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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ダンプチェイサー2 

技術者をして「ピアノを湿度から守る一大発明」といわしめるダンプチェイサーですが、先日、ある工房で実物の取付例を見てきました。

アップライトは以前書いたように下部のパネルを開けた位置に取り付けますが、グランドは支柱の下(犬でいうと前後の足の間のお腹の部分で、前足寄りのところ)に鍵盤と平行方向に取り付けるのが基本のようですが、この工房ではまたちょっと違った工夫がされていました。

ここにあるグランドはセミコンサイズなので奥行きがあり、響板が奥に長いため、出来るだけ全体に効果があるようにとダンプチェイサーは右前(高音側)から左奥(低音側)に伸びるよう、斜めに角度を付けて取り付けられていました。
さらにこの工房での工夫としては、本来よりもダンプチェイサー本体の位置を下に離して取り付けてあり、見たところでは支柱から約10センチぐらい下に平行にぶら下がるように設置されていました。

こうすることで、ダンプチェイサーの効果が少しでも響板全体に広がるようにとの配慮だそうです。

ダンプチェイサーの本体は、一見するとなんの変哲もないただの金属の棒で、長さは1メートル20〜50センチ、太さは人の指ぐらいしかない至ってシンプルな構造です。
片方から電源コードが伸びておりそれをコンセントに繋いでいるだけで、別に制御用のセンサーがあり、これが湿度を感知して自動的にスイッチが入ったり切れたりするというもののようです。

スイッチを入れて30分もした頃、ダンプチェイサーを恐る恐る触ってみると、心配するようなアッチッチというようなものじゃなく、ほんのりやわらかく暖まっているだけで、なるほどこれならばピアノへの悪影響はないだろうと推察できました。

ちなみにダンプチェイサーはアメリカ製で湿度が47%で制御されるのに対して、同様のシステムで日本製の商品にはドライエルというのがあるようです。こちらは設定が65%で、いずれも数値は固定で任意の設定はできないらしいので、どちらにするかは判断のしどころでしょう。

ネットに出ている装着図によると、グランドの場合は前後に2台取り付けるのが正式な装着方法のようですが、実際のところはどうなんでしょう。単純に1台より2台のほうが余裕があっていいだろうとは思いますが。
ちなみにグランド用は、後ろ側用として短めのものがあり、二つで1セットのようです。
短いほうは後ろ足の前ぐらいにとりつけるようですが、そこまでしないで前の一本で済ませる人も多いとか。

消費電力は長いほうが25Wで、ひと月フル稼働したとしても電気代は270円で、現実的には200円程度だそうですから、これは除湿器を回しっぱなしにするよりはるかに経済的でもあるようです。
ちなみに後ろ用は本体が短いためか15Wで、前後合わせて40Wとなりますが、それでも実質的な電気代は300円/月ほどだろうと想像されます。
ちなみに一般的な除湿器をフル稼働させていると、電気代は3000〜5000円かかるというのですから、ワンシーズンで軽々元を取るようです。

取り付けも技術者に頼まないといけないものかと思っていましたが、見たところでは、自分でもじゅうぶんできそうな感じでした。
ネットではすでに「品切れ」となっているところもあるので、やはりこの時期は売れているんだなあと、つい焦ってしまいます。
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2011/05/31 Tue. 01:52 | trackback: 0 | comment: 0edit

ル・サージュとブラレイ 

二人のフランス人ピアニスト、エリック・ル・サージュとフランク・ブラレイによるモーツァルトの2台と4手のためのピアノソナタ集を少し前にCDで購入していたので、何度か繰り返して聴いてみました。

二人とも今が旬とも言うべき共に40代で、ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポンの常連でもあるようです。

このCDで注目すべきは、120年以上前のピアノ、1874年/1877年のスタインウェイを使っているという点で、これはブラレイのこだわりによるものだとか。

現在のスタインウェイとは大いに違って、ひじょうにまろやかな音色が特徴ですが、さりとてフォルテピアノのような古くさいというような音ではなく、いまさらのようにピアノは一世紀以上もの間ほとんど進歩していないと思わせらます。
尤もそれをいうなら、ヴァイオリンなど300年ですから、いずれの楽器も基本的にはもはや完成され尽くして、ほとんど改良の余地がないのは間違いないようです。

とはいえ、スタインウェイとしてはこの時期の楽器は、まだまだ過渡期にあるもので、決して完成されたものではありませんが、それでも野暮ったさのない、美しい華のある音を聴かせる点ではさすがです。

それでいて、いつも感じることですが、古い楽器の音色というのはなんと心地よく耳に疲れないものかと思います。

集中して聴けば、発生した音が減衰する際に、ゆらゆらとゆらめく点などがいかにも昔の楽器といえばいえるでしょうが、新しいニューヨークスタインウェイなどはいまだに若干この特性を残しているので、こういう点でもニューヨーク製のほうに本源的なピアノの要素を見出して好む人も多いようです。

ここで使われたピアノは2台ともクリス・マーヌというピアノ蒐集家の持ち物で、この収録のために貸し出されたものだそうですが、これと同じ型のスタインウェイが、実は福岡市博多区のステーキ屋に置いてあるのをふと思い出しました。

ずいぶん前に見に行ったことがありますが、さりげなく19世紀のスタインウェイのコンサートグランドが、ステーキレストランの一角にポンと置いてあるのは、なんとも不思議な光景でした。
ステーキといえば油がつきものですが、ちょっと大丈夫だろうかという気になってしまいましたが…。

CDを話を戻すと、演奏そのものはいかにも爽快ではあるけれど、やや落ち着きのないところが散見されるのは、このフランスの実力派二人にしてはいささか残念な点だと思いました。
モーツァルトは基軸のブレがあるとたちまち歪んでしまう油断の出来ない音楽なので、この点はプロでもよくよく留意してほしいものです。

信じがたいほど多作なわりには、たった1曲しかないモーツァルトの2台のピアのためのソナタ(KV448)は、一昔前は「頭が良くなる音楽」ということで受験生などがこれを聴くのが流行りましたし、最近では例の「のだめカンタービレ」でのだめと千秋先輩が一緒に弾く曲としてすっかり有名になったようですね。

互いに同一の音型を次々にやりとりするところなどは2台のピアノならではの聴き(弾き)どころで、まったく対等の二人が織りなすめくるめく音楽は連弾には望み得ないもので、まさに左右に飛び交うテニスボールのようです。
2011/05/30 Mon. 02:16 | trackback: 0 | comment: 0edit

感覚の問題 

「感覚」というのは一般的な常識の枠組みより遙かに細やかな、微妙なニュアンスの領域の問題ですが、これを共有できる人は昔にくらべると激減していることがひしひしと感じられるこの頃ですし、だからこそ通じ合える人の存在は昔以上に貴重でありがたい気がします。

それは物事に対しての善悪の問題ではなく、固い言葉でいうと道義とかけじめ、さらには好みや抵抗感の有無などの世界であって、いってみれば人が生きてきた長い年月の中で知らず知らずの間に出来上がった、とらえどころのない尺度、あるいは価値観の集積のような気がします。

単純な善悪の問題ではないからこそ、大事な事ってあるものです。

たとえばですが、どうも最近は文化という便利な名のもとに、ナンセンスとしかいいようのない非常に自己満足的なイベントなどが次々に立ち上がっているようですが、これにどう反応するかもポイントのひとつになります。

具体的にいうと、最近目につくのが日本のお寺(もちろん仏教の)です。
ここを会場にして、仏事ではない様々なイベントをやるのが目白押しで、今年だったと思いますが、博多の由緒ある名刹(日本最古の禅寺といわれます)で、なんとTVタレントの華道家がさまざまに飾り付けた生け花のイベントをやっていたようですし、つい先日手にしたコンサートのチラシにも、これもまたたいへん由緒のある曹洞宗のお寺の本堂でヴァイオリンとピアノによるコンサートが行われるといいます。さらにある日の新聞には空海創建ともいわれる、これもまた由緒ある博多のお寺に五重塔が完成したことを記念して、寺内でファッションショー!などが開かれたといいます。

コラボなどという言葉が使われはじめて、その便利な言葉を仲介にして、このような、ある種グロテスクな催しが全国的にも雨後のタケノコのように発生してきているように思います。

こういうことを多くの人はどう感じているかは知りませんが、マロニエ君はごくはじめのころこそおもしろことをやるもんだと思ったことも一瞬ぐらいはありましたが、結局のところ体質的に受け付けられず好きではありません。
たしかに一時期はこういうことが「新しさ」であるかのように勘違いされたのかもしれませんね。

しかしマロニエ君は、お寺の本堂という、正面には仏様がおられて、その前で苛酷な修行を積んできた僧侶の導きのもと、恭しく厳かな仏事を執りおこなうべき場所を、余事で侵すべからざるものだと思いますし、ましてそこにグランドピアノを置いたり、お寺とは不釣り合いなドレスを着てヴァイオリンをキーキーいわせて西洋音楽を演奏するというのは、やっているほうは斬新なつもりでも、どう考えてもしっくりきません。
しかも演奏されるのは大半が普通のクラシックとなると、これらの作品の根底にあるものは例外なくキリスト教の存在なのですから、事の内側に潜む精神的な意味合いを考えると、これは何かが間違っているとしか思えません。

マロニエ君は自他共に認める相当のクラシック音楽好きですから、少々のことなら音楽の味方をするのはやぶさかではありませんが、やはりこの種のイベントは、生理的に馴染めないものがあります。
だったら、キリスト教の礼拝堂で和太鼓の公演などして素晴らしいと思えるかというのと同じことでしょう。
なにかお互いがお互いを汚し合う結果になっているという気がするわけで、ひとことでいうなら違和感と一握りの人達の自己満足だけが残ります。

世の中には、法律にはなくてもやってはならないこと、やるべきではないこと、やらないほうが美しいことがあるものです。そしてそれは各人の人格や学識や教養の部分に下駄をあずけられていることがあるものです。

お寺でコンサートやファッションショーみたいなことをすることが垣根を超えた新しい文化なんて到底思えませんし、そういうものに対してどうしようもなく違和感を感じてしまう部分、そこがまさに「文化」だと思いますし、文化とはもとを辿ればきわめて精神的な領域の問題なのだと思います。

そして、こういうことを(最近はマロニエ君もあまり口にはしませんが)言って、くどくど説明せずともサッと理解し本質をわかってくれる人、これが「感覚」の共有だと思います。
2011/05/28 Sat. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

続・人気の曲 

とりあえず、選曲の傾向の理由は少しわかりましたが、どうせ弾くのであればもっと幅広い視点から選曲してみるのも楽しいように思います。

そのためにも、やはり楽譜はきちんとしたものを持っておいたほうがいいもので、ピアノが好きで、しかも自分で弾くぐらいになれば、たとえ趣味であっても楽譜はそれが全曲まとめられたものを、ひとつは必ず持っておくべきですし、決してムダにはならないとマロニエ君は思います。
これにより、いうまでもなくその前後に存在する優れた作品を網羅的に知るところとなり、本当に自分が弾きたい曲を探し出すチャンスにもなるし、とりあえず弾いてみるだけでもとても勉強になるからです。

例えばピアノ名曲集的な観点から弾く革命と、ショパンの全27曲のエチュード全体を深く耳に馴染ませた上で弾く革命とでは、必ずなにかが違うものですし、そのほうがさらに素晴らしいものになることは異論を待たないでしょう。

もちろんクラブの中には特定の作曲家に集中して打ち込んでおられる方もあり、バッハばかりを弾く人、シューマンを得意とする人など、自分なりのこだわりや好みの個性があることはなによりも素晴らしいことで、最近入会された方では、専らメンデルスゾーンばかりを弾かれる方がおられて唸らされました。
マロニエ君もつい刺激を受けて、ちょっと自分からはあまり弾かなかったような曲を弾いてみたりしているところです。

そういう意味では、人が弾くのを聴いて自分も同じ曲を弾いてみたくなるという心理もとてもよくわかります。
コンサートなどでも感銘を受ける演奏に出会ったとき、あるいは逆に大いに憤慨するような演奏を聴いたとき、いずれの場合も猛烈に自分で弾いてみたくなるものです(もちろん弾ける曲に限ってですが)。

また、良く知っているものでも、自分から進んで弾こうとは思わなかったような曲を、人の演奏を聴くことで、なんとなく自分でも弾いてみようかと思うきっかけになることはマロニエ君にも幾度か覚えがあります。
こういうときにも楽譜を持っているというのは強味です。

近ごろは楽譜も決して安いものではありませんが、一度買えば半永久的に使えるものですから、その長い付き合いを考えれば決して高いものではありません。
マロニエ君は好きな曲があれば、自分が弾けない曲でも楽譜を買うことにはあまり躊躇もありません。
それは音楽が好きな自分にとって、楽譜を持つ事はひとつの「財産」だと思っているのです。

ただし、最近はCD−R等でひとりの作曲家の楽譜を網羅的に入れたものや、ネットでの無料ダウンロードなどというものもありますが、ああいうもので済ませるのはまったくもって賛成しかねます。
CD−Rの楽譜は一度買ったことがありますが、まあ割安感で言えばこれに勝るものはありませんし、場所を取らないといえばそうかもしれません。しかし、なんとも無味乾燥で、まったくマロニエ君の好むものではありませんでした。

そもそも音楽を楽しむ、ピアノを弾くという価値は、そんな味気のない合理性とは真逆の場所にあるものだと思いますから、やはり楽譜は紙の本であって、表紙があり厚みがあり、手で触って、ページを繰るものだと思います。
2011/05/27 Fri. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

人気の曲 

過日、ピアノクラブの人に、かねてから疑問に思っていたある質問をしてみました。
(これまで「サークル」と書いてきましたが、よく考えてみると「クラブ」だったので、今後は改めます。)
それはクラブの皆さんが定例会で弾かれる曲目にある傾向があると思っていたからです。
全員ではありませんが、多くの人が同じような曲に集中するのはなぜ?と感じていました。

例えばショパンを例にとると、幻想即興曲、革命、別れの曲、ワルツの数曲、いくつかのノクターンなどは、入れ替わり立ち替わりに皆さんが弾かれる定番曲になっているのがちょっと不思議なわけです。
ベートーヴェンでも悲愴とかテンペストの第3楽章などは何度聞いたかわかりません。
…かと思うと、両隣にある曲は一向に弾かれる気配もありません。
第7番も第9番もマロニエ君はとても好きですが。

せっかく大評判の料理店に行っているのに、みんながみんな、エビチリか、酢豚か、麻婆豆腐ばかり注文するような感じでしょうか。

もちろん根底には、これらがよく耳に馴染んだポピュラーな曲ということはあるとは思いますが、どうもそればかりが理由のようには思えない不思議さもあって、そのわけを聞かずにはいられなくなりました。

これらの有名曲ももちろん素晴らしい作品に違いありませんが、マロニエ君などはいつもそのあたりから外れた、本当に自分が好きな曲を弾いてきたように思いますし、同様の方もわずかにはいらっしゃいます。

もちろん選曲に際しては技術的な問題も大きく、シロウト集団の我々としてはなんでもOKというわけには行きませんから、難易度の点でも自分の技術と大いに相談しながら決めることにはなりますが…。
しかし、ショパンのエチュードのような難しい曲を弾くにしても、全27曲のエチュードの中で革命などは突出して人気が集中しており、「次は自分も(革命に)挑戦したい!」というような発言さえ何度も耳にしています。

革命ももちろんいいけれども、なんでそればかり??…その理由がまったくわかりませんでした。

また不思議なのはマズルカやプレリュードなどはほとんど見向きもされず、これまでにそれらを弾いたことのある人はマロニエ君以外ではわずかに一人か二人を記憶するのみです。
即興曲では4曲中の最高傑作とも言うべき第3番は誰ひとり弾かず、人気の点で革命さえも上回るのは第4番(幻想即興曲:ショパンは自分では気に入らず即興曲の中には入れていなかった。第4番とされて出版されたのは死後だが、作曲は4曲中もっとも早い。「幻想即興曲」の名は第三者によって付けられたもの。)で、こぞって弾かれるところはこの曲の大変な人気の高さが窺えます。

しかし、ピアノのレパートリーは無尽蔵といっても差し支えなく、あれだけたくさんの眩しいばかりの傑作が並んでいる中で、こうも同じものに集中するのは、どう考えても不自然・不可解だったわけです。
そこでその点を聞いてみると、ようやくにしてその理由がわかりました。

まずは楽譜の問題が大きいようで、楽譜を手に入れるときに1曲だけのピース楽譜を手に入れてしまうこと。あるいは手持ちのピアノ名曲集の類にこれらの曲がたまたま載っていたからで、他の曲は聴いたことがない…というようなたわいもないものでした。

マロニエ君にはちょっと考えられないことですが、へええ…そんなものかと思いました。
2011/05/26 Thu. 01:43 | trackback: 0 | comment: 0edit

草戦争凱歌 

何度書いた草戦争のその後です。

冬の間はおとなしくなりを潜めている多くの植物は、春の到来とともに一斉に芽を吹き、音のない大合唱が始まります。
そのトップを切るのが日本の花のカリスマ「桜」だろうと思います。

この桜の開花宣言と時を同じくして、多くの植物が俄に活動を開始します。
日本には、とりわけ「春」を生命を寿ぐ最高の季節と捉える伝統があり、多くの歌人などはその喜びをあまたの作品にあらわしていたりしますし、大半の人にとっては冬が終わって寒さが遠退き、木々や花々が咲き乱れる春の到来は、いかにも幸福感に包まれる時期なのかもしれません。

これに合わせて新学期が始まり、新年度が始まり、世の中全体が新しくスタートをきるという次第。

そんな春から梅雨にかけてが、実はマロニエ君にとっては年間を通じて最も苦手で過ごしにくい季節なのです。
あらゆる事が冬のほうが快適で清々しいのに、それが終わってむしむしと暑苦しい、皮膚のまわりに何かがまとわりつくようなイヤな季節が、あぁまたやって来くるという印象です。

ひとことで言えば、サラサラした季節がベタベタ季節に切り替わる、それがマロニエ君にとっての春なのです。
さらには植物の急激で過剰な成長が鬱陶しさに拍車をかけます。

雑草のなどはその際たるもので、日一日と高さと量を増やしていき、まさに情け容赦のないその様子は暴力的でもあり、不気味さと不快感が募ります。

昨年はついに除草剤という「化学兵器」の投下により、まずまずの結果を上げていたので、今年もむろん最出撃するつもりでいたのはいうまでもありません。
ところが雑草軍の進撃は予想以上に迅速果敢であり、ゴールデンウィーク前にはかなり厳しい状況となり、これはいかん!とばかりに友人を呼びだして、除草剤(市販のものを希釈して使う)を考えられる限りの場所に正に「撒き散らし」ました。

この除草剤というのは、撒いたからといってただちに翌日から枯れるわけではなく、最低でも10日ぐらいはかかります。
我が家の場合、すでに散布して4週間ほどが経過していますが、果たしてその状況とは?

草の生えていたあたり一面は柔らかな茶褐色となり、雑草軍の進軍はものの見事に食い止められ殲滅されています。
驚くべきはその薬の効能で、一面を覆っていたそれなりに美しい苔なども、この際犠牲になることは覚悟の上だったのですが、なんとそれらにはなんの被害もなく、突き出ていた草だけがうす茶色に枯れ干からびて、地面に小さく張り付いているのは驚きでした。

これはすごい!すごいとしかいいようがない!
この除草剤のおかげで蚊の発生も劇的に少なくなり、これはもう我が家の救世主のような存在になりそうです。

可愛がっていた犬も今はもう天国ですし、庭ではキュウリの1本も作るわけではないので、もはや躊躇するものはなにもなく、今後は定期的に散布していかなくてはと身も心も引き締まっているところです。
2011/05/25 Wed. 01:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

自慢大会 

日本人ピアニストって、最近どうかしてしまっているんじゃないかと思います。

昨年はある有名男性ピアニストが、一日でショパンのソロ作品を全曲暗譜で演奏するというギネス認定のかかった記録挑戦コンサートをしたことは、記憶に新しいところです。
開始から終了まで実に十数時間、時計が優に一回り以上したようで、こういう企画にショパンの音楽が使われること、あるいはせっかくの優れた才能を濫費することじたい、非常に不愉快かつ、そんなことまでやって目立ちたいのかと思いました。

もちろんその途方もない能力そのものには敬服しますが、音楽芸術に携わる演奏家としてはなんとも節操のない、恥ずかしいことをしたという印象はどうしても拭い去ることはできません。

あんなことはいやしくも芸術家のすることではなく、「俺はこんなこともできるんだぞ、どうだすごいだろう!」という内容の大がかりな自慢大会にしか思えません。
大した俗物根性というべきです。

これはさぞかし、この世界でも物笑いの種になったことだろうと思っていましたが、どうもそうではなく、その破天荒な記録を打ち立てたことに、同業他者は「やられた」という敗北感でも味わったのか、それに続くようなバトル的なコンサートが発表されて、さらに驚かされました。

今度は別の有名男性ピアニストですが、夏にラフマニノフのピアノ協奏曲全曲(パガニーニ狂詩曲を含む全5曲!)を一日で演奏するという重量級の挑戦的コンサートをおこなう由で、さらにひと月おいて、こんどはソロ、有名ゲストを招いての合わせものまで、この人のピアノを中心とした5日連続コンサートという企画が打ち出されており、すでに派手なカラー広告などが打たれています。

それにしても、誰もかれもがここまでやらなきゃいけないものかと思います。

なるほど今は、ちょっとでも油断すると押し流されてしまう世の中ですから、少々のことをしてでもステージにしがみついていかなくてはという裏事情はもちろん察します。
しかしです、目立つこと、世間に対してアッと驚くインパクトを与えることで、自分を露出・誇示するような無謀なコンサートを仕掛けることが、演奏家の残された道となっているのだとすれば、なんという無惨なことかと思わないではいられません。

こんなことをしていたら、演奏の質そのものより、ただ単に記録的なコンサートの達成を見守ることだけに関心は集中し、いかなる演奏をしたかという本来の価値などは二の次三の次になってしまうでしょう。
質の高い音楽を生み出すことより、超人的なパフォーマンスで人の注意を惹く技巧、記憶力、体力、気力の維持に全エネルギーを消耗させるだけに違いありません。

なんらかの人生ドラマで人を呼び込めない人は、今度はこんなトライアスロン的挑戦ができなきゃダメというようなこの風潮ははやくおさまって欲しいものです。

こうやって本来の音楽からどんどん逸脱するバトル的な流れは、コンクール至上主義より、さらにおかしな方向へと迷い込んでいるようにも感じます。
2011/05/24 Tue. 02:05 | trackback: 0 | comment: 0edit

ピアノの島 

何気なく整理をしていたら、音楽雑誌『ショパン』の1月号がひょろりと出てきました。
いつもは立ち読みが多いのですが、ショパンコンクールの入賞者以外の演奏を集めたCDが付録として付いているので、それ目的で買っていたことを思い出しました。

表紙はジュネーブコンクールで日本人初の優勝を果たした萩原麻未さんで、巻頭にはインタビューが載っているものの、CDを聞いただけであまり熱心にページを繰ることはしていませんでした。

ひさびさに手にしたついでにパラパラめくっていると、「第5回中国国際ピアノコンクール」というのがあり、中国でもこんなコンクールをやっているのか…という感じで、その記事を読んでみました。

開催地は中国南部の沿海都市、福建省のアモイ市で、12日間にわたって開催され、ファイナルではモーツァルトの協奏曲およびそれ以外の協奏曲の2曲を中国国家交響楽団と共に弾かなくてはいけないというもので、16カ国52名が参加するそこそこ本格的なコンクールということのようです。

このコンクールは第3回までは首都北京で開催されていたようですが、第4回以降はこの福建省アモイ市に場所が移されたとのこと。
その理由は、アモイ市が、中国近代史の幕開けとなったアヘン戦争後の南京条約によって開港し、西欧諸国の領事館や商館、教会などが多く建てられ、キリスト教の布教とともに中国でも最も早くピアノやオルガンなど西洋音楽が普及した土地でもあることから、このコンクールの開催地として最も相応しいと判断されたようです。
またアモイ市は経済特区としてもめざましい発展を遂げているだけでなく、年間を通じて温暖な気候であることから異国情緒あふれるリゾート地でもあり、別荘地としても栄えてきた土地のようです。

さて、そんなアモイ市でまさか!という感じで驚いたのが、ここの南西部にコロンス島という小島があって、そこは別名「ピアノの島」とも呼ばれいるらしいのです。なんでも、個人(この島出身の華僑)のコレクションによる「ピアノ博物館」なるものが存在し、世界的にも珍しい歴史的ピアノが実に82台!も収蔵されているというのですから、びっくりでした。

そんな折、書店に行ったついでに旅行のガイド本を見てみると、運良くアモイ市の本があり、そこにもこのコロンス島のことが紹介されていました。アモイ市とは目と鼻の先の距離で、フェリーで渡る小さな島のようですが、掲載されている写真を見る限りでは、洋館風の建物が多くてあまり中国っぽくない印象でした。

「ピアノ博物館」のことも小さく触れられていましたが、そこには40数台というような記述でしたが、建物じたいもピアノのカタチをしているところなどがちょっと中国的センスですが、なかなか珍しいピアノがありそうな雰囲気でした。
この島はピアノの普及率も中国一とのことで、人口2万人、1時間も歩けば一周できるという小さな島に、一時は1000台ものピアノがあったというのですから驚きです。さらにはピアノ音楽学校まであり、いまでも対岸のアモイ市からフェリー通学している学生もいるようです。

あまり詳しい情報は得られませんでしたが、この島に「ピアノ博物館」があることだけは間違いないようです。

世の中にはまだまだ予想もしないことがあるものだと思いました。
いつか行ってみたいものです。
コンクールを聴いて、コロンス島にも足を伸ばすというのもいいかもしれませんね。
2011/05/23 Mon. 01:42 | trackback: 0 | comment: 0edit

ショパンのガラコンサート 

今年の一月に東京で行われたショパン入賞者によるガラコンサートの模様が先ごろNHKのBSで2時間放映されて、録画していたのですが、これがもう、なんともシラけて退屈の極み、全部を見通すことができませんでした。

あらためていうまでもなくマロニエ君個人の印象ですけれども、ただ一人を除いては、みんな大同小異で、だれもかれもが無機質なウソっぽい演技のような演奏をするのには、あらためてなんだこれはと思いました。
若いのにエネルギーも冒険も初々しさもなく、若年寄のようで、もう少し正直に本音をぶつけた気持ちのいい演奏をしたらどうかと思います。

コンクールでは大変な人気だったと聞く2位のヴンダーの幻想ポロネーズも、期待に反して凡庸で、どこかアマチュア的な腰のない演奏でもあり、なんということもありませんでしたし、同じく2位のゲニューシャスの第1協奏曲も流れが不自然で、第一楽章だけでも聴くのが苦痛になりました。
このあまりにも有名な甘美な曲を、ここまで説得力なく退屈に演奏するのも大したものです。
3位のトリフォノフもしかり、こうやって見ていくとアヴデーエワの優勝というのも消去法で妥当な結果だったのかとさえ思えるものでしたが、その彼女も基本的にはこれまでと同じ印象でした。

とりわけロシアの3人に共通するのは、かつてこの大国のお家芸だった感情の奔流がなくなり、すべてが審査基準に沿って計算され構築された流れのない演奏です。そこには何のメッセージ性も主張も霊感もない、ただ高度に訓練された技術を横にならべて見せられるだけというもので、当然ながらそこにショパンの魂が現れるような余地はありません。
これではまるでスポーツと同じで、そこに技術的課題としてショパンの作品が使われているだけという印象です。

何かに似ていると思ったら、フィギュアスケートで、ここで何回転、ここで何連続、ここでステップという、ただ競技のためにだけに作り上げられた高度な技を、予定通りに失敗せずにこなしているとしか思えません。
これは音楽とはまったく似て非なる、メダル獲得だけが彼らを支配しているようでした。
何か大きなものが間違っているとしか思えませんし、若手がこれではクラシックが衰退するもの当然だろうと思われます。

彼らの演奏には、音楽のしもべとなり、それを奏する喜びや作品の美しさに自分の感性を重ねて燃焼するという、肝心のものがすっぽり抜け落ちているようでした。
我々聴く側も、演奏を通じて音楽の波に乗り、いざなわれ、作品の世界を味わい、ときには激しく翻弄されたいのです。
演奏者はそのために特別に選ばれた案内役であるはずですが、彼らはまったくその役目を果たしているとは言い難いものです。

なぜこんな風潮になってしまったのか…もはや考えてみる気にもなれません。

冒頭に「ただ一人を除いて」と書きましたが、それは5位のフランソワ・デュモンで、彼ひとりショパンの詩情を繊細に的確に描き出す、きわめてセンシティヴで美しい演奏をしていたのが正に唯一の救いでした。
やはりフランス人は、ショパンの本質を理解しているのだと思いました。

この一連のガラコンサートは福岡にも来ましたが、直感的に行かなかったのは正解でした。
もし行っていれば、すっかり落胆して帰ってきたこと間違いなしだったようです。
2011/05/22 Sun. 02:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

湿度計の賞味期限 

湿度が気になる季節に突入したこの頃、マロニエ君は湿度計を日に何度見ているかわかりません。
見たからといって、とくにどうということもないのですが、なんというかクセみたいなものでしょうか。

さて、ある調律師の方のホームページを見ていると、湿度や温度と音程のことなどについての記述があって大変勉強になることがありましたが、その中のひとつに、「湿度計は年月を経ると精度が低下することが避けられない」という文言があり、これにはドキッとしてしまいました。

しかも、市販のものでは精度が著しく劣るものもあり、ひどいときには15%も誤差(というか、ここまで来るとデタラメ表示というべきですが)があり、まず製品自体がちゃんとしたものでないとアテにならないのは当然ですね。
そのホームページには、精度の高いメーカーのオススメ商品まで紹介されていますが、それとても3年も経てば精度が落ちてくるから信用できなくなると受け取れるような書き方がしてあり、それぐらい経ったら校正に出すか新しいものを買ったほうがいいとアドバイスしています。

さて、マロニエ君の使っている湿度計は、3年どころか、優に10年以上前(もしかしたら20年?)のもので、お説の通りだとすると、これはとてもじゃありませんが信頼に足らない状態だろうということが推察されました。
そうとも知らず、そんなものを毎日眺めて一喜一憂しているなんて、自分がなんと愚かしいかと思われて、いてもたってもいられなくなり、さっそく件のオススメメーカーの温湿度計を買ってきました。

天神の雑貨点に行きましたが、置き時計などは実に多種多様なものがあるのに、湿度計は売り場が別で、店員に3度も尋ねてやっとその売り場に到達することができました。
果たして、オススメメーカーの製品ではありましたが、種類は二種類しかなく、そのうちのひとつを購入しました。

帰宅後、さっそくピアノの上に置いてみますが、正しい目盛りを示すには1〜2時間かかると説明にあり、その結果、今まで使っていた湿度計よりぐっと高い数値でも示したらどうしようかと不安でした。

さて、すでにそれから数日が経過しましたが、なんと古い湿度計との差はわずかに1%ほどで、なーんだ、狂ってないじゃん!と思いました。経年変化で精度が落ちるなんて、理論的にはウソじゃないだろうけれども、技術系の人のお説は理屈が勝っていて、いささか大げさな思い込みがあるのかとも思いました。

まあ、あえて慎重に考えるなら、もともと大したこともない湿度計の精度が落ちて、それが偶然正しい数値を示していたということも可能性としてはありますが…でもやっぱりこれだけほとんど同じ数値を仲良く並んで示しているということは、単純に古い方も正しかったのだろうと思われます。

無駄な買い物だったようにも思われますが、二つあったほうがより正しい数値を知ることができるでしょうし、これはこれで意味があったと思います。
しかし、ホームページに専門家が懇切丁寧に説明していると、ついそうなのかと鵜呑みにしてしまうのは、できるだけ注意しているつもりですが、やはりあるんだなあ…と思いました。
2011/05/21 Sat. 01:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

感情の衰退2 

コンクールの主役は韓国に譲るとしても、岡本太郎の「芸術は爆発だ!」という言葉がなつかしいほど、いまの日本人には何事によらず爆発がなくなりましたし、それに附随するところの覇気も度胸もすっかり痩せ細ってしまったようです。
だから今の日本人は、ますます器が小さくなってしまっていると感じるこのごろです。

ちょっとでも枠をはみ出すと、変人のように認識され、たちまち空気が読めない人間と同列に分類されるし、同時に、いかにも誠実ぶって善人のフリをするぶんには、これが一番安全でなんの障害もない空気です。
なぜなら偽善が偽善だとは認定されず、いつの間にかそれが人間的に正しい振る舞いだと捉えられているからでしょう。

爆発といえば、暴発と同義語のように扱われ、まるでキレたり暴力的だったりする悪行のようなイメージをどんどん塗り重ねられていく流れは、もはや止めようもありません。
生きていれば怒ることも腹を立てることも多々あるものですが、それは際限もなく抑制するのが当たり前となり、誰もが聖人のように穏便に事を荒立てないことが金科玉条のようにされています。

そんな風潮の中でまともに意見でも言おうものなら、事の良し悪し以前に、意見を言ったという「異変」にみんな引いてしまいます。もちろんある程度は理性をもって制限しないと、なんでも感情を優先させるだけでは、ただの野蛮人になりますが、いくらなんでも今の状況は異常だと思います。

ジェントルなバランス感覚から発せられた抑制なら大変結構ですが、ただ臆病で、やみくもに自分の利益を守り通そうとするあまり、言葉を選び立派な人間の演技をし、安全第一、ひたすらマイナス要因を作らない事だけがすべてに優先しているようにしか見えません。
お陰で、今の日本の価値観は、表面は穏やかでも、内側には浅ましい我欲だけが渦巻いているようです。
すなわち、きわめて消極的自己中とも言えそうです。

その裏には、万一その逆をやらかして、自分が孤立したり、嫌われたりする場合に対する異常なまでの恐れ、ほとんど戦慄とでもいっていいような強い脅迫観念が張り付いているようです。

こういう狭いところに押し込められたような意識の中で、チマチマと息を潜めたように生きている日本人には、もはやおおらかに人生を謳歌して人間臭く生きるなどということは、ほとんど夢物語も同然です。

音楽コンクールで韓国に敗退するぐらいはいいとしても、これではこの先どうなるのかと思います。

若い世代の人を見ていると、すでに感情を抑えるということすら通り越して進化して、感情そのものの総量がずいぶん少なく小さくなってきているようにさえ感じます。何も感じないことが最も合理的でムダがないという、これはいわば、自然の摂理なのかもしれません。
自然な感情や反応は、あたかも世間を憚るべき下着の中のように、一切表に出してはならないものになってしまっており、これでは人間らしい喜怒哀楽も否定され、信念も情熱も持てず、政府の批判もできず、こういう風潮は考えれば考えるほどある意味ファシズム的で、無性に恐ろしくなってしまいます。

欺瞞の恐ろしさは、ついにはそれを欺瞞とも感じなくなることかもしれません。
2011/05/19 Thu. 02:18 | trackback: 0 | comment: 0edit

感情の衰退1 

マロニエ君の音楽上の恩師のひとりでもあるフルートの先生から聞いた話ですが、今やコンクールはどこに行っても台頭する韓国勢の独壇場と化しているそうです。
この流れは、マロニエ君はピアノの場合として知っていることでしたが、やはりと言うべきか、それは他の楽器にも同じような現象が起こっているようです。

2009年の浜松国際ピアノコンクールでも韓国のチョ・ソンジンが優勝したのはもちろん、上位6人の中の実に4人を韓国人が占めるという驚くべき結果となったことも記憶に新しいところですし、前回クライバーン・コンクールでも数名の韓国人が実に見事な演奏をしたのは印象的でした。

その先生によれば、コンクールの現場で感じることだそうですが、韓国勢の強味はなによりもその激しい感情表現ということ。韓国人のあの激烈な感情の奔流が音楽にはプラスに作用しているようで、なるほどというしかありません。

めったに見ることはありませんが、韓国の映画などを観ても、その生々しい感情の動きが全体を支配しており、それ故にひじょうに見応えのある作品に仕上がっていると思います。原作にしろ監督にしろ、表現者としての翼を大きく羽ばたかせてのびのびと仕事をやっていると感じられ、ときには羨ましく感じる場合も少なくありません。

すくなくとも芸術面においては、良いものに対する素直な評価と価値基準も、韓国のほうが現在は一枚上手のような気がします。
日本人の能力は世界的にも稀有な民族だと誇りをもって思いますが、いかんせん公平・平等の思想がはびこりすぎて、芸術という、いわば出発からして非平等な世界の核心部分までもを侵食しているような気がします。
だいいち何事にもアマチュアが出しゃばりすぎる社会になり果てています。

これでは、本当に才能ある人物が現れても、それを社会が正しく評価できないことには上手く育つことはできません。
少なくとも日本はすでに認定され定着した評価には従順ですが、新しい芸術的才能に関しては、あまりにも鈍感すぎるような気がします。

同時に大したこともないような人が際限もなく続々と出てきて、結局はつぶし合いとなり、本物の芽まで一緒に摘み取られてしまうことがあると思うのです。

今年おこなわれるチャイコフスキーコンクールも、雑誌の下馬評では、ロシア対韓国という構図が出来上がっているようで、むべなるかなと思います。

日本人は器用でハイクオリティな演奏はできても、メッセージ性や高揚感に乏しく、演奏というものが終局的には表現行為である以上、聴く者の心を掴んで揺り動かすような圧倒的な主体性がなくては花は咲きません。
自己を押し殺して、表現しないことのほうに美徳と価値がある日本ですから、それは当然の成り行きでしょうね。
とりわけその傾向は近年ますます顕著になってきたようで、感情的な表現すら人工的に貼り付けた様子が見えてしまいます。

感情の振幅が小さいということは、おそらく表現者としては決定的なハンディとなるに違いありません。

ところが韓国側から見ると面白い意見があって、韓国のピアノ教育者の代表的な存在のひとりである、韓国芸術総合大学のキム・テジン教授は「平均的に見ると、日本のピアニストは知的であり、韓国は感性的。足して2で割れば完璧なピアニストになる」とも言っています。
これは社交辞令なのか、自分達にないものは輝いて見えるものなのか、真意はわかりません。

マロニエ君から見ると、ナショナリズムの問題は別として、現在の若いピアニストは圧倒的に韓国が上を行っていると思いますが。
2011/05/18 Wed. 02:08 | trackback: 0 | comment: 0edit

自己中オーラ 

週末に天神の書店に行ったときのこと、見たい本棚の前にはたぶん30代とおぼしき女性がかがみ込んで熱心に本(実用書)を見ています。

マロニエ君も同じ書架で本を探していたわけですが、なかなか見つからず、とうとうこの女性がいる場所の真上が見てみたい状況になったのですが、この女性はいやにどっかりと腰を落ち着けて、とうてい動きそうな気配がありません。
仕方がないので、しばらく待ってみることにし、外の場所を見てみたりしていましたが、やはりどうしてもその場所しかなくなりました。

遠慮がちにその上の段を、上半身を曲げながら見てみようとするのですが、マロニエ君は比較的長身なこともあって、なんとか見えないことはないものの、やはり勝手が悪くて仕方ありません。

普通なら、本屋の書棚などはお互い自分のものではないのだから、社会通念としてお互い様という気持ちが働いて、自分がいる場所でも他人が来れば、わずかによけたり、ささやかでも譲り合うのが常識というものですが、最近はこういう具合に、人がいるのは充分承知しておきながら、譲るという気持ちが頭からまったくない人間がいるものです。
そのせいか、こちさら目を合わせず、微動だにしない人の姿はエゴそのものが蟠っているようです。

こうなると暗黙の戦いのような様相となりますが、とてもとてもマロニエ君ごときが敵う相手ではありません。

ガッチリとシャットアウトの鎧を着たかのごとく、自分と本との世界に固まっているような気配です。
見ると、その女性はそこの棚にある本を次々に片っ端から見ているようです。

今どきは、こういうことにいちいち腹を立てても仕方がないと、いいかげん腹を決めているつもりなのですが、やはりこういう状況に直面すると、どうしたってついムカムカきてしまうものです。
その女性の肩とこちらの足が10センチぐらいになって上半身だけ傾けて棚を見ようとするのですが、それは向こうも当然わかっているクセに、「断固として」動きません。

なんでそこまで頑張るのかと思いますが、いやはやこういう手合いにかかってはどうしようもありません。
あまりこんな手合いにこだわるのもバカバカしい気がして、さっと別ジャンルの売り場へ行って、そのあと近くのヤマハへ移動しました。

天神のヤマハは2階が楽譜や書籍の売り場ですが、マロニエ君はある新刊書を探していました。
ところが、な、なんと、さっきの本屋とまったく同じスタイルで、似たような年齢と思われる女性がやはり書棚の前にかがみ込んで、せっせと手にとって本を見ています。

ここではマロニエ君の見たい場所は、その女性が見ている箇所とは垂直線上で重ならないことが幸いでしたが、その女性はさっきと同じようないやに腰の座った雰囲気で構えが深く、こちらもどうして、少々のことでは動きそうにはありませんでした。
さっきと違うのは、いきなりガッと顔を上げてこっちを見上げてきたので、さすがに今度は人の気配を察して動きがあるのかと思うと、さにあらず、また元通り本を見始めて、公衆道徳らしきものは微塵も感じられない自己中オーラをバンバンと発散していました。

まあ、それだけの事ですが、なんだか無性に嫌なものに触れたような気がしてしまいます。
現代人は一皮むけばこういう本性を抱えているからこそ、表向きはキレイゴトが流行するのかとも思います。
2011/05/17 Tue. 01:51 | trackback: 0 | comment: 0edit

ライプチヒの名器 

以前、このブログでも紹介した珍しいコンサートに行ってきました。

福岡市南区の高台に、日時計の丘ホールという名の小さな可愛らしいプライベートギャラリーがあり、そこに1910年製のブリュートナーがあります。
L字形の内部には藤田嗣治、熊谷守一、斎藤真一などの作品が展示されたシンプルで気持ちの良い文化的な空間でした。

ここで管谷怜子さんという地元出身のピアニストによるリサイタルが行われました。
プログラムはバッハのパルティータ第1番、モーツァルトのイ短調のソナタ、それにシューマンの交響的練習曲で、マロニエ君の想像ですが、このドイツ生まれのピアノに敬意を表す意味もあって、すべてドイツ音楽で構成されたのかもしれないと想像しています。

演奏はきわめて丁寧かつ誠実なもので、全体にゆっくりしたテンポと穏やかな表現で弾き進められました。

こんな場所にこんな空間のあることも意外でしたが、さらに意外だったのは、この御歳101歳になるブリュートナーでした。
サイズは見たところでは、おそらく170センチ前後の小さめのグランドでしたが、バッハのパルティータのB-durの軽やかな出だしからして、思いがけなく厚みのある、ふくよかでくっきりした音だったのには思わずハッとさせられました。

まずなにより特徴的なのは、音が太くかつ柔らかなことで、これにより音楽の輪郭にくっきりと明確さが出て、まるでインクをたっぷり含んだ太字の万年質の文字のようなイメージでした。
新しいピアノのなにやら人工的で必死さのある鳴り方に較べると、あくまで自然体で朗々と鳴っているところは、どことなく弦楽器的であり、良質の木が共鳴して作り出されるその純度の高い音は、聴いていて実に心地よいものでした。

パワーそれ自体も相当のものを感じ、とても100年前のピアノだなんて思えません。
仮に同サイズの日本製の新品ピアノを並べて置いても、この鳴りにはとうてい敵わないでしょうね。
昔の人は凄いピアノを作っていたもんだと思うと同時に、このピアノを作った人達は現在もはや一人も生きていない事を思うと、ピアノだけがこうしてすこぶる元気に生き続けているという事が、なんとも不思議でもあり感動的な気分になります。
何度も書くことですが、専門家のくせに「新しいピアノにはパワーがある」なんてことを堂々と言う人は、楽器の意味するパワーというものがまったくわかっていないと思わざるを得ません。

ドイツピアノでは双璧であったベヒシュタインに較べると、ブリュートナーには華やぎがあり、男性的なベヒシュタインに対して、ブリュートナーは女性的な美しさがあるとも言えるでしょうが、その達者な表現力にはまさに世界の名品の名に恥じないものがありました。
とくに交響的練習曲のフィナーレなどに代表される激しいパッセージにおいても、この老ピアノは一切の破綻を見せず、演奏をどこまでもガッチリと受け止めて、あくまでも音楽として鳴り響くところは、そこらのカッコだけの腰砕けのピアノとはどだいものが違うということを思い知らされます。

アンコールには、交響的練習曲に残された遺作の5つの変奏曲(プログラムでは演奏されなかった)から2曲が演奏され、それはそれで楽しめましたが、ブリュートナーと言えばライプチヒですから、できればメンデルスゾーンなどを弾いて欲しかったというのがマロニエ君の正直な気持ちというか、この流れからいえば密かにそうなるような気がしていましたが…。
このピアノで無言歌などを弾いたら、どれほどピッタリだろうかと思わないではいられません。

すっかりこのブリュートナーに魅せられてしまい、無性に戦前の古いピアノが欲しくなりました。
2011/05/16 Mon. 01:56 | trackback: 0 | comment: 0edit

ダンプチェイサー 

この数日はようやく晴れ間が出たものの、先週の雨による湿度の増加は、心身共にぐったりくるものでした。
マロニエ君は自分自身が湿度に強くないので、除湿することは自分自身とピアノを2つながら守ることになるわけですが、さすがに数日間続くべっとりとした雨模様ともなると除湿器の能力にも限界が見えてきます。

もちろん24時間フル稼働で、終日休むことなく回していますが、それでも最終的には60%をなんとか切るぐらいまで迫ってきたのにはイヤになりました。

さすがにピアノも弾いてみると、どこなくぼんやりしているようで、なんとかできないものかと思っています。
そんな折、熱心な調律師のホームページなどを見ていると、複数の技術者がダンプチェイサーというピアノ専用の除湿器具の取り付けを強く推奨していました。

ダンプチェイサー自体は決して新しいものではなく、以前からその名前と存在だけは知っていましたが、なんとなくピンと来なくてそれ以上調べてみようという気持ちになれませんでした。
しかし、ある本の著者などはしきりにこれを「優れもの」と認識して読者に勧めていたりするので、機会があれば見てみたいぐらいに思いつつ、なかなかそんな機会があるはずもなく、以降そのままになっていたものでした。

このダンプチェイサーというのは、棒状のヒーターをピアノの内部に取り付けて、センサーの働きにより湿度が一定以上になると自然にスイッチが入り、湿度が下がれば自動的に停止するというもの。
装置自体も安くてだいたい1万円強から2万円といったところですし、平均的な電気代も200円程度/月というものですから、そこはたいへんリーズナブルだと言えそうです。

ところがピアノへの装着例が示されているのがどれもアップライトピアノばかりで、アップライトの場合は鍵盤下部の蓋を開けた内部にこのダンプチェイサーを左右の側板に長さを合わせ、つっかえ棒のようにして装着するわけですが、あとは蓋をするので区切られた空間となり、なんとなく効果がありそうに思えましたが、グランドの場合は水平の響板下に支柱があり、そのさらに下に取り付けるというもので、これでは機械自体が外部にむき出しとなり、果たしてそれで効果が期待できるものかという疑念が残ります。

もっとも気にかかったのは、要するにヒーターの周辺の空気を熱で温めて対流させて除湿するということは、この機材に近い部分の木材に悪影響はないのだろうかという不安を感じた点です。

そこで親しい技術者にこのダンプチェイサーについて聞いてみると、なんと効果絶大だそうで、付けると付けないとでは大違いという、思いがけなくどっしりとした答えが返ってきました。たとえばある施設の広い場所に置かれている除湿器の使えない環境のピアノは、激しい調律の狂いが多くの人から指摘されていたらしいのですが、これを装着することでピタリと安定してしまったとか。

すでに相当数を取り付けている実績もある由ですが、なんのトラブルもなく、ピアノの保護という観点においてこれは一大発明だと思うと自信をもって言われてしまいました。ただし、木材への悪影響についてはないつもりだけれども、それを数十年単位で判断するとなると、さすがにそこまではわからないというものでした。

唯一の問題点としては、国産とアメリカ製の二種があり、湿度設定が国産では65%、アメリカ製では45%に固定されていて任意の設定が出来ないということだそうです。
というわけで、梅雨を目前にして、さてこれを付けてみるべきか、大いに悩むこのごろです。
2011/05/15 Sun. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

結婚願望 

ときどき結婚願望というものが高じてしまって、もはや執念のように暗く思い詰めている人がいます。
人間誰しも、自分の望むものを手にするために粉骨砕身努力するのはわかりますが、あまりにもその思いに囚われてしまうと、空回りして負のオーラが出てしまいます。
とくに結婚となると相手のあることで、年々歳はとるし、その焦りのクレッシェンドは鬼気迫るものに発展することがあります。
寝ても覚めても、仕事でも遊びでも、けっきょく意識の根底にあるのはそのことばかり。

どんなに優れた魅力的な人でも、ひとたびこの欲望のオーラを発してしまうと、ことごとく事は成就せず、欲しいものはますます手に入らない状況に陥ってしまうようです。
その一番の理由は、欲望の虜になり、それにのみ囚われ、余裕や柔軟性が無くなるからでしょう。
目的を掴み取るまでは、如何なることでも満足できないという本音が見えてしまうのは本人も周りも不幸なことです。

もうすこし率直な言い方をしてしまうなら、ひじょうに視野の狭いガツガツした人間のように見えるのですが、これは本人は必死のあまりわからないようですし、わざわざそんなことを指摘する人はいませんから、よほど自己分析に長けた人でもなければ、この悪い状況が解消されることがないわけです。

人間の姿として、物欲しげな状態というのはあまり見てくれのいいものではありません。
ましてやそれがパートナー探しとなると、まわりはそのパワーに圧倒されて引いてしまいますし、だからこの状態は自分から幸運を退けてしまう波動を出しているともいえるでしょう。

強すぎる欲望の持ち主には幸運はおとずれないという目には見えないセオリーがあるように思います。

みなさんのそばにもいると思いますが、一見活発でやたら友人知人が多いらしく、毎日忙しく動き回っているような人って、実は押し寄せる孤独を押し返そうとする必死さみたいなものが漂っていて、人は無意識のうちにそういう気配を確実に感じ取っているものです。

最近は自己啓発の類が盛んで、ほとんど意味をなさないような自分ミガキとか、キレイゴトの空虚な妄想のようなことを煽り立てて人を惑わす傾向があり、そこでは人間の能力も幸福の実現も、無限の可能性を秘めた泉のごとく語られます。
建前はいかにも正論で立派ですが、要するに不安感や欲望を煽っているだけにしか見えません。

「あきらめない」というような言葉も前向きで素晴らしいこととして巷に蔓延していますが、マロニエ君にはどうも非現実的な際限のない欲望追求にしか見えず、心は飢えて渇いたような人ばかりで世の中は溢れかえっているように感じます。
「あきらめる」というのも、本来は人が生きていく上で非常に大切な美徳なんですけどね。

結婚願望があるなら、いったんはそれをゴミ箱に捨てるぐらいの腹を決めて、悠然と構えて、余裕のある気持ちと態度で毎日を送った方がよほどチャンスは巡ってくるものです。
チャンスとか幸運というのは、実は大変なあまのじゃくで、欲した途端に逃げていくものです。

だから、さほど欲していない人のもとへ、ふらりとチャンスは立ち寄ってくれるものです。
男女の区別なく、モテる人は余裕があるから必死に相手を欲しがらないし、その余裕ある姿が魅力的に写るものかもしれません。利が利を生む論理そのものです。
すなわち強すぎる結婚願望そのものが、まさに結婚を自分から際限なく遠ざけているのかもしれません。
2011/05/13 Fri. 01:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

ネットオークション 

苦手なものがたくさんあるマロニエ君ですが、ネットオークションもそのひとつです。

ライバル不在ですんなり落札できるときはいいのですが、少しでも人と競り合う状況になるともうダメです。
特になんとしても手に入れたいものであればあるほど、不必要に気分が高ぶってしまいます。

ネットオークションでまったく油断ができないのは、終了までの数日間、だれも入札しないのでこのまますんなりいけるだろう…なんて思っていると、敵は最後の最後に闇の彼方から音もなく現れます。
マロニエ君は過去に何度このパターンに陥って、消耗戦を繰り広げたかわかりません。

何度か抜きつ抜かれつしたあげく、ようやく戦い済んであと1分で終わりというときに、またしても落札価格が更新されるときほど腹立たしく際限なき戦いを挑まれるみたいで気分の悪いものはありません。
こちらも意地になって、平常時なら考えられないような高値を入力してしまうハメになったことも何度かありますし、それでもえらくスタミナのある見えない強者にしたたかに持って行かれたことも何度もあります。

「それがネットオークションだ」といわれれば確かにそうなんですが、これがマロニエ君にとっては笑って済まされないような嫌な興奮と動悸が打つような疲労のごちゃまぜになるのがよくわかりました。
多くの場合、オークションの終了時刻は夜間に設定されているものですが、気合いの入ったアイテムの場合は、なんとなく朝から(いや前日から?)そのことに意識が行っています。
真剣なときは、バカバカしいようですが夕食さえゆっくり落ち着いて食べられません。

時間が近づくと家族には内緒で、はやる気持ちを抑えながらパソコンの前に居住まいを正します。
分単位の時間経過が、このときほど気を揉んで、いたたまれないものはありません。
その挙げ句に、さんざんやられて敗退すると、精神的にも激しい疲労に襲われて、一日の終わりが甚だおもしろくない、不愉快な幕切れとなってしまって、もう無性に情けない気分になるのが自分でもつくづく馬鹿げた事だと思うようになりました。そして、自分が性格的にこういうものに合わないことを痛感しました。

この結果、マロニエ君は金輪際、ネットオークションでの入札バトルには参加しないことに決めたのです。
さらにネットオークションそのものにも距離を置くことにしました。
ネットごときであんな切迫した不快な思いをするのはもうこりごりだからです。

その後は、欲しい物が見つかったときには、自分で冷静に価格の上限を判断して少し早めに入札し、終了時間近くは絶対にパソコンを開かないことにしたのです。
それで落札できていればよし、できなかったらさっぱりあきらめるという、いわばマイルールです。

さて、久々にこのネットオークションに入札しました。
狙っているのは絶版の書籍です。この数日だれひとり入札していませんでしたし、珍しく日中の終了時間となっています。
これはいけるだろうと根拠のない確信をしていましたが、夕方パソコンを開くと、なんと、終了1〜2分前に狙い撃ちされてもっていかれていました。

なんだか、無性にイヤなもんだとまたしても思ってしまいました。
2011/05/12 Thu. 02:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

ほっとする電話 

今はなにしろメール全盛の時代で、昔よりも電話で人と会話する機会が減ったのは明らかです。
メールというツールの出現と、さらには巷間言われる人間関係の希薄化も後押しして、とにかく電話をするというのがよほど緊急の状況に限ってのことか、あるいはよほど親しいかという一種の条件のような壁があるように思えます。

電話なら早く済むことでも、相手の見えない状況に割り込む可能性のある電話より、やはり一歩引いたメールのほうが好ましいという暗黙の了解があるようで、これは現代人が作り出した新しい共通認識のようになりました。
ここには相手への気遣いはもちろんでしょうが、自分が間の悪いときに電話をする迷惑人間として先方から認識されたくないという恐れなど自衛本能もかなり働いての結果だと思います。
言いかえるなら、控え目で遠慮しているだけでなく、実は電話をする勇気のなさ、卑屈さも加わっているとマロニエ君は分析しています(自分を含めて)。

そんな時代ですから、マロニエ君はむしろ電話をかけてくる人に、一種の率直な親近感を抱き、今どき失われた懐かしさみたいなものを感じてホッとするというか、つい嬉しくなっていまいます。
それにしても、いつごろから電話をすることがこうも遠慮すべき行為と認識されるようになったのでしょう?
携帯電話の普及と共に自然に確立された新マナーだといわれれば、そうなのかもしれませんが、甚だややこしい時代になったものです。

マロニエ君の友人知人には、比較的電話をかけてくる人が多い方じゃないかと思いますが、それでも昔に較べたらメールの比率はやはり高くなったように感じます。
こういうことをいうマロニエ君でさえ、かかってくる電話は歓迎でも、いざこっちからかける場面ともなると相手によっては無邪気にかけきれない事があるのは否定できません。
自分がOKなことが相手も同じとは限らないし、不本意ながらも、やはり時勢にはなかなか逆らえないものです。

というわけで、マロニエ君にとっては電話をかけてくる人かどうかという点が、自分との親しさのバロメーターのひとつになってしまっていると考えています。会ったときにどんなに親しげにしゃべっても、電話をかけたりかかってきたりしないうちはまだまだ本当の親しさが構築できたとは思えません。

とくに嬉しいのは、メールより電話を優先してかけてくる人です。
こういう人は、たいてい良い意味での無邪気さがあり、人間的にも明るくおおらかなので、こちらも大いに心を開いて接することが出来ます。

ところがまずメールからスタートする、あるいはメールでしか連絡しない人というのは、もちろん基本的にはこちらの都合のいいときにでも見ておいてくださいねという気遣いも入っているのはわかりますが、やはりちょっと相互間に距離がある感じがします(実際に距離がある場合はしかたないですが)。

さらにメール癖がもう一歩進むと、すべてメールですませて完結してしまい、いつのまにか直接会話するということに一種の苦痛や面倒くささが加わってくるのだろうと思われます。
とくに若い世代の人にこれを感じますが、だからますますメールの利用頻度は高まるばかりなんですね。

というわけで、マロニエ君は電話できそうな相手とは極力電話するようにしています。
2011/05/11 Wed. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

ラ・フォル・ジュルネ3 

本来は「英雄」と「皇帝」は作品番号からいえば英雄のほうが若いけれども、一夜のコンサートのバランスという点では順序が逆で、「皇帝」→「英雄」の順であるべきだと思われ、その点はどうにも違和感がありましたが、最後の最後になってその理由がわかりました。

皇帝の終演後、割れんばかりの拍手に応えて何度もステージに現れたピアニストのダルベルトが、最後に紙とマイクをもって現れ、震災の追悼の意味を込めてと自ら説明して、ピアノソナタ第12番の第3楽章の葬送行進曲を弾きました。
残念ながら演奏自体はまったく首を傾げるようなもので、この作品本来の姿からかけ離れたものと感じましたが、ともかくもこれで一夜のコンサートでベートーヴェンの二つの葬送行進曲が演奏されたということになりました。
こういうオチをつけるために「皇帝」を後にまわしたのだろうと了解できました。

この日さらに驚いたことは、コンチェルトで使われたピアノでした。
シンフォニーの演奏中、ピアノはステージ左脇に置かれていましたが、それはツヤツヤのスタインウェイでキャスターは最も新しいタイプの特大サイズのものが金色にギラギラと光っていましたから、てっきりどこかから貸し出されたのか、あるいはこのホールが新規に購入したピアノと思っていました。
「ああ、また例の新しいスタインウェイか…」というわけです。

ところがシンフォニーが終わって、係りの人達によって舞台中央にピアノが移動させられてくると、ひとつピアノに不可解な点があるのに気がつきましたが、そのときはそれほど気にもとめていませんでした。

ピアノの移動が終わって大屋根が開けられ、準備完了となると、例によってコンサートマスターがAの音を出しますが、それがこころなしか色艶がありふっくらしているように感じはしましたが、しかしこの時点ではたった1音ですから、まだなんともわかりませんでした。

ダルベルトが登場し、冒頭の変ホ長調のアルペジョを弾いた途端、あきらかに!?!?と思いました。
最近再三にわたって書いている、新しいスタインウェイの音ではないのです。

でもサイドに書かれた大きな STEINWAY & SONS の文字やマーク、
ここ最近採用され始めた巨大なダブルキャスター、ピカピカに輝くボディなど、おろし立てのようなピアノにしか見えませんが、音はあきらかにちょっと枯れた深みと太さのある昔のスタインウェイの感じで、もうマロニエ君はあきらかに混乱してしまいました。

ところが細部に目を凝らして見てみると、このピアノは新しいピアノではないことが判明し、そのときは思わずアッと声を出しそうになりました。
それでわかったことは、あくまで客席から見た限りですが、察するに30年ぐらい前のスタインウェイで、おそらくはオーバーホールを機に全塗装され、足はまるごと新しいものに取り替えられ、サイドには大きな金文字が加えられたのだろうと思われます。

よく技術者の中には「新しいピアノはパワーがある」と言い、それは裏返せば「古いピアノはパワーがない」という意味になりますが、それはとんでもないことで、新しいピアノよりもよほど力強くオーケストラのトゥッティ(全合奏)の中でも逞しく鳴り響いていたこの事実を、こういうことをいう人達はどう説明するのか聞いてみたいものです。

逆に最近の新しいモデルでは、鳴りが悪くて、とてもこんな力強いコンチェルトは出来なかったと思われます。
鳴らないピアノというのは音じたいが常にどことなく苦しげですが、この鳥栖のピアノは熟れたなんともどっしりした貫禄がありましたし、「ああ昔の演奏会はこういう音だった」と懐かしさまでこみ上げました。

というわけで、いろんな意味でたいへん充実したマロニエ君のラ・フォル・ジュルネ体験でした。
2011/05/10 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: 0edit

ラ・フォル・ジュルネ2 

ピアノコンサートが終わると直ちに、次の会場である大ホールへ移動します。
この音楽祭の決まりで、いったん外に出て再び中へ入らないといけないのですが、一階ロビー周辺はもう立錐の余地もない大変な人、人、人で、そこへ入りきれない人が外にまで溢れており、前に進むのもやっとです。
おまけにここでは無料の室内楽コンサートまでやっているようで、まさに黒山の人だかり状態。

ちなみにホールのロビーには2台のグランドが大屋根を開けて置かれていますが、一台はヤマハの古いCF、そしてもう一台はなんとあの有名なフッペルのピアノでした。

鳥栖のフッペルといえば第二次大戦末期、特攻隊の若い兵士が、出撃前の最後の休日にやってきてこのピアノで月光などを弾いたという話があまりにも有名ですが、鳥栖市はこの記念すべきピアノの名を冠して「フッペル鳥栖ピアノコンクール」というものまでやっているほど、この鳥栖市にとってまさに宝のような楽器なのでしょう。

思いがけなくそのフッペルを実物として初めて見ることができました。
そうそうあるチャンスではないと思い、顰蹙覚悟で低いけれども舞台らしき台の上にのぼって中を覗くと、たいへん美しく修復されており、しかもけっこうなサイズ(優に2m以上ありそう)なのには驚きました。

昔は日本各地の学校には今では信じられないような世界の名器が無造作にあったのだそうで、福岡の修猷館などもスタインウェイがあったとか、以前も見た古い映像では戦時中女学生がもんぺ姿で歌を歌っているとき伴奏に使っているピアノがベヒシュタインだったりと、日本製ピアノが戦後台頭してくるまでは、学校にはこんなピアノがたくさんあったようです。

コンサートに話は戻ります。
大ホールのコンサートはゲオルグ・チチナゼ指揮によるシンフォニア・ヴァルソヴィア(かの有名なヴァイオリニスト、ユーディ・ネニューインが1984年に創設したポーランドのオーケストラ)で、演目はベートーヴェンの交響曲第3番「英雄」とピアノ協奏曲第5番「皇帝」というものです。

英雄と皇帝というのも、あまりにベタな感じで笑えましたが、しかし聴きごたえのある2曲であることには確かです。

このコンサートは「大いにマル」で、英雄の出だしの変ホ長調の和音が鳴ったときから、なんというかある種の覇気があって、これは!と思いました。
予想通りに演奏は力強く、たいへん充実したものでした。
これは、とにかく久々に聴けた満足感のある演奏で、オーケストラそのものは特に大したことはないのですが、しかしみんなが気合いを入れて情熱的に演奏するために燃え立つような燃焼感があり、音楽になにより必要な生命感がみなぎります。
そして、この傑作シンフォニーの素晴らしさとあいまって音楽の中に引き込まれ、大いなる感銘を呼び起こすものでした。

当初は第6番「田園」が予定されていましたが、おそらくは(マロニエ君の想像ですが)英雄の第二楽章は葬送行進曲であるため、東北地方大震災の犠牲者の追悼の意味もあってこの曲に変更されたのだと、あとから解釈しました。

ともかく、燃焼して突き抜けた演奏はそれだけで聴く者の心を揺さぶるものがあり、ここ何年もこういう熱い演奏に接したことがなかったように思いますし、おかげで何年分かの溜飲が一気に下がった思いでした。

日本のオーケストラの中でも有名かつ上手いとされていながら、実際は役所仕事みたいなシラけた演奏しかしない高慢な放送局のオーケストラなどとは大違いで、フレーズの盛り上がりやストレッタなどではみんな上半身が反ったり揺れたり、音楽とはこういうもので、音楽家が演奏というものに今ここで打ち込んでいるという姿と音が目の前にありました。

続いて「皇帝」ですが、独奏者がエル=バシャからミシェル・ダルベルトに変更になったのは事前に発表された時点でガッカリでしたし、あいかわらずダルベルトの演奏はマロニエ君の好みではありませんでしたが、それでもこの活き活きとしたオーケストラに支えられ、あるいは触発されて、ダルベルトも非常に力のこもった渾身の演奏をした点についてはよかったと思いました。

ただ、せっかくの充実した演奏でしたが、楽章間に会場全体が盛んに拍手するのは今どきどうかと思いました…。
ごくたまに、あまりの熱演で思わず楽章間に拍手が起こるということはあっても、これはまさにその時の自然な流れから起こるものですが、それではなく、みんな無邪気に一曲ごとに拍手している感じがありありとしていて、挙げ句にはピアノの移動の際にちょっと楽団員が移動するのさえいちいち拍手々々なのには、ちょっといたたまれない気持ちになりました。

もちろんそれだけお客さんが喜んだという意味では大変結構なことだとは思いますけど、クラシックには最低の様式というものがあり、そこはぜひ守って欲しいものです。

都市部ではちょっと考えられない珍現象でした。
2011/05/09 Mon. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

ラ・フォル・ジュルネ1 

九州初上陸のラ・フォル・ジュルネ鳥栖2011に行ってきました。
夕方から2つのコンサートを聴きましたが、結果は「大いにバツ」と「大いにマル」のふたつ。

東京で行われるような規模ではなく、わずか2日間の本公演でしたが、それでも3ヶ所の会場で30近いコンサートが行われたのですから、ともかくも画期的な音楽祭だったと思います。

今年のテーマは「ウィーンのベートーヴェン」ということで、すべてベートーヴェン作品が演奏されたようです。

そもそもなんで鳥栖なんだろう?という思いはありましたが、会場に近づくとなにやらあたりだけやたら賑やかで、車をとめるのも大丈夫だろうかと思うほどでしたが、幸いにもなんとか置くことができ、会場へ急ぎます。

敷地内はもう大変な人出で、覗くヒマはありませんでしたが、前庭には各種の屋台などがズラリと居並んでおり、人を掻き分け掻き分け進む様は、まさにお祭り騒ぎのそれでした。

会場は鳥栖市民文化会館で、ここの大・中・小の会場で各種のコンサートが繰り広げられているようでしたが、通常のコンサートと違うのは、同時刻に複数のコンサートが行われるために、目指すコンサートの会場入りを待つ列の後ろを探さなくてはいけないなど、ちょっとした戸惑いもありました。

マロニエ君は2日目の夕方からピアノソナタのコンサートと、オーケストラのコンサートに行きましたが、聴いた順にいうとまずピアノソナタのコンサートですが、これはものの見事に失敗でした。
演奏がともかくお話にならないというか、はっきり言って聞くに値しないものだったと強く感じましたので、あえてピアニストの名前は書きませんし、覚えてもいませんし、調べて書く気にもならなりません。
曲目はピアノソナタ第1番と第23番「熱情」で、ともにヘ短調のソナタです。

マロニエ君が座った席は100人強の会場の、ピアノをコの字形に取り囲む座席配置の中で、ピアノのお尻のほうの席でしたが、ここから真正面によく見えるのがペダルでした。
で、この人、やたらめったらソフトペダルを多用するのはもうそれだけでいただけません。

ソフトペダルは演奏する作品によっては柔らかな弱音や音色を変えるためなどにこれを使うのはわかりますが、タッチで強弱を付けるかわりにこのペダルを踏んでいるようで、どうかするとずーっと踏みっぱなしで、なんなんだと思います。
大まかな印象では全体の半分近くこれを踏んでいたように感じましたが、普通、熱情の前後楽章でこれを踏む場所がどこにあるだろうかと思いませんか?

小さな会場故か、ピアノはヤマハのS6でしたが、これがまたなんと言っていいか…。
少なくともマロニエ君にはその良さがまったく理解しかねるピアノで、帰ってカタログを見ると同サイズであるC6の倍近い504万円!もするのには驚き、何かの間違いではないか?と思いました。

よくCシリーズとは違うようなことを尤もらしく言う人がいますが、マロニエ君の耳にはまったくそれはわかりませんでした。カタログにも何がどういいのか、なにひとつ明確な記述も説明もないところが不思議ですが、それでこの猛烈な価格差はどう納得すればいいのだろうと思います。

高音がキンキンいう割りには低音が貧弱で、ゴンとかガンとかいうだけの音がいっぱいありました。
あれでプレミアムグレードという位置付けだそうですが、マロニエ君ならレギュラーシリーズのC6か、いっそC3でも充分だと思われました。

以前もちょっとしたコンサートでS6の音を聴いたときにも似たような印象だったことを思い出しましたが、このときはたまたまだろうぐらいに思っていましたけれど、やはりたまたまなんかではありませんでした。
少なくともヤマハほど厳格な品質管理の行き届いたメーカーの製品なら、そんな当たりはずれはないでしょう。

C6とS6の違いのわかる人のご意見をぜひとも拝聴してみたいものです。
とりあえず今日はここまで。
2011/05/08 Sun. 02:02 | trackback: 0 | comment: 0edit

自称恋愛の大家 

こういっちゃなんですが、世の中はたいしたこともない人に限って、虚勢をはって大風呂敷をひろげるようなことを言うものです。
恋愛経験も例外ではなく、どちらかというとあまり経験がありそうには見えないような人のほうが、自分の経験らしきものをご大層に、恭しげに語ってしまう場合があるものです。

ごくたまにこの手の話を見聞きすることがありますが、そこで語られる「自分」はまるで映画の主人公並で、出会いからお付き合いの経過、心理の駆け引き、それにまつわる困難や苦労話までもが、誇らしげに、熱っぽく語られるのには失笑してしまいます。
とくにある種の目立ちたがりで、しかもどちらかといえばあまりおモテにならないような女性の中に、この手のタイプがいらっしゃるようで、逆に経験豊富な人はだいたい自分のことは黙っているようです。

どこまでが自分の経験か疑わしいような話まで一切合切ひとまとめにして、例えば相手の人間性の見極め方であるとか、世の中にいかに酷い最低の男がいるかというようなことが綿々と語られ、すべては自分を中心とした視点や思考基準のもと、そこに登場する男女は、より極端にコントラストを強調しながら、苛烈な筋書きをもって誇大に脚色され表現されています。

しかもその苦心談が、まるで壮絶で深みのある人生経験のごとく、朗々と語られる自慢話のようになっているのがお定まりです。
こういう人の得意のセリフは「下手なドラマなんかより、よっぽどすごい!」とか「全部話そうとしたら本が一冊できちゃう!」といったもので、マロニエ君などは、だったら書いてみろ!とつい言いたくなります。

そんなに稀有な体験で、波瀾ずくめのすごい話なんだったら、どんどん原稿にでも仕上げて、出版社なり映画会社なりにプレゼンでもしてみりゃいいのです。

あまり具体的なことは書けませんが、男女の仲において、片方だけがそれほど極端に悪くて、もう片方は善人の鑑のような人なんてとことがあるだろうかとも思います。
もちろん個別具体的にはいろいろと驚くべき話が転がっていることは承知していますし、実際ひどい男(女)もいるでしょう。

しかし、大きく見れば、男でも女でも、そんなに言うほど片方が酷い人間なのであれば、いつまでもそんな人と手を切らずに関係を引きずった側にも、ある一定の責任はあるように思います。

もちろん、第一義的には悪い方が悪いに決まっていますが、(とくに結婚していないなら)いいかげんに見切りを付けるべきであったところを、自分もいろんな諸事情あって未練がましく離れきれないでいたクセに、にっちもさっちもいかなくなったとたん、一転して相手ばかりをののしり募っても、なんだか客観的には説得力に著しく欠けていたりするものです。

ところが、こういう人に限っていつしか恋愛のオーソリティーのような顔をしはじめ、自分のささやかな体験を元手に、したり顔で恋愛論をぶちあげ、果ては他人の話に尤もらしいコメントをつけたり、我こそはという相談役となって堂々とアドバイスやお説教までやってしまいます。

人並のバスにさえ乗っていないような人が、その道の専門家のような口を聞くのは、まさに失笑ものです。
2011/05/07 Sat. 01:22 | trackback: 0 | comment: 0edit

練習会でした 

昨日はピアノサークルの練習会でした。
今回はリーダー殿がゴールデンウィークで不在のため、マロニエ君が幹事役を代行しての開催でした。
とはいっても会場の予約や告知以外に何をしたというわけでもありませんが。

会場は市内のグランドピアノのある喫茶店で、そこを貸し切って使わせていただきましたが、普段の定例会とはまた違った雰囲気を楽しむことができました。
この喫茶店は音楽を主体にした店で、小さなコンサートなども随時おこなわれており、貸し切りで使うほかに、一般のお客さんの入店もOKの使い方であれば会場費はなんと無料!になるのですが、喫茶店利用が目的で来られた普通のお客さんを前にして、我々のようなシロウト集団が練習会をするのは営業妨害になると思われましたので、敢えて貸し切りでの利用となりました。

この店のピアノはわりに新しいヤマハのC5で、とても素晴らしいピアノでしたが、ふだん弾き慣れないヤマハのタッチにすっかり戸惑ってしまい、最後までこれに慣れることができませんでした。
ここの近くにある、定例会で何度か使ったことのあるスペースのC3もまったく同様のタッチであったことを弾いていて思い出しましたから、やはりこれがヤマハの標準的なタッチだろうと思われます。

あとからわかったことですが、今回は10人の参加者のうちの実に5人がカワイのグランドのユーザーで、これもなにかの必然か偶然か、そこのところはよくわかりませんが、みなさんピアノに関してはほぼ同意見であることが妙に納得できました。

マロニエ君も昔はともかく、今は普段はカワイに触れることが最も多いので、日本では最もポピュラーなはずのヤマハのタッチに戸惑いますし、出てくる音とのバランスの関係にもよく馴染めないようになってしまっていることに、我ながら驚いてしまいます。

目の前の文字が「K.KAWAI」じゃないことが落ち着かず、あの肉厚なYAMAHAの文字を見ただけで勝手の違うよその人みたいな気がしてしまいますし、これはきっと逆の場合もそうなんだろうなと思います。

そう考えると、どこのピアノでも待ったナシに弾かざるを得ず、しかもそれで自分の力を示さなくてはならないプロのピアニストというのは、本当に大変なことをやっているのだと思ってしまいます。

練習会終了後の懇親会は近くのホテルでバイキングとなりましたが、そこの宴会場の脇に置かれたピアノもヤマハで、このところ場所探しをしたほとんどの会場がヤマハでしたから、その一般的な普及率の高さは、とうていカワイの及ぶところではないようです。

もうひとつ感じたことは、マロニエ君みたいにメチャメチャ緊張するタイプの人間にとっては、会場は狭い方がよけいに緊張の度合いは高まるようで、広い方がまだいくらかマシということがわかってきました。
とはいっても、どっちみち緊張することに変わりはないのですが。
2011/05/05 Thu. 02:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

黄砂 

昨日は、郊外まで出かけたのですが、あいにく黄砂の影響で景色はどこを見ても限りなく重々しく霞んでいるようでした。
普通の霞や曇天と違うのは、空気がどこまでも薄茶色に汚れている感じのするところです。

黄砂を見ていると思い出すのは中国です。
中国に行くと上海でも北京でも、たえずこの色の空に覆われていて、そんな中に不自然かつ奇抜なセンスの高層ビルが林立しているのが現代の中国都市部のお定まりの眺めです。

これはいうまでもなく、年々その範囲を拡大しているらしい内陸の砂漠地帯から砂塵が風に乗って撒き散らされるためですが、この影響は日本でもかなり深刻なもののようです。

昨日も気がついたのは、走っている車の屋根やボンネットなどが、うっすらと黄粉をふりまいたように茶色に汚れていることで、これまでの黄砂だったらダーク系の車でそれを確認することが出来る程度でしたが、福岡ではここ数日黄砂が続いたためか、今回は白やシルバー系の薄い色の車でもそれがはっきりとわかり、やはり相当量が降り積もっているものと思われます。

マロニエ君は最近でこそ少し小康を得ているものの、もともと呼吸器がそれほど強いほうではなく、数年前は喘息治療で専門医のもとへ通院したりしていました。
親しい知人の医師が言うには、そのまた医師仲間である呼吸器が専門の医師の話によると、要するに日本人のぜんそくの多くは主に黄砂に起因しているというのだそうです。

黄砂がなくなれば日本の喘息患者の多くがより快適な体調を取り戻すことができるのだそうですが、そうはいってもこればかりは自然現象でもあるし、日本の東に中国大陸が存在するのは如何ともしがたく、まさか国が引っ越しをするわけにもいかないので、これはどう考えても解決の見込みはないようです。

しかし、たえず呼吸をしている人間(動物もですね)の肺には、現実にそれだけの量と時間、黄砂の成分が入り込んでいるわけで、それを思うと考えただけで呼吸が苦しくなりそうな気分になります。

巷ではたばこの煙が厳しく規制されていて、愛煙家には申し訳ないもののその恩恵に浴しているマロニエ君ですが、黄砂も純粋に人体へどの程度の悪影響があるのか、ここは興味のあるところです

黄砂の強い日は車のエアコンももちろん内気循環に切り替えてしまいますが、結局なにをどうしたところで、どのみち日常生活でこれを防ぎ切ることは不可能なので、結局はそれに対する抵抗力をつけるしかないということでしょうね。

そういえば中国には、日本人が普通に親しんでいるような、あの青空はほとんどないような気がします。
飛行機に乗っても、着陸態勢に入って次第に高度を下げると、まず印象的なことは一転して空気がどことなく茶色っぽいこと、海はおしなべてどんよりと濁っていることです。

逆に日本に帰ってくると、どこを見てもその澄んだ空気の美しさ清々しさに驚かされますが、ここしばらくはそれも望めそうにありません。
2011/05/04 Wed. 01:29 | trackback: 0 | comment: 0edit

真相はいずこに 

あるピアノ技術者のブログを読んで「へぇぇ、そうだったのか」と思わせられる書き込みが目につきました。
やはりというか、思いがけなく感じていた疑問が解けたようでした。

ショパンコンクールでヤマハのCFXを弾いて優勝した、ロシアのユリアンナ・アブデーエヴァですが、これは同時にヤマハのピアノを弾いた優勝者が現れたという事でも同社にとって有史以来の初の快挙だったわけで、しかもその約半年前に発表された新開発のコンサートグランドがいきなり世界的コンクールでいわば金メダルをとったようなわけで、ヤマハの喜びようは大変なものだろうと思っていました。

当時の予想では、さぞかしこれからは広告やカタログにもそのことが大々的に打ち出されるものだろうと思っていましたし、それはマロニエ君だけでなく業界の人達もおしなべて同様の見方をされていたようでした。

ところがその後のヤマハの広告には、アブデーエヴァのアの字も、ショパンコンクールのシの字もまったく出てこないのは大いに予想外という他ありませんでした。通常ならたぶんこんなことは考えられないことで、かつてヤマハが広告にリヒテルをしつこいほど使い続けたことを考えると、「どうしちゃったの!?」と言いたくなるような静けさで、それは今だに続いています。

アブデーエヴァは優勝直後に2度来日し、一度はN響との共演、続いてワルシャワフィルとコンクールのファイナリスト達で回るガラコンサートでしたが、なんと彼女はスタインウェイばかりを弾きました。

はじめは「NHKホールは外部からピアノの持ち込みはさせないらしい」などの憶測も飛び交いましたが、ヤマハを弾かない状況は他のホールでもずっと続きました。
そして、冒頭の技術者の裏情報によれば、なんとアブデーエヴァ自身の意志によって、優勝後は使うピアノを変更したのだそうで、優勝直後にそれをするのは非常に思い切ったことだということも書かれていました。
しかも公演地は他ならぬ日本ですから、当然ヤマハもピアノを準備していたらしいのですが、これを退けてスタインウェイを使ったとのことで、そんな手の平を返したような豹変があるのかとただただ驚きです。

コンクール直後の海外公演で、しかもヤマハの生まれ故郷である日本の舞台で敢えてそれを弾かないというぐらいなら、なぜコンクールでは一次から一貫してヤマハを弾き続けたのかと思いますし、普通に考えれば、アブデーエヴァだってヤマハには恩義のひとつもありそうな気もしますし、ましてや優勝後初の日本での演奏なのですから(あくまで普通に考えればです)。

単純にアブデーエヴァがヤマハよりスタインウェイのほうを好きになったと見るのはあまりに稚拙な解釈という気がして、ここには我々にはうかがいしれない諸事情がありそうな気がします。
とくに企業間の暗闘には筆舌に尽くしがたい激しいものがあり、それに伴ってコンクール自体にも暗い噂がたったことが過去に何度もありましたから、今回もまた水面下でのいろいろな駆け引きがあり、これは要するにその結果だということもじゅうぶん可能性がありそうです。

楽器の業界も、舞台裏は魑魅魍魎の棲むドロドロの世界だと聞きますから、我々のようにただ音がどうのなんて勝手なことを言って楽しんでいるだけではすまされないものが絡んでいるのはまぎれもないこと。
結局、世の中って、どこも現実は決してきれいなものではありません。

好きなことは趣味にして、勝手なことを言っているのが一番ですね。
2011/05/03 Tue. 02:21 | trackback: 0 | comment: 0edit

草が伸びて 

昨年の夏に何度か書いた庭の草戦争ですが、今年もついにはじまりました。
というよりも、戦いにおける先手必勝の法則に倣えば、出だしで大きくつまずいた感のあるマロニエ君です。

昨年は薬物投下により勝利宣言をしていたわけですが、今年はつい油断してしまい、毎日ばたばたしている間に、敵は春の陽射しをシャワーのように浴びて、日に日にその姿をあらわにしてきました。

つい先日、一度だけ簡単に除草剤をまいていたのですが、時間がないことと、けっこうこれが重労働で疲れるので中途半端に終わらせていたのですが、その間にもぐんぐん伸びてきてしまい、庭は一面緑のヒゲが伸びたように雑草の海になりつつあります。

早くしないとと気持ちばかりは焦りますが、なかなかその作業に取りかかれないのが毎日気がかりです。
方法としては、除草剤の原液を希釈して、ジョーロでまいていくのですが、自分の足にかかるとよくないので、ガレージから長靴を取ってこなくてはならず、たったこれだけのことも面倒臭くて何度か延期してしまいます。
どこかで腹をくくって、時間をつくってやってしまえばいいものを、ぐずぐずしているうちに敵は確実に進撃してくるのがなんだか恐ろしくさえなってくるわけです。

ところがこうしてモタついているうちに夕方から夜中にかけて雨になったりすると、まだ薬をまいていなかったことが逆に良かったように思われるというか、もし実行していたら、あえなく雨で流されるところだったと考えて、一時的にホッとしたり、しかし雨上がりはまた一段と伸びてくることを考えるとウンザリしたりの繰り返しです。
こう言ってはなんですが、怠け者というのも結構かかえるストレスは大変なものです。

また、この時期は木々から新芽やらなにやらが多く萌えだして、それを情緒として楽しむヒマもないほど、木の芽などいろんなものが毎日盛大に降ってくるわ、樹液でいろいろ汚くなるわでうんざりです。
距離を持って見ているぶんには緑はほんとうに美しいものですが、ちょっと身近の植物というのは実は不気味でグロテスクな一面があるものです。

樹下には自然に生えてくる木の新芽も数多く、一見これは自然の営みでかわいらしいもののように見えますが、さっさと摘みさっておかないと、一年もほったらかしにすると、もう引き抜くのも並大抵ではないほどの成長をしてしまいます。
こういう労働を怠ると、草木はそれこそ傍若無人な振る舞いを始めて、それこそあたりは不気味な状態となってしまいます。

これがアウトドアの作業とか庭いじりが好きな人なら、楽しみにもなるのかもしれませんが、マロニエ君の家にはあいにくと該当する人間が一人もいないので、いつもイヤイヤながらこの始末に追われていまいます。

ときどき、庭中にコンクリートでも流し込みたくさえなります…。
2011/05/02 Mon. 02:06 | trackback: 0 | comment: 0edit

管理意識の欠落 

昨日は午後からむしむしすると思ったら、夕方から雨となりさっそく除湿器を回しています。

有名メーカーのセレクションセンターなどは常時、湿度は47%、温度は24℃に維持されているそうですから、これを一応の理想基準として自分のピアノの管理の参考にしたらいいと思いますが、なかなかそこまではできません。
マロニエ君の場合は湿度は50%前後、気温は20〜25℃といったところですが、就寝時は部屋が無人になるためにエアコンは止めますので、朝までは若干の寒暖差がおこるのはやむを得ないところです。

しかし、このピアノ管理というのは実は素人のピアノ好きのほうがよほどちゃんとしているくらいで、ピアノの先生やピアニストの中には、まったく信じられないような酷い人が多いのは、知る限りでもそうですし、人から聞く話でも同様のことは際限なく聞こえてくるものです。
いわばピアノの専門家の所有でありながら、ほとんど虐待とでもいいたくなる扱いのピアノは少なくありません。

ピアノの先生というのは、表現が難しいですがいろんな意味に於いて視野が狭く、本当に先生として尊敬できる人物、演奏の技量、音楽的な造詣、楽器の知識などを兼ね備えている人なんて、まさに文字通りの一握りの別格例外的存在です。

ピアニストはピアノの先生よりも演奏を本分にしているだけ、ピアノを弾くための単なる指のスポーツ的テクニックだけは先生よりも上だと言えるでしょうが、それ以外は大した差もなく、ピアニストでもピアノの事を何も知らない、ただの道具としか思っていない人のほうが圧倒的に多いようです…残念なことに。

タッチなども、極論すれば、たぶん重いか軽いか以外の判別能力は実はほとんどないでしょう。
ピアノの評価も派手な大きな音がするピアノを良しとして、少し地味でも本当に美しい音を出すようなピアノの良さがわからず、言下に「鳴らない」などと言ってしまうなど朝飯前。
レッスン室ではグランドピアノの真下に電気ストーブを入れているとか、ピアノの上に花瓶を置くなどという話はゴロゴロですし、メトロノームはあっても湿度計はなく、ましてやピアノのために除湿器を回すなんてことはあり得ないような人が大半です。

そうかと思うと、ピアノにはいつも重々しいカバーがかけてあったり、毎度毎度キーのフェルトカバーを置いたり取ったりすることだけはぬかりなかったりと、いったいどういう部分を大事にしているのか理解に苦しみます。

ピアノの管理とは限らなくても、世の中には湿度に対してそうとう無頓着な人が多くて、この点ではどちらかというと敏感なマロニエ君などは驚くことが少なくありません。
ベタついた湿度の中で平然としている人を見ると、思わず野蛮人のように見えてしまいます。

リサイタルをするようなピアニストでさえ、梅雨の時期にもエアコンを入れず、雨が降っていてもかまわず窓を開けて平気で練習するといった冗談みたいなことをするという、正にウソみたいな本当の話があるのです。
こんな無神経な人が、リサイタルをすることだけには異常に熱心だったりするわけですが、そんな人の演奏は聴きたいとも思いません。

そんな驚くべき管理の悪さは棚に上げて、たまさか調律師が来ると、後日どこどこの音がおかしいだのと日ごろの自分の管理は棚に上げて、お金を払ったとたんにクレームだけはつけたりするようで、調律師もたまったものではありません。

あれ?ピアノの管理のつもりがつい脱線してしまいました。
2011/05/01 Sun. 03:11 | trackback: 0 | comment: 0edit