FC2ブログ

06 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 08

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ジミのハデ好き 

人は他人を、知らず知らずのうちに外観でなんらかの判断しているようです。

考えてみれば視覚というのも重要な情報源であって、視覚的要素だけを完全に切り離した判断などは極めて困難であり、そもそも自然に反することだろうと思います。視覚情報は無意識の中で大きな割合を占め、なんらかのイメージの形成に少なからず影響があるというのが現実だと思います。
どんなに「見た目じゃない、内容重視だ」といってみたところで、視覚から得た情報にまったく左右されないなどと果たして言い切れるでしょうか? 
言いきれる人がいるとしたら、それはとんだ思い上がりか、はたまた並外れた能力があると言わなくてはなりません。

人が他者を認識する上で、話の仕方や内容、性格など相手から伝わる様々な印象に、顔かたちや雰囲気などの視覚的な要素は当然ながら絡んでくるわけで、その総和によって自分なりのイメージというものを作り上げていることは否定できません。

ところがこれで裏切られ、大変な間違いを犯すこともあるわけで、後になっておおいに「見誤った」ということがあるのは事実で、その中には非常に意外なひとつの厳然たるパターンを見出すことができるのです。

それがタイトルの「ジミのハデ好き」というわけです。
地味な人というのは、典型的なタイプで言うと、存在感がない、立ち居振る舞いもジミ、性格も目立たない、人の印象にも残らない、社交性がなかったり、頭が良くても才気がなかったり、オーラとは無縁であったりと、やはり外観もそれに応じて地味な印象の人が多いものです。
その言動も、なにかにつけ表に出るタイプではなく、陰と陽なら陰の役割で、必ずその他大勢に分類されるタイプというところでしょうか。

こういう人と接していると、ごく自然な印象として、おそらく何事にも控え目で静かなタイプ、真面目というか慎重というか、「派手なことはむしろ嫌いなのだろう」という印象を自然に抱いてしまいます。
ところが、それがまったくの誤りだということに気が付く時が、あるときふいにがやってくるのです。
それは、その人のいろいろな言動に触れることによって、内面の本質が少しずつ見えてくる時といってもいいかもしれません。

もうおわかりですね!
こういう地味な人に限って、内心では相当の派手好きだったり、目立ちたいという願望や憧れを人一倍強く持っているということがあり、実際このタイプはかなり多いと思います。そして最終的には、普通のハデ好きな人もはるか及ばないほどのハデ好み、目立ちたがりだったりするわけですから、それは常に屈折した形でしか顕れることはありません。

きっと自分では華やかでありたいという内なる欲求が、自分の中で長年醸成され膨れ上がって巨大化し、しかしそれは何重にもジミな包装紙にくるまれ、あくまで隠匿されてきたせいだと思われます。
人間は「自分にないものを求める」という言葉通りなのかもしれません。
強烈な上昇志向の持ち主が、実は暗い生い立ちの反動だったりするのと共通しているかもしれません。

マロニエ君はさまざまな矛盾からある時この法則的事実に気が付いて、はじめは大変意外に思ったものですが、心理形成としては大いに納得し、思い当たる人々をあれこれを当てはめてみると、その法則がバンバン当てはまりました。

たとえば、ネット上では大いに語りまくる多弁この上ないような快活な人が、実際に会うと言葉も少なく伏し目がちな、予想とはかけ離れた別人だったりして唖然とさせられるようなことがしばしばあり得ることは、むかしオフ会などを経験した人ならおわかりだと思います。

ブログなどにもそれがあり、現実からは程遠い別世界を作り上げ、そこの主となり、これでもかという自己願望の放恣な羅列を目の当たりにすると、人の内面の怖さを覗くようでゾッとすることがあるのです。

人間は極めて奥の深い複雑怪奇な生き物であることは否めませんが、だからといって、あまりにも秘めたるマグマを抱え持っているというのは、笑っているうちはいいですが、最終的には多重人格的というか、どこか怖いものがありますので、これの甚だしい方とは極力かかわりたくはありません。
スポンサーサイト
2011/07/31 Sun. 02:12 | trackback: 0 | comment: 0edit

日時計の丘 

福岡市南区の丘の上にある「日時計の丘」に行きました。
来月ここを使わせていただくので、下見を兼ねて知人と2人でいきましたが、オーナーの方はご不在で奥さんが対応してくださいました。

往きの車の中で、知人は、ああいう文化的な空間を作る人はきっと芸術家なのではないだろうかと言いましたが、マロニエ君は直感としてそんなはずはないだろうと思いました。そんなことを話しながら約束の時間にやや遅れながらも現地へ向かいました。

まずこの点は、やはり想像通りで、ここのオーナー殿は地元の大学で哲学の先生をされていたらしく、近年退官された御方だということを夫人から伺いました。
マロニエ君がなぜ芸術家ではないと思ったかと言えば、芸術家は自分が芸術の創り手なのですから、芸術全般に過度の美しい憧れのようなものをいだいているはずがないし、苦闘は絶えず、芸術界の裏表や実情も知るところとなり、芸術をあれほど美しい崇高な理想として捉え続けることはできるわけがないと思われたからです。

芸術分野における趣味人の出自をみると、大学でいうところの文系は極めて少数派で、圧倒的に理系の人が多いのは、一見意外なようで驚くべき事かもしれません。一説には音楽と数学は隣同士などともいいますし、美術と化学もひょっとしたらお近いかもしれませんが、概して理科系と芸術界は真逆の世界に位置するのであって、だからこそ純粋な鑑賞者のスタンスでこれらに手を伸ばし、その内なる美に酔いしれることができるのかもしれません。

日時計の丘の夫人はドイツの方で、ご主人との日常会話はドイツ語の由。ご自分の日本が拙いことをしきりと詫びておられましたが、それはまったくの謙遜で、とても品の良い日本語を話されることにも驚かされました。

まずは全体を案内してくださり、ピアノのあるギャラリーを一巡した後は、中ほどに設置された階段を上って二階へ向かいます。二階は小さな図書館ということで四方の書架の中央にテーブルがあり、ここで定期的に朗読会やさまざまな勉学のためのイベントがおこなわれているようです。更にその奥には、文字通りの文庫があり、無数の書籍で部屋中の書架という書架をぎっしりと埋め尽くされていました。
ちらりとしか見ませんでしたが、文学書からおそらくは哲学などの専門書まで、高尚な本が見事に蒐集されている、いわばそこは知性の空間でした。

さらに二階にはコンサートのときの出演者の控え室というか楽屋にあたる部屋もあり、専用の化粧室まで準備されているのは驚きでした。

階下では先日のコンサートのときと同様、L字形の空間には無数の絵画が展示されています。
その特徴は大型の油彩画などではなく、どちらかというと小ぶりな版画などが主体ですが、それがかえって好ましい軽快さにもなっているようです。夫人の話によると作品はときどき掛け替えられるとかで、奥の扉の向こうにはさらに多くの作品が収蔵されているということでした。

マロニエ君はずいぶんこの夫人と話し込んでしまいましたが、この建物はいわばご主人の趣味の集大成といえるもので、その構想から細部にいたるまで夫人の出る幕はないとのこと。そのご主人の猛烈な凝り性と情熱の前ではさしものドイツ女性も匙を投げているといった様子だったのが妙に笑ってしまいました。

ここにある101歳のブリュートナーはたいへん元気で、3年前にウィーンから日本にやってきたそうです。
ブリュートナーはドイツピアノの中でも艶やかな美しい音色であるのに加えて、天井が高いので、ふわりとした響きがあり、思わずうっとりするような美しい音の空間が広がります。
戦前の古いピアノというのは、弾く側がごく自然に楽器を慈しむような気持ちにさせられてしまう魔法のようなところがあり、こんなピアノをガンガンと心ないタッチで弾かれることのないようにと願うばかりです。

またこの空間は人の背丈よりも遙か高い位置にある大きな窓が採光の役目を果たし、そこから入ってくる自然の光りは、いったん周りの白い壁やらなにやらに繰り返し反射しながらこの空間をやわらかに照らすので、心地よい自然の間接照明となり、それはまるで宗教画に降り注ぐ光のようで、なんとも心が洗われるような気分になるのでした。
2011/07/30 Sat. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

カラオケ族 

マロニエ君は自慢でありませんが、これまでに一度もカラオケというものを歌った経験がありません。
これを言うと、へええ!と呆れられることもありますが、人前でピアノを弾くのが超苦手のマロニエ君としては、まさかカラオケでマイクを片手に人前で熱唱するなど、絶対に無理です。
あるとすれば家族が強盗に出刃包丁でも突きつけられて「歌え!」と脅されたときぐらいのものでしょう。

ところが世の中には、このカラオケがのめり込むほど大好きで、我こそはとマイクを奪い合い、中には大会に出るために芸能人張りの衣装まで拵えてステージに挑む人も少なくないというのですから、いやはやその鋼鉄のような心臓には、ただただ恐れ入るばかりです。

最近つくづくと思うのは、シロウトが人前でピアノを弾くという行為を見ていると、下手をすると、このカラオケのマイクの争奪戦に通じる要素が潜んでいるのではないかということです。
歌がピアノになり、マイクが椅子になるというだけの違いではないかということ。

ピアノクラブの定例会では弾く曲も事前に伝えてあり、一定の流れと制約がありますが、それでも余り時間になれば空気が自由になり、ある種の兆候はやや見て取れるものです。
そして、それが一気に噴出するのは「練習会」という、すべてが自由時間のピアノを弾く会などです。
この練習会に限らず、なにかの折に素人がピアノを弾く姿を見ていると感じるのが、上記のカラオケ好きと類似した状況ではないかということです。

マロニエ君もピアノが好きな者の一人として、そこにピアノがあれば弾きたいという単純素朴な気持ちが湧きおこるの理解しているつもりですが、同時に遠慮や気後れがあるのが普通かと思っていました。ところが、むしろ控え目な感じの人などが、ピアノを前にすると人が変わったように、弾きたがり屋に変身するのは唖然とさせられます。

何事においても、ひとつのものをみんなで共用して楽しむ場合には、本質的に遠慮と譲り合いの精神が求められますし、何度か弾けばもうそれで充分じゃないかと感じますが、現実はそうではないようです。
これは一定のところで自制しないことにはキリがないし、それ以上弾きたいのなら自宅か別所でやるべきです。

もうひとつは、趣味の集まりなのだから腕前の巧拙は当然不問ですが、それでも、少なくとも人前で弾く以上は、その人なりの最低限の練習を経たものだけにすべきだとマロニエ君は考えます。

たしかに名前は「練習会」ですが、そこは自分ひとりの空間ではなく、じっと聴いて(くれて)いる人がいるわけですから、ただ自宅と同じような練習のようなことをしたら完全な迷惑行為といえるでしょう。
ピアノのサークルやクラブは、お互いの演奏を我慢して聴くという、いわば「相互我慢会」なわけですから、その認識と平衡感覚だけは失ないたくないものです。
周りの人の善意の気持ちにも限界があることも考慮すべきでしょう。

ごく普通のマナーとして、聴いている人への礼節と謙虚な気持ち、誠実さみたいなものが感じられるものであってほしいのですが、くどいほど何度も弾いたり、ほとんど譜読みの段階のような状態をさらしてまであえて人前でピアノを弾くことに、いったいどんな意味や満足があるのか…マロニエ君にはわかりません。
それでも人前演奏が快感で止められないというのなら、それはビョーキです。

それでも、まだ陽気に楽しく笑いながらやるぶんは周りも救われますが、表向きは真面目派で態度も控えめなのに、実は静かに露出好きというのでは、なんだか暗いマグマが潜んでいるようで恐いです。

ピアノが音を出すものである限り、気を遣うべきはマンション等の近隣だけでなく、同好の周囲に対しても一定の抑制と気遣いが必要ないはずはなく、これはピアノを嗜む者として、常々に認識しておきたいものです。
2011/07/28 Thu. 01:54 | trackback: 0 | comment: 0edit

なんで映るの? 

実をいうとマロニエ君は(以前も書いたことがありますが)大型電気店にいくと体調が悪くなる体質です。
数年前まではそんなことはなかったのですが、ここ1年ぐらいは行って30分もすれば確実に悪化します。
さらには、ピアノにダンプチェイサーを取り付けて、始めにスイッチを入れてからの半日も同様の症状がでました。

これは電気製品に使われる化学物質の何らかのもの(塗料や接着剤など)が熱によって空気中に放出されることによるもので、物知りの知人によると、これはハウスシック症候群と同種のものだそうで、当初疑っていた電磁波の類ではないらしいそうです。

昨日書いた、先週末ビデオレコーダーを買いに行った際にも、待たされ時間が長かっために店内の滞在時間は1時間近くに及び、そのせいで予想通り体調はみるみる悪化し、まるで乗り物酔いでもしたときのような不快な症状と顎が外れるほどの生あくびの連発という苦しい事態に陥りました。
これがなんとか治まったのは夜の12時近くになったころで、回復にはどんなに早くても5〜6時間は要します。

さて、そんな肉体的犠牲を払ってまでデジタル放送対応のレコーダーを買ったわけですから、準備万端ととのい、さあいつでも来い!という態勢でアナログ放送終了の日曜日を迎えました。
聞けば昼の12時から夜の12時まで、段階的に停止していくとのことで、午後などはわりとどこの家でも映っていたようですが、それも夜の12時には消えてしまうという話でした。

さて、夜12時をまわり、いよいよアナログ放送が消えていることを確認すべく、テレビのスイッチを入れてアナログ放送へ切り替えると、なんのことはないこれまで通りに映っているのには、…何で?と思いました。

画面下になにやら文字が流れており、それによると「ごらんのテレビ放送はケーブルビジョンが地上デジタル放送をアナログ変換して放送しているものです。」とあり、さらにそれは平成27年まで継続されるということで、なんとあと4年もアナログ放送が続くという事実には、エーッ!と思わずのけぞってしまいました。

ちなみにマロニエ君の家は、市のわりに中心部でありながら電波の受信環境が悪いエリアということで、昔から周辺一帯はケーブルビジョンを多く使っています。
このケーブルビジョンを使う限りは、そんなにあわててテレビ/ビデオを買い換える必要がなかったというわけですが、こんな情報はちっとも知りませんでした。少なくともケーブルビジョンを使っている世帯にはなんらかの通達があってもよさそうなものをと思いましたが、知る限りではなにひとつなかったように思われます。

さて、先週末、決死の思いで買ってきたデジタル放送対応のレコーダーは、まだ玄関の片隅で包装されたままポイと置かれたままで、いやはやこれはどうしたものかと思っています。
通常なら、せっかくだから接続すればきれいな画像で楽しめるのですが、そのためには衛星放送の受信設備をしなくてはいけません。他の部屋にはきてるのですが、配線などを依頼しなくてはならず、それが面倒臭い。
アナログのままなら画質を我慢すれば衛星も映るのです。

世の中のシステムにはどんな意外な抜け穴が潜んでいるか、よほど事情に通じていないと馬鹿を見ることがあるようですね。
しかし、だからといって日頃から情報収集の奴隷のようにはなるのはまっぴらですから、ときどきこういうことが起こるのも仕方ないかと諦めています。
2011/07/27 Wed. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit

電気店は疲れます 

先週末はアナログ放送の終了に絡んで、電気店の買い物で疲れました。

マロニエ君の自室は、テレビは昨年秋に買い換えているので問題ないのですが、DVDレコーダーが古いタイプで、テレビを設置に来た人に尋ねたら、「これは来年7月で使えなくなります」という話でした。
もともとマロニエ君は自室ではステレオばかり聴いており、テレビはほとんど見ませんから、まったく無いのは困るけど映ればなんでもいいという程度のものでしかありません。

DVDレコーダーも毎週いくつかの番組を録って夜中などに見るだけのために置いているので、画質などもドーでもよく、録画されていて見ることが出来ればそれでじゅうぶんだから、このレコーダーの買い換えもずっと伸ばし伸ばしになっていましたが、アナログ放送の終了に伴い録画もできなくなるのはさすがに困ると思い、ついに重い腰をあげ、ヤマダ電気に行きました。

店はべつにどこでも良かったのですが、エアコンの修理でえらく高額な保証を適用してくれたので、義理があるような気がして次回は必ずヤマダで買わなければと思ってたので、それを実行したわけです。

マロニエ君にとってテレビやレコーダーは上記のような必要最小限の価値しかないので、ブルーレイなど必要ないし普通のDVDレコーダーでじゅうぶんなので、どれにするかはだいたいすぐに決まりました。
ところが今どきの大型電気店というのは価格勝負のしわよせか、店員も少な目で、広い店内どんなに探し回ってもみんなお客さんの対応をしていて、相手をしてくれそうな人が見あたりせん。
ようやく携帯電話売りのおねえさんが説明してくれたところでは、名前を書いて対応の順番待ちになっているというではありませんか。普通ならパッと止めて帰るのがマロニエ君ですが、もうアナログ放送終了は目前だし、そうも言ってられないのでやむなく我慢して待つことに。

待ちくたびれて途中で催促したら、ようやくひとりの草食系みたいなお兄さんがやってきて、やっと特定の機種の購入意志を伝えることができました。すると「お待ちください」と言われ、それからがまた待つことの連続で、人としゃべるのはごくわずかで、要するに店内での時間の大半は「待つこと」なんですね。
対応の順番が来るまでに15分、さらに購入意志を伝えてからが10分ほど、そして商品を抱えてやって来た店員の話というのは、専ら保証やらポイントやら取り付けやらの説明ばかりに終始して、まるで販売ロボットを相手にしているようです。

ようやく説明が終わったと思ったら、その人についてレジに移動しますが、レジもまた順番待ちの様相です。
ここで5分以上待ったところで、ようやくとなりの閉まっていたレジが開いたのでそちらに移動。
すると対応してくれたお兄さんは商品をレジに置くなり、こっちを向いて「ありがとうございました」といってアッという間に去っていきました。ここから先はレジで支払いをするだけなので、自分の役目は終了ということのようです。

レジではポイントカードをお持ちですか?といわれましたが、この商品は安くなっているのでポイントは使いはずだと思っていたら、同時購入していたDVDディスクに付加されるとのこと。
これがなかなか出てこなくて、もう焦って、カバンをひっくり返すように探したら、やっと最後に出てきました。
その間、ことさら無表情に待っていたレジの男性はそれをスッと受け取ると、74ポイントありますがお使いになりますか?と聞くのでどっちでもよかったど、とりあえずハイと答えると、そこから彼の仕事がはじまったようで、商品代とさらにその5%にあたる保証代などの合計金額とポイントなどを、猛烈なピアニストのような指さばきで一気に計算しはじめました。
言われた通りの金額を払い終わると、レシートと、保証書と、ポイントカードが渡されますが、「今回92ポイントお付けしております!」といわれ、要するに差し引きたったの18円分のポイントということになり、あれだけ必死に探した挙げ句がこれかとアホらしい気分になりました。

以上でめでたく買い物終了というわけですが、安いとはいえ何万もするものを買うのに、買い物の楽しさのかけらもない、まさに仕事のような厳しい空間で、これが現代というものかとつくづく感じずにはいられませんでした。
店に入ってから1時間弱というもの、やったことと言えば、10分足らずの商品選びを除いては、あとは店員探しと、ひたすら待つ、待つ、待つ、そして支払いというもので、価格競争というものはこういうことだというのはわかってはいても、パサパサに乾いた、殺伐とした時間を過ごしたという印象しか残りません。

すっかり疲れてしまい、取り付けなんてしばらくする気も起きず、いらい3日間ほど玄関に置きっぱなしになっています。
2011/07/26 Tue. 01:33 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・練習の変化 

練習といっても別に大したことをやっているわけじゃありませんが、それでもいろんな発見や新たな挑戦があることも事実です。

たとえば仕上げる気などさらさらなくて、ただ楽譜を置いて漫然と弾いていたときに較べると、指の練習は当然としても、曲の細部に関してもいろんな注意を細かく払うようになり、楽譜上の指示が果たして適切かどうかとか、その真意を探ったり表現の適切性を試してみたり、あるいは版による指示や考え方の違いを比較して、それに自分の解釈(というのもおこがましいですが)をあれこれと重ねて思案してみて、最良と思われる結論を導き出す過程はとても楽しいものだということがいまさらながらわかりました。
というか、これこそ演奏する人間だけが経験することの出来る、音楽を取り扱う際の楽しみだと思うのです。自分と作品がいかに和解し、作品のしもべとなってどこまで理想的な音としてそれを表せるか。

指使いなども版によっていろいろ異なりますが、マロニエ君の場合は必ずしも楽譜に書いてある指使いが最良とも思っておらず、いろいろと検討してみて、最終的には自分にとって一番しっくりくる、自分にとっての合理的なものを決定します。
これは、一般論からいえば、正しいとは言えないような指使いになる場合も当然ながらあるわけで、頭の固いピアノの先生などは絶対に許さないことだろうと思いますが、しかし指使いというものは最終的には弾く人の技量や手の大きさや指の構造などにも大きく関わってくることなので、本当の意味での正解が必ずしも楽譜の指示通りではないと思っているわけです。

それに指使いは当然ながら解釈によってもいかようにも変わります。フレーズの歌い方、アクセントの置き方、音節の区切り方、強弱のバランス、前後の対比、各パートの重要性の順序など、あらゆるアーティキュレーションの総和によっても、そのつど最良の指使いというのは微妙に変わってくるものだと感じるわけです。

それらを総合的に検討して、ひとつの結論とか形に収束していく過程というのはとてもおもしろいもので、以前はそれほどでもありませんでしたが、要するにピアノクラブで弾かなくてはいけないという義務が課せられたことで、どの曲を弾くにもこういうことを以前よりもより明確に意識してピアノに向かうようになったというのは、マロニエ君にとって最も大きな収穫だったと言える気がしています。

解釈の意義をひとことでいうなら、いかにその曲がその曲らしくあるかを探り、すべての音符と指示が有機的に必然的に流れるように持っていくか、これにつきると思うのです。
そういう目標をおくと、音色や強弱は当然としても、響きの明暗、休符ひとつ、アクセントひとつがどれも見逃せない意味深なものであることが迫ってくるわけで、それを考察し解明していくのはたとえ自己満足でも面白いものです。

練習を重ねていると大いに困ることもあります。
場所によっては、何度練習しても自分にはどうしても向かない音型、苦手なパッセージなどがあり、これを乗り越えるのはちょっとした努力が必要になりますが、性格的に粘りもないし、納得できる結果に到達することがあまりないことは、つくづくと自分の拙さを嫌というほど思い知らされます。
要するに、単純に、ひとことで言えば「下手クソ」なんですね。

さらには、練習とは細部をくまなく点検して、ゆっくりネガ潰しをしていくという一面もありますが、これをあまりやっていると、どめどがなくなり、どこもここも問題ありと思うようになり、変更に変更を重ねます。
すると、不安が全体に広がって、弾けていた場所まで弾けなくなってしまうということがよくあるのです。

これはつまり、それまでの練習が好い加減で甘かったということの顕れなのですが、ここに落ち込むと脱出にはかなり難儀させられます。
要は、下手なものはどこまでも下手だということでもあるわけですが、それでもピアノを弾くという魅力は尽きません。
ただ、ここに来て再び人前での演奏には強い拒絶感が増してきていますから、どうなることやらです。
2011/07/25 Mon. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

練習の変化 

ピアノクラブに入ってはや2年近くが経ちますが、その結果なにが違ったか、ピアノに関して自分でなんらかの変化が「あったか」「無かったか」と考えてみると、やはりそれなりの変化はあったと思います。

それは、ほんのわずかではありますが、自分なりに少しばかり集中して練習をするようになったということです。
練習の内容も若干変わりました。
以前からマロニエ君の主な弾き方は、山積みにしている楽譜からあれこれ引っ張り出して、自由気ままにトボトボと弾き散らす、ただそれの繰り返しでした。

もともとが上手くもない上に、こんな弾き方をしていれば、当然ながらレパートリー(というのもおこがましいですが)は広がらず、少なくとも自分なりに仕上がった曲というのは、手を付けている曲の数に対してギョッとするほど少ないものにしかなりません。
というか、もっとハッキリ言うとこの調子ではどれひとつとして仕上がりません。
仕上がりに近づく前に、曲はあっちに飛びこっちに飛びで、それで時間ばかり経って、疲れて終わりというのが長年のパターンでした。

しかしピアノサークルに入っていれば、まがりになりにも人前で何か弾くという義務を背負わされ、それが契機になってちょっとこれまでとは違う練習を少しするようになりました。

たとえば、目的もなく勝手に弾いているときは、難しい部分などを充分にさらうことなしに済ませたり、ひどいときはそこは避けて先に行ったりするのですが、人前演奏が前提ともなるとそんなこともしてられません。

そういうわけで、以前に較べるとひとつの曲に集中的に取り組むようになりましたが、そこで発見したのは、自分一人での楽しみでなら、なかなかそこまでしないような突っ込んだ練習をする必要が生じ、どうしても部分練習など、いわゆる楽譜を見ながらだらだら弾いているときとは違う、本来の練習らしい練習をせざるを得ないということです。

難しいパッセージは出来るようになるまで速度を変えるなどして繰り返しさらって困難を克服しなくてはいけませんし、好い加減に済ませていたところも洗い出して、問題をひとつひとつ解決して行かなくてはならず、気がつけば柄にもなく練習らしいことをやっている自分に、へええと驚いてしまいます。

しかし、嬉しいことは、最終的にそれが人前で弾けるものになるかどうかは別として、集中した練習で曲と自分を追い込んでいくことにより、それなりに曲が自分の手の内に入ってくるのはやはりピアノ好きとしては理屈抜きにうれしいことです。こうして得たものはささやかでも自分だけの特別なものです。

一度深く弾き込んだ曲というのは、簡単な練習でなんとか復帰出来るものですが、そんなものが極端に少ないマロニエ君としては、なにもかもを一からやり直しさせられているようです。
まあそれも、所詮は遊びという気楽さがあるのでなんとかやっていることだろうと思います。

これで昔のように試験とか恐いレッスンなんてことになれば眠れない夜が続いて、これまで以上にピアノの前に座ることがイヤになるでしょうけれども、最終的には遊びであり、無理なときはいつでも自分の意志で中止できるという、逃げ場がある点が、かろうじて今のマロニエ君を支えているようです。

実をいうと、最近はだんだん怠け者の虫がうずきだして、またやる気が薄らいできた気がしています。
2011/07/23 Sat. 02:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

なでしこの品格 

「なでしこジャパン」が世界最強といわれるらしいアメリカを破って、2011 FIFA 女子ワールドカップで優勝するとは、いかにスポーツオンチのマロニエ君でもビックリ仰天の出来事でした。
どんなことでも世界の頂点に立つということは、それはもう並大抵のことではありません。

この様子をみていてスポーツオンチのマロニエ君なりに感じたことがあります。
それは、やはり女性は強いということ。とりわけ精神面でのそれは男とは比較になりません。

普段スポーツ番組なんてまず見ないものの、さすがにオリンピックとか、サッカーのワールドカップとか、巷で話題が持ち上がって騒然としだしてから、ようやくちょっとだけ見ることがあります。

日本選手に限っていうと、男子と女子では、まるきり攻め方がちがうと、わからないながらも思いました。
女子のほうは思い切りがいいし、度胸があるし、ここぞというときに一か八かの勝負に出るし、そもそも勝負に対しても一致団結して無心にプレイに打ち込んでいる様子を感じさせられました。

その点じゃ、男子はマロニエ君が知らないだけで、たぶんスーパー級のスター選手がたくさんいて、その選抜段階から大変な話題のようですが、そんなエリート集団というわりには、見ているとずいぶん慎重で、スポーツなのにいっかな激しさとか勝負の醍醐味みたいなものがなく、堅実で安全第一のプレイをしているように見えてしまいます。

もういいかげんここらでバシンとシュートしたらよさそうに思えるときでも、男というのはビビるのか、作戦なのか、意識しすぎて縮こまっているのか、あっちにこっちにパスばかり繰り返して、より確かな状態を作ろうとしますが、そんなことをやっているうちに敵側からボールを取られ、何度も好機を失うような印象をもった覚えがあります。

その点、女子のプレイはもってまわったところのない、実に歯切れのよい、勝負らしい勝負を素人にまで明快に見せてくれたし、しかも優勝という最高の結果まで出したのですから感無量、まことにお見事でした。

成田に帰ってきたときも男子とのちがいを感じるところがありました。
みんな一様に気さくで愛嬌がよく、態度が自然で、しかも喜びにあふれており、見ていて気持ちのいい光景でした。
これはなにも優勝したからというだけではない、本質的なものの違いを感じましたし、その気持ちの良さの裏には、これまで見ていた男子選手の、どこか俺たちはスターなんだという風な態度が記憶にあったのだとも思います。

たかが…といっては言葉がわるいかもしれませんが、スポーツ選手なのですから、なにもそこまで意識することもないと思いますが、男の選手はみんなプンとして笑顔のひとつもないし、群がるファンにも手をふるでもなく無反応でサーッと通過していく姿は、ちょっとプロのスポーツ選手としては勘違いしているんじゃないかと思います。

なでしこの面々はその点で、我々の期待を裏切らない対応で、最高の結果を出しておきながら、偉ぶらない素朴な態度は好感の持てるもので、彼女達を見習うべき選手は多いのではという気がしました。

アメリカなどでも大リーグの選手などは、スター選手の責務としてのファンサービスというものを、まずはじめに叩き込まれると聞きましたが、日本のスポーツ男子はそのあたりはちょっと意識が違うようですね。
マスコミはじめ、みんなで甘やかしているのかもしれません。
2011/07/22 Fri. 01:53 | trackback: 0 | comment: 0edit

偉大なダンプチェイサー 

しつこいようですが、ダンプチェイサーの効果をこのところしみじみ感じ入っています。

この時期は年間を通じて最もピアノにとって過ごしにくい時期であることはいまさら言うまでもありませんが、それがウソのようにピアノは至って普通に、あっけらかんとしてくれています。
とりわけ九州地方は湿度が高く、ひどいときは熱帯地方のようで、ピアノ管理には苛酷なエリアだと思われます。

最近は気温の面でもエアコンを入れていますから、それなりに除湿効果もあるものの、これとて24時間つけっぱなしというわけではないし、夜中はエアコンがない状態。おまけに一台のほうは毎回片づけるのが面倒で、ずっと譜面立てを立てたまま、フタを開けた状態でほったらかしですから、本来ならかなり湿度にさらされていることだと思います。

このピアノは奥行き2m以上ある中型のグランドですが、ダンプチェイサーはペダルの後ろに鍵盤と平行に一台しか付けていません。
本来ならアクション用と響板用に、前後二つ使ってもいいようなものですが、とりあえず一台だけでも至って快調なのは、本当に驚くばかりです。

ダンプチェイサーの存在は昔から知っていたのに、なんで使わなかったのかと今ごろ思っているところですが、考えるに、大した根拠もなく効果の程に疑いを持っていたことと、なんらかの「副作用」があるのではという警戒心があったと思います。

それと、なによりも自分のイメージだけで実体を知ろうとせず、専門家にも確認しなかったことが大きいと思います。
以前も書きましたが、親しい調律師さんにダンプチェイサーのことを尋ねたら、ピアノ管理においてはこれぞ一大革命と言っていいほどの優れものだという返事が速攻で返ってきたことは、聞いたこちらが驚きましたし、これが最終的に決め手になりました。

想像段階では、とりわけ電気によって熱を発生させるというところが、なにやら本能的に「木に悪い装置」では?というイメージでしたが、この点は取り付けてみてわかりましたが、スイッチオンの状態でもほんわか暖かいぐらいで、とても熱いというようなものではないし、さらには本来の取り付け位置よりもうんと離して装着していますから、まずピアノがダメージを受ける心配はありません。
スイッチが入っているかどうかは、実際に触ってみないとわからないほど軽いもので、よくこんなものでこれだけの効果があるもんだと感心します。

思い返せば、一時は除湿器を2台体制でフル稼働させていましたから、自分なりにやるべきことはやっているという自負があったのかもしれませんね。つくづく自分が馬鹿みたいです。

しかし、実際にダンプチェイサーを使ってみると、どんなに除湿器をガンガンまわしたところで、たった一本のわずか25Wのダンプチェイサーにはるか及ばないことがわかり、あー、ずいぶん長いこと損をしたような気分です。

何事も効率のよい方法、賢いやり方というものがあるのだというのが、いまさらながらわかりましたし、努々決めつけはいけませんね。
2011/07/21 Thu. 02:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

喜びから苦痛まで 

過日のクラシック番組で、ある女性ピアニストのコンサートの様子が放送されましたが、それを見ていてなんというか…気が滅入ってくるというのか、いたたまれない気分になりました。

その女性は海外のコンクールで優勝歴などもあり、コンサートやCDなどでも一応は活動らしきことはしているようですが、悪い意味で現代のピアニストの欠点を寄せ集めたような要素を持っています。

まず姿がよくない。
音楽家なんだから美人である必要は全くないし、その点では最近のビジュアル系みたいな方向性には大いに異を唱えるマロニエ君ですが、人に演奏を聴かせることを本業とするアーティストなのだから、そこにはある一定の雰囲気というか、文化の担い手としての最低限の顔つきというのは持っていなくてはいけません。

繰り返しますが、これは決して美醜の問題ではありません。
ピアニストはいやしくも音楽家で、いわば芸術家の端くれなのですから、その佇まいもあまり品格がないのは困るということが言いたいわけです。

あまり見てくれのことばかりいうのもなんでしょうから、演奏のことを言うと、ただ楽譜を見て、暗譜して、練習して、ミス無く弾いているだけ、ただそれだけという感じで、聴く側はなんの喜びも感興も湧かず、あまりのその不感症のような演奏に接していると、こんな演奏を聴いたばっかりに却って不満と疲れを感じてくるのです。

ツンとして、まるでオフィスで事務仕事でもこなすかのようにピアノを弾いていて、この人にはなにひとつ音楽的なメッセージ性みたいなものが無いことが、こっちまで無惨な現実を見るような気分にさせられます。

また、この女性は非常に大きな恵まれた手をしていますが、それもまるで活かしきれず、ただ蜘蛛のように長い指が鍵盤の上で不気味に足を広げているようで、それらが淡々と音符を処理していくだけで、如何なる場合も作品が聴き手に語りかけてくることがありません。
ドビュッシーなどは非常にぎこちなく固く弾いたかと思うと、リストでは随所にある甘い囁きもなければ、ここぞという場所での迫りも情念も解放もなく、ひたすら退屈で、出来の悪い機械のような演奏でした。

こういう位置にいる中途半端なピアニストというのは、この先、まずどんなことがあってもこれ以上先に伸びることもたぶんないし、音楽的な深まりを見せる可能性もまずないでしょう。
つまり今以上の知名度を上げることも人気を得ることも、申し訳ないが99%無理です。
だからといって、指のメカニックにはやはりそこは素人とは一線を画するものがあり、いまさら市井のピアノの先生になる決断もつかないだろうし、ピアノをやめてしまう気もないだろうと思います。

そもそも、ここまで来てしまった人がいまさらピアノ以外の何ができるわけでもないでしょうから、やはりこうしたなんともしれない演奏のようなことをしながら、人前に出る行為を繰り返すのだと思うと、見ているこちらのほうがやるせない気分になってしまいました。

世の中がどんなに民主化され、平等の社会を是としても、芸術の世界ばかりは才能と実力がものをいう不平等社会で、B級C級というものになにがしかの価値があるとは思えません。
あまたの才能が惜しげもなく切り捨てられてこそ、輝ける一握りの才能だけが生き残るのです。

とりわけマロニエ君のような純粋な鑑賞者の立場になれば、芸術こそは一流でなくては到底気が済みませんし、それ以外のものに甘んじるつもりのない自分にあらためて気が付きました。

音楽において、つまらない演奏ほど不愉快なものはないのです。
そういう意味では、ひとくちに演奏といっても、人を至福の喜びに誘い込むものもある反面、不快の極みに突き落とすこともあるわけで、まさに天国から地獄までこれ以上ないほど幅広いものだと言えるでしょう。
2011/07/20 Wed. 02:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

メラミンスポンジ 

プリンターのインク切れは面倒なものです。

以前はインクが無くなる度にカートリッジを買っていましたから交換は楽でしたが、これも馬鹿にならない値段です。
そのうち補充用インクというのがあることを知り、以来これをメインに使うようになりました。

マロニエ君のプリンターはキヤノン(「キャノン」とは書かないそうですね)で、お定まりの黒と、カラーの青、赤、黄ですが、どうもこのインクは使った分だけ減るのではないらしく、時間経過によっても自然に無くなってしまうということがわかってきました。
いつもインク補充のタイミングは、大事なときに突然やってきますが、マロニエ君はこれがとってもイヤなのです。

というのは、どんなに注意しながら慎重に作業しても、指先には必ずインクが付いてしまうからです。
何度か「今回こそは!」と手を汚さないように気合いを入れて挑戦しましたが、これが一度として成功したためしがありません。
つい先日などは急ぎの状態のときにインク切れになったために、大慌てで補充したのですが、そのぶん作業も粗っぽかったのか、カートリッジの上から下からインクは漏れ出て、指先はもう惨憺たる状態になりました。

調理などに使うゴム手袋でもすればいいのかもしれませんが、どうもいちいちあんなものをするのも気が進みませんし、そのために台所まで取りに行くのも面倒臭いのです。マロニエ君は神経質な一面があるクセに、こういうところはけっこうだらしないのです。

さて、このプリンター用のインクですが指先がこれに染まると、生半可なことでは落ちません。
石鹸で洗ったぐらいではせいぜい染みが薄くなる程度で、リムーバーの類を使えば多少はいいのかもしれませんが、あんなものでごしごしやるのも手が荒れそうでイヤだし、いつもは大抵、自然に消えるのを待ちますが、経験的に汚れた当日消えてしまうことはまずありませんでした。

ところが、この日はすぐに出かける予定があり、その用向きから言っても、両手の指先がインクまみれではいくらなんでもちょっとまずい状況だったのです。
やむなくリムーバーの使用も考えましたが、その前に洗面所でちょっとひらめいて、ものは試しと、いま流行のメラミンスポンジを使ってみました。ホームセンターや100円ショップで売っている真っ白いドイツ生まれの激落ちスポンジとやらで、切って茶しぶ落としなどに使うあれです。
たまたま洗面所にこれを小さく切った断片があったので、これを少し水にひたしてインクの染み込んだ指先をこすってみると、な、なんと、アッという間にインクが落ちて、両手はウソみたいに元通りになりました。それもほとんど力も入れずに2〜3回擦っただけで、ほぼ完璧にインクが落ちてしまったのは驚異でした。

茶しぶ落とすという力は、こんなにもすごいものかと思いましたし、よく化学雑巾の類にも注意書きで「家具などは傷を付ける場合がある」と書かれていますが、さもありなんと思います。

この手は、下手な洗剤よりもある意味よほど強力で、そのぶん人の皮膚などにも使い方しだいでは攻撃的なんだろうなと思いました。
「あきらめないで」の石鹸も実はそうとう強烈らしいし、化学繊維を使った洗顔布みたいなものもありますが、よほど注意しないと恐いような気がします。
手が一発できれいになったぶん、油断も禁物のようです。
2011/07/19 Tue. 02:20 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノフェア 

大手楽器店の主催によるピアノフェアがこの連休期間中に開かれており、ちょっと覗きに行ってみました。

会場は今春オープンした博多駅・新ターミナル内の、阪急百貨店の上にあるJR九州ホールで、広い会場には電子/アコースティック合わせて実に100台以上ものピアノと名の付く楽器が展示されていました。
この会場はホールといっても床をフラットな体育館のようにもできる貸しスペースで、さまざまなピアノがズラリと展示されていましたが、なかなかめったにない壮観な様子だったことは確かです。

どうせ見るだけですが、これだけの台数を一堂に展示するピアノの催しは普段まずないので、一見の価値はあったというものです。
ただし、どうしてもグランドピアノは数が少ないのが残念ですが、それでもスタインウェイ4台(C/B/O/M)、ベーゼンドルファー、ベヒシュタイン、ザウター、ヤマハ2台、カワイ2台の11台が展示されていました。
とりわけ輸入ピアノはお値段も大そう立派なものでした。

ところで、会場に近づくと、中から盛んにジャズピアノらしき音が聞こえてきたので、一瞬、デモ演奏でもやっているのかとも思いましたが、いや待て、誰か腕自慢のあるお客さんが弾いているのでは?と思い直しました。中に入ると、案の定それは当たっており、ひとりの中年男性が熱心に1台のスタインウェイを弾いていました。

このところ人前でピアノを弾く人に対して、ちょっとあれこれと思うところのあるマロニエ君としては、ああまたか…というのが率直な印象です。
これがまた、人目も憚らず(というよりは人目を意識して?)ずいぶん熱の入った演奏で、側に近づいてもまったくなんのその、一心不乱に陶然となって弾いているその姿はちょっと異様な感じでした。

たまたま同行していた友人がその様子に驚いたのか、すかさず小声で「見られてることを意識してるね!」とマロニエ君に耳打ちしましたが、まさにその通りで、どうだ!といわんばかりに臆せず熱っぽい演奏を続けています。
奥では、別のピアノの調律が行われていましたが、そんなことも一向にお構いなし。
この御仁の演奏はしばらく続きました。

いやはや、たいした度胸の持ち主というか、そもそも神経の作りそのものが違うのかもしれません。

コンサートや発表会ならそれなりのスタイルも大儀もあるからまだわかるのですが、こうした単なるピアノの展示即売会の広い会場の中で、我一人、任意の状態であれだけ堂々と弾きまくるというのは、こういっちゃ悪いですが、やっぱりピアノを弾く人(すべてではないけれど)の感覚は、ちょっと普通とは違うと思います。

そのマロニエ君はといえば、ほとんど単音を出すぐらいで、弾くというような次第にはとても至りませんでした。
もちろん個々のピアノには関心があるので、弾いてみたいという気持ちはありますが、周りの空気をみたらそんなこと、とてもできる状況ではありませんでした。

奥で調律している人がたまたま顔見知りというか、我が家のピアノも一度見ていただいたことのある方だったので、その人とちょっと言葉を交わしている中で、「あのピアノは弾いてみられましたか?」などと言われますが、幸か不幸か、マロニエ君はそんな勇気は持ち合わせていません。

そうこうしているうち、やがて小さなコンサートが始まり、この楽器店の教室の講師の人達が代わるがわる演奏をはじめましたが、フルートの伴奏やソロでショパンのエチュードを弾いた講師の方は、ピアノクラブ内で3人ほどが習っていた、よく名前を聞く名前の先生その人だったので、おやと思ってとくと拝聴しました。

ピアノクラブといえば、このコンサートを聴いている中にも、クラブの方がご夫妻でおられたし、前日には同会場でリーダー殿がまた別のサークルの方と遭遇した由で、みんな同じような行動を取っているということでしょうか。
2011/07/18 Mon. 02:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

ゾクゾク本 

過日、欲しい本があってアマゾンで検索しているときのこと。
アマゾンでは、頼みもしないのに検索した商品と関連のある本やCDなどを探し出しては、画面の下の方に次々に表示してくれます。

その中に「○○家にストラディヴァリウスがきた日」というタイトルの本が表示されました。
この本の存在は以前から書店・楽器店で見て知っていましたが、ある日本の女性ヴァイオリニストが歴史的なヴァイオリンの名器を手に入れるについて、おそらくはその顛末をまとめた「ひけらかし本」だろうと想像されました。
しかも著者は本人ではなく、そのヴァイオリニストのお母さんというのもいかにも定石通り。

そんな露出趣味そのものみたいなものを買って読む気などさらさらないマロニエ君は、書店でも中を見るどころか、手に触れることさえしませんでした。
しかもこの本、意外にどこでもよく見かけるので、はっきり言ってちょっと目障りでした。

その「○○家にストラディヴァリウスがきた日」の中古品がタダ同然みたいな金額で数件表示されていたので、これには却って興味を惹きました。
そんなに笑ってしまうような値段なら、よし、怖いもの見たさで買ってみようかと妙な気をおこし、購入手続きに進みました。送料以外は事実上ほとんどもらうようなもので、出品している書店にも手間ばかりかけて申し訳ないぐらいす。

3日後に届いたのは、まるで新品かと思うような傷みのないピカピカの本でした。
さっそくページを繰ってみたところ、はじめの数ページを読んだだけで、想像通りというか…相当に手強そうだということはすぐに察しがつきました。
まずこの家の家風と厳格な父親の教育方針が紹介され、さらにこのヴァイオリニストである娘の上にいる二人の兄が、これまた画家と作曲家という道に進むについての経緯、東京芸大を受験するに際しての気構え、お見事というべき父親の愛情に裏打ちされた教育理念など、妻であり母である人物の視点から、これらが臆面もなく滔々と述べられています。

祖父の時代から続く学者としての家系、普通なら1人でも現れれば御の字の才能豊かな子供が3人も続いて出たこと、そして父の威厳に満ちた存在と姿勢の中で、それぞれが自発的に努力を重ねて目的を遂げていくなど、文章はまるで道徳の教科書か、なにかのプロパガンダの文章でも読まされている気分でした。
はじめはその圧倒的な違和感に耐えきれず、何度か放り投げようかと思ったのですが、それでも意地で読み進みました。

この本全体は、徹底して家族愛の名の下に発せられる、甘ったるい善意の文章の洪水で、マロニエ君のような者にはまるで出発点からセンスが異なり、思わず肌が粟粒立つようでしたが、それもオカルト的刺激と思って楽しむことに。

このお母さんは、文中で「ストラディヴァリウスはオークションなどでは何十億もするヴァイオリン」だと何度も繰り返して書いていますが、先日もこのブログに書いたように、今年2011年、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスが売りに出され、過去の3倍を越す金額で落札されるまでは、最高額は約4億円だったはずですが…。

むろん途方もない金額には違いありませんが、この本の発行年は2005年ですから、これはいくらなんでもオーバーすぎるようで、なんだか他の内容も下駄を履いているのではないか…という気になってしまいます。
だがしかし、こういう本を読んで心底感銘する人も世の中にはいるのかと思うと…たまりませんね。

なんと、これがきっかけとなったらしく同じ書き手、あるいは娘本人によってさらに数冊が出版されており、いったん覚えた美味は止められないのが浮き世の常というものかもしれません。
そのタイトルのひとつは「○○家の教育白書」という、えらくまたご大層なものになっているあたり、よほど自信がおありなのでしょうね。

ともかく、一度ぐらいこういう本を読むことも、ひとつの人生体験にはなりました。
2011/07/16 Sat. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・コロリオフ 

エフゲニー・コロリオフは1949年モスクワ生まれですから、今年で62歳。
まさにピアニストとして絶頂期をひた走っている年齢だといえるでしょう。

しかしこのコロリオフという人はピアニストとしてひた走るといった表現が必ずしも適切ではないような印象です。

プロフィールを見れば、師事した教授陣も錚々たる顔ぶれで、ハインリヒ・ノイハウス、マリア・ユーディナ、レフ・オボーリンというロシアピアノ界の重鎮がずらりと並びます。
コンクール歴も輝かしいものでバッハコンクールをはじめ、クライバーン、ハスキルなどの国際コンクールに次々に優勝しており、レパートリーにはロマン派もあるようで、実際にショパンやシューマンのCDも僅かながら発売されているようですが、本領はやはりバッハなどの古典にあるようです。

「栴檀は双葉より芳し」の喩えのごとく、17歳の時に、モスクワでバッハの平均律クラヴィーア曲集の全曲演奏会を行ったとありますから、やはりタダモノではなかったのでしょう。
現在は世界の主要な音楽祭にも数多く参加しているようですが、来日はずいぶん遅れたこと、またCDデビューが40歳のときの「フーガの技法」だということですから、その年齢や内容からしても、まるで大衆に背を向けた芸術家としての姿勢を貫いており、いわゆる商業主義に乗らないピアニストということが読み取れるようです。

ハンガリーの現代作曲家リゲティが「もし無人島に何かひとつだけ携えていくことが許されるなら、私はコロリオフのバッハを選ぶ。飢えや渇きによる死を忘れ去るために、私はそれを最後の瞬間まで聴いているだろう」とコメントしたことが、コロリオフの評価を決定的にした一因のようにも感じます。

このところ集中的に聴いているCDでは、フランス組曲ではより端正なアプローチがうかがわれ、これはこれで傑出した美的な演奏に違いありませんが、強いて言うなら、ゴルトベルクのほうに更なる輝きがあるようです。

とくに面白かったのはバッハ編曲集で、リゲティ同様、ハンガリーの現代作曲家であるクルタークによる4手のピアノのために編曲された作品集では、読み方がわからないもののもう一人のピアニストとの共演ですが、演奏はあくまでコロリオフ主導で、コラールなどがなんとも澄明な美しさに照らし出されるような音楽で、バッハは目指したのはこういう音楽だったのかと思えるほどに天上のよろこびを伝え聞くようでした。

ほかにコロリオフ自身の編曲によるBWV.582のパッサカリア、クラヴィーア練習曲第3巻(全11曲)と続いていくわけですが、どれを聴いても極めて純度の高い音楽そのものが目の前に立ち現れることに何度も驚かずにはいられませんでした。

あまりに感銘を受けたので、YouTubeで検索したところ、ライプツィヒのバッハ音楽祭に出演した際のゴルトベルクの演奏の様子がありました。そこに観るコロリオフは、およそコンサートアーティストらしからぬ地味な出で立ちで、黒いシャツのボタンを一番上まで止めた、まるで研究と演奏に明け暮れる質素な古楽器奏者のようでした。
しかし、そのシャツの袖口から出たその手は、まるでショパンの手形のように細い指がスッと伸びた繊細なもので、なるほど、こういう手からあのようなすみずみまで見極められた、聴く者の心を捉える自然な音楽が紡ぎ出されるのだと思いました。コロリオフのタッチと音にはくっきりとした明晰さと充実した響きがあると感じていましたが、妙に納得した気になりました。

こうなると、バッハは当然としても、ショパンなども聴いてみたいという興味が出てくるようです。
2011/07/15 Fri. 02:06 | trackback: 0 | comment: 0edit

コロリオフ 

リサイタルに行ったことがきっかけで、このところメールのやり取りをしているあるピアニストから、コロリオフというピアニストをご存じですか?と聞かれました。

知らなかったのでその旨伝えると、ご親切にも5枚ものCDを送ってくださいました。
エフゲニー・コロリオフ、ロシア出身で現在はドイツに暮らして活躍している人でした。

分厚い包みが届いたと思ったら、そこにはなんと5枚ものCDが入っており、ゴルトベルク変奏曲、フランス組曲全6曲、バッハ編曲集では音楽の捧げものからリチェルカーレ、クルタークによる編曲、クラヴィーア練習曲第3番、リスト編曲の前奏曲とフーガなどでした。
そのご親切に深く感謝するとともに、さっそく聴いてみました。

ゴルトベルクの出だしを聴いたときから、いきなりなんと姿のよい、骨格のある澄みきった演奏かと思いましたが、それは聴き進むうちにますます確信に深まります。
バッハの鍵盤楽器のための作品の演奏に際しては、チェンバロやクラビコードで弾くべきか、現代のピアノで弾くかということは尽きないテーマですが、コロリオフの演奏を聴いているとそういう論争さえナンセンスに思えるほど、ひたすら真正なバッハを聴いている自分に驚き、それに熱中させられてしまいます。

ゴルトベルクといえばグールドの衝撃以来、60年近くが経過するに至っていますが、なんらかの形で彼の演奏は多くの演奏家の耳に刻み込まれましたが、そこから本当に独自の表現ができたピアニストは極めて少ないと思います。

コロリオフはバッハの音楽をあるがままの姿で表出しており、そういう正統表現の価値と魅力を、聴く者に問い直してくるようです。
この当たり前さが、今は不思議なほど鮮烈に聞こえてくることに、言い知れぬ快感と喜びを覚えます。
バッハはピアニスティックにモダンに弾くか、あるいはアカデミックな学者のような演奏に二分されることが多いと思いますが、コロリオフはバッハにはそのいずれにも分類できません。

第一級の演奏技巧で非常に一音一音が明晰で力強く、いかなるときも落ち着きはらったバランス感覚があるのに、生命感に裏打ちされたそれは退屈させられるところがなく、常に音楽の熱がすみずみまでみなぎっています。
シフのバッハも素晴らしいですが、彼にはときに独特な節回しや老けた悟りのようなところもなくはないのですが、コロリオフにはまるきりそういうものが見受けられません。

音楽を聴いていると同時に、なにか荘重な建築を目にしているようでもあります。
とくにトリルや装飾音にはチェンバロのような趣があり、その効果的な入れ方には妙なる美しさがあふれ、文字通り随所で音楽に厳粛さと華を添えているようです。

彼がロシア人であることも関係していると思いますが、どんなにバッハをバッハとして純度をもって演奏することに専念していようとも、背後からロマンティックな何かがこの演奏を支えているような気がして仕方がありません。しかもニコラーエワのような直接表現でないぶん、より克明にバッハの音楽の核心部分へと導かれるようです。

きわめてドイツ的でありながら、決して本当のドイツ人には作り出せないドイツらしさといったら言葉が変ですが、たとえばチリの出身であったアラウがドイツ人よりもドイツ的といわれたことに、これも似ているかもしれません。

ペダルも使っていないように聞こえますし、デュナーミクも過剰にならないところに凛とした気品があり、バッハ音楽の抽象世界を描き出し、聴く者は楽々とバッハの響きと真髄に体が包まれるようです。

まだ一通り聴いただけですが、こんな素晴らしい演奏に出会えて件のピアニストには感謝しています。
2011/07/14 Thu. 02:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

気持ちの鮮度 

マロニエ君のCD購入はいつも店頭とネットの二本立てです。
それぞれに特色があり、店頭はあれこれと実物を見て探す楽しみや意外な発見があり、ネットは店頭で入手の難しいものが手に入るなどの利点があるわけです。

とくにマニアックなものを購入する場合などは、ネットのほうが品揃えが比較にならないほど充実しているのでこちらから注文する事が多いのですが、さしものネット店をもってしても「入荷待ち」となることがしばしばあります。
さらにどうかすると、入荷にひどく時間がかかることがありますが、このときにちょっと困ったことが起こります。

ネット購入の場合はマロニエ君が利用しているのはHMVなのですが、送料やらポイントの関係で、大体購入するときは数点まとめての購入となります。
ところがその中にひとつでも在庫のない商品があると、それが整うまでは他の商品は発送されません。
これが1週間や10日ならいいのですが、どうかすると数週間ストップしてしまう状態に突入してしまいます。

それがさらに長引きそうな場合になると、他の商品だけ先に送るかどうかを尋ねるメールが来るのですが、この段階を迎えるだけでも相当の日数を要します。大半は海外からの仕入れ商品ですから、まあ時間がかかるというのもわからないではありませんが。

さて先日のこと、HMVから一通のメールが届き、以前注文したCDが製造中止のため入手不可能になったため、その入荷待を待って一緒に送られてくるはずであった残りのCDを発送する旨のメールが届き、数日後には商品が届きました。
実はこのCDは、今年の4月上旬に発注していたものであっただけに、実を言うと注文していたことも忘れていました。

しかも「カード決済は発送時」というルールなので、うええ、なんでいまさら…という気分になってしまいます。
こんなに遅れたのは店側になにかの手違いかあったようにも感じますが、もしかしたら分送するか否かのメールが来たときに、ろくに内容を見もしないで同時発送を承認するクリックかなにかをしたのかもしれません。
通常は分送のほうを希望なので、まずそんなことはしないつもりなのですが、マロニエ君の間違いということが絶対ないとも限りません。しかとした記憶もないし自信もなく、ともかくこういう次第になりました。

それにしても、今でも欲しいCDは山のようにあるのに、届いたCDは、正直いうといまさら熱が冷めてしまったようなものもあり、しかも今回は「ニーベルンクの指環」が含まれていたので、1枚あたりの単価は決して高くはないものの、合計23枚ものCDとなり、なんだか素直に喜べない状況に陥ってしまいました。
もちろん、届いた以上は気を取り直して楽しんで聴くつもりですが、やはりCDの「聴きたい」という気分にも波があり、あまりにも時間が経つとその高揚感も冷めてしまっているということがわかりました。

個人差もあろうかとは思いますが、マロニエ君の場合、これが続いているのはせいぜいひと月ぐらいのようで、3ヶ月というのはあまりにも長すぎました。
足止めの原因となった問題のCDは「ストラルチク:96人のピアニストと4人のパーカショニストのための交響曲」という、ほとんどどんなものかもわからない、いわばゲテモノ食いみたいなものだったので、こんなもののせいで3ヶ月も出荷停止していたのかと思うとよけいにガッカリしました。

なにごとにも鮮度とかタイミングというのは大切で、CDは旬の気持ちのときに聴きたいものです。
2011/07/13 Wed. 01:41 | trackback: 0 | comment: 0edit

自己顕示症 

自己顕示欲というものは、多少は人の心の中に存在するものでしょう。
ところが、これの旺盛な人はほとんど病気のごとくで、まったくどうにもつける薬がありません。
つける薬がないという点においては○○と同じです。

作家の三島由紀夫は、救いがたい自己顕示欲の持ち主を「自己顕示症」とさえ呼んだほどです。

この自己顕示症を発症した人は、必然的に空気の読めない、もしくは読もうとしない人を意味します。
それも理で、空気なんぞ読んでいたら、どうしたって遠慮というものが必要になってしまいますから、そんなものは邪魔でしかなく、この手の神経の持ち主にはなんの意味もないことでしょう。

動物と同じで、必要ない機能は大自然の摂理にしたがって、さっさと退化してしまうということかもしれません。

いろんなところにこういう人は出没するものですが、だいたい人の集まりのようなところにやってきて、のっけから腕自慢をやったり、自分の力の誇示に熱中するような人は、その人間性や感性においても、おそらくは孤独な人であることが読み取れます。

そもそもの目的が、人と交わり仲間の親交を深めることよりも、喝采を浴びることなんでしょうから、自分の崇拝者は欲しくとも、対等の関係が基本である仲間はもともとご所望ではないのかもしれません。
こういう人は、概して日ごろはかなり満たされない毎日を送っているはずで、そういうものに対するいわばうっぷんを晴らしをせんがためにも、ときに快感に酔いしれる非日常を求めて彷徨っているのでしょう。

遠慮や協調というようなものはいささかも持ち合わせがなく、ひたすら隠し持った野心を道連れに遠路をものともせずに動き回り、さて自分の姿がどんなふうに映っているかはまったくわかっていません。

自慢はすればするだけ効果を上げ、周りは感心し、そのたびに尊敬を集めるとでも思っているのでしょうね。
こういう人こそ、人の心の奥深さとか本当の怖さをろくに知らず、ひとり優越感に浸ったり、周りを見下したりしているつもりでしょうが、実は自分のほうが遙か浮いてしまっていることには、ほとんどウソみたいに気が付かない鈍感人であったりします。

そもそも少年野球にひとりだけ大人のプレイヤーが入って、その技を見せつけるようなことをして何が楽しいのか、こういう幼稚な心理には、到底理解の及ばないものがあります。

最近は「どや顔」という言葉が流行っているそうですが、巷にこういう人が増えているということかもしれません。

なにぶんにも本人が気付くしかないことなので、ほとんど改善の希望は持てません。
2011/07/12 Tue. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヴァイオリンの謎 

数ある楽器の中でも、ヴァイオリン族ほどピンキリの甚だしい価格差があるものもないでしょう。

代表的なヴァイオリンは、普通の入門用楽器なら10万円以下からごろごろあるいっぽうで、頂点というか雲の上に君臨するのが、ストラディヴァリウスやアマティ、グァルネリ・デル・ジェスのような約300年前のクレモナの名工達が製作した最上級とされる楽器ですが、これらの価格はますます高騰し、それらと廉価品の価格差は数百倍から下手をすれば千倍にも達します。これはちょっとピアノなどでは考えもつかない世界です。
こうなると、とうてい普通の演奏家が購入できるものではありません。

かつてヴァイオリニストの辻久子さんがストラドを買うために、家屋敷を売り払ったことが大変な話題になったことがありましたが、それでも当時は億などという単位ではありませんでした。
また同じくヴァイオリニストの海野義雄さんは、高価な楽器を万一の交通事故から守るという目的のために、当時最高の安全性を誇っていたメルセデス・ベンツに乗っていると豪語しておられました。
本当にそのためのメルセデスかどうか、真偽のほどはわかりませんが、ずいぶん昔の話ではあります。

いっぽうでは旧ソ連は国家がいくつかの名器を保有し、それに値すると認められた演奏家には無償で貸与されるという社会主義ならではのシステムがありました。
オイストラフの愛器も国家所有のストラディヴァリウスで、彼の前に使っていたのがあの数々の名曲を残したヴィエニャフスキ、そしてオイストラフの死後にこの楽器を貸与されたのがわずか10代の神童ヴァディム・レーピンでした。

これは数あるストラディヴァリウスの中では特段の名作というほどではないのだそうですが、オイストラフやソ連時代の若きレーピンの奏でる、一種独特なややハスキーな、そして抗しがたい悪魔的な音色は聴く者を総毛立たせた特徴のある楽器です。

それにしても、いかに素晴らしいとはいってもなぜここまで高額になるのか、この点は解せないものがあるのも正直なところです。
ヴァイオリンの構造図を見てみると、ただただ驚くほどにシンプルで、f字孔が開けられた「表板」と裏側の「裏板」それを支える「側板」、中に突き立てられた「魂柱」が本体で、これに「ネック」という左手で持つ部分、それに「スクロール」という上の渦巻き状の部分があるだけで、そこに「駒」を介して4本の弦が張ってあるに過ぎません。

ピアノの複雑で大がかりな構造と較べると、まさにあっけないほどに究極の単純構造で、ここからあの艶やかで何かがしたたり落ちるような美しい音色が出るのかと思うと、いやはやすごいもんだと思ってしまいます。
もちろん楽器の価値というのは、大きさや複雑な機構や、ましてや原価がどれだけというような次元ではないことは百も承知ですが、それにしてもそのハンパではないウソみたいな価格はやはり驚かずにはいられません。

それに弦楽器にはピアノとは違って盗難や破損といった問題が常につきまといます。
ヨーヨー・マがストラディヴァリのダヴィドフという名高い名器(前の持ち主はあのジャクリーヌ・デュプレ!で、チェロはヴァイオリンに較べて数が少ない)をニューヨークのタクシーに置き忘れたというのは信じがたい話ですが、ともかくこういう事がある楽器というのも気の休まるときがないのではないでしょうか。

そして時にはジャック・ティボーやジネット・ヌヴーのように、所有者が遭遇した事故と共にこの世から楽器が消え去ることもあるわけです。

ピアノには持ち運びができないぶん、盗難や紛失の心配がないのはずいぶん気楽なもんです。
逆に建物が焼失崩壊するような災害にはなす術がありませんから、まあ一長一短といったところでしょうか。

ともかく、これらの昔の最高級のヴァイオリンは謎だらけで、どこかオカルト的で恐い感じがします。
そこがまた抗しがたい魅力なのかもしれませんが。
2011/07/11 Mon. 01:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

ジャパン品質 

横山幸雄氏によるショパン全曲集のCDが順次発売され、折り返し点に来ました。

このCDはショパンのピアノソロ作品を網羅するもので、その特徴のひとつは、概ね作曲された時代に沿ってCD番号がまとめられているという点です。そのお陰でCDの番号順に聴き進むことでショパンの生涯を辿ることができることにもなっていて、なるほどと思わせられるものがあるように思います。
少なくとも、ショパンのソロ作品を作曲年代順に並べた全集というのはそれほどなかったように思います。

このCDのもう一つの特徴は、以前も書いたことがありますが、ピアノはすべて1910年製のプレイエルの中型グランドを使って日本で録音されているもので、この点は特に画期的なことだと思われます。

わざわざ書く必要もないことかもしれませんが、もともとマロニエ君は率直に言って横山幸雄氏の演奏はあまり好みではなく、通常なら彼のCDを買うことはないと思われますが、これだけきっちりと企画された他に類を見ないCDというものには強い説得力があり、しかも価格も以前からマロニエ君が主張しているような、一枚2000円というものであるので、すでに発売された6枚は全部購入して聴いています。

録音媒体の変化とかクラシック離れとか、あれこれ理由はあっても、やはりキチッとした完成されたものでプロの仕事としての内容があり、価格も妥当なものであれば人は買うのであって、無名の新人演奏家のデビューCDにいきなり法外な高い定価をつけて自嘲気味にリリースする会社は、もう少し本気で反省して、やり方を基本から見直して欲しいと思います。
CDの発売元は採算性だけでなく、アーティストを育てるという一翼を担っていることも強く自覚せねばなりません。

こういうわけで今年は横山氏のショパンをずいぶんと丹念に聴くことになりましたが、ひとつはっきりしたことはマロニエ君の好み云々は別として、この人はこの人なりに、まぎれもない「天才」だということです。
その根拠のひとつが、その安定した技巧と膨大な離れ業的なレパートリーです。

ピアニストは音楽家であり芸術家であるのだから、むろんレパートリーが多いということが直接の評価には繋がりませんが、それはそうだとしても、この横山氏のそれはやはり尋常なものではなく、現実の演奏としてそれらを可能にしているという抜きんでた能力には、これは素直に一定の敬意を払うべきだと思うのです。

しかも、このショパンの全集(まだ完結はしていませんが)でも、驚くべきはどれを聴いても一貫したクオリティと安定した爽快な調子を持っていて、それがほとんど崩れるということがありません。
とくだん魅力的でもないかわりに、いついかなるときも最低保証のついたプロの演奏であるというわけです。
一人の作曲家を網羅的・俯瞰的に聴く場合、これはこれでひとつの安心感があるのは認めなくてはならないようです。

そういう意味における実力ということになれば、横山氏はなるほど大変な逸材で、現在彼に並ぶ才能が他にあるかといえばしかとは答えられません。
どんな大曲難曲であれ、ちょっとした小品であれ、すべてにとりあえずキチッとまとまった演奏様式があり、それなりのアーティキレーションまで与えられて乱れのない演奏に仕上がっていることは、まるで日本の一流メーカーの商品の数々を見るような気分す。

そういう意味では、横山氏はまぎれもない日本人ピアニストであり、日本が世界に送り出すメイド・イン・ジャパンの高い品質と信頼性をピアノ演奏で体現し、世に送り出しているその人という気がします。

リサイタルに行く気はあまりしないけれど、曲を目当てにCDを買う場合は、変な冒険をして大失敗するより横山氏の演奏を買っておけば、大間違いは起こらない、そんな保証をしてくれる人のような気がします。
2011/07/10 Sun. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

ネット販売 

アマゾンで書籍の検索していたら、たまたまある本が関連商品として表示されてきました。

なんでも、インターネットでピアノを販売している人が成功して、そのノウハウを紹介する本が出版されているようでした。
最近は本によっては中が数ページのみ覗き見ることができるようになっており、どんなものかクリックしてみると、前書きから目次にいたる数ページには、「信用」「人間力」「人間の善の部分」「社会貢献」というような言葉がうねうねと躍っていました。とくに「人間力」は何度も繰り返し現れます。

マロニエ君はどんな職業であれ、こういう人生訓めいた言葉をやたら使いたがる、熱血漢ぶった経営者というのがどうもあまり馴染めません。
これはピアノビジネスに限ったことではなく、いかなる業種であっても本業の話そっちのけで、必要以上に自分達の誠実さとか満足だのお客様の心云々…といったことを前面に押し出して言い立てられると、それだけで聞く気がしなくなり、逆に気分が白けてしまいます。

まずその「人間力」とやらでお客をじわじわ囲い込んで相手の判断力を奪い去り、あとはどんなものでもいいなりに買わせてしまうといった、そんな印象を覚えてしまいます。
少なくとも商品それ自体の素晴らしさというよりは、その店に携わる人間が皆真面目で努力家で、だから素晴らしい店だという訴えが先行していて、まず店そのものに共感を得させて、しかる後に商品を売る手法という気がします。

だいたい商売人というものは、なによりも商売がこれ第一で、それはいうまでもなく金儲けのため、利益を追求するためにやっているのにもかかわらず、まるで利益を犠牲にしてでも社会貢献とか人助けなどの、さも美しい事をやっているかのごとくで、人々から愛されるために日夜努力をしていますみたいな、歯の浮くようなことを言われると却って不自然に感じるものです。

さっそくその、本ができるほど話題のホームページというのを見てみましたが、マロニエ君は正直いって到底ノーサンキューなお店でした。

過去の販売分も含めて、すべてのピアノに動画による解説が付いていて、そこの社長とおぼしき人物が怪しい笑顔と語り口でピアノの説明をしますが、それがほとんど説明になっておらず、ただメーカーと型番、外装色などをいうばかりで、鳴りがすごいとか、これはめったに入りませんといういうような、どれも似たり寄ったりなセリフのオンパレード。
ピアノのディテールの映像でも、けっこうホコリまみれだったり弦が錆びていても「どうです、きれいでしょう~?」などと堂々と言い切ってしまいます。

そして、いつもお得意のセリフが「入ってきたばっかりなので、まだ調律はしていませんが」「まだファイリングができていませんので」「調整すればまだよくなるはずです」などと、必ず言うのはなんなのかと思います。
いやしくもピアノ販売の専門家で、それを商品として販売するのであれば、せめて最低限のクリーニングと調律ぐらいしてビデオ撮影するのが当然だろうにと思います。根気よく何台も見てみましたが、一台も「調律も調整もバッチリ、どうですこの音!」というビデオにはついに行き当たりませんでした。

専門技術者も数名いるようで、いちおう技術も売り物にしており、スタッフ全員の笑顔の記念写真まで公開されていて、さも何事も包み隠なさいオープンな会社であるかのようにアピールするのですが、なぜか肝心のピアノとなると、いつもどれも調整前の未完成状態ばかりとは、そのあまりなギャップに呆れてしまいます。
「うちはリピーターのお客さんも多いですよ!」といいますが、ネットの中古ピアノ店のリピーターって、どういう人達だろうかと思います。

でも、中にはあんな動画を見て「安心感」を覚えて買ってしまう人がいるんでしょうね。
マロニエ君は見れば見るほど「不安」が掻き立てられました。
2011/07/08 Fri. 02:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

黒い用心棒 

なんともまあ、嫌な雨が続くものです。
明日(7日)は晴れ間が出るような事も言っていますが。

マロニエ君にとってはこの季節、ピアノ管理が大事とはいいながらも、しょせんは一般家庭のことなので、ホールのピアノ庫のようなわけにはいきません。
いかにエアコンを入れようと、除湿器を回そうと、そこには自ずと限界というものがあり、このところのこれでもかといわんばかりの鬱陶しい雨天続きでは、とりあえず少々の抵抗は試みるものの、最終的には太刀打ちできないものです。

しかし、今年はなにしろダンプチェイサーのお陰で、ずいぶん助けられていることは実感しています。
もちろん季候そのものがいい頃に較べれば幾ばくかのコンディション低下は避けられませんが、それでも例年のことを思い返してみると、頼もしい助っ人のお陰でたしかに違います。

とりわけ今年の梅雨は悪性とも呼びたいほどで、これだけ長期間に及ぶしつこい雨と高い湿度の集中攻撃を受けると、ピアノはかなりくたびれた疲れた感じになるものです。
例年なら、梅雨はマロニエ君とピアノは一心同体とでもいうべき疲れを見せるのですが、今年は心なしか、いや確実に、ピアノはある一定の元気さを保っており、確実に人間のほうが負けていることは間違いありません。

まあ、ピアノ好きのマロニエ君としては自分よりもピアノのほうが多少でも元気でいてくれることは、歪んだ喜びがあるもので、やはりダンプチェイサーを取り付けたことは正解だったと思っています。

それにしても、このところの悪天候はなんなのかと思うばかりで、ようやく晴れ間が出たかと思えば、それもつかの間、すぐにまた激しさを伴う雨が数日続くというパターンの繰り返しです。昔は梅雨といっても、ここまで厳しく過ごしにくかった覚えはあまりないのですが、他の皆さんはどうお感じなのだろうかと思います。

ちょっと玄関を出ると、そこはまるで風呂場かサウナのようなムシムシ状態で、聞くところによると北海道でもかつて無かったほど確実に気温が上昇しているのだとか。
もしかしたら日本は熱帯化しているのではとさえ思ってしまいます。

車に乗って驚くのは、ガレージのシャッターを開けて外に出ると、ガレージの内外だけでさえ湿度差があるらしく、バックで路上に出た途端、前後左右のガラスが一斉に曇ってしまい、前に進むにはいきなりワイパーの出番となります。
これは走り出すとほどなく消えて無くなりますが、今度はエアコンで車内が冷えてくると、これで再びガラスが曇ってしまいます。

というわけで家も、塀も、なにもかもが雨に濡れそぼって重い病気のように見えてしまいますが、そんな中に湿度大敵のピアノを置いている現実を思うと、なんだかもう無性に気が滅入ってしまいます。
とにかく、今年もしもダンプチェイサーをつけていなかったらどうなっていたかを考えると、思わずぞっとしてしまいます。

実をいうとあと1~2本追加購入しようかという誘惑にかられましたが、それもあんまりなようで、さすがにそれは止めました。
でも、ここ毎日の天気からすれば、一台のピアノに3本ずつぐらいつけたいような気がするのは事実です。
もちろん「過ぎたるは及ばざるがごとし」ですが、効き方は非常にマイルドである上に、自動調整機能が付いていますから、感触としてはピアノを痛めるやはり心配なさそうです。

いつになったらこの「黒い用心棒」が要らなくなることやら。
当分それはないことは間違いないでしょうね。
2011/07/07 Thu. 02:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

蜘蛛の卵 

今年の梅雨は例年にない厳さで、日ごとに残り少ないエネルギーをさらに奪い取られるようです。

とにかく連日の蒸し風呂状態で、室内を快適にするには、間断なくエアコンの力を求めなくてはいけないようです。
序盤からこんな厳しい季節となり、節電なんぞと言っていますが、現実にどうなるのかと思うばかりです。

とくに高齢者の熱中症などは最も懸念される事らしく、予定通りの節電が実行されるとなると、ほぼ確実に従来とはケタの違う死者などが出るという見通しだそうで、すでに一部の有識者などは、これはれっきとした「未必の故意」であり、人災であると言っていますが、尤もな話です。
とにかく大変なことになってきましたが、日本は「流れ」ができるとどうにも恐い国です。

さて、愛するピアノの健康のために敢行した、ダンプチェイサーの取り付け及びその他の要因から喉を痛めてしまい、いまだに完全回復に至ってはいないマロニエ君ですが、またぞろヘンテコな被害に遭いました。

この時期から夏場にかけて、蜘蛛の繁殖の季節となるようで、家の軒下などには場所によっては不気味な卵を産み付けられてしまいます。これがいったんコンクリートなどの地肌にこびりつくと、生半可なことでは除去できません。

我が家でも玄関を出てすぐの軒下など、ちょうど上を見上げたあたりにこれがポツポツこびりついているので、通るたびに早くなんとかしなくてはと思いつつ、この暑くてベタベタする最中にそんなことはしたくもなく、先送りしていたのですが、いつかはやらなくてはいけないことなので、過日ついに思い切ってこれの除去作業に着手しました。

ご存じの方もいらっしゃるとは思いますが、この蜘蛛の卵というのはまるで接着剤でがっちりくっつけたように、見た目以上にしっかり固着しており、ほうきの先で払ったぐらいではビクともしません。

もちろん殺虫剤などどんなにふりかけたところで、仮に中は死んだにしても、表面は頑として残ります。
これを完全に除去するにはこそぎ落とすしかないのですが、気持ち悪くてタワシなども使う気になれず、とうとう考えたのが物差しぐらいの長さの木の棒を使ってゴリゴリやるというものでした。

幸い適当なものがあったので、これでなんとか作業をしたのですが、奮闘の末にやっと終わって家の中に入って間もなくのこと、両腕がチクチクと刺激的な痛みを感じました。
とっさに、蜘蛛の卵からパラパラと粉みたいなものが落ちてくるのが肌に触れたことを思い出し、あわてて両腕を石鹸で洗いましたが、もう間に合いませんでした。

痛いような痒いような、極めて不愉快な無数の刺激が両腕を襲い、仕方がないので気休めに虫さされ用の液体ムヒを塗りまくりましたが、これも効き目がなく、ついにはそのまま様子をみることにしました。
刺激は数時間で治まりましたが、しばらくすると皮膚に赤い斑点が出てきて、蜘蛛の卵から飛び散った何かがこれを発症させたのは疑いもなく明らかでした。

この赤い斑点、夜にはより色鮮やかになり、手当たり次第にそのへんにある薬を塗りますが、なんの効果もありませんでした。
相応の痒みもありますが、これはもはや時間が解決するほかはないと観念しました。
ところがこれ、かなりの強者で、赤味が退きはじめるのに丸3日かかり、尚現在もまだきれいに消えてはいません。
家人に言わせると、そんな事をするのに、長袖や手袋などの防御もしなかったマロニエ君の短慮こそ反省すべきだそうで、つまり当然の報いで自業自得だということですが、まあその通りでしょう。

一種の毒素なのか何なのか…これだから不気味な虫など大嫌いです。
2011/07/06 Wed. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

混濁の恐怖 

このところ、ピアノを弾く場合のマナーを考えさせられることがありますが、あることを思い出しました。
以前、知人達とあるピアノ店に行ったときのことですが、これは少々まずい…という状況になりました。
ここのご主人はとても気のいい方で、店内のピアノを弾くことについてはいつも快く解放してくださいます。

はじめは遠慮がちでしたが、しだいに各々がちょろちょろと弾きだしたところまではよかったのですが、時間経過とともに緊張が薄れ、気が緩み、しだいに各人バラバラに自分の弾きたい曲を同時に弾いてしまうという状況が発生しました。

マロニエ君はこれが苦手で、一種の恐怖さえ覚えてしまいます。
だいいちあまり感心できることではないですよね。

読書やパソコンと違い、楽器は音を出すものであるだけに、複数の人が複数のピアノを同時に鳴らすということは、息を合わせるアンサンブル以外はただの騒音以外の何ものでもありませんし、この瞬間から美しいはずのピアノの音は耐えがたい混濁音になってしまいます。

これの最たるものは楽器フェアなどで、せっかくの良い楽器を試そうにも、一瞬も止むことのない耳を覆いたくなるばかりの大騒音の中では、個々の楽器への興味もすっかり失ってしまいます。

今はまったくお付き合いも途絶して久しい方で、以前マロニエ君の家にピアノの好きな方をお招きしたところ、そのうちの一人は実に3時間近くを、ほとんど休むことなしに我が家のピアノを弾き通しに弾き続けました。
あとの一人とマロニエ君は呆気にとられ、つい目と目が合ってしまいますが、やめろとも言えず、なす術がありません。

わずかな曲の合間などになんとか分け入って弾くという、せめてもの抵抗を試みますがまるで効き目はなく、すぐに構わずその人もまた自分の弾きたいものを弾きはじめる有り様で、もう部屋は音楽とは程遠いただのピアノの騒音で溢れかえりました。
それでもその人はまったくひるむことなく、ひたすら弾き続けるのですから、自分さえピアノが弾ければいいというその図太さにはほとほと参りましたし、ピアノ弾き特有の特種な無神経さを感じました。

いずれにしても、ひとつの場所で同時に違う曲を弾くという野蛮な行為だけは理屈抜きに御免被りたいものです。

ピアノが好きな人は、目の前にピアノがあることは一種の誘惑で、触れてみたい、弾いてみたいという気持ちになるのはよくわかります。
しかし、誰かが弾いている間ぐらい、自分が音を出すのはちょっと遠慮する程度のけじめはほしいものです。

そんなことを考えていると、マロニエ君は最近、家でさえピアノを弾くことに、なにやら家族の迷惑が気になりだして、このところは無邪気に弾くことができなくなっています。
それは、同じ場所にいて嫌でも音を聞かされる側の立場になってみれば、それは弾いている当人とは大違いであって、どんな理屈をつけても、基本的にはただの騒音であろうと思うわけです。
とりわけ練習ともなると、通して音楽が流れるわけでもないし、ましてやプロの演奏でもない、アマチュアのヨタヨタ弾きでは、他者(たとえ家族でも)が快適であろうはずがないからです。

音の苦痛というものは、煙や臭いと並んで、どうしても強烈な部類の苦痛源であるということはピアノを弾く人は心しておくべき事だと思いますし、間違ってもピアノの音は美しいはずなどと勘違いしてはなりません。
これはピアノを弾く者、すなわちピアノの音を出す側に強く求められる基本認識の問題だと思います。

ピアノは、人前で弾くには一線を踏み越える度胸が必要ですが、その線の先には、今度は音の野蛮人にならぬよう、遠慮をするというバランス感覚を持つことも、弾く度胸以上に必要であるような気がします。
2011/07/05 Tue. 02:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

道楽の殿堂 

ピアノクラブの中に、なんと自分のスタジオをお持ちの方がおられ、そこでの練習会という名のお招きをいただき、マロニエ君も参加しました。

北九州市のとある一角にあるそこは、外観は普通の住宅街の中に半ば正体を紛らわすかのごとく静かに建っていますが、中に入ると大きく重い金属製のドアが目前に現れ、そこを開けると、さらにもう一枚同様のドアがあり、まるで金庫の中にでも入るがごとくこの厳重なドアを2枚くぐり抜けてようやくスタジオ内に入ることができます。

ベタベタとした鬱陶しい外の天気から見事に遮断されたそこは、爽やかな澄んだ空気の流れる別世界でした。
広いコンクリートの建物の中には優しげな木の床が敷き詰められ、随所に共鳴板や吸音目的の布の塊などが散見され、音響のためのあれこれの方策が練られては、試行錯誤を繰り返されている様子がわかり、ここのオーナーがいかにこだわりを持ってこの空間を作り上げておられるかが一瞥するなり伝わりました。

ピアノの音を出すと、一音一音の音には、まるで楽器の呼吸のような微かな余韻までがこの空間に鳴り響きます。
しかし鳴り響くとはいっても、決して音が暴れるような野放図なものではなく、響くべきものと余分な響きとが見事に峻別されており、人のイメージの中で「こうあってほしい」と思い描く、まさにそんな美しい音響空間が実現されていたのには深く感心させられました。

ピアノはディアパソンのDR500ですが、これがまた素晴らしいピアノでした。
コンサートグランドがカタログから落ちた現在、この奥行き211cmのモデルが現行ディアパソンの最高級モデルです。
以前、同社の社長と電話で話したときに聞いたことを思い出しましたが、鹿皮のローラーを使っているのがカワイとの違いのひとつだと言っていましたが、その恩恵なのか、タッチには奥に行くほど好ましい弾力があり、この特性とコントロールのしやすさという点では、むしろ優秀なドイツピアノを連想させるものがありました。

このDR500は、ディアパソンの生みの親である大橋幡岩氏の設計とは完全に訣別した新しいモデルで、ボディと響板はカワイのグランドRX-6そのものですが、そこにレスロー製の弦が一本張りされていることや、ハンマーはレンナーを、そしてなによりもディアパソンの技術者によって入念な出荷調整(これはピアノにとって非常に大切な点)されている、いうなればディアパソンの手によるスペシャル仕上げというべきピアノです。
そのために、大橋デザインでは見られなかったデュープレックスシステムなどもカワイと同じく備わり、音は良い意味で限りなくカワイに近いもので、昔のディアパソンのいささか攻撃的で厚ぼったい発音や、クセの強かった響きは完全に消滅し、代わりになめらかで美しい標準語を話すようなピアノになっており、ショパンなどを弾いても違和感なく収まりのつく、洗練された理想的なピアノになっているように思いました。

もうひとつ、たしかこのピアノはカワイでありながらアクションは従来の木製を貫いている点がディアパソンブランドのこだわりで、この点でも弾いていて樹脂製にはないナチュラル感と柔らかさがあり、極めて好ましい弾き心地であることも見逃せません。
まさに布団でくるんで持って帰りたいようなピアノでした。

いやしかし、こんな素晴らしい環境に住み暮らす非常に恵まれたピアノですから、これ以上の住処はないはずで、本当に幸せなピアノといえますし、このスタジオの出来映えも個人の道楽としてはまさに最高レベルもの。
こんな空間で思うさま練習ができるなんて、ここのオーナーはなんという幸せを独り占めしておられるのだろうかと思わずにはいられません。

現在のような言葉のインフレからすれば、ここはもはや堂々とホールを名乗っても良い場所で、巷にはこれとは比較にならないただの部屋みたいなものをホールと呼んでいるものをマロニエ君はいくつも知っています。
ここのオーナーはピアノはもちろん、ヴァイオリンも弾かれる由なので、いつかベートーヴェンのソナタでもお手合わせ願いたいと密かに企んでいるところです。

ともかく驚きの一日でした。
2011/07/03 Sun. 16:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

好みの封印 

他人と接触する際には慎重にならないといけないことがいろいろとあるものですが、マロニエ君はこの歳になってもまだまだ油断だらけで、後から反省することしばしばです。

たとえば、いろんな人と雑談をする折は、その雑談内容と雰囲気にもよりますが、あまり軽々しく自分の好みや考えを明かしてしまうのはどんなものかと思うようになりました。
というのも、マロニエ君はわりに好き嫌いが強いほうなので、とくに嫌いなものは徹底的に嫌い抜く場合があり、そういうものが話題にでると、つい反射的に拒絶の反応を起こしてしまいます。

もちろん状況次第で、どんなに自分の考えや好みを言おうと一向に問題ないこともありますが、音楽の話などでは、自分の好みをいち早く表明するのは、やっぱりよくよくの注意が必要だと思います。
とくに自分が嫌いなものの場合は、その注意の度合いも高める必要があるということでしょう。

嫌いな作曲家、嫌いな作品、嫌いな演奏とか演奏家、そしてその嫌いの理由も何層にも積み重なった理由と根拠があって、若い頃はそこに意思表示をしないでいることは、自分をも裏切ることのように思い詰めることがありましたが、最近はさすがに歳のせいか、そんなに力み込んで事を荒立てることもないと思うようになりました。

むしろ、こちらとしては単なる自分の好みではあっても、場合によってはそれを聞いた人は、自分自身が否定されたように感じさせる危険もあるでしょうし、下手をすると相手を傷つける可能性もあるかもしれません。

それよりは、その場を柔軟にやり過ごすことの方が意味がある…といえば、なんだか生悟りのきれい事のようですけれど、マロニエ君の場合は実はそれでもなく、言い方を変えるなら、何かを犠牲にしてまで己を貫くことがだんだん煩わしくなったわけです。
敢えて頑張るに値するような重要な場面でも顔ぶれでもなし…という思いでしょうか。

もちろんよくよくのことならその限りではありませんが、よくよくのことなんて、そうざらにあるわけでもなし。
さしものマロニエ君も、ここにきて現実的な算盤をはじくようになり、そこでヘラヘラと笑みでも浮かべておいてその場が平穏に通過できるなら、それはそれで自分も楽だという、甚だ狡くてなまくらな考えが浮かんでくるようになりました。

まあ、ひとつには一人で奮闘したところで、どうせこちらが期待するような理解も得られず、自分のほうが浮いてしまうだけという現実感も後押ししてのことですが。

これが丸くなるということなのか、はたまたただの堕落なのか、諦観なのか、韜晦なのか、そのへんはよくはわかりませんが、まあとにかく好き嫌いぐらいで要らざる波風を立てることもないと思うようになったということです。

ひとつには、たまに主張めいた人の熱心な(そして野心的な)発言などを聞いていると、その内容よりも、ずいぶんと必死で余裕のない人間の、いかにも滑稽な姿を見ることになり、それが反面教師として機能しているということも、もしかしたらあるかもしれません。

とりわけ周りに聞かせることをじゅうぶん意識した上で発せられる言葉や知識の披瀝は、聞かされる側は痛いほどにその心底が見えてしまい、なんともいたたまれないものです。まあ何をどう妥協しても、努々そんな姿だけにはなりたくないという、これは自衛本能なのかもしれません。
2011/07/02 Sat. 01:58 | trackback: 0 | comment: 0edit

忍耐の名工場 

車の仲間の行きつけの、ちょっと変わった修理工場があります。
ここはいわゆるヨーロッパのあまり一般的でない車ばかりが集まってくる、知る人ぞ知る整備工場で、昔からここを頼りにしているディープなお客さんががっちりとついています。
宣伝はおろか、看板のひとつもありませんが、それでも年中つねに順番待ちになるほど「入院患車」がひきもきりません。

工場内にある車は、ふだん路上で見かけることはほとんどないような主にイタリア/フランスの珍車ばかりで、レアなコレクターズカーみたいなものがここではごろごろしています。

とくにマイナーなラテン車の世界ともなると、それぞれが常識にとらわれない独創的な設計とか特異な構造になっていますから、修理の仕方もよほどの心得と経験がないとなかなかできることではありませんし、パーツの発注ひとつにしても日本車のようにきれいに整理・管理された世界ではないので、すべてが手間暇のかかる仕事となるのです。

ここのご主人はその点で正に名ドクターなのですが、昔から弟子を取らない主義で何から何まですべて一人でこなす変わり者です。
とはいっても接する限りでは、とくだんの変人とか恐い職人肌みたいなタイプではなく、愛嬌もありむしろ丁寧で礼儀正しいほうの部類ですが、それはあくまでもうわべだけの話。
このメカニックと付き合うとなると、それはもう並大抵ではない試練と苦労が伴います。
この人、あくまで自分のペースで仕事をするのが好きなのか、それでしか仕事ができないのか、そこのところはわかりませんが、それを維持するための流儀には凄まじいものがあります。

その最も変わっている部分は、仕事が立て込んでくると一切連絡がつかなくなる事です。
どんなに約束していても、再三のお願いをしても、この状態に突入するや、こちらから何度電話しても決して電話を取らないのです。固定電話も携帯も一切関係なく、すべてが完全な無視で、まるで俗世間を完全に遮断するごとくです。
出ないとなったら徹底的で、その思い切りの良さときたら、世間やお客さんに対して、よくもそんなことをする度胸があるもんだと感嘆させられるまでに徹底しているのです。
この人に限っては、仮に誘拐とか失踪など事件に巻き込まれても、おそらく数ヶ月は誰も気が付かないでしょう。

非常手段としてはファックスを送り付けたりもしますが、それが役に立つことは5回に1回ぐらいしかありません。
それが1日や2日ならともかく、ときには何週間もその状態になることも珍しくはなく、それでも連絡したいお客さんのほうが辛抱強く電話をかけ続けるという異常事態が続きます。
出ないことがわかりきっている番号へ、ひたすら電話をかけ続けるという、まるで消耗戦のような毎日が続きますが、それで途中で諦めたり憤慨したりすれば、ハイそこまでというわけで、むこうは痛くも痒くもないわけです。

つまり、強いのは圧倒的に工場側というのがここのお客さん達の置かれた明確な立場なのですが、それでもお客さんが途絶えることはなく、次から次に問題を抱えた変な車が彼の手を頼って入庫を待っているのです。

日本車(そもそも故障もしないが)や、それに準ずるドイツ車の確実なメンテを当たり前だと思っているような人は、おそらくいっぺんで発狂するか掴みかかって首でも絞めてやりたいほどの怒りと屈辱を覚えるはずで、果ては、それで車さえ手放す立派な理由にもなるだろうと思います。

ところが困ったもので、趣味というのはこうした困難もどこか自虐的な楽しさに繋がっているのかもしれません。
ここのお客さん達は、もしかするとこんな苦行僧のような仕打ちまでも、ひとつの快感にまで到達しているんじゃないだろうかと思ってしまいますが、マロニエ君の場合は心の修行が足りないのか、さすがにそんな心境にはなれず、ただひたすら忍耐これ一筋というところです。

馴れとはおかしなもので、ちょっとした町の行列でも忌み嫌うマロニエ君が、ここ相手の場合のみ、まったく意識を切り替えて、この非常識に耐え忍んでいるのですから、なんという健気さ麗しさ…自分で自分を褒めてやりたいです。

それでも目出度いことに、つい先日から我が愛車はここに入庫の運びとなり、今は出来上がりを待っているところです。
週末にはやや遠方にでかけるので、それに間に合えばと目論んでいたのですが、さすがにそれは甘かったようで、いつものコンパクトカーで行かなくてはならないようですが、まあ仕方ありません。
入庫した以上は向こうも仕事をしないと車を出せないわけですから、こうなればこっちのものです。
2011/07/01 Fri. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit