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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

天才現る! 

最近見たテレビの音楽番組の録画から。

BS朝日の『はじめてのクラシック』で、わずか13歳の奥井紫麻(Okui Shio)さんのピアノで、グリーグのピアノ協奏曲が放送されました。
共演は小林研一郎指揮の新日本フィル。

現在モスクワ音楽院に在籍中で、ヨーロッパのオーケストラとはたびたび共演しているようですが、日本のオケとは初めてとのこと。
音楽の世界での「天才」の二文字は、実は珍しくもなんともないもので、特にソリストの場合は天才だらけと言っても過言ではないために、その演奏を聴いてみるまではマロニエ君は何ひとつ信じないようになっています。
天才といっても、天才度の番付はいろいろあるわけで、我々が求めているのはその十両クラスの天才ではなく、いってみれば何年にひとり出るかどうかの天才なんです。
そして、この奥井紫麻さんは、横綱級かどうかはともかく、かなりの上位に入る天才だと思いました。

リハーサルの様子も少し放送されましたが、これは本物と思わせるだけのオーラと、しっかりと筋の通ったぶれない音楽がそこに立ち上がっているのを忽ち感じました。
案内役の三枝氏が「ピアノを習い始めてわずか6年ほどでこれだけ弾けるんですから、嫌んなっちゃいますね」というようなコメントを述べましたが、たしかにその通りであるし、逆にいうとそれぐらいでないと真のソリストとしてはやっていけないほど強烈に狭き門であるのが演奏家の世界だろうとも思います。

身体も指も、まだ細くて華奢な子供であるし、ピアノの音も充分に出てはいないけれど、彼女の演奏に宿る集中力と、切々とこちらに訴えてくる音楽には、常人ではあり得ない表現と落ち着きがありました。特別変わったことをしているわけではないのに、心へ直に訴えくてくるものがあるのは、それが本物である故でしょう。
ただ指が正確によく回って、書かれた音符をただ追っているのではなく、音楽の意味するものがすべてこの少女の全身を通過し、その感性で翻訳されたものが我々の耳に届いてくるのですから、これは凄いと思いました。

リハーサルの様子からインタビューまで整えられていざ迎えた本番だったのに、なんたることか、いよいよ放送されたのは第1楽章のみで、それはないだろう!と心底がっかりしました。
これだけ大々的に紹介しておきながら、一曲全部も通すことなく終わり、あとはオケが展覧会の絵かなにかやっていましたが、憤慨しまくってそれ以降はまったく見る気になれませんでした。

これまでにも、天才だなんだと言われた日本人ピアニストは何人もいますが、その演奏はスカスカだったり、ピアノと格闘しているようだったり、聴いてみるなり興味を失うような人が大半です。
奥井さんは、それらとは明らかに違ったところで呼吸しているようで、落ち着きや、演奏から伝わる真実性、品位、老成など、わずか13歳にして、もっと聴いてみたいと思う存在でした。


もうひとつは、おなじみEテレの『クラシック音楽館』で、デトロイト交響楽団の演奏会がありました。
アメリカ音楽によるプログラムで、指揮はレナード・スラットキン。
この中にガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーがあり、ピアノはまたしても小曽根真氏。

やはりこの人の演奏のキレの悪さはかなり目立っていて、本来コンサートの中頃に登場する協奏曲では、アメリカ作品、ジャズピアニスト、おまけに超有名曲という要素があれば、プログラムとしてもまさに佳境に差し掛かるところではありますが、小曽根氏は笑顔は印象的だけれど、そのピアノには独特の鈍さと暗さがあり、聴けば聴くほどテンションが落ちてくるのがどうにもなりません。

とくにこの人が随所で差し込む即興は、その前後の脈絡もなければ才気も感じられないもので、いつも時間が止まったように浮いてしまっているし、ジャズの人とは思えぬほどリズム感があいまいで、妙な必死さばかりが伝わります。あちこちでテンポや強弱がコロコロ変わるのも意味不明で、オーケストラもかなり皆さんシラケた表情が多く、こういうときは外国人のほうがストレートに顔に出るんだなあと思います。

演奏前にスラットキンと小曽根氏の対談がありましたが、スラットキンは小曽根氏持ち上げるばかりだし、小曽根氏も相手がマエストロというより音楽仲間といったスタンスでしゃべっていました。
驚いたのは小曽根氏が「ラプソディ・イン・ブルーでの僕の最大のチャレンジはカデンツァ(即興のソロ)を面白くするためにいかに自分を鼓舞するか。それも無理しているように聞こえたらダメで…」というと、すかさずスラットキンが「自然でなければならない」と言葉をつなぐと「そう!」と小曽根氏。
トドメは「(自然なものでなければ)作品からかけ離れてしまうし、聴衆やバンドをほったらかしにしてしまう」とまでコメント。

これって、「すべてが逆」に聴こえてしまったマロニエ君には、自分のやっていることは「面白くて」「無理してなくて」「自然で」「作品から離れず」「聴衆やオケをほったらかしにしない」し、そのあたりはよく心得ていて、その上での演奏なんですよというのを、演奏前にしっかり言い訳していたように思えました。

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2017/10/02 Mon. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

二人のブラームス 

休日には、ときどきテレビ番組の録画の整理をすることがあります。
これをしないと録画はたまる一方で、つまり見る量が録画する量に追いつかないということ。

BSプレミアムのクラシック倶楽部も例外ではなく、毎日の録画の中から実際に見るのはほんの一握りに過ぎません。
タイトルだけ見て消去するものもあるけれど、いつか見てみようとそのままにして何ヶ月も経ってしまうこともしばしばで、そんな中からある日本人著名ヴァイオリニストの演奏会の様子を見てみることに。

曲は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番と第3番。
インタビューの中でも自分にとってブラームスは最も身近に感じる存在などと語っていて、彼女にとって特別な作曲家であるらしく、実際の演奏もよく準備され弾き込まれた感じがあり、とくに味わいはないけれども普通に聴ける演奏でした。
ピアノはえらく体格のいい外国人男性で、これらの曲のピアノパートの重要性を意識した上で選ばれたピアニストという感じがあり、両者ともに、いかにもドイツ音楽っぽくガチッとまとめられた印象。

身じろぎもせずにじっと聴き入っていたわけではなく、その間お茶を呑んだり、新聞を見たり、雑用をしながらではありましたが、自分なりにちゃんとステレオから音を出して、いちおう最後まで聴いてから「消去」しました。
さて、次はと思って見たのは、同じ女性ヴァイオリニストで、こちらはジャニーヌ・ヤンセンの来日公演でした。

冒頭鳴り出したのは、なんとさっきの2曲の間を埋めるように、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番で、その偶然に驚きましたが、それ以上に驚いたのは、あまりの演奏スタンスの違いというべきか、湧き出てくる音楽のやわらかさであり自然さでした。
専門家などに言わせればどういう見解になるのかはわからないけれど、ブラームスが本来目指したのはこういう音楽だったのだろうと、マロニエ君は勝手に、しかし直感的に思いました。
少なくともさっきのような、動かない銅像みたいな演奏ではないはず。

変に頑なな気負いがなく、呼吸とともに音楽が流れ、とにかく自然でしなやか。
それでいて自己表現もちゃんと込められている。
ピアノのイタマール・ゴランも、マロニエ君はどちらかというと好きなほうのピアニストではなく、とくに合わせものでは相手を煽るようなところがあったり、ひとりで暴走するようなところがあるけれど、さっきのガチガチの演奏が耳に残っているので、比較にならないほど好ましく感じました。

さっきの日本人は、ひとことで言うと冒険も何もなく、ただ正しく振る舞おうとしているだけの演奏で、これは日本人とドイツ人の演奏者によくあるタイプという気がします。
音大の先生の指導のような演奏で、それでもブラームスをリスペクトしてはいるというのは本当だろうけれど、音楽に必要な表現や語りがなく、いかめしい骨格となにかの思い込みに囚われていてる感じ。
その結果、聴く者に音楽の楽しさも喜びも与えず、ただ勉強したブラームスの知識を頭に詰め込み、信頼できる譜面の通りにしっかり弾いている自分は正しいと思い込んでいるだけで、演奏上のいろいろな約束事を守ることに一所懸命な感じばかりが伝わります。

それがヤンセンの演奏に切り替わったとたん、堅苦しい教室から外へ出て、自然の風に吹かれて自由を得たような開放感がありました。

最近の日本の若手のヴァイオリニストには、そういう点ではずっとしなやかに音楽に向き合う人も出てきているようだけれど、少し前の世代までの日本人の演奏家には、どんなに大成してもその演奏にはお稽古の延長線上のような、独特の「重さ」と「楽しくなさ」がついてまわる気がします。
せっかく美しい作品を奏でているのに、いかつい表情ばかりが前に出て、聴いていて美しい音楽に自然に身を委ねるということが、できないというか知らないんだろうという気がします。

テクニックも充分で、かなりいいところまで行っているのだけれど、悲しいかなネイティブの発音には敵わないみたいな、努力と汗にまみれた日本人臭がするのは、なんだか切ない気分になりました。
テクニック上では「脱力」ということがよく言われますが、それよりももっと大事なのは、音楽に精通した上で気持ちが脱力することではないかと思います。

マロニエ君はブラームスのヴァイオリン・ソナタは第1番がとくに好きだったけれど、演奏のせいか、今は第2番が一番好きな気がしてきました。

2017/09/07 Thu. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れかけていた曲 

8月6日のEテレ・クラシック音楽館では非常に珍しいというか、長いことご無沙汰していた曲を耳にする機会となりました。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演で、フランスプログラムが放送され、デュティユーの「メタボール」に続いて、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。
もしかしたら20年ぶりぐらいに耳にしたんじゃないかと思われて、まるで昔の知り合いにばったり出くわしたような感じでしょうか。

もっと正直にいうと、サン=サーンスのピアノ協奏曲というものの存在を半ば忘れかけているような感じでもあったので、急に思い出させてもらったような懐かしさについ笑ってしまうような説明のしにくい感じになりました。
サン=サーンスは名前が有名わりには、肝心の曲はそれほど知られていないと思います。

最もよく知られているのが『動物の謝肉祭』で、その中でも「白鳥」はバレエ「瀕死の白鳥」にも使われるなど、誰もが知る有名曲。
ところがそれ以外となると、ぱったりと止まってしまうのでは。

ぐっと下がって、思いつくのは交響曲の第3番が「オルガン付き」として知られているし、ピアノ協奏曲もベートーヴェンと同様も5曲も作られているのにかろうじて演奏されるのはほとんどが今回の第2番か第5番「エジプト風」ぐらい。
あとはヴァイオリン協奏曲第3番とヴァイオリンソナタ、そしてオペラ『サムソンとデリラ』ぐらいでしょうか。
実際にはまだまだたくさんの作品がありますが…。

それはさておき、今回のソロは河村尚子さん。
この人を演奏に接していつも感心するのは、いつ聴いてもきちんとよくさらっている(練習している)こと。
これだけしっかり準備されているということは、それだけでも演奏会に対する意気込みというか、ステージに立つための真面目さ真剣さが伺えて、そこに聴く価値が高まるというもの。

それと、現代の若いピアニストの中では、珍しく演奏に燃焼感があり、少なくともこのピアニストは演奏中、その作品の中を生きているという演奏家なら本来当たり前だと思えるようなことが、ちゃんとできているというところが魅力だと云う気がします。
細部まで目配りの行き届いた演奏でありながら、全体の構成の把握もできているし、メリハリがあり聴いていて違和感を感じることがほとんどありません。

現代的な演奏クオリティを保ちながら、音楽がもつ本能や息づかいがそのまま音に直結して、「いま、ここ」での表現を作り出す感覚がある。
河村尚子さんの演奏を聞いていると、その両立を証明してもらっているようです。

マロニエ君の場合、サン=サーンスのピアノ協奏曲といえばアントルモンとかチッコリーニなどの全集だったし、第2番はルービンシュタインなども弾いていましたが、どれも古いピアニストだったので、河村さんの演奏はやはり新しい時代特有のクリアさの魅力もあり、これまで聴いた覚えのないような細かいディテールも聴こえてくるなど、発見も多々ありました。
ただ、個人的にはサン=サーンスのピアノ協奏曲にはフランスの安酒場的なニュアンス(より正確に言うならサン=サーンスの生きた時代のヴィルトゥオーゾ趣味というべきか?)を感じていましたが、その点ではこの新しい演奏を聴いてもなんら変化するところはありませんでした。

さらにいうと、河村さんのピアノにはいい意味でのスレンダーさがあり、日本人ピアニストが感情表現や歌いこみをしようとすると、どうしてもダサい感じがつきまとってしまうことが多いのですが、そういう日本人的な悪癖に陥ることなく、適材適所に必要なことをして、サッと切り上げるといったあたりのセンスが良いことにも感心させられます。
音楽のフォルムが美しいということでしょうか。
日本人のピアノ演奏はとくに素人の演奏でより顕著ですが、感情たっぷりとなると大げさに手を上げ下げしたり、フレーズの入口と出口でだけさも注意深げな素振りを見せますが、ただ速度を落として肩で呼吸をしているだけで、音としては大事なポイントがどこにあるかをまったく取り違えていたりで、それはプロのピアニストにもよく見られる現象です。

そういう意味で河村さんは、見た目は昭和風の日本人だけれど、彼女の指から出てくる音楽は日本人離れした音楽表現ができる人で、その点では国際人といえると思います。

河村さんが作品に没入して、演奏以外のものを捨て去り、作品の喜怒哀楽がそのつど顔の表情にも刻々と現れながら音楽に打ち込む姿は、なんとなくチョン・キョンファを連想させるところがあるようにも感じました。

2017/08/25 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ストラドの秘密 

Eテレで毎週日曜に放送される『クラシック音楽館』は、N響の定期公演の様子を放送するのがほとんどを占めており、たまにそれ以外の内外のオーケストラ演奏会を採り上げる番組ですが、7月後半の放送回では『ジェームズ・エーネスとたどるバイオリン500年の物語』と題された、これまでとはまったく色合いの変わった内容でした。

タイトルの通り、現在トップバイオリニストのひとりであるジェームズ・エーネス氏が2時間の全編を通じて登場し、演奏はもちろん、話をしたり、工房を訪ねたり、実験に参加したりと、あれだけの花形ヴァイオリニストをNHKの番組にこれほどの長時間出演させたというのは、それだけでもNHKはすごいなぁとやっぱり思ったし、内容もずっしりと見応えのあるものでした。

演奏も盛りだくさんで、バイオリン作品の起源ともされるコレッリのソナタ、ヴィヴァルディの四季からのいくつか、バッハの無伴奏ソナタ第1番からフーガ、ベートーヴェンの協奏曲から第3楽章、パガニーニのカプリースから24番、ブラームスのソナタ第1番から第1楽章、バルトークのバイオリンとピアノのためのラプソディー第1番。バッハの無伴奏パルティータ第2番からサラバンドと幅広い時代の作品を弾いてくれました。
ベートーヴェンの協奏曲だけは15年前にN響と共演した折の録画でしたが、他はすべてNHKのスタジオで今回この番組のために収録されたもののようでした。

また、NHKでは以前にストラディヴァリウス(ストラド)の秘密を探る番組を放送した時から、オールドイタリアンの秘密を探るための様々な実験を音響学が専門の牧弘勝教授監修のもとで行っていました。それは42個のマイクが演奏者を取り囲み、ストラドの音にはどのような指向性があるのかという点を科学的に実証しようという試みですが、それにも今回エーネス氏は参加してストラドの秘密の解明に協力していました。

そのひとつの結果として、ストラドはとくに前(ホールなら客席側)に向かって音が放射され、そこにゆらぎがあるということがわかったようです。

エーネス氏の次に多く登場したのが、バイオリン修理職人の窪田博和氏でした。
氏は以前の番組でも、オールドイタリアンの特徴のひとつとして、氏がたどり着いた考えによれば、表板はどこを叩いても音程がほぼ揃っていることが必要であるといっていましたが、その主張はさらに追求され、一層の深まりを見せているようでした。

窪田氏の工房にあった400年前に作られたというガスパロ・ダ・サロのバイオリンには、表板にはなんと木の節があり、そこはとくに薄く削られていることで氏が提唱するように音程が他の部分と同じように保たれているとのこと。
氏の主張やこのガスパロの作りなどから考えると、オールドイタリアンは音程の理論で作られたという点が一番大事であり、材料ではないということになるようです。

エーネス氏はこの窪田氏のもとを訪ね、愛器である1715年製の「バロン・クヌープ(黄金期のストラド)」をケースから取り出して見せていましたが、窪田さんが表板のあちこちを軽く叩くと、やはりその音程は揃っており、ストラディバリウスは完璧だと言っていました。

窪田氏は銘器の修理だけでなく、この音程に留意し、ニスなどもオールドイタリアンの特徴に基づいたバイオリンの製作もはじめられているようで、そのひとつをエーネス氏が試奏していました。
彼はとても美しい音だと褒めていましたが、テレビでもわかるぐらいにバロン・クヌープとは明らかな違いをマロニエ君は感じました。
この楽器を上記の実験に供したところ、ストラドにみられた音の強い放射やゆらぎが乏しいという結果も明らかに。

窪田氏によると、表板のどこを叩いても音程が揃うように削ることに加えて、横板は薄くすることで表板よりも音程が低くならなくてはならないという法則があるようでした。
しかし今以上横板を薄くすることはできないため、今度は表板の裏に石灰の粉をふりかけて塗りこむような処理が施されました。こうすることで表板の音程が上がり、相対的に横板の音程は表板に対してさらに低くなるというわけ。
これはストラディヴァリが石灰の粉を使っていたということが書かれた文献があるようで、そこから思いつかれたようでした。

果たしてその結果は、著しい改善が認められ、牧教授の実験データからもストラドとほとんど同じようなデータが示されたというのですから驚きでした。
さてこれが、世界中が渇望するストラドの製法の核心なのか。
窪田氏によれば、これを秘密にして窪田氏が製作してもとても間に合うものではないので、世界中に公開することで、より多くのバイオリンが製作されることを望むと言われていたことも印象的でした。

エーネス氏の演奏も随所で堪能できたし、興味深い事実にも触れられて、とてもおもしろい番組でした。


2017/08/20 Sun. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

なんだかヘン 

やむを得ぬわけあって、あるコンサートに出かけました。

今どきは、よほどの人気アーティストでもない限り、純粋にそのコンサートに興味を抱き、任意にチケットを購入して演奏を聴きに来るオーディエンスというのは、まずほとんどないといっても過言ではないでしょう。
とりわけ地方の演奏家等であれば、会場は友人知人生徒と保護者および何らかの縁故のある人達の大集会と化すのはほぼ毎度のこと。
会場内は、互いに知り合い率が高いものだから、あっちこっちでお辞儀や立ち話だらけ。
逆にいうと、演奏者を中心に何らかの繋がりでホールの座席を埋めるというのは(有料のコンサート開催の在り方としてはどうかとは思うけれども)、それはそれで大変なことだろう…すごいなあ…とヘンな感心もしてしまいます。

もし自分だったら、何をやろうにも(やれることもないけれど)自分のなにかしらの縁故だけでホールの座席をそこそこ埋めるくらいの人を集めるなんて、とてもではないけれどできる事ではありません。

それはともかく、だから、どう見ても音楽には興味も関わりもないような雰囲気の人が目立ち、開演後も身をかがめて通路を降りてきては着席する人がいつまでも続いたりと、会場がどことなく異質な空気に包まれます。
とくに演奏中、通路を人が動くというのは、聴いている側からするとなんとも迷惑な話です。
さらに、どういう事情があるのかわからないけれど、こんどは席を立ってコソコソと会場を出て行く人までいるなど、まるで映画館のよう。

どんなに身をかがめて動いても、演奏中の客席内の人の動きはメチャクチャ目立つので、どうしても気になってそれがすむまでは演奏もそっちのけになってしまいます。

さらに参ったのは、ソナタの楽章間でためらうことなく拍手をする人が大勢いて、何人かが手を叩くと多くがつられて手をたたきます。
それにつられない人よりつられてしまう人のほうが多いから、この流れが一向にとまらない。
この日のプログラムは、ふだんあまり耳にする機会の少ない曲(しかもソナタだけでも3曲)で構成されており、そのこともそういう現象を引き起こす要因のひとつだったのかもしれませんが、だとしても手許のプログラムには曲目が書いてあるわけだから、少しでもコンサートの心得というか経験があればわかりそうなものだと思いました。
わからないのであれば、少なくとも静寂を破って一番乗りで手を叩くようなことはしないで、まずまわりの様子を伺うくらいの気遣いがあったらと思いました。

演奏者もはじめのうちは軽くお辞儀をしたりしていたけれど、そのうちウンザリしたのか、以降はあからさまに無視していましたが、それでも一向に気づかない御方がずいぶんとたくさんいらっしゃるようでした。

逆に言えば、そんなこともわからないような人まで広く動員されることで、なんとかコンサートが成り立っていると見ることもできそうです。
マロニエ君も半ばうんざりしながら「そういえば『拍手のルール』とかいう本があったなぁ…」なんてことも思い出したりしましたが、とにかくなんだかとても変な気持ちになりました。

この日、いいなと感じたのは、トークが最低限のご挨拶だけで、聞きたくもない曲目解説などに時間を取られなかったことと、アンコールも一曲のみで、そのあとは鳴り止まぬ拍手を制するようにサッとステージの照明が落とされ、同時に客席が明るくなったことで、さっさとお開きになったこと。

この日のコンサートに限らず、本来の演奏に対してはほとんどパラパラだった拍手が、アンコールのおねだりタイムになると俄然熱を帯び、とめどなく手を叩くのは悪しき習慣で、これがあまりにあからさまになると演奏者に対して失礼だというのがマロニエ君の持論です。
演奏者はプログラムに関しては大変な練習を積んでその日に挑んでいるのに、そっちでは気の毒なほど閑散とした拍手しかしなかったくせに、アンコールの要求だけはやけに張り切って手を叩くというのはいかがなものか…。

もし同じ曲でも、前もって決められたプログラムとして本番で演奏されたなら、これだけの拍手は絶対しないはず。
そういうことが嫌なので、一曲のみできっぱり終わりにしたところは、却ってすっきりしました。


2017/08/15 Tue. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感銘と疲れ 

少し前にBSプレミアムシアターで放送された、グリゴーリ・ソコロフのリサイタルをやっと視聴しました。

2015年8月にフランスのプロヴァンス大劇場で行われたコンサートで、映像はブリュノ・モンサンジョンの監督。
この人はリヒテルのドキュメンタリーなども制作しているし、グールドを撮ったものもあるなど、音楽映像では名高い映像作家。

曲目はバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタ第7番、シューベルトのソナタD784と楽興の時全曲。
ステージマナーは相変わらずで、ムスッとした仏頂面で足早にピアノに向かい、最低限のお辞儀をしてすぐ椅子に座り、弾き終えたら面倒くさそうに一礼すると、顔を上げるついでに身体はもう袖に向かってさっさと歩き出すというもの。

笑顔など最後まで一瞬もない徹底ぶりで、そんなことはピアノを弾く/聴くために何の意味もないといわんばかり。
聴衆との触れ合いやサービス精神など持ち合わせていないお方かと思ったら、アンコールにはたっぷりと応えるところは意外でした。
結局ショパンのマズルカを4曲、前奏曲から「雨だれ」、ドビュッシーの前奏曲集第2巻より「カノープ」と実に6曲が弾かれ、まるで第3部のようで、これがソコロフ流の聴衆へのサービスなのかも。

全体の印象としては、ぶれることない終始一貫した濃厚濃密な演奏を繰り広げる人で、そんじょそこらの浅薄なピアニストとはまったく違う存在であるということはしっかりと伝わりました。
とくにタッチに関しては完全な脱力と、指先から肩までぐにゃぐにゃのやわらかさで、猫背の姿勢からは想像もつかないダイナミクスの幅広さが驚くべき印象として残ります。
さらに音に対する美意識の賜物か、その音色の美しさには眼を見張るものがあり、弱音域でのささやくような音でも極上の質感があるし、いっぽういかなるフォルテシモでも音が割れず、そこには一定のまろやかさが伴うのは驚異的。
しかもすべてが厳しくコントロールされているのに、奔放な要素も併せ持っているのは驚くべきこと。

また演奏にかける集中力は並大抵ではなく、とてもツアーであちこち飛び回って数をこなすといったことはできないだろうと思われます。

ただ、解釈に関しては本人にしてみれば一貫しているのかもしれないけれど、聴く側からすると、作品や作曲家によってばらつきが大きく、ソコロフの考えに相性の良いものとそうでないものの差が大きいように感じたことも事実。

個人的に最もよかったのはシューベルトで、ソナタD784は普通でいえば退屈な曲ですが、それをまったく感じさせない深遠な音楽として聞く者の耳に伝えてくれましたし、楽興の時も、多くの演奏家が多少の歌心を込めつつ軽やかに、どこか淡白に弾くことが多いけれど、ソコロフは6曲それぞれの性格を描き分けながらずっしりとした重量感をもってエネルギッシュに弾き切り、ソナタとともに作品が内包する新たな一面を見せてもらったようでした。

ベートーヴェンは賛否両論というべきか、この人なりのものだろうとまだ好意的に捉えることができるものの、ショパンになるとまったく共感も理解もできないもので、マズルカの中には聴いていてこちらが恥ずかしいような、どこかへ隠れたくなるような気分になるものさえありました。

この人は、一見オーソドックスでありのままの音楽を、その高潔な演奏で具現化している巨人といった印象もあるけれど、耳を凝らして聴いてみると、作品のほうを自分の世界にねじ込んでいるようにもマロニエ君は感じました。
そういう意味では作曲家の意志を忠実に伝える演奏家というより、ソコロフのこだわり抜いた極上の演奏芸術に触れることが、このピアニストを聴く最大の価値といえるのかもしれません。

まったく見事な、第一級の演奏であることは大いに認めるものの、全体としてあまりにも重く、遅く、長くかかる演奏で、30分ぐらい聴くぶんにはびっくりもするし感銘も受けますが、2時間以上聴いていると、これだけのピアニストを聴いたという喜びや充実感もあるけれど、なにより疲労のほうが先に立ってしまいます。

使われたピアノも素晴らしく、ソコロフの演奏に追うところも大きいとはいえ、濁りのない独特な美しさをもったスタインウェイだったと思います。とくに印象的だったのは音が異様なほど伸びることで、これは秀逸な調律によるものという感じも受けましたが、果たしてどうなんでしょう。


2017/07/25 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アジアの覇者二人 

ここ最近テレビで見た演奏から。

日曜のクラシック音楽館で、N響定期公演の残り時間に「コンサートプラス」というコーナーがあり、二週続けてハオチェン・チャンがスタジオ収録した演奏が放送されました。

ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、辻井伸行と同時優勝した中国出身のピアニストですが、この人の演奏を聴くのは実はこれが初めてでした。
一週目はリストの鬼火、ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」、ヒナステラのピアノ・ソナタ第1番、二週目はシューマンの「子供の情景」。

長い美しい指が特徴的で、リストの鬼火をものすごいスピードで弾きはじめたのにはびっくりしつつ、あまりにスポーツライクで情感や温もりがなく、マロニエ君の好みではないことがいきなり判明。
ただし、全体に冷やりとすようなシャープさという点は、良くも悪くもこの人の特徴なのかも。

あまり馴染みのないヤナーチェクのソナタなどは、むしろ独特の臭みが消えてスタイリッシュに聴こえないこともなかったけれど、シューマンになると、やはり説得力のある音楽というより指先のクオリティで弾いていることが鮮明となり、ちょっとついていけない気分に陥りました。
もっとも気になるのは、作品が生きている感じがまったくしないこと…でしょうか。

最近のコンクール覇者の例にもれず、大変な技巧の持ち主ではあるようで、なんでも苦もなく弾けるだけの技術的余裕はあるようですが、こういう演奏に接すると、そもそもピアノの演奏というものをどんな風に捉えているのか、本人はもとより時代の価値観にも疑問に感じてしまいます。

ピアノの演奏が、いっそフィギュアスケートのように、多少の芸術性も要求されつつも根本はあくまで競技目的として成り立っているのなら、こういう人が金メダルとなるのは納得できますが、そこから発生する音は、音楽として多くの人々が喜びを感じたり心の慰めに値するものかというと、そういうものとは大きく距離をおいたものらしいと感じました。

余談ですが、ハオチェン・チャンはメガネをかけている写真(モテないガリ勉君みたい)しか知りませんでしたし、冒頭のインタビューではそのメガネ姿でしたが、演奏中はこれを外していて、それが結構イケメンだったのは意外でした。
今どきのことなので、その意外性も計算された「売り」なのかもしれませんが。

さらにその翌週の同番組では、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演が放送されましたが、オールベートーヴェンプロで、二曲目のピアノ協奏曲第3番では、ソリストがショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンでした。
韓国には芸術性に優れたピアニストが多くいますが、その中ではソンジンはむしろ学生風で、マロニエ君としてはなぜこの人が優勝したのかいまだにわからないし、やたら日本でよく演奏する人だなあと思っていたので、正直またかと思いました。

この人のベートーヴェンは初めて聴きますが、基本的な印象はなにも変わらずで、音楽的にあまり成熟感がなく、むしろ音楽的拙さを感じる演奏である点もショパンなどと同じです。
それでも、ハオチェン・チャンの体脂肪を極限まで落としたような演奏を聴いたあとでは、ソンジンがまだしもふくよかで、ところどころにハッとする美しさを感じる場面があったことも事実。

この人は繊細なところが得意のようで、ショパンのコンチェルトでも第2楽章が出色だった記憶がありますが、そんな彼がベートヴェンということだからかタッチにも一段と力がこもり、無理に大きな音を出そうとしているような感じがあって、だからどうしても音が刺々しくなるように感じました。
アンコールにモーツァルトのソナタの緩徐楽章、残り時間に別のコンサートからショパンの13番c-mollのノクターンがおまけで流れましたが、やはりどれも共通するのは練れていないというか、要は未熟な感じで、作品の核心へ到達しているようには思えませんでした。

2017/07/21 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヒューイット 

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。


2017/07/17 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ラフマニノフ 

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。


2017/07/02 Sun. 12:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ダン・タイ・ソン 

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。


2017/06/23 Fri. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit