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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

華麗なるピアニスト? 

先週からBSプレミアムで「NHK音楽祭2011 華麗なるピアニストたちの競演」というのをやっています。

この秋に招聘された5人のピアニストによるコンチェルトが紹介されるようで、第一週はボリス・ベレゾフスキーとシプリアン・カツァリスが放映され、その録画を見てみました。

ベレゾフスキーはリストの第1協奏曲を弾きましたが、率直に言ってなんとも粗っぽいだけの演奏で、以前ラ・フォル・ジュルネでショパンの第1協奏曲を弾くのを見て、その大味さにがっかりした記憶が蘇りました。
あのロシアの大男の体格がなにもピアノの音の表現力の幅や豊かさとして役立っておらず、とても一流とはいいかねる雑なだけの演奏でした。これはベレゾフスキー自身の気質からくるものとしか思えないほど、音楽の大事なところをバンバン外れて通過してしまっている、いいところが少しも感じられない演奏でしたね。
そのくせパワーだけは出そうと、第4楽章などは汗みずくになって力演していましたが、この人の魅力がなへんにあるのか、ついにはわからないまま終わりました。
むしろ良かったのはアンコールで弾いたチャイコフスキーの四季から10月で、さすがにロシアの小品などを弾かせると、動物的に大暴れできるところもなく、その静やかなロシア的な旋律がそこはかとない哀愁を帯びて、このときばかりはチャイコフスキーの音楽が聞こえてきたようでした。

カツァリスはモーツァルトの21番の協奏曲ですが、これがまたなんの感銘も得られない表面的なチャラチャラした演奏で、この日はほとほと不満が続きました。この人はもともとマロニエ君にはかなり苦手なピアニストなのですが、やはり指先だけの技術を見せよう見せようと、終始そればかりに腐心しているようで、音楽の内容という面ではまったくの空白という印象でした。
この頃になると、もうすっかり疲れてしまって、最後まで見通すこともできませんでした。
カツァリスはもともと大道芸人のようなピアニストで、マロニエ君は彼を一度も芸術家とは思ったことはありませんが、その彼も寄る年波か、そのサーカス的な指芸にも翳りが見えてきたようでした。
唯一、彼の存在理由を挙げるとしたら、彼はなかなかのピアノマニアらしく、いろいろなピアノを使ってCDなどを作ってくれている点です。ただし、その演奏がこの人自身なので興味も半減ですが。

なつかしかったのはモーツァルトでは御大ネヴィル・マリナーの指揮だったことですが、彼が振ると普段は愛想のないN響でもマリナーのあの馴染みやすい甘い音色になり、流麗で華やかな流れに乗ったモーツァルトが流れ出すのはさすがでした。ちなみに映画『アマデウス』で使われた演奏の指揮をしたのもこのマリナーですが、この巨匠もずいぶんお年を召したようでした。

ピアニストに話を戻すと、こんな二人を呼ぶぐらいなら、日本にはどれだけ素晴らしいピアニストがいることかと思われて、その中途半端に派手さを狙った企画そのものが残念です。おそらくは真の音楽的な価値よりも、海外の有名どころの顔と名前をズラリと並べるほうがウケるということなのかもしれませんが、もうそろそろ日本人も「舶来上等」の思い込みを捨てたらどうかと思います。
それには聴衆も知名度だけに頼らず、輸入物の粗悪品では満足しないという成熟が必要ですが。

現に工業製品などでは、いまや日本製であることが内外でも特別な価値であることが認識されつつあるのですから、外国人をむやみに有り難がらずに、良い音楽を求めるという方向に向いて欲しいものだと思います。
とりわけ日本は上記の二人のような演奏が通用する音楽市場ではあってほしくないと思いました。

ちなみにカツァリスはヤマハのCFXを弾きましたが、モーツァルトのような小ぶりな曲を弾くには、なかなか繊細で品位のある音色で鳴るピアノでした。

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2011/10/31 Mon. 01:54 | trackback: 0 | comment: 0edit

正式購入へ 

〜昨日の続き。
この方はずいぶんあちこち日本全国のピアノ店を見て回られたようなのですが、いろんな意味でこれだという決定打になるピアノがなく、そのうちのごく僅かはマロニエ君も同行させていただいたところもありましたが、ピアノ選びは楽しくもあり、同時になかなか難しいものだと思います。

これが日本製の比較的新しいピアノとかであればそのようなことも少ないと思われますが、古い輸入物のピアノとなると、これはもしかしたら危ないもののほうが数が多いと思っておいてもいいくらいで、その中から首尾良く上物を選び出すということは、専門の技術者であってもそう簡単ではないかもしれません。
ましてや我々のような素人がアタリを引き当てるのは相当な難事業だといえるでしょう。

ただ、何事もそうですが、はじめは明確な判断力が持てないかもしれませんが、やはり数をこなしていくうちにだんだんと良否の選別ができるようになっていくものですから、時間さえかけて気長に取り組めば不可能なことではないと思いますね。

しかしスタインウェイなどの中古ともなると、言葉では「数を見ることが大事」などといっても、実際はそう簡単じゃありません。そのへんの中古車店を見て回るのとは訳が違って、至近距離には該当するモノがないのですから、一台二台見るために、とてつもない距離を移動することになりますし、出張のついでにめぼしいピアノ店行かれたり、新幹線や車を使っての長距離遠征もだいぶ敢行されたようでした。

それだけの経験と数を経てこの一台に到達したわけですから、その甲斐もあって、とても良く鳴る健康的で元気のいいピアノです。
しかもこれは、本などにも記されるヴィンテージ・スタインウェイと呼ぶべき戦前のモデルで、人間なら立派に老境に入っているところですが、さすがはスタインウェイというべきか、内外ともにドイツの職人によってまことに美しく、輝くばかりに仕上げられており、古さなどはまったく感じさせません。

さらに驚くべきは、小さいサイズのグランドであるにもかかわらず、出てくる音にも元気と力強さがあって、太くて美しい音が楽々と出てくるのはなにより瞠目させられる点でした。
あまりにも音の勢いが良いので、試しに大屋根を閉めてみたところ、それでも大差というほどの差はなく、さらには上のフタを全部閉めてみたのですが、それでもひるむことなく相当の音量で朗々と鳴りきっているのには呆れました。

ここでしみじみと思ったことは、状態の良い良く鳴るピアノはフタを開けても閉めても、要するに元気良く鳴るものだということで、音に不満がある場合にフタを開けたり閉めたり、あれこれ工夫の必要があるなどは、そもそも基本的な鳴りにどこか問題があるに違いないと思います。
鳴るものはどうやったって鳴るという至極当然の事がわかりました。

ひと月ほど前に戦前のドイツピアノによるコンサートを聴きましたが、そちらも一流メーカーのピアノではありましたが、低音域などは完全に音が死んでいて、ただゴンとかガンとかいうだけでひどくガッカリした印象が強かっただけに、今回のスタインウェイにはまったく驚かされました。
実年齢とは違って、人間でいうと働き盛りの30~40代という感じで、もちろんこちらは完全なオーバーホールがされているということはありますが、それ以上に根本的な品質と設計の違いを痛感させられました。

それにしても、部屋にグランドピアノが鎮座する光景というのは実によいもので、まるきり家の雰囲気がかわったようでした。まさに主役の到来という感じです。
これまで使われたアップライトと向かい合わせに置かれていますが、これからは練習にも身が入ることでしょう。

最後になりましたが、搬入から数日後、正式購入ということになり、晴れてこの家のピアノとなったのでした。
2011/10/30 Sun. 02:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

仮の嫁入り 

つい先日、知人の自宅に美しいピアノが搬入されました。
マロニエ君も当日はご招待に与り、午後からお邪魔して、少々弾かせていただきました。

このピアノは、その知人が数年間をかけて、実に30台近くを見て回って、吟味に吟味を重ねたあげくに運び込まれたスタインウェイです。

ここでいう「運び込む」というのは、いわゆる購入によるそれではなく、店頭で聴く響きが果たして自宅へ場所を変えた際にどうなるのかという点を迷っていたところ、店側の責任者の英断によって、それだったら自宅に運び込んでみましょうか?ということとなり、そこで双方の合意が得られたというものでした。

ですから、これは自宅部屋での響きを確認するという目的のための運搬と設置であって、まだ購入を決定したわけではありませんから、ピアノは届いても、まだ店の商品ということになります。

もちろん、それで納得すれば購入するという、大前提が付くのはいうまでもありませんが、こういう方法は客側からはなかなか言い出せるものではないものの、幸いにして店側がそこまで譲歩してきたために思いがけなく実現したものでした。

店側にしても、そういう思い切った手段に出た方が話が早いという目論見があった可能性は十二分にあり、営業サイドとしては、十中八九話は決まったも同然の、事実上はほとんど片道キップで送り出したピアノだっただろうと思われます。
まあそれだけ店側にも自信があったという解釈もできますし、そうすることがギリギリのところまで来ている購入者の決断の、背中をもうひと押しすことにもなると踏んだに違いありません。

正直いって、マロニエ君もそのピアノの音色や鳴りが優れていることは感じていましたし、しかもその良さはピアノ本体がもっているものであって、決して店頭の音響的な条件とか助けによって達成されていることではないことはほとんどわかっていました。
さらには、知人宅のピアノを置く予定の環境も知っていましたから、このピアノがそこへ持っていったとたんに大きく音色や響きが変わるなんてことはないことも容易に想像がつきました。
ただ、決して安い買い物ではないし、当人としては念には念を入れたいと考えることは大いに理解できます。

ときどき耳にする話ですが、ショールームで弾いてみて気に入って購入したピアノだったにもかかわらず、いざ自宅へ届けられて部屋に置いてみると、まったくその良さが損なわれてしまってガッカリという話もありますし、場所が変わってフタを閉めたらタッチまで別のピアノのようになってしまったなんていう笑うに笑えない話もたしかにあるので、できることならこういう順序で購入できるものなら、あとから失望するなんてことはないわけで、多少の手間暇はかかりますが、これはこれでひとつの賢いやり方だと思いました。

別の店で見たピアノでは、店頭での調整とか設置環境によって響きが違うということで、遠方まで数回足を運んだという経緯もありましたが、今回しみじみ思ったことですが、良いもの/それほどでもないものは、あれこれと分析したり理由付けなどしなくても、だいたい初めの5分で決するものですし、もっというならものの10秒ぐらいで勝負はついてしまうように思います。これはピアノに限りませんが。
ピンと来ないものは、やはり何かがあるのであって潔く止めたほうが賢明で、時間をかけたからといって良し悪しの判断が覆ることはまずないし、そのあとにやっていることは、専ら言い訳さがしにすぎないのです。

その点で、このピアノは初っぱなから好印象がずっと崩れずに続いていました。
2011/10/29 Sat. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

電話中の車 

世の中には、どんなに厳しく言われてもなくならないことは沢山ありますが、最近の交通関係でいうと、飲酒運転と運転中の携帯電話の使用ではないかと思います。

まあ、飲酒運転に関しては限りなく犯罪と同等の行為ですから論外としても、携帯でしゃべりながら運転している人って、どうしていまだにこんなに多いのかと思います。

かくいうマロニエ君とて身に覚えはありますし、事実むかしはときどきやっていましたが、そのときの自分の経験で言っても、あれは確かにどうしようもなく注意が散漫になり、運転が疎かになるのは事実です。
さすがにその害悪を自分で感じてたことと、さらにはこの行為は検挙の対象ともなり、それできっぱりしなくなりました。

運転中の通話など、いったん決心さえすればなんてことなく止められることなのに、その数があまりに多いのと、中には走りながらメールを打っている強者までいるのには呆れます。

最近では車の動きや雰囲気でだんだんそれだと見分けるのが上手くなり、見るなりピンと来るまでになりました。
警察官がよく「鼻が利く」などと言いますが、それはよくわかるような気がしていて、マロニエ君もちょっと鼻が利くようになってきたということかもしれません。
いわゆる、ポイントはちょっとした気配が問題なのであって、ある表現で言うなら、車の動きに腰がないわけです。
膝を曲げてふわふわ歩く人のように、車の姿勢にどうしようもなく安定感と意志がない。

酒酔いではないから、さすがにフラフラと蛇行まではしていませんが、車の動きが消極的で、周囲の交通状況に対して非協調的、なんというか空気が読めない人と同じくその流れの中でポッと浮いているわけです。

それはただ普通に交通の流れに沿って走っているだけでもわかるのですから、やはりちょっとしたことというのは思った以上に外目に出るのだなあと思います。
ピアノリサイタルなどに行っても、この人は今本気で弾いていないとか、聴衆をナメているとか、主催者から乞われて不本意にこの曲を弾いているな、というような心のありようが当人の予想以上にバレてしまっているのと同じですね。

意味もないほど車間距離をあけたり、右左折が無意味なほどゆっくりだったりするのはだいたい携帯を使っており、どれもに共通するのはドライバーが運転は二の次で、別のことに心を奪われているというのが、見事にその動きに出てしまうものです。

こうして考えていくと、自然な車の動きというのは、要するに小さな反応の連鎖だと思います。
まるで自分の意志がないかのような動きをするのは、その小さな動きに出るようで、それがひとつではわからなくても2つ3つと重なっていくうちに、これはおかしいと周りに察知されてしまうのだと思います。

マロニエ君みたいな素人でも最近ではかなり的中率は高いので、プロの警官なら朝飯前でしょう。
以前は、警察密着型のようなテレビ番組で、歓楽街でパトロール中、ふっと視界に入っただけであの車は怪しいなどとベテラン捜査官の勘が働くというのを聞いて、はじめはたいそう感心していましたが、携帯使用中の車がわかるようになってからというもの、そりゃあプロが本気で毎日やっていれば、犯罪の臭いを嗅ぎ分けるべく直感が磨かれていくのは当然だろうと思います。

逆にいえば、それをごまかすことのほうがよほど高等技術で、そんな技巧を磨くより、運転中電話なんぞしないほうがどれだけ安易で楽なことかと思います。
2011/10/28 Fri. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

山本貴志と関本昌平 

共に2005年のショパンコンクールで4位に入賞した二人の日本人、すなわち山本貴志と関本昌平のCDを立て続けに聴いてみました。

もとは山本貴志のコンクールライブをCD店のワゴンセールで買い求めたことがきっかけで、ついで関本昌平のデビューCDを聴き、さらに同氏のコンクールライブを購入、最後に山本貴志のノクターン集と都合4枚を聴いたわけです。

コンクールの結果が共に4位であったことが示す通り、いずれも実力は拮抗しており甲乙付けがたい素晴らしいピアニストだという点では大いに納得しました。
コンクールで日本製ピアノを使っている点でも、二人は共通しているようです。
強いていうなら山本貴志が詩的で高い完成度を目指しているのに対して、関本昌平はよりパワフルで燃焼感のある演奏というふうに区別できるような気がします。

山本貴志は大きな冒険心や霊感の発露がないかわりに、きめの細かい隅々まで神経の行き届いた均整の取れた演奏をコンクールでも披露して、その端正でデリケートな美しさがワルシャワの地でも多くの支持を得たようです。
どちらかというとブレハッチ型の演奏ですが、その繊細を極めた心情には日本人ならではのクオリティと美意識が伺えて、ブレハッチよりもさらに上を行くほど姿の整ったショパン演奏を実現した弾き手だと思われます。
対する関本昌平には演奏に力感が漲り、ショパンの音楽が崩壊しない範囲においてピアニズムを輝かせながらガッチリとした重力と推進力があるのがなんともいえぬ魅力で、非常に聴きごたえがある。

関本昌平のデビューCDは日付を見ていると、なんとショパンコンクールの直前に栗東のホールで収録されており、これはコンクールを控えてよほど弾き込んでいたのか、ともかく傑出した演奏だと思いました。曲目もコンクールライブとほぼ重複したものですが、セッション録音だけにより自分の魅力を十全に発揮しているといえますし、ピアノも録音も非常に満足の高いものでした。
コンクールライブでは一発勝負ならではの緊張感や粗さ、わずかなミスなどもありますが、基本は似た感じの演奏でした。

一番の違いはピアノで、セッション録音ではヤマハのCFIIIS、コンクールではカワイのSK-EXを弾いていますが、この両者に関する限りではCFIIISのほうがはるかにピントが合っていて。モダンで華もあり、ショパンにはマッチしていると思いました。

反対に山本貴志はコンクールでもCFIIISを弾いていますが、これはこれで非常に彼の演奏に適した賢い選択だったと思いました。これがスタインウェイでもカワイでも、彼の明晰でセンシティブな演奏の魅力は表現できなかったかもしれません。

どれもが素晴らしいCDで大いに満足していたのですが、最後に聴いた山本貴志のノクターン集は昨年夏、山形テルサで3日間を費やして収録されたもののようですが、その録音が芳しくない点は落胆させられました。
全体的に何かが詰まったようなモコモコした音で、これでは演奏の良し悪しもピアノの音色もなにもあったものではありません。
まるで分厚いカーテンの向こうで演奏しているみたいで、なんの迫りも広がりもない音になっているのは、いかにも演奏者が気の毒だと思いました。

全体として、ショパンとしての完成度ということでいうと山本貴志なのかもしれませんが、あくまで僅差であって、ショパンらしさを狙うのであれば、もう少し湧き出るような詩情の表現があったらと思われますし、聴き手も息の詰まるような完成度より、即興的な優美を期待しているのではないでしょうか。
その点では関本昌平は、質の高い演奏の中にもピアニスティックな逞しさがあるぶん、聴きごたえという点ではこちらのほうが大いに溜飲の下がる思いがして、現段階ではマロニエ君は関本氏に軍配を上げようと思います。

日本人の課題は、許される範囲内で、奏者の感興による微妙な崩しや、聴く者の心を動かす歌が入ることが必要じゃないかという点のように思うのです。
現状ではこの2人に限りませんが、あまりにも固い枠に囚われている印象です。
2011/10/27 Thu. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

発言の自由度 

昔の文章に触れるということは、別に文学書でなくても、今の価値観で読むといろいろとおもしろいことがあるものです。
どこが面白いのかというと、今どきのようにやみくもに気を遣って差し障りのない安全なことだけを並べ立てるというウソっぽさがなく、発言そのものがもっと自由で、率直な考えとか物事の事情などがごく普通に述べられている点で、これひとつとっても時代を感じさせられます。

例えば25年前の雑誌「ショパン」を見ると、ピティナの創設者の方の談話が載っていて、そこにはピティナ=社団法人全日本ピアノ指導者協会がどのようにして創設されたのか、どういう事情があって今日のような組織が作られたかという経緯が述べられていました。

もともとはピアノ曲やピアノ学習者のための教材が、すべて海外からの輸入物によって占められていて日本人の手で書かれたものがないという点に疑問を感じ、日本の作曲家の作品を広く知らしめたいという思いが湧き上がったところへ同志が集まり、「東京音楽研究会」という邦人作品の研究団体としてスタートしたのだそうです。
その活動の一環として公開レッスンが始まり、さらにピアノゼミナールや演奏法や指導法の研究会がひらかれ、その研究会へ地方からわざわざ出てくる会員のために、今度は全国に研修の場として支部の枝が広がり、そのときに付けられた名前が「全日本ピアノ指導者協会」なのだそうです。

そんな中、ある時ショッキングな出来事があったというのです。
毎回研究会に参加される地方の先生の自宅へ、この方が招かれたときのこと。
そのお宅には素晴らしい設備が整い、グランドピアノが2台デンとあり、音楽書は本棚にぎっしり、レコードも大変な数があったといいます。

そこで、その先生の生徒さんがブルグミュラーの練習曲全25曲を暗譜で弾いてくれたらしいのですが、ミスリーディングの多さと奏法の未熟なことにショックを受け、毎回研究会に出席しているというだけでこの方は立派な先生だと感じていた自分がハッとした(つまり立派な先生じゃなかった)、ということが歯に衣きせぬ調子で堂々と書いてあるのです。

さらには、その生徒の演奏を見て、それまで自分が一生懸命続けてきた各種の公開セミナーはちっとも役に立っていなかったということを思い知ったともはっきり断じているのです。

こういうことは、今であれば、たとえ事実であっても個人を中傷するだのなんだのという理由から、絶対に書かれないことでしょうし、仮に書いたとしても編集部がマズイと判断して大幅な手直しに介入することでしょう。
果たして、誰から文句のでない、読んでも甚だ面白味のない、パンチに欠ける文章でしかなくなりますし、当然ながらナマな真実性もありません。
何事も昔は率直で迫力があったんだなあと思います。

先の話を続けると、それがきっかけとなって、「同じ課題曲を、同じ位の子どもたちによってコンクールを開催することが、最も先生の実力向上につながる」という結論に達して、はじめはオーディションという名前で始まって、それが発展してあのお馴染みのピティナのピアノコンペティションに成長していくのだそうです。

意外だったのは、このコンクール、もともとは生徒を指導する「先生の実力向上が目的」だったということで、今も基本理念はそうなのかもしれませんが、マロニエ君はピティナとは名前を聞くだけで、自分自身は一切関わりを持ったことがなかったので、このような経緯ははじめて知りました。

つまりピティナのコンクールは、「生徒が先生の代理で戦っている」ということになるのかもしれませんね。
まあそうだとしても、結果としてそれで生徒が立派に育つのであれば何をか言わんやですが。

2011/10/26 Wed. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

懐かしい雰囲気 

クシシュトフ・ヤブウォンスキのピアノリサイタルに行きました。

今回はちょっと珍しいコンサートで、会場が通常のコンサートホールではなく、カワイ楽器の太宰府ショップ内で開かれた百数十人規模のコンサートでした。
いつもならグランドピアノが所狭しと並んでいる店舗内は、ものの見事にピアノが片づけられて椅子が整然と並び、正面のカーテンの前にはこの店のシゲルカワイ(SK-6)だけが置かれています。

ヤブウォンスキはポーランド出身のピアニストで、1985年のショパンコンクールで第3位になった実力派で、こういう世界的なピアニストが通常のコンサートホールではなく、このような形でのコンサートをおこなうというのが非常に珍しく感じられて、チケットを購入したのでした。

ちなみに1985年のショパンコンクールといえば、あのブーニンが優勝し、2位がフランスのマルク・ラフォレ、4位が日本の小山実稚恵、5位がフランスのジャン=マルク・ルイサダという、全員が今も現役で活躍している実力者を数多く輩出した年でした。

開演前にお手洗いに行って廊下に出たとき、ドアの真向かいにある控え室(たぶん事務所)の扉が開いていて、そこにヤブウォンスキ氏が立っていて、ある女性の挨拶をにこやかに受けているところでした。
テレビやCDのジャケットで見覚えのあるその顔は、いかにも優しげな笑顔に溢れており、しかもおそろしく長身なのに驚きました。

プログラムはオールショパンで、そのパワフルなポーランドのピアニズムには久々に舌を巻きました。
演奏時間もたっぷりで、19時の開演、アンコールまで終わった時にはほとんど21時半でした。
音楽的にはいささか野暮ったいところがあり、いかにもかつての東側の演奏そのもので、現代的な洗練はありませんし、同意しかねる点も多々ありましたけれども、なにしろ、その圧倒的な迫力と技巧はそれを身近に触れられただけでも充分に行った甲斐があったというものです。

最近のピアニストがいかにも効率的な訓練によって、器用にまとまった演奏ばかりを繰り広げる中で、こういうちょっと昔流の訓練と修行を経た、器の大きい演奏家に接したのは実に久しぶりという気がして、音楽そのものを聴いてどうというよりも、なんとなくその醸し出す雰囲気がひどくなつかしいもののように思えました。

とりわけ強く激しいパッセージやオクターブの連打などは重戦車のようで、しばしば風圧を感じるほど。あきらかに素人のそれとは大きく隔たりのある、いかにもプロらしいプロの技を堪能することが出来ました。
とにかく、まったくなんの心配もなしに聴けるという、大船に乗っているような安心感だけでも、やはりこういう人こそが人前で演奏すべきピアニストと呼べるのではないかと思いました。
昔はコンサートといえば、だいたいこのような格付けの実力者だけがステージに立っていたわけで、好みは別にしても、その大きさから来る聴きごたえとか充実感がありましたが、最近は玉石混淆で見た目から演奏まで素人の延長線上にあるような演奏家が多いことは、それだけでもコンサートというものの意義や感銘を薄くしていると思いました。

ただしヤブウォンスキのショパンは当然ながらポーランドのベタなショパンであり、ある見方をすればこれぞ本物のショパンということになるのかもしれませんが、マロニエ君は残念ながら全く好みではありません。
先述したように、ショパンといえばまっ先にイメージする洗練されたピアノの美の結晶、気品と情熱とデリカシーが共存した他を寄せ付けない世界とはとは無縁の、泥臭い麦わらの香りのするようなショパンで、いわゆるフランス的なショパンとは対極にあるものでしょう。

ステファンスカ、エキエル、ハラシェヴィッチ、ツィメルマンなどに通じるあの雰囲気であり、そう考えるとブレハッチなどはポーランドとはいっても、若いだけずいぶん今風に磨かれているということに気付かされます。

ヤブウォンスキのスタミナあふれる大排気量のエンジンが回っているようなピアノを聴いていると、ショパンよりはベートーヴェンなどのほうがよほど聴いてみたい気がしました。

ピアノに関しては、感じる点は多々あれども、もう今回は止めておきます。
2011/10/25 Tue. 02:15 | trackback: 0 | comment: 0edit

暴走老人 

このところ新聞紙上や書店などでよく目にする言葉に「暴走老人」というのがあります。

もともとは本の題名にこういう言葉があったようですが、はじめはなんのことだかわかりませんでした。
きっと今どきの高齢者の実像を社会現象として捉えて、おもしろおかしく書いたものだろうぐらいには思っていましたが、その後もこの言葉は消え去ることがなく、テレビでも聞くし、さらには先ごろの新聞ではこれが「増殖中」などという文字まで見るに至りました。

しだいにマロニエ君もなんとなく心当たりも出来てきて、最近では高齢者の方の行動であまり感心できないことをいくつか目にするなどしていたので、どうもたまたまの現象ではないらしいという気もしはじめて、だとすると非常に由々しきことだと思います。
若者の行動や態度がよくないのももちろん困りますが、さらに人生の先輩としてその規範となっていただくべき高齢者の方が社会人として破綻してきているというのであれば、なお一層深刻なものを感じます。

先日も知人とこの話が出たのですが、最近ではある部分においては若い人のほうがよほどマシで、高齢者の暴挙には驚かされる事が多いと言い出したのですが、たしかにそれはあるのです。

家人などもいつもぼやいていますが、例えばデパ地下などでの列の割り込みや商品の取扱いなど、高齢者には目に余る所作が目につくと言いますし、先日などもある店で、一人で買い物に来ていたおばあさんがいきなり列の間に割って入りましたが、当人はすましたものです。
と、途中で忘れ物があったらしく、一度列を離れたのですが、再び戻ってくるとまた同じことを繰り返して、中学生ぐらいの女の子の前にグッと割り込みました。その女の子は驚いた様子でたいそう不満げでしたが、結局なにも言わずそのままになりました。

マロニエ君自身も、過日ピアノクラブの懇親会の席でファミレスで歓談していたところ、一瞬ですがつい大きな笑い声を立てたところ(もちろんそれがいいとは言いませんが)、通路を挟んだむこうの壁際の席にいるやはり高齢の女性からいきなりヒステリックな調子で、突如噛みつくように文句を言われ、そのあまりの激しさにびっくりしました。
まあ、我々にしてみれば、その老女の発したキレ気味の奇声が店内に響き渡ったことのほうがよほど周囲にも迷惑だと思いましたが。

また別の日にも、知り合いと数人でいたところ、まるで理の通らない、ほとんど言いがかりとしか思えないような文句を言われたこともあり、みなさんよほどイライラしているのかと思いますが、それにしてもちょっと異様な気がします。
言っていることもいかにも身勝手で、話の筋道がまるきり立っていませんが、ご当人はなにしろ真剣だし、相手がお年寄りなのでみんなガマンでした。

さらにネットのニュースなどでも、このところ高齢者の話題はしばしば目につく問題で、その猛烈なパワーには驚くばかり。
70代の高齢者同士が殴り合いをして片方が重傷を負ったとか、80代の男性が運転免許の更新の事で警察官からあることを指摘されて激昂し、警察官の腕に噛みついてケガを負わせて逮捕されたとか、もはやこれ、明らかに歪んだ社会現象だと思われます。

現代のような社会に生きていれば、もちろん高齢者にも多くのストレスがかかっているのだろうとは思いますし、とりわけ感じるのは孤独からくる終わりのない圧迫ではないかと思います。
人生の晩年は本来なら穏やかに楽しく過ごしたいところでしょうが、逆に若い頃よりも生活環境が苛酷になるというのはそれひとつでも自然の流れに逆行することで、イライラも募るのでしょう。

共通しているのは独善的でひがみっぽく、ひどく差し迫った感じでかなり攻撃的だということです。
やはり優れた政治家が現れて、一日も早くこの荒れ果てた社会の建て直をしてほしいものです。
2011/10/23 Sun. 02:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヤマハとリスト 

ナポリ出身のピアニスト、マリアンジェラ・ヴァカテッロによるリストの超絶技巧練習曲のCDを聴きましたが、残念なるかな、とくにこれといった印象を受けるものではありませんでした。

若い女性のピアニストで、指はよく動きますが、この難曲集を弾いて人に聴かせるにじゅぶんな分厚い表現性とか力量みたいなものには乏しいというのが率直なところでした。曲そのものがもつスケール感や壮麗さが明確にできておらず、ただ技術的にこの作品を勉強してレパートリーになったという感じが拭えません。
本来この12曲はリストの中では無駄が無く表情が多彩、非常に充実した緊張感の高い作品群だと思いますが、悲しいかなどれも演奏が痩せていて、本来の量感に達していないと思いました。

もうひとつ興味深かったことは、このCDは昨年イタリアで収録されていますが、ピアノはヤマハのCFIIISが使用されています。
まあ、音もそれなりで目立った欠点というのはないものの、このCFIIISまでのヤマハは響きのスケール感という点においては、楽器としての器の限界がわかりやすいイメージでした。
いま、フランスをはじめとするヨーロッパではヤマハが多く使われる傾向にあるのは、何度か書いた通りですが、そこで使われるヤマハの特徴のひとつに現代的でオールマイティな音色と均一性と軽さがあります。ただそれが重量級の作品にはあまり向きません。

車の省エネ小型化じゃありませんが、録音技術の発達で音はクリアで克明にとれるから、ピアノ全体のパワーは小さめでも構わないといわんばかりの印象。

リストの作品は、ものによるとも思いますので一概には言えませんが、超絶技巧練習曲は詩的な面もじゅうぶんあるものの、全体としては張りの強いドラマティックな要素も濃厚に圧縮された、かなり精力的な作品だなので、この作品に聴くヤマハの音には、なんとなく中肉中背というか、ただお行儀よくまとまったピアノだという印象が拭えませんでした。
ピアノのパワーがもたらすところの迫りが稀薄で、人を揺さぶるような圧倒的な力がない。

ヤマハがいいのは、ロマン派ではシューマンやショパンまでで、リストになるとヴィルトゥオージティの発露を楽器が懐深く逞しく表現しなくてはなりません。ところが響きの中の骨格に弱さを感じるわけです。
まるで往年の名女優が演じた当たり役を、現代の可愛いけれども線の細い女優さんの主演でリメイクしたようで、まあそれの良し悪しはあるとしても、所詮は軽さばかりが目立ち、黙っていても備わっていた肉厚な重量感・存在感が不足してしまうようなものでしょうか。

そういう意味では、リストはそれ以前の作曲家と違うのは、先端のピアノの性能を縦横無尽にぎりぎりまで使いこなして作曲をしていたのだということが察せられることです。
このところ、日本製のピアノによるピアニストの演奏をあれこれと聴いてみて感じたことは、ヤマハにはもうひとまわりの逞しさと音響的な深みを、カワイには知的洗練を期待したいと思いました。

それでもなんでも、日本のピアノが海外で人気が高いのは、やはりその抜群の信頼性と最高レベルの製造クオリティによる安心感、それに価格がそこそことなれば、総合評価とコストパフォーマンスで選ばれているということのようです。

基本的に西洋人は、どうかすると芸術文化の地平を切り開くようなとてつもないことをやってみせる反面、バッサリと割り切ったようなものの考え方をする場合も少なくないようで、そういう際の合理主義とドライな部分は、我々にはとても及ばない苛烈さがあるようです。
2011/10/22 Sat. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

強気の商売 

店名はむろん書けませんが、マロニエ君の自宅からさほど遠くないところに、いつだったか、ある和風スイーツとでもいうべき店が新規開店していました。

甘いものもが好きなもので、あるとき前を通りかかったついでに何か買って帰ろうと思い立ち、偵察がてら店に入ったところ、商品を見るなり、そのあまりの強気な価格には驚きました。
絶対額こそ大したものではありませんが、たかだか○○○○のくせになにを勘違いしているの?と思われて、すっかり買う気が失せました。
自分で言うのもなんですが、こういうときのマロニエ君は遠慮はしない性格なので、一気にアホらしくなって何も買わずに店を後にして、いらい二度と入ったことはありません。
くだらん!という気分でした。

その後、知人や家人の友人など、様々な人の口からこの店のことを聞き及ぶに至りましたが、いずれもその勘違い価格に呆れているような話ばかりでしたが、中にはいったん入店した上は、買わないのも気が引けて一度だけしぶしぶ買って帰ったという人もいましたが、こうもみんながみんな同じ意見ではこの先やっていけるのかと思っていました。

なんでも地元の店ではないのだそうで、他県の老舗とやらが福岡に進出してきた店なのだそうですが、そのいかにも今どきの大衆の高級志向につけ込んだようなスタンスは、そういうものを有り難がらない気質のある福岡ではそう長続きはすまいと思っていたのですが、予想に反してそれからもしばらくはそこで踏ん張っていたようでした。

ところが、昨日その店の前をなにげなく車で通って異変に気付きました。
その店や看板はすべてなくなっていて、すでに別の店舗が営業をしていて、やっぱりなぁという感じでした。

こうなるについては相当赤字が続いたはずで、きっと経営者は苦しかったでしょうが、でもしかし、あれじゃ当然だろうと思ったのも正直なところです。
「高級」を打ち立てるのは容易いことではありませんし、中にはどうして?と思うような店が成功している例もなくはありませんが、やはり著しくピントのはずれているものはお客さんの支持が得られることはなく、やがて淘汰されていくのはやむを得ないと思います。

この廃業した店のすぐ近くには、これまたたいそう強気の商売をしているレストランもありますが、ここも聞くところによるといつまでもつかという意見もあって、内容的にもかなり驚くような話をたくさん聞きました。
マロニエ君は本能的に自分とは合わないと察知していたので、幸いまだここに行ったことはありませんが、それはそれはいろんな話題に事欠かないようです。それでもこういう店を有り難がって行く人がいるうちはいいのかもしれませんが、こんな世相の中、さてこの先どうなるのかという感じです。

行くとお客の方が店側から露骨に品定めされているのがわかるのだそうで、バブルの時代じゃあるまいし、もう少し普通にできないものかと思います。
ちなみに置いてあるピアノも世界のブランドのそれだそうで、はああという感じですね。

「普通に」などというと、何が普通なの?普通ってなに?だれが決めるの?というような問い返しをムキになってしてくる人がいますが、普通とは、その概念の説明をわざわざしなくても済むような尋常な平衡感覚をもった人の、地に足のついた自然な気分のことだろうと思います。
2011/10/21 Fri. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

世襲 

たまにNHKのBSで昔の日本映画なんかをやっていて、それが思いがけなく視界に入ることがありますが、昔の名優というのは、やはりなかなか観賞に値する美しく立派なルックスをもっていたものだと思います。

そして、現代のこの業界には、いかに多くの二世三世が先代の名声を足がかりにして、それだけのものも持ち合わせないまま不適合に生きているかと思わずにはいられません。
俳優の世界も、演技という技巧の分野でいうならある種の芸の継承というのもなくはないだろうと思いますが、美人や二枚目ともなると、いかにその二世だなどと言ってみても、その面立ちに似たところはあるとはいえ、しょせんは別物なのであって、到底その親になんぞかないっこありません。

兄弟姉妹でもそうですが、顔かたちなんか似ているとはいってもちょっとした目鼻の配置ひとつで美醜様々に分かれてしまいます。
大スターだったその親たちは、自分がたまたま天から授かったフェイスや雰囲気を元手に世間に認められたわけで、それがそのまま子供に受け継がれるはずはないのであって、だから今の芸能人や俳優の美貌は、昔に較べるとずっとレベルダウンしていると思います。

さらにスター俳優になるには、目鼻立ちの美しさだけではダメで、最も大切なスター性を備えていなくては芯にはなれません。ちなみに芯とは中心のことで、つまり「主役をはれる存在」という意味です。

いま、現役でそれなりに活躍している二世俳優のお父さんお母さんの現役時代を見ると、その子供らとは次元の違う輝きをもっているのが大半ですし、現役の二世世代の連中で、親の存在なしに単独で同じ地位を獲得できた人が果たして何人いるかといえば、実際はおそらく惨憺たる結果になるはずです。

その点では、むかしの方が芸能界もよほど正当な実力主義で、真に力のある者がなるべくしてスターになっていたと思われますし、それだけに大物が多かったのだろうとも思います。そういう意味では、今のほうがよほどどこぞの国よろしく人脈やコネが横行する業界という気がしなくもありません。

よほど桁違いの秀でたルックスでももっていれば別でしょうけど、大半は多くの芸能人の二世連中がその票田を引き継いでいるがごとくなのはかなり違和感を覚えるところです。政治家の世襲問題が折に触れ取り沙汰されますが、むろんそれに異論はありませんが、マロニエ君にいわせると芸能界の世襲というのも、なんとも気分のしらける夢なき格下の世界に落ちぶれたようで、とても納得はできません。
数にもよりけりですが、今はあまりにも数が多すぎで、よくもまあ懲りもせずに、誰も彼もが自分の子供を同業者(しかも親より必ず格落ちの)にしたがるもんだと思って呆れてしまいます。

その点では梨園(歌舞伎界)は世襲が前提ですから、顔の美醜にかかわらず、男子は親の名跡を受け継ぐわけですから、その点では特殊社会といえばそうなんですが、そんな場所でもときどき奇蹟がおこるらしく、たまには板東玉三郎のようなスーパー級の美形があらわれたりするのは不思議です。
そして、その奇行のほどは別としても、市川海老蔵のような立役の美形がこの現代に出現したことは、団十郎を思い起こせばこれまた奇蹟というわけで、数十年に一度はこういう異変が起こるのでしょうか。

こうしてみると世襲が難しいのは音楽の世界で、パッと見渡しても、親子二代で大物が続いた例は、エーリッヒとカルロスのクライバーぐらいしか思いつきませんし、ピアノではせいぜいルドルフとピーターのゼルキン親子ぐらいでしょうか。
名演奏家の子供というだけで、力もない音楽家が現れるのじゃたまりませんから、そう思うと音楽の世界はまだ実力が問われるという点でマシなほうかという気もします。
2011/10/20 Thu. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

ゆずれないもの 

ある調律師の方のブログでの書き込みがマロニエ君の心を捉えました。

概要は次の通り──歳を取るにつれ、少量でもいいから本当に美味しいものだけを口に入れたいように、音楽も同様となり、だからアマチュアの演奏会は「本当にごめんなさい」というわけだそうです。
つまりアマチュアの演奏は聴きたくない、申し訳ないけれどもこればっかりはもうご遠慮したいというようなことが書いてありました。

しかもこの方は調律師という職業柄、我々のように音楽上の自由な趣味人ではないだけに、そこにはいろんな意味でのしがらみなどもあっての上だろうと思われますから、それをおしてでも敢えてこういう結論に達し、しかもそれをブログに書いて実行するということは、よほどの決断だったのだろうと推察されます。

本来ならば調律師という職業上、ときにはそうした演奏も浮き世の義理で、我慢して聴かざるを得ない立場にある人だろうと思われるのですが、それでもイヤなものはイヤなんだ!と言っているわけです。
これをけしからん!と見る向きもあるかもしれませんが、マロニエ君は思わず喝采を贈りたくなりましたし、このように人には最低譲れないことというのがあるのであって、そのためには頑として信念を通すという姿勢に、久しぶりに清々しい気分にさせられました。

同時に、この方はただ単に調律師という職業だけでなく、ブログではあれこれのCDなどに関する書き込みなども見受けられますから、そのあたりを総合して考えると、これはつまり、よほど音楽がお好きな方ということを証拠立てているようです。

音楽というのは知れば知るほど、聴けば聴くほど、精神はその内奥に迫り、身は震え、耳は肥えてくるもので、そうなるとアマチュアの自己満足演奏なんて聴けたものではないし、たとえプロであってもレベルの低い演奏というのは耐えがたいものになってくるものです。

とりわけクラシックのピアノは、弾く曲は古典の偉大な作品である場合が多く、それらの音楽は大抵一流の演奏家による名演などによって多くの人の耳に深く刻みつけられていたりするわけですから、それをいきなりシロウトが(どんなに一生懸命であっても)自己流の酔っぱらいみたいな調子で弾かれたのでは、聴かされる側はいわば神経的にきついのです。

つまり弾いている人にはなんの遺恨はなくとも、苦痛の池にドボンと放り込まれるがごとくで、塩と砂糖を間違えたような食べ物を口にして美味しいというのは耐えがたいのと同じかもしれません。
そんなものに拍手をおくってひたすら善意の笑顔をたたえているというのは、実はこういう気分を隠し持つ者にしてみれば、ほとんど拷問のように苦しいわけです。

それでも、子供の演奏とかならまだ初々しい良い部分があったりしますが、大人のそれには耐え難い変な癖や節回しがあったりで、場合によっては相当に厳しいものであることは確かです。
いっそ思い切り初心者ならまだ諦めもつきますが、始末に負えないのは、中途半端に指が動いて楽譜もいくらか読めるような人の中に、むしろ自己顕示欲さえ窺わせるものがあり、これを前に黙して耐え抜くのはかなり強烈なストレスにさらされることになります。
弾いている本人にお耳汚しですみません…という謙虚な気持ちが表れていたらいくらか救えるのですが。

この調律師さんの言っていることは、本当に尤もなことだと思いました。
ときたま、こういう気骨のある人がいらっしゃるのはなんだかホッとさせられます。
2011/10/19 Wed. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

モーツァルトの極意 

『集中力が大事です。どの作曲家でもそうですけど、特にモーツァルトの時は、過敏ではない集中力といいますか…。過敏になってはいけない。ゆったりとしたものが必要な集中力なんです。そこから音の響きができるわけですから、体が緊張していてもいけないし。そういう意味でモーツァルトの演奏は大変です。』

これはずいぶん昔のものではありますが、ピアニストの神谷郁代女史がモーツァルトの演奏に際して語ったもので、さいきん雑誌をパラパラやっているときに偶然これを目にして、それこそアッと声が出るほど激しく同意しました。
…いや、「激しく同意」などというと、まるでさも同じことを認識していたようですが、これは正しい表現ではありません。なんとなくずっと直感的に感じていたものが、明確な言葉を与えられて、考えが整理され、よりはっきりと認識できたというべきでしょう。

それにしても、これは名言です。
これほどモーツァルトの演奏に最も必要な精神的な根底を成すものを的確に見事に表した言葉があっただろうかと思います。まるでその無駄のない言葉そのものがモーツァルトの音楽ようでもあります。

これはすでにひとつの哲学といっても差し支えない言葉であり、モーツァルトへの尊敬と理解をもって弾き重ねた人でなければ表現できるものではありません。弾き手の考察と経験が長い年月の間に蓄積され、そこに自然の息吹が吹き込んで、ついにはこのような真理を導き出すに到達したものと思われます。

マロニエ君はモーツァルトの理想的な演奏(ピアノの)としてまっ先に思い浮かぶのは、ヴァルター・ギーゼキングのモーツァルトですし、ヴァイオリンソナタではハスキル、コンチェルトではロシアの大物、マリア・グリンベルクの24番などがひとつの理想的な極点にあるものだと思っています。

その点では、評価の高いピリスにもある種の固さを感じますし、内田光子などはその極上のクオリティは充分以上に認めつつも、いかにもゆとりのない張りつめた緊張の中で展開されるモーツァルトであることは否定できません。

多くのピアニストがモーツァルトを怖がってなかなか弾こうとしないのも、この神谷女史のいうところの、集中と緊張の明確な区別がつけきれない為だろうと思われるのです。
とりわけモーツァルトのような必要最小限の音で書かれた作品は、一音一音に最大限の意味を持たせようと、あまりに言葉少なく多くを語らねばならないという脅迫観念に苛まれるのだろうと思われます。

神谷女史のお説に依拠すれば、ギーゼキングのモーツァルトなどは、なるほどまったく気負ったところがないばかりか、モーツァルトにおいてさえこの巨匠の磊落な語り口には今更ながら圧倒されてしまいます。
グリンベルク然りで、まさに呼吸と重力に一切逆らうことなく、モーツァルトをありのままにひとつの呼吸として描ききっているのはいまさらながら舌を巻いてしまいます。

どのみちマロニエ君などは、モーツァルトを弾こうなどという大それた考えは持っていませんが、それなりのテクニックと音楽性のあるピアニストであれば、「過敏にならない集中」を旨とすれば、素敵なモーツァルトが演奏できるはずだという気がしてきます。

神谷女史のこの言葉は、どれほどのレッスンにも勝るモーツァルト演奏の極意を授けられたような気がして、なんだかたいそう得をしたような気分になりました。
2011/10/18 Tue. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホールに潜む危険 

福銀ホールの階段で女性がマロニエ君の背後でしたたかに転倒して周囲や主催者を慌てさせたことを書いたばかりでしたが、続くアクロスシンフォニーホールでの2台のピアノの第九のコンサートのときには、ソロの途中で演奏者が入れ替わる際、ステージ上ではピアノの入れ換え作業がおこなわれたのですが、そのときにマロニエ君の座っている席から真横のごく近い位置の通路で、またしても女性が転倒されました。

しかも、今回の転倒はいささか深刻なようで、なかなか起きあがることもままならないようで、周辺にはちょっとした緊張が走りました。
通路のすぐ横に席に座っていた女性がすかさず助けにはいり、あれこれと様子を見てあげているようでしたが、やはり立ち上がることが難しく、このころにはよほど転び方が悪かったのかと気を揉みました。

ついには助けに入った女性が抱きかかえるようにして、転倒して怪我を負っているらしい女性を会場から連れ出すべく努力され、なんとかゆっくりとした足取りで衆目の見守る中を退出していかれました。
驚いたことには、床には大量の流血のあとがのこり、思いがけなく目にした鮮血の赤が痛ましくも衝撃的でした。
これはたいへんな事が起こったと思いましたが、それとは気づかずにステージは続行されました。

マロニエ君の想像ですが、ちょっと時間に遅れてしまった女性が、演奏中は動けないので、ピアノの入れ替えをしているタイミングで急いで座席に着こうとして、段差に躓いて転倒されたのではないかと思いました。

かねがねホールの段差というのはなんとなく要注意だと感じていたので、マロニエ君なども自分はもちろん、家人と一緒に行くときには毎回現場で注意を促しています。
広いし、なんとなく薄暗いし、人は多く、席を探しながら段差に次ぐ段差のある通路を進むのはけっこう難しい動きだと思います。

あえて言いたいことは、ホールの段差には、段の縁などに色の違う滑り止めのようなものをつけるなど、もう少しお客さんの足元の安全に配慮して欲しいものだということ。
近ごろは、こういう分野ではなにやかやとうるさい時代で、世の中の認識もだいぶ進んでいますし、中にはそんなことまでしなくてもというような安全策まで講じられている中で、ホールの段差などは一向にその気配があるようには感じられません。

通常の動きでもこうなのですから、これがもし災害時などみんなが一斉に避難すべき状況にでもなったら、果たしてどんなことになるやらと思います。

もともとマロニエ君は、こんな安全面がどうのというようなことを高らかに言うのは好きではないし、そんな趣味はないのですが、やはりホールは老若男女不特定多数の人達が利用する場所でもあるし、こうも立て続けに転倒事故を目のあたりにすると、そのうち自分かもという気もしますし、この点では施設側にももう少し細やかで実際的な配慮が欲しいと思います。
ちなみにその段差には縁に形ばかりの微かなくぼみはあったものの、ほとんど無いがごとしで、とくに高齢者などは最上級の注意が必要となり、これは早急な改善を望みたいと思います。

とくに最近のコンサートホールは高級になるほど、つるつるした木の床だったりするのが仇になっているようです。
2011/10/16 Sun. 15:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

2台ピアノの第九 

近藤嘉宏&青柳晋の2台のピアノのコンサートに行きました。

前半は両者のソロで、愛の夢だのカンパネラだのと、ひとまずお土産売り場みたいなプログラムが5曲並んでいましたが、それはこの日のあくまでも序章に過ぎません。
メインはリスト編曲によるベートーヴェンの交響曲「第九」で、はっきり時計を見たわけではありませんが、おそらくは1時間を超過する長丁場でした。まあ第九の全楽章ですから、それも当然といえば当然です。

実は、2台のピアノによる第九というのはCDはあるものの、実演で聴いたのは初めてです。
開始直後こそ特段どうということもなく、やはり耳慣れたオーケストラの音に較べたらずいぶん薄く小さいなあという感じでしたが、しだいにつり込まれて、第3楽章の世にも美しい調べに到達したあたりではベートーヴェンの壮大な世界の住人となり、第4楽章ではつい2台ピアノということも忘れて、すっかりこの曲と共に呼吸することに没入させられてしまいました。

近ごろでは、コンサートに行ってもめったなことでは感動が得られなくなってしまっている中で、めずらしくこの言葉を使うに相応しい気分になりましたが、それだけやはり圧倒的な作品でした。
演奏はソロでは近藤氏のほうが幅があって好ましく思いましたが、第九ではプリモを弾いた青柳氏が常に流れをリードしていたようで、近藤氏はむしろ脇に回っている印象でした。

作品が作品だけに、終わったときにはちょっとした感動的な拍手が起こりましたが、さすがにお疲れなのかアンコールはなしで、これで終わりだというアナウンスが早々に流れました。
ピアニストの肉体的疲労だけでなく、聴衆も長い時間聴き続けたということもあるし、そもそも第九のあとに弾くべき曲があるかと言われたら…ちょっと思いつきませんよね。
かてて加えて2台のピアノともなれば、いかにクラシックの膨大なレパートリーをもってしてもそこに据えるべきアンコール曲は皆無だと思われます。

ベートーヴェンはピアノソナタでも同様で、最後のop.111の精神的地平を見るような第2楽章が終わった後に弾くべきアンコールは、ピアニストが最も悩むところだと思われます。
この曲では昨夜同様、一切アンコールを拒絶するピアニストも少なくないほか、日本公演でのシフなどは、熟考の末と思われたのは、バッハの平均律から、op.111と調性を合わせてハ長調で、しかも幕開けの気配に満ちた第1巻ではなく、第2巻のそれを演奏したのはなるほどと思わされました。

昨夜のピアノはソロでもデュオでも両氏の弾いたピアノは固定されていて、ソロでは途中で関係者総出でピアノの入れ替えをおこなったのはちょっと珍しい光景だと思いました。
2台ともスタインウェイのDで、おそらく年代的にも同じものだと思いますが、ピアノの個性なのか調律の違いなのか、そのあたりは判然とはしなかったものの、ともかくずいぶんと音の違うピアノでした。

マロニエ君的には迷いなく片方のピアノが好きで、もう一方はほとんど感心できませんでしたが、それはこれ以上書くのは止しましょう。
座席は12列目のセンターでしたが、この会場の音響がふるわないのはほとほと嫌になりました。
もっと後方であれば多少は違ったのかもしれませんが、常識的な位置としては決して悪い席ではなく、出し物によってはGS席にあたるエリアですから、これはいかにも承服できないことです。

ピアノのアタック音が壁に激突して反射してくるのがあまりにも露骨で、まるで音が卓球かビリヤードの玉の動きみたいで、いわゆる美しい音による心地よさとは無縁です。
これがそのへんの体育館とかであれば致し方ないとしても、ここは地域を代表する本格的なコンサートホールなのですから、ただただ残念というほかありません。
つい数日前に行った福銀ホールは、その点では夢のようでした。
2011/10/15 Sat. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

会話がない! 

過日、ちょっと気の利いた定食を出す店に行ったときのことです。
そこは美味しくて値段も安いので、週末ともなると順番待ちが出るような人気店で、必然的にテーブル同士の距離もかなり狭く詰めた感じになっています。

マロニエ君が入店してほどなくして、ひと組の親子がすぐ隣の席にやってきました。
小学校3、4年生ぐらいの女の子と、おそらくは30代と思われるサラリーマン風の若いお父さんでした。

二人でメニューを覗き込んで、あれこれと相談しています。
はじめは麗しい光景のように思えたのですが、注文が終わると女の子は横に置いていた袋をポンとテーブルの上に置いて、中から買ってもらったばかりとおぼしき分厚い本を取り出しました。
チラッと視界に入ったところでは漫画本で、いきなりお父さんそっちのけでそれを読み始めたのはありゃという感じでしたが、今度はお父さんもやおら文庫本を取り出して、黙ってそれを読み始め、いらい食事が運ばれてくるまで、二人はそれぞれ本を相手に沈黙状態となり、まるで図書館のようでした。

しばらくすると料理が運ばれてきたのを潮に女の子は本を椅子において食べ始めます。
するとお父さんは自分のお盆からメインの料理を取り出して、自分と女の子の間の僅かな隙間にこれを置いたので、娘にも食べろという意味だろうと思いました。
ところがそうではなく、そうやって空けたスペースに読んでいた文庫本を置いて、本を読みながらの食事が始まったのには唖然としてしまいました。

男がたった一人で食事をする際に、スポーツ新聞なんかを読みながらというのは感心はしませんが、人によって状況しだいではあるとしても、小さい娘と二人きり向き合ってせっかく食事をするのに、なにもそうまでして本を読まなくてもと思います。

その若いお父さんは、口はパクパクさせながらも、目はひたすら本の文字を追い続け、ひと言も、本当にひと言も娘と会話がありません。ときどき「お父さん…」と呼びかけて、タレがどうとかお皿がどうとか言っていますが、それにもまともな反応はなく、「んー?」とかいうだけです。

横のテーブルをチラチラ見るのもどうかとは思いましたが、なにしろテーブル同士がかなりくっついているので、嫌でも視界に入るわけです。驚いたことには、文庫本は開かれた状態で完全に長方形のお盆の中に入っており、口はモグモグ、お箸はサッサと動かしながらも、かなり真剣な様子で読みふけっているのは、技巧と集中力には感心させられました。
娘の顔を見るとか、くだらないことでも話をするという気持ちが微塵もないことがわかり、マロニエ君はもともとあまりベタベタしたことをいうセンスではないのですが、さすがにこれはどういうつもりなんだろうかといささか憤慨しました。

そのうち娘のほうは食べ終わりましたが、そのあとはマンガを読むでもなく、お父さんが食べ終わるのをじっとなにもせず、足をプラプラさせながら待っている姿がなんとはなしに哀れになりました。
それでもお父さんの方は娘の状態になど一瞥もくれず、最後の最後までマイペースを崩しませんでした。

あれじゃあ、行儀やらなにやらの躾もなにもあったもんじゃないというのは一目瞭然で、家の中でも実用会話以外はほとんどないまま、好き勝手にテレビでも見ているんだろうと思います。
正しい日本語の使い方とか挨拶のしかたなどは、家庭内の日常生活の中で自然に覚えていくものだと思うのですが、ま、あの様子では到底期待できそうにはありません。

さりげなくすごいものを見たという気分でした。
2011/10/14 Fri. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

男のたしなみ? 

先日ピアノリサイタルをされた川本基さんは、終演後、拍手に応えてカーテンコールに応じられたあと、マイクを持って再びステージにあらわれました。

マロニエ君はまったく個人的な好みとして、演奏者がトークをするのは好きではありません。
演奏は聴いても、下手なトークで上っ面だけの曲の解説など聞いても仕方がないからですが、この川本さんの話はそれとはまったく違いました。
演奏も済んだばかりで、いまさら音楽の話をしてもつまらないので、ちょっと僕の日常のことを話しますと前置きされ、ドイツでの生活や、長年の目標だった運転免許をついに取ったというような話をされたのですが、その語り口が実に穏やかで、言葉が滑らかで、内容も面白く、人柄からくる品の良さがあって、こういうトークなら歓迎だと思いました。

とくに印象に残ったのは運転免許に関する話で、川本さんによれば東京で暮らしていたときはなかなか車を運転するという環境ではなかったし、ドイツでも交通網が発達していて、現実的には敢えて運転免許がなくても実生活にはなんら支障はないけれども、しかし自分はやはり男の子なのだから、やはりどうしても運転がしたいという願望があったのだそうで、今年は年頭から発奮して免許を取るという目標を立て、ついに念願叶ってそれを手にしたという話などを、ドイツの運転免許取得事情などと絡めておもしろおかしくされました。
そして現在、ドイツでは車を手に入れて、あちこちへの移動にはこれを使っているということでした。

もちろんその語り口もなかなかよかったのですが、ぜひ車の運転をしたいという男性的な可愛気のある気分それ自体が久しぶりに聞いたようで、今どきの発言としてはとても新鮮でした。
近ごろの日本ときたら、血気盛んなはずの若者は一様にしょんぼりしているし、車にもまるで興味がない由で、なにがなんでも車を手に入れるといったたぐいの情熱は失って久しい気がします。
そして、今では街中には傍若無人な自転車が無数にあふれ出て、あたかも昔の中国のようで、その中国のほうが今や世界最大の自動車購入国になっているようですから、世の中どうなるかわかりません。

川本さんはずいぶん若い頃に日本を離れてはや十数年ということですし、以前マロニエ君は拉致被害者で帰国された蓮池薫さんの書かれた文章を読んで、そのあまりの美しい日本語の素晴らしさに驚嘆したことがありますが、このように多感な時代を外国で暮らしてきた人のほうが、むしろ溌剌とした情感・情熱を失っていないような気がしていまいます。

現代の若者はもはや免許さえ取ろうという意欲もあまり無いし、取るにしても、それは車に乗りたいという願望からではなく、就職に必要な資格といった非常にさめた色合いです。当然ながら、巷には運転が猛烈にヘタな男の多いことは日々唖然とするばかりです。
こういう言い方をしちゃいけないかもしれませんが、昔はのろのろ運転をしたり、駐車場でもスパッと一発でとめられないのは決まって女性ドライバーで、その点では男の運転は実に達者でダイナミックでしたが、今はまったく状況が変わりました。もしかしたら女性のほうが上手いかもしれません。

アホみたいな運転をして周囲の流れから浮いていても、本人が気付きもしないのは大抵若い男性の運転で、この一点をみても世も末だという気がしています。
昔は、男で運転が下手ということは大変な不名誉で、もうそれだけで男じゃありませんでした。初デートでモタモタ運転でもしようものなら、いっぺんで女性から軽蔑されるような時代でしたし、運転の巧拙は、古い言葉で言うならセックスアピールにさえ繋がっていたように思います。

男も女も「らしさ」というものは、ヘンな意味ではなく色気があっていいと思うのですが。
女性が韓国の俳優に惹かれるのは、きっとそういう本能がどこか刺激されるからではないかと思います。

イケメンなんて言葉のない時代、日本の男子はもっと本質的にかっこよかったような気がします…。
2011/10/12 Wed. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

得した気分 

先日、疲れた体に鞭打ってヤマハを覗いたところCDの処分市みたいなことをやっていました。
とはいっても、量的にはごくごく少数でしたが、なんと定価の半額以下みたいな値札が貼り付けられている上に、さらにそれは最終段階に達しているらしく、どれも3枚で999円という表示がされています。

おおお、これはすごい!と思ってさっそく物色開始となりましたが、なにぶんにも数がない上に、もはや大したものは残っていませんでしたが、それでもありました。

●ヘルベルト・ブロムシュテット指揮 シュターツカペレ・ドレスデン
R.シュトラウス:ツァラトゥストラはかく語りき/ドン・ファン DENON

●ポール・マクリーシュ指揮 ガブリエリ・コンソート&プレイヤーズほか
ハイドン:オラトリオ《天地創造》2枚組 ARCHIV

●田部京子(ピアノ) マルティン・ジークハルト指揮 リンツ・ブルックナー管弦楽団
ベートーヴェン:ピアノ協奏曲第4番/第5番 DENON

という、しごく真っ当なCDを3点購入して千円札を出して1円おつりをもらうのは、さすがに申し訳ないような気分でした。

とりわけR.シュトラウスはマロニエ君としては文句のつけようがない名演で、オーケストラも超一流なら、作品との相性も最上のもので、実を言うとブロムシュテットのR.シュトラウスは初めて聴いたのですが、これほどのものとは予想もしておらず、そのあまりの素晴らしさに衝撃を受けました。あと2枚、ティルや英雄の生涯、メタモルフォーゼンなどが発売されているようですから、これはぜひとも入手しなくてはならないCDとなりました。
R.シュトラウスはこれまで、ずいぶんいろんな指揮者のものを聴いていましたが、これは一気に決定版に躍り出たという気がしました。これひとつでも大収穫です。

《天地創造》は解説によると、マクリーシュはハイドンをウィーンの伝統様式の中で捉えることはせず、ヘンデルに連なる大編成の崇高な音楽としてこのオラトリオを手がけているのだそうで、聴いていてなるほどそうかと思いました。また初版に添えられた英語版のお粗末さを払拭すべく、練りこまれ熟考された歌詞やレチタティーヴォで演奏されている点も注目です。
演奏は迷いのない、きわめて信頼性の高い安定したもので、音質も良く、この長大な音楽を美しく、そして精密かつキッパリと表現しているのは見事というほかありません。2枚組で定価は5000円もする商品で、こんなに安く買えたことは嬉しいけれど、録音も新しいのになぜ?という気がしてなりません。

ベートーヴェンのピアノ協奏曲は、田部京子のピアノが美しく繊細ではあるものの、いささか安全運転にすぎてもうひとつ面白さとか引き込まれるものがありませんでした。この人はもともと感情表現はいつも押さえ気味で、きっちりとした和食の盛りつけのような演奏をする人なので、こういう演奏になるのも頷けますが、そこはやはりベートーヴェンなのだから、もう少し何か迫りが欲しかった気がします。
日本人的繊細さと、塵ひとつない整然と片づけられた部屋のような美しさは立派ですが、音楽はただきれいに整えたら済むという世界ではないのだから、もっと本音で直截に語って欲しいものです。

たまにこんなことがあるから、やっぱり天神に出るとお店を素通りはできないなぁという確信を、またも深めてしまったようです。
2011/10/11 Tue. 02:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

福銀ホールの変身 

土曜は考えてみるとずいぶん久々の福銀ホールだったのですが、会場に入ってリニューアルされていることをはじめて知って驚きました。
なんと座席がすべて一新されおり、ずいぶん立派なブラック基調のシートへリニューアルされているではありませんか! 調べてみると1年以上経っている様子で、それだけご無沙汰だったということでもあり、なぜか誰からもこのことを聞かなかったのです。

このホールの最大の自慢はなによりその素晴らしい音響で、とりわけピアノリサイタルなどには最良の響きを持つホールだと言えることは、以前もこのブログに書いたような気がします。

開館当時はホールの音響というものにそれほど注意が払われない時代だったこともあり、音楽雑誌などでもこのホールの音の素晴らしさが何度も話題になったりしたものですが、それは現在も第一級のレベルとして健在なのは嬉しい限りです。

しかしながら音響以外ではこのホール固有の欠点もあり、福銀本店が天神の一等地という恵まれた立地にありながら、そのホールはやみくもに地下深くにあり、しかも人を下へと運ぶためのエレベーターなどが一切ないため、このホールを訪れる人はまるで音楽を聴くための苦行のように、延々と連なる下り階段の洗礼を受けることになります。
まるで地下鉱脈へでも赴くように黙々と階段を降り続けると、ようやくホールロビーに到達。
ホールの入口にはロダンの考える人(本物で福銀が購入したもの)が鎮座し、その左右両脇の2ヶ所のみから会場に入るわけですが、そこはしかし客席のあくまでも最上部に過ぎず、着席するにはさらに地底へと階段を降り重ねなければなりません。

しかも、設計が古いためか、細かいところが今どきのように人に優しい作りではなく、その会場内の段差の間隔が不規則でバラバラなために、一瞬たりとも気が抜けずに、まるで探検隊のように足元が悪いのです。

この日もマロニエ君の背後で中年の女性が足を引っかけてものの見事に転倒する一幕があり、主催者のほうがそれを聞きつけてきて、ケガなど無かったかどうかなど大変な気の遣いようでした。折しもこのホールでは足元に用心しなくてはとしゃべっていた直後のことで、まったく言葉通りのアクシデントでした。

さらに終演後は、さんざん降りた分だけ今度は上らなくてはならず、ここへ来たときは、帰りは決まって登山感覚で一気呵成に階段を上り続けなくてはならず、地上へ出たときは、それこそ体がじっとりと汗ばみ息はハァハァとなるほどです。
身体的に辛いのは2時間前後ずっと座って音楽を聴くと、それだけでも疲れるし体は動かない状態になっていますが、その態勢からサッと腰を上げていきなりビルの4〜5階分の階段を登るのは相当ハードです。

階段の話ばかりになりましたが、このホールのもうひとつの弱点が、時代故のサイズの小ぶりな貧相な座席で、色も朱色系のあまり趣味のよろしいものとは言いかねるものでした。
それがこの度、見るも立派なシートに変わっており、シート自体も大型化している上に、その間には立派な木製の肘掛けが備わり、余裕もずいぶん生まれたのは目も醒めるような驚きでした。

おそらく座席数は減少したはずですが、掛け心地もよく、以前のことを思うと本当によくなったと、嬉しいような気分になりました。
階段はむろん以前のままですが、このホールの欠点のひとつが見事に改善されたことは間違いありません。

残るは最大の欠点である階段問題ですが、なにしろ大きな銀行なのですから、この際思い切ってエレベーターをつけて欲しいし、高齢者はもちろん体の弱い人にもどうぞ来てくださいという態勢を作って欲しいものです。
2011/10/10 Mon. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

SK-EXのコンサート 

昨日は福銀ホールで行われたカワイ楽器主催のピアノリサイタルに行きました。

演奏者は川島基(かわしまもとい)さんというドイツ在住のピアニストでしたが、偶然チラシを見て行ってみる気になりチケットを購入したのですが、驚いたことにはカワイに連絡すると、すぐに自宅に持ってきてくれるサービスの良さで、このあたりに主催者の力量の違いを感じずにはいられませんでした。

おかげでプレイガイドまでわざわざ行く手間が省けただけでなく、チケットぴあなどは、表示されたチケット代金に追加して、安くもない「発券手数料」なるものを一枚毎に取られるのはかねがね納得がいかない気がしていましたから、この点も助かりました。
チケット屋がチケットを売るのは当然なのに、あれは一体なのでしょうね?

さて、このリサイタルはカワイ楽器の主催なので、当然ピアノはカワイで、福銀ホールにはカワイがありませんから、最新(たぶん)のSK-EXを持ち込んでのコンサートでした。

おそらくカワイ楽器所有の貸出用のSK-EXでしょうから、ものが悪いはずもなく、最初の曲(シューベルト=リスト:「春の想い」「君は安らぎ」)が始まったときには、緩やかな曲調だったこともあり、おお、なかなか良いじゃないか!というのが第一印象でした。

しかし、コンサート全体を通じて感じたことは、やはりCDなどで抱いていた印象に戻ってしまい、残念に感じる部分を依然として残しているというのも率直なところでした。

気になるのは、ハンマー中心部にコアを作るという思想なのかもしれませんが、はっきりした打鍵をした際には、音の中に針金でも入っているような強くて好ましからざる芯があることで、そのためかどうかはわかりませんが、全体にツンツンペタペタした印象の音になり、だんだんうるさく感じてきてしまうことです。

ヤマハとはまた違った意味で、もっと深いところからピアノを鳴らして欲しいというのが偽らざる印象です。
というのも、ピアノ自体はそんな音造りはしなくても、非常によく鳴っていると思いましたし、パワーも昔に較べるとかなりあると思いました。
ただし、全体のまとまり感があきらかに欠けており、その点ではヤマハが一歩上を行くような気もします。
そうはいっても潜在力は非常に高いピアノだと思えるだけに、画竜点睛を欠くのごとく、却ってそこが残念に感じるのでしょう。

もう一つは、これはカワイの普及品にまで等しく言えることですが、根本的に音質が暗いのはこのメーカーのピアノの生来の特徴という気がしましたし、この点はSK-EXにまで見事に受け継がれているようです。
ひとくちに言うと、単音で聴く音に、甘さやふくよかさがなく、どこか寂しい響きがあるということ。
ステージで活躍するコンサートグランドには、当然ブリリアントな面も持たせようとしているのでしょうが、地味な目鼻立ちの顔に、無理に派手なメイクをしているようで、どこか不自然さがつきまといます。

ドイツピアノの中には決して甘い明るい音は出さないけれども、毅然とした音色を持っているピアノがいくつかありますが、そういうピアノでもなく、このあたりがカワイの個性がもうひとつはっきりしない点かもしれません。

構造的な音の印象としてはフレームが硬すぎるという感じも…。
このどこか寂しげで冷たい印象が取り払われたときに、カワイの逆転劇は起こるような気がしました。
2011/10/09 Sun. 02:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

湿度計への不信 

ある調律師のホームページでオススメだった温湿度計を購入して数ヶ月経ちますが、このところ古い湿度計との間に常に10%の違いがあって、どっちが正しいのかと迷っています。

古い方は同じものが二つあるのですが、共に同じ値を示し続けているのが、またなんとも不気味で、もしかして…これはこれで正しいんじゃないかという気もしています。

新しいほうはその調律師オススメのエンペックスというメーカー品だけあって、一定の信頼性は置いていたのですが、なにしろもの自体がたいそう軽くてピアノの上ですべりやすいために、実は弾いたときの微振動によって二度ほど床に落ちてしまった経緯があります。
我が家の床はじゅうたんなので、それほど深刻な衝撃ではなかったんじゃないかとも思いたいのですが、でもやっぱりそれで狂ったのでは?という疑いもあるにはあるわけです。

新しいほうがこのところ常に10%ほど低い値を示しており、それが本当なら50%ほどで数値としては理想的なのですが、ちかごろは季節変化によって冷房を入れない時間が増えてきているので、果たして信用していいものかどうか迷っているわけです。

体感的にはやや湿度がある感じがしないでもないものの、この値が本当に正しのならいいわけですが、これを確かめるには結局もう1台買ってくるしかないのかと迷っています。

でもねえ…ひとつの部屋に新旧4つもの湿度計を並べることを考えたら、さすがに自分のおバカ度も好い加減にしなくてはと躊躇してしまうのです。

まさか人に湿度計を一日貸してというのも変ですし、こんなことなら新しい湿度計の下に滑り止めのゴムでも貼り付けておけばよかったと思いますが、でも、そもそもそんなちょっとしたことは、なんでも親切設計の日本製品なんだったら初めからつけておいてくれてもよかったんじゃないかとも思います。

まあダンプチェイサーもつけていることでもあり、もう少し様子を見てもいいとは思いますが、なんとなくチラチラと気には掛かる今日この頃です。
2011/10/08 Sat. 14:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

続々エアコン依存症 

マロニエ君のような困った体質を持つ者にとっては、季節の変わり目というのは、その時期をなんとか無事に通過するだけでも普通の人以上に大変です。

このところは朝夕は肌寒ささえ感じるまでになってきましたが、それでも、つい数日前までは夏の名残のある一時的なものだったから、折々に冷房をいれるなどして不快感を凌いでいたのですが、一昨日所用があって天神に出た折には、中途半端な気温だったところへ、あまつさえ雨まで降り出しました。

通常、雨が降れば同時に温湿度は上昇するものですが、この日は湿度のみが上がり、気温のほうは上がらずに肌寒さが加わるという変則的なものとなり、それでついにマロニエ君の体になにか異変が起こったようでした。

用事を済ませ、それでも這いつくばるようにしてヤマハなどをちょっと覗いた後に帰宅しましたが、このときはずいぶんと不当に疲れたという印象がありました。

巷ではいま、風邪がとても流行っているということを耳にしますが、ついに自分も風邪をひいたかと思うほど疲れがおさまらず、何よりも大きな変化は、ついに体が寒いと感じはじめたことでした。
本当に寒いのか、発熱のための悪寒なのかは判然としないまま、薬をのんだり寝具をやや温かなものへ変更したりと、マロニエ君が騒ぎ出すと家人も大慌てです。
この半年近く、冷房これ一筋で過ごしてきたマロニエ君の口から、ついに「寒い」という言葉を聞くのは、家人もささやかな驚きに値することらしいです。

これはなんとなく自分でわかるのですが、体内の夏冬の切り替えが一昨日を境にして、ついにガッチャンと切り替わったような気がしました。それまで多少寒くても冷房だったものが、いったんこれが切り替わると今度は一転して、ちょっと肌寒くても暖房を入れたくなる、ここがまさにエアコン依存症のタチの悪さといったところです。

自室でもそれは続き、前日まで冷房を入れるたびにフゥ〜と生き返るような気分を味わっていたものが、翌日には一転してあたりが妙に寒々しく感じられて不安になり、つい暖房を入れたくなってそわそわしてくるのです。
さすがにそれはマズかろうと一日は我慢しましたが、こんな一時しのぎはそういつまでも続くはずもなく、マロニエ君の部屋に暖房が入るのもそう先のことではないはずで、困ったもんだ…という感じです。

マロニエ君のような体調の持ち主も困りものですが、親しい医者にいわせると、もっと危ないのは倹約が体に染み込んだ高齢者なんだそうで、やみくもに電気代のかかるのを嫌がって夏はエアコンを極力使わず、自宅にいてさえ熱中症になったり、冬は暖房をケチったがために心臓や血管にストレスがかかって体調を崩す、悪くすれば入院、最悪の場合落命なんてこともあるそうで、これは専らメンタル面の働きのなせる技のよです。

こういう人達は冷暖房によって自分の体の健康を守って維持するという観念がまったくなく、自然が一番などと心底信じ切っているから、いわば無意識のうちに我が身を苛み犠牲にしてまで倹約に勤しんでいるわけで、まあそれに較べたら、エアコン依存症のほうがいくらかまだマシかぐらいに思っています。

とはいっても、マロニエ君のエアコン依存症もきっとメンタル面からくる欲求が大きいわけで、べつに健康のためでもなければ、長生きをしようとしてやっていることではありませんけれども。
2011/10/07 Fri. 01:50 | trackback: 0 | comment: 0edit

アメリカ産牛肉 

最近は円高のお陰もあるのでしょうが、ずいぶんと肉類の値段が安くなったように感じます。
とくに牛肉が安くなったように思うのですが、実際のところどうなんでしょう。

輸入肉から連動してのことなのか、国産牛もなんとなく以前より安くなっているような気がするのですが確かなことはわかりません。

さて、輸入牛肉なんて、昔はただの安物で、国産を高級品に押し上げるための肉といった印象がありましたが、あるころからこれに固有の美味しさがあることに気がつきました。
たぶんマロニエ君の記憶違いでなければ、1999年にオープンしたコストコホールセールで買うようになってらだと思うのですが、ここはアメリカの倉庫型ショップで、文字通り店内はアメリカそのもの。
牛肉などもごく一部を除いてほとんどがアメリカらの輸入品でした。

それ以前はオーストラリア産が主流でしたが、こちらは大したことなく、同じ輸入牛肉でもアメリカとの味の差は見過ごせないものがあると感じます。

これを痛感したのはコストコで販売されている、特大サイズの分厚いステーキなどで、はじめは日本人の習慣で硬さばかりを意識して、ゆっくり味わうところまでは至りませんでした。
その後、普通の国産牛のステーキなどを食べてみると、たしかに柔らかさは勝って食べやすいから味まで美味しいように感じていましたが、それでもコストコホールセールに行く度に、その気前の良い厚さや量など、買いたくなる誘惑に負けてアメリカ産牛肉も買ったりしているうちに、硬さの問題でつい見落としていた独特の美味しさがあることに気が付くようになりました。

いったんそれがわかると、その違いはより明確なものになりました。
アメリカ産にはそれ自体にいかにも牛肉らしい旨味があり、それとは対照的に味が薄いのがオージービーフだと思うようになりました。ここがもしかしたらあの飼料の違いなのかもしれませんが。
ともかく、味がいいから、今後はアメリカ産牛肉中心で行こうと思っていた矢先に、例の狂牛病問題が沸き起こり、一時は吉野家などでも大騒ぎとなって、せっかく気に入っていたアメリカ産牛肉の輸入が途絶えてしまいます。

それから数年が経って、最近ではようやくスーパーの店頭にもアメリカ産が復活してきているのは嬉しい限りです。
最近はときどきこれを食べますが、やはりアメリカ産にはカウボーイ的な野趣溢れる独特な肉の美味しさがあり、これは病みつきになります。

ところが日本人というのは、いったん刷り込まれたイメージというのは少々のことでは覆ることがありませんから、おそらくは90%以上の人が輸入肉はたんなる安物という先入観があって、あまりこれを好んで買おうとはしていないようです。
例の騒ぎの後遺症もあって、位置付けとしてはアメリカ産はオージービーフのさらに下で、国産を頂点にしたヒエラルキーが消費者の意識の中にしっかり出来上がっているような気がします。

国産牛の場合、我が家は最上級品なんて買いませんから、せいぜい中ぐらいのものと較べると、たしかに国産牛は味もそこそこで、食べやすい感じはあるものの、アメリカ産の独特のコクのあるワイルドな味に較べたら個人的には国産牛が味に関して上だとは言い切れない気がします。

先日など、スーパーでスライスしたアメリカ産の牛肉がかなり安く売られていましたが、そのスーパー自体が極端に変なモノは置いていないので、試しにこれを買ってみたところ、やっぱりあのアメリカ産独特の濃密な肉の味がありました。
牛肉はやっぱりこうじゃなくちゃと食べるたびに思ってしまいます。
少なくとも輸入ピアノと日本製ピアノの音色の違い以上のものがあるとマロニエ君は感じています。

アメリカ産は格下だと思い込んでいる方、いちど偏見を取り払ってアメリカ産牛肉特有の美味しさを味わってみてはいかが?
なによりも、安全性の面を最優先に心配される方には向かないかもしれませんが。
2011/10/06 Thu. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

ベーゼンとクラヴサン 

最近はちょっと変わったCDを聴いています。

演奏がイマイチなので、演奏者の名前は敢えて書きませんが、日本人の女性ピアニストのもので、ドビュッシー、ショパン、ラヴェル、グリーグ、リストなどの作品が弾かれているもの。
なんで買ったのか、よくはもう覚えていませんが、おそらくベーゼンドルファーのインペリアルでなく275を使っている点と、もうひとつはマロニエ君がドビュッシーの中でもとくに好きな作品のひとつである「沈める寺」が入っているので、それが275で演奏されるとどういう感じになるのかという興味があったのだろうと思います。

ところが演奏にがっかりしてそのまま棚の中に放り込んでいたのです。
曲を聴くにも、ピアノの音を味わうにも、演奏がちゃんとしてなくてははじまりません。
それを再挑戦のつもりで、もう一度ひっぱり出して聴いてみる気になったのです。

ピアノ自体は素晴らしい楽器で、コンディションもまことによろしく、艶やかさと気品が両立しており、この点では理想的なベーゼンドルファーではないかと思われます。とくに「沈める寺」で度々登場する低音はスタインウェイとはまた違った金色の鐘のような響きだし、全体にはひじょうに明確な色彩にあふれていたと思います。

ショパンのバルカローレなどもひじょうに美しい世界で、それなりに納得させられるものがあったのは事実ですが、それはこのピアノの調整、とりわけ整音が素晴らしく良くできている点に尽きるという気がしました。
それは、変な言い方ですが、ある意味ベーゼンドルファーらしくない音造りをされていて、このピアノの持つウィーン風のトーンのクセみたいなものがほとんどないために、その音はただひたすら美しいデリケートな楽器のそれになっていたようです。あと一歩ウィーン側に寄ったらショパンは拒絶反応を起こすのではないかと思われます。
そんな中ではラヴェルとリストが最もベーゼンドルファーに相性がいいようにも感じました。

全体としてはとても美しいけれども、根底にフォルテピアノを感じさせる要素があるのも間違いなく、そこがまたベーゼンドルファーが何を(誰が)弾いてもサマになる万能選手ではないことがわかり、そのピアノはその儚い美しさこそが魅力だろうと思われます。

もう一枚は、フランスのジャック・デュフリによるクラヴサンのための作品集で、演奏はインマゼール。
デュフリは1715-1789年の生涯ですから、クープランやラモーの後に続く宮廷音楽・クラヴサンの名手というとこになるでしょう。フランス以外ではバッハとモーツァルトの中間の時代を生きたことになります。
デュフリがもっとも影響を受けたというのがラモーだそうですが、なるほどその曲調はどれもラモー的でもあり、この時代のクラヴサン作品の中ではやはりフランス的な華やぎと、それでいてどこか屈折した享楽が全体を覆っています。

またバッハのような厳格なポリフォニックの作品ではなく、すでにメロディーと伴奏という様式と後に繋がるロマン派的な萌芽も随所に感じることの出来る、聴いていてなかなか面白い作品です。
デュフリの作品は当時の王侯貴族にも受け入れられ人気があったといいますから、当時の貴族社会を偲ぶ手立てとしてもこれは聴いていておもしろいCDだと思いました。
そしてなによりもマロニエ君の耳を惹きつけたのは、そのクラブサン(チェンバロ)の音色でした。

大抵のチェンバロは弦をはじく音が主体で響板がそれを小さく増幅させていますが、ここに聴くチェンバロには思いがけない肉厚な響きがあり、しかも弦楽器のように、響板がぷるぷると振動しいているのが伝わってくるほどのパワーがありました。しかもきわめて色彩的。

ただツンツンと寂しい音しか出さないチェンバロも少なくない中で、ここで用いられている楽器はなんともゴージャスで艶やかな潤いのある音を出すのには驚きました。
1600年代に作られた楽器のコピー楽器で、1973年に作られたものだそうですが、なんとなくその色彩感や華やかさがベーゼンドルファーの響きにも通じるものを感じたところでした。
2011/10/05 Wed. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

仮の嫁入り 

日曜は、現在ピアノ購入を検討している知人のご夫妻がマロニエ君宅に来られて、しばらく我が家のピアノを弾いていただきました。
ピアノは(他の楽器もそうかもしれませんが)、自分が弾いているときに耳に聞こえてくる音と、人が弾いている音を少し距離を置いて聞くのではかなり印象が違い、とても客観的に聞くことが出来るので、マロニエ君自身にも大いに楽しめる体験でした。

とくに大屋根を開けることは普段まずないので、こういう機会を幸いに全開にして弾いていただきましたが、普段とはまったく違う自分のピアノの一面を知ることができて有意義でした。

我が家で2時間近く過ごしてから、楽器店に移動。

そこにあるピアノは小型のグランドで、既に弾いたことのあるものではあったものの印象が良かったために再度見に行くことになったのでした。
前回とは別の場所に置かれていたましたから、置かれた環境によってピアノがどのような変化をするか、つまりピアノそのものがもつ基本的な特徴がどの程度のものであるかまで確認することが出来たわけですが、場所が変わってもまったくその長所が衰えることも影を潜めることもなく、はっきりと我々にその力強い魅力を訴えてきたように感じました。

驚いたことには、席を外された奥さんが再び店に戻ってくる際に、遠くまでこのピアノの音が周辺の喧噪を貫いて朗々と鳴り響いてきたとかで、やはりスタインウェイの遠鳴りは大したものだと思いました。

知人は、ついにピアノ自体については概ね納得するに至りましたが、残るはこのピアノを購入して自宅に置いた場合、同様の鳴りや音色がこのまま得られるかという点で悩み始めたところ、この日はたまたま決定権のある営業の人物が先頭に立って対応していたこともあり、だったら家にピアノを入れてみましょうか?という思い切った提案をしてきました。

購入するかどうかもわからない高額なピアノをいきなり自宅に運び入れるというのは、驚きもあり抵抗感もあったようですが、マロニエ君はこれ幸いだと思いました。
まさかこっちからそれを頼むわけにはいきませんが、店側が自発的にそれをやってくれるというのなら、現実的にこれに勝る確かな確認方法はないわけですから、この際そうしてもらったらどうかと、すかさず小声で言いました。

果たしてそのような手続きを取ることとなり、後日このピアノは知人の自宅へと、いわば仮の輿入れをしてくることになりましたが、はてさて結果はどうなりますことやら。

購入すればきっと一生の宝になること間違いなしだとマロニエ君は思いますが、あとは細かな条件的なものもあるのかもしれません。
いつもおなじことを書いて恐縮ですが、ピアノを買うというのは実にいいもんですね!
人の事でも楽しくなってしまいます。
2011/10/04 Tue. 02:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

コンサート会場の規模 

ヨーロッパ人の有名ピアニストによるプライベートなコンサートがあり、仲間内と聴きに行ってきました。
雰囲気のある美しい会場で、コンサートも楽しめるものでしたが、その暑さには参りました。

このところエアコン依存症のことを書いていた矢先だっただけに皮肉だったのは、会場の空調が思わしくなく、暑苦しさにめっぽう弱いマロニエ君は、正直音楽なんてどうでもよくなるほどフラフラになってしまいました。なにかの修行のように暑かった。

ところで、小さな会場のコンサートには、一般的なホールのそれとは違った味わいがあるといわれますが、定義としてはいちおう理解はしても、ホールのほうが優れている面も多いとは思います。
しかし、巷では普通のホールでのコンサートにめっぽう否定的で、小さなサロンコンサート的なものを必要以上に有り難がって称賛する一派があるのは、いささか考えが偏りすぎじゃないかと思います。

(今回のコンサートとは直接関係はない話ですが)この手の人達の主張としては、音楽とはそもそもそれほど大きな会場で大向こうを唸らすためのものではなく、小さな会場で行われるものこそが、もっとも本来的に正しく、味わい深く、音楽の感動も深く、演奏者の息づかいを直に感じ、生の感動が得られる理想的なもので、それがいかにも贅沢だというようなことを胸を張って言いますし、心底そう信じているようにも見受けられます。

これは、言い分としてはわからないでもない部分もあり、例えばNHKホールとか東京国際フォーラムみたいな巨大会場でピアノなんぞ聴いても、音は虚しく散るばかりで、たしかにこれが本来の姿ではないでしょう。

しかしながら、大きめのホールの演奏会すべてに批判的で、小さな会場のコンサートばかりを最良のものと言い募る主張にも、現実的には大いに疑問の余地ありだと思うわけです。
マロニエ君自身、小さな会場のコンサートにはもうあちこちずいぶん出かけてみましたが、結果として納得できるものであった記憶は、実をいうとほとんどありません。
理由はそのつどさまざまですが、ひとつ共通して言えることは、小さい会場には小さい会場固有の弱点が多々あり、けっして上記のような良いことばかりではないからです。

具体的には、やはり狭いところに人が鮨詰め(一人あたりの前後左右の寸法はホールの固定席より遙かに狭い)となり、息苦しい閉塞感に苛まれること、イスが折り畳みなど小型の簡易品になるので、これにずっと座り続けることの身体的苦痛(骨まで痛くなる)、奏者も含め大抵は同じ高さの平床なので最前列以外は見たくもない他人の後ろ姿ばかりが眼前に迫り、演奏の様子など満足に見えたためしがない、小さな空間では響きらしきものも望めず、楽器との距離が近すぎて音は生々しく演奏が響きによって整えられない、ピアノもほとんどがコンサートに堪えるような楽器ではないなど、現実はやむを得ない妥協と忍耐の連続なわけです。

だからサロンコンサートなんて言葉だけは優雅なようでも、現実には快適なホールにはるかに及ばない厳しい諸要素が少なくないわけです。遊びならどんなに素晴らしいスペースであっても、それがひとたびコンサートともなれば、ちっちゃな空間故の限界が露呈するというのが掛け値のない現実だと感じます。

要するに、普通の住環境でも、なにも豪壮広大な邸宅で暮らしたいとまでは思いませんが、できることならゆとりのあるそこそこの広さをもった住居が望ましいわけで、狭くて小さなマンションこそが理想的で贅沢で味わい深いなんてことはまさかないでしょう。
これと同じで、音楽がゆっくりと翼を広げられるだけの、ゆとりのある場所にまず奏者や楽器を据えてから、しかる後に奏される音楽に身を浸したいものだと思うのです。

そういうわけで、べつにマロニエ君は小さなコンサートというものを頭から否定するものではありませんが、最終的・総合的に最も心地よくコンサートが楽しめるサイズがどれくらいかと考えた場合、一般的に言うところの中ホール(500人〜800人ぐらいな規模)ぐらいで行われるコンサートだろうと、個人的には思うのです。

東京では紀尾井ホールや東京文化会館小ホール、福岡なら福銀ホールぐらいのサイズです。
2011/10/02 Sun. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

ANAの背面飛行 

パイロットの操作ミスで、沖縄から東京に向かっていたANAのボーイング737が浜松付近でほとんど背面飛行に及んでいたことがわかり、このところの報道メディアはしきりにこれを取り上げていました。

この事故は、飛行中トイレに立った機長が戻ってきたときに、副操縦士が操縦室ドアのロックボタンを解除する操作をしたとき、誤って機首を左右に動かすつまみを2回(たぶんドアが開かないからもう1回となったのでは?)操作し、それにより機首が急激に左を向いて同時に下向きになり、機体は自らの重量を支えられずに、ほぼ裏返しになりながら1900メートルも急降下したというものです。

最近の飛行機はテロやハイジャック防止のために操縦室のドアがいちいちロックされる仕組みになっているとかで、中からロックを解除しないと開かないようになっているんだそうです。

機体がほぼ裏返しで急降下したというのは、ごく最近フライトレコーダーの記録解析に基づいてANAが発表したものでしたが、この事故が起こったときにマロニエ君は友人らと話していたことは、「操縦室のドアロックを解除する」と「機体の方向を変える」という、まったく次元も性質も異なる内容の操作を、訓練を受けたパイロットが間違えるなんてことがあるのだろうか、という点で大いに疑問でした。

飛行機の操縦室のことは知りませんが、常識的にいうと、操作ボタンなどはその機能によっておおよその位置が分類され、人間の感覚を必要以上混乱させないような配慮がされているはずで、とりわけ多くの人命を預かる乗り物などにおいて、それは工学設計の半ば常識だと思ったからです。

ところが、ほどなく新聞紙上に問題のスイッチ周辺の写真が掲載され、間違えた二つのつまみに2つの赤いマルがつけられていましたが、それは大きさがやや異なるものの、驚いたことにいかにも似たような色と形状で、しかもその二つはごく近い(写真で見た印象では10センチ以内ぐらい)だったので、これを間違えるのはなるほどあり得る話だと思いました。

もちろん詳しい状況はわかりませんから、何かを断定することはできませんが、写真を見た限りでは機体の設計のほうに問題があるようにも思われ、ミスをおかした副操縦士が少々気の毒にも思えてきたのでした。
マロニエ君がパイロットならそれこそ2回に1回は間違えそうです。

ところがワイドショーなどでは、この問題で元パイロットまでスタジオに呼んできて、えらく深刻な様子で、とくに司会者やタレントのコメンテーターはつまみを間違えた操縦士を非難しまくっていました。
最近は本来必要と思われる自分の考えとか社会に対する批判などはろくにできないクセに、ひとたび人命などという建前がつくと、一気に語調を強め、総攻撃となるのは見ていて違和感を覚えます。

しまいには、ある若いタレントが、「パイロットはお客さんの命を預かっているという自覚がないのではないか」「たかだか3時間のフライトでトイレに行くなんて、たるんでいるからだ」「自分達でも仕事の時はトイレに行けないことがなる」などと、まるで人間の生理現象まで否定するような言い方をしたのは驚きでした。

もちろんパイロットには最上級の慎重さをもって操縦にあたってもらわなくちゃ困りますが、だからといって生身の人間ですからトイレぐらい行くのは当たり前でしょう。
わざとらしいコメントもほどほどにして欲しいものです。
2011/10/01 Sat. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit