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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

忘れていたCD 

4年ぐらい前だったか、ユリアンナ・アヴデーエワが福岡でリサイタルをおこなったとき、一度は聴いておくべき人だと思って会場へ足を運んだけれど、その時はまるで遊びのない、カチカチのつまらない演奏という印象しか得られませんでした。

これは、今にして思えば、もちろん彼女の演奏そのものの要素は大きいものの、急に決まった演奏会だったらしく通常のホール(これも決して良い音響ではない)がどこもふさがっていて、福岡国際会議場のメインホールという、要は一番大きな学会などに使われる会場でおこなわれたもので、音響はまったく広がりがなく音楽的ではないし、ピアノはいちおうこの会議場が持っている新しいスタインウェイDではあるけれど、ふだん誰からも弾かれずに年中眠っているようなピアノなので、急にステージに引っ張りだされても本領が発揮できなかったこともあるのか、そういうことも重なって感銘には結びつかないものになってしまったのだと思います。

このとき、ロビーではCDが売られていて、終演後にサインをしてくれるというので、ミーハー心から一枚買い求めて列に並び、アヴデーエワさんからサインをしていただきました。
演奏終了直後ということもあり、お顔はいささか上気した感じが残りつつ、演奏中はアップにしていた髪を解いて垂らし、澄んだとてもきれいな目をされていたのが印象的でした。

購入したのは、アヴデーエワが2010年12月、すなわち彼女がショパンコンクールに優勝した直後の来日公演からのライブCD。
これは通常の彼女のCDとは違い、東日本復興支援チャリティCDとして招聘元の梶本音楽事務所がらみで発売されたもので、曲目はオールショパン、幻想ポロネーズ、ソナタ第2番、スケルツォ第4番、英雄ポロネーズというもの。

アヴデーエワは今どきにしては珍しく器の大きい人だという印象はあるものの、映像で見てもそれほど自分好みのピアニストではなかったし、とくに福岡で聴いたリサイタルでの印象が決定的となって、このCDはそのままCDラックに放り込まれ、それっきりになってしまいました。

つい最近、べつのCDを探すべく懐中電灯で照らしながら棚を探していると、ふとこのCDが目に止まりました。
そのときは、購入した経緯さえすっかり忘れていて、ケースはセロファンの袋に入ったままで、中を開けるとディスクに直筆のサインがあることで、「ん?」と思い、ようやくご当人からサインしていただいたことが記憶に蘇りました。
これほど、きれいさっぱり忘れてしまっている自分にも呆れましたが。

で、初めて聴いてみたそのCDですが、なかなかに立派な演奏で、個人的な評価がかなり挽回しました。
およそ女性ピアニスト風な演奏とは言いがたいもので、すみずみまで徹底的に考えぬかれた知的な演奏で、どういう演奏をするかというプランと土台がしっかりあり、それに沿って着実に実際の演奏として音に結実させることのできる、大きな能力を持った方だということがわかりました。
テクニックも一切破綻がなく、とてつもないものが備わっているけれど、それを誇示するようなところはいささかもなく、あくまでも音楽表現の手段としての技巧であるという姿勢も徹底しています。

解釈も表現も真っ当すぎるほど真っ当ですが、あまりに設計図通りに進められる建築のようで、聴きようによっては面白味のない優等生的な演奏に聞こえてしまうきらいもありますが、CDとして音だけに集中して聴いてみると、ただお堅いばかりの演奏でもないことが次第にわかってきました。
なによりも感心させられるのは、その驚くべき演奏クオリティの高さと、作品をありのまま音にするための謙虚な解釈でしょうか。

どれもが迷いなく構成された第一級品と呼ぶにふさわしい、それは見事な演奏でした。

このCDに収められた演奏会では、どのような順番で演奏されたか、あるいは他にどんな曲があったのかは知る由もありませんが、最後の英雄ポロネーズだけは他の3曲とはわずかに異なっており、おそらくアンコールではないかと思います。

なぜなら、この曲だけ明らかに、彼女の厳しいコントロールの軛がほんの少し緩んで、生身の人間の息づかいにあふれた熱い演奏だったからです。
自由と熱気と勢いがあって、他では聴いたことがないようなフレーズやアーティキュレーションの伸び縮み、あるいは次へのたたみかけるようなつなぎが随所にあって、しかも本体はガッチリしたスタイルであるのに、ときおり勢いが先行してほんのわずかに歪んだり撓んだりする様はゾクゾクするようで、これには思わず聴き惚れてしまいました。

英雄ポロネーズは名演の多い曲だと思うけれど、アヴデーエワのこのときの演奏はマロニエ君にとって、まさに最上のひとつであることは間違いありません。
この一曲だけでもこのCDを買った価値があり、数年の時を経て、思いがけない嬉しさですでに何回も繰り返し聴いており、しばらくこの興奮から逃れられそうにありません。


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2017/12/13 Wed. 02:15 | trackback: 0 | comment: -- | edit

バッハ-CDと演奏会 

最近買ったCDから。
ディーナ・ウゴルスカヤによる、バッハの平均律全曲。

その名から想像されるとおり、ウゴルスカヤはあのアナトゥール・ウゴルスキのお嬢さんで、ジャケットの美しい顔立ちの中にも、偉大な父であるウゴルスキに通じる目鼻立ちをしており、親子二代でこれだけのピアニストになるのは大したものだなあとまずは感心させられます。

演奏は大変良く練りこまれた真摯さと深い見識を感じさせるもので、父親のような計り知れない器の大きさはないけれど、心の深いところで音楽する人であるのは一聴しただけでもすぐに伝わってきます。
技巧も立派で一切の危なげもく、ぶれのない終始一貫した黒光りがするような落ち着いたバッハ。

お年はいくつかわからないけれど、ジャケットの写真をみても、まだ充分に若く、それにしてはずいぶん大人びた老成した音楽を聴かせる人だなあとは思うけれど、でも父親がウゴルスキで、その空気の中で育ったと思えばまあ納得です。
同年代のピアニストたちが、今風のカジュアルでスポーティな演奏をお手軽に繰り広げる中、こういうずっしりとした演奏をするピアニストはむしろ貴重な存在かもしれません。

そのずっしり感の中にはいうまでもなくロシアピアニズムが息づいているけれど、むかしの重戦車のようなあれではなく、しなやかさも併せ持っているところが世代を感じさせるし、ウゴルスキがドイツに亡命したことにも関連があるのか、バッハの国で多くの時間を呼吸した人らしい自然さを感じさせるところも充分ある。
ではドイツ人的かといえば…そうではなく、やはり根底にロシアの血脈を感じさせる演奏でした。

ただ、現代の基準で聴くならやや暗くて重々しいところがなきにしもあらずで、これもあのお父さんの演奏を思い起こせば十分納得できるものではありますが、個人的にはもう少し「軽さ」があるほうが現代のバッハとしては馴染みやすいかもしれません。
重々しさは演奏時間にも反映されているようで、第2巻のほうは通常大抵のピアニストがCD2枚内に収まるように弾いてしまうのに対し、ウゴルスカヤは3枚になってしまっています。

ロシアからドイツに移住してバッハを弾く人といえばなんといってもコロリオフですが、彼の演奏には軽やかさと洗練がそなわっており、そのあたりがウゴルスカヤの課題だろうと思いました。


バッハといえば、福岡でバッハのクラヴィーア作品全曲演奏に挑戦している管谷怜子さんの第10回目の演奏会がFFGホール(旧福岡銀行大ホール)で行われました。
今回はフランス組曲第4番、トッカータBWV912、ブゾーニ編曲のシャコンヌ、さらに後半は弦楽五重奏を相手にピアノ協奏曲の第2番ホ長調と第5番ヘ短調が演奏されました。

いつもながらの見事な演奏で、折り目正しさの中に管谷さんならではの温かな情感が随所に息づき、とりわけ緩徐部分での繊細かつ深い歌い込みはこのピアニストならではの世界が垣間見られるものでした。
後半のコンチェルトでは溌剌とした活気が印象的で、いかなる場合も連なる音粒が美しく、いかようにも転がし続けることのできる安定した技量にも瞠目させられました。

面白かったのはアンコールで、通常のテンポで演奏されたヘ短調の協奏曲の第3楽章を、もっと速いテンポで演奏してみるとどうなるかという「実験」と称して、2~3割ぐらいアップしたテンポで弾かれたことでした。
テンポが変わると、聴く側も、曲を捉える単位というか区切りのようなものが変化して、同じ曲ではあるけれど、まったく違った感性の世界に入っていくようでした。

どんなにテンポを上げても、管谷さんの演奏はまったく乱れることなく、指は自在に駆けまわり、美しさがいささかも損なわれないのは見事というほかありません。
また、同じ曲をテンポを変えて聴かせるという発想自体が、まるでグールドあたりがやりそうな試みのようで、とりわけバッハにはそれが面白く存分に楽しめました。

ただ表向きの演奏をするだけでなく、新しい試みや実験を聴衆に披露することも非常に大切なことだと認識させられました。


2017/11/30 Thu. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

流行作家 

現在お付き合いのあるピアノ愛好者の中には、いろいろな変わり種がおられるというか、みなさんすこぶる個性的で、何らかのかたちで独自の世界や趣向を持っておられます。

そんな中のひとりは、音楽歴史上、無名とまではいわないものの、一般的にはそれほど知られていないマイナーな作曲家の作品に強い興味がおありで、CDはもちろん楽譜まで取り寄せて自分で弾いてみて、それらの作風や特徴を通じながら、音楽の歴史や変遷を独自に楽しんでいる人がおられます。

先日久しぶりに我が家にいらっしゃいましたが、その際にフンメルのピアノ協奏曲を中心とするCDのコピーを6枚ほどプレゼントしていただきました。
フンメルはベートーヴェンよりもわずかに年下であるものの、ほぼ同時代を作曲家兼ピアニストとして生きた人で、当時はかなりの人気を博した音楽家のようです。

その知人の「おもしろいですよ」という言葉のとおり、どの曲を鳴らしてみても、初めて聞くのに「あれ?あれれ?」…随所になんか聞いた覚えのあるようなメロディや和声や、もっというなら全体の調子とか作風が、モーツァルトやショパンをストレートに連想させるようなものばかりでした。

モーツァルトの生きた時代までは、作曲家というか芸術家はおしなべて貴族お抱えの身分であったのが、市民社会の勃興によって音楽がより広い大衆の娯楽となり、一気に自由を得、裾野を広げます。一方でベートーヴェンなどが純粋芸術としての作曲を始めたというのもこの時期からで、その手の話はよく耳にしますね。

市民社会ともなると、現代にも通じる「人気」というものが重要不可欠の要素となり、大衆を喜ばせるための工夫やニーズが大いに取り込まれていることがわかります。
現代のように音楽市場が広範ではないためか、当時の作曲家のはそれ以前の楽曲の作風をひきずりながら、娯楽性や人々の好みを念頭に置きながら作曲をしていったのだろうと思われるフシが多々あって、純粋に音楽を聞くというよりも、当時の時代背景や大衆娯楽の有り様を覗き見るような楽しさがありました。

とくにモーツァルトのピアノ協奏曲からのパクリ(といって悪ければ流用?)は思わず笑ってしまうほどで、現代で考えればよくぞこんな手の込んだ仕事を真面目にやったもんだと呆れつつ、もしかしたら今なら著作権法にひっかかるのでは?というほど危ない箇所もあり、むかしはおおらかな時代であったことも偲ばれます。
こういう曲はあまり深く考えず、笑って聴いておけばいいのだと思いました。

どの曲も調子が良くてきれいで、すぐに耳に馴染んで楽しめるもので、それが当時の大衆の要求だったんでしょう。
おそらくは、この手の曲が次々にファッションのように作られては上演され、言い換えるなら消費され、忘れられていったのだろうと思うと、フンメルの協奏曲などはそれでもなんとかこうしてCDに録音されるぶん、かろうじて消えずに済んだ作品といえるかもしれません。

すっかり忘れていましたが、マロニエ君自身も知られざるロマン派のピアノ協奏曲集みたいな、ボックスCDを購入したことがありましたが、なんか二~三流品を集めて詰め合わせにしたようで、たしか途中で飽きてしまって全部は聴かずにどこかに放ってあると思います。
それほど、この時代(18世紀末から19世紀)はこぞってこういう作品がおびただしい数生み出されたのかもしれません。

それから思えば、現代の私たちに馴染みのあるクラシックの作品は、そんな膨大な作品の中から厳選され淘汰されて、時代の移り変わりを耐え抜いて奇跡的に生き残った、まさに音楽歴史上最高ランクの遺産なんだなあとも思いました。


2017/11/22 Wed. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

自然美 

いまさら改まって言うことでもないけれど、コンクールというものは好きではなく、これを絶対視するなんてことは逆立ちしてもないマロニエ君ですが、それでも、以前は一部の優勝者や上位入賞者には高い関心をもっていた時期があったことも事実でした。
つらつら思うに、これは過去にポリーニやアルゲリッチという、それまでのピアノ演奏の基準や価値観を変えてしまうような、とてつもない傑物をショパンコンクールが排出した…という歴史的事実があったからだと思います。

でも、コンクールというものを通じて突如発掘される、そんな世紀の大発見なんてそういつまでも続くことはなく、結局はこのふたりだけだったと言ってしまってもいいかもしれません。
いうなればたまたま見つかったツタンカーメンみたいなもので、その後これといった同様の発見があったかというと、申し訳ないけれどマロニエ君はそのようには思えないのです。

それに比例して(かどうかはわからないけれど)、こちらも年々無関心に拍車がかかり、最近は世にいう世界的❍大コンクールの覇者であっても、ほとんど興味は持てなくまりました。
理由は至ってシンプル、いいと思わないから。

おまけに年を追うごとに出場者側もコンクール対策が進み、個性を排し、点数の取れる演奏を徹底的に身に付けてやってくるのですから、そこで突出した才能とか、思いもかけないような発見なんてあるはずがない。
まさに有名一流大学の受験対策と同じで、大学と違うのはコンクールはひとりもしくは上位数人を選ぶだけ。
それを、音楽ファンが心底ありがたがって待っているわけでもなんでもないのに、コンクールで箔をつけるという傾向にはまったくブレーキが掛かりません。それほど演奏家を目指す多くの若者が世に出ることを急ぎ、ギャラを稼げること、チケットが売れること、突き詰めれば有名になって食っていけることを性急に目指していて、コンクールはそのための最短ルートとしての便利機能としか思えないのです。
一攫千金といえば言い過ぎでしょうけれど、一夜にしてスターを目指すというのは、精神においては大差ないと思います。

というわけで、正直いうと、現在マロニエ君個人がかろうじて興味をもっているのは、唯一ショパンコンクールだけで、それも結果(優勝者が優勝者として本当にふさわしい人であるかどうか)に納得の行くことはめったにありません。

この人こそ第1位と思う人が2位であることは何度もありましたが、前回2位になったシャルル・リシャール=アムランの『ケベック・ライヴ』というCDを買ったところ、これがなかなかの出来栄えでちょっと驚きました。

曲目はベートーヴェンのロンドop.51-1/2、エネスコの組曲op.10、ショパンのバラード第3番/ノクターンop.55-2/序奏とロンドop.16/英雄ポロネーズというもの。
わけても、個人的にはエネスコの組曲がダントツに素晴らしいと思いました。
もともとエネスコの音楽というのはマロニエ君にとっては、どこか掴みどころのない印象があって、もう一つなじめないでいるところがあったのですが、それがリシャール=アムランの手にかかると美しく幻想的な絵画のようなイメージが滾々と湧き出てくるようで、この23分ほどの曲のためだけにでもこのCDを買った価値があったと思えるものでした。

個人的に馴染みのない曲であったこともあり、新鮮さも手伝って良い印象を抱くことに寄与した感も否めませんが、開始早々、R.シュトラウスかと思うような華麗な幕開けでしたし、その後もさまざまな情景に応じた適材適所の表現やテクニックを駆使しながら見事に弾き進められました。

リシャール=アムランという人は、音楽的センスもあるし、なにより演奏が真摯で、世俗的な野心がほとばしっている感じがなく、自分のペースで信頼に足るピアノを弾く人だというのが率直なところ。
真摯とか信頼などと書くと、解釈重視のこじんまりした地味な演奏をする人のようですが、決してそうではなく、どれほど率直に思いのたけをピアノにぶつけても、それが決して作品の音楽的道義を外れることがない点がこの人の強みというべきか、それこそが彼の個性なのだと思いました。

どの作品を聞いても、音楽的な作法の上にきちんと沿っているのに、それがちっとも窮屈な感じもしないし、むしろ演奏者と作品が最も理想的なかたちで結びついている印象を受けるあたりは、なかなか清々しいことだと思わずにはいられません。

「彼の自然」と「作品の自然」がなにも喧嘩せず、絶妙のバランスで手を結んでいるために、演奏を聴くにも作品を聴くにも、それは聴き手しだいでどうにでもなるという任意性が広くとられているようで、密度の高い演奏に伴うストレスなどもいっさい背負わせない点も、リシャール=アムラン氏の人柄が出ているのかもしれません。
なかなか気持ちのいいピアニストだと感心しました。

2017/11/11 Sat. 19:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

中国の才能 

最近、YouTubeでたまたま知ることとなったピアニストにジョージ・リーという若者がいます。

1995年生まれということですから、現在でも21~22才という若さです。
ボストン生まれのようですが、その名前や容姿からもわかるように明らかに中国系のピアニスト。

YouTubeで見たいくつかの演奏は、まだほんの子供のときのものでしたが、おかっぱ頭にメガネを掛けて、全身をうねらすように曲の波に乗っていて一心不乱に演奏している姿が印象的でしたし、演奏そのものも抑揚や流れがあって好印象でした。
さらに成長して思春期ぐらいになった映像では、その演奏はより精度が増しており、これはもう疑いなく天才のひとりだということがわかりました。
呆れるばかりに指が回って、どんな難所でもらくらくと技巧が乗り越えていくテクニックにも目を丸くしました。

きっとこれから名だたるコンクールなどに出場して、上位入賞を果たすのだろうと思っていたら、すでに2015年のチャイコフスキーコンクールに出場し、まるで格闘家のようなゲニューシャスと2位を分かち合っていることを知り、それはそれは…と納得。

少なくともラン・ランなどより音楽は柔軟で密度があり、音にも一定の重みがあるけれど、今のピアニストに求められるものは音楽性や解釈だけでなく、
チケットの売れるタレント性みたいなものが重要視されるようなので、その点を含めると彼がどのへんまで行くのかわかりませんが、とにかく中国人もしくは中国系のピアニストの「大躍進」は目を見張るものがあります。

で、CDをまとめ買いする際に──ずいぶん迷ったあげく──このジョージ・リーのアルバムを1枚加えてしまいました。

昨年ロシアのサンクトペテルブルクでライブ録音されたもので、ハイドンのソナタロ短調、ショパンのソナタNo.2、ラフマニノフのコレルリ変奏曲、リストのコンソレーションとハンガリー狂詩曲No.2といういかにも系のプログラム。

個人的には冒頭のハイドンが好ましく思えたものの、全体としては印象に残るほどの個性はなく、どれもが平均して真っ当に準備され、クセもキズもない中であざやかに弾き通された演奏という感じでした。
並外れた才能とテクニックがあって、一流の指導者から高度な教育を受け続けることを怠っていなければ、きっとこんなふうになるだろうという想像の枠内に収まった演奏で、彼の音楽的天分というか個性という点に関して言うなら、それは超弩級のものではなく、あくまでも「並」だというのがマロニエ君から見ての正直なところ。
それでも天才であることに間違いはないのですが。

ショパンでは本来求められるセンスというよりはコンクール向きだし、リストのハンガリー狂詩曲No.2などは、ちょっとやり過ぎな感じ。

中国系ピアニスト全般に共通して感じるのは、音楽に憂いや内面の複雑なものが湧き上がってくるところがなく、表現がどうしても表層的で奥行きがないことでしょうか。
何を弾かせてもあっけらかんとしていて、どうしてもテクニック主導になっているし、途中までせっかくいい感じで進んできたものが、例えばスタッカートに差し掛かると、いきなりトランポリンみたいなスタッカートになって曲調が崩れたりするのが、聴いていて非常に残念な気がします。
表現も陰翳に満ちたルバートなどとは違って、歌謡的なフレーズの緩急のみで処理されてしまう。

もうひとつ特徴的なのが彼らの「間」の取り方。
超絶技巧の難しいパッセージなどでは問題ないけれど、この「間」が前後を隔てたり対照をなしたり橋渡しをしたり、さまざまな意味を成すところになると、多くが大仰な京劇のようになり、芝居がかった感じになってしまうことが耳につきます。
しかも、我々に比べてもその民族性の違いは甚だ大きく、大胆なまでに中華風になってしまうのがいつもながらのパターンで、これを感じると一気に興味を失ってしまいます。

これをあまり感じず、いい意味での中国風でないピアニストとしてある種の洗練を感じていたのは、唯一ニュウニュウでしたが、このところめっきり彼の動静を聞かなくなりました。

2017/10/25 Wed. 02:16 | trackback: 0 | comment: -- | edit

マックス・レーガー 

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの作曲家、マックス・レーガーのピアノ作品全集という珍しいものがあることを知り、さっそくCDを購入してみました。

マロニエ君はレーガーの作品といえば、バッハの主題による変奏曲とフーガop.81と、ブランデンブルク協奏曲全曲のピアノ連弾への編曲しか知らず、op.81はなかなか聴き応えのある大曲であることから、他にどんな作品を残したのかという興味がありました。
ウィキペディアによれば、徴兵され従軍、除隊したのが1898年で20世紀幕開けの直前だったようですが、1916年に43歳の若さで世を去るため、彼の音楽活動は20年にも満たない短いものだったようです。

詳しい理由はわからないけれど、オペラと交響曲はいっさい手がけず、主な作品は室内楽や器楽曲、管弦楽曲や声楽曲などで、とくに目を引くのは変奏曲やフーガの作品が多いこと。

CDは12枚組からなるピアノソロ作品のボックスセットですが、そこにはソナタなどは見当たらず、まとまった数の小品群からなる作品集が多いことが目を引くし、あとは前奏曲とフーガのたぐい、さらには変奏曲などが目につきます。
ヴァイオリンソナタ9曲、チェロソナタでさえ4曲も書いているのに、ピアニストでもあったレーガーにピアノソナタがないのは謎です。
1枚を数回ずつ12枚を聴き通すのに数日を要しましたが、まあなんとなく全体像は自分なり掴めた気がします。

レーガー自身も自分をドイツ三大Bの正当な後継者として位置づけることが好きだったようで、さらにはリストやワーグナーの影響、ブルックナー、グリーグ、R.シュトラウスへの傾斜もあることを認めていたようで、それらが概ね納得できる音楽でした。
作品集が多いのはブラームスやシューマンのようでもあるし、変奏曲はベートヴェン、フーガはバッハを想起させますが、それだけドイツ音楽の先達に対するリスペクトはかなり強い作曲家だったようです。

どれも特に耳に心地よいわけでもなければ、難解で放り出したくなるようなものでもなく、そのちょうど中間という感じですが、この時代の特徴とでもいうべきか…作品は全体に暗く重く、耳あたりの良い軽妙な叙情性といったような要素などは見当たりません。
ウィキペディアによれば「晦渋な作風という意味で共通点のあるブゾーニとは、互いに親しい間柄であった。」とあって、まさになるほど!と納得させられる印象でした。ただし、個人的にはブゾーニの作品のほうがはるかに異端的でグロテスクでもあるとは思いますが。

12枚のCDの最後に当たるVol.12に「バッハの主題による変奏曲とフーガop.81」があり、さすがにここに到達した時は耳にある程度馴染んでいるぶんホッともしたし、やはりよくできた作品で、後世に残るに値するだなあという実感がありました。

他の作品の中にも、なんともいえず心に染みこんでくるような部分とか、はっとする瞬間などは随所に散見され、並の作曲家でないことはよくわかりましたが、全体としてレーガーの作風はこうだという明快な個性のようなものには立ち至っていないような気がしたのも事実です。

これだけのものを生み出すことのできる並外れた才能があっても、その大半は後世まで演奏され続けることなく、ほとんどが埋もれた状態になるのが現実であり、それを思うと、単純に演奏される頻度が高い作品=傑作というわけではないけれども、それでも我々の耳に名曲として残っている作品(あるいは作曲家)はいかに選りすぐりのものであるかという厳しい現実を思わないではいられません。

余談ながら、この12枚からなる全集、演奏はドイツ出身のピアニスト、マルクス・ベッカーで、1995-2000年にかけて録音されているようでした。
どういうピアニストかは事前には知らない人だったけれど、まったく安定した危なげのない技巧と、説明文の中にも「演奏難易度の非常に高い作品の数々を終始完成度の高い演奏…」とあるのはマロニエ君も同感で、高い信頼感をもって聴き進めることができました。
これが格落ちのピアニストであれば、印象もずいぶん違うものになったことだろうと思います。

ちなみにボックスの表記を見て戸惑ったのは、作曲家がマックス・レーガー(Max Reger)にあるのに対して、ピアニストはマルクス・ベッカー(Markus Becker)と、響きも字面も酷似しており、はじめどっちがどうなのか、あれっあれっと戸惑ってしまいました。

マルクス・ベッカー氏もまさか名前が似ているからマックス・レーガーの全集を作り上げたわけではないと思いますが、奇妙な符合です。
あるいはドイツ人の発音では全然そんなことはないのだろうか…。

いずれにしろ、作曲家であれピアニストであれ、音楽におけるドイツの厚みというものをまざまざと見せつけられたようでした。


2017/10/16 Mon. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

寂しい時代 

何とはなしに、ちょっとしたことで「寂しい時代になってきたなあ」と思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに(アルコールを伴わない飲食とかファミレスの)深夜営業を売り物にしていた飲食店などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ロイヤルホストなどは、以前なら24時間営業も珍しくなかったのに、今では(例外はあるのかもしれませんが)基本0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければなりませんから人気がないわけではない。
そかし8時過〜9時あたりをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず雑談できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は途端に潮が引いたように空席が目立ち、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は一斉に追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっとエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてボロ雑巾のようになって帰ってきたことを書きましたが、それほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、当たり前のように帰宅の途に就くのが社会風潮化しているよう思われます。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに、申し合わせたようにさっさと帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が楽しくないこともあるしでしょうし、翌日に備えるという配慮も働くというのもあるでしょう。あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれませんし、それ以外の複雑な要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体に元気がなく、まるで社会そのものがひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のように人と人とが淡白な交流しかしないようになると、わざわざ直接会って歓談し飲み食いする必要も、かなりセレクトされ限定的になるということかもしれません。
現代はある意味、どこか不自然な事情を含みながらの家族中心で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

本屋に話題を移すと、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタル部門などが大手を振って、書籍の売り場はずいぶん剥られて肩身の狭い感じです。
置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、もう少し本らしい本はないのかと思うのはマロニエ君だけでしょうか。

そんな本棚を見回していると、『自律神経を整えて超健康になるCDブック』というのがありました。
この部分が脆弱なマロニエ君としては、「聴くだけで痛みが消える!極上のリラックスを体感できる!」といった謳い文句に騙されてみたくなり、あえてこれを購入しました。

中には2枚のCDが付属しており、「自律神経を整えるCD」と「マイナス感情を消すCD」というのが付録として綴じ込まれていました。さっそくはじめの1枚を聴いてみましたが、変な電子音とピアノの意味もないようなメロディなどが延々と流れてくるものでした。
ほんのまやかしだとは思うけれど、不思議と聴いていて不快ではないし、万にひとつでも効果があれば幸いとばかりに、昨日からこれを鳴らしているところです。


2017/04/23 Sun. 02:09 | trackback: 0 | comment: -- | edit

隠れた名手 

草野政眞(くさのまさちか)さんというピアニストをご存知でしょうか。

以前どこかのピアノ店のブログですこし動画を見た記憶があったのですが、その後お名前さえわからなくなってしまって、今回YouTubeで偶然見つけました。
はじめはえらく腕のいいピアニストがいるものだと思った程度だったのですが、ショパンの英雄などはちょっとこれまでに聴いたことのないような雄渾な演奏で、まったく臆するところがなく絢爛としていて常に余裕があり、技術的にも並ではないものがあって唸りました。

準備した作品をそのままステージで間違いなく再現するのではなく、その場の感興に委ねている部分のあることが、音楽という一過性の芸術をより鮮明で魅力的なものにしていると思いました。
こういうものに触れたとき、演奏芸術の抗しがたい魅力を再認識し圧倒されてしまいます。

この英雄ポロネーズは若い頃の演奏のようで、J.シュトラウスの皇帝円舞曲(えらく演奏至難な編曲のよう)などはそれよりは後年のもので白髪も増えておられるけれど、いかなる難所が来ようともがっちりと危なげなく弾きこなしておられるのは呆れるばかり。
当然ながら技巧はものすごいけれど、アスリート的優等生とはまったく異なり、演奏には音楽の実と生命力があり、息吹があり、グランドロマンティックとでもいいたい迫力と重みが漲っています。

突出した技巧をお持ち故か、演奏曲目もタンホイザーなど重量級のものが多いけれど、いずれもすんなりと耳に入りやすい明晰な音楽として良い意味でのデフォルメがなされており、聴衆に難解退屈なものを押し付けるようなところがまったくありません。
いかにも自分の信じるスタイルのピアノを弾くことだけに徹した謙虚かつ一途な姿勢、分厚くて大きな手、そこから繰り出される密度の高い、腰の座ったリッチな音の洪水は、ちょっと他の演奏家からは聴けない充実したもの。

完全に楽器が鳴りきっており、その男性的な美音はどこかグルダに通じるものがあるようにも感じます。
マロニエ君も自分なりにいろいろなピアニストには注意を払ってきたつもりでしたが、この草野さんはまったく存じあげず、こういう超弩級のピアニストが日本国内にひっそりと存在しておられるという事実に驚き、この思いがけない発見の嬉しさと、想像を遥かに超える華麗な演奏には完全にノックアウトされました。

特筆すべきは、技巧は凄いけれどもたんなる指の回る技巧のための技巧ではなく、多少大袈裟に言うなら、現代の正確無比な演奏技巧の中に19世紀ヴィルトゥオーゾの要素というか精神が少し混ざりこんだようでもあり、聴く者は理屈抜きに高揚感を得て満足する。

現代には、ただきれいな活字を並べただけのような、楽譜の指示にもきちんと服従していますといわんばかりの無機質な演奏をするピアニストは掃いて捨てるほどいますが、この草野政眞さんのピアノはその場で演奏の本質みたいなものが主体となり、反応し、組み上げられる手描きの生々しさがあり、必要以上に楽譜通りの演奏であろうとして、作品や演奏そのものが矮小化された感じは微塵もありません。
むしろ楽譜に表された以上の大きさをもって聴くものの耳に迫ります。

それでいて音楽に対する謙虚な姿勢と最高ランクの技巧が支えているというところが聴く者の心を揺さぶり、大きな充実感に満たされる最大の理由なのかもしれません。

ネットでこの方のお名前を検索してみると、ホームページを発見しました。
さほど更新された気配もない感じもしましたが、4枚のCDがあって購入可能であることを発見!
さっそく購入申込みをしてすべてを聴いてみましたが、基本的にはYouTubeの画像と同様の印象。
ただし、今日的基準でいうと演奏がやや荒削りで(そこが魅力なのだけれど)、出来不出来があることも感じないわけではありませんでしたし、すべてライブ録音なので、録音状態も良好とはいえず、これだけの素晴らしい演奏をもっとクオリティの高い録音で残せたらという無念さが残ります。

奥様からメールなども頂きましたが、これだけの腕と演奏実績がありながら、信じ難いことに演奏機会は少ないのだそうで、時代に合わないのだろうかというような記述もあり、その素晴らしさ故につい胸が詰まりました。
しかし、マロニエ君にしてみれば今時の退屈極まりないコンサートの中では、例外的に最も行ってみたい演奏のひとつで、これがヨゼフ・ホフマンやホロヴィッツの生きた頃、あるいはその残り香のある時代であれば、おそらくはもっとも絶賛されるピアニストのひとりだろうと思います。

現に彼の演奏を聴いた往年の巨匠シューラ・チェルカスキーはやはりこの草野氏を激賞しており、さもありなんと思いました。

どんな世界にも、時代背景や流行というのはあるけれど、良いものは時代を超越して良いわけで、これほどの方が不当な評価しか受けられないというのは、いかに日本の聴衆のレヴェルが低いのか、周りの理解が低いのか、国内の音楽環境の偏狭さを恥じなければならない気がします。

マロニエ君はコンクールなどを全面否定するつもりはないけれど、著名コンクールに優勝というような肩書がつかないとチケットも売れず、コンサートそのものも成立しないというのはまったく情けないことだと思います。
間違っていようと何であろうと、自分の「耳」と「感覚」を信じることができることが、一番大切だと信じます。

この方の演奏を聞くと、技巧で鳴らしたユジャ・ワンなどもどこかコンパクトに感じるし、とりわけ迫り来る音圧などは比較になりません。

2017/04/01 Sat. 01:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

赤松林太郎 

最近ときどき耳にする新鋭ピアニストの中に赤松林太郎という名があるのをチラホラ見かけます。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ』の中でも彼の名は出てきたし、コンクールだったか、ネットだったか、詳しいことは覚えていませんが、マロニエ君の漠たるイメージとしてはかなりの実力派で、くわえて最近よくあるピアニストとはひと味違った独自の何かをお持ちの方ではないかという、これといって根拠もない勝手な想像をしていたわけです。

経歴を見ても、通常の音大出身者ではないのか、神戸大学卒業後にパリに留学されたということがあるのみで、どういう経過を辿ってピアニストとして名乗りを上げた人かというのがいまいちよくわかりませんし、そのあたりはあえてぼかされているのかもしれません。

ただ、誤解しないでいただきたいのは、マロニエ君はこういう風に書きつつも、実は経歴なんてまったくどうでもよく、むしろ普通とは違った道を歩み、それでもピアニストとしての才能が溢れている人が、半ば運命に押し出されるようにピアノ弾きのプロとして芸術家になるほうが遥かに魅力的であるし、個人的関心も遥かに高いとはっきり言っておきたいと思います。

逆に云うなら、名前を聞くだけで飽き飽きするような一流音大を「主席かなにかで」卒業し、海外に留学して、有名な指導者につき、あれこれの著名コンクールに出場して華々しい結果を収め、「現在、幅広い分野で世界的に活躍している最も注目されるピアニストのひとり」などとプロフィールに書かれる人にはまるで興味がないし、演奏を聴いても大半は魅力も感じません。

その点では赤松林太郎氏というのは、そういう感じがなく、どんな人なんだろう、どんな演奏をする人なんだろう…という一片の興味があったわけです。

さて、先日CD店の店頭でその赤松氏のCDが目に止まりました。
「そして鐘は鳴る~」というサブタイトルがつけられていて、曲目はアルヴォ・ペルト、ヘンデル、モーツアルト、シューマン、グラナドス、マリピエロ、ドビュッシー、スクリャービン、ラフマニノフ、マックス・レーガーという実に多彩なもので、すべて「鐘」に由来した作品を集めたもののようでした。
個人的には「鐘」というワードで括ることに何の意味があるのかわからなかったし、さして聴きたい曲ではなかったけれど、それをいっても仕方がないので敢えて購入。

演奏そのものは、今どきのハイレヴェルな技術の時代に出て来るほどの人なので、ぱっと聴いた感じはキズも破綻もむろんあろうはずもなく、すべてが見事なまでに練り上げられている演奏がズラリと並んでいました。ただ、期待に反してこれというインパクトもなく、何か惹きつけられる要素も感じぬまま、要するによくわからないピアニストという感じに終始しました。
聴いていて、マロニエ君個人はちっとも乗ってこないし、音楽の楽しさというと言葉では軽すぎるかもしれませんが、聴いているこちらに演奏を通じての作品の核のようなものが伝わるとか、演奏者のメッセージが入ってこないもどかしさを感じました。

少なくともマロニエ君は、演奏を聴く限りにおいては、さまざまな作品を通じて演奏者が投げかけてくる価値観やエモーショナルなものを受け取って、それを交感しながら共有したり楽しんだり(ときには反発)させられるところに、演奏という再生芸術の醍醐味があるのだと思っています。

ところが、そういうものがこの赤松氏の演奏から、未熟なマロニエ君の耳に聴こえてくることはなく、アカデミックで慎重、完璧、一点の曇りもなく演奏作品として完成させようという強い意志ばかりが感じられました。もちろん後に残るCD作品として、精度の高いものに作り上げようという意気込みもあったのかもしれませんし、時代的要求もあることなのでこういう方向に陥ることもまったくわからないではないけれど、しかし演奏をあまりにスキのない商品のようにばかり仕上げることが正解なのかどうか、マロニエ君にはわからないし、そういうスタイルは少なくとも自分の趣味ではありません。

少なくとも心が何らかの刺激を受け、なんども聴いてみたいというものではなくては演奏の意味をどこに見出して良いのやらわかりません。

ピアノはヤマハのCFXを使用とありましたが、今回は正直楽器云々をあまり感じることはありませんでした。
全体に各所で間を取り過ぎるぐらいの慎重な安全運転で、どちらかというと音も詰まったようで開放感が感じられません。むろん基本的には美しいピアノ音ではあるものの、ピアノの音を聴く喜びというものとはどこか違った製品の美しさのように感じました。
これには録音側の技術とかプロデュース側の責任も大きいかもしれませんから、むろん演奏者ばかりを責めるわけにもいかないでしょう。

レーベルはキング・インターナショナルですが、録音自体はいわゆる日本的クオリティ重視で、盆栽のように小さくまとまった感じがあり、豊かで広がりのある響きとか、ピアノから発せられる音の発散といったものがまったく感じられませんでした。
つい先日、30年近く前に録音(DECCA)のアンドラーシュ・シフによるバッハのイギリス組曲の録音の素晴らしさに感動したばかりだったことも重なって、余計にその違いが耳に目立ったのかもしれません。

演奏も、録音も、実に難しいものだなぁ…とあらためて感じないではいられないCDでした。

2017/03/24 Fri. 01:49 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ニコラーエワ 

以前はよく聴いていたタチアナ・ニコラーエワですが、手に入る音源はだいたい持っていたし、1993年に亡くなってからはほとんど新譜が途絶えたこともあり、次第にその演奏を耳にすることから遠ざかり気味となっていました。
そんなニコラーエワですが、先日久しぶりに彼女のCDに接しました。

晩年である1989年のギリシャでのライブが最近発売されたのを、たまたま店頭で見つけて「おお!」と思って買ってきたものです。
はじめて耳にする音源ですが、スピーカーから出てくる音はまぎれもなくニコラーエワの堅牢でありながらロマンティックなピアノで、非常に懐かしい気分になりました。落ち着いた中にも深い情感と呼吸が息づいていて、なにしろ演奏が生きています。
昔はごく普通に、濃密で魅力的な本物の演奏を当たり前のように聴いていたんだなぁとも思うと、なんと贅沢な時代だったのかと思わずにはいられません。

現代には、技術的に難曲を弾きこなすという意味での優秀なピアニストは覚えきれないほどたくさんいますが、その技術的なレヴェルの高さに比べて、聴き手に与える感銘は一様に薄く、その音を聴いただけで誰かを認識できるような特徴というか、独自の音や表現を持ったピアニストは絶滅危惧種に近いほど少ない。
やたら指だけはよく回るけど、大半がパサパサの乾いた演奏。

ニコラーエワで驚くべきは、ピアノ音楽の魅力をこれほどじっくりと、しかも決して押し付けがましくない方法で演奏に具現化できる人はそうはいないだろうと思える点です。
必要以上に解釈優先でもなければ楽譜至上主義でもなく、しかし全体としては音楽にきわめて誠実で、情感が豊かで、ロシアならではの厚みがあり、だけれども胃もたれするようなしつこさもない。
良いものはいくら濃厚であってものどごしがよく、意外にあっさりしているという典型のようです。
技巧、感興、解釈、作品などがこれほど高い次元で並び立っているピアニストはなかなか思いつきません。

常に泰然たるテンポで彈かれ、けっして速くはないけど、ジリジリするような遅さもない。
感情の裏付けが途切れることなく続き、呼吸や迫りも随所に息づき、しかしやり過ぎない知性と見識がある。
そしてピアノ演奏を小手先の細工物のように扱うのではなく、雄大なオーケストラのような広いスケール感をもって低音までたっぷりと鳴らす。
どの曲にも、はっきりとした脈動と肉感に満ちていて一瞬も音楽が空虚になることがなく生きている。

それに加えて、常に充実した美しいピアノの音と豊かな響き。

このCDの曲目はお得意のバッハからはじまりシューマンの交響的練習曲、ラヴェルの鏡から二曲を弾いたあとは、スクリャービン、ボロディン、ムソルグスキー、プロコフィエフとロシアものの小品が並びますが、個人的に圧巻だと思ったのは交響的練習曲。

しかもこれまでニコラーエワのシューマンというのはほとんど聴いたことがなく、交響的練習曲はこのアルバムの中心を占める作品であるばかりか、演奏も期待通りの魅力と説得力にあふれるものでした。
曲全体が悲しみの重い塊のようであるものの、だからといって陰鬱な音楽というのでもなく、多くのピアニストがピアニスティックに無機質に弾いてしまうか、あるいはせっかく注ぎ込んだ情感のピントがずれていて、本来の曲の表情が出ていないことがあまりに多いことに比べると、ニコラーエワのそれはまず自然な流れと運びがあり、まるでシューマンの長い独白を聴くようで、まったく退屈する暇がありません。

現代のピアニストの多くは技巧も素晴らしい上に、隅々まで考えぬかれていて聴いている瞬間はとてもよく弾けていると感心はしますが、後に何も残らないことがしばしば。
それに引き換えニコラーエワの体の芯に染みこむような演奏は、パソコン画面ばかり見ていた目が久しぶりに実物の絵画に触れたようで、心地よい充実感を取り戻すようでした。


2017/01/31 Tue. 01:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit