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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

最後のピレシュ 

Eテレのクラシック音楽館で、マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/NHK交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

最近は、この番組の冒頭、N響コンマスのマロさんが番組ナビゲーターをつとめていますが、あれってどうなんでしょう。
いつも独特のぎらっとした服装で直立不動、トークも硬くこわばったようで、どことなく怖い感じがするのはマロニエ君だけなのか。
トークの専門家ではないことはわかるけど、もうすこしやわらかな語り口にならないものか…。

そのマロさんの解説によると、ピレシュは今年限りでピアニストとしての引退を表明しているんだそうで、これが最後の来日の由。

マロニエ君がピレシュの演奏に始めて接したのは、モーツァルトのソナタ全集。
たしか東京のイイノホールで収録され、DENONから発売されたLPで、これが事実上のレコードデビューみたいなものだったから、ああ、あれから早40年が経ったのかと思うと感慨もひとしおです。

さて、引退を前に演奏されたベートーヴェンの4番ですが、マロニエ君の耳がないのでしょう、残念ながらさして感銘を覚えるようなものではありませんでした。

この人は指の分離がそれほどよくないのか、演奏の滑舌が良くないし、手首から先が見るからに固そうで、それを反映してかいつも内にこもったような音になっていて、彼女の出す音にはオーラのようなものを感じません。
それと、これを言っちゃおしまいかもしれませんが、もともとさほどテクニックのある人ではなかったところへ、お歳を重ねられたこともあってか、聴いていて安心感が失われてハラハラしました。

解釈については、本来この人なりのものがあるようには思うけれど、全体に限られたテクニックが表現を阻んでしまい、きっとご本人もそのあたりはよく承知されているはず…と勝手な想像をしてしまいます。
4番は早い話がスケールとアルペジョで構成されたような、弾く側にすればあやうい曲で、正確な指さばきが一定の品位の中で駆け回ることが要求されますから、ある意味、皇帝よりきちっとしたテクニックが求められるのかもしれません。

ピレシュの音楽は全体にコンパクトかつ虚飾を排したものであり、それがときに説得力をもって心に染みることもあるけれど、もっと大きく余裕ある羽ばたきであって欲しいと感じる局面も多々あり、この4番でも、音楽的にも物理的にももっとしなやかで隅々まで気配りの行き届いた演奏を求めたくなってしまうのが偽らざるところでした。

彼女のピアノが長年描いてきたのは、毒や狂気ではなく、音楽のもつ良識の世界だから、そこにまぎれてそれほど目立たなかったのかもしれませんが、この人は意外に穏やかな人ではなく、演奏もいつもなにかにちょっと怒っているようにマロニエ君には感じられ、ディテールは繊細とはいい難いドライな面があり、必要性のない叩きつけ等が多用されるのは、この人の演奏を聴くたびに感じる不思議な部分でした。

左手の三連音のような伴奏があるところなど、わざとではないかと思うほど機械的に、無表情に奏されることがしばしばあったり、ポルタートやノンレガートなどでも、手首ごと激しく上下させてスタッカートのようにしてしまうなど、決してやわらかなものではない。
もしかしたら、これらはテクニック上の問題かも知れず、名声が力量以上のものになってしまったことに、人知れず苦しんでいたのかもしれないなどと、こう言っては失礼かもしれませんが、ついそんなことを考えさせられてしまうマロニエ君でした。

ただ、それはピレシュが音楽的心情的にドライな人というのではありません。
同じト長調ということもあってか、アンコールではベートーヴェンの6つのバガテルから第5が弾かれましたが、これは初心者でも弾ける美しい小品で、これならテクニックの心配はまったくなく、実に趣味の良い、豊かな情感をたたえた好ましい演奏になっていました。

後半には短いドキュメントも放映されて、若い人へのメッセージとして心の音を聴く、芸術を追求するといったご尤もなことを繰り返し述べていましたし、それはご本人も実際にそのように思っておられることだろうと思います。
ただ、実際の演奏が、その言葉を体現したものになっているかといえば、必ずしもそうとはいえないところがあり、そのあたりが演奏というものが常に技術の裏付けを容赦なく要求する行為であるが故の難しいところなのかもしれません。

最後に、1992年の映像でやはりピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/N響、場所もNHKホールという、ピアニスト/指揮者/オーケストラ/会場が同じで、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の第2/3楽章が放映されましたが、26年前とあってさすがに体力気力に満ちており、こちらはずっと見事な充実感のある演奏でした。
やっぱりこうでなくちゃいけません。

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2018/06/16 Sat. 12:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

安い席 

以前から非常に不思議に感じていたことのひとつ。

それはコンサートのチケットが安い方から売れていくという現象です。
誰しも出費は安い方がいいのは当然ですが、コンサートにおける最安の席というのは、本当に節約に値するのか。
大抵の場合、ステージからは最も遠く離れた場所であったり、シューボックス型のホールでは、左右いずれかの壁の上部にへばり付いたような席で、しかも音響的にも視覚的にも、どう考えても好ましいとはマロニエ君には思えません。

一般的にいえばコンサートに行くということは、生演奏に立ち合い、それを通じて演奏者の魅力や音楽にじかに触れて、音楽が目の前で紡ぎだされる現場の空気を味わい堪能することにあるのだと思います。
その目的を達成するためには、ホール内のどの席に座るかというのは非常に重要で、聴く位置によって演奏から受ける印象は相当違ったものになります。

たとえば、空席の目立つ自由席の演奏会などで、前半と後半で席を変えてみると、思った以上に印象の違いがあることに驚かされることは一度や二度ではありません。この違いは、演奏者や楽器が変わるのに匹敵するぐらいの差があるといっても過言ではないでしょう。

秀逸な音響をもつ中型以下のホールの中には、どこに座ってもそこそこの音質が楽しめるようなところもごく稀になくはありません。
しかし、多くの場合、座る位置で音響は甚だしく違います。
おしなべて最前列付近は音のバランスが悪いし、壁際であれ天井近くであれ、いわゆる空間の偏った隅っこはいい音がしません。

とりわけ大きなホールになるほど、安い席は音は遠く不鮮明で、場合によっては演奏の良し悪しも何もわからないような、ほとんど遠くの霞んだ景色を眺めるような場合のほうが多いと言ってもいいでしょう。
輪郭さえおぼつかない反射音や残響音ばかりを耳にしながら2時間近く耐えることが、果たして音楽を聴いたと言えるのかどうか。

最安の席というのはだいだいそのあたりになっています。
いうなれば、ちゃんとそれなりの理由があるから安いわけで、コストパフォーマンスは低いというべきでしょう。
それなのに安い席から売れていくというのは、マロニエ君的にはまったく不可解なのです。

たとえば飛行機などの交通手段であれば、窮屈な席でも辛抱さえすれば、目指す目的地へと移動できるという実利があり、これはなるほど安い価値があるでしょう。

でももし、映画館で安い席はピントがボケボケだったりしたなら、それで観る人はまずいないだろうと思います。
映像と違って、音は響きとピンボケの境目がわかりにくいということかもしれませんが。

マロニエ君は何度も書いたように最近コンサートは食傷気味ですが、行く以上はせめて一定の席で聴きたいものです。
少なくとも何を聴いたかよくわからないようなものにチケット代を払うのは、一番もったいないと思うのですが。

2018/06/11 Mon. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

個性は普通さ 

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。

2018/05/27 Sun. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ジャズクラブのように 

先日、録画していた映画を見ていてあることを思いつきました。

その映画の主人公はジャズクラブのオーナーで、店では毎晩のように生演奏が繰り広げられ、大勢のお客で賑わいます。
マロニエ君もずいぶん昔ですがブルーノートにチック・コリアを聴きに行ったことなど思い出しました。

はじめて目にする会場というか店内にはいくつものテーブルがあり、簡単な食事ができて、飲み物や軽いアルコールなどが当たり前のように提供される場所。
それでいて、あくまでこの場の主役は音楽であることが明確に成り立っている世界。
ふと考えさせられるのは、音楽を聴くということは人間の楽しみであり喜びであり、演奏する側も聴く側も共に楽しむという基本。

音楽を聞きに来たお客さんが、荷物の置き場もない狭いシートに押し込められて身動きもできず、咳払いにも遠慮しながらひたすら演奏を拝聴するというクラシックのストイックなスタイルしか知らなかったマロニエ君は、大変なカルチャーショックを受けたことを今でも覚えています。

映画でもそうでしたが、お客さんは娯楽的な空気の中で、各自がもっとリラックスして演奏に耳を傾けます。
その点ではクラシックの演奏会の聴き方はあまりにも固すぎると思いました。
もしジャズクラブのクラシック版みたいなものがあったらどんなにいいか。

音楽が人間の楽しみの重要な一角を占めるのであれば、やたら修行のようなことでなく、もう少し快適な環境で聴けるということも考えてみてよいのではないかと思うのです。
いくら音楽を傾聴すると言っても、ただひたすらそれだけというのではあまりにも享楽性に乏しく、そのためにも飲食を切って捨てる必要はないのでと最近のマロニエ君は思うのです。

もちろん演奏中の飲食はダメですが、開演前か終演後に軽い食事ができて、休憩時間には飲み物が普通にあるような場所。
そんな環境でクラシックのコンサートをしたら、行く側もどんなに楽しみが倍増するだろうかと思うのです。

考えてみればマロニエ君の子供の頃には市民会館などがコンサートの中心で、そこにはごく庶民的なレストランもあり、開演前に食べた素朴なメニューは今でも不思議に覚えています。

誤解しないでいただきたいのは、べつに飲み食いが目的というわけではなく、音楽をくつろいで楽しむための脇役として飲み物や軽い食事などが自然にある場所や時間というのは、音楽のためにも実はけっこう重要なのではないかということです。

そもそもオーケーストラならいざしらず、ピアノはじめ器楽のリサイタル程度なら、巨大なホールでやられても聴く方も遠すぎて楽しくないし、主催者だってチケット売りが大変、演奏者にかかる負担も必要以上のものが覆いかぶされうような気がします。
その点、ジャズクラブぐらいの規模で、せいぜい数十人規模のお客さんを相手に、もう少しゆったりと演奏を聞かせてくれたらいいのではないかと思うのです。

演奏時間も現在のホール形式では、休憩を除けば前後合わせてだいたい1時間半かもう少しといったところですが、これは少し縮小して2/3ぐらいの時間にしたらどうかと思います。
そして、客数がそれだけでは足りないでしょうから、それを数日間繰り返してもいいのでは。
そのほうが演奏する側だって、せっせと練習に打ち込んで一回こっきりの本番より、ある意味やりがいがあるのではと思います。

多様性という言葉がよく聞かれますが、だったらコンサートの世界にもこういう新しいスタイルが少しは試されてもいいような気がするこのごろです。

2018/03/28 Wed. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏会現状 

どうしたことか、最近はコンサートが苦痛でしかたありません。

自分で言うのもなんですが、これほど音楽が好きで、若い頃から数えきれないほどのコンサートに通い、いい加減それには慣れているはずのマロニエ君の筈ですが、現実はというと慣れるどころか、年々コンサートに行くのは苦痛が増し、自分でもその理由がなんだろうかと考えしまうことがしばしばです。

ひとつはっきりいえるのは、疲れるということ。
心が鷲掴みにされ何処かへもっていかれるような熱気ある演奏に接することがなくなったことが最大の原因かもしれません。
しかし、それだけではないとも思ってしまうのです。

その証拠にコンサートに行きたくないのはマロニエ君だけではなく、広く世の中の潮流というか、とくにクラシックのコンサートは慢性的な客離れで、閑古鳥が鳴いて久しいという現実もそれを証明しているように思います。

クラシック音楽そのもの、および、それを集中してじっと耐えるように聴くという鑑賞方法じたいが時代に合わなくなってきているということもあるのかもしれません。いっぽう演奏者も、なにがなんでも聴きたいと思わせる圧倒的なスターがいなくなり、さらには娯楽の多様性や時代の変化など、もろもろの要素が積み上がった結果が現在のようなクラシック音楽の衰退を招いているのでしょう。

具体的には、コンサートのスタイル、会場の雰囲気にも問題があるような気がします。
決められた日時に時間の都合をつけて開演に遅れないようホールに出向くということは、それがその日の行動の主たる目的になります。
その挙句、2時間前後身じろぎもせず、咳払いひとつにも気を遣い、体を動かすことも最小限に抑えるという厳しい態勢を強いられる。
しかるに多くの場合、本気度の薄いシナリオ通りの演技的演奏もしくは事務作業のような演奏は喜びやワクワクとは程遠く、これらにじっと耐えることは、ほとんど修行か罰ゲームのようで、終わったときには心身は疲労とストレスでフラフラ。

こういってはなんですが、むしろ演奏者のほうがスポーツした後のようなスッキリ感があるのかも。

エコノミークラス症候群などと巷で言われはじめて久しいけれど、コンサートは国際線の飛行機より時間こそ短いけれど、身じろぎひとつできず、水分もとれず声もだせない苦痛度としてはかなりのものじゃないかと思います。
身体は硬直し、血流は停滞し、おまけに精神面は退屈な演奏や劣悪な音響で消耗がかさみ、これでは疲れるのも当たり前だと身をもって感じます。

演奏が終われば、拍手でじんじんする手を止めると、すっくと立ち上がって、他者ともみ合いながらホールの階段を登り、外に出るなり歩くなり駐車場に行く、人によっては電車やバスに乗るなどして家路につき、それから食事もなんとかしなくてはならず、まだまだ疲れる行動はそう簡単には終わりません。
こうした一連のなにもかもがエネルギーの浪費ばかりで、要するにぜんぜん楽しくないわけです。
その疲労は翌日まで持ち越してしまうことも珍しくありません。

昔はここまでの苦痛を感じておらず、それはマロニエ君がまだ若くて体力があったからだろうか…とも思いますが、やはりそれだけではなく、それに堪えうるだけの魅力がコンサートがなくなってしまっていることも大いにある気がしてなりません。
ほんとうに素晴らしいものに接しているときは、時が経つのも忘れ、精神的にも良い刺激であふれているものですが、そんな忘我の境地にいざなってくれる演奏会は今は限りなくゼロに近いほどお目にかからなくなりました。

どんなに上手くて見事な演奏であっても、薄っぺらいというか、そこにはシラケ感や仕組まれた感が漂い、聴く側の心が感銘や喜びによって潤されていくような体験にはなりません。
チケットを買って、時間を作って、会場までの往復など、そこにはそれに値する見返りがないとなかなか人の足は向きません。

演奏そのものの魅力もむろん大切だけれど、こうなってくると鑑賞のスタイルや環境も少し変ったものがでてきてもいいのではないかと思うのです。
ちなみに、小さな会場で行われる小規模のコンサートなどは、ホールのスタイルをミニチュア化しただけで、椅子が折りたたみ式などへさらにプアなものになり、身体の苦痛はホールのそれよりもさらに痛烈なものになります。

~続く。



2018/03/24 Sat. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

新鮮でした 

クラシック倶楽部の録画から。
昨年11月にハクジュホールで行われた津田裕也さんのピアノリサイタルは、ある意味とても新鮮なものに感じました。

というのも、実際のリサイタルでのプログラム全体はどのようなものだったかわからないけれども、この55分の番組で放映されたのは、すべてメンデルスゾーンの無言歌で埋め尽くされていました。

無言歌集に収められた多くの曲はどれもが耳に馴染みやすく、多くはよく知っているものばかりですが、実際の演奏会でプログラムとして弾かれることはそれほどありません。
メンデルスゾーン自体がプログラムにのることも少ないし、ピアノ曲ではせいぜい厳格な変奏曲やロンド・カプリチョーソなどがたまに弾かれるくらいで、無言歌というのは、あれほど有名であるにもかかわらず、プロのステージでのプログラムとしては、決してメジャーな存在とはいえない気がします。

理由はいろいろあるのだろうと思いますが、ひとつには音楽的にも技術的にも、プロのピアニストにとってはそれほど難しいものではないことや、どんなプログラム構成で演奏会を作り上げるのかという考察じたいもピアニストとして評価されるところがあり、そのためにも演奏曲目はよりシンボリックで難しい玄人好みのものでなければならないというような、暗黙の基準があるからではないかと思います。

その尺度でいうと、メンデルスゾーンの無言歌集は、あくまで「安易な小品」と見なされるのでしょうか?

そうはいっても、素人にとってはこの無言歌集は、耳で聴くのと同じように弾くのも心地よく簡単かと思ったら大間違いで、楽譜を前に弾いてみると、そうやすやすと弾けるわけでもないところは、意外な難物という気がします。
とくべつ超絶技巧は要らないけれど、少なくともショパンのようにピアニスティックにできていないのか、指が自然に流れるというものでもなく、下手くそにとってはイメージよりずっと弾きにくい曲だという感じがあります。

次はきっとこうなるなという流れで進んでいかないので、マロニエ君レベルにとっては馴染みやすい曲のわりには読譜も暗譜も大変で、流れに逆らうような合理性のない動きも要求されるなど、弾きたいけど苦手という位置づけになります。

では、プロの演奏会のプログラムとしてこればかりを並べたものとはどんなものかというと、聴いてみるまでは正直少し不安もありました。
数曲ならばいいとしても、延々こればかりではそのうち飽きてくるのでは?という懸念もあったのですが、実際に始まってみると、そんな心配は見事に裏切られ、聴いていてとにかく心地いいし、次にどんな曲が出てくるのかも楽しみで、一曲ごとに異なる世界が広がり、それに触れながら聴き進んでいくおもしろさがあり、たまにはこういうものもいいなあと素直に思いました。

まるでリートの演奏会のようで、ああ、だから無言歌なのかとも納得。

だれもかれもが、決まりきったような深刻な作品、あるいは大曲難曲をこれでもかと弾かなくてはいけないというものでもない筈で、そういう意味でももっとプログラムは自由であってもいい、あるいは「あるべきでは?」と考えさせられるきっかけになりました。
とくに最近は、指は動いても、内容的に練れていないまま技巧とステレオタイプの解釈だけで大曲を弾くのが当たり前みたいな風潮があって、正直ウンザリ気味でもあるので、久々にまっすぐに音楽に触れたような気になりました。

美しいピアノ曲を、真摯に紡ぐピアニストの真っ当な演奏に触れること。
それは必ずしも演奏至難な曲である必要はなく、音楽を聴く喜びで心が満たされることこそ最も大事なことではないかと思いました。


2018/03/14 Wed. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プレスラー 

1月はじめのクラシック音楽館では、放送時間の3/4ほどがトゥガン・ソヒエフ指揮のN響によるプロコフィエフのオラトリオ『イワン雷帝』で、残り30分はメナヘム・プレスラーが昨年来日した折の短いドキュメントが流されました。

プレスラーは言わずと知れたボザール・トリオの創始者であり、50余年にわたる活躍の初めから終わりまでそこでピアノを弾き続け、トリオそのものを牽引してきた名演奏家にして功労者。
そのボザール・トリオが10年ほど前に解散してから、プレスラーはソロを弾くようになりましたが、現在94才とのことなので、解散時は84才だったということになるのでしょう。

84才からソロ活動とは人生いろいろですが、マロニエ君はプレスラーのピアノはトリオの時代には感心しながら聴いていたけれど、解散後のソロピアニストとしての演奏は正直それほどのものとは思いませんでした。
なんといってもソロ活動を始めるには、いささか遅すぎた観があり、あまり言うべきではないかもしれないけれど、さすがに技術的な衰えもあって、自らが打ち立てた「ボザール・トリオのメナヘム・プレスラー」という知名度に頼ってやっている感じが否めません。

今回の来日では、サントリーでのソロリサイタルの他にピアノトリオのマスタークラスも開催されたようで、さすがにその時の表情は、それ以外のときよりも厳しさが漲り、はるかに頼もしく見えました。
トリオは彼の人生でも中核を占めてきた分野であるし、カッと目力が入って引き締まり、自信に満ち、なるほどと思うような指示を次々に与えていて、やっぱり大したお方だと思いましたし、人間やはり自分のいるべき場所にいる時は美しく大きくなるようです。
ただしこの番組じたいがわずか30分と短かったうえ、ソロリサイタルでの様子やインタビュー部分が多くて、マスタークラスの様子はごく僅かであったのが個人的には残念でした。

曰く、「指で音符を弾くだけなら誰だってできるけれど、音楽を表現する人は少ない」というのはまったくごもっとも。
さらに、彼の発言の中で最も心に残ったのは「音楽は、聴く人の耳に届けるのではなく心に届けるもの」そして「ピアノは指先で歌うもの」という言葉。
実際には、聴く人の心どころか、耳にさえ届けようとせず、ただ正確に弾けるという技巧自慢をすることに全精力を使う奏者のなんと多いことか。

リサイタルからは、ショパンやドビュッシーの小品の演奏が聴けましたが、さすがに94という年齢もあり、テンポもゆったりして音量もないけれど、ひとつひとつの音のつながりや意味、曲のなかに点在する美しい要所々々のひとつひとつに反応し、音楽が人の心の中で反応する本質のようなところを、非常に敏感に丁寧に演奏しようとしておられるのが印象的でした。

今の若い人が、そのままの演奏をしても許されることではないけれど、音楽本来の意義や精神、大切にすべきポイントは何であるかという点はじゅうぶん伝わりました。

歩くのも杖を付きながら非常にゆっくりですが、傍らには長身の中年女性がいつも寄り添っており、その女性が子供を見下ろすようにプレスラーは小柄でかわいらしく、彼はその女性のことを非常に頼りにして、大切に思っているようでした。

すぐ思い出したのが晩年のホルショフスキー。
彼も非常に小柄で、傍らにははるか背の高い女性がいつも甲斐甲斐しく彼のお世話をしていたあの光景。
ホルショフスキーの場合、その女性は夫人でしたが、ともかくも男性はつくづく女性を頼り、助けられて生きていられるのだということを如実に示すような光景でした。

2018/01/15 Mon. 01:59 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ゴルトベルク演奏会 

山田力さんという地元のピアニストによる、バッハのゴルトベルク変奏曲のコンサートに行ってきました。
自らバッハをこよなく愛するピアニストと公言される方で、この数年間というものオールバッハプログラムのコンサートを継続して開催されているようです。
冒頭まずフランス組曲第5番が弾かれたのち、すぐに15分の休憩となったのは、この日のメインがゴルトベルク変奏曲という長大な作品であるため、演奏者/聴衆にとって、それぞれ指慣らし耳慣らしの効果もあったようです。

その後いよいよゴルトベルクが始まりました。

マロニエ君の記憶が間違いでなければすべてのリピートを敢行され、その演奏時間は80分ほどに及びましたが、いまさらながらバッハの偉大さ、さらにはこの特異な作品の偉大さを、二つながら再確認することになりました。
くわえて、しみじみと実感することになったのは、この孤高の大曲をステージで演奏することの大変さです。
聴くほうはあまりにも馴染み深く、あまりにも美しい曲であるため80分という時間がサーッと流れ去ったようでしたが、演奏者においてはおそらくその限りではない筈で、これを通して弾くというのは並大抵のことではなく、最後のアリアが鳴り終わったとき、心から「お疲れ様でした」と一礼したいような気持ちになりました。

本来なら演奏を終えたピアニストに対して少しピントのずれた感想だったかもしれませんが、ゴルトベルク変奏曲を聴衆を前に一気呵成に演奏するということは、まるで禅僧が厳しい修行へと身を投じて事を成し遂げるような、上手くは言えないけれどそういった我が身と精神を敢えて追い込み、その果てにある何かを捉えようとするような、少なくともただピアノを弾くということとは少し違う意味合いも含んだ独特な行為のようにも感じました。

普通のソナタや組曲と違い、変奏曲というものがもつ切れ目のない継続性、始まったらそのまま息つく暇もない一幕物のオペラのような絶えざる緊張、それに伴う心身の消耗や忍耐など、美しい音楽とは裏腹に演奏者へ容赦無く襲いかかる苛酷さみたいなものがひしひしと伝わり、やはり「お疲れ様でした」という気持ちになってしまうのでした。

山田さんの演奏で印象深かったことは、バッハに対する特別なリスペクトと情愛がストレートに伝わる点。
近頃では精巧な機械のように動く指を武器に、何かのコピペのような無機質な演奏をやってみせる若手が多くてうんざりさせられることの多い中、山田さんの演奏はまさに一期一会の肉筆画が描かれていくようで、肌で聴く味わいがありました。

また現代のコンサートピアノの性能は十全に活かしつつも、ペダルはほとんど使われないスタイルを貫かれ、清々しい真剣勝負に立ち会っているようでもありました。
ずっと足下を凝視していたわけではないので見落としもあるかもしれないけれど、最後のクォドリベッドに至ってようやく右ペダルを少しだけ踏まれたとき、まさに万感の思いへと立ち至るようでした。

昔は同曲のピアノによる録音といえば、いきなり金字塔を打ち立てたグールドはじめ、テューレックやケンプなど数えるほどだったものが、最近では実に多くのピアニストが次々にこれを弾くようになり、マロニエ君も懲りずにかなり買い込んでいるところですが、CDの数に比べてこれをコンサートでやろうという人は実はそれほど多いという印象には至っていません。
録音なら各変奏ごとにいくらでも録り直しがききますが、聴衆を前にしたいわば一度きりの挑戦ともなると状況は一変するためか、それほど実演機会が多くはないようです。

CDといえば、時期を隔てて二度目の録音するピアニストも多く、ぱっと思いつくだけでもグールド、シフ、シェプキン、シャオメイ、メジェーエワなどの名が浮かびますが、メジェーエワの新録音は今回の山田さんと同じく、すべてのリピートを弾いている由で、こちらのCDはまだ未入手ですが、やはりCD収録時間ぎりぎりの約80分とのこと。

また、シャオメイの名を出して思い出したのは、CDではまことに慈悲深い見事な演奏をやっていますが、いつだった北京のホールで行われたライブ映像では、かなりの乱れなども散見され、この緻密な織物のような大作をステージ上で御することの難しさを痛感したこと。

まさに音楽の巨大な世界遺産のひとつでもあるし、鍵盤楽器のための美しすぎる受難曲のようでもあり、とても素人が生噛りできるようなものではありませんが、「弾ける方」にとってはこれほど挑戦しがいのある作品もないでしょうね。

2017/11/03 Fri. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

天才現る! 

最近見たテレビの音楽番組の録画から。

BS朝日の『はじめてのクラシック』で、わずか13歳の奥井紫麻(Okui Shio)さんのピアノで、グリーグのピアノ協奏曲が放送されました。
共演は小林研一郎指揮の新日本フィル。

現在モスクワ音楽院に在籍中で、ヨーロッパのオーケストラとはたびたび共演しているようですが、日本のオケとは初めてとのこと。
音楽の世界での「天才」の二文字は、実は珍しくもなんともないもので、特にソリストの場合は天才だらけと言っても過言ではないために、その演奏を聴いてみるまではマロニエ君は何ひとつ信じないようになっています。
天才といっても、天才度の番付はいろいろあるわけで、我々が求めているのはその十両クラスの天才ではなく、いってみれば何年にひとり出るかどうかの天才なんです。
そして、この奥井紫麻さんは、横綱級かどうかはともかく、かなりの上位に入る天才だと思いました。

リハーサルの様子も少し放送されましたが、これは本物と思わせるだけのオーラと、しっかりと筋の通ったぶれない音楽がそこに立ち上がっているのを忽ち感じました。
案内役の三枝氏が「ピアノを習い始めてわずか6年ほどでこれだけ弾けるんですから、嫌んなっちゃいますね」というようなコメントを述べましたが、たしかにその通りであるし、逆にいうとそれぐらいでないと真のソリストとしてはやっていけないほど強烈に狭き門であるのが演奏家の世界だろうとも思います。

身体も指も、まだ細くて華奢な子供であるし、ピアノの音も充分に出てはいないけれど、彼女の演奏に宿る集中力と、切々とこちらに訴えてくる音楽には、常人ではあり得ない表現と落ち着きがありました。特別変わったことをしているわけではないのに、心へ直に訴えくてくるものがあるのは、それが本物である故でしょう。
ただ指が正確によく回って、書かれた音符をただ追っているのではなく、音楽の意味するものがすべてこの少女の全身を通過し、その感性で翻訳されたものが我々の耳に届いてくるのですから、これは凄いと思いました。

リハーサルの様子からインタビューまで整えられていざ迎えた本番だったのに、なんたることか、いよいよ放送されたのは第1楽章のみで、それはないだろう!と心底がっかりしました。
これだけ大々的に紹介しておきながら、一曲全部も通すことなく終わり、あとはオケが展覧会の絵かなにかやっていましたが、憤慨しまくってそれ以降はまったく見る気になれませんでした。

これまでにも、天才だなんだと言われた日本人ピアニストは何人もいますが、その演奏はスカスカだったり、ピアノと格闘しているようだったり、聴いてみるなり興味を失うような人が大半です。
奥井さんは、それらとは明らかに違ったところで呼吸しているようで、落ち着きや、演奏から伝わる真実性、品位、老成など、わずか13歳にして、もっと聴いてみたいと思う存在でした。


もうひとつは、おなじみEテレの『クラシック音楽館』で、デトロイト交響楽団の演奏会がありました。
アメリカ音楽によるプログラムで、指揮はレナード・スラットキン。
この中にガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーがあり、ピアノはまたしても小曽根真氏。

やはりこの人の演奏のキレの悪さはかなり目立っていて、本来コンサートの中頃に登場する協奏曲では、アメリカ作品、ジャズピアニスト、おまけに超有名曲という要素があれば、プログラムとしてもまさに佳境に差し掛かるところではありますが、小曽根氏は笑顔は印象的だけれど、そのピアノには独特の鈍さと暗さがあり、聴けば聴くほどテンションが落ちてくるのがどうにもなりません。

とくにこの人が随所で差し込む即興は、その前後の脈絡もなければ才気も感じられないもので、いつも時間が止まったように浮いてしまっているし、ジャズの人とは思えぬほどリズム感があいまいで、妙な必死さばかりが伝わります。あちこちでテンポや強弱がコロコロ変わるのも意味不明で、オーケストラもかなり皆さんシラケた表情が多く、こういうときは外国人のほうがストレートに顔に出るんだなあと思います。

演奏前にスラットキンと小曽根氏の対談がありましたが、スラットキンは小曽根氏持ち上げるばかりだし、小曽根氏も相手がマエストロというより音楽仲間といったスタンスでしゃべっていました。
驚いたのは小曽根氏が「ラプソディ・イン・ブルーでの僕の最大のチャレンジはカデンツァ(即興のソロ)を面白くするためにいかに自分を鼓舞するか。それも無理しているように聞こえたらダメで…」というと、すかさずスラットキンが「自然でなければならない」と言葉をつなぐと「そう!」と小曽根氏。
トドメは「(自然なものでなければ)作品からかけ離れてしまうし、聴衆やバンドをほったらかしにしてしまう」とまでコメント。

これって、「すべてが逆」に聴こえてしまったマロニエ君には、自分のやっていることは「面白くて」「無理してなくて」「自然で」「作品から離れず」「聴衆やオケをほったらかしにしない」し、そのあたりはよく心得ていて、その上での演奏なんですよというのを、演奏前にしっかり言い訳していたように思えました。

2017/10/02 Mon. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

二人のブラームス 

休日には、ときどきテレビ番組の録画の整理をすることがあります。
これをしないと録画はたまる一方で、つまり見る量が録画する量に追いつかないということ。

BSプレミアムのクラシック倶楽部も例外ではなく、毎日の録画の中から実際に見るのはほんの一握りに過ぎません。
タイトルだけ見て消去するものもあるけれど、いつか見てみようとそのままにして何ヶ月も経ってしまうこともしばしばで、そんな中からある日本人著名ヴァイオリニストの演奏会の様子を見てみることに。

曲は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番と第3番。
インタビューの中でも自分にとってブラームスは最も身近に感じる存在などと語っていて、彼女にとって特別な作曲家であるらしく、実際の演奏もよく準備され弾き込まれた感じがあり、とくに味わいはないけれども普通に聴ける演奏でした。
ピアノはえらく体格のいい外国人男性で、これらの曲のピアノパートの重要性を意識した上で選ばれたピアニストという感じがあり、両者ともに、いかにもドイツ音楽っぽくガチッとまとめられた印象。

身じろぎもせずにじっと聴き入っていたわけではなく、その間お茶を呑んだり、新聞を見たり、雑用をしながらではありましたが、自分なりにちゃんとステレオから音を出して、いちおう最後まで聴いてから「消去」しました。
さて、次はと思って見たのは、同じ女性ヴァイオリニストで、こちらはジャニーヌ・ヤンセンの来日公演でした。

冒頭鳴り出したのは、なんとさっきの2曲の間を埋めるように、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番で、その偶然に驚きましたが、それ以上に驚いたのは、あまりの演奏スタンスの違いというべきか、湧き出てくる音楽のやわらかさであり自然さでした。
専門家などに言わせればどういう見解になるのかはわからないけれど、ブラームスが本来目指したのはこういう音楽だったのだろうと、マロニエ君は勝手に、しかし直感的に思いました。
少なくともさっきのような、動かない銅像みたいな演奏ではないはず。

変に頑なな気負いがなく、呼吸とともに音楽が流れ、とにかく自然でしなやか。
それでいて自己表現もちゃんと込められている。
ピアノのイタマール・ゴランも、マロニエ君はどちらかというと好きなほうのピアニストではなく、とくに合わせものでは相手を煽るようなところがあったり、ひとりで暴走するようなところがあるけれど、さっきのガチガチの演奏が耳に残っているので、比較にならないほど好ましく感じました。

さっきの日本人は、ひとことで言うと冒険も何もなく、ただ正しく振る舞おうとしているだけの演奏で、これは日本人とドイツ人の演奏者によくあるタイプという気がします。
音大の先生の指導のような演奏で、それでもブラームスをリスペクトしてはいるというのは本当だろうけれど、音楽に必要な表現や語りがなく、いかめしい骨格となにかの思い込みに囚われていてる感じ。
その結果、聴く者に音楽の楽しさも喜びも与えず、ただ勉強したブラームスの知識を頭に詰め込み、信頼できる譜面の通りにしっかり弾いている自分は正しいと思い込んでいるだけで、演奏上のいろいろな約束事を守ることに一所懸命な感じばかりが伝わります。

それがヤンセンの演奏に切り替わったとたん、堅苦しい教室から外へ出て、自然の風に吹かれて自由を得たような開放感がありました。

最近の日本の若手のヴァイオリニストには、そういう点ではずっとしなやかに音楽に向き合う人も出てきているようだけれど、少し前の世代までの日本人の演奏家には、どんなに大成してもその演奏にはお稽古の延長線上のような、独特の「重さ」と「楽しくなさ」がついてまわる気がします。
せっかく美しい作品を奏でているのに、いかつい表情ばかりが前に出て、聴いていて美しい音楽に自然に身を委ねるということが、できないというか知らないんだろうという気がします。

テクニックも充分で、かなりいいところまで行っているのだけれど、悲しいかなネイティブの発音には敵わないみたいな、努力と汗にまみれた日本人臭がするのは、なんだか切ない気分になりました。
テクニック上では「脱力」ということがよく言われますが、それよりももっと大事なのは、音楽に精通した上で気持ちが脱力することではないかと思います。

マロニエ君はブラームスのヴァイオリン・ソナタは第1番がとくに好きだったけれど、演奏のせいか、今は第2番が一番好きな気がしてきました。

2017/09/07 Thu. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit