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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

有名曲を並べると 

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。

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2018/10/14 Sun. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

再録願望 

クラシック倶楽部の放送で、最近のエリザベト・レオンスカヤの演奏に好印象をもったので、機会があればシューベルトなどを聴いてみたいと書いていましたが、そんな折も折、CD店を覗いているとまるでこちらの意向を察してくれたかのように、彼女のシューベルトのBOXセットがワゴンのセール品の中に紛れ込んでいるのを発見して即購入。

WARNER CLASSICSによる6枚組で、2種の4つの即興曲、後期をすべて含む7つのソナタ、さすらい人幻想曲、ピアノ五重奏「ます」というもので、まあまあ主要な作品は押さえられている感じです。
しかも、価格は(正確に忘れましたが)たしか千円代前半ぐらいの、買う側にとっては大変ありがたい反面、演奏者には申し訳ないような破格値でした。

内容はやはり誠実一途な演奏で、どれを聴いても一貫した節度と厳しさと信頼感にあふれており、レオンスカヤのピアニストとしての良識・見識は疑いのないものでした。
ただ、どれもまだ現在にくらべると若い頃の演奏で、録音年を確認したところ1985年〜1997年の演奏で、一番新しいものでも21年、古いものは33年前の演奏ということになります。
もちろんそれでも満足の行くものではありましたが、最近のような表現の幅と自由さみたいなものは少なめで、やや硬い感じもあり、あえて欲をいわせてもらうなら、もうすこし力を抜いた微笑みがほしいというのはありました。

以前からマロニエ君はこのレオンスカヤの真面目一筋みたいな臭いの強すぎる演奏が苦手でしたが、当然ながらそれは曲にもよるわけで、シューベルトにはその折り目正しい演奏スタイルが向いていて、彼女のいい面がストレートに反映できる作品だったといえるでしょう。

そういえば吉田秀和氏が、ある著書の中でホロヴィッツのシューベルトに触れていたのを思い出します。
タイトルも忘れたし、うろ覚えですが、おおよその意味はホロヴィッツが弾くシューベルトを「あまりに作為的、香水がききすぎた感じ」という感じに表現し、「自分はもっとやさしみのある、正確さをもったシューベルトのほうが好み」といったようなことが書かれていたよう記憶しています。

これはまったく同感で、シューベルトというのはやっぱりそういう端正な演奏を好む音楽だと思うし、これをあまりに好き勝手にやられるとシューベルトの世界が崩れてしまいます。
かといって、あまりに細かい意味付けとハイクオリティをやり過ぎたのが内田光子で、全方位に意識を張りつめすぎた結果、聴くほうも強烈な疲労感に襲われ、最後は酸欠状態になりそうでした。

レオンスカヤにはそんな緊迫性はありませんが、もう少し丸く自由になっていただけたらいいと思われ、できることなら今のレオンスカヤにシューベルトの主要作品だけは再録してほしいと強く思います。

再録といえば、やはり評論家の宇野功芳氏は内田光子にモーツァルトのピアノソナタを再録してほしいと書かれていて、これまた激しく同感ですが、どうもその予定はないのだとか。

このように再録してほしいピアニストと作品の組み合わせはいくつかあるのに、なかなかそうはならない一方で、もういいよ!と思うようなものを、しつこく何度も入れる懲りない人もいたりで、どうも聴き手の要求と現実は噛み合っているとは言い難い気がします。
2018/06/28 Thu. 02:10 | trackback: 0 | comment: -- | edit

キーシンのベートーヴェン 

キーシン初のベートーヴェンのアルバムがドイツ・グラモフォンから昨年発売されましたが、今年になって購入してしばらく聴いてみました。

ドイツ・グラモフォンからは、まだ少年の頃にシューベルのさすらい人などが入ったアルバムや、カラヤンとやったチャイコフスキーの協奏曲などが出ていただけで、その後はRCAなどからリリースされていましたから、久しぶりにこのレーベルに復帰したということになるのでしょうか。

内容はソナタが第3番、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」、第32番の5曲と、創作主題による32の変奏曲を加えたもので、2枚組となっています。

ただしスタジオ録音ではなく、すべてライブ録音。
しかも一夜のコンサート、もしくは一連のコンサートではなく、10年間にわたるライブ音源の中からかき集めたようなもの。
本人の説明では「私にとってのライブ録音は常にスタジオ録音を上回っています。」ということもあるようで、言葉通りに受け取ればより良い演奏をCDとして残すため、本人の希望を採り入れたということになるのかもしれません。

順不同でソウル/ウィーン/ニューヨーク/アムステルダム/ヴェルヴィエ/モンペリエという具合に、すべてが別の場所で収録されたもので、こういうアルバムの作り方は、現役ピアニストとしては珍しいような気もしました。

これはこれで悪いとは思わないけれど、強いていうなら40代という体力的にも充実しきった年齢にありながら、ひとつのアルバムの中の演奏に10年もの開きがあるというのは、演奏家にはその時期の演奏というものが意識/無意識にかかわらずあるので、できるならもう少し短い期間に圧縮して欲しいという気持ちもないではありません。

その点で云うとポリーニが始めに後期のソナタを入れていらい、その後数十年間をかけてベートーヴェンのソナタ全集を作り上げたのも、あまりに演奏の時期が広がりすぎてしまった結果、全集というものの性質を備えているかどうかさえ疑問に感じました。
いっぽうで、技術と暗譜力にものをいわせて、あまりに一気に全曲録音などしてしまうのも能力自慢と作品軽視みたいで好きではないけれど、できればほどほどのまとまった期間の中で弾いて欲しいという思いがあるのも正直なところです。

そんなことを思いながら、要はスピーカーからからどんな演奏が聴こえてくるのかということに集中したいと思いました。

ピアニストにとってベートーヴェンのソナタは避けては通れぬレパートリーではあるけれど、キーシンとベートーヴェンの相性は必ずしも良くはないと個人的には感じていて、実際聴いてみても、どの曲にも常にちょっとした齟齬というか、パズルのピースがわずかに噛み合っていない感じをやはり受けてしまいました。

暑苦しいほどの壮絶な人生がそのまま作品となっているベートーヴェンと、円熟の時期にさしかかっているとはいえもともと清純無垢な天使の化身のようなキーシンの、叙情そのもののようなピアノには、本質的に相容れないものがあるように感じます。

むろんキーシンらしく、極めて用意周到で一瞬もゆるがせにしない気品あふれる美しい演奏であるのは間違いないし、演奏クオリティの高さとピアニストとしての際立った誠実さを感じるのですが、その結果として演奏があまりに完璧な陶器のようにつややかで、ピアニストと作品の間に横たわる決して合流しない溝のようなものがあることを見てしまう気がしました。

ベートーヴェン的ではない天才が、努力して作曲家に近づこうとしているけれど、それが本質的にしっくりはまらない面があるのを聴いている側は感じるのがもどかしい。

初期のものと最後のソナタではどんな違いがあるのかとも期待したのですが、少なくともマロニエ君の耳には、初期のそれがそれほど初々しくも聴こえなかったし、中期の熱情や告別も含めて、どれも同じような調子に聞こえました。
というか、こういう演奏からは、そういう聴き分けはむしろ難しくなると思われます。

それはどれを弾いてもキーシンが前に出てしまうということかもしれませんが、少なくともベートーヴェンを満喫したという気分にはなれませんでした。
個人的に一番好ましく感じたのは自作の主題による変奏曲で、キーシンらしい破綻というものを知らない嬉々としたピアニズムがここでは遺憾なく発揮されていたと思います。
あまりに深沈として大真面目になっているときより、詩情や感受性の命じるままに嬉々として弾いている時のほうが、キーシンにはずっと似合っているとマロニエ君は思います。

2018/06/06 Wed. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

遅咲きの名花 

前に書いたポゴレリチに続くようですが、これまであまり積極的に聴かないピアニストにエリザベート・レオンスカヤがありました。

非常に真面目な、これぞ正統派という演奏をする人ですが、やたらときっちりして遊びや即興性が感じられません。
少なくともマロニエ君の耳には音楽の、あるいは演奏そのもののワクワク感とか面白さがなく、その演奏は「正しさ」みたいなものがプンプンと鼻につくようでした。

音楽は他の芸術と違って、とくに演奏芸術の場合、様々な約束事の上に成り立っているものなので、自由気ままという訳にはいかないし、全体の解釈はもちろん、個々の楽節や小さなフレーズに至るまで決まりとか法則があるといえばあるといえます。
とはいっても、あまりにその決まりずくめの演奏をされても、音楽を聴くことによる精神の刺激や快楽までも抑えこまれ、むしろ否定されているような時もあって、音楽を聴いているのにこんこんとお説教をされているようで、そういうことが苦手でずっと敬遠してきたピアニストです。

「こういうやり方もあるかも…」というのではなく、「こうしかないのです」と断定されているようでした。
ひとことで言うなら、あまりに先生臭が強い演奏でした…ある時までは。

ところが、いつだったか、何を弾いたかも忘れましたが、近年の来日公演の様子を見る限りこのイメージがずいぶん違ってきたようで、演奏に幅が出て、柔らかさや温もりのようなものが以前より格段に増しているように感じられたのです。
お歳を重ねられて少し寛容になられたのか、お若いころ突っ張っていたものが少しほどけてきたのか、理由は知る由もないけれど、味わいのある馥郁とした演奏をされていると感じたのでした。

もともとがかっちりとした基本のある正統派の人だけに、そこにちょっとした柔和さとか自然な呼吸感などが加わってくると、たちまちそこに色が加わり、蕾が花へと開いたように感じました。

そんな印象の修正が少しかかっていたところに、レオンスカヤの新譜が目に止まりました。
チャイコフスキーとショスタコーヴィチのソナタ、ラフマニノフの前奏曲などが収められており、曲の珍しさもあって迷いなく購入。

果たして、期待どおりの素晴らしいCDでした。
ショスタコーヴィチのソナタ第2番はほとんど馴染みのない曲でしたが、どういう作品であるかがよくわかる演奏であったし、ラフマニノフも見事なしっかりした演奏でした。
しかし、このCDのメインはなんといっても冒頭に収められたチャイコフスキーのソナタだと思います。
数あるピアノソナタの中でも、チャイコフスキーのそれは他の作品ほど有名ではないけれど「グランドソナタ」の名を持つ勇壮な大曲で、真っ先に思い出すのはリヒテルの演奏。冒頭ト長調の両手による和音の連続が強靭なことこの上なく、軍隊の行進のように始まり、あとには随所にチャイコフスキーらしさが感じられる作品。
全体を通しても、大リヒテルらしさ満載の、完全にこの作品を手中に収めた上での燃焼しきった演奏で、昔ずいぶん聴いた記憶があります。
しかし、クセの強い作品でもあるのか一般的なレパートリーとは言いがたく、実際の演奏機会は殆どないし、日本人も幾人かおられるかもしれませんが、パッと思い出すところではロシアものを得意とする上原彩子さんがCDに入れているぐらい。
上原さんはむろんリヒテルの強靭さはないけれど、確かな技巧と、ねっとりとした情念でこの大曲を弾き切っていました。

その点でレオンスカヤは、その二人ともまったく違って、必要以上に気負うこともせず、それでいて全体としてはまったく隙のないメリハリにあふれた演奏で、情緒のバランスのとれた、このソナタの理想的な演奏のひとつに踊り出たように思いました。
とくに終楽章などは傑作『偉大な芸術家の思い出に』を髣髴とさせる高揚感もあり、価値の高いCDという気がしています。

長いことどちらかというと避けてきたレオンスカヤですが、こういう演奏を耳にすると、少し他の演奏(たとえばシューベルトのソナタなど)も聴いてみたい気になってきて、こういう変化はマロニエ君にはめったにあることではありません。
前回のポゴレリチのように、だいたい天才というものは若いころに完成されているものだし、凡人とて人間の本質なんてそう変わるものでもないので、昔の印象というのは9割以上当たっているし変わらないものですが、たまにこういうことが起きるのは嬉しいことです。

2018/04/11 Wed. 02:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れていたCD 

4年ぐらい前だったか、ユリアンナ・アヴデーエワが福岡でリサイタルをおこなったとき、一度は聴いておくべき人だと思って会場へ足を運んだけれど、その時はまるで遊びのない、カチカチのつまらない演奏という印象しか得られませんでした。

これは、今にして思えば、もちろん彼女の演奏そのものの要素は大きいものの、急に決まった演奏会だったらしく通常のホール(これも決して良い音響ではない)がどこもふさがっていて、福岡国際会議場のメインホールという、要は一番大きな学会などに使われる会場でおこなわれたもので、音響はまったく広がりがなく音楽的ではないし、ピアノはいちおうこの会議場が持っている新しいスタインウェイDではあるけれど、ふだん誰からも弾かれずに年中眠っているようなピアノなので、急にステージに引っ張りだされても本領が発揮できなかったこともあるのか、そういうことも重なって感銘には結びつかないものになってしまったのだと思います。

このとき、ロビーではCDが売られていて、終演後にサインをしてくれるというので、ミーハー心から一枚買い求めて列に並び、アヴデーエワさんからサインをしていただきました。
演奏終了直後ということもあり、お顔はいささか上気した感じが残りつつ、演奏中はアップにしていた髪を解いて垂らし、澄んだとてもきれいな目をされていたのが印象的でした。

購入したのは、アヴデーエワが2010年12月、すなわち彼女がショパンコンクールに優勝した直後の来日公演からのライブCD。
これは通常の彼女のCDとは違い、東日本復興支援チャリティCDとして招聘元の梶本音楽事務所がらみで発売されたもので、曲目はオールショパン、幻想ポロネーズ、ソナタ第2番、スケルツォ第4番、英雄ポロネーズというもの。

アヴデーエワは今どきにしては珍しく器の大きい人だという印象はあるものの、映像で見てもそれほど自分好みのピアニストではなかったし、とくに福岡で聴いたリサイタルでの印象が決定的となって、このCDはそのままCDラックに放り込まれ、それっきりになってしまいました。

つい最近、べつのCDを探すべく懐中電灯で照らしながら棚を探していると、ふとこのCDが目に止まりました。
そのときは、購入した経緯さえすっかり忘れていて、ケースはセロファンの袋に入ったままで、中を開けるとディスクに直筆のサインがあることで、「ん?」と思い、ようやくご当人からサインしていただいたことが記憶に蘇りました。
これほど、きれいさっぱり忘れてしまっている自分にも呆れましたが。

で、初めて聴いてみたそのCDですが、なかなかに立派な演奏で、個人的な評価がかなり挽回しました。
およそ女性ピアニスト風な演奏とは言いがたいもので、すみずみまで徹底的に考えぬかれた知的な演奏で、どういう演奏をするかというプランと土台がしっかりあり、それに沿って着実に実際の演奏として音に結実させることのできる、大きな能力を持った方だということがわかりました。
テクニックも一切破綻がなく、とてつもないものが備わっているけれど、それを誇示するようなところはいささかもなく、あくまでも音楽表現の手段としての技巧であるという姿勢も徹底しています。

解釈も表現も真っ当すぎるほど真っ当ですが、あまりに設計図通りに進められる建築のようで、聴きようによっては面白味のない優等生的な演奏に聞こえてしまうきらいもありますが、CDとして音だけに集中して聴いてみると、ただお堅いばかりの演奏でもないことが次第にわかってきました。
なによりも感心させられるのは、その驚くべき演奏クオリティの高さと、作品をありのまま音にするための謙虚な解釈でしょうか。

どれもが迷いなく構成された第一級品と呼ぶにふさわしい、それは見事な演奏でした。

このCDに収められた演奏会では、どのような順番で演奏されたか、あるいは他にどんな曲があったのかは知る由もありませんが、最後の英雄ポロネーズだけは他の3曲とはわずかに異なっており、おそらくアンコールではないかと思います。

なぜなら、この曲だけ明らかに、彼女の厳しいコントロールの軛がほんの少し緩んで、生身の人間の息づかいにあふれた熱い演奏だったからです。
自由と熱気と勢いがあって、他では聴いたことがないようなフレーズやアーティキュレーションの伸び縮み、あるいは次へのたたみかけるようなつなぎが随所にあって、しかも本体はガッチリしたスタイルであるのに、ときおり勢いが先行してほんのわずかに歪んだり撓んだりする様はゾクゾクするようで、これには思わず聴き惚れてしまいました。

英雄ポロネーズは名演の多い曲だと思うけれど、アヴデーエワのこのときの演奏はマロニエ君にとって、まさに最上のひとつであることは間違いありません。
この一曲だけでもこのCDを買った価値があり、数年の時を経て、思いがけない嬉しさですでに何回も繰り返し聴いており、しばらくこの興奮から逃れられそうにありません。


2017/12/13 Wed. 02:15 | trackback: 0 | comment: -- | edit

バッハ-CDと演奏会 

最近買ったCDから。
ディーナ・ウゴルスカヤによる、バッハの平均律全曲。

その名から想像されるとおり、ウゴルスカヤはあのアナトゥール・ウゴルスキのお嬢さんで、ジャケットの美しい顔立ちの中にも、偉大な父であるウゴルスキに通じる目鼻立ちをしており、親子二代でこれだけのピアニストになるのは大したものだなあとまずは感心させられます。

演奏は大変良く練りこまれた真摯さと深い見識を感じさせるもので、父親のような計り知れない器の大きさはないけれど、心の深いところで音楽する人であるのは一聴しただけでもすぐに伝わってきます。
技巧も立派で一切の危なげもく、ぶれのない終始一貫した黒光りがするような落ち着いたバッハ。

お年はいくつかわからないけれど、ジャケットの写真をみても、まだ充分に若く、それにしてはずいぶん大人びた老成した音楽を聴かせる人だなあとは思うけれど、でも父親がウゴルスキで、その空気の中で育ったと思えばまあ納得です。
同年代のピアニストたちが、今風のカジュアルでスポーティな演奏をお手軽に繰り広げる中、こういうずっしりとした演奏をするピアニストはむしろ貴重な存在かもしれません。

そのずっしり感の中にはいうまでもなくロシアピアニズムが息づいているけれど、むかしの重戦車のようなあれではなく、しなやかさも併せ持っているところが世代を感じさせるし、ウゴルスキがドイツに亡命したことにも関連があるのか、バッハの国で多くの時間を呼吸した人らしい自然さを感じさせるところも充分ある。
ではドイツ人的かといえば…そうではなく、やはり根底にロシアの血脈を感じさせる演奏でした。

ただ、現代の基準で聴くならやや暗くて重々しいところがなきにしもあらずで、これもあのお父さんの演奏を思い起こせば十分納得できるものではありますが、個人的にはもう少し「軽さ」があるほうが現代のバッハとしては馴染みやすいかもしれません。
重々しさは演奏時間にも反映されているようで、第2巻のほうは通常大抵のピアニストがCD2枚内に収まるように弾いてしまうのに対し、ウゴルスカヤは3枚になってしまっています。

ロシアからドイツに移住してバッハを弾く人といえばなんといってもコロリオフですが、彼の演奏には軽やかさと洗練がそなわっており、そのあたりがウゴルスカヤの課題だろうと思いました。


バッハといえば、福岡でバッハのクラヴィーア作品全曲演奏に挑戦している管谷怜子さんの第10回目の演奏会がFFGホール(旧福岡銀行大ホール)で行われました。
今回はフランス組曲第4番、トッカータBWV912、ブゾーニ編曲のシャコンヌ、さらに後半は弦楽五重奏を相手にピアノ協奏曲の第2番ホ長調と第5番ヘ短調が演奏されました。

いつもながらの見事な演奏で、折り目正しさの中に管谷さんならではの温かな情感が随所に息づき、とりわけ緩徐部分での繊細かつ深い歌い込みはこのピアニストならではの世界が垣間見られるものでした。
後半のコンチェルトでは溌剌とした活気が印象的で、いかなる場合も連なる音粒が美しく、いかようにも転がし続けることのできる安定した技量にも瞠目させられました。

面白かったのはアンコールで、通常のテンポで演奏されたヘ短調の協奏曲の第3楽章を、もっと速いテンポで演奏してみるとどうなるかという「実験」と称して、2~3割ぐらいアップしたテンポで弾かれたことでした。
テンポが変わると、聴く側も、曲を捉える単位というか区切りのようなものが変化して、同じ曲ではあるけれど、まったく違った感性の世界に入っていくようでした。

どんなにテンポを上げても、管谷さんの演奏はまったく乱れることなく、指は自在に駆けまわり、美しさがいささかも損なわれないのは見事というほかありません。
また、同じ曲をテンポを変えて聴かせるという発想自体が、まるでグールドあたりがやりそうな試みのようで、とりわけバッハにはそれが面白く存分に楽しめました。

ただ表向きの演奏をするだけでなく、新しい試みや実験を聴衆に披露することも非常に大切なことだと認識させられました。


2017/11/30 Thu. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

流行作家 

現在お付き合いのあるピアノ愛好者の中には、いろいろな変わり種がおられるというか、みなさんすこぶる個性的で、何らかのかたちで独自の世界や趣向を持っておられます。

そんな中のひとりは、音楽歴史上、無名とまではいわないものの、一般的にはそれほど知られていないマイナーな作曲家の作品に強い興味がおありで、CDはもちろん楽譜まで取り寄せて自分で弾いてみて、それらの作風や特徴を通じながら、音楽の歴史や変遷を独自に楽しんでいる人がおられます。

先日久しぶりに我が家にいらっしゃいましたが、その際にフンメルのピアノ協奏曲を中心とするCDのコピーを6枚ほどプレゼントしていただきました。
フンメルはベートーヴェンよりもわずかに年下であるものの、ほぼ同時代を作曲家兼ピアニストとして生きた人で、当時はかなりの人気を博した音楽家のようです。

その知人の「おもしろいですよ」という言葉のとおり、どの曲を鳴らしてみても、初めて聞くのに「あれ?あれれ?」…随所になんか聞いた覚えのあるようなメロディや和声や、もっというなら全体の調子とか作風が、モーツァルトやショパンをストレートに連想させるようなものばかりでした。

モーツァルトの生きた時代までは、作曲家というか芸術家はおしなべて貴族お抱えの身分であったのが、市民社会の勃興によって音楽がより広い大衆の娯楽となり、一気に自由を得、裾野を広げます。一方でベートーヴェンなどが純粋芸術としての作曲を始めたというのもこの時期からで、その手の話はよく耳にしますね。

市民社会ともなると、現代にも通じる「人気」というものが重要不可欠の要素となり、大衆を喜ばせるための工夫やニーズが大いに取り込まれていることがわかります。
現代のように音楽市場が広範ではないためか、当時の作曲家のはそれ以前の楽曲の作風をひきずりながら、娯楽性や人々の好みを念頭に置きながら作曲をしていったのだろうと思われるフシが多々あって、純粋に音楽を聞くというよりも、当時の時代背景や大衆娯楽の有り様を覗き見るような楽しさがありました。

とくにモーツァルトのピアノ協奏曲からのパクリ(といって悪ければ流用?)は思わず笑ってしまうほどで、現代で考えればよくぞこんな手の込んだ仕事を真面目にやったもんだと呆れつつ、もしかしたら今なら著作権法にひっかかるのでは?というほど危ない箇所もあり、むかしはおおらかな時代であったことも偲ばれます。
こういう曲はあまり深く考えず、笑って聴いておけばいいのだと思いました。

どの曲も調子が良くてきれいで、すぐに耳に馴染んで楽しめるもので、それが当時の大衆の要求だったんでしょう。
おそらくは、この手の曲が次々にファッションのように作られては上演され、言い換えるなら消費され、忘れられていったのだろうと思うと、フンメルの協奏曲などはそれでもなんとかこうしてCDに録音されるぶん、かろうじて消えずに済んだ作品といえるかもしれません。

すっかり忘れていましたが、マロニエ君自身も知られざるロマン派のピアノ協奏曲集みたいな、ボックスCDを購入したことがありましたが、なんか二~三流品を集めて詰め合わせにしたようで、たしか途中で飽きてしまって全部は聴かずにどこかに放ってあると思います。
それほど、この時代(18世紀末から19世紀)はこぞってこういう作品がおびただしい数生み出されたのかもしれません。

それから思えば、現代の私たちに馴染みのあるクラシックの作品は、そんな膨大な作品の中から厳選され淘汰されて、時代の移り変わりを耐え抜いて奇跡的に生き残った、まさに音楽歴史上最高ランクの遺産なんだなあとも思いました。


2017/11/22 Wed. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

自然美 

いまさら改まって言うことでもないけれど、コンクールというものは好きではなく、これを絶対視するなんてことは逆立ちしてもないマロニエ君ですが、それでも、以前は一部の優勝者や上位入賞者には高い関心をもっていた時期があったことも事実でした。
つらつら思うに、これは過去にポリーニやアルゲリッチという、それまでのピアノ演奏の基準や価値観を変えてしまうような、とてつもない傑物をショパンコンクールが排出した…という歴史的事実があったからだと思います。

でも、コンクールというものを通じて突如発掘される、そんな世紀の大発見なんてそういつまでも続くことはなく、結局はこのふたりだけだったと言ってしまってもいいかもしれません。
いうなればたまたま見つかったツタンカーメンみたいなもので、その後これといった同様の発見があったかというと、申し訳ないけれどマロニエ君はそのようには思えないのです。

それに比例して(かどうかはわからないけれど)、こちらも年々無関心に拍車がかかり、最近は世にいう世界的❍大コンクールの覇者であっても、ほとんど興味は持てなくまりました。
理由は至ってシンプル、いいと思わないから。

おまけに年を追うごとに出場者側もコンクール対策が進み、個性を排し、点数の取れる演奏を徹底的に身に付けてやってくるのですから、そこで突出した才能とか、思いもかけないような発見なんてあるはずがない。
まさに有名一流大学の受験対策と同じで、大学と違うのはコンクールはひとりもしくは上位数人を選ぶだけ。
それを、音楽ファンが心底ありがたがって待っているわけでもなんでもないのに、コンクールで箔をつけるという傾向にはまったくブレーキが掛かりません。それほど演奏家を目指す多くの若者が世に出ることを急ぎ、ギャラを稼げること、チケットが売れること、突き詰めれば有名になって食っていけることを性急に目指していて、コンクールはそのための最短ルートとしての便利機能としか思えないのです。
一攫千金といえば言い過ぎでしょうけれど、一夜にしてスターを目指すというのは、精神においては大差ないと思います。

というわけで、正直いうと、現在マロニエ君個人がかろうじて興味をもっているのは、唯一ショパンコンクールだけで、それも結果(優勝者が優勝者として本当にふさわしい人であるかどうか)に納得の行くことはめったにありません。

この人こそ第1位と思う人が2位であることは何度もありましたが、前回2位になったシャルル・リシャール=アムランの『ケベック・ライヴ』というCDを買ったところ、これがなかなかの出来栄えでちょっと驚きました。

曲目はベートーヴェンのロンドop.51-1/2、エネスコの組曲op.10、ショパンのバラード第3番/ノクターンop.55-2/序奏とロンドop.16/英雄ポロネーズというもの。
わけても、個人的にはエネスコの組曲がダントツに素晴らしいと思いました。
もともとエネスコの音楽というのはマロニエ君にとっては、どこか掴みどころのない印象があって、もう一つなじめないでいるところがあったのですが、それがリシャール=アムランの手にかかると美しく幻想的な絵画のようなイメージが滾々と湧き出てくるようで、この23分ほどの曲のためだけにでもこのCDを買った価値があったと思えるものでした。

個人的に馴染みのない曲であったこともあり、新鮮さも手伝って良い印象を抱くことに寄与した感も否めませんが、開始早々、R.シュトラウスかと思うような華麗な幕開けでしたし、その後もさまざまな情景に応じた適材適所の表現やテクニックを駆使しながら見事に弾き進められました。

リシャール=アムランという人は、音楽的センスもあるし、なにより演奏が真摯で、世俗的な野心がほとばしっている感じがなく、自分のペースで信頼に足るピアノを弾く人だというのが率直なところ。
真摯とか信頼などと書くと、解釈重視のこじんまりした地味な演奏をする人のようですが、決してそうではなく、どれほど率直に思いのたけをピアノにぶつけても、それが決して作品の音楽的道義を外れることがない点がこの人の強みというべきか、それこそが彼の個性なのだと思いました。

どの作品を聞いても、音楽的な作法の上にきちんと沿っているのに、それがちっとも窮屈な感じもしないし、むしろ演奏者と作品が最も理想的なかたちで結びついている印象を受けるあたりは、なかなか清々しいことだと思わずにはいられません。

「彼の自然」と「作品の自然」がなにも喧嘩せず、絶妙のバランスで手を結んでいるために、演奏を聴くにも作品を聴くにも、それは聴き手しだいでどうにでもなるという任意性が広くとられているようで、密度の高い演奏に伴うストレスなどもいっさい背負わせない点も、リシャール=アムラン氏の人柄が出ているのかもしれません。
なかなか気持ちのいいピアニストだと感心しました。

2017/11/11 Sat. 19:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

中国の才能 

最近、YouTubeでたまたま知ることとなったピアニストにジョージ・リーという若者がいます。

1995年生まれということですから、現在でも21~22才という若さです。
ボストン生まれのようですが、その名前や容姿からもわかるように明らかに中国系のピアニスト。

YouTubeで見たいくつかの演奏は、まだほんの子供のときのものでしたが、おかっぱ頭にメガネを掛けて、全身をうねらすように曲の波に乗っていて一心不乱に演奏している姿が印象的でしたし、演奏そのものも抑揚や流れがあって好印象でした。
さらに成長して思春期ぐらいになった映像では、その演奏はより精度が増しており、これはもう疑いなく天才のひとりだということがわかりました。
呆れるばかりに指が回って、どんな難所でもらくらくと技巧が乗り越えていくテクニックにも目を丸くしました。

きっとこれから名だたるコンクールなどに出場して、上位入賞を果たすのだろうと思っていたら、すでに2015年のチャイコフスキーコンクールに出場し、まるで格闘家のようなゲニューシャスと2位を分かち合っていることを知り、それはそれは…と納得。

少なくともラン・ランなどより音楽は柔軟で密度があり、音にも一定の重みがあるけれど、今のピアニストに求められるものは音楽性や解釈だけでなく、
チケットの売れるタレント性みたいなものが重要視されるようなので、その点を含めると彼がどのへんまで行くのかわかりませんが、とにかく中国人もしくは中国系のピアニストの「大躍進」は目を見張るものがあります。

で、CDをまとめ買いする際に──ずいぶん迷ったあげく──このジョージ・リーのアルバムを1枚加えてしまいました。

昨年ロシアのサンクトペテルブルクでライブ録音されたもので、ハイドンのソナタロ短調、ショパンのソナタNo.2、ラフマニノフのコレルリ変奏曲、リストのコンソレーションとハンガリー狂詩曲No.2といういかにも系のプログラム。

個人的には冒頭のハイドンが好ましく思えたものの、全体としては印象に残るほどの個性はなく、どれもが平均して真っ当に準備され、クセもキズもない中であざやかに弾き通された演奏という感じでした。
並外れた才能とテクニックがあって、一流の指導者から高度な教育を受け続けることを怠っていなければ、きっとこんなふうになるだろうという想像の枠内に収まった演奏で、彼の音楽的天分というか個性という点に関して言うなら、それは超弩級のものではなく、あくまでも「並」だというのがマロニエ君から見ての正直なところ。
それでも天才であることに間違いはないのですが。

ショパンでは本来求められるセンスというよりはコンクール向きだし、リストのハンガリー狂詩曲No.2などは、ちょっとやり過ぎな感じ。

中国系ピアニスト全般に共通して感じるのは、音楽に憂いや内面の複雑なものが湧き上がってくるところがなく、表現がどうしても表層的で奥行きがないことでしょうか。
何を弾かせてもあっけらかんとしていて、どうしてもテクニック主導になっているし、途中までせっかくいい感じで進んできたものが、例えばスタッカートに差し掛かると、いきなりトランポリンみたいなスタッカートになって曲調が崩れたりするのが、聴いていて非常に残念な気がします。
表現も陰翳に満ちたルバートなどとは違って、歌謡的なフレーズの緩急のみで処理されてしまう。

もうひとつ特徴的なのが彼らの「間」の取り方。
超絶技巧の難しいパッセージなどでは問題ないけれど、この「間」が前後を隔てたり対照をなしたり橋渡しをしたり、さまざまな意味を成すところになると、多くが大仰な京劇のようになり、芝居がかった感じになってしまうことが耳につきます。
しかも、我々に比べてもその民族性の違いは甚だ大きく、大胆なまでに中華風になってしまうのがいつもながらのパターンで、これを感じると一気に興味を失ってしまいます。

これをあまり感じず、いい意味での中国風でないピアニストとしてある種の洗練を感じていたのは、唯一ニュウニュウでしたが、このところめっきり彼の動静を聞かなくなりました。

2017/10/25 Wed. 02:16 | trackback: 0 | comment: -- | edit

マックス・レーガー 

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの作曲家、マックス・レーガーのピアノ作品全集という珍しいものがあることを知り、さっそくCDを購入してみました。

マロニエ君はレーガーの作品といえば、バッハの主題による変奏曲とフーガop.81と、ブランデンブルク協奏曲全曲のピアノ連弾への編曲しか知らず、op.81はなかなか聴き応えのある大曲であることから、他にどんな作品を残したのかという興味がありました。
ウィキペディアによれば、徴兵され従軍、除隊したのが1898年で20世紀幕開けの直前だったようですが、1916年に43歳の若さで世を去るため、彼の音楽活動は20年にも満たない短いものだったようです。

詳しい理由はわからないけれど、オペラと交響曲はいっさい手がけず、主な作品は室内楽や器楽曲、管弦楽曲や声楽曲などで、とくに目を引くのは変奏曲やフーガの作品が多いこと。

CDは12枚組からなるピアノソロ作品のボックスセットですが、そこにはソナタなどは見当たらず、まとまった数の小品群からなる作品集が多いことが目を引くし、あとは前奏曲とフーガのたぐい、さらには変奏曲などが目につきます。
ヴァイオリンソナタ9曲、チェロソナタでさえ4曲も書いているのに、ピアニストでもあったレーガーにピアノソナタがないのは謎です。
1枚を数回ずつ12枚を聴き通すのに数日を要しましたが、まあなんとなく全体像は自分なり掴めた気がします。

レーガー自身も自分をドイツ三大Bの正当な後継者として位置づけることが好きだったようで、さらにはリストやワーグナーの影響、ブルックナー、グリーグ、R.シュトラウスへの傾斜もあることを認めていたようで、それらが概ね納得できる音楽でした。
作品集が多いのはブラームスやシューマンのようでもあるし、変奏曲はベートヴェン、フーガはバッハを想起させますが、それだけドイツ音楽の先達に対するリスペクトはかなり強い作曲家だったようです。

どれも特に耳に心地よいわけでもなければ、難解で放り出したくなるようなものでもなく、そのちょうど中間という感じですが、この時代の特徴とでもいうべきか…作品は全体に暗く重く、耳あたりの良い軽妙な叙情性といったような要素などは見当たりません。
ウィキペディアによれば「晦渋な作風という意味で共通点のあるブゾーニとは、互いに親しい間柄であった。」とあって、まさになるほど!と納得させられる印象でした。ただし、個人的にはブゾーニの作品のほうがはるかに異端的でグロテスクでもあるとは思いますが。

12枚のCDの最後に当たるVol.12に「バッハの主題による変奏曲とフーガop.81」があり、さすがにここに到達した時は耳にある程度馴染んでいるぶんホッともしたし、やはりよくできた作品で、後世に残るに値するだなあという実感がありました。

他の作品の中にも、なんともいえず心に染みこんでくるような部分とか、はっとする瞬間などは随所に散見され、並の作曲家でないことはよくわかりましたが、全体としてレーガーの作風はこうだという明快な個性のようなものには立ち至っていないような気がしたのも事実です。

これだけのものを生み出すことのできる並外れた才能があっても、その大半は後世まで演奏され続けることなく、ほとんどが埋もれた状態になるのが現実であり、それを思うと、単純に演奏される頻度が高い作品=傑作というわけではないけれども、それでも我々の耳に名曲として残っている作品(あるいは作曲家)はいかに選りすぐりのものであるかという厳しい現実を思わないではいられません。

余談ながら、この12枚からなる全集、演奏はドイツ出身のピアニスト、マルクス・ベッカーで、1995-2000年にかけて録音されているようでした。
どういうピアニストかは事前には知らない人だったけれど、まったく安定した危なげのない技巧と、説明文の中にも「演奏難易度の非常に高い作品の数々を終始完成度の高い演奏…」とあるのはマロニエ君も同感で、高い信頼感をもって聴き進めることができました。
これが格落ちのピアニストであれば、印象もずいぶん違うものになったことだろうと思います。

ちなみにボックスの表記を見て戸惑ったのは、作曲家がマックス・レーガー(Max Reger)にあるのに対して、ピアニストはマルクス・ベッカー(Markus Becker)と、響きも字面も酷似しており、はじめどっちがどうなのか、あれっあれっと戸惑ってしまいました。

マルクス・ベッカー氏もまさか名前が似ているからマックス・レーガーの全集を作り上げたわけではないと思いますが、奇妙な符合です。
あるいはドイツ人の発音では全然そんなことはないのだろうか…。

いずれにしろ、作曲家であれピアニストであれ、音楽におけるドイツの厚みというものをまざまざと見せつけられたようでした。


2017/10/16 Mon. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit