまでもありません。
逆に木材は適材適所に性質の異なる木を使い分ける方が良いという考えのメーカーも多いはずで、これは一概に良し悪しが決められることではないと思いますが、少なくとも他社では主に響板にしか使わない木を支柱やボディにも使うというのは、単純に贅沢な感じではありますね。

さて、気になったのはグランドピアノの場合は290、225、200、170、という4モデルで現在も100年以上前の設計をほぼそのまま踏襲していて、「これはつまり100年前にこれ以上手の加えようがないところまで改良され尽くしたということ」と主張していますが、その一方で、注目すべき点もあるのです。
というのも、近年はベーゼンドルファーのラインナップにも無視できない変化があらわれてきており、この4モデルの間に位置するモデル、つまり280、214、185はまったくの新設計のモデルということはあまり語られません。

マロニエ君が好きだった275なども、すでにカタログからは姿を消してしまっています。
上記の言葉通りであるならば、「これ以上手の加えようがないところまで改良され尽くした」ピアノを、敢えて新設計のピアノにモデルチェンジするのは矛盾している気がしますが、やはりそこにはいろいろな諸事情があるのだろうと思います。

それは、一説には時代が求めるだけのパワーの増強と、同時に、さしものベーゼンドルファーといえどもコストダウンという、時代が要求する二つの目標を達成するという狙いがあるとも聞こえてきます。
だとしたら、残りの4タイプもこの先、順次生まれ変わるということが予想されますし、今のラインナップはこの点でいかにも不自然で、大きい方から旧・新・旧・新・旧・新・旧というアーキテクチュアの異なるピアノが交互に並んでいるのはなんとも不思議で、これではお客さんも単純にサイズで決めるわけにはいかなくなり、大いに戸惑うのではないかと思います。

マロニエ君からすれば、サイズよりも設計理念の違いのほうがよほど大問題という気がしますが。
2011/11/19 Sat. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

タイルの怪 

我が家の風呂場(洗い場)の床は、滑り止め用の、目の荒いタイルが貼られているのですが、このところいやにこれが滑りやすくなり、家庭内で起こる事故では風呂場が一番危険などという話も聞くと、困ったことになったと思いつつ、ひじょうに注意しながら過ごしていました。

家族はもちろん、マロニエ君自身だって、硬いタイルの上で転倒などすれば、へたをすると笑い事では済まないことになるでしょう。
一度はその対策として、何か良い滑り止め剤のようなものはないかとホームセンターに言って尋ねてみたことがありますが、該当する商品はない由で、マットや簀の子を敷く以外に目覚ましい効果を上げるような方法はありませんでした。

というわけで、家人ともよくよく気をつけるように注意の上にも注意するしかなく、やむなくそのままの状態で過ごしてましたが、マットを外すと滑りがいよいよ甚だしくなっているようで、危険なことこの上なく、これはアクシデントが起こってからでは遅いので、なんとかしなくてはというのがこのところの悩みの種でした。

それにしても滑り止め用タイルにもかかわらず、なぜこんなことになってしまったのか。
使っているうちにすり減って摩擦係数が低下しているのかとも思いましたが、それにしてもここまで滑りやすいのは尋常ではないという気配で、氷の上といえばいささか大げさですが、それに近いものを感じていました。

そんな折も折、風呂掃除をしている家人がマロニエ君を呼びに部屋に戻ってきました。
なんだかお風呂の床にヘンなものがある…というのです。

急いで行ってみると、そこにはタイル用の掃除器具で掻き集められた、不気味な半透明のゼリー状のようなものがたしかにありました。
この正体不明の物質が何であるかがわからず、天井からなにからずいぶん見てみたとのことですが、ついにわからずマロニエ君を呼びに来たということでした。

たしかに、普通にお風呂を使っている限りでは、あるはずのないものでした。
それからあちこちの捜索が始まりましたが、なかなか突き止められず、あきらめかけたとき「もしや…」という思いが頭をよぎり、ためしにリンスの容器を見ていると、なんとその下部がちいさくヒビ割れていて、そこからリンスが少しずつ漏れ出ていることがわかったのです。

最近は詰め替え用を補充するばかりで、容器自体はかなり古くなっていたこともあったようです。
それで、床の滑りはこれの仕業だということがわかりました。

まあ、そりゃあそうでしょう!
なにしろリンスなのですから、それがいつも流れ出ていれば床が滑るのは当然です。

その後は、すこしおさまった気はするものの、まだまだ安全とはいきません。
よほど効果の高いリンスだったのか、少々のことでは動じないほどしっとりツルツルで、これをギシギシガサガサにするにはどうしたものかと考え込んでいるところです。
2011/11/18 Fri. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

リヒャルトへの耽溺 

音楽は他の芸術にくらべると、もっとも悪徳の少ないジャンルだと何かで読んだことがあります。

人が音楽から受ける刺激は直接的なのに抽象性というフィルターを通していて、とりわけ文学のように悪徳の花が咲き乱れるということは、ゼロではないにしても、きわめて少なく、いわば音楽には善玉コレステロールが多いと言うことでしょうか。

でも中には例外があるのであって、その際たるものはヴァーグナーの類かもしれないし、いったんこの広大な海に溺れた者は容易なことでは健全な陸に帰ってくることは稀なようです。
そして最近ちょっとマロニエ君が溺れ気味なのがリヒャルト・シュトラウスなのです。

過去にも何度かこれにはハマった時期があって、オペラなども大作がたくさんあるし、いくつかの管弦楽の名曲、とりわけ交響詩やピアノの入るブルレスケ、あるいは4つの最後の歌などは、まさに豪華絢爛と頽廃の極みで、そのまるで腐りかけの、最も甘味の増した果物のような怪しくも豪奢な響きは、これはもはや悪徳の領域に頭だか片足だかを突っ込んでいるがごとくです。

そして最近、このブログにも書きましたがブロムシュテット/ドレスデン・シュターツカペレによる《ツァラトゥストラはかく語りき》と《ドン・ファン》を聴くようになって、すっかりリヒャルト病が再発してしまいました。
とくに今回は演奏からくる魅力が加わっているために、いっそう重症となっている気配です。

リヒャルト・シュトラウスはとりわけドイツ系の多くの指揮者が手がけていますから、いずれもキチンとした演奏ではありましたが、カラヤンのような人はどうしてもその音楽の聴かせどころをかいつまんでデラックスに強調するし、ベームなどはむしろこの病んだ世界を四角四面に演奏しすぎる印象がありました。
アバドなどはその点では、はるかに柔軟で現代的な鮮やかさをもって聴かせたのは必然でしょう。

ブロムシュテットの演奏を聴いてわかったことは、リヒャルト・シュトラウスだからといって世紀末的に官能的に崩したような演奏をせず、むしろ理詰めの整然たる演奏の中から見え隠れする頽廃であるほうが、作品の凄味みたいなものが倍増するということです。
いかにもドイツ音楽然とした、組織立って容赦なく押しまくるような演奏をしたときに出てくるその怪しい香りは、気分が高揚しながらも神経のどこかが麻痺していくようです。

リヒャルト・シュトラウスの管弦楽作品はいずれもオーケストラの性能を極限まで使い切るようなところがあり、《ツァラトゥストラ》の各所での分厚い官能的響きは、それだけで平常心が奪い取られていくようですし、また《ドン・ファン》のような作品は、音楽を聴いているというよりも、むしろもっと別の体験をしているような錯覚に陥ります。
例えばポルシェや重量級のメルセデスでアウトバーンを超高速で疾走しながら、じりじり迫ってくるアルプスの高い峰などを眺めているような、非常に独善的かつファナスティックな快楽に身を浸すようです。

ドイツものというのは音楽に限りませんが、厳格な土台の上に、快楽主義的な狂気が真面目な顔をしながら踊っているようで、いったんそこに落ち込むと、容易なことでは抜け出せない恐ろしさがあるように感じることがあります。
逆説的に見ると、ドイツこそは根底のところに最も不健全なものを隠し持った国かもしれない…ちょっとそんな気がしてくるのです。
2011/11/17 Thu. 02:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

H&M vs UNIQLO 

マロニエ君は着るものにあまり凝るほうではありませんし、ましてや高級ブランド品などには興味もありません。
もちろん普通に身だしなみは整えておきたいと思いますが、これに高いお金をかける気などはなく、ユニクロなども以前はよく利用していたくちでした。
「以前は」というのは、近ごろのユニクロはどこか変質してしまったようで、以前のような輝きというか魅力がなくなってしまった印象があります。
だいたい秋になると、この業界は商品もいろいろ増えて多彩になり、店内は賑やかになるものですが、近年は全体的な種類もずいぶん整理されてしまったようだし、定番商品でも生地が確実に薄くペラペラになり、あきらかにコストダウンしているのがわかります。

この会社、海外進出など企業としての肥大化にはえらくご執心のようで、どこそこに最大級の店舗がオープンしたのどうのという話題は盛んに報じられますが、商売の基本となる肝心の魅力ある商品作りとか、良いモノを安く提供するという従来のガッツは多少失ってしまったような感じで、このところすっかり関心を失ってしまっていました。
たまに店をのぞいても、要するにこれという欲しいモノがないわけです。

そこで、ちかごろ話題のH&MとかZARAとかいう、同種の海外の低価格ブランドとはどんなものか、いっぺん偵察に行ってみようと思い立ちました。

そこで、こういう海外ブランドが集中する新エリアに行ってみましたが、土日の混雑を避けて、あえて平日の夕方に行ってみました。

結果からいうと、まったく期待に反するもので、ガッカリでした。
最初に入ったのがH&Mでしたが、店内に入ってパッと見渡したときに、まず全体に雑な感じを受けましたが、こういう一瞬の印象というのはピアノ選びでもそうですが、けっきょく一番確かな直感なんですね。
この「雑」という第一印象は、やはり間違っていませんでしたね。

どれも手触りが粗く、ごわごわチクチクするようなものばかりだし、デザイン的にもユニクロとは違うヨーロッパ的な何かがあるのかと思っていたら、どれもこれも大味大雑把なだけで、ほとんどなんの魅力を感じません。
商品もさっき段ボールから引っぱりだしただけといったような、シワがあったり型くずれしていたりで、縫製もかなり粗い仕事だと思います。
だいいち素材が見るからに低級品で、さすがにこれにはイヤになりました。

しかも値段は高くはないとは言っても、ユニクロよりは完全にワンランク高いわけで、そうなるとマロニエ君にとっては何の説得力もない。他のZARAとか、あとは名前も忘れましたが、他のブランドも見てみましたが大同小異で、どこもやたらとひとつの店舗が大きいばかりで、欲しいものもなく、歩き回るだけでも疲れました。

同じ施設内にユニクロもあるので試しに入ってみたら、なんと、そこにはまだしも一定のクオリティや美しさがあって、これはどういうことか?と思いました。
現在のコストダウン状態をもってしても、こっちのほうがいいと感じたのは事実です。
とくに外国の安物というのは、独特の容赦ない厳しさが露わで、「貧乏人はこれでいいんだ!」と暗に言われているようで、しだいにテンションが下がっていくのが自分でもわかります。
その点はやはりユニクロは日本のものなので、安くても明るいおもてなし感があり、商品がきれいで、繊細で、清潔で、心が落ち着きますね。

果たしてネズミの嫁入りではありませんが、他流試合後の消去法の結果、やっぱりユニクロのほうがよかったんだと思いました。
2011/11/16 Wed. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

ハンマーのサイズ 

日曜は、知り合いのピアノ工房でディアパソンのリニューアルが完成したということでお招きを受け、遊びに行きました。

さらには、今年の9月に帰朝された福岡出身の若いピアニストの方がおられるのですが、その方がこのHPを見てくださっている由で、以前からメールのやり取りなどをしていたところ、教室用のグランドをお探しとのことで、ちょうど同じ日に同じ工房へ行くことになり、現地ではじめてお会いすることになりました。

ご両親といっしょに一足先に来られていましたが、目指すピアノはとても気に入られたような気配でした。
ほんの少しでしたがバッハ、ベートーヴェン、ブラームスなどを弾かれていましたが、これから先、教えることやコンサートなど、徐々にその活動範囲を広げて行かれるようです。
来年はリサイタルなどもされるようで、新しい才能が楽しみです。

さて、ディアパソンはこの工房らしく予定通りにつつがなく仕上がっているようでした。
弾いてみて、何かがもう一つという印象もなくはなかったものの、曰く、弦を張り替えて間もないことと、新品ハンマーを整音をしたばかりなので、もう少し弾き込まれて馴染んでいくとまた変わってくるとのことでした。
開花を待つばかりの芍薬の花のようなピアノでした。

驚いたのは、ここにある非売品のカワイの古いセミコンの変身ぶりでした。
いぜんから柔らかく懐の深い響きで美しい音を出すピアノでしたが、ここのご主人によれば、自分の勉強や試行錯誤のためにハンマーをいじりすぎたとのことでした。
というのも、商品のピアノではそうそう思い切ったことはできないので、そういうことは非売品の自分のピアノでいろいろな試みや勉強をしておられるわけです。そして勉強というのは「壊してもいい」というような限界にまで迫らないことには本当の意味での有益な経験にはならないと思われます。

このピアノのハンマーは、以前一度新品に交換されて、それから何年も経っていなかったのですが、その間にあれこれと整音の実験などを繰り返されたようで、それでついにハンマーの寿命が尽きたようでした。

そのぶん、そのハンマー一式からここのご主人は多くのことを学ばれたようで、新しいハンマーをつけたカワイはまさに一変していて、弾くなりアッと思うほど驚きました。
いままでのやわらかさは土台にあるものの、あきらかに艶と輪郭のある、色っぽい音を出すように生まれ変わっていました。

ハンマーはヘッドの大きさ、シャンクの材質などによって重さが異なり、それによって音色はもちろん、パワー感や音色、タッチの重さまであらゆることが変わってくるようで、そこは「何を求めるか」によって使うハンマーも微妙に変わってくるようです。

細やかなタッチやコントロール性を重視するのであれば、若干小さめ軽めのハンマーを使うことで弾きやすさを実現する、あるいは大型のハンマーならより力強い深い音が出せるというメリットもあるようで、そのへんの判断は実に悩ましい選択のようです。
車のタイヤやオイルのようにパッと交換できならいいでしょうが、ピアノのハンマーは一度取り付けると、普通は10年20年という長い付き合いになりますし、しかもある程度ピアノの個性も決定するので、これは重大です。

スタインウェイなどでも、ここ最近は演奏の俊敏性を優先させて小さめのハンマーが使われているといわれますが、たしかに昔のようなパワーと深さみたいなものはありません。
もちろんピアノの性格は他のいろいろな要素の集積によって決定されることで、たんにハンマーの大小だけでは片づけられることではありませんが、すくなくともハンマーのサイズもその要素のひとつであることは間違いないようです。
2011/11/15 Tue. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

ふたつの未完成 

ファツィオリの音を聴く目的で購入したトリフォノフのショパンのCDでしたが、ショパンやチャイコフスキーのコンクールであれだけの成績をおさめた人である以上、きっと何かしらこれだというものがあるのだろうと思い、何度も繰り返し聴きましたが(おそらく10回以上)、どう好意的に聴いても、虚心に気持ちを切り替えて接しても、ついに何も納得させられるものが出てこない、まことに不思議なCDでした。

この人の演奏にはこれといったスタイルも筋目もなく、作品への尊敬の念も感じられません。
ロシアには普通にごろごろいそうなピアノの学生のひとりのようにしか思えないし、そこへ輪をかけたようにファツィオリの音にも一流の楽器がそれぞれに持っているところの格調やオーラがないしで、ダブルパンチといった印象でした。

ショパンコンクールに入賞直後の人というのは、ショパンを弾かせればとりあえずビシッと立派に弾くものですが、この人はなにかちょっと違いますね。体がしっかり覚え込んでいるはずの作品においても、必要な詩情とか音楽が織りなすドラマの完成度がまったく感じられず、コンクールを受けるために準備した課題の域を出ず、アスリート的な気配ばかりを感じます。少なくとも音楽として作品に奏者が共感しているものが感じられないし、内から湧き出る情感がない。
解釈もどこか中途半端で、いわゆる正当なものがこの人の基底に流れているとは思えず、こういう人が名だたるコンクールの上位入賞や優勝をしたという事実が、なんとも釈然としない気分になりました。

あんまりこればかり聴いていると、味覚がヘンになってくるようで、なにか気に入った美味しいもので口直しをしたい気分になりましたが、咄嗟には思いつかず、差し当たりすぐ手近にある関本昌平のショパンリサイタルをかけました。

するとどうでしょう。
どんよりと続いた曇天の空がいっぺんに晴れわたったような、思わず両手を広げて深呼吸したくなるような爽快感が広がりました。
関本氏は2005年のショパンでは4位の人で、これは成績としてはトリフォノフよりひとつ下です。
しかし演奏はまことに見事で、折目角目がきちんとしているのに、密度の高い燃焼感が感じられて、聴くにつけその充実した演奏に乗せられてしまい、日本人は本当に素晴らしいんだなあと思います。

ピアノはヤマハのひとつ前のモデルであるCFIIISですが、これがまたよほど調整も良かったのか、ファツィオリとは打って変わって、聴いていていかにもスムーズで洗練された心地よいピアノでした。
上品で、音のバランスもよく、一本の筋も通っています。
音楽性については、むしろ今後の課題だと思っていたヤマハでしたが、このときばかりはその点も非常に優秀だと思いました。人間、どうしても相対的な印象は大きいです。
やはりコンサートピアノはこのように、それを聴く聴衆の耳に美しく整ったものでなくてはダメで、音色や響きをどうこういうのはそれからのことだと思います。

ファツィオリはスタインウェイ一辺倒のピアノの業界に一石を投じたという点では、大変な意義があったと思いますし、それは並大抵のことではなかったことでしょう。とくにパオロさんという創業者にして社長の情熱には心から尊敬の念を覚えますが、現在のピアノの評価としてはマロニエ君はちょっとまだ納得いかないものがあるのも事実です。

非常に念入りに製作された高級ピアノというのはわかりますが、要するにそれが音楽として空間に鳴り響いたときにどれだけ聴く人を酔わせることができるか、これが楽器としての最終的な目的であり価値だと思います。

その点でファツィオリはいろいろな個別の要素は優れているかもしれないけれども、今はまだ過渡期というべきで、それらが有機的に統合されていないと感じるのです。
今の段階では、とても良くできているんだろうけれども、要は「街の工房の音」であって、完成されたメーカーの個性を問うには、まだまだ乗り越えるべきものが多くあるような気がします。

そういうわけで、トリフォノフとファツィオリはなんだか妙な共通点があると思いました。
2011/11/13 Sun. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

最新のファツィオリ 

またしてもヘンなCDの買い方をしてしまいました。

ダニイル・トリフォノフのショパンで、先ごろデッカから発売されている新譜です。
この人は昨年のショパンコンクールで3位になり、今年のチャイコフスキーではついに優勝まで果たしたロシアの青年。これまでに接したコンクールのCDや映像、あるいはネットで見ることの出来る演奏などに幾度か触れたところでは、全くマロニエ君の興味をそそる人ではなかったものの、このCDの購入動機は専ら使われたピアノにありました。

そのピアノはファツィオリで、前半が最大モデルのF308、後半がF278という二つのピアノが使われているし、録音は一流レベルのデッカで、いずれも昨年の録音です。
トリフォノフはファツィオリ社がいま最も期待をかけるアーティストで、その彼のメジャーレーベルのデビューアルバムともなれば最高の楽器を準備していると考えられ、いわば「ファツィオリの今の音」を聴いてみるには最良のCDだろうと判断したわけです。
ただしかし、最近のCD製作はコストダウンが横行しているらしく、このアルバムもふたつのコンサートからライブ録音されているようでした。

第1曲のロンドの出だしからして、いやに音がデッドで、ホールはおろか、最近はスタジオでのセッション録音でもこんな響きのない音は珍しいので、まずこの点でのけぞりました。しかし、その分ピアノの音はより克明にわかるというもので、これはこれで目的は達すると考えることにしました。

音に関しては、今をときめくファツィオリで、さらには国際コンクールなども経験し、いよいよ佳境に入っていることだろうと思ったのですが、予想に反して不思議なくらい惹きつけるところがない。
だいいち音があまり美しくないし、深みがなく、楽器としての晴れやかさがない。
倍音にもこだわったピアノと聞いていますが、それが有効に効果を上げているようにも聞こえないし、むしろ寂寞とした感じの音に聞こえたのは意外でした。
なにより音が詰まったようで、ちっとも歌わないのがもどかしく、「イタリアのベルカントの音」なんて喩えられますが、はぁ…という印象です。
音そのものより、楽器の鳴りに抜けと軽さがなく、むしろ鳴り方は重い印象でした。

元来イタリアのものは、どんなものでも光りに満ちて色彩的というのが相場ですが、その点でも肩すかしをくらったようでした。F308などは、奥行きが3m以上もある巨大さは一体何のため?と思うほど、音楽的迫力も豊かさも感じません。
どことなく無理に音を出しているという印象で、その点ではむしろF278のほうが多少の元気さとバランス感もあり、いくらか良い感じですが。

ファツィオリは、新興メーカーにもかかわらず高級ブランドイメージの確立には成功しているようですが、その音はあまり個性的とは言えず、むしろ今風の優等生タイプにしか聞こえませんでした。
以前、マロニエ君はファツィオリはどこかヤマハに似ている、いわばイタリア国籍の高級ヤマハみたいなもの、という意味のことを書いた覚えがありますが、今回もほぼおなじように感じました。

そして皮肉にも、そのヤマハのほうが現在ではCFXによってうんと新しい境地を切り開いたと思います。
少なくともCFXには今のヤマハでなくては作れない、ピアノの新しい個性があるけれども、どうもファツィオリのピアノにはこれだという明瞭な何かを感じないのです。従ってヤマハといっても昔のヤマハに似ているというべきでしょう。

聞いた話では、ファツィオリは間近ではとても大きくわななくように鳴るのだそうですが、それがどうも遠くに飛ばないのかもしれません。
だから、このピアノに直接触れてみた人は、ある種の要素には何らかの感激を覚えるのかもしれませんが、普通に鑑賞者として距離をおいて、演奏される音だけを聴く限りにおいては、どこがいいのやらサッパリわからないところがあるのだろうと思います。

もしかしたらマロニエ君の耳と感性が及ばないのかもしれませんから、それなら誰かにファツィオリの魅力はなへんにあるかをぜひとも教えてほしいものです。
2011/11/12 Sat. 02:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

博多駅地下駐車場 

今年の春、新装成った博多駅では、大半が建て替えられ、その商業エリアは大きく増強されて大変な話題と賑わいを見せたところですが、その新駅ビルがもたらす人の流れは、多少は落ち着いたもののいまだに続いているようです。

ただしマロニエ君から見ると、あれだけ大がかりな駅&商業エリアの拡充・オープンに対して、駐車場がまったく不充分と言わざるを得ず、駅を駅として使う人にはそれでいいかもしれませんが、電車やバス以外で、つまりは車で博多駅に行く側にしてみれば、この駅に相応しい駐車場設備がないのが大いなる疑問でした。

やむなく新幹線のターミナル上にある古い屋上駐車場や、近隣の民間の時間貸しに頼らざるを得ず、駅ターミナルへダイレクトにアクセスできるような、中心となるべき大駐車場がないというのは、現代の新駅の構想として一体どういう考えなのかと思っていまいます。

以前ウワサでは地下駐車場が出来ると聞いていましたが、ついにそういうものは見あたらないまま春の開業を迎えたわけでした。後から聞いた話では、地下駐車場は建造中で完成が遅れる由で、そこに少しばかりの望みを繋いでいました。

その地下駐車場が半年遅れでこの秋に完成し、ずいぶん待たされたと思いつつ先日行ってみたのですが、なんとも気の抜けるような規模の小さな駐車場でしかなく、しかもはじめの1時間が500円、以降30分ごとに250円と、天神よりも料金が高いのには驚かされました。

おまけに頭上の商業施設とのサービス連携が一切なく、どれだけ飲み食いや買い物をしようとも、委細構わず額面通りの駐車代が要求されるのは二重の驚きでした。

あとから思い返せば、そういう理由からというのが了解できましたが、一番便利なはずのこの駐車場はしかしガラ空きだったのは、はじめは大いに意外な気がしたものです。

それと少々煩わしく感じたのは、駐車場の規模に対して、異様に係員の数が多く、赤い懐中電灯みたいな棒を手に持った男性がそこここに立って、いちいちあっちだこっちだとその棒を振りまわしてガチガチに誘導してくることでした。
普通、地下駐車場などは表示された標識を見ながら進んで駐車するのが普通のことなのに、まるで飲酒運転の検問のように制服を着た大勢の人達から次々に手招きをされるのは、なんだか異様な感じでした。

いまどき一番高いのは人件費で、ファミレスなどはこれをセーブするために、そこで働く人は気の毒なほど少ない人数で広い店を担当させられるようなご時世ですが、この駐車場ときたら、たったあれっぽっちのサイズにあんなにたくさんの誘導員がいるのは、よほど別に何かの理由があるのかと思われます。

さらに納得がいかなかったのは、帰りに車に戻ろうとして場内を歩き出したとたん、数人の係員が駈け寄ってきて、壁際の「歩道」を歩くように、頭を下げながらもほとんど強制的にそうさせる点でした。
そこはいちおうタクシーの乗り場を兼ねてはいたものの、車はほとんどいなくてあたりは深閑としているにもかかわらず、自分の車まで自由に歩くこともできないのは一体何なんなのか!?と思いましたね。

テロの警戒?
…はてさて、まるでそこには原子力施設でもあるかのごとき厳重さだったのは、今だに首を傾げます。
要するにどの角度から見ても快適な施設ではないことは確かで、よほどのことでもない限り、たぶんもう行くことはないと思いますが。
2011/11/10 Thu. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノ五重奏の夕べ 

福銀ホールで、珍しいコンサートに行きました。
3人の地元のピアニストがウィーン・ラズモフスキー四重奏団を相手に、それぞれドヴォルザーク、シューマン、ブラームスのピアノ五重奏を演奏するというもので、この3曲はこの形体で演奏できるまさに三大名曲といってもいいもので、いわばピアノ五重奏曲の三役揃い踏みといったところでしょう。

お三方ともみなさんよく練習されており、とても整った演奏だったと思います。
福銀ホールの良好な音響と相まって充実したコンサートだと思いましたが、強いて言うなら、このカルテットの演奏は達者だけれども多少荒っぽく強引な面があり、それぞれのピアニストと本当に協調的な演奏をしたとは思えませんでした。
とくに前半のドヴォルザーク、シューマンはそれぞれに良いところがあったのですが、ピアノはそれほど強い指をした演奏というわけでもなかったところ、弦の4人がやや手荒とも言える調子で音楽を押し進める点があったのは、いささか残念でした。

音量の点でもヴァイオリンの二人などは、まるでソロのように遠慮無く鳴らしまくったのが気に掛かり、ピアノが弦楽器の陰に隠れんばかりになっていたのは、自信の表れかもしれませんが少々やりすぎでしょう。
多少指導的な気分も働いての結果かもしれませんが、音楽…わけても室内楽はバランスが崩れると聴く側も快適ではないので、いやしくもウィーンを名乗るのであればそのあたりはもう少し配慮が欲しいものです。
どうかすると弦の音だけで少々うるさいぐらいになる瞬間がありましたが、それでも全体としては歯切れ良くスイスイと前進する佳演だったと思います。

この夜の白眉は、後半の管谷玲子さんのピアノによるブラームスのピアノ五重奏曲で、これは実に見事でした。
テクニックも音楽性も他を圧倒するものがあり、ブラームスの情感をたっぷりと深いところから味わい尽くせる演奏で、これだけの演奏はめったにないものです。
思いがけない感銘を受けることになりました。

とりわけ感心したのは、自己表出よりも終始徹底して音楽に奉仕する演奏家としての謙虚な姿勢が明確で、その深みのある雄弁なピアノにはさすがのカルテットもやや襟を正さざるを得なかったようで、より音楽的な姿勢を強めて演奏していたと思います。この曲ではまったく自然なかたちでピアノが中心に座っていました。
管谷さんのピアノはやわらかな楷書ように清冽で、作品を広い視点から余裕を持って、確かな眼力によって捉えられていると言えるでしょう。
けっして目の前のことに気をとられて全体を見失うことがなく、常に腰が座っていて、しかも必要な場所でのしっかりとしたメリハリもある演奏には思わず唸りました。

ピアノの音色にもこの方独特のものがあって、芯があるのにやわらかい温もりがあって、それがいよいよブラームスの音楽を分厚く豊かに表現するのに貢献していたのは間違いありません。

つい音楽の中に引き込まれて集中していたのでしょう、この曲はほんらい長い曲なのですが、実際よりうんと短く感じてしまいました。逆に退屈すると、短い曲でも長く感じるものです。

終わってみれば、固まったように聴き入っており、こういう演奏に接することはなかなかありません。
本当に才能のある、器のある方だと思いました。

不満タラタラな気分を引きずりながら帰途につくことの多いコンサートですが、めずらしく良い音楽を堪能した気分で、心地よく帰宅することが出来ました。
2011/11/09 Wed. 02:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピリスの証言 

マロニエ君の部屋のNo.70で書いた「フランスの好み」に関連することで、興味深い文章を目にしました。

たまたま手に取った2年ほど前の音楽の友ですが、その中にマリア・ジョアン・ピリスのインタビュー記事があり、このころ彼女は「後期ショパン作品集」をCDリリースしたばかりの時期でした。
ピリスは以前からヤマハを好んで弾くピアニストの一人であるにもかかわらず、その最新のCDはどういうわけかスタインウェイで録音されており、とくにスタインウェイが好みじゃないということでもないようです。
そして、ヤマハとスタインウェイは、状況によって使い分けているといった印象を受けました。

インタビューでは自分がコンサートに使用するピアノのことにも触れられていましたが、それによると、やはり…と思わせられるのは、ヨーロッパは本当に状態の悪いピアノが多いのだそうで、それは楽器を持ち歩くことのできないピアニストにとっては尽きない悩みであり、頭の痛い問題であるようでした。
とりわけ小柄で手の小さなピリスの場合、状態の悪いピアノと格闘することは普通のピアニスト以上の苦痛の種になるようです。

ヤマハがとくに高い評価を得ているらしいと推察できるコメントとしては、そんなヨーロッパでは調律師の存在がひじょうに大きく、ヤマハは素晴らしいテクニシャンを擁しているから、この点で頼りにしているということでした。
やはり日本人調律師のレベルは世界第一級のようですし、同時に痒いところに手が届くようなサービスで顧客の評価を高めるやり方は、いかにも日本人的なやり方だと思われました。

面白い意見だったのは、日本でのコンサートでは、ホールのアコースティックがとても素晴らしいので、ヤマハのピアノを好んで使っているのだそうで、ヤマハで何も問題を感じないと発言しているわけですが、その微妙なニュアンスが印象的でした。

それに対して、ヨーロッパのホールはアコースティックがひじょうに悪い会場が多いのだそうで、そういう場所ではより大きな音の出るスタインウェイを使わざるを得ないということをはっきり言っています。
これはつまり、ヤマハは好ましいし技術者も素晴らしいが、たくましさがないということになるのでしょうか。

ピリスは今年のメンデルスゾーン音楽祭でも、ベートーヴェンの第3協奏曲をシャイー指揮のゲヴァントハウス管弦楽団と弾いていますが、ピアノはまたもスタインウェイを使っていました。

少なくともピリスほどのヤマハ愛好者でも、コンサートやレコーディングの現場ではまだ全面的な信頼は寄せていないということのようにも読み取れます。
ヤマハのコンサートグランド(すくなくともCFIIISまで)はこぢんまりとした美しさはあるのの、スタインウェイのようなスケール感や壮麗な音響特性はもうひとつ不足するのでしょう。
同時に、ヤマハを好むフランス人などの演奏を聴いていると、スタインウェイの音色ではときにあまりにも絢爛としすぎて、楽曲や演奏の内面に潜む綾のような部分を描き出すような場面で、やや派手すぎると感じる局面があることもわかるのです。
このことは、オールマイティを誇るスタインウェイの特性の中で、数少ない欠点と言うべき部分なのかもしれません。

音楽を大きく壮麗に語りたい場面、あるいは音響的で強い表現を求める場面では、スタインウェイは他の追従を許さない名器ですが、逆に、華奢で傷つきやすい、私的心情をこまやかに表現したい向きには、日本の製品のもつきめの細かさが有利となるのかもしれません。
2011/11/08 Tue. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

鈍感は病気 

ちょっと思いがけない話を聞いて、なるほど!と思いました。

ある人が人間の神経のありようを書いた本(どんなものか知りませんが)を読んでいると、俗に言う「鈍感な人」というのは、多少は性格的なものもあるにしても、専門的に見れば「病気」なのだそうです。

あまりにも神経過敏で、いつも気分がピリピリ張りつめているのも、これはこれで一種の病気でいけませんが、その逆も然りで、周りに迷惑とストレスを撒き散らします。
何事も過不足なくあらねばならないというわけでしょう。
神経過敏の真逆に位置する鈍感は、本来あるべき神経がスポッと抜け落ちているのだそうで、これは手の打ちようがない。

どちらかというと神経の細いほうのマロニエ君としては、一線を越えた鈍感な人は、眼前に立ちはだかる分厚い壁のように圧迫を感じて苦手です。
そしてこの世に「感じないということほど強いものはない」と思うに至っていますが、本当にそれは最高に無敵です。なんといっても本人は至って平穏で、かつそれがもっとも楽で自然な状態なんですから。

裏を返せば「感じる」ということは、これほど弱くて疲れるものもないわけです。

この鈍感な中にも比較的無害なタイプもあるとは思いますが、経験的に大半は有害です。
日常のなんでもない場面で、この鈍感さの仕業によってエッ?と思うようなことを次々に言ったりします。はじめはイヤミでも言われているのかと思いましたが、どう見てもその様子にこれという意志や悪意はなく、ごく自然に無邪気に言っていることがわかり、安心するような、よけい疲れるような…。

なにしろ本人に悪意や自覚がないもんだから、ずんずん無遠慮に踏み込んでくるし、そこには用心もためらいもブレーキも効かない。そればかりか、どうかするとむしろ大真面目だったりする。
はじめは、よほど田舎の出だろうかとも疑ったりしますが、出身地などをさりげなく聞いてみてもさにあらずで、…やはりただの性格だろうかと思うしかありません。
どうも、いろんな折にあれこれと軋轢を生んでいるらしく、そりゃあそうだろう!と思いますが、それを言うわけにもいきません。

こういう人達は、普通の社会人なら自然的にコントロールするようなことでも、それができないため、すぐに言動に地が出てしまいます。本人は普通の振る舞いのつもりでも、相手はかなりストレスを受けたりする。
場合によっては、馬鹿話や冗談さえも通じず、まったくちがうニュアンスに捉えたりするため、呆然とすることしばしばで、こういう人の前ではうかうかおもしろい会話もできません。

いらいそのタイプの人と接触するときは、こちらが注意するべく身構えるようになりましたが、それがつまり病気なんだと思うと、一気に納得したというか、少し気が楽になったような感じもします。
必要な神経の一部が欠落欠損しているということになれば、それをひとつのハンディと見て接することもできるかもしれません。

ただし、精神領域の難しいところは、表向きはごく普通の健康な人ですから、そういう人にハンディの認識を持つということは理屈で言うほど簡単ではないのです。
言葉はそれ自体が意味を持ち、人はその言葉に反応するから、思わずその意味で受け止めてしまうわけで、それを度外視して、受け止める側の内面で処理をするのは、現実は難しいだろうと思います。

しかし、それでも「病気」だという認識は、ムッと来たときのひとつの自分なりの逃げ道が出来たようで、ないよりマシかとは思います。
2011/11/07 Mon. 01:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

自分だけじゃない 

今どきの歌の歌詞のようなタイトルですが、定例会では、皆さんの演奏ぶりをつぶさに見ていると、いつも落ち着いて平然と弾いているように見える方でも、実際はけっこう緊張しておられる様子がわかったのは、いまさらみたいな発見でした。

人前演奏が「超」のつく苦手なマロニエ君としては、自分が弾くところを見られるのが相当イヤなものだから、これまでは人の演奏もまじまじと見てはいけないもの、じっと見るのは失礼で、まるで辛辣な行為のように勝手に思い込んでしまっていたところがあって、実はこれまであまり凝視することはできるだけしなかったのです。

ところが先日の定例会では、ピアノとの距離の問題か、光りの加減か、とにかくごく自然にそれが目に入ってしまい、つい細かいことが見えてしまったというわけです。

すると、一見普通で冷静のように見えても、指先がずいぶん震えていたり、足までわなわなしていたりと、かなりの緊張に襲われている様子がわかりましたし、何度も聞いている人の同じ曲の演奏でも、過去に何度もスイスイと弾けていた人が、そのときに限って崩れたりすることもわかり、ははあ、みんなそうなのか!と思いましたね。

というのも、マロニエ君など、どんなに家ではまあまあ弾ける(もちろん自分なりに)ようになったと思っても、人前というのは特に個人的にそれが苦手ということもあり、想定外のいろんなハプニングに見舞われて、とうてい思ったようには行かないというのが現実なのです。

もちろんミスなどするのは自宅でも毎度のことですけれども、そんな中にも通常の自分ならまずミスしない部分というのも、曲の中にところどころはあるわけですが、そんな大丈夫なはずの部分まで、人前で弾くとまるで悪魔がパッと微笑むようにミスってしまったりで、あれはなんなのかと思います。
そして、そういう思いがけないミスに自分がショックを受けて、更なるパニック連鎖の引き金になるんですね。

それと、崩れてしまう大きな原因のひとつは、音楽というものが宿命的に一発勝負という非情な世界に投げ込まれるからであって、どんなに別のところでそれなりにできたとしても、定められた場所と時間でできなければ、ハイそれでお終いという性質を持っています。それがわかっているものだから、またいやが上にも緊張を誘い込むのだろうと思います。
そういった、音楽が本源的に持っている性質は、プロはもちろん、我々のようなシロウトであっても基本的に同じだと思います。

そういういくつかの要素があれこれと絡み合い交錯することで緊張を誘発し、動かない指はいよいよ固まり、頭は飛んでしまうというわけです。
こうなると、もう一切を放棄して途中で止めたくなるし、こんな情けないヘンなことになるのは自分だけじゃないか?と内心思っていたのですが、その点で言うと、へえ、ほかの人もそうなんだ…ということが少しわかってきて、それで嬉しかったと言っちゃ悪いけれども、なんだか安心したことは事実です。

マロニエ君はちょっとしたことに過剰反応し、すぐにマイナスに影響される面があって、人前というのはもちろんですが、自宅とは照明の感じが違って、他所では鍵盤がパーッと明るく見えてしまうだけでも緊張して、たちまち勘が狂って崩れてしまいます。
小さな事に動じず、どっかり弾けたらどんなにいいかと思いますが、それは夢のまた夢です。
2011/11/06 Sun. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

麗しきディアパソン 

文化の日は、ピアノクラブの定例会で、メンバーの方所有のプライヴェートスタジオで行われました。
あいかわらず素晴らしい会場で、これが個人の空間というのは何度行っても驚かされます。

ピアノはディアパソンの新型のDR500という奥行き211センチのモデルで、ヤマハでいうと6サイズ、スタインウェイではB型という、いわばグランドピアノ設計の黄金分割ともいえるサイズです。

数ヶ月前に弾かせていただいたときにもその上品で美しい音色、さらには会場の音響の素晴らしさとのマッチングには深く感銘したものでした。
しかし、今だから言うと、強いていうならピアノのパワーはもう一つあればという印象が残ったことを告白します。

その後、調律師さんを変更されて調整を入れられ、さらに定例会の2日前に再度その方によって調律されたということを聞きましたが、果たしてそのピアノ、目を見張るほどの大きな変化を遂げていました。
音色に豊かな色艶が加わり、好ましい芯が出てきており、さらにもっとも驚いたことには、以前よりもあきらかにひとまわりパワーが増していたことでした。
やわらかさはちっとも損なわずに、逞しさと色気という表現力の要の要素が出てきていました。

まさに第一級のピアノに変貌していましたが、これも場所とピアノが同じであることを考えれば、あとはもう調律師の適切な仕事による効果だと考える以外無いでしょう。

良いピアノというのは弾き心地がよく、演奏者を助けてくれるものですが、まさにそんなピアノでした。

ただ皮肉なもので、以前はこの空間とピアノの響きのバランスが見事に調和していたのですが、ピアノの状態が進化して音量と音の通りが増したため、音響空間としては、ほんの少しですがやや響きすぎる感じになってしまっていたと思います。

オーナーの方もそこには薄々気がついていらっしゃるようで、「もう少しスタジオを吸音してみます」というメールをいただきました。
また大変かもしれませんが、のんびり実験のようにやっていかれるらしく、ピアノが良く鳴るようになったがための対策なら、基本的に喜ばしいことですけどね。

まあ、つくづくと楽器と空間の関係というのも、微妙で難しくてやっかいですが、だからこそまたおもしろいと言えるのかもしれません。

ちなみにこのサイズでは、日本製ピアノだけでも、ヤマハのC6、S6、CF6、カワイのRX-6、SK-6、ボストンのGP-215、同じくディアパソンのDR211(DR500との違いは弦の一本張りか、押し返し張りかの違いのみ)の7種がありますが、このスタジオのDR500は間違いなく最良にランクしていい優れたピアノだと思います。

とくに興味があるのは同じボディと響板を使うカワイのRX-6、ディアパソンのDR211とこのDR500はどのように違ってくるかの比較ですが、そんな機会はまずないでしょう。
2011/11/05 Sat. 01:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

意外に慎重派 

「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」、第二週は日本人の登場で、河村尚子さんでした。

この人は最近売り出し中のようで、雑誌やCDなどでもしばしばその顔写真を見かけます。
ドイツ仕込みということだそうで、留学経験やミュンヘン・コンクールに入賞するなどの経歴もあり、いわゆるドイツものが得意ということのようです。

オーケストラはマレク・ヤノフスキ指揮のベルリン放送交響楽団で、曲はベートーヴェンの皇帝。
以前も感じたことでしたが、この人のステージ上の所作はあまりマロニエ君は好みません。
どことなく大ぶりな動作や、あたりを睨め回すような表情の連発で、それを裏付けるだけの音楽が聞こえてくるならまだしも、そのいかにも「オンガクしてる」的な動きばかりが目につきますね。

それに対して、演奏はさほど大きさがありません。ときに繊細な情感があって美しいところもあるけれど、基本的には皇帝のような堂々たる曲を、えらく用心深く弾いてしまったのは、その視覚的イメージとはかけ離れた、普通の慎重型のピアニストのひとりに過ぎないと思いました。
見た感じは押し出しのある、アクの強い表情などもするから、相応の迫力でもありそうなものでしたが、出てくる音楽はえらく控え目な、常に抑制された演奏を最後まで通しました。

そのためか、第2楽章などはまるでモーツァルトのように聞こえる場面もあったりで、よほどこの人は安全第一の慎重派らしいということがわかりました。
演奏のクオリティを上げるのは結構ですが、そのための慎重さのほうが前面に出て音楽の醍醐味みたいなものが損なわれるようでは、本末転倒だと思います。本人にしてみれば「音楽を優先した、コントロールの行き届いた演奏」だというのかもしれませんが。

こういう曲の佳境に入ったところに、あえて繊細な表現をしてみせたり、フォルテッシモが交錯するようなところでも、期待に反するような抑えた弾き方をするのは、聴く者をただ欲求不満にするだけだと思いますし、要するに奏者の自信のなさと指が破綻しないための方便のようにしか見えません。

それと気になったのは、この人はよほどリズム感がないのか、大事なピアノの入りのところで何度もタイミングが一瞬遅れるのが目立ったことです。一番多かったのは第3楽章で、あれではオーケストラも丁々発止で乗れないでしょうね。

この曲は、もちろん音楽的に深いものは必要ですが、同時にある程度勢いで前進しなくちゃいけないところもあるわけで、そういう肝心の箇所にさしかかったときにツボを外されたら聴く側の高揚感もコケてしまいます。
オーケストラも開放的な流れを堰き止められて、弱いピアノに合わせながら演奏しているようなところがあったのは、せっかくこれだけの一流オーケストラなのに残念でした。

こういうことを言っちゃ叱られるかもしれませんが、そもそも皇帝みたいな曲は基本的に器の大きな男性ピアニストがオケと互角のやり取りをしないと形にならないところがあるように思います。
逆にシューマンのコンチェルトなどは男が弾くとどうにもサマにならない感じもします。

もちろん例外はあるのであって、リパッティ/カラヤンのシューマンなどは永遠の名演ですけれども。
2011/11/03 Thu. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

シゲルカワイの疑問 

評判が高く、マロニエ君自身も一定の好感をもっていたシゲルカワイ(SKシリーズ)ですが、その印象もだんだん怪しくなってきました。このところ続けて聴いたコンサートやCDからの印象です。

ショールームなどで弾いてみると普通のRXシリーズよりもピアノとしてひとまわり懐が深く、音も太めの渋い音がするし、タッチにもある一定のしっとり感のようなものがあって、さすがにSKシリーズは格が違うらしいと思わせられるものがあるものです。
実はどこか、なにかが引っかかっているのに、それが何であるかまでは明確にわからずにいたわけです。
というのも弾き心地はいいし、RXシリーズより明らかな厚み深みがあるものだから、その長所ばかり気をとられてしまうのでしょう。

一番問題を感じるのは要するに音色の問題です。
ピアノの音は自分で弾いてみないとわからない部分があると同時に、自分で弾いているとわからない性質の要素もあって、人の演奏に耳を傾けることによってはじめて見えてくるものというものがあることは、そういう経験をお持ちの方ならすぐにわかっていただけると思います。

そして、SKシリーズの一番の弱点はこの「人に聴かせる」という部分じゃないかと思います。

ただ単に聴く側にまわると、意外に音色が雑で、あまり芸術的とは言い難い。
ピアノの音にもいろんな種類や傾向があって、現在の主流はやはり明るくブリリアントな方向でしょうが、それでもないし、ではドイツピアノのような渋くて重厚な音という方向もありますが、どうもそういうものでもない。
フランス的な柔らかな響きなどはいよいよもって違います。

ひと言でいうと基本となる音色に色艶がなく、音自体も暗めであるにもかかわらず、今風な華やかさやパワーもありますよという建前を感じるわけで、作り手の思想に一貫したものが感じられません。
ピアノが生来持って生まれたものとは逆の性格付けをしようとしているところに大きな矛盾があるようで、これがこのピアノの最大の問題ではないでしょうか?

コンサートグランドにしても、マロニエ君としては従来のEXのほうがスケールは小さくても音楽的には好ましいということを折に触れて書いてきましたが、やはりその印象は今も変わりません。

小さいサイズのピアノでも、SKシリーズはいかにも高級シリーズという風格は備えていますし、音も堂々としているかに聞こえますが、本当に美しい音楽的な調べを奏でるのは、もしかしたらレギュラーモデルのほうでは?という気がしてきました。

マロニエ君の友人知人もカワイのレギュラーシリーズのユーザーが数名いますが、それぞれに本当に美しい「カワイはいいなぁ」と思わせる音色をもっています。

ところがSKとなると、そういうカワイの独特の美しさとは違った、色艶のない、野太くて荒っぽい響きになっていると感じるのです。これは最高峰のSK-EXでも、それ以外のモデルも同様の印象で、その点じゃシリーズとして一貫しているかもしれませんね。目先の効果としては太くていかにも響板が鳴っているような音はでているけれども、要するにそこから先の奥の世界がない。

本当に優秀なピアノは間近で聴いていると大してきれいには聞こえなくても、少し距離をおくと音が美しい方向に収束されて時に感動さえするものですが、SKシリーズは距離をおくと逆に音色がばらけてしまって、音楽に収拾がつかなくなる。

これは、もしかしたら本来そこまでの能力を想定していない設計のピアノを、無理にグレードアップしたためにどこかで破綻が起きているような印象でもあります。
まるでピアノ工房の職人が作った、チューンナップピアノ的な傾向にあるのではないかと思います。

ピアニストによるSKシリーズ使用のコンサートはパッと思い出すだけでも4~5回は聴いていて、サイズも様々ですが、すべてに共通しているのは音に密度感がなく、暗い感じの音を遮二無二鳴らしているだけという印象でした。
けっきょくカワイの最良の選択は、レギュラーシリーズを家庭などで使うというスタイルなのかもしれません。
2011/11/02 Wed. 03:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

秋の不気味 

今年もすっかり肌寒さを感じる季節になり、少なくともあの暑苦しい夏とはきれいにおさらばした観がありますが、まだまだ庭には雑草が性懲りもなく生えてくるのはなんなのかと思います。

それもこの時期には似つかわしくない、いかにも若々しい新緑のような色をした雑草が、今ごろ思い出したように着実に生え続けています。
そのうちまた除草剤を撒けばいいやぐらいに思って油断していると、さすがに夏場の勢いはないものの、日に日に確実に伸びてくるのがわかり、だんだんこちらも焦ってきます。

それと、驚くのはもう11月となりこれほど気温は下がっているのに、庭に出るとまだ蚊がぶんぶんとまとわりついて、いまさら季節はずれにパチンパチンとやらなくてはいけないのは嫌になります。

思い起こせば「放射能の影響で蚊が激減している…」なんて話も耳にした今年の夏でしたし、雀の声がさっぱり聞こえないのはどうしたわけか、…なにかの悪い予兆では?などという話もまことしやかに囁かれたものですが、少なくともマロニエ君の生活圏ではまったく逆の状態が続いています。

雀も街路樹などにはたくさんいて、夕刻などはその鳴き声がいささかうるさいぐらいです。

雑草退治は、友人に手伝ってもらって除草剤散布を決行したところ、裏のマンションとの境目に不気味な空白地帯があるのですが、友人はついでだからといってそこにも除草剤を撒きに潜入していきました。
マロニエ君などは薄気味悪くてとてもそこまでする気はありませんでした。

しばらくして戻ってきた友人の体をみてびっくり仰天!
なんなのか種類は知りませんが草木の種みたいなものをセーターやズボンにびっしりとくっつけて戻ってきたのです。
見たとたん、その気持ち悪さに血の気が引きました。
ブツブツ恐怖症と同様のグロテスク感があって、思わず鳥肌がたちましたね。

すぐにそれを取り払ってやろうとしますが、ひとつひとつが目には見えない小さなトゲみたいなものでくっついているようで、指先で少々払ったぐらいではまったくひとつも外れません。
結局時間をかけてひとつづつ取っていくしかありませんでした。

種類もいくつかあって、2センチほどのか細い枝みたいなものがハリネズミのように無数にセーターに突き刺さっているようなものから、もっと小さくて虫のようなものが機関銃で撃ったように連続してびっしりとくっついていたりしていて、突然、気分はホラー映画状態になりました。
気持ちの悪いことこの上ない中、全部取るのはかなりの時間を要しましたが、いやはやあれはすごいもんですね。

なんというか…神経に訴えてくるような生理的嫌悪感がありました。
もともとマロニエ君は軽度のブツブツ恐怖症でもあるので、その面が大いに刺激を受けたようです。
思い出すだけでもゾクゾクと身震いしながらキーボードを打っています。

植物は人の生活には欠くべからざるものですが、野生の分野では、一転して不気味な面もいろいろともっていることも確かなようです。
2011/11/01 Tue. 02:25 | trackback: 0 | comment: 0edit