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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

版より大事なもの 

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。

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2018/10/19 Fri. 02:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プロの資格 

ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。

70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。

その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。

これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の真っ只中におられたからこそ身についたことだと思いますが、マロニエ君の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。

その真逆が日本人。
考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっているその感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの日本人であるマロニエ君から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。

そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。

少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?

いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。

そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。

そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?

音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。

これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。

聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。

2018/10/08 Mon. 13:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

本物は気持ちイイ 

音楽評論はじめ、音楽関係の著述家の中にはマロニエ君がとくに好んでいる人は何人かいらっしゃいますが、そのうちの一人が青柳いづみこさん。
いまさらいうまでもなく、ピアニストと文筆業という二足のわらじを実現しておられ、しかもそれぞれにおいて高いレベルのお仕事を積み上げておられるのですから、その才には驚くばかり。

普通ならどちらか一つでもなかなか難しいことなのに、それを二つも成就させるとは!
二つの道に手を出すことは、どっちつかずになる恐れがあるいっぽう、うまく組み合わされば相乗作用が起こって、より注目を集めるということも稀にあるということが、この青柳さんの成功を見ているとわかります。

さらに青柳さんはドビュッシー研究者としても知られており、何かひとつのスペシャリストになるということは、活動の大きな背骨になるから大切なんでしょうね。
マロニエ君も青柳さんの著作は全部とは言わないまでも、それに近いぐらいはだいたいは読んでいますが、ドビュッシー研究で培われたものが随所で役立っていることを強く感じます。

研究対象であるだけに、ドビュッシーに関する造詣の深さは大変なものだし、自身がピアニストである強味から、ピアニストに関するいろいろな評論は、いま日本人でこれだけ緻密な分析力を持ち、闊達な文章に表現できる人はそうはいないだろうと思われます。
演奏と著述、そのどちらも大変素晴らしいものではあるけれど、マロニエ君の私見でいうと、著述のほうがより格上のお仕事となっているように思います。

CDも書作と同じく「全部」ではないけれど、ほぼ主要なものは購入して聴いています。
とくにドビュッシーについては青柳さんにとって半ば義務でもあるのか、ソロ・ピアノ曲はほぼ網羅されていますが、CDの演奏に関する限り、どれも信頼度が高く素敵な演奏だけれども、決定盤といえるほどの最上クラスというわけでもなく、どちらかというと曲によってムラがあるような印象があります。

一番びっくりしたのは「浮遊するワルツ」というアルバムに収められたショパンのワルツのいくつかで、これはまったくマロニエ君の理解の外にあるもので、ショパンのある意味本場であるパリのセンスからも距離を感じるもの。
とはいえ、適当にお茶を濁したような無難なだけの演奏をされるより、自分の趣味と合わなくても、びっくりさせられても、演奏者自身の感性と考えに裏付けられたものであるほうがよほどマシというもの。
合わないものは合わない、そのかわり抜群にいいものにも出会える、これが演奏芸術の醍醐味でしょう。

さて、わりに最近ですが、NHKの『らららクラシック』でドビュッシーの「子供の領分」が取り上げられたときに、ゲスト解説者兼演奏者としてスタジオにやってきたのが、この青柳いづみこさんでした。
番組の趣旨に合わせて、あまり専門性の高い解説ではなく、わかりやすく平明なお話をされていましたが、どんなに砕いて楽しくお話されても、その背後には確固たる知識と研究の裏付けがあって、当たり前ですがさすがだと思いました。

常連解説者として、よく大衆作曲家のような人(名前も覚えていません)が出てきては、やたら馴れ馴れしい口調で、さっき思いついたような根拠も疑わしい俗っぽい解説を、さも知ったような顔で述べたり、あるときはモーツァルトと自分をただ「作曲家」という言葉だけで、まるで同列のような言い方をするなど、見ているほうがいたたまれないような気持ちになることがしばしばだったこともあり、たまに青柳さんのような本物の方が出演されると、一気に番組の格も上がり、気持ちまでホッとさせられます。

子供の領分の最終曲の「ゴリウォークのケークウォーク」の中に、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲の冒頭の動機が込められており、しかもそれを茶化しているなんてことは、言われるまでまったく気づきもしないことでした。

番組の終わり近くで、スタジオのピアノでゴリウォークのケークウォークを通して弾かれましたが、少しだけリズムにクセなのか崩れなのか、細かいところまではわからないけれども、聴いていて僅かな違和感があって、それがやや首を傾げました。
おそらくフランス流にデフォルメされた、流れるような演奏を狙っておられるのだろうとは思うけれど、どこか辻褄の合っていないような後味が残るのが気になりました。
それでも、物事を極める人というのは本質的に気持ちが良いものです。

2018/09/22 Sat. 02:49 | trackback: 0 | comment: -- | edit

若手の問題 

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。


2018/08/14 Tue. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

最後のピレシュ 

Eテレのクラシック音楽館で、マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/NHK交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

最近は、この番組の冒頭、N響コンマスのマロさんが番組ナビゲーターをつとめていますが、あれってどうなんでしょう。
いつも独特のぎらっとした服装で直立不動、トークも硬くこわばったようで、どことなく怖い感じがするのはマロニエ君だけなのか。
トークの専門家ではないことはわかるけど、もうすこしやわらかな語り口にならないものか…。

そのマロさんの解説によると、ピレシュは今年限りでピアニストとしての引退を表明しているんだそうで、これが最後の来日の由。

マロニエ君がピレシュの演奏に始めて接したのは、モーツァルトのソナタ全集。
たしか東京のイイノホールで収録され、DENONから発売されたLPで、これが事実上のレコードデビューみたいなものだったから、ああ、あれから早40年が経ったのかと思うと感慨もひとしおです。

さて、引退を前に演奏されたベートーヴェンの4番ですが、マロニエ君の耳がないのでしょう、残念ながらさして感銘を覚えるようなものではありませんでした。

この人は指の分離がそれほどよくないのか、演奏の滑舌が良くないし、手首から先が見るからに固そうで、それを反映してかいつも内にこもったような音になっていて、彼女の出す音にはオーラのようなものを感じません。
それと、これを言っちゃおしまいかもしれませんが、もともとさほどテクニックのある人ではなかったところへ、お歳を重ねられたこともあってか、聴いていて安心感が失われてハラハラしました。

解釈については、本来この人なりのものがあるようには思うけれど、全体に限られたテクニックが表現を阻んでしまい、きっとご本人もそのあたりはよく承知されているはず…と勝手な想像をしてしまいます。
4番は早い話がスケールとアルペジョで構成されたような、弾く側にすればあやうい曲で、正確な指さばきが一定の品位の中で駆け回ることが要求されますから、ある意味、皇帝よりきちっとしたテクニックが求められるのかもしれません。

ピレシュの音楽は全体にコンパクトかつ虚飾を排したものであり、それがときに説得力をもって心に染みることもあるけれど、もっと大きく余裕ある羽ばたきであって欲しいと感じる局面も多々あり、この4番でも、音楽的にも物理的にももっとしなやかで隅々まで気配りの行き届いた演奏を求めたくなってしまうのが偽らざるところでした。

彼女のピアノが長年描いてきたのは、毒や狂気ではなく、音楽のもつ良識の世界だから、そこにまぎれてそれほど目立たなかったのかもしれませんが、この人は意外に穏やかな人ではなく、演奏もいつもなにかにちょっと怒っているようにマロニエ君には感じられ、ディテールは繊細とはいい難いドライな面があり、必要性のない叩きつけ等が多用されるのは、この人の演奏を聴くたびに感じる不思議な部分でした。

左手の三連音のような伴奏があるところなど、わざとではないかと思うほど機械的に、無表情に奏されることがしばしばあったり、ポルタートやノンレガートなどでも、手首ごと激しく上下させてスタッカートのようにしてしまうなど、決してやわらかなものではない。
もしかしたら、これらはテクニック上の問題かも知れず、名声が力量以上のものになってしまったことに、人知れず苦しんでいたのかもしれないなどと、こう言っては失礼かもしれませんが、ついそんなことを考えさせられてしまうマロニエ君でした。

ただ、それはピレシュが音楽的心情的にドライな人というのではありません。
同じト長調ということもあってか、アンコールではベートーヴェンの6つのバガテルから第5が弾かれましたが、これは初心者でも弾ける美しい小品で、これならテクニックの心配はまったくなく、実に趣味の良い、豊かな情感をたたえた好ましい演奏になっていました。

後半には短いドキュメントも放映されて、若い人へのメッセージとして心の音を聴く、芸術を追求するといったご尤もなことを繰り返し述べていましたし、それはご本人も実際にそのように思っておられることだろうと思います。
ただ、実際の演奏が、その言葉を体現したものになっているかといえば、必ずしもそうとはいえないところがあり、そのあたりが演奏というものが常に技術の裏付けを容赦なく要求する行為であるが故の難しいところなのかもしれません。

最後に、1992年の映像でやはりピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/N響、場所もNHKホールという、ピアニスト/指揮者/オーケストラ/会場が同じで、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の第2/3楽章が放映されましたが、26年前とあってさすがに体力気力に満ちており、こちらはずっと見事な充実感のある演奏でした。
やっぱりこうでなくちゃいけません。

2018/06/16 Sat. 12:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

安い席 

以前から非常に不思議に感じていたことのひとつ。

それはコンサートのチケットが安い方から売れていくという現象です。
誰しも出費は安い方がいいのは当然ですが、コンサートにおける最安の席というのは、本当に節約に値するのか。
大抵の場合、ステージからは最も遠く離れた場所であったり、シューボックス型のホールでは、左右いずれかの壁の上部にへばり付いたような席で、しかも音響的にも視覚的にも、どう考えても好ましいとはマロニエ君には思えません。

一般的にいえばコンサートに行くということは、生演奏に立ち合い、それを通じて演奏者の魅力や音楽にじかに触れて、音楽が目の前で紡ぎだされる現場の空気を味わい堪能することにあるのだと思います。
その目的を達成するためには、ホール内のどの席に座るかというのは非常に重要で、聴く位置によって演奏から受ける印象は相当違ったものになります。

たとえば、空席の目立つ自由席の演奏会などで、前半と後半で席を変えてみると、思った以上に印象の違いがあることに驚かされることは一度や二度ではありません。この違いは、演奏者や楽器が変わるのに匹敵するぐらいの差があるといっても過言ではないでしょう。

秀逸な音響をもつ中型以下のホールの中には、どこに座ってもそこそこの音質が楽しめるようなところもごく稀になくはありません。
しかし、多くの場合、座る位置で音響は甚だしく違います。
おしなべて最前列付近は音のバランスが悪いし、壁際であれ天井近くであれ、いわゆる空間の偏った隅っこはいい音がしません。

とりわけ大きなホールになるほど、安い席は音は遠く不鮮明で、場合によっては演奏の良し悪しも何もわからないような、ほとんど遠くの霞んだ景色を眺めるような場合のほうが多いと言ってもいいでしょう。
輪郭さえおぼつかない反射音や残響音ばかりを耳にしながら2時間近く耐えることが、果たして音楽を聴いたと言えるのかどうか。

最安の席というのはだいだいそのあたりになっています。
いうなれば、ちゃんとそれなりの理由があるから安いわけで、コストパフォーマンスは低いというべきでしょう。
それなのに安い席から売れていくというのは、マロニエ君的にはまったく不可解なのです。

たとえば飛行機などの交通手段であれば、窮屈な席でも辛抱さえすれば、目指す目的地へと移動できるという実利があり、これはなるほど安い価値があるでしょう。

でももし、映画館で安い席はピントがボケボケだったりしたなら、それで観る人はまずいないだろうと思います。
映像と違って、音は響きとピンボケの境目がわかりにくいということかもしれませんが。

マロニエ君は何度も書いたように最近コンサートは食傷気味ですが、行く以上はせめて一定の席で聴きたいものです。
少なくとも何を聴いたかよくわからないようなものにチケット代を払うのは、一番もったいないと思うのですが。

2018/06/11 Mon. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

個性は普通さ 

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。

2018/05/27 Sun. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ジャズクラブのように 

先日、録画していた映画を見ていてあることを思いつきました。

その映画の主人公はジャズクラブのオーナーで、店では毎晩のように生演奏が繰り広げられ、大勢のお客で賑わいます。
マロニエ君もずいぶん昔ですがブルーノートにチック・コリアを聴きに行ったことなど思い出しました。

はじめて目にする会場というか店内にはいくつものテーブルがあり、簡単な食事ができて、飲み物や軽いアルコールなどが当たり前のように提供される場所。
それでいて、あくまでこの場の主役は音楽であることが明確に成り立っている世界。
ふと考えさせられるのは、音楽を聴くということは人間の楽しみであり喜びであり、演奏する側も聴く側も共に楽しむという基本。

音楽を聞きに来たお客さんが、荷物の置き場もない狭いシートに押し込められて身動きもできず、咳払いにも遠慮しながらひたすら演奏を拝聴するというクラシックのストイックなスタイルしか知らなかったマロニエ君は、大変なカルチャーショックを受けたことを今でも覚えています。

映画でもそうでしたが、お客さんは娯楽的な空気の中で、各自がもっとリラックスして演奏に耳を傾けます。
その点ではクラシックの演奏会の聴き方はあまりにも固すぎると思いました。
もしジャズクラブのクラシック版みたいなものがあったらどんなにいいか。

音楽が人間の楽しみの重要な一角を占めるのであれば、やたら修行のようなことでなく、もう少し快適な環境で聴けるということも考えてみてよいのではないかと思うのです。
いくら音楽を傾聴すると言っても、ただひたすらそれだけというのではあまりにも享楽性に乏しく、そのためにも飲食を切って捨てる必要はないのでと最近のマロニエ君は思うのです。

もちろん演奏中の飲食はダメですが、開演前か終演後に軽い食事ができて、休憩時間には飲み物が普通にあるような場所。
そんな環境でクラシックのコンサートをしたら、行く側もどんなに楽しみが倍増するだろうかと思うのです。

考えてみればマロニエ君の子供の頃には市民会館などがコンサートの中心で、そこにはごく庶民的なレストランもあり、開演前に食べた素朴なメニューは今でも不思議に覚えています。

誤解しないでいただきたいのは、べつに飲み食いが目的というわけではなく、音楽をくつろいで楽しむための脇役として飲み物や軽い食事などが自然にある場所や時間というのは、音楽のためにも実はけっこう重要なのではないかということです。

そもそもオーケーストラならいざしらず、ピアノはじめ器楽のリサイタル程度なら、巨大なホールでやられても聴く方も遠すぎて楽しくないし、主催者だってチケット売りが大変、演奏者にかかる負担も必要以上のものが覆いかぶされうような気がします。
その点、ジャズクラブぐらいの規模で、せいぜい数十人規模のお客さんを相手に、もう少しゆったりと演奏を聞かせてくれたらいいのではないかと思うのです。

演奏時間も現在のホール形式では、休憩を除けば前後合わせてだいたい1時間半かもう少しといったところですが、これは少し縮小して2/3ぐらいの時間にしたらどうかと思います。
そして、客数がそれだけでは足りないでしょうから、それを数日間繰り返してもいいのでは。
そのほうが演奏する側だって、せっせと練習に打ち込んで一回こっきりの本番より、ある意味やりがいがあるのではと思います。

多様性という言葉がよく聞かれますが、だったらコンサートの世界にもこういう新しいスタイルが少しは試されてもいいような気がするこのごろです。

2018/03/28 Wed. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏会現状 

どうしたことか、最近はコンサートが苦痛でしかたありません。

自分で言うのもなんですが、これほど音楽が好きで、若い頃から数えきれないほどのコンサートに通い、いい加減それには慣れているはずのマロニエ君の筈ですが、現実はというと慣れるどころか、年々コンサートに行くのは苦痛が増し、自分でもその理由がなんだろうかと考えしまうことがしばしばです。

ひとつはっきりいえるのは、疲れるということ。
心が鷲掴みにされ何処かへもっていかれるような熱気ある演奏に接することがなくなったことが最大の原因かもしれません。
しかし、それだけではないとも思ってしまうのです。

その証拠にコンサートに行きたくないのはマロニエ君だけではなく、広く世の中の潮流というか、とくにクラシックのコンサートは慢性的な客離れで、閑古鳥が鳴いて久しいという現実もそれを証明しているように思います。

クラシック音楽そのもの、および、それを集中してじっと耐えるように聴くという鑑賞方法じたいが時代に合わなくなってきているということもあるのかもしれません。いっぽう演奏者も、なにがなんでも聴きたいと思わせる圧倒的なスターがいなくなり、さらには娯楽の多様性や時代の変化など、もろもろの要素が積み上がった結果が現在のようなクラシック音楽の衰退を招いているのでしょう。

具体的には、コンサートのスタイル、会場の雰囲気にも問題があるような気がします。
決められた日時に時間の都合をつけて開演に遅れないようホールに出向くということは、それがその日の行動の主たる目的になります。
その挙句、2時間前後身じろぎもせず、咳払いひとつにも気を遣い、体を動かすことも最小限に抑えるという厳しい態勢を強いられる。
しかるに多くの場合、本気度の薄いシナリオ通りの演技的演奏もしくは事務作業のような演奏は喜びやワクワクとは程遠く、これらにじっと耐えることは、ほとんど修行か罰ゲームのようで、終わったときには心身は疲労とストレスでフラフラ。

こういってはなんですが、むしろ演奏者のほうがスポーツした後のようなスッキリ感があるのかも。

エコノミークラス症候群などと巷で言われはじめて久しいけれど、コンサートは国際線の飛行機より時間こそ短いけれど、身じろぎひとつできず、水分もとれず声もだせない苦痛度としてはかなりのものじゃないかと思います。
身体は硬直し、血流は停滞し、おまけに精神面は退屈な演奏や劣悪な音響で消耗がかさみ、これでは疲れるのも当たり前だと身をもって感じます。

演奏が終われば、拍手でじんじんする手を止めると、すっくと立ち上がって、他者ともみ合いながらホールの階段を登り、外に出るなり歩くなり駐車場に行く、人によっては電車やバスに乗るなどして家路につき、それから食事もなんとかしなくてはならず、まだまだ疲れる行動はそう簡単には終わりません。
こうした一連のなにもかもがエネルギーの浪費ばかりで、要するにぜんぜん楽しくないわけです。
その疲労は翌日まで持ち越してしまうことも珍しくありません。

昔はここまでの苦痛を感じておらず、それはマロニエ君がまだ若くて体力があったからだろうか…とも思いますが、やはりそれだけではなく、それに堪えうるだけの魅力がコンサートがなくなってしまっていることも大いにある気がしてなりません。
ほんとうに素晴らしいものに接しているときは、時が経つのも忘れ、精神的にも良い刺激であふれているものですが、そんな忘我の境地にいざなってくれる演奏会は今は限りなくゼロに近いほどお目にかからなくなりました。

どんなに上手くて見事な演奏であっても、薄っぺらいというか、そこにはシラケ感や仕組まれた感が漂い、聴く側の心が感銘や喜びによって潤されていくような体験にはなりません。
チケットを買って、時間を作って、会場までの往復など、そこにはそれに値する見返りがないとなかなか人の足は向きません。

演奏そのものの魅力もむろん大切だけれど、こうなってくると鑑賞のスタイルや環境も少し変ったものがでてきてもいいのではないかと思うのです。
ちなみに、小さな会場で行われる小規模のコンサートなどは、ホールのスタイルをミニチュア化しただけで、椅子が折りたたみ式などへさらにプアなものになり、身体の苦痛はホールのそれよりもさらに痛烈なものになります。

~続く。



2018/03/24 Sat. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

新鮮でした 

クラシック倶楽部の録画から。
昨年11月にハクジュホールで行われた津田裕也さんのピアノリサイタルは、ある意味とても新鮮なものに感じました。

というのも、実際のリサイタルでのプログラム全体はどのようなものだったかわからないけれども、この55分の番組で放映されたのは、すべてメンデルスゾーンの無言歌で埋め尽くされていました。

無言歌集に収められた多くの曲はどれもが耳に馴染みやすく、多くはよく知っているものばかりですが、実際の演奏会でプログラムとして弾かれることはそれほどありません。
メンデルスゾーン自体がプログラムにのることも少ないし、ピアノ曲ではせいぜい厳格な変奏曲やロンド・カプリチョーソなどがたまに弾かれるくらいで、無言歌というのは、あれほど有名であるにもかかわらず、プロのステージでのプログラムとしては、決してメジャーな存在とはいえない気がします。

理由はいろいろあるのだろうと思いますが、ひとつには音楽的にも技術的にも、プロのピアニストにとってはそれほど難しいものではないことや、どんなプログラム構成で演奏会を作り上げるのかという考察じたいもピアニストとして評価されるところがあり、そのためにも演奏曲目はよりシンボリックで難しい玄人好みのものでなければならないというような、暗黙の基準があるからではないかと思います。

その尺度でいうと、メンデルスゾーンの無言歌集は、あくまで「安易な小品」と見なされるのでしょうか?

そうはいっても、素人にとってはこの無言歌集は、耳で聴くのと同じように弾くのも心地よく簡単かと思ったら大間違いで、楽譜を前に弾いてみると、そうやすやすと弾けるわけでもないところは、意外な難物という気がします。
とくべつ超絶技巧は要らないけれど、少なくともショパンのようにピアニスティックにできていないのか、指が自然に流れるというものでもなく、下手くそにとってはイメージよりずっと弾きにくい曲だという感じがあります。

次はきっとこうなるなという流れで進んでいかないので、マロニエ君レベルにとっては馴染みやすい曲のわりには読譜も暗譜も大変で、流れに逆らうような合理性のない動きも要求されるなど、弾きたいけど苦手という位置づけになります。

では、プロの演奏会のプログラムとしてこればかりを並べたものとはどんなものかというと、聴いてみるまでは正直少し不安もありました。
数曲ならばいいとしても、延々こればかりではそのうち飽きてくるのでは?という懸念もあったのですが、実際に始まってみると、そんな心配は見事に裏切られ、聴いていてとにかく心地いいし、次にどんな曲が出てくるのかも楽しみで、一曲ごとに異なる世界が広がり、それに触れながら聴き進んでいくおもしろさがあり、たまにはこういうものもいいなあと素直に思いました。

まるでリートの演奏会のようで、ああ、だから無言歌なのかとも納得。

だれもかれもが、決まりきったような深刻な作品、あるいは大曲難曲をこれでもかと弾かなくてはいけないというものでもない筈で、そういう意味でももっとプログラムは自由であってもいい、あるいは「あるべきでは?」と考えさせられるきっかけになりました。
とくに最近は、指は動いても、内容的に練れていないまま技巧とステレオタイプの解釈だけで大曲を弾くのが当たり前みたいな風潮があって、正直ウンザリ気味でもあるので、久々にまっすぐに音楽に触れたような気になりました。

美しいピアノ曲を、真摯に紡ぐピアニストの真っ当な演奏に触れること。
それは必ずしも演奏至難な曲である必要はなく、音楽を聴く喜びで心が満たされることこそ最も大事なことではないかと思いました。


2018/03/14 Wed. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit