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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

イケメン◯◯ 

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。


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2018/10/02 Tue. 02:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

テンポ 

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。

2018/09/11 Tue. 02:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

映画の開始時間 

久しぶりに映画館を訪れて感じたこと。

マロニエ君は映画は普通に好きですが、かといって新作にアンテナを立てて公開中の作品をわざわざ見に行くほどの熱はありません。
よってふだんは映画館はまず行きませんので、『羊と鋼の森』を見るために久しぶりに映画館を訪れ、そのときにいろいろと感じるところがあり書くことに。

行ったのはショッピングモール内にあるシネマですが、入場券の購入方法も販売機の液晶画面を迷いながら見て、映画のタイトルや時間、人数、支払い方法などを順次押していくシステムで、こちらは映画を見に来たのに、機械相手に無事にチケットを買えるかどうか、いきなり試されてるようでもあり、終始だれとも口をきくことはありません。
つくづくと、今の世の中はこうして人と関わることが徹底して排除され、相手にするのはいつも液晶画面でありシステムであることを痛感させられます。

上映時間はむろん予めネットで調べてあったし、この発券機でも同じ時間が表示されています。

入り口のソファーで待っていると、各映画の上映時間が近づくたびに上映される部屋の番号と、どれが入場できる時間になったかということがアナウンスされます。
それにしたがってこちらも入場。

ところが、シートに着席して暗いスクリーンに灯が入ると、まずはコマーシャル、上映にあたっての注意などがくどいほど流され、それからというもの延々と洋画・邦画の各予告編や飲食店の宣伝などがいつ果てるともなく続き、目指す本編が始まったのは、本来告知されていた時間を20分もオーバーしており、これにはさすがに憤慨しました。

今どきのことなので、多少の宣伝や予告編があるのはわかるけれど、20分はあんまりです。
こちらはそこに出向いて、お金を払って、見たい映画を見るために来ているわけで、興味もないものを容赦ない大音響とともに延々と見せられることの苦痛はかなりのものでした。

これは映画館をよく知る人にとっては普通のことかもしれないし、慣れていればそれを見越した行動が取れるのかもしれませんが、たまに行くほうはそんなことは知らないし、何時と書かれていれば素直にその通りに受け止めるわけで、実際の上映開始がその20分も後になるなど考えもしませんでした。
同時にこれは、いささか問題ではないかと思いました。

もちろん、コマーシャルや予告編が悪いとまで言う気はないし、特に予告編に関してはそれを今後の参考にされる方も多いかとは思いますから、それはそれで否定するつもりもありません。
ただ、事前情報として、広告を含む上映開始は何時、本編開始は何時ということはもう少し明確にすべきで、今はやりの言葉で言うなら「正しい情報開示が必要」ではないかと思います。

なぜなら、広告や予告編を見るか見ないかは個人の意思によって決められるべきで、そこには選択の自由があり、本編直前に会場入りし、その映画だけを見たいという意向の人もいるわけです。
しかも鑑賞にあたっては定められた料金を払っているのですから、無料垂れ流しのテレビのコマーシャルとは本質的に違うし、ましてそれが断りもなく一方的に20分というのはマロニエ君にとってはまさに拷問に等しいものでした。

こんなことは映画だけであって、コンサートなどは何時開場、何時開演とあれば、当然そのようになっているわけで、開演時間になったらそのホールの今後のコンサートの予定などが延々と紹介されるなんてことはありません。
スポーツ観戦などはほとんどしたことはないけれど、試合開始何時とされながら、その時間になったら、別の競技の宣伝や近くのレストランの紹介などが延々20分もされたら、きっと観客は怒り出すのではないでしょうか。

これは映画だけの悪しき慣習だと言わざるを得ません。
ただ単に、予告編開始何時、本編開始何時、と明記しておいて、予告編が見たい人はその時間に合わせて行けばいいだけの話だと思うのですが。
この点に関しては、まったく罠にはめられたような印象で、その20分のおかげですっかり疲れてしまって、本編の開始時に新鮮な気持ちでスクリーンに相対することができなかったのは、すこぶる不愉快でまんまと騙された気分でした。

2018/07/10 Tue. 02:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

春は忍耐 

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。


2018/05/16 Wed. 02:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

歩行者 

すでに同様のことを書いたかもしれませんが、最近は以前より明らかに車の運転がしづらくなりました。
全体に速度が落ち、流れが悪くなり、個々の車の動きも円滑さを欠いていると感じますが、そこまでは「安全」ということを再優先に考えればやむを得ないこと思います。

しかし、その「安全」に対する一番の脅威は自転車であり、さらには一部の歩行者にも少しあるといいたい。
近ごろの自転車にたいする恐怖感は深まる一方で、実際にそこに潜む危険性はかなり高く、しかも改善される兆しもありません。
自転車の勝手気ままな動きはクルマのドライバーにとって、恐怖以外の何者でもありません。

車道でも歩道でもお構いなしで、夜間の無灯火なども当たり前。
それがコウモリのようにどこから突如現れるかも分からないし、おまけに大半の自転車は自ら危険を回避する気もなく、すべてはクルマ側の注意と動向にかかっているのはあまりに不条理で、おかげでマロニエ君は自転車の姿形を見るだけでもストレスを感じるようになってしまいました。

さらに最近では、自転車だけでなく、歩行者までもが自らの安全というか、自分も交通社会の一員だという認識がかなり低下していると感じざるをえないシーンが多すぎるように思います。
とりわけ感じるのが横断歩道。
横断歩道であるのをいいことに、クルマへの嫌がらせではないかというほどゆっくり渡るなど朝飯前で、中には横断歩道以外の横断もあり、しかもまったく慌てる風もなく「こっちは歩行者だ。注意しろ!」といわんばかりだったりすることも珍しくありません。

さらにはちょっとした特徴があって、世代による違いもあるようだと最近は感じます。

例えば、たった一人の歩行者であっても、右左折してくるクルマはその歩行者が横断歩道を渡っている以上、無条件に停止してじっと待つことになりますが、それがある程度年配の方であれば、自分のために車が待っていてくれていると察知して、ほんの少し小走りになるとか、できるだけすみやかに歩くなど、待っているクルマに対してなにかしら心遣いや意識が働いていることがわかり、こちらも「どうぞごゆっくり」という気持ちになるものです。

ところが、やや世代が下がってくるに従い、歩行者は横断歩道を渡ることを「権利」として捉えているように感じます。
いま自分は権利を行使しているのだから、待っているクルマへの心遣いなど無用だということでしょう。
それがわかるのが嫌なんです。
歩行者は道交法上の最弱者であり、ゆえに優先的に保護され厚遇されて当然で、その歩行者様がいままさに横断歩道を渡っているんだからクルマはいかなることがあろうと、横断が済むまで待つのは当然といった上下関係のような空気が漂います。
なんだかこれ、法権力をかさにきたパワハラでは?と感じるような空気が流れます。

ドライバーはまさにムッとするような気持ちで、不愉快を押し殺してこの場をやり過ごすことのみになります。

中には、待っているクルマには一瞥もくれず、音楽を聞きながらの悠々たる歩きスマホだったり、横の人物とだらだら会話しながら、まるで美術館でも歩くようなスピードで横断歩道を渡りますし、ひどい場合は歩行者用の信号が赤になってもこの人達はまったく急ごうともしないのは呆れるばかり。

これが多いのが、見たところだいたい20代~40代ぐらいで、意外なのは、実は子供から中学生ぐらいのほうがまともな人間性を感じることがあるのです。
彼らのほうが昔ながらにごく普通に渡ってくれるし、中には待っているこちらへ軽く頭を下げて勢い良く自転車のペダルを漕いでいく子などがけっこういるのは、とても意外であるし、殺伐とした中でせめてホッとさせられる瞬間でもあります。

もともとこれが自然であって、世の中の多くはお互い様の精神で成り立っており、上記のような態度には、どうみても人を待たせていることにいっときの快感であったりちょっとしたいじわるを楽しんでいるわけで、人の心の中にある醜いものがこんなちょっとした場面で顔を出しているように見えます。
中学生ぐらいまでは素直だった人が、社会に出て揉まれたり苦労を重ねていくうちに、こういう暗い憂さ晴らしも覚えていくのかと思うと、経験や学習というのは必ずしもプラスばかりではないなという気がします。

2018/04/26 Thu. 01:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

対応のまずさ 

先日の夕方、注文していたものが届いたというので、それを受け取りにデパートに行った時のこと。
駐車場で珍しい経験をしました。

ここの駐車場は地下にあり、スロープを入ると中は4つのブースに分かれており、おそらくは車体のサイズでそれぞれに振り分けられるのですが、中で係の人が待機しており、車のサイズを判断して「❍番に行ってください」と告げられます。

指定されたブースにいくと、正面に鏡と「前進」「停止」などの電光表示のあるサインにしたがって車を止め、降りてPブレーキをかけてドアロック、横のドアから中に入ると、車の周りは無人になる。係の人が安全確認をしてボタンを押すと、車はザーッと横へスライドさせられて機械の中に入っていき、上からガーッと分厚い扉が落りてきてしばし車とのお別れになります。

この扉が閉まった時点で、駐車券が発行されるというシステムで、ここは入る時だけの場所。出るときは建物の正反対に行ってそこで精算をしたりサービス券を使ったりして、最後に自分の車を入れたブースの前に行き、駐車券を入れると順番に車が出てくるというシステムです。

さて、ひととおり買い物が済んで駐車場の精算所にいくと、ただならぬ雰囲気にびっくり。
平日にもかかわらず人でごった返しており、ここはよく利用するものの、こんな光景を見たのは初めてでした。

まずはサービス券をもらおうと、駐車券とレシートを出すと、「実は停電がありまして…」と初老の男性が話し始めました。
その説明がまったく要領を得ないもので、なんと言っているのかわからず、問いにも答えられず、困惑しているのがわかります。やむなく何度も人を変えながら情報収集した結果、概ね下記の通り。
停電があって駐車場の機械が全停止してしまった。店内の照明は自家発電で賄っているものの、駐車場のシステムは大量の電力を必要とするため、それでは動かない。
しばらくして停電そのものは復旧したが、一旦止まった駐車場のシステムは、専門家があれこれ設定しないと再開できないため、至急業者を呼んでいるところというもの。

いつ直るかもわからないため、店内で遊んでいるわけにもいかないという選択肢のない状態。

ほどなくして、作業服やつなぎを着た業者の人達が5〜6人やって来て、ああこれで動くのかと思ったら、そこからさらに時間を要することに。
各ブース脇についた液晶画面のようなものをしきりに操作しているものの、ウンともスンとも言わないのは傍目に見ていても明らかで、その間にも買い物を終えた人達が車を出そうとずんずん増えていきます。

この間、じっと待たされた我々にはほとんど説明らしい説明はなく、見通しも立たず、「お急ぎの方には往復分のタクシーのチケットをお渡しします。」というだけ。
最終的にはそれも検討しなくてはいけないことかもしれないけれど、そうしたらまた翌日車を取りに来なくてはならず、それも面倒なのでできればこの日の復旧を待って、乗って帰りたいと思いましたし、多くの人が同じなのか、タクシーで帰る人はほんの一握りでした。
マロニエ君を含めて何人もの人が係員に今どうなっているのか、見通しなどを尋ねますが「いま業者がやっていますから!」の一点張り。

それからしばらくして、第1ブースと第2ブースは復旧して車が出てくるようになったものの、第3と第4は依然としてまったく動き出す気配もないままで、ようやくわかったわずかな情報によると、第3と第4は機械内で車が移動している最中に停電したので、車を所定の場所に戻さないと再始動そのものができず、そのために業者が車を定位置に戻すべく、地下深くで手動で作業をやっているということでした。

もうこの時点で30分以上待たされています。
さらに、それからかなり経ったころ、はじめの車が手動で出口にスライドされてきて、それからついに機械が動き出しました。
結局自分の車が出てくるまでに、約1時間ほど狭い空間で待たされましたが、その間のデパート側の対応はお粗末を極めるものでした。

駐車場エリアには、デパートの社員らしき人はおらず、全員が駐車場担当のやや高齢の方ばかりで、あとは機械の業者のみ。
故障や不具合そのものはやむを得ないことだと思うけれど、あれだけ大勢のお客さん達が足止めを食って大変な迷惑を被ったのだから、デパート側としてはなんらかの責任ある立場の者が事態収拾の指揮をとり、お客さんにお詫びと説明と随時必要な対応をすべきではなかったと思いました。

しかも、そのデパートは日本最大手の地元でも老舗百貨店なのですから、これには失望しました。
幸いこの駐車場は、自分の車が出てきたことをガラス越しに確認し、仕切りドアのロックが解除されて車のある外へ出ていくシステムなので、寒い思いこそしなかったものの、広くはない待合室には自分の車を出したくても出せない人々がぎっしり押し込められていたわけで、もしマロニエ君だったら皆さんにキチッとしたお詫びと、せめて紙コップでいいからお茶の一杯ぐらい出しますね。

美しい店内に、高級品を並べることだけではなく、いざというときの対応や処理のしかたに、その店の質が顕われるもの。
マロニエ君の見るところ、この時の店側の対応はかなりマズイものだったにもかかわらず、大した混乱も不満も出ることなく終わったのは、ひとえに事態をおとなしく耐えてくれたお客さん達に助けられた面が非常に大きかったと思いました。

2018/03/01 Thu. 02:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プロバイダーの優劣 

いきなり笑われるかもしれないけれど、とうとう我が家も光回線というものに変更できました。

もともと固定電話の回線を使って始まり、それがいつしかISDNというものになり、さらに数年後にはADSLと言われるものに変わりました。
マロニエ君はこの道は、自分でも情けないほど「超」のつく苦手分野で、言葉や文字列のひとつひとつが何を意味するのか、違いは何かなども、ほとんどわかったためしがありません。

とりあえず時の流れで、勧められるまま人の手助けを借りながらに変更してきただけ。
今度は「光回線」というものが出てきて、それが主流になりつつあるらしいことは知っていましたが、まあどうでもいいやという感じでずーっとうっちゃってきたのでした。
しかし業界は放っておいてはくれないらしく、変更を促す営業の電話がやたらめったらかかってくるようになりました。
でもADSLでもいちおう問題もなく使えているのに、あえて慣れないものに変更するのがイヤで断り続けていました。

しかしそれで「はいそうですか」と引き下がるような相手ではなく、そのしつこさと言ったら並大抵ではありません。
平日が無理だと思ったら、今度は土日の夜なんかにまでかけてくるのですからたまったものではありません。
事務所にも同様の電話攻勢が絶えず、ついにそれに耐えかねた一人が「光にしたほうがいいのではないですか?料金も今より少し安くなるみたいだし…」と言い出したこともあり、ついに承諾することに。
ちなみに電話をかけてくるときは、だいたい「NTT」を名乗るか、あるいはそれに続いて横文字の名前を並べます。
だから、聞いている側はNTTもしくはそれに連なる子会社のたぐいと思うのは当然です。

承諾してからというもの、待ってましたとばかりに次々に郵便物が届き、差出人はよくわからない会社名だったりでしたが、まあよほど詳しい人でない限り、あまりの面倒臭さにまともに読む気にもなれません。

さて光回線にするには線を引き込む工事が必要となり、あれだけ電話してきてすぐにでも!という感じだったのに、いざその日取りを決めるとなると10日先2週間先という具合で、まあこちらとしても急いでいるわけでもないので待つことに。
当日工事に来たのはまぎれもなくNTTで「フレッツ光」とか言っているので、ここでもメインはやっぱりNTTだと思ってしまいます。

ところがあとでわかったのですが、工事自体はNTTでも、電話をかけてきたのはプロバイダーへと振り分ける仲介業者だったようで、さらに営業マンがやってきてあれこれ有利で最安となるプランを提案したのは、こちらが選んだわけでもないプロバイダー会社の営業マンでした。
もうなにがなんだかわからない!!!

実はこれ、少し前の話で、初めての光通信というものが我が家でスタートしたのが昨年の9月でした。

マロニエ君は何度も言うようですが、この分野は最も苦手でその理解力対応力はまさに老人並なのですが、それでもADSLから光回線になれば、グッと速度も上がるのかと期待していました。
通常のメールや調べものではまったく痛痒はないものの、YouTubeの動画などでは、反応が遅かったり映像が途切れたりということがあったので、そういうことからも一気に解放されるものだと思っていたのです。

ところが光回線がスタートしてみると、特段に早くなったというような印象はなく、なんだあまりかわらないじゃん!とガッカリ。
それどころか、使ううちにわかったことは日によって時間帯によって通信速度は絶望的に遅くなりだし、ひどいときはただYahooのトップページを開くにも数分かかるといった有り様で、光どころか最も初期の電話回線より劣るような印象。

これでは話にならないし、まったく使いものにならないと、さすがのマロニエ君も少し頑張りました。
今どきなので、ひとつの会社に電話するだけでも、すぐ人と話せるわけではないので、あちこちやっているとこれだけで半日ぐらいすぐにかかります。これを数日やっていると、だんだん見えてきて、プロバイダーが原因だというのがわかりました。

ネットでその会社名を検索すると、その評価は惨憺たるもので、中には「最も契約してはいけないプロバイダーのひとつ」とあり愕然となりました。
もちろん、その会社にも何度も電話しましたが、結論から云うと打つ手はないらしく、これで我慢するか、解約して別会社と契約するかの二つに一つ。しかも解約するには規定により「解約料」なるものが発生し、そんなものはぜんぜん納得出来ないけれど、それでもなんでもこのままよりはいいと思って解約することに決意!

一方、新しいプロバイダーはとにかく有名な大手がいいという友人のアドバイスもありそれにしました。
その結果は、「今までのあれはなんだったの?」と思うほどスイスイと繋がり、いらいこの手のストレスから解放されました。
おまけに建物内はすべて電波が行き届いて、みんなが幸せ、こうも違うものかと思うばかりです。

プロバイダー選びというのはいかにピンキリで重要なものか、しっかり勉強になりました。
みなさんくれぐれも気をつけてくださいね。

2018/02/12 Mon. 13:07 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イヤな光景 

イヤな光景を目にしました。
先日の平日夜9時過ぎのこと、ショッピングモールに買い物に行って、本屋に立ち寄った時のことでした。
雑誌を立ち読みしていたら、わずか3メートルぐらい先になんだかちょっと違和感を感じました。

人同士がペタッとくっつき合ってほとんど声も出さずにしきりになにかに集中しているようで、どうも小学校高学年~中学生ぐらいのまだ背が伸びきっていないひょろっとした女の子と、ほぼ間違いなくその両親と思われる3人。

女の子を中心に、両親と思われる2人が女の子に対して直角に夫婦が向き合うようにして肩が触れ合わんばかりに立っており、要するにこの3人は上から見ればコの字型を作っていました。
母子はなにかヒソヒソ言っているけれど、お父さんらしき人は終始無言。
女の子の手にはスマホがあり、カシャッ、カシャッ…とカメラのシャッター音がこちらまで聞こえてきます。

何をしているのだろうとつい見ていると、お母さんらしき人が手に本を持ち、娘がそれを写すたびに手早くページをめくるという連携プレイであることがわかりました。
左右を固める両親に守られながら、女の子は無表情にひたすらシャッターを押し続け、おおよその印象だけれど10ページぐらい撮影した感じでした。
両親は、本来とは違う意味でのまさに保護者であり協力者、いや悪行の仲間というべきか。

それが終わると固まっていた3人はサッとばらけて、本を持っていたお母さんにいたっては、その本を平積みの棚にポンと軽く放り投げるように置きながら、もう用は済んだとばかりにその場を後にしました。

売り物の本を買わず、必要なページだけを撮影していることは明白だったので、こちらもついイヤな気分になって、こっちに向かってくる3人の顔を遠慮なく正視してやりました。
娘とお父さんはややうつむき加減で通り過ぎましたが、お母さんはマロニエ君の視線に気づいたけれど、一切表情を変えることはなく、普通の声でどうでもいいような雑談をしながらこちらの横の通路を通り過ぎて行きました。

そこは、参考書のコーナーらしく、遠目に「英語」という文字は見えましたが、どんなものかわざわざ近づいて確認する気にもなれませんでした。

でも、本屋の商品である本の中をスマホで撮影するというのは、いわば「情報の万引き」です。
そんな不正行為そのものもむろんどうかとは思うけれど、そんなことを両親が我が子にやらせる、あるいは子供がそうするといったのならそれをせっせと手伝うというのは、激しく不愉快な気持ちになりました。

しかもいかにもそんなことをしそうな感じはなく、どこにでもいそうな普通の善良な市民といった感じの3人であったことが、よけいやっていることとのギャップがあって凄みを感じました。

思春期という最も多感な時期に、子供にそんな犯罪に近いようなことを平然とやらせる両親。
そんな調子では、まともな教育もしつけもあったものではないし、その子がどんなずるい手を使ってでも、自分の目先の利益を追い求めるようなことをしても、なんの抵抗感もないような人間になってしまうのは当然だろうなと思いました。

スマホのカメラもきっと画素数も多くて、拡大にも十分堪える写真が取れるのだろうし、まさに便利で高性能な機械も使い方次第というところ。
昔なら007に出てくる産業スパイのような行為でした。


2018/02/07 Wed. 03:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ある日突然 

つい先日のこと。
固定電話(しかも事業用)が突然つながらないみたいですとのことで、あわてて受話器をとってみるも、ツーツーツーという話中のような信号音がするだけで、ダイヤルを押しても発信もなにもできません。
携帯からその番号にかけても、まったく音がしないか、「繋がりません」のアナウンスが出るかのいずれかで、要するに電話がまったく使えない状態になっていることがわかりました。

はじめは電話機そのものの故障かと思い、ACアダプターの電源を抜いたり入れたり、通信のほうの線を外しては差し込んでみるなど、いろいろ試みましたがまったく変化ナシ。
もしやと思って、もうひとつの電話も確かめてみるとまったく同じ状態で、これはもはや電話機の問題ではないことは明らかでした。

事業用の電話はいわばビジネスの命綱のようなものなので、これはただごとではないのです。

そこですぐにNTTに連絡しようと、ネットで電話番号を調べてみますが、今や時代が違います。
ご多分にもれず、近ごろはなかなか電話番号が記載されておらず、一刻を争う緊急時にサイトの中をイライラしながら探してまわらなくてはなりません。
現代はどこもだいたいこのパターンで、ようやく電話番号らしきものが見つかってダイヤルしても、まずは決まりきったバカバカしいアナウンスを延々と聞かされて、その後ようやく指示に従って該当する番号を押したり♯を押したりして、やっと繋がるかと思ったら「ただいま、電話が大変込み合っております。恐れ入りますがこのままお待ちいただくか、しばらく経ってからおかけ直し…」となって、こんなときに湧き上がる嫌悪感は並大抵のものではありません。

しかし、固定電話が繋がらないとあっては、仕事に差し支えるためなにがなんでも復帰させなくてはならず、ガマンして待ち続けました。10分ほど待ったころ、ヘンな音楽はやっと呼び出し音に変わり、続いてようやく人間の声が聞こえました。
ここまでくるだけでも大変です。

すぐに状況を説明すると、「恐れ入りますが、故障係のほうにおかけなおし下さい」となり、その番号を聞いてかけると、またアナウンスが始まり「なお、この会話は品質向上のため録音させていただいております」から聞かされ、さらにアナウンスは延々と続きました。
あげく、やっとわかったことは、90秒以内に故障の内容と連絡先を、練習もなしに声で喋って、一旦電話を切り、先方から連絡があるまで待たされるというシステムで、まずこれに仰天しました。

しかも、「折り返しのお電話までには2時間以上お待ちいただくこともあります」といったのには、ほとんど頭がクラクラしそうになりました。
そもそも、電話が故障して使えないのに、こういうシステムをとるとはいかなることか。
NTTなのに故障ようにも、一向に人と話ができない。
たしかに現代人はたいてい携帯電話を持っているので、最終的に連絡はつくかもしれませんが、どうにも納得できません。

1時間ほど待っても連絡はなく、これが家庭用電話ならまだしも、仕事にも差し支えがでているので、また別の0120を探しだして、同じアナウンスを聞いてやっとオペレーターにたどり着き、状況を説明して「大至急連絡をとってほしい」と頼みました。
ようやくこちらの熱意が伝わったのか、それからほどなくして修理の担当者から連絡はありましたが、曰く、いま最も早い訪問でも明後日になりますというのには、ひっくり返りそうになりました。

それでは困るという事情を必至に説明した結果、さらに1時間後についに修理担当の人がやって来ました。
それから30分ほどあちこちを調べた結果、外部の線が老朽化して接触が悪くなっているということで、直ちに応急処置となりました。
老朽化した線は建物外、すなわちNTTの管理下にある部分で、完全にこちらの責任外で発生したトラブルでした。

ともかくその日のうちに電話はなんとか復旧しましたが、こんなことってあるんですね。
2018/01/29 Mon. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ドラマみたいな話 

つい先日のこと、友人から「本当にそういうことがあるのか…」というような話を聞きました。

その友人が昔勤めていた企業に、同郷で高校も同じということで親しくなったAさんという先輩がいたことは聞いていました。
後年、それぞれ別の理由で退社したものの、個人的な付き合いは続いて、たまに呑んだりメールのやり取りをするなどで近況を知らせ合っていたといいます。

Aさんは少し変わった家庭に育ち、若い頃から学業の成績などにかなり強くこだわる両親のもとに育てられ、幸い成績もよかっため就職までは順調だったようですが、その後、ある女性と出会って結婚を決意することに。
ところが両親の猛反対に遭い、Aさんの胸中には家族内に流れる偏った価値観に嫌気がさしていたのか(どうかはわかりませんが)、それが引き金となって親きょうだいと決別をしてしまいます。

その女性は、Aさんの両親の求める息子の結婚相手としての条件を満たしていなかったことが原因のようで、それがどうも学歴に関することだったらしく、Aさんとしても長年蓄積された思いもあったのか、ついに堪忍袋の緒が切れたのでしょう。
実家とは、事実上の絶縁状態に突入したそうです。

住まいも変え、勤め先も変えてその女性と結婚する道を選び、その後二人の子供にも恵まれ、しばらくは穏やかな日々が続いたようですが、その子らが受験や就職をするころになって、ある出来事が起こります。

単身赴任中、理由はよくわからないけれど、そうまでして一緒になった夫婦が不仲となり、それがこじれにこじれてお互いに修復できないところまで発展。
Aさんは、せっかく建てた家にも帰らなくなるほどの確執となり、その方は次第に精神的にも追いつめられ、とうとう会社まで辞めることに。

そのころ、友人の携帯には連日のように悩みを訴えるメールが届き、友人は困惑と同情の狭間で、せっせと励ましの返信を送り続けていたようでした。
Aさんは苦痛と孤独に苛まれるも、非常にプライドの高いところがある男性で、むかし席を同じくした同郷の後輩が唯一の心の拠り所だったのかもしれません。
そのメールの往来は、実に数年間、数百に及ぶ膨大な数に渡るもののようで、当時からマロニエ君もそのAさんから送られてくるメールのことは折りに触れ聞かされていました。

Aさんは会社をやめ、やがて故郷に戻ったものの生活にも困窮することになり、ついには疎遠だった実家にも救いを求めたようでしたが、それもうまくはいかなかったようでした。
その頃になると、ほとんど毎日のように自分の思いを綴ったメールが届き、友人も大いに同情はしつつも、いささか持て余し気味といった様子でしたが、それでもAさんの窮状を察してメールを返していたようです。

この頃になると、友人もその先輩のことがいつも気がかりで心の負担にもなっていたようですが、どうすることもできずひたすら励ましのメールを送ことを続けていました。

それが数年前のあるときから、ぱったりメールも来なくなり、連絡が取れなくなったようでした。
友人は自分が何か悪いことを書いたんだろうか?などとずいぶん悩んだ挙句、もしかしたら悪いことが起きているのではないかとまで思うようになり、事実を知るのが怖くなり、ついに連絡は完全に途絶えてしまい今日に至っていたようでした。

ところがごく最近のこと、NHKの『ドキュメント72時間』という番組内で、友人はちょっとした群衆の映るシーンの中にAさんの顔を見出したのです。
どの回というのは控えますが、たまたま年末にまとめて放送されたものを録画していたらしく、まさかと驚いて何度も繰り返し確認したそうですが、その中にまぎれもなくAさんが映っていると確信が持てるに至り、友人の安心した様子と言ったらこっちが驚くほどでした。

どうやら友人はよほど心配していたようで、万一最悪の事態まで考えてしまうこともあった由で、ともかくも健在であることを確認することができて安心し、数年ぶりで携帯のショートメールにメッセージを送ってみたところ、翌日Aさんからすぐに電話がきたそうです。
パッタリ連絡がなくなったのは、携帯を紛失してしまい、そこに入っていた連絡先のすべてが失われたため、電話もメールもできなくなったということでした。

テレビドラマなどでは、偶然テレビ画面の中に犯人や失踪した人間の顔が映るというようなシーンを見たこともありますが、現実にそんなことがあるなんて、ただもうびっくりでした。
Aさんはなんとか頑張っているようで、まずはなによりでした。


2018/01/19 Fri. 02:15 | trackback: 0 | comment: -- | edit