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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

なだめる心理 

最近、あることがちょっとわかりました。

軽薄なマロニエ君は、甚だくだらないことで立腹することが多いのですが、そんなとき、人にぶちまけて理解を求め、共感を得ようとすると、おざなりにまあまあとなだめられたり、相手があきらかに第三者ぶって保身の態度をとられたりすると、さらにまたそこにムカムカくることがあります。
まるで被害者であるこちらのほうが逆にお説教されるハメになったり、却って人の狡い面を見せられることになったりで、怒りはダブルに発展して何なんだこれは!とその不快感は次々に新しい枝を伸ばします。

とくにマロニエ君の嫌いな言葉は「まあ、いいじゃないですか!」「人の自由だから!」というようなフレーズで、そんなありきたりな言葉を聞きたくて言っているのではないと言いたくなります。寛大ぶって、やたら許容量の多い、懐の深い、人格者のような言動を取りたがる人って、今どきは意外に少なくありません。

それも本当に寛大で立派な人格者ならいいのですが、ちっともそんなことはない臆病な凡人くせに、そういうときだけ妙に取り澄まして、落ち着いた余裕ありげな態度を取りたがるのはなんなのかと思います。
ただ単に、自分が言及するのが恐いだけという臆病心も見て取れたりします。
それでなくても、最近はやたらめったら隙あらばいい顔をしようとする、いい人願望、人格者願望、誰からも好かれる願望の強い人が多く、なんでそこまでして自分だけいい顔してポイントを稼ぎたいのか。

ところが、ごく稀に相手のほうが何かの事で、怒り心頭に発している場合もないではありません。
最近も偶然そういう場面に接しましたが、あまり相手の怒りが激しいので、ついついこちらはなだめる側に廻っている自分にハッと気がつきました。
なんと、あれほど自分が怒っているときにそれをなだめられることを嫌っていたこの私が!!!

なるほど、これは人の心理なのかということが思わず諒解できました。

適当な雑談程度なら、話はぐんぐん盛り上がってくるものですが、片方があまりにも憤慨して一種の興奮状態にある場合に限っては、相方はそれに圧倒されて、なんとかこれを鎮めようという反射心理が働くようです。
決して相手方の味方をしている訳ではないのですが、なんとか客観的なコメントによって事を鳥瞰的に捉えようとしているのかもしれません。
その状況に対して一定の冷静な理解を示そうとすることが、怒っている人にとっては逆効果になるわけで、止むにやまれぬ怒りすら抑えろと強要されているような心地がするんですね。

まあ人が怒っているときは、そこで第三者として公平に振る舞おうなどとは努々思わないことが大事だとあらためて思いました。
相手が欲しいのは味方であり共感してくれる人なのですから、それを忘れちゃいけません。
ましてや「私はどちらの味方もしないけれど…」というあのフレーズだけは絶対に禁句だと思います。
これを言われて気持ちのいい人はたぶんいないはずではないでしょうか。

しかし、それを口にする人の、なんと自分は正しい態度だと信じてその言葉を口し、自分に酔いしれていることか!
こういうことをしたり顔で言う人は、なにか大事なものを履き違えている気がします。
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2011/03/31 Thu. 02:31 | trackback: 0 | comment: 0edit

馴れの怖さ 

昨日書いた「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」ですが、その第1集を何度も繰り返し聴いていると、見えてくるものもいろいろとあるようです。やはり基本的な印象は変わりませんが、それにしても100年前のプレイエルをここまで精緻な楽器に仕上げるということは並大抵の技術ではないと素直に脱帽です。
横山氏の演奏は、指さばきは本当に見事だけれども、だんだんそのコンピューター的な演奏にどうしようもなく違和感を覚えてきますし、ピアノ学習者がこういう演奏を理想のようにイメージしそうな気がして、もしそうだとしたらちょっとどうだろうかと思います。

曲目はロンド、ピアノソナタ第1番、12のエチュードOp.10ですが、ソナタの第3楽章の夢見るようなラルゲットをあまりにも無感覚に通過したり、Op.10-1でのアルペジョの鋭い折り返しのやり過ぎや、Op.10-10では左のバスにこれまで聴いたことのないような機械的なリズムがあったりと、なんというか…上手いんだろうけれども、それは音楽とは似て非なるものを聴かされているような気分に囚われてしまうのを自分で抑え込むことができなくなってきます。

プレイエルの音もあまりに見事に、少なくともこのピアノが作られた当時想定されなかったような高い次元でバランスされ、統御されているので、その両者を組み合わせることは、結局はせっかくのプレイエルが現代的なピアノのような感覚につい耳が埋没してしまうようです。
さらには、演奏も冒頭に述べたように、あくまでも現代の楽器とメトードで鍛えられた正確無比な今風のものなので、なんだか最終的にちぐはぐというか、どこかしっくりしないものを感じてしまうのでしょう。
こんな調整と弾き方なら、やっぱり現代のヤマハかスタインウェイで弾くのが一番だろうと思えてきたりするわけですが、この印象が的確であるかどうかはまだ自分でもよくわかりません。

そんな疑問が次々に去来してくる事態に達して、ついに久々にコルトーのショパンを聴いてみたのですが、やはりそこにはプレイエルの自然で伸びやかな歌声がありました。
この録音の中にあるものは、すべてが一貫性のある辻褄のあった世界で、コルトーのいささか過剰では?とでもいいたくなるような詩情の発露をプレイエルがどこまでも繊細に受け止め、それを当然のように表現していきます。
楽器と奏者の関係というのは、こうあらねばならないと痛感させられるのです。

でも!
それよりもなによりも驚いたのは、このところマロニエ君はショパンコンクールのライブCDを洪水のように聴いていたためとも思われますが、もともと大したものではないコルトーのテクニックが、まるで子供かシロウトように稚拙に聞こえてしまったことで、これにはさすがに愕然としてしまいました。
もちろん喩えようもなく美しい瞬間はあるものの、馴れとは恐ろしいものです。
あまりコルトーのイメージを壊したくないので、ちょっと今は止しておこうと思ったのが正直なところです。

で、再び横山氏のCDに戻ると、これはまた目から鼻に抜けるような指さばきで、これもちょっとやり過ぎとしか思えません。マロニエ君の欲しいものは、ピアノもピアニストもこの中間に位置するような塩梅の演奏とピアノなんですが、それがまた無い物ねだりなんですね。

原点に返れば、そもそも1910年のプレイエルで新録音が出たというだけでも、僥倖に等しいこのありがたい企画には、素直に深謝しなくてはいけないのはまぎれもない事実ですから、あまり際限のない欲を出してはいけませんね。
つくづくと人間の欲というのには終わりがないようです。
2011/03/30 Wed. 01:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

プレイエルの新録音 

「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」というプロジェクトがスタートし、これは横山幸雄氏が戦前のプレイエルを使って昨年の10月17日(ショパンの命日)から石橋メモリアルホールにおいて、コンサートと録音を同時にスタートさせたものです。

マロニエ君が近年、最も個人的に関心を寄せるピアノがこの年代のプレイエルで、昨年のショパンイヤーではプレイエル使用と銘打ったCDもいくつか発売されたものの、それらはいわゆる19世紀製造のフォルテピアノであり、実際にショパンが使って作曲したという時代の楽器を使うというところに歴史的な意味合いが多かったようです。

しかし、マロニエ君がもっとも心惹かれ、好ましく思っているのは20世紀の初頭から数十年製造された、交差弦をもつモダンピアノとしてのプレイエルであり、その甘美でありながら陰のある不思議な音色は、代表的なものではコルトーの残した録音集から、その音を聴くことができるものです。
ショパンにおけるコルトーの詩情あふれる妙技のせいももちろんありますが、そこに聴くプレイエルのなんとも切々と鳴り響く妙なる音色は、大げさにいうと柔らかさの中に不健康な美しさが籠もっていて、まさにショパンを弾くためだけに生まれてきたピアノと言いたくなるようなピアノです。

このピアノの音がもっと聴きたくて、一時はパリにまでCDを注文したこともありましたが、送られてきたのはやはりフォルテピアノのものでした。

というわけで「プレイエルによるショパン独奏曲全曲集」はいわば画期的な企画で、はやくもこのCDが店頭に並んでいましたので、3種ありましたが、これまでのマロニエ君なら一気に3枚まとめて購入するところですが、ここは理性的にまずは「1」を購入してみました。

期待に胸を膨らませて帰宅して、気もそぞろにプレイヤーにCDを差し入れたのは言うまでもありません。
果たして出てきた音は…それはたしかにプレイエルの音には違いありませんでしたが、コルトーのレコードに聴くような、気品と下品の境界線ギリギリをかすめながら、なまめかしさとか芳醇さのようなものが立ちのぼるさまはあまりありませんでした。

使われたプレイエルは写真だけでは判然としませんが、コンサートグランドではなく、おそらくは2m強のサイズのものだろうと思いますが、松尾楽器にも同年代のプレイエルを所有していることからか、松尾の人が調整をしているようです。
そのためかどうかはわかりませんが、ピアノが妙に整然としていて優等生的なのです。

シロウト考えですが、この時代のプレイエルにはまだまだスタインウェイのような完成度はなく、不完全なところもあったので、あまりムラのない高度な調整をしていては、却ってピアノがそれに応じきれないというか、このピアノの魅力の一端がスポイルされてしまうような気もしました。

表現が非常に難しいのですが、あまりにも見事な日本人流の完璧なヴォイシングや精妙を極める調律をやりすぎてしまうと、なんとなく息抜きのできない堅苦しい感じになるようです。
良い意味でのアバウトな調律などをされたほうが、このピアノは本来の味を発揮するように思うのですが、そんな危ない領域まで求めるのは、なにしろピアニストも録音スタッフも現代に生きる日本人ですから、到底体質的にも出来ることではないないでしょう。

そうそう、以前映像で見た、ショパンとは程遠いアンドラーシュ・シフが、ファブリーニ(イタリアの名調律師でポリーニなどの御用達)が調整したプレイエルを弾いているときにも同様の窮屈感みたいなものがあったことを覚えていますが、それに較べたら今回のほうがずいぶん優れているとは思います。

まあ、なんだかんだと文句は言ってみても、なんともありがたいCDを出してくれたものです。
これから順次発売され、12枚で完結するのだそうで、横山氏はこういう企画物を作り上げる際の、スタッフのひとり的な弾き手としては、指はめっぽう動くし、いいのかもしれません…。
2011/03/29 Tue. 01:37 | trackback: 0 | comment: 0edit

趣味の効用 

土曜はピアノサークルの定例会でした。
今回は仕事もバタバタ続きで、そうでなくてもろくな準備などできないマロニエ君ですが、更に輪をかけて練習が出来なかったので、短い曲でお茶を濁しました。

年度末ということもあってか、いつもよりは若干少な目の参加者数ではありましたが、そのぶんよりアットホームな雰囲気になって、与えられた3時間をゆったりと楽しく過ごすことが出来ました。
時間の余裕があったので、何人かは同じ曲を再挑戦といったこともされていました。

おかしかったのは、リーダー殿が今レッスンでやっているということでバッハのインベンションの第1番を弾きはじめたのですが、なんともなつかしい曲だったので、マロニエ君も楽譜を借りて今でも弾けるかどうか挑戦してみたのですが、それに続いて大半の皆さんが久しぶりに(中には30年ぶり!という人も)この1曲を、代わる代わる弾きはじめたのには笑ってしまいました。

こうやって一同がひとつの曲を代わる代わるに弾いてみるというのは、なんだかまるで試験のようでもあり、こんなこともピアノ遊びのひとつの在り方だと思われて、とても楽しいひとときでした。

プログラムではクラシック部門では圧倒的にショパンが多かったものの、入会されたときからシューマンだけを一途に弾き続ける方もいらっしゃいます。やはり自分の好きな作曲家というのは相性がいいものだし、いったんひとりの作曲家にのめり込むと次々に他の作品まで弾いてみたくなるというのがよくわかります。
マロニエ君にもいろいろな作曲家とそんな時期があり、むろんシューマンにずいぶんと熱中した時期もありました(とはいえ、まともに人前で披露できるのようなものはありませんが)。

定例会終了後の懇親会がまたいやに盛り上がって、長時間に及ぶのがここ最近の特徴のようになってしまっていますが、春が近いからなのか、こころなしか皆さんウキウキした感じにも見えました。
今回は会場の都合で懇親会の場所はファミレスだったのですが、0時を回っても誰も席を立とうとはせず、家に帰り着いたのはとうとう1時半になってしまい、昨夜はさすがにブログを更新する気力もありませんでした。
なんだか長時間席を占領してお店にも申し訳ないような気もしましたが、途中でデザートの注文もしたし…まあなんとか堪忍していただきたいところです。

さらに今週末にはお花見会もあり、みなさんずいぶんと盛り上がっているようです。
近い将来には阿蘇にあるグランドピアノのあるペンションへ行こうかというようなお泊まり案まであり、来月の定例会のあとゴールデンウィークには練習会と、あれこれ計画が目白押しのようです。

現在は東北の震災のために日本中が喪に服したような空気に包まれていますし、それはもちろんマロニエ君も人並みにそういう気持ちは持っていますが、だからといって毎日暗い顔をしておとなしくするばかりでは何も始まらないし、それでも人間は生きていくのですから、元気を出して前に進むからには、多少の楽しみというのは許される範囲で必要だと思います。

まあ、しばしば呑み歩いては散財し、夜ごと体にアルコールを染み込ませている道楽に較べれば、所詮ピアノサークルのお遊びなんて可愛いものですし、それで好きなことに集中できて、同時にリフレッシュできるとくれば至って健全なものですね。
2011/03/28 Mon. 01:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

ギーゼキング 

NHKの衛星放送で、あまり良いとはいいかねるモーツァルトの演奏を聴いたので、無性にちゃんとしたものが聴いてみたくなり、久々にギーゼキングのソナタを鳴らしてみたのですが、やはりさすがでした。

ふつうモーツァルトというと、多くのピアニストが意識過剰ぎみの演奏になるか、取って付けたようなわざとらしい軽妙な表現をしたり、これだというものがなかなかないものです。中にはこれみよがしに余裕を顕示して、まるで大人が子供用の本でも読むかのような弾き方をし、それでいて音楽性には充分以上に留意しているぞというようなフリをしたり、必要以上に注意深く細部にこだわって深みがありげな演奏したりと、どうもまともなモーツァルトというものに接することが少ないような気がします。

テレビで観たのは、もう70代に突入した大ベテランでしたが、近年は指揮にその音楽活動の大半を割いているためにピアノの腕が落ちたのか、その理由はよくわかりませんが、かつては中堅のテクニシャンとしても有名で、久々に聴く彼のピアノでしたが、線が細く、恣意的で、流れが悪く、なんだかとてもつまらないものでした。

それで無性にモーツァルトらしいモーツァルトが聴きたくなったわけです。
思い切ってモーツァルトの御大であるギーゼキングでも聴いて口直しをしようという思惑だったのですが、口直しどころか、あまりの圧倒的な素晴らしさに、もうそのテレビのことなど忘れて聞き込んでしまい、すっかりギーゼキングの世界に浸ってしまいました。

気負いのない自然な語り口、あるがままのテンポ、あるがままの音楽、そしてたとえようもない滲み出してくるその風格。気負っているわけでも、細心の注意をしているわけでもない、むしろ恬淡としたその演奏には、ごく自然に芸術家としての息吹と気品が当たり前のようにあって、ただただ心地よく、しかも安心して深い芸術的な音楽にのみ身を委ねられるという、ほとんど器楽の演奏芸術としては究極の姿であろうという気がしました。

とりわけ感心するのは、モーツァルトの作品(主に全ソナタと小品)が生まれ持った息づかいを、ごく当然のようにギーゼキングが同意して呼吸し、それがそのまま演奏になっているところに、聴く側の心地よさ、明解さと説得力、そして魅力があるのだと思います。
これは現代のモーツァルト弾きのようになって半ば崇められている内田光子とはいかにも対照的で、彼女はモーツァルトの意に添うためには作品に滅私奉公して、自らの呼吸もほとんど犠牲にしているようなところがありますが、その点ギーゼキングは作品に対して恐れなく磊落に向き合っており、ピアニストというか音楽家としての潜在力のケタが違うのだなあと思わせられます。

ちなみにギーゼキングはモーツァルトの演奏ではペダルを使わなかったと言われており、録音場所も相応なホールやスタジオに出向くのをこの巨匠は面倒臭がって、自分の事務所のような部屋に機材を運び込ませて録音していたといいますからなんとも呆れてしまいます。
ギーゼキングはもう一つ、蝶の蒐集家としても世界的にその名を残すという一面を持っていて、こういう幅の広い、面白味のある悠然とした芸術家は今はいなくなったように思います。

ギーゼキングの好んだピアノはグロトリアン・シュタインヴェークで、これはアメリカに渡る前のスタインウェイとも血縁関係のあるピアノで、現在も細々と製造はされていますが、スタインウェイとどこか通じるところのある、それでいてまた違った魅力のあるピアノです。
ちなみにアメリカに渡ってスタインウェイとアメリカ風に改名する前のドイツ名は、まさしくこのシュタインヴェークだったのです。
現代のグロトリアンを使った演奏としては、イヨルク・デムスが横浜のとあるホールにあるグロトリアンを使って録音したCDがありますが、やはりギーゼキングの使ったピアノに通じる独特な華をもったピアノです。
2011/03/26 Sat. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

ミネラルウォーター 

人の心理というものは如何ともしがたいもので、いくら理屈や建前ではわかっていても、我欲や不安感というものはそうたやすく理性で押さえ込むことはできないもののようです。

福島第一原発の事故いらい、放射能汚染の問題が連日かまびすしく報道されていますが、微量の数値が確認されたからといって、ほうれん草や牛乳などの生産者は、もともとこんな震災に遭った上に、さらに目も当てられないような打撃を加えられているようですね。

さらに今度は海水やダムの水にもわずかな放射能が確認されたということですが、人体に影響のない程度のごく少量のものである由。
したがって乳幼児のミルクなどにのみ、これを使用しないように通達があったと思いきや、予想通りと言うべきか、今度はスーパーなどからミネラルウォーターが一斉に姿を消す事態となっています。

政府がいくら乳幼児以外は大丈夫と言ってみたところで、こうなるとなかなかブレーキがかかるものではないのでしょう。

健全な社会において、情報の開示は確かに必要なことで、これが失われれば独裁国家と同じですから、何事によらず包み隠さず報道されるという基本は当然のことであるし、そのスタンスは正しいとは思いつつ、やはり、発表の仕方、報道のありかたにもどこかおかしなところがあるのではないかとも少し思っていまいます。

とくに日本人は汚染、伝染といった目に見えない事に対して示す反応というか、抱く不安感は際立って強い民族だと思いますが、あまりそんなことを言っていたら、被災地の人達のおかれている劣悪な現状(まことにお気の毒の極み)とか、消火に携わった東京消防庁のスーパーレスキューの勇士達の抱えているであろう不安などはどうなるのか…と思ってしまいます。

彼らの被った危険や、ましてやこの震災で落命した多くの人達のことを思ったら、そうそう些細なことで自分ばかりが安全を漁りまわるのも、いささか異常で見苦しい気がします。
ニュース映像の中には、不安だからという理由で、貴重なミネラルウォーターをドバドバ使ってお米を洗っている人などもいて、見ていてさすがにいい気持ちはしませんでした。

もうこうなると中がどんな水であっても、とりあえずペットボトルに入って店で売られている物ならそれで満足というか安心なんでしょうね。
問題の数値は次第に下がっているらしく、しかも基準は直接水を飲んだ場合を前提としたもののようですから、そんなに神経質になる必要はないと思うのですが、いったん煽られた不安とエゴが結びつくと、それこそ歯止めが効かない暴走状態になるのかもしれません。
2011/03/25 Fri. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

便利が不便 

久々に直接会話なしにコンサートのチケットを買いましたが、やれやれでした。

5月に開催されるラ・フォル・ジュルネ鳥栖(なんで鳥栖なのか、いまだに謎ですが…)のチケットを購入しようとチラシに記載された購入方法を見ると、基本的にチケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、JTBエンタメチケット、鳥栖市民文化会館の5種類が案内されており、自宅の近くにローソンがあるので、これが一番便利ではないかというごく単純な理由からローソンチケットで購入することにしました。

電話をするとすべて音声ガイダンスに従うもので、電話機の操作のみで予約していくものでした。
そもそもマロニエ君はこの音声ガイダンスによる操作というのが性格的にイライラして好きではありませんが、とりあえず仕方がないと諦めてこれに挑みました。

まあ、それにしても音声ガイダンスというのはなんであんなに時間を取るのものかと思います。
ひとつの操作に要する時間も、だらだらと長くかかって、そのたびに子機を耳から離しての操作、そしてまた耳に当てて次のガイダンスを聞くという、ヘンな動作の繰り返しです。

しかも相手は機械なので、こちらから問い返しが出来ないぶん、聞き損じのないようけっこう集中させられますし、各種のコードなどを入力するにも間違えないようにしないと、失敗すればまた振り出しからやり直しになることを考えると、さらにまた慎重にならざるを得ません。

ラ・フォル・ジュルネの場合は、たくさんのコンサートの中から自分の希望するコンサートを指定する操作まで含まれるので、ひとつのコンサートのチケットを予約するだけでもけっこう複雑で疲れました。
さらに、マロニエ君の場合、同日に二つのコンサートに行こうとしているので、結局それを二度繰り返すことになり、全部終了するころにはなんだかもう気分的にクタクタになりました。
10桁の予約番号を機械の音声で妙にひとつひとつゆっくり言われると、抑揚がなくて却って聞き取りづらく、書いて控えるのも妙に大変です。さらにその番号をダイヤルさせられて確認を取るようになっており、なんだか途中でアホらしくなってきます。

さらにチケットの購入期限まであまり時間が無く、明日に迫ったのでさっきローソンに行ってきたのですが、ロッピィとかいう端末の前でまた操作々々の連続です。
途中で操作がわからなくなってお店の人に聞いたら、意外にもお店の人は操作のことはなにも知らないようで、いろいろと考えた挙げ句に、端末機備え付けの電話で聞いてくれといいます。
しかたなく電話をしたら、これがまた混み合っていて繋がるまでにかなり待たされて、5分ぐらい待ったところでようやく話ができましたが、それで再度操作を開始して、やっとやり方がわかりました。

それをまた二回続けて、機械からペロンと出てきたレシートをレジに持っていって支払いをすると、ようやくチケットが発行されて、めでたく終了となりました。
しかし、ローソンの滞在時間だけでも結局のところ30分近くかかりました。

でも、考えてみると、昔の対面式のプレイガイドならものの10分ぐらいで済むことを、なにが悲しくてこんなにも機械相手にせっせと精力を使っているのかと思うと、なんだかとても愚かしい気になりました。
もともと便利なはずのものが、使ってみると却って煩雑で、時間がかかって、不必要に疲れてしまうばかりじゃないかと思います。

これでは要するに、チケットを売る側の仕事をお客さんがさせられているようなもので、だったら少しは料金も安いというのならまだ話はわかるのですが、これだけの手続き作業を延々とさせられた挙げ句に、一枚あたり310円!の発行手数料をとられるのですから、どうにも納得できかねます。
こんなことなら潔くチケットぴあの窓口にでも行けばよかったと思いました。

でも、今の若い人はこういうことはさして苦痛ではないのでしょうし、だから自分の声で活き活きとしゃべるより、メールのほうが好きだったりするのかとも思います…。
なんだかへんてこりんな時代ですね。
2011/03/24 Thu. 02:32 | trackback: 0 | comment: 0edit

詩的で宗教的な調べ 

「詩的で宗教的な調べ」は全10曲からなるリストの作品で、リストがあまり好きではないマロニエ君にしては好ましく思っている作品群なのですが、これが全曲弾かれたCDというのはほとんど無くて、以前から気にかけてはいたのですがなかなかこれというものに出会いませんでした。

チッコリーニにはあるようですし、レスリー・ハワードの99枚の全集を買えばもちろん入っているでしょうけれども、全体としてみると超絶技巧練習曲やハンガリー狂詩曲などは全曲物がいろいろとありますが、作品としても内的な要素が込められていて、かなり優れていると思える「詩的で宗教的な調べ」にはなぜか該当するものが極端に少ないのです。
単発では、第3曲の「孤独の中の神の祝福」、第7曲の「葬送」、第9曲の「アンダンテ・ラクリモーソ」などは比較的弾かれることが多い曲ですが、それ以外の曲は通常はほとんど演奏もされず、あまり注目を浴びることもないのは大変不思議に感じるところです。

で、チッコリーニ盤でも買おうかなぁと思っている矢先に、パリとロシアで学んで、近年では東京のラ・フォル・ジュルネにもしばしば出演しているというブリジッド・エンゲラーの演奏による全曲盤が発売されたので、すかさずこれを買ってみました。
結果は…まあまあでした。
テクニック的にも音楽的にもいかにも中庸を行くという感じで、取り立てて感動もないけれど、さりとて大きな不満もないというものです。

ともかく以前からの願望であった「詩的で宗教的な調べ」全10曲を通して全部聴いてみるという目的は達成できたので、まずはよかったと思っています。でも、それ以上でも以下でもありませんでした。
どれもリストの有名曲に多いあのゲップの出そうな世界ではなく、非常に内面的な要素を重視した美しい曲集であることはあらためてわかりましたし、別人のように作風も変わってしまう晩年に較べると、まだ若い頃の作であるにもかかわらず、このような精神的な作品を書いているということは、リストは時代の寵児としてとびきり華やかに活躍しているころから、同時にこのような内的世界を有していたという証のようで、非常に興味深いものでもありました。

作品が気に入ったので、やはりチッコリーニ盤も買ってみようかなと思っているところです。

このCDが珍しいのは、スタインウェイのB211という、録音に使う楽器としてはいささか小さなピアノを使っている点です。
ヤマハでいうならC6クラスのサイズですが、それでもほとんどコンサートグランドに近い、輝かしい音に溢れている点は、やはりさすがだと感心させられました。

もちろんサイズが小ぶりなぶん、響きのスケールもいくらか小ぶりで、全体に厚みと深みは割り引かれますが、これはこれでじゅうぶんという印象です。
たぶん録音会場にこれしかなかったというようなことは考えにくい(ヨーロッパではピアノは運び込むことが通例)ので、やはり演奏者の選択だったのでは?とも思われます。

というのも、これぐらいのピアノのほうが、響きも小さくて取り回しが良く、難曲を弾くときにわずかでも軽さがあって弾きやすいということはきっとあるとだろうと推察されました。
2011/03/23 Wed. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

テレビCM 

このところのテレビコマーシャルが気に障っている人って多いみたいですね。

マロニエ君は普段、ニュース以外はあまりテレビを観ないので、昨年鳴り物入りで買い換えた液晶テレビも実はほとんどスイッチが入ることはないのですが、そんな程度のマロニエ君をもってしてもやはり気になります。

大震災発生に伴う各企業のテレビコマーシャル自粛の結果だとは聞きましたが、朝から晩までACによる同じコマーシャルのこれでもかとばかりの垂れ流し状態には、もういいかげん辟易してしまいます。

「心は見えないけれど、心遣いは見える」というのにはじまって、手をつないで「自分が伝えられることがある…」というのや、子宮頸ガンの検診、本を読めば知層になるなどの数種類のものが際限もなく続けられている毎日。
どれも見ていて気分が明るくなるようなものではなく、日本が未曾有の災害に見舞われた上に、なぜテレビコマーシャルからまで、こんな不快感をまき散らされなくてはいけないのかと首を傾げるばかりです。
あんな状態を作り出すことが、各スポンサーが示す被災者への気遣いだとしたら、あまりにもその判断は安直すぎすのではないかと思いますが。スポンサー側、テレビ局側、どちらの責任かはしりませんが、しかも民放は各局が横並びで、うんざりします。

スポンサーが通常のコマーシャルを自粛するというのなら、その間きれいな音楽と景色でも映したほうがまだマシだと思います。
昔のオウム事件の時に言われたことですが、人間は連日連夜、来る日も来る日もおなじことを見せられたり聞かされたりすると、しだいに潜在意識の中になにかが刷り込まれて行き、それは非常に危険であるという事を聞いたことがあり、この事件を境にしてアニメを含むすべての映像から人の神経や潜在意識に害を及ぼす危険のあるものが排除されるようになり、サブリミナルなどはその典型でした。

にもかかわらず、地震発生からすでに10日以上経過したというのに、ACのコマーシャルの洪水はほとんどおさまる気配が無く、見るたびにうんざりして、イライラして、なにか狭いところに追い込まれるようなストレスを感じてしまいます。

とはいうものの、平常のコマーシャルにも最近はへんなものが多く、ここ10年ぐらいでしょうか、様々な外資系の入院保険等のコマーシャルがお茶の間に溢れかえるようになり、これも一種のマインドコントロールにあたるのではないかと思ったことがあります。

この一連の保険会社のコマーシャルの登場あたりからコマーシャルの手法そのものにも変化があらわれはじめて、それまでの商品あるいは企業イメージなどを重視した、いかにも斬新なプロのアーティストの仕事である鮮やかで美しい作品といえるようなものが激減し、懇々と視聴者に直に日常会話のようにして語りかけてくるようなスタイルが増えました。
あるいは体験者がその素晴らしさを体験談のようにして話すスタイル、はじめは不安だったが思い切って電話してみたらよかったとか、高齢者にあたかも近所の人が親切ごかしに直接話しかけるようなもの、息子が母親に電話するなど、まるで身内同士の会話のようにして視聴者を引き込もうとする策が多く、なんだか見ていて背中の当たりが痒くなってくるようなものがあまりにも増えたような気がします。

今はいろんなことが昔とは比較にならないほど厳しく規制され、なにかとうるさい時代になりましたが、そのわりには人の心はちっとも晴れやかではなく、むしろ逆の状態に追い込まれているような気がするのですが、こういう目には見えない本当の深刻な問題をこそ、頭のいい人は解決して欲しいものです。
2011/03/22 Tue. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

リアシート 

今日の夕方、ある立体駐車場で待ち合わせをしていて、車の中で待っているときのこと。

左隣の車の人が戻ってきて、見れば50代ぐらいの夫婦のようなのですが、荷物があるようで、壁際でスペースが狭かったこともあってかご主人のほうが奥さんを待たせたまま、車を駐車スペースから通路へと動かしました。
おそらく積み込みがしやすいようにとの判断からだと思われます。

荷物の積み込みが終わったかと思うと、奥さんは後ろの席へひとり乗ってしまいました。
ところがご主人は車に乗らずに後部座席の奥さんとドアを開けたまましきりに問答しています。

こちらはエンジンをかけていなかったので、目の前のことではあり、両者の声が聞こえてきます。
要するに、ご主人のほうが奥さんがぽんと後ろに乗ったことが気に入らないらしく、自分は運転手じゃないぞ!と言っているのです。それに対して奥さんはシートベルトをしたくないから後ろがいいと言っています。

ご主人は、「このまま帰るつもりか?」と言っており、見ると山口ナンバーでしたが、こういう状況は今どきでは意見の分かれるところだろうと思います。物事をあまり気にかけない人なら、狭い車内のどこに乗ろうがいいじゃない…と、寛大なようなことを言う人もいそうな気はします。
場合によっては、たかだかそんなくだらないことにぐちゃぐちゃと文句を言うご主人のほうが了見が狭いと言われかねないことでしょう。

マロニエ君はしかし、このご主人が言うことが尤もだと思いました。
せっかく二人できているのに、前後バラバラに乗っては虚しい気がするのも頷けますし、第一たとえ夫婦でもこれはマナーに反すると思います。ましてやそれで山口まで帰ろうとは、奥さんもいささか横着が過ぎはしないかと感じます。

これは最近は意外に認識していない人も多いのですが、営業車ではない普通の車の場合、フロントシートに運転者ひとりをおいて後部座席に座るのは基本的に横着な態度ですし、仮にそういう意識はなくても無礼だと見なされても文句は言えません。
もちろん病人やお年寄りやチャイルドシートはその限りではありませんが。

たとえば人の車に厚意で乗せてもらうのに、いきなり後ろのドアに手をかける人がいますが、あれはちょっとどうかと思います。もちろんすでに助手席に人がいるのであれば話は別ですが。

場合によっては大変な勘違いをしていて、前に乗るのを遠慮して後ろへ乗るという意識の人がいるかもしれませんが、だとすると甚だしい見当違いで、助手席を空けて後ろに乗るなど、このご主人の言う通り、人を運転手扱いしていることになり、失礼な行為だと思います。
車の場合、決して後ろが末席ではないということをまずは認識すべきです。

ごくたまに複数の人を乗せて順番に送ったりするときなど、たまたま助手席の人が先に降りたら、後部座席の人は気を利かせて前に来るのが乗せてもらう者のマナーというか心得ですが、ケロリとしてそのまま動こうともしない人が結構いるのには驚きます。

今はマンションなど洋風の居住形態が増えましたが、日本人なら、座敷に通された場合、いきなり床の間を背にした上座に座るなどということはしませんが、車もこれと同じ事です。
助手席の空いている車の後部座席は、自動的に上座となることを認識してほしいものです。

上記の場合は他人ではなく、ベテランの夫婦だと思いますが、ご主人が承知してのことならむろん構いませんが、不快感を持たれるようなら、やはり奥さんは助手席に座るのが夫婦であっても礼儀だと思いました。

結果的には奥さんが助手席に乗り換えて車はようよう動き出し、こちらまでホッとしました。
それでなくても山口まで運転するのは大変で、ましてや今日のような雨天なのですから、ちょっとは労りとお付き合いの気持ちも欲しいところです。
2011/03/21 Mon. 01:59 | trackback: 0 | comment: 0edit

ショパンコンクールのピアノ 

地震関連のコメントは一区切りつけることにします。

以前ブログで書いた通り、マロニエ君の知人に、昨年のショパンコンクールに行って一次から決勝まで聴いたというサムライがいるのですが、その方から会場で連日配られるというコンクールのライブCDをお借りし、いらい毎夜自室はさながらコンクール会場となって連日のショパン漬けとなりました。

ライブとは言っても、連日繰り返される8時間ほどの演奏の中から約1時間にまとめられたCDで、これがソロだけで17枚あります。
演奏はいうまでもなくいろいろですが、どの演奏もいわゆる「本気モード」では共通しており、このコンクールに出場するほどの腕を持った人が渾身の演奏をすれば、大半が聴くに値するものになるということも概ねわかりました。
アヴデーエワなども、日本でのしらけたような演奏には大きな失望を覚えましたが、コンクールでは別人のように丁寧で熱っぽい演奏をしていたのは驚きです。

ご承知の通り、このコンクールではスタインウェイ、ヤマハ、カワイに加えて今回からファツィオリが参加し、4社のピアノが公式ピアノとして使用されましたが、これらのCDから得た印象をざっと書いてみます。

カワイ SK-EX
従来のシゲルカワイには見られなかったような、ショパン的なやわらかで甘やかな音造りが施され、かなりそれは達成されていますが、その奥にはカワイ独特の実直さが潜んでいるのもわかります。
このピアノが生まれ持つ本質は現代性とか華やかさではないかもしれませんが、極めて良質な、信頼に足るピアノだという印象です。別の言い方をすると良い意味での旧き佳き時代のピアノのような趣がなくもありません。
本来ならもうこれでも充分素晴らしく、あの河合小市氏などがこのピアノを見たなら、その素晴らしさには驚嘆することでしょうが、それでも強いて言うなら、現代のコンサートピアノとしてはやや画竜点睛を欠く部分がないでもなく、願わくはあと一歩の音の輪郭と明晰、ゆるぎない個性があれば申し分ないと思います。

ヤマハ CFX
従来型に対して最も著しく躍進したのはヤマハで、その成長は大変なものだと思いました。
これまでの進歩の速度からすれば、まるで一気に二つ三つ山を飛び越したようで、とりわけ中音から次高音にかけての太くて明解な音は4台中随一だったように思います。しかし、相対的に低音域が弱く、大地に足を踏ん張るような構成力には欠ける気がします。
ショパンやフランス物にはもってこいかもしれませんが、中期以降のベートーヴェン、あるいはラフマニノフなど、壮大でシンフォニックな要素を必要とする作品ではどうだろうと思います。
基本的にはアクロスで聴いたときと同じ印象で、音色は上品で、よけいな色が付いておらず、軽さやムラのなさを重視するフランス人がヤマハを好むのがわかります。
もしもエラールが現代のモダンピアノを作るなら、こんなピアノが理想かもしれません。

スタインウェイ D274
聴き慣れた音色、響き、低音の迫力と華やかな高音部など、すべてがバランスよく融合しており、いかにもムダのない音響配分、ぶれない哲学と落ち着きを感じます。
やや下半身の弱いヤマハにくらべると、足腰(低音域)もしっかりした筋肉質で、音域ごとに個性のあるダイナミックレンジが十全に広がっていて演奏表現を巧みに支えています。
舞台映えのする輝かしい音の美しさもさることながら、最終的な音楽としてのまとまりの良さもさすがでした。
しかし、全体的に新しい世代のスタインウェイはややダシの味が薄くなったという印象は、やはりここでも確認できました。

ファツィオリ F278
これまで聴いたどこか詰まったようなファツィオリではなく、突き抜けたような感じの極彩色に鳴り響くラファエロの絵画のようなピアノ。
一音一音はとても艶があり華やかですが、収束性に乏しいのか、やや表面的。
美術的観点では申し分ないものの文学的要素・内的表現といった部分はいささか苦手という気がします。
非常に濃厚で美しい瞬間がある反面、ピアノが前に出過ぎて、ややうるさく感じることもあり、しっとりと深く聴かせるピアノではないように感じましたが、あまりにポピュラーになりすぎたスタインウェイに抵抗を感じて、こういうピアノを好む人もいるでしょう。
ゴージャスな音色、色彩の絢爛さはありますが、ヤマハのほうが端正で気品があり、感覚的にもより先を行く感じです。
イタリアと日本の文化的背景の違いを感じます。

とはいえこの4台はどれも本当に素晴らしく、いずれも現時点での究極のピアノであることは間違いないようです。
2011/03/19 Sat. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

買いだめ心理 

我々日本人は危機的状況に対して強いのか弱いのか、考えれば考えるほどわからなくなります。

これはむろん被災地での極限的な事態に追い込まれた方々のことではなく、それ以外のとりあえず普通に生活ができている日本人という意味ですが。

関東地方では、危機感の先取りなのか、スーパーの食料品なども買い込む人が非常に多いのだそうで、店によってはすでにいろいろなモノが極端に品薄になっていているとのことですが、いささか過剰反応のように思ってしまいます。
主にお米やカップ麺、携帯用コンロなどを続々と買い込む人が際限なく増えているとかで、中にはレジの通過に1時間かかる店もあるとか!?

ニュースでも識者が言っていますが、今はすべてを厳しい状況に置かれている被災者の方々のことを優先すべき時であって、不必要に危機感を募らせてあれこれ買い込むのは慎むべきだということです。
こういうことが広がると、市場から商品がなくなり、本当に必要な場所に必要な物が必要量確保できず、要らぬ混乱を招くというもので、まったくその通りだと思います。
とはいっても、いくらニュースでそんな警告をしたところで、スーパーやコンビニからモノが無くなっているという報道を繰り返し全国に流して「要らぬ混乱を招く」ように煽っているのも、これまたマスコミではないかという気もするのです。

もともと人の心理というのは弱くて影響を受けやすいものなので、他人がどんどんモノを買い込んで万一に備えている姿を見せられたら、自分も不安に駆られて似たような行動を取ってしまうのは致し方ないことだとも思います。
とりわけこの「不安」にまつわる感染拡大は凄まじいものがあるようです。

ガソリンなども関東地方では制限付きの給油しかできないとかで、たしかに「一台2000円まで」などという販売をせざるを得なくなったスタンドもあるようです。しかし、それは計画停電なども関係していることのようでもあるし、現在は地震の影響で入荷が途絶えているという一時的な事情もあるようで、業者側は一時的なものと言っているようですが、なかなかおさまらないようです。

あまりこういう情報に踊らされるのはどうかという意見もあり、たしかに理屈ではそうだとマロニエ君も思いますが、現実にそういうニュースを繰り返し見せられたら、今のうちに自分のぶん我が家のぶんを確保しておかなくてはいけないような気に陥ってしまうのも、これまた人情というものでしょう。

これが関東地方だけかと思っていたら、昨日の夜、ちょっと要るものがあってホームセンターに行ったら、なんとお米は残り少なく、ティッシュやトイレットペーパー、おむつなどは姿を消し、携帯用コンロのガズボンベなどもひとつもありませんでしたからびっくりです!
この買いだめの波ははやくも全国的に広がっているようでした。

昔の米不足、さらに前には世の中からトイレットペーパーが消えるということがありましたが、あんな状況がもしもまたくるとしたら、マロニエ君なんてとてもその競争に打ち勝つだけの自信はありませんから、考えただけでうんざりしていまいます。
2011/03/18 Fri. 01:35 | trackback: 0 | comment: 0edit

菅さんの本領? 

津波による福島原発事故がこれほど深刻で、長期に渡って解決の見込みも立たないとは思っても見ませんでした。
事は既に、付近の住民の方だけの問題ではなく、より広い地域の環境汚染すら危惧される状況のようです。
日本ほど優秀な専門家が揃っていて、世界中が経過を注視している中で、これほどまでにめざましい効果が上げられないのが不思議で仕方がありません

一部の報道では、技術力というよりは、もっぱら東電の組織や体質の問題だと指摘する声もあるようです。
たしかに計画停電の実施方法などでも、ちょっとおかしいのでは?と感じることがいろいろありましたし、マロニエ君などは、いきなり停電といったような強制的な方法を採るのではなく、まずは該当地域への節電を強く呼びかけて様子を見るという段階があってもよかったような気がします。

現に、計画停電や節電の話が菅さんの口から発表されただけでもかなりの節電ができたといいますから、足りない電力は平常時の1/4なんだそうですから、不可能ではない気がしますし、それでも尚足りない場合に停電という手段に出るという段階を経ても良かったのではと思います。

菅さんといえば、東電のやっていることがあまりにも不甲斐ないので、一昨日のなんと朝6時半に総理自ら東電に赴いて叱責したらしく、こういう文句を言う状況となると菅さんもエネルギーが出てくるのは、昔を少し思い出すと思い当たるふしがありますね。
市民運動出身で、根っからの攻撃型の人間なんでしょうか。

その際も、現場にいるべき人間が東京本社に多くいたり、現場からもクビを覚悟で逃げ出した人もいたんだそうです。原子力といった、現在人々を最も危険にさらす危険性のあるものを取り扱っている大企業なら、もう少し緊張と使命感を不屈の精神を養っておいて欲しいものです。

昨日の深夜には、今度は静岡地方で震度6強の地震がおこり、これは先の東北地方のものとはまったく無関係なんだそうで、さらに今日は茨城地方でも大きな地震が発生し、はたして日本列島はどうなってしまうのかと思います。

しかし、同時にこれを機会に沈殿しきった世の中が多少の刺激を受けて、景気が回復するという見方もあるのだとか。
とくに海外の論調は、日本は戦後復興がそうであったように、危機に直面することで本領を発揮し、勤勉で真面目で忍耐力のある優秀な日本人の底力が、こういう機会に出て来るという見方をしているところもあるようです。

もちろんその前に被災地で苦しむ皆さんの救援をもっと迅速かつ徹底してやってほしいというのが今の日本全国民の総意だと思いますが。
2011/03/17 Thu. 02:01 | trackback: 0 | comment: 0edit

ブルーインパルス 

ついに昨日から関東地方で計画停電とやらが開始されたようですが、どうもそれにまつわる東京電力の対応が芳しくなく、不評を買っているようです。

現代のようにありとあらゆることが電力を前提として社会全体が成り立っていると、その影響もはかりしれないものがあるようで、もう少し時間やエリアを明確にすべきというのが大勢の意見のようです。
あのような災害があって電力が不足するとなれば多少の不便や協力はやむなきこととしても、停電するというのは生活そのものを直撃することなので、前もっていろいろな準備や構えがあるはずです。

被災地では「官房長官が立派な事を言っているのは結構だが、我々はゆうべから何も食べていない、これが現実ですよ。」と言っていましたが、ごもっとも。
食料や物資はもっとたくさん迅速に届けられないものでしょうか。

人から聞いた話では、たまたま外部から被災地へ観光旅行に行って津波に巻き込まれた人もいれば、逆に被災地の人が別の場所にこれまたたまたま旅行中であったために難を逃れたというような、まさしく「運命」としか言いようのない生死をわける話がいくつもあるらしく、現実にはそういう事がおそらく山のようにあるのだろうと思われます。

津波警報を聞いて息子が父親に逃げるようどんなに言っても、頑として「だいじょうぶ」といってついに動くことをせず、結局、そのお父さんは津波にさらわれ、息子さんは助かったというようなケースもあるようで、まさに運としか言いようがないですね。

自衛隊の飛行機も生死を分けたようで、航空自衛隊の松島基地は、あの歌にもある松島ですから非常に海に近いところにあって、今回の津波では主力戦闘機のF2-18機をはじめとする、30機近い航空機が被害を受けたそうですが、なんとここをベースとするブルーインパルス(T4-6機)は、12日の九州新幹線の開業イベントのために福岡入りしていたらしく、大地震の数時間前には福岡市上空で事前飛行までおこなっていたそうで、博多駅周辺を編隊飛行する様子がYoutubeにも投稿されています。

彼らが登場する翌日のイベントはすべて中止になりましたが、留守中に仲間である人や飛行機、さらには基地そのものまでが大変なことになり、彼らはどこに帰って行ったのでしょう。

福岡にいたことでブルーインパルスの機体と操縦士は難を逃れたようですが、しかし、その家族は被災地に居住していることでしょうから、その安否が心配されるようです。

それにしても福島第一原発も一進一退を繰り返しながら、どうも好ましくない方向へと事が推移しているようで、専門的なことがわからないぶん、どうしてもっとスパッと対処できないのかと思います。
朝夕の新聞の見出しは原発関連の見出しばかりで、ついには「高濃度放射能もれ」というイヤな文字があらわれてしまいました。
…ここ当分は不安な日々が続きそうですね。
2011/03/16 Wed. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

4日目 

震災4日目を迎えますが、福島原発の問題がいまだに解決をみないのはいやが上にも不安が募ります。
各被災地の惨状は変わらずで、とりわけ宮城県などで孤立して救助を求めている多くの人達が、ろくに食料や物資もない中でどうしておられるかと思います。

病院の屋上や学校の運動場にSOSの文字を描いて救出を訴えておられるようですが、シロウト考えにともかくヘリなどで少しずつでも救出できないものかと、もどかしく感じるばかりです。

今日あたりになるとより細かな情報も出てくるようになり、スタジオでは被災前後の町の映像や空中撮影の写真を比較したりして被害状況を説明していますが、以前はびっしりと隙間なく住宅が建っていた一帯が(あるいは町が)、まさになにもないタダの泥だらけな土地になっていて、津波がこれらを根こそぎ持ち去っているのが一目瞭然です。恐ろしいことです。

自宅の屋根に掴まったまま2日間、沖合15キロまで漂流したあげく自衛隊のイージス艦に救助された人がいましたが、決して若い方ではないのに本当によく頑張られました。いざというときの人間の力というのもすごいもんだ思います。でもこうして助かった人もあとに残る精神的ダメージは大変なものでしょう。

個別の話も聞けるようになり、そのぶん耐えがたいシーンも数が増えてきます。
瓦礫の山を放浪する初老の男性にリポーターが声をかけると、自分の家族の安否がまるきりわからず、救出者名簿にもその名はない由、たったひとり、なす術がなくあちこち彷徨っているというものでした。
また、別の老いた男性は津波が来るとき、障害者の奥さんを連れ出そうと家族と一緒に必死に運び出そうとしたものの重くてとても間に合わず、ついには手が離れてしまったということで茫然自失の状態でした。
まさにこの世の地獄です。

こんな話も。娘さんが結婚をし、役所に婚姻届を出したその3時間後に地震が発生、二人とも津波にさらわれていってしまい、わずか3時間の夫婦だったというような話も聞きました。地震発生が午後2時43分ですから、役所の昼休み前に婚姻届を出されたんでしょう。

このブログでは政府のことなどは書かないつもりでしたが、敢えてちょっとだけ書きますと、菅さんの総理不適格ぶりにはもうずいぶん前から失望させられつづけて、もはや何かを期待する気も起こらないところまできていました。
留まるところを知らない民主党のスキャンダルも、あまりの数の多さに「日替わりスキャンダル」などと揶揄されるほど連日つぎつぎに呆れるような問題が発覚し、ついには菅さんの外国人からの不正献金問題が出た、その当日の大地震発生でした。
予算委員会での審議中に地震が起こり、委員会はそれこで打ち止めとなって菅さんは官邸に戻り、スーツから例の青い防災服に着替えて一度ちらりと姿を現しただけで、総理大臣ともあろう人が、こんな大事に際してその後はほとんど顔も見せないという状況が続きました。

しかし世の中の空気も、もはや菅さんの指導力不足を責める暇もなく、あの方はアテにしないで、それぞれが皆自分のやるべき事をサッサとやるという感じに見えました。
ところが、13日の夜に行われた会見では、ついに少しは気合いが入ったのか、「この度は大変なことになり苦労も多いことと思うが、我々日本人は必ず復興を成し遂げることができると信じているし、とにかく苦しいけれど頑張ろうではないか」というような意味のことを率直に言いました。

国会審議はもとより、通常のコメントであろうが、外国首脳とのトップ会談であろうが、いついかなるときもひたすら役人の作った書類を見ながら常に下を向いて、しょぼしょぼと精気のない声で書いてあることを棒読みする姿しか見せなかった菅さんが、このとき初めて声にも多少の張りが出て、しかも一番の拠り所である書類を見ることもほとんどなく、国民の方を向いてまっすぐにしゃべった姿は、少なくともマロニエ君ははじめて見た菅さんの姿で、これには不覚にもささやかな感銘を受けました。

人の上に立つ者、とりわけ国のリーダーというのは、最低でもこうあらねばなりません。

そこまではよかったのですが、へんな節回しの女性議員は、やや化粧を薄めにし、イヤリングを外し、それでもいつもの浪花節語りのようなわざとらしい抑揚のついた話しぶりで、計画停電の事などを説明していましたが、刈り上げた髪とスリムな体型は、まるで宝塚の男役のよう。
入退場時の礼の仕方などは軍隊のごとくで、さしずめ現代の川島芳子のようでした。
せっかく菅さんが盛り上げた余韻を、いきなりこの人が掻き消してしまったのは大変残念でした。
2011/03/15 Tue. 02:13 | trackback: 0 | comment: 0edit

津波映像 

地震の発生から3日目を迎えるころになると、とくに様々な津波の映像が出てくるようになり、どれひとつを取っても、その想像を絶する恐ろしさには日本中が呆然としていることでしょう。
(海外も大変注目しているそうで、連日、報道のトップの扱いの由)

私達はCGの発達などによって、過激なパニック映像というだけなら目にするようにはなりましたが、やはりどんなに精巧に出来ていてもCGは所詮作りものであって、その点、本物というのはどうしようもなく本物、まさしく現実で、だから受ける衝撃も並大抵のものではありません。

はじめのころは、報道されたいくつかの沿岸地域が主にこれらの被害に遭ったのだと思っていましたが、そうではなく、ようするに東北部の太平洋側に面した地域は例外なく同様の被害を受けているということであるらしく、その恐ろしい破壊規模たるや、これはもう、ちょっとした核攻撃でも受けたのと同様のむごたらしい被害だという気がします。

今日などは沿岸部の被災地を報道ヘリからの空撮によって津波被害の映像が流されましたが、「壊滅」という言葉はまさにこういうことのためにあるのか…と思うような惨状でした。
かろうじてその形をとどめているのは鉄筋の建築物などで、それらがわずかに点在するのみで、あとは瓦礫の散乱するだけの土地になってしまっていて、似たような光景をどこかで見たような記憶があると思ったら、広島長崎の原爆投下後の町の様子を空撮した写真でした。

はじめは、津波が来るという通報によってせっせと高台に登った人達の目の前で、普段自分達の住み慣れた町が悪魔のような激流によって弄ばれ、ついには自分の家の屋根が動き出して、それが容赦なく破壊されながら流れにさらわれていくときの、その心中を考えると、まさに気も狂わんばかりだろうと思われます。

これから長い長い、気の遠くなるような復旧作業がはじまるのでしょうが、もはやそういうことに耐えられない方も現実に多くおいでだと思います。人間にとって家族を失う、住む家を失うということ以上に耐えがたいことがあるでしょうか…。
ある意味においては自分の命を失うことよりも恐ろしく耐えがたいことかもしれません。

当初発表されていた東北地方太平洋沖地震のマグニチュード8.8は、今日になってM9.0へと変更されました。
我が国では観測史上最大で、これまで立てられていたあらゆる予測を大きく上回る規模のものだったということです。

そこで気がついたのは、今回の大地震での甚大な被害は津波によるものがなにしろ圧倒的で、これだけの未曾有のスケールの大地震だったにもかかわらず、地震そのものの揺れによって発生した被害というのは、地震の規模から考えればそれほどでもないような気がしました。
外国の大地震では建物のことごとくが揺れで押しつぶされたり倒壊したりというのがごく当たり前ですが、この点は数々の地震を経験し、それに備えて熱心に耐震構造などの手を打ってきた日本のやりかたが、かなりの成果を上げているようにも思います。

震源からはやや離れているとはいうものの、観測史上最大という規模の地震にしては東京横浜なども、もちろんそれなりの被害はあったでしょうが、神戸の時などに較べれば全体としてはほぼ無傷といってよく、これは良い方に驚くべき事のように思います。
都市部だけでなく、より震源に近い、津波被害に遭った地域でも、映像を見ている限りでは津波来襲の直前までは、町はほとんど目立った損壊は見あたらなかったように感じます。

尤も、結果的に家や町を失った人から見れば、地震そのものの揺れであれ、津波であれ、もはやどっちであろうと意味のないことですが。
2011/03/14 Mon. 01:48 | trackback: 0 | comment: 0edit

日本人 

一夜明けても、昨日の大地震はやはり夢ではなかったという事実で一日がはじまりました。

東北地方の壊滅的な被害は、映像を見るだけでもなんとも言い難い驚きと重苦しい疲労を覚えます。
しだいに増大してくる犠牲者の数を知るにつけ、人間、一寸先は闇だというのも本当だとしみじみと思います。

始終この報道番組を見ているのも疲れますが、テレビを消せばなんとなく気になって、またスイッチを入れてしまったりというそんな一日で、さすがにピアノを弾くにも気が入りませんでした。

いまだに心配されるのは、一日経っても尚、福島第一原発の異常が解決されず、周辺の避難エリアが時間とともに拡大していく中、ついには被爆などという言葉まで出始めて、いやが上にも不気味な気持ちさせられます。
直ちに大事故ということでもないとは思いたいところですが、情報は錯綜し、東京電力の発表も要領を得ないとかで、とりわけ近隣のみなさんの不安はいかばかりかと思います。
この心配だけでもはやく払拭されてほしいものです。

それにしても、ひとつ感心したのは、やはり日本人の民族としての質の高さです。
もしこれが外国での災害であれば、国によってはこんな被災時につきものの悪辣な行為として、この機に乗じて商店などからの略奪行為などが次々に繰り返されるなど決して珍しくはないところですが、そんなことがついぞ見受けられないのはさすが日本だと思いました。

こんなただごとではない災厄時にそんなことを感心してみても始まりませんが、しかし現実にそうではないところはそうではないわけであって、やはり日本人の徳の高さを見たようです。
個人レベルではどんな国や地域にも立派な人とそうでない人がいるのは当然としても、全体としてごく自然にそういうことがない(まったくのゼロではないとしても)というのは、日本人の優秀な民族性や道徳心、伝統や教育レベルなど、あらゆるものの総合的な結果だと思います。

ごく最近も、今は亡きある高名なロシアの大指揮者の本を読んだのですが、1970年代前半に初めて日本公演に赴くことになったとき、「アジアの片隅の、文化果てる国に行く」ような気がしてちっとも気が進まなかったらしいのですが、果たして来日してみるとその認識は根底から覆り、とりわけ日本の文化と日本人の人間性に感嘆したマエストロは「我々のほうが文化果てる国から来たのだ!」と言ったそうです。

そういえば昔、「不思議の国ニッポン」という在日フランス人の目を通した著書がシリーズでありましたが、ここにも礼儀正しい、精神的に質の高い人格を有した日本人の姿が驚きをもって描かれていたものです。

今回の大地震でも、苦難に際して互いを助け合いながら共に時を過ごしたり、東京の帰宅困難者で溢れる街にも暴動やパニックが起こる様子もなく、みなさん一様に粛々と列をなし、整然と秩序を保っているのは、こんな悲劇に際して、再確認することのできた日本人としての誇らしい部分だと思いました。

奇しくも昨日は関係者一同が待ちに待った九州新幹線の開業日でしたが、すべての式典は取りやめとなり、事業運転だけが静かにスタートした由です。
こういうことにも、なんら表立って異存や障害も起こらず、申し合わせたようにスムーズに共同歩調がとれるのが我々日本人ですね。
最近はヘンだと思うことも多々ありますが、久々に感じた日本人の美しさでした。
2011/03/13 Sun. 01:40 | trackback: 0 | comment: 0edit

大地震 

11日はとんでもない大地震の発生で、日本列島はこれ一色になりました。

マロニエ君は夕方までこれをまったく知りませんでしたが、夜テレビで観るとありとあらゆる恐ろしい映像の連続でわなわなと驚くばかりでした。

とりわけ岩手などの漁港に押し寄せる猛烈な津波の勢いは、まさに想像を絶するものでした。
はじまりは静かに見えたものの、次々にコンテナがおもちゃのように動き出し、水勢が町中に入るだけは入ったら、今度はこれが逆流をはじめ、それに伴って家、車、ありとあらゆる家財道具などが根こそぎ、猛烈な勢いで持って行かれる映像は、何度見ても総毛立ちました。
もしやあの中に人がいるのかと思うと、これはまさしく悪魔の仕業としか思えません。

ほかにも美しい田園地帯に一気に黒い怪物のような津波が際限もなく、情け容赦もなくぐいぐいと押し寄せ、その血も涙もない破壊の様のすさまじさは、まるで地獄の光景でも見ているようでした。

ほかにも千葉の製油所に起こった、まるでパニック映画のような大火災。

横浜の路上では、割れた地面が互いにユラユラと揺れる様など、いやはや、これはとてつもないことが起こったものです。東京では帰宅困難者という人々が夥しく溢れかえり、空撮映像では立錐の余地もない人の海の中にバスがぽつんと止まっていたりと、みんなどうするのだろうと思うばかり。
東京の友人に電話してみますが、もちろん一切繋がりません。

さすがのマロニエ君もこんな日はのんきにブログなど書く気にもなりませんし、やはり地震のことに言及することになりました。

あちこちに避難されている被災者の方々も大変だろうと思います。
とりわけ、福岡も6年前の福岡県西方沖地震の経験で、大地震の後のとめどもない余震にさらされ続けることのいかにつらいかを経験しただけに、心からご同情申し上げる次第です。
余震の辛さは経験した者でないとわかりませんが、マロニエ君などはいつ果てるともない余震による不快感と恐怖で一時体調まで崩してしまい、その回復にはかなりの時を要しました。
とくに忘れられないのは、揺れるときに必ず聞こえてくる不気味な唸り音です。

もちろん家や家族を失った人達の衝撃からすれば、余震なんてものの数ではないのでしょうけれど。

見れば、避難所は停電で真っ暗で、しかも東北地方はまだ雪が降るほどの寒さの中で暖房もなく、そんな状況下では、若い人でも相当の試練ですが、ましてや高齢者の方々などが、これからこの厳しい時間と戦っていかなければいけないのかと思うと、本当にお気の毒でなりません。

さらに恐ろしいことには、福島原発の原子炉のひとつに水漏れが発生しているとかで、放射能漏れに繋がる可能性も高まってきていると言っており、どうなることかと緊張は高まるばかりです。

こんなこと書いていても仕方がないので、今日のところはこのへんで終わりにします。
2011/03/12 Sat. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

ユーザー車検 

以前からの約束で友人の車のユーザー車検に付き合いました(というか、やってあげました)。

マロニエ君はユーザー車検の経験はかなりあるほうなのですが、何度やってもドキドキさせられるものです。
それはつまり、書類さえ出せば済む事務的な世界ではなく、実際のラインに車を持ち込んで各種のテストを受けなければいけないことで、ひとつでも不合格になれば絶対に新しい車検証は交付されない、いわゆる「受験」だからだと思います。

とりわけ福岡の車検場の近くには「予備検査場」といわれる場所がないのが苦痛をいっそう駆り立てます。
予備検査場というのは本番の車検場で検査される各項目で、合格できるかどうか予め診てくれる民間の自動車整備工場のことで、多くの車検場の近くにはこの手の工場があるのが普通なのですが、なぜか昔から福岡の検査場付近にはこれがないために、どうしても「ぶっつけ本番」となるわけです。

ユーザー車検を受けるには、必ず予約をしておかなくてはならず、しかも予約には午前午後に分かれる4つの時間帯のうちのどれにするかも前もって決め、さらに予約に際しては受験者の名前から車のエンジン形式や車体番号まで細かく申請しておく必要があります。

事前に準備するものと、陸運支局で買い揃えるものの両方で10枚近い書類もまた、どれひとつして欠けることは許されません。まさしくここはガチガチのお役所なのです。
予約ができていて、すべての書類のすべての項目に一字たりとも遺漏なきよう完璧に記入して窓口に提出し、これが通過できてはじめて人車共々、車検場への入場となります。

検査ラインの該当レーンに並び順番を待ちますが、自分の番が近づくと制服の検査官が寄ってきて、再度書類のチェックがおこなわれ、これに問題なければ車輌の事前審査が開始されます。
すべてのランプ関係のチェック、ワイパーやウインドウウォッシャーの作動、ホーン、ホイールのボルトのしまり具合などから、窓ガラスの色の濃さまでチェックされ、最後にエンジン型式と車体番号の書類と実車の照合が厳格におこなわれます。
このエンジン型式と車体番号というのは車によって刻印された場所がまちまちで、しかも非常にわかりにくい場所にある場合も多いのですが、いかなることがあってもこれが疎かにされることはありません。
どんなにわからなくても時間を要しても、徹底的に探し出されての照合です。

これらに合格すると、いよいよ検査ラインに入ります。
ここで検査されるのはサイドスリップ、フットブレーキ、パーキングブレーキ、スピードメーター、光軸、下回り検査、排ガス検査となります。
サイドスリップとはきちんと真っ直ぐに走るかどうか、スピードメーターは正しく表示されているか、ヘッドライトは定められた方向をきちんと向いているかなどを検査、下回りはハンドルのガタやオイル漏れなどが係官によってチェックされます。
検査項目のうち、どれかひとつでも不合格が出れば、問題箇所を修正して合格できるまで再検査となります。

今回は光軸で不合格が出て、左の前照灯がやや上を向きすぎているという結果が出ました。
ここからが戦いで、建物の壁にライトを照らしてまさに勘で調整しますが、決められた時間内に結果が出せなければ後日の再検査となります。
結果的には時間内に3度目の検査で無事に合格することができましたが、その間の緊張はなかなかのものでかなり心身共に疲れるのは事実です。
もちろん不合格の内容によっては、当日では解決できない修理を要することもあるのは言うまでもありません。

今回、新しい規則となっていたのは、再検査のたび毎に、かならず検査官が車体番号のチェックをするようになったことで、これはおそらく別の車を使って項目別の合格を得ようとする、不正に対する防止策だと思われました。

つい最近、京大などの入試で携帯電話を使った不正が発覚しましたが、どんなところにも悪知恵を働かせる輩がいるために、鼬ごっこは尽きることはないようです。

しかし、すべてを通過して新しい車検証を手にする喜びは、これまた何度やってもバンザイしたいように嬉しいものです。
2011/03/11 Fri. 02:27 | trackback: 0 | comment: 0edit

エレベーターで 

つい先日、天神であるビルのエレベーターでのこと。

マロニエ君を含めて4人ほどが乗っていましたが、そのうちの女性二人がしきりに話をしています。
一見してとても仲の良さそうな知り合いという感じでしたが、話の内容はまったく覚えていませんし、そもそも興味もありませんが、とにかくエレベーターの中で他人の存在をも憚らないほどの弾んだ会話でした。

年の頃は30代後半といった印象でしたが、まあそのへんのことはよくわかりません。
少なくともそんな感じに見えたということです。

あるタイミングで、片側の女性が相手に向かって「お住まいはどちらなんですか?」と気軽な感じで尋ねました。
(つまり住まいがどこまでかは知らないぐらいの関係なんだなとそのときわかりました。)
すると、なんと相手の女性は、なんといったらいいか、苦笑いとも冷笑ともつかない表情をするだけで、一向にその問いに答えようとしません。なにも言わないのです。
目の前のこの事態にこちらのほうが内心ギョッとしてしまい、咄嗟にこの人はそれには答えたくないらしいということがわかりました。

詳しい事情などはもちろんわかりませんが、少なくともあれだけ親しげにしゃべっておきながら、相手から住まいを聞かれて、それに答えないとはずいぶん失礼な人だな、というのがこのときの至って率直な印象でした。仮に答えたくないにしても、よくそれをその瞬間に通せるもんだと、その神経にびっくりです。

ところがそれだけではありませんでした。自分が答えないのみならず、逆に「○○さんはどちらですか?」と聞き返したのです。つまり逆襲に転じたのです。
なんと、自分の住まいがどこかは明かさないでおいて、なおかつ相手の事は聞いてやろうというわけです。
すると相手は「…西区のほうです」とだけ、たいそう消極的に答えました。
それに対して、この女性は「そうなんですね…」とだけ言って、やはり自分の住まいがどこかはとうとう言いませんでした。

まあ、それだけですが、このやりとりはいかにも今風の人間関係を表していると思いました。

いまどきの人って、とくにこのぐらいの世代の人というべきかもしれませんが、人との関わりが悲しいほどに表面的で、むやみやたらと自分のことは言いたがらなかったりします。
しかもそのガードの固さは正しいと思っているのか、心底に歪んだ快感があるのか、詳しい心理はわかりませんけれども、ちょっと病的だと思うときがあります。
マロニエ君の印象としては、「個人情報の保護」なんて言葉が飛び交うようになってから、いっそうこういった傾向に拍車がかかったように思います。

しかし、マロニエ君はまず、自分の住まいを明かさないような人とは、お付き合いはしかねると思っています。
親しくなって尚、住まいを教えたがらないような人ってろくな人はいないと思っていますし、こういう人は自分を守るつもりで、実は最も大事なものを守ることのできない人だし、他者のことも決して大事にできない人だと思うのです。

相手の女性の「…西区のほうです」というような答え方もしばしば耳にするフレーズです。

あくまでも大まかなことだけで、それ以上具体的なことは言わない、教えないという、自分の一方的な警戒感だにしか興味のないカサカサな人間です。
尤もこの女性は、相手が答えもしないのに自分だけがそれを言わされることへのささやかな抵抗として、こういう返事の仕方をしたというのは考えられますが。

こういう会話の中に現代人の利己的な暗い心の底を見るようで、ゾッとしてしまいます。
人に住まいを教えないのも、理由の武装はしているのでしょうが、なにかにつけこんな調子では、そりゃあ人間関係は希薄になるのは当然だと思います。
2011/03/10 Thu. 01:45 | trackback: 0 | comment: 0edit

ヴァイオリンの虚実 

ヴァイオリンの謎に迫りだすとキリがありません。
過日もオールドヴァイオリンの虚実入り混ざる話を書きましたが、ヴァイオリンの真価というのも、マロニエ君などはまったくの門外漢だけにますます怪しげな闇の中にあるような気がしてしまいます。

例えば本を何冊か読むと、書いてあることがまるでバラバラなわけです。
今や億の世界に突入したストラディヴァリウスなどが、300年も前に作られた楽器であるにもかかわらず、なぜそれだけの価値があるかということです。

ヴァイオリン製作は、才能があって正しい修行を積んだ人なら一人で完成させることのできる、構造的には非常にシンプルな楽器ですから、シロウト考えではそれを凌ぐ楽器が出来ても不思議はないとも思うのですが…。

しかし数ある新作ヴァイオリンよりも優れたオールドヴァイオリンのほうが良いとされる理由は、実際に演奏されると美音なのはもちろん、表現力に優れてバランスが良く、遠鳴りするというのが主なもののようです。
あるいは、新しいヴァイオリンは機能的には優れていても、木が新しいところがオールドには敵わず、これが100年か150年経てば良くなるかもしれないという、甚だ気の遠くなるような意見もあります。

では、それだけの時が経てばストラディヴァリウス並の楽器に熟成される可能性があるのかという点では、絶対にないと言いきる人も中にはいますし、はたまた、いかに貴重なオールドヴァイオリンといえども、実際には楽器が衰えており、耳元では妙なる音色を紡いでも、コンサートヴァイオリンとしてはもう使い物にはならないのが実体だという人がいたりもします。
こんな調子ですから、どれが真実なのやら見当もつきません。

さらに驚くべきは、現在のクレモナ(イタリアのヴァイオリン製作の聖地。かつてのアマティ、ストラディヴァリ、グァルネリなども同地の職人)にも名人級の制作者が少なくとも数人いて、これらの職人の作り出すヴァイオリンはすでにオールドヴァイオリンと同等もしくはそれ以上の能力があり、実際にそれをコンサートで演奏したり、レコーディングにも使っているヴァイオリニストも少なくないというのです。

これらの人気職人ともなると、購入しようにも予約でいっぱいだそうで、発注しても出来上がるのは数年先というのが普通だそうです。
中には、なんと持っていたストラディヴァリウスを手放して、これらの新作ヴァイオリンに変更する演奏家もいるのだそうで、その理由はくたびれたオールドヴァイオリンよりも音量があり、弾きやすく、歴史的名器に決して引けをとらない美しい音色をもっているから、というのですから、もうなにが本当のことなのやら、いよいよわからなくなります。

値段のことははっきり書いてはありませんが、クレモナの新作ヴァイオリンの一級品でも300万円前後のようで、弓とセットで500万ほどというのが一応の相場のようだと見受けました。
オールドはすでに億の世界といいますから、その値段の差は途方もないもののようですが、普通はせいぜいそのへんがヴァイオリンの高級品として妥当な値段じゃないかという気がして、妙に安心するというか納得できたという気がしています。

貴重品につけられる価格は、ケタも違えば、その先に待ちかまえる虚実と闇も、同等に広がっていくような気がします。
こういう世界を垣間見ると、ピアノはたとえどんな名器名品といってみたところで、まだ大半は機能・性能が優先され、あとは、音というよりも手のかかったアートケースの価値などであり、しょせんは魔物の棲む世界ではないようです。
2011/03/09 Wed. 01:44 | trackback: 0 | comment: 0edit

無理は厳禁 

整体院に通い始めてニ週目に入り、4回治療を受けました。
先生と話をしていると、ありがたいことに為になることをあれこれと教えてくださいます。

まずは当たり前のことですが、いまさらながら再認識させられたのは健康の基本のひとつは血流の良さであるという点でした。
血流が悪いとあらゆる病気の根本原因となり、なんにしても、まずこれをきちんと回復させ、良い状態を維持するような認識と努力と生活習慣が大事とのことでした。当然ですね。

とりわけ静脈はいわば血管の下水道なんだそうで、ここをきれいにしておかないことは、掃除をしていない部屋でだらしない生活をし、どろどろに汚れたキッチンで食事を作るようなものだそうです。
冷え性とか関節の痛み、ひいては精神的な領域まで、血流がよくなればかなりの部分が解決するそうですし、高血圧やコレステロール、果ては脳梗塞などもすべて血液の健康如何にかかっているのですから、まさにこれは健康の基本であり土台であるのは間違いないようです。

ここまでは誰でもある程度わかっていることですが、当たり前のようであまり意識することなく、認識を新たにさせられた点もいろいろありました。
例えば自分の身体に対しては、とても敏感でなくてはいけないということ。

人は個人差によって、体のちょっとした異変、あるいは無理と安全の境界線を感じやすい人と鈍い人がいるのだそうです。
鈍い人は、それだけなにかと体に負担をかけることが多いそうで、危険ラインを的確に見極めることができないために、本人はそんな気はないのに、結果的に体を痛めてしまうのだそうです。
スポーツの経験者は厳しいトレーニングと同時に、体調管理の必要性をたたきこまれるらしく、たとえばランニングなどをしていても、ちょっと膝の調子がおかしいなと思えば、そこでただちに走るのを止めるそうですが、そこで欲を出して無理をすると大きな故障に至ってしまうとか。

体が壊れるのはまさに一瞬のこと、しかし、それを取り戻すには長い時間がかかるのだそうです。
まあ、これは人の体に限ったことではなく、ありとあらゆる事に言えることで、物でもなんでも、壊れるのは一瞬ですが、復帰への道のりは長くて遠いものですね。

この先生が言われるには、人間の体は基本的に動かして機能を使うようにできているから、これをしないと体はいっぺんに鈍って不健康になるので、極力運動をして体を日常的に動かすことだそうです。
しかし、これには大いに但し書きがついていて、運動=スポーツのトレーニングのように考えて、無理をするのはとんでもない勘違いで、逆効果だということです。
決して無理をせず、それでいて自然な流れの中で結果として運動にも適っているというのが理想のようです。
むろん、その無理のラインも個人個人で違うのはいうまでもありません。

家人が別の医師からも聞いてきた事ですが、運動の必要性を痛感し、いい歳をした夫婦などが一念発起して夜な夜なわざとらしく大げさに手を振ってウォーキングしたり、中には小走りで夏冬関係なく無理な運動をすることに自虐的な満足を持っている人がいますが、ああいうのは百害あって一利なしだそうです。

それなりの年齢まで運動の習慣がない人が、あるときを境に心を入れ替えたつもりで人が変わったように運動に精を出したりするのは、シロウトのマロニエ君の目にもちょっと奇妙な光景に映っていましたが、やはりこういう形での運動はもっぱら体に負担をかけるだけでプラスの効果はあまりないようです。
しかし、ご当人は、すこぶるいいことをしているつもりなのだろうと思われます。

まあ、マロニエ君のような怠け者には、「無理をしてはいけない」というフレーズは、それだけでもなんとも心地よい響きなので、それでこの先生のお説がますます気に入ったのかもしれませんが
2011/03/08 Tue. 01:39 | trackback: 0 | comment: 0edit

シフのベートーヴェン 

先日のNHK芸術劇場では、アンドラーシュ・シフの来日公演の様子が放映されましたが、これが実にたいへんなものでした。
曲目は近年のシフが取り組み、CDも全集として完結したベートーヴェンのソナタで、しかもなんと、最後の3つのソナタですから、曲目を新聞で見ただけでもゾクゾクさせられます。

シフによると、この3つのソナタは3つでひとつの世界を構成しているので、ひとまとまりに演奏してこそ意味があると言い、コンサートでは途中休憩もなしに3曲が続けて演奏され、Op.109、Op.110、Op.111の間では椅子を立つこともなく、あらかじめ会場に通達されていたのか聴衆の拍手もないという徹底ぶりでした。

マロニエ君もこの晩年のソナタは3つセットで聞くことのほうが多く、この3曲によるCDも多いし、ブレンデルやポリーニなど、多くのベートーヴェン弾きがこの3曲だけのコンサートなどもやっていて、プログラム自体は決して珍しいものではありませんが、しかし休憩も拍手もなく一気に全部続けて演奏するというのは、たしかにあまりなかったように思います。

ベートーヴェンの全ピアノソナタの中での最高傑作といえば、人によっては熱情やワルトシュタイン、あるいはその革新性や規模の点でハンマークラヴィールという意見もあるでしょうが、マロニエ君はなんといってもこの最後の3つのソナタだとかねてから思っています。圧倒的に。

「今夜テレビでこの最後の3つのソナタがある」と思うだけで、昼間からもうそわそわしてしまうほどこの3曲には格別な思い入れがあり、おそらくはピアノソナタとしては空前絶後のまさに金字塔だろうと思います。
娯楽であった音楽が芸術に高められ、しかも崇高なる精神領域へとそれが登りつめたのはこの3曲であり、ハンマークラヴィールはいわばその3つの頂きの前に建てられた大伽藍、Op.101はさらにその聖域に入る門という気がします。

何気ない感じで始まるOp.109の第一楽章、激しい第二楽章を経て、第三楽章でははやくもベートーヴェン得意の主題と変奏が孤高の芸術手法によって展開され尽くされます。続くOp.110でも始まりはごくシンプルですが、忽ちにして天上的なアルペジオの上下に発展。そして短く炸裂する第二楽章ののち、第三楽章では有名な嘆きの歌とフーガがそれぞれ形を変えて二度表れますが、これはまるでバッハの平均律・前奏曲とフーガの発展であるかのような印象です。
そして最後のOp.111ではもっともベートーヴェンらしい激しいハ短調で幕が開きます。運命や悲愴、コリオラン序曲、第3ピアノ協奏曲、合唱幻想曲などはいずれもハ短調ですから、いかにこれがベートーヴェンらしい調性かが窺えます。
そしてあの天を仰ぎ、この世の地平を見渡し、すべての許しと終焉をかたりつくすような最後の楽章となり、こちらもベートーヴェンの得意とする壮大なハ長調。この第二楽章のことなどをマロニエ君ごときがあれこれと書くだけでも、あの崇高な作品に対して不敬な気がしますのでもうこれ以上妙なことを書くのは止します。

シフの演奏は、ベートーヴェンに於いては必ずしもマロニエ君は肯定的なばかりではなく、異論反論も多々ありますが、しかし、なにしろこの桁違いの神憑り的な作品を誠実に聴かせてくれただけでも頭を下げたくなるのが正直なところです。
始めは3曲続けて演奏というのは疲れるだろうかという危惧もありましたが、始まってみるとあっという間の70分でした。

そして、まさかOp.111のあとにアンコールを弾くことはあるまいと思っていたら(なぜなら弾くべき曲がないからです)、その予想はあっさりと裏切られました。
バッハの平均律第2巻のハ長調の前奏曲とフーガが演奏されましたが、この選曲がOp.111のあとのアンコール曲として相応しいかどうかは別にして、その見事なことといったらありませんでした。すごいです。
ああ、東京にはこんなコンサートがあるところがうらやましいと思います。

会場は紀尾井ホールで、マロニエ君はここのスタインウェイが以前からお気に入りなのですが、この点もやはり相変わらずの素晴らしいピアノでした。
2011/03/07 Mon. 01:23 | trackback: 0 | comment: 0edit

野次馬根性 

昨日の午後遅く、用があって天神に行ったのですが、いつものように車で自宅を出て1〜2分、1キロも走らないあたりで前方にどういうわけか人がたくさんいるのが目に入りました。

それは、ちょうど坂道を下った先にある交差点のあたりで、一目見て、いつもとはまったく違うその気配に何事だろうかと思い、車が近づくにつれて目を凝らしました。
ちょうどその交差点の信号が赤になり、上手い具合に停車することになりましたが、とにかく黒っぽい男性の姿が多く目につき、なんとテレビカメラのようなものを担いだ、見るからにマスコミ関係とおぼしき人達もその中にたくさんいて、皆一様にむかって右側を凝視しています。

それだけではなく、なにか非常に緊迫した雰囲気があたり一帯に漂っていて、なにかが起こっていることはもう明らかでした。さらによく見れば、交差点から右斜めに伸びる道の入口にはロープがかけてあって、もはやその道は立入禁止になっています。
警察官も大勢いますから、もはやこれはタダゴトではないことは一目瞭然でした。

ちょっとした事故や事件なら世の中のあちこちで散発しているでしょうけれども、これだけのカメラの数からしても、どうやら並の事件ではないと思いました。

道も俄に流れが悪くなり、幸いにもサッと現場を通り過ぎることはできなくなりましたから野次馬としてはチャンスです。
そうこうしているうちに先の信号が赤になり、事件現場らしき場所の近くで停車をせざるを得ない状況になりましたが、もうひとつの路地の入口にはテレビニュースなどでよく目にするブルーシートが道幅いっぱいに張られていて、その先の様子を窺い知ることはできなくなっています。

それにしても、あのブルーシートというのはそもそも中の様子を見せないために張るものでしょうが、なんとまあその生々しい青色の目立つことか!まるで「問題の核心はこの先ですよ」と教えてもらっているみたいで、あんなものを見たが最後、いやが上にも好奇心が膨れ上がるものです。

野次馬根性旺盛なマロニエ君は、もうそっちに目も心も釘付けです。
信号が青にならないことを祈りつつ窓を開けて見ていると、中年の女性が二人歩道をこちらに歩いてきましたが、制服は着ていないものの警察関係者とおぼしき男性に両手を広げられ、これより先へは行ってはいけない旨を告げられているようです。

そんなところで信号は青になり、この降って湧いたようなウォッチは終了となりましたが、気になる気持ちはとうてい収まるものではなく、天神に着いてすぐに友人に電話して事のあらましを言ったところ、インターネットのニュースを見てくれて何事かがようやくわかりました。
地元の電力会社とガス会社の社長宅に爆発物が仕掛けられて、そのための騒ぎだったようで、てっきり殺人事件かなにかと思いこんでいたマロニエ君としては、へぇ……という印象でした。

そういえば昨日の午後は、やたらヘリコプター(しかも複数の)が我が家の上空あたりを長時間ひっきりなしに飛び回っていたので、ずいぶんうるさいなぁと思っていたところでしたが、どうやらこの事件のせいのようでした。

帰りもむろん同じ道を意識的に通りましたが、依然としてブルーシートなどは張られたままでしたが、報道陣の姿は潮が引いたようになくなっていました。
なにやら、やたらわくわくさせられたマロニエ君でしたが、帰宅した頃には騒がしかったヘリコプターの音もすっかり消えていました。

テレビニュースよれば怪我人などはいなかった由で、ひとまずなによりです。
2011/03/06 Sun. 01:30 | trackback: 0 | comment: 0edit

ウチダの芸 

内田光子といえば、今や数少ない第一級の世界的ピアニストの一人と位置付けられ、ましてや日本人ということになると、それはこのクラスでは唯一の存在でしょう。

彼女の優れた才能や演奏上の特質や魅力については、もう長いこと聴いてきてマロニエ君なりに充分わかっているつもりですし、とりわけまずモーツァルトで認められ、フィリップスから続々とCDがリリースされるたびに、その圧倒的な繊細かつ細心を尽くした表現の極みには、西洋音楽の中に息づいた日本の美を見たものです。

しかし、では双手をあげて賞賛するばかりとはいかないものもあるのであって、それがシューベルトのソナタに至って顔を出し、それに続くベートーヴェンなどではいよいよ顕著にもなってきたようにも思います。

しかし、マロニエ君がそう感じるのとは裏腹に、日本というのは不思議な国で、いったん高い評価が定着してしまった人には、ほとんど批判らしいものが聞かれなくなり、以降は何をしても大絶賛となる傾向があります。

彼女の最新盤はシューマンのダヴィッド同盟舞曲集と幻想曲のカップリングですが、とりあえず購入して聴いてみたのですが、ちょっとどうかなぁと思われる点も少なからずありました。

以前から内田光子に抱いている問題点は細部の処理などに、あまりにも神経質になるあまり、表現がいささか独りよがりになる傾向があったように思いますが、それは最新のシューマンを聴いても同様でした。
とくに間の取り方などはその最たるもので、音楽の流れが遮断され、いくらなんでもやり過ぎな感じのすることが少なくありません。

また、内田ならではのこだわりと格調高い演奏を意識しすぎてか、緊張感の割り振りが上手く行かず、極度の緊張がむやみに強すぎて、全体が息苦しくしくなりがちだと思います。
素晴らしいと思う反面、非常に疲れるし、聴いていて鬱陶しくなることも少なくありません。

簡単に言えば、ちょっと考えすぎで、音楽というものはもう少し、率直に楽しくあってもいいのではないかと思います。これを人によっては深みとも芸術性とも捉えるのかもしれませんが、マロニエ君としてはそれを否定はしないものの、どうしても全面的に肯定する気にはなれないというのが正直なところです。

芸術家としての思慮深さという点にかけては文句なしですが、演奏家としての呼吸と必然性にはいささかの疑問の余地があるようにも感じるわけです。
このことは実際のリサイタルに行っても感じることで、聴衆を音楽に乗せるのではなく、絶えず息を殺して、固唾を呑んで聴く姿勢を要求されるようなところがあり、そこが人によってはさすがという感動を呼ぶのかもしれませんが、見事だけれども、なにかが違うのではないかと疑問を投げかけられるような気がするのも事実です。

しかしながら、ともかくもここまで、文字通り寝食を忘れるほどに自分を追い込んで、音楽というよりは、マロニエ君に言わせれば、独特の宮大工の誇り高い仕事のような巧緻な演奏美の世界を作り出し、それを極めたという点では内田光子は圧倒的な存在だろうと思います。
ですから、マロニエ君の場合は彼女の演奏に接するときは、いわゆる音楽を聴くというよりは、伝統工芸のような演奏美を観賞するというスタンスになってしまうのです。

それでもなんでも、なにしろここまでくれば大したものではありますが。
2011/03/05 Sat. 01:57 | trackback: 0 | comment: 0edit

整体院 

整体院の続きです。

具体的なことをくどくどと書いても仕方がないので大まかに言いますと、受付を済ませたあとは、まず機械による足裏のツボ刺激を10分間やらされ、あとは先生の見立てとなります。
マロニエ君の場合、問題の肩は指がまったく入らないほどにパンパンになっているのだそうで、状態が厳しいので初回は核心部分へは敢えて手をつけず、外堀から攻めるべく、そこへ連なる手足のほぐしに時間の大半が費やされました。

足も左右、たっぷりと時間をかけてほぐされますが、一見肩とは関係の無さそうな足などは、実は肩や首とは密接な関係があるのだそうで、左右共にかなり慎重にやられました。
両手も同様で、これもかなり時間をかけての治療のようですが、なにぶんマロニエ君の体はこれまでに一度もこのような整体術を受けたことがなかったので、リラックスというよりは、緊張と、相応の痛みとが入り交じった感覚で、終わったときにはドッとため息が出るような気分でした。

先生もずいぶん頑張られたと見えて、全身うっすらと汗ばんで多少息が上がっているようでした。

首に簡単なギブスを装着したほうが治りが早いと断然これを勧められ、どうしてもイヤなときは外してもいいということなので、これをくくりつけられての帰宅となりました。

首は多少の不自由があるものの、むち打ちの人がするような大きなものではないので、拘束力もさほど強くないし、それよりは心なしか気分が晴れ晴れとしたような心地がしましたが、それが単なる気分的なものか、あるいはさっそくにも何らかの効果が顕れてきたのか、この時点ではそこまではよくわかりませんでした。

まずはそのまま仕事に復帰して、夜は都合により外食となりました。
食事から帰るころまでは首にへんなものをつけている以外はなんということはなく、むしろはっきりしていたのはあの耐えがたいような肩の激痛が、たしかに少し和らいだ感じがあって、これだけでもやはり思い切って行った甲斐があったと喜んでいました。

ところが深夜になり、厳密には整体院を出て6〜7時間ぐらい経過した時点で、急に両手足が痛くなりだしました。直感的に揉み疲れだということは察せられたのですが、その痛みはわずか30分ぐらいの間に猛烈なものへと拡大して、もう歩くのもやっと、物を取るのもやっと、階段の上り下りは一歩一歩が苦しみを伴うものになったのにはさすがに驚きました。とくに下りのほうが痛みはより厳しく、よく、上りよりも下りのほうが体の負担は大きくて大変などと言われるのが、まさに身をもってまざまざとわかりました。

深夜なのであとは寝るだけですが、夜中にトイレに行くにもほうほうの体でした。

それはそれとして、大きな発見は、やはり血行がよくなったのか、寝るときも体が心なしかいつもより温かいことがはっきりとわかり、とうとう毛布を一枚外して寝ることになり、整体というのはすごいもんだとだんだん思うようになっていきました。

幸いこの両手足の揉み疲れは、翌日になるとほとんど気にならないレベルにまで落ち着き、あとはやはり肩の痛みが以前より確実に少なくなっていることが実感できるようになりました。

そして昨日、二度目の治療を受けに行きましたが、さすがに初回のような緊張もなく、遙かにリラックスしてあれこれのほぐし等を受けることができました。
今回から鍼治療もはじまり、首のツボに二度ほどこれを受けましたが、鍼などというとマロニエ君は注射を連想するようなイメージがありましたが、果たして髪の毛のように細い鍼で、ほとんど痛みらしい痛みもありません。

効果がいよいよあらわれてきたのか、針治療の成果か、昨日からはさらに肩の痛みが少なくなり、さすがだと思うと同時に、こんなことならもうちょっと早く行っておけばよかったと思わなくもありませんが、それは結果からそう思うのであって、マロニエ君の性格からすれば、かなり追いつめられないことには到底動かないわけですから、これはこれで仕方がないと思います。
ともかくも良い結果が出つつあって、ひとまず良かったというところです。
2011/03/03 Thu. 01:38 | trackback: 0 | comment: 0edit

実況録音のCD 

昨年のショパンコンクールの実況録音のCD(コンクール会場で入手できる由)を人からいただいたので、さっそく聴いてみると、これが予想以上のCDで、最近は録音技術が著しく発達しているせいもあるのでしょうが、まさに至近距離で弾いているかのようなリアル感で聴くことが出来るのは、やはり今どきの技術はすごいもんだと感心させられました。

率直に感じたことは、「これはまさしくピアノのオリンピック」だということでした。
但し、オリンピックといっても、コンテスタントがなにもスポーツのような非音楽的な演奏をしているという意味ではまったくありません。
この実況録音には、普通のレコーディングはもちろん、コンサートのライブ録音などからもまず聴くことの出来ない、このコンクールだけが持つ独特な勝負のかかった凄味があるということです。

もう少し説明を続けると、泣いても笑っても、その年その日その時間に演奏される一度きりの演奏によってのみ、優劣の判定が下され、それである者はその後の人生さえ大きく左右されることも珍しくはない極限的な場面の記録であり、息詰まるような時間がそこには流れているのは、他にはオリンピックぐらいしか思い当たらなかったのです。
このやり直しのきかない緊張と一発勝負の世界は、まさにスポーツのそれのようでもあるし、非常に悪い表現をするなら一種のギャンブル的な運の要素まで絡み込んでいます。そんな興奮の中で繰り広げられる世界というわけで、このCDにはその異様な空気感のようなものまでが生々しく記録されている点で、一聴に値するものだと思いました。

当然ながら曲によって、人によって、ミスや演奏上のキズもあり、勢い余ったり、あきらかに不本意だろうと感じるような部分も中にはありますが、それらをひっくるめて、近ごろではまず滅多に耳にすることのできない類の、パワー感に溢れる、若者達の真剣勝負の姿を見るようです。
これほどテンションの上がった中での一途な演奏は、もうそれだけで聴いていて圧倒され、否応なしに惹きつけられるものがありました。

これは演奏の良し悪し以前に、人間はこういうドラマティックな緊迫感というものには無条件に反応し、聴いているこちらまで普通の演奏を聴くときとは明らかに違う、一種の興奮につり込まれていくようです。
もちろん、そんな空気の中でさらにプラスの結果を絞り出す演奏者もいて、そういう一期一会の、すべてのエネルギーがその一回に賭けられたような演奏というものは、同じ人でもそうそう何度もできることではありません。
現にファイナルに残った一人は日本でのガラコンサートの折に「ああいう体験は二度とできないのではないかと思う」と言っているようですが、たしかに頷ける話です。

俗っぽい表現をするなら、まさに多くの若者の「命がけの演奏」がそこにあり、そういう勝負の場に立ち会うことの意味をまざまざと教えられるような、そんな高揚感に包まれました。

ただし、全体にはどれもあまりにもエネルギッシュかつピアニスティックな演奏で、もしショパン本人が聴いたとしたら果たしてどう思うでしょうか…。

これはショパンコンクールという名の、ワルシャワのお祭りだと捉えるべきかもしれません。

そうそう、もう一つ感銘を受けたのは、どのピアノもそれぞれの潜在力の最大限と思われるほど良く鳴っていたことです。
2011/03/02 Wed. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit

ガマンと決断 

マロニエ君は今年の初めぐらいから腰痛に悩まされ、パソコン用の椅子を買い換えるなどして一進一退を繰り返していたのですが、ろくに回復しないうちに、今度は左肩から背中にかけて強い痛みが加わりました。

鎮痛剤を呑むなどして様子を見ていましたが、症状はなかなか改善されず、一度はついに重い腰を上げて近所の整形外科に行ったのですが、雨の日だったためか待合室を見ると5〜6人待ちの状態であったため、冗談じゃないと思いそそくさと引き返してしまいました。
以前も書いた記憶がありますが、マロニエ君は行列とか待つということがなにしろ嫌いで、そんな光景をみると、自分の置かれた状況も関係なく、ひたすら拒絶反応を起こしてしまいます。

そんな頃、たまたま会った知人の医師(専門は違いますが)にこの症状の話をしたら、自分も腰痛持ちだが医者にはかからない、なぜならどうせ整形外科に行っても、レントゲンを撮って、痛み止めの注射をして、クスリを出すのが関の山だから何の期待もしていないと軽く言い放つではありませんか!
その人が言うには、整体院のほうがまだいくらか期待できるかもという事でした。

それみたことか!と、マロニエ君は自分が未だ医者にかかっていないことをいささか気に病んでいたところでしたが、そんな折に聞いたこの発言ですから、一気に専門家のお墨付きを得た気分でした。
「やっぱりあのとき引き返してきたのは正しかったんだ!」と。

しかし、それから約10日ほど経過したものの、症状は一向に改善の気配もなく、とりわけ左肩周辺の痛みは耐えがたいものがあったので連日騒ぐものだから、家人もうんざりしていました。
それを見かねたある知人が、自分がかかりつけという整体院を紹介してくれました。
「ここはとても親切でなかなかいいところだから行ってみたら…」というわけです。

ふうん…だったら行ってみようかという気になりかけたとき、以前ある調律師さんの奥さんの言葉をフッと思い出しました。「腰痛を治そうと整体院に行ったところ、あれこれとわけのわからない事をされた挙げ句、却って悪化したので、あの手のところに行くのも考えものですよ!」という話を思い出し、はてさて、どうしたものかとずいぶん悩みました。

悩んでいるその間にも、痛みは一向に治まる気配を見せず、靴下をはくのも目薬を差すのもかなりの苦痛を伴います。
最近ではピアノサークルのメンバーの方から教えていただいた、この手の痛みによく効くという売薬も飲み始めていたところですが、効能が表れるまでには最低一ヶ月はかかるらしく、それを期待するのはしばらく先になりそうなので、当面の痛みを減じるためにも、ともかくものは試しと決心して整体院についに今日行ってみたのです。

マロニエ君は実は生まれてこのかた、整体院とかマッサージといった類は一度も受けた経験がなく、体を揉まれたりするのはかなりくすぐったがるほうなので、悲鳴でも出そうものならどうなるやらと不安でしたが、ともかくこう連日痛むのでは現実的に生活に支障をきたすので、すべてを振り払って、ついに車のエンジンをかけました。

というわけで整体院初体験となりましたが、前段がずいぶん長くなりましたので、明後日また行くことになっていますし、その結果は次回にまとめて書くことにします。やれやれです。
2011/03/01 Tue. 01:36 | trackback: 0 | comment: 0edit