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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

なんだかヘン 

やむを得ぬわけあって、あるコンサートに出かけました。

今どきは、よほどの人気アーティストでもない限り、純粋にそのコンサートに興味を抱き、任意にチケットを購入して演奏を聴きに来るオーディエンスというのは、まずほとんどないといっても過言ではないでしょう。
とりわけ地方の演奏家等であれば、会場は友人知人生徒と保護者および何らかの縁故のある人達の大集会と化すのはほぼ毎度のこと。
会場内は、互いに知り合い率が高いものだから、あっちこっちでお辞儀や立ち話だらけ。
逆にいうと、演奏者を中心に何らかの繋がりでホールの座席を埋めるというのは(有料のコンサート開催の在り方としてはどうかとは思うけれども)、それはそれで大変なことだろう…すごいなあ…とヘンな感心もしてしまいます。

もし自分だったら、何をやろうにも(やれることもないけれど)自分のなにかしらの縁故だけでホールの座席をそこそこ埋めるくらいの人を集めるなんて、とてもではないけれどできる事ではありません。

それはともかく、だから、どう見ても音楽には興味も関わりもないような雰囲気の人が目立ち、開演後も身をかがめて通路を降りてきては着席する人がいつまでも続いたりと、会場がどことなく異質な空気に包まれます。
とくに演奏中、通路を人が動くというのは、聴いている側からするとなんとも迷惑な話です。
さらに、どういう事情があるのかわからないけれど、こんどは席を立ってコソコソと会場を出て行く人までいるなど、まるで映画館のよう。

どんなに身をかがめて動いても、演奏中の客席内の人の動きはメチャクチャ目立つので、どうしても気になってそれがすむまでは演奏もそっちのけになってしまいます。

さらに参ったのは、ソナタの楽章間でためらうことなく拍手をする人が大勢いて、何人かが手を叩くと多くがつられて手をたたきます。
それにつられない人よりつられてしまう人のほうが多いから、この流れが一向にとまらない。
この日のプログラムは、ふだんあまり耳にする機会の少ない曲(しかもソナタだけでも3曲)で構成されており、そのこともそういう現象を引き起こす要因のひとつだったのかもしれませんが、だとしても手許のプログラムには曲目が書いてあるわけだから、少しでもコンサートの心得というか経験があればわかりそうなものだと思いました。
わからないのであれば、少なくとも静寂を破って一番乗りで手を叩くようなことはしないで、まずまわりの様子を伺うくらいの気遣いがあったらと思いました。

演奏者もはじめのうちは軽くお辞儀をしたりしていたけれど、そのうちウンザリしたのか、以降はあからさまに無視していましたが、それでも一向に気づかない御方がずいぶんとたくさんいらっしゃるようでした。

逆に言えば、そんなこともわからないような人まで広く動員されることで、なんとかコンサートが成り立っていると見ることもできそうです。
マロニエ君も半ばうんざりしながら「そういえば『拍手のルール』とかいう本があったなぁ…」なんてことも思い出したりしましたが、とにかくなんだかとても変な気持ちになりました。

この日、いいなと感じたのは、トークが最低限のご挨拶だけで、聞きたくもない曲目解説などに時間を取られなかったことと、アンコールも一曲のみで、そのあとは鳴り止まぬ拍手を制するようにサッとステージの照明が落とされ、同時に客席が明るくなったことで、さっさとお開きになったこと。

この日のコンサートに限らず、本来の演奏に対してはほとんどパラパラだった拍手が、アンコールのおねだりタイムになると俄然熱を帯び、とめどなく手を叩くのは悪しき習慣で、これがあまりにあからさまになると演奏者に対して失礼だというのがマロニエ君の持論です。
演奏者はプログラムに関しては大変な練習を積んでその日に挑んでいるのに、そっちでは気の毒なほど閑散とした拍手しかしなかったくせに、アンコールの要求だけはやけに張り切って手を叩くというのはいかがなものか…。

もし同じ曲でも、前もって決められたプログラムとして本番で演奏されたなら、これだけの拍手は絶対しないはず。
そういうことが嫌なので、一曲のみできっぱり終わりにしたところは、却ってすっきりしました。


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2017/08/15 Tue. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感銘と疲れ 

少し前にBSプレミアムシアターで放送された、グリゴーリ・ソコロフのリサイタルをやっと視聴しました。

2015年8月にフランスのプロヴァンス大劇場で行われたコンサートで、映像はブリュノ・モンサンジョンの監督。
この人はリヒテルのドキュメンタリーなども制作しているし、グールドを撮ったものもあるなど、音楽映像では名高い映像作家。

曲目はバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタ第7番、シューベルトのソナタD784と楽興の時全曲。
ステージマナーは相変わらずで、ムスッとした仏頂面で足早にピアノに向かい、最低限のお辞儀をしてすぐ椅子に座り、弾き終えたら面倒くさそうに一礼すると、顔を上げるついでに身体はもう袖に向かってさっさと歩き出すというもの。

笑顔など最後まで一瞬もない徹底ぶりで、そんなことはピアノを弾く/聴くために何の意味もないといわんばかり。
聴衆との触れ合いやサービス精神など持ち合わせていないお方かと思ったら、アンコールにはたっぷりと応えるところは意外でした。
結局ショパンのマズルカを4曲、前奏曲から「雨だれ」、ドビュッシーの前奏曲集第2巻より「カノープ」と実に6曲が弾かれ、まるで第3部のようで、これがソコロフ流の聴衆へのサービスなのかも。

全体の印象としては、ぶれることない終始一貫した濃厚濃密な演奏を繰り広げる人で、そんじょそこらの浅薄なピアニストとはまったく違う存在であるということはしっかりと伝わりました。
とくにタッチに関しては完全な脱力と、指先から肩までぐにゃぐにゃのやわらかさで、猫背の姿勢からは想像もつかないダイナミクスの幅広さが驚くべき印象として残ります。
さらに音に対する美意識の賜物か、その音色の美しさには眼を見張るものがあり、弱音域でのささやくような音でも極上の質感があるし、いっぽういかなるフォルテシモでも音が割れず、そこには一定のまろやかさが伴うのは驚異的。
しかもすべてが厳しくコントロールされているのに、奔放な要素も併せ持っているのは驚くべきこと。

また演奏にかける集中力は並大抵ではなく、とてもツアーであちこち飛び回って数をこなすといったことはできないだろうと思われます。

ただ、解釈に関しては本人にしてみれば一貫しているのかもしれないけれど、聴く側からすると、作品や作曲家によってばらつきが大きく、ソコロフの考えに相性の良いものとそうでないものの差が大きいように感じたことも事実。

個人的に最もよかったのはシューベルトで、ソナタD784は普通でいえば退屈な曲ですが、それをまったく感じさせない深遠な音楽として聞く者の耳に伝えてくれましたし、楽興の時も、多くの演奏家が多少の歌心を込めつつ軽やかに、どこか淡白に弾くことが多いけれど、ソコロフは6曲それぞれの性格を描き分けながらずっしりとした重量感をもってエネルギッシュに弾き切り、ソナタとともに作品が内包する新たな一面を見せてもらったようでした。

ベートーヴェンは賛否両論というべきか、この人なりのものだろうとまだ好意的に捉えることができるものの、ショパンになるとまったく共感も理解もできないもので、マズルカの中には聴いていてこちらが恥ずかしいような、どこかへ隠れたくなるような気分になるものさえありました。

この人は、一見オーソドックスでありのままの音楽を、その高潔な演奏で具現化している巨人といった印象もあるけれど、耳を凝らして聴いてみると、作品のほうを自分の世界にねじ込んでいるようにもマロニエ君は感じました。
そういう意味では作曲家の意志を忠実に伝える演奏家というより、ソコロフのこだわり抜いた極上の演奏芸術に触れることが、このピアニストを聴く最大の価値といえるのかもしれません。

まったく見事な、第一級の演奏であることは大いに認めるものの、全体としてあまりにも重く、遅く、長くかかる演奏で、30分ぐらい聴くぶんにはびっくりもするし感銘も受けますが、2時間以上聴いていると、これだけのピアニストを聴いたという喜びや充実感もあるけれど、なにより疲労のほうが先に立ってしまいます。

使われたピアノも素晴らしく、ソコロフの演奏に追うところも大きいとはいえ、濁りのない独特な美しさをもったスタインウェイだったと思います。とくに印象的だったのは音が異様なほど伸びることで、これは秀逸な調律によるものという感じも受けましたが、果たしてどうなんでしょう。


2017/07/25 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アジアの覇者二人 

ここ最近テレビで見た演奏から。

日曜のクラシック音楽館で、N響定期公演の残り時間に「コンサートプラス」というコーナーがあり、二週続けてハオチェン・チャンがスタジオ収録した演奏が放送されました。

ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、辻井伸行と同時優勝した中国出身のピアニストですが、この人の演奏を聴くのは実はこれが初めてでした。
一週目はリストの鬼火、ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」、ヒナステラのピアノ・ソナタ第1番、二週目はシューマンの「子供の情景」。

長い美しい指が特徴的で、リストの鬼火をものすごいスピードで弾きはじめたのにはびっくりしつつ、あまりにスポーツライクで情感や温もりがなく、マロニエ君の好みではないことがいきなり判明。
ただし、全体に冷やりとすようなシャープさという点は、良くも悪くもこの人の特徴なのかも。

あまり馴染みのないヤナーチェクのソナタなどは、むしろ独特の臭みが消えてスタイリッシュに聴こえないこともなかったけれど、シューマンになると、やはり説得力のある音楽というより指先のクオリティで弾いていることが鮮明となり、ちょっとついていけない気分に陥りました。
もっとも気になるのは、作品が生きている感じがまったくしないこと…でしょうか。

最近のコンクール覇者の例にもれず、大変な技巧の持ち主ではあるようで、なんでも苦もなく弾けるだけの技術的余裕はあるようですが、こういう演奏に接すると、そもそもピアノの演奏というものをどんな風に捉えているのか、本人はもとより時代の価値観にも疑問に感じてしまいます。

ピアノの演奏が、いっそフィギュアスケートのように、多少の芸術性も要求されつつも根本はあくまで競技目的として成り立っているのなら、こういう人が金メダルとなるのは納得できますが、そこから発生する音は、音楽として多くの人々が喜びを感じたり心の慰めに値するものかというと、そういうものとは大きく距離をおいたものらしいと感じました。

余談ですが、ハオチェン・チャンはメガネをかけている写真(モテないガリ勉君みたい)しか知りませんでしたし、冒頭のインタビューではそのメガネ姿でしたが、演奏中はこれを外していて、それが結構イケメンだったのは意外でした。
今どきのことなので、その意外性も計算された「売り」なのかもしれませんが。

さらにその翌週の同番組では、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演が放送されましたが、オールベートーヴェンプロで、二曲目のピアノ協奏曲第3番では、ソリストがショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンでした。
韓国には芸術性に優れたピアニストが多くいますが、その中ではソンジンはむしろ学生風で、マロニエ君としてはなぜこの人が優勝したのかいまだにわからないし、やたら日本でよく演奏する人だなあと思っていたので、正直またかと思いました。

この人のベートーヴェンは初めて聴きますが、基本的な印象はなにも変わらずで、音楽的にあまり成熟感がなく、むしろ音楽的拙さを感じる演奏である点もショパンなどと同じです。
それでも、ハオチェン・チャンの体脂肪を極限まで落としたような演奏を聴いたあとでは、ソンジンがまだしもふくよかで、ところどころにハッとする美しさを感じる場面があったことも事実。

この人は繊細なところが得意のようで、ショパンのコンチェルトでも第2楽章が出色だった記憶がありますが、そんな彼がベートヴェンということだからかタッチにも一段と力がこもり、無理に大きな音を出そうとしているような感じがあって、だからどうしても音が刺々しくなるように感じました。
アンコールにモーツァルトのソナタの緩徐楽章、残り時間に別のコンサートからショパンの13番c-mollのノクターンがおまけで流れましたが、やはりどれも共通するのは練れていないというか、要は未熟な感じで、作品の核心へ到達しているようには思えませんでした。

2017/07/21 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヒューイット 

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。


2017/07/17 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ラフマニノフ 

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。


2017/07/02 Sun. 12:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ダン・タイ・ソン 

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。


2017/06/23 Fri. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れていた新進気鋭 

少し前のことでしたが、イタリアの新進気鋭ピアニストということで、ベアトリーチェ・ラナという女性によるゴルトベルク変奏曲のCDを購入しました。
レーベルはワーナークラシックス。

聴いた感想を書かなかったのは、わざわざ書くべきことがマロニエ君としてはあまり見つからずじまいだったから。
至って普通で、今風で、正確で、とくに何かを感じることもないままキチッと弾き進められて行く感じがするばかりで、印象深いところがなにもなかったからでした。
もちろん、いまどきメジャーレーベルからCDを出すような人でもあるし、2013年のクライバーンコンクールで第2位になった人らしいので、テクニックはそれなりのものがあるし、ましてセッション録音なのでキズもミスもなく、演奏というより、どこかいかにもきれいに出来上がった商品という印象でした。

ディスコグラフィーを見ると、チャイコフスキーの1番やプロコフィエフの2番、あるいはショパンの前奏曲やスクリャービンの2番のソナタなどがあるようで、そこでどんな演奏をしているかはわからないけれど、少なくともこのゴルトベルクで聴く限りは、どちらかというと細い線でデッサンしていくような演奏で、イヤ味もないし、いちおう要所要所でメリハリも付けることを忘れていない人という感じでした。
少なくとも強烈な個性とか強い魅力で聴かせるタイプではなく、いかにも国際コンクールに出て成績優秀、最終予選までは残っても、第1位にはならない人…そんな感じといったらいいでしょうか(実際の戦歴は知りませんが)。

そんな印象だったので、名前さえすっかり忘れていたところ、少し前のNHKのクラシック音楽館でN響定期のソリストとしてこの人の名前が出てきたので、そのとき「どこかで見たことのある名前」という感じでやっと思い出しました。
クライバーンコンクール入賞者として、各地各楽団から呼ばれる名簿に入っていて、こうして世界を回り始めているのかもしれません。

曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番でしたが、ライブだけにゴルトベルクとはずいぶん印象の異なる、この人の素の姿を見聞きすることができた気がしました。
説明的であったり構成感をもって弾くタイプではないようで、どちらかというとテンポ感とセンスを前に出す感じ。
指の動きはいいようで、そこを活かしてサラサラと演奏は進み、ところどころに多少の解釈というかデフォルメ的なものも織り込まれているけれど、マロニエ君の耳にはそれがあまり深い説得力をもっては聴こえなかったし、場合によっては浅薄なウケ狙いのような印象さえ持ってしまいました。

仕事も恋愛も確実にゲットして、あたり構わず巻き舌の早口で喋る今どきのデキる女性みたいで、その点ではゴルトベルクでは、ずいぶん慎重にきちんと弾いたんだなぁ、ということが察せられました。
ただ、ピアニストとしての器としてはさしたるサイズではないという感じをうけたことも事実です。

事前にインタビューがあったけれど、指揮者のファビオ・ルイージ氏とは、とくにこの曲ではリハーサルが必要ないほど何度も共演しているが、そのたびに新しい発見があります…と、マロニエ君としては聞いたとたん引いてしまう紋切り型の例のコメントがこの人からも飛び出したときは思わずウンザリしました。
なぜ、みんなこの手垢だらけの言葉がこうも好きなのか、聴衆に対して、同じ曲を何度も演奏することに対する言い訳の一種なのか…。


テレビといえば、題名のない音楽会で反田恭平氏が出る回を見ましたが、シューマン=リストの献呈以外は、パーカッションとのコラボという試みでした。
彼は国際的にはどうなのかは知らないけれど、少なくとも日本国内ではベアトリーチェ・ラナよりは数段上を行く「新進気鋭」で、そんな注目のピアニストが従来通りの決まりきった演奏を繰り返すだけなく、新しいことに挑戦することは素晴らしいことだと思います。

…それはそうなのだけれど、このときやっていることそのものには大いに疑問符がつきました。
ラヴェルの夜のガスパールからスカルボを演奏するにあたり、パーカッションと組んでの演奏で、しかもピアノの内部(弦の上)には定規や金属の棒のようなものをたくさん散りばめて、チンジャラした音をわざと出し、パーカッションとともに一風変わったスカルボにしていたのですが、これがマロニエ君には何がいいのやら、さっぱりわからなかったし、正直言って少しも面白いとは思いませんでした。

保守的な趣味と言われるかもしれないけれど、個人的にはやはりどうせなら反田氏のソロだけで聴きたかったし、そのほうがよほどスカルボの不気味さがでるだろうと思えてなりません。
それはそれとして、折々に映しだされる反田氏の秀でた手の動きは、やはり見るに値するものがあり、ほどよく肉厚な大きな指が苦もなく自在に鍵盤上を駆けまわるさまは、見ていて惚れ惚れするというか、なにか胸のつかえが下りるような爽快感があります。

若いテクニシャンでならすピアニストでも、手の動きとか使い方に関しては、個人的にユジャ・ワンのどこか動物的な指よりは、反田氏の手のほうがずっと心地よい美しさを感じます。

2017/06/19 Mon. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

真っ当な価値 

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、昨年のアンスネスの来日公演の様子を視聴しました。
曲目は、本編とアラカルトを併せるとシューベルトの3つのピアノ曲、シベリウスの小品、ショパンのノクターンとバラード第4番、さらにシベリウスのソナチネ、ドビュッシーの版画というもので結構な時間と量になりました。

アンスネスのCDは何枚か持っているけど、それらは悪くもないけれど、特段の感性のほとばしりもなければ才気に走ったところも毒の香りもない、要するにこの人でなければならない特別な何かがあまり見いだせない、どちらかというと凡庸なピアニストという印象を持っていました。
今回、音だけ聴いていてはわからないことが、映像を見ることでわかったような気がする部分もありました。

それを適確な言葉で言い表す能力はマロニエ君にはないけれど、喩えていうならカチッと仕立てられた上等なスーツみたいな演奏だと思いました。
常識の中に息づく美しさや自然の心地よさ、音楽的礼儀正しさとでもいえばいいのか、一見目立たないけれど、非常に大事なものが確乎として詰まっているピアニストだと思いました。

2月の放送でN響とシューマンの協奏曲を聴いた時と同様、ソロリサイタルでもやはりピアノの大屋根はつっかえ棒になにかを継ぎ足してまで盛大に開けられていて、こうすることに音響上のなにかこだわりがあるものと思われます。
ただし、視覚的にはいかにもへんで、これによってスタインウェイのあの美しいフォルムは崩れ去り、少なくとも見た目はかなり不格好なピアノとなっています。

ただしその効果なのかどうかはわからないけれど、通常よりも明るく太い音のように感じられ、普通のスタインウェイよりも、どこか生々しいというか直接的な感じがしたのは気のせいではないような気がします。
もちろんピアノそのものやピアニストによって音はいかようにも変わるものだから、その要因がなんであるのかはしかとは突き止めきれませんが、結果的にこれはこれでひとつの在り方だというふうにマロニエ君は肯定的に捉えたいと思う音でした。

アンスネスのピアノは、どこにも作為の痕がなく、ほどよく重厚で、誠実にかっちり楽曲を再現することに徹しているところはあっぱれなほどで、解釈もテンポもアーティキュレーションも、呆れるほどにノーマル。
それでいて、今どきのカサカサした空虚な演奏ではなく、聴き応えのある実感があるし適度な潤いも必要な迫力もちゃんとある。
そしてなにより男性的安定感にあふれており、安心してゆったりと身を預けることができる演奏でした。

アンスネスのピアノで今回はじめて意識的に感じられたことは、楽譜に書かれた音がすべてきっちり聴こえてくることで、シベリウスをはじめ、シューベルトもショパンもドビュッシーも、それでいささかも不都合なく自然に耳に届いてくる、一見とても当たり前のようで、実はこれまで聴いた覚えのないような不思議な快適さだったように思います。

なかでもドビュッシーは、多くのピアニストが絵の具をにじませるような淡い演奏に傾倒しがちなところを、アンスネスはいささかもそんなことせず、あくまでも一貫性のある自分のスタンスを守りつつ、それでいてなんの違和感もなく落ち着きをもって安らかに楷書で聴かせてくれる点で、オーソドックスもここまで徹すれば、これがひとつの個性に違いないと感心してしまいました。

これは演奏を細分化したときの、音のひとつひとつに明瞭な核があって堅牢ですべてが揃っており、そこからくる構築感が自然と全体を支えているように思います。

番組の「アラカルト」では、たいていふたつの異なる演奏会が組み合わされ、このときの後半はアレクセイ・ボロディンのピアノリサイタルでした。
プロコフィエフのロメオとジュリエットから10の小品を弾きましたが、堅固な中にしなやかさが息づくアンスネスのドビュッシーの見事さのあと、そのまま連続してボロディンを聴くことになりましたが、技巧派で鳴らしたロシアのピアニストにしては、その「核」がなく、強弱やアーティキュレーションにおいて、音にならないようなところ、あるいは表面的な音質が目立ちました。
体格はずいぶんと立派ですが、出てくる音は意外なほど軽くて気軽なものに聴こえました。

ちょっと分厚い本をもった時、心地よい重みがズシッと指先に伝わってくる心地よさみたいなものがありますが、アンスネスのピアノにはそういう真っ当な良さ(しかも現代ではどんどん失われているもの)があるように思いました。

アンスネスには高速のスピード感とか、指の分離の良さからくる技巧の鮮やかさといったものはありませんが、派手な技巧よりも大事なものがあるという当たり前のことを、静かに問い直し教えてくれたようです。


2017/04/29 Sat. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

つまらなさ 

コンサートに行くことは基本的に止めてもうどれくらい経ったでしょうか…。
こんなに音楽が好きなのに、以前はあんなに足繁く通っていたのに、それをやめ、しかもまた行きたいとはほとんど思わない現在の状況にはいくらか驚きつつ、それが自然なのかとも自分では思います。

理由はいろいろありますが、まず大きいのは、真剣に音楽に挑むというスタンスで、聴く人へ何かを伝えようとする魅力ある演奏家が激減したこと。
顔と名前は有名でも、その演奏は空虚で義務的で、さらに地方のステージでは力を抜いている様子などがしばしば見受けられ、否も応もなくテンションは下がるのは当然です。
決められたプログラムをただ弾いて、済めば次の公演地に移動することの繰り返しによってギャラを稼いでいるだけという裏側が見えてしまうと、期待感なんてとても抱けず、シラケて行く気になんかなりません。

もうひとつ、大きいのはホールの音響。
どんなに良い演奏でも、コンサート専用に音響設計されたという美名のもと、汚い残響ばかり渦巻くようなホールでは、とてもではないけれどまともに聴く気がしないし、演奏も真価はほぼ伝わりません。
デッドでは困るけれど、昔のような節度感あるクリアな音響のホールが懐かしい…。
しかも、長引くコンサート不況のせいか、最近はなにかというとこの手の豪華大ホールばかりで、ようするにわざわざ雑音を聞きに行っているようなものなので、それでもひと頃はかなり挑戦したつもりですが、ついに断念。

さらにピアノの場合は楽器の問題もないとはいえません。
どこに行っても、大抵はそこそこの若いスタインウェイがあり、ほぼ決まりきった音を聴くだけでワクワク感などなし。
もちろん個人的には、それでもその他の同意できない楽器の音を聴くよりはマシですが、なんだか規格品のように基本同じ音で、こういうことにもいいかげんあきあきしてくるのです。

今どきの新しいスタインウェイも結構ですが、ホールによってはもう少し古い、佳い時代のピアノがあったりと変化があればとも思うのですが、これがなかなかそうもいかないようです。

マロニエ君は大きく幅をとったにしても、ハンブルクスタインウェイの場合、1960年代から1990年代ぐらいまでのピアノが好みです。わけても最も好感を持つのが1980年代。
このころのピアノは深いものと現代性が上手く両立していて、パワーもあるし、ピアノそのものにオーラがありました。

いっぽう、新しいのは均一感などはあるものの、ただそれだけ。
奥行きがなく、少しずつ大量生産の音になってきている気配で、これによくある指だけサラサラ動くけど、パッションも創造性もない、冒険心などさらにないハウス栽培みたいなピアニストの演奏が加わると、マロニエ君にとってはもはやコンサートで生演奏を楽しむ要素がまったく無くなります。

べつに懐古趣味ではないけれど、ホールも、ピアノも、ピアニストも、20世紀までが個人的には頂点だったと思います。

ちなみに、何かの本で読んだ覚えがありますが、この世の中で、スタインウェイ社ほど過去のスタインウェイに対して冷淡なところはないのだそうで、たとえばニューヨークなどでも、自社に戻ってきた古いピアノは、素晴らしいものでもためらいもなく破壊してしまうことがあるのだとか。
たとえ巨匠達が愛した名器であっても処分するらしく、真偽の程はわかりませんが、聞くだけで身の毛もよだつような話です。

それほど、メーカーサイドは新品を1台でも多く売ることに価値を置いているというわけでしょうから、いかにスタインウェイといえども骨の髄まで貫いているのは商魂というわけですね。
また、その証拠にスタインウェイ社の誰もが、古いピアノの価値に対しては不自然なほど無関心かつ低評価で、常に新しいピアノのほうが優秀だと一様に言い張るのは、まるでどこぞの統制下にあるプロパガンダのようで、そういう社是のもとに楽器の評価まで徹底的にコントロールされているのかと思います。

親しい技術者から聞いたところでは、メーカーは新しいピアノのほうがパワーがあるとも主張するのだそうで、さすがにこれはかなり苦しい政治家の答弁のようにも思えます。

客席から聴くぶんには、新しいスタインウェイは見た目は立派でも、もどかしいほどパワーが無いと感じることがしばしばで、古いピアノのほうが太い音を朗々とホール中に満たしてくれる事実を考えると、いいものが次第に世の中からなくなっていくこのご時世が恨めしくさえ思えてしまいます。

ピアノがもし、運搬に何ら困らない持ち運び自由な楽器であったなら、多くのピアニストは佳い時代の好みの一台を自分の愛器として育てて、それを携えて演奏旅行をするのはほぼ間違いないでしょう。

そう考えると、ピアノはあの大きく重い図体ゆえに自らの運命も変えてしまったのかもしれません。

2016/12/19 Mon. 01:41 | trackback: 0 | comment: -- | edit

BSでシャオメイ 

6月の終わりにシュ・シャオメイのゴルトベルクの新録音を買って聴いて、7月に入ってまもなくこのブログに感想を書いたばかりでしたが、それからわずか1週間後のこと、BSのプレミアムシアターでなんとシュ・シャオメイのドキュメントと演奏会の様子が続けて放送され、そのタイミングにぎょっとしてしまいました。

シャオメイは文革が終わったのち、1980年に渡米しさらにパリへ移住、いらい現在も同地で暮らしているとのこと。

そういえば、シャオメイの最初のゴルトベルクやパルティータなど手元にあるCDはフランスのMIRAREレーベルからリリースされているので、彼女のこんにちの名声はフランスによって発掘され育てられたものなのだと思われます。

その彼女が、周りの人々のすすめによって36年ぶりに中国に戻り、上海、北京はじめ幾つかの都市コンサートをする旅にカメラが同行したものでした。

上海生まれの彼女は、現在のこの街を見て「まったく別の場所、自分が生まれた家がどこかもわからない」といっていますが、たしかに現在の上海の恐ろしいような都市化ぶり(うわべの)を一度でも見た人なら、むべなるかなと思います。

中国では、実の姉妹、昔の恩師や友人などに出逢い、そのたびに互いに感激を噛みしめていましたが、長年中国に住み続けた人と、そうでない人の違いが如実に出たのが文革に関することで、シャオメイが「あの頃は…」とか「みんな死んでいなくなった」というような言葉を口にすると、相手は一様に苦笑いをするだけで、その問題には口をつぐみ何一つ言及しませんでした。

中国ではいまだに文革や天安門事件のような出来事はタブーだそうで、それに関する発言も書物も資料も厳しく制限されているらしいので、そのあたりの微妙な肌感覚は30年以上外国で生きてきたシャオメイにはうかがい知れない暗黙の空気感なのでしょう。

演奏の様子は、ドキュメントでも随所に織り込まれましたが、この帰国ツアーの最大の見せ場である北京でのコンサートの様子が、ドキュメント終了後に放送され、ゴルトベルク変奏曲全曲を視聴できました。

CDでは数知れず聴いているシャオメイのゴルトベルクですが、一発勝負のライブでは、CDとはかなりその様子は違ったものだったのはいささか落胆を覚えたのも事実でした。

むろんシャオメイらしい深い味わいや慈しみ、ジメジメしないセンス良い演奏表現など、彼女の美点にも多々触れることができましたが、コンサートでの演奏はやはりゴルトベルクがあまりに演奏至難かつ大曲であるためか、想像以上に乱れがあったことは事実であったし、正直言って全体のクオリティは満足の行くものではありませんでした。
CDに批判的な人に言わせれば「ほーら、だからCDはウソなんだ」ということだと思いますが、それでもマロニエ君はそんなふうには思いません。CDは問題箇所を録り直しなどをして、悪く云えばつぎはぎであるとも否定できませんが、それでもその人の最良の演奏を記録して編集したものであることから、繰り返し聞くにはやはり相応しい価値を有するものだと思います。

ただ、この人にあとひとつ欠けているものは残念なるかなテクニックだと思いました。
マロニエ君はいまさらいうまでもなく決してテクニック重視派ではありませんが、でも、安心して聴かせてもらえるだけのテクニックはないと、技術的問題で絶えずハラハラさせられたり不満を覚えてしまうようでは、プロの演奏に接する意味がないと思っています。

ドキュメントで驚いたのは、大バッハが眠るライプツィヒの聖トーマス教会でも、ピアノと聴衆とカメラを入れて、ゴルトベルクを弾いている様子が何度か出てきたことです。お見受けするところ、シャオメイ女史は非常に謙虚で誠実で音楽のしもべのようなお方のようですが、よりにもよってそんな大それたところで演奏するというのは、別に非難しているわけではないけれども、その度胸は並々ならぬものだと思いました。

シャオメイとは直接関係ないことですが、上海でも北京でも美しいホールが完備し、そこには新しめのスタインウェイDが当然のように備えられていて、北京のコンサートホールではステージに2台並べてピアノ選びのようなこともやっているほど、この面に関しても中国は急速に先進国の基準に達しているようでした。
達しているといえば、調律も以前とは違って非常に真っ当なもので、極上とまでは思わなかったけれども、聴いていてなんのストレスもない上質なものだったことは非常に印象的でした。

予定プログラムより、アンコールのほうが出来がいいというのはままあることですが、このときもやや苦しさを感じないわけにはいかなかったゴルトベルクよりは、拍手に応えて弾いたバッハ=ブゾーニの小品は、呼吸も整ってとても密度の高い、心打つ佳演でした。


2016/07/19 Tue. 02:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit