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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

S社の凋落 

アルゲリッチの東日本復興支援チャリティCDで、もうひとつ感じたことを少し。

実はこのCDでのマロニエ君が最も残念に感じたのはピアノそのものでした。
ただし、これはこの演奏会だけのことではありませんので、その点は念のため。
とにかくピアノが絶望的に鳴らないことです。
もちろん録音物は会場の条件やマイクの位置や性能、あるいは技師の指向など、あらゆる要素が絡みあっていることなので、それだけを聴いて軽々な事は言えないことはこの世界の常識として重々わかっているつもりですが、ただ、そんな微妙さの問題ではなく、ピアノが悲しいほど、ただ単純に鳴っていないことは誰の耳にもあきらかです。

つい先日もテレビで、ロジャー・ノリントン指揮するN響の定期公演(サントリーホール)で、オール・ベートーヴェン・プロをやっていましたが、いつも義務的なしらけた演奏しかしないN響が、さすがにこの大家を迎えて渇を入れられたのか、普段にはない気合いの入った重厚な演奏をしているのは嬉しい驚きでした。
冒頭の「プロメテウスの創造物」序曲からしていつものN響とは響きと厚みが異なり、続く交響曲第2番では、ベートーヴェンの全交響曲中この最も知名度の低いこの作品を、大いに手応えのある堂々たるドイツ音楽として披露してみせました。
そして最後を飾るのが、ドイツの俊英マルティン・ヘルムヒェンを独奏者に迎えての「皇帝」でした。

ところが冒頭のピアノのアルペジョが鳴り出すや、もうひっくりかえりそうになりました。
ここで聞こえるピアノの音も、上記のCDとまったく同じ音で、耳栓でもしているようにくぐもった精気のない細い音しかせず、とても皇帝のあのエネルギッシュな前進する音楽を聴いている気がしないのです。ヘルムヒェンはまだ若くて未熟なところはあるのもも、キレの良さと作品に対する献身的な演奏姿勢は概ね好感の持てるものでした。

しかし、彼がどんなに力んでも気持ちを込めてもピアノがそれに応えきれず、自然と音楽そのものが沈殿していくのが手に取るようにわかって気の毒でした。オーケストラも前2曲で見られた覇気がなくなり、いつものしらけた調子に戻ってしまったのは演奏者も聴衆も大変不幸なことだと思います。

さらに言えば先日のショパンコンクール入賞者達によるガラコンサート(こちらはオーチャードホール)でも同様でした。
すべて会場も違うのでピアノも違うはずですが、どれも「同じ音」なんです。

これはもちろん有名なS社のピアノですが、どうもここ最近の新しいピアノ特有の、ほとんど量産品としかいえないような深みもパワーも輝きもない、貧相にやせ衰えたあの音は個体差でもなんでもない、このモデルに共通する特徴であることが間違いないようです。

アルゲリッチのCDの演奏会場はすみだトリフォニーホールで、ここは1997年の開館ですから、その当時導入されたピアノなら、まだまだこんな状況になる時代のピアノではないはずですから、そのピアノだとはマロニエ君はまず思いません。
もしかすると10数年経過したということで新しいピアノに買い換えたのかとも思いますが…。

それにしても、ひどいです…。
まともに曲の輪郭も描くことができず、かろうじてS社の音の残像のようなものだけが弱々しく聞こえていました。
まるでフタを閉め、カバーを掛けて弾いているように音がこもり、聴いていて虚しくなります。
先人達が築き上げたブランドにあぐらをかいて、あんなものを堂々と作って販売しているようでは、他社にそう遠くない時期に追い越されてしまうのではないでしょうか。いや、すでに現在がもうそうなのかもしれません。

マロニエ君は子供のころから、なにしろこのメーカーのピアノが好きで、心底惚れ込んだピアノでしたが、しかし同社の新しいピアノをあちこちで聴く(弾く)につけ、ついにここまできたかと思わせられることがありすぎです。
メーカーが企業体である以上、利益を追求するのを責める気はありませんが、そのために、これほど露骨に品質を落とすのはとても納得できません。

サイドのロゴが大きくなってからのピアノ、さらには下面の支柱が黒から木肌色になって以降、さらにもっと言うとここ1〜2年の新しい大型キャスターが付いて以降のピアノは、いかに贔屓目に見てもいただけません。
メーカーがあんなものを平然と作る以上、ファンがどんなに善意の解釈をしてみたところではじまりませんね。
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2011/06/30 Thu. 01:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

アルゲリッチの復興支援 

東日本復興支援チャリティということで、アルゲリッチが昨年暮れに東京で行ったシューマン&ショパンの第1ピアノ協奏曲がCD化されて発売されています。

参加したアーティスト全員が録音印税を放棄して、収益を楽器や楽譜を失った被災者の復興支援のために寄付するという目的があるのだそうで、こんな思いがけないことからまたアルゲリッチのコレクションが一枚増えることになりました。

このCDは、震災で被災したものの早期に復旧を果たした(株)オプトロムの仙台市の工場でプレスされているというところにも大きな意義があるようで、かつて公演のため訪れたことのある仙台でこのCDが製造されることに、アルゲリッチは東日本復興の兆しを感じているのだとか。

アルゲリッチはカルロス・クライバーと並ぶ大変な日本贔屓で、最近読んだ彼女の伝記でも、何事も気むずかしい彼女が、こと日本のことになると一転して従順になるとありました。すでにアルゲリッチはパリをはじめ、ヨーロッパのあちこちで日本の災害支援のためのチャリティーコンサートを開催しており、多くの友人音楽家が集まっては日本のために素晴らしい演奏を繰り広げているようで、なんともありがたい話です。

さてこのCDですが、アルゲリッチの演奏に関しては、マロニエ君の部屋で宣言しているようにこれに一切触れるつもりはなく、ただ、いつもながらのすばらしいものとだけしておきます。
ただ、その他の点についてはせっかくのCDにもかかわらず残念に感じたことがありました。

まずは共演のアルミンク指揮/新日本フィルの演奏が粗っぽく品位に欠けて、とてもこの稀代のピアニストの精妙な演奏に見合ったものではないという点でした。
新日本フィルは昔は小沢征爾がよく振っていて、アルゲリッチも彼の棒のもとにたびたび共演していましたし、その後は今回の会場であるすみだトリフォニーホールのような立派なホームグラウンドまで与えられて、さぞや素晴らしく成長しているものと思っていたのですが、この演奏クオリティはまったくもって意外でした。

マロニエ君も東京在住時代は、新日本フィル、小沢征爾、アルゲリッチの組み合わせでシューマン、ショパン第2、チャイコフスキーなどを何度か聞きましたが、つねにオーケストラがイマイチという印象を免れることが無かったのは残念です。その後はいくつもの国内のオーケストラもめきめきと腕を上げて、ヨーロッパの二流オーケストラを遙か凌ぐまでになっていることを考えると、この新日本フィルはあんまり変わっていないなぁ…という印象です。

企業もそうであるように、よろず組織体というのはよほど強いリーダーの手腕のもとにドラスティックな改革されないと、意外なまでにその実力や体質というのは人が入れ替わっても尚、綿々と受け継がれていくもののようですから、そんなテコ入れが新日本フィルにはなかったのだろうと思います。

すみだトリフォニーホールのような立派な箱ができ、このところは、このCDでも指揮をしているクリスティアン・アルミンク、ほかにもダニエル・ハーディング、インゴ・メッツマッハー、ジャン=クリストフ・スピノジ、トーマス・ダウスゴーといったヨーロッパの若手指揮者を次々に登用したりと、表向きは派手なイメージ作りをやっているようですが、要は内側に手を突っ込まない限り、いくらこんなふうに表紙だけ外国人に取り替えても、あまり意味がないように思います。

もうひとつはショパンの途中からピアノの音が狂いだし、これがみるみる悪化していったのには唖然としてしまいましたし、たいへん残念なことです。
しかもそれが音楽で多用する次高音の部分だったので、この激しく狂ったビラビラの音が繰り返し出てくるのは興ざめで、ただもう悔しいとしか言えません。

ネット上のCDレビューなどでも、書き込んだ人がこの調律の狂いを問題にしていましたが、当然だろうと思います。

やり直しのきかない、この日のアルゲリッチの演奏に、ピアノが大きな傷を付けてしまったようなものです。
よほど何か理由があったと考えるべきかもしれませんが、手がけたピアノ技術者は、プロとしての結果責任を大きく問われる問題だろうと思います。
ところが、ライナーノートにはしっかりその技術者の名前まで記されていることには更にびっくりしました。
2011/06/29 Wed. 01:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

ネットオークション? 

報道などですでにご存じの方もいらっしゃると思いますが、日本音楽財団所有のストラディヴァリウスの1挺が、東日本大震災の復興のために売りに出され、これがなんと過去最高額で落札されたようです。

日本音楽財団は文化庁文化部の芸術文化課が管轄する公益法人で、十数挺のストラディバリウス等を保有しており、これらの楽器を芸術家や音楽家など、それを演奏するに値すると判断された人に、無料で貸し出しているそうです。
むろん非営利団体であり、1974年の開設いらい楽器を売却したのは今回が初めてということです。

ストラディヴァリウスにはそれぞれの楽器に、過去の所有者やエピソードなどから取った様々な名前が付けられており、今回売り出されたのは「レディ・ブラント」という世界的にも極めて有名な楽器です。
この名は、英国の詩人バイロン卿の孫であるレディ・アン・ブラントがこれを30年間所有したことに由来していますが、この楽器を有名にした最も大きな特徴は、ほとんど使われていない極めて保存状態の良いストラドだということです。
1721年製とありますから、ストラディヴァリ77歳頃の作ということになり、彼は不思議な人で人生の後半から晩年になるほど多作になるのです。

ほかに未使用に近いストラドとしては「メシア」という名で呼ばれる楽器が有名ですが、約600挺といわれる現存するストラディヴァリウスの中でも、これほど使い込まれていない楽器は片手で数えるほどあるかないかでしょう。

そんな貴重品の中の貴重品である「レディ・ブラント」を売りに出したというのは、どんな経緯があったのかは知る由もありませんが、おそらくは大変な決断だったと思います。
もしかすると、文化の名の下に高い楽器ばかり買い集める同財団へ、なんらかの批判や圧力などがあったのかもしれず、そういう力に押されてのことだったのでは?と思うのは考えすぎでしょうか。

ネットの情報によると、日本音楽財団がこの「レディ・ブラント」を購入したのが2008年のことだったそうですから、わずか3年ほどの日本滞在だったということになるのでしょうか。

ともかくこれが、ロンドンの楽器の競売会社タリシオが主催するネットオークションに出品され、匿名の入札者によって、なんと980万ポンド(約12億7千万円)で落札されたというのですから、驚くばかりですし、いかにこれがストラディヴァリのヴァイオリンの中でも格別の一台とはいえ、この凄まじい価格は狂乱的な気がします。

しかもこれ、ネットオークションというのがさらなる驚きで、ヤフオクのようにこの落札者はモニターを見ながら、自分の指先でカチャッとクリックして入札したのでしょうか!?
ちなみにこれ以前の最高額は約4億ということですから、「レディ・ブラント」は一気にその三倍以上の値を付けたことになります。

ここまで来ると、もはやその額に相当する価値があるのか否かなど、考えることさえナンセンスでしょう。

ちなみに、日本音楽財団の所有楽器の資産額合計は、約95億円なのだそうで、およよーんですね。
ずば抜けたヴァイオリンの才能があって、めでたくこういう機関や団体から楽器を貸与される幸運に恵まれても、これでは保管や移動など、ほとんど気の休まるときがないでしょう。
心配でうかうかトイレにも行けない気がします。
2011/06/28 Tue. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

カワイ軍団 

ピアノクラブ内では、俄には信じられないような事実があります。

クラブ員は皆ピアノを弾くわけですから、当然ながら電子ピアノ、アップライトピアノ、グランドピアノまで、様々な楽器を使っている人がいらっしゃいますが、その中で、グランドピアノだけに限ると、信じがたい事実が浮かび上がり、これは果たして偶然か必然か…。

全員をくまなく確認したわけではありませんが、マロニエ君が現在把握しているだけでも、カワイが5台、シゲルカワイ2台、カワイが製造しているディアパソンが2台に対して、ヤマハはわずか2台!で、圧倒的にカワイ系の健闘が目立ちます。

これは一般的なヤマハ優勢の流れからいうと、真逆の情勢で、なにが理由だろうかと思いますが、はっきりしたことはわかりません。一般的な人がごく自然に選ぶピアノがヤマハだとするなら、われわれはひどく不自然な一般人からかけ離れた人間の集まりということになるかもしれません(笑)。

普通はどこに行っても置いてあるピアノは十中八九ヤマハですから、ピアノクラブの定例会でもこれまで利用した会場のピアノはことごとくヤマハで、カワイだった場所はたった一箇所しかありませんでした。
その一箇所というのも、地元のオーケストラの弦楽器奏者の方が作られた貸しスタジオなので、やはりなにかのこだわりがあって意図的にカワイを導入されたものだろうと思われます。

日本はピアノといえばまずはヤマハで、どこに行っても判で押したようにヤマハ、ヤマハ、ですから、ピアノクラブの個人所有のグランドピアノが、これほどの猛烈な比率でカワイ系のピアノだというのは本当に驚いてしまいました。

別に我々はカワイ楽器の回し者でもなければ、なにかそれに類する系列に属しているわけでもなんでもない、単なる個人の集まりであるし、お互いに話し合って買ったわけではなければ買った時期もバラバラで、知り合ったときには皆ピアノは持っていたことを考えると、この事実は実にまったく注目すべきものがあるようです。
もう一度繰り返しますが、ディアパソンを含むカワイ系が9台に対して、ヤマハが2台というのはやはり尋常なことではないようで、もしマロニエ君が学者なら即席の研究テーマにしたいところです。

彼らに共通しているのは、カワイ(およびその系列)のグランドには、皆一応の満足をしている様子で、最大手のピアノにはほとんど関心がないように見受けられる点でしょうか。

これに対して、一般的な施設の備品として置かれているピアノや、ピアノの先生には圧倒的にヤマハが多いようです。
もちろんカワイ系列の音楽教室に連なる先生達はカワイかもしれませんが、いわゆるフリーの先生やピアニスト、音大生などはマロニエ君の知る限りでは圧倒的にヤマハです。

カワイを選んだ人の動機を一人ひとり聞いてみたわけではないし、それもまたいろいろだろうとは思われますが、単純に音の好みということは、やはりあるのではないかと思われます。
ただ現実には、ピアノを買う人というのは、とにかく何を買ったらいいのかわからなくて、ヤマハとカワイの違いもわからないという人が多いのも事実で、わからないからヤマハを買っておけば間違いないだろうというのが一般的です。
そんな中で、少なくとも自分の好みがあり、それをカワイのほうに感じたというのであれば、これはもう立派なひとつの見識で、ここは最も注目すべき部分だろうと思います。

マロニエ君は決してヤマハを否定するものではありませんし、ヤマハの良さも自分なりにわかっているつもりです。
同時にカワイがすべて良いなどと思っているわけでもありませんし、カワイの欠点もむろん知っています。

ただ、それでも、もし新たにヤマハかカワイのいずれかを買うとしたら、機種はさておいても、マロニエ君なら迷うことなくカワイを選ぶことだけは間違いありません。
2011/06/26 Sun. 02:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

音楽本蒐集 

音楽関係の書籍、わけてもマロニエ君の興味の対象であるクラシック音楽関係の書籍というのは、発行部数も少ないのか、数年もすると書店や楽器店から姿を消してしまいます。
ピアノ関連でも、レッスン関係の本は比較的ありますが、文化論的なものはそれほど多くはありません。

すぐに買って読みたいというほどのものではなくても、一定の関心を抱いて、そのうち購入しようなどと油断していると、ついその本のことを忘れてしまい、何かの拍子に思い出して買う気になったときは、もう無くなっていて、調べてもらったら廃刊になりましたなんていうことも何度か経験しました。

一般性があって売れ行きが見込めれば、版を重ねて再販もされるでしょうが、クラシック音楽関係の書籍でそれが行われるようなものはめったにない気がします。
つまり、目についたときには、ある程度のタイミングで買っておかないと、後からはもう手に入らなくなるというのがマロニエ君の体験から得た認識となりました。今目の前にあるものは、できる限りサッサと買っておくべしという掟です。

それいらい、どうしようかな?と思うぐらいのものはできるだけ買うようにしていますが、買ったにしても、本というのはすぐにそれを読みたい気分の時と、そうではないときがあるものです。
さらに読みかけの本などがあると尚更です。
というか、そもそも本はすぐに読みたいときに買うものですが、音楽書はそれが難しいということになるでしょうか。

そういうわけで興味を惹くものがあったときは、できるだけ早めに購入するようにして、すぐに読まない場合はひとまず本棚に入れておくというスタイルが出来上がりました。
ところが、これはこれで意外な落とし穴があったのです。

買ってすぐに読んでおけば、その本に対する記憶や印象というものが何か残るものですが、ただ買ってきて本棚に入れただけでは、印象がスーッと消えてしまうことがあり、そうなるとどうなるか?
もうおわかりだと思いますが、買ってしばらく未読のままにしているとその本のことは完全に記憶から抜け落ちてしまい、書店でまた同じ本を見たときに誤って重複買いしてしまうという、まことに阿呆なことをやらかしてしまいます。

つい最近もこれがあり、しかも二度続いたのには我ながら嫌になりました。

大したものでもなく、2冊持っていても仕方がないので、先月に一人、今月もう一人と、ピアノの友人にこれらの本を進呈しました。尤も、大したものならきっとすぐに読むはずですが、中途半端なものだけに放置してしまうのかもしれません。

逆に、ちょっと値段が高めなので次に来たときに買おうぐらいに思って、いったんは購入を見合わせて引き上げて帰宅してみると、なんとそれ、既にもう買っていて、今日書店で悩んだはずの本がちゃんと自分の本棚に入っていてびっくりしたこともあるのです。

高い本を重複買いしなくてよかったとホッと胸を撫で下ろしたことも一度ならずありました。
いいかげん健忘症かとも思いますが、それほど買ってすぐ本棚(しかも普段目に触れる場所ではないので)直行というのは危険だということのようです。
2011/06/25 Sat. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

男はケチ? 

最近しみじとわかったことがあります。

ごく一般論として、男と女とではどちらがケチかというと、それは公平なところ男だろうと思います。
むろんこれは個人差の話ではなく、中には気前のいい男性もいればケチな女性もいることは百も承知ですが、それでもやっぱり全体として見た場合、男のほうが体質的にケチだというのが結論です。

買い物ともなると財布の紐は平均的に堅く、なかなか購入という現実行動に入らない人は実に多いものです。
お金を使うことは多くの場合、苦痛もしくはすこぶる慎重で、自分の財布からお金が出ていくことが本質的に嫌らしい。
その点では、女性のほうが目的に対しては飾らず正直で一直線、度胸と一途さがある人が多いと思います。

なにが一番違うかというと、男はとにかくあれこれと比較検討するのが好きですし、その段階からすでに楽しんでいるということもあるでしょう。これはマロニエ君も思い当たるところがないわけではなく、買い物を前提とした下調べというのには一種独特な楽しさがあるもので、とくにネット社会になってからというもの、それが安易かつ網羅的にできるようになりました。

こういう調査を通じて、いろいろな良し悪しの実情を知ったり、付随的に知識が増えたりすることもあれば、マニアックな心理を満足させられたりと、購入に際しての調査には有効かつ興味をそそられる面があるのは認めます。
しかし、初手から絶対に損をしない確実な買い物がしたい、しかもできるだけ安く、それでいて人も羨む本物が欲しいという甚だ虫のいい魂胆を垣間見ることがあるのです。

気持ちはわからないではありませんが、ものには自ずと限度というものがあり、この手の調査をやりすぎる、あるいは検討時間がやたら長すぎるのは、隠された本音を疑ってみる必要が出てくるわけです。
つまり、そもそも買う気があるのか…これが甚だ疑わしくなってくる。

このタイプは「買う」という大前提を打ち立てておいて、それにまつわる会話や時間そのものを楽しんでいるという、まことに安上がりの悦楽に浸っている場合が少なくありません。
しかも最終的な決断を下す決定権は、自分の買い物である以上、当然ながら自分ひとりが握っているわけで、ここはいかなる余人も手出しのできない領域というわけです。こういう現実が、一種の自在感をもたらし、ささやかな権力志向にさえ繋がって、当人はその快感に酔いしれ、なかなかやめられないでいるようです。

マロニエ君の友人に言わせると、彼らはあくまでも未定の、将来の、責任の発生しない話題(しかも話だけならタダの)をふりまいて人の関心を引き寄せて、その話の主役となり、まわりの反応を「おかず」にして楽しんでいるのだといいます。

こういう人は小心者のくせに見栄っ張りで、なにかといえば言い訳が多いのですが、それもまた男によくある特徴といえばそうなのかもしれません。やたら裏事情などが大好きで、己一人がいつも賢い目線のトークを繰り広げるのですが、かえって他者の目にはその人が小さく滑稽に見えてしまうものです。

まさに1円の出費もなしに話の世界を飛び回り、虚構の快楽を楽しんでいるわけですが、だいたいこの手はいつまで経っても買うことはないので、そのうち誰からも本気で相手にされなくなります。
しかも、今どきは表だって追求するようなことはしませんから、本人はいつまでもそこのところに気がつきません。

こういう人はどこにでもいるもので、マロニエ君も以前は本気になって話に乗せられていましたが、だんだん鍛えられて最近では真贋を冷静に見定め、そのいなし方もわかってきました。

本気で買う人は、はじめから意気込みなどに現実感と迫力があり、どこともいえず違うものです。
どれを見ても気に入らなかったり、あれこれ注文の多い人というのは、概ね「買わない理由を探している」のです。
2011/06/24 Fri. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

ホールの惨状 

新聞によると、3.11の震災では各地のホールや劇場などにも様々な被害があったようです。
これはある程度予想はしていたものの、やはりそれは予想では終わることはない、まぎれもない「事実」のようです。

全国約1200の公立ホールで構成する「全国公立文化施設教会」が発表したデータによると、今回の震災で大小何らかの被害を受けた公立ホールは197にものぼり、そのうち「甚大な被害」を受けたホールは31ということで、中には建物ごと流されたものもあるということでした。
この数字には挙がらない公立以外のホール、プライヴェートホールなどを含めるとさらにその大変な数になるはずです。

また、建物に被害がなくても、震災以降は予算のめどが立たなくなるなどして再開の見込みが立てられないホールもあるということでした。ホールや劇場は使わなくても維持管理だけでもおそらくかなりの費用を必要とするため、このような問題が次々に発生しているものと思われます。

今ごろになって、「ははあ、そういうことだったのか」と納得がいったのは、例年ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの会場となっている東京国際フォーラム(大小7つのホールと会議室などを擁する)も余震による電気系統の不具合から貸し出しに著しい制限が発生し、昨年の来場者数約81万人から、今年は一気に15万人弱までに激減せざるを得ないほどの規模の縮小を強いられたというのです。
鳥栖や新潟のような、これまでこの音楽祭とは縁もゆかりもない地域で突如開催されることになった地方版開催の背景には、メイン会場である東京国際フォーラムでこのようなことが発生したという裏事情があったようです。

また、新聞にはその内部写真まで掲載されていて驚いたのが、川崎市最大の音楽拠点、ミューザ川崎シンフォニーホールでした。
東北ではないものの、やはり3月の地震で客席上の天井仕上げ材がすさまじく落下して、写真ではまるでホール全体が崩壊したかのような無惨な光景であったのには驚かされました。
さらに照明やパイプオルガンにも大きな損傷があるとかで、なんと、むこう2年間の閉館を決定したそうです。

当然ながら公演のキャンセルも相次ぎ、多くのホールが運営面でも大きな打撃を被ることは避けられず、さらにそのもうひとつの問題は、多くのホールが竣工したのが1995年前後が最も多いのだそうで、震災とは別問題に、それらが一斉に改修の時期を迎えているということも折悪しく重なっているようです。しかも費用は優十億から100億かかるとかで、まさに泣きっ面に蜂という状態のようです。
仮に無事改修などが終わったとしても、現在の社会状況から見て、以前のようにお客さんが来てくれるという見込みが立てられないようで、なにもかも震災以前と同じというわけにはいかないという深刻な問題を抱えているらしく、音楽ファンとしてもなんとも心が暗くなるような状況のようです。

福岡でもこの1年ほどは、なにやらすっかりコンサートの数が少なくなっていると感じていたところ、3月の震災を境に、さらにそれが激減しているのが目立つようになりました。
むろん福岡のホールは幸いにして今回の地震の被害はないわけですが、現在の社会の雰囲気がなかなかコンサートなどを盛んに行おうという流れではないようで、この状態はここ当分は解消されそうにもない感じです。

テレビニュースをみれば、あいもかわらず福島原発事故や被災者の深刻なニュースが冒頭から流されますが、これはもちろん大変な社会問題であることはよくよくわかるものの、すでに災害発生から100日以上が経過して、1日も休むことなく連日連夜、このような先の見えない暗い話題ばかりをトップニュースとして際限もなく流すばかりでは、世の中に与える精神面での過剰なストレスという、いわば第二の人災のような気がしてくるのです。

もちろん福島原発は収束を見ておらず、抱える課題も甚大ですが、もう充分に国中が喪に服したことでもあるし、そろそろ動きの取れるエリアでは、被災地の為にも前向きに腰を上げてもいい時期に来ているような気がしますが。
2011/06/22 Wed. 02:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

食べるスピード 

マロニエ君はダイエットなどということは、もともとあまり好きではありませんし、とりわけ女性が挑むダイエットにはどうしてそれ以上痩せなきゃいけないの?といいたくなるような、甚だ同意しかねるものがありますので、ダイエットそれ自体に大いなる疑問を持っている部分さえあります。

もともとマロニエ君の父方の家系は概ねスリム体型で、男性陣は細身なことを少し恥ずかしくさえ思っているフシがあったぐらいなので、これまであまり真剣にダイエットという事を我が身の課題として深く考えたことはありませんでした。

しかし、運動不足&飽食の報いというのは、スリム体型であっても確実にその魔の影が射してくるものらしく、このところこれはちょっと…と思われる現象がやはり起こり、ようやく危機感が募ってきました。

しかし、それでも本格的なダイエットなど頭っからする気はなく、まずは食事の量と、しばしば口に入れてしまう間食夜食の類を見直すことから着手することにしました。

マロニエ君はもともとそんなに大食いのほうではないのですが、食べることは大好きで、よく考えてみると日常的に間食をしたり、ちょっと残しても仕方がないというようなつまらない理由で、本来の自分の適量より多く食べてしまう事が折々にあることを反省しました。
さらに、知らず知らずのうちに食べる速度も若干ながら上がっているような気がします。

まずはここに着目、少なくとも食後にポンと腹を叩くような満腹はしないように心がけます。
これは、はじめこそちょっともの足りないような気がしますが、聞くところによると満腹中枢が働くのは食後15分ほどしてからだそうですから、ゆっくり食べれば食べるほど満腹感が増してきて、無理なく食べ過ぎないようにすることが可能だということがわかり、3日もするとこのリズムに慣れてしまいます。
これでも最終的にはじゅうぶん満腹感が得られるので、とくに努力らしい努力をしている実感もないまま、わずかながら食事量をカットすることができて、それだけの小さな結果がさっそく出てきました。

食べる速度が速いと、必然的に量もアップすることもあるみたいです。
それで思い出しますが、ときどき外食することがありますが、店によっては仕事帰りの男性などが来ていて、その食べっぷりの早さといったらもう神業のごとしで、見るたびに呆気にとられてしまいます。
大方のパターンは、こちらより後から来て、こちらより多く注文して、そしてこちらより遙かに早く食べ終わり、気がついたときにはもうその姿もありません。

数人できていても、けっこうワイワイしゃべったりしながらも、しっかり食べることには余念がなく、ガッツリと逞しく食べています。
そしてあっという間の完食で、それがとなりのテーブルだったりすると、ついそのパワーには圧倒されて、こっちの食べる気力まで奪い取られるようです。

短い休憩時間に社員食堂などで手早く食べざるを得ない環境にあると、自然にあんな芸当ができるようになるのかと思いますが…。

あのスピードじゃあ、そりゃあ食べる量も進むだろうと思いますし、場合によっては、さらに酒が入り、タバコが入り、日中は息つく暇もないほどの激務とくれば、そりゃあまあ病気のひとつもするだろうと思います。

おまけにTVによると、最近の日本人の人気の食べ物トップは、とにかく「揚げ物」なのだそうです。
嫌いではないけれども、とても毎日なんて食べられないマロニエ君などから見ると、ひええ…という感じです。
2011/06/21 Tue. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

がんばりたくない 

昨日はピアノクラブの方が数名来宅されました。

というのも、かねてよりマロニエ君がまとめて注文していたダンプチェイサーを取りに来られるという目的があったのですが、せっかくなのでお上がりいただき、しばらくピアノを弾くなどして遊んでいただきました。

定例会や練習会とはまた雰囲気が違うのか、はじめは遠慮がちでしたが、しだいに空気もほぐれてか、少しずつ弾いていただけるようになりました。以前、思いがけず爆奏会みたいなことになったことがあり、この慎ましさはなんと麗しいことかと思いました。

自分のピアノというものは、自分が弾く時以外にその音を聴くチャンスはなかなかないもので、むかしはよくコンサート前に練習に来られる方などがあったのですが、ここ数年はあまりそれもなく、久々に自分のピアノの音を人様の演奏で聴かせていただくことも出来て、マロニエ君自身、大いに楽しめたところです。

雑談で驚いたのですが、関東のほうのあるピアノクラブでは、会の終了後に各人の演奏についての批判などがあり、それに依拠して指導の時間などまであるのだそうで、話から受けた印象では、互いに楽しむというよりは互いに学び合うという感覚のようでした。いってみれば「ピアノの勉強クラブ」というところでしょう。

なるほどピアノは本気で学ぼうとすればするだけ際限のない世界で、自分の演奏の向上のために同志が集って勉強するというのもひとつの在り方なんだろうとは思いますし、それを実践するとは、立派なことだと感心もしますが、しかし、マロニエ君だったらそんなこと、まっぴらゴメンだと思いました。

仲間が向上心を持って集い勉強し合うのは基本的には素晴らしいことに違いありませんが、マロニエ君などはなんのためにピアノクラブに参加しているかと自問すると、ピアノを通じて仲間との楽しい時間を持ち、それによって浮き世の雑事から解放されたいからなのであって、あらためてピアノを学ぶとなると、それはもう尋常なことでは成し遂げられないことだとそもそも思うわけです。

こういう考えは、何事にも真摯な向学心を持って取り組むやる気旺盛な人達から見れば、ただの怠け者の戯れ言のように思われるかもしれませんが、要は好きなピアノを通じて、楽しい時間を共有できる友人の輪が構築できることの方に意義を置いているわけですから、根本的に求めるものが違うようです。

それに、そんなことにでもなれば、結局行きつく先は、どうしても指のメカニックや譜読みの技術の優れていることなどが重要視され、ひいてはそれが会の秩序となるような気がします。ピアノを愛する者にとって、難曲をも弾きこなすことはもちろん素晴らしいことですが、しかし、それが人の序列の根拠のようになるとしたらまったくゴメンです。
ま、ひとくちに言えば、この歳でいまさらそんなにがんばりたくはありません!

我が家での話に戻りますと、ソロあり、連弾あり、2台ピアノありで、いつもとはまたいくぶん違ったかたちで遊ぶことができたように思います。
ピアノ遊びは思った以上に時間の経つのが早いもので、夕方まであっという間のことでした。

次はもう少し合わせものの練習でもしておきたいところですし、昨日は来られなかった方にもぜひお立ち寄りいただきたいと思います。
2011/06/20 Mon. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

ゾウゲ 

人の好みは様々ですから、何をどう好もうともそれはまったく自由なのですが、傍目には首を傾げてしまうことがあるものです。

ネット上のある書き込みを見ていると、ピアノの購入予定者が象牙鍵盤であるか否かをかなり重要な要素としてこだわっているのを見かけました。
海外からの輸入の際の書類の申請などはわかるとしても、気に入ったピアノがあっても象牙鍵盤でない場合は、象牙への張替が出来るかどうかという点に関心があったり、新品でも何型以上は象牙&黒檀の鍵盤になるなど、その点ばかりに意識が集中している様子にはちょっと驚きました。

こういう人の発言を見ていると、象牙鍵盤とはどこがそんなにいいものかと考えさせられてしまいますが、おそらくは確たる根拠もないまま、高級感とか稀少性にひきつけられているような気もしないでもありません。
こういう人はもう頭からプラスチックはダメだと思いこんでいるんでしょうね。

もちろん、そこに価値をもつ人にとっては重要な問題なのかもしれませんが、ピアノはやはり楽器なわけですから、楽器としての性能が第一では?とも思います。
もちろん、一流品になれば、そこには工芸品的要素とか骨董的な価値、稀少性などが加わってくるのはわかりますが、鍵盤が象牙か否かということばかりに価値を置きすぎるのは、本来のピアノの評価としてはいささか偏りがあると言わざるを得ません。

マロニエ君は子供のころから20年以上、ヤマハの白鍵は象牙、黒鍵は黒檀のピアノを弾き続けてきましたが、それがそんなに重要なことだと思ったことはついにありませんでしたし、むしろ象牙・黒檀いずれも下手をするとかえって滑りやすいなどの欠点もあるわけで、一長一短という程度の印象しかありません。
また、場合によっては、激しく使い込まれた象牙は(品質にもよるのかもしれませんが)、まるでテフロンのフライパンみたいにツルツルになり、弾き辛いことといったらありません。あんな恐ろしいものは自分のピアノでは絶対に願い下げです。

たしかに象牙/黒檀の鍵盤にはプラスティックにはないあたたかな風合いや色合いがあるのはわかりますが、象牙ならなんでもいいというわけでもなく、とくに近ごろの象牙は品質がよろしくないようで、繊維が荒くて見た目にもとても下品で、あんなものでもいいんだったら、水牛の角でもなんでもいいのでは?と思います。

もしも、まかりまちがって日本製ピアノの上級機種にある象牙鍵盤仕様のピアノを新品で買うようなことがあれば、マロニエ君なら躊躇なく白鍵は良質のプラスチックにしてもらいます。

ところが巷の象牙鍵盤支持派の思い込みは、ほとんど信仰に近いものがあり、以前もやや年代物の有名ブランドピアノをお持ちの方がおっしゃるには、ご自分のピアノは鍵盤が象牙であることがまず第一のご自慢で、ゾウゲ、ゾウゲとそこに格別の価値とプライドを感じておられるようでした。
象牙鍵盤というだけで、まるでピアノそのものまで最高品質のものであるはずだ…というような、根拠のない一途な思い込みには驚くばかりです。

マロニエ君なら、鍵盤の材質などより別の部分によほど神経を尖らせますが、これもまた人それぞれだといえばそうなんでしょうね。
ある一箇所にとても強いこだわりを持ち、自分としてはそこが期待通りのものでなくてはどうにも満足できないという気持ちは理解できますから、それが象牙鍵盤だとしても、それはその人にとっては価値があるというのはわかります。

ただし、客観的な楽器の価値と個人的こだわりは一線を引くべきだと思います。
いずれにしても皆さんいろいろこだわりがあって満足を得るためには大変なようです。
2011/06/19 Sun. 02:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

宅急便 

つい昨日のこと、朝早くに宅急便(むかし飛脚マークの)がやってきたのですが、ちょうどタイミングが悪く、そのとき家人は着替えをしている最中だったようです。インターホンにはかろうじて出たものの、すぐに行くので2〜3分待って欲しいと告げたそうです。

すると相手は「それはできません」ときっぱりいうのだそうです。???
再度、急いで行くのでちょっとだけ待ってください、すぐに行くからと言っても、相手は頑として聞き入れず、他にも回るところがあるから待つことはできないとにべもなく断り、一方的に「ではまた午後にもう一度来ます」と言って去って行ってしまったそうです。

またまたマロニエ君はその場にはいなかったのですが、家人はたいへんな憤慨の様子で、だれでもそれぞれに生活をしているのだから、そんなに宅急便の都合の良いようにいつ何時でもスタンバイができているわけがないし、勝手にやってきておいて、たまたまこちらがパッと出られなかったからといって、静止を振り切ってまで立ち去ってしまうとは納得できないといいます。

たしかに宅急便の仕事も大変で、次から次に荷を届けなくてはいけない激務なので、一件に時間がかけられないことはじゅうぶんわかるのですが、これはいくらなんでも極端すぎるように感じました。
しかも午後にまた来ると言ったきりで、何時ごろという具体的なことも言わなかったそうですから、おそらく12~13時の間には来るものと思っていました。

ところが一向にその気配もなく、そうなるとこちらは時間のわからない相手を延々と待っていなくてはいけない状況になりました。

それにしても着替え中の相手の2~3分でさえ待てないほど自分の都合を優先するわりには、相手には午後とだけ言い置いて再訪する時間も告げていないとは、なんという身勝手かと思いました。
14時に近づき、これではうかうかインターホンの聞こえるエリアを離れることもできません。

とうとうマロニエ君が近くの近くの営業所に電話してこの事を伝えると、電話に出た相手はたいそう恐縮していて、厳重注意するとのこと。そして、すぐにドライバーに電話をして訪問時間を連絡させますということでいったん電話を切りました。

当然、電話がかかってくるのかと思っていると、よほど近くにいたのか、なんと、ものの1分ほどでピンポンが鳴り、さっきの男性がやってきたようです。
さすがに上から叱られたようで、平身低頭の態だった由で、なんでも1ポイント減点されたと言っていたそうです。

それでわかりましたが、今どきは宅急便の配達員も会社から個人別のポイントを加減をされ、それが勤務成績に繋がる時代のようです。
勤務成績がどうなのかは知りませんが、地元の電力会社に勤務する友人は、なんと、このタイミングで7月から東京転勤だそうで、東電の社員でもないのに、なんだか無性に気の毒になりました。
2011/06/18 Sat. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

ものすごいCD 

かつて、ミヒャエル・ポンティというドイツ出身、アメリカで活躍した異色のスーパーピアニストがいて、昔から音楽ファンの間ではこのポンティの異色なレコードはちょっと知られた存在でした。
すでに70歳を過ぎて、現在は手の故障から現役を退いているようですが、彼のピアニストとしての絶頂期はおそらく1970年代だったと思われます。
そして、その間に膨大な量の、まさに偉業ともいうべき録音を残しています。

その内容というのが並のものではなく、大半が通常ほとんど演奏されることのない主にロマン派の隠れた名曲の数々で、子供のころからマロニエ君はどれほどこの人の演奏で初めて聞いた曲があったかしれません。

ポンティの優れている点は、埋もれた作品の発掘というものにありがちな、ただ音符を音にしただけの、とりあえず楽譜通りに弾いてみましたというたぐいの平面的な演奏ではなく、どれもが彼のずば抜けた感覚を通して表現された生きた音楽である点です。
まるで長年弾き慣れた曲のごとく、そこには生命力とメリハリがあり、その迷いのない表現力のお陰でどれもが名曲のような輝きと響きをもって我々の耳に聞こえてくるのがポンティのピアノです。

一説には100枚近い録音をしたと言われていますが、よほど卓抜した譜読みができるのか、解釈の参考にすべき他の演奏もないような曲へ次々と的確な解釈を与え、しかも持ち前の超絶技巧で一気呵成に弾きこなしてしまうのですから、いやはや世の中には恐るべき天才がいるものです。
中でもモシュコフスキのピアノ協奏曲などは、いまだにマロニエ君の愛聴盤のひとつです。

そんなポンティの幻のシリーズというのがあって、そのひとつがスクリャービンのピアノ作品全集なのですが、これは長年音楽ファンがその存在を囁き合い、復刻を求めていたもので、それをついに手に入れることに成功しました。
5枚組CDで、完全な全集ではなくソナタは別になっていますが、ほとんどのエチュード、プレリュード、マズルカ、即興曲、ポロネーズ、幻想曲ほか小品が収録されています。
ところで、これって何かににているでしょう?
そうです、スクリャービンはとくに初期にはショパン的な作品を数多く作曲していましたが、しかしショパンらしさというのは実はそれほどでもなく、初期の作品からすでにスクリャービン独特の暗く官能的な個性が全体に貫かれているのは、これまた天才ならではの個性の早熟さを感じさせられます。

驚くべきは、この曲集、ヴォックスという廉価レコードのレーベル(こういう会社でなくてはマイナーな曲ばかり発売なんてしないのでしょう)の制作経費節減のせいで、使われているピアノは、な、なんと、アップライトピアノ!なんです。
そのせいで音ははっきり言ってかなり貧弱かつ突き刺さるようで、表現力も品性もありません。ポンティの多様な演奏表現について行けずにピアノがキンキンと悲鳴をあげているようなところが随所にあり、音としてはかなり厳しいところのあるCDです。

しかしながら、演奏は実に見事な一流のそれで、聴いているうちに音楽に引き込まれてしまい、こんなものすごいピアノのハンディさえもつい忘れるほど聴き入ってしまうことしばしばですが、それにしても、こんな冗談みたいなことが現実におこなわれていたということ自体が信じられません。
いくら経費節減といったって、アメリカのような豊かな国(しかも現在より遙かに)の、しかもピアノ大国にもかかわらず、レコードのスタジオにグランドピアノ一台さえ準備できなかったなんて…ちょっと信じられませんね。

アップライトピアノ1台という劣悪な環境の中、ポンティは楽譜と毛布を渡されて缶詰状態となり、やむなく録音を続けたといわれています。
しかし、内容はそんなエピソードが信じられないほど本当に素晴らしいもので、ポンティの信じ難い才能が、このすべての悪条件を跳ね返しているようです。
アップライトピアノによる一流演奏家の全集なんて、探してあるものではないので、その点でも貴重なCDと言えそうです。
2011/06/16 Thu. 02:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

やめられない人 

マロニエ君のような飽きっぽい怠け者からみると、世の中には、別人種とでもいいたくなるような驚くばかりの強靱な意志力とか持続力を持つ人がいるものです。
そしてこういう人達には、相応の行動力も兼ね備わっているものです。

以前はただ単純にその意志力、行動力を不屈の精神のように感じて素直に敬服していましたが、これがよくよく見ていると、中にはどうも褒められたことばかりではなくて、そこには別の力が働いていることがわかります。

それは何かというと、人間のもつ欲望や劣等感がひきおこすところの執着心が発する怨念のような意志や行動であり、その思い込みや目的に囚われるあまり、逆に自由のない浅ましい人の姿であることがわかりました。
しかもそれが、一見そうとはわかりにくい、体裁のいい建前のベールを被っている場合のなんと多いことか!

「言うは易し、行うは難し」とか「継続は力」などといいますが、それは本当に有意義なこと、建設的なことを必要だと正しく認識し、真っ当な意志の力によってそれを達成している人をいうのであって、裏を返せば必要がなくなればいつでも中止する準備のある人のことだと思われます。

欲望を源泉としたところの努力は、努力は努力でも、動機がそれでは感心するには当たりませんし、その努力の姿に美しさがないものです。

結婚願望や病的に子供を欲しがる人、手段を選ばぬ出世欲や金銭欲、根底に流れるブランド指向など、己の欲望のために何がなんでも目的を手中に収めたいという露骨な思い込みは、さらなる欲望、際限のない欲望に転じ、端から見ていてあまり眺めのいい光景ではありません。

当人はずいぶん必死なようですが、要はただの卑俗な欲望の奴隷に身をやつしてということに、自分ではなかなか気がつかないようです。これが時として大変な努力家のように見えたり、どうかすると称賛の対象に間違えられる場合さえあります。
というのも、これらは正統な努力の姿とひじょうに姿形が似ている場合があり、そこに文句を言わせない建前をドンと立てておけば、とりあえず表向きの非難からは除外されるという性質を持っていますし、とりわけ建前に弱い現代では大手を振って横行しているようです。
そして、音楽の世界にもこの手合いが少なからず棲息しているのはいうまでもありません。

こういう大義や隠れ蓑を持った欲望・野望は、幼稚でわかりやすい欲望よりもはるかに悪質だと思うのです。
ワガママでも欲望でも、本人がそれを自覚し、人目にもすぐにそれとわかるものはまだ救いがあるものです。

マロニエ君ももちろん人並みに欲望はありますから、自分だけは別だというつもりはないのですが、やはりちょっと(というか到底)次元が違うと思うのです。

本当はもっと具体的なことを書きたいところですが、いろいろと障りもあるので具体例が引けず、もってまわったような表現ばかりになるのが残念です。

現在のやめられない人の最高峰は、もちろん我らが首相であることに異論はないでしょう。
この超人的な粘りは、まるで毎日がギネス記録のようです。
2011/06/15 Wed. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

個人情報 

ようやく今日あたりになって、だいぶ声が戻ってきました。まだかなり制約があり、ちょっと続けて話すとすぐに咳き込んでしまいますが、ともかく必要最小限の会話ができるようになっただけでも助かります。

さて、つい先日、満杯になっている本棚を少し整理しようと、処分する雑誌などはないか見ていたところ、たまたま雑誌「ショパン」のずいぶん古いのがあって、何気なく見ていたのですが、サイズも現在のものよりひとまわり小さいし、カラーページなども少なく、現在のものよりも「読ませる」ものであったことがわかります。

とくに、出てくるピアニストもみんなまだ若くて、次々に有名どころが惜しげもなく登場しては特集だの対談などにどんどん精力的に出てくるのは、いかにも時代の違いを感じるとともに、発言内容も今に較べると自由でおおらかだった時代を感じさせるところです。
自分の好みや考えを堂々と述べていますが、いまならすべてカットされるでしょうし、そもそも言い出しもしないことでしょう。

表紙はアンネローゼ・シュミット、ニコラーエワがまだ生きていてインタビューに答えていたり、ポリーニがようやくシューマンの交響的練習曲をリリースして広告がでていたり、アトラスピアノが健在だったり、ギリシャ出身の天才少年スグロスの来日公演があったり、ダン・タイ・ソンがショパンの優勝からようやく二度目の来日決定というような時代です。

懐かしさとともにパラパラとページをめくっていると、今から思うととんでももないものが目に飛び込んで卒倒しそうになりました。
これこそ時代が変わったということをまざまざと見せつけられるもので、現在の社会規範からすればこれはほとんどポルノか犯罪にも匹敵するものでした。

それは「都道府県別 全国ピアニスト・ピアノ教育者名鑑」なるもので、延々23ページにわたる極小文字にて、全国の2000人近いピアニストと先生の名前(旧姓・本名なども付記されている!)、住所、電話番号、生年月日、出生地、最終学歴、勤務先などがすべて事細かに、包み隠さず掲載されているのには仰天しました。

もちろん中村紘子、園田高広、花房晴美などの有名どころも、考えられるすべてが見事に網羅されており、マロニエ君の直接の恩師も二人がちゃんと掲載されていました。
「時代が違う」とはまさにこのことで、一般人でも個人情報が厳しく制限されている現在からは、考えられない極秘情報が満載でした。移転さえしていなければ、すぐにも電話もできるし、カーナビ入力して自宅を尋ねることも可能なわけです。

こんなことが平然と許されていて、だれもが異常だとも何とも思わなかった時代がひどくなつかしく思われました。
ちなみにこれは昭和59年(1984年)の発行ですから、27年前の刊行物というわけです。

この27年という年月をどう見るかにもよりますが、やはりあまりにも急速な社会の変化が激しすぎたことは間違いないという気がしますし、それだけの変化に順応していくのはひとりの人間としてかなり厳しい事というのが正直なところです。
仮に100年かけて、これぐらい変化をしていくなら、まだいくらか人間が人間らしく、誇りと余裕を持って生きていくことができるだろうと思いますが、なにしろそのテンポが急激すぎるようです。
2011/06/14 Tue. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

不調と好調 

ピアノクラブの懇親会の席上、急に声が出なくなって一日以上が経過しました。
数時間経てば治ることを期待したもののそれはなく、では、一晩寝れば治っていることを大いに念じて、朝、目が醒めたときにまっ先に声を出してみたものの、ほとんど回復の跡のないことにがっかりしました。

声が出ないというのは、やはり一大事で、もうそれだけですっかりエネルギーが奪い取られてたようで、日曜はなにもする気が起きませんでした。
ひたすら喉の回復を願いつつ安静にしていましたが、夜になってほんの少し良くなったような気がするものの、基本的に大差はありませんでした。
強いて言うなら95%ぐらい失われていた声が、90%ぐらいに戻った程度の回復です。

今度の土曜日、知人にパークゴルフとかいうものに誘っていただいたものの、まずは声を取り戻さないことには気分的にもなにもできそうにもありません。パークゴルフとはいかなるものかまったく知りませんが、なんでもパットゴルフともまたちがう遊びのようです。

声以外に不都合はないのでなんとか普通にしてはいるものの、いざ声を出す場面になるとパタッとそれができないのは、我ながらどうにも哀れな気分になり、意気消沈してしまいます。
いつもはかなりの効き目がある花梨の水飴も、今回ばかりは効果が薄く、どうもよほどひどい状況に陥ったのだろうと思われます。

昨日はピアノクラブの人がダンプチェイサーを取りに来られる予定でもあったのですが、折からの強い雨ということも重なって、とりあえず延期させていただくことになり、この点も迷惑をかけてしまいました。

さて、そのダンプチェイサーですが取り付けて3日目を迎えましたが、なるほど昨日のようなかなりの悪天候にもめげず、思いがけなくピアノが元気なことに少しばかり気付いて、急に嬉しくなりました。
別にものすごい大差というわけではないのですが、深い雨の日は、いくら除湿器をつけていてもどことなくピアノも沈んだ感じになるのは避けられませんでしたが、昨日の昼は思いがけずケロッとしている感じがして、やや!これはダンプチェイサーではなかろうかと目を見張ってしまいました。

少なくとも、音が雨天にもかかわらずくっきり晴れているのは、これまでになかったことで、これは明らかな違いといって差し支えないようです。…と、感じますと言ったほうが安全かもしれませんが。
ピアノクラブの人達にもお勧めした手前、効果がないと申し訳ないという気持ちがありましたが、これでひと安心です。

もちろん今後も経過は注意深く監視し続けるつもりです。
尤も、経過というなら当面はノドのほうが先ですが…。
2011/06/13 Mon. 01:54 | trackback: 0 | comment: 0edit

疲労困憊 

昨日はピアノクラブの定例会でした。

このところ新しい方も増えて、以前に較べるとずいぶん大勢の集まりとなりました。
いっぺんにお顔と名前を覚えるのも大変なので、今回は名札を作って各々胸につけてもらうことになりましたが、やはり新しい方が急に増えると、なんとなくこれまでとはまた違った雰囲気になってきたようです。

定例会そのものは15時〜18時でしたが、終了後は徒歩で移動して博多駅エリア内のとある居酒屋での懇親会となりましたが、マロニエ君はここでとんだ状況に陥ってしまいました。
懸念された大雨にはならずに済んだものの、終始天候が悪くムシムシベタベタ、ヤマハの空調も劣悪で、それだけでも苦手だったのですが、懇親会の席についたころから喉の調子がおかしくなり、その症状はみるみる悪化していき、ものの30分ほどで、ほとんど声が出ないまでにかれてしまったのには参りました。

せっかくの懇親会で、新しい方ともいろいろな話ができるチャンスだったのですが、とうてい会話ができる状態ではなく、終わりまでほとんどを押し黙ったまま過ごすという、なんとも辛い状態になりました。
マロニエ君はもともと気管支が弱いのですが、いろんな悪条件が重なったのだろうと思います。

湿度もその一因です。
ふつう湿度といえば低いほうが喉には悪く、高い方がいいというのが一般常識だと思いますが、マロニエ君の場合は逆で、多湿な場合はかなりはっきり呼吸器にダメージが来てしまいます。
病院でそのことを言うと、多湿との因果関係はまず考えられないと医師に言われていますが、やはり本人が言うのだから間違いなく、それから数年経ちますがやはりそういう体質というのは変化がありません。

もう一つはストレスで、よせばいいのに苦手な居酒屋にいったばかりに、その猛烈なやかましさとアルコールの漂う空気の悪さにはどうしても馴染めず、このときばかりはファミレスが天国のように思えたものです。
やはりどんなに努力をしても無理なものは無理だということがわかりました。

さらに思い当たるのは、前夜、明日が定例会だというのにまったく練習もしないで、届いたばかりのダンプチェイサーの取り付けに夕方から没頭していたのですが、これがかなり響いたようです。
ピアノの下というのはどうしても掃除の状態がよくなく、目には見えないホコリなどもかなりあったのだろうと思います。ここで数時間、不自然な姿勢をしたまま必死になって、ああでもないこうでもないと格闘したために、相当無理をしたという自覚がハッキリありました。

ピアノ下は背骨を曲げないといられないところですし、そこで懐中電灯で照らしながら寝たり起きたり頭を打ったり、一度などは無理な姿勢の維持から体の左がひきつってしまい悶絶さえしてしまう有り様でしたが、マロニエ君も性格的にはじめた作業は終わるまで止められないのです。
ピアノの支柱の上面など、普段触れることもない場所には降り積もったホコリなどがあり、おそらく普段からは考えられない量のよろしくないものを吸い込んだと思われ、呼吸器の弱い自分としては自己管理という点で、甚だ不手際だったと反省しています。

我が家には2台ピアノがあり、サイズが大きいほうには二つ必要ということで、合計3台取り付けることになり、これを一気にやったものだから、結果的にそうとう無理をしてしまったようです。
しかもさっそくスイッチを入れたところ、ほどなくすると猛烈に気分が悪くなって体調が悪化し、おかげでろくに眠ることもできませんでした。

これ、たぶんハウスシック症候群みたいなもので、大型電気店にいくとわりにこれと同じような不快感に見舞われます。
友人の見解によると、電気製品に使われる科学的な素材や塗料や接着剤が、スイッチが入って加熱されることで、あたりにその害を撒き散らすとのことでした。ダンプチェイサーはそれ自体がヒーターなので発熱するのは当然というわけです。
この点は、一日経つとずいぶんマシになりましたので、この現象ははじめだけだろうと思われます。

それにしても、昨日眼鏡が合わない話を書いたばかりだというのに、マロニエ君的にはさらに苦手なことばかり折り重なってしまったトホホな一日でした。
2011/06/12 Sun. 01:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

車とメガネ 

車を12ヶ月点検に出したので、一晩代車に乗ることになりました。
代車で届けられたのはスズキのスプラッシュというコンパクトカーで、これはたしかハンガリーかどこかで生産されている車ですが、基本的にはよくできているものの、マロニエ君はあまり好きではありませんでした。

マロニエ君は実はオートバイ出身で、昔はかなりスポーツカーにも乗ったせいか、タコメーターがないというのはどうにも落ち着かないというか、それだけで車そのものまで信用できなくなります。

その点は割り切るとしても、いちばん辛いのは、スピードが出ると車全体がドラミングという風切り音の大親分みたいな音に包まれて、それが脳天に達するもので、まずこれですっかり疲れてしまいました。

このドラミングというのは経験的にワゴンやハッチバックタイプのボディ形状の車にしばしばあることで、かのメルセデス・ベンツでさえ、ワゴンタイプにこの現象がはっきり感じられる場合があります。
また、一般的なセダンでも後ろの窓だけを開けて走ったりすると、車内への風の巻き込み具合でやはりドラミングが起こり、バタバタとまさに怒濤のような音と圧迫感が脳天に押し寄せます。

窓を開けたときに出るドラミングならば窓を閉めれば済むことですが、ボディの構造自体から出てくる場合は解決のしようがないので、新しく車を買う場合などはこの点をよほどチェックしておかないと、これが嫌な人は乗るたびに不快感に襲われて、せっかく高いお金を出して買った車が台無しになるでしょう。

もうひとつ疲れた原因は、点検に出した車の中にうっかり運転時に使うメガネを入れっぱなしにしていたのですが、夜はメガネなしでは危なくて運転できないので、やむを得ず古いほうのメガネを使ったのはいいのですが、これが要するに、もう自分には合わなくなっていたようでした。

実はスーパーに買い物に行ったのですが、運転中はそうでもなかったのに、車を降りて店内を歩いていると「あれっ??」という感じで頭がフラフラしはじめて、直感的にメガネのせいだとわかったのですが、まあそのうち治るだろうぐらいに軽く考えていました。
ところが一向に治る気配はなく、店を出るころには普通に歩くのさえ辛いほど気分が悪くなりました。
少しでも頭を動かすと目を中心として体がグラグラするようで、これはまずいと思いましたが出先ではどうすることもできません。

もう一ヶ所、どうしても寄らなくちゃいけないところがあって、メガネなしで運転しようかと試みましたが、やはり夜はそうもいきません。だいいち借り物の車で事故でも起こそうものなら大変ですから、やはりメガネをかけて慎重に走りました。

ようやく自宅に辿り着いたときには全身がぐったりと疲れてしまい、ひじょうに気分が悪かったのですが、ともかく無事に帰ってきたことを良しとしました。
古いメガネはスペアーぐらいのつもりで、二つ持っている認識でしたが、もはやこれは使えないということが身をもってわかったという次第でしたし、車もはやく自分の使い慣れた車が戻ってきてくるのが待ち遠しくなりました。

ほんのわずかなことが人に与える影響というのは想像以上に大きいもので、平穏というものは実に微妙なバランスの上に立っているということをしみじみ経験してしまったというわけです。
もちろん、世の中にはそんなこと全然なんともないタフな人もいらっしゃるでしょうけれども。
2011/06/11 Sat. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

椅子の高さ 

ピアノ弾きにとって、椅子の高さは演奏の質(とりわけ音色の)に反比例するという事実があるように思います。

他日、ブレンデルの異様なまでの椅子の高さが好きではないと書きましたが、だいたい椅子の高い人は、たとえ高尚な音楽を作り出す巨匠にしても、少なくともピアノから艶やかな美音を鳴らす人はまずありません。

ヴィルトゥオーソの中で思い出されるのはピアノの巨人と謳われたリヒテルです。
彼もあのガッチリとした体躯からすれば、不当に高い椅子で演奏します。
よくピアノを弾いていた頃のアシュケナージも小柄ではあるけれど、それを考慮しても椅子はえらく高かったと思います。

椅子の高い人は、どうしても肘が高くなり上から叩きつけるタッチになり、さらには上半身の重心も加勢して、非常に鋭角的な音になってしまいます。
これに対して椅子の低い人は、手首が低く、深みのある肉付きのある音を鳴らします。
体重がかかるにしても腕や手首がサスペンションの役目をして、いったんそこに溜められたエネルギーが柔軟に適宜分散されて丁寧なタッチに繋がるので、とても深く鳴るのですが、椅子が高いと肩・腕・肘などは硬直したハンマーに近い働きをしているような気がします。

現代の若いピアニストは、だいたい整体学的に正しいフォームやタッチを前提に育ってきているので、極端に椅子が高いとか、音が汚いというようなことはあまりないのですが、同時に昔のピアニストが持っていたような生々しい情熱、音楽の迫真力、ここぞという時の炸裂するフォルテなどがほとんど見受けられなくなり、誰を見てもそこそこバランスが良い優等生にしか見えないのは大変つまらない、残念なことだと思います。

高い椅子の最右翼は中村紘子女史で、彼女はコンサートでもいわゆる黒い革張りのコンサートベンチは使わず、幼児から大人まで幅広く使われる、背もたれ付きのトムソン椅子で必ず演奏します。
紘子女史はこれを極限まで高く上げて、座るというよりは、ほとんどお尻は椅子の前端に引っかかっているだけという、まるでコントラバスの奏者顔負けの半分立っているような姿勢で弾いていますね。

紘子女史のような自意識の強い人が、見た目にも美しいコンサートベンチを敢えて使わないのは、コンサートベンチは基本的に大人のプロ用というか、少なくとも子供サイズを想定していないために高くするにも限界があり、したがってあのお稽古でよく見る椅子を使っているのだと思います。

彼女が「題名のない音楽会」で若い人にラフマニノフの第2コンチェルトをレッスンしたことがあったのですが、彼女のアドバイスによると、この曲をオーケストラと格闘して表現するには、もっと椅子を高くして、指を立てて上から弾かなくてはいけない、今のアナタの弾き方ではただお上手でございますわねオホホホホで終わってしまうわよ…などと、思いがけず彼女の本音らしきことが聞けて、おまけに実演までしてくれたのは思わず苦笑させられました。

逆にグールドも顔負けなほど椅子が低いのは、スティーヴン・コワセヴィッチで、あきらかに普通のコンサートベンチの足を切っている、もしくは特注で、おそらくは紘子女史の半分ぐらいの高さしかないようで、これはこれで奇妙です。
鍵盤の高さはすべて同じなのに、まさにスタイルはそれぞれというわけですね。
2011/06/09 Thu. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

驚きの保証 

マロニエ君自身が、ピアノに負けず劣らず湿度に弱いことは事ある毎に書いている通りです。
先日も知人3人で出かけ、目的地に到着後は総勢5人となりましたが、車の中も行き先でも、とにかく湿度が高くて気分はヘロヘロになっているのに、他の人はケロリとしているのは自分がひどく特種な気がしてしまいました。

車の中でも、どうやらエアコンのスイッチの実権を握るオーナーの問題は温度だけらしく、この日はわりに涼しかったばっかりにエアコンもOFFになってしまい、人の車に乗せてもらってあれこれ注文も付けきれず、じっとガマンで疲れました。
マロニエ君はとにかく暑いのと湿度がダメで、多湿な状態は苦手で疲れるだけでなく、どうかすると呼吸まで苦しくなるという肉体的苦痛まで発生することもあるのです。

そんなマロニエ君ですから、我が家の、とりわけ自室のエアコンはいわば命綱ともいえるものです。

今年もすでにエアコンのスイッチを入れる時期になりましたが、肝心のエアコンがまったく効かないわけではないものの、いまひとつパッとしません。はじめの1〜2週間というもの、なんだかおかしいと思いつつ様子をみていましたが、ついにやはりこれは正常ではないということに結論づいて、2週間ほど前にメーカーに修理依頼の申し込みをしました。

実はこのエアコン、機械モノのアタリハズレでいうとハズレの部類で、これまでにも何度か修理に来てもらっています。
そのたびに安くもない修理代を請求されていて、信頼性抜群のはずの日本製品も、あんまり大したこと無いじゃん!という気がしています。

さて、出張修理の当日、もうあと15分ほどで約束の時間というときになって、昨年テレビを買い換えた折にヤマダ電気の安心保証というのに加入していたことをふっと思い出しました。
逆にいうと、その瞬間まではこんなものに入っていることは、まったく思いつきもしませんでした。

それというのも、このエアコンはヤマダ電気で買ったものではないので連想としても結びつかなかったわけですが、この保証システムは従来の常識を覆すもので、たとえ他店で買った電気製品であっても長期間にわたって保証を適用できるという信じられないものでした。ようやくこれに加入していたことを思い出しました。

あわててヤマダ電気に電話してみると、修理受付の専用電話を教えられ、そこにかけるとマロニエ君の登録データがあることから、今日の出張修理も急遽この安心保証の扱いにしてくれることになり、とりあえずひと安心。

果たして、件のエアコンはかなり深刻な故障の由で、どうやらコンプレッサーというエアコンの根幹部分で最も高価な部分がダメになりかけているようで、これを交換するには10万近くかかるので、買い換えたほうが良いという話でした。
すかさずこの保証のことを告げると、買い換えの話は修理へと急転回し、そのおかげで料金の心配をせずに修理できるようになりました。

この日だけでもセンサーだの基盤だのと、これまでなかったような結構な部品交換をしましたから、これだけでもかなりの金額になるはずですが、メーカーの人は何も請求することもなく、ただどこかと電話連絡するのみで、サッと帰っていきました。
追っつけコンプレッサーの部品手配もするとのことですから、こっちは嬉しい前に唖然呆然です。

こんな状況を保証なしに聞かされていたら、この大事な時期を前に真っ青になっているところでしたから、これはもういっぺんに元を取ったどころではない展開になりました。
そして今日、ついに注文されたコンプレッサーが届いたとのことで交換が行われ、開始から実に3時間半の大修理となりました。
今回の修理だけで9万3千円という請求額だそうですが、それがなんと1円も出さずにすみましたし、メーカーの人からもこの保証に入っておかれてよかったですねぇ、としみじみ言われてしまいましたが、まったくその通りでした。

さすがのマロニエ君も、今度なにか電気製品を買うときは、これは義理にもヤマダ電気で必ず買わなくちゃいけないと思うようになりました。
それにしても本当に驚きました。
2011/06/08 Wed. 01:47 | trackback: 0 | comment: 0edit

 

知人達との食事を兼ねて、初めて新しい博多駅で数時間を過ごしました。

今回は阪急百貨店には行きませんでしたので、おもに東急ハンズを含むアミュプラザ博多周辺の印象になりますが、やはり話題のわりにはマロニエ君の好みではありませんでした。
全体に感じたことですが東急ハンズなどは、いわゆる低価格競争ではない路線を行っているぞといわんばかりの感じですが、本当にいいものというわけでもないのに、ちょっと上であるかのようなイメージ戦略のようで、却って中途半端だと思いました。

上階で食事もしましたが、さらにこの傾向は強まり、まことに思い切りの悪い中流志向の雰囲気だと思います。
値段はそこそこで、うっかり入れないような価格の店が何軒もあるかと思うと、ずいぶんくだけたものもあり、ようするになんの道筋も通っていないバラバラな印象です。
全体の雰囲気も、今どきの新しめセンスでまとめられてはいるものの、じゃあ本当の高級な空間かといえばまったくそうではないし、ここのコンセプトに見え隠れするものは、やってくる田舎の人達を相手に、博多の新スポットという上から目線の雰囲気を浴びせかけながら、ちょっと高いものを売りつけてやろうという魂胆が感じられて、ちょっと賛成しかねるものがありました。

東急ハンズもそれほど熱心に見たわけではありませんが、基本は概ね大衆品なのに、一般的平均よりちょっとお高いほうぐらいのものを集めて、ただ明るくきれいにディスプレイされているだけで、いかにも表面的でほとんど興味をそそられませんでした。
あれなら潔くホームセンターに行ったほうがよっぽど爽快ですし、あんな中からちょこっと何か買っていい気分になっている人がいるとすれば、それがまさに店側が狙っている客層ということでしょう。

もちろん全部すべてを否定するものではありませんし、中にはそれなりのものもあるはずだとは思います。
しかし全体を覆っている、中核をなす精神は、まさに今述べたようなもので貫かれており、却ってどこか貧乏くさい気分になっていまいます。

こう言っちゃなんですが、もともとマロニエ君は駅というものが好きではありません。
これは交通拠点としての駅ではなく、そこに相乗りした商業エリアとしての意味です。

駅はそもそも人がゆっくり寛いだり遊びに行くような場所ではなく、列車やバスの乗り降りという人や物の移動のための交通施設であって、せわしない、強いて言うと柄の悪いところだというのがマロニエ君の基本認識です。
周辺には飲み屋などがひしめき、駅そのものも何かの雰囲気を楽しんだり文化の香りのするところではなく、所詮は日がな一日人が行き交い、その無数の人達の土足で情け容赦なく踏みつけられる機能重視の場所、それが駅だと思うのです。

駅というのがそもそもそんなところなので、そこにどんなに現代的な、オシャレな、きれいな商業エリアを作ってみたところで、悲しいかな根底にざらついたものを感じてしまいます。
騒々しく、人の波が交錯するような場所で、どんなに高級店に入って食事をしてみても、存在している場所そのものがすでに駅なんだし、お店も一稼ぎしたくて話題のエリアに出店しているまでで、所詮はまやかしだと思います。
すぐ傍では、ひっきりなしに列車が発着し、それをめがけてバスやタクシーが際限もなく往来する、家でいえば駅は書斎でも応接室でも座敷でもない、所詮は下駄箱のある玄関にすぎません。

どんなに粉飾しようとも、それが駅である以上、そんな土足で踏み荒らす実用第一の場所だという事実は拭い去ることはできません。

マロニエ君はむかし横浜に住んだこともありますが、当時の横浜も商業的中心と横浜駅は二つがひとつで、とても落ち着きのない文化性の低い、ガサガサした騒がしいだけの印象がありましたが、新しい博多駅に行くと、ついそういう記憶が蘇ってくるようでした。
交通手段として博多駅を利用する人は別ですが、遊びに行くのは…1~2回行けばじゅうぶんです。
どんなにきれいなものを上に作って覆い被せても、駅というものの根底に流れる、粗っぽく侘びしい空気は変えられない気がします。
2011/06/06 Mon. 01:54 | trackback: 0 | comment: 0edit

決断の勝利 

海外からピアノを買った知人の部屋に、ピアノ拝見でお邪魔しました。

彼はこのピアノ購入を決断したために、連動してグランドピアノが置ける部屋探しまでする事になりました。
「グランド可」の物件は多くはなく、これだというものに出会うにはそれなりに時間がかかったようですが、ようやくにしてその条件を満たす物件が見つかり、まず先に人間が引っ越しをして、そこへ防音シートなど準備万端整えた後にピアノの搬入となったようです。

思ったよりも部屋数の多い広々とした住まいでしたが、その一室にスタインウェイのグランドがスラリとした足を垂直に伸ばして端然と置かれています。
このピアノは製造からわずか10年ほどしか経っていない上に、むこうではギャラリーのようなところに置かれていたらしく、あまり弾かれた様子もない感じでした。内外共に非常にきれいで若々しく、人間でいうならせいぜい小中学生ぐらいのピアノという印象です。
きちんと管理して、途中で大修理をおこなえば100年は楽にもつといわれるスタインウェイですから、まさに一生モノというわけです。
このピアノはニューヨーク製のスタインウェイですが、ドイツのスタインウェイにはないヘアーライン仕上げというラッカーの艶消し塗装の上に、細い擦り線が入るように半艶出し仕上げされたもので、これはこれでなかなかの風合いがありました。

折しもこの円高の時期とも重なり、彼はとても良い買い物ができたようです。
本来なら、ピアノはできるだけたくさん弾いて、自分の納得のいく一台を探して買うというのが、ピアノ購入の常識というか、いわば正攻法のやり方です。
しかし、関東圏や浜松周辺にでも住んでいればそれも可能でしょうが、それ以外のエリアに居住する者にしてみれば、それは現実的にたやすいことではありません。精力的に見て回る意気込みはあっても、尋ねるべき店のほうがそれほどないからです。

そうなると、イレギュラーな手段ではありますが、信頼できる技術者の導きによってひとっ飛びに海外からいいものを割安に輸入するというのも、いささか大胆かつリスキーではありますが、ひとつの方法だと言えそうです。
もちろん、これは誰にでもおすすめできる方法とは言いませんし、ある程度の決断力と度胸と、結果に対しても一定の覚悟を持てるような人でなくてはなりません。
あとは仲介者を信じて、届いたものに対しては寛大な気持ちでそれを受け容れ、技術者と共に楽器を育てていくぐらいの気構えがあれば大丈夫だと思いますが。

今回はマロニエ君の見るところでは大成功で、望外の価格(それでも大金ですが)で希望するピアノを手に入れることができて、いまや彼は電子ピアノとスタインウェイを使い分けながら、質の高いピアノライフを満喫しているようです。

もう一人は、マロニエ君は直接会ったことはありませんが、ネットで知り合った人で、フランスからプレイエルの修復済みのグランドを、これもまたある技術者を通じて、自分は現地に行かず情報だけで手に入れたようですが、結果的には思った以上の美しいピアノが届いて大変満足しているようでした。

というわけで、何度も言いますが、ピアノは本来は必ず自分で弾いてみて、タッチや音などをよく確認・納得して買うものですけれども、中にはこんな禁じ手のごとき思い切った方法も、あるにはある…ということです。

マロニエ君にいわせれば、いささか暴論かもしれませんけれども、はじめに確かな物さえ手に入れておけば、あとは信頼できる技術者の手に委ねれば、ピアノはだいたい満足のいくような状態になるものだと思います。
良いピアノほどいろんな可能性をもっているもので、それを自分に合ったものに仕上げていけばいいのですが、もちろんそれでもピアノがもって生まれた基本は変えられませんから、基本の部分が気に入らなければ打つ手はありませんが。

ただ、逆にいうと、あれこれこだわったつもりで、気に入ったピアノを納得して買った人(中にはわざわざ浜松まで選定に行ったなんて自慢する人もいますが)でも、購入後の管理ときたらかなり好い加減で、せいぜいたまに調律をするぐらいが関の山みたいなケースが多いのも事実で、こうなると、はじめの輝きは早々に失われてしまい、結局半分眠ったような平凡なピアノになってしまうだけです。

それにしてもピアノを買うというのは、今どき、そうはないようなロマンティックなことですね。
2011/06/05 Sun. 01:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

トリフォノフ優勝 

先月はルービンシュタイン・コンクールがイスラエルで行われて、すでに終了したようです。

優勝はロシアのダニール・トリフォノフ(昨年のショパンコンクールでは第3位)。
この人の演奏は、日本公演の様子などからマロニエ君はどうにも馴染めず、とくに演奏姿勢が背中を猫のように丸めたなんとも異様な感じで抵抗感を覚えましたが、ネットのある書き込みでは彼のことをヘンタイ、ヘンタイと連呼しているのが笑えました。
やはりみんな似たようなことを感じているもんだと思えて、とりあえず安心しました。
ピアニストにとって演奏する姿というのも、それなりに大事な要素だと思います。
一昨年のクライバーンコンクール、昨年のショパンコンクールでも話題となったボジャノフなども、その演奏の良否はさておいても、演奏時のあまりに特徴的なペルソナというか、要するに見た感じの誇大な顔の表情とか仕草があまりに強烈で、やはり人に与えるマイナスイメージは小さくはないと思われます。
もちろんピアニストの本分は優れた演奏ですから、別に外見をカッコつける必要はありませんが、やはりその姿が美しい方が好ましいし、最低でもその演奏に対するマイナス要因になるような弾き方は、できるだけないほうがいいと思います。

その点でいうと、マロニエ君はブレンデルなどもその音楽には一定の敬意を払いつつ、演奏する姿を見るのは大嫌いでした。
あれだけの長身にもかかわらず小柄な女性のように椅子を目一杯上げて、小刻みに頭をフリながらピアノを弾く姿はどうにも不快で、とくに床から頭までの尋常ではない長さと高さなどは視覚的ストレスを覚えてしまいます。

その点でグールドなどは正反対で、椅子の足をのこぎりで切るほど着座位置が低く、彼は終生自分専用の変テコな椅子を愛用しているのは有名でしたが、そのグールドの演奏の様子はとても変わってはいるけれども、どこにも神経に障るものは皆無でした。それどころか、ただただあの信じがたいような芸術的演奏の様子として感銘を受けるばかりで、そこには独特の美しさが宿っていたとマロニエ君は思います。

昔の飛行機のパイロット仲間で言われていたことだそうですが、見た目に美しい飛行機というのはだいたい操縦もしやすく、バランスも性能もいいのだそうで、やはりピアニストもどのような姿のものであれ、それが結局美しくサマになっている人は演奏も素晴らしいのだろうと思います。
そういえば、最近のピアニストはだれもみな指運動の平均点は高いようですが、その「美しさ」のある人というのがあまりいなくて、なにかしらのストレスを感じさせる人が多い(と感じる)のは大変残念なことです。

優勝したトリフォノフは昨年のショパンコンクールではファツィオリを弾いた数少ないピアニストの一人でしたが、今回のルービンシュタインコンクールで使われたピアノはスタインウェイとカワイの2社だったようで、彼は今回スタインウェイを弾いていました。
日本人の最高位は6位の福間洸太郎氏で、彼はカワイを弾いての入賞だったようです。
このコンクールでのカワイはSK-EXではなく、普通のEXであったことが意外ですが、その理由などはわかりません。
しかし、マロニエ君は自分の知る限りにおいては、普通のEXのほうに今のところは好感を持っています。

客席側に見えるサイドの「KAWAI」ロゴは、以前の大仰な飾り文字から通常の書体になっていますが、これはこれであまり色気がありませんでした。

6月はいよいよチャイコフスキーコンクールとなりますから、コンテスタントも忙しいですね。
2011/06/04 Sat. 02:28 | trackback: 0 | comment: 0edit

さすがは大国 

昔ほどではないにせよ、さすがにアメリカは大国だなあと感嘆させられることはいろいろあるもので、ピアノを取り巻く環境もちろんその一つです。
そして、それを証明するかのように「PIANO BUYER」というピアノ専門の雑誌まであるのです。

日本でピアノ関連の雑誌といえば、ショパンやムジカノーヴァのような演奏家やコンサート、あるいはレッスン関連のものしかありませんが、この「PIANO BUYER」は楽器としてのピアノ雑誌で、いってみれば車の雑誌みたいなものです。

これ、以前からその存在は知っていたので見てみたいとは思いつつ、たかだか雑誌一冊を海外から個人輸入するのもどうかと思い、手を出せないでいたのですが、このところアマゾンでいくつか本を買ったのを機に、もしかしたらアマゾンで取り扱っていないものかと思って検索してみると、なんのことはない、この「PIANO BUYER」があっけなく出てきたので、さっそく購入してみました。

価格はほぼアメリカの定価ぐらいで、一週間ほどで届きました。

サイズは音楽の友あたりと同じで、300頁に迫るカラーの美しい雑誌は手にもズッシリくる立派なもので、なかなか見応えがあります。
SPRING 2011とあるので、どうやら季刊誌のようですが、こんなものが雑誌として成り立っていくということ自体、アメリカの豊かな社会の層の厚さを感じさせられる思いです。

とくに前半は美しい広告など写真も多く、それなりに楽しめるものでした。

また、おおよそはネットなどでわかっていたことですが、アメリカには実にたくさんのピアノ店があり、そのショップ関係の広告もたくさん出ています。
もちろん新品を中心に扱っているところもありますが、どうしても心惹かれるのはレストアから販売まで幅広く手がけている店です。その数もかなり多く、さらに驚くべきは、ホームページを見てみるとどの店も在庫数などが日本のピアノ店とは桁違いで、潜在的な市場規模がまるで違うことをまざまざと見せつけられるようです。
さらに日本と大きく異なるのが、グランドが圧倒的に主流という点でしょうか。

これはひとえにアメリカという消費社会の伝統と、これまたまるきりサイズの違うおおらかな住宅事情がその背景にあるものと思われます。
日本では自宅にグランドピアノを置くということは、部屋をひとつピアノで専有するぐらいの覚悟が要るものですが、アメリカの住宅では、広いリビングのようなところに、ピアノは適当にポンとおかれており、それでも四方に広大な空間が広がっているようで、何型なら入るの入らないのと必死になっているわれわれ日本人の標準が急に情けなくなってくるようです。

しかし、本来はこれぐらいのスペースであることがピアノを置く自然な環境なのだろうか…とも思わせられます。
同時に、なにかにつけ日本人のチマチマとした民族性のルーツは、もとを辿れば要するに窮屈極まる制約ずくめの住宅事情にあるのではないかとさえ思えてくるようです。

話が逸れましたが、「PIANO BUYER」を見るとアメリカにはヨーロッパからも実に様々なピアノが輸入されていることがわかり、その多様性にも目を見張らされるものがあります。
これを反映して、後半の1/3は各社のピアノの価格表になっており、それを見ているだけでも飽きませんが、どうやらディアパソンやプレイエルなどは正規のルートとしてはアメリカには輸入されていないようです。

今は日本の産業界にとって最大の悩みの種であるほどの円高ですから、航空券は安いし、アメリカに行って気に入ったピアノを買ってくる手間暇を惜しまない人なら、価値あるヴィンテージピアノなどが割安な価格で買えそうです。
ああ…死ぬまでに一度そんなことをやってみたいものです。
2011/06/02 Thu. 01:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

まくら 

マロニエ君にとって、どうしてもしっくりくるモノと巡り会えないものがあるのですが、それは枕です。

これまでに一体どれだけの数の枕を買ってみてはダメで、そのつど返品したり、そのままクッション代わりにしたりしたことか。いまでも物置には使わなかった新品の枕がいくつか転がっています。

現在使っているのは、とくにどうということもない物で、いつどこで買ったのかさえ思い出せないようなものですが、これが不思議に一番落ち着いていいのです。
しかし、なにぶんにも使用期間が長いので、そろそろ新しくしたいと思い始めて早、何年経つことやら。

つい先日もあるお店で、良さそうな枕があって、だいぶ時間をかけて眺めてはくどくどと触ってみたのですが、馬鹿みたいな話ですが、マロニエ君は枕を買うことが一種の恐怖症になってしまっていて、とうとう決断がつかずにこの時は買わずに帰りました。
しかし、やっぱりその枕のことが気になり、後日やはり買いに行きました。

そして、また同じことが始まりました。
家に持ち帰って、ビニールのケースに入ったまま、とりあえずベッドに置いてみるまでがドキドキです。

とりあえず横になった感じでは良さそうな気がしますが、結果はすぐには出ないのです。
5分、10分と時間が経つにしたがって、じりじりと真実が浮かび上がってきます。

その結果、少し固すぎることと、枕そのものが大きすぎることで、これもまたしっくりこないことがわかりました。
なぜかわかりませんが、売り場で手に取ってみるだけでは、これだけのこともわからないのです。
中は開けていませんので、やはりまた返品することに決定です。

こうなることは充分に予期しているので、レシートなどもむろんバッチリ取ってあるので、この点は問題なく返品できました。

マロニエ君にとって枕で大事なことのひとつは、高さと固さだと思います。
羽根枕のような腰のない柔らかさはダメで、だからといってそば枕のあの重くてジャリジャリした感じもイヤ。
もっとダメなのは最近流行の低反発素材を使ったもので、あのねちゃっとした頭や顔にまとわりつく感触はゾッとします。しかも熱がこもって暑いこと。

さらにここ数年出てきた、小さなパイプの破片のようなものを詰め込んだ枕も、その破片の感触が伝わって気に障って仕方ありません。

最近はオーダー枕とか専門店みたいなところがあるので、そこに行ってみようかとは前々から思っているのですが、なんだかそれもイマイチ信用できない気がすして行く勇気がありません。
中にはずいぶん高額なものもあるので、そのあたりになると物が違うのかもしれませんが、たかが枕(もはや「たかが」とは言えないのですが)に何万円も出すのもちょっと踏ん切りがつきません。

できたら1万円前後ぐらいでしっくりくるものが見つかればいいと思うこと自体が虫がいいのかと思ってしまいます…。
理想の枕を求める長い旅路は、まだまだ続きそうです。
2011/06/01 Wed. 01:56 | trackback: 0 | comment: 0edit