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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

向上と退化 

このところ、音質もさほど良いとはいえない昔の演奏に耳を傾けることが少なくありません。
理由を考えてみると、現代の演奏はどこか作られたような、ウソっぽさを感じることが多く、昔の演奏にはそういう疑念がない点で、演奏者の本音に触れられるからかもしれません。

とはいえ、新しい世代の演奏もそこそこ積極的に聴いているつもりです。
日本人でもこの数年でワッと増えたように感じますから、あの世界も大変でしょう。
若い世代のピアニストは、いまさら繰り返すまでもないけれど、不自然に完成されておりピカピカで聴いていて見事とは思うけれど、心を掴まれたいのにそうならないまま淡々と進み、ついには後に何も残らないのです。
これは言い換えるなら「もう一度聴いてみたいと思わない」ということかもしれません。
演奏を通じて自分が価値とするものを世の中に投げてみる、あるいは批判覚悟で問うてみるという、とりわけ芸術には必要な個の尊厳のための頑固さとか偏執的なエゴがまったくないのは、まるで売上チャートに合わせた規格品みたいな感じがどうしても拭えません。

評判のいいチェーン店の商品のように安定はしているけれど、マイナスになり得る要素を排除し、わずかなキズや落ち度も消し去って、キラキラに整っているだけの首尾一貫しない演奏。まるで音楽をネタにしたエリートの成功物語に付き合わされているような印象と言ったら言い過ぎでしょうか?

おそらく彼らにも言い分があって、これだけ平均技術が上がりライバルが増えれば、自分の頑なさをアピールして失敗するより、手堅くミスを侵さず、嫌われず、タレントとしての存在力を高めることに注力しなくてはいけないのかもしれません。
一部の鍛えられた耳を持った人をターゲットに芸術性で勝負しても、それは現代が求める価値とは齟齬があり、技巧や入賞歴や、やみくもなレパートリーの量、メディアへの露出、果てはSNSのフォロワー数などが尺度となって、誰にでもすぐにわかるものでなくてはならない。
要するにスーパーマンであることが最も大事なのかも。

私の旧弊な耳には、匿名的な活字印刷したような演奏にしか聴こえず、その演奏から誰の演奏と言い当てることはできません。

海外のピアニストも同様で、だれもが不安のない技術を備え、淡々と既定の演奏をやっているのだから、はじめから終わりまで見通せるようで、ワクワク感がないのも当然ですが、音楽がワクワク感を失うのは大問題という気がします。

これは楽器としてのピアノにも似ていて、昔のピアノは品質も個性も様々で、高級品は夢見るほど素晴らしく中には怪しげな魔力さえ漂っていたりしましたが、大半のピアノメーカーは淘汰され、残ったメーカーはこれという欠点を徹底的に潰して量産品としての改善に努め、標準的な間違いのないものを作っているように見えます。
今は一流品とされるブランドでもコストと利益が最優先で、素晴らしいピアノを作ることに心血を注ぐなどという理想はなく、ビジネスとして与えられた枠の中で、誰からも嫌われないものを、職人不要なマシンを多用しながら、故障しない自動車を作るように製造しているように感じます。
もはやピアノも工場のハイテクの気配はあっても、熟練の職人や工房の匂いがしないのは当然というわけです。

現代のピアニストの演奏は、印刷された楽譜の存在をイメージさせすぎるように感じます。
多くの奏者は聞き分けよくそれらを正確に伝えてくるけれど、それが本心からその人の感じ取った音楽になっているかとなると甚だ疑問で、それも徹底し過ぎると音の商品といった印象があります。
その点、昔の演奏は演奏者の感性を通し、身体をかけめぐったあげくに作品が昇華され、それぞれの言葉や表現となって聴く者へ届けられてくる気がします。そこには演奏者の体温があり、汗があり、吐息があり、喜怒哀楽が作品を通して翻訳され、山あり谷あり立体感があって、血の通った起承転結を感じます。
結果、何を聞いても同じように聞こえるのではなく、作品の姿形も、作曲者が伝えたかったこともダイレクトになる気がします。
要するに作品が奏者と肉体化しているので、楽譜を感じさせないんだと思います。

同時に、現代の精巧な演奏には及ばない点や、場合によっては違和感やどうみても間違いなど、出来不出来もあるけれど、何のために音楽を聴くのかという点では、前世代の演奏のほうが純粋で、音楽のあるべき姿ではないかと感じるこの頃です。

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2023/03/24 Fri. 20:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガラス窓 

唐突ですが、住まいの窓ガラスの掃除は、なにしろ面倒くいから滅多なことではやらず、恥を忍んで告白すると1年以上ほったらかしになってしまうようなことも常態化しています。
毎日の生活の中で目にしていると、すっかり目に馴染んでほとんど無反応になるものがあるけれど、ふと冷静な目で見てしまうる瞬間があると、その汚れにびっくりしたり…。

外窓は、雨粒はもちろん台風の時に付着したと思われる小さな泥粒などが下部にこびりつき、内側はエアコンはじめホコリの堆積、さらに冬場は加湿器のせいでうっすらと白い膜のようなものが覆っていたりします。
しかし、いつも薄いカーテンを引いているので、おかげでますます気にしなくて済むということもあったり。

そのうちやらなくてはと意識するようになっても重い腰はなかなか上がらず、あれやこれやのせいにして実行は延期に次ぐ延期の繰り返しだったり。着手するまでが大変です。

鏡ぐらいのサイズならともかく、家の窓ともなると面積も広いし、何度も雑巾を洗ったり絞ったり、かつガラスは裏表があるから仕事量も倍で、かなりの重労働となるのでますます敬遠しがち。
それでもなんとか見て見ぬふりできているうちはいいけれど、今年になってからさすがにこれ以上はマズいという一線を超えて、一気に危機感が募りました。

なんでも業者に頼んで、お安くもない料金をすんなり出せるような方は別ですが、自分でもできることをわざわざ頼むのももったないし、だいいち家の中へ半日なり業者が出入りするのも、正直言って気の張る思いをするからできるだけ避けたいということになると、その両方をクリアするには「自分でやる」以外にありません。

そこで思いついたことをやってみた結果、想像以上に簡単で嬉しい発見があったので、ちょっとそのお話を。
IKEAに行くと、ガラス掃除用のT字型の器具で先にゴムの付いたワイパーみたいなものが驚くような低価格で山積みされています。
よくビルの清掃員などがガラス掃除に使っているものを、一般人向けに小型にしたようなアイテムで、これを使ってみることを思い立ちました。

洗剤を希釈した液をスプレーでシュッシュとやって、その手動ワイパーで拭き取るという単純なものですが、予想に反してなかなか思うようにはいきません。
プロが手慣れた手つきであっという間に汚れを落としていくのを感心して見た覚えがありますが、自分でワイパーを動かしたあとには両側に必ず液体の筋が残り、それを別方向から取ろうとすると、その方向へ別の筋が残り、そうこうするうちに斑に乾き始めるなど、仕上がりも一向に思わしくなく、落ちたはずの汚れはヘンな跡やムラになって残るなど布で拭くほうがまだいいようなものでした。
こんなことをやってもダメだと思い、一旦中止に。

その後、考えたことは、クルマの仲間から教わったものですが、一点の曇りも好ましくないクルマのガラス拭きには下手な専用洗剤より精製水を使ったほうが効果的という、あのやり方でした。
洗車の手法を応用するなら、間髪を入れずにメリヤスのシャツなどで補助的に拭き足すことも効果的では?と思いつきました。

すぐに100円ショップで新しいスプレーボトルを買って精製水を入れ、それをガラス面にシュッシュッとたっぷり(下にダラダラ流れだすほど)吹き付けました。
一息おいてワイパーで上から下に向かってザーッと拭き取りをし、すかさずメリヤス地に持ち替えて軽く拭いてみると、なんとこれだけでかなり綺麗になることがわかりました。ムラもほとんどなく、パッと見には十分満足というレベルの仕上がり。
また、精製水は洗剤でもないのでケミカル品特有の膜や拭きムラなどもなく、これだと望外の少ない労力で、すくなくともみっともなくない程度にガラスが綺麗になることがわかり、ヨーシ!というわけで、これで気になるところを次々に掃除していきました。良い結果が出始めると、俄に嬉しくなって、張り合いも出るというものです。

遠目であれば、さっきまで惨めにくすんでいたガラスは、ガラスを外したの?というぐらいビシッと綺麗になり、その労力/コストに対する目覚ましい結果には感動すら覚えました。

現在のところ広いガラス面をこれ以上ラクに、効果的に掃除する方法はちょっと思いつきません。
下処理などもなく、汚れたガラス面にいきなりスプレーすればいいので短時間で済むし、道具といえば、スプレーボトル入りの精製水、窓拭き用ワイパー、着古したメリヤスシャツ、位置が高いなら脚立、さらに窓枠の汚れ(特に下部)を拭き取るためのウェットティッシュ、とせいぜいこれぐらいです。

精製水は薬局に行けば大体100円ちょっとで500mlのものが売っており、2〜3個買っておけば安心ですが、実際は1本でも相当の面積がカバーできます。
この精製水はガラスはもちろん、食器棚でも家電でも、ウェスを固く絞ってシュッシュと精製水を吹き付ければ、なんでも気軽にきれいになります。
この手軽さを覚えたら、目的ごとに分かれた各種洗剤など、よほどのことでないと使う気にならないこの頃です。

2023/03/18 Sat. 17:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

厳しい現実 

以下に書くことはあくまでも筆者個人に限ったことなので、まずその点を明確にお断りしておきたいと思います。

楽器(私の場合はピアノ)を奏でることの楽しさはいまさら言うまでもなく、その大いなる喜びや魅力は自分の半生を通じてよく承知しているつもりです。
とりわけピアノという楽器の美しい音や万能性、さらに無限ともいえる膨大かつ偉大なレパートリー、それを自分自身の手で音にするのは他のいかなることからも得られない、まさに代え難い喜びがあるものです。

そもそも好みのピアノは見ているだけでも快いし、ましてキーに触れて音が出すとなると、自分ひとりのために楽器は反応し、鳴動し、その生の音に全身が包まれる感触、さらにそこから曲になっていく喜びはまさにピアノを弾く醍醐味。
そんな基本は決して変わらないけれど、その喜びと背中合わせに、ピアノを弾くことで常に付きまとってくる虚しさみたいなものからも逃れられない負の感覚が貼り付いているのも私の場合は紛れもない事実です。

その一番の理由は?というと、どんなに練習しても(〜ろくに練習もしない人間がこの言葉を使う資格もありませんが)、基本的な自分の演奏技量にはどうにもならない限界があり、これが分厚い壁となって行く手を阻み、そこを打破することは不可能だという事実があることです。
子供の頃に、ろくに練習もせずいい加減に過ごしてしまったツケが、はっきりとこの結果にでていることは疑いようがないわけで、自業自得なのはむろんわかっていますが…。

ピアノほど技術向上のための短い成長期を取り逃してしまうと、後からどうあがいても基本力が上達しないものは、そうはないように思います。
技術と名のつくものはおしなべてそうなのかもしれませんが…。
私などは生来の意思薄弱な人間だから、技術の向上がまったく見込めないことに、無償の努力を注ぎ練習に打ち込むことは、やはりどんな言葉を並べてみたところでモチベーションは上げられません。
「どんなに下手でもいいから、一曲を心をこめて弾く事が大切」「自分の技量に応じて楽しめるのがピアノの魅力」といった慰めの言葉は山ほどあってむろんその通りでしょう。だからといって心底からそんな気にはなれないのも事実です。

弾きたい曲が自在に弾ける世界には手が届かず、やむを得ず自分の技術に見合ったレベルの曲を幾日も(ときに何ヶ月も)辛抱強く練習するしかなく、それが全く楽しくなくはないけれど、やはり楽しさの幅は大きく制限され、欲求が満たされることより、不満の増幅のほうが勝るわけです。
技術的に大したことない曲を一つ仕上げるにも、日々の努力と練習に勤しまざるをえず、加えて昔は自分なりにできていた暗譜さえ明らかに記憶力が減退しており、自分の求めているピアノへのイメージから離れていくのをイヤでも感じるこのごろ。

こういう厳然たる事実が年とともに、よりはっきり鮮明に見えてくるようで、そうなればなるだけささやかな練習をするのも以前にも増して億劫になり、勢いピアノに向かう時間も意欲も弱くなっていくようです。
そもそも練習というのは、それそのものに才能と意志力と忍耐が必要だし、ある程度の若さや体力的なもの、そして向上するという喜びの後押しも必要なんだと思います。

ピアノを趣味でやっている人の中には、自分の技量にはさほど頓着せずコツコツと練習し、レッスンに通い、それを喜びとできる方もおいでのようだし、近隣の騒音問題などがなければいくらでも弾いていたいという方も少なくなく、これには感心もするけれど、個人的にはそんな気持ちはほとんど信じられないのです。
中には、それでも練習を積み重ねれば、技術は向上すると本気で信じている方もおられるようで、それは結構なことですが、私は逆立ちしてもそんな希望は抱けないし、自分の考えが嬉しいほうに間違っているとも思えない。

ピアノの演奏技術は、いろいろな見方があるにせよ遅くとも十代までで大枠は決まってしまい、それ以降はどんなに努力をしても大きく変わることはないでしょう。

思うにピアノの演奏技術向上というのは身長が伸びるのと同じようなもので、伸びる時期に(効果的な訓練をすれば)ぐんぐん進み、それでもどこかの時点で残酷なまでにバタッと止まってしまうもの。

世の中には、つべこべ言わずにきちんと頑張り通して何かを成し遂げる御方もおられますが、「ヨーシ自分も!」というような気概というか、ある種の執念がまるきりないのが我ながら情けない限りです。

2023/03/12 Sun. 22:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

聴き応え 

いつものTV視聴から。

▲アンヌ・ケフェレック
来日公演からシューベルトの最後のソナタD960と同じくベートヴェンのop.111。
時間の関係でシューベルトは第1/4楽章のみ、ベートーヴェンは全曲でしたが、普通に考えればシューベルトはまだしも、このフランスの小柄な閨秀ピアニストが弾くには、ベートーヴェンの最後のソナタなどいささか荷が勝ちすぎやしないか…という予断があったのですが、それは私の浅はかな間違いでした。
一般的に、最後の…と名のつくソナタなどになると、どうしても精神性の表出を意識しているようで、大上段に構えて大仕事に挑んでいるといった演奏になりがちですが、ケフェレックのそれはいささか趣の異なるもので、そういう過剰な気構えなしに、ケレン味なく、曲を曲らしく、正にありのままであるため、それが逆に極めて深い説得力をもっていたことは驚きでした。
長年の研究や解釈の手垢があまり付かない、作品の自然な姿をそのまま描き出し、力むことではない音楽としての美しさの中から精神的な奥深さのようなものを、聴くものが恭しく押し付けられるのではなく、自然に自由に受け取るという手筈になっているような演奏。
凡庸なピアニストは、作品の背景や深いところを見落としているという批判を恐れるあまり、必要以上に難問を解読するように振る舞い、そして形而上学的なものへ到達したことを見せねばならぬと奮闘するため、あるがままの姿が逆に見落とされてしまっているようにも気づきました。
しかも、ケフェレックは決して曲を小さく弾いたわけでもなければ、フランス的な軽妙な感性の中に落とし込んだのでもなかった印象をもちました。
耳にしたのは、あくまで自然な語りであり、こういう弾き方もあるのかと唸らされたとともに、おそらくこの人にしかできない演奏なのだろうと深い感銘を覚えました。
とかく現代の情報過多の時代にあって、ピアニストも頭でっかちになり、高尚さを狙いすぎて、却ってありきたりな聞き飽きた、つまり通俗的な演奏になっていることを大いに反省すべきだろうと思います。
「楽譜にすべてが書かれている」という言葉がありますが、現代のピアニストの多くはなるほど楽譜に正確ではあるけれど、同時に情報や環境にきつく縛られているという意味で、甚だ退屈かつ凡庸な演奏に陥りすぎていることを、ケフェレックの演奏はまざまざと感じさせるもので、この録画はなかなか消去できそうにありません。

▲イリーナ・メジューエワ
長く日本に住むこのロシアのピアニストは、その華奢な風貌とは裏腹に、重厚かつ正統的なピアノを聴かせる実力派で、私はこの人のお陰でメトネルのピアノ曲にずいぶん親しむきっかけを作ってもらった(主にCD)と思っています。
いまや日本語も達者で、昔の謙虚さを失っていない頃の慎ましい日本人のような語り口で、その内容と併せてまずもって驚かされました。
この日はラフマニノフ・プログラムで、使われるピアノもラフマニノフが10年ほど自宅で使っていたというニューヨークスタインウェイのDで、現在は東京のピアノ貸出会社が所有しているようです。
メジューエワ氏もこのピアノを通じて、ラフマニノフからいろいろな教えを受けているような心地がするというような、畏敬の念に満ちた意味のことを語っておられました。
楽器としての内部は充分な修復や手入れがなされているようですが、外観は意図的に手を付けられていないようで傷みもかなりあるけれど、それが歴史を感じさせる凄みとなり、とりわけ目を引いたのは鍵盤蓋に残る無数の生々しい傷あとでした。
それも引っかき傷のような軽いものではなく、おそらくは巨大な手の持ち主としても有名だったラフマニノフの爪や指先が激しく衝突していたのか、木肌がえぐれて木の地肌が銃痕のように無数にできてしまっており、生きていたラフマニノフの息吹を感じさせないではおかない壮絶な証拠のようでした。
とりわけニューヨークスタインウェイ(アメリカのピアノ全般?)は、ハンブルクやその他の標準的なピアノに比べて、キー(特に白鍵)がわずかに短かかったので、いよいよラフマニノフにとっては指先が鍵盤蓋につっかえて仕方がなかったのかもしれません。

メジューエワの演奏は派手さで人の気を引くものではなく「滅私奉公」という古い言葉を連想してしまうような誠実さというか、礼儀正しさみたいなものを感じます。
かといって、いわゆる退屈な先生タイプではなく、楽器をよく鳴らす厚みがあり、同時にロマンティックなので、聴く側も集中力が途切れないのは稀な存在だと思います。
テンポも許容できる範囲でのやや遅めの設定で、圧倒的な疾走感などはないかわりに、細かいディテールを漏らさず聴くには、こういう演奏をしてもらえると、じっくりと作品に触れることができるのは好ましく思います。
とくにソナタ第2番はラフマニノフのピアノ曲の中でも、代表作であるだけでなく、ひときわ壮大かつ官能的な作品である気がしました。
ピアノ自体にも生命感があって、奏者と楽器が常になにかのやりとりをしているよう。

つくづく現代のピアノの大半は、音を出すための無機質な装置になってしまったように感じないではいられませんでした。
とくに低音域の豊かな響きなどは比類無いものがあったし、弾けばピアノが反応しているという独特な感じは、楽器の最も大切なところではないかと思います。

2023/03/05 Sun. 02:10 | trackback: 0 | comment: -- | edit

秀逸な海外ドラマ 

前回書いた、動画配信という思わぬ環境を得たせいで、映画やドラマにどっぷりになるハメになりましたが、映画を言っていたらキリがないので、海外ドラマで印象に残ったものをいくつか。

▲『スーツ』アメリカ
かなり有名なドラマで、ニューヨークの弁護士事務所を舞台に巻き起こる人間模様。
弁護士というものがやけにカッコいいエリート族として描かれており、よほどの人気だったのか、シーズン9、エピソード数にして134話におよぶ長大作。彼らがいかに生き馬の目を抜くような攻防や駆け引きなどを繰り返しながら、肩で風を切るようでクールな過剰な描かれ方はときに笑ってしまうほど。
ライバル事務所はもちろん、仲間内での争いや足の引っ張り合いなども絶え間なく、平穏が訪れることはない功名心と頭脳戦による熾烈な競争の世界。
このドラマには、あのヘンリー王子と結婚したメーガン・マークルもスタッフのひとりとして出演しているのも見どころ。
彼女は主役級の男性と日本風にいえば社内恋愛で結婚に至るものの、8年に及ぶこのドラマの後半で本当にヘンリー王子と結婚で降板したようで、ドラマではやや唐突にアラスカの人権派弁護士になるという筋立てで、主役級の男性を道連れに姿を消してしまいます。

これは日本や韓国でもリメイクされたらしいので、よほど人気シリーズだったのでしょう。
一説によると、前代未聞の数々のスキャンダルを押し切って、元皇族の女性と、ついに結婚を強行した怪しげな男性、そのご両人ともがこのドラマの大ファンだった由ですから、このドラマの影響も小さくなかったように思えなくもありません。

このドラマ、見方によってはイギリスと日本で、二組のロイヤルカップルを生み出したのかもしれませんね。
それは余談としても、これほど長いドラマを見たのは初めての事でしたので、全話を見終わった時にはしばらく「スーツロス」になりました。

▲『マッドメン』アメリカ
これも舞台はニューヨークですが、1960年代の広告業界を描いたドラマで、かなりのところまで見ていたにもかかわらず、途中で定額視聴期間が終了し、以降は一話ごとに有料となり泣く泣くやめてしまったドラマ。
『スーツ』の50年前のニューヨークというわけで、その間の時代の変化も面白く見ることができました。
数話ならやむなく有料でも見たかもしれませんが、まだ数十話残っており、そのつど200数十円払い続けるなんてまっぴらなので、憤慨しつつ断念しました。
この経験から、見始めたものはサッサと見てしまわないといけないことを学習。

▲『オスマン帝国外伝』トルコ
長いといえばスーツどころではない超大作。
オスマン帝国の第10代皇帝スレイマンの治世、奴隷から寵妃となったヒュッレムと皇帝を中心とする、いわばトルコの壮大な大河ドラマ。
2人の出会いから死までを描く、波乱などという単調な言葉では到底語れない、壮絶な権力と愛憎の宮廷人間模様。
これを見ると、人間不信に陥るほど、親子、兄弟姉妹、主従、軍や側近などすべてが命がけの陰謀と裏切りに終始し、だれもが騙し合い、殺し合い、権力闘争に明け暮れるのが人間の本性であることを赤裸々に描いたすさまじい内容。
また、トルコという国民性もあるのか、途方もないそのエネルギーは東洋の片隅で生まれ育った日本人にはおよそ持ち合わせぬもので、見て楽しみながらも、こってりした脂の強い料理が胃にもたれるようなある種の疲れが常に伴うものでもあります。
『オスマン帝国外伝』がようやっと終わると『新・オスマン帝国外伝』というのが控えていて、こちらは皇帝スレイマンから数代後の話。
これは完結制覇まであと一息ですが、新旧あわせてエピソード数にしてなんと500話に迫る超大作で、これを書いている時点で残り20話ほどになったけれど、もしかしたらすでに半年以上これを見ているようで、まさに生活の一部になりました。
オスマントルコが黒海からヨーロッパにかけて最強を誇った時代があるとは聞いてはいましたが、なるほど途方もない権勢であったことがよくわかります。
現在のロシア/ウクライナ問題、あるいは北欧のNATO加盟に対してあれこれと画策し権謀術数をめぐらすエルドアン大統領ですが、このドラマにどっぷり浸かっていたおかげで、あの国ならそれぐらい朝飯前だろうと容易に思えました。
それにしても古今東西、国の大小を問わず、宮中とは例外なく恐ろしいところですね。

スタートはアマゾンプライムだったものの、途中からhuluでしか配信されなくなり、そのためやむなくhuluにも入会するという深みにはまってしまいました。

▲『ハンドメイズ・テイル』アメリカ
どうせhuluに入ったならと見始めたのが、huluオリジナルのドラマ。
近未来のアメリカは内戦の末分裂して、アメリカ政府はアラスカへと退き、代わりに主権を握ったのがギレアドという戦慄の監視社会政権。娯楽はすべて禁止、男性のみによる国家支配、女性は文字を読んでも罰を受けるという恐ろしい制度。
市中のいたるところには、処刑された遺体が見せしめにクリスマスツリーのオーナメントのように吊るされるというおぞましい社会で、シーズン5/エピソード56のドラマ。
出生率が低下したため「侍女」と呼ばれる妊娠出産可能な女性が次々に拉致され、強制的に国の要人の子を身ごもらされ出産させられ、産んだあと赤ちゃんは奪い取られて高官夫妻の子どもとされ、それに一切の抵抗はできない暴力支配の下に置かれるという具合で、本来こういうディストピアものは見るだけでも苦痛なのですが、やはり先述のようにドラマ自体がよく出来ているので、知らず知らずのうちに見せられてしまいました。
ここに描かれるギレアドというキリスト教原理主義の恐怖支配は誇張的だとしても、日ごろ当たり前だと思っている自由主義社会のありがたさを今さらながら痛感させられます。
とりわけ国家の法と理念に宗教原理主義が入り込んだが最後、その異常性はとりかえしのつかないものとなることが一目瞭然。
主役のエリザベス・モスは『マッドメン』でも社内メンバーのひとりで見覚えがありましたが、そのときとは打って変わって壮絶なまでの熱演を遺憾なく発揮するあたり、海外の俳優のとてつもない力量に驚きます。
シーズン5の最終回で最終回と思っていたら、まだ続くようでシーズン6を待つしかないようです。

立て続けにピアノの話から逸れてしまいました。
2023/02/25 Sat. 14:31 | trackback: 0 | comment: -- | edit

新しい楽しみ 

ネット配信による映画やドラマを見て楽しむことがいつごろ始まったのか、まるでわかりません。
かなり前だったんだろうとは思いますが、そういうことにめっぽう弱く、どうにもなじめない私は正直関心もなかったし、そのまま長い時間が過ぎてしまいました。
そもそもパソコンやスマホで映画を見るなんて、考えただけでも自分の感性には合わないと直感していました。

ところが既にこの手の配信サービスに加入し楽しんでいる人から「どうして入らないの?」という、まるで何年も前にガラケーをだらだら使っていた私に「なんでスマホにしないの?」と言われた時と同じような、それをしないことになんら意味を見出せない!といった半ば呆れた様子の響きがあったし、聞けばTVモニターに繋いで視聴することも可能とのことで、しだいにメリットも大きいということがわかってきました。

友人の中には、今どきのネット環境に付随する各種ポイントやクーポンにやたらくわしく、どれが損でどれが得かということに夫婦揃って通じているおかしな二人がいて、中でもその奥さんはよく聞けばまさにこの分野の生き字引的な存在らしいことを後に知りました。
消費者が躍らされているだけで期待するような実質的なメリットはないものから、逆にこれはスゴイ!というようなものまで、沈着冷静な分析と意見をもつ、それはもう畏れ入りましたという意見の持ち主なのです。
旦那さんの方も相当な猛者で、聞けばいつも夫婦バラバラに得なものを探し出し、しかも相手には積極的に教えないという、一風変わった戦いが繰り広げられ、会計の時などにサラリと使ってみせて相手を驚かすというような滑稽な勝負をよくやっているとかで、旦那さんのほうがいつもわずかに負けているそうです。

その二人が口を揃えて言うには、AmazonPrimeは絶対にお得なのだそうで、私もあの二人が言うのなら間違いない!というお墨付きを得た気分で、背中を押されてついに入会の運びとなりました。画面上から申し込み、TVモニターに映すためのステックやリモコンの入った機器を購入して、それをTVに差し込んで設定するというものでした。

冒頭に述べたように、こういうことに疎い私は設定にかなり手間取りましたが、それをどうにか乗り越えると、そこには広大なる娯楽の海が広がりました。
あらゆるジャンルの映画やドラマがひしめいて、好きなものを選んで(検索機能もあり)自由に楽しむことができるというもの。
もちろん、世界中のすべての映画があるわけではないし、常に入れ替えもあれば、新作も随時投入されていて、これはたいへんなものであることは直ちに納得できました。
昔ならレンタル店に出かけて行って、DVD(さらに昔はビデオ)を選んでは借り受けて、見終われば再び返却に行くということをやっていたことを思えばまさに隔世の感があり、いうなればビデオ店がそっくり一軒自宅にやってきたようなものです。

これを機に、日常生活の中で映画やドラマを観る時間が圧倒的に増えましたが、そこでまずしみじみと感じることは、個人的な感想としては日本と海外の作品では埋めがたい大差があるということでしょうか?
もちろん、海外の作品でも非常にくだらないB級映画のようなものもあれば、日本映画でもしっかりと練り込まれた力作がないこともないけれど、全体として日本のこの分野は圧倒的に国際基準からは遅れていることをひしひしと感じることは事実です。

さらにその差が激しいのがドラマの分野で、海外ドラマには見応えのある質の高い素晴らしい作品がいくらでもあり、考え込まれたストーリー、コストのかけ方、美しい映像、小道具に至るまで神経の行き届いたリアリティの追求、そしてなにより優秀な俳優陣による素晴らしい演技などには瞠目させられることしばしばです。
それにひきかえ日本のドラマは、率直に言って浅薄で幼稚で欺瞞的で、ほとんど進化もなく、まるで学芸会のような印象しかありません。
役者もこれでプロか?と思うような単純で子供っぽい演技やセリフ回しで、内容も安直なファンタジーで視聴者のレベルが透けて見えるようで、この面は世界基準でいうと、もはや何周も遅れていると感じます。
日本という島国の縮こまった環境や、ダイナミックなことの苦手な民族性もあるのかもしれませんが、なんであれ挽回は容易なことではない気がします。

日本といえば優れたアニメが世界を牽引しているというような話はずいぶん前から聞いており、それは結構なことではありすが、個人的にはやはり実写の世界でも、もう少し本気で勝負をすべきではないかと思います。

私がネットの動画配信を見るようになってまだ一年も経ちませんが、これは一度経験したら、決して昔には引き返せないものだと思います。

2023/02/19 Sun. 16:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

キモはセンス 

人間関係において何が一番重要か、これはわかるようでわかりにくいテーマだと思います。

通り一遍の言い方をするなら、人柄であり、信頼であり、相手を思いやる心というあたりを並べることになるのでしょう。
私もそこはむろん同感しますが、事はそう簡単には解決しません。

実際にはそういった大原則だけでは立ち行かない問題が多々あって、本当に好ましくしっくりくる人間関係ということになると、そう簡単に成立するものではないというのが実体験としてあります。
ここ最近、そのあたりを考えさせられることがいろいろあって、自分なりのひとつの結論を得たような気がしました。

若いころは、自分の若さと無知と傲慢から「馬鹿が一番困る、馬鹿は罪だ!」などと勢いに任せた考えを持っていたこともありますが、それは短慮で恥ずかしいことで、まさに若気の至り。
そこでは馬鹿という言葉で、雑駁にいろいろな要素を一掴みにしていたし、多少の偽悪趣味もあったと思います。

いま思うのは、人間関係で大切なのは、ほんの一部でいいから「センス」が共有できるか否かだろうと思い至るようになりました。
センスというのは善悪でもなく、バランスであり、息遣いであり、いわば取捨選択のものさし。
極論すればセンス=人間性といってもいいような気さえします。
まさに感性の問題だから、理屈ではどうにもならないものだとつくづく思います。
ダサいと感じるものはどうしようもないし、感じない人はどんなに說明しても理解できないもの。

人との人の間には、この理屈ではないものが介在することによって心の距離が決定され、しっくりくるものから素通りするものまで、自動的に分別されているのではないかと思ったりします。

関係の保ち方、話の内容や関心を寄せるポイントや重経など、ありとあらゆるところにセンスが果たす役割は、あまりに大きいものがあると言わざるを得ません。
センスが完全に合致するなんてことはあり得ないけれど、一定程度の共有が得られるかどうかはとても重要です。
どんなに正しく聡明で立派な人でも、センスが大きくずれると、なにもかもが皮肉なまでに噛み合わず、絶望的な結果しかないのです。
解決できない壁に阻まれ、当り障りのないことでお茶を濁すだけ。

こちらが大事だと思っているポイントが無価値だったり素通りだったりで、テンションも上がらず、会話も頭打ちで退屈な安全運転に終始するだけ。
よくいう「笑いのツボ」が合う/合わないというのがありますが、これもまさにセンスの問題だと思います。

人には能力、人格、適正などいろいろな要素がありますが、それらを奥深いとこで引き絞って、ひとりの人間として動かし采配しているのは、ほかならぬセンスだと思うのです。
通常はよく価値観という言われ方をしますが、個人的にはそれよりもセンスのほうがより深くて決定的なものがあって大事だと思うのです。

しみじみ思うのは、どんなに立派で温かい心をもった人でも、センスが合わないといちいちが神経に障り、疲れます。
しかも、互いに何が悪いというわけではない分どうにもなりません。

センスは人間関係のみならず、人が関わるあらゆることの中心では?

最後になりましたが、いうまでももなく音楽もそうであって、どんなに練習しても、センスによって統括されなくては決していい演奏にはならないし、そもそも技術もないまま難しい曲に挑戦したがるなんぞ、センスが悪いなによりの証でしょう。
そういう意味では、ピアノが下手なことは許せるけれど、センスが悪いのはガマンできません。

2023/02/13 Mon. 22:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

懐かしく新鮮 

CDも入れ替えが面倒くさくていつも目の前にあるものばかり聴いていると、さすがに飽きてきて、昔のもので何かないかと探してみた結果、何年ぶりかで、エレーヌ・グリモー、アンドリス・ネルソンズ指揮バイエルン放送交響楽団による、ブラームスの2つのピアノ協奏曲を聴いてみることに。

このCDの昔の印象としては、どちらかというと常識的で、悪くはないけれど特に素晴らしい!というほどのものでもないというものでした。
以前にも書いたことがありますが、CDの印象というのはだいたい同じで、それが覆ることはなかなかないのですが、今回は珍しいことにすこしだけ良いほうに覆りました。

それは、奇をてらったものではなく非常にオーソドックスなしっかりした演奏と言えるし、この点が以前では上記のような印象にしていたんだろうと思います。
しかし、今回聴いてみてまず感じたことは、細部の一つ一つをどうこうというより、全体としてグリモーの演奏には彼女なりの感性の裏打ちが切れ目なく通っており、そこに音楽に必要な熱いものが脈打っているということがわかった感じでした。
その点では、ネルソンズの指揮のほうがより普通で、もの足りないといえばもの足りないけれど、足を引っ張っているわけでもないのでこんなものかという印象だし、もしもこれ以上熱い演奏をしたら、グリモーもそれに反応してくるとちょっとうるさくなってしまうかもしれず、これはこれでこのCDとしては良かったのではないかと思いました。

〜で、なぜ評価が覆ったのかというと、最近の若手注目ピアニスト達の演奏に対する、ある種共通する不満が溜まっていたからではないかと思います。
既に何度も書いているけれど、どの人ももはやメカニックは立派で、どんな難曲大曲でもケロッと弾いてしまいますが、聴き手はそこから何か大事なものを受け取ることができません。
日本のピアノそのもののように、どの人が何を弾いても、均一で、危なげがなく、さも尤もらしく整ってはいるけれど、建前的で心を通わせるようなものがない、ただきれいで見事なだけの演奏。
ニュースキャスターが原稿を読み上げるように、楽譜を正確に音にしているだけで、本音なんて決して明かさないガバナンスの効いた企業人の完璧なふるまいみたいな演奏。

そんなタイミングで聴いたグリモーだったので、そういうものでないだけでも新鮮に感じられ、そうでないことに懐かしさもあり、やはり演奏には血の気や感性の発露がなくてはダメだという、当たり前のことをひしひしと感じたのでした。

エレーヌ・グリモーというピアニストは元来器の大きいピアニストとは思いませんし、テクニックにしても現代のコンサートピアニストとしては余裕のあるほうの人とはいえないでしょう。
私は基本的には、力量以上の曲に挑むというのは、プロはもちろん、アマチュアでも最も嫌うところで、そこからくる息苦しさみたいなものを(そして時に浅ましささえ)覚えます。
ところがグリモーは少し違っていて、自分よりも大きな動物をしとめようと、命がけで食い下がるサバンナの野生動物みたいな勇敢さがあって、それがこの人の場合は良さになっている稀有な存在だと思います。

その意味では、このグリモーという人は10代のころから例外的な存在でした。
フランス人女性で、とくに身体的にも逞しいというわけでもないのに、曲の選び方はフランス物など目もくれず、ドイツやロシアのコッテリ系ばかりで、それだけでも異色でした。

作品を決して手中に収めようようとするのではなく、大きな岩山によじ登るようにして成し遂げられる演奏は、だからこそ出てくる気迫と情熱があって、独特なエネルギーが充溢した魅力がありました。

あまりに挑戦的なスタンス故か、打鍵が強く、ときにうるさく感じられることも、同意できない瞬間もないわけではないけれど、全体として、やはりこの人だけがもつ魅力があって、他の人からは決して得られないものだからこそ、やはりいいなあと思うのだと思います。

第1番と第2番、いずれも50分に近い大曲ですが、出来栄えとしては第1番のほうがより生命力と迫真性がみなぎってこの作品の魅力に迫っており好ましく感じました。
第2番はグリモーにしては、無難にまとめたという印象で、曲自体も悲壮感あふれる第1番に対してずっと融和的ですが、今一つ輝きが足りないというか、グリモーの気性には第1番のほうが合っている気がしました。

このピアノ協奏曲の第1番と第2番は、同じくブラームスの交響曲の第1番と第2番と非常に似たような関係性にある気がしてなりません。
いずれも第1番は作曲家自身の気負いがあらわで、時間をかけ、苦労して、推敲を重ねて、やっとの思いで完成した大作。
第2番はその反動なのか、一転してやわらかに微笑んでいるようで、いずれも素晴らしい作品ですが、強いて言えば私は第1番により惹かれます。

2023/02/07 Tue. 22:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

不健全な物価 

ロシアによるウクライナ侵攻の影響か、コロナその他の要因の絡む世界的な傾向か、確かなことはわかりませんが、このところの物価の上昇には驚きと諦めがないまぜになっています。

ピアノもその例外ではないようで、ひさびさにYouTubeを見ていると、スタインウェイを買うと決めた人が購入までの顛末を追った動画があり、あちこちの店で試弾しては「あっちが良かった、こっちはどうの、はじめの店にまた行ってみる、するとある店から電話があって新情報があった」などと、どの一台を購入するかに至る動画がアップされており、それを面白く見ていました。

最終的にはB型の新品を買われることになったようで、これという一台に巡り合われたことはなによりなのですが、その購入のためには資金の問題があり、ついには別目的だった貯蓄も崩してということで、やはりこれがほしい!これに惚れ込んだ!という心の昂ぶりに圧倒されると同時に、私もどちらかと言うとそういうタイプで、きちんと目的をもって蓄えなどできない性格なので「わかるなぁ!」という気分で見ていました。

が、そこでポロッと明かされた価格に驚愕!
いまやハンブルク・スタインウェイのB型の新品は約2000万!もするんだそうで、これにはさすがに背筋が凍りました。
スタインウェイをはじめ、輸入ピアノが毎年少しずつ値上げをするというのはもはやこの業界の慣例のようですが、そこには社会情勢も物価も無関係に、毎年機械的にサッと値上げするという感覚はちょっと馴染めません。
しかも、値上げすると、その価格をベースに数%値上げされるのですから、おそらくは年ごとの値上がり幅も肥大していくのは明らかです。

高級輸入ピアノを買うような一部のリッチな人達には、そんなことは大した問題ではないとでも言わんばかりですが、しかし楽器というものはそれを弾く人は必ずしもリッチ層ではなく、それを必要とするだけの訓練や人生の目的なども絡んでいることで、ただのステータスシンボルで高級品を買うのとはちょっと違った要素もあるように私個人は思うのですが、きっとメーカーは利益追求でそういう考えではないのかもしれず、なんだかやりきれないものがありました。

私もずいぶん前に分不相応とは知りつつ無理をしてこの手のピアノを購入しましたが、今だったら絶対に無理だと思うと、正直ホッとするところもないといえばウソになるかもしれませんが、とはいえ…株でもあるまいし、手放しでは喜べないものが喉元に引っかかってしまうのも事実です。

すでに書いていることなのであえて書きますが、自室用にベヒシュタインのMillenium 116Kという小さなアップライトを3年半前に購入しましたが、それも気になって現在の価格を調べてみると、当方購入時に比べてなんと1.4倍近い値上がりとなっており、その凄まじさに驚きました。
ちょっとどうかしているんじゃないの?と思います。

ベヒシュタインの場合、レジデンス/コンサートという本来のシリーズの下に、同ブランドながらアカデミーシリーズという廉価シリーズがありますが、いまやそちらのアップライト(ほぼ同サイズ)のほうが私が購入した時より高額となり、呆気にとられました。

長年、物価の優等生と言われた卵でさえも、近ごろはずいぶん高くなっていますから、このご時世では不思議はないんだと見る向きもあるのかもしれませんが、現在の値上げには不健全さが臭っていて、経済的にも生きにくい時代になっているのは間違いないようです。
まして、TVのニュースやドキュメントなどを見ても世界のきな臭い話題にあふれ、加えてエネルギー不足、さらには深刻な食糧不足なども予見されており、この先どうなるのかと思うと暗澹たる気分になるばかり。

これからは、ごく当たり前だと思っていたことでも、そうではなくなるような厳しい時代が待っているかも…というような気がかりが常に頭の片隅から離れなくなるんでしょうね。
2023/02/01 Wed. 02:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

求めるもの 

手持ちのCDの山をゴソゴソ漁っていたら、セルゲイ・エデルマンのショパンが出てきました。
2009年に富山北アルプス文化センターでセッション収録されたCDで、以前ずいぶん聴いた一枚です。
もしかすると一度このCDに関して書いたことがあるかもしれないけれど、その後若い達者なピアニストが続々と現れ、時代による演奏スタイルも変わってきていると思われるので、そんな中であらためて聞き直してみたくなりました。

制作は日本のレーベルで、音質にこだわった質の高い作品の多く送り出しているOctavia Triton、ここのCDは全体にクオリティが高いと定評があり、輸入盤と違って安くはないけれどきちんとしたものが欲しい時は一時期ちょくちょく買っていました。

エデルマンは名前や経歴からロシアのピアニストと思われがちですが、ウクライナの出身。
私が知った時はアメリカ在住だったようですが、一時期国内のどこかの音大で教えるために日本へも長期滞在していたようで、おそらくこのCDはその時期に収録されたものの一つだろうと思われます。

エデルマンはロシアピアニズムの例に漏れず、堅実なテクニックで重量感のある楷書の演奏をする人ですが、そこに聴こえてくる音楽は必ずしも四角四面なものではなく、ガチッとした演奏構成の中から深い音楽への愛情が聴こえてくるもので、そのあたりがただの技巧派ピアニストとは違うといった印象があります。

曲目はショパンのバラード全曲、舟歌、幻想曲、ポロネーズ幻想という絵に描いたような大曲がずらり。
これらの難曲をいささかの破綻もなく基礎のしっかりした石造り建築のように奏していく様はさすがというほかなく、理想のショパンかどうかはさておいても、これはこれで大いに聴き応えがあります。
また、録音会場の富山北アルプス文化センターはそこにあるスタインウェイが好評だったことや、録音に適した諸条件を備えていたためか、一時は収録によく使われていたホールであるし、実際私もここで収録された力強さと甘さを兼備したスタインウェイの音には、他のCDを含めて好感を持っていました。

私の音楽的趣味という点ではエデルマンの演奏はイチオシというわけではないのだけれど、ピアノ演奏としての充実感など、個人的に大切だと思うところをキチッと押さえているピアニストというところでは、認識に刻まれたピアニストの一人です。
演奏スタイルは、ひと時代前の深い打鍵でピアノを鳴らしきるロシアンスタイルで、ショパンやシューマンにはもう少しデリケートな表現もあって良いのではないかと思うこともあるし、全体にガッチリ弾きすぎるという点は否めません。
しかし先にも書いたように、そこには良心的な音楽性が深い部分に生きており、ウソがない。
妙にセーブされて何が言いたいのかわからない、形だけは整った平均ラインを思わせぶりになぞっていて、却って不満を感じてしまう演奏より、痒いところにしっかり手が届くような聴き応えがあり、結局のところはトータルで魅力があることに納得させられてしまいます。

現代の若手のピアニストの演奏は、もちろん素晴らしいと感じる要素は多々あるとは思うけれど(私の耳には)そもそも演奏を通じて曲に没頭しているという気配が感じられません。
音楽(あるいは演奏)を聴くことで自分が酔えない、曲が迫ってこない、率直な感銘や興奮からはかけ離れた、世の中にはこういう飛び抜けた能力の持ち主がいるんだということを見せられているだけのような気になります。
なるほどどの人も着実に上手くクリアだけれど、本音を決して明かさず、各人の感性の発露も極めて抑制的で、建前ばかりを延々と聴かせられるのは意外にしんどく、そこへエデルマンのもつ熱い情が脈打つ演奏を聴くと、それだけでも溜飲が下がるようです。
自分のセンスや美意識を通して、演奏することに全身全霊を込めてやっているときだけに現れるえもいわれぬ品格と覇気こそが人の心を掴むのであって、やはり音楽というものは人が全力を込めて弾くところに、理屈抜きに惹かれるものがあります。

何もかもが素晴らしいと言うつもりはありませんが、少なくとも工業製品のような完成された演奏をあまりに耳にしていると、多少のことは目をつぶっても、このようなしっかりした血の気のある演奏には、おもわず共感し溜飲が下がるような気になります。

ピアノもおそらく1980年代のスタインウェイだと思われますが、やたら派手さを狙わない陰影、同時にほどほどの現代性も備えていて、やはりこの時代の楽器はいいなあと思います。
あたかも間接照明の中に、美しい絵や彫刻が浮かび上がるような世界がまだかすかに残っています。
それにひきかえ、今のピアノは、均一でむらなく電子ピアノのようにきれいに鳴るけれど、仄暗いものなど表現の可能性が薄く、省エネで効率的に計算されたLEDの照明みたいなイメージです。

現代のピアノもピアニストも、その素晴らしさはあると思いますが、やはりどこか自分の求めるものとは違うようです。
2023/01/23 Mon. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

もろもろ 

あいも変わらず、テレビ番組から。

▲坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes
新年に放送された、坂本氏がNHKのスタジオで収録したピアノソロ演奏。
大病をされて以降、コンサートは体力を要するため、ゆったりとこのようなスタイルの収録となったというようなことをご本人がコメントされていました。
そもそも私は、坂本龍一氏のお顔と名前はむろん知っているけれど、具体的にどのようなミュージシャンなのかほとんど知りません。
若い頃はYMOというユニットで活躍されていたこと、映画『ラスト・エンペラー』では音楽と、俳優としても満州国の甘粕正彦を演じたことぐらいが知っていることのほとんどで、それ以外は実はよくわからないままなのです。

よくわからないという点では、今回視聴した演奏も作品も恥ずかしながら同様でした。
坂本氏のファンの方からは呆れられるかもしれませんが、この番組でのピアノ演奏を聴いた限りでは、慈しむようにゆるやかに弾き進められているものの、どれも似たような漠然とした感じがあるばかりでした。

強いていうなら、昔のスタイリッシュとされた頃の時代の空気というか価値観を思い出すようで、日本が日本的じゃないものを目指しはじめた頃って、こんな感じだったようなぼんやりした記憶が呼び覚まされたような。

この方は(ご自身でも言っておられましたが)ピアニストではなく、作曲や創作表現のためにピアノが最も手近にある楽器ということで、それを必要に応じて触っておられるということのようですが、もしピアニストだったらかなりの武器になったことだろうと思わせる大きくて立派な手をしておられるのが印象的でした。

ピアノはCFX以前のやや古いヤマハで、そこから聞こえてくる音はヤマハそのもの!といった感じの、まるでスパゲッティナポリタンみたいな洋風和物というか、あの懐かしい日本的なピアノの音でした。
NHKのスタジオならスタインウェイなどいくらでもあったでしょうに、それをあえてこのヤマハを使われたあたりも、坂本氏のこだわりなのか、あるいはそれ以外の事情が潜んでいるのか、そのあたりはまったくわかりませんが…。

▲舘野泉 鬼が弾く 86歳、新たな音楽への挑戦
とにもかくにも、へこたれないこの方のエネルギーに恐れ入りました。
お名前の通り、そのつきないエネルギーはこんこんと湧き出る泉のように。
66歳でコンサート終了後に脳溢血で倒れられてから、早いもので20年。
以降は左手のピアニストへと転身され、そこから再スタートを切って精力的にコンサートをされていたのもすごいなと思うけれど、コロナで全世界のコンサートが中止となり、大きな空白期間を余儀なくされたのは舘野氏も例外ではなかったようです。
そうして、ようやく世の中が動き始め、86歳にして「鬼の学校」というピアノ四重奏の新曲で久々のコンサートをするというドキュメント。
以前より一回りお年を召されたようで、移動は車椅子だったりするけれど、ピアノを弾くことへの情熱は一向に衰える気配がなく、もはやこの方にとって、ピアノに向かうことは人間が呼吸し心臓が動いているのと同じようなものなんでしょう。

ご自宅はフィンランドのヘルシンキと東京の二ケ所にあり、一年の半分ずつを両所で過ごしていらっしゃる由。
ちょうど東京滞在中にコロナ禍となったようで、海外への移動もままならず、その年齢と自由とはいえない身体での一人暮らしを余儀なくされ、近所への買い物は電動のカートに乗って出かけ、食事の準備からなにからお一人でこなしておいでだとか。

以前の番組では、この東京のご自宅には高齢のお母上がいらしたけれど、もはやその様子もなく、それでも例の淡々とした調子で前向きに毎日を受け容れ、ピアノに向い、どうしたらあんなふうになれるのかと思うばかり。
もともとの出来が違うんだといえばそれっきりだけれど、100分の1でもあのしなやかにして頑健なものが自分にあったらと、ただただ羨ましく思いますね。
ピアノだ音楽だというより、生きるということの価値や人生訓になりました。

▲蛇足
TVではないけれど、週刊誌ネタとして思うところがあったのは、現在最も注目を集める日本人ピアニストが、新年早々、同じコンクールに出場したお相手と結婚されたという話題。
あまりに出来過ぎの観があり、それがむしろ不自然な印象だったけれど、別に贔屓のピアニストではないし、人生すべてをしたたかに計画的に押し進めるこの方であれば、そう驚くことでもなかろうと思いました。
そうしたら、ほどなくして新聞の週間文春の広告に、この人はすでに外国人との離婚歴があるとあり、とたんにすべての辻褄が合って腹に落ちた気分で、さすがは文春砲と感服。
ネット検索したら、とてもここには書けないような事がゾロゾロ出てきて、いよいよ納得。
他人様のプライベートをとやかくいうつもりはないけれど、いつもどこかに感じてていた違和感が、パズルのピースがついに埋まって一つの形が見渡せたような納得感がありました。

まあ…ピアニストといっても昔の芸術家特有の破天荒とはまるで趣が違うし、こんなスキャンダルもうまく着こなしていかれることでしょう。

2023/01/16 Mon. 02:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

通せんぼ妖怪 

以前にも似たようなことを書いたような気もするのですが、あまりに多いので再び。

車を運転していると、近ごろはやたら路上での流れが遅くて、ついイライラしてしまうことが多い気がします。
むろん車が多くてそうなるなら普通ですが、夜間など交通量もまばらで、道もガラガラだというのに意味不明に流れが遅く、法定速度以下のアホらしいような速度で走らざるをえないことがしばしば。

あまりのことに前方を注視してみると、やたらゆっくり走っている一台の影響で、その後ろがゾロゾロ続くしかないという現象。
しかも、その車の前は見渡す限り何もなく、ただトロトロ走っているだけ。

以前は、運転中にスマホなどを見ているのか、高齢の方などがよほど慎重運転されているのか…などと思ったものですが、近頃わかってきたことは、どうもそういうことではないらしいのです。
片側一車線でどうしようもありませんが、途中から二車線三車線になると、こちらも一気に行手が開けるのでこの手の極遅車からようやく開放され、空いている車線から前に出るのですが、追い抜きざまについ横を見てしまうことも。

果たして、運転しているのは予想に反してどこにでもいそうな普通の若者だったり、真剣な様子の女性だったり、いずれも運転以外のことにかまけて後続車のことが疎かになっているということでもなく、しっかり前を見て運転していたりする姿によけい驚かされます。

こういう走りの車にかかると、後ろがどんなに詰まって迷惑をかけようが、そんなことはまったく知ったことではないようだし、そもそも周囲に迷惑をかけている事など微塵も意識はないようです。

車関係の知人と雑談をしている時に、こんな状況があまりに多いことが話題となり、そこで驚くべき解説を受けました。
それは通称「通せんぼ妖怪」というのだそうで、比較的若い世代に多く、車や運転に関して一切興味も楽しみも感じない人達で、車の運転は100%移動手段でしかなく、したがってドライブの楽しさや運転技術の向上などにも興味ゼロの種族の由。

自分が運転が苦手だという意識はあるようで、だからとにかく安全にゆっくり走っているのだそうです。
さらに、道交法の解釈にも勘違いがあり、例えば道路標識が40km/hのところを50km/hで走れば違反だが、40km/h以下で走るぶんにはどれだけゆっくり走ってもOKと考えているんだそうです。

現在の自動車学校の教えがどうなのかは知りませんが、我々の時代は「安全運転」はもちろん第一でしたが、そのためにも「交通の円滑」を心がけることが必要だと繰り返し叩きこまれたものでした。
仮に50km/hの道をみんなが60km/hで走っているときは、一台だけ異なる速度で走るのは却って危険であり、そういう場合は同じ速度で走るべきであると教えこまれたものです。

これは集団であれば速度違反をしていいということではなく、交通状況というものは絶え間なく変化する生きものだから、臨機応変に状況を察知し、神経の行き届いた円滑な走行を心がけることが安全にも繋がるという考えだと思います。
なので、一台だけ極端に周りと違った動きをすることは却って混乱をきたし、危険要因を増やしてしまうという考え方で、その柔軟な感覚はつねに交通安全に求められる要素だと思います。

他車に対する配慮が極端にできない視野の狭いドライバーが専らマイペースで、周囲の状況へのセンサーが働かないような動きをしていると危険が迫ってきたときの認知も遅れ、当然ながら咄嗟の対応も後手にまわり危険度はずっと増すはずです。
とくに高速道路ではスピードの調和が乱れることで危険性も増大することから、最低速度というものが課されていることからもそれは察せられます。

この「通せんぼ妖怪」は、自分は40km/hの道を30km/hで走るぶんには、自分には何の非もなく、むしろより安全運転にいそしんでいるとでも思っているかもしれませんが、それは勘違いも甚だしいと言わざるを得ません。
周囲のドライバーをイライラさせる原因を作っていることこそ、安全とは反対の危険行為だと思いますが、いかんせんご当人は妖怪さんだからそこに気づくはずもないということのようです。

これと感覚的に似ている気がするのですが、夜間、無灯火(ライト類をまったく点灯していない)の車が少なくないことにも、この鈍感さが現れていると思います。
街中がいくら明るいとはいえ、夜道でハンドルを握ろうというのに、自分の車のヘッドライトが点いていないことにまったく気づかずに平気な顔して走っているなんて、その鈍感さが私から見ればかなりこわい気がするし、これはもう酒気帯び運転並みに恐ろしいような気がします。

2023/01/10 Tue. 18:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

続・TVから 

昨年末に書いたピアノ関連のTV番組の感想続編ですが、あまり年始めにふさわしい話題とも思わないけれど、敢えて書いてみました。

【NHKショパン国際コンクールのドキュメント(再放送)】
12月のいつだったかNHK-BSのプレミアムシアターの後半で放送されたもので、私自身コンクールが終わってほどなくして放送された折には一度見ている番組。
ピアニストで審査員もつとめられた海老彰子さん、ショパンに造詣が深いとされる作家の平野啓一郎さん、音楽ジャーナリストで2021年のショパンコンクール全日程を取材したという高坂はる香さん、さらには自らピアノ好きと称するNHKアナウンサー2人による進行によって、映像/演奏を交えながらコンクールを振り返るという番組。

プレミアムシアターは毎回録画設定しており、せっかく入っているなら暇つぶしにもう一度見てみようかと再生ボタンを押しましたが、実をいうとはじめの30分足らで妙なストレスを感じはじめてやめてしまいました。
理由はいまさらくどくど書く必要もないので細かくは省きますが、簡単にいうと全体に同意しかねるところが多く、評価の傾向としても自分の価値観とは相容れないものが中心になっており、のみならず、なんというか…こちらの判断基準にまで踏み込まれてくるようで、今どきはこれがショパンなんだ、これが新しくて良いんだ、それがわからなければ時代遅れの耳の持ち主だと、いわば判断のアップデートを迫られるようで、要は今風にいうなら「価値ハラ」を受けるような感じがあって疲れるのです。
自分がさほどいいと思わないものを、皆さんこぞってこれでもかと褒めちぎるのもしんどいのです。

オリンピックやFIFAワールドカップのように競技としてはっきり勝ち負けが吹っ切れた世界なら構いませんが、主観や情感など芸術性が問われるべきピアノ演奏において、この「競技」はコンクールという枠を超えて、音楽シーン全体の価値観の変容にも一定の影響があるようにさえ感じるのです。

番組始めのあたりに、みなさんの押しの演奏は?というのがあり、平野氏が今回のコンクールで弾かれた優勝者のop.25-4を挙げました。「自分はショパンのエチュードといえばポリーニの世代だが」と前置きしながら、ますます解像度が上がってショパンの音楽の構造がよく見え、デジタル的なまでにクリアな演奏となり、左手と右手のコンビネーションがわかる…「ポリーニのエチュードは金字塔として変わらないが、その先があったのかと思った」というようなことを言われ、これも実際の演奏が流れましたが、私はすこしも感銘を覚えず、だからなに?としか思いませんでした。
あげくに「ショパンの演奏が50年の間にこんなに進歩したのか…」というようなことを堂々と仰るのには、強い違和感を感じましたし、海老さんのコメントも全般的に技巧目線で、同様の印象でした。

確かにクリアというならそうかもしれませんが、それがそんなに価値あることとも思えないし、むしろ音楽的にはやせ細って平坦で、ショパン作品に求めたい香り立つようなニュアンスもなく、スマホの早打ちのように終始せかせかした感じで、背中を丸めゲームにでも没頭するかのように上半身を小刻みに上下させる姿も違和感を覚えたり…。

より美しく、より芸術的な方向へ深化するなら大歓迎ですが、デジタル機器ではあるまいし、私は一人の音楽愛好家として、ある種一定の明晰さは求めたいけれど「解像度」という言葉自体も無機質でちょっとそぐわない気がしました。
むろんこれは、ものの喩えとしての表現かもしれませんが、そのままの概念のようでもあり、ある種の本質を孕んでいるような気がしてどうにもひっかかるのです。
技術や楽曲分析が向上するのは結構ですが、人間臭さを失ってまでそれを求めたいとは思いません。

【ブーニンの復活コンサート完全版】
9年ぶりに八ヶ岳で行われたコンサートで、シューマンの色とりどりの作品(小品とも)op.99の全曲版。
身体的に様々な不調に襲われ、再起をかけて実に9年ぶりに公開演奏に挑んだ演奏。
そんな開演直前ともなればどれだけナーバスになっているのかとおもいきや、控室にいたブーニン氏は優雅な笑みとともに、夫人と連れ立って通路をゆったりと進んでステージに向かう姿は印象的で、やはりこの人は独特な存在だと思いました。

演奏は率直に言って、かつての奔放で思うままにピアノと戯れていたブーニンではないことが悲しくはあるけれど、それでも随所のアーティキュレーションとか、ちょっと溜めて歌い込むポイントをむしろスカッとクールに処理されるあたり、かつて聞いた覚えのあるブーニンの語り口を垣間見るところがはっきりあって、ああこの人はこれだった!と思いました。
人間の感性は生涯不変という話はやはり間違いないようです。

世界にはあまたのピアニストがいるけれど、あの何事にも動じない、貴族的ともいいたい所作や笑顔、自然な語り口、なにより彼が醸しだす繊細さ、それでいて超然としたあの誇り高い雰囲気は比べるものがない、この人だけの世界があるようです。

2023/01/04 Wed. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

謹賀新年 

あけましておめでとうございます。

今年も良い年でありますようにと穏やかにご挨拶したいところですが、世の中はロシアのウクライナ侵攻はじめ、大国のエゴがいよいよ顕在化するなど、しだいに緊張の度合いを増しているようで、なんとか世界の平和が保たれますよう祈るばかりです。

かつて日本では「平和ボケ」なんていう言葉が盛んに使われたものでしたが、もはやそんな無邪気な時代ははるか彼方に霞んでしまったようです。
コロナも概ね収束方向かと思っていたら、中国のゼロコロナ政策の緩和によって、一転して爆発的な感染拡大となり、そこからまたあらたな変異株が出てくる可能性があるといううんざりするような説もあったりで、現代人は今やどちらを向いても不安要因にとり囲まれてしまったようです。
とはいえ、嘆いてばかりもいられないので、なんとか現状の中で前を向いていくしかありませんね。

毎年、年初のコメントには同じことを書きますが、このブログも14年目を迎えることになりました。
お読みくださる方がいらっしゃるのはただありがたいとしか言いようがなく、本年も何卒よろしくお付き合いくだされば幸せです。
2023/01/01 Sun. 12:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

良いお年を 

年末に目に止まったTV番組から。

【辻井伸行in河口湖ピアノフェスティバル2022】
このフェスタは毎年恒例なのかどうかは知らないけれど、過去にも同じものが開催されていたので、少なくともこれが初めてではないのでしょう。
辻井さんが中心のようですが、ご多分に漏れず、そこに集まってくるゲスト演奏家の方がいろいろいらっしゃるようです。
加古隆さんはたしか以前も見たような気がしますが、この方は徹底してベーゼンドルファーしか弾かないということなのか、今回も加古さんの演奏時にはそれが準備されていました。
演奏されたのは、曲の名前は知らないけれどNHKの「映像の世紀」でお馴染みのもの。

ジャズの山下洋輔氏のお顔もあり、ラプソディ・イン・ブルーを弾かれていたけれど、私の耳にはときどきそれらしきものが聞こえてくるぐらいで、大半は山下氏お得意の爆発系の即興演奏のような上ったり下ったりが多く、そのときはパワフルだけれど、両手オクターブのあの有名な主題の旋律部分になると突如勢いが落ちて、指もなんだかおぼつかない感じになるあたりは別人みたいで不思議でした。

最後は辻井さんのソロでラヴェルのピアノ協奏曲。
野外会場という条件も加味して考えるべきだろうとは思いつつも、かつての辻井さんからはあまり聞かれなかった、ことさら派手なテクニシャンであることをアピールしようとする印象で、テンポもやたらセカセカしているし、なにより技巧を前面に押し出したような感じのアスリート風の演奏であったのは、彼の意外な一面を見たようでした。
そもそも、この方の演奏はそういう「ガンガン弾けますよ系」とは一線を画したピュアな魅力が、いささか表現が平坦ではあっても全体として清潔であるし辻褄が合っているように思っていたので、どうされたんだろう?という感じが残りました。

第一楽章がまずもってそんな感じだったので、せめて第二楽章では辻井さんらしい美しさのきらめきが堪能できるのかと思ったら、放送時間の関係からかこれは惜しげも無くカットされ、そのまま派手で賑やかな第三楽章へと繋げられていたのはびっくりでした。
どうしてもカットするのであれば、第一楽章をカットし、せめて第二楽章〜第三楽章という具合にはできなかったものか…と思うんですけどね。

今や国内に限っても、ピアニストの世界は相当に上手い人が次から次へと出てきて混雑気味だからか、さしもの辻井さんも無垢なだけではダメだと思って少しマッチョ系に舵を切りだしたということなのか、たまたま今回はその場のノリでそうなったというだけのことなのか、真相はわかりませんが。
ああ見えて、あんがい勝負心はしっかり強いお方なのかもしれないとも思いましたが、コンサートピアニストとしてあの位置を保持していくぐらいですから、それぐらいの逞しさは当然だといわれればそうなんでしょう。

【フジコ・ヘミング ショパンの面影を探して〜スペイン・マヨルカ島への旅〜】
フジコさんが、ショパンとジョルジュ・サンドが訪れたことで有名なマヨルカ島を旅するということで、それに密着した90分のドキュメント。
これまでフジコさんのお歳は発表されてこなかったので詳しい年齢は知りませんでしたが、この番組で初めて90歳になられるということを知り、率直にお若いなぁと驚きました。
久しぶりに映像で見たフジコさんは、なるほど歩行器をつかって歩いておられ、ステージに出るにも介添えの方が付いておられるようで、自分を含めて当たり前ですが、世の中はみんなまた一段と歳をとったのだということを思い知らされるようでした。
それは前述の山下洋輔氏についても同様でしたが。

パリの自宅からは、友人の車でスペインまで南下し、そこからフェリーに乗り換えてマヨルカ島を目指します。

マヨルカ島では、リサイタルまで組み込まれて、現地の音楽院のホールでお馴染みの曲を弾かれていました。
テレビカメラが入っているということもあるのかどうか知らないけれど、同行者はもちろん行く先々の方まで、皆さんがマイペースなフジコさんに対して、非常に親切に接しておられるのは印象的でした。

ところで、フジコさんほど好き嫌いの別れるピアニストもいないと思いますが、私は実はそんなに嫌ってもいないし、とくにファンということもありません。
嫌っている人にいわせれば突っ込みどころ満載でしょうし、それはもちろんわかるのですが、それでもこの人にしかない美しさというのがあるのだから、あんなにも憤慨せず、こんな人が一人ぐらいいてもいいと個人的には思うのです。
とりわけ、時を経るにしたがってどんどん増殖されていく、確実に安定した演奏のできる、高性能工業製品みたいなピアニストだらけのこの時代に、まるでつるつるに使い込まれたアンティーク家具のようなフジコさんの演奏には、理屈抜きに人間がホッとさせられる本質が息づいていると私は思うのです。

聴いていると、明らかな譜読みの間違いや行き過ぎた自己流で乗り切ることもあったりで、たしかにギョッとする瞬間もないではないけれど、それをいまさら青筋立てて言ってみてもナンセンスという気にさせられます。
フジコさんの演奏は、なにより音が美しく、センスもそれなりで一つの世界があり、演奏そのものだけではなしに、人の心の中にあるなつかしいものに触れられる数少ない機会なのでは?と思います。

2022/12/30 Fri. 03:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガルシア・ガルシア 

先日の『題名のない音楽会』で、マルティン・ガルシア・ガルシアさんが出演しました。
昨年のショパンコンクールで第3位に輝いた、スペインのピアニストです。

スタジオ収録で、演奏曲目はバッハの平均律第1巻より第1番、ショパンのワルツ第4番、モンポウの「歌と踊り」第6番、ラフマニノフの「サロン小品集」よりワルツ。

番組でも話題にされていましたが、演奏中はご自身も声を出して共に歌い、良い意味での天真爛漫さが魅力。
トークでも人懐っこい笑顔を決して絶やさず、常に楽しげに振る舞うその様子は、いかにもラテンのピアニストというイメージに溢れており、この天性の明るさは日本人やロシア人にはおよそないもので、世界は広くお国柄や個人の資質も実にさまざまという事実を感じずにはいられません。

体格も立派でややぽっちゃり系、そこにさらに特大の手が加わり、その指は15度!開くのだそうで、これはドからオクターブ先のソまで届くというわけで、こんな人から見ればピアノも我々が相対するものとは同じであるはずがなく、一回りも二回りも小さなものなんだろうなぁ…と思います。

指もただ長いというだけでなく、大理石の彫刻のようにがっしりとした骨格にしっかりした肉付きがあり、見ためのバランス上ピアノに最適サイズとは思えないほど立派で、体格差というのは如何ともし難いものだということをいまさらながら感じます。
大谷選手とて、その並外れた天分と努力に加えて、それをあの秀でた体格が支えているのですから、そりゃあかないっこないと思います。

なにより注目させられたのはガルシア氏の出す音。
どっしりした体格と、その大きく逞しい指から出てくるそれは、すべての音がいやが上にも冴えわたっており、芯のある音が泉のごとく出てくるのは呆れるばかり。しかし、強いて言うなら全体に音量ベースが強すぎのように思われるところがあり、我が家のテレビのせいかもしれないけれど、ときどき音が割れ気味になるのも致し方無いのかと思います。

音楽的には、クラシックの演奏者が失いがちな躍動や楽しさや明るさが支配しており、それは稀有な価値だと思うけれど、裏を返せば深く繊細なものを覗き見るような部分であるとか、かすかなニュアンスに息を詰めて触れるといった類のものとは違う気がしました。
たった今、躍動や明るさと書いたばかりですが、通称「猫のワルツ」とされるワルツの4番などは、意外に重めで、リズム感や軽さや洒脱がさほど発揮されなかったのは意外でした。
ショパンコンクールで3位にはなったものの、実はショパン向きの人ではないようにも思います。

いずれにしろ、現代の若手ピアニストの多くが建前重視の演奏に終始するあまり「草食系」の音しか出さなくなってしまった背景を考えると、いささかやり過ぎな面もあるにせよ、たまにはこんなビシッとした硬質な音を出せるピアニストがいるということも、それはそれでみるべき点があるように感じました。

ピアノはショパン・コンクールの時もそうだったけれど、この番組でもファツィオリを弾いていました。
その点についても質問があり、「いろんな理由でファツィオリを使っている」「僕が歌うことにもつながりがある」というようなことをいっていましたが、この「いろんな理由」は意味深長な気がしました。
私は聴いていて、彼の強い打鍵を支えるのは、ファツィオリのソフトな音作りがあるのでは?と感じました。

ガルシア氏の強い打鍵では、現代の標準的なエッジの立ったパリッと鳴るピアノで弾いたら、メーカーに関係なくバランスが崩れてしまうのではないかと思うし、始終そこに気を遣っていてはノリが悪くなり、ストレートな演奏の妨げになるのかもしれません。
「ファツィオリの音や響きが好み」と率直に言ったわけでもなく、「いろんな理由」「歌うことにもつながりがある」というあたり、彼の生まれ持った強いタッチと「つながりがある」ような気がしました。
これはもちろん個人的な憶測に過ぎませんが。

ちなみにガルシア氏は日本びいきで、母国でも日本料理を食べ、最近婚約されたお相手も日本人だそうです。
グルダ、シフ、ブーニンなど、日本人と結婚する男性ピアニストも結構いるんだなあと思います。
さらにガルシア・ガルシアという名前は、ご両親の苗字がおふたりともガルシアで、そのためにこの名前になったのだとか。
とすると、スペインは両親の苗字を並べるのが普通なんでしょうか?

ファツィオリについては、今回見ていて一つ発見したのは、フレーム(弦を張る金属の骨組み)の中で、打弦点のやや手前にある、鍵盤とほぼ平行になっている部分がありますが、そこだけ上部が黒に塗られているように見えたのですが、これはどういう意味があるのだろうと?と思いました。

2022/12/23 Fri. 14:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

詐欺に近い 

ピアノ以外の話でもう一つ。
最近経験したことで、皆さんのお役に立てればという気持ちからご紹介します。

ちょっとした必要があって、お風呂の工事が必要になったのですが、パッと見渡してみてもピアノと違い、これといって懇意の業者があるわけでもなく、やむなくネットで探すことに。
以前からお世話になっていた好ましい業者さんが2つあったのですが、一つは別会社に統合されてしまい以前とはすっかりやり方が変わってしまったこと、もうひとつは頼みの職人さんがケガで引退されてしまい、よって業者探しから始めなくてはなりませんでした。

そうなると今どきはどうしてもネットということになりますが、ネットの欠点は、あまりにもたくさんありすぎてどれを選べばいいか、まるで見分けがつかないこと。
仕方がないから、その中から適当に電話したら快く対応され、さっそく現場を確認に来られました。

とても感じ良く、話し方も好意的で、現場を確認される間もいかにも頼れる感じで、ネットも悪くないなというような印象でした。
それから10日ほど経って、メールで見積が送信されてきたのですが、そこに記された金額を見た瞬間背筋が凍りつきました。
何かの間違いではないか!?と思うようなもので、もう胸はバクバクです。
細かい明細書なども添えられており、体裁上は尤もらしく書かれてはいるけれど、とうてい納得のいくものではなく、態度は柔らかいが相当な悪質という印象しかありませんでした。

それで、腹も立った勢いで、ずいぶん昔お世話になった業者さんをいくつか思い出し、幸いアドレス帳に残っていたので思い切って電話してみたら、心よく対応してくださり、さっそくそのひとりが現地調査に来てくれました。
さすがはプロというべきか、状況に関してはたちどころに理解し、ざっとこれぐらいでは?という金額を告げてくれましたが、それははじめのネットの見積りの約半額でした。

そういえば、以前別の件でも家のメンテに関することで、ネット検索して「業界最安」の文字が踊るサイトから、見積りを取ったことがありましたが、そのときも思わず顔が青ざめるような金額だったことを思い出しました。
もちろんそこには依頼しませんでしたが、こういう手合いがウヨウヨするのが当たり前の業界とは恐ろしいものです。

しだいにわかってきたことですが、とくに住まいの工事に関することで業者を探す必要が生じたとき、手段としてネットに頼りがちですが、これはかなり悪徳業者に当たる確率が高いこと、昔の縁で来てくれた業者さんにもその話をしたら、「あー、はいはい」と苦笑いしながら「これだったら☓☓☓ぐらいいったんじゃないですか?」と言われましたが、実際はそれ以上でした。
この業界では、ネット検索ででてくる業者はかなり高額をふっかけるところが多いのは限外に普通ですよ…といった感じで、とくに驚きもされず、そんなものだということを今回はっきり認識しました。

テレビなどで、人なつっこい態度で高齢者などに近づき、しなくてもいい工事を言葉巧みに誘導し、杜撰な作業で大切な貯金などを根こそぎ奪い取るというような話がありますが、あそこまでいけば完全に一線を越えており犯罪でしょうが、その少し手前の詐欺に近いギリギリのものというのは無限にあるようです。

とくに安さを謳って人を引き寄せるけれど、実際はその逆で、常識的な金額の倍も三倍も請求してくるのですから、いやはや恐ろしいといったらありません。
これをお読みの方も、もしそういう業者探しの必要が生じたときは、どんなにわずかでも知り合いのつてなどを辿っていかれるのが斎場とはいいませんが、まずは懸命だろうと思います。
また水道などは自治体の指定業者になっているかどうか。
もちろん、それでも決して安心はできませんから、できれば頑張って複数の業者に見積もりをとってみる必要はあると思います。

また、同じ案件でも業者によっても考え方や施工上のポイントがずいぶん違っていたりと、各社さまざまなので、面倒でも幾つかの業者に相談してみることはとても大切だということがわかりました。

ピアノだったら、調律などはだいたいの料金は決まっているし、あとは好みや巧拙にが問題ですが、住まいに関する工事はケタが一つも二つも違うし、おまけに業者によって費用が倍以上ちがってくるとなると、こちらもよほど警戒してかかる必要がありそうです。

いずれにしろ、住まいのメンテや工事関係はネット検索はやめたほうがいいので、みなさんもくれぐれもご注意ください。

2022/12/16 Fri. 12:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

健康志向の不健康 

久々にピアノ以外のお話を少し。
先日、テレビの某トーク番組を見ていたら、いくつかのテーマの中で健康に関するやりとりがありました。

そこで語られたのは様々で、流行りの糖質ダイエット、ヴィーガン、日本人の健康意識から美意識にまで切り込んだもので、頷ける点が多くありました。

若い女性の間では、食事に行ってもダイエット中や特定のこだわりを貫く人がいたり、なんだかんだと制限が多く、無邪気に注文することもできず、気遣いやストレスがあるとのこと。

そもそも、ダイエット中や健康上もしくは思想上特定の考えを持った人は、他者と食事に行ってそれを崩さないとなると、その場の雰囲気や他の人に影響を与えないで済むことはかなり難しいのでは?と私は思いますが…。
そもそも、健康のためと称して、あれこれのこだわりを持ち、食品に対する自説や選択、あるいは運動だ、栄養補給だとさまざまに実践しておられる方がいらっしゃいますが、これは当人以外は甚だしく快適ではない空気を撒き散らすことになるように感じます。

また、ある程度以上の年齢に達してからその面に目覚め、それを中心とした生活を送るのは、正しいことなんだろうとは思いつつ、どこか浅ましさみたいなものが見え隠れしてしまうときがあります。
しかもそのタイプは、それまでの不摂生を一気にリセットしようという思惑なのか、やたら健康志向に転身し、自説に浸り込んでいるのも思い込みが強いぶん周りはウンザリだったり。

もちろん一定の運動が必要であるのは言うまでもないし、健康的な生活を送ることが大切という本質に異論を挟む気はまったくありません。
でも、わざわざ運動のための運動をするよりは、できるだけ自然のリズムの中から出てくるものであるべきでは?と内心では思ってしまうのです。
健康志向の人は、多くの場合、健康データとしての「数値」の獲得が目的で、そのためにやりたくもない運動や食事制限に全生活を縛り付けるなんて、私はどこか大事なポイントがずれているような気がするのです。
食べ物や食べ方、あるいは長らくアルコールに親しみ、偏った食生活を送ってきた人が、急に何もかもをチャラにしたいのでしょうが、それは不摂生をクルッと裏返しただけに見えて、あまり健康的に思えないのです。
身体にとっても、悪いものが入ってこなくなった環境改善より、急激な変化に対するストレスのことは見落とされているのでは?

私の感じる「健康的」の概念には、趣味や文化と同じく、自然に身についたものが必要じゃないかと思います。
極端に甘いものや塩っぱいものは、健康云々以前に、自分がそれほど望まないとか、過度なアルコール摂取や暴飲暴食は、したいけどガマンではなく、そもそも好きではない、自分の快適性に合わないというのが自然だと思います。

若いころはともかく、もう食べ放題なんて行かなくなりましたが、あの過度な満腹感がもたらす不快感がイヤだから行かないだけですし、本来なら野菜でも水分でも、採らなきゃいけないからというだけではなく、それが欲しくなるのが自然であり、そういうサイクルになっていることが健康的だと思うのです。

誰だったか忘れましたが、パネリストの一人がポロリと膝を打つような発言をしました。
「健康オタクの人って、私にはそれが不健康に見えるんですよね」
まさに膝を打つ思いで、まさにその通りなんです!

ご当人はそれまでの不健康な自分とは決別し、いまこそ健康を取り戻しつつあると思っていても、それが悲しいまでに不健康に見えて、そのあたりのギャップが傍目にはどうもしっくりきません。
白髪を隠そうと毛染めをして、老いた顔の上にやけに真っ黒な髪がかぶさっていたりするのを見ると、逆に不自然でより老いが強調されてしまうように。

私は医者ではないけれど、人は40過ぎたら、そこまでやってきたことがその人の基本であり、たとえばよほどの肥満とかは別にして、ちょっとぐらいぽっちゃりの人が、敢えて苦しい思いをして、あれもこれも我慢して、ビジネス臭がプンプンする基準を鵜呑みにして、苦心惨憺の末にすこしばかりスリム体型になったとしても、やつれたようにしか見えず、それが真に健康的で素晴らしいとはどうしても思えないのです。

多少体重は多めでも(極端なことや明らかにアウトなことは別ですが)、常識の範囲でやりたいようにやって、ほがらかに笑っていた時のほうがよほど健康的だったのでは?と思ってしまいます。
2022/12/10 Sat. 02:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

修理はピンキリ 

『ピアノ図鑑 歴史、構造、世界の銘器』という本があり、以前購入していたものですが、あらためて本棚から取り出して見直してみました。
これはジョン=ポール・ウィリアムズというイギリスのピアノ技術者による著作で、日本では元井夏彦氏という方の翻訳により、ヤマハミュージックメディアより出版されている、カラー写真が多用された美しい本です。

本来なら、ヤマハが出版するピアノ関連の本であれば、参考写真もヤマハピアノが徹底して使われるはずですが、これは海外で出版されたものの日本語版なのでそうもいかなかったのか、おかげで様々なメーカーのピアノが出てくるのが面白く、強烈な自社愛のヤマハにしては珍しく理解なのか忍耐なのか、微妙なところはわからないけれどその点でも興味を引きました。

内容は主に「ピアノの歴史と発展」「ピアノメーカー総覧」「メンテナンス」という三部にわけられており、メンテナンスの章では認識を新たにする記述が散見されました。

例えば、ピアノの修理には「レストア」「リビルド」「リコンディション」というように分けられるとあります。
レストアやリビルドは、ざっくりとオーバーホールというような言葉で、その意味することろを深く考えることもないままに適当に使っていましたが、どうやら日本にはそのあたりの明確な区分がないようにも感じます。

説明によればおもに以下のようになるようです。
▲レストア
レストアの定義は「原型に近い状態に戻すこと」とありますので、おそらくオリジナルを毀損せず本来の姿や内容を忠実に復元するというものでしょう。
長年弾かれてきたもの、放置されていたもの、乱暴に扱われたもの、気候変化や戦争を経たものなどをオリジナルの状態を保ちながら楽器を補強することだそうで、古いピアノのレストアは現代のピアノを作ることではない由。
歴史的価値に重きを置くということでもあるようです。
使用される部材もその楽器の作られた年代の木材、フェルトや弦も当時の素材や製法を考慮しながら、慎重かつ丁寧に再現することで、いうなれば美術館の修復に似たようなものと思えばいいのかもしれないと思いました。

▲リビルド
リビルドは、楽器を元の状態またはそれ以上の状態に再生するために行われ、部品も最小単位まで分解する必要があり、ひとつひとつをきれいにし、不備があれば修理もしくは新品と交換するため、費用もかなり高額となり、品質の高い貴重な楽器に行うのがふさわしいとあります。
塗装、響板、フレームからネジ一本まで、これでもかと徹底しているので、昔の姿を偲ぶ要素も見い出せません。
楽器店に行くと、戦前などかなり古い時代のピアノでありながら、いわれなければ新品と見まごうばかりに内部に至るまで眩いばかりにピカピカにされ、かなり強気な金額で販売されているのを見かけることがありますが、あれがリビルドなんでしょう。

▲リコンディション
経済的または技術的理由から、完全なオーバーホールができない場合、消耗の激しい箇所のみ処置を行うことで、コストを抑え、適正に機能するピアノに修復することのようです。必ずしも楽器を完全に分解することはなく、部品は必要に応じて掃除、修理、再配置され、どうしても交換する必要があるもの以外は再利用される。
各種調整やハンマーの形成など、手掛ける項目は多岐にわたるようで、個人的なイメージとしてはホールのピアノの保守点検のようなもの、もしくはその延長ではないかと思いました。
ところが、実際には必要な箇所さえ省略された、甚だ不完全なものが多いことも否定できません。

我々が、安易にオーバーホールと呼んでいるものは、弦やハンマーに代表される消耗品の交換を中心としたリコンディションであって、正確に言うならリビルドとリコンディションの間にあるように感じました。

リビルドはかなりの費用と時間的な余裕を必要とするので、楽器の価値などおいそれとは着手できることではありません。
ただ、仮に100年経ったピアノを、たった今、工場で出来上がったばかりのようにピカピカギラギラにしてしまうのは、その美しさや技術には感心しますが、諸手を上げて賛同する気にもなれません。
というのも、あまりに過剰なリビルドは、そのピアノの生まれた時代や経てきた歴史まで消し去ってしまうようで、商品としてはアリなのかもしれませんが、センスとしては個人的には違和感が拭えないことも事実です。

過度に傷んだもの汚いものはさすがに好みませんが、古くて好ましいピアノには相応の歴史を感じるものであって欲しいし、そこをどう見るかは所有者や修復する人の価値観や美意識に大きく委ねられていると思います。
もし興福寺の阿修羅像が真新しいピカピカ状態になったら…それはもう完全な別物となってしまうでしょう。
古いピアノの魅力や音を楽しむには、そのピアノの歴史や個性を受け容れて楽しみ、そこに自らも参加していくことではないかと個人的には思います。

だからといって機能的に問題があっては困るので、そこはきちんと健康体に整備された上でのことですが。
よく耳にするのが、「ハンマーを換えた」「弦も換えた」というけれど、それ以外は手付かずで、本来はタッチコントロールに直結する各種フェルトやローラーなど、細かい点まで配慮されないことには、いつまでも満足行く結果は得られないと思います。
むろんコストの掛かることなので、できるだけ切り詰めたいというのはわかりますが、中途半端なことをして延々と不満が続くことがいちばんもったいない気がします。
2022/12/05 Mon. 17:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

あの時代 

先に挙げた『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)には、日本人ピアニストの黎明期のこと、さらには日本の音楽教育がどのような変遷をたどってきたかについても触れられていました。

東京音楽学校が東京美術学校と合流して芸大になり、一方で桐朋学園音楽科創設に至る経緯、その他の音大も次々に生まれて、戦後の短い期間で音楽教育環境が急速に整ったことがわかります。
桐朋には前身があって、優れた音楽家を養成するには早期教育が不可欠という思想から、「子供のための音楽教室」というのが作られ、この第一期生が小澤征爾さん堤剛さん中村紘子さんなどです。

これはチェロの斎藤秀雄やヴァイオリンの鈴木鎮一、さらに評論家の吉田秀和、ピアノの井口基成ら各氏の尽力によって開設されたものですが、演奏のお三方は自身の修行のスタートが遅かったこともあり、音楽における早期教育の必要性を身をもって感じていたということも大きいように思います。
さらに、ここから成長した子供の受け入れ先が必要ということで、やがて桐朋学園の音楽科が作られ、大学まで拡大していったようです。

これじたいは日本の音楽教育にとって画期的なことだったろうと思いつつ、読みながら昔のピアノ教育現場のあのなんとも形容しがたい、ムダに厳しい、悲壮的な空気感が蘇ってくるようで、この部分はなんとなく楽しくは読めませんでした。

戦後昭和のピアノ教育界を牛耳っていたのは、井口基成・秋子・愛子の流派と、安川加寿子の二派だったように思います。
かつての芸大がレオ・シロタやクロイツァーなどのドイツ一辺倒だったところに、フランス仕込みの流麗な風を吹かせたのが安川加寿子でしたが、それに対してかっちり力強く弾くのが井口流だったように思います。

私ごとで恐縮ですが、私が通っていた地元の音楽学院も、院長が井口基成の直弟子であることから、学院自体が桐朋の「子供のための音楽教室」の支部のような位置づけであり、斎藤秀雄はじめ、お歴々の写真が架けられていたし、当時はまだ健在だった井口基成はじめ、錚々たる顔ぶれの教授陣が中央から入れ替わりやって来られては、厳しいレッスンを繰り広げておられました。

私自身は井口先生の恐怖のレッスンを受けるには至りませんでしたが(おそらくレベルが低くて)、見学は院長室で何度かさせられました。
専用のソファーが準備され、まさに「王」のようなふるまいで、まわりは緊張の極み。
あんな状態から演奏上の何を学ぶのか、いま考えても正直良くわかりません。

ただ、この本にある「子供のための音楽教室」で行われていた授業内容は、私達に課せられたものとほぼ同じで、桐朋の流儀で全てが進められていたことがあらためてわかり、土曜中心でソルフェージュ、聴音、楽典など、そのままでした。

その頂点に君臨する院長は、すでに多くのお弟子さんを育てて抱え、その人達が下部の教師となって生徒の普段のレッスンを受け持ち、ご指名がかかったらその先生および親同伴で院長室に、レッスンという名のもと出頭させられます。
いうまでもなく学院全体は井口流の厳しさと恐怖に絶え間なく包まれ、そのせいでメンタルを病んだり、家族離散になったりといったケースもありましたが、そんなことはまったくお構いなしでまかり通っていたのですから時代の成せる技というほかありません。

ただし、院長はただ権勢を振るっていただけではなく、音高・音大の受験シーズンになると睡眠時間が2〜3時間という過密スケジュールとなり、真夜中でもレッスンをされていたし、生徒とちがい毎年受験前はそんなハードなパターンでやっていられた事を考えると、正しいかどうかは別として、そのエネルギーには唖然とするばかりです。

ところで、先日テレビでアメリカの動物調教師の話をやっていましたが、1950年代までは猛獣の調教といえばサーカスなどに代表される、檻に閉じ込め、ムチで叩いて、恐怖と痛みで服従させるのが主流だったところ、動物保護を目的とする人物によって、愛情をそそぎながら教え込む方法が見事に奏功し、その人のもとで育った雄ライオンは人に危害を加えることは一切なく、ハリウッド映画のオファーなども次々に舞い込んで映画スターとしても絶大な信頼を得ることになり、ついには子どもとの共演まで見事に果たしたそうです。

スポーツでも、足に悪いうさぎ跳びや、練習中は水を飲んでもいけないなどの精神論式訓練が当たり前だったものが、いつしか科学的なほうが結果が出やすいことが証明され、これに取って代わりますが、私がピアノを習っていた1970年代前後は、いわばムチで叩かれて教え込まれるサーカス方式だったように思います。
桐朋の「子供のための音楽教室」でさえ、内実はそれでした。

さらに呆れたのは、この本に書かれていた(私は幸い言われたことはなかった)ことですが、「井口派の生徒は安川加寿子のピアノを聴きに行ってはイケナイ」というルールがあったそうで、今だに「グールドのCDを聴いてはイケナイ」などと真顔で指導する先生もおいでだそうです。
絵や文学を志す人に「あれを見てはいけない、これを読んではいけない」というようなもので、そういう視野の狭い教師についたらたまったものじゃありません。

2022/11/28 Mon. 00:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

競争曲 

前回の『ショパンコンクール見聞録』に続いて、『日本のピアニスト〜その軌跡と現在地』本間ひろむ著(光文社新書)というのを読みましたが、ますますもって時代は変わったのだということを認識させられる一冊でした。

とりわけタイトルにもある通り、ピアニストの「現在地」というものは、従来の在り方とはかけ離れたところに成立するもので、それはまさに、他のジャンルと同様の激烈な勝ち抜き戦だと思いました。
演奏家になる道は、俗世間とは別次元の高尚なものだというような錯覚はしていないつもりだったけれど、しかし私などが求めていたのは、ごく稀に出てくる天才の至芸であり、才能豊かな音楽家が紡ぎ出す演奏という、理想を求めていたことは否定できませんし、そうでなくては音楽を楽しむ根本意義の問題になるような気がするのです。

しかし、現代のピアニストに求められるものは、高度なメカニック体得者であることは当然の大前提で、さらにいかにして大衆の心を掴んで出世街道を駆け上がっていくか、周到かつ凄まじいレースのようです。

先生や学校選びは言うに及ばず、どの時点で留学するかしないか、音楽一辺倒ではなく他の分野との二足のわらじで行くか、自分のウリは何であるかの見極めと設定、世俗的な広い視野と時代感覚が飛び抜けて鋭敏でなくてはこのレースを勝ち抜くことはできないでしょう。
ピアノを弾くためのずば抜けた能力プラス、自分というタレントの設計図が極めてしたたかなものでなくてはならないようで、まさに能力の総合勝負であり、昔のようにピアノだけがどれだけ上手くても、どれだけ聴くものを酔わせるものがあろうとも、そんなことはもはや大した強みではないようです。

今の若いピアニストは、あんなに上手いのに、なぜか情の薄いものにしか感じられない不思議の理由が、ようやくわかったような気がしています。
ひとことで言えば目指すところが違っているのだから、そりゃあ当然だろうと思いました。

いまさら言うまでもないことですが、今の若手ピアニストは技術的には呆れるばかりに平均点が上がり、コンクールなども短期間のうちに駆けずり回るがごとく受けるのも珍しくもなく、まさにトップアスリートの生活のようです。
当然それに耐えうる体力とメンタルが必須。

コンクールも常にどこかで開催されていると思っていたほうがいいぐらいで、各自、自分の都合に合わせてあれに出たり、これに出なかったりといった具合で、まさに世界を股にかけて飛び回っている。
一位もしくは優勝するまで、若さの続く限り挑戦を続け、その結果を携えて、いかに自分を巧みにマネージメントするかが問題で、そんな生き馬の目を抜くような時間を過ごしていたら、そりゃあ繊細な演奏の綾などと言っているヒマはないのも当然で、みなさん戦士なのです。

中には、スポンサーを募り、他者を抱き込んで株式会社を作ったりという猛者もいるわけで、そういう企画力を有していることが現代の売れる音楽家の条件であるらしく、演奏能力プラスそれが合体してはじめてチケットの取りづらいピアニストにもなれる…ということらしい。

それをいえば、昔のピアニストだってピアノメーカーやレコード会社や興行主などが、似たようなことをやっていたといえなくもないかもしれませんが、私の肌感覚では「断じて、何かが違う」としか思えません。
気持よく音楽を楽しむという時代も終わったと思うことは、寂しく残念としかいいようがありませんが、どうやらそういうことのようです。
…。
2022/11/22 Tue. 02:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

現代の価値観 

ピアニスト兼著述家として独自の地位を得ている青柳いづみこ氏ですが、2015年のショパンコンクールをリポートした『ショパン・コンクール』(中公新書)があるというのに、2021年大会についても『ショパン・コンクール見聞録』(集英社新書)なるものが早くも刊行されており、この方の切り口はおおよその察しがつく気がして迷いましたが、敢えて購入して読んでみました。

ここでは、内容についてはいちいち触れることはしません。
全体としての読後感は、もし青柳氏のいうことが正しいのであれば、私はもうピアノ演奏の鑑賞者の立場さえ、今の時代の尺度や価値観に合わないことを悟り、また自分の意に反してまで合わせようとも思いません。

以前であれば、ピアニストや演奏に関する本を読めば、概ねその言わんとするところは理解できるし、同意できる内容は濃淡の差こそあれ数多くありましたが、今回の一冊を読むと、書いてある事があまりに自分が感じたこととかけ離れたもので埋め尽くされており、要するに時代はすっかり変わったのだと認識しないわけにはいきませんでした。

そもそもショパン・コンクールといっても、20世紀までのそれと、今日では世情も価値観も人々の好みや求めも違うことじたいは否定しません。
ひとことでいうなら、非常に可視的で表面的なものになったと思います。
もはやショパンと言っても、コルトーのような演奏でないことはわかるけれど、ロマンティックであったり主情的であったり、詩情豊かなものであることさえ、ほんの僅かでもコンクールの求めからはみ出すとマイナスとなり、がんじがらめの制約の中で、いかにも今風な優秀なパフォーマンスが出来た人だけがピックアップされ、加点を得てファイナルに進み、そして栄冠を勝ち取るというシステム。
しかるに、その基準はというと明確さを欠き、ふらふらと常に微妙に動いていて、まるで訳がわからない。

このことは今回が初めてではなく、以前から薄々感じてきたことではあったけれど、この本を読むことで審査の舞台裏なども垣間見ることができ、審査員の顔ぶれや時の運も大きく、要は世界最高峰のピアノイベントとしての色合いだけが強まり、馬鹿らしい気分になりました。

そもそも私は近年のショパン・コンクールの優勝者についても、心底納得した事がありません。
建前では、伝統的なショパニストを選ぶとしながら、ピアニストとしての総合力や将来性にも目配りしたともあるし、そうかと思えばショパンとしての伝統や作法、スタイルを備えていないとかで落とされたり、使用楽譜の問題、装飾音のちょっとしたことまで、重箱の隅をつつくような問題があったりと、複雑でそのつど基準が変わり、あいまいで不透明。

今回は各コンテスタントについての印象を私ごときが述べるつもりはないけれど、優勝者というのは一人しかいないので、それは特定されますが、あれをもって600人とも言われる応募総数の中から選びぬかれた、このコンクールの優勝者にふさわしいものとは私個人はとうてい思えない。
きっと、審査の現場では大モメになったのかと思いきや、彼の優勝は審査員の中では圧倒的なものだったらしく、それひとつとってもまったくわけがわかりません。
この本を読みながらあらためて動画も確認してみましたが、やはり首をひねるばかりで、優勝を逃した人の中にはピアニストとして格が違うというべき優れた人もいたのはいよいよ複雑な気分に陥りました。

では、ショパニストとしてはよほど際立っていたかといえば、そうとも思えず、ショパンに不可欠な洗練された美の世界やニュアンスに富む磨きぬかれた語りが際立つわけでもなく、大事なところでむしろダサいし、どうしても訛りの抜けない地方出身者が、一生懸命背を丸めて弾いているようでした。
演奏の背後に師匠の影がチラチラするのも気になりました。

私の耳には、大半の人の演奏は「しっかり受験準備をしてきました」的なもので、ニュアンスやファンタジー、つまり音楽としての昇華が乏しく、何度でも聴きたいというシンプルな音楽鑑賞者としての感情が呼び起こされないのです。
個別の演奏についても、☓☓が何次で弾いた☓☓は審査員の某が涙を流すほどで、コンクール史に残る名演などという記述が出てきますが、私にはむしろいやな演奏だったし、なにがいいとされるのか皆目わからないものだったりで、ここまで自分の感じたことと評価が噛み合わないということは、「もうどうでもいいや」という虚しさばかりが残るだけでした。

楽器(ピアノ)の音も時代とともに変わっていくように、ピアニストの演奏も同様だと思うし、それは時代の流れの中で当然のこと。
しかし、音楽というものの根本的な役割は、聴くものに音楽以外では得られない喜びや充実感、美しいものに触れ、精神あるいは感性が特別な体験をすることだと思うのですが、ここに書かれているコンクールの実状は、まるで上場企業のどれを製品化するかの戦略会議の舞台裏の話のようで、およそ私なんぞの求めているものとは掛け離れたものとしか言いようがありません。

他の世界と同様、コンクールも審査員の総合点で事が決する以上、魅力ある稀有な天才より、誰からも嫌われない優秀で無難な人が有利だという法則がここにもいきているようで、優勝は5年に一人きりとなれば、もしかしたら政治家の選挙以上の票集めが必要かもしれません。
これでは、真の芸術は死に絶えるでしょう。
2022/11/16 Wed. 13:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

余技のピアノ 

先日、ある方からLINEを通じてYouTubeの動画が送られてきました。
モーツァルトのコンチェルトですが、ピアノは大屋根を外してステージの左隅におかれ、そこから指揮をしながらピアノを弾くという風変わりなことをプレトニョフがやっていました。

この人は、若い頃は新進気鋭のピアニストとして来日していて何度か聴いた事がありますが、それはもうすさまじいばかりのテクニシャンで、それが少しも嫌味でなく、ただあっけにとられたことばかりが記憶に残っています。
編曲もお得意のようで、当時から「くるみ割り人形」の数曲をソロ・ピアノ用に自身で編曲したものをプログラムに入れていたりしました。

当時はソ連時代の終わりの頃で、当時のソ連にはテクニシャンは掃いて捨てるほどいたと思われますが、その中でも若いプレトニョフのそれは頭一つ出ているといっていいもので、しかもロシア人としては細身の華奢な体つきにもかかわらず、ピアノに向かうや想像もつかないようなパワーが炸裂して、聴衆を圧倒していました。
これはうまくすれば、世界のトップクラスのピアニストの一人になる逸材かもしれない…とさえ思いましたが、いつごろからか指揮のほうに進みはじめ、ついにはロシア・ナショナルフィルというのを自ら作り、指揮者として率いていくことが本格化したようで、ピアニストはやめたのかと思っていました。

ロシア・ナショナルフィルはドイツ・グラモフォンから次々にCDが発売され、チャイコフスキーの交響曲などはなかなかよろしく、リリースされるたびにせっせと買い集めていたほどです。

すっかり指揮者に鞍替えしてしまったのかと思っていたら、やはりときどきはピアノも弾いているようでした。
しかし後年聴いた彼のピアノは、若い頃のそれとはすっかり変わっており、なにか自分なりの境地に到達したと言わんばかりのクセのあるものになってしまってあまり好みではなかったけれど、中にはブリュートナーを使ってのベートーヴェンのピアノ協奏曲のようなものがあったりで、楽器への興味からCDを購入したりはしていましたが、ピアニストとしてはかつてとはほとんど別人でした。

前置きが長くなりましたが、ピアニスト出身で指揮台にのぼるようになった人というのがときどきおられますが、これらにはある共通点を感じます。
まずピアニストとして名を馳せて、その次の段階として指揮者としてもそれなりに認められてくると、成功すればより大きな名声が得られるのかもしれないし、音楽的にもより幅広いものを経験していくのだろうとは思います。
それはそれで結構なことなのでしょうが、ピアニストとしての輝き自体は鈍るという代償は避けられません。

もともとピアノは十分以上に弾けるわけだから、ときどきはピアノも弾く、あるいは二足のわらじで両方のステージに立つ人がいますが、個人的にはこれらの人のピアノはどうもあまり好きにはなれないのです。
その一番の理由は、悲しいかなピアノが余技的になってしまって、演奏に気迫がないというか、鬼気迫る集中力というのがなく、どこか弛緩しています。

バレンボイム、アシュケナージ、エッシェンバッハなどもだいたい同じように感じます。
実際問題として、オーケストラの指揮台に立ち大勢の団員を束ねていくことは、それだけでも並大抵のことではない筈で、時間などどれだけあっても足りないことでしょう。
勢いピアニストだけでやっている人に比べたら、ピアノに向かう時間もエネルギーも大幅にカットされているのは間違いありません。
ピアニストというのはどんなに天才でも、端的に言えば「生涯を練習に費す」ようなものですが、それをやっていない結果がはっきりと演奏に出ており、昔の名声の余技として見せられても、真の演奏感動からは遠ざかったものになります。

どんなに才能豊かな人でも、世界の一流ピアニストの座に棲み続けることは、他の仕事と掛け持ちでできることではないし、そこで求められる妙技や魅力は、それ一筋に打ち込んでいる人の演奏からのみ、滴り落ちるように出てくるものであって、マルチな才能で維持できるものとは思えません。

コルトーはワーグナーの指揮をしたり、ポリーニも一時期指揮に色気を出してロッシーニのオペラをCDとしてリリースしたりしていますが、そちらが本業になることはついになかったのは、なんと幸いなことだったかと思います。
バーンスタインもサヴァリッシュも相当ピアノが弾けた人ですが、とはいえ専業ピアニストにはやっぱり叶いませんから、決してステージでは弾かなかったアバドなんて、却って立派だなぁ…と思ってしまいます。

2022/11/09 Wed. 02:01 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ブーニン−2 

ブーニンの健康がよくない…というかすかな噂は耳にしていましたが、これほどとは思いませんでした。
この番組によれば身体の故障からピアノを弾くことが困難になるというピアニストとしてこれ以上ない不運に見まわれ、さらには遺伝的な糖尿病で左足の切断の必要まで迫られたのだそうで、大変おどろき深く胸が痛みました。

だれしも足の切断なんて耐え難い衝撃以外のなにものでもなく、ましてピアニストにとって、足はペダル操作には欠かせないもの。
夫人のすさまじい努力によって、ついにドイツでこの病の権威に行き当たり、切断せず足の骨を一部切除し、そこをつなげるという大術が行われ、からくも足の切断という最悪の事態を免れたとのこと。

かつての、まるで子供が喜々として遊ぶがごとくピアノを自在に操っていたあのブーニンが、知らぬ間にこのような悲劇に直面していたとは、ただもう驚くほかありませんでした。
番組は、そんな彼が最後のステージから9年ぶりに人前での演奏に挑むというもので、そこにいたる日々を追ったものでした。

曲目は子供の頃に弾いたという、シューマンの「色とりどりの作品」op.99。
ご本人も「左手が昔のように動かない」と仰っていたけれど、ピアノに向かっても、顔や雰囲気はまぎれもないブーニンであるのに、その演奏は信じられないばかりに心許なく、「色とりどりの作品」のシューマンらしい夢見るような第一曲だけでも正直ハラハラさせられました。

9年ぶりのコンサートは小さな会場である八ヶ岳高原音楽堂で行われ、その様子が一部流れましたが、見ているこちらまで言いようのない緊迫感が迫りました。

ブーニンの人生に欠くべからざる存在は長年彼を支える夫人で、ジャーナリストとしての自身の仕事を抱えながらというけれど、多くはブーニンを支えることがメインでしょうし、身のまわりのお世話から、味や盛り付けの美しさにまでこだわるブーニン好みの食事の準備まで、それはもう常人の域を超えた献身ぶりで、ただただ頭が下がりました。

ブーニンは見るところ、夫人を心から愛すエレガントでやさしい人のようですが、それでもやはり取り扱いの難しい天才肌であることも確かなようです。
古い日本の言葉でいうなら、これぞまさに「賢夫人」というべきでしょう。
そんな夫人をもってしても、八ヶ岳高原音楽堂での久々の演奏にあたっては、袖で見守りつつも目には涙がにじんで、寿命の縮まるような思いだったようで、それも当然だろうと思いました。

どうにかコンサートも終了し、これで終わりと思ったら、なんとその後、東京の昭和女子大人見記念講堂(昔はよくコンサートがあり、ホロヴィッツの2度めの来日公演もたしかここでは?)でコンサートが行われたようで、さらに来年は全国ツアー!?というのですから、これにはいささか耳を疑いました。

様々な苦難を乗り越えて、再びステージへ立つというのは立派なことだと思います。
しかし昨今のピアニストはますますテクニカルな面でレベルアップされており、そんな中どういう演奏をするというのか…。
そもそもブーニンというピアニスト自体が、音楽を通じて深く語りかけるというよりは、キレのいいテクニックや多少傲慢でも類まれな推進力で聴かせるタイプのピアニストだったので、よくわからなくなりました。

その一方で、今どきの日本の聴衆はコンサートに行って音楽や演奏がもたらす純粋な感銘を求める人はごく少数派で、大半は人気や経歴、話題性などに大きく左右され、さらに義経の判官贔屓ではないけれど、その背後にハンディや感動物語がくっついていることが大好きということに、近年とあるピアニストの登場いらい気付かされました。

全国ツアーが組まれる以上、今のブーニン氏ひとりの思いつきでできることではなく、きっとそれを支える背後の算段あってのことなんでしょう。
現代人の悪い癖で、疑い始めると、先日の番組もその前宣伝の意味合いもあったのでは?、すべては計算されたものだったのでは?という疑念が広がってしまい、ブーニン氏には申し訳ないことですが、それもあるような気がして完全否定ができません。

率直に言って、来年の全国ツアーにチケットを買っていく人たちが、もし健康に歳を重ねてきたブーニンだったら果たして行くのか?
この疑問はどうしても払拭できません。

むろんコンサートをやろうという人がいて、それに喜んでチケットを買って行く人が大勢いて、結果として収益が上がり興行が成り立つのなら、まわりがとやかくいうことではないかもしれませんが、どうしても悪趣味にしか思えないのです。

2022/11/03 Thu. 02:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ブーニン−1 

つい先週のこと、NHKのBSで『それでも私はピアノを弾く〜』という現在のブーニンを扱った番組が放送されました。
1985年のショパン・コンクールの優勝者で、音楽ファンを超えて時の人にもなったスタニスラフ・ブーニン。

当時のコンクールには、大勢の日本人出場者が束になって参加し、スポーツでいうならさしずめ日本選手団のようで、その団長のように目されたのが故園田高弘氏でした。
このときはNHKのカメラも(おそらく初めて)密着し、楽器の分野でも日本のヤマハとカワイが公式ピアノとして採用されたのもこの年からで、1985年というのは日本にとって大きな節目にもなった年だといえそうです。
現地でブーニンの鮮烈な演奏を目の当たりにした園田氏はいたく感銘されたご様子で、ブーニンを「100年に一人出るか出ないかの逸材」だと、最大級の賞賛を述べられ、実際に会場でも抜きん出た実力と存在感で、圧倒的な人気とともに栄冠を勝ち得たようでした。

NHKの番組が園田氏のコメントとともに放映されるや、日本での人気はウナギ登りとなり、その後来日した際は大フィーバーが巻き起こり、チケットは即完売、ついには国技館でコンサートをするなどブーニン・フィーバーとなって、クラシックのコンサートとしては前代未聞の熱狂が列島を駆け巡りました。
しかしそれは、あくまで一時的なもので、長続きはしなかったようです。

ブーニンはその後、ドイツに亡命、日本人女性と結婚し、それなりの演奏活動はしていたようですが、世界の第一線をキープし続けるにはもうひとつ磨き込みの足りないものがあるのは確かで、人気は次第に下降。
折しも、ソ連からはキーシン、レーピン、ヴェンゲーロフといった、ブーニンより一世代下の超弩級の天才少年達が現れて、その陰に隠れたという不運も重なったように思います。

私も二度ほどブーニンのリサイタルに行きましたが、この人ならではの魅力があることは認めるものの、全体としてはやや独りよがりの、さほど練りこまれてるとは思えない直感に任せたイメージが強く、心から感銘を得るといったものとは少し違うピアニストという印象をもちました。よく言えば従来のルールを破ったロックスターのような奔放さ、悪く言えば勝手放題とも受け取れる演奏は、安定した人気が長続きするには至らなかったようです。

とくに2度めは、わざわざファツィオリのF308を持ち回ってのコンサートでしたが、そこまでのこだわりが伝わってくる演奏とは感じられず、いろんな疑問が残ったのも事実です。
やがてブーニンはヨーロッパではさほどの評価は得られなくなり、ついには「日本限定のピアニスト」といった風説まで流れたほどで、彼の築いた輝かしいキャリアや天賦の才、スター性を考えると、もうすこし違った道はなかったのか?と思うばかり。

ただ、なんともエレガントな貴族的なステージマナーであったことは印象に残っています。
彼は偉大なピアニストを輩出するロシアで、父は有名なスタニスラフ・ネイガウス、祖父に至ってはロシアンピアニズムの祖のひとりであるゲインリヒ・ネイガウスで、いわばロシアピアノ界の血統を受け継ぐプリンスでもあり、そのような自負があの高貴なふるまいにつながっていたのかもしれません。

当時購入したCDした中には、ショパンコンクールの決勝でのコンチェルトとは別に、コンクールの翌年に日本でN響と共演したライブ(ショパンの1番)もあったけれど、コンクールから解き放たれてこれ以上ないほど奔放な演奏となり、突っ込みどころも満載でしょうが、最近の優等生だらけの演奏に比べて、なんと爽快で面白い時代だったかと思います。

指揮の外山雄三氏が、細かい言葉は忘れましたが意味としては「全体として賛同はできないが、しかし、ときどきハッとするような美しさが聞こてくる」といったのが、良くも悪くもブーニンというピアニストの真実であり魅力だろうと思います。
今回、数十年ぶりで聴いてみましたが、いやはや凄まじいものであったし、どこまでもテクニックと感覚が中心ではあっても、それは決して力づくの大技ではなく、常に繊細さが支配しているところに独特の魅力があるのだと思いました。

こんな奔放ずくめのブーニンが伝統的なショパンコンクールに優勝したということは、前回の1980年に巻き起こった有名なポゴレリチ事件での反動もあったのでは?…と勘ぐりたくなるような気もしますが、どうなんでしょうね。
楽譜に忠実なショパニストを選び出すという伝統的な規範に従うだけでは、やがてコンクールそのものが行き詰まるという考え方が前回のスキャンダルから引きずられ、5年後にブーニンのような異端の優勝者を産み落としたのかも。
これはあくまで個人的な憶測にすぎませんが。

あのころのブーニンの演奏を聴いていると、今の若いピアニストはあまりに不正直で、本音を偽り、コンクールに受かりたいがために冒険心も反抗心も、研ぎ澄まされた感性も、なにもかもを失って、出世街道まっしぐらのレースに挑んでいるように思います…。

2022/10/30 Sun. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヘンな話 

前出の文章を書いたのは実をいうと一年ほど前で、そのまま放置していたものでしたが、そのピアノのことがTVニュースで採り上げられたのです。

私の原体験となった福岡市民会館のスタインウェイが修復されるということで地元TVのニュースに出てきたと教えられ、そのことにまず大変驚きました。

先にも書いたように、時代とともに新しいホールが数か所作られたことで、クラシックのコンサートはほとんどそちらへ移行してしまい、市民会館でピアノを聴くということは(少なくとも私にとっては)皆無となり、もう何十年と行く機会もなくなりました。
昔は、オーケストラからバレエ公演、ピアノリサイタルまで、ほとんど市民会館だったので、ピアノといえば必ずといっていいほどこのスタインウェイでした。

個人的にあまりにも印象の深いピアノだったので、ときおりあのピアノは今はどうなったんだろう…と思うことはありましたが、おそらくは買い換えられ、もはや消息不明なんだろうと思っていました。

ありがたいもので、現在は見逃したニュースもネットで追いかけることができるので、その報道内容もわかりましたが、そのピアノは1963年製のDで、市民会館のピアノとして多くの巨匠たちによって演奏され、フレームには40人弱ものサインがぎっしり書き込まれていたことは今回はじめて知り、ニュース映像からもルビンシュタイン、ギレリス、アラウ、ケンプなどのサインが確認できました。

関係者の証言によると、1980年代に近くにできた別の施設に移され、長らくオーケストラの練習用ピアノなどとして使われていたものの、老朽化のため2007年以降は倉庫に保管されていたとのこと。
多くのサインがあったからだろうと思われますが、歴史的価値をもつピアノとして修復されることになったというのがニュースとして採り上げられたようです。
今後一年ほどかけて修復され、来秋にはお披露目コンサート、その後は福岡市美術館に収蔵されて定期的に使用されるとのこと。

無慈悲に廃棄されることもあると考えれば、修復されて生きながらえることができるというところまではまことに結構なお話ですが、その費用を聞いて思わず背筋に寒いものが走りました。
なんと1800万円!という強烈なもので、何かの間違いでは?と思いました。
これをクラウドファンディングや企業からの支援を募って賄うのだとか…。
しかも、そういう意味合いなら修復作業は地元でやるべきでは?と思いますが、ピアノはすでに埼玉へと運ばれているとのこと、もうなにがなんだかわかりません。

そこで知り合いの技術者さん(関東の方)に聞いてみると、その手のピアノの修復費用は(おかしなことだけれども)そのピアノの新品価格から算出されることになっているのだそうで、具体的にどこをどう修理したからという、個別の作業を積み上げて算出されるものではないのだとか。
これはあんまりではないか!と思いましたが、とにかく業界ではそういうことになっているのだそうで、そんな慣習がまかり通るとは二度びっくりでした。
日本よりもよほどピアノの修復をやっているはずの欧米ではどうなのか、そのあたりの事情はわからないけれど、どう考えてもこんなやり方が通用するのは日本だけではないか?という気もしてきます。

今回は、歴史的なピアノを修復することに意味があるわけですが、普通なら1800万といえば、すばらしい状態の同型の中古が買えるわけで、バランス的に見ても納得がいきません。
納得がいかないといえば、なんで埼玉なのかもわからず、その関東在住の技術者の方も、埼玉でとくに思い当たるところは無いとのこと、ますます不思議です。

個人的なイメージでは、どんなに徹底的に修理をしたとしても、せいぜい1/3程度じゃないかと思うんですが…。
このTVニュース動画は時間経過により、すでに視聴できなくなっていましたが、7月29日付けのNHK NEWS WEBには現在も1800万円という数字付きでこのニュースを確認することができます。

というわけで、なんだか素直に喜べない、スッキリしない話でした。

2022/10/24 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

原体験 

ピアノの音も時代とともに少しずつ変化するものと感じつつ、そもそも自分が理想とするピアノの音の原体験は何だったかと考えてみることがありますが、まず自宅にあったピアノでないことだけは確かです。
…どころか、幼いころから自宅にあったヤマハのG2は中学になるぐらいまで弾いたのに、なにひとつ懐かしさもないし、鍵盤蓋のやけに大きなロゴ(現在のものとは違います)が見るたびに気に触っていたこと以外、ほとんど思い出すことさえできません。

むしろ、とくにこれという基準もないくせに、生意気にもこのピアノの音は「好きじゃない」とずっと思っていて、子供って物事を直感的に捉えるんだなあとつい笑ってしまいます。

可能性としては、自宅で親がレコードをかけていた巨匠達の音も知らず知らずに耳に入っていたかもしれませんが、とはいえ、そのときはまだ楽器としてのピアノを意識するには至っていません。

実物の生のピアノの音で、あまりにも自宅のそれとはかけ離れた異次元のスタインウェイに衝撃を受け、魅了され、畏れおののくようになったのは、小学生に上がったころからちょくちょくコンサートに行くようになり、その大半は、客席からしばしば耳にすることになる福岡市民会館のピアノでした。
1970年代、高度成長や大阪万博という時代もあってか、今では信じられないような巨匠たちがこの舞台に登場し、心に残るコンサート体験をすることができた佳き時代でした。

ソロリサイタルはもちろん、オーケストラとの共演でも、ピアノといえば決まってこのスタインウェイが使われました。
ダブルキャスターどころかピアノ用の台車もない時代、幾人ものスタッフ達によって力づくで押し出されてステージ中央に据え付けられ、コンサートマスターが中央のAを出すだけでも、その音は甘い蜜のような響きがあって、そのたびにドキッ!としていたのを覚えています。
自宅にあるのがピアノなら、これはもうピアノとは思えないような異次元の世界で、この時代の一連の体験が私の中でスタインウェイサウンドに対する強烈なイメージの基礎を作ったのは疑いの余地はありません。

ネットで調べてみると福岡市民会館は1963年の開館とあるので、竣工時に納められたピアノだったのだろうと思いますが、当時は主だったコンサートの多くがこの市民会館でおこなわれ、今から思うと信じられないようなビッグネームがステージに現れ、そのつどこのピアノの音に接し、いつのまにかマロニエ君にとってのスタインウェイとしての基準となっていったように思われます。
ほかにも数カ所スタインウェイのあるホールはあるにはあったけれど、これぞというコンサートは圧倒的に市民会館が多く、それ以外の印象は不思議なほどありません。

今と違って、管理も万全とは思えないし、ボディの角など傷だらけ、弾きこまれて音もかなり派手目のものにはなっていたけれど、まるで名工の手になる日本刀のような、妖しい輝きに満ちた音が底のほうから鳴ってくる様は、いま聞いたらどう感じるかわからないけれど、当時は完全にノックアウトされていました。
とりわけ低音には底知れぬ深さがあり、ラフマニノフのコンチェルトの第2番第2楽章のカデンツァにある最低音などは、まさに中世の鐘を打ったごとくの轟音が鳴り響き、これは現代のスタインウェイでもゴンという感じでしかないことを思うと、やはり昔のピアノは、材料やフレームの製法などの重要な部分がずいぶん違っていたのだろうと思われます。

クライバーンやリヒテル、マリア・カラス、あるいは殷誠忠というテクニシャンのソロでピアノ協奏曲「黄河」という、なんとも不気味な中国作品を初めて耳にしたのも、数多くのロシアバレエ公演に接したのも、この市民会館でした。
時が流れ、より贅を凝らしたホールが次々登場することによって、市民会館でのクラシックのコンサートはすっかりなくなりましたが、60年代前半に建てられた残響など大して考慮にもなかったであろう多目的ホールだったにもかかわらず、ここのスタインウェイはまさに極上の音を鳴り響かせ聴衆を魅了していたわけです。

後年、大阪のシンフォニーホールの登場あたりから、各地に音楽専用ホールというのが作られるようになり、その初期のものは残響という名の下に、中にはただ音が暴れまわるだけの響きとなっているものもあったりで、それに比べれば多少デッドでも、クリアに音が聞こえるよくできた多目的ホールのほうが、個人的にはよほど好ましく思います。
とくにピアノでは。

市民会館は、もう長いこと行っていないので確かではないけれども、多目的ホールの中ではそれほど音質が悪い記憶もなく、数々の名演とそこにあったスタインウェイのリッチでパワフルな美しいトーンを耳にできた経験は、いまも心の奥深いところに残っています。

私は子供のころ、本物の巨匠の実演に触れることのできた佳き時代に、ぎりぎり間に合うよう生まれることができたのは幸運だったと思います。
今のように誰もかれもがむやみにステージに立てるような時代ではなく、コンサートといえば必然的に一流もしくは超一流のアーティストが当たり前だった時代というのは、いま考えればなんとありがたいことだったか!と思います。
何度も行った安川加寿子さんの演奏など、ことさら有り難みも感じないまま聴いていたのは、いま思うとなんというもったいないことをしたか!と思いますが、ともかくそんな時代だったんですね。

ポリーニやアルゲリッチの初来日では、当時はまた知名度もさほどではなく、市民会館より遥かに小さい明治生命ホールだったのですから隔世の感があります。

2022/10/19 Wed. 16:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

天空の村のピアノ 

NHKのBS1で『天空の村のピアノ』という2018年イギリス制作のドキュメント番組があり(再放送だったようですが)録画していたのを
見てみました。
ロンドンのピアノ店の店主にして調律師のデズモンド氏は、あるお客さんからヒマラヤ山中の学校にピアノを届けたいが運べるかという相談をもちかけられます。通常ならそんな途方もない運搬を個人レベルでそれをやろうなんてあり得ないでしょう。
ところが、それを自身の人生の最後の大仕事と感じたのか、熟慮の末に引き受ける決断を下して、その道中たるや想像を絶するほど過酷を極め、ついには成し遂げるまでの密着映像でした。

ロンドンからなんと8000km、標高は富士山より高い4000m、車が行けるのははるか手前までで、そこから先はヤクという牛のような動物に背負わせて運ぶというのが当初の計画だったようです。
持っていくピアノは、さすがはロンドンというべきか、ジョン・ブロードウッドのさほど大きくないアップライトで、まずは事前の入念な整備がなされ、それを現地の麓へ送ったあとは、山岳路を運びやすいよう、青空の下でなんとバラバラに解体し、弦もすべて緩められて、パーツごとの運搬にして個々の負担を減らし、到着後に再び組み立てるという方法が採られます。

それでもピアノはピアノ、そんなに大きなモデルではなかったけれど、フレームだけでも50kg以上あるらしく、いずれにしろこの峻険な山々を踏破するには、並大抵の荷物でないことには変わりありません。

これから進むべきヒマラヤの景色たるや、神の領域であるかのような壮大かつ桁違いのスケールで、その果てしない威容は人間にとっては無慈悲の象徴のようにも見え、神々しいのか悪魔的なのかわからなくなるようなもの。
まるで異星の景色でも見せられるようで、遥か高くに峻険な稜線が幾重にも連なり、およそ日本人なんぞには馴染みのない、地球上にこんなところがあるのか…というような気の遠くなるような光景でした。
目指す場所は、あの峰のその向こうの向こう…みたいな感じで、そこまで自分の足で行くだけでも想像外で、ましてピアノを運ぶなんて命の危険すら感じます。

一定のところまで車で行くと、その先に道路はなく、おまけに頼みの運搬役のはずだったヤクというちょっと牛のような動物は想像よりもずっと小型だったようで、分解したといってもとうていピアノを背負わせられるような動物じゃないことがわかり、デズモンドはこの方法による運搬を即座に断念。
かくなる上は気の遠くなるような彼方の目的地まで、現地スタッフを交えた人力によって運搬するしかないという展開。

ロンドンから同行した人が数人と、現地の協力者が10人ぐらいはいたかどうか。
普通なら、この状況を見た瞬間に諦めて帰ってくるところでしょうが、番組のカメラが入っているからか、当人たちの意志に峻烈なものがあったからかは知りませんが、とにかく人の手足で一歩一歩この途方もない道程を、分解したピアノを担いて行くことになります。

途中の運搬の様子は見ているだけでも苦しくなり、フレームは数人がかりで担いて、ときに山の斜面を滑り降りるようになったり、それはもう映像を見ているだけでヘトヘトになるようでした。

目指すリシェ村に到着したのは徒歩による出発から7〜8日目のこと。
この山間の小さな村の人々からは大歓迎を受け、ピアノが来たことで子どもたちが無邪気に喜び踊る脇の建物で、翌日から組立作業が始まり、2日後にピアノの形になりました。
大人や子どもたちが見守る中、組み上がったピアノをデズモンド氏は音を出し、リストの「ため息」の一節を弾いていましたが、はっきりいってため息どころではない、凄まじい地獄のミッションでした。
大人も子供もピアノを初めて見るという人も多く、この一台がこれからどれだけの役割を果すのか、はかりしれないものがあるのでしょう。

私だったら、費用を募って、ペリコプターでガーッと一気に運んだら…というような身も蓋もない発想しかありませんが、そうではないところに人間のドラマが生まれるんでしょう。
実際、デズモンド氏はじめ多くの協力者、村の人々や子どもたちなど、この一台のピアノをめぐって計り知れない交流が芽生え、人生の一ページに深く刻まれたことは想像に難くありません。

計画から1年、実行に1ヶ月かかるという大変なプロジェクトで、学校内のピアノが置かれた建物は「サー・デズモンド音楽堂」と名づけられました。
デズモンド氏は届けることで終わりではなく、なんと、亡くなる2018年まで毎年調律に訪れたんだそうです。

ひとりの女性が言っていましたが、この地の人たちの生活にはお金もあまり必要なく、みな心がきれいで純粋で、互いに仲良く生活をしているが、将来に向けて道路建設も始まっているらしく、いつの日かそれが完成すればさまざまなものが流入し、そうしたら村の人の心も変わってしまうだろう、それが心配…と言っていたのが印象に残りました。
…たしかにそうだろうと思います。

2022/10/14 Fri. 21:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

『楢山節考』 

WAGNER PIANOを囲んで集まったとき、あれこれの雑談の中で所有者のベテラン技術者さんが仰るには、かつて志しの高い日本の製作者たちが作り上げた銘器というのは、昔はそこそこあったものの、大手に比べて品質ではなく知名度やブランド力が劣るせいで「売れないガラクタ」に分類され、廃棄という憂き目にあう悲劇的なピアノも少なくなかったという話をされていました。

購入を決める際に、ブランド性が一定の効力を発揮するというのは一応はわかるけれど、ピアノの場合はあまりにもそれが極端で、買い手のほとんどは音や響きの判断基準が未熟であるため(わからないから)、日本の流通市場では大手の大量生産のピアノが「信頼に足る標準品」として信頼感まで独占し、その他は楽器としての真価を確かめることもないまま姿を消していったピアノが少なくないことは、なんとも残念無念な話です。
さらには日本人固有の「横並び精神」もそれに拍車をかけていることでしょう。
「関係者のオススメ」を鵜呑みにし、「人と同じもの」「評価の定まった定番」を買っておけば安心という民族性。

さらには、ピアノも消耗品として家電製品のように買い換えるのが理想という価値観。
丁寧な修復を受け、売買の対象として色褪せることなく100年でも使われ続けるには、スタインウェイやベーゼンドルファー級のブランド力がなければ、打ち捨てられる運命であるようです。

そんな無知が招いた残酷な話は昔のことかと思っていたら、ごく最近ネットを見ていると、某所で美しい音で弾く者/聴く者を魅了していた大変貴重なピアノが、なんと廃棄処分されたという事実を知るに至って、驚倒しました。
どうやらピン板の傷みがあったようで、それが廃棄の理由のようでした。

そのピアノは日本のピアノ史に残る高名な設計者による逸品で、私も何度か触れさせていただいたことがありましたが、甘く美しい音が印象的で、おまけにコンサートで使用されても充分に耐えうるだけの底力も持ち合わせていた、所有者にとっても自慢のピアノで非売品でした。
ピン板の傷みというのは確かに深刻なことですが、それで廃棄という最悪の決断が下されたのは貴重なピアノなだけに、いささか極端すぎやしないかと非常にショックでした。

そもそも、日本では弦やハンマーは交換しても、ピン板を交換するという習慣がほとんどないのかもしれません。
これは、日本の大多数のピアノは大量生産品であるため、修理して長く使うより新しい物に買い換えることが正いとされ、ましてフレームの下にあるピン板は交換不可のように言われていた時期もありました。
本当にそうなのかどうかは、素人の私にはわかりません。
しかし欧米では、ピアノリペアの際、ピン板交換はごく普通に行われることで特別なことではないようですから、日本だけの特別事情なのかもしれません。

海外ではピン板交換は必要に応じて行われる作業の一つにすぎず、リペア用の新しいピン板がごく普通に売られているのだそうで、技術者はそれをピアノごとの形状に合わせてカットし、適切な位置に穴を開けて新しいピンを打ち込んで弦を張っていくようです。
ヨーロッパのピアノリペアを数多く手掛ける工房で、私もそのリペア用のピン板を見せてもらったことがありますが、何層にも重ねられた分厚い板で、フレームまで外す修理なら、もうひと手間という感じでした。

廃棄の結論に至ったのは、リペア用のピン板がたやすく手に入る情報がなかったのかもしれないし、あるいは別の事情によるものかもしれず、正確なことは知る由もありません。
やむを得ぬ事情があってのこととは思いたいけれど、ピアノを長く使うための技術を生業とする方が、なんというむごいことをされるのかと思ったし、あまつさえその様子をわざわざネット上で公開するという神経はとても理解が及びません。

そこに至った事情や判断は、他人が詮索することではないとしても、ただひとつ間違いないことは、歴史的価値もあり、魅力的な音を奏でていた貴重な素晴らしいピアノが、他でもない持ち主の手によって死刑執行されたという厳然たる事実で、この記事を目にしたときは本当にショックで身体が震えるようでした。

ピアノは電動ノコで解体され、ビニール袋に入れられた写真の衝撃は当分おさまりそうもありません。
それならリペアをする方にあげても良かったのでは?と思うのですが。
いずれにしろ、日本のピアノ史の一台である文化遺産ともいうべきピアノをこのように処分してしまうということは、ほんとうに驚きであり衝撃でした。

この残酷な事実を知ってとっさに思い出したのは、深沢七郎の『楢山節考』でした。
むかしとある山間の貧村では、食い扶持を減らすため、親が老いて働けなくなると子が背負って山の奥深くに、自分の親を生きながら捨てに行くという、身の毛もよだつ風習を描いた小説です(読む気もしません)。
もちろん、老いたのは親ではなく、ピアノですけれど。

2022/10/08 Sat. 12:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヘンな映画 

『グランドピアノ 狙われた黒鍵』という奇妙な映画を見ました。
いや、正直にいうなら、早送り多用でおよそ見たといえるような見方ではありませんでしたが。

2013年スペイン製作の映画のようですが、主人公のピアニストは恩師と自分しか弾けないという難曲をかつて失敗し、それから5年ぶりにステージに復帰して再挑戦するというものですが、演奏開始後、楽譜をめくるとそこには赤の太字で脅迫の様々な指示が書かれていたり、曲の途中でピアニストがなんども中座して舞台裏に行ったり、一音でも間違えたら殺すと脅迫されたり、どの場面ひとつとっても実際にあり得いないようなアニメ顔負けのシーンの連続。
実際の演奏会では絶対にあり得ないことで、いかに映画だからといって、許容範囲というのはあるはず。

映画は映画であり、娯楽でファンタジーとはいえ、あまりにも現実離れした連続となると、そのせいで映画としての面白さや魅力も失い、映画として割り切って楽しむ気力さえもなくなります。
これがコメディかなにかならまだしも、一応はおふざけではないサスペンス映画という立て付けになっているわけで、製作者は映画として真面目に作ったのかさえも疑いました。

映画の面白さというのは、きちんとしたリアルな土台の上に、映画ならではの筋書きなどのあれこれが織り込まれ展開されるものでなくては成立しないはずです。

使われたピアノは師の遺品という、ベーゼンドルファーのインペリアルでこれは本物でしたが、演奏至難という曲も、オーケストラ付きの奇妙な曲だし、ステージはすり鉢状にオーケストラが着座し、その奥の一番上の高いところにピアノが置かれているという、とにかくすべてがいかに音楽やコンサートというものを知らない人達が好き勝手に作ったものであるかがわかります。

最近は、海外ドラマでもそのあたりの考証はかなり正確になっており、装置から小物ひとつまでこだわって高いクオリティで作られるご時世に、こんなものもあるのか…と驚きました。

大詰めはまだオーケストラも観客もいるというのに、ピアニストは天井裏でスナイパー?との格闘となり、そのあげく落ちてきた人間がピアノを直撃、哀れ破壊されて床に埋もれてしまいます。
ただし、そのシーンはインペリアルではなく、大屋根の形が明らかに異なる、別のピアノもしくは模型か何か?に置き換えられていましたが。

最後は演奏不能なまでに傷ついたとするベーゼンドルファーの鍵盤が映し出されて、主人公が弾いてみようとするシーンがありますが、このときはなんとアップライトになっており、これほど雑な作りの映画がいまどきあるのか?という点で首をひねったり苦笑いの連続でした。

冒頭に書いた通り、あまりのバカバカしさに倍速で流しただけで、実はストーリーもろくにわからずじまいでしたが、正直わかりたいとも思いません。
ひとつだけ注目すべき事があるとしたら、(ここだけはネットで名前を調べましたが)ピアニスト役で主人公のイライジャ・ウッドという俳優ですが、この人はよくあるピアノを弾いているフリではなく、結構ピアノが弾ける人のように見受けられました。
演奏姿勢から指の動きまで、弾ける人とそうでない人は、根本的にまったく違いますから。

もし本当に弾けるのなら、タイロン・パワーの『愛情物語』ではないけれど、もう少しそれを活かした見応えのあるものに出てほしいものです。
たしかあれは、実際の演奏はカーメン・キャバレロだったと思いますが、やはり弾ける人の姿は違いますから。
『マチネの終わりに』でも、もし福山雅治がギターを弾けない人だったら、いかにモテ男でもずいぶん違ったものになっていたでしょう。

とはいえ、この映画はおもしろかったわけでもなく、不愉快というのとも違い、やはり「ヘンな映画だった」というしかない、不思議な後味しか残りませんでした。

2022/10/03 Mon. 01:39 | trackback: 0 | comment: -- | edit