FC2ブログ

03 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.» 05

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

コンサートも連休? 

ゴールデンウィーク期間中になにか手軽なコンサートはないだろうかと情報を集めてみたところ、これがほとんど全滅に等しい状態であることがわかり、これにはかなり驚かされました。
なんと、連休中って、コンサートはまったくのゼロではないものの、本当にろくなものがないし、できるだけしない方向というのが世の常識なんですね!今ごろ知りました。

そもそもコンサートって行くほうには娯楽かと思っていましたが、では一体なんなのでしょう?
連休中にコンサートなどやっても普段以上に人が来ないということがわかっているから、実際こんなに申し合わせたように一斉休業状態になるわけでしょうね。

盆暮れ同様、ゴールデンウィークにもコンサートが軒並み姿を消すこの現状を知って、一般人のコンサートに対する認識というか、位置づけというか、重みをありありと知らされた気がします。
要するに「まとまった休みが取れる時期はコンサートなんぞに行くヒマはないよ」ということ。

では連休期間中は、コンサートも行く暇がないほどみなさん何をされているのかは知りませんが、いくらなんでもすべての人が旅行やドライブや里帰りというわけでもないでしょうに。
べつにすることもなくだらだらしてた、ビデオを見てただけ、休みは却って嫌だというような人をマロニエ君はいくらでも知っています。
では、そもそもコンサートはどういうタイミングで行くものなのか、果たしてコンサートってなんだろうと思ってしまいます。

確認したわけではないですが、きっと欧米ではこんなことはまずないと思います。
海外の音楽祭なんて聴く側はそれ自体が長期戦の遊びみたいなものでは?
どうしようもない文化レベルの低さをこんなことで見せられてしまったようで、非常に貧しい感じがします。

マロニエ君のごくごく素直な感覚からいうと、音楽が好きな人にとっては普段以上に連休中などはゆったりコンサートにでかけたりするのに格好の、自由な数日のように思うのですが。
日本人でありながら日本人の行動パターンがわかりません。
スポンサーサイト
2010/04/30 Fri. 22:01 | trackback: 0 | comment: 2edit

雑談は音楽のように 

少し前のことですが、書き忘れていたので。
知り合いのテスト企画ということで、音楽家の誕生月をテーマとしたささやかなイベントを行いました。
4月なのでプロコフィエフ、ラフマニノフ、カラヤン、レハールなどさまざまな音楽家が該当し、この人たちのCDを聴きながら適当に話を進めるという趣向です。
どうあらねばならないという決まりはないので、話は次から次に発展し、枝分かれし、混迷し、脱線していくところに最大の面白さがありました。会話の魅力は、話題の際限ない展開にあると思いました。

一つのテーマを出発した話は様々な曲折を経ながら悠々と変化して、話の扉は次の扉へと連なり、歌舞伎の早変りのようにめくるめく姿を変えていきます。それを幾度も繰り返した揚句に、ところどころで本来のテーマに立ち返ります。
これはまるで音楽の形式そのもののようで、主題があり、引き継がれた第二主題と絡みながら展開部あり、転調あり、あるいはソロあり掛け合いありアンサンブルあり、それらを即興性が支配するという、あらゆる要素が音楽のそれに重なるようでした。テーマを変えれば楽章が変わるようで、終わってみればこの一日全体が多きなひとつの音楽のような気がしました。

自然な会話のやり取りがあたかも音楽の法則の原点のようでもあったと思われ、同時に音楽それ自体が人の生理にかなっていることを証明するようで、お互いを両面から確認できたようでした。

この日のメンバーはまことに奇妙な顔触れによる雑談のカルテットでしたが、なかなか音楽の話をこれだけ自然におもしろおかしくやってのける場というものは経験的にないような気がします。

あまりに初心者に合わせたものは人為的迎合的すぎてつまらないし、逆に過度に専門的になるとこれまた学究的な臭みがあって遊びと呼ぶにはふさわしくない。
マロニエ君にとっては風刺漫画のように適度に崩されたそのバランスは最適なものでした。

ここで痛感したことは、いかに雑談とはいえ、参加者が一つのテーマを意識したうえで交わす自由な会話というものが、ある意味ではもっとも充実した内容になるという意外な発見だったように思いました。
すなわち雑談にもテーマは不可欠だということ。
2010/04/28 Wed. 12:26 | trackback: 0 | comment: 0edit

トホホ 

昨夜は友人数名が集まり食事会をしました。
わけあってこのメンバーの時はだいたい居酒屋のようなところになります。
通されたのは小さな小部屋のようなところで、他のお客さんに煩わされることがなく、ゆっくり話をするのには最適な状況でした。
そのせいで会話は思う存分堪能できたのですが、こういうスタイルの店はどこも同じで、アルコールがダメなマロニエ君にはどれもがつまみ食いばかりのような感覚になります。
いつも結局、何を食べたのか自分でもよくわからないまま終わりとなります。
その時はお茶などを併せ飲んで表面的には満腹していても、実際きっちり食べていないので帰宅するとお腹がすいて、いつものように夜食を余儀なくされました。

やはりこういうことは、長年自分が過ごしてきた生活パターンからくるのだと思いますが、馴れないものはいつまで経っても馴れないというか、むしろ歳をとるほど順応性がなくなるようです。
マロニエ君にとっての食事とは、親子連れでいくような店のことを指すのかもしれません。

きのうもマロニエ君はどうせ呑まないので車で行ったのですが、店の前にあるタワーパーキングにとめていたところ、気がついたときには出庫時間を過ぎており、もはや打つ手がなくタクシーで帰宅。
今日の午前中、友人に送ってもらって車をとってきましたが、そこの駐車場ときたら、あんな歓楽街で駐車場業をしているくせに23時で閉鎖して、なおかつ深夜料金も泊まり料金も設定がなく、そのまま計16時間分の駐車料金を取られて帰って来ました。
2010/04/25 Sun. 13:10 | trackback: 0 | comment: 0edit

今日もまたやられた 

マロニエ君は車の仲間内ではちょっと知られた洗車オタクなんです、じつは。
一時は本を書いたら?といわれるほど強烈でしたが、最近ではめっきりそのエネルギーも落ちて以前のような迫力はなくなり、自分でもかなり普通になったと思っています。
でもまだその残光というか、引きずっているものはあるわけです。

たとえば同乗者のドアの閉め方。
人さまを車に乗せるのはぜんぜん嫌ではありませんが、ひとつだけ気にかかることがあって、それがドアの閉め方なんです。
9割以上の人が無意識にすることですが、車を降りてドアを閉めるとき、必ずと言っていいほどドアのガラスかその周辺の塗装面に手を触れてエイヤッとばかりに閉めてくれます。
結果は無残にもそこに指紋が残りますし、車が汚れているときはそこだけ跡がつきます。
なんでみんなこうなの?って思います。

ドアには取っ手が付いているのだから、開けるときと同様に閉めるときもここを持って静かに閉めてほしいわけです。
車の仲間はそういう作法はごく初歩的な常識としてわきまえているので全く問題ないのですが、普通はまず期待できません。
それも車がかなり汚れている時ならまだしも、洗いたてのピカピカ状態でそれをやられると、思わず真っ青になるか血圧がバクッとあがっているはずです。家に帰ったら、こめかみに青筋を立てながらガレージでさっそく指紋取り作業開始です。
それでもガラスは拭けばまだ済みますが、塗装面だと下手をすると傷が入ることもめずらしくないのです。

だいたい車に限らずガラスをじかに触るというのが理解できません。
例えば普通の主婦の方でも、ピカピカに磨いたばかりのガラス窓に他人が無邪気に触ってべたべた指紋を付けながら眺める景色の話などしたらいい気分はしないはずです。

タイトルの通り、じつは今日もまた見事にやられてしまいました。
その人はこんなブログのことは知りませんのであえて書いてしまいましたが。
2010/04/21 Wed. 22:07 | trackback: 0 | comment: 0edit

新発見 

昨日のコンサートで新発見をひとつ。

通常、2台のピアノのコンサートの場合、第1ピアノ(通常の向き。鍵盤左、大屋根付き)に対して、第2ピアノ(第1の逆向き。鍵盤右、大屋根なし)のほうが分が悪いとよく言われます。
理由は簡単、フタのついたほうのピアノは音が客席側に向ってくるのに対して、フタを取り去ったほうのピアノは音が四方に散ってしまい、そのぶんパワーが弱くなるからです。

それはわかっているのですが、昨日は第1ピアノの豊かで深みのある音に対して、第2ピアノはわずかながら安っぽい平坦な音に聞こえていました。で、マロニエ君は良いほうのピアノが第1ピアノに選ばれたのだろうと、ごくごく単純に思っていました。

ところがです。後半のブラームスのトリオを控えて、第1ピアノはフタを閉じて舞台の隅に押しやられ、第2ピアノが方向転換して舞台中央に据えられ、同時に外されていたフタが取り付けられました。
するとどうでしょう、さっきとはまったく別のピアノのような、腰の据わった威厳のある音が鳴りはじめ、これにはちょっと面喰いました。
同じピアノがフタの有無と向きだけで、単なる音量以上の、音の質までまったく別物のように変わってしまうということです。

フタの有無の影響は当然としても、おそらくは高音が手前、低音が奥という配置もピアノの響きの前提条件なのかもしれません。専門的なことはわかりませんが、これほどの大きな変化には驚かされました。

連弾以外では、前半からこちらのピアノを弾いていたのは、チョン・ミュンフンでした。
おそらく彼は始めからこちらのピアノが気に入っていたのでしょうね。
2010/04/16 Fri. 01:25 | trackback: 0 | comment: 0edit

ああ、アルゲリッチ様! 

以下、カルメンさんからの投稿です。

『いつもの黒のドレスで、肩にかかる黒髪を払いのけながら(結構おばさん的貫禄)、ツカツカとオーケーストラの前に立ち現れたアルゲリッチ様。ズシッとピアノの椅子にお座りになって、オケの方をぐるっと見回して・・・始まった! ショパンコンチェルト。前奏が始まると同時に体を揺さぶり、指揮者の方も見ず戦い挑むe mollの旋律!(背筋がゾゾー!)
皇帝ナポレオンか、否、暁のジャンヌ・ダルクか、何千という兵士を携え、ああ、アルゲリッチ様がそこに居わします!
「あなたわかる?彼女(アルゲリッチ様)ラリってるでしょう?こりゃあやっぱり(ドラッグ?)やってるね!ね!」横に座っていたMunchen音大生ゾフィーは私の耳元でささやくのです。
アルゲリッチパワーにボーっとしていたい私、「ああうるさい、黙っててよ!」私にはやってようがなかろうが、音楽とは関係ないことと思っていたのでした。
しかし、どこのオーケストラだったかも、指揮者が誰だったかも、2楽章をどんなふうに弾いたかも、ほとんど忘れているのに、頭から離れないのが、弾きながらオケの方を睨み付け怒ってるアルゲリッチ様。ああ、私も若かったんですねえ。
ヘラクレスザールで私が初めてアルゲリッチショパンを聴いた時の、あのオーラが今でも忘れられません。
30年前の春のお話。』

ということは、アルゲリッチが38歳のころですね。あの頃は本当に激しい演奏をしていましたね。
客席にいてもそのただならぬ様子にハラハラさせられたものです。(マロニエ君)
2010/04/15 Thu. 23:49 | trackback: 0 | comment: 0edit

チョン・ミュンフンとアルゲリッチ 

マルタ・アルゲリッチ&チョン・ミュンフン室内楽の夕べに行ってきました。

演奏は改めて言うまでもない大変見事なものでしたが、若干力を抑え気味に、軽く弾いていた印象でした。
さすがというべきかこの世界最高のピアニストを聴こうと、会場は平日にもかかわらずほぼ満席で、マロニエ君の左右の人もそれぞれ門司や熊本からわざわざ来たという声が聞こえました。

前半は連弾と2台のピアノで、ドビュッシーの小組曲、ブラームスのハンガリー舞曲から3曲とハイドンの主題による変奏曲。
後半はブラームスのピアノトリオ第1番で、ピアノはチョン・ミュンフン、ヴァイオリン:キム・スーヤン、チェロ:ユンソンといずれも韓国人によるトリオでした。

アルゲリッチの演奏は前半で終了したのですが、後半の開始直前、会場の中央が少しどよめいたと思うと、なんと着替えを済ませたアルゲリッチが客席に姿を現し、あたりに小さな拍手が起こりました。
準備されていたらしいシートの一つに腰をおろして、後半のブラームスのトリオを聴衆の一人としてゆっくり楽しんでいるようでした。
一般の人の中に現れても、やはりとてつもないオーラを発していて、そこにいるだけでありがたい気分になります。

それにしてもチョン・ミュンフンはピアニストとしても、あきれるばかりの腕前を持っていることが再確認できたコンサートでした。若い二人をがっちりと支え、ひたすら音楽に奉仕するその格調高い演奏にはただただ敬服するばかりでした。
以前聞いた話では、チョン・ミュンフンのピアノに驚いたアルゲリッチが、彼のお母さんに「もっとピアノを弾くように言ってくれ」と言ったそうです。
現役の指揮者であれだけピアノの弾ける人は、他にはアシュケナージ、バレンボイム、レヴァイン、プレトニョフぐらいでしょうか。
レヴァイン以外はいずれもピアニスト出身ですから当然ですが、チョン・ミュンフンもチャイコフスキーコンクールのピアノ部門で2位に輝いた経歴の持ち主ですから、いずれにしろとてつもない才能です。

久々に本物のコンサートに行った気がしました。
2010/04/15 Thu. 01:34 | trackback: 0 | comment: 0edit

洗車健康術 

今日はまた荒れ模様でしたね。
気温もさることながら方向の定まらない突風には閉口しました。
農作物の生育にも深刻な影響を及ぼしているそうで、およそ桜が散った後の天候とは思えませんね。

読書好きの知人からおもしろいテーマをいただき、エラールについて書いてみましたので、マロニエ君の部屋をご覧いただければ幸いです。

フランスのピアノというのも尽きない魅力があり、死ぬまでに一度は戦前のフランスピアノを見て回る旅をしてみたいものです。
それに対してイタリアは、美術やオペラはともかくも、車やピアノは歴史的に見ても大変重要な国なのですが、どうももうひとつ興味がわきません。
これこそ相性というもので、理屈じゃないのでしょう。

すべてをこの季節のせいにして体調のすぐれないのをいいことに、家の中に籠っていてもいけないと一念発起して、夕食後に洗車をしてみました。
寒いガレージで約2時間体を動かしたら、やはりというべきか望外の爽快な気分になれました。
2010/04/13 Tue. 20:03 | trackback: 0 | comment: 0edit

デュシャーブル 

デュカスのソナタでさらにもう一つ書き忘れていましたが、私の聴いているこのソナタのCDのピアニストはフランソワ=ルネ・デュシャーブルです。彼は名前から推察される通りフランスのピアニストですが、大変な力量といいますか、まさに世界第一級の実力と才能を持った逸物でした。晩年のルビンシュタインが心から推挙した唯一の若手ピアニストがこのデュシャーブルです。

この人はしかし、この溢れんばかりの天分を普通のピアニストとして濫費する事を良しとはしませんでした。とはいってもショパンやリストなどに多くの名録音を残しており、たとえばショパンの作品10/25のエチュードは、マロニエ君の手元にもパッと思い出すだけでも優に10人以上のCDがありますが、一押しはこのデュシャーブルです。
いっぽう彼ならではの珍しい録音も多くあり、隠れた名曲の再興にも力を尽くした本物の音楽家なのです。デュカスのほかサンサーンスの6つの練習曲(作品52と作品111)や、ソロピアノによるベルリオーズの「幻想交響曲」、プーランクのコンチェルトやオーバードなどは、普通ならなかなか見つけることの難しいCDです。

演奏もいかにもフランス人らしい泥臭さや贅肉のないスマートなピアニズムの持ち主ですが、決して線が細くはならず、シャープではあるが重量感とやわらかな体温も備えるといったもので、ちょっと例がないピアニストといえばいいでしょうか。

ところがもう10年以上も前のことだったような記憶ですが、デュシャーブルは商業主義主導のクラシック音楽界の現状に我慢がならないと声明を出し、いらい公共の場での演奏活動から身を引いてしまいました。
その引退セレモニーとして、ヘリコプターにグランドピアノを吊るし、衆目の中、池をめがけてこれを一気に落とすというショッキングなパフォーマンスを敢行して、コンサートピアニストとしての自分を葬り去ったそうです。
大変残念なことですが、本物の芸術家とは凡人に予測のつかないことをしでかすものです。
同時に、最近ではこの何をしでかすかわからないような芸術家もいなくなりました。
2010/04/11 Sun. 14:55 | trackback: 0 | comment: 0edit

デュカスから牧神の午後へ 

デュカスのピアノソナタつながりでもうひとつ書き忘れていましたが、彼の数少ないピアノのための小品の一つに『はるかに聞こえる牧神の嘆き』という美しい曲がありますが、この牧神とは無論『牧神の午後への前奏曲』のことであり、つまりドビュッシーの死を悼んで書かれたものです。牧神の午後の、あのフルートで開始されるたゆたうごとくの動機が主要モティーフとなっていて、彼への親愛の情がにじみ出ている作品です。

ラヴェルが「自分が死んだときに演奏してほしい曲」として名指ししたのも、この『牧神の午後への前奏曲』で、「あれは完全な音楽だから」という言葉を添えたのは有名ですが、やはりこの曲は19世紀後半~20世紀初頭のフランスの音楽史の中でもひとつの中核をなす記念碑的な作品ということでしょうね。

マラルメの詩に触発されたことがドビュッシーの作曲動機となり、このころにはフランスに限らず音楽と文学の結びつきもいよいよ濃密なものになりつつあったようです。さらにそれは舞台芸術にも波及し『牧神の午後』はディアギレフ・バレエの看板ダンサー、ニジンスキーによってバレエ作品としても創り上げられてセンセーションを巻き起こします。

美術の世界でも歴史に名を残す大芸術家がぞくぞくとこの時期に登場し、こんなとてつもない時代があったということ自体が、現在の我々から見ると信じがたい絵空事のようにしか思えませんね。

『牧神の午後への前奏曲』は作曲者自身による2台のピアノのための編曲もあり、その点ではラヴェルの『ラ・ヴァルス』なども同様です。
2010/04/10 Sat. 22:24 | trackback: 0 | comment: 0edit

ソナタの心得 

きのうデュカスのピアノソナタのことを書いたついでにちょっと調べていると、なかなか面白いことがわかりました。

彼はパリ音楽院の先生もしていましたが、作曲の講義でソナタについて、次のようなことを述べていました。
『この形式に近づく上で困難なことといえば、衒学的なソナタに陥らないこと、もったいぶった断片や、それだけがピアノから飛び出してきて、これぞテーマだと声高に告げるようなテーマを書かないことだ。けれどもある種のスタイルは持ち続け、さらに胡散臭い断片にはまらないのが重要でさる。そこがむずかしい。退屈させず、それでいて安易で投げやりなところのないこと。』

これは、演奏する側にも十分あてはまり、初心者や学習者は別としても、奏者が高度な演奏を心がければ心がけるほど、上記の説はとくに留意すべき点だと思います。
つまりやり過ぎは逆効果、バランスこそが肝要ということです。
わざとらしい様式感の誇張や、テーマや断片を執拗に追い回すような演奏は、本人は専ら高尚で深みのある芸術的演奏をしているつもりでも、聴いている側には説教じみた、音楽の全容の俯瞰や流動性を欠いたものに陥りやすいものです。そういう批評家から点がもらえることを前提にした欠陥演奏に対する警鐘のような気がします。

往年の巨匠達の奔放で大胆な自己表出はすっかり否定され、分析的なアカデミックな演奏が今日の主流をなしていますが、こういう流れをデュカスは100年前に予見していたように感じます。
2010/04/10 Sat. 15:11 | trackback: 0 | comment: 0edit

フランスのピアノソナタ 

相変わらず厳しい気候が続きます。
今日は仕事の用事で、ある施設に行きましたが、すでに暖房は入っておらず、妙な底冷えの中で一時間弱を過ごす羽目になりました。なんとも難しい季節です。

このところエネスコのソナタに触発されて、最近はデュカスのピアノソナタを聴いていますが、これがなんともおもしろい作品です。
デュカスはご存じの通りフランスの作曲家で、ドビュッシーやラヴェルと同世代の大音楽家ですが、作品は少なく、一般的には管弦楽曲の『魔法使いの弟子』ぐらいしか知られていません。
彼はピアノソナタを一曲しか書きませんでしたが、考えてみるとフランスの作曲家によるピアノソナタというのはほとんどこのデュカス以外には思い当たりません。
もちろん探せば何かあるかもしれませんが、一般的にはゼロに等しいといっていいでしょう。

ピアノソナタ自体がそもそもドイツ的なものですから、その厳格な様式がフランスという風土や作風には馴染まないものだったといえばそれまでですが、それにしても、あれだけ多くのピアノのための傑作を生み出したフランスで、これというソナタがないというのは特筆すべきことです。

フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル、サンサーンスなど、いずれもヴァイオリンやチェロのためのソナタはあるのに、皆申し合わせたように、まるで何かを避けるかのように、ピアノソナタだけは書いていません。これも驚くべきことですね。

デュカスのソナタは全4楽章、演奏時間40分に及ぶ大作で、フランス人の書いた作品でありながらも、ドイツ寄りな精神を感じさせ、さらにはリストを想起させるところのある無国籍な手触りのする作品といえるかもしれません。
2010/04/09 Fri. 19:46 | trackback: 0 | comment: 0edit

春の激しさ 

桜の季節もようやく終息に向かっているようです。
春は寒さが緩み、花が咲き、命と明るさの象徴のごとくで、巷間良いことばかりのように言われますが、マロニエ君にとっては一年を通じて最も苦手な季節です。
そもそも春は、決してぽかぽかするばかりの穏やかな優しい季節ではなく、天候は毎日が目まぐるしく変化し、激しい風雨を伴う嵐のような日も実際多く、イメージよりはずっと気性の激しい荒々しい季節だと思います。

それというのも季節の変わり目は体調の管理が難しく、この季節はもっとも健康管理にも気を遣いますから、却って冬の真っただ中のほうが楽だったりします。

ヒーターを入れるかどうか迷うような時期はなにやらとても落ち着かず、体かどうしていいのかわからずに困っているのが自分でもよくわかります。
春が終わると次は梅雨の到来で、湿度が高いこの時期は喘息などの症状が出やすくなります。
これから梅雨が終わるまでは、心して過ごさねばならないと思うとうんざりします。

以前、恩師の一人である先生にこのことを話したら、「あなたはチェンバロのような人ね!」と言われました。
その先生は見るも美しいチェンバロをお持ちなので、その繊細で難しい管理経験から面白がってそう言われたようですが、チェンバロのような美しい音でも出せるわけでもなし、ただ単にこの体質には困るばかりです。

ピアノの管理には温湿度管理が大切と言われますが、とりわけ湿度はピアノのため以前に、まず自分の健康管理にもつながっているので、マロニエ君はこれを怠ることはなく、それがピアノにもちょうど良い環境をもたらしている点はなんとも皮肉な感じがします。
でも実際、ピアノに望ましい温湿度の環境は、そのまま人間にとっても快適なものですね。
2010/04/04 Sun. 15:32 | trackback: 0 | comment: 0edit