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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

中古スタインウェイ 

知人がピアノ購入を検討しているらしく、大手楽器店にある戦前のスタインウェイのS型を先日見に行きました。
戦前のモデルですが、ほぼ完全なオーバーホールがされており、見た感じではパリッときれいな印象で、とても70年以上経ったピアノには見えないものでした。

とくにきれいだと思ったのはボディの塗装で、赤みがかった美しいマホガニーの上にクリアーが上手く吹き付けられており、こういうことは直接音とは関係ない部分ですが、やはり購入を検討する中古品の場合、楽器としての内容もさることながら、視覚的な美しさは大きな魅力になると思います。

人間にとって、視覚的要素というのはやはり小さくない部分で、その影響を受けるのが普通ですし、逆にそれを完全に度外視するということの方が極めて難しいと思われます。
とりわけピアノは中古でも輸入物の一級品となるとかなり高額な買い物ですから、心情として見た目の美しさもたいへん重要になり、音や響きはもちろんのこと、目を楽しませるものでもあってほしいものです。
見た瞬間の第一印象というのは後々までその影響を引きずりますから、もしマロニエ君が中古ピアノ販売の経営者なら、内容の充実は当然としても、見た目も重視するでしょう。そのために少し値が張っても、視覚的な要因にもじゅうぶん堪えるような仕上げをするだろうと思います。
どんなに麗しい音色を紡ぎ出す楽器であっても、見た目がぼろぼろの傷だらけでは購入意欲もそがれますから。

さてこのピアノ、率直にいうと整調面でまだまだ手を入れるべきと思われる部分もありましたから、現状のままでもろ手をあげて勧める気にはなれませんでしたが、基本的には大変健康な元気のあるピアノだと思いました。
驚くべきは、とにかく良く鳴る溌剌としたピアノで、その音はとても戦前生まれの奥行きが僅か155cmしかない小さなピアノとは思えません。いまさらながらスタインウェイの持つパワーと、その持続力には脱帽させられました。
(ちなみにこれ、ヤマハのCシリーズ最小のC1よりもさらに6cmも短いサイズで、もっとも一般的なC3などは186cmですから、それより31cmも短いピアノです)

日本のピアノ(少なくとも現行普及品であれば)なら、もっと何サイズも大きなモデルでも、このスタインウェイの最小モデルに、ピアノとしてのパワーの点ではとても敵わないという印象でした。
もちろん音質然りで、とくに少し距離を置いて聴いていると、その密度の高い聴きごたえのある音ときたらさすがというほかなく、つい欲しくなるピアノでした。
先日の練習会での100歳のブリュートナーの枯れた感じもとてもよかったけれど、この73歳のスタインウェイのパワーはまだまだ若々しく、さらに次元の違いを感じます。

外装やフレーム、響板なども全塗装され、内部の消耗品や弦までかなりの部分が新品の純正パーツ(という話)に交換されているので、総合的にみるとじゅうぶん納得できる価格設定のように思われました。
ここの営業マンが主に関東に集中する同社の在庫表を見せてくれましたが、大半のピアノが純正パーツを使ってOH(オーバーホール)されており、これが真実言葉通りなら、その販売網と相まって輸入ピアノ業界では脅威だろうなあとも思いました。

普通はスタインウェイの本格的なOHともなると、国産の新品グランドが買えるぐらいの費用がかかりますから、それを思うと、一気にコストパフォーマンスが増してくるようです。
ただし、真正な作業であるかどうか、本当に純正パーツを使っているかどうかまではマロニエ君にはわかりかねますが。

すくなくとも「オリジナル」と称して、消耗部品にはなにも手を付けず、表面的な調整だけでお茶を濁して、ずいぶん立派な値段で売っている輸入ピアノはごろごろしていますから、それよりはよほど良心的な気がしました。
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2011/08/31 Wed. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

ダルベルトの迫真 

フランスの中堅だったミシェル・ダルベルトも、もはや50代後半、ある意味では今が絶頂期にあるピアニストかもしれません。
彼のリサイタルの様子がBSで放送されました。

この人は昔から名前は聞くものの、なんだかもうひとつわからない人という印象で、CDなどもいまいち買う気になれない人でした。少なくともマロニエ君にとっては。

今年、すみだトリフォニーホールで行われたリサイタルから、シューマンの「ウィーンの謝肉祭の道化」と「謝肉祭」が放送されました。この人の演奏を見ていて最も気になるのは、フレーズの間でもやたらパッパッと手を上げることで、あんな奏法がフランスの伝統的奏法にあるんだろうかということです。

パリ生まれのパリ育ちで、コルトーの影響を受け、ペルルミュテールに師事したといいますが、そこから想像されるフランスらしさみたいなものは感じられませんし、そもそもそういう演奏を期待するとまったく裏切ってくれるのが決まってこのダルベルトでした。
いわゆるフランスピアニズムとは故意に外れた道を行こうとしている印象。
レパートリーもいわゆるドイツロマン派を得意とする、フランス人の音楽的ドイツコンプレックスというのはわりにあって、現在もグリモー、古くはイーヴ・ナットなどもその部類でしょう。

ただし、フランスピアニズムといっていることその自体がこちらの勝手な思い込みかもしれません。堅固な構成力とか論理性よりも、フランス人は流れるような線の音楽を描き出したり、どこか垢抜けたセンスを表出させたりするというイメージが我々に根強くあるからでしょう。

ところがこのダルベルトはそういった要素から全くかけ離れた、その見た目の甘いマスクとも裏腹に、木訥でごつごつとした肌触りの悪い音楽です。洗練の国フランスどころか、むしろそれは無粋で益荒男的で、音楽はフレーズごと、否フレーズの中のさらに小さな楽句によって途切れ、寸断され、そこにいちいち上げた手が、これでもかという無数のアクセントや段落を作り出すのは、聞いていてちょっとストレスになることがあります。

こういう具合で、ダルベルトのピアノはあまり好きではないのですが、それでもひとつだけ大変満足させられるものがありました。
それは迫真的にピアノを良く鳴らし、演奏を決してきれいごとでは済まさないという点で、この点は最近では希少価値の部類だと思います。
ダルベルトはどちらかというと小柄で、手足の長さも日本人と変わらないような体型ですが、それでも椅子が低く、そこから上半身の重さと筋力のかかった硬質な深みのある音を出します。
激しいパッションが燃え立ち、低音なども迫力ある深いタッチが随所に現れ、ピアノがいかんなく鳴らされているのは聴きごたえがあり、この点だけでも近ごろではめったにない充足感に満たされました。

最近の若いピアニストは、楽々と難曲を弾きこなして涼しい顔をしていますが、そのぶん音楽に迫力がない。
その日その場での演奏に何かをぶつけているというナマの気概というか、情熱のほとばしりがないのです。
たしかに汚い音もあまり出しませんが、全身全霊をこめて絞り出すフォルテッシモもなく、淡々と合理的な練習成果を披露するのみ。まるでスーパーで売っているカタチの揃ったきれいだけど味の薄い、小ぶりな野菜みたいで、土と水と太陽の光で育まれたという真実味がない。

その反対のものを見せてくれただけでもダルベルトを聴いた価値があったように思いました。
とりわけ左手の強いピアニストというのは、それのないピアニストにくらべると何倍も充実した響きを作るようです。
2011/08/30 Tue. 02:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

ペトロフ 

ペトロフのグランドを弾ける機会があり、知人と連れ立ってお試しがてら行ってきました。

小型グランドで外装は木目のチッペンデール、音も含めて個性的なピアノでした。
ペトロフのユーザーに言わせると、このピアノはスタインウェイなどとは目指す方向が違うもので、いわば「木の音」がするということを強く主張されている方などもあるようです。この意見にはマロニエ君の少ないペトロフ経験でいうと、いささか疑問に感じる面もありましたが、今回もその疑問が覆ることはありませんでした。

スタインウェイと方向性が違うことには異論はありませんし、いわゆるデュープレックスシステムを持たないピアノなので、響き自体にある種の直線的な率直さを感じる音色ではあると思います。

しかし、ペトロフの音には倍音と雑音の両方がむしろ多めで、しかもかなり金属音を含んだするどい発音のピアノだという印象があり、これがペトロフ独特の音色を作り出していると思います。
そしてその音は、東欧に流れる気質そのものみたいな響きで(チェコじたいは中央ヨーロッパに位置する国ですが)、こういう音を好む人も多くおられると思います。
ひとつひとつの音に重さがあり、いわゆる明るい現代的なトーンの対極にあるピアノでしょう。
また、ドイツ的な理性と秩序の勝ったピアノでもなく、生々しい野性味さえ感じる音ともいえそうで、やはりこれはまぎれもなくドヴォルザークやスメタナを生んだ国の、深い哀愁に満ちた音だと思います。

ペトロフは価格に比して材料がよいピアノであることも有名でしたが、それはその通りだと思います。
ただしそれはあくまで音に関する部分だけかもしれません。
とりわけ白っぽい目の揃った響板などはそれを如実に物語っていたように思いますし、音自体にも良い材質を使ったピアノならではのパワーがあり、音が太く、よく鳴っていたと思います。

ただし、工作や仕上げのレベルは率直に言ってそれほどでもなく、この点では中国やアメリカのピアノ並で、全体の作りとか仕上げは残念ながら一級品のそれには及ばないものがありました。
製品としての仕上げには価格に対して必要以上のことはしないという、はっきりした割り切りがあるようにも感じられ、ピアノはここから先を工芸的に美しく仕上げるとなると一気にコストが上昇するという感じが伝わってくるようでした。
その点では日本のピアノが大量生産でありながら、あれだけの(仕上げの)クオリティを保っているのは、なるほど世界が目を見張るだけのものがあると理解できます。

さて、今回弾いたピアノはタッチ面で無視できない大きな問題を抱えていました。
キーが重めで、しかもストロークの比較的浅い部分で発音してしまうので、指先とハンマーの反応に一体感が得られず、コントロールがおおいにしづらい状態でした。大音響でバンバン弾く分にはともかく、デュナーミクや表情の変化に重きを置く演奏にはまったく向きません。

ただし、現代のペトロフはアクションはすべてレンナー製のごく標準的な基準で作られているらしいので、これは調整次第でじゅうぶん解決できることだと思われました。
それだけピアノに本来の輝きを与える役どころは技術者の熱心な仕事にあるということでもあります。

どんなに鳴りの良いピアノでもタッチコントロールが効かないことには魅力も半減ですが、しかし、逆を言うと生来鳴る力のないピアノを鳴るようにすることはまず不可能ですから、この点でペトロフの潜在力は旺盛で、おおいに可能性を秘めたピアノだという印象でした。
2011/08/29 Mon. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

なんちゃってスタインウェイ 

知らぬ間にポスティングされているフリーペーパーの中には、60ページに及ぶオールカラーのそれこそ写真週刊誌ぐらいの立派なものもありますが、今回は下記のような内容のため、あえてその冊子の名前は書くことは遠慮します。
内容は大半が食事の店の紹介などで、後半にはエステなどの広告に至るという、わりによくあるタイプです。

新聞を見た後、朝ポストに入っていた9月号とやらをぱらぱらやっていると、この冊子のプロデューサーという人物が、あるレストランを訪問して、そこの若いオーナーと誌面で対談をやっていました。
その内容はここでは関係ないのですが、そこに掲載されている大きな写真がマロニエ君の目を惹きつけました。

このレストランは食べ放題形式で、音楽のライブ演奏をやっているらしく、対談する二人は店内に置かれたグランドピアノの前で、プロデューサーは手振りを交えてさも何かを語っているところ、迎えるオーナーはスッと左手をピアノに添えて、両者かっこよく立ち話をしている感じの写真が大きく載っていました。

ピアノは大屋根を閉じた状態で、斜め後ろからの角度でしたが、普通の小型グランドにもかかわらず、サイドに金色の文字とマークがあり、そこには明らかに「STEINWAY & SONS」の文字とその中央上に例の琴のマークがあるのです。
はじめはへええと思ってみていたのですが、んー?という違和感を覚えるのに大した時間はかかりませんでした。

マロニエ君はごく有名どころのピアノであれば、マークを見なくてもディテールの特徴などから、だいたいどこのメーカーかはわかります。
その上でいうと、この写真に写ってるピアノはどうみてもヤマハだと思いました。
それで写真を凝視すると、果たして4つの点でヤマハである根拠が見つかりました。それはとりもなおさずスタインウェイではないという証明にもなるわけです。

対談にはピアノのことは触れられていませんでしたが、このレストランのホームページを見てみると、やはり後方から大屋根を開けた状態の写真があり、そこでさらに3つの点でスタインウェイにはない特徴を見出しました。
合計7つの根拠をもって、このピアノがスタインウェイでないことは明白なのですが、なぜそんな偽装表示みたいなことをしているのか…単なるブランドのパクリでしょうか。

ピアノのロゴマークは真鍮のパーツきちんと入れるなら塗装屋など専門家に依頼しないと、とても素人が出来ることではありません。あるいはもし、これがレーザーカッターなどで作られたデカール(ステッカーのたぐい)だとすれば、鍵盤蓋にあるロゴマークはどうなっているのかと思います。
正面には「YAMAHA」、サイドには「STEINWAY & SONS」というのもちょっとねぇ、考えにくいです。

もし両側に真鍮のロゴパーツを埋め込んでいるのなら、これはもうかなり本格的な作業です。
お店では毎週木曜から日曜までディナータイムにジャズや映画音楽の生演奏をやっている由ですが、演奏する人達はこういうピアノを前にしてどんな気分なのかと思います。

できれば実物を見てみたい気もするので、近くだったら見物がてら食事に行ってもいいのですが、あいにくと北九州方面なので、そうまでしてわざわざ行く気にもなりませんが、こんなピアノ1台があるというだけで、なにやらお店の印象まで変わってくるようです。

このなんちゃってスタインウェイ、だれか北九州方面の人にでも頼んで、偵察してきてほしいところです。
くだらないけれども、そうざらにはないピアノだとは思います。
2011/08/27 Sat. 02:04 | trackback: 0 | comment: 0edit

雨天順延 

全国的にも大雨が頻発して列島いたるところが荒れ模様のようですが、福岡でもなかなか天候が定まりません。
先日など市内で竜巻まで発生して被害が出たというニュースには驚きました。

梅雨のようなしとしと雨ではなく、降り出すとかなりな勢いでの猛烈な雨であることが特徴です。
それが少しも一定せず、収まったかと思うと、またものすごい雨音に包まれます。

やっと晴れ間が出たかと思えば、午後は一転してにわか雨になったりと、とにかく天候そのものが迷走気味でころころ変わる日々が長らく続いています。

今年のちょうど梅雨明けぐらいの時期に、除草剤を撒き散らして雑草を根絶やしにしていた我が家では、これが功を奏して今年の夏の草戦争は見事に休戦となりました。
それに連なってか、蚊の発生も例年よりはうんと少ないものでしたが、その点に関しては放射能の影響がつぶやかれているようでもありますから、実際どちらの影響なのかはわかりません。

さて、その除草剤散布の効果で、今年は雑草のまるでない庭を見るたびにヤッタヤッタと喜んでいたところでしたが、どうやら効力に期限も見えてきました。8月に入ったあたりから、新たな雑草が小さくポツポツと出てきたかと思うと、日に日にそれが成長し、今ではかなりの部分があてつけがましい緑で覆われはじめました。
緑色それ自体はなかなかきれいな色で、色彩的としては結構なのですが、しかしその正体があの憎らしい雑草の再襲来かと思うと、とてもじゃありませんが楽しんでなどいられません。

早いうちに再度除草剤を再投下したいと狙ってはいるものの、こうも天候が著しく不安定では、いつまで経っても実行できない状態が続いています。現に、よほど今日やってしまおうかと思いながらも躊躇したところ、夜には集中豪雨のようになったりすることが何度もあり、そのたびに撒かなくてよかったとつくづく思うわけで、こんなことが3回も続くと、よほど天候が安定しないと迂闊にやっても無駄になるばかりです。

しかし、そうやって一日延ばしにしている間にも、雑草は確実に成長して、もう今では以前の勢力へと着実に近づきつつある気配ですから、まさに地面と空とを見比べる毎日です。
昨日は珍しく雨が降りませんでしたが、平日で実行できず、次の機会を伺っています。

そういえば、裏のマンションとの境目なども細長い雑草天国の様相で、この部分はマンション側の敷地なのですから向こうできちんと処理をして欲しいものですが、これがまた、ものの見事にほったらかし。
連絡しようにも管理人の電話番号もわからず、表はセキュリティまみれみたいな排他的な感じなので、普通の家のようにちょっと訪ねていくという雰囲気でもなく、こういう点は、やはり現代はいやでも人間の関係が希薄だということをしみじみ感じます。

まあ、このマンションの高い壁に助けられて、夜遅くまでピアノを弾いたりしていますから、大局的にはありがたいところもあるのですが、そうはいってもやはり敷地内の雑草の処理ぐらい、せめて年に一度ぐらいはして欲しいものです。
下手に草の話を持ち出して、逆にピアノの音のことでも言われるなら、それこそ藪蛇というものですから、だったら触りたくないですが…。
2011/08/26 Fri. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

動物の謝肉祭 

フランス人のセンスに感服することは折に触れてあるものですが、またしても驚かされるハメになりました。

サンサーンスの動物の謝肉祭がひとつの可愛らしい、あっさりとした白の世界に作り上げられた素晴らしい映像を見ました。
指揮はチョン・ミョンフン、フランス国立放送フィルハーモニー管弦楽団と二人の若い女性ピアニストによる演奏ですが、床も周囲も真っ白のスタジオで演奏され、別所で収録された子供部屋での親子が動物の謝肉祭の絵本を見ることで、ページを繰るごとに音楽が引き出されていくというスタイルです。
この父親役となったのはフランスで有名な人気喜劇役者スマインで、彼の名演技がこの映像をより素晴らしいものにするのに一役買っていたことは間違いないでしょう。

さらに圧巻なのは、その演奏中の現実のオーケストラの中に、なんとも可愛らしいアニメーションの動物たちが現れ、のしのし歩いたり、飛んだり跳ねたりと、さまざまにデフォルメされた動物たちの動きが実にまた精妙で、よほど周到な準備がされたものだろうと思われます。この絵の動物たちが、親子が見ている本の中から飛び出して、チョン・ミョンフンの傍に行ったり、奏者の間であれこれの動きや遊びを展開します。

後半には父親役のスマインがやってきて指揮棒を振る場面がありますが、それがまたなんともサマになっていて、いわゆる役者の俄仕込みとは思えない、そのいかにもコミカルで音楽的な動きには感心しました。

全体に横たわる趣味の良さ、垢抜けた感性はさすがはフランスというべきで、日本人にはどう転んでも作り出せない世界だと思います。動物といえば緑をふんだんに使ったりと、うるさいような装置がごてごてと並ぶことになるような気がします。
とりわけ白の使い方は絶妙で、日本人が白の世界を作ると、雪の世界か、さもなくば温かみのない殺伐としたビルの内装のような冷たい世界か、あるいは味も素っ気もない病院みたいな世界になるように思われます。
フランス人は白を他の色と対等な、白という色として捉えているような気がしますが、どうでしょう。

親子を登場させるにしても、こんな絵本の世界でやさしく子供に読み聞かせる愛らしい情景となると、日本ではゴツイおじさんと小学生ぐらいの息子という設定はまず絶対に考えられない。
まず思いつきもしないでしょうし、誰かが提案しても、理解が得られずまっ先にボツになるに違いありません。
おそらくは猫なで声を出す若くてきれいなお母さんと、幼稚園ぐらいの可愛い子供のペアといったところでしょう。

しかしそれではただきれいな作り物の世界になるだけで、ここで見られるような自然な親子の間にある触れ合いとか味のある情感が自然に滲み出てくるということがないと思います。
この映像を見ていて、常に対照的なものとして頭から離れなかったのが、NHKの音楽番組などで使われるスタジオの野暮ったいセットの数々でした。いかにもあの紅白歌合戦に通じるような、くどくてわざとらしい、結婚式の披露宴的な世界を次から次に作り出しては、そこでクラシックからポピュラーまでの様々なパフォーマンスが収録されますが、一体全体あのセンスはどこから来るのかと思います。

この映像の監督はアンディ・ゾマー、ゴードンということでしたが、まさにその首尾一貫したあっぱれな仕事ぶりには脱帽でした。
くやしいけれど、やっぱり彼らにはどだい適わないと思います。

ちなみに、ここで使われた2台のピアノはヤマハのCFIIISで、やっぱりフランス人はよほどヤマハが好きらしいことはここでも確認できました。
2011/08/25 Thu. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

演奏は誰のため? 

ピアノクラブという、いわゆるピアノの弾き合いクラブに所属して秋に丸二年を迎えようとしていますが、その間、以前なら想像だにできなかった赤面の極みであるところの人前演奏というものにも挑戦しました。

それを前提としたクラブに入る上はやむなしとして、ここに一定の覚悟をもって入会に及んだわけです。

そのための必要に迫られて、長年親しんできた「自分流」のピアノ遊びを一部棚上げし、まことに微々たる量ですが、人前で弾くということを念頭においての練習に時間を割くようになったことは、以前もどこかに書いたような気がします。

クラブの定例会はほぼ毎月開催され、その都度、人の居並ぶ会場の正面に置かれたピアノに向かってひとり歩を進め、そこでなにがしかの曲を弾かなければならないということは、マロニエ君にとっては相当にハードなことです。
こんな状況に追い込まれたというべきか、要は自分の意志で入会したわけですから、つまりは自分の意志によって己を追い込んだということになるわけですが、いまだそれに馴染まない自分がいることは、もはやどうにも手の施しようがありません。

人が聞いたら一笑に付されるかもしれませんが、正直言って、自分でもよく頑張ったもんだと感心しているほどで、それはささやかな練習をしたことではなくて、人前でピアノを何回も弾いたという点においてすこぶる感心しているわけです。
十人十色という言葉があるように、人前でピアノ弾くということに対する感覚の持ちあわせ方もさまざまで、それを無上の喜びのようにしている人を何人も目撃するにつれ、自分との違いに呆然とするばかりでした。

自分がおかしいのか、はたまたその逆か、そこのところは敢えて追求しないとしても、その甚だしい違いはどうみても解決する見込みのないことだと悟らずにはいられません。

さて最近、ちょっとそんな自分の様子が変化してくるのを薄々感じ始めていました。
本来の自分とは違うことをやっていると、場合によってはこれが習慣となって身に付く場合もあるかもしれませんが、ピアノの人前演奏だけはそうはいかないようです。

やっぱり本来自分にない無理を続けたのが祟ってきたのか、切り落とした枝がまた伸びてくるように、もとのスタイルに戻りつつあるのを自覚しはじめました。あるときふとそれを自覚するや、まさに坂道を転げるように、そのための練習がすっかり苦痛になりました。
マロニエ君には、人前で弾くためではなく、ただ単に自分がやってみたい曲がいろいろあって、どうもピアノの前に座るという限られた時間内にやりたいことの優先順位が元に戻りつつあるようです。

ピアノ教室などは、ともかく発表会だけは是が非でもやらなくてはいけないご時世だそうですから、やはり今は誰も彼もが平等にスポットライトを浴びて、一時の主役になるということが大切だとされているのでしょうが、そのあたりがまたマロニエ君の理解困難な部分なのです。
スポットライトなんてものは、一握りのそれに値する人達だけが浴びるものだという認識自体が、お堅くて古くてズレているのかもしれません。むかし竹下登が考案提唱した永田町の総主流派なんてものがありましたが、今は一億総主役というわけなのでしょう。

先日さる御方が、「音楽は自分一人でやっても意味がない、それを人に聴かせるということが大事なんだ。」という言葉をさも深い含蓄ありげに発せられました。むろんその場で反論はしませんでしたが、マロニエ君はまったくそれには不賛成でした。

そういう美しげな尤もらしい言葉を鵜呑みにし盾にして、現実にはどれだけの勘違いが発生しているかと思うと、そんな言葉も絵空事のように響きました。
むろん演奏の心得として、人に聴かせるぐらいな気持ちで演奏しなくてはいけないとは思いますが、それを現実に実行するとなると、これはまた別の話でしょう。
2011/08/24 Wed. 01:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

増幅と収束 

このところ個人所有のスペースにもかかわらず、ひじょうに音響の素晴らしいふたつの場所でほんのちょっと弾かせていただく機会に恵まれて、その響きの美しさに感心させられました。

そのうちのひとつでは、音響のためのさまざまな工夫がなされており、そこには専門家の助言なども反映されているそうですが、最終的に決定を下すのはオーナー自身の耳でしょうから、やはりまずはよい耳、つまり判断力を持った敏感な耳を持つことが何よりも大切だろうと思われます。

音響の素晴らしい場所では、その響きに助けられて、ピアノなども大いにその能力を発揮するのはいうまでもありませんから、同じ楽器でも果たしてどういうところで使われるかによって、まさに運命が決まるといえるようです。

逆に、巷にあっていかがなものかと思うのは、れっきとしたピアノ店の店舗などであるにもかかわらず、音響的な配慮という点で、まったくなんの配慮もなされていないところがあるのは、なんとも腑に落ちないところです。
しかもマロニエ君はそういう場所を何カ所か知っています。

コンクリートやツルツルした石材などに囲まれた店内は、見た目はともかくとして、響きすぎる銭湯みたいな場所にピアノを並べているようなもので、音はビリヤードの玉のようにあちこちに跳ね返って暴走するばかり。とても本来の音を聴くことなどできません。
とりわけお客さんが弾いてみて音を確認する場としては、著しく不適合な環境だと思うのですが、それでも商売として成り立っていくというのであれば、なにか違った要素や事情で売れていくのかもしれませんが。

とりわけマロニエ君が個人的に感じるところでは、ピアノの音の一番の敵はガラスだということです。
もちろんガラスといってもその面積によりますが、例えば広い壁一面がすべてガラスといったような状況では、ピアノの音はことさら鋭く反射して、とてつもなく攻撃的な音になってしまいます。

ピアノの音は本体の塗料の質や仕上げによっても大きく影響を受けますが、ましてやいったん発生した音がどういう環境で鳴り響くかということは極めて重大な影響があると思われます。
ガラスや光沢のある石材はおそらく最悪で、次がコンクリート。これもかなり厳しい音になりますが、しかしガラスよりはいくぶんマシな気がします。
ただし、カーペットなどを敷いているところは、いくぶん相殺されているようですが。

福岡県内には、驚くべきことにホール内部にガラスの内装材を多用したホールがありますが、そこの響きは音楽愛好家の耳には極めて厳しいものだと言わざるを得ません。

その点、木はいくぶん良いものの、それも程度によりけりで過信は禁物だと思います。
「木は音に良い」という盲信があるのか、木のホールなどと言って、やたら木材で床や壁を覆い尽くしたような空間がありますが、これがまた必ずしも好ましい音で鳴ってはいない場合があるように感じます。
木であってもやりすぎれば音はやはり相当暴れてしまい、節度ある響きではなるということでしょう。

その暴れ方がガラスやコンクリートに比較すれば木であるぶん多少マイルドという程度の差であって、ただ音がワンワンするだけの音の輪郭も定かでないような状態でも、関係者は「木だから響きが良い」などと信じ込んで自慢さえしているような場合もあるようです。

必要なのは発音された音を響きとして増幅させることと同時に、そのあと、その音がどのように収束されるかという点にも注意を向けるべきだろうと思います。
上記のふたつはその点、すなわち増幅と収束が優れていると思いました。
2011/08/23 Tue. 02:09 | trackback: 0 | comment: 0edit

イスの高さ調整 

週末は内輪の練習会に参加しました。

会場へのアクセスがひじょうにわかりにくいところだったために、各々はネットなどを使って参集しましたが、やはり心配した通り、ストレートに来られない人などもいて揃うのに少々時間を要しました。

マロニエ君はこのところろくに練習らしい練習もしておらず、さらには人前でピアノを弾くことに対する苦手意識がまたしても再燃してきていましたので、今回はピアノを弾くつもりはなく、それでも予備的に楽譜だけはちょっとバッグに偲ばせての参加となりました。

この会場の素晴らしさはすでに何度かこのブログに書きましたので敢えて繰り返しませんが、たくさんの絵画に囲まれた会場の雰囲気、さらにその響きと古い名器のピアノが醸し出す絶妙な音色は、心安んずる清澄な空間でした。
そして、空間の響き如何も楽器のうちだとつくづく思いました。

どんなに良いピアノでも、響きの悪い場所におけばその魅力は半減です。
ましてや防音室などにピアノを入れるのは、もちろん現実的な面で致し方のないことで、それを好んでやっている人はいないと思いますが、それでもやはり楽器の魅力を敢えて封じ込めてしまう、響きの面からだけ言えばなんとも残念な現実だと思います。

音響のよい空間では、ちょっとCDなどをかけても、それがべつに大した再生装置やスピーカーでなくても、出てきた音が空間の響きに助けられて、とても素晴らしい音となって聴く者の心を潤してくれますから、ある意味でこれに勝るものはないかもしれません。

この会場にはヴァージナルというチェンバロの一種ともいえる楽器のレプリカもあるのですが、その繊細な音色も、もちろんこの会場の好ましい響きもあって、意外なほど耳に迫る音色を発していたのが印象的でした。

今回ちょっと残念だったのは、このヴァージナルとピアノが同時に別の曲を弾かれてしまったということでした。
いやしくも楽器を弾く人は、楽器の音が汚い騒音になるような心ないことだけは厳に慎みたいものです。

さて、弾かないつもりでいたマロニエ君でしたが、とうとう一曲だけ弾くハメになり、まことにお粗末な演奏を披露することになりました。
そのとき思ったのですが、椅子の高さがやや気になったものの、ちょっと弾くだけのためにおごそかにダイヤルをグルグル回して高さを調整するのも躊躇われ、まあいいや…という気で弾いたのですが、これがとんでもない失敗でした。

普段のマロニエ君の椅子よりは少々高めだったのですが、慣れないピアノである上に、お尻の高さが違うというのは、猛烈な違和感となり、それで気分的にもガタガタに崩れてしまいました。
個人差もあるとは思いますが、やはり椅子の高さというのはマロニエ君にとっては予想以上に大事なことで、ここを疎かにするととんでもないことになるという、いい教訓になりました。

その点でいうと、ピアノクラブのように多人数で代わるがわるピアノを弾く場合は、背もたれ付きのトムソン椅子であるほうが高さも瞬時に変えられるので適しているようです。
昨日はあいにくダイヤルを回すタイプなので、面倒臭くてなかなか調整まではしませんでした。

自宅では生意気にもコンサートベンチを使っていますが、マロニエ君以外にピアノを弾く者はいないので、いつでも自分にちょうど良い高さになっており、それが当たり前のようになっていたこともあり、こういうちょっとしたことが変わるだけでも、冷や汗が出るほど焦ってしまいました。
とりわけ、低すぎるより高すぎるほうが個人的にダメだということを肝に銘じたしだいです。

こんなことがあると、ますます人前で弾くのが恐くなるばかりですが、そこは自分の性格もあるでしょうから、こればっかりは変えようもないので仕方がありません。
2011/08/22 Mon. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

ストラヴィンスキーのバレエ 

NHKのBS番組、プレミアムシアターの7月は、4週にわたってバレエの特集が放映されました。

いわゆるお馴染みの古典バレエはほとんどなく、唯一のものとしてはアメリカン・バレエ・シアターの日本公演から「ドン・キホーテ」があったのみで、他はすべてパリ・オペラ座の新作がいくつかとかベジャールの作品など、近現代の新しいものがいろいろ紹介されました。

すべてを見たわけではありませんが、なんといっても圧巻だったのは最後のロシアバレエで、これには久々に感銘を受けることになりました。

4週目の最後を飾ったのが「サンクトペテルブルク白夜祭2008」から、ストラヴィンスキーの『火の鳥』『春の祭典』『結婚』の3作で、ボリショイと並び称せられるロシアの最高峰、マリインスキー劇場バレエ団(旧キーロフバレエ)、演奏はなんとワレリー・ゲルギエフ指揮によるマリインスキー劇場管弦楽団による、この上ないような豪華な顔ぶれでした。

その直前にやってたのが「ドン・キホーテ」で、マロニエ君は一向にこの中身のない、ただのうるさいお祭り騒ぎを舞台上でドンチャンやるだけみたいな演目が昔から一度たりとも好きになったことがありません。
よくバレエのガラコンサートのようなときに、最後のグラン・パ(グラン・パ・ド・ドゥではない)がアクロバット的な派手さから単独に踊られることがありますが、それで充分。それ以外はなんの魅力もないし、ミンクスの音楽がまたなんの芸術性もない表面的なもので、目も耳も疲れてしまいます。

そうしたら、後半が上記のサンクトペテルブルク白夜祭になり、いきなり姿勢を正したというわけでした。

まずなんといっても素晴らしいのストラヴィンスキーの音楽で、これを聴くだけでも価値があり、とても普通のいわゆるバレエ音楽ではない。
ソリストでは火の鳥を踊ったエカテリーナ・コンダウロワが突出して素晴らしく、その音楽と相まって一瞬たりとも目が離せない美しく躍動的でありながら、役が乗り移っているがごとく妖しげで、見ているこちらまでその魔力に引きこまれるような火の鳥を見事に踊りました。
ロシアにはいまだにこういう踊り手がいるのだなあとあらためて感心させられます。

春の祭典は一般的に有名なのはベジャールの演出振付による、あの男女の裸のようなタイツ姿の舞台をイメージしがちですが、オリジナルはむしろ普通のバレエよりもすっぽりと民族的な衣装で全身を覆い尽くしていて、ダンサー達の体が見えることがありません。きっとベジャールはその真逆の発想をしたのかもしれないと思いました。

音楽的に圧巻だったのは結婚で、これはレコードでは聴いていましたが、舞台を見たのは初めてでした。
30分足らずの短い演目で、とくに言うべき物語性はありません。花嫁と花婿がいて、彼らが結婚するという、ただそれだけのもので台本もストラヴィンスキーが書いています。
その演奏のために準備されるのは、通常のオーケストラに加えて、ソプラノ、メゾ・ソプラノ、テノール、バスという4人の独唱者、さらには7人にも及ぶ打楽器奏者たち、とどめはこれに加えて4台のピアノが加わります。しかもバレエ公演となると、すべて舞台下のオーケストラボックスに入れるのですから、もうそこはすし詰め状態に違いありません。
さらに、必要なのは男女のソロダンサーと、強靱なコールドバレエです。

それらが渾然一体となって、休むことなく30分近くを踊りまくり、演奏家達は演奏しまくります。
それはもうなんとも圧倒的な世界で、世にもこんな贅沢な30分があるだろうかというものでした。

ストラヴィンスキーの音楽には、今更ながらその不思議な魅力に打ちのめされました。他の作曲家なら不快感になるような和声やリズムに満ち満ちていますが、それがストラヴィンスキーの手にかかると、聴き手の本能的な何かを刺激されてくるようで、無性にわくわく興奮してくるのが彼の作曲の魔術だと思いました。

春の祭典に代表されるダ、ダ、ダ、ダという如何にも原始的なリズムが随所に出てきますが、これがいかにも野蛮なものの鼓動のように聞こえながら、その魅力に魅せられてしまうのは、ストラヴィンスキーの芸術性のみならず、人間の記憶の奥にはこうした野生がまだまだ眠っているからかもしれません。
やっぱり我慢して録画していれば、たまにはこういう拾いものがあるということです。
2011/08/21 Sun. 02:19 | trackback: 0 | comment: 0edit

掘り出し物CD 

夕方から天神に出たついでにCD店を覗いてみると、なんとレジの横でCDのワゴンセールのようなことをやっていました。
ワゴンセールというだけならいつでもあるのですが、今回はさらにいろいろと珍しいものが投下されており、それらがまるで叩き売りみたいな値段が付けられていました。しかも、そこにはなかなかのレア物が埋もれていることがわかり、つい興奮してゴミ漁りのようにして6枚のCDを買いましたが、支払ったのは合計3500円強でした。

中には買った本人がいまだにどういうものかよくわからないようなものまであり、それは恐くてまだ聴いていませんが、ともかくこういう捨て値みたいな価格で、変なCDを買ってみるというのは正に宝探しで楽しいものです。

もちろん充分まともなものもあるわけで、ドイツの中堅でドクター・ベートーヴェンと呼ばれるミヒャエル・コルスティックのシューマン(クライスレリアーナ&謝肉祭)や、山本貴志氏のショパンコンクール・ライブといったものも含まれています。

山本貴志氏はわりに評判が良いらしいのですが、なぜかマロニエ君はこれまでにほとんどその演奏に接するご縁がなく、その「人々が涙する」というショパンを聴いたことがありませんでした。
ひとつには邦人CDの3000円ルール(?)のせいもあるかもしれません。

どうやらポーランドのCDのようで、バルカローレにはじまりエチュード、スケルツォ、マズルカ、第2ソナタを経て英雄で終わるというものです。
クセのない丁寧な演奏ではありましたが、ショパンコンクールにありがちな青春の燃焼みたいなものの少ない、あくまでも身につけたペースをキチンと守り抜いた、交通違反のない律儀な演奏だったと思います。

とくに日本人特有の折り目正しさにあふれた、キメの細かい美しい演奏であることは間違いないと思います。強いて注文を付けるなら、この人なりの味わいがもうひとつ欲しいところ。

きっと山本氏のコンクールにかける気合いの現れだとは思いますが、曲想にあわせて「シューッ!シャーッ!シェーッ!」という激しい吐息が入っているのが、このCDを聴いている間ずっと気になりました。
生のステージの臨場感ともとれますが、ショパンの繊細な音色が流れ出る中では、子供がプラモデルで熱心に遊んでいる時の声みたいで、あまり相応しいものとも思えませんでした。

それと、CDのどこを探しても記述はなかったものの、おそらくピアノはヤマハだと思われますが、全体に響きの固い、音の通りのよくないピアノだったことが、演奏をひとまわり小さなものにしてしまっているようで、それがとても残念に思われました。
もちろん本人が選択したのでしょうし、ダイナミクスよりデリカシーを採ったのかもしれませんが、ヤマハに限っていえば、その五年後に登場するCFXはやはり劇的変化を遂げたもんだと思います。
とりわけ中音域の発達は大変なものですが、それが全音域でないところが今後の課題という気もしますし、全体のバランスという一点においてだけなら、この時代のピアノ(CFIIIS)のほうがまとまりはいいといえるかもしれません。

コルスティックのシューマンは骨格のしっかりした力強い表現はなかなかのものでしたが、いささか音色に対する配慮が足りず、粗っぽく音が割れてしまうところがあるのが惜しい点でした。迫力は申し分ないけれども、もうひとつ愛情深さみたいなものがあればと思いました。ジャケットの写真を見るたびサルコジ大統領を思い出します。
ともかく思いがけないCDが買えて幸いでした。
2011/08/20 Sat. 02:09 | trackback: 0 | comment: 0edit

なでしこ話法? 

なでしこジャパンはついに国民栄誉賞のようですが、尊敬する女性の強さと特徴に関して引き続いて感じたこと。

精神的に脆く、意気地のない男に較べると、何事も度胸があり腰の座った女性ですが、しゃべりもパワーが男とは根本的に異なるものを感じたりもします。
例によって個人差のことは考慮せず、あくまで「一般的」な話です。

多くの女性に共通して見られるのは、個人差は別としても独特の話法みたいなものがある点です。
とくに雑談のときにしばしば感じるのですが、女性はどうも一般論とか客観的な論点に立った話の進め方というのがあまりお好きではないようで、その流儀もパワーも大変なものです。

典型的な例をいいますと、例えば、こちらがひとつの話題や出来事を話すとします。
こちらとしては、その話の内容そのものをいわば議題として掘り下げたいわけで、それに関する相手の見解なり分析なりをあれこれ聞きたいという目論見なんですが、なかなかそうはいかないんですね、これが。
女性の場合(繰り返しますが一般的にです)はこちらの話を聞き終わると、それに対する言及ではなく、類似した自分の体験談とか身近に起こった似たような話を持ち出してきて、あっという間にそれをしゃべりはじめます。
そこで、こちらが提示した話とどう関連性があるのかと思って聞いていると、ほとんどそれはなく、気がつくとこちらが専ら聞く立場に交替させられてしまうのはまるで巧みな瞬間芸をみるようです。

要するに人の話から自分が着想を得て、すかさず類似した自分側の話を思いつく限り並べるたてるわけで、人の話から自分の話へと、パッと花瓶の花を差し替えるわけですね。
こっちにしてみれば、しかしそれは似て非なる完全に別個の話で、気がつくとなんだか話の目的が変わってしまっているのです。

しかし、相手のそんな違和感など眼中にもない様子で、話はそこからさらに飛躍していよいよ関係ない話題に発展するのは、テーマの基軸がどんどんズレるというか、脱線に次ぐ脱線ですが話じたいは延々と続く。だいたい女性との会話はこうなる場合が少なくないので、このあたりは諦めるより外にありません。

とはいっても、べつに聞かなくてもいいような、どう考えてもその場には必要とは思えない話をいかにも対等にもってこられるのはやっぱり変な気分で、何度か話を元に戻すような努力をしてみたこともありますが、いやあ、とてもじゃないけどかないません。
だいいち、向こうは話が逸脱しているなんてまるで思っていないわけで、むしろ会話は盛り上がっているぐらいの認識のようです。こういうタイプは話は飛んでも、おしゃべりそのものにはガンと腰が座っていますから、少々の抵抗ではビクともしません。このあたりも絶対に男がかなわない部分。

つまり他者から与えられたテーマに沿って話を進め、そこから逸脱せずに内容を掘り下げていくのではなく、人の話を単なるヒントとして、類似したネタを瞬時に脳内で検索し、自分が話す側となってそれをいくつも並べないと気が済まないんでしょうね。
マロニエ君などは、ひとつの話題に対してさまざまに観察して事の真相や核心に迫るのが楽しいわけで、喩えるなら話の海に深く潜って中の様子を見たり調査したり分析したいわけですが、この話法では水上バイクで水面をぐるぐる豪快に旋回しているに過ぎません。

音楽に喩えると、主題と変奏のようなものですが、すぐに主題を外れて別の曲になってしまうといったところでしょうか。

そういうわけで、こちらも少々のことなら聞いてますが、さすがに見たことも会ったこともないその人の友人知人・親兄弟、さらにそのまた先の人の話をいくら滔々と語られても、そこまで興味が続かなくなるので、そんなときは沈黙で会話が続かないよりマシだぐらいに思って、終わるのを待つのみです。

さらに感じることは、このタイプは、とにかく話は「聞く側」ではなく、あくまで「聞かせる側」「しゃべる側」「話を提供する側」じゃないと楽しくないというのが根底にあるようです。

圧倒的に女性に多いタイプですが、ごく少数、男にもいないこともないんですよね…困ったことに。
しかし昔から言われているように「話し上手は、聞き上手」なのですから、まずは聞き上手になりたいものです。
2011/08/19 Fri. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

ショパンの椿姫 

NHKのBSで、7月はモダンバレエが毎週のように取り上げられ、先週の演目のひとつにはパリ・オペラ座バレエ団の新作で「椿姫」というのが放映されました。
公演自体は2008年の7月でパリ・オペラ座のガルニエ宮で行われたものを収録したものでした。

名前は椿姫でも、音楽はヴェルディではなく、なんと全編にわたってショパンの作品が使われているというのが意外な点で、果たしてどんなものか見てみました。
振付・美術・照明はアメリカ出身の振付家ジョン・ノイマイヤーによるもので、同時に放映された「人魚姫」も彼が手がけたものですが、正直言ってマロニエ君は全く感心できない主題のない作品でした。

ノイマイヤー自身、ダンサーの出身で、男性舞踊家で振付家になるというのは決して珍しいことではなく、アメリカバレエの礎を創ったジョージ・バランシンや、ロシアでもボリショイやマリインスキー劇場のバレエ団の歴代の監督は、大半がダンサー出身であるし、あのルドルフ・ヌレエフもロイヤルバレエやパリ・オペラ座バレエでしきりと振付などをやっていましたから、これは野球選手が監督になり、力士が親方になるようなものかもしれません。

この「椿姫」でのジョン・ノイマイヤーの振付は、あまりコンテンポラリーなものではなく、あくまでもクラシックバレエの動きを基軸に置いているのは見ていてホッとさせるものがありましたが、いかんせん感心できなかったのは、「椿姫」のような陳腐かつ前時代的な題材をいまさら新作バレエに取り上げるという発想と、しかもその音楽をショパンにしたという点でした。

開幕からしばらくは、舞台上の人々があちこちに動き回るばかりで、まったく音楽がありません。
これが何分も続いた後に、舞台下手に置かれたピアノを、これも扮装をした一人がしずかに弾きはじめることで、音楽がようやく始まります。
オペラでいうところのヴィオレッタはすでに病没しており、その肖像画が舞台中央に置かれている設定ですが、それを慈しみ思い出すように開始されるはじめの曲がソナタ第3番の第3楽章の再現部の部分でした。

このバレエはピアノのソロだけで行くのかと思うとそうではなく、ほどなく第2協奏曲がはじまり、それに合わせて舞台上ではさまざまな踊りや劇の進行が速度を増して進行していくのでしたが、まず声を大にして言いたいこのバレエの最大の問題は、バレエとショパンの音楽がまるで噛み合っていないことでした。

ショパンの音楽というものは、手の施しようがないほどそれ自体が圧倒的な主役でしかなく、いかなる場合もバックに使われる類のものではないということがひしひしと伝わり、あくまでも聴くための作品であることがいまさらのように痛感させられました。
映画などで断片的に使ったりする場合には効果的な場合もあるかと思われますが、こうしてバレエ全体の音楽として使われるのはまったく不向きで、ステージと音楽が齟齬を生むばかりで、両者が溶け合い手を握ることはありませんでした。
ショパンのあの気品ある眩しいような音楽が流れ出すと、バレエとは関係なしに耳がそちらに集中することしか出来ず、それに合わせてやっているバレエが、悲しいほどに無意味でなんの必然性もない空虚なものにしか見えませんでした。

第2協奏曲はついに全楽章演奏され、その後もワルツやプレリュード、休憩後には普段演奏会では聴かないオーケストラ付きの作品であるポーランド民謡による幻想曲などがはじまりましたが、ついに見続けるエネルギーが尽きてしまい、最後まで見通すことはできませんでした。

ショパンとバレエで唯一成功しているのは、有名な「レ・シルフィード」だけだと思います。
これには物語性がなく、音楽もすべてバレエに適するよう管弦楽用に編曲され、ゆったりとしたテンポで流れる中を、古典的な白の衣装をつけたダンサー達によって繊細優美に踊られる幻想的なもので、これは稀な成功作だと思われます。

さて、「椿姫」で使われたピアノはフランスでは珍しくスタインウェイのB型でしたが、やはり大劇場で聴くにはやや力不足という印象が否めませんでした。全体的な音はそれなりでしたが、やはり小さなピアノ故か大きな舞台で鳴らすには基礎体力が不足し、響きに底つき感みたいなものが出てしまうのが残念でした。

オペラ座バレエの素晴らしい点は、ロシアバレエとは一線を画する垢抜けた個性を持っている点と、このように常に新作の演目に取り組んでいることでしょう。あの有名な春の祭典のスキャンダラスな初演もマロニエ君の記憶違いでなければこのガルニエ宮だったはずです。それだけにこのような失敗もあるということですが、それよりも新しいものを作り出すというこのバレエ団自体が持つ創造的な活力には敬意を表したいと思います。
フランスの誇る世界屈指のバレエ団であることは異論を待ちません。
2011/08/18 Thu. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

諦観 

山田洋次監督の「母べえ」を観ました。
ただ何気なく、どんな映画かも知らずに観ました。

文学者である父が思想犯として捉えられ、母と祖父はそれがもとで絶縁。
父の若い教え子がなにかにつけ母と二人の童女の世話を焼いてくれますが、やがて彼も赤紙が来て出征。
さらに開戦後間もなく父は釈放されることのないまま拘置所で絶命し、終戦間際その妹は原爆でなくなり、親戚のおじさんも吉野の山で亡くなり、主役級であった教え子も南の海で戦死する。

そして最後には母が老衰で亡くなるというもので、見終わった直後は、なんともオチのない平坦なばかりの映画だったように思いましたが、しかし人間にはこれだというべき華々しい報いだの逆転劇だのというものは、そうザラにあるものではなく、要は諦めが肝心だということを知らされたような気がしました。
生きるということは困難や悲しみの連続で、言いかえれば自分を痛めつけるということなのかもしれません。

人は生まれて、生きて、死んでいく、ただそれだけのことで、別に大層な事じゃない、それが人間だというごく当たり前の冷徹な現実を、そっと鼻先に突きつけられたようでした。

たかだか一本の映画を観たからといって、その気になって、達観したようなことを言いたてるものではありませんが、なんとなく肩の力が抜けたような気がしたのは事実です。ことさら肩に力を入れていたつもりもなかったのですが、より明確に、人の世の現実を認識できた気分です。

人間は際限もなく生まれ、際限もなく死んでいくという、動かし難い事実。
あくせくしたところでどうなるものでもない、そこにほどよい見切りを付けながら、しかし命ある限りは懸命に真面目に、そして愉快に生きるということが人たるものの品性であり努めなのだろうと思います。

現代は諦めるということをやたらと敗北者であるかのような言い方をしますが、際限なく欲にかじりつき、分不相応の幸福追求に明け暮れ、野望の虜になることのほうがよほど恥ずべきことで、それにひきかえ諦めることは数段上等の人間性を必要とする美徳ではないかと思います。

見ていて昔の人は、貧しい暮らしをしながらも、人間としての徳が備わり、心ばえがあり、現代人のような動物的な欲の猛者でないところがなんとも新鮮で、目にも美しく映ります。
これを昔の人は偉かったというのは簡単ですが、必ずしもそうとばかりは思いません。
昔の人がことさら偉いことをしようと思っていたのではなく、みんなが自然に普通にそういうふうに生きていただけだと思います。

忘れもしない三年前、ある年輩の夫婦と話をしたときに、夫人のほうが言われたことは今でもマロニエ君の心に深く残っています。
「むかしはみんなが貧乏で、それが当たり前だと思っていたから、辛いと思ったこともないし、何ともありませんでした。楽しかった。」と。そして、今のほうがなぜかたいへんだという意味のことを言われました。

裏を返せば、みんなが豊かになって、同時に貧しくなったということです。
なんでもかんでも不満ばかりで、いい目にあっているのは他人ばかりで、毎日が不安とイライラの連続です。

ケイタイもパソコンも、車もエアコンも、なんでもかんでも、そりゃあいったんその味を覚えたら逆戻りは出来ません。
しかし、それを自分が知らない状態の時代に逆戻りできるというなら、マロニエ君は本気で戻ってみたいと思うこのごろです。

こういう考えをもって、マロニエ君の今年のお盆は終わりました。
2011/08/16 Tue. 02:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

虫の知らせ? 

ほとほと暑い毎日が続きますね。

お盆の初日、お寺に行って、寺内の墓所へまわったところ、その尋常ではない暑さに「衣類乾燥機の中ってこんな感じだろうか…」なんて朦朧としながら思いました。
ずっとそこにいたら、間違いなく救急車に乗るハメになるとも思いました。

聞くところによると、巷では蝉が鳴かない、虫がいない(あるいは少ない)といって、これが大変な話題となっているようですが、本当にそうなんでしょうか?

定期購読している月刊誌のコラムでもその事に触れてあり、関東ではこれがかなりまことしやかに人々の間で囁かれているようです。

例えば車で箱根のターンパイクなどに行くと、例年のこの時期なら、美しい蝶を含むあらゆる虫が走る車に衝突してきて、たちまちガラスやフロント部分などは虫の死骸だらけになるはずなのに、今年は少し様子が違うというようなことが書かれていました。高速道路然りです。

雑誌が書店に並ぶのは、詳しいことは知りませんが、月刊誌の場合、おそらく文章を書いた時点から数週間は経ていると思われますが、その文章によると東京ではやはり蝉の声がしないことを、たいそう深刻な調子で綴られていました。
蝉はもちろん、蚊までもが激減しているというのですが、ホントだろうかと思います。

そういえばひと月ぐらい前だったか、マロニエ君の友人も蝉の声がしないらしいということを尤もらしく言っていましたが、現在は毎日朝から、例年と変わりなく蝉の大合唱でうるさいぐらいだし、我が家の玄関先には蝉の抜け殻があちこちにへばりついているくらいですから、まあそんなに心配することはないのでは?という気もしています。
というか、心配してみたところで、現実にはどうすることもできませんけれど。

いうまでもなく虫の減少に対する心配は、放射能汚染のあらわれだとする説を立証する論拠のひとつになっているもののようで、わかっている人はすでに自衛のための行動を密かに起こし始めているとか。
じっさい、その雑誌によると執筆者の知人はラジオのパーソナリティーをやっていて、自分の番組をもっているにもかかわらず、子供を連れて近く東京を脱出する決心を固めたのだそうです。

これが事実に基づく正しい行動なのか、はたまた情報に踊らされた過剰反応なのか…マロニエ君にはわかりません。

真偽のほどはともかく、過日、関東人のことを書きましたが、どうも関東の人達というのは危機感に対する反応の仕方もずいぶんと大げさというか敏感すぎるようで、やはり日頃の過当競争の習性ゆえだろうかという気もしなくもありません。
我こそは、いちはやく情報をキャッチしてすかさず行動することが自分に利益をもたらし、最終的には我が身を守ることにも繋がるという、競争原理的経験的法則?を体内にもっているのかもしれませんね。

ちなみにその雑誌のコラムにあったのは既婚者の女性で、なんと仕事と夫を東京に残して、4歳の子供とふたりで石垣島に避難するらしいのですが、避難というならなぜダンナさんがそこに含まれていないのかが理解に苦しみますけどね。

少なくとも、マロニエ君だったらこういう考えは御免被りますし、実際にそれほど深刻な状況が事実と仮定しても、夫や係累を見放して、母子ふたり住み慣れない島で生き長らえたところでなんになるのかと思います。
2011/08/15 Mon. 02:12 | trackback: 0 | comment: 0edit

迷惑メール 

一時期おさまっていたヘンなメールが最近また届きはじめています。
いわゆる出会い系のような怪しいサイトからですが、なんだかずいぶんと金銭まで絡んだもののようで、そのいかにも悪辣な雰囲気は見るだけで嫌気がさします。

あらためて言うのもなんですが、マロニエ君はその手のことには一度も手を出したことはなく、なにひとつ身に覚えがないのですが、やはりどこからか個人情報が漏洩しているということ以外に考えられません。
出所さえつきとめられないのが、なんとも悔しいかぎりです。

この手の悪徳メールは、一通来たら終わりで、その後はカタチを変えながら見るだけでもおぞましいようなものがぞくぞくと送り付けられてきます。
パソコンの専門家によると、こういうメール発信は人がやっているのではなく、機械的に際限もなく送り付けるようなシステムがあるのだそうで、とんでもない迷惑です。

もちろん、読みも開きもしませんが、削除する際に目に入る部分というのはあるわけで、それによると手口は一層巧妙化というか悪質化しているようで、個人のお姉さんから直接メールが届いているように写真入りで応答を呼びかけてくるのもから、何十万から百万単位の大金に当選されました!というようなお祝いを装ったメールがひきもきらず届きます。

笑ってしまったのは、それだけの大金をなぜ受け取らないのか?というような不平めいた文言もチラッと見えたことがあったりして、こんなことを本気にするような今どきまだいるのだろうかとも思ってしまいますが。
さらに新しい手口だと思われたのは、金額は知りませんが、入会金だか会員資格だかの「ご入金を確認しました」というもので、払ってもいないものを入金確認ができたなどと言い立てることで、そこから人の関心を呼び込もうかという手口のようにも受け取れます。

たかだかメールといえばそれまでですが、こんなゴミみたいなメールの山を削除しているうちに、間違って大事なメールまで消してしまう危険性もあるわけで、メールボックスを開くたびに目にしなくてはいけない精神的嫌悪を思うと、これは内容からしても、もはやれっきとした犯罪だと思います。

さすがのマロニエ君もこんなメールで警察に通報するのもどうかと思い、いまのところは静観しています。
そうそう、ひとつ「送信停止」という文言があったので、一度だけそこを開いて「大迷惑だから直ちに停止するよう」申し入れましたが、なんと返事が届いて「機械的に停止の処理をするのに10日ほどかかりますのでしばらくお待ちください」とありました。
停止に10日なんていうのも疑わしいし、どうせウソだろうと思いますが、様子を見て対策を考えるしかありません。
まったく不愉快なことですし、漏洩した会社がわかれば責任を取ってほしい気がします。

以前、同様のことがあり困っていたところ、とある印刷会社からメールが来て、そこの管理ミスで情報が漏れた旨の説明と、何通にも及ぶ経過報告と詫び状のようなものが届き、しばらくしたらそれらはきれいになくなりましたので、やはり本気で対策を打とうと思えば打てるらしいことはわかりました。

ところが、今日はふっつりとそれが来なくなりましたから、やはり発信元は一箇所のようです。
申し入れが功を奏してめでたく停止してくれたのか、それともこんな怪しげなメール送信にも人並みに「お盆休み」があるのかと思うと、ちょっと可笑しくなくもありません。
2011/08/13 Sat. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

関東人 

関東に引っ越しをしていった友人から聞いた話。

この友人は新しい家にグランドピアノを運び込んだのですが、過日はじめての調律師さんがやって来て、長旅のあとの初の調律作業がおこなわれた由でした。

いきなり笑ってしまったのが、マロニエ君も久々に聞く関東人のあいかわらずな様子でした。
マロニエ君自身も学生時代から8年間関東で暮らしましたので、おおよその関東人の特徴みたいなものは知っているつもりでしたが、久しぶりに聞くその様子には、なにやら時代とともにますますパワーアップしているのでは?と思ってしまうようなものでした。

まずいきなり友人が…ン?と思ったらしいのは、初めての電話のとき、用件が終わっての切り際に、わざわざ「これからプロのピアニストのところで打合せをしなくてはいけませんので、それでは」と言ったそうで、ここでまず最初のチェックをされてしまったようです。マロニエ君も嫌な予感がしつつもとりあえず失笑してしまいました。
電話を切ったあと、その人がどこに行こうと関係ない事なのに、「プロのピアニストのところで打合せ」というところが、この方なりの、まず手始めの自己アピールだったようです。

調律当日も、その顛末というか話の内容を聞くと、呆れて腰がクニャクニャになりそうでした。
どんな話の流れかは知りませんが、その方は自分のホームページは持っていないとのことで、普通はホームページなんてあればある、ないならない、ただそれだけのことですが、そこにもちゃんとした理由があるらしく「自分で作ると良いことしか書きませんから…」「ホームページがなくてもちゃんと人が評価してくれる」などと、さも謙虚で真っ正直な直球勝負の人のようにおっしゃるそうです。

また、自分は今もとても忙しいが、昔はさらに正月など芸能人の登場するような仕事もあったから大変だったが、それが不景気でなくなったお陰でようやく正月三が日が休めるようになったとか、現在は1000人!ぐらいのお客さんがあるなどと、こういうことを来宅してわずか2分以内ぐらいで一気に言い出されたそうです(笑)。

作業時間を含めて、わずか2時間ほどの滞在だったようですが、そんな中にもご自慢トークのあれこれが惜しげもなく連発だったようで、そりゃあなにより精神的に忙しいはずだと思われます。
また、自分がいま支援しているミュージシャンというのがいるらしく、その人は将来必ず大ブレイクするとかで、チケットまでしっかり売りつけられたというのですから、いやはや…。
曰くチケットは「僕は信用があるから、200人ぐらいのコンサートでも声をかければ50枚ぐらいはすぐに売れますから」とのことです。

で、自分のホームページでさえ不要だと言ったわりには、このミュージシャンのホームページに自分の事が出ているのはよほど嬉しいのか、とにかくそこを見て欲しかったらしく、その場でパソコンを開かされ、自分が出てくるページまでしっかり案内されたそうです。
関東人のこんな矛盾は指摘するとホントに際限がないんですが、彼らと仲良くやっていくためにはそのあたりはプライドも絡んでいることなので、敢えて突っ込まないであげることが大事な点なのです。
きっと自分のホームページも本心では欲しいけど、作るとなると大変だし、いまさら出遅れたと思っているのかもしれませんね。
もうこれ以上は控えますが、仕事で来ているのにどことなく意地悪に思える言葉や瞬間もポツポツあったとか…。

まあ、大なり小なり関東人というのはこういう体質が身に付いていて、さりげない会話の中にも、自分が相手に聞かせたいフレーズはしっかり組み込んであって、さも自然に、水が流れるようにさらさらと自慢しまくるのは常識なのです。
毎日のすべてが戦いとやっかみとホラとつっぱりの連続で、とっても気の毒なんです。
ただし、ここで言っているのは、関東人とはいっても、いわゆる先祖代々の地つきの人達というよりは、主には本人もしくは親などが田舎や地方の出で、現在は事情があって関東暮らしをしていて、日夜その荒波をかいくぐって生きている大多数の人のことです。(この調律師さんがどうなのかは知りませんけれど。)

はじめからみんながそんな気質だったとは思いませんが、関東という人の欲の海のような厳しい環境の中で暮らして行くということは、否応なく激しい競争条理に巻き込まれ、動植物が環境に適応するごとく、この荒海に呑み込まれないよう虚勢を張りながら生きる術が身について、ついにはこんなトークが口を開けばオートマチックにできるようになるのでしょう。
例えばその中心地である東京、ここにはたしかにすごいものがたくさんありますが、同時に過当競争も激烈で、最先端で飛び回っているような一握りの人はいいのかもしれませんが、普通の人のごく平凡な生活レベルという点ではかなり疑問があると思われます。

マロニエ君が人から聞いた話で呆れてしまったのは、ある人が言うには「東京に較べると福岡は何かと出費が嵩んで困る」とぼやいていたとか。
えっ?生活費が嵩むのは東京では?と思っていたらそうではなく、本気で倹約して切りつめた生活をするとなると、本当に安いものがあるのはこれもまた東京なのだそうで、福岡などはその下限が甘いからダメだというものでした。
思わず唸りましたが、これもまた関東という地域の地盤の厳しさを表しているように思いました。
2011/08/12 Fri. 02:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

SサイズLサイズ 

昨日に引き続いた内容になりますが、プロのピアニストの演奏の見た目というものは、単純な体格差においても言えるような気がしました。

マロニエ君は昔からある方の演奏会にお義理で行かなくてはいけない立場にありましたが、その方は教育界の功労者ではありましたが、ピアニストとしてはそれほどでもなく、しかも極端なあがり性で、さらには体格が小柄と来ているので、演奏会ではいつもハラハラドキドキで、そんなときのステージ上のピアノは残酷な黒い怪物のように大きく見えたものでした。

この経験から、ピアノが大きく見えるときの聴く側の苦しみというのもずいぶん刷り込まれていたようで、いらいマロニエ君はあまりにも小柄なピアニストがステージで演奏するのは、まるで子供が座布団を敷いて車を運転しているみたいで、不安感が先行するようになりました。

小柄なピアニストはそれなりに名を成した人であっても、体格からくる制限があるのか、出てくる音もきつい感じであまり好みではないし、音楽もどうしてもスケール感のないものになってしまいます。
以前にショパンコンクールで優勝したポーランド男性も、一定のファンはいるようですが、どうも今以上のピアニストに成長していく予感がしないというか、体格からくる制限みたいなものがあるように思います。

逆に、あまりにも大柄な男性、見るだけで圧倒されるような偉丈夫がピアノを弾くのも、これもまた見ていてあまり心地よくはありません。
こちらは名前を出してもいいかもしれませんが、子供のころに行ったクライバーンのリサイタルなども、まずステージに現れたときからその長身ぶりに驚かされましたし、演奏中も膝が鍵盤下につっかえているのが気になって仕方ありませんでした。なにしろこの体格ですから、フォルテッシモともなると肉眼でもピアノが小刻みに揺れているのがわかるほどで、一夜の見せ物としては面白かったけれども、純粋にピアニストとしては疑問も残りました。

現役でもベレゾフスキー、ブロンフマン、エリック・ル・サージュなどは、演奏の良否はさておいてもなんだか見ていて、いかにもピアニストがXLサイズという感じで、どうしても大味な印象が否めません。

いっぽう女性ピアニストでは、上半身の肌もあらわな衣装を着て演奏する方も少なくありませんが、女性の目から見るとどうなのかは別としても、あまりに痩せこけた腕とか肩の骨なんかがゴツゴツして皮膚の下で動いているような人は、やはりどうしても演奏家としての見栄えがいいとは思えません。ついでながら、あまりに化粧やヘアースタイルや衣装がキマり過ぎなのも逆効果となり、演奏家としての品位に欠けるような気がします。

ピアニストではありませんが、指揮者でも身長はそれほどではない痩身の小澤征爾などは、よく練り込まれた鮮やかで細緻な指揮はしても、どこかその姿と同じで幅広いスケール感というものが不足しがちですが、その点では過日ベルリンフィルにデビューした佐渡裕はその長身と堂々たる体躯そのもののように、音楽にも厚みと腰の座った雄渾さがあり、安心して彼の音楽に身を委ねることができたように思います。

このように、音楽には演奏者の体格が直接・間接にもたらす何かが必ずあるような気がします。
2011/08/11 Thu. 01:56 | trackback: 0 | comment: 0edit

視覚的要素 

楽器と演奏者の間には、傍目に不思議なバランスというものがあります。
バランスといってもさまざまな要素がありますが、ここでいいたいのは主に視覚的な問題です。

先日もある日本人の人気女性ピアニストの弾くコンチェルトの映像を見ていて、なんというか構図としての収まりの悪さを感じてしまい、どうにも違和感を拭うことができずにいる中、あることを思い出しました。

何年も前のことですが、東京のある有名なピアノ輸入元の看板調律師の方といろいろ話をしているうち、なるほど一理ある!ということを言われたことを思い出しました。
それはプロのピアニストに関することでしたが、ステージ上で演奏しているときに、ピアノが大きく見える(感じる)ピアニストは、概して余り上手くない、実力不足の人だという一種のジンクスでした。

彼が言ったのは体格の問題ではありませんでしたが、要するに、ピアノが大きく見えるというのはそれだけピアノを十全に弾きこなすことができていないために、むやみに格闘することになり、演奏に苦労が滲み出てしまって、それがピアノを大きく見せるものだという意味の話でした。
ひと言でいうなら、人間がピアノに負けているということになるでしょうか。

実に納得のいく話でしたし、だいたい目をつり上げてピアノと格闘するように弾く人は、どうしても人間ばかりが空回りしているように見えるからピアノが大きく感じてしまうのだろうと思います。

とくにある時期の日本の女性ピアニストの中には、全身に悲壮感が漂い、表情もひどくこわばりながら、ちょっと荷が勝ちすぎるような大曲などを、まるで我が身を苛むようにして必死に弾く姿が珍しくありませんでした。
こういう人が弾くと、楽しげな明るい曲でも、どうしようもない暗さが影を落としてしまいます。
いかにも小さい時分からピアノこれ一筋に生きてきて、ピアノ以外のあらゆる事を犠牲にしてここまで来ましたという、その人の努力と苦しみの半生が負のオーラとしてあたりに漂うのですが、こうなると音楽を楽しむというより、その人の精一杯の演奏が、ともかくも無事に終わって、お互いにそんな時間から開放されることを願いつつ聴いている自分に気がついてしまいます。

こういうとき、本当にピアノは無情な大きさを感じます。
そしてそのピアニストのがむしゃらな一生懸命さに、なんだかピアノまで同情して困っているようにも見えたりするから不思議です。

ところが、このタイプは近年わりに減ってきたような気もしています。
男女の区別なくみんなわりあいに熱血努力的な雰囲気がなくなり、比較的すんなりと調和的にピアノを弾いているように感じることも少なくありません。これは昔の努力一辺倒の甲子園的な練習地獄から脱却して、合理的なメソードの発達によって効率よく育てられるようになったからだと思います。

ただ、楽々と弾くのは結構だけれども、表現まであえて無理のない枠内に音楽を収めてしまう傾向があり、そのぶん出てくる音楽のテンションまで下がってしまって、いちおうきれいな曲の形にはなっているものの、聴いていて一向に聴きごたえのない、キズも少ないけれども無機質な演奏に終わってしまうのが残念です。

音楽には、感情の奔流や詩情の綾、なにかがギリギリのところまで迫ってくるような訴えかける要素がなくては意味がありません。
心の内側を垣間見るかと思えば、打ち寄せる波と波が激突するような、そういう生々しい迫真性がないまま、こぎれいにまとまったきれいなだけの音楽など、聴いてもなんの面白味もありません。

あまりに無理のない指さばきで淡々と弾かれるのも、見ていてこれほどつまらないものはありませんし、演奏者が今そこでやっている演奏に本気で燃焼している白熱した姿が欲しいものです。
ピアノとやみくもに格闘ばかりするのはもちろんいけませんが、あまり仲の良すぎるお友達というのも大いに問題かもしれません。
2011/08/10 Wed. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

こんなのあるよ 

ホームページにコンサート情報のコーナーを作るため、久々に夜中などに情報の入力作業をしていると、なんだか妙になつかしい感触を思い出しました。
すでに一部の方はご存じかもしれませんが、マロニエ君は白状すれば、数年前に友人と「こんなのあるよ」というコンサート情報誌を発行していたことがありました。

ほうぼうからありとあらゆる手段によって集めた情報を、片っ端からパソコンへ入力していく地道な作業をしていた頃のことがふと思い出されてくるわけです。

このコンサート情報誌はどこからのひも付きでもない、もっぱら聴衆の側に立ったクラシックのコンサート情報誌で、福岡県内をその対象エリアとして毎月発行し、情報としてあがってきたすべてのコンサートを開催日順に一斉に並べたものです。
ここではアクロスでやる有名オーケストラの演奏会から、街角の喫茶店で行われる小さなコンサートまで、すべて同じひとつのコンサートとして取扱い、なんの差別もなくこれらを網羅的にコンサート情報として書き連ねたものでした。

毎月、向こう二ヶ月の情報を満載して発行に漕ぎつけるだけでもヘトヘトになる作業で、しかもこれは無料配布でしたから、収入は広告収入がそのすべてで、ずいぶんたくさんの方にお世話になりましたが、金銭的には印刷会社への支払いと、配布するためのガソリン代など必要経費を差し引くと、もういくらも残らず、常に逼迫した厳しいものでした。

原稿の取り纏めから入力、広告取り、仕上げ、印刷、県内への配布などをすべて我が身を削ってやっていましたから、金銭的にはもちろんのこと、時間的、体力的、精神的すべてにわたってなにかを使い果たした感がありました。

これをやっているときの時間の経つのの早いことといったらなく、やっと原稿を仕上げて印刷にまわし、県内各所に配布を終えたかと思うと、すぐに次の号にとりかからなくてはいけません。
情報は自分達で集め、網羅することが目的なので、もちろん無料掲載、無料配布でしたが、広告取りはなかなか思うに任せない仕事ですし、これをやっている間は盆も正月も無関係、当然ながら旅行にも行けないという有り様でした。

ただし、嬉しいことには「こんなのあるよ」はごく短期間のうちに多くの人達に受け容れられて広く浸透し、少なくない支持者を獲得したのはまったく望外のことでした。ついにはこの情報誌を手にあちこちの珍しいコンサートに行ってみるという、少数ではありますが、ひとつの行動様式まであらわれるに至ったのはさすがの我々も驚きましたし、さらには本来聴衆のものであったはずの「こんなのあるよ」が、音楽事務所や演奏家など、多くの音楽業界の人達の間でもひじょうに重宝がられたことは、いま思い返してもがんばった甲斐があったというべき誇れる部分でしょう。
最盛時は、チケットぴあやヤマハなどはもちろん、どこのホールや公共施設に行っても「こんなのあるよ」は必ず置いてありましたし、コンサートに行っても開演前や休憩時間に、熱心にこの情報誌を見ている人をポツポツ見かけるのは決して珍しい光景ではありませんでした。

しかし、もともとが無理を承知ではじめたことでしたから、次第に疲れが嵩み、本業のほうへまで支障が出るに及んで、これ以上続けていると自分達のほうが空中分解することを悟って、ついには廃刊する決意をしました。
2003年3月から2006年5月までの3年余り、約40号を福岡県内のあらゆる音楽関連施設や公共施設などに送り出しました。

その後は広告主の一人でもあった情熱ある方が、この志を引き継いで類似した情報誌を規模を縮小しながら発行されましたが、やはりこちらも残念なことに現在は廃刊となっています。そもそもこういう仕事は個人レベルでできるようなことではないので、もっと大きな組織体によって余裕を持って安定的に発行すべきものだというのが率直なところです。

しかし、自分で言うのもなんですが、ひじょうにわかりやすい、実践に役に立つ情報誌だったと今でも思っていますし、それにひきかえ、今どきはあってもなくてもどうでもいいようなフリーペーパーの類がなんと多いことかと思います。
考えてみれば「こんなのあるよ」がなくなって一番困ったのはマロニエ君自身かもしれません。
そんなわけで、規模の点では遙かに及びませんが、HP内にコンサート情報欄を作ることで、わずかなりとも情報の整理と確認ができたらと思っていますし、「こんなのあるよ」をご存じの方はそのDNAを引き継ぐものと思って見ていただければ幸いです。
2011/08/09 Tue. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

HPマイナーチェンジ 

この「ぴあのピア」というホームページを作って約20ヶ月を越えました。

ホームページを作ってという言い方にも実は語弊があり、そのホームページそのものが「ピアノの雑学クラブ」というものを目指しているわけですが、マロニエ君の現在置かれている状況からはなかなかこのクラブに専念してこれを立ち上げ、軌道に乗せるまでの余裕がないのが実情です。
とりわけ「ピアノの雑学クラブ」というコンセプト自体がひじょうに微妙で難しい、つかみどころのない性質があり、ただ単純に人集めをしてさあ出発!というわけには行かないために、いわばクラブの進水式そのものが遅れに遅れているわけです。
こういうわけで、開設以来の開店休業状態をいまだに更新しているという甚だ不名誉な記録を更新しているわけで、なんともこの点はお恥ずかしい限りです。

正直を言うと、それよりも少し前に入会したピアノクラブの定例会に参加して、そこで毎月わずかばかりの小品を弾くだけでもマロニエ君のような根性ナシの怠け者からすれば、たいへんなエネルギーを要することで、そちらに参加するだけでも慣れない練習などをしてゼエゼエいっていたわけです。

さて、肝心のぴあのピアはというと、積極的なクラブ員募集などもしていないにもかかわらず、なんとも嬉しいことに十数名の方がご入会くださり、その皆様各人の情報をメンバー紹介として掲載していたことは、以前からこのHPをごらんいただいた方ならご存じのことと思います。
実名ではないとはいうものの、これは匿名による一種の個人情報という見方もできるわけで、このぴあのピアが活動状態にあって、その上で掲載に同意していただけるのならまだしものこと、それもないまま、ただ個人の好みやらなにやらをこれ以上やみくもに掲載し続けることは、まことに申し訳なく、またいつどのようなご迷惑をかけるかとしれぬと思うと、どうにも忍びがたい気持ちになりました。
そういうわけで、クラブ員の方からはこれまで有難いことになにひとつクレームをいただいたわけではありませんでしたが、熟慮の末、ひとまずこのページを取り下げることにしました。
もちろんクラブ員の皆さんには、ご異存がなければそのままご在籍願うことは言うまでもありません。

さて、その代わりというわけではありませんが、以前から追加しようかと目論んでいた「コンサート情報のページ」を新設しました。
というのは、せっかくコンサートの情報を得ても、チラシがあっても、いざ必要なときにそれはなかなか出てこないものですから、なにか決まった場所に書き留めておくという目的も兼ねて、コンサート情報としてマロニエ君自身はもちろんのこと、もしかしたら皆さんのお役に立つのでは?という思いもありました。

コンサートというのは、よほどの目的や熱意がない限り、すぐに忘れてしまったり、気がついたら終わってしまっていたりと、意外にその情報把握が難しいものなのです。
前々からよほど狙いを付けて行くコンサートは当然としても、時にはふらりとその気になって、なにか自分に都合の良いコンサートがあれば行ってみようかという出来心的な側面も大いにあるわけで、そんなときにいちいちチラシの束を抱えている訳でもなし、さりとてホールのHPなどを必死になって調べる気もしない、そんな気分というのがマロニエ君にはよくあるのです。

だいいち特定のホールのHPでは、当然ながらそのホールに限定した情報しか得られず、だからといってあちこちのホールを跨いで本格的に調べるとなると、これはもう立派な仕事になり、しかも思うような結果が得られないことがこれまでの経験で知っています。

そういうときに、開催日順で書き連ねたコンサート情報があれば、一発で、いつどこで何があるかがとりあえずわかるというものです。

これを作るために、久しぶりにヤマハやチケットぴあなどのチラシ置き場から、あれこれのコンサート情報を頂戴してきましたが、へんてこりんなものもずいぶんあり、これは幸いにも情報誌ではないので、あくまでもマロニエ君の主観による取捨選択をして掲載しています。

個人で気ままに得られる情報ですから、むろん限界はありますが、できるだけこれからはいろいろなコンサート情報にも敏感になって、面白そうなコンサート情報を掲載していきたいと思いますので、お役立てくだされば嬉しい限りです。
2011/08/08 Mon. 02:10 | trackback: 0 | comment: 0edit

キレイゴト汚染 

「一人でも多くの人に元気があたえられたら…」「少しでも笑顔が取り戻せるなら…」

こんなコメント、昨日もまた新聞で見てしまいました。
キレイゴト真っ盛りの日本列島ですが、とりわけ3月の東日本大震災いらい、この手のセリフは飽きられることもなく日本全国のありとあらゆる機会に発せられているようです。
こういう、いかにも実のない言葉の横溢の中で、殊勝な顔をして過ごして行かなくてはいけない現代人は、毎日が偽善にあふれ、だから人の心にも必要以上に闇が生まれ歪んでくるようにも思います。

もちろん、その言葉が本当に適切で妥当な使いかたをされるのならば構いませんが、マロニエ君の印象としては99%不適切な使い方をされているようで、この種の言葉を聞くたびにウンザリします。
また感性の点においても、このようないかにも独創性のない、紋切り型の便利語を撒き散らしているうちは日本は本当の幸福を手にすることは出来ないように思います。

被災地から遠く離れた場所で、ただ単にささやかなコンサートやイベントを開くのに、いったいそれが被災者とどういう関係性があるというか、その主張がまるで意味不明です。おそらくこういうコメントを本気にして、心からそう信じている人などいるはずもなく、みんなこういう言葉は建前だということがわかっているのだと思われます。
中にはチケット収入からささやかな義援金を送るなどの行為もなされているのかもしれませんが、だったら黙ってすればいいわけで、それをいちいち前面に出して声高に言いたがるのは、こんな立派なことをやっているという自己宣伝としか受け取れません。

むろん中には復興支援のために本当に役立つ催しもあるでしょう。それならばその甲斐もあるというものですが、ほとんど個人レベルのものとか、震災とはどう見てもなんのかかわりもないようなものに、いちいちこんな建前を便乗的に貼り付けて、お手軽に時流に乗ろうとするのは、かえって不誠実で、ものを考えない日本人の本当に悪いクセだと思います。

コンサートなんてものは、要するに主催者と演奏者の都合によってのみ開かれるものです。
さらにそれが被災地から遙か遠く離れた地域で行われる小規模コンサートとなれば、聴きに行く人の実態もお義理やお付き合いなどが大半ですが、その人達が、そのコンサートを聴くことによって、震災その他で傷ついた心が少しでも癒され、ましてや元気が出るなんて、そんな魔法みたいな現象など起こるわけがないでしょう。

主催者や演奏者が本当にそんなことを思っているのだとしたら、それは途方もない傲慢と勘違いであって、おめでたいことこの上ありません。
自分と関係者の都合だけでやっているコンサートに、よくこんなご大層な看板を脇に立てて、まるで慈善事業でもやっているような口ぶりになれるものだと思います。

本当にそう思うのなら、現地に入ってもっと実利的な奉仕作業でもやってこそではないでしょうか。
さらには本当に日本人が元気が出るとするなら、それは少しでも健全でまともな政治が行われ、さらには有能かつ信頼できる指導者が復興の指揮を執って政治経済の両面からの建て直しが達成され、それによって人心がいくらか報われたときだと思います。

マロニエ君もいいかげん音楽は好きですが、だからといって思いつきのような手作りコンサートのたぐいに行かされても、それで元気が出るなんてことはあるわけがない。本当に優れた音楽からは感銘は受けますが、それで少しでも元気が出て笑顔が戻るなどというのはどういうことなのか、理解に苦しみます。

たぶんそのあたりはみんな直感的には感じていることだろうと思いますが、今はこの手のセリフを使っていれば誰も文句が言えないし、一番安全なんでしょうから、それを乱発することについては社会が馴れ合いで、そこは深追いしないという暗黙の了解があるのです。マロニエ君は日本人のこういう部分が嫌いです。

そもそも自分の宣伝や利益にしか興味がなく、偽善や無責任に何ら抵抗感もないような人に限って、いかにも人の不幸に心を痛め、救いの手を差し伸べたいというようなことを軽々しく言えるのだと思います。

現在のような国難に際して、いささかでも憂慮の念があるのなら、せめて変な便乗はしないで、誠実に自分は自分のなすべき事を進めればいいのだと思います。
2011/08/07 Sun. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

コンサート探し 

グルーポンとやらをときどき利用している友人がいます。
いつごろのことだったか忘れましたが、その友人からチケットぴあのギフトカードが半額であるという話があり、1万円分が5千円で買えるというので、とりあえず買ってもらいました。

これという目当てのコンサートがあったわけではないものの、そのうち使うだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが、そのギフトカードが届いてからというもの、行ってみたいと思うコンサートがなかなかありません。

マロニエ君にとって、気の進まないコンサートのチケットを買って行くなど、考えられないことです。
やはり長引く不況に東日本の震災がダメ押しとなって、目に見えてコンサートの数が減ったのは間違いありません。
とくに小ホールで行われるピアノリサイタルのようなコンサートが激減しているようです。

一方で、ドカンと大きな来日演奏家のコンサート、とりわけオーケストラ関係はいくらなんでもという価格の高騰に呆れてしまいます。
秋にキーシンがシドニー響とショパンの1番を弾くのですが、GS券はなんと2万円!二人で行けば4万円ですから、そこまで出して行く気にはなれずに断念しました。
もちろん席によってはもっと安くはなりますが、マロニエ君はコンサートに行く以上はある程度の席でないとイヤなのです。演奏者が豆粒のようにしか見えない席で、輪郭のないブワブワした音を聴くだけなら、そこにあまり個人的には価値を見出せないからです。
よく、安い席のほうから売り切れていくことがありますが、あれは実のある倹約とは思えません。

シドニー響に限らず、海外のオーケストラのコンサートなどはもはや以前のように気軽に行けるものではない価格となり、逆にコンサート離れが起きるのではないかと思います。
これがもっと有名な指揮者とか格上の楽団になると、さらにチケット代は上昇し、一度来れば日本各地を巡演するのですから、本来の素晴らしい音楽を聴けるというよりは、なんだか荒稼ぎに来たという印象しかありません。

よほどのお金持ちならともかく、ちょっと一回のコンサートを聴くのに、家族などと行くとなると何万円もの出費となると、いかに音楽が好きでも、よほどのものでないと躊躇してしまうのが普通の感覚ではと思います。
しかもそれらは、昔のように歴史的演奏会に立ち会えるかもというような期待感はなく、だいたいどんな演奏会になるのか今どきは結果が見えてしまうところが、いよいよ憎たらしくて気分が高ぶりません。
とりあえず立派な演奏だけれども、ビジネスの臭いがしていて、山場も感動もちゃんと計算され準備されているような、それでいて気持ちのこもらない仕組まれたシナリオ通りみたいな演奏。
そう思うと「やーめた」という気になってしまうのです。

それはともかく、上記のギフトカードは使用期限が9月いっぱいですから、だんだん猶予もなくなって来た気がして、先日など地元のオーケストラの定期演奏会に行こうかと思い、ほとんど妥協的にチケットを買う気になっていましたが、やはりどうしても指揮者が気に入らずまたしても断念。

まだ使用期限まで2ヶ月近くあるので、そのうち秋のコンサートが少しは出てくるだろうという期待を込めて、静観することにしました。
安く買えたのは結構なことでしたが、かえって変な悩みの種を抱え込んだ形になりました。
2011/08/05 Fri. 02:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

メナヘム・プレスラー 

メナヘム・プレスラーというピアニストをご存じの方も多いことでしょう。

世界的なピアノトリオであったボザールトリオの創設者で1923年の生まれですから、今年で88歳、日本でいう米寿にあたり、現役最高齢のピアニストの一人といえるでしょう。

このボザールトリオは実に53年間という長きにわたって世界トップクラスのピアノトリオとして輝かしい活動を続けましたし、リリースされたCDなども果たしてどれだけあるのでしょうか。
このトリオは2008年に惜しくも解散されましたが、その理由などはマロニエ君にはわかりません。
マロニエ君にとっても、メナヘム・プレスラーはなにしろボザールトリオの中心的な名ピアニストでしたから、もちろんそのCDも我が家にはたくさんありますが、実際の演奏会は聴かずじまいでした。
映像などでいかにも印象的だったのは、音楽に没入しつつも常にあとの二人を気にかけてアンサンブルをいささかも疎かにしない、プレスラーの真摯なそしてひじょうに闊達な演奏態度は、見ているだけで音楽そのものという印象を受けたものです。

そんなプレスラーが、今年6月、東京でソロリサイタルを開いたというのですから、いやはや驚きです。
これまでにプレスラーの演奏はずいぶん聴いた気がしますが、それはすべてボザールトリオの演奏であって、ソロは一度も聴いたことがありませんでした。
プログラムはベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第31番/ショパン:マズルカ/ドビュッシー:版画/シューベルト:ピアノ・ソナタ第21番 変ロ長調 D960というものだったようですが、そこから後半のドビュッシーとシューベルトの演奏がNHKの音楽番組で放映されました。

インタビューにも答えていましたが、何を聞かれてもサッとタイミング良く話し始めるその様子ひとつとっても、とても90歳近い人物とは思えません。
とくにシューベルトの最後のソナタに関しては、大変な曲なのでずっと避けていたが、弾かなくてはならない時が来たという答えが印象的でした。

演奏は大変立派なもので、とくにドビュッシーには気品と輪郭があって素晴らしかったと思います。
シューベルトは第2楽章の寂寥感が印象的でしたが、後半は若干お疲れを感じないでもありませんでしたが、それでもよくこんな大曲を弾き通せるものだと感嘆させられました。強いて言えばもう一歩深さがあればという印象…。
また舞台上での足取りなどは実にしっかりしていて、まったくふらついたところなどありません。
他日は室内楽なども演奏したようで、まことに精力的なスケジュールです。

いかに矍鑠としているとは言っても、現実の歳は歳なのですから、それでいまだに海外へ演奏旅行に出かけ、その地でこのような重量級の演奏会をするとは、世の中には凄い人物がいるものです。

会場はサントリーホールのブルーローズ(小ホール)で、ここはホールといってもフラットな床の広間に椅子を並べただけの、いわばホテルの宴会場のような場所ですが、プレスラーほどのピアニストのリサイタルなら、もっと相応しい会場が東京にはいくらでもあったように思われて、ちょっとその点は納得がいきませんでした。

ちなみにピアノはスタインウェイでしたが、正確なことはわかりませんが、見たところ10年経つか経たないかぐらいのピアノだったように感じました。ごくごく最近のものとは違い、まだいくらか良さが残っていたと思います。
2011/08/04 Thu. 02:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

今こそ狙い目 

円高が止まりません。
こんな書き出しは、まるでテレビニュースのつかみのセリフのようですが、実際にそのようですね。

アメリカドルばかりを基軸に見てしまいますが、ユーロも一時期に較べるとかなり安くなっているようです。
その原因や仕組みはマロニエ君に詳しいことはわかりませんが、政府の信じがたい無策も大いに関係があると思われますし、一方でドルやユーロに対する信頼が低下していることもその一因だと思います。

むろん、輸出に経済の大半を依存している日本にとって、この円高はタチの悪い慢性病のようなもので、これ以上円高が進むことは、どう見ても好ましくないことは誰の目にも明らかでしょう。

子供でもわかる理屈で言うと現在の円高は、海外で物を買えば大いに得をし、逆に海外で物を売る側は大いに損をするということになります。

そこでピアノの話ですが、お金を持っている人は、今のこの時期に海外からピアノを買えば、かなり安く買えることは間違いありません。
たとえばアメリカで定番のニューヨーク・スタインウェイを買うとします。
アメリカで売られているニューヨーク・スタインウェイは日本で通常売られているハンブルク・スタインウェイとは新品価格そのものが違いますが、ではこれをニューヨークの本社に行ってパッと買えるかどうかとなると、そこはわかりません。
というのもスタインウェイ本社はスタインウェイ・ジャパンという現地法人を作っていて、そこが日本での輸入元みたいなものですから、単純に個人相手にアメリカでピアノを売って運送手配までしてくれるかというと、そう簡単ではないかもしれません。

でも、仮にそうだとしてもいくらでも抜け道があるのであって、全米にたくさんあるスタインウェイ取扱いのピアノ店に行けば、そこのオーナーは相手がだれであれ商売なんですから喜んで売るはずです。

また、ぴあのピアのホームページにもいくつかの海外のピアノ店をリンクしていますが、それらの多くは中古価格などを載せていますから、おおよその相場というものがわかります。
とくに戦前の素晴らしい楽器がたくさんあることはさすが本場というべきで、あれこれ見ているだけで時間を忘れてしまいます。
日本の有名な専門店なども、この手のピアノ店から仕入れをしているというウワサで、彼らの仕入れ値はまた少しは違うのかもしれませんが、いずれにしても現在の円高を武器に挑めば、かなり有利な価格で憧れの名器を我が物にできるという、現在はそんな恰好の時期でもあると思われます。

時間さえあれば、アメリカの往復航空券など10万以下でもありますし、語学に自信がなくても現地で通訳を雇ってもたかが知れています。
しかも現在は航空便の値が下がり、ピアノもこちらがメインの時代になりましたから、気に入ったピアノがあれば、出荷から一週間で日本に届き、前後の時間を考慮しても、一ヶ月みておけば自宅にピアノが届くのはほぼ間違いないと思われます。

アメリカはああ見えてもピアノ大国で、スタインウェイの本社もニューヨークなのですから、修復やリビルドの技術も高く、新品のように美しく修復されたマホガニーのピアノなど、見るだけでもため息がでるようです。
美しく再生された黄金時代のスタインウェイは、マロニエ君などはもはや文化財のようにさえ思っています。

繰り返しますが、こういうピアノも日本よりも相場が安い上に、なにしろこの円高ですから、おおよその円の適性価格といわれる1ドル120円を基準にすれば、それだけでも今は本来の2/3の価格で買えるというわけで、どのモデルでも、きっと望外の価格で購入できると思います。旅費や運送費を考えても元は取れるどころの話ではありません。

おまけにピアノを買いにアメリカに行くというのも、なんともオツなものじゃありませんか。
たぶんヨーロッパでもある程度似たような状況かもしれません。
ああ…やってみたい。
2011/08/03 Wed. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

我子の七光り 

天才音楽家というのがときどき現れます。
その天才ぶりも様々ですし、とうぜん天才のあり方も一人ひとり違っていて、本当に深い感銘を覚えるような演奏に接することがある一方で、あまり感心できない場合もあるわけですが、いずれにしてもその才能は並のものではないことは疑いようがありません。

現代社会は何事につけてもいちいちが比較の社会であり、この時代に生きる人達は好むと好まざるとにかかわらず、なんらかのかたちで厳しい競争条理の中に放り込まれているもというわけです。
家族がちょっといい会社に勤めていたり、子供がちょっと有名な学校にいっているぐらいでも鼻高々だそうですから、ましてや我が家から「天才」が現れたとなると、それはもう尋常な喜びようではないでしょうね。

天才とはエリートのさらに上に位置する特別な存在ですから、それが嬉しいことぐらいわかりますが、そこから先どういう行動を起こすかが、とりわけ親の品格だと思いますし、それがひいては我が子のためにもなると思うのですが。

マロニエ君が見ていてどうにも首を捻ってしまうのは、天才が出現して世間で話題になると、しばらく間をおいて今度はその親が書いた本が書店に並ぶのが今どきのパターンです。
もちろん親は作家でも物書きでもなんでもないのですが、話題の天才の親というその事実だけで、本を出すに値する資格をもっているかのごとくで、出版社も煽り立てくるのかもしれません。

日本というのは不思議な国で、本当の正しい判断力として若い才能を見つけ出すことはできないくせに、ちょっと有名なコンクールに優勝したり、なにかマスメディアが取り上げるような話題になって、ひとたび脚光をあびると、今度は手の平を返したように過分な扱いをするようになります。
本当に素晴らしい誠実な音楽家が、小さなホールでささやかなコンサートをするにも集客で苦労するのを尻目に、話題の天才というレッテルが貼られるや、大ホールのコンサートを立て続けにおこなっても悉くチケットは完売し、東奔西走の毎日がはじまるようです。

こうなると、あらゆる関連業種が儲けのおこぼれに与りたいと本人やその家族に群がり、そこから上記のような著書が出版されるのだろうと思われます。文章書きが不慣れな人にはゴーストライターがつくのはむろんです。

最近は、アーティストのほうでもいつでもスタンバイ、売れたらアクセル全開が当然のごとくで、たとえば昔、ポリーニがショパンコンクールに優勝したのちにさらなる勉強のためにコンサートを休止するような、ああいった振る舞いをする人は皆無になったように感じます。
おっとり構えて勉強などと言っていたら、あっという間に背後から追いこされて終わってしまうという現実もあるのかもしれませんが、ともかく、天才本人も家族も、過剰なほど時代認識ができていて、稼げるうちに稼ぎまくるといったような、あまりに露骨な印象を与えるのは一音楽愛好家としては、どうにもやるせないものがあります。

とりわけその道のシロウトである親が我が子をネタにいきなり本を出したり、子育てをテーマとした講演などに飛び回る様子は、天才の親どころか、子の七光りを受けてはしゃぎまわっている俗人そのものの姿でしかありません。
多少は相手側からのリクエストもあるのかもしれませんが、それをこうもやみくもに応じるということは、やはりご当人もそれを我が世の春のごとく喜んでいるのだろうと思われます。

昔の芸能界には、売れっ子の我が子を食いものにする非情な親や親戚という構図があったようですが、クラシックの世界で子供をネタに親までもがあれこれと露出したり小遣い稼ぎの手段にするというのは、もうそれだけでその人の演奏に興味がなくなってしまうようです。
娘が有名スポーツ選手になった勢いで、親が国会議員になるような時代ですから、本を出して講演を渡り歩くぐらい甘いもんだといえば、そうかもしれませんが。

以前書いた○○家にヴァイオリンが我が家にやって来る本の一家ですが、すでに親兄妹の間で、想像を超えるほど何冊もの本が出版されているのには驚きました。これなどはまさに互いの知名度を互いに利用し合って相乗作用を起こしているようなもので、とにかく利用できるものはなんでも利用するという抜け目のなさが現代の流儀なのかもしれません。
2011/08/02 Tue. 01:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

ウゴルスキのCD 

過日はウゴルスキのスクリャービンのCDに関して、ひじょうに悔しい失敗をしてしまいました。

ロシア出身のピアニスト、アナトゥール・ウゴルスキ(1942年〜)はリヒテルやホロヴィッツ亡き現在、ロシアが輩出した巨人ピアニストの最後の一人といえるかもしれません。

ウゴルスキはピアニストとしてロシアでは一定の名声を獲得してレニングラードの教授などもしていたものの、ある時期から深刻な迫害を受けるようになり、いらいピアノを弾くこともできない苛烈な時期を過ごすなどして、1990年ついにドイツに亡命。そこからが彼の非常に遅い西側へのデビューとなりました。

その並外れて壮大なスケールと緻密さの合わさった演奏は、たちまちグラモフォン(当時は現在と違ってまだお堅い体質の時だった)と専属契約を交わすこととなり、いらい幾つものCDがリリースされましたが、彼の演奏に見られるpppからfffまでの驚異的なダイナミックレンジの広さと作品に対する深い洞察は抜きんでており、それを演奏として可能にする強靱かつ透徹したゆるぎないテクニックには、当時世界中がこの新たな才能の登場に驚いたものでした。
その後はグラモフォンからはゆったりしたペースでいろいろなCDがリリースされ、その大半は購入していましたし、日本へも何度か来日を果たしてその並外れたスケールの圧倒的な演奏を聴かせたものです。
とくにNHKでも放映されたベートーヴェンのディアベッリ変奏曲などは非常に強烈な印象を残す見事なものでした。

そんなウゴルスキですが、その後はあまりCD等が出てくることがなくなり、どうしたのだろうかと思っているところ、ドイツのAvi-musicというあまりなじみのないレーベルからスクリャービンのピアノソナタ全集をひっそりとリリースしていることを知りました。

マロニエ君は店頭のほか、ネットでもしばしばCDを購入するのですが、この手のマニアックなCDは取扱量が圧倒的に勝るネットのほうが有利なのはいうまでもありません。
しかしこのCDは、あるにはありましたが時間を要する取り寄せ商品になっており、とりあえず「お気に入りリスト」にまで入れておいて、他のものと一緒に注文しようと思っていたら、あるときリスト上からこれが消去されていることがわかりました。
吉田秀和氏の文章にも、このCDのことが書かれており、久々のウゴルスキの新譜を発見したという調子の文章で、いきなりマイナーレーベルからのリリースを不思議がっている様子でした。

マイナーレーベルが困るのは、録音自体があまりよくない場合があること、入手できない場合が多いこと、すぐに廃盤になったりと、なにやかやと危険率が高いことですが、現に取り寄せ可能だったウゴルスキのスクリャービンが早々にリスト上からも消えてしまったということは、経験上、廃盤になったと解釈せざるを得ませんでした。
いかにウゴルスキといえどもマイナーレーベルでのスクリャービンのソナタでは、なかなか売れなかったのだろうと…。

ところが先日、天神のCD店の店頭でいきなりこのCDを発見!!思わず狂喜してしまいました。
ははあ、こんなところに売れ残りがあったのだ、灯台もと暗しだったと思い、これを逃せばもう手に入らないとばかりに迷わず買い求めました。

帰宅してさっそく聴きながら、なんとなくネットのほうを再度検索してみました。
気持ちとしては、自分が手に入れたもんだから市場には「無い」ことをもう一度確認したかったわけですが、なんと意に反してあっさりこれが出てきて、しかも「在庫あり」になっているのにはビックリ。さらに許しがたいことには他商品と3点以上まとめて買うと割引の対象にさえなってお入り、4900円ほどで買ったものがその場合は3300円ほどになるのを知ったときには、気分は一気に谷底に突き落とされる思いでした。

どうやら店頭にあった商品は、最近大量に再入荷した折に各店舗にもまわってきたのだろうと推察されました。
しばらくキリキリしましたが、しかしウゴルスキの力強くもほの暗いエレガントなピアノを聴いていくにつれ、そのゆるぎなさと艶やかな響きなど、あいかわらずの第一級の演奏に満足を感じ、しだいにそのショックも和らいでくるようでした。
録音もメージャーに引けを取らない非常に優秀なものだったのも嬉しいことでした。

めったにないのですが、やはりありますね、こういう失敗。
ですが、こういうことには立ち直りの早いマロニエ君なのです。
2011/08/01 Mon. 02:20 | trackback: 0 | comment: 0edit