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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

昨年のバルダ 

クラシック倶楽部の録画から、昨年東京文化会館小ホールで行われたアンリ・バルダのピアノリサイタルを視聴しました。

今回の曲目は、お得意のショパンやラヴェルとは打って変わってバッハとシューベルト。
平均律第1巻からNo,1/8/4/19/20という5曲と、シューベルトでは即興曲はD935の全4曲というマロニエ君にとっては意外なもの。

しかし、ステージ上に現れたときから気難しそうなその人は紛れもなくアンリ・バルダ氏で、お辞儀をするとき僅かに笑顔が覗くものの、基本的にはなんだかいつも不平不満の溜まった神経質そうなお方という感じが漂うのもこの人ならでは。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』を読んでいたので、バルダ氏の気難しさがいかに強烈なものであるかをいささか知るだけ、いよいよにそう見えるのかもしれませんが。

バルダ氏の指からどんなバッハが紡がれるのかという期待よりも先に、ピアノの前に座った彼は躊躇なく第1番のプレリュードを弾きはじめましたが、なんともそのテンポの早いことに度肝を抜かれました。
はじめはこちらの感覚がついていけないので、追いかけるのに必死という感じになる。

しかし不思議な事に、その異様なテンポも聴き進むにつれ納得させられてくるものがあり、バルダ氏のピアノが今日の大多数のピアニストがやっていることとは、まるで考えもアプローチも違うものだということがわかってくるようです。
まず言えることは、彼は作曲家がバッハだからといって特に気負ったふうでもなく、どの音楽に対しても自分の感性を通して再創造されたものをピアノという楽器を用いて、ためらうことなく表出してくるということ。

それは強い確信に満ち、現代においては幅広い聴き手から好まれるものではないかもしれないけれど、「イヤだったら聴くな」といわれているようでもあるし、「好みに合わせた演奏をするために自分を変えることは絶対しない!」という頑固さがこの人を聴く醍醐味でもあるようです。
今どきの正確一辺倒の演奏に慣れている耳にはある種の怖ささえ感じるほど。
その怖さの中でヒリヒリしながら、彼独特の(そしてフランス的な)美の世界を楽しむことは、この人以外で味わえるものではないようです。

コンクール世代のピアニストたちにとっては、およそ考えられない演奏で、現代のステージではある種の違和感がないではないけれど、そんなことは知ったことではないというご様子で、誰がなんと言おうが自分の感性と美意識を貫き通し、徹底してそれで表現していくという姿は、ピアニストというよりは、より普遍的な芸術家というイメージのほうが強く意識させられる気がします。
特に最近はピアニストという言葉の中にアスリート的要素であったりタレント的要素がより強まっていると感じるマロニエ君ですが、バルダ氏はさすがにそういうものはまったくのゼロで、そういう意味でも数少ない潔いピアニストだと思いました。

後半で聴いたシューベルトも、基本的にはバッハと同様で、サバサバしたテンポ。
しかし決して無機質でも冷たくもなく、そのサバサバの陰に音楽の持つ味わいや息づかいがそっと隠されており、それをチラチラ感じるけれど、表面的には知らん顔で、このピアニストらしい偽悪趣味なのかもしれません。
すべてにこの人のセンスが窺えます。

バルダの音は、スタインウェイで弾いてもどこかフランスのピアノのような、色彩感と華やぎがあります。
こじんまりとしていてシャープに引き締っており、バルダの音楽作りと相まって、それらがさざなみのように折り重なって、まるで美しい鉱石が密集するように響き渡り、ほかのピアニストでは決して聴くことのできない美の世界が堪能できるようです。

音も一見冷たいようだけど、それはパリのような都会人特有の、感情をベタベタ表に出さず、涼しい顔をしてみせる気質が現れており、いわばやせ我慢をする人の内奥にあるだろう心情を察するように聴いていると、このバルダの演奏が一見表面的な華やかさ軽さの奥に、深い心情や彼の人生そのものが見え隠れするようでもありました。
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2018/02/16 Fri. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

モコモコ音 

自室に置いているシュベスターは、昨年の納品からこっち調律だけは2度ほどやりましたが、納品前の整備を別とすれば、いわゆるきちんとした調整は納品後は一度もやっていませんでした。
いつかそのうちと思いながらのびのびになっていた点検・調整を先日、ようやくやっていただくことになりました。

何度か書いたことではありますが、ひとくちにピアノ技術者と言っても、そこには各人それぞれの得意分野があり、いわゆる一般的な調律師さんから、コンサートチューナー、オーバーホールや修復の得意な方、あるいは塗装などの外装を得意にされる方など、中心になる仕事はそれぞれ微妙に異なります。
あたかもピアノ工場が幾つものセクションに分かれているように、あるいは医師にも専門があるように、技術者にも各人がもっとも力を発揮できる分野というものがあるようです。

もちろん、どの方でも、全体の知識はみなさんお持ちであるし、基本となるセオリーなど共通することも多々あるはずですが、やはり日ごろ最も重心をおいておられる専門領域では、当然ながらより深いものを発揮されます。

そういう意味で、今回はやはり長年お付き合いのある、点検・調整のスペシャリストとマロニエ君が考えている方にお出でいただきました。

とりあえずザッと見ていただいた結果、調律を含む4時間半の作業となりました。
すでに10ヶ月ほど弾いているピアノなので、そろそろ音もハデ目になってきており、そのあたりの見直しを兼ねて、音作りのリクエストなどを入れてみたのですが、結果的にはそれより前になすべき項目が立ちはだかり、今回そこまでは到達できませんでした。

外板をすべて外し、アクションを外し鍵盤をすべて取り除いて、丁寧な掃除から始まりますが、各部の調整などを経ながら後半に差し掛かったとき、「あっ」という小さな声とともに問題が発覚。
よく見ると、弦に対してハンマーが全体に左寄りとなっており、中には右の弦に対してほとんどかするぐらいの位置になっているものもあるなど、さっそくそれらの左右位置の調整となりました。

これはアップライトピアノではよくあることだそうで、正しい位置に戻してもしばらくは元の場所に戻りたがる傾向があり、何度か調整を重ねるうちに本来の位置に定着するとのことで、今回だけでは済まない可能性もあるとのこと。

加えて、調整後はハンマーの左右位置が微妙に変化したために、弦溝の位置がずれてしまい、グランドのウナコルダ・ペダルを踏んだように、音が一斉にこもって柔らかくなり、しばらくはこの状態で弾いてみてくださいとのこと。
これらが定着し、弦溝も定着してからでないと整音をしても意味がないということで、今回そちらは見送られました。

ハンマーというのは本当に微妙なもので、弦溝がほんのわずかにズレただけで、別のピアノのようになってしまいます。
各部の調整が効いているのか、鳴りそのものはより太くなったようでもあるけれど、なにしろ音がやわらかくなったといえば言葉はいいけれど、モコっとした輪郭のない音になってしまったし、その状態が均等に揃っているわけでもないために、正直あまり気持ちのいい状態ではありません。

これが、普通にきちんと練習される方のように、毎日しっかり弾かれるピアノならそのうちに変わってくるかもしれませんが、マロニエ君はそれほど熱心に弾く方でもないし、このピアノばかりをそれほど短期集中的に弾き込む自信もありません。
ということは、いつまでこの状態が続くのかと思ったら、いささかうんざりもしてきました。

音の好みを少しでもマロニエ君の求めるものに近づけようと、調律時に倍音の取り方などいろいろな例を作っては聞かせて頂きましたが、それによってピアノの性格まで変わってしまうので、あらためて調律というものの重要性を認識することもできました。

ただ音程を合わせるだけなら、一定の勉強をすればできることかもしれませんが、そこから音の響きの色艶濃淡硬軟色彩など、あらゆる要素を3本の弦のバランスによって作っていくのは、これはやっぱり相当に奥の深い仕事だと思います。
そのためには技術や経験が大切なことはいうまでもないけれど、結局、一番大事なことは調律師自身の中にあるセンス、つまり音に対する美的感覚だと思います。

それにしても、柔らかい音とモコモコ音は似て非なるものですね。

2018/02/02 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

しなやかでしっかり 

溜まっているBSクラシック倶楽部の録画から、「マキシミリアン・ホルヌング&河村尚子 デュオリサイタル」を視聴しました。

ホルヌングはドイツを代表する若手チェリストで、やっと30歳を過ぎたあたりで、若手のホープからしだいに円熟期へとら入っていくであろうドイツの演奏家です。
ネットの情報によれば、20代でバイエルン放送交響楽団の首席チェロ奏者を務めたものの、ソロ活動に専念するため2013年に退団したとあり、その後リリースされるCDも賞を獲得するなど、輝かしい活動を着実に重ねているようです。

この日のプログラムは実に面白いというか新鮮なもので、前半はマーラーの「さすらう若者の歌」から4曲をホルヌング自身によってチェロとピアノのために編曲されたもの。
これがなかなかの出来で、マーラーの壮大なスケール感や世界を損なうことなく、見事にピアノとチェロのための作品になっているところは思いがけず驚きでした。

ホルヌングのチェロも見事だったけれど、どうしても習慣的にピアノに目が行ってしまうマロニエ君としては、河村尚子さんの演奏はとりわけ感心させられるものでした。

河村さんは、数年前のデビュー時から折りに触れては聴いていますが、始めの頃はまだ固いところがあったようにも思うし、アクの強いステージマナーや演奏中の所作などがちょっと気になっていたところもありました。
しかし、その後ベートーヴェンのピアノ協奏曲第3番など、この人の好ましい演奏などに接するに従って、次第に印象が変わってきました。

こういうことは個人的には珍しく、マロニエ君の場合、はじめに抱いたときの印象というのは良くも悪くも覆ることはあまりなく、たとえ10年後に聴いても、ああそうだったと思いだしたりして、ほとんどはじめの印象のままなのですが、それが予想を裏切って良い方に変化していくのはとてもうれしくてゾクゾクするものがあります。

まったく逆が、良い印象のものがそうでもないとわかってくるときの気分というのは、まったく裏切られたようで、必要以上にがっかりしてしまいます。

彼女の演奏で、なんと言っても印象深いのは、音楽的フォルムの美しさにあると思います。
その演奏からあらわされる楽曲は、独特の美しいプロポーションをもっており、ディテールまで非常に細かい配慮が行き届いていいます。繊細な歌い込みがある反面、必要なダイナミズムも充分に発揮されており、音だけを聴いているとちょっと日本人が弾いているようには思えないほどスタイリッシュです。
メリハリがあって、知的な解釈と大胆な情念が上手く噛みあうように曲をしっかりとサポートしているのは、聴いていて心地よく、現代的なクオリティ重視の演奏の中にもこれだけの魅力を織り込めるという好例だとも思われます。

とくに彼女は音の点でも、タイトで引き締まってはいるけれど、そこに鍛えられた筋肉のようなダブつかない肉感があって、音に芯があるところも特筆すべき事だと思いました。
というのも、スーパーテクニックや器の大きさを標榜しながら、その実、ピアノを充分に鳴らしきれず、軽いスカスカした音しか出せない人、音の大きさは出せても密度という点ではからきしダメな有名なピアニストが何人もいる中で、河村さんは、音に一定の密度と説得力があるという点では、稀有な存在ではないかと思います。

後半はブラームスのチェロ・ソナタ第2番。
ここでも、河村さんのピアノはしっかりとチェロを支え、ブラームスの渋くて厚みのある音楽世界を、いい意味での現代性を交えながら描き出していたのは久々に感心したというか、心地良い気持ちで聴き進むことができました。

2018/01/24 Wed. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

小さな大器 

お正月休みの後半、ピアノの知人の家にお招きいただきました。

そこには、すでに何度かこのブログにも書いていますが、素晴らしいスタインウェイがあるのです。
戦前の楽器で、しかもラインナップ中最も小型のModel-Sなのですが、内外ともに見事な修復がなされ、これが信じられないほど健康的で朗々と良く鳴り、小規模なサロンなどであればじゅうぶんコンサートにも使える破格のポテンシャル。
このピアノを弾くと、ピアノは必ずしもサイズじゃないといつも思い知らされます。

よくネットの相談コーナーなどで、スタインウェイのSがいかなるピアノかをろくに知りもせず、そのサイズから見下したような見解のコメントを目にすることがあります。
スタインウェイというブランドがほしいだけの人は買えばいいが、自分なら…という但し書き付きで次のような(言葉は違いますが概ねの意味)尤もらしい意見が展開されます。

スタインウェイといっても、Sは置き場に恵まれないマンションなどの狭い空間用のいわば妥協のモデルで、それにスタインウェイらしさを求めるのは幻想であり無理がある。しかも中古でも安くもないのにスタインウェイというだけでそんなものを買うのは、ピアノをに対して無知な人で、まさにブランド至上主義者だといわんばかり。
そんなものに大金を投じるぐらいなら、本当にピアノを知る人は、それよりもっと大型のよく調整されたヤマハを買ったほうがよほど有益で懸命であるというようなことを、いかにもの理屈を混ぜながら論じている人がいますが、きっとそういう考えの人は少なくないのでしょう。
少なくとも書いている本人がそう信じている様子が感じられます。

それはおそらく、こういうピアノに触れたことがないまま、セオリー通りにピアノはサイズがものをいい、小さくても(すなわち弦も短く響板面積も少ない)スタインウェイを選ぶような人は、スタインウェイをいう名前だけをありがたがるブランド指向だと断じているのでしょう。
さらにはどうせ大金を投じてスタインウェイを買うのであれば、Sだからといって特別安価なわけではないのだから、だったらもうひと踏ん張りして少しでも大きなものを選ぶほうが懸命であるし、そのほうが本当のスタインウェイらしさもあるはずだという思いも働いているように感じます。

よく、スタインウェイやベーゼンドルファーは奥行き❍❍❍cm以上あってはじめてその価値が発揮されるのであって、それ以下はマークだけのまやかしみたいなことを書かれることがあります。
しかも驚いたことには、それらを「触った経験」のあるという技術者の意見だったりするので、専門家と称する人からそこまでいわれれば普通の人は「へーえ、そういうものか」と思うでしょう。

でも、そういうことを言う人のほうこそブランドを逆に意識しているのであって、高価な一流品に対してある種の敵愾心を持っている場合もあるように感じます。

で、その知人宅のSは、とくにピアノが見えない場所からその音だけを聞いていると、奥行きわずか155cmのピアノだなんて、おそらく専門家でもそう易易とは言い当てられないだろうと思えるほど、美しいスタインウェイサウンドを無理なく奏でており、聴くたびに感銘を受けずにはいられません。
強いていうなら、低音域の迫力がより大型のモデルになれば、もっと余裕が出てくるだろうという程度。

すべてのS型がこうだとはいいませんが、これまでマロニエ君が何台か触れてきたSはだいたいどれも好印象なものが多く、だからSは隠れた名器だと思うのです。
なので、S型を最小最安モデルなどと思ったら大間違いで、むしろ積極的に選ぶ価値のある優秀なモデルだとマロニエ君は自信をもって思っています。

その知人は、そのSが調子がいいものだから、更にその上をイメージしてゆくゆくはBあたりを狙いたいという気持ちもないではない様子ですが、マロニエ君に言わせれば、その素晴らしいSを手放してBを買っても、必ずすべてがより良くなるとは限らないような気がします。
今のピアノが不満というなら話は別ですが、まったくそうではないのだから、マロニエ君なら絶対に手放さずに、もう1台違う性格のピアノを並べたほうがいいのでは?…などと勝手なことを思いました。

2018/01/10 Wed. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感性の一致 

先週のことでしたが、我が家のメインピアノの調律を終えました。

現在、お出でいただいている調律師さんはマロニエ君がそのお仕事に惚れ込んでお願いすることになった遠方の方で、せっかくなので他のお宅にも回っていただけるようスケジュールを組まれて、泊まりがけで来ていただいています。
約一年ほど前から保守点検メニューを実施していただくなど、この方のおかげでそれまでより一気に健康的にもなり、回を重ねるごとに自分好みのピアノになってきことを実感しています。

この調律師さんにお仕事をしていただくのは今回で3回目ですが、その音はいよいよ輝きを増し、長年の課題であったタッチの重さなどの弾きにくさもすっかり消え去り、節度ある軽快なタッチとともに美しい音を奏でてくれるようになりました。

この方を遠方からわざわざご足労願っている最大の理由は何か。
もちろん素晴らしい技術をお持ちということはあらためていうまでもないことですし、技術というだけならこれまでにも幾多の技術者の方々も皆さん素晴らしい技術をお持ちで、その点では俊英揃いだったことは確かです。

では現在の方が、マロニエ君にとってなにが特別素晴らしいのかというと、ちょっと変な言い方かもしれませんが、ピアノに対する美意識というと少し大げさかもしれませんが、要はピアノに対するセンスがいいということ。

おそらく、マロニエ君がこうあって欲しいという自分のピアノに対するイメージと、その方が持っておられるイメージが、大筋のところで一致しているのだと思われます。
これまで他の方には、作業開始前にもあれこれと自分の希望とか、日頃の不満点などを伝えて、途中途中で確認しながらの作業だったりで、音色のことや、タッチのことなど、こちらの思いが技術者さんにうまく伝わるかということからして課題でした。

よく言われることですが、音やタッチの好みというのは大抵微妙な部分の問題で、その微妙なところを技術者に伝えるのはピアニストでさえ簡単ではないし、逆に技術者の方からすれば弾き手の表現はたいてい抽象的で、その意を正確に汲みとって技術として具体化することは非常に難しいといわれます。
たとえば「明るい音」と言っても、その明るさにはいろいろな解釈や種類があり、むろん電子ピアノのような単純な音でもなく、マロニエ君は深味と気品を失わず、甘さの中にどこか憂いを併せ持ったようなものが欲しかったりします。

また、表情があって、あまり技術が前に出るようなものも好みじゃない。
とにかく、いろいろなものが融合してひとつの結果をなすためには、感性が違うと、いちおうはそれらしくはなってもどこか違ったものになることは珍しくありませんし、それはタッチについても同様です。

息を殺すような作業がほとんど半日にも及び、やっと調律と整音の段階を迎え、ようやく「弾いてみてください」となって弾いてみると、本音はしっくりこないこともありますが、なにしろこっちはピアニストでも何様でもなく、長時間に及ぶ大変な作業の様子を見ていたら、その頑張りに対してもダメ出しなんてできません。
それはそれで良くなっていることも事実ではあるし、だいたいこれで終了となるのがこれまでのパターンでした。

ところが現在の技術者さんとは、そういう事前のやりとりもほんの僅かで、専ら自分のペースでサラッと仕事にかかられます。
タッチでも同様で、「もう少し軽くなれば…」「はい見てみます」という程度。

細かい要望などを質問されることも少なく、こちらとしてはあまり自分の希望は伝えてないなぁという少し心配な状況の中で作業は開始され、途中で「こんな感じでどうでしょうか?」とか「このオクターブだけ今変えてみました」などと、それで良ければこのまま作業を進めますという感じで確認をとられることさえ殆どありません。

作業開始から時計の長針が何回まわったか、外はすっかり暗くなったころ、「ちょっと弾いてみてください」といわれておずおずと弾いてみると、これがもうアッ!と思うほど良くなっている。

音色の感じも、微妙なところがすべてツボにはまって完成されているし、タッチも明らかに軽くなっている。
凛としていてどこか馴れ馴れしいような…マロニエ君にとっては理想的な状態になっているのです。

しかも前述のようにとくにくだくだしい希望要望を出すでもなく、結果はいつもこちらのイメージにピシっとピントが合っているのはかなりの感動です。

これは、この技術者さんがマロニエ君の好みの察しが飛び抜けていいというより、その方のいいと思うものとマロニエ君の好みや感性がたまたま一致しているとしか考えようがないのですが、それは楽でもあるし安心感があるし、なにより結果が毎回安定していてとっても嬉しいわけです。

繰り返しますが、高い技術をお持ちの方はたくさんおられても、その高い技術をピアノのためにどう使って、どういうピアノに仕上げるか。ここにピアノに対する感性が大きく関わっているらしく、趣味が合わなければどんなに高等技術を駆使した高度な仕事でも、それが自分にとって至福のピアノになるかどうかは別の問題となるのです。

そういう意味で、自分と趣味の合う技術者の方と巡り会うことが一番大切なことのように思えるこの頃ですが、これは探してすぐに見つかるものでもないし、偶然を待つ以外にないような話で、ピアノ選びよりも難しいことかもしれません。


2017/12/26 Tue. 02:41 | trackback: 0 | comment: -- | edit

なぜだろう? 

調律料金に関することで、以前から疑問に思っていたこと。
それは、なぜアップライトとグランドでは料金が異なり、さらにはグランドでもサイズによって料金が異なるのだろうということ。

マロニエ君はむろん調律師ではないから、アップライトとグランドでは、一口に調律といってもどれだけ仕事量が違うのかはわからないけれど、例えばアップライトで12000円なら、グランドは15000円というように、多くの場合その料金には差があるのが一般的です。

この場合の3000円は何が違うのか、乱暴にいうと似たような作業をタテでやるかヨコでやるかの違いのようにも見えないこともないわけです。
そこは調律師さんに聞いてみればわかるのかもしれないけれど、まだ聞いていないので、現時点では疑問は疑問のまま放置されているわけです。
逆にいうと、アップライトの調律ってグランドに比べたら2割がた楽なの?とも思ってしまったり。

というわけで、アップライトとグランドでは構造も違うので置いておくとして、グランドの調律に限っていうと、サイズによって調律料金が違うというのはまったくもって納得のいかない部分なわけです。
奥行き2メートルを境にしている場合もあれば、コンサートピアノは別料金となっているのを見かけたりしますが、そもそもその区分の基準ラインも結構バラバラです。
しかも、コンサートの調律ではなく、調律するピアノがコンサートグランド(もしくはそれに準ずる)の大型になると、料金もそのぶん高く設定されているというもので、その根拠はなんだろうと思ってしまうのです。

普通サイズのグランドでも、コンサートグランドでも(アップライトでも)、キーは一般的には88鍵であることにかわりはないし、弦の数だってほとんど違いなんてありません。
コンサートピアノだからといって、まさかチューニングピンを回すのに倍も力が要るわけでもないでしょう。
強いて言うなら、鍵盤からアクション一式の奥行きが小型グランドと大型グランドでは少し違うぐらいですが、そんなの技術者にすればものの数ではないはずですし、少なくとも請求金額に反映させるほどの違いとは思えません。

じゃあ、小型グランドよりも、大型になるほどより丁寧な仕事をするのか。
そんなことがあればそれ自体が問題でしょうし、まさか純然たる技術料をピアノのボディサイズで決めているとしたら、まるで病院に行って身長150cmの人より180cmの人のほうが医療費が高くなるようなもので、そんなこと通用する話ではありません。
あるいは大きなピアノは、サイズが大きいのだから調律料金も大きくなるということなのでしょうか。

実はこの点を、何人かの調律師に質問したことがあるのですが、「やることは同じです。」という答えだったので、本当は料金にサイズ別の区分を設けている人にこそ聞いてみるべきで、まだそれは果たせてはいません。

すんなり理解できるのは、定期調律に対して、何年も放置されたピアノを託された場合、内部がどんなことになっているかわからず、すべての面で定期調律より多大な労力を要する仕事になる場合があるので、これは料金が違ってくるのは当然だと思います。


もうひとつ不思議なのは調律の「出張料金」というもの。
もちろん、お気に入りの調律師さんが地元の方でない場合などは、遠路はるばる来ていただくのだから、そのための交通費等が生じるのは当然ですが、マロニエ君がいいたいのは通常の場合で、ごく近い距離であっても調律料金に出張料を一律上乗せする場合があることです。
とくに驚くのはメーカーから直接出向いてくる調律師さんにそれが多いということで、これは大いに疑問を感じるところです。
(マロニエ君の経験では出張料金を請求されない方のほうが多いですが。)

というのは、管弦楽器のように持ち運びができる楽器なら、自らメンテに持ち込むことが可能ですが、ピアノはそもそもオーナーがどうあがいても持ち運びどころか動かすことさえできない特殊な楽器なので、ピアノ調律という仕事=技術者は移動するというのが大前提であるはずです。
つまり技術者が移動しないことには仕事自体が成立しないわけで、そんな職種であるにもかかわらず、いちいち出張料金を請求するというのは社会通念としていかがなものかと思うわけです。

それをいうなら、こちらから動くわけには行かない仕事、例えば水道や電気の工事であるとか、植木の剪定など、これらの人達が出張料金などを請求することはまずないし、少なくともマロニエ君はされた記憶はありません。
とくにメーカー系あるいは正規代理店などが定めた料金体系に、この出張料がしばしば含まれることは甚だ説得力を欠いており、こういうこともユーザーがだんだん調律をしなくなる遠因になっているのではないかと思います。

かたやフリーの調律師さんの中には、ご自身が定めたエリア内で仕事を引き受けた以上、当日の調律時はもちろん、後日発生した微調整などなんらかのやり直しなども含むすべての再訪にも決して出張料金をとらないという、毅然としたスタンスを貫く方もおられることも声を大にして言っておきたいところで、メーカー系列の料金体系のほうがよほど努力不足でもあるし説得力のない請求をしていると感じます。


2017/12/08 Fri. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

音の充実 

たまたまチケットをいただいたので、ある室内楽のコンサートに行きました。
ピアノが加わったプログラムで、調律もこだわりをもってピアニストがおこなった人選だった由、それなりに興味をもって赴きました。

しかし結果はさほどのものではなく、あまり良いことが書けないので演奏者の名前も書きません。
まったく初めてのピアニストだったけれど、いかにも挑戦的なチラシの写真と、これでもかというプロフィールの効果だったか、それなりの演奏をされる方なのか…というイメージを抱いていただけに肩透かしを食らったようでした。

そもそもにおいて演奏者のプロフィールというのは誇大記載であるのが今や通例で、師事した教師の名の羅列に始まり、どこそこの音大を首席で卒業などは朝飯前、留学歴からコンクール歴から果てはちょっとした音楽セミナーで一度きりレッスンを受けたピアニストの名まで、事細かに書き連ね、共演したアーティストや指揮者やオケの名前をいちいち挙げながら、世界的な注目を集める才能…というように結ぶのが定形のようになっています。

その程度ならいまさら驚きもしませんが、このピアニストのプロフィールは通例をさらに超えるもので、読む気がしないほど大量の文字がびっしりとスペースを埋め尽くし、ヨーロッパでは行く先々で大絶賛を巻き起こし、リリースしたCDは高評価、そんなすごいピアニストが身近にいたなんて知らなかった自分の無知のほうを恥じなくてはならないようなものでした。

ところがステージへ出てきたご当人はずいぶん緊張されているのか、えらくぎこちない感じが遠目にも伝わって、直感的に不安がよぎりました。しかしひとたびピアノに向かったら別人のように変貌するということもあるかもしれないと、かすかな期待をしてみるも、始まった演奏はか細い音で、たった4人の弦楽器奏者の音にしばしばかき消されてしまうもので、概ねこの調子で途中挽回することもないまま終わりました。

ピアニストが調律師にこだわることは本来とても大事なことで、自分が演奏する楽器の音に関心を払うのは当然だと思いますが、まずはピアノを曲と編成とホールに合わせてまず「鳴らす」ことができるかどうか、これが大前提じゃないかと思います。
プロフィールより、調律師より、もっと大切なことがあることに気づいて欲しいと思いました。


ここからは一般論ですが、ピアノの音にも当然ながら最適な美音が出る範囲というのがあり、あまり指の弱い人がいくら奮闘してもピアノは鳴ってはくれませんし、だからといって叩きつけるなどすれば汚い音になる。
また、大柄な男性ピアニストの行き過ぎた強打を受けると、楽器によっては音が破綻したり、あるいはそうはならずに踏みとどまってももはや美音とは言い難いものになってしまいます。

ピアノ向きの体格、指の強靭さ、タッチの質、表現、美意識などあらゆることがピアノの音には反映されるという点で、ピアノのアクションというのは微々たる変化でも呆れんばかりに正確に弦とボディ(つまり音)に伝えることのできる、とてつもない精巧無比な機構だと思います。

現代のコンクール世代の若いピアニストの多くは、指は難なく自在に動くようですが、せっかくの楽器の表現機能を活かしきれているかといえば、マロニエ君には大いに疑問が残ります。
とりわけ深み厚み重みといった方面の音が出せなくなって、弾き方そのものがどこか電子ピアノ化してしまってはいないでしょうか。
無駄のない科学的な訓練によって鍛えられたテクニックは、運動面での効果は目覚ましいけれど、表現の懐が浅く、楽器を充実して鳴らしきるということが手薄になり、そこに聴こえてくるのは感銘のない、無機質な丸暗記風の音の羅列にすぎません。

その人が受けた教育の方向性にもよるものか、あまりにも正確な楽譜再現にばかり注意が払われすぎ、曲に対する奏者の本音とか生の感情というものが聴こえてこないこともあろうかと思います。
音楽に限らず、世の中は自分の正直な感覚とか考えが表現しにくい空気が蔓延し、どこからもクレームの付かないものに徹しようとする社会の傾向がある中で、それは音楽の世界でも横行しているような気がします。


2017/11/26 Sun. 02:11 | trackback: -- | comment: -- | edit

「価格相談」 

もっぱらネット上でのことが多いように思うけれど、一部のピアノ店の価格表示に意味不明なものがあり、その真意がどうにも解せません。
いっそ価格は一切書かず、知りたい人はコンタクトを取って問い合わせるというスタイルに徹するのであれば、それはそれでひとつの潔さかもしれませんが、マロニエ君がどうしても釈然としないものに「価格相談」あるいは「価格応談」という言葉が使われること。

これはどういう意味なのか、ずいぶん前から疑問をもっていますが、いまだに確たる意味はつかめません。
とくにスタインウェイやベーゼンドルファーなど、高級ピアノの中古品にそれが多く、しかも同じ店が日本製ピアノも売っていたりすると、それらには中古品でも一台一台価格が明記されているのに、輸入物になるとなぜか上記のような謎の表示になって、一切具体的な価格を示さない店をときどき目にします。

価格を書かないというのも場合によりけりで、たとえば歴史的な価値のあるものでなかなか値段のつけにくいものとか、本来は非売品扱いだけれども、ぜひにと懇望されれば絶対売らないでもないというような特殊なケースは場合によってはあるだろうとは思います。

しかし、輸入品で高額というだけで、いわば普通の中古の輸入ピアノに対して一切価格を明かさず、しかし商品としてはしっかり掲載して販売をアピールするというのは、どうにも腑に落ちないわけです。

物を売ろうというのに、価格を表示せず「価格相談」とするのは、悪い解釈をすれば相手を見て決めるということでしょうか。
相談ってどういう相談をするのかもわからないし、相手しだい交渉しだいで高くも安くもなるのか?という不安も覚え、そういう店はなんだか信頼できない気がして、あまりいい感じがありません。
悪い言葉でいうなら、店側からこちらがチェックされて、カモだと見定められればふっかけられそうな気もしなくもありません。

また相談というからには、じゃあ相談すれば安くなるのかとも思いますが、やはり現実的にはそういうものでもないでしょうし、おそらくは相場より高いのだろう…という気がします。

考えれば考えるほど「価格相談」というのは店側の都合ばかりを優先したやり方のように思われるし、悪くすれば、その店と関わりを持ったが最後、説明攻勢をかけられて、話はお店主導でもっていかれるのではないかと思ってしまいます。
平均的な相場より高額であることを、他店の批判を交えながら客の不安を煽りつつ、だから当店のピアノは内容に対して妥当(もしくは割安)なものですよ!と説き伏せて、あとからトラブって苦労するより、結局は少しぐらい高くてもちゃんとしたものを我が社で買われるほうが賢い選択であるというような理屈ではないかとも思います。

また、うちは価格では勝負はしていません、輸入ピアノといっても程度や状態は千差万別で、あくまでも最高の品質と技術をお客様に提供することがポリシーで、価格もそれに見合ったものですというような理屈立ということも考えられます。
でも、最高の品質と技術をお客に提供することと価格を表示することがどうして両立しないのか、やはりマロニエ君にはきれいに納得することはできませんし、だったら価格を表示した上で、自社の信念をしっかり訴えればいいだろうと思います。

また、それだったら国産ピアノを含めてすべて「価格相談」すればいいものを、そうしないのも理屈が通らない。
どうしても考えてしまうのは、やはり利幅の大きい高額商品であるから、それを買おうとするリッチな人を相手に、できるだけ高く販売したいという狙いのように思えてなりません。

というか、それ以外に、わざわざこの言葉を使う意味がマロニエ君にはどうしても見当たらないのです。

たしかに輸入ピアノの販売には、でたらめな業者がいることも耳にしますし、実際そうなんだろうとも思います。
でも、この「価格相談」という文字を見ると、小池さんじゃないけれど情報公開されないブラックボックス的精神を見るような気がしてしまうのです。

2017/10/30 Mon. 02:50 | trackback: 0 | comment: -- | edit

思いつくまま 

身も心もイヤ~なカビが生えてきそうな、陰気な雨模様がずーっと続いてて終わりませんね。
報道によると、どうやらほぼ全国的なもののようで、こればかりは打つ手がありません。

福岡の場合で言うと、土曜から降り始めた雨は日曜にはさらに深刻なものとなり、朝から晩までしたたかに降り続きました。
月曜もほぼ同様の状態がつづき、火曜の夜にほんの少しだけ止みましたが、その後はまたしても降ったり止んだりの繰り返しで、ここまでくると青い空も忘れかけた気分です。

週間予報を見ていると、晴れマークはひとつもなく、来週以降も連続して黒っぽい雲か傘のマークばかり並んでいて、まるで黒いパールのネックレスのように連なっています。さらに追い打ちをかけるように、今年はもう終わったものだと思い込んでいた台風までやってくるようで、選挙の日曜には沖縄に達し、翌日から日本列島に向かって北上してくるというのですから、秋らしい、澄んだ空気を思いっきり満喫するのも当分は諦めなくてはならないようです。

だいたいお天気のことを書くときはネタがないときなんですが、よく思い返してみると、先週は横浜のピアノ屋さんが福岡への納品ついでに我が家にも立ち寄ってくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。

この方はピアノはもちろん、ときには車までヨーローッパから輸入されているらしく、お店のキャラクターにもなっている1963年のオースチンA35バンが先ごろカー・マガジン誌から取材を受けたとのことで、マロニエ君がピアノと同様、車も好きだということをどなたからか聞かれたらしく、その本をおみやげに持ってきてくださいました。

そのオースチンA35バンの記事は巻頭のカラー4ページにもわたる堂々たるもので、見開き2ページにわたりピアノ店の店頭で車のハッチが開き、そこへご主人がベヒシュタインの鍵盤蓋を抱え、今まさに積み込もうとするショットで、いきなりのけ反りました。
オースチンA35バンは、バンという名の通り商用車ですが、その造形は優雅な曲線に包まれたなんともかわいらしい車です。
フロントシートのすぐ後ろは荷室になっていますが、そこにはグランドピアノのアクション/鍵盤一式がきれいに収まっている写真が1ページまるごと掲載されているし、さらには店内のピアノやお仕事の様子などまでも紹介されていて、ピアノの本か車の雑誌かわからなくなるようで、大いに驚かされました。

こういうものを見せられると、かなり個人的かつこじつけのようではありますが、ピアノと車は精神的にどこか切っても切れないなにかがあるように思えてなりませんでした。

車の話が出たついでに少し書きますと、マロニエ君は普段の足にVWゴルフ7の1.2コンフォートラインというのに乗っています。
よく出来た現代の車の例に漏れず、ほとんど故障らしきものはないのですが、ちょっとしたフィールの問題で現在ディーラーに入院中で、その間の代車として同じくゴルフ7のワゴンの1.4ハイラインというのを貸してくれました。
ワゴンボディなので、通常のモデルより全長が少し長くて、そのぶん荷室は広く、エンジンはひとまわりパワーがあり、内装やシートの素材なども少しずつ高級な仕様になっていますが、走りだしたとたん、自分の車との本質的な違いにおおいに戸惑いました。

タイヤはより幅広でスポーティなサイズになるし、車重は140kgも重く、リアのサスペンションはワゴンということを考慮されて、かなり硬いセッティングになっています。前を向いて走ってもワゴンの荷室がうしろからついてまわるため、いつもカラのリュックを背負って動いているみたいで、なんとなく重心も高いしバランスも違ったものになっています。
これはこれでとても良くできた車であるし、ワゴンを本当に必要とする向きには良い1台とは思うけれど、個人的には圧倒的に自分の車のほうが軽快かつしなやかで好ましく、しかも価格が55万円も高いことを考えると、マロニエ君にはまったく無用のプラスアルファということを痛感しました。
今どきの流行りだからといってカッコだけでワゴンを選ぶと、とくに車の走りにこだわる人には予想外のこともあるだろうと思いつつ、自分の車の退院をひたすら待っているところ。

…雑誌の話からつい車のほうに行きましたが、ピアノへ話を戻すと、その日はせっかく遊びで立ち寄っていただいたにもかかわらず、話の流れでシュベスターの調律をやっていただくことになりました。
新旧内外ありとあらゆるピアノの修理をやられている方の目に、ヤフオクからクリックひとつで買ったシュベスターがどう評価されるか興味津々でした。どんなことを言われても傷つきませんから率直になんでも言ってください!と頼みましたが、果たしてとても状態が良いとのお褒めをいただくことになり、もちろん嬉しいけれどいささか拍子抜けしてしまいました。

外観がかなり荒れたピアノだったものの、内部の写真はそれほど悪くないように見えたことが今回はたまたま間違いではなかったようで、とてもきれいでほとんどやることがないというようなことまで言っていただき、そこには社交辞令が多分に盛り込まれているとは思いますが、それを割り引いたとしても、あんなめちゃくちゃな買い方のわりには、まあ結果は良かったほうか…と胸をなでおろすことができました。

2017/10/20 Fri. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

クラビアハウス-2 

前回のクラビアハウス訪問記で書ききれなかったことをいくつか。

知人がネット動画の音を聴いてこれだと目星をつけていたのは戦前のグロトリアンシュタインヴェークだったのですが、実物に触れてもそこに食い違いはなかったようで、あっさりこれを購入することになりました。
もちろん、他の3台も触って音を出してみた上でのことですが、各ピアノの個性やタッチなどから、この1台に決したのは極めて自然なことだと思われました。

それほどそのグロトリアンは1台のピアノとしての完成度が高くて自然でした。
曲や弾き手を広く受け容れる懐の深さがあり、いい意味でのきれいな標準語を話すようなピアノでしたから、なにか突出した個性を得るためその他のなにかを犠牲にするということがまったくないピアノだというのが率直なところ。

あくまでも個人的な意見ですが、ベーゼンドルファーやプレイエルは、これらのピアノに思い入れがあるとか、すでになんらかのピアノを持っている人が、さらに自分の求める方向性を深く追求するために購入するには最高のチョイスになり得ると思いますが、そうでない場合はもう少し普遍的な要素を持ったピアノのほうが賢明かもしれません。

その点では、中間的な個性かもしれないのがブリュートナーで、一応どんな音楽にも対応できるピアノではあるけれど、それでもなおドイツ臭はかなりあるので、弾き手の趣味や好みの問題が出てくるとは思います。
艷やかで量感のある音なので、やはりドイツ音楽が向いていそうで、とくにバッハなどには最良かもしれません。

ドイツ臭といえば、工房で修理中であったアートケースのベヒシュタインはさらにその上をいくもので、発音そのものがまるでドイツ語のアクセントのようでした。ちょっとベートーヴェンなどを弾いてみると、うわぁと思うほどその音と曲がピタッと来るので、やはり生まれというのはどうしようもないもののようです。
そういえばマロニエ君がバックハウスの中でも最も好きな演奏のひとつである、ザルツブルク音楽祭でのライブ録音のヴァルトシュタインは、いつものベーゼンドルファーではなく、なぜかベヒシュタインのEで、それがまたいい具合に野性味があって良かったことを思い出しました。

その点でいうと、スタインウェイは何語ともいいがたい音だと言えそうで、強いて言うなら、もっとも美しい英語かもしれないし、あるいは何カ国語も流暢に話せるピアノかも。それでもニューヨークはまだアメリカ的要素があるけれど、ハンブルクはまさに国籍不明。

さて、そのベヒシュタインのところで話題になったのが響板割れについてでした。
マロニエ君は響板割れというのは目に見える響板のヒビや割れのことだと思っていたのですが、そればかりではないということを聞いたときは意外でした。

ヴィンテージピアノの多くには響板割れはしばしば見られるもので、それらは必ずしも見てわかるものではなく、冬場だけ木が収縮してようやくわかるものがあるなど状態もさまざまで、目視だけでは油断はできないのだそうです。
クラビアハウスではピアノを修理する際、この見えない響板割れを突き止めるために、特殊な液体を使って割れの有無を確かめるのだそうで、新品のようにレストアされたプレイエルにも、よく見ると響板割れをきれいに埋め木で補修した跡があり、こうして手を入れることでピアノは人間よりも長い寿命を生き続ける楽器であることがよくわかります。

ここのご主人は、驚いたことにこの10年の間に40回!!!ほどもピアノの仕入れのためにヨーロッパへ行かれたそうで、その際には裏の裏まで徹底的にピアノをチェックして納得のいくものだけを購入される由で、一度に多くても2~3台、場合によってはゼロで帰ってくることもあるとのことでした。もちろんその納得の中には、ピアノの状態に対する価格の妥当性という面もあるのだとは思いますが、とにかくその手間ひまたるや気の遠くなるような大変なものというのが率直な感想です。

前回も少し触れましたが、ここの価格は望外のもので、疑り深い人はその安さから不安視することもあるかもしれないと思うほどですが、マロニエ君の結論としては、購入者はピアノの状態を見て聴いて触れることは当然としても、お店の方の人柄とかピアノに対するスタンスというものが、もうひとつの大きなバロメーターになると思います。
というのも、ピアノのような専門領域を多く含んだものを購入する場合、すべてを素人が自分でチェックすることはまず不可能で、あとはお店に対する信頼しかないわけです。
とりわけヴィンテージと言われるピアノになればなおさらで、修理や調整を手がけ、すべてを知り尽くした人だけが頼りです。

最後に、ヴィンテージピアノといっても、きちんと適切な修理調整をされたものは、けっして一般的なイメージにある古物ではないことを強調しておきたいと思いますし、下手をすれば人工合材の寄せ集めのような新品ピアノなどより、この先の寿命もよほど長いかもしれません。
今回弾かせていただいたいずれのピアノも(とくに3台は戦前のもの)、古いピアノにイメージしがちな骨董的な雰囲気とか、賞味期限を過ぎたもの特
有のくたびれた感じなどは皆無で、90年ほども前のピアノという事実を忘れてしまうほど健康的でパワーがあって、少なくとも自分の命のほうが短いだろうなぁと思えるものばかりでした。


2017/09/26 Tue. 02:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit