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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

映画と特集と名簿 

宮下奈都原作の『羊と鋼の森』が映画化されたことで、最近は何かとこれが宣伝されていますね。

マロニエ君は本が出てすぐに読みましたが、自分がピアノ好きで調律にも興味を持っているからこそ、まあそれなりに読めましたが、あの内容が一般人ウケするとは思えなかったし、まして映画化されてこれほど話題になるなんて、まるで想像もしていませんでした。

映画化どころか、もし自分が小説家だったら、ピアノ調律師の話なんか書いても誰も興味を示さないだろうというところへ行き着いて書かないと思うのですが、近ごろはマンガの『ピアノのムシ』みたいなものもあるし、何がウケるのかさっぱりわかりません。

もしかすると、小説も漫画も映画も、ありきたりな題材ではもはや注目を浴びないので、たとえ専門性が高くても、これまでだれも手を付けてこなかったジャンルに触れてみせることで世間の耳目を集めるということで、ピアノとか調律といったものも注目されているのか…。

雑誌『ショパン』でも巻頭でこの映画『羊と鋼の森』が大きく特集され、その繋がりで調律に関する記事にもかなりページが割かれていた(ように書店では見えた)ので、普段は立ってパラパラしか見ないのに、今月号は珍しく購入してみることに。

ただ、自宅でじっくり眺めてみると、期待するほど濃い内容でもなく、巻頭グラビアでは8ページにもわたって主役を演じた山崎賢人さんのファン向けとしか思えない、同じスタジオで同じ服を着た写真ばかりが延々と続き、そのあとにあらすじ、登場人物紹介、映画の写真館などのページとなり、なにも音楽雑誌でこんなことをしなくてもと思いました。
こういう芸能情報的なページ作りを得意とする雑誌は他にいくらでもあるはずで(知らないけれど)、『ショパン』ではピアノの雑誌としての独自の専門性をもった部分にフォーカスして欲しかったと思います。

映画紹介・俳優紹介のたぐいは実に24ページにもおよび、そのあとからいよいよ調律に関する記事になりました。
しかし、それらはピアノの専門誌というにはあまりにも初歩的で表面的なことに終始しており、見れば見るほど、買ったことを少し後悔することに。

変な興味をそそったのは、特集の最後に調律師の全国組織である「日本ピアノ調律師協会(通称;ニッピ)」の会員名簿が記載されていることで、ざっと見わたしたところ2千数百名の会員が在籍しておられるようでした。

それでついでにこの協会のHPを見ましたが、何をやっている組織なのか部外者にはよくわからないものでした。
会員になるにはまず技能検定試験の合格者であることが求められ、書類審査があり、会員の推薦が必要、その上で理事会の承認を得るという手順を踏んでいくらしいことが判明。
ただ、どこぞの名門ゴルフクラブやフリーメーソンじゃあるまいし、推薦まで必要とは大仰なことで、なんだかへぇぇ…という感じです。
さらに入会金と年会費が必要で、年会費だけでも32,000円とあり、ここに名を連ねるだけでも調律師さんは毎年税金を払うみたいで大変だなぁ…と思いました。

で、単純計算でも会費だけで年間7000千万円以上(HPでは会員約3000人とあり、その場合約1億円!)の収入となりますが、今どきのことでもあり、果たしてどういった運営・運用・活動をされているんでしょうね。
少なくとも、それだけのことをクリアした人は名刺にこの組織の会員であることが書けるということなのかもしれませんが、いちピアノユーザーとして言わせてもらうと、その人の技術やセンスこそが問題であって、ニッピ会員であるかどうかなんて肩書はまったく問題じゃないし、何も肩書のない人が実は素晴らしい仕事をされることもあり、とくに重要視はしません。
むしろあまり肩書をたくさん書き並べる人は、却ってマロニエ君としては警戒しますけど。

名簿の中にマロニエ君の知る調律師さん達の名を探すと、会員である方のほうがやや多いけれど、大変なテクニシャンでありながらここに属さない方も数名おられて、そのあたりにも各人の方向性やスタンスが垣間見られるようでした。
当然ながら、真の一匹狼を貫く方はここには属さないということなんでしょう。

陶器の酒井田柿右衛門が濁し手の作品で、工房の職人さんの描いたものには「柿右衛門」の文字が入るけれど、自身が手がけた作品には逆に何も書かないこと(文字を入れなくてもわかるだろう、真似できるものではないから名を入れる必要もないという自信の表れ?)を思い出しました。

さらにその後のページでは、『羊と鋼の森』の映画の効果で調律師を志す人が増えるだろうという見立てなのか、調律師養成の学校紹介や広告が続きましたが、たしかに映画の影響というのは小さくないものがあるでしょうから、これがきっかけで調律師になろうと人生の方向を定める若者がいるのかもしれませんね。
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2018/06/22 Fri. 02:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

最後のピレシュ 

Eテレのクラシック音楽館で、マリア・ジョアン・ピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/NHK交響楽団によるベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番を視聴しました。

最近は、この番組の冒頭、N響コンマスのマロさんが番組ナビゲーターをつとめていますが、あれってどうなんでしょう。
いつも独特のぎらっとした服装で直立不動、トークも硬くこわばったようで、どことなく怖い感じがするのはマロニエ君だけなのか。
トークの専門家ではないことはわかるけど、もうすこしやわらかな語り口にならないものか…。

そのマロさんの解説によると、ピレシュは今年限りでピアニストとしての引退を表明しているんだそうで、これが最後の来日の由。

マロニエ君がピレシュの演奏に始めて接したのは、モーツァルトのソナタ全集。
たしか東京のイイノホールで収録され、DENONから発売されたLPで、これが事実上のレコードデビューみたいなものだったから、ああ、あれから早40年が経ったのかと思うと感慨もひとしおです。

さて、引退を前に演奏されたベートーヴェンの4番ですが、マロニエ君の耳がないのでしょう、残念ながらさして感銘を覚えるようなものではありませんでした。

この人は指の分離がそれほどよくないのか、演奏の滑舌が良くないし、手首から先が見るからに固そうで、それを反映してかいつも内にこもったような音になっていて、彼女の出す音にはオーラのようなものを感じません。
それと、これを言っちゃおしまいかもしれませんが、もともとさほどテクニックのある人ではなかったところへ、お歳を重ねられたこともあってか、聴いていて安心感が失われてハラハラしました。

解釈については、本来この人なりのものがあるようには思うけれど、全体に限られたテクニックが表現を阻んでしまい、きっとご本人もそのあたりはよく承知されているはず…と勝手な想像をしてしまいます。
4番は早い話がスケールとアルペジョで構成されたような、弾く側にすればあやうい曲で、正確な指さばきが一定の品位の中で駆け回ることが要求されますから、ある意味、皇帝よりきちっとしたテクニックが求められるのかもしれません。

ピレシュの音楽は全体にコンパクトかつ虚飾を排したものであり、それがときに説得力をもって心に染みることもあるけれど、もっと大きく余裕ある羽ばたきであって欲しいと感じる局面も多々あり、この4番でも、音楽的にも物理的にももっとしなやかで隅々まで気配りの行き届いた演奏を求めたくなってしまうのが偽らざるところでした。

彼女のピアノが長年描いてきたのは、毒や狂気ではなく、音楽のもつ良識の世界だから、そこにまぎれてそれほど目立たなかったのかもしれませんが、この人は意外に穏やかな人ではなく、演奏もいつもなにかにちょっと怒っているようにマロニエ君には感じられ、ディテールは繊細とはいい難いドライな面があり、必要性のない叩きつけ等が多用されるのは、この人の演奏を聴くたびに感じる不思議な部分でした。

左手の三連音のような伴奏があるところなど、わざとではないかと思うほど機械的に、無表情に奏されることがしばしばあったり、ポルタートやノンレガートなどでも、手首ごと激しく上下させてスタッカートのようにしてしまうなど、決してやわらかなものではない。
もしかしたら、これらはテクニック上の問題かも知れず、名声が力量以上のものになってしまったことに、人知れず苦しんでいたのかもしれないなどと、こう言っては失礼かもしれませんが、ついそんなことを考えさせられてしまうマロニエ君でした。

ただ、それはピレシュが音楽的心情的にドライな人というのではありません。
同じト長調ということもあってか、アンコールではベートーヴェンの6つのバガテルから第5が弾かれましたが、これは初心者でも弾ける美しい小品で、これならテクニックの心配はまったくなく、実に趣味の良い、豊かな情感をたたえた好ましい演奏になっていました。

後半には短いドキュメントも放映されて、若い人へのメッセージとして心の音を聴く、芸術を追求するといったご尤もなことを繰り返し述べていましたし、それはご本人も実際にそのように思っておられることだろうと思います。
ただ、実際の演奏が、その言葉を体現したものになっているかといえば、必ずしもそうとはいえないところがあり、そのあたりが演奏というものが常に技術の裏付けを容赦なく要求する行為であるが故の難しいところなのかもしれません。

最後に、1992年の映像でやはりピレシュのピアノ、ブロムシュテット指揮/N響、場所もNHKホールという、ピアニスト/指揮者/オーケストラ/会場が同じで、モーツァルトのピアノ協奏曲第17番の第2/3楽章が放映されましたが、26年前とあってさすがに体力気力に満ちており、こちらはずっと見事な充実感のある演奏でした。
やっぱりこうでなくちゃいけません。

2018/06/16 Sat. 12:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

安い席 

以前から非常に不思議に感じていたことのひとつ。

それはコンサートのチケットが安い方から売れていくという現象です。
誰しも出費は安い方がいいのは当然ですが、コンサートにおける最安の席というのは、本当に節約に値するのか。
大抵の場合、ステージからは最も遠く離れた場所であったり、シューボックス型のホールでは、左右いずれかの壁の上部にへばり付いたような席で、しかも音響的にも視覚的にも、どう考えても好ましいとはマロニエ君には思えません。

一般的にいえばコンサートに行くということは、生演奏に立ち合い、それを通じて演奏者の魅力や音楽にじかに触れて、音楽が目の前で紡ぎだされる現場の空気を味わい堪能することにあるのだと思います。
その目的を達成するためには、ホール内のどの席に座るかというのは非常に重要で、聴く位置によって演奏から受ける印象は相当違ったものになります。

たとえば、空席の目立つ自由席の演奏会などで、前半と後半で席を変えてみると、思った以上に印象の違いがあることに驚かされることは一度や二度ではありません。この違いは、演奏者や楽器が変わるのに匹敵するぐらいの差があるといっても過言ではないでしょう。

秀逸な音響をもつ中型以下のホールの中には、どこに座ってもそこそこの音質が楽しめるようなところもごく稀になくはありません。
しかし、多くの場合、座る位置で音響は甚だしく違います。
おしなべて最前列付近は音のバランスが悪いし、壁際であれ天井近くであれ、いわゆる空間の偏った隅っこはいい音がしません。

とりわけ大きなホールになるほど、安い席は音は遠く不鮮明で、場合によっては演奏の良し悪しも何もわからないような、ほとんど遠くの霞んだ景色を眺めるような場合のほうが多いと言ってもいいでしょう。
輪郭さえおぼつかない反射音や残響音ばかりを耳にしながら2時間近く耐えることが、果たして音楽を聴いたと言えるのかどうか。

最安の席というのはだいだいそのあたりになっています。
いうなれば、ちゃんとそれなりの理由があるから安いわけで、コストパフォーマンスは低いというべきでしょう。
それなのに安い席から売れていくというのは、マロニエ君的にはまったく不可解なのです。

たとえば飛行機などの交通手段であれば、窮屈な席でも辛抱さえすれば、目指す目的地へと移動できるという実利があり、これはなるほど安い価値があるでしょう。

でももし、映画館で安い席はピントがボケボケだったりしたなら、それで観る人はまずいないだろうと思います。
映像と違って、音は響きとピンボケの境目がわかりにくいということかもしれませんが。

マロニエ君は何度も書いたように最近コンサートは食傷気味ですが、行く以上はせめて一定の席で聴きたいものです。
少なくとも何を聴いたかよくわからないようなものにチケット代を払うのは、一番もったいないと思うのですが。

2018/06/11 Mon. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

キーシンのベートーヴェン 

キーシン初のベートーヴェンのアルバムがドイツ・グラモフォンから昨年発売されましたが、今年になって購入してしばらく聴いてみました。

ドイツ・グラモフォンからは、まだ少年の頃にシューベルのさすらい人などが入ったアルバムや、カラヤンとやったチャイコフスキーの協奏曲などが出ていただけで、その後はRCAなどからリリースされていましたから、久しぶりにこのレーベルに復帰したということになるのでしょうか。

内容はソナタが第3番、第14番「月光」、第23番「熱情」、第26番「告別」、第32番の5曲と、創作主題による32の変奏曲を加えたもので、2枚組となっています。

ただしスタジオ録音ではなく、すべてライブ録音。
しかも一夜のコンサート、もしくは一連のコンサートではなく、10年間にわたるライブ音源の中からかき集めたようなもの。
本人の説明では「私にとってのライブ録音は常にスタジオ録音を上回っています。」ということもあるようで、言葉通りに受け取ればより良い演奏をCDとして残すため、本人の希望を採り入れたということになるのかもしれません。

順不同でソウル/ウィーン/ニューヨーク/アムステルダム/ヴェルヴィエ/モンペリエという具合に、すべてが別の場所で収録されたもので、こういうアルバムの作り方は、現役ピアニストとしては珍しいような気もしました。

これはこれで悪いとは思わないけれど、強いていうなら40代という体力的にも充実しきった年齢にありながら、ひとつのアルバムの中の演奏に10年もの開きがあるというのは、演奏家にはその時期の演奏というものが意識/無意識にかかわらずあるので、できるならもう少し短い期間に圧縮して欲しいという気持ちもないではありません。

その点で云うとポリーニが始めに後期のソナタを入れていらい、その後数十年間をかけてベートーヴェンのソナタ全集を作り上げたのも、あまりに演奏の時期が広がりすぎてしまった結果、全集というものの性質を備えているかどうかさえ疑問に感じました。
いっぽうで、技術と暗譜力にものをいわせて、あまりに一気に全曲録音などしてしまうのも能力自慢と作品軽視みたいで好きではないけれど、できればほどほどのまとまった期間の中で弾いて欲しいという思いがあるのも正直なところです。

そんなことを思いながら、要はスピーカーからからどんな演奏が聴こえてくるのかということに集中したいと思いました。

ピアニストにとってベートーヴェンのソナタは避けては通れぬレパートリーではあるけれど、キーシンとベートーヴェンの相性は必ずしも良くはないと個人的には感じていて、実際聴いてみても、どの曲にも常にちょっとした齟齬というか、パズルのピースがわずかに噛み合っていない感じをやはり受けてしまいました。

暑苦しいほどの壮絶な人生がそのまま作品となっているベートーヴェンと、円熟の時期にさしかかっているとはいえもともと清純無垢な天使の化身のようなキーシンの、叙情そのもののようなピアノには、本質的に相容れないものがあるように感じます。

むろんキーシンらしく、極めて用意周到で一瞬もゆるがせにしない気品あふれる美しい演奏であるのは間違いないし、演奏クオリティの高さとピアニストとしての際立った誠実さを感じるのですが、その結果として演奏があまりに完璧な陶器のようにつややかで、ピアニストと作品の間に横たわる決して合流しない溝のようなものがあることを見てしまう気がしました。

ベートーヴェン的ではない天才が、努力して作曲家に近づこうとしているけれど、それが本質的にしっくりはまらない面があるのを聴いている側は感じるのがもどかしい。

初期のものと最後のソナタではどんな違いがあるのかとも期待したのですが、少なくともマロニエ君の耳には、初期のそれがそれほど初々しくも聴こえなかったし、中期の熱情や告別も含めて、どれも同じような調子に聞こえました。
というか、こういう演奏からは、そういう聴き分けはむしろ難しくなると思われます。

それはどれを弾いてもキーシンが前に出てしまうということかもしれませんが、少なくともベートーヴェンを満喫したという気分にはなれませんでした。
個人的に一番好ましく感じたのは自作の主題による変奏曲で、キーシンらしい破綻というものを知らない嬉々としたピアニズムがここでは遺憾なく発揮されていたと思います。
あまりに深沈として大真面目になっているときより、詩情や感受性の命じるままに嬉々として弾いている時のほうが、キーシンにはずっと似合っているとマロニエ君は思います。

2018/06/06 Wed. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

OHHASHIの210型 

目的もなくネットを見ていたら、大橋グランドピアノの210cmというのが出てきて、目を疑いました。

しかも、ピアノ店の商品として「販売中のピアノ」ということがさらに意外で、あまりにも思いがけないことでただもうびっくり仰天したわけです。
それは京都市伏見区のぴあの屋ドットコムというピアノ店。
そこの店主自ら動画に登場して1台1台ピアノを紹介し、音まで聴かせてくれるというもので、ピアノが好きな人ならきっと一度は見られたことがあると思われる特徴的なサイトというかお店です。

「はい、みなさんこんにちわぁ。ぴあの屋ドットコムのいしやまぁです!」というおなじみのフレーズから始まるピアノ紹介は、数をこなすうちに腕が上がったのか、もともとなのかわからないけれど、ちょっとした芸能人のようにそのしゃべりは明快でフレンドリー、まるでこちらに直に話しかけられているような手慣れたもの。
ときどき珍しいピアノが登場することがあり、石山さんの演奏で音も聴けるということもあり、ついあれこれと見てしまうことがあります。

不思議なもので、この店の動画を見ていると、まるで石山さんと知り合いであるかのような錯覚に陥ってきますから、それだけ氏の語りがお上手ということなんでしょうし、ご自分の顔を躊躇なくアップで撮影されるところも、独特の親しみにつながっているのかも。
しかも、内容は簡潔、余計なことをくどくど言わず、誰が見てもわかるように必要なことだけを手短かに、しかもたっぷり親しみを込めて話していかれ、しかも営業的な押し付けがましさがないので、まったくストレスにならないのはこの手の動画としては珍しいことでしょう。

この店のスタイルを真似て、さっそくいくつかのピアノ店でも動画で説明・演奏ということをやっているところがありますが、どれひとつとしてぴあの屋ドットコムを超えるものはなく、いかに石山さんの明るいキャラとトーク術が突出しているかがわかります。

大橋ピアノに話を戻すと、この210型はわずか16台だけが製造されたモデルだそうで、これはもうヴィンテージ・フェラーリも真っ青といった希少性ですね。
「奇跡の入荷」とありましたが、たしかにこのピアノに限ってはそれも頷ける話です。
マロニエ君もむろん現物は見たことがなく、大橋ピアノ研究所の本『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ』の冒頭でこの210型の前に腰掛ける晩年の大橋幡岩氏が写っている写真で一部を見たことがあったぐらいで、まさに幻のピアノでした。

それがいま目の前の画面に売り物として掲載され、いつものように動画も準備されているのですから、思いがけないところでこの幻のピアノの音を聴くことができることに思わず興奮。
はやる気持ちを抑えつつ再生ボタンを押しましたが、実際にその音を聴いてみるまでこれほどドキドキワクワクしたピアノは他になかったかもしれません。
とりわけ興味があったのは、マロニエ君自身が以前所有していたのがディアパソンの210Eですから、同じ設計者、同じサイズで、片やカワイ楽器による量産品、片や設計者自らが立ち上げた製造所で最高の材料を使って手作りされたスペシャルモデルで、果たしてその音とはどれほど違うのかというところでもありました。

果たして、その音はというと、記憶にあるディアパソンに酷似しており、自分が持っていたピアノとの違いを探すのに苦労するほどでした。
もちろんパソコンを通じての音なので、現物の響き具合とか音量などがどのぐらいのものか…というところまではわかりませんが、ただ意外にそれでも、基本となるものはわかるものです。
全体のトーンはむろんのこと、低音の一音一音それぞれの鳴り方や特徴までそっくりで、設計者が同じというのはここまで似てしまうものかと、寧ろそっちにびっくりしました。

逆にいうと、カワイは、大橋氏の設計をかなり忠実に再現していたことがわかり、その点は素直に感心してしまいました。
聞いたところではディアパソンの名前と設計を譲渡する際、大橋氏は自分の設計に忠実に制作されることを強く望まれたそうですが、その約束は見事に守られていたのだということを、この幻の大橋ピアノの音が証明しているようでした。
音だけでなく、フェルトやフレームの色も昔のディアパソンそのままで、フェルト全体はちょっとエグイぐらいの緑、その中でアグラフに近い部分や鍵盤蓋の下などところどころが赤という、まるでグッチの配色みたいなところもそのままだし、やや緑がかったフレームの金色もディアパソンと瓜二つでした。

また、ディアパソンの一本張りというのは、大橋氏が採用したものではなく、カワイ傘下に入ったあとで追加されたものと聞いていましたが、たしかに大橋ピアノは幡岩氏が自分の理想を貫いたピアノであるにもかかわらず、弦は一本張りではないことも確認できました。
マロニエ君が持っていたディアパソンも一本張りではなかったことから、あれこそ大橋氏のオリジナルスタイルだったんだといまさらのように懐かしく思えました。

強いて違いをあげるなら、音の伸びだろうと感じました。
ディアパソンと瓜二つの音ですが、その減衰の度合いはゆっくりで、さすがにこれは響板(北海道産エゾマツ)の違いがもたらすものだろうと思われました。量産品との違いが一番出るのが響板なのかもしれません。

さて、この超希少な大橋ピアノ210型のお値段は398万円とあり、それをどう見るかは意見の別れるところかもしれませんが、大橋幡岩という日本のピアノ史に燦然と輝くピアノ職人の天才が最後に自らの名を冠したピアノで、しかも総数16台というその希少性からすれば、これはもう「なんでも鑑定団級の価値」があるわけで、安いのかもしれません。

2018/06/01 Fri. 02:20 | trackback: 0 | comment: -- | edit

個性は普通さ 

Eテレの録画から、今年3月サントリーホールでおこなわれたオーケストラアンサンブル金沢の演奏会を視聴しました。

冒頭にプーランクのオーバードがあって、そのあとは3曲のハイドンのシンフォニーという珍しいプログラム。
オーバード(朝の歌)は舞踏協奏曲という、バレエ音楽と言っていいのかどうかしらないけれど、ピアノと小規模オーケストラとの協奏曲のようになっているちょっと風変わりな曲です。

指揮は井上道義、ピアノ独奏は反田恭平。

プーランクといえば多くのピアノ作品がある他、オーケストラ付きではピアノ協奏曲や2台のピアノのための協奏曲は有名で、昔からこのあたりのディスクを買い集めると、大抵このオーバードも含まれており、積極的に聴いたことはないものの、他を聴くと流れで耳にしていたことは何度もありました。

大半がフランス人ピアニストの演奏で、中にはグールドの映像というような珍しいものもあるにはあるけれど、いずれにしろ普段ほとんど演奏される機会はあまりない作品で、マロニエ君もこの曲を現代の演奏(の映像)としてまじまじと視聴したのは初めてだった気がします。

全体的な印象としては、とりあえずきちんと演奏されたというだけでニュアンスに乏しく、正直ちょっと退屈してしまいました。
とくにこの曲の雰囲気とか、書かれた時代背景や大戦前のフランスの匂いのようなものを感じさせるところがなく、クラシックの膨大なレパートリーの中の珍しい一曲をもってきましたというだけの距離感でとどまっているようでした。
それと、これはやはり踊りがあったほうが生きてくる音楽なのかもしれません。

反田さんはいつもながら、きれいな姿勢で、大きな手で、無理なく指や腕を使いながらシャキッとしたピアノを弾かれます。
けれども、その先にあるべき音楽表現の何かを感じるには至らないのが(アンコールのシューマン=リストの「献呈」を含めて)いつももの足りない気分にさせられるのも事実。
この方は、髪を後ろで縛って、黒縁の眼鏡をかけて、一見それが個性的であるかのようでもありますが、実はマロニエ君は逆の見方をしています。
彼のそのようなビジュアルはじめ、ちょっとした彼のしぐさとか印象などにも表れているのは、音楽の世界の外にならいくらでもいそうな、いかにも「今どきの普通の青年」というところがウケているのではないかということ。

幼少期からずっと楽器の修行に明け暮れてきた人には、たいてい独特の雰囲気があって、純粋培養というか、よく言えば繊細、ありていにいえば特殊な人達という感じが漂うのが普通ですが、反田さんにはいい意味でそれがなく、普通にどこでバイトをしても、コンビニにいても、街角でギター片手に歌っていても、すんなりサマになりそうな今どきの若者の感じがあって、そんな人がピアノを弾くときに醸し出すどこかロックな感覚がある。
もちろん、抜群にピアノが上手いことは言うまでもないけれど、ただ抜群にうまいというだけではない…とマロニエ君は思うわけです。

演奏にもその普通さが良い面に働き、かび臭い不健康なところがなく、スケボーのお兄さんがあっと驚くような高難度の技に挑んでは見事成功させるようなおどろきと爽快さが反田さんにはありますね。
変な言い方かもしれないけれど、健康な若者の新陳代謝みたいなものが曲の組み立てにも息づいていて、それが萌える新緑のような若々しさにつながっている感じ。

ただ、ピアニストとしてそれで充分なのかというと、個人的には不満もあるわけで、彼の演奏には聴く人の心にふっと染みこんでくるような語りとか滋味といったものが不足しているのは聴くたびに感じるところ。

それと、物怖じしない健康男子のイメージとは裏腹に、演奏そのものはどちらかというと冒険を排した安全運転で、ときどきメリハリあるだろ?みたいな瞬間はあるけれども、全体としては個性のない優等生といったタイプ。

演奏を技術行為としてではなく、その先のある芸術表現を聴く人に向けて提示し投げかけてみること、ここにご本人がより強い興味を持ってくれたら、この人は器は小さくなさそうだからかなりいい線いくんじゃないかと思います。
そういう意味では、彼はまだまだ技術の人という場所にいると思いますが、まだ若いし、今後の深まりを期待したいところです。

2018/05/27 Sun. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

グランフィール 

ピアノがお好きな知人の方から思いがけない情報をいただきました。
福岡の某ショッピングモールに買い物に行かれたところ、イベント会場で近隣の楽器店によるピアノの展示販売会が行われており、その中にヤマハの中古アップライトにグランフィールを装着したものがあった由。
曰く、タッチはピアニッシモが出しやすかったとのこと。

グランフィールは鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスのご主人が考案され、特許も取得されたものらしく、アップライトピアノの構造上やむを得ず制約を受けるタッチを、グランドピアノ並みに改善するための発明…といえばいいのでしょうか。
すでに全国のピアノ店の多くがその取り扱い(正確には取り付け)をしているあたり、どんなものか興味津々でした。

実をいうと、何年も前に藤井ピアノサービスを訪れた際、このグランフィール付きのアップライトに触れたことはあったものの、この時はこの店が保有する珍しいピアノのほうに気持ちが向いていて、アップライトのタッチにあまり熱心ではありませんでした。

しかしここ最近は自室でシュベスターのアップライトを弾くようになり、たしかにアップライトのタッチ感は良いとは言えないけれど、アップライトはこういうものだからと諦めてしまえば、それはそれで馴れていたというのが正直なところ。

そこに飛び込んできたグランフィールの情報でしたので、それはぜひ!というわけで、翌日マロニエ君もさっそくそのモールのイベント会場に赴きました。

何台も並べられたアップライトピアノ(UP)の中で1台だけグランフィールを装着したヤマハの中古UPがあり、さっそく触らせていただきましたが、予想を遥かに超えたその効果にはただもうびっくりでした。
人差し指で、単音を出しても違いの片鱗は感じたけれど、周囲を気にしながらちょっと曲を弾くと、えっ、なにこれ!?
まるでUPとは思えぬコントロール性、音色の落ち着きは圧倒的で、わずか数秒で不覚にも感動さえしてしまったのでした。

情報提供者の「ピアニッシモが出しやすい」というのは、要はコントロールが自在ということで、通常のUPの出す音がどこかもうひとつ品位や深味がないのは音そのものではなく、タッチコントロールが効いていないから、いちいち無神経な発音になっている部分が大きいということが、グランフィール付きを弾いてみることでたちまち解明できました。

UPなのにスッキリした好ましいタッチの感触を知ってしまうと、これまでのUPのタッチは常に無用な重さとクセみたいなものに邪魔されていることがいやでもわかります。とくにストロークの上のほうが重く、そのあとはストンと落ちてしまいまい、そのストンと落ちるタッチから出る音が、UP独特のあのバチャッとした表情に乏しい音なんですね。

ピアノそのものは普通のヤマハの中古UPなのに、タッチがグランド並になっただけで表現力はたちまち倍加され、ひとまわりもふたまわりも格上の、やけに落ち着いた大人っぽいピアノのようになってしまうのですから、いかにタッチがピアノとしての価値や魅力を左右しているかを思い知らされ、とても貴重な体験にもなりました。

正直言って、自分で体験してみるまではこれほどとは思っていませんでしたし、わざわざそんな費用と手間をかけるぐらいなら、スパッとグランドにしたほうがいいのでは?裏を返せばUPはしょせんUP、グランドには敵わない…という思い込みがありました。
しかし、現実にこのような好ましいタッチのUPに触れてみれば、当たり前ですがむろんそれに越したことはないのです。

タッチの変なくせがなくなり自由度が増してくると、そこから出てくる音も決して悪くはないように聞こえるし、逆を言えば、グランドだってはっきりいって貧相な安っぽい音を出すものもあれば、そんなショボいグランドよりずっと威厳のある低音なんかを出せるUPもあることを思い出しました。

ともかく、このグランフィールの効果たるやまったく衝撃的で、できればすぐにでも我がシュベスターに装着したいところです。
しかし、その価格を聞くと20万円(税抜き)からだそうで、その効果は充分わかっていてもちょっと考えてしまう金額なのも事実で、少なくともマロニエ君にとっては即決できるようなものではなく、ひとえに価格だけが足を引っ張ってしまいます。
一部の高価な外国製UPはともかく、対象の多くが国産のUPだとすると、もう1台中古ピアノが買えそうなこの価格がネックとなって、付けたいけれど断念される方が多くいらっしゃるのではないでしょうか?

UPの長所は、自分で使ってみると痛感しますが、なんといってもグランドのように場所を取らないことで、さすがのマロニエ君でも、自室にグランドを置こうなどとは思いません。
なので、スペース的にグランドは無理だけど、タッチや表現にはこだわりたいという人には、これは唯一無二の解決策であるのは間違いないようです。

2018/05/21 Mon. 02:57 | trackback: 0 | comment: -- | edit

春は忍耐 

春は喜ばしいものだと、心からそう思い、感じ、疑いの余地などないかのように、昔から日本人は刷り込まれています。
でも、マロニエ君はやっぱりどう贔屓目に見ても現実の春はかなり過ごしにくく、おそらくは昔の生活環境からくる刷り込みだろうと思います。

隙間風の多い日本家屋、劣悪で脆弱な暖房手段などに痛めつけられて健康を害し、心も塞ぎこんで、冬が過ぎ去るだけで喜びがあったのでしょう。
しかし現代の多くが密閉性の高い住宅と、快適なエアコンやヒーター、当たり前のような給湯システムなどの快適装置、安価で暖かな衣類など幾重にも守られて生活しているので、昔ほど冬の厳しさに身を犠牲にすることなく済むようになったのは確かでしょう。

そんな現代人にとって、むしろ春は、花粉の飛散、めまぐるしく変化する温湿度や天候など、少なくとも心身の健康に欠かせない「安定した環境」という意味では、冬に比べてずっと厳しく過酷だと思います。
とくに免疫力が低く、ストレスを抱え、自律神経などを痛めた人には、温度調節ひとつとっても春の不快感は甚大なものがあります。
車のオートエアコンも注意深く見ていると、暖房になったり冷房になったりして機械でさえも迷って定まらないんだなぁと思います。
もちろん、マロニエ君は福岡や東京を基準としているので、北海道や沖縄のことはわかりませんが。

温湿度の変化がころころ激しく上下することは、楽器のコンディションにも如実に現れて、冬場よりも今の時期のほうがピアノもやや乱れ気味ですし、人間もマロニエ君の知る限り、周りの老若男女ほぼすべての人がなんらかの体の不調を訴え、小さな子供まで不快感と闘いながら毎日を過ごしています。
だから、春は個人的にはかなり苦手なのですが、なかなかそれが表向きの声としては聞かれません。

今でも冬は悪玉、春は善玉という構図はかわらず、春の優位性は揺らがないようです。
分厚いコートが要らなくなって、桜のような派手な花が咲いて、ゴールデンウィークなどがあるからで日本だけかと思ったら、ヴィヴァルディの四季やベートーヴェンのヴァイオリンソナタ、シューマンの交響曲でも春は大いに礼賛の対象として謳われているし、ボッティチェリの至高の名作もプリマヴェーラ(春)であったりしますから、これは洋の東西を問わないものなのか。
また世界情勢でもプラハの春やアラブの春など、体制の変化や雪解けを意味するときにも春という言葉を使いますね。

ともかく古今東西、どれだけ春を持ち上げようとも、マロニエ君はこれだけは賛同できません。
春特有の濁ったような空気とむせるような匂い、暑さと寒さが一緒くたになったみたいな気候、それに続く梅雨が終わるまでは、じっとガマンの4~5ヶ月というわけです。


某番組では、シューマンを得意と自称する女性ピアニストが登場し、詩情の欠片もないトロイメライを奏し、ゲストとして持ち上げられてきゃっきゃとおしゃべりをした後は、再びピアノに向かい、ベートーヴェンの熱情の第3楽章をお弾きになりました。
終始ふらつくテンポ、何を言いたいのかまったくわからない、なぜこの曲を弾きたいのかも、何一つ見えてこないプラスチックの食器みたいな演奏にびっくりしました。
演奏後、司会者からこの熱情を含むこの方のCDが発売されると紹介され、それならよほど弾き込みができているはずなのにと思いましたが、ともかく宣伝も兼ねてのことのようで、やはり今どきはピアノの演奏そのものより、いろんなところで幅広く行動のとれる人であることが必要ということなんでしょう。
その成果かどうかは知らないけれど、こういう変にメディア慣れしたような人が、日本で最高ランクの音大で要職についているというのですから、出るのはため息ばかり。

トロイメライで思い出しましたが、ニコライ・ルガンスキーの日本公演の様子も視聴しました。
子供の情景やショパンの舟歌やバラード第4番といったプログラムでしたが、子供の情景では作品と演奏者の息が合わずあまりいいとは思いませんでしたが、ショパン晩年の2曲では、思ったよりも悪くない演奏で、これは少し意外でした。

ただ、もともとルガンスキーというピアニストがあまり自分の趣味ではないこともあり、ほとんど期待していなかったので、それにしては予想よりもいい演奏だっただけで、では彼のショパンのCDを買うのかといえば、それはないと思います。


2018/05/16 Wed. 02:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヤマハの後ろ足 

福岡市の近郊に「東京インテリア」という家具の店がオープンしたというので、暇つぶしに覗いてみました。

ホームページを見ると関東以北には数多く展開しているようですが、西は少なく、愛知県以西では、大阪、神戸、さらに飛んで福岡に開店したようです。
店の外観はずいぶん地味な感じだったけれど、一歩中に入ると店内は予想を裏切るほど広大で、安価な雑貨などを見まわしながらちょっとずつ奥に進むと、次第に価格帯が上がってきて、マロニエ君はさっぱり知らないような海外ブランド専用スペースなどが次々に並んでおり、果たしてここにあるのは廉価品なのか高級品なのか、よくわからないような不思議な感じのする大型家具店でした。

それは実はどうでもよくて、広い売り場の中央を縦に大きく貫くようにして喫茶スペースが設けられており、その一角にはいかにも艶やかな黒のグランドピアノが置かれているのが目に止まりました。
ひとりでに鍵盤が上下していることから、自動演奏付きのようで、新しいヤマハのC6Xでした。
近づくといちおう音は出ていたものの、ふわふわした小さめの音で、おまけに周りはガヤガヤしていてどんな音かはまったくわからずじまい。

マロニエ君は、ヤマハのグランドの中では(Xになる前の経験ですが)C6を最も好ましく感じていたし、特に不思議なのは、C3、C5、C7はピアノとしても血縁的な繋がりみたいなものがあって、似たようなDNAを感じながら奥行きが長くなるにつれ低音などに余裕が出るという自然な並びですが、C6はその系列というか流れからちょっと外れているようで、このモデルだけいい意味での異端的な銘器といった印象がありました。

もしマロニエ君がヤマハを買うとしたら迷うことなくC6です。

ヤマハでマロニエ君が個人的にあまり好みでないと感じる要素が、C6ではずいぶん薄まって、上品で、むしろヤマハのいいところがこの1台に結集しているような印象さえありました。
見た感じも、C6はヤマハの中では大屋根のラインなども最も美しい部類だと思います。

それなのに、なぜかC6は少数派のようで、どれもだいたいC5かC7になってしまい、なかなかC6というのは目にする機会も少ないのです。なので、マロニエ君にとってはC6はヤマハのカタログモデルなのにレア物的な感覚があって、実際めったにお目にかかれません。

それがこんなオープンしたての家具店で遭遇するとは、まったくもって思いがけないことでした。

なんとなく眺めていて気がついたことは、やはり工業製品としての作りの美しさ、高品質感においてはヤマハは立派だと思います。
逆に視覚的に残念な点は、ヤマハのグランドピアノ全般に言えることですが、真横から見ると後ろの足がやや内側(つまり鍵盤寄り)に入った、なんともあいまいな位置に付いており、そのわずかな足の位置のせいで見た感じもやや不安定でもあるし、ボディが鈍重に見えてしまうことだと思いました。

その点では欧米のピアノは、知る限りほとんどが後ろ足はもっと後方ぎりぎりに寄せた位置にあるので、視覚的にも収まりがよく、伸びやかでカッコよく見えますが、ヤマハはその位置のせいでちゃぶ台の足みたいになり、せっかくのフォルムがダサくなってしまっています。

ステージで見るヤマハのコンサートグランドも、遠目にもわかるほどボテッとしていて、スマートさというか、コンサートグランド特有の優美さがありません。
バレリーナでいうと、ロシア人と日本人のような差がありますが、なにも日本製だからといって、ピアノまで日本人体型にしなくてもいいのではと、いつも非常に残念に思うところ。

その点でいうと、カワイの後ろ足は横から見ても、ヤマハほど内側に入っていないので、ずっと国際基準のフォルムだと言えるでしょう。
が、しかし、カワイは足そのものの形状がメリハリに欠けており、そっちのほうでずいぶん美しさをスポイルしていると思います。

ついでにいうと、ファツィオリやベヒシュタインはボディ形状は決して美しくはないけれど、足の位置は適切でしかもスーッと伸びているから、それでかなり救われている感じです。

おいおい、楽器は音を出すモノで見てくれなどは関係ないこと、くだらない!とする向きもあるでしょうが、マロニエ君は断じてそうは思いませんし、何であっても「見た目のデザイン」というのは決して疎かにできない、とても重要なものだと思います。

花瓶ひとつでも、ただ花が活ける機能があればいいというものではなく、その姿や微妙なバランスがとても重要であるように、ピアノも楽器としての機能性能が第一なのは言うまでもないけれど、加えて視覚的な美しさ、デザインの秀逸さは絶対に大切だと思います。

2010年、CFXの登場を皮切りに、ヤマハのグランドはディテールのデザインが大きく変わりましたが、後ろ足の位置については以前のままで、何であんな位置にこだわるのか不思議でなりません。



2018/05/11 Fri. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

趣味の焦点 

連休中のはじめ、ピアノ好きの知人の方が遊びに来られました。

主にピアノにまつわる話題が多かったけれど、それ以上に普段電話やメールではできないいろいろなムダ話が落ち着いてできたのが良かったなぁと思います。
実用的なやり取りなら通信手段には事欠かない現代ですが、やはり人との交流を育むには、会ってゆっくり話をすることに勝るものはなく、これがあまりにも省略されすぎることが、人と人との関係がカラカラに乾いてしまう大きな原因ではないかと思います。

現代人は、短い連絡はしきりにするけれど、落ち着いた会話をする機会や時間が激減したことは如何ともし難いことだと思います。
これはハイテクの進歩とビジネス社会の流儀が、それではすまない領域にまで蔓延したことによる弊害でしょうか。

相手の顔を見て、あれこれおしゃべりして回り道している中に、実は最も大事なものが含まれていると感じますし、それが自然と心に沈み、後に残っていくように思います。
昔はそれが当たり前だったので、ごく普通に出来ていたことなんですけどね。

そもそも人との関わりというのは、実用的伝達さえできたら済むというものではなく、むしろ実用以外の一見無駄と思えるようなところに人間的真実の核心があると思うので、マロニエ君はどんなに時代が変わっても、そこだけはなんとか踏ん張って大切にしていきたいと思います。

せっかくなのでピアノを弾いてくださいと言っても、手を横に降ってちょっとやそっとでは弾こうとされません。
こういう遠慮がちな態度に、日本人だけのDNAにある美徳を見るようで、なにやらとても懐かしい気がしました。
ピアノをなかなか弾かれないそのことというよりも、その背後にある、日本人の心の深いところにある慎みや恥じらいなどのセンシティブな精神文化に、久しぶりに触れられたことがとても心地よいものに感じられたように思います。

とはいえ、このままではキーに一切触れることなく帰られてしまうと思ったので、強く何度も奨めた結果、苦笑しながらしぶしぶピアノの前に座ってシューベルトやドビュッシーの小品を弾かれました。

演奏というものは不思議なもので、技術の巧拙とは一切関係なく、その人の人柄はじめいろいろなものが音に乗って出てくるものです。
このとき耳にしたのは、いやな色のまったくついていない、人知れず咲いている清楚な花のような、静けさと愛情に満ちた演奏でした。
音楽がとても好きで、ピアノを弾くことがとても楽しく、それを穏やかに実践している人のぬくもりがあり、ピアノや音楽、さらには趣味というものがもたらす豊かさを再確認させられた気がします。

ピアノと見ればがんがん弾きまくるのも楽しさのひとつなのかもしれませんが、マロニエ君はやはりこういう在り方のほうが自分の好みに合っています。
弾くばかりがピアノではなく、聴くことも、知ることも、語ることも、ピアノの魅力だと思うのです。

そんな価値観を共有できる人達との交流がクラブやサークルのような形をとってできたらいいと思うのですが、それがピアノの場合は至難です。
鉄道ファンが鉄道を語るように、自動車マニアが自動車談義に興じるように、何かの蒐集家がモノや情報を持ち寄って仲間と楽しい時間を過ごすように、ピアノでも同様のことができたらと思うのですが、ピアノにはそれを阻む数多くの壁があるようです。

その壁とは何か…それはまあ書かないでおきます。

2018/05/05 Sat. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

朝ドラのピアノが 

NHKの連続テレビ小説は3月で『わろてんか』が終わり、4月から『半分、青い。』が始まりました。

『わろてんか』が吉本興業の創業者を描く、明治から先の大戦後までの物語であったのに対して、『半分、青い。』はいったいどんな話なのかよくわからないまま見ていますが、いまだによくつかめない状態です。
もちろんネットで調べれば、物語の概略くらいはわかるのでしょうが、そこまでして調べようという気もないから、ただ録画したものをときどきダラダラと見ているにすぎません。

放送時間に直接は見られないので、音楽番組と同様、たいてい深夜に録画したものを視ることになりますが、あまりテレビを見ないこともあっていつも数週間ぶんたまっていて常に周回遅れが常態化しており、4月ももう終わりだというのに今回もようやく第二週に入ったあたり。

新しいシリーズの第一週というのは、いつもだいたい面白くなく、主人公も子役がつとめます。
お約束のように、主役の女の子は現実ではあり得ないほど、無制限に明るくて元気なキャラクター。
それでいて普通とはちょっと違った天然な面もありますよというおなじみの設定で、これは半ば連続テレビ小説の条件なのかもしれません。

主人公はこれから人生をともにするであろう男の子の友人と、同じ日に同じ病院で生まれた、誕生したその日からはじまった特別な幼なじみということのようですが、その女の子の家は庶民的な食堂、対する男の子の家はちょっとハイカラな写真館で、お母さんは家でしずしずとピアノを弾いているような人です。

さて、驚いたことに、その写真館の家の住居に置かれているグランドピアノはハンブルク・スタインウェイで、はっきりはわからなかったものの、たぶんB型あたりだろうと思われました。
その男の子もピアノが弾けるということで、何度かピアノがある部屋のシーンが出てきましたが、さすがにロゴマークこそ写ることはないものの、まぎれもないスタインウェイでした。
それも新しめのピカピカしたピアノ。

ヒロインの女の子に懇願されて、その子役の男の子がしぶしぶ弾いて聞かせるシーンがありましたが、子供らしい童謡か何かが、みょうに整ったスタインウェイサウンドで響いてくるのが、なんか笑えました。

おそらく1980年代の時代設定で、むろん家庭にスタインウェイがあっても不思議とはいわないけれど、でもやっぱりNHKの朝の連続テレビ小説に出てくる、商店街の中にある友人の家という設定なので、いきなりスタインウェイというのは、ちょっとオオッ?という感じは否めませんでした。

この『半分、青い。』はどこ(東京か大阪か)のNHKが作っているのか知りませんが、さぞやNHK内にはスタインウェイがごろごろしていて、ピアノ=スタインウェイだから、却ってヤマハやカワイを準備するほうが難しいんだろうなぁ…と思ってしまいました。

2018/04/30 Mon. 02:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

歩行者 

すでに同様のことを書いたかもしれませんが、最近は以前より明らかに車の運転がしづらくなりました。
全体に速度が落ち、流れが悪くなり、個々の車の動きも円滑さを欠いていると感じますが、そこまでは「安全」ということを再優先に考えればやむを得ないこと思います。

しかし、その「安全」に対する一番の脅威は自転車であり、さらには一部の歩行者にも少しあるといいたい。
近ごろの自転車にたいする恐怖感は深まる一方で、実際にそこに潜む危険性はかなり高く、しかも改善される兆しもありません。
自転車の勝手気ままな動きはクルマのドライバーにとって、恐怖以外の何者でもありません。

車道でも歩道でもお構いなしで、夜間の無灯火なども当たり前。
それがコウモリのようにどこから突如現れるかも分からないし、おまけに大半の自転車は自ら危険を回避する気もなく、すべてはクルマ側の注意と動向にかかっているのはあまりに不条理で、おかげでマロニエ君は自転車の姿形を見るだけでもストレスを感じるようになってしまいました。

さらに最近では、自転車だけでなく、歩行者までもが自らの安全というか、自分も交通社会の一員だという認識がかなり低下していると感じざるをえないシーンが多すぎるように思います。
とりわけ感じるのが横断歩道。
横断歩道であるのをいいことに、クルマへの嫌がらせではないかというほどゆっくり渡るなど朝飯前で、中には横断歩道以外の横断もあり、しかもまったく慌てる風もなく「こっちは歩行者だ。注意しろ!」といわんばかりだったりすることも珍しくありません。

さらにはちょっとした特徴があって、世代による違いもあるようだと最近は感じます。

例えば、たった一人の歩行者であっても、右左折してくるクルマはその歩行者が横断歩道を渡っている以上、無条件に停止してじっと待つことになりますが、それがある程度年配の方であれば、自分のために車が待っていてくれていると察知して、ほんの少し小走りになるとか、できるだけすみやかに歩くなど、待っているクルマに対してなにかしら心遣いや意識が働いていることがわかり、こちらも「どうぞごゆっくり」という気持ちになるものです。

ところが、やや世代が下がってくるに従い、歩行者は横断歩道を渡ることを「権利」として捉えているように感じます。
いま自分は権利を行使しているのだから、待っているクルマへの心遣いなど無用だということでしょう。
それがわかるのが嫌なんです。
歩行者は道交法上の最弱者であり、ゆえに優先的に保護され厚遇されて当然で、その歩行者様がいままさに横断歩道を渡っているんだからクルマはいかなることがあろうと、横断が済むまで待つのは当然といった上下関係のような空気が漂います。
なんだかこれ、法権力をかさにきたパワハラでは?と感じるような空気が流れます。

ドライバーはまさにムッとするような気持ちで、不愉快を押し殺してこの場をやり過ごすことのみになります。

中には、待っているクルマには一瞥もくれず、音楽を聞きながらの悠々たる歩きスマホだったり、横の人物とだらだら会話しながら、まるで美術館でも歩くようなスピードで横断歩道を渡りますし、ひどい場合は歩行者用の信号が赤になってもこの人達はまったく急ごうともしないのは呆れるばかり。

これが多いのが、見たところだいたい20代~40代ぐらいで、意外なのは、実は子供から中学生ぐらいのほうがまともな人間性を感じることがあるのです。
彼らのほうが昔ながらにごく普通に渡ってくれるし、中には待っているこちらへ軽く頭を下げて勢い良く自転車のペダルを漕いでいく子などがけっこういるのは、とても意外であるし、殺伐とした中でせめてホッとさせられる瞬間でもあります。

もともとこれが自然であって、世の中の多くはお互い様の精神で成り立っており、上記のような態度には、どうみても人を待たせていることにいっときの快感であったりちょっとしたいじわるを楽しんでいるわけで、人の心の中にある醜いものがこんなちょっとした場面で顔を出しているように見えます。
中学生ぐらいまでは素直だった人が、社会に出て揉まれたり苦労を重ねていくうちに、こういう暗い憂さ晴らしも覚えていくのかと思うと、経験や学習というのは必ずしもプラスばかりではないなという気がします。

2018/04/26 Thu. 01:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

翌週は… 

前回書いたテレビ番組『恋するクラシック』の翌週の放送も見てみました。

今回は印象的なメロディで親しまれ、さまざまなジャンルにも用いられるベートーヴェンの悲愴の第2楽章が冒頭で取り上げられました。
オリジナルのピアノ演奏は前回と同じく佐田詠夢さんによるものでしたが、今回はやや残念なことに「月の光」のときのような好印象ばかりというわけにはいかなかった気がします。

全体に歌いこみが浅く、作品の実像や深みという部分では足りないものが随所に感じられ、どちらかというとアマチュアに近い感じの、軽いデザートみたいな演奏でした。
これがこの方のピアノのスタイルなのかも知れず、それが前回は「月の光」というフランス音楽でたまたまマッチしていたのかもしれません。

さて、今回はそのことを書こうと思ったのではなく、意外な発見をしたのでそれを。
この演奏時、通常の譜面立てではなく、角度をより寝かせた感じの見慣れぬ譜面台が使われていたので、おそらくひと通りの練習と暗譜はできているんだけど、まったく楽譜なしではやや不安という時などに、こういう楽譜の置き方をするのだろうと推察。

音符のひとつひとつをしっかり見るわけではないので、きっちり楽譜を立てるほどではないけれど、視線の先に楽譜があれば演奏の道しるべになって安心でもある…というほどのものでしょう。
またその程度のものなら、通常より寝せて視覚的にもあまり目立たないほうが聴くほうにもありがたいのは言うまでもありません。

しかし、これは普通はあまり存在しない、水平よりやや起きた程度の角度であるし、そもそも譜面台そのものがノーマルのものとは別物だったので、おそらく手製のものかなにかだろう…ぐらいに考えてさほど気にも止めていませんでした。

しかし、色は黒のつや消しで、手前と奥にはそれぞれカーブがついていたりと、簡単に日曜大工でできるようなものではなく、それなりに本格的に製作されたような感じです。
そんなとき、カメラが斜め上からゆったりと動いていくシーンのときに、思わぬものを発見!
その見慣れぬ譜面台の右の隅には、うっすらと金の文字で「FAZIOLI」と書かれていたのです。

ということは、FAZIOLIがこのような譜面台も製造しているのだろうと、とりあえず考えました。
でも、使われているピアノはスタインウェイのDで、その中にFAZIOLIの文字があることがとても奇異な感じに映りました。
まあ、たかだか譜面台ですから、役に立つなら何を使おうといいといえばいいわけですが、世界のコンクールなどではあれだけ熾烈な戦いを繰り広げているライバル同士でもあることを少しでも知っていると、やっぱり違和感はありました。

ただ、いずれにしても、譜面台にまでわざわざFAZIOLIのロゴを入れる必要があるのかというのが率直なところで、それだけ自社の名を徹底して書いておきたいということかもしれません。


後半はヴァイオリニストの松田理奈さんが登場し、イザイの無伴奏ソナタの一部と、フランクのヴァイオリン・ソナタの第4楽章を演奏されましたが、演奏後の司会の小倉さんの質問に、いともあっさりと、これらの曲は「それほど難しいというわけではない」ということが暴露され、これはマロニエ君も大変意外でした。

とくにイザイの無伴奏ソナタは、どれもいかにも演奏至難なヴァイオリン曲という強烈なイメージがありましたし、マロニエ君はヴァイオリンはまったく弾けないので、「エエッ、そうなの?」と単純に驚くばかりでした。
曰く、いかにも難しそうに聞こえるけれど、イザイはヴァイオリニストでもあったので意外に弾きやすいかたちに書かれているとのことだったし、フランクのほうでは、ピアノのほうが圧倒的に音数も多く、「演奏はピアノのほうが大変だと思います」とあっけらかんとおっしゃったのには、演奏家なのにえらく気前のいい発言をする人だなぁと妙に感心しました。

佐田詠夢さんもピアノ弾きとしての虫がつい騒いだのか、「私もこの曲を弾いたことありますけど…難しいですよね」と発言する場面もありましたが、マロニエ君は、この方とフランクのヴァイオリン・ソナタがどう考えても結びつきませんでした。

2018/04/20 Fri. 02:36 | trackback: 0 | comment: -- | edit

月の光と革命 

民放のBSで『恋するクラシック』というタイトルの、クラシック音楽をネタにする番組があることを発見、さっそく録画してみました。

司会は小倉智昭氏と佐田詠夢さんという女性で、番組そのものはクラシック音楽を身近で親しみやすいものにするためか、使われた歌やドラマから紹介するなど、とくに印象的な内容ではないと感じました。
ただ、ひとつだけそう悪くはないと思ったことが。

ドビュッシーの「月の光」をその司会の佐田詠夢さんが演奏したのですが、これが思いがけずきれいでした。
まったく知らないタレント風の人ですが肩書にはピアニストとあり、調べてみるとさだまさし氏のお嬢さんとのことで、へーという感じ。

ピアニストとしてどうかという事はさておいても、まあたしかにまったくの素人というレベルではなく、本格的にピアノを学んだ人のようではあり安定した技術をお持ちでした。
しかし、驚いたのはむろんその技術ではなく、彼女の「月の光」が新鮮さをもった鑑賞に堪える演奏だったことでした。

一般的に「月の光」というと、必要以上に夢見がちに、デリケートに、淡いニュアンスを意識して過度な演奏をする人がほとんどですが、佐田さんの演奏にはそれがなく、全体にやや早めのテンポで、無用な感傷を排した、すっきりした演奏だったところにセンスを感じました。
特に後半は、輝く音の粒が流れ下るようで、ちょっとアンリ・バルダの演奏を思い出すような、要するに目先のお涙頂戴ではないところで、この美しい小品を魅力ある音楽として聴かせてくれたのは意外でした。

趣味のいい、野暮ったさのない演奏だったと思います。
この曲はアマチュアにもよく弾かれる、悪く云えば手垢だらけになってしまった作品で、プロのピアニストでも「月の光」で聞く者の耳をその音楽に向けさせることは簡単なことではありません。
これぐらい有名曲ともなると、「あー、またこれか」という意識が先に立ってしまうもので、そんなマイナスの意識を引き戻して、本来の美しさを聴かせるということは至難です。

それ以外の演奏はどうなのか…聴いたことがないのでわかりませんが、少なくとも「月の光」は洒落た演奏だったと思います。

ところがその直後、番組ではプロのイケメンピアニストという人が登場。
プロなので名を伏せる必要はないのだけれど、あえて書かないことにします。

手始めにショパンの「革命」を弾かれましたが、これがもうコメントのしようもないもので、直前の「月の光」の美しい余韻はあとかたもなくかき消され、ぐちゃぐちゃに踏み荒らされてしまったような印象でした。
これほど有名な曲なのにまったく曲が聴こえてこないし、ただ音符を早く(しかも雑に)弾いているだけで、強弱のつけ方もアーティキュレーションもまったく意味不明の、ただのがさつスポーツのような弾き方。
…というか、本物のスポーツのほうが実はよほど緻密で、それなりの丁寧さもデリカシーも必要とされるのではないかと思います。

音楽家というより、いわゆるテレビに出るためのひとつの指芸ということかもしれません。

その後、ピアノからゲスト席へ場所を移して、小倉氏の問いかけなどに導かれるまま、今どきのトークを妙に馴れた感じで展開。
すると、非常に優しげなソフトな語り口ではあるし、話の持って行き方や聞かせ方も巧みで、少なくともゴトゴトしたピアノよりトークのほうがよほどなめらかで、なんだかとても皮肉な感じでした。
内容はほぼ自分の自慢であったけれど、基本的に穏やかかつ低姿勢で、表面的な言葉づかいやマナーが悪くないために、スルスルと言葉が進み、ちゃっかり言いたいことを言ってしまって、しかも悪印象を抱かれないで終わりという手腕に、呆れるというか感心するばかりでした。

これを「話術」というのであれば、この人はピアノよりよほどトークのほうが(それも数段)お上手だとお見受けしました。この方は、ご自分のトークのようにピアノを弾いたら、それだけでずっと良い演奏になると思います。

話のあと再びピアノの前に座り、ラ・カンパネラを演奏されましたが、いたたまれない気分になり停止ボタンを押しました。

2018/04/16 Mon. 02:50 | trackback: 0 | comment: -- | edit

遅咲きの名花 

前に書いたポゴレリチに続くようですが、これまであまり積極的に聴かないピアニストにエリザベート・レオンスカヤがありました。

非常に真面目な、これぞ正統派という演奏をする人ですが、やたらときっちりして遊びや即興性が感じられません。
少なくともマロニエ君の耳には音楽の、あるいは演奏そのもののワクワク感とか面白さがなく、その演奏は「正しさ」みたいなものがプンプンと鼻につくようでした。

音楽は他の芸術と違って、とくに演奏芸術の場合、様々な約束事の上に成り立っているものなので、自由気ままという訳にはいかないし、全体の解釈はもちろん、個々の楽節や小さなフレーズに至るまで決まりとか法則があるといえばあるといえます。
とはいっても、あまりにその決まりずくめの演奏をされても、音楽を聴くことによる精神の刺激や快楽までも抑えこまれ、むしろ否定されているような時もあって、音楽を聴いているのにこんこんとお説教をされているようで、そういうことが苦手でずっと敬遠してきたピアニストです。

「こういうやり方もあるかも…」というのではなく、「こうしかないのです」と断定されているようでした。
ひとことで言うなら、あまりに先生臭が強い演奏でした…ある時までは。

ところが、いつだったか、何を弾いたかも忘れましたが、近年の来日公演の様子を見る限りこのイメージがずいぶん違ってきたようで、演奏に幅が出て、柔らかさや温もりのようなものが以前より格段に増しているように感じられたのです。
お歳を重ねられて少し寛容になられたのか、お若いころ突っ張っていたものが少しほどけてきたのか、理由は知る由もないけれど、味わいのある馥郁とした演奏をされていると感じたのでした。

もともとがかっちりとした基本のある正統派の人だけに、そこにちょっとした柔和さとか自然な呼吸感などが加わってくると、たちまちそこに色が加わり、蕾が花へと開いたように感じました。

そんな印象の修正が少しかかっていたところに、レオンスカヤの新譜が目に止まりました。
チャイコフスキーとショスタコーヴィチのソナタ、ラフマニノフの前奏曲などが収められており、曲の珍しさもあって迷いなく購入。

果たして、期待どおりの素晴らしいCDでした。
ショスタコーヴィチのソナタ第2番はほとんど馴染みのない曲でしたが、どういう作品であるかがよくわかる演奏であったし、ラフマニノフも見事なしっかりした演奏でした。
しかし、このCDのメインはなんといっても冒頭に収められたチャイコフスキーのソナタだと思います。
数あるピアノソナタの中でも、チャイコフスキーのそれは他の作品ほど有名ではないけれど「グランドソナタ」の名を持つ勇壮な大曲で、真っ先に思い出すのはリヒテルの演奏。冒頭ト長調の両手による和音の連続が強靭なことこの上なく、軍隊の行進のように始まり、あとには随所にチャイコフスキーらしさが感じられる作品。
全体を通しても、大リヒテルらしさ満載の、完全にこの作品を手中に収めた上での燃焼しきった演奏で、昔ずいぶん聴いた記憶があります。
しかし、クセの強い作品でもあるのか一般的なレパートリーとは言いがたく、実際の演奏機会は殆どないし、日本人も幾人かおられるかもしれませんが、パッと思い出すところではロシアものを得意とする上原彩子さんがCDに入れているぐらい。
上原さんはむろんリヒテルの強靭さはないけれど、確かな技巧と、ねっとりとした情念でこの大曲を弾き切っていました。

その点でレオンスカヤは、その二人ともまったく違って、必要以上に気負うこともせず、それでいて全体としてはまったく隙のないメリハリにあふれた演奏で、情緒のバランスのとれた、このソナタの理想的な演奏のひとつに踊り出たように思いました。
とくに終楽章などは傑作『偉大な芸術家の思い出に』を髣髴とさせる高揚感もあり、価値の高いCDという気がしています。

長いことどちらかというと避けてきたレオンスカヤですが、こういう演奏を耳にすると、少し他の演奏(たとえばシューベルトのソナタなど)も聴いてみたい気になってきて、こういう変化はマロニエ君にはめったにあることではありません。
前回のポゴレリチのように、だいたい天才というものは若いころに完成されているものだし、凡人とて人間の本質なんてそう変わるものでもないので、昔の印象というのは9割以上当たっているし変わらないものですが、たまにこういうことが起きるのは嬉しいことです。

2018/04/11 Wed. 02:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

日本のピアノの本 

ピアノに関する書籍というと、教本や作品に関するものが大半で、ピアノという楽器そのものを取り扱った本というのは非常に限られます。

そんな中、『日本のピアノメーカーとブランド ~およそ200メーカーと400ブランドを検証する~』という新刊があることをネットで知り、さっそくAmazonで注文しました。
著者は三浦啓市氏、発行元は按可社、定価は4,000円+税というもので安くはないけれど、マロニエ君としてはやはりこれは買うしかないと思い、迷わずクリックすることに。

届いた本は、今どきA4サイズという雑誌並みに大きな本で、付録として「日本のピアノメーカー年表(生産台数推移付き)」という一覧表も付いていました。
内容は、明治以来、日本には約200社にものぼるピアノメーカーが現れ、その大半が消えていったという歴史があり、それを可能な限り取りまとめた一冊でした。

前半は、日本のピアノメーカー、一社ごとの紹介。
そのほとんどが消滅したとはいえ、現役を含むそれらをひとつひとつ見ていると、大小これほどたくさんのピアノメーカーが誕生し、ピアノを製造したという足跡に触れるだけでも、まったく驚きに値するものでした。

後半は、各ブランドごとのカラー写真や社名、ブランド名がアルファベット順にこまかく並べられた部分となり、一社で複数のブランドを生産していた場合も少なくないため、こちらは実に400ブランドに達するというのですから、かつての日本は紛れもなくピアノ生産大国だったことの証左となる本だと言っても過言ではありません。

歴史上、ピアノ生産大国と知られるドイツやアメリカでは果たしてどれくらいの数になるのか、機会があればぜひ知りたいものだと思うと同時に、明治維新までほとんど西洋音楽の歴史もなかった東洋の日本が、いかなる理由でこれほどまでにピアノ製造に熱中したのか、それはマロニエ君にはまったくの謎ですね。

日本人が、これほど多くのピアノブランドを必要とするほど音楽好きとも思えないので、ここまでメーカー数ブランド数が増えた背景には何があったのだろうと社会学として考えてしまいます。

ひとつにはピアノを作るには、バイオリンのように職工ひとりで事足りるものではなく、生産設備や会社組織といった、いわば最低限の産業構造を必要とする楽器であり、ピアノ製造に将来を夢見た人達が集まったこと。
あるいは大きくて見栄えのするピアノは、家が一軒建つほど高価であったという過去があり、それを買い求めることはある時期までは人々の豊かさの象徴でもあり、ステータスシンボルでもあっただろうことなどが頭に浮かびました。

それにしても、ページをパラパラやっているだけでも、その途方もない数のメーカーとブランドが存在したことは、紛れも無い事実。
しかも、そのほとんどが消滅したというのは、いっときの夢ではないけれども、ちょっと信じられないような、なにか時代のむごさのようなものを感じないわけにはいきません。

もし家にドラえもんがいたら、タイムマシンに乗って一社ずつまわってみたいものです。

そこに掲載されるメーカーのほとんどすべてが倒産や廃業に追い込まれ、貴重な資料も失われていることから、できるだけそれを追跡し、まとめ上げたという、非常に貴重な本でした。

どうしても入手できなかったと見えて、ところどころに写真が空欄のままになっているブランドがありますが、このような資料性の高い本の出現によって、さらに現物が発見・確認などされることを望むばかりです。

2018/04/06 Fri. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ポゴレリチ 

誰でも苦手なピアニストや演奏家がいるものと思います。
マロニエ君の場合、ピアニストで言えばイーヴォ・ポゴレリチなどがその一人です。

べつに強烈に嫌いというわけではないけれど、少なくとも積極的に聴こうという気にはなれない、どちらかというとつい敬遠してしまう人。
1980年のショパンコンクールで独自の解釈が受け容れられず、それに憤慨したアルゲリッチが審査を途中放棄したことはあまりに有名で、良い悪いは別にしてそれほど独特の演奏をする人であるのは間違いありません。

たしか初来日の時だったか、日比谷公会堂でのリサイタルにも行きましたが、背の高い長髪の青年がわざとじゃないかと思うほどゆっくり歩いて出てきたこと、演奏も同様で、独特のテンポと解釈に終始していました。
とても上手い人だというのはわかったけれど、自分の好みではないと悟ったことも事実で、彼のCDなどもほとんど持っていません。

いらい、ポゴレリチはマロニエ君の苦手なピニストとして区分けされ、演奏会にも行かずCDも買わず、彼自信もそれほど積極的に活動するような人でもないこともあってか、その演奏を久しく耳にすることはありませんでした。

そのポゴレリチがBSのクラシック倶楽部に登場!
昨年来日した折に収録されたもので、通常のホールやスタジオではなく、奈良市の正暦寺福寿院客殿での演奏ということで、あいかわらず独自の道を歩み続けていることが再認識させられます。

番組は毎回55分ですが、ポゴレリチが境内やなにかをあちこちを散策するシーンが多くて、なかなか演奏にはならず、やっとピアノのある場所にカメラが来たかと思うと、大屋根を外したスタインウェイDが畳の上の赤毛氈の上にポンと置かれており、ようやく演奏開始。

いきなりハイドンのソナタ(Hpb.XVI)の第2楽章というので、ちょっと面食らいましたが、その後もクレメンティのソナタからやはり第2楽章、ショパンのハ短調のポロネーズとホ長調の最晩年のノクターン、ラフマニノフの楽興の時から第5番、最後にシベリウスの悲しいワルツというもので、本人なりにはなにか考えあっての選曲なんだろうけど、聴く側にしてみるとてんで意味不明といった印象。

全体として感じたのはやはりポゴレリチはポゴレリチだったということ。
テンポもあいかわらず遅めですが、テンポそのものというより、やたらと重くて暗い音楽に接したという印象ばかりがあとに残ります。
テンポそのものがゆっくりしていても、そこに明瞭な歌があったり、美しいアーティキュレーションの処理によっては、ちっとも遅さを感じさせない演奏もあるけれど、ポゴレリチの場合は、遅いことにくわえてタッチは深く、いちいち立ち止まってはまた動き出すような演奏なので、マロニエ君には聴くのがちょっときついなあというところ。

演奏スタイルには線の音楽とか、構造の音楽とか、いろいろなスタイルや表現があるけれど、この人の演奏をあえて言うなら「止まる音楽」でしょうか。

個人的に一番いいと思ったのはラフマニノフで、それは作品が重く悲劇的な演奏をどこまでも受け容れるものだからだろうと単純に思いました。

マロニエ君の好みで言わせていただくなら、悲しみの表現でも、さりげなさや美しい表現の向こうにじんわりにじみ出てくるようなところに悲しみが宿ればいいと思うのですが、ポゴレリチの場合は、あまりにも直接的なド直球の悲しみの言葉そのものみたいな表現を強引に押し付けられている感じ。

かつてのショパンコンクールでこれだけの才能に0点を付けたことに憤慨したアルゲリッチの気持ちも大いにわかるけれど、彼の演奏に拒絶反応示した側の気持ちも少しわかるような気がしました。
要するに40年近く経って、今も彼はそのままで、それがポゴレリチなんですね。

それとすでに書いたことがあることですが、個人的にはやはり日本のお寺などで行われる西洋音楽の演奏というのは、否定するつもりはないけれど本質的に好きではありません。やっている当人は文化の枠を超えた美しい環境の中で、型にとらわれない独自の試みをやっているつもりだと思いますが、それはいささか自己満足にすぎないのではと思います。

それぞれの名刹に刻まれた歴史の重み、風格ある建築や見事に手入れされたお庭、そこに込められた文化的背景や精神などが収斂されてはじめて成立している世界。
そこへスタインウェイをポンと運び込んで西洋音楽を奏でることに、マロニエ君の耳目にはどうしても文化の融合というものが見い出せず、ひたすら違和感を感じるばかりです。
じゃあベルサイユやサンピエトロ大聖堂でお能や文楽をやったら素晴らしいかと言われたら…やっぱり思わないのです。

2018/04/01 Sun. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ジャズクラブのように 

先日、録画していた映画を見ていてあることを思いつきました。

その映画の主人公はジャズクラブのオーナーで、店では毎晩のように生演奏が繰り広げられ、大勢のお客で賑わいます。
マロニエ君もずいぶん昔ですがブルーノートにチック・コリアを聴きに行ったことなど思い出しました。

はじめて目にする会場というか店内にはいくつものテーブルがあり、簡単な食事ができて、飲み物や軽いアルコールなどが当たり前のように提供される場所。
それでいて、あくまでこの場の主役は音楽であることが明確に成り立っている世界。
ふと考えさせられるのは、音楽を聴くということは人間の楽しみであり喜びであり、演奏する側も聴く側も共に楽しむという基本。

音楽を聞きに来たお客さんが、荷物の置き場もない狭いシートに押し込められて身動きもできず、咳払いにも遠慮しながらひたすら演奏を拝聴するというクラシックのストイックなスタイルしか知らなかったマロニエ君は、大変なカルチャーショックを受けたことを今でも覚えています。

映画でもそうでしたが、お客さんは娯楽的な空気の中で、各自がもっとリラックスして演奏に耳を傾けます。
その点ではクラシックの演奏会の聴き方はあまりにも固すぎると思いました。
もしジャズクラブのクラシック版みたいなものがあったらどんなにいいか。

音楽が人間の楽しみの重要な一角を占めるのであれば、やたら修行のようなことでなく、もう少し快適な環境で聴けるということも考えてみてよいのではないかと思うのです。
いくら音楽を傾聴すると言っても、ただひたすらそれだけというのではあまりにも享楽性に乏しく、そのためにも飲食を切って捨てる必要はないのでと最近のマロニエ君は思うのです。

もちろん演奏中の飲食はダメですが、開演前か終演後に軽い食事ができて、休憩時間には飲み物が普通にあるような場所。
そんな環境でクラシックのコンサートをしたら、行く側もどんなに楽しみが倍増するだろうかと思うのです。

考えてみればマロニエ君の子供の頃には市民会館などがコンサートの中心で、そこにはごく庶民的なレストランもあり、開演前に食べた素朴なメニューは今でも不思議に覚えています。

誤解しないでいただきたいのは、べつに飲み食いが目的というわけではなく、音楽をくつろいで楽しむための脇役として飲み物や軽い食事などが自然にある場所や時間というのは、音楽のためにも実はけっこう重要なのではないかということです。

そもそもオーケーストラならいざしらず、ピアノはじめ器楽のリサイタル程度なら、巨大なホールでやられても聴く方も遠すぎて楽しくないし、主催者だってチケット売りが大変、演奏者にかかる負担も必要以上のものが覆いかぶされうような気がします。
その点、ジャズクラブぐらいの規模で、せいぜい数十人規模のお客さんを相手に、もう少しゆったりと演奏を聞かせてくれたらいいのではないかと思うのです。

演奏時間も現在のホール形式では、休憩を除けば前後合わせてだいたい1時間半かもう少しといったところですが、これは少し縮小して2/3ぐらいの時間にしたらどうかと思います。
そして、客数がそれだけでは足りないでしょうから、それを数日間繰り返してもいいのでは。
そのほうが演奏する側だって、せっせと練習に打ち込んで一回こっきりの本番より、ある意味やりがいがあるのではと思います。

多様性という言葉がよく聞かれますが、だったらコンサートの世界にもこういう新しいスタイルが少しは試されてもいいような気がするこのごろです。

2018/03/28 Wed. 02:52 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏会現状 

どうしたことか、最近はコンサートが苦痛でしかたありません。

自分で言うのもなんですが、これほど音楽が好きで、若い頃から数えきれないほどのコンサートに通い、いい加減それには慣れているはずのマロニエ君の筈ですが、現実はというと慣れるどころか、年々コンサートに行くのは苦痛が増し、自分でもその理由がなんだろうかと考えしまうことがしばしばです。

ひとつはっきりいえるのは、疲れるということ。
心が鷲掴みにされ何処かへもっていかれるような熱気ある演奏に接することがなくなったことが最大の原因かもしれません。
しかし、それだけではないとも思ってしまうのです。

その証拠にコンサートに行きたくないのはマロニエ君だけではなく、広く世の中の潮流というか、とくにクラシックのコンサートは慢性的な客離れで、閑古鳥が鳴いて久しいという現実もそれを証明しているように思います。

クラシック音楽そのもの、および、それを集中してじっと耐えるように聴くという鑑賞方法じたいが時代に合わなくなってきているということもあるのかもしれません。いっぽう演奏者も、なにがなんでも聴きたいと思わせる圧倒的なスターがいなくなり、さらには娯楽の多様性や時代の変化など、もろもろの要素が積み上がった結果が現在のようなクラシック音楽の衰退を招いているのでしょう。

具体的には、コンサートのスタイル、会場の雰囲気にも問題があるような気がします。
決められた日時に時間の都合をつけて開演に遅れないようホールに出向くということは、それがその日の行動の主たる目的になります。
その挙句、2時間前後身じろぎもせず、咳払いひとつにも気を遣い、体を動かすことも最小限に抑えるという厳しい態勢を強いられる。
しかるに多くの場合、本気度の薄いシナリオ通りの演技的演奏もしくは事務作業のような演奏は喜びやワクワクとは程遠く、これらにじっと耐えることは、ほとんど修行か罰ゲームのようで、終わったときには心身は疲労とストレスでフラフラ。

こういってはなんですが、むしろ演奏者のほうがスポーツした後のようなスッキリ感があるのかも。

エコノミークラス症候群などと巷で言われはじめて久しいけれど、コンサートは国際線の飛行機より時間こそ短いけれど、身じろぎひとつできず、水分もとれず声もだせない苦痛度としてはかなりのものじゃないかと思います。
身体は硬直し、血流は停滞し、おまけに精神面は退屈な演奏や劣悪な音響で消耗がかさみ、これでは疲れるのも当たり前だと身をもって感じます。

演奏が終われば、拍手でじんじんする手を止めると、すっくと立ち上がって、他者ともみ合いながらホールの階段を登り、外に出るなり歩くなり駐車場に行く、人によっては電車やバスに乗るなどして家路につき、それから食事もなんとかしなくてはならず、まだまだ疲れる行動はそう簡単には終わりません。
こうした一連のなにもかもがエネルギーの浪費ばかりで、要するにぜんぜん楽しくないわけです。
その疲労は翌日まで持ち越してしまうことも珍しくありません。

昔はここまでの苦痛を感じておらず、それはマロニエ君がまだ若くて体力があったからだろうか…とも思いますが、やはりそれだけではなく、それに堪えうるだけの魅力がコンサートがなくなってしまっていることも大いにある気がしてなりません。
ほんとうに素晴らしいものに接しているときは、時が経つのも忘れ、精神的にも良い刺激であふれているものですが、そんな忘我の境地にいざなってくれる演奏会は今は限りなくゼロに近いほどお目にかからなくなりました。

どんなに上手くて見事な演奏であっても、薄っぺらいというか、そこにはシラケ感や仕組まれた感が漂い、聴く側の心が感銘や喜びによって潤されていくような体験にはなりません。
チケットを買って、時間を作って、会場までの往復など、そこにはそれに値する見返りがないとなかなか人の足は向きません。

演奏そのものの魅力もむろん大切だけれど、こうなってくると鑑賞のスタイルや環境も少し変ったものがでてきてもいいのではないかと思うのです。
ちなみに、小さな会場で行われる小規模のコンサートなどは、ホールのスタイルをミニチュア化しただけで、椅子が折りたたみ式などへさらにプアなものになり、身体の苦痛はホールのそれよりもさらに痛烈なものになります。

~続く。



2018/03/24 Sat. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

??なアメリカン 

ある日曜、友人と夕食に行くことになりました。
時間帯が少し遅くなったため行くお店も選択肢が狭まる中、どこに行こうかと考えたあげく、以前から気になっていたアメリカンスタイルの店に行ってみようということになりました。

外から見る限りはいかにもBar風というか、アルコール主体の店のようなイメージだったのですが、知人からあそこは食べるほうが中心の店ということを聞かされ、ならばいつか行ってみようかと思っていたのを折よく思い出したので、これは好都合とばかりに出かけて行きました。

事前に食べログなどで下調べしてみると、評価は普通ですが、店内の作りやメニューは徹頭徹尾アメリカンで、ずらりと並ぶソファなども原色の50~60年代のアメ車を思わせるようなもので、ハンバーガーも当然のようにアメリカンなビッグサイズ。

さっそくお目当てのハンバーガーとコーヒーを注文。
オーダーを受けてから調理するらしく、かなり待たされてようやく出てきたのは大型のプレートに、日本人のイメージの3倍はあろうかと思われる巨大なハンバーガーがフライドポテトなどと一緒にドーンと鎮座していました。

各テーブルに置かれた巨大サイズのケチャップとマスタード(必要なら塩/胡椒)を使って自分で味付けをし、バンズを重ねてかぶりつくというもので、さすがはアメリカンとこのときはなんだかわくわくしてしまいました。

ところが、実際食べ始めてみると、とくに不味いというのでもないけれど期待したほど美味しくもないことがしだいに判明。
見た目は豪快だけどあまり味がなく、ワイルドな感じのわりには塩分もかなり控えめで、ずいぶん健康面などにも気を遣っているような、なんだかよくわけのわからない微妙な味。

それというのも、調理中から期待させられたのは、ジャ〜〜ッという音とともに肉を焼く強い匂いが店内に漂いまくり、アメリカ産牛肉のステーキがコクがあって美味しいように、しっかりとした味を持つハンバーガーを想像していたのです。

はじめの数口は慣れの問題もあるからいまいちでも、口が慣れてくると本当の味がわかってくるということはよくありますが、途中で味が美味しいほうへと好転することはついにはないまま、最後のほうは少しガマンして食べたと言えなくもありません。

食べ終わったら、口の中にはなんだかへんな臭みみたいなものが残り、それがちょっと気になってきました。
マロニエ君の食べ物の評価基準のひとつとして「食後感」というものがあります。
食後感のいい食べ物はやはり美味しいものだし、材料もよく、調理もあまり変な小細工をしていない場合が多いというのが持論で、少なくともまともなもので作られた料理は食後感もすっきりさわやかです。

いっぽう、スーパーのお弁当とかファミレスの食べ物などは、やはりこの点がよくなく、いつまでも味や匂いが口の中で後を引くなど、すっきりしません。
いちおう美味しく食べたつもりでも、同時に悪いものも身体に入ってしまったというような印象を伴うことも。

そんな食後感でいうと、このハンバーガーは最悪でした。
店を出たあとはもちろん、その後4~5時間たってもなんだか口の中に何か残って消えない感じがあるし、ちょっとあくびをしてもさっきの肉の匂いがふわんと立ちのぼってきて、何度も気持ち悪くなりました。
こうなるとお茶やコーヒーをどれだけ飲んでも、歯を磨いても変化ナシ。

それも牛肉の匂いと言うよりも、なんだかケモノ臭的な感じがするのが気になりました。
こうなってくると、あれは本当に牛肉だったんだろうか?というちょっと気味の悪い考えまで頭をかすめてきて、そのたびにヘンなものを食べてしまったのではないかという疑いと不快感が消えなくなりました。

友人に聞くと、やはり同じらしく、「あれってジビエなのかなぁ?」などと言い出す始末。

お店に電話して聞いてみようかとも思ったけれど、もし表示と違うものを使っているならそう簡単に口を割るはずはないだろうし、すでに食べてしまったものはどうしようもないから、とりあえず諦めました。
もちろん、二度と行きません!

2018/03/19 Mon. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

新鮮でした 

クラシック倶楽部の録画から。
昨年11月にハクジュホールで行われた津田裕也さんのピアノリサイタルは、ある意味とても新鮮なものに感じました。

というのも、実際のリサイタルでのプログラム全体はどのようなものだったかわからないけれども、この55分の番組で放映されたのは、すべてメンデルスゾーンの無言歌で埋め尽くされていました。

無言歌集に収められた多くの曲はどれもが耳に馴染みやすく、多くはよく知っているものばかりですが、実際の演奏会でプログラムとして弾かれることはそれほどありません。
メンデルスゾーン自体がプログラムにのることも少ないし、ピアノ曲ではせいぜい厳格な変奏曲やロンド・カプリチョーソなどがたまに弾かれるくらいで、無言歌というのは、あれほど有名であるにもかかわらず、プロのステージでのプログラムとしては、決してメジャーな存在とはいえない気がします。

理由はいろいろあるのだろうと思いますが、ひとつには音楽的にも技術的にも、プロのピアニストにとってはそれほど難しいものではないことや、どんなプログラム構成で演奏会を作り上げるのかという考察じたいもピアニストとして評価されるところがあり、そのためにも演奏曲目はよりシンボリックで難しい玄人好みのものでなければならないというような、暗黙の基準があるからではないかと思います。

その尺度でいうと、メンデルスゾーンの無言歌集は、あくまで「安易な小品」と見なされるのでしょうか?

そうはいっても、素人にとってはこの無言歌集は、耳で聴くのと同じように弾くのも心地よく簡単かと思ったら大間違いで、楽譜を前に弾いてみると、そうやすやすと弾けるわけでもないところは、意外な難物という気がします。
とくべつ超絶技巧は要らないけれど、少なくともショパンのようにピアニスティックにできていないのか、指が自然に流れるというものでもなく、下手くそにとってはイメージよりずっと弾きにくい曲だという感じがあります。

次はきっとこうなるなという流れで進んでいかないので、マロニエ君レベルにとっては馴染みやすい曲のわりには読譜も暗譜も大変で、流れに逆らうような合理性のない動きも要求されるなど、弾きたいけど苦手という位置づけになります。

では、プロの演奏会のプログラムとしてこればかりを並べたものとはどんなものかというと、聴いてみるまでは正直少し不安もありました。
数曲ならばいいとしても、延々こればかりではそのうち飽きてくるのでは?という懸念もあったのですが、実際に始まってみると、そんな心配は見事に裏切られ、聴いていてとにかく心地いいし、次にどんな曲が出てくるのかも楽しみで、一曲ごとに異なる世界が広がり、それに触れながら聴き進んでいくおもしろさがあり、たまにはこういうものもいいなあと素直に思いました。

まるでリートの演奏会のようで、ああ、だから無言歌なのかとも納得。

だれもかれもが、決まりきったような深刻な作品、あるいは大曲難曲をこれでもかと弾かなくてはいけないというものでもない筈で、そういう意味でももっとプログラムは自由であってもいい、あるいは「あるべきでは?」と考えさせられるきっかけになりました。
とくに最近は、指は動いても、内容的に練れていないまま技巧とステレオタイプの解釈だけで大曲を弾くのが当たり前みたいな風潮があって、正直ウンザリ気味でもあるので、久々にまっすぐに音楽に触れたような気になりました。

美しいピアノ曲を、真摯に紡ぐピアニストの真っ当な演奏に触れること。
それは必ずしも演奏至難な曲である必要はなく、音楽を聴く喜びで心が満たされることこそ最も大事なことではないかと思いました。


2018/03/14 Wed. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

再調整 

シュベスターの2回目の調整の時、ハンマーのファイリングをやってもらったおかげで、すっかり音が明るくなり全体的にも元気を取り戻したかに思えたのですが、その後、予想外の変化が。

前回書いたようにファイリングのあと音に輪郭をつけるためのコテあては、とりあえずやらずに済ませたのですが、それからわずか数日後のこと。
日ごとに音がやや硬めの派手な音になっていき、こんなにも短期間でこれほど変化するとは、これまでの経験でもあまりなかったことなので、ただもうびっくりすることに。

マロニエ君が素人判断しても仕方ないのですが、おそらくは打弦部分だけは新しい面がでてある種のしなやかさを取り戻したものの、ハンマー全体には長いことほとんど針が入っていなかったので、ハンマーの柔軟性というか弾力が比較的なくなっているところへ、新しい弦溝ができるに従って音がみるみる硬くなったのではないかと思いました。

考えてみれば、あれやこれやとやることが山積で、なかなか整音にまで至らなかったために、この点が手薄になっていたことは考えられます。
さらには、技術者さんにしてみても、ファイリングした際にコテあてをやらないことになり、最近のカチカチのハンマーに比べたら、このピアノのそれは比較的柔軟性があったので、針刺しまでに思いが至らなかったのかもしれません。
でも実際にはこのハンマーなりに、そろそろ針刺しが必要な時期であったことはあるのでは?

枕だって、なにもしなければ一晩で頭の形にペチャっと圧縮されていきますから、ときどき向きを変えたり指先でほぐしたりするわけで、理屈としてはそんなものだろうと勝手に想像。

というわけで、またか?と思われそうではあったけれど、やむを得ず調律師さんに連絡して事情説明すると、数日後に三たび来てくださる段取りをつけていただきました。

直ちに整音作業かと思ったら、アクションを外して床において、ライトを当ててまずは細かい点検。
前回できていなかった部分なのか、場所はよくわからないけれどハンマーシャンクの奥にあるネジをずっと締めていく作業をしばらくされてから、ようやく針刺しが始まりました。

針刺しは弾き手の好みも大いに関係してくるので、少しずつやっては音の柔らかさを確認しながら、これぐらいというのを決めます。
3回ぐらい繰り返して、柔らかさの基準が定まると、そこから全体の針刺しが始まります。
とはいっても音の硬軟は音域によっても変わってくるので、低音はそれほど必要ないというと、調律師さんも同意見で、低音域にはある程度のパンチとキレがないと収まりが悪いのでほどほどでやめることに。
また、次高音から高音にかけては、少しインパクト性が必要となる由で、こちらはそういう音が作られていくようでした。

今回はこの針刺しだけなのでそれほど時間はかからない見込みだったものの、この技術者さんもやりだすと止まらないタイプで、マロニエ君としてももちろんお願いする以上は納得されるまでやっていただくことにしているので、2時間ぐらいの予定が3時間半となってしまいました。

果たして結果は、嬉しいことにとても好ましいものになりました。
その音は、キツすぎる角が取れて、馥郁とした音の中にも芯がきちんとあり、節度あるまろやかさで、おもわずニヤリとする感じにまとまりました。

もちろん弾いていけばまた硬くはなっていくでしょうが、とりあえず満足できるレベルに到達できたことは、とりあえずめでたいことでした。
2018/03/09 Fri. 01:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

神様のブレーキ 

きっとご同様の方がいらっしゃるだろうと思いますが、とくに目的があるわけでもないのにネット通販のあれこれやヤフオクなどを見てしまうことがよくあり、これはもう半ば習慣化してしまっています。

自分の興味のあるいくつかの対象をひととおり見てしまうのですが、中にはそんなに頻繁ではないけれど、むろんピアノも含まれます。

ピアノに関していうと、マロニエ君なりの一つの基準は、年代が古めのもの、あとはヤマハカワイはあまり興味がなく、それ以外の「珍品」を無意識のうちに探しているように思います。
なぜなら、見るだけなら圧倒的にそっちのほうが楽しいから。

ピアノに関してはあまり頻繁に見ないのは、他の商品と違ってほとんどと言っていいほど動きがなく、終了すれば再出品の繰り返しで目新しさに乏しいから、たまにしか見ません。
ところが今回目に止まってしまったのは興味のないはずのヤマハで、それは50年ほど前のアップライトでした。

おそらくは写真から伝わってくる、なにかインスピレーションのようなものだったと思われます。
外観はサペリ仕様で、木目が上から床近くに向かって力強く垂直に通っているのが大胆で、色も弦楽器のような赤みを帯びた深味のあるものでした。
そしてなにより惹きつけられたのは、全体からじんわりと醸し出される、佳き時代のピアノだけがもっていた堂々とした風格が写真にあふれていたことでしょうか。

このピアノは決して装飾的なモデルではないのに、細部のちょっとした部分まで凝っていて、板と板の継ぎ目であるとか足の上下などには、きれいな土台のように見える段が丁寧につけられているなど、いたるところに木工職人の技と手間暇と美しさを見ることができました。
機能的には一枚の板でも済むところへ、デザイン上のメリハリや重みになる窪みやライン、段差などがあちこちに施されることは、ピアノが単なる音階を出す道具ではなく、楽器としての威厳、調度品としての佇まいまでも疎かにしないという表現のようでもあるし、そこになんともいえぬ温かみや作り手の良心を感じるのです。

現在のピアノは(ヤマハに限らず)そういう、木工的な装飾などは極限まで排除され、板類も足もただの板切れや棒に機械塗装して、効率よく組み立てただけで、製品の冷たさや無機質な量産品という事実をいやでも感じてしまいます。

さて、そのオークションにあったヤマハは高さ131cmの大型で、かなり長いこと調律をされていないらしいものの、内部はまったく荒れたところが見あたらず、撮影された場所にずっと置かれていただけということが偲ばれました。
価格はなんと7万円台というお安さで、これに送料および内外装の仕上げなど、これぐらいの手間と金額をかければかなりよくなるだろう…などと勝手な妄想をするのはなんとも楽しいもの。
実は妄想というだけでなく、よりリアルにこれが欲しくなったのは事実でした。
しかし、なにしろピアノにはあの大きさと重さと置き場問題がイヤでも付きまとうので、「これ買ってみようかな!?」という軽い遊びに至ることはまず許されません。

さらにヤフオクの場合、中古の楽器を現品確認することなく買うという暴挙になることがほとんどで、そういう行為そのものがかなり邪道であるのは間違いありませんが、そういうことってリスクを含めてマニアとしては妙に楽しいことであるし、もとが安ければ失敗した時の諦めもつくというもの。

ただピアノがあの図体である以上、必要もないのに買って仕上げて遊ぶといったことは、よほど広大な空間の持ち主でもない限りまず不可能です。

マロニエ君の友人にフルートのコレクターがいることは、このブログでも触れたことがありますが、彼などは「銘器」といわれるヴィンテージ品だけでも優に10本以上持っていて、それでもまだあちこちの楽器店に出入りしては、ドイツのハンミッヒだのフランスのルイロットだのと一喜一憂しながら、悩んだ挙句ついまた買ってしまい、家では隠しているんだとか。

ピアノが、こんなふうに自分で持ち運び出来て、家でも隠せるぐらいのものなら、マロニエ君もどれだけそこに熱中するかしれたものではなく、ああこれはきっと神様が与えてくださったブレーキで、却ってよかったのだと思うしかありません。
ちなみにそのヤマハは終了時間までに見事に落札され(ピアノの場合は入札がかからないのがほとんど)ましたので、やはり他の方の目にも止まったんだなぁ…と納得でした。

ちなみに、ヤマハの音質はまさにこのピアノが作られた1970年ごろを境に大きく変わるという印象があります。
少なくとも1960年代までのヤマハは今とはまったく違っていて、あたたかみのある音がふわんと響く優しさで反応してくれるピアノで、マロニエ君は個人的には弾いていてかなり心地よい印象があります。

それ以降は良くも悪くも一気に近代的な、今風の華やかでエッジの立った音になっていきます。
時代がそういう音を要求したということもあるかもしれないし、材質問題や生産効率を突き詰めていくと、どうしてもそっち系の音になるのかもしれません。
2018/03/05 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

対応のまずさ 

先日の夕方、注文していたものが届いたというので、それを受け取りにデパートに行った時のこと。
駐車場で珍しい経験をしました。

ここの駐車場は地下にあり、スロープを入ると中は4つのブースに分かれており、おそらくは車体のサイズでそれぞれに振り分けられるのですが、中で係の人が待機しており、車のサイズを判断して「❍番に行ってください」と告げられます。

指定されたブースにいくと、正面に鏡と「前進」「停止」などの電光表示のあるサインにしたがって車を止め、降りてPブレーキをかけてドアロック、横のドアから中に入ると、車の周りは無人になる。係の人が安全確認をしてボタンを押すと、車はザーッと横へスライドさせられて機械の中に入っていき、上からガーッと分厚い扉が落りてきてしばし車とのお別れになります。

この扉が閉まった時点で、駐車券が発行されるというシステムで、ここは入る時だけの場所。出るときは建物の正反対に行ってそこで精算をしたりサービス券を使ったりして、最後に自分の車を入れたブースの前に行き、駐車券を入れると順番に車が出てくるというシステムです。

さて、ひととおり買い物が済んで駐車場の精算所にいくと、ただならぬ雰囲気にびっくり。
平日にもかかわらず人でごった返しており、ここはよく利用するものの、こんな光景を見たのは初めてでした。

まずはサービス券をもらおうと、駐車券とレシートを出すと、「実は停電がありまして…」と初老の男性が話し始めました。
その説明がまったく要領を得ないもので、なんと言っているのかわからず、問いにも答えられず、困惑しているのがわかります。やむなく何度も人を変えながら情報収集した結果、概ね下記の通り。
停電があって駐車場の機械が全停止してしまった。店内の照明は自家発電で賄っているものの、駐車場のシステムは大量の電力を必要とするため、それでは動かない。
しばらくして停電そのものは復旧したが、一旦止まった駐車場のシステムは、専門家があれこれ設定しないと再開できないため、至急業者を呼んでいるところというもの。

いつ直るかもわからないため、店内で遊んでいるわけにもいかないという選択肢のない状態。

ほどなくして、作業服やつなぎを着た業者の人達が5〜6人やって来て、ああこれで動くのかと思ったら、そこからさらに時間を要することに。
各ブース脇についた液晶画面のようなものをしきりに操作しているものの、ウンともスンとも言わないのは傍目に見ていても明らかで、その間にも買い物を終えた人達が車を出そうとずんずん増えていきます。

この間、じっと待たされた我々にはほとんど説明らしい説明はなく、見通しも立たず、「お急ぎの方には往復分のタクシーのチケットをお渡しします。」というだけ。
最終的にはそれも検討しなくてはいけないことかもしれないけれど、そうしたらまた翌日車を取りに来なくてはならず、それも面倒なのでできればこの日の復旧を待って、乗って帰りたいと思いましたし、多くの人が同じなのか、タクシーで帰る人はほんの一握りでした。
マロニエ君を含めて何人もの人が係員に今どうなっているのか、見通しなどを尋ねますが「いま業者がやっていますから!」の一点張り。

それからしばらくして、第1ブースと第2ブースは復旧して車が出てくるようになったものの、第3と第4は依然としてまったく動き出す気配もないままで、ようやくわかったわずかな情報によると、第3と第4は機械内で車が移動している最中に停電したので、車を所定の場所に戻さないと再始動そのものができず、そのために業者が車を定位置に戻すべく、地下深くで手動で作業をやっているということでした。

もうこの時点で30分以上待たされています。
さらに、それからかなり経ったころ、はじめの車が手動で出口にスライドされてきて、それからついに機械が動き出しました。
結局自分の車が出てくるまでに、約1時間ほど狭い空間で待たされましたが、その間のデパート側の対応はお粗末を極めるものでした。

駐車場エリアには、デパートの社員らしき人はおらず、全員が駐車場担当のやや高齢の方ばかりで、あとは機械の業者のみ。
故障や不具合そのものはやむを得ないことだと思うけれど、あれだけ大勢のお客さん達が足止めを食って大変な迷惑を被ったのだから、デパート側としてはなんらかの責任ある立場の者が事態収拾の指揮をとり、お客さんにお詫びと説明と随時必要な対応をすべきではなかったと思いました。

しかも、そのデパートは日本最大手の地元でも老舗百貨店なのですから、これには失望しました。
幸いこの駐車場は、自分の車が出てきたことをガラス越しに確認し、仕切りドアのロックが解除されて車のある外へ出ていくシステムなので、寒い思いこそしなかったものの、広くはない待合室には自分の車を出したくても出せない人々がぎっしり押し込められていたわけで、もしマロニエ君だったら皆さんにキチッとしたお詫びと、せめて紙コップでいいからお茶の一杯ぐらい出しますね。

美しい店内に、高級品を並べることだけではなく、いざというときの対応や処理のしかたに、その店の質が顕われるもの。
マロニエ君の見るところ、この時の店側の対応はかなりマズイものだったにもかかわらず、大した混乱も不満も出ることなく終わったのは、ひとえに事態をおとなしく耐えてくれたお客さん達に助けられた面が非常に大きかったと思いました。

2018/03/01 Thu. 02:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

モコモコから脱出 

前回の調整で中音域のハンマーが全体に左寄りになっていることが判明、これを正しい位置に戻したら、弦溝の位置が変わってモコモコ音になってしまったことはすでに書いたとおりでした。

弦溝がずれて輪郭がなくなった音は、整えられた柔らかい音とはまったく違い、弾いていても鳴りもバラバラだしストレスがたまり、なにも楽しくありません。
とはいえ、新しい弦溝を刻むべく、ガマンしながら思い毎日少しは弾いてはいましたが、やはり本来の状態とはかけ離れただらしない音がするばかりで、ついに耐えかねて再調整というか、なんとかこの状態を脱すべく、調律師さんに再訪をお願いました。

調律師さんもそのことは充分にわかっておられたようで、前回は時間切れでもあったし、再度来ていただきました。
マロニエ君にはあまりわかりませんでしたが、調律師さんによればそれでも数週間ほど弾いたおかげでだいぶ落ち着いてきているとのこと。なにがどう落ち着いているのかよくわかりませんが、さっそく仕事開始となりました。

今回は、ハンマーが正しい位置に戻ってしばらく弾いたということで、ハンマーの整形をおこなうことに。
ヤスリを使って、一つひとつのハンマーを丁寧に薄く剥いていくことで、おかしくなっている打弦部分の形状を整え、新しい部分を表出させ、そこにコテを当てて音に輪郭を作るという作業プランのようです。

ちなみに我が家のシュベスターがたまたまそうなのか、シュベスターというメーカー全体がそうなのかはわかりませんが、調律師さんによるとハンマーのフェルトはそこそこいいものが付けられているそうで、薄く削られたフェルトはふわふわした雲のような綿状になっています。
一般的にハンマーの材質は近年かなり低下の一途を辿っているようで、とくに普及品ではフェルトを削ると、削りかすが粉状になってザラザラと下に落ちてしまうのはしばしば耳にしていたのですが、これは毛足の短い質の悪い羊毛をがちがちに固めただけだからとのこと。

ハンマーのメーカーはわかりませんでしたが、ともかく今どきのものに比べると弾力もあり、それだけでもまともなものが使われているということではあるようで、今はこんなことでもなんだか嬉しい気になってしまう時代になりました。
この作業が終わるだけでもかなりの時間を要しましたが、次は打弦部分にコテを当てて音に輪郭を出す作業だったのですが、モコモコ音があまりにひどかったためか、ハンマー整形しただけでも目が覚めたように音が明るくきれいになり、マロニエ君はこの時点ですっかり満足してしまいました。

すると「これでいいと思われるのであれば、できればコテはあてないでこのまま弾いていくほうが好ましいです。」ということなので、「じゃあ、これでいいです。」となりました。

そこから、調律をして音を整えるためのいろいろな調整などいろいろやっていただき、この日の作業が終わったのは夜の八時半。作業開始が2時だったので、実に6時間半の作業でした。
しかも、この方はほとんど休憩というのを取られず、お茶などもちょっとした合間にごくごくと飲まれるし、雑談などをしていてもほとんど手は止まらず作業が続きますから、滞在時間と作業時間はきわめて近いものになります。

つい先日の調整が4時間半だったので、今回と合わせると、ひと月内で11時間に迫る作業となりました。
アップライトピアノでこれだけ時間をかけて調整をしてくださる調律師さん、あるいはそれを依頼される方は、あまり多くはないだろうと思いますが、ピアノはやはり調整しだいのものなので、やればやっただけの結果が出て、今回はかなり良くなりました。

この調律師さんは、シュベスターの経験は少ないとのことですが、とても良く鳴るピアノだと褒めていただきました。
低音はかなり迫力があるし、中音には温かい歌心があり、さらに「普通は高音になるに従って音が痩せて伸びがなくなるものだけれど、このピアノにはそれがなく高音域でもちゃんと音が伸びている」んだそうです。

そのあたりは、やはり響板の材質にも拠るところが大きいのではないかと思われます。
人工的な材料を多用して無理に鳴らしているピアノは、すべて計算ずくでMAXでがんばるけれど、実はストレスまみれの人みたいで余裕がありませんが、美しい音楽には自然さやゆとりこそ必要なものだと思うこのごろです。

2018/02/25 Sun. 02:41 | trackback: 0 | comment: -- | edit

何をしてるのか? 

BSのクラシック倶楽部アラカルトで、一昨年秋のアンスネスの東京でのリサイタルから、シベリウスのソナチネ第1番とドビュッシーの版画を視聴しましたが、ピアノのほうに不可解というか、驚いたことがありました。

このときのアンスネスの来日公演では以前にもこのブログに書いた覚えがありますが、スタインウェイの大屋根が標準よりもずっと高く開けられていることが演奏以上に気になり、(アンスネスの演奏は非常にオーソドックスであることもあって)そちらばかりが記憶に残りました。
大屋根を支える突上棒の先にはエクステンションバーみたいなものが取り付けられて、そのぶん通常よりも大屋根が大きく開かれてピアノが異様な姿になっていることと、やたら音が生々しくパンパン鳴っているのは、今回もやはり同じ印象でした。

ところが、前回うっかり見落としていたことがありました。
よく見ると、ピアノの内部に普段見慣れぬ小さなモノがあって、はじめはスマホのようなものに譜面でも仕込んであるのかとも思ったのですが、カメラが寄っていくと、そうではないことがわかり、さらにはなんだかよくわからない物体がフレームの交差するところや、それ以外にもあちこちに取り付けられており、色や形もさまざま。

平べったいもの、黒い円筒形のようなもの、赤茶色のお鮨ぐらいの小さなものなど、自分の目で確認できただけでも10個はありました。
それが何であるのかは今のところさっぱりわからないものの、大屋根が異様に大きく開かれていることと何か関係しているよう思えてなりません。

音は、しょせんはBDレコーダーに繋いだアンプとスピーカーを通して聞くもので、現場で実演を聴いたわけではないけれど、いつもその状態で聴いている経験からすると、あきらかに大きな音がピアノから出ていることがわかるし、しかもその音はピアノ本来のパワーであるとか鳴りの良さ、あるいはピアニストのタッチがもたらすものというものより、何か意図的に増幅されたもののように聴こえます。
少なくとも昔のピアノが持っていたような深くて豊饒なリッチな音というたぐいではなく、いかにも現代のピアノらしい平坦で整った音が、そのままボリュームアップしたという感じです。

早い話が、マイクを通した音みたいな感じでもあり、果たしてどんなからくりなのか調律師さんあたりに聞いてみるなどして、少し調査してみたいと思っているところですが、いずれにしろこんなものは初めて見た気がします。

番組は、55分の1回で収まりきれなかったものをアラカルトとして放送しているようで、アンスネスのあとはアレクセイ・ヴォロディンのリサイタルからプロコフィエフのバレエ『ロメオとジュリエット』から10の小品が続けて放映されましたが、同じ番組で続けて聴くものだけに、こちらは前半のアンスネスに比べてずいぶん地味でコンパクトな響きに聞こえてしまいました。

もちろんホールも違うし、ピアニストも違いますが、いずれもピアノは新し目のスタインウェイDだし、そこにはなにか大きな違いがあるとしか思えませんでした。

マロニエ君の個人的な想像ですが、アンスネスのリサイタルで使われたピアノ(もしくは装着された装置)は誰かが考え出した、音の増幅のためのからくりなんではなかろうかと思います。
それも、ただマイクを使って電気的にボリュームアップしたというのではなく、もう少し凝ったものなのかもしれません。

そういえば以前お会いしたことのある音楽のお好きな病院の院長先生は、ゲルマニウムの大変な信奉者で、ご自分の体はもちろん大きな病院に置かれていた高級なオーディオ装置やスタインウェイD/ベーゼンのインペリアルに「音のため」ということで、フレームなどゲルマニウムがいたるところに貼り付けてあったことを思い出しました。

そういう類のものなのか、あるいはもっと科学的な裏付けや効果をもった装置なのか、そこらはわかりませんが明らかに音が大きくパワフルになっていたのは事実のようでした。
音を増幅させるということは一概に悪いことだと決めつけることはできないことかもしれないし、そもそも楽器そのものが音を増幅するように作られているものなので、どこまでが許されることなのかはマロニエ君にはわかりません。

なんとなく現時点での印象としては、ピアノがドーピングでもしているような、本来の力ではないものを出している不自然さを感じたことも事実です。

2018/02/21 Wed. 01:46 | trackback: 0 | comment: -- | edit

昨年のバルダ 

クラシック倶楽部の録画から、昨年東京文化会館小ホールで行われたアンリ・バルダのピアノリサイタルを視聴しました。

今回の曲目は、お得意のショパンやラヴェルとは打って変わってバッハとシューベルト。
平均律第1巻からNo,1/8/4/19/20という5曲と、シューベルトでは即興曲はD935の全4曲というマロニエ君にとっては意外なもの。

しかし、ステージ上に現れたときから気難しそうなその人は紛れもなくアンリ・バルダ氏で、お辞儀をするとき僅かに笑顔が覗くものの、基本的にはなんだかいつも不平不満の溜まった神経質そうなお方という感じが漂うのもこの人ならでは。
青柳いづみこ氏の著書『アンリ・バルダ 神秘のピアニスト』を読んでいたので、バルダ氏の気難しさがいかに強烈なものであるかをいささか知るだけ、いよいよにそう見えるのかもしれませんが。

バルダ氏の指からどんなバッハが紡がれるのかという期待よりも先に、ピアノの前に座った彼は躊躇なく第1番のプレリュードを弾きはじめましたが、なんともそのテンポの早いことに度肝を抜かれました。
はじめはこちらの感覚がついていけないので、追いかけるのに必死という感じになる。

しかし不思議な事に、その異様なテンポも聴き進むにつれ納得させられてくるものがあり、バルダ氏のピアノが今日の大多数のピアニストがやっていることとは、まるで考えもアプローチも違うものだということがわかってくるようです。
まず言えることは、彼は作曲家がバッハだからといって特に気負ったふうでもなく、どの音楽に対しても自分の感性を通して再創造されたものをピアノという楽器を用いて、ためらうことなく表出してくるということ。

それは強い確信に満ち、現代においては幅広い聴き手から好まれるものではないかもしれないけれど、「イヤだったら聴くな」といわれているようでもあるし、「好みに合わせた演奏をするために自分を変えることは絶対しない!」という頑固さがこの人を聴く醍醐味でもあるようです。
今どきの正確一辺倒の演奏に慣れている耳にはある種の怖ささえ感じるほど。
その怖さの中でヒリヒリしながら、彼独特の(そしてフランス的な)美の世界を楽しむことは、この人以外で味わえるものではないようです。

コンクール世代のピアニストたちにとっては、およそ考えられない演奏で、現代のステージではある種の違和感がないではないけれど、そんなことは知ったことではないというご様子で、誰がなんと言おうが自分の感性と美意識を貫き通し、徹底してそれで表現していくという姿は、ピアニストというよりは、より普遍的な芸術家というイメージのほうが強く意識させられる気がします。
特に最近はピアニストという言葉の中にアスリート的要素であったりタレント的要素がより強まっていると感じるマロニエ君ですが、バルダ氏はさすがにそういうものはまったくのゼロで、そういう意味でも数少ない潔いピアニストだと思いました。

後半で聴いたシューベルトも、基本的にはバッハと同様で、サバサバしたテンポ。
しかし決して無機質でも冷たくもなく、そのサバサバの陰に音楽の持つ味わいや息づかいがそっと隠されており、それをチラチラ感じるけれど、表面的には知らん顔で、このピアニストらしい偽悪趣味なのかもしれません。
すべてにこの人のセンスが窺えます。

バルダの音は、スタインウェイで弾いてもどこかフランスのピアノのような、色彩感と華やぎがあります。
こじんまりとしていてシャープに引き締っており、バルダの音楽作りと相まって、それらがさざなみのように折り重なって、まるで美しい鉱石が密集するように響き渡り、ほかのピアニストでは決して聴くことのできない美の世界が堪能できるようです。

音も一見冷たいようだけど、それはパリのような都会人特有の、感情をベタベタ表に出さず、涼しい顔をしてみせる気質が現れており、いわばやせ我慢をする人の内奥にあるだろう心情を察するように聴いていると、このバルダの演奏が一見表面的な華やかさ軽さの奥に、深い心情や彼の人生そのものが見え隠れするようでもありました。
2018/02/16 Fri. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プロバイダーの優劣 

いきなり笑われるかもしれないけれど、とうとう我が家も光回線というものに変更できました。

もともと固定電話の回線を使って始まり、それがいつしかISDNというものになり、さらに数年後にはADSLと言われるものに変わりました。
マロニエ君はこの道は、自分でも情けないほど「超」のつく苦手分野で、言葉や文字列のひとつひとつが何を意味するのか、違いは何かなども、ほとんどわかったためしがありません。

とりあえず時の流れで、勧められるまま人の手助けを借りながらに変更してきただけ。
今度は「光回線」というものが出てきて、それが主流になりつつあるらしいことは知っていましたが、まあどうでもいいやという感じでずーっとうっちゃってきたのでした。
しかし業界は放っておいてはくれないらしく、変更を促す営業の電話がやたらめったらかかってくるようになりました。
でもADSLでもいちおう問題もなく使えているのに、あえて慣れないものに変更するのがイヤで断り続けていました。

しかしそれで「はいそうですか」と引き下がるような相手ではなく、そのしつこさと言ったら並大抵ではありません。
平日が無理だと思ったら、今度は土日の夜なんかにまでかけてくるのですからたまったものではありません。
事務所にも同様の電話攻勢が絶えず、ついにそれに耐えかねた一人が「光にしたほうがいいのではないですか?料金も今より少し安くなるみたいだし…」と言い出したこともあり、ついに承諾することに。
ちなみに電話をかけてくるときは、だいたい「NTT」を名乗るか、あるいはそれに続いて横文字の名前を並べます。
だから、聞いている側はNTTもしくはそれに連なる子会社のたぐいと思うのは当然です。

承諾してからというもの、待ってましたとばかりに次々に郵便物が届き、差出人はよくわからない会社名だったりでしたが、まあよほど詳しい人でない限り、あまりの面倒臭さにまともに読む気にもなれません。

さて光回線にするには線を引き込む工事が必要となり、あれだけ電話してきてすぐにでも!という感じだったのに、いざその日取りを決めるとなると10日先2週間先という具合で、まあこちらとしても急いでいるわけでもないので待つことに。
当日工事に来たのはまぎれもなくNTTで「フレッツ光」とか言っているので、ここでもメインはやっぱりNTTだと思ってしまいます。

ところがあとでわかったのですが、工事自体はNTTでも、電話をかけてきたのはプロバイダーへと振り分ける仲介業者だったようで、さらに営業マンがやってきてあれこれ有利で最安となるプランを提案したのは、こちらが選んだわけでもないプロバイダー会社の営業マンでした。
もうなにがなんだかわからない!!!

実はこれ、少し前の話で、初めての光通信というものが我が家でスタートしたのが昨年の9月でした。

マロニエ君は何度も言うようですが、この分野は最も苦手でその理解力対応力はまさに老人並なのですが、それでもADSLから光回線になれば、グッと速度も上がるのかと期待していました。
通常のメールや調べものではまったく痛痒はないものの、YouTubeの動画などでは、反応が遅かったり映像が途切れたりということがあったので、そういうことからも一気に解放されるものだと思っていたのです。

ところが光回線がスタートしてみると、特段に早くなったというような印象はなく、なんだあまりかわらないじゃん!とガッカリ。
それどころか、使ううちにわかったことは日によって時間帯によって通信速度は絶望的に遅くなりだし、ひどいときはただYahooのトップページを開くにも数分かかるといった有り様で、光どころか最も初期の電話回線より劣るような印象。

これでは話にならないし、まったく使いものにならないと、さすがのマロニエ君も少し頑張りました。
今どきなので、ひとつの会社に電話するだけでも、すぐ人と話せるわけではないので、あちこちやっているとこれだけで半日ぐらいすぐにかかります。これを数日やっていると、だんだん見えてきて、プロバイダーが原因だというのがわかりました。

ネットでその会社名を検索すると、その評価は惨憺たるもので、中には「最も契約してはいけないプロバイダーのひとつ」とあり愕然となりました。
もちろん、その会社にも何度も電話しましたが、結論から云うと打つ手はないらしく、これで我慢するか、解約して別会社と契約するかの二つに一つ。しかも解約するには規定により「解約料」なるものが発生し、そんなものはぜんぜん納得出来ないけれど、それでもなんでもこのままよりはいいと思って解約することに決意!

一方、新しいプロバイダーはとにかく有名な大手がいいという友人のアドバイスもありそれにしました。
その結果は、「今までのあれはなんだったの?」と思うほどスイスイと繋がり、いらいこの手のストレスから解放されました。
おまけに建物内はすべて電波が行き届いて、みんなが幸せ、こうも違うものかと思うばかりです。

プロバイダー選びというのはいかにピンキリで重要なものか、しっかり勉強になりました。
みなさんくれぐれも気をつけてくださいね。

2018/02/12 Mon. 13:07 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イヤな光景 

イヤな光景を目にしました。
先日の平日夜9時過ぎのこと、ショッピングモールに買い物に行って、本屋に立ち寄った時のことでした。
雑誌を立ち読みしていたら、わずか3メートルぐらい先になんだかちょっと違和感を感じました。

人同士がペタッとくっつき合ってほとんど声も出さずにしきりになにかに集中しているようで、どうも小学校高学年~中学生ぐらいのまだ背が伸びきっていないひょろっとした女の子と、ほぼ間違いなくその両親と思われる3人。

女の子を中心に、両親と思われる2人が女の子に対して直角に夫婦が向き合うようにして肩が触れ合わんばかりに立っており、要するにこの3人は上から見ればコの字型を作っていました。
母子はなにかヒソヒソ言っているけれど、お父さんらしき人は終始無言。
女の子の手にはスマホがあり、カシャッ、カシャッ…とカメラのシャッター音がこちらまで聞こえてきます。

何をしているのだろうとつい見ていると、お母さんらしき人が手に本を持ち、娘がそれを写すたびに手早くページをめくるという連携プレイであることがわかりました。
左右を固める両親に守られながら、女の子は無表情にひたすらシャッターを押し続け、おおよその印象だけれど10ページぐらい撮影した感じでした。
両親は、本来とは違う意味でのまさに保護者であり協力者、いや悪行の仲間というべきか。

それが終わると固まっていた3人はサッとばらけて、本を持っていたお母さんにいたっては、その本を平積みの棚にポンと軽く放り投げるように置きながら、もう用は済んだとばかりにその場を後にしました。

売り物の本を買わず、必要なページだけを撮影していることは明白だったので、こちらもついイヤな気分になって、こっちに向かってくる3人の顔を遠慮なく正視してやりました。
娘とお父さんはややうつむき加減で通り過ぎましたが、お母さんはマロニエ君の視線に気づいたけれど、一切表情を変えることはなく、普通の声でどうでもいいような雑談をしながらこちらの横の通路を通り過ぎて行きました。

そこは、参考書のコーナーらしく、遠目に「英語」という文字は見えましたが、どんなものかわざわざ近づいて確認する気にもなれませんでした。

でも、本屋の商品である本の中をスマホで撮影するというのは、いわば「情報の万引き」です。
そんな不正行為そのものもむろんどうかとは思うけれど、そんなことを両親が我が子にやらせる、あるいは子供がそうするといったのならそれをせっせと手伝うというのは、激しく不愉快な気持ちになりました。

しかもいかにもそんなことをしそうな感じはなく、どこにでもいそうな普通の善良な市民といった感じの3人であったことが、よけいやっていることとのギャップがあって凄みを感じました。

思春期という最も多感な時期に、子供にそんな犯罪に近いようなことを平然とやらせる両親。
そんな調子では、まともな教育もしつけもあったものではないし、その子がどんなずるい手を使ってでも、自分の目先の利益を追い求めるようなことをしても、なんの抵抗感もないような人間になってしまうのは当然だろうなと思いました。

スマホのカメラもきっと画素数も多くて、拡大にも十分堪える写真が取れるのだろうし、まさに便利で高性能な機械も使い方次第というところ。
昔なら007に出てくる産業スパイのような行為でした。


2018/02/07 Wed. 03:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

モコモコ音 

自室に置いているシュベスターは、昨年の納品からこっち調律だけは2度ほどやりましたが、納品前の整備を別とすれば、いわゆるきちんとした調整は納品後は一度もやっていませんでした。
いつかそのうちと思いながらのびのびになっていた点検・調整を先日、ようやくやっていただくことになりました。

何度か書いたことではありますが、ひとくちにピアノ技術者と言っても、そこには各人それぞれの得意分野があり、いわゆる一般的な調律師さんから、コンサートチューナー、オーバーホールや修復の得意な方、あるいは塗装などの外装を得意にされる方など、中心になる仕事はそれぞれ微妙に異なります。
あたかもピアノ工場が幾つものセクションに分かれているように、あるいは医師にも専門があるように、技術者にも各人がもっとも力を発揮できる分野というものがあるようです。

もちろん、どの方でも、全体の知識はみなさんお持ちであるし、基本となるセオリーなど共通することも多々あるはずですが、やはり日ごろ最も重心をおいておられる専門領域では、当然ながらより深いものを発揮されます。

そういう意味で、今回はやはり長年お付き合いのある、点検・調整のスペシャリストとマロニエ君が考えている方にお出でいただきました。

とりあえずザッと見ていただいた結果、調律を含む4時間半の作業となりました。
すでに10ヶ月ほど弾いているピアノなので、そろそろ音もハデ目になってきており、そのあたりの見直しを兼ねて、音作りのリクエストなどを入れてみたのですが、結果的にはそれより前になすべき項目が立ちはだかり、今回そこまでは到達できませんでした。

外板をすべて外し、アクションを外し鍵盤をすべて取り除いて、丁寧な掃除から始まりますが、各部の調整などを経ながら後半に差し掛かったとき、「あっ」という小さな声とともに問題が発覚。
よく見ると、弦に対してハンマーが全体に左寄りとなっており、中には右の弦に対してほとんどかするぐらいの位置になっているものもあるなど、さっそくそれらの左右位置の調整となりました。

これはアップライトピアノではよくあることだそうで、正しい位置に戻してもしばらくは元の場所に戻りたがる傾向があり、何度か調整を重ねるうちに本来の位置に定着するとのことで、今回だけでは済まない可能性もあるとのこと。

加えて、調整後はハンマーの左右位置が微妙に変化したために、弦溝の位置がずれてしまい、グランドのウナコルダ・ペダルを踏んだように、音が一斉にこもって柔らかくなり、しばらくはこの状態で弾いてみてくださいとのこと。
これらが定着し、弦溝も定着してからでないと整音をしても意味がないということで、今回そちらは見送られました。

ハンマーというのは本当に微妙なもので、弦溝がほんのわずかにズレただけで、別のピアノのようになってしまいます。
各部の調整が効いているのか、鳴りそのものはより太くなったようでもあるけれど、なにしろ音がやわらかくなったといえば言葉はいいけれど、モコっとした輪郭のない音になってしまったし、その状態が均等に揃っているわけでもないために、正直あまり気持ちのいい状態ではありません。

これが、普通にきちんと練習される方のように、毎日しっかり弾かれるピアノならそのうちに変わってくるかもしれませんが、マロニエ君はそれほど熱心に弾く方でもないし、このピアノばかりをそれほど短期集中的に弾き込む自信もありません。
ということは、いつまでこの状態が続くのかと思ったら、いささかうんざりもしてきました。

音の好みを少しでもマロニエ君の求めるものに近づけようと、調律時に倍音の取り方などいろいろな例を作っては聞かせて頂きましたが、それによってピアノの性格まで変わってしまうので、あらためて調律というものの重要性を認識することもできました。

ただ音程を合わせるだけなら、一定の勉強をすればできることかもしれませんが、そこから音の響きの色艶濃淡硬軟色彩など、あらゆる要素を3本の弦のバランスによって作っていくのは、これはやっぱり相当に奥の深い仕事だと思います。
そのためには技術や経験が大切なことはいうまでもないけれど、結局、一番大事なことは調律師自身の中にあるセンス、つまり音に対する美的感覚だと思います。

それにしても、柔らかい音とモコモコ音は似て非なるものですね。

2018/02/02 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit