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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

コンサートベンチ 

必要もないのに、意味もなく欲しくなるものってありませんか?

マロニエ君にもそんなものがいくつかあって困りますが、その中の一つがピアノの椅子。
中でも欲しくなるのはコンサートベンチ、すなわちコンサートのステージでも使われる椅子のこと。

たしか20年ぐらい前のこと、それまで使っていた普通のダサいピアノ椅子に我慢できなくなり、よくわからないまま日本のピアノ椅子では有名メーカーのコンサートベンチを購入。
当時は注文制で、座面を本皮、足の部分を黒のつや消し仕上げで購入しましたが、これが見た目はたいそう重厚で立派なんですが、一年もしないうちにギシギシと雑音が出始めて憤慨。

で、次に買ったのが、ヤフオクで見つけたカワイ純正のコンサートベンチで、ピアノメーカーがコンサートで使うものなら間違いないだろうと思ったのですが、その期待もあえなく裏切られて、こっちははじめから雑音があって前回以上に落胆。
これは中古品だったものの、そんなに使われたとは思えない美品で、大きさ重量ともに立派だし、サイドには小さなKAWAIのエンブレム付きであるにもかかわらず、盛大にギシギシいうのはびっくりでした。

調律師さんが、調律に来られたついでにCRC(潤滑剤)を吹きつけたり、一度は自宅に持ち帰って各所を増し締めしたりとかなり奮闘してくれましたが、音が消えるのはしばらくの間で、そのうち再発しはじめて、時間経過とともに完全に元に戻るのには閉口させられました。
そのうちこの2つに関してはあきらめてしまい、やっぱり日本製はダメだと思い、輸入物を狙うことに。

一時代前までのコンサートベンチは、ヤマハはヤマハ製、カワイはカワイ製を使い、スタインウェイやベーゼンドルファーではドイツのバルツ製、あるいはアメリカのポール・ジャンセン製というのが定番でした。
バルツはいかにも高品質な感じはあるものの、古いメルセデスみたいな実直なで遊びの一つもないデザインがあまり好きになれず、対してジャンセンのほうがデザインが好ましく、価格も少し安いこともあってか、当時のコンサートの多くがこれでした。

というわけで、次はポール・ジャンセンだと心に決めていたのに、さる輸入ピアノ店のオーナーにして技術者の方によると、ポール・ジャンセンも所詮はアメリカ製品で、いずれ雑音が出始めるのは避けがたいとのこと。
その時点ではジャンセンのベンチにはかなり思い入れもあり、聞いたのがいよいよ購入する直前のことだったので少なからずショックを受けました。
でもまあ、安くもないものを期待をこめて買った後に3たび裏切られるよりは、事前にわかってよかったと思い直すことに。

というわけで、では雑音が出ないという観点から最もオススメのコンサートベンチはなにかと尋ねたら、即座に「イタリアのランザーニ製でしょう」との回答でした。
イタリア製は車好きの経験から、デザインやスピリットは認めるとしても、品質に関しては大いに疑問符がつくイメージがあったので、俄には信じ難い気もしましたが、その方は抜きん出て知識が豊富で信頼のおける方であったし、自信をもって推挙されるので結局それを購入することになりました。

当時ようやくこのベンチがコンサートで使われはじめた頃で、側面に赤いラインが2本入り、座面ステッチにも赤い糸が使われるあたりいかにもイタリアンで、すでにポリーニなどが使っていたし、ホールにも結構あるようで今でもときどき見かけます。
そのころ、このランザーニのコンサートベンチを取り扱っているのは松尾楽器商会だったので、ここから購入。

送られてきたそれは、これまでの2つのコンサートベンチにくらべて明らかにガッシリしているし、かなり重く、たしかに作りもかなり堅牢、どんなに重心移動してもミシリとも言わず、まずこの点においてはかつてない頼もしさがありました。
いやな雑音からも解放されたのはよかったけれど、強いていうなら座面のクッションの沈み込みがほとんどない平坦な作りなので、厚みのあるクッションの感じがないのは少し残念でした。

でもとりあえずこれで落ち着いたことでもあり、部屋にコンサートベンチばかりごろごろしていても仕方がないので、カワイ製のものは人にあげて整理をつけたころ、今度は油圧式のベンチがちらほら出始めました。
はじめは「骨組みだけの変な椅子」としか思わなかったけれど、コンサートでもこの油圧式のベンチがしばしば目につくようになり、実際に楽器店で腰を下ろしてみると、これまでのものとは違った心地よさがあって良さを認めざるを得なくなります。

慣れの問題もあって、見た感じはさほど好きにはなれなかったけれど、抜群の安定性、レバーひとつの高さ調整のしやすさなど、とくに機能面では有利なんだろうと納得し、早い話が今度はこれが欲しくなったというわけです。

続く。
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2018/12/12 Wed. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ディアくまもん 

熊本は福岡からはおよそ100km少々で、近いといえば近く、遠いといえば遠いところ。
東京からいうとちょうど御殿場ぐらいの距離で、行こうと思えばいつでも行けるものの、気軽にサッと往復する距離でもない微妙な距離でしょうか。

たまたま所用で熊本に行くことになったので、これは好機とばかりに予定より早く出発して、とあるピアノ店におじゃますることに。
市内中心部の幹線道路に面した店舗で、ここが珍しいのはディアパソンを販売のメインとしているところです。

ご店主自らご対応くださり、いろいろと興味深いお話を伺い、店内のピアノもほんの少し触らせていただきました。
ディアパソンといえばマロニエ君も3年前まで自宅で使っていたこともあり、とても親しみ感じるピアノですが、一般的な認知度はヤマハ/カワイという巨大勢力の前では、あくまでもマイナーブランドという位置づけ。

それでも、この数十年で日本国内の多くのピアノブランドが次々に消滅してしまったことを思えば、生みの親である大橋幡岩さんがブランドごとカワイ楽器に譲渡していたことが幸いして、今日まそのブランドは保たれ、少数でも生産されているのはまさに奇跡的といっていいかもしれません。

とはいえ近年のモデルは順次整理が進み、大橋氏が設計した3種のグランドはついに183cmのひとつを残すだけになってしまいました。
さらには今年のことだったと思いますが、カワイ傘下の子会社として運営されていた株式会社ディアパソンが、ついに統合されてしまったようです。
これによりディアパソンとしての独自性はさらに制限を受けることになるのか、あるいは新たな道が拓けていくきっかけになるのか、マロニエ君ごときにわかるはずもないけれど、むろん後者であることを願うばかりです。

会社の話なんぞするのは無粋なので、ピアノの話に戻ると、ディアパソンは現在でも一部のファンにとっては、なかなかの人気ピアノなんだそうで、ご店主曰く「モデルによっては生産が追いつかず、注文したものがやっと届くというような状況」というのですから、これは意外な驚きでした。
そんな好調な売れ行きの裏には、ディアパソンに惚れ込んだ販売店が、熱心にその魅力を説いていくことに日々奮闘されているという、いわば草の根の努力あってのことと思われ、そこはまさにそういう店なのだと思われます。

むかしのように「良い物さえ作っていれば、お客さんは必ずついてくる!」というような法則は崩れ、どんなに優れたものでも、それをいかに周知させ、果敢に良さを説いていくか、これに尽きる時代ですから大変です。
特にピアノはヤマハ/カワイという両横綱を相手に、ディアパソンという平幕が金星を勝ち取らねばならないのですから、ご店主の努力と情熱は並大抵のものではないと推察されます。

店内には4台のグランドがあり、新品では定番の183cmと猫足の164cm、レッスン室で使われているのはディアパソンとボストンいずれも奥行きが178cmというものでした。

3台のディアパソンには明確に共通する特徴があり、それは音とタッチだと思いました。
ディアパソンは昔から広告に「純粋な中立音」と謳っていますが、中立音というのがこういう音なのかどうかはわからないけれど、その音には飾り気のない素朴な味わいとズシッとした重みがあって、どちらかというと昔気質のピアノだと思います。
タッチも同様で、今どきの軽やかなアクションではなく、やや重めのタッチできちんと弾かされる感じでしょうか。

驚くのは、ディアパソン伝統のオリジナルではないモデル、すなわちカワイベースの164cmや178cmでさえ、骨太なディアパソンの音がしっかりすることで、決してマークを貼り替えただけではない、ディアパソンらしい音の特徴がしっかりと保持されていることでした。
ボディや響板は同じだとすると、この「らしさ」はどこからくるものなのか、おおいに興味を覚えるところです。

少なくともカワイと違うのは、今だに木製アクションを搭載していることや、ハンマーなどのパーツが違うということはあるかもしれませんが、それだけでああもディアパソンの音になってしまうものなのか、これは非常に不思議でした。
個人的な印象でディアパソンを人間に喩えるなら、根は優しいけれど心にもない作り笑いや耳障りのいいトークなどは苦手な正直者で、長く付きうならこっちというタイプだと思います。

ただし、アクションに関してだけは、もう少し今どきの新しさを採り入れて欲しいというのが正直なところ。
さすがにヘルツ式にはなってはいるのでしょうが、依然としてボテッと重く、指の入力に対してアクションの反応にわずかな齟齬があるのは少々の慣れを要します。
マロニエ君もこのタッチに関してだけは、ディアパソンを所有しているころ、ずいぶんと調律師さんにお願いして改善を試みましたが、それにも限界があり、かなりのところまでは持って行けたと思いますが、根本的な解決には至りませんでした。

カワイの樹脂製のアクションになるとしたら素直には喜べないとしても、少なくとも現代的なストレスのないアクションが組み込まれたら、それだけでもディアパソンの魅力が倍増して、理解者・支持者(要するにお客さん)が一気に広がるのではないかと思います。

個人的な好みをいうと、ピアノ店には営業マンが何人もいるような規模は必要なく、この店のようにご店主自ら一つのブランドに精通し、業界に確かな人脈をもち、その魅力をひとりひとりに説きながらファンの裾野を広げていくというスタイルが理想的で、楽器はそもそも本来そういう世界ではないかと思います。
聞けば、遠方からでもディアパソンに興味のある方はわざわざここを訪ねて来られるそうで、結果として納入先は九州全体に広がっている由、納品時の写真を収めたものという分厚いアルバムがその事実を雄弁に物語っていました。

ディアパソンあるかぎりますます頑張っていただきたい貴重なお店でした。

2018/12/07 Fri. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガラクタ漁り 

古本店の中古CDはクラシックなどほん少しあるだけで、期待もしていなかったところ、たまたま面白いもの(しかも廃盤)がまぎれていたことで、ビギナーズラックだったと考えるべきなのに、つい味をしめて二度三度覗いてしまいました。

当然、そんな偶然が続くはずもなく、結果は玉石混交、失敗も少なくありません。
いいものについてはあらためて書いてもいいけれど、中には安さゆえに冒険心と欲に煽られて、普段だったら買わないようなものにまでついつい手を出してしまいます。

もちろん、興味を覚えたものはそれなりにいちおうは吟味して買っているつもりですが、しょせんはガラクタ漁りであって、ヘンなものをいくつか買ってしまいました。

掘り出し物も中にはあるから、勝敗は五分五分だとしても、五分五分ということは結局いいものを倍の値段で買っているようなもので、ま、せこい遊びとして、それはそれで楽しんでいます。

いくつかご紹介。
名も知らぬドイツ人ピアニストによるショパンの14のワルツというのがあって、いまさらショパンのワルツでもないけれど、裏に記された小さな文字に興味がわきました。
演奏者の名前のすぐわきに(Bechstein)という文字があり、ベヒシュタインによるショパンというのはどういうものか聞いてみたくなり購入。
ところが、これがもうウソー!と声を出したくなるような下手な演奏で、おまけに録音もぜんぜんパッとしないもので、1曲めでやめようかと思ったけれど、それじゃあまりに悔しいから一度だけ我慢して最後まで聴きましたが、それでハイ終わり。

むかし天才などと言われて有名だった日本人によるヴァイオリン名曲集。
若いころ、来日中のコーガンの目に止まり、彼が教えることになってソ連に行って研鑽を積み、帰国後は有名な画家と結婚した方。
この人は名前ばかり知っていて、まともに演奏を聴いたことがなかったからいいチャンスと思ったけれど、これがもうやたら古臭い、昭和の空気がどんよりただよい、日本人がここまで弾いてますよ!というだけのもので、とてもその演奏に乗って曲が羽根を広げるようなものではない。
当時のソ連にはただ上手い人なら日本とは比較にならないほどごろごろしていただろうし、コーガンほどの巨匠がこの人のどこにそんなに惚れ込んだのかと頭をひねるばかり。

ウェルテ・ミニョンの大いなる遺産ー19世紀後半の名ピニストたち。
あとからわかったけれど、ウェルテ・ミニョンは昔のピアノ自動演奏装置のことで、それを知らなかったばかりにすっかり騙されました。古いレコードのコレクターぐらいに思っていたのです。
マロニエ君は昔からピアノロールなどの自動演奏というのが嫌いで、これで録音したCDなどは決して買わないのですが、購入して中を見てはじめてそうだと判明。それをアメリカのブッシュ&レーンというピアノに取り付けて、往年の巨匠たち、すなわちプーニョ、パハマン、ザウアー、パデレフスキなど総勢8人によるショパン演奏でした。
この装置がどれほど正確に記録/再現能力があるのかは知らないけれど、聴こえてくる演奏は、どれも信じられないほど不正確で、大雑把で、あちこち好き勝手に改竄された演奏。技術的にもその名声にふさわしいとは到底いいがたく、そういう時代だったということは踏まえるにせよ、ひととおり聴くだけでもストレスを伴うものでした。
大半はメチャクチャといいたいような演奏で、最もまともだったのは日本にも馴染みのあるレオニード・クロイツァーの革命で、8人中たったひとりまともな人に会ったような印象でした。
ブッシュ&レーンというピアノも、良く鳴ってはいるようだけれど、鋭いばかりの耳障りな音で演奏と相まってかなりストレスがたまりました。

ジェシー・ノーマンのシューベルト歌曲集。
例によって神々しい、ビロードのような美しい声だけど、シューベルトの音楽がやけにものものしくゴージャスにされているようで、なんだか釈然としませんでした。個人的にはもう少し、簡潔な美しさの中に聴くシューベルトのほうがしっくりくるし好みです。
もちろん歌手としては途方もない存在であるのは疑いようもないけれど、ミスマッチなものでも無抵抗に有り難がっていた時代があったことを思い出しました。

「安物買いの銭失い」とはまさにこのことだと思いますが、趣味や楽しみにはムダはつきもの。
ムダや失敗のない趣味なんてあり得ないのだから、それをふくめて楽しんでいると勝手にオチをつけています。


2018/12/03 Mon. 01:56 | trackback: 0 | comment: -- | edit

島村クラシック店 

島村楽器は毎年、博多駅ターミナルビル内のイベントホールで大規模な「ピアノフェスタ」というのをやっていましたが、気がつけば天神でも開催されるようになり、7月に続いて11月も「ピアノフェスタ福岡2018winter」というのをやっているというので、せっかくなので連休中に覗いてきました。

駐車場がどこも満車なので、空きが出てくる18時近くに行ってみると、会場はえらく静かな雰囲気でした。
お客さんよりお店の人の数のほうが圧倒的に多く、これじゃあ気の弱いマロニエ君は音なんぞ出せません。
とはいっても、グランドに関しては置かれているのは大半がヤマハ、それも売れ筋のC3の中古が5台とか、それ以外もこれといって興味を覚えるようなものは今回は見当たりません。

営業のお姉さんがほどよい感じで話しかけてきますが、その会話の中に「今度、ももち店というのがオープンしまして、そちらには…」というので、ん?なに?と思ったら、これが思いがけない情報でした。

ソフトバンクホークスの本拠地であるヤフオクドームの目の前の商業施設が新しく建て替えられて、マークイズという商業施設に生まれ変わってオープンしたというニュースをテレビでやっていましたが、そこに島村楽器の福岡ももち店ができて、アコースティックピアノを専門に扱う「クラシック店」ができたというのですからびっくり。

だいたいマロニエ君は、この手の商業施設というのにあまり興味はなく、どれだけ鳴り物入りで新しくできたとて、しょせんは似たりよったりの同じような店がまたかという感じで入るだけで、もういいかげんあきあきしているので、まず行ってみる気はなかったし、もし行くことはあっても当分先だろうぐらいに思っていました。
まさかそこに、島村楽器の「クラシック店」ができているとは知りませんでした。

オープンからまだ数日、しかもはじめての連休とあって相当の人出のようだけれど、夜になれば多少は人も減って車も置けるかもと思い、聞いた勢いでそちらに向かってみることに。
近づくと、19時というのにやはり人も車も多いようで、誘導にしたがってドーム前をぐるぐるとまわらされたあげくにやっと立体駐車場に車を止め、施設に踏み入れると、いやあものすごい人の波。

思った以上に大きな施設のようで、どこになにがあるのかさっぱりわかりません。
これは探すのが大変と思っていたら、駐車棟から渡り廊下を渡ったところが施設の3階にあたり、島村楽器もちょうどこのフロアにあり、わりにすぐ見つかりました。
パッと見たところは、あちこちのショッピングモールでよく目にする島村楽器の店舗なのですが、中に奥深く伸びた一角があって、壁で仕切られた向こうにはグランドピアノがずらりと並んでいました。

入って行くと、表の喧騒からは隔絶されたエリアとなり、ボストン、スタインウェイ、ヤマハ、スタインベルクなど、グランドだけでも8台ぐらいはあったような気がします。アップライトはたぶんそれ以上でしょう。

最も印象的だったのは、3台あるボストンのグランドの中で最大のGP-215。
そのタッチはまるでとろけるようで、適度な抵抗が実になめらか、上質なもので包み込まれるようにキーが沈みます。
しかも決して鈍重ではなく、返りも俊敏、まったく思いのままに弾けるのは驚きでした。

指というのは必ずしも常に最適な動きやコントロールができているわけではないから、そこには当然ばらつきがあるわけですが、それをこの鍵盤+アクションはうまく吸収してくれて、まるで高級車のサスペンションのように凸凹を呑み込んでくれます。
それでいて必用な強弱や表情はイメージしたままに付けられるし、トリルなどもより細かいことが可能で、これにはいきなり感心させられました。
これまでにもボストンはちょこちょこ触れたことはあったものの、とくだんの印象はなく、GP-215に触れたのは今回がはじめてでした。記憶とはあまりにもかけ離れた印象のピアノだったのはちょっと衝撃で、やはり最大モデルだけあって、作りや調整なども別格なんだろうという印象を受けました。

音もじゅうぶんに満足できるだけのものがあり、このサイズで400万円強というのは、ほかを見渡すと相当すごいことかもしれません。
それと、より高価なSK-6やヤマハのS6が、行き着くところはやっぱり「日本のピアノの音だなぁ」と思うのに対し、ボストンは違う血が流れているとマロニエ君は思いました。

ボストンGP-215と向い合せに置かれていたのがスタインウェイ。
新品のように見事にリビルドされたBですが、フレームの穴の周りには丸いイボイボがあって戦前のモデル。
聞けば1933年製との事でしたが、弾いた感じも実に若々しく元気によく鳴っていました。
サイドには、Dと同じサイズの特大ロゴが埋め込まれていて、えらくそれがキラキラ光っているのは、ちょっとやり過ぎでは?と思いましたが、お値段も相当なもので、それを買われる方は、その証がほしいのかもしれませんね。

いずれにしろ面白いピアノスペースが一つ増えたし、この常設店舗のほうがよほど上質でわくわくする「ピアノフェスタ」でした。


2018/11/28 Wed. 02:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ピアノのレクサス 

知人からお誘いいただき、カワイのショールーム内に併設された小さなホールにシゲルカワイのコンサートグランド(SK-EX)が期間限定で置かれていて、ひとり30分弾けるというので、行ってきました。

あるていど予想はしていたけれど、今どきのテイストですべてが完璧に整えられた、まさにピアノのレクサスとでもいったところでしょうか。
たしかによく作られており、製品としては素晴らしいとは思うけれど、楽器としての生命感とか血の通った感じはなく、熱くなれないところがいかにも今っぽいなあと思いました。
至って機械的で、現代のハイテク技術で正確無比に作られた豪華なお城みたいな感じ。

いかにも新品然としていたので、おそらく最新もしくはそれに近いモデルだと思われましたが、これといったクセもムラもない、全音域にわたって見事に整いまくっていました。
あまりに整いすぎて、かつてはEXなどにあったカワイの特徴らしきものまで跡形もなく消えてしまっており、もしブラインドテストでもされたら、メーカーを言いあてることはかなり難しいだろうと思いました。

これまではやや野暮ったいところも含めてカワイらしさがいろいろありましたが、いつの間にここまで宗旨替えしたのか、たいそう洗練されて、昔のカワイから思えば隔世の感がありました。

今どきの製品としては最高ランクに列せられるコンサートピアノだというのはわかるのですが、ひたすら他社のコンサートピアノと肩を並べること、嫌う要素を残さないように徹したという感じ。
音も「きれい」ではあるが、「美しい」という言葉を使うときの深くて底知れぬ世界とは違います。

当節は、良好な人間関係を築くためには自我を出さないことが肝要なようですが、まさかそれがピアノにまで求められるようになったのかと思うと、なんとも寂しい限りです。
個性やインパクトは評価が分かれるから危険で、それらを排し、コンクールの檜舞台でまんべんなく点数が稼げるピアノ?

SK-EXといえば、むかし楽器フェアの会場が池袋から横浜に変わったころ、ほとんど試作品みたなSK-EXをちょっとだけ触ったことがありますが、えらくスタインウェイを意識した感じで、それがいいかどうかはともかく、作り手の気迫みたいなもの伝わってくるピアノであったような記憶があります。
EXにくらべてブリリアンスとパワーがあきらかに増していて、そこには欠点やはみ出しもあったかもしれないけれど、とにかく熱いものはありました。

それとは対照的に、今回弾かせてもらったSK-EXは、徹底的なリサーチのもとにネガ潰しされつくしたのか、あえて主張めいたことはせず、デジタル一眼カメラのようなクリアーな面だけを出すように作られたピアノという印象でした。
コンクールと同様、今どきは個性は必ずしも長所とならない時代、このSK-EXはむしろその点を注意しながら作りましたよ!というのが前に出ていて、コンサートグランドならぬコンクールグランドとでもいいたくなる、そんなピアノでした。

今回はカワイショップの企画のお陰で、無料で弾かせていただくことができたもの。
タダで弾かせてもらっておいて、言いたいことだけ言うのは甚だ申し訳ない気もするのですが、だからといって心にもないことは書けないし、これはあくまでもアマチュアのピアノ好きの戯れ言なので、何卒お許しいただきたいところです。
こういう機会を作ってくださったカワイショップのご厚意には深く感謝しています。

蛇足ですが、今回も思ったのは、カワイのフルコンって、なんであんなにボディの側板がぶ厚いんだろう?ということ。
思わずミニカーでも並べたくなるほどで、そういえば昔から、カワイは響板も厚めなんだとか。
カワイは熱いかどうかはともかく「厚い」ことは今も確かに受け継がれているようです。
2018/11/23 Fri. 03:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

夢の2時間 

今どきスタインウェイDを備えているホールなんて、日本国内のいたるところにごろごろしていますが、そのほとんどがハンブルク製で、ニューヨーク製のあるホールはほんの数えるほどしかありません。
100台中1台ニューヨークがあるかどうかでは…。
ましてハンブルクとニューヨーク、両方を備えているホールはそうあるものではないでしょう。

そのきわめて珍しいホールが、なんと福岡県内の小さな町にあるのです。
バブル真っ只中に作られたと思われ、コンサートさえやっているのかどうか疑わしいような山の麓みたいなところにそれはあり、今だったらあり得ないことでしょう。
しかも町立の文化施設なんですから驚きます。

そこが開館30周年を記念して、所有するスタインウェイを弾かせてくれるイベントをやっているという貴重な情報が知人からもたらされました。
通常、ホールのスタインウェイを弾くリレーイベントみたいなものはあるけれど、あれはひとりわすか数分という制限付きで、老若男女が次から次へと順番に弾いていくというスタイル。

ところが驚いたことにこのホールでは2時間ずつの割当てで、料金も俄には信じられないほどお安いものでした。
ただし、ステージの反響板と空調はなしというもの。
さっそく予約の電話してみると、希望する日にすんなり予約が取れ、15時から17時までの2時間がキープできました。

このとき、ピアノはハンブルクとニューヨークのいずれを使うかを尋ねられるので、迷うことなく触れるチャンスの少ないニューヨークを希望しました。

福岡市内からかなり距離があり、車でおよそ2時間弱で到着、すぐに受付をして申し訳ないほどお安い料金を支払うと、担当の方が先導してしずしずとホールへと案内してくれます。
ステージには希望通りにニューヨークのDが準備されており、こんな本格的なホールでこれから2時間弾くのかと思うと、嬉しいような畏れ多いような、なんとも複雑な気分になるものですね。

そのスタインウェイは、まるで「私」が来るのをじっと待っていてくれたように見えました。
蓋は全て閉じられており自分で大屋根まですべて開け、軽くキーに触ってみると、ワッと迫ってくるような鳴りの良さが瞬間的に伝わってきて、これはタダモノではないというのが第一印象。
ここで臆していても始まらないので意を決し、バッハから少しずつ曲を弾いていきましたが、その充実した鳴りと音の美しさは、これまでのニューヨークのイメージまでも塗り替えるような素晴らしいもので、陳腐な表現をするならいっぺんで恋に落ちるようなピアノでした。

何を弾いてもピアノが包み込むように助けてくれるし、本来はニューヨークの弱点でもあるはずのアクションの感触もまったく問題なく、思ったことが思った通りにできて、ささやくような弱音から炸裂するフォルテ、声部の歌い分けや意図した表情付けまで、あくまで自分のできる範囲ではあるけれど、まったくもって自由自在でした。

場所やピアノが変わると、その緊張から、家では「できる」ことが「できない」ということは、ピアノを弾く者にしばしば襲いかかることですが、このとき不思議なぐらいそれはなく、自分の指先から極上の美音がホールの響きに合わさってすらすらと最高のサウンドに変換されていくさまは、ゾクゾクするようで弾きながら陶然となるばかり。
実はこの日、本来ないはずの反響板も設置されていて、それもあってホール本来の響きも併せて経験できたのだと思います。

4冊ほど準備していた楽譜の中の数曲もじきに終わり、あとは思いつくままにずっと弾いていましたが、途中休憩もせず、2時間がサーッとすぎてしまったことは自分でもびっくりでした。
時間的には一夜のリサイタル分ぐらいは優に弾いたことになり、ピアニストはこうした高揚感が病みつきになって、苦しい練習も厭わずにコンサートをしたくなるんだろうなぁと、ちょっとだけその心情の一端が見えたようでした。

これで座席にお客さんがいて、そこそこの演奏ができて、拍手喝采となれば、そりゃあ気持ちいいでしょうし達成感があるでしょうね。

とにかくピアノは申し分ないし、ホールは600席なのでピアノには最適なサイズ。
ホールの残響というのがこれまた麻薬的で、演奏が何割増しかで音楽的に嵩上げされるし、多少のアラも隠してくれることがよくわかりました。

このニューヨークは、ハンブルクにくらべるといい意味での野趣がありましたが、それは決して粗さというのでもなく、ほどよい色艶もちゃんともっていたし、低音などはボディがぶるぶる震えるほど鳴りまくっていました。
またニューヨークには軽めの淡い音のするピアノも少なくないけれど、ここのピアノには意外なほどの濃密さがあり、中音も豊かでたっぷりしており、ちょっと痩せ気味になる次高音域も青白い刀身のような切れ味をもって華麗に鳴りわたり、どこまでもよく歌いよく鳴ってくれました。
この時代のスタインウェイには他を寄せ付けいない圧倒的な凄みがあり、それを維持するだけのふさわしい管理がされている点もまったくもって驚きでした。

舞台袖を入ったところにはハンブルクも置かれており、シリアルナンバーを見ると、2台ともちょうど30年前の製造で、よけいな味付けや小細工をされていない、まさに好ましかった最後の時期のスタインウェイの真価を堪能することができました。

終わって外に出たときは、なんかわけもなく「あー…」って感じで、あまりに素晴らしい時間を終えたあとの虚脱感だったような気がします。

2018/11/18 Sun. 02:31 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アップライトの魅力-2 

前回に引き続き、アップライトピアノの魅力について。

現実的な住環境の中での使ってみると、アップライトはスペース効率において優れているのみならず、弾いた感じにもアップライトならではの良さがあることも次第にわかってきて、むやみにグランドはいい、アップライトはその下、という単純な図式がマロニエ君の中ではやや崩れつつあります。

《音の特徴》
アップライトは弦と響板が床に対して直角に立っており、音の発生源が弾く側の全身にまんべんなく近い位置にあるためだと思われますが、グランドよりも音の立ち上がりがよく、より身近にピアノの音に接することができるという独特な気持ち良さがあって、この感触はグランドではなかなか得られないものではないかと思うのです。
よってアップライト特有の迫力というのがあるし、自分の出している音のニュアンスや強弱に対しても敏感にチェックができるという点では、曲を仕上げる際に、よりデリケートな部分にまで意識が行き届くという面があるように思います。

《タッチ》
もちろんタッチは理想的とはいえませんが、慣れてくるとそれほど不満にも感じなくなるし、音もよく聴けて、丁寧な練習をするにはアップライトというのは思ったより有効なものだと思うのです。
とくに繊細なタッチコントロールがグランドより難しいため、アップライトであえてそこを練習することは、より精度の高い練習にもなり、悪いばかりではないと感じます。

《気分》
心理的なことをいうと、グランドの場合、奥に向かって広がる空間が寒々しく虚しく感じることがあるのに対して、アップライトでは床から頭のあたりまで縦にピアノで、そのすぐ向こうは壁なので、これが妙な安心感と落ち着きを覚えます。
感覚は個人差もあるとは思いますが、グランドの下の空間なんて、考えてみればちょっと不気味で、冬とかは必ずしもいい感じはしません。

また、弾く気まんまんのときはともかく、はじめの譜読みや、フィンガリングを決めて練習を重ねていく段階では、個人的にはアップライトのほうが環境的にじっくり取り組めるし、こじんまりした楽しさがあって、これってけっこう大事なことではないかと思うのです。

もちろんこれはマロニエ君のように趣味でとろとろと弾いて楽しむ場合の話であって、プロのピアニストやコンクールを目指すような方はアスリート的勝負の要素もかなりあるから、そんな甘っちょろいことを言ったり思ったりしているヒマはないでしょうけれど…。

《音》
音は個々のピアノによって千差万別なので一概には言えませんが、これだけは言っておきたいこととして、一般に思われているほどグランドがどれもこれも素晴らしくてアップライトを凌駕しているわけではないということ。
とくに小型グランドでは低音の巻線部分などはかなり情けない音しか出ないものはたくさんあるし、それに比べてもはるかに大人びたキザな低音を出すアップライトもあるあたり、巷のイメージほどなにもかもグランドがエライわけではないし、場合によってはアップライトが勝っているところもあるので、そこは正しい認識と冷静な判断が必要だろうと思います。

それに誤解を恐れずにいうと、ピアノの練習はいつもいつも弾きやすい素晴らしい楽器でばかりやるのが、すべての面で効果があるとは言い難い面もあるという事実。できる限りいろいろと楽器を変えて弾くほうがゆるぎないものがあり、いつも同じ部屋、同じ楽器でばかり弾いていると、場所やピアノが変わっただけで狼狽してしまうことがある。
ピアノを奏するというのは、非常にセンシティブな行為なので、楽器が変わってもすぐ対応できる柔軟性をもつことも非常に重要だと思います。

実際に使ってみると、アップライトもかなり魅力的な存在だということが身をもってわかりました。
大型高級車が常にいいわけではなく、日常生活のなかでは、取り回しの良い小型車がしっくりくる場面があるように、それぞれの得意分野があるというところでしょうか。

2018/11/13 Tue. 02:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アップライトの魅力-1 

自室にシュベスターのアップライトピアノを置いてから2年近くになりますが、はじめの半年ほどは良くも悪くもその印象があれこれと変わりました。
それはアップライトピアノという機構に対してでもあったし、シュベスターというメーカーに対する評価でもあり、とにかくいろいろなことに感じるものや思うところがさまざまあって、それが定まるまで一定の慣れみたいなものが必要だったのかもしれません。
ピアノ自体もはじめはどこか不安定さがあり、調整なども何度も繰り返しましたが、今年になってからでしょうか、落ち着きが出てきて、それなりの艶やかさがでてきたようにも感じます。
そういう時間を経ながら、自分自身のピアノへの接し方も少し変わりました。

ピアノとしての機能とか楽器としての潜在的な能力でいうとグランドのほうが優れているのは論をまたないことで、とくにアクション構造の違いからくるタッチについては、いまさらここで言うまでもないこと。
ほんらいピアノとはグランドのことであり、グランドのかたちで創り出され発展したものだから、こちらのほうが楽器として自然であるのはいうまでもなく、アップライトはそれを敢えて縦置きにした、いうなれば妥協の産物です。

しかし、自室という自由空間で普段からピアノに気軽に触れられるようになると、タッチはともかく、限られたスペースにともかくもピアノを置けるというのは、現実問題としては大きな魅力として実感しています。
しかもアップライトは単に設置に要するスペースが小さいというだけでなく、壁に寄せて、見るからにきれいに収まるというのも魅力だといえるでしょう。
グランドはそれなりのスペースがあればもちろんこれに勝るものはないけれども、単に部屋に収める物体としてはやはり大きく、おまけにカタチも特種で、ふたつの直線とS字カーブをもつ変則的な形状であるため、これを落ち着きある感じに収めるのは至難の技。

加えて、鍵盤のある手前側は演奏するだけでなく、整調や整音で鍵盤からアクション一式が無理なく出し入れできるだけの余地を残しておく必要があり、そのためには鍵盤から手前に1m近い空間を取られることもあり、どうしてもグランドを置くとなると、部屋の景色はピアノ中心ということになるのは避けられません。

さらに3本の足の間には中途半端な空間が残りますが、ここは美観の点でも響きのためにも、できることならなにも置かずに空けておくほうが望ましく、その点では大屋根の上も同様。
上下いずれも使いみちのない空間の生まれることもグランドの場合は避けられない。

その点ではアップライトは配置する上でのムダや割り切れなさがなく、すっきりカチッと収まるべきところに収まるという点では精神衛生上も大変よろしいことを日々実感します。

見た目に対する印象も、時間とともにずいぶん変わりました。
以前のグランドを見慣れた目では、ただの四角い箱から鍵盤が飛び出しているだけで、なんと無粋なものかと思うばかりでしたが、毎日一緒にすごしているとだんだんに良さが見えるようになり、愛着さえわいてくるのですから人の感覚なんて勝手なものです。
部屋全体として眺めると、これはこれでとても好ましく、見方によってはグランドがいかにも無遠慮な感じでデンと鎮座する姿より、よほど節度と慎みがあって、雰囲気もよろしいことが最近になってわかるようになりました。

グランドに対してアップライトはすべてが劣り、妥協の産物という偏見と思い込みやがあったのだと今は思えますし、それを取り去るにはかなり時間もかかったと思いますが、そのかいあってアップライトも大いに興味の対象になりました。
もちろん楽器単体でみればグランドの優位性が揺らぐことはないけれど、日常生活という現実の中で、限られたスペースその他に折り合いをつけながらピアノに親しむためには、アップライトというのはかなり優れたものではないかと思うこの頃です。

適切な使い分けができれば、それぞれが最高の役割を使い手にもたらすわけで、何にしても決めつけはいけませんね。
アップライトピアノは、インテリアとしてもなかなか素敵な存在ですが、そのためにはダサいカバーや椅子などでぶち壊しになることもありますので、細かい点が意外に要注意ですが…。

2018/11/08 Thu. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

月の光 

今年はドビュッシーの没後100年ということで、なんとはなしに彼の名前や音楽を耳にする機会が多いような気がします。

話は繋がらないようですが、いつだったか古本店に行った折、期待もせず楽譜コーナーを見たら、たまたまピアノ名曲選というようなものがあり、内容はほとんど楽譜としては持っている曲ばかりでしたが、ふだん思いもかけないようなセレクトで40曲ぐらい一冊に集められているところが面白そうでした。
しかもほとんど使用感もなくきれいで、価格はなんと200円ほどだったので試しに買ってみました。

マロニエ君は自分のつまらぬこだわりがあって、この手の名曲選・名曲集のたぐいはほとんど持っていません。
欲しい楽譜を買うときは、その作曲家の普通の楽譜を買うので、たった1曲のためでも必ずその全曲譜を買うのが流儀で、そうやっていると長年のあいだに自然にあらかたのものは揃ってしまいます。

この名曲選でおもしろかったのは、いろいろな作曲家の曲が詰め合わせみたいになっていて、普段の自分からは思いつかないような曲にぽろっと出会うことができ、たまにはこういう楽譜も面白いなぁと思いました。

そこでドビュッシーですが、「月の光」とか「亜麻色の髪の乙女」「レントよりも遅く」とか「夢」で、今わざわざ楽譜を取り出そうとは思わないものでも、パッと目の前にあれば、自分の指でちょっと弾いてみようか…というチャンスになるんですね。

ちょっと触ってみて感じたことは、ドビュッシーというのは緻密に仕上げられたショパンなどとはまた違った考察と注意が必要で、音楽以外の幅広いセンスまで要求する作曲家だとあらためて思いました。
とりわけ音色や間の選び方には、ドビュッシー独特のものが必要。

例えば有名な「月の光」でいうと、これを弾く人は、まずこれがフランス音楽であること、しかも「月の光」というタイトルにはどこか日本人も好む静謐な世界を想起させられ、そういう雰囲気を込められた演奏が目立ちます。
とくにドビュッシーというと印象派などという言葉がちらつくのか、モネの絵のようにやけにフワフワと淡い調子で弾こうとする人がいますが、それを重視するあまり、とくに開始から10数小節までの音符の刻みが非常に曖昧となる演奏が目立ちます。

「月の光」は拍子や小節の区切りが感じにくいぶん、裏できちっと拍を守ることが求められ、しかも表向きはそれをいささかも感じさせることなくドビュッシーのニュアンスを描き出すことは、かなり難しい作品だと思いました。
そのためか、多くはリズムの歪んだ恣意的なディテールばかりが目立つ演奏が横行しています。

ピアニストでも、これを真の意味での正しい姿で、しかも微妙なニュアンスを含ませながら、最終的には楽譜など存在しないかのように弾ける人は非常に少ないのではないかと思います。

音数もさほど多いわけでもなく、やり直しの効かない確かな筆致と、あちこちに広がる空白を意味あるものとして聴かせなくてはならない至難な作品。
そうなると、ただ譜読みが得意で指がまわるだけで弾ける曲ではないということになり、ショパンのノクターンop.9-2のように、この超有名曲を真に美しく、鑑賞に堪えるように新鮮さをもって奏するのは、容易なことではないと思いました。
私見ですが、「月の光」は温かい演奏ではダメ、かといって冷たい演奏でもダメ、表情過多でもダメ、でも無表情でももちろんダメ。その間隙を抜群のセンスですり抜けるような演奏でないといけない。
腕の立つ人なら「喜びの島」でも弾いておいたほうが、よほど安全でしょう。

プロのピアニストでも、この簡単な「月の光」を聴けば、その人の音楽的な思慮、美意識、センス、性格や官能性までもが露わになってしまうような気がします。

2018/11/03 Sat. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

いやはや… 

某日某所、あるピアノのコンサートに行ったのですが、その会場のピアノがあまりに冴えないもので、いまどきこういうこともあるのかとびっくりしました。

そこは多目的スペースなどではなく、プロの音楽家のための施設であるし、ピアノも世界的ブランドのコンサートグランドであるだけに、その驚きたるやいやが上にも大きなものになります。

あれではピアニストも思い通りの演奏はできなかったと思うし、聴かされる側にとっても、およそピアノの音や響きを楽しむという期待からかけ離れたものになりました。
作品の素晴らしさ、演奏の魅力、コンサート会場で生演奏につつまれる喜び、そういうなにもかもがピアノによって多くが堰き止められてしまったようで、欲求不満と不快感ばかりが募りました。

良い音楽を我々聴衆側が受け取るのは、優れた演奏はもちろん、楽器という媒介あってこそであり、そのためにはまず一定水準をもった楽器の音が聴こえてくるという基本が満たされない限り伝わりようもないし、それが阻害されるということは、それだけでかなり精神的に疲労してしまうものだというのがよくわかりました。

なによりも気の毒なのは、本番へ向けて準備をし、練習を重ね、全力を賭して当日を迎えてステージに立つピアニストであって、そのすべてを託すべきピアノに問題ありでは、なんと報われないことかと胸が痛みました。
こんなことならメーカーは何でもいいから、まともなピアノを弾かれたらずいぶん違っていただろうと思うと、ただただ気の毒というか残念でした。

休憩時間には、すぐ近くにおられた知り合いの方が「ぼくの耳がおかしいのかもしれないけれど、この会場とピアノがどうも合っていない気がする…」と言われました。
きっと、多くの人が違和感を持たれたことだろうと思います。

どういうピアノかというか、まず単純にピアノがまるで鳴らない。
音はうるおいなく痩せこけ、普通に弾いてもショボショボしているし、fやffになると音が割れて、ペチャンとした衝撃音になるだけ。
ピアノの音の美しさはもとより、本来あるべきパワーも響きもまったく失われていました。

ある人は「あそこのピアノは古い感じがした」となどといっているらしいのですが、それほど古いピアノでもなく、適切な調整と管理がされていれば十分に現役として通用する筈の、本来は立派なピアノ。
いずれにしろ、みんながなにかしら違和感を持っているようです。

休憩時間によく知る調律師さんに会ったので、思わずややトーンを落として「あのピアノ…」と言いかけたところ、その方はこちらの言いたいことを十分以上に察しておられるようで、ゆっくり頷いて、その表情が異様なほどの笑顔になりました。
あれこれの言葉より、その無言の笑顔がすべてを語っていました。

ピアノの業界も、いろんなことが渦巻くデリケートな世界というのはそれとなく知っていますが、どのような理由があるにせよ、その結果として迷惑を被っているのは演奏者であり聴衆なのですから、こんな状況はとても納得できません。
ピアノが泣いています。

2018/10/30 Tue. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ギーゼキングのバッハ 

自分でも意外でしたが、よくよく考えてみたらこれまでにギーゼキングのバッハというのは、なぜかご縁がなく聴いたことがありませんでした。
あれだけモーツァルトやラヴェル、ドビュッシーなど長年にわたって聴いてきたのに!

たまたま店頭で、ドイツグラモフォンによるギーゼキングのバッハ全集という7枚組のセットが目に止まり、「これはなに!?」ということになって直ちに購入。

平均律全曲、6つのパルティータ、フランス風序曲、2声3声のインヴェンション、そのたイタリア協奏曲や半音階的幻想曲その他で、ボーナストラックとして戦時下のライブとして有名な、フルトヴェングラー/ベルリン・フィルとのシューマンのピアノ協奏曲が収められています。

録音データによると、CD7枚におよぶバッハは1950年の1月から6月にかけて放送用として収録されたもので、正式なレコードとして残されたものではないのかも。
もともとギーゼキングは譜読みが得意な人としても有名で、移動中に読んだ楽譜を到着後すぐに演奏したとか、驚くべき数の初演をしたことでも知られていますから、これぐらいのことは普通にやってのける人なのかもしれませんが、やはり凡人としては驚くばかり。

また、本当かどうかは知らないけれど、ギーゼキングという人はあまりになんでも易易と弾けるものだから、練習量もかなり少なく、録音に関してもあまり真面目さがなかったというようなことが伝えられています。

そのせいかどうかはわからないけれど、はじめに平均律第一巻を聴いたところ、あまりパッとせず、ただ弾いているだけという感じがして、バッハはあまり好きじゃなかったのかなぁ?ぐらいの印象を持ちました。
ところが途中からだんだん訴えるものが出始めて、それ以降はいかにもギーゼキングらしい、力まずサラッとした語り口の中に、ツボだけはカチッと押さえていく魅力的なものに変化して(ように感じた)、以降は終わりまでとても素晴らしい演奏で聴き終えることができました。

二度目三度目と繰り返すうちに、凄みのようなものすら感じるようになり、初めの印象は見事にひっくり返りました。
思うに、最近の演奏家はバッハの平均律などというと、この競争社会の中で録音として残す以上、出来得る限りの最高クオリティの演奏を目指し、熟考を重ね何度も録り直しなどして、まさに正装し威儀を正して写真を取るような演奏になります。

ところがこのギーゼキングときたら、ごく気軽な調子とは言わないまでも、その演奏には気負いなどというものはまるで感じられない、演奏そのものが脱力している稀有なもの。そのあまりにもサラッとした感じが、はじめ耳が慣れず、パッとしないような印象になったのだろうと思います。
で、ひとたび耳が慣れていよいよ聴こえてきたのは、アッと驚くような信じられないようなものすごい演奏で、アルゲリッチも真っ青な驚異的な指さばきと、それを一切ひけらかすことのないスマートな表現によって、めくるめくバッハの世界が際限もなく続きます。

自分ではギーゼキングはそれなりに知っているつもりのピアニストだったのが、この一連のバッハを聴いたことで改めて衝撃を受け、これほどの天才とは思いませんでした。
その人間業とも思えない音の奔流は圧巻という他はなく、しかもすべてが自然で自由自在!
すっかりハマってしまいました。

曲によって出来不出来があったり、ミスが散見されるあたり、それほど真面目に録音したものではないことが察せられ、それでもこれほどの演奏になってしまうのかと思うと、却ってその凄さが引き立ってゾクゾクっとしてしまいます。

しかも才をひけらかすでもなく、淡々と(しかし恐るべき推進力をもって)進行し、それが途方もない濃密さにあふれている。
これだけの天才がさも自然のような姿をしているという点では、モーツァルト以外にはちょっと思いつきません。

これからも長く聴いていきたいCDになりそうです。


2018/10/24 Wed. 02:59 | trackback: 0 | comment: -- | edit

版より大事なもの 

楽譜選びについてよく耳にすることですが、先生から❍❍版を買いなさい、ショパンなら❍❍版じゃなきゃダメというような指示を受けることが少なくないとか。
それは基本として大事なことではないと云うつもりはないけれど、もっと大切なことは、いかに有意義な練習を重ね、解釈を極め、深く美しく演奏するか、聴く人にとっても喜びとなるような演奏を目指すことではないかと思います。

楽譜って経験的にこれはダメというような粗悪品はめったにないから、普通に売っているものを普通に使うぶんには充分だというのがマロニエ君の持論です。
昔から受け継がれているものも多く、それはそれなりで、そうそう決定的に間違ったことが書いてあるわけでもなく、別に先生が言われるほどの必要性をマロニエ君は感じません。

もちろん音大生やコンクールを受けるような何かの条件下にあれば、ショパンなら使用楽譜はナショナルエディションという指定があって、それに沿った準備をしなくてはいけないでしょう。
しかし、少なくともテクニックも不足ぎみの大多数のアマチュアが、大人の余技としてピアノをやる場合、先生の役割というのはいかに演奏を通じて音楽の表情を作るか、そのためのツボや要所はどこにあるか、また陥りがちな悪いクセを正すにはどうすべきか、そういうことのほうがよほど重要だと思うのです。

どうせ楽譜を買うのに、よりオススメの版の楽譜を買うようにアドバイスするのは結構ですが、ではその先生達はどの版のどこがマズくて、オススメの版ならどういうふうにいいのか、具体的に説明できる人はどれぐらいいらっしゃるのか、それほど「わかって言ってるの?」って思うのです。

昨今は楽譜も作曲者の直筆譜や資料を検証し、そこから掘り起こしたまさに原典主義であって、それは一面において正しいことではあるけれども、個人的にはいささか行き過ぎた風潮であるとも思うし、奏者の主観や解釈の介入を否定し、プロの演奏家でさえ自己を抑えて学術的な流れに従おうという流れにも疑問を持っています。

少し前のいろいろな版には、とくにアマチュアが弾くぶんには校訂者による親切なヒントがあったり、美しい演奏として仕上げるための有効な指示が添えられていたりで、これはこれで別に悪くないと思うのです。

ところが、そこまでこだわって最新トレンドに沿った楽譜を買わせるわりには、その指導内容は杜撰で、ただ音符通りに鍵盤を押さえているだけで、せいぜい強弱の指導をするぐらい。
作品や音楽に関する言及、あるいは音楽的に奏するためのヒントや理由やテクニック指導はなく、物理的に指を動かせるようになったら「次の曲」になることがあまりに多いという現実。
指導の具体的内容を聞くと、そんなことのためにレッスン料を払って通っているのかと驚くばかりだったり…。

曲の譜読みをして練習を重ねる、ひと通りの暗譜ができる、なんとか音符通りに動くようになる、そうしたら、そこからがいよいよ音楽を深めるための入り口にようやく立つことができた段階で、一番大事なことはまさにこれからというところで「次」というのは、アマチュアを見くびっているのか、はたまたその先にある芸術領域については指導する自信がないとしか思えません。

生徒のほうもそこまで望んでいないということもあるかもしれないので、そこで先生と生徒の関係が成立しているのだったらそれでいいのかもしれないけれど、だったらなぜ版にこだわってわざわざ高額な輸入楽譜などを買わせるのか、そのあたりの意味がまったくわかりません。

青澤唯夫著の『ショパンを弾く』の中で、ホルヘ・ボレットの言葉が引用されていますが、一部を要約すると「まず楽譜を忠実に勉強して、メカニック的に完璧に弾けるようにする。二三週間後にまたレッスンをし、以前よりよく弾けていたら、一度くずかごに捨てて(つまりそれらを忘れて)、あたかも自分が書いたように演奏させる」という意味のことが述べられています。

これはあくまでも一例にすぎないけれど、いい演奏というのは、そうやって深いところにあるものを繰り返し探し求めて、自分なりの答えを見つけ出すことであって、暗譜して指を動かすだけでは決して深化はしないと思います。

マロニエ君としては、使用楽譜がいかなる版であろうとも、それをもとに仕上げのクオリティを徹底して向上させること、自分の力の範囲でこれ以上はムリというところまで極めることのほうが圧倒的に大事だと思うのです。
繰り返しますが、版がなんでもいいと言っているのではないけれど、それに値する高度な指導がなされているのか、もっと大事なことは他にあるのでは?と言いたいわけです。

2018/10/19 Fri. 02:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

有名曲を並べると 

過日のこと、友人と立ち寄った古本屋で、ショパンとジョルジュ・サンドのことを綴った1冊の本が目に止まりました。

まだ読んではいないのですが、アシュケナージとアルゲリッチによる76分におよぶCD付きで、傷みはほとんどないのに価格はわずか186円!だったので、ろくに吟味もせず買ってしまいました。

とりあえず先にCDを聴いてみることに。
曲目は、ある程度予想はしていたものの「うわあ!」と思うほど超有名曲ばかりで、大半が「雨だれ」「子犬」「革命」「幻想即興曲」といったたぐいの曲ばかりベタベタに並んだものでした。
第1曲目がワルツ第1番「華麗なる大円舞曲」とくれば、およそどんなものかご理解いただけるでしょう。

ま、ほとんどタダみたいな感じのものだから、どういうものでも割りきっているつもりでしたが、聴き進むうちに思いがけない状況に陥ったことは想像外でした。

どの曲もよく知るものというか、大半は下手なりにも自分で弾いてみたことのある曲なのに、こうしておみやげ屋の店先みたいに並べられてみると、ある種独特な雰囲気が出てくると言ったらいいのか、ひとことでいうと独特の俗っぽいイヤ〜な感じに聴こえてしまい、これには参りました。

それぞれの曲のひとつひとつは素晴らしい作品であるのに、抜きん出てポピュラーというだけで脈絡もなく並べられ、手当たり次第に聴こえてくると、もうそれだけでひどく日本的な妙ちくりんな世界になるんですね。

2曲目はノクターン第2番、続いて別れの曲、幻想即興曲、さらには遺作のノクターンとなっていくあたり、なんだか皮膚の表面がむず痒くなって体中に広がっていくようです。
まるでルノワールの複製画でも飾った、レースだらけの部屋にでも通され、へんな花柄のカップで紅茶でも勧められた気分。

この調子がずっと続いて、15曲目がバルカローレで終わります。
とくに前半はアシュケナージが7曲続き、こういう場合、彼の中庸な演奏が裏目に出るのか、ほとんど安っぽいムード音楽が聴こえてくるようで、だったらいっそ本物のムード音楽ならいいのに、なまじそれがショパンであるだけに、却って始末に負えない感じになっています。

とはいえ、作品や演奏に手が加えられているわけでもなく、ただ単に曲のセレクトと並べ方によるものだけで、こんなにも印象が変わってしまうというのは「本当に驚き」でした。
世にショパン嫌いという人は少なくないけれど、マロニエ君はどうもそれが今ひとつ理解し難いところがあったのですが、仮にこういう角度から見るショパンなら、たしかに納得ではありました。

こんなCDを聴いたら、きっと多くの人がショパンを手垢まみれの通俗作曲家のように思えてしまうだろうから、かえって罪作りではないかと思います。
すくなくともあれだけの高貴かつ濃密に結晶化されたショパンの世界はわからなくなっていたように思うわけです。

ピアニスト(あるいはレコード会社)が魅力あるアルバムとしてセレクトしたショパンアルバムというのはあるし、それでとくにどうとも思わなかったのですが、それらとは明らかに似て非なるもの。
このタイプの独特な強烈さがあることを知っただけでも勉強になった気はします。

折しもこのところ、アルトゥール・モレイラ・リマ(ブラジルのピアニスト 1965年ショパンコンクール第2位)のショパンが聴いてみたくなり、むろん廃盤なのでアマゾンなどを探したところ、あるのはいずれも上記と似たような内容の「名曲集」ばかりで、今回の経験に懲りて購入意欲が失せてしまいました。

のみならず、本も読む意欲が半減していまいましたが、とりあえず読んではみるつもりです。

2018/10/14 Sun. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

プロの資格 

ピアニスト中井正子著『パリの香り、夢みるピアノ』というのを読みました。
パリ音楽院に留学された経験をあれこれ綴ったもので、少女趣味的な淡いタイトルから想像するより、はるかに読み応えのあるしっかりした内容の一冊でした。

70年代の頃のパリをはじめヨーロッパの雰囲気がよく出ており、飽きることなく一気に読みました。
カサド夫人である原千恵子さんとの交流、パリ音楽院の教授陣のイヴォンヌ・ロリオ、ジェルメーヌ・ムニエらによるハイレベルのレッスン、また同じクラスにロラン・エマールやロジェ・ムラロなどがいたというのも驚きでした。

その中で印象に残ったもののひとつとして、中井さんがパリでとあるサロンコンサートを終えた時、その場にいた原千恵子さんがお客さんに向かって「どうだった?」と問いかけたというくだり。
原千恵子さん曰く「演奏家っていうのはね、人がどう思ったかを知らなくちゃいけないのよ。その人がちゃんと演奏を聞けているかどうか、正しいか正しくないかは関係ないの。自分が弾いたものに対して相手がどう思ったか知っておきなさい」と言われたとありました。

これは原千恵子さんが長年ヨーロッパで暮らし、夫のカサド氏から鍛えられ、そのような文化の真っ只中におられたからこそ身についたことだと思いますが、マロニエ君の知るかぎりでも、ヨーロッパ人はちょっとしたものから料理、日常の諸々のことまで、「あなたはどう思う?」「あなたは何が好き?」と意見を求めてくることがとても多いし、自分の意見を語るのが当たり前。

その真逆が日本人。
考えがあっても、感じることがあっても、意見を言いたくても、空気を読んで口をつぐむことが慎ましさであり美徳で、今ではそれが大人の常識として浸透してしまっているその感覚。
自分の意見は言わない、言える環境がない、言ったら浮いた存在になる、これは日本生まれ日本育ちの日本人であるマロニエ君から見ても違和感があり、ほとんど病的な感じがします。

そんな社会の延長線上にあるのだろうとは思うけれど、それは思わぬところにまで波及しています。
それはいうまでもなく、プロの分野。
ここでも、個人の意見や感想は、その暗黙の空気感によって見事に封殺され、それらは口にしないことが当然で、演奏家に対しても本音は隠して、「素晴らしかった」などヘラヘラと表面的な賛辞を挨拶として述べるのみ。

少なくともプロの芸術家の端くれともなれば、自分の作品やパフォーマンスに対する意見を聞きたいと思うのは当然というか、文化に携わる者はそれを欲することがほとんど「本能」の筈だと思うのですが、それが日本ではそうじゃないことに、いまだに驚きます。
かつて、日本人の演奏家から「どうでしたか?」という質問をされり「あなたの意見を聞かせてほしい」といった言葉を聞いたことは一度もありません。
これって、実はめちゃめちゃおかしいことではないですか?

いやしくもプロとしてステージで演奏するというパフォーマンスをやっておきながら、聴いた人にまったく意見を求めない、むしろ聞きたくないという気配があり、非常に歪んだ感覚で、これは異常なことだと断じざるを得ません。

そもそも感想というのはただの賞賛でも批判でもなく、どういうふうに受け止められたかということでもあるし、自分の演奏上の長所短所を知ることにも繋がります。いわば自分の演奏に関する重要な情報源です。

そこに耳を貸そうともせず、興味もなく、むしろフタをしようというのであれば、そもそもなんのために人前で演奏行為に及ぶのか、その根本がわからなくなります。
ただ、目立ちたいだけ?自慢?実績作り?

音楽が間違いなく行き詰まりを見せていることはいろいろな理由があるでしょうが、ひとつにはこのような演奏家自身の閉塞状況、真に良い演奏を目指し、音楽ファンを楽しませようという本気がないことも大きいように思います。
日本の演奏家は、意見を言われるのはイヤ。でもステージに立って賞賛はだけはされたいという、甚だ身勝手で一方的な欲求をもっているのは間違いありません。

これでは本物の演奏家など育つわけがありません。
アマチュアの発表会ならお義理の拍手だけで終わって構いませんが、プロの演奏家はもっと自分の演奏に責任をもつべきで、その責任をもつということは、もちろん良い演奏をすることではあるけれど、聴いた人の忌憚のない感想を求めなければ責任を果たしたとはいえない気がします。

聴いた人がどう感じたか、良くても悪くても、気にならないのかと思いますし、それが聞きたくないほど嫌ならば人前で演奏なんてする資格はないと思います。
それでは今どきの、親から一度も怒られたことのない子どもと同じで、聴いた人の意見を受け付けないプロは、プロではないということです。

2018/10/08 Mon. 13:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イケメン◯◯ 

昔は「美人何々」というのがよくあったけれど、最近ではどんなジャンルにも「イケメン何々」のオンパレード。

社会の建前として、人の容姿を問題にすることに対する賛否はあるでしょうが、現実には人の心の中では、それはかなり重要な要因となることは間違いないこと。
直接的なイケメンとは違うけれど、例えばその代表は総理大臣。

政治手腕や思想や、しっかりした能力がなくてはむろん困るし、リーダーとしての人間的魅力も必要ですが、要は国の顔であり、国際社会で世界の目にさらされて仕事をするのですから、やはりビジュアルというのは大事です。
誰とは言いませんが、過去の日本の総理には、サミットに行ったり外国の首脳と並ぶだけでも恥ずかしくなるような(それだけで負けたような気になる)人が、少なくともマロニエ君の記憶でも何人もおられたので、まずその点では、安倍さんはそういう気持ちにならずにすむのはありがたい。

ただ、一般社会のいろいろな分野の、本当にどうでもいいような場合にまで、いちいちイケメン何々というのはなんなのか…と思ってしまうのも事実。
もちろん見てくれがよく魅力的であるならそれに越したことはないけれど、それも場合によりけりで、本業に直接関わりのない場合に、むやみにこれをつけるのはいかがなものかと思うことがあります。

ことろで、イケメンってなんのこと?おもに顔?それとも醸し出す雰囲気を含むトータルなもの?
マロニエ君にいわせれば、男子の場合、そこには体格もあるのではないかと思います。
どんなに立派なお顔でも、肩幅の狭い貧相なボディに大きな頭部がドカンと乗っていたのでは、あまりイケメンとは言い難い気も。
大谷選手がアメリカに行っても目を引くのは、むろんその天才的な戦力故であるのはもちろんだけれども、加えてあの日本人離れしたのびのびした体格は見るたびに感心させられ、あれを見ると一瞬でも日本人の体格コンプレックスを忘れていられるところが嬉しいです。

ところで、マロニエ君のような昭和生まれの人間から見れば、今どきのイケメンの基準というものが理解不能である場合が少なくなく、そもそもその判断は少し甘すぎやしないか、いくらなんでもおかしいんじゃないかと思うことがしばしばです。

美人の基準も源氏物語のころからすれば全然違っているらしいから、人の美醜に関するものさしは時代とともに変化して、イケメンの基準もここ数十年でかなり違ってきているのかもしれません。

それはともかく、クラシックの演奏家にいちいちそれをくっつけるのはどうなんでしょう?
不況にあえぐ音楽事務所やレコード会社が、少しでもプラスの特徴になることをアピールしたいのだとすれば、まあそこはビジネスなんだからわからなくもないけれど、でもやっぱりこの分野は演奏こそが第一であって、そこに注目のポイントがあると思うのです。
ではまったくビジュアルが無関係かといえば、それはそうではなく、演奏の素晴らしさを納得させるだけの存在感とか芸術的な雰囲気みたいなものは必要だろうと思います。
強いていうなら、オーラのようなものとでも言えばいいんでしょうか。

少なくともクラシックの演奏家に対して芸能人の延長線上的なノリで、やたらとイケメンの文字が踊るのはちょっといただけません。
少し前に書いた、ピアニストの実川風さんも「イケメンピアニスト」として紹介されましたが、たしかにこの方はそう言われても違和感はなく、いちおう納得ができました。

でも、それ以外でイケメンと言われて、え、どこが?とびっくりするような人だったり、痩せこけた不気味な植物のようだったりと、基準そのものに唖然とすることが少なくありません。

ただ、これだけははっきり言っておきたいことは、美人バイオリスニストだのイケメンピアニストだのということは、却って彼らの足を引っ張ることになりはしないかと思います。
かのアルゲリッチのような美人でさえ、美人ピアニストなどという言葉で売りだしたわけではなく、ごく若いころに「鍵盤のカラス」といわれたぐらいで、あとはあの美貌で語られることはなく、本物の天才は、美人でも美人とは言われなくて済むものだというのがわかります。
逆にちょっとぐらい容姿が良くても、それをプラス要素として強調されているうちは、演奏家として中途半端だということでしょう。


2018/10/02 Tue. 02:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

お寺とピアノ 

日本のお寺や神社で行われるクラシックコンサートは、否定しているわけではないけれど、あくまでも個人的な感覚から言わせてもらうとあまり好みではないことは以前何度か書きました。

今は何事も物珍しさや耳目を集めることが優先され、異なるジャンルを組み合わせるコラボがブームのようですが、お寺で西洋音楽のコンサートというのもそういった発想に基づくものが発祥ではないかと思います。
大半が仏教や神道である日本人が、何の抵抗もなくクリスマスやハロウィンを楽しむという世界的に見れば変わったお国柄なので、その許容量からすればこれしきのこと朝飯前なのかもしれませんが…。

ただ、西洋のクラシック音楽というものが、根っこにキリスト教が通底していることを思うと、マロニエ君としてはそれを仏教や神道の施設内で演奏してその音楽を鳴り響かせることが、理屈ではなしに抵抗があるわけです。
そもそもお寺や神社でクラシック音楽を聴いたからといって、そのどこが素晴らしいのかが素朴にわからない。
異なる文化の融合であるとか、なにかひとつでも感覚に落ちるところがあればまだしも、ひたすら違和感しか感じないのです。

それぞれが素晴らしいからといって、異質なものを安易に組み合わせることは、下手をすればどこか冒涜的な色あいを帯びる恐れさえあり、個人的には関係者だけの自己満足ではないかと思うのです。

それにつらなる話かどうかはわからないけれど、知人がとある大型ピアノ店に行ったときに聞いてきた話によると、中古のスタインウェイのコンサートグランドを購入するのは、宗教関連が少なくないのだとか。

それってどういうこと?って思いました。
お寺の本堂にスタインウェイDを置くのか、あるいは宗教家の個人的趣味なのか…。

それを解明する手がかりになるかどうかわからないけれども、お寺とピアノの組み合わせを偶然にもテレビで目にしたので、うわぁ!と思わず食い入るように見てしまいました。

某所の由緒ある由のお寺には、高台に付設された広い墓所があり、その管理室という建物に入って行くと浴室に温泉がひかれていたりするほか、そこには総檜造りというホールがあって、そのステージにはスタインウェイDとベーゼンドルファーが置かれていていました。

ここをドヤドヤと訪ねて行ったのは、名前は知りませんがテレビで顔を見たことのある4〜5人のお笑いタレントの一団で、彼らを迎えるご住職がえらく気さくで、芸人さんたちに調子を合わせながらピアノに近づき「これはドイツのスタインウェイというピアノです!」と言い出し、「プロが使うものです」さらには「これで家が一軒建ちます」などと自慢しながら、慣れない手つきで蓋を開けて、大屋根の支え棒の刺し場所もおぼつかないご様子。

もちろん安いものではないでしょうけれども、剃髪して、いちいち合掌のしぐさをする和尚さんが口にする言葉としては「家が一軒建つ」などとは大げさだし、いささか世俗臭が強すぎではないかという感じが否めませんでした。

そのピアノは1960〜1970年代のダブルキャスターになる以前の時代のもの。
塗装は新品のように塗り替えられており、その際に入れられたのか、当時のスタインウェイにはない大きなサイドロゴがついているのがいかにもな感じだし、しかもかなりまちがった低い位置に付いていて、それが却って中古ピアノといった感じを強調する結果となり、非常に「残念な感じ」に映りました。

さらにタレントさんのひとりが音を出してみて「うわー」とか言っていたけど、くたびれた弦が交換されていないのか明らかに伸びのない音で、要するに世界の二大銘器がおかれているという、ブランド性こそが大事なのかもしれません。

この墓所の横のホールでは、しばしば演奏家を招いてコンサートが開催され、その収益を貯めて某基金に寄付しているとのこと。
その際の「僅かばかりですが」という言葉が妙に意味深で、コンサートの収益そのものが僅かなのか、あるいはその中から本当に僅かばかりを寄付というのことなのか、どっちにも取れる言い方だったのが苦笑を誘いました。

結構立派なホールでしたが、もしあそこでバッハの宗教音楽なんかやろうとしたら、OKが出るんだろうか?
一流ピアノにも、実にさまざまな生涯があるんだなぁと思いました。


2018/09/28 Fri. 02:43 | trackback: 0 | comment: -- | edit

本物は気持ちイイ 

音楽評論はじめ、音楽関係の著述家の中にはマロニエ君がとくに好んでいる人は何人かいらっしゃいますが、そのうちの一人が青柳いづみこさん。
いまさらいうまでもなく、ピアニストと文筆業という二足のわらじを実現しておられ、しかもそれぞれにおいて高いレベルのお仕事を積み上げておられるのですから、その才には驚くばかり。

普通ならどちらか一つでもなかなか難しいことなのに、それを二つも成就させるとは!
二つの道に手を出すことは、どっちつかずになる恐れがあるいっぽう、うまく組み合わされば相乗作用が起こって、より注目を集めるということも稀にあるということが、この青柳さんの成功を見ているとわかります。

さらに青柳さんはドビュッシー研究者としても知られており、何かひとつのスペシャリストになるということは、活動の大きな背骨になるから大切なんでしょうね。
マロニエ君も青柳さんの著作は全部とは言わないまでも、それに近いぐらいはだいたいは読んでいますが、ドビュッシー研究で培われたものが随所で役立っていることを強く感じます。

研究対象であるだけに、ドビュッシーに関する造詣の深さは大変なものだし、自身がピアニストである強味から、ピアニストに関するいろいろな評論は、いま日本人でこれだけ緻密な分析力を持ち、闊達な文章に表現できる人はそうはいないだろうと思われます。
演奏と著述、そのどちらも大変素晴らしいものではあるけれど、マロニエ君の私見でいうと、著述のほうがより格上のお仕事となっているように思います。

CDも書作と同じく「全部」ではないけれど、ほぼ主要なものは購入して聴いています。
とくにドビュッシーについては青柳さんにとって半ば義務でもあるのか、ソロ・ピアノ曲はほぼ網羅されていますが、CDの演奏に関する限り、どれも信頼度が高く素敵な演奏だけれども、決定盤といえるほどの最上クラスというわけでもなく、どちらかというと曲によってムラがあるような印象があります。

一番びっくりしたのは「浮遊するワルツ」というアルバムに収められたショパンのワルツのいくつかで、これはまったくマロニエ君の理解の外にあるもので、ショパンのある意味本場であるパリのセンスからも距離を感じるもの。
とはいえ、適当にお茶を濁したような無難なだけの演奏をされるより、自分の趣味と合わなくても、びっくりさせられても、演奏者自身の感性と考えに裏付けられたものであるほうがよほどマシというもの。
合わないものは合わない、そのかわり抜群にいいものにも出会える、これが演奏芸術の醍醐味でしょう。

さて、わりに最近ですが、NHKの『らららクラシック』でドビュッシーの「子供の領分」が取り上げられたときに、ゲスト解説者兼演奏者としてスタジオにやってきたのが、この青柳いづみこさんでした。
番組の趣旨に合わせて、あまり専門性の高い解説ではなく、わかりやすく平明なお話をされていましたが、どんなに砕いて楽しくお話されても、その背後には確固たる知識と研究の裏付けがあって、当たり前ですがさすがだと思いました。

常連解説者として、よく大衆作曲家のような人(名前も覚えていません)が出てきては、やたら馴れ馴れしい口調で、さっき思いついたような根拠も疑わしい俗っぽい解説を、さも知ったような顔で述べたり、あるときはモーツァルトと自分をただ「作曲家」という言葉だけで、まるで同列のような言い方をするなど、見ているほうがいたたまれないような気持ちになることがしばしばだったこともあり、たまに青柳さんのような本物の方が出演されると、一気に番組の格も上がり、気持ちまでホッとさせられます。

子供の領分の最終曲の「ゴリウォークのケークウォーク」の中に、ワーグナーのトリスタンとイゾルデの前奏曲の冒頭の動機が込められており、しかもそれを茶化しているなんてことは、言われるまでまったく気づきもしないことでした。

番組の終わり近くで、スタジオのピアノでゴリウォークのケークウォークを通して弾かれましたが、少しだけリズムにクセなのか崩れなのか、細かいところまではわからないけれども、聴いていて僅かな違和感があって、それがやや首を傾げました。
おそらくフランス流にデフォルメされた、流れるような演奏を狙っておられるのだろうとは思うけれど、どこか辻褄の合っていないような後味が残るのが気になりました。
それでも、物事を極める人というのは本質的に気持ちが良いものです。

2018/09/22 Sat. 02:49 | trackback: 0 | comment: -- | edit

小菅優 

久しぶりにピアノリサイタルに出かけました。
小菅優ピアノリサイタルで「火」をテーマにした珍しいプログラムでした。

マロニエ君がコンサートに行かなくなった主な理由はいくつかありますが、その中には、ニュアンスなどまるで伝わらない劣悪なホールの音響、聴いてみたいと素直に思えるような演奏家の激減、さらには飽き飽きするようなプログラムはもういいというようなものも含まれています。

その点で、小菅さんは実演には接したことがないものの、ちょっと聴いてみたいと思わせるものがあったことと、FFGホールという福岡ではピアノリサイタルには最も適した会場であったこと、さらにはめったにないレーガーやストラヴィンスキーのプログラムであることでした。

コンサートは3部に分かれており、
【第1部】
チャイコフスキー:《四季》より1月「炉ばたにて」
レーガー:《暖炉のそばでみる夢》より、第3、5、7、10、12番
リスト(シュタルク編):プロメテウス
【第2部】
ドビュッシー:燃える炭火に照らされた夕べ、前奏曲集第2巻より「花火」
スクリャービン:悪魔的詩曲、詩曲「炎に向かって」
【第3部】
ファリャ:《恋は魔術師》より、きつね火の踊り、火祭の踊り
ストラヴィンスキー:バレエ《火の鳥》より6曲

小菅さんの素晴らしいところは、今どき巷にあふれているスタイル、すなわち他者の演奏スタイルの寄せ集めではなしに、あくまでもこの人の感性を通して出てくる演奏の実体があり、その意味でニセモノではない点。
これは冒頭のチャイコフスキーを聴いただけでもすぐに感じました。

くわえて抜群のリズム感とメリハリにあふれ、音楽を自分の技巧その他の理由によって停滞させることがなく、どの作品もひとつの生命体と捉えて一気呵成に弾き進んでいくところでしょうか。
それはそのあとの難曲でも遺憾なく発揮されるこのピアニストの美点でした。

どの曲においても解釈やアーティキュレーションに確信があり、恐れなくピアノに向かっているからこそ可能な燃焼感があるのが印象的で素晴らしい。
中途半端な解釈を繋ぎ合わせて、辻褄あわせや言い訳だらけのつまらないピアニストが多い中、この点は抜きん出た存在だと思います。
さらには技巧の点でも危なげない指さばきで、この日のようなしんどいプログラムでもほとんど乱れることなく、一貫してホットに弾き通せる抜群の能力があることはしっかりと確認できました。

並大抵ではない高い能力をお持ちのピアニストであることは間違いありません。

気になった点を敢えていうと、終始音楽に没入して活き活きと演奏されているけれど、悲しいかな音に重みと芯がない。
緊張感あふれる際立ったリズム感、それを支える身体の動きなどは、ほとんどアスリートに近いような抜群の運動神経があり、敏捷な小動物のように両腕と指が自在に鍵盤上を駆け巡るさまは特筆すべきものがあると思いました。
けれども、いくら小気味良く駆けまわっても音に芯がないから、音が分離して聴こえてこないことがしばしばで、せっかくリズムや呼吸がすばらしいのに明晰さが損なわれ、音楽がしっかり刻印されないまま終わってしまうのを感じました。
巻き舌の多すぎる、アメリカ人の早口の話し方のように。

小菅さんの音に関しては、小柄ながらもしっかりした体格や、ピアノのためには充分と思えるだけの肉のついた腕からすれば、意外なほどその音には期待するだけの厚みがないのは、おそらくは手が小さいことと、手首から先の骨格が柔らかすぎるのではないかと想像しました。
手首から先の(すなわち指の)関節が柔らかいと、それが無用のクッションになって、いざというときにしっかりした音の出ないピアニストはわりに最近目立ち、ラン・ランやユジャ・ワンなどもどちらかというとそのタイプだろうと思われます。

それにしても、あれだけ耳慣れない、しかも難曲ばかりをきっちりと仕上げて、暗譜でリサイタルで弾くというのは並大抵のことではない、その能力には素直に脱帽です。

惜しいのは、けっして表現は決して小さくないのに、それが聴衆にとって大きな印象へと繋がっていないところで、なぜか心に刺さりません。
堂々たる小動物とでも言えばいいのか、あとひとつふたつの問題がクリアできたら、もっと大きな存在になられるような気がしてなりませんでした。

2018/09/17 Mon. 15:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

テンポ 

テンポというものは、なにも音楽だけのものではないのは当たり前で、話し方や、行動、思考回路などすべての人間の行動原理と深く結びついているもの。

それがわかりやすく出るのが、まず話し方、あるいは仕事や作業の手順、料理の手際とか車の運転のような気がします。
さすがにマロニエ君も最近の運転は、無謀な動きの自転車など路上に怖いものがあまりに多すぎて、以前よりはぐんとスピードが落ちましたが、それでもメリハリみたいなものがないと気が済まない部分があります。

たとえばスピードには本能に直に訴えてくる魅力があり、決して暴走行為的な意味ではなく、ドライビングがもたらす痛快さにずいぶん楽しんだ時期がありました。
車に興味のない人や運転が好きではない人は、そう急がなくても何分も変わりはしないといったことを言われますが、べつに急いでいるのではなく、爽快なスピードや機敏な動きで車を操ることを楽しんでいるわけで、これはある意味で音楽と相通ずる本質を有しているように思います。

音楽にも和声の法則や導音といったものがあるように、車の動きにも「こうなったら、必ずこうなる」という法則やシーンはいくらでもあるのですが、最近の道路環境ではどうもそういうことが崩壊しつつあるように思います。
狭い道で離合する際は、その場の状況に応じて、どちらがどう動くのが最も合理的かを互いにすぐ了解しあうとか、二車線あって、前にのろのろ走る車があれば、流れの良いレーンに車線変更するのは、マロニエ君にすれば音階でシになればどうしてもドに行き着くのと同じ意味を持っていますが、そういう感覚のまったく無いらしいドライバーがここ最近かなり増えました。

あまりに周囲から浮いたような交通状況に無頓着な動きで、よほど運転に不慣れな高齢者などかと思いきや、追い抜きざまにチラッと見るとやたら若い男性が真面目な顔で運転していたりしてエエエ!と驚くことがありますが、さすがに最近はそのタイプにもだんだん慣れてはきました。

いっぽう、若い人の演奏で、テンポ感や呼吸感、センシティブな反応の欠如を感じるのは、根底にあるものがきっとこういう無反応な運転をするのと同じでは?と感じることがしばしばあります。
演奏技術は文句なく素晴らしいのに、冒険もはみ出しもなく、借り物のような表情をつけるだけで、まるで語りになっていないのは、やはり感覚や本能から湧き出るものが欠けるせいなのか。

世の中はスピード社会などというけれど、逆にやけにのんびりした人が多いのもマロニエ君にしてみれば不思議です。
やたらとスローテンポで、ひとことするのにかなり時間がかかったりするパターンも少なくない。

同時に、マロニエ君は自分ではせっかちな面があるというのも認識するところ。

メールの返信など、人によっては間に何日も置いて、忘れたころにいただくことがありますが、こういうテンポ感が苦手で、べつに急ぐ内容ではなし、むろん相手が悪いわけでは決してないのですが、自分との波長が噛み合わず、無用のストレスを感じてしまったりはしょっちゅうです。

たとえば、今度会いましょうとか食事しようとなった時も、マロニエ君はできることならすぐに日にちを決めてしまいたいし、それも基本なるべく早い時期が好ましいのですが、これがまたやたらと気の長い人がいらっしゃいます。
もちろんお互いの都合にもよるけれど、人によっては「今月は忙しいので来月の…」とか、ただちょっと食事でもしましょうというだけなのにひと月も先の予定にされる人がいて、そういうとき内心ではもうすっかり意欲が失せて、じゃいいです!と言えるものなら言いたい、そんな性格だったり。

物事には気分的にも鮮度の落ちない、ほどほどのタイミングってものがあり、昔のほうが「鉄は熱いうちに打て」だの「善は急げ」だのと、キビキビしたテンポを大事にする風潮がありましたが、今はちょっとした約束ひとつするにも、なんだか手続きがややこしくて、言葉ひとつにも妙に注意して譲り合わなくてはならず、こうなると当然ノリが悪くなってしまうのは否めません。

なので、たまに時代劇などで、江戸っ子の意味もなく短気で、毒舌で、年中青筋立てて怒っているような、ほとんど感性だけで生きているような人がいますが、その滑稽な中にもどこか懐かしさや共感を覚えてしまいます。
もうすこし生き生きできたら、世の中もずいぶん楽しいものになるだろうにという気がします。

2018/09/11 Tue. 02:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

似合いの音 

音楽評論家の故・宇野功芳氏が、著書『クラシックの聴き方』の中での山﨑浩太郎氏との対談で、バレンボイムのベートーヴェン交響曲全集について触れておられました。
「すごく褒める人もいるが、僕は全然買わない。」としていて、さらに「とくに何があるかというと何もないし、響き自体が汚い。意味がない。」と手厳しく続きます。
オケはベルリン・シュターツカペレですが、山崎氏も批判的で、要約すると「シカゴ響のような機能性の高いオケを使わず、響きを整えられないシュターツカペレのような雑然とした響きがベートヴェン的だとバレンボイムは考えている気がする。様式の模倣に過ぎず安易」というようなことを言っておられます。

とくに宇野氏の主張は、バレンボイムのピアノにもそっくりそのまま当てはまることで、マロニエ君は昔からなぜ彼があのように一定の評価を得て、第一線の演奏家として生きながらえていられるのかがまったくわかりませんでした。
お好きな方には申し訳ないけれども、何もない、響き(音)が汚い、意味がない、はピアノでもまったく同様。

上記の交響曲全集は、バレンボイムの価値がわからないマロニエ君としては、指揮なら多少マシなのか?と思って、ずいぶん前に買ってみたようなあまりはっきりしない記憶があったので、CD棚を探してみるとやはり「あった」ので、我ながらずいぶん奇特な買い物をしたもんだと呆れながら、はてさてどんなものか恐る恐るプレーヤーに入れてみました。
全部を聴く気は到底ないので、とりあえず「英雄」を鳴らしてみると、宇野氏の言われる以上にまったく真摯な姿勢の感じられない、作品の表面だけをなぞったような、やる気あるの?これを褒める人がいるの?と思うような腑抜けな演奏に仰天。
神経にもあまりよくないので、第一楽章の途中でやめてしまい、CDは再び棚の奥深くへと戻しました。

ただし、この対談の言葉の中に、ちょっと気になるものがあったのも事実。
それは「雑然とした響きがベートヴェン的…」というもので、この対談では、それがバレンボイムの選択の誤りとして述べられてはいたものの、マロニエ君としては「場合によりけりだけど、それはあるかも」という思いが頭をよぎりました。

ピアノの場合、現代の整った美音のスタインウェイで奏されるベートーヴェンは、その音楽の内容とか特有の書法に対して、あまりに整然としたスマートなトーンすぎて、なにか物足りないものが残ることも個人的には感じていました。
かといって、バックハウスのようにベーゼンドルファーを使えばいいのかといえば、そうとも思わない。
グルダは昔はベーゼンドルファーでよくベートーヴェンを弾いていたようだけれど、録音ではスタインウェイだし、シフは全集の中で曲に応じてスタインウェイとベーゼンを使い分けているし、敢えてベヒシュタインを使うピアニストもちらほらいる。

そこでふと思い出したのが、オーストラリア(オーストリアではない!)の手作りピアノメーカー、スチュアート&サンズを使ったベートーヴェンのピアノソナタ/協奏曲全集。
演奏はジェラルド・ウィレムス(ジェラール・ウィレム?)で、非常に正統的な安定した演奏ですが、注目すべきはその音色です。

久々に聴いてみたら、むろん演奏にもよるだろうけれども、概してベートーヴェンにはこういうオーガニック野菜みたいな音のほうが単純にサマになると思いました。
一聴したところはドイツピアノのような感じが色濃く、個人的な印象としては、ブリュートナーとベーゼンドルファーを合わせたような感じで、基本的には木の音がするけれど、ほわんと柔らかい音ではなく、むしろエッジの効いた鋭く切り込む感じのピアノ。
さらには、ほどよく野暮ったさが感じられる音で、都会的なスタインウェイはじめ、今どきのヤマハやファツィオリとは真逆の、自然派ピアノとでも呼びたくなる音です。

あまりに整った美音ずくしで奏でられるベートーヴェンには、どこか落ち着かないフォーマルウェアで締めつけられたようなよそよそしさがあるけれど、スチュアート&サンズで弾かれるとそういう違和感がなく、より自然にベートーヴェンの世界に入っていける心地よさがありました。

やはり人それぞれ似合いの服や家や車があるように、似合いの音というのがあるんだなぁと感じたしだい。
それにしても、バレンボイムっていったいなんだろう?

ちなみにスチュアート&サンズ(Stuart&Sons)はたしか97鍵で奥行きも290cmぐらいある手作りで木目の大型ピアノで、マロニエ君は昔、結構苦労してこのCDを手に入れましたが、今はYouTubeなどでも音を聴くことが可能になりましたので、よろしかったらどうぞ。

2018/09/05 Wed. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

楽器か道具か 

ピアノは本当に素晴らしいものなのに、我々のまわりには、とかく驚くような、ピアノの素晴らしさを蹂躙するような話がたくさん転がっているのはどういうわけでしょう。

ちなみにここに取り上げるのは、主にピアノを弾く事に関する人達であって、技術者は含みません。
つまり演奏者と指導者、さらにはそれに連なる学習者ということになるでしょうか。

今回言いたい驚きの中心テーマは、自分が弾く楽器に対する異常なまでの愛のなさです。
むろん、今どきのテレビ風の言い訳をしておくなら、中にはそうではない人ももちろんおられることは言うまでもないけれど、もっぱら大多数の人、すなわち圧倒的主流派のお話です。
みなさん楽器を楽器とも思わず、管理らしい管理もせず、ぞんざいに弾きまくり酷使しまくって、それが当たり前のように平然としている人がほとんどです。

さらに驚くべきは、ピアニストや教師の中には、過去に自分は何台のピアノを弾きつぶしたなどということを得意げに語る人もいて、それのどこがエライのか?と思わざるを得ません。
ピアノという大きくて強いものを、自分はねじ伏せた、勝利した、というような気分なのか。
これはもう立派な武勇伝であり、名うての剣士が、打ち倒した敵の数を自慢しているようで、その人達にとってはもはやピアノは戦うべき敵なのかもしれません。

ピアノという楽器が、大半が孤独な鍛錬に時を費やし、技術習得の困難な楽器であるために生まれた歪んだ現象のようにも思えます。

ほかにも原因はいろいろ考えられます。
いつもいうことですが、ピアノはあの大きさと重量ゆえに持ち歩きができず、「そこにあるピアノ」をいやでも弾かなくてはならないから、どんなものでも不服に思わず弾くことを要求されるもの。

ただ、そうだとしても、だから自分の楽器はどうでもいいということにはならないのが普通だろうと思います。
自分の楽器へのこだわりと愛で培われたものが、別のピアノでの演奏においても必ず役立てられるはずで、愛がなければ、その他のさまざまな感情も表現も実を結ばない。

もうひとつ大きな原因だと思うのは、海外のことは知らないから日本国内に限っていうと、日本の大量生産ピアノが及ぼした影響。
どんなに製品として優秀で、どれほど信頼性が高くても、しょせんは機械や道具としての存在価値しか示さず、徹底して無表情なピアノに愛が生まれないのも当然といえば当然。
多くの楽器が発する「ともに歌う音楽の相棒」という擬人化の余地がないばかりか、ときにふてぶてしく憎らしく見えたりと、とうてい愛情を注ぐ対象にならないこと。

せいぜいが、それにまつわる過去の出来事や家族のことなど、思い出が彩りをくわえているだけで、そこにピアノがたまたまあったというだけ。これは、そのピアノそのものに対する愛情とは似て非なるもので、単なる思い出の小道具にすぎない。

かくいうマロニエ君にも、そういう人を非難する資格もない過去があります。
幼稚園のころから弾いたピアノは、中学生のときに一度買い換えたので、成人するまでに2台のピアノと付き合い、それはいずれもヤマハでしたが、たしかに自分のピアノに対しての愛着は自分でも驚くほどありませんでした。
次のピアノに買い換える際も、手許に残しておきたいというような気持ちは皆無で、下取りで運びだされたときはせいせいするようでしたから、車でも長く乗ると古女房みたいになってくるのに、これってなんだろうと思います。

先日も知人から間接的に聞いた話が深いため息を誘いました。

ひとりは若いピアニストで、某サロンで小さなソロコンサートがありお付き合いで行ったそうですが、その人にどんなピアノが好きかと尋ねたところ、「ピアノにはまったく興味がなく、どんなピアノでも構わない」と即答されたというのですから唖然です。
ピアニストは弾くことに忙しく、ピアノの好みなんて言ってるヒマはないよというポーズなのか、なにかの強がりなのか諦めなのか、真意は図りかねますが、なんだかやりきれない気分になってしまいます。

またあるピアノ弾きの方は、ドイツ製のヴィンテージピアノ(とても状態のいい、現役としても十分使用可能な素晴らしい楽器)を前に、ろくに弾きもせぬまま「趣味ならいいけれど、自分が弾けばたちまち壊れてしまうだろう」というコメントを残して行かれたとか。
その方は日本製の頑丈が自慢のピアノをお使いだそうですが、格闘技ではあるまいし、苦笑しか出ませんでした。

2018/08/30 Thu. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏の意味 

テレビ場組『恋するクラシック』でピアニストの実川風(じつかわかおる)さんがゲスト出演され、実はマロニエ君はこの方をこのとき初めて知りました。
この番組じたいが演奏をじっくり聴かせるものではないので、いつも演奏はかなり制約を受けたものになります。

このときは、ショパンの子犬のワルツとベートーヴェンのワルトシュタインの第1楽章が、スタジオのピアノで演奏されましたが、子犬はこれといって特徴のない、いかにも今どきの演奏。
ワルトシュタインは、それに比べると遥かにこの人の演奏の特徴をキャッチ出来るだけの分量と要素が見られました。
今どきの若い人の中では、ところどころにメリハリはあるし、ベートーヴェンらしい強弱もちょっとあるところは、まずはじめに感じたこと。

しかし、やはりこの世代の特徴も多く見受けられ、自分の解釈や感性を問うことより、ミスなく型通りに弾くことに演奏エネルギーの中心が置かれ、個性と呼べるまでに至っている何かはほとんど感じられませんでした。
ああまたか…と思うのは、音楽が演奏を通じて呼吸をしておらず、なにか指先の細工仕事のように曲が進み、常にせかせかした気分にさせられる点。

どんなにスピードのある演奏でも、そこに作品上の意味と高揚感が伴わなくては意味がなく、自分だけ突っ走る自転車みたいでは、ただはやく目的地に到達することだけが目的のようにしか聞こえません。
聴く側はその途中に繰り広げられる、さまざまな出来事や景色のうつりかわりを、演奏者の解釈やテンペラメントやセンスで見せてほしいもの。
こういう無機質なスタイルがなぜこれほどまでに若い人の間(というか指導者を含めて)に浸透してしまったのか、コンクール世代の後遺症なのか、情報浸けの副作用なのか、理由はともかく、せっかくの演奏能力をもっと有効に使ってほしいものだと思うし、実際なぜそうしないのか不思議です。

その対極の頂にいるのが、たとえば内田光子で、その一音足りともゆるがせにしない姿勢、品格、説得力、音楽の鼓動、そういう真に芸術たりうる演奏。こういう探求の道のあることをもっともっと深いところまで考えてほしいもんだと思います。

それでも、若いピアニストが続々と出てくるのは驚くべきことではあるけれど、どこかよく出来た大量生産のピアノのようで、音楽家としての熟成が足りないということを感じるばかり。
少なくとも、顔や名前より先に、その演奏が記憶に残るような人が出てきてほしいし、その演奏を継続して聴くため、顔と名前を覚えようとする、そういう順序であってほしいもの。

いま言っていることは、べつに実川さんだけのことではないのは言うまでもなく、彼はむしろ同世代の中ではまだ音楽的実感をもっているほうだとは思いますが、それでもまだまだ足りない。

演奏中のテロップには、今後はベートーヴェンのソナタ全曲を録音したいというようなことが文字で流れましたが(いくら時代が変わったとはいっても)ちょっとそれは口にするのが早過ぎるのではないかというのが率直なところ。

昔はベートーヴェンのソナタ全集を録音するということは、ピアニストとしてはかなり大それたことで、誰にでも許されることではなかった。
むろん技術的に弾けるかどうかの問題ではなく、作品に込められた内容を表現でき得るかどうかという、芸術家としての成熟や適性を厳しく問われました。
今では信じられないことですが、中期以降のソナタなど、そもそも女性が弾くものではないというような考えさえあって──中にはエリー・ナイのような人もいたけれど──概してそういった空気があった(それがいいとも正しいともマロニエ君はもちろん思わないけれど)という歴史的背景があったということぐらいは頭の隅に留め置いていいことだとは思います。

指揮者の世界も同様で、むかしのドイツでは中堅ぐらいの指揮者になっても、ベートーヴェンを振るチャンスなどめったになく、とりわけ第九などは一生振る機会などないと思っていたところ、日本からの招聘など外国から第九を依頼されると、本人が感激に震えたというような話も聞いた覚えがあります。

これらはいささか権威が大手を振りすぎている時代の空気のようにも思えますが、ベートーヴェンというものはそれだけ高く聳える山だということに充分な敬意をはらい、少なくとも修行時代に弾くのとは違って、プロとして録音なりコンサートで取り上げる場合は、ぜひ居住まいを正して取り組んで欲しいし、まして全曲ともなると、あまり安易に取り扱わないでほしいというのが個人的な希望です。

今は演奏の是非よりも能力が問われる時代なので、技術があって、暗譜力があれば、はいそれでステージ、はい録音という流れになるのかもしれないけれど、それって意味があるのかと思います。


2018/08/25 Sat. 02:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アレクサンドル・トラーゼ 

たまっているクラシック倶楽部の録画から、今年トッパンホールで行われたアレクサンドル・トラーゼのリサイタルを視聴しました。
曲目はハイドンのソナタ第49番変ホ長調、プロコフィエフのピアノ協奏曲第2番の第1楽章をカデンツァを含めてトラーゼ自身が編曲したもの、さらに2台ピアノによるピアノ協奏曲第3番の第3楽章。

本来なら、この手の外国人の(わけても旧ソ連系の重量級という言うべき人の)リサイタルとあらば、すぐにでも聴いてみようとする筈ですが、このトラーゼというピアニストはあまりよくは知らないというか、ずい分前に期待を込めてゲルギエフとの共演(オケはどこだったかわすれた)でプロコフィエフのピアノ協奏曲全曲のCDを購入、ロシア人(当時はそう思っていたが、トラーゼはジョージア人)によるネイティブな演奏を期待していたところ、それはまったく当方の期待に反するものでした。

具体的にどうだったかは忘れたし、そのためにわざわざCDを探し出して確認してみようというほどの熱意もないからそれはしないけれど、とにかくちょっと変わっているというか、ピアニストの個性なのか耳に逆らう変なクセのようなものばかりが目立った、すんなり曲を聴き進むことができないことに甚だしく落胆し、たしか全曲聴かずに放置した記憶があります。

「こういう演奏を期待して買ったわけではなかったのに!」という典型のようなCDでした。

なので、どうせ自分の好みではないだろうという先入観があり、つい先延ばしになっていたのです。

トラーゼ氏は番組内でインタビューに答え、正確ではありませんが、ざっと以下のようなことを言っていました。
「最近つくづく思うが、私は演奏そのものには興味がない」
「私の心を引きつけるのは、曲に秘められたストーリーを語ることだ」
「ハイドンのソナタ(この日演奏する曲)は、恋愛関係にあった女性歌手に献呈されたもの」
などといって第2楽章などを弾いてみせる。
「(作曲家の意図やストーリーを語ることは)間違っている事もあるかもしれないが、ただ音符をならべるだけの演奏より楽しんでもらえることは確か」
〜等々、この人なりに作品に込められたものを聴く人に伝えたいということが、人一倍あるらしいことはわかります。

ただし、ではトラーゼの演奏を聴いて、それが具合よく実現できているかといえば、残念ながらマロニエ君は成功しているとは思えませんでした。

冒頭のハイドンでは表情過多で、曲が必要とする軽快さや洒脱の味わいがまったく失われているというか、もしかしたら本来の曲とは少し違ったものに変質してはいないかという疑問さえ感じます。
トラーゼのいうストーリー展開も語りも、話としてはわかるけれど、古典派には、古典派なりのスタイルというものがあって、表現はその一定の枠の中で行われるべきものと思います。
古典派に限らず、音楽には音楽独自の語法というものがあり、さまざまな要素は音楽的デフォルメをもって間接的に表現されるべきで、言葉そのもののようなあまりに生々しい直接表現はマロニエ君は好みではありません。

トラーゼの演奏は、まるで一言一句が大げさな芝居のセリフのようで、ひとつひとつに意味を被せすぎ、音楽に必要な横のラインが随所で寸断されてしまうのは賛同しかねるもので、あれをもってハイドンの言いたかったこととは、マロニエ君にはとうてい思えませんでした。

次のプロコフィエフの編曲は、やたらと長ったらしく恥ずかしいほどもったいぶった曲でしたが、ただ第2協奏曲のモチーフを散りばめた即興演奏のようでもあり、コンサートに行って現場の空気を吸いながらこれを聴かされたらそれなりの魅力があるのかもしれないけれど、テレビで冷静に見る限りでは、あまり意味の分からないものでした。

最後のプロコフィエフ、ピアノ協奏曲第3番の第3楽章は愛弟子である韓国人の女性にもう一台のピアノでオーケストラパートを弾かせての演奏でしたが、旧世代のロシア系ピアニストを彷彿とさせる炸裂するフォルテなどが多用されるものの、テンポや曲の運び、アーティキュレーションなど、いずれも鈍重で恣意的、スピードの出ない旧式な戦車みたいな印象でした。
ただ、大きな音は出せる人で、低音域のそれはたしかに迫力があり、薄くてサラサラの演奏が大手を振る現代では、溜飲の下がるような瞬間もなくはないけれど、でもやっぱりそれだけでは困るのです。

指の分離もあまり良くないのか、個々の音のキレが良くないことと、特に右手が歌わないのは終始気になるところ。
こういう演奏に触れてみると、巷で言うほど好きではないソコロフなども、やはりあれはまったく次元の異なる第一級のピアニストであることを思い知らされました。

会場はトッパンホール、ピアノは二台ともスタインウェイDでしたが、トラーゼはソロでもコンチェルトでも手前のピアノを弾きました。
キャスターの感じからして奥のピアノのほうが新しいようで、勝手な想像ですが、やはり新しい個体のほうが鳴りが不足するというか、ピアノとしてのスケールが小さいのだろうか…ともかく相対的に古いほうがトラーゼの好みに合ったのかもしれません。

実際の演奏会では、コンチェルトは全楽章、他に戦争ソナタも演奏されたようです。

2018/08/19 Sun. 03:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

若手の問題 

某音楽番組で、日本人の若いピアニストがゲストとして登場されました。

子供のころから天才と評されて、ずいぶん話題をさらった人ですが、マロニエ君に言わせると日本のピアノ教育システムが生み出した典型のような人。
それがそのまま優れたピアニストかといえばまた別で、演奏家としての特別な魅力やオーラを感じるかどうかは人によって受け取り方が違うと思いますが、マロニエ君はまったく興味がわきません。
国際コンクールでは狙い通りの結果は出せなかったようですが、最近はCDなども出て、その方なりの活躍を本格始動されているのかもしれません。

番組MCから紹介を受けてまず1曲。
その後、場所を移してこれまでの経歴を中心とするかたちで雑談をし、再びピアノの前に進んで、もう1曲弾かれました。
いずれもロマン派を代表する作曲家による、超有名曲でした。

いまさらながら思ったことは、現代の演奏家は、まず聞く人を音楽の喜びを伝え導くことが大きな使命であること、いやそれ以前に弾く人が音楽への奉仕者ということを忘れているということ。
それを考えることもなく、受験競争のように技巧の卓越と仕上げのレベルアップだけできたのでは?ということで、これは指導者にも大きな責任があると感じます。
要するに、至難な曲の技術的に見事に弾き、それで膨大なレパートリーを抱えているだけ。

これは決してこの方に限った話ではありません。
多くの若い人の演奏には、作品から真の魅力を探しだし奏でることへの使命や、言い換えると音楽に対する愛情があまり感じられず、すでにあるものを、自分の能力(技巧と暗記力)を自慢する手段として使っているだけという気がしてなりません。
早い話が、自分のセンスの投映もないし、演奏には喜びや冒険やあそびがどこにもない。

当然ながら、情的にはかなりドライといって構わないでしょう。
さらにいやになるのは、曲の流れが断ち切られてしまうほどこれみよがしの間をとったり、まったく自然さを欠いた表情のようなものをわざわざ付け加えたり、意味のない虚飾などの連続で、これでは聴く人の感銘が得られるわけがない。
そんなもので人に感銘感動を与えられるほど人の心が動くはずはなく、ただ器用な演奏処理みたいなものをどんなに見せられても、本当のファンなど生まれるはずもない。

多くの人達が聴きたいものは、演奏者が自分の感性と信念からこうだと信じているウソのない音楽であり、そのひとなりの精神世界と作品のいってみれば最も幸福なコラボ。
そういうものに裏付けられたものが、ようやく本物の演奏と呼べるものだと思うのです。
音楽は小さな曲でも音による物語や旅でなくてはいけないわけで、その物語の世界に、演奏者の才能と感性で案内してほしいわけで、べつに偏差値的な能力自慢の目撃者になりたいわけではない。

別の番組では、スタジオで4人の演奏家による、日本の音楽祭を紹介するというのがありました。
チェロの御大、ヴァイオリンのベテラン、ハープの第一人者、そして若き俊英ヴァイオリンのホープでした。

ここで感じたのは、お話をさせると、どうしようもなく年配の方々は話に恰幅があって聞いていて楽しいし、自然で、言葉選びにもお顔の表情にも余裕があります。
一瞬一瞬の気持ちや内容は言葉と一体のものとなり、ほどよい抑揚をもってスラスラとお話が続きます。ところが最も若い某氏になると、とたんに語り口は硬直し、言葉も少なく苦しげで、結局は中味のないステレオタイプのコメントで終わってしまいます。
おそらく単純な演奏技巧でいうと、彼はこの場にいる先輩方の誰にも負けるどころか、もしかしたら1番かもしれませんが、お話を通じての人間力となると、年齢以上の差が開いてしまうのを痛烈に感じました。

どんなにテクニックが上手くて、初見も暗譜もお手のもので、なんでもヒョイと弾ける能力があっても、演奏者としての魅力はそれ以外のものと合体させたものでなければ真の魅力にはなりません。
上記のピアニストにも通じる、若い人たちの抱える、もっとも重大な問題点をまざまざと見せつけられた気がしました。

テクニックが向上したのと引き換えに、生身の人間のアーティキュレーションが著しく落ちていることでしょうか。
表現したいものがたくさんあるのにテクニックがついてこないのは悲しいけれど、テクニックがあるのに表現すべきものがないことは、もっとはるかに悲しい気がします。


2018/08/14 Tue. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ときには刺激を 

とある休日、以前ピアノを通じて親しくしていた方々が、お揃いで我が家にいらっしゃいました。

中には実に数年ぶりにお会いする方もあり、懐かしい限りでした。
挨拶もそこそこに、やはりこの顔ぶれはピアノを弾いてこそということもあり、さっそく演奏が始まりますが、ひとり始まれば、次から次へと回りだし、まるでプチ発表会の様相となりました。

皆さん、ピアノを弾くことに格別の喜びを感じておられて、日々の練習を怠らず、レッスンに通い、発表会その他で人前での演奏もかなり頻繁にやっておられる方ばかり。
口々に「緊張する!」と言われますが、なかなかしっかりした演奏をされることに感心させられます。

ピアノを弾くことは、自分自身が楽しいのだから、自分一人で弾いて楽しんでいればいいというのが、趣味としてのマロニエ君の基本スタンスで、それは昔も今も変わりません。
しかし、現実にこうしてアマチュアながら人前での演奏に臨んで、緊張と喜びに身を投じつつもピアノに向かい、楽しさと真剣さが同居する様子を目の当たりにしてみると、それはそれで価値のあることだと感じたのも事実でした。

人によって、曲も違えば、弾き方も違い、同じピアノが弾き手によっていかようにも変わってくるあたり、こうした遊びの中にも気付かされるピアノの奥の深さのような気がしました。
目の前で弾かれるピアノの音に身を委ね、のんびりくつろぐのも悪くないものです。

マロニエ君は普段、自分の好きなCDを聴き散らすばかりで、これといって目的を持って練習することはありません。
せいぜい、そのときときに弾いてみたい曲の中から、技術的に自分でもなんとかなりそうなものを探しだしては、だらだらと練習の真似ごとのようなことをやるだけ。
レッスンに通っているわけでも、なにか人前で弾くという機会があるわけでもなく、こういう状況ではどうしたって練習にも身が入りません。

基本的にはそれでいいと思っており、たいして弾けもしないものを、いまさらこの歳で目標を作ってまで遮二無二やらなくちゃいけない理由はないし、身が入らないなら入らないなりに楽しんでいられれば、それでいいという考えです。

と、普段はそうなのですが、この日、何人もの方が代わる代わるにピアノに向かい、とても熱心に弾かれている様子を見ていると、自分のそんな怠惰なあり方がちょっと恥ずかしくなるようでもありました。

だからというわけでもないけれど、ただシンプルにピアノを弾くということに素直な刺激を受けたと思われますが、この日を境に、マロニエ君にしては珍しくピアノに向かう時間が長くなりました。
すると、不思議なことがいくつか起こりました。

まず、ピアノというのは弾けば弾くほど調子が上がり──とはいってもいまさら上手くなるわけではなく、要は弾くことに集中度が増していくぐらいの意味で、ありていにいえば弾けば弾くほど楽しくなってくるということでした。
これまでは、まったくピアノに触りもしない日がいくらでもあり、触っても5分ぐらいというのはごく日常でしたが、少し続けて弾きだすと、それだけ自分が曲の中に没入し、それがピアノを離れても意識として残るようになって、そうするとまた弾いて、あれこれの表現やアイデアを試したり、なにかを解決したくなったりといった衝動にかられてくる。
そういう一連の行為や気分がだんだんおもしろくなるわけです。

下手は下手なりに、音楽にこだわってくると、理想の表現を求めて繰り返し弾いてみることが(自己満足といえども)こんなに楽しいことだったことを、このところ実感として忘れていたように思いました。
それを思い出させてくれて、ピアノに向かう時間が長くなっただけでも、この訪問者の方々にはお礼を言わなければならないと思っています。

それと、当たり前かもしれませんが、弾けば弾いただけ自分なりに指がほぐれて、少しずつ自分の体がピアノと仲良くなってくように感じるのは、ほんの僅かであってもやはり嬉しいものです。
当面の目標としては、目の前にある数曲の仕上げ(仕上がらないだろうけど)と、新しい曲をいくつかものにしたい(できないだろうけど)と思っているところです。

何年ぶりかで、ピアノに集中していると1時間なんてパッと過ぎてしまう感覚を、久々に味わっています。
CDで胸のすくような素晴らしい名演に接するのもいいけれど、やはり下手でも自分の意志で楽器を鳴らすのは、他に代えがたい格別なものがあることは間違いないようです。

2018/08/10 Fri. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

その後どうなる? 

最近見た、ピアノ関連のTV番組から。

Eテレ『若手ピアニストの頂上決戦〜第86回日本音楽コンクール・ドキュメント〜』と題する、同コンクールのピアノ部門に密着したNHKのドキュメント。
202人が出場する第1次予選から始まり、いきなり47人に絞られての第2次予選、さらにわずか9人となる第3次予選、本選出場は4人で競われるというもの。

よく「コンクールは第1次が最も面白い」といわれますが、まさにそれが納得という感じが垣間見られました。
音大などの学生はもちろんのこと、中には会社員で休暇をとってコンクールに出場する人もいたりと、この第1次の様子は少しでしたが、なにやらとてもおもしろそうでした。
後半に進むに従って、精鋭ばかりが残っていくけれど、同時にある程度どんなものかもわかってくるのに対し、第1次はどんな人が出てくるやら楽しいというかドキドキ感もあって、もし自分が見に行くなら絶対これだと思いました。

第1次は演奏時間も短く、わずか10分。
その演奏如何で150人以上の人達が一斉に落とされてしまいます。
ところが、なんと会場のトッパンホールの客席は審査員はどこにいるの?と思うほど超ガラガラで、一般の人の入場はできないのだろうかと思ってしまいます。
それに対し、オペラシティで行われる決勝となると大ホールは満席で、チケットは売り切れというのですから、優勝者が出る場面を見てみたいというのもわかるけど、いささか偏り過ぎというか不思議な気がしました。

1位と2位はマロニエ君も予想していた通りで、ショパンコンクールのような大コンクールでは結果に納得のいかないこともしばしばありますが、この点では思い通りで満足できました。

ただ別の感想も抱きました。
このコンクールに出場されるような方は、当然ながら相当な腕前を持っておられて、普通のシロウトが徒歩から始まってせいぜいスクーターぐらいだとすると、新幹線ぐらいの差があると思いますが、ではそれでさらに世界的なコンクールに挑んで栄冠が勝ち取れるかといえば疑問であるし、ましてプロのピアニストになれるのかといえば、それはまったく別の話で、本当の意味でのピアニストになれる人は、その新幹線に対して飛行機か、場合によってはマッハで飛ぶ戦闘機ぐらいのレベルにならなくてはいけないわけです。

そうなると、なまじ才能があって、精進して、なんでも弾けるような腕前が備わったばかりに、引くに引けない状況になることがあるはずで、多くの人達はその先どうなるのかと思いました。
中には両親も応援に来られていて「30歳まで、あと2〜3年は見守ろうと思います」というようなことを言われたりと、家族を挙げての挑戦であることがわかります。
あれだけ弾けるようになるためには、どれだけの努力があったかを思うと胸が痛くなりました。


題名のない音楽会では『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』と銘打った、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番。
ソリストは、ショパンやチャイコフスキーで2位になったルーカス・ゲニューシャスで、マロニエ君にはまったく好みの合わない演奏。

やけに含みをもったような、さも自信ありげな弾きっぷりでしたが、テンポは遅く、躍動は断ち切られ、フォルテッシモを期待するところがヒュッと弱音になったり、かなり違和感を覚える演奏でした。

外面的な効果や慣例を廃して、徹底したコントロールされた新たな解釈を提示したつもりかもしれないけれど、マロニエ君にはまったく意味不明理解不能で、なんだかヘンなものを食べさせられて胃もたれをおこすようでした。

ゲニューシャスは作曲者と同じロシア人でもあるし、たしかかの名伯楽ヴェラ・ゴルノスターエワのお孫さんでもあり、ロシアピアノ界でもいわばサラブレッドであるはずですが、それ故こういう演奏もまかり通るということなのか…。

この番組のタイトルの『王道のピアノ協奏曲に熱くなる音楽会』とは、どういう意味なのか、どこでどう熱くなればいいのか最後までさっぱりわからず、ぽつんとひとり取り残されているような気分を味わいました。

2018/08/05 Sun. 03:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

最新スタインウェイ 

最新のスタインウェイDはディテールなどがいろいろ変わったようで──それも必ずしも好ましくない方向のような気配のするところが気になります。

あてもなくYouTubeを見ていると、海外でのアルゲリッチの今年のコンサートの様子がアップされていました。
珍しくソロで『子供の情景』を弾いていますが、ステージには2台ピアノが向かい合わせに置かれており、あくまで2台ピアノのコンサートの中の一部として演奏されたソロだと思われました。

使われているピアノは疑いもなくスタインウェイのDだろうと思っていたところ、どうも音の感じが違います。
とくに違いを感じたのが発音の部分とでもいいましょうか。
よく耳に馴染んだスタインウェイは、どちらかというとやや遅めに立ち上がった音がターンと伸びていく感じがありますが、このピアノははじめからやけにハキハキと反応して、滑舌の良さをことさらアピールしてくるような感じ。

はじめはよほど腕利きの技術者が、スペシャルな仕上げをしたピアノかとも思いましたが、聴いていて、どうもそれだけではないような違和感を感じました。
で、「このピアノはなんだろう?」と疑いだしてチェックしてみますが、画質がよくない上、ステージの照明も黒基調でどちらかというとダークな雰囲気。さらにカメラワークも雑で、画面はアルゲリッチが中心であれこれのアングルや遠近の変化が少ないため、こんな大事なときに、もどかしいほど確認が取れませんでした。

こうなってくると、こちらもついムキになってなんとか確証を掴んでやろうと凝視することになり、せっかくソロを弾いているアルゲリッチには申し訳ないけれど、ほとんど演奏そっちのけで、音とピアノのディテールばかりに神経を集中させました。
結果は曖昧な部分を多く残しますが、視覚的にほぼはっきりしたことは以下のとおり。

1)別メーカーのピアノの可能性も疑ったけれど、いくつかの要素からやはりスタインウェイであるし、おそらくはハンブルク製。

2)最も目についたのは、長年(ことによっては100年以上?)にわたり当たり前だったボデイサイドにあった丸いノブ(大屋根のストッパー操作用。これはCとDに装着されるもので、B以下は非装着)がなくなり、そのため大屋根側に付けられていた受け側の金色の金具もなくなっていることでした。
これは、昔からニューヨーク製にはなく、スタインウェイではハンブルク製だけの特徴でした。

3)また、ハンブルク製ではおなじみのスタイルだった、突き上げ棒(大屋根を開けたときに支える棒)のデザインもまったく変わっていました。従来は下に行くに従って途中で1段階太くなり、ボデイの付け根に近づいたところでさらに幅広になるというもので、その太くなっている中に半開用の短いスタンドが格納され、そのまた下部にさらに低くて小さなスタンドというふうに、計3種のスタンドが美しくひとつにまとめられていたのですが、これがまったく違ったデザインになり、粗い画像でなんとか確認できたところでは、ニューヨーク製の突き上げ棒に酷似した感じでした。しかも高さは2段階に減らされているようにも見えました。

4)最も確認が難しく、はっきりわからなかったのが譜面立てのデザイン。
これも従来の左右上部に正方形がくっついたようなハンブルクの長年変わらぬデザインだったものが、どうも違うものになっている印象でしたが、その形状まではついにわからず、これまでのものとは違うということだけが、かろうじてわかりました。

音については現時点で断定は避けますが、パソコンを通じての印象でいうと、軽く弾いても簡単にパァーンとブリリアントな音が出るもので、メーカーがそういう方向のピアノを作り始めたんだという印象を受けました。
一見インパクトがあり、華やかなようですが、密度感とか深み、あるいは奥行きといったものとは違った、いかにも今どきのすべてのものに通じるうわべの効果を狙ったという印象。
さも鳴っているようですが「美しい」というのとはちょっと違い、表現の幅は一気に狭まり、ピアノ本来のスタミナはむしろ減っているのではと思いました。

海外のコンクールなどで選ばれ弾いてもらうには、ライバルの台頭もあって、このように単純明快な効果を狙ったピアノ作りにギアチェンジしたのだろうかと想像を巡らせるばかり。
たぶん他社の追撃をかわすための、スタインウェイなりの戦略転換なのかもしれません。

ずい分前に、それまで「最善か無か」のスローガンを掲げて我が道を行っていたベンツが、時代の波に押し切られてトヨタから多くを学びはじめたときのような、なんともやるせない気分になりました。


2018/07/29 Sun. 01:59 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ナゾ 

自室のシュベスターにちょっと意外なことが起こりました。

ある技術者の方が来られ、この日はピアノを見ていただくだけだったため、何の手も入れられなかったのですが、帰られたあとで思わぬ変化があってびっくりすることに。

というのも、マロニエ君はもともとピアノの上に物を置くのはきらいで、グランドではなにも置かないようにしていますが、自室のアップライトではさすがにそこまで徹底できず、楽譜をあれこれを約20冊ぐらい置いて、思いつくままに手を伸ばしては譜面台に置くという感じにしています。

なので、その技術者さんが見えたときは、上の蓋を開けたりできるよう楽譜類をひとまとめにして、床の一箇所に置いていました。
はじめは上を開けただけでしたが、結局は前面上部の垂直の板と、鍵盤蓋を全部とって見られることになりました。

繰り返しますが、このときは何も作業をされることなく、ただ見たり音を出したりするだけで、ネジ1つも回されたわけではなく、最後にきちんと元の状態に戻して、あとは別室で雑談を少ししてお帰りになっただけです。
ところが、そのあと、なにげなく弾いてみると、なんだかよくわからないけれどいつもとちょっと様子が違いました。
すぐわかったのは、低音セクションが普段より力強く鳴っていること。

はじめは「ん?」「なんで?」という感じだったのですが、あきらかにこれまでよりビシッと鳴っているのがわかりました。
このところ、少しずつ練習しているショパンのマズルカを弾いてみますが、やはりバスを鳴らしたときの厚みが違っていて「エエエ!?」となりました。

はじめはマロニエ君がちょっと部屋を出た間に、技術者の方がなにか技でもかけられたのか…とも思いましたが、まさか黙ってそんなことをされるとはとても思えません。
で、その技術者さんが来られる前と後では何か違っていることはないかを、急いで考えました。

見渡してみたところ、ただひとつ目についたのは楽譜。
技術者さんが帰られたあと、床においていた楽譜の束をヨイショと抱え上げて、そのままピアノの左上にドサッと載せていました。
まさかこれ?と思い、それらを右側(高音側)に置きかえて弾いてみると、なんと低音のパワーははっきりと元の鳴り方にもどりました。
まさか…こんなことがあるなんて聞いたこともないし、とくにアップライト前面の蓋とか上部なんて、いうなればただの囲いにすぎず、開閉以外に音や鳴りという点において、そんな影響があるなんて思えません。

でも、それで変わったのは事実なので、それからというもの、高さ20cmほどの楽譜の塊を、左上に置いたり真ん中においたり、床に下ろしてみたりと、ハアハアいいながらずいぶん実験しました。
ところが、それを何度もやっているうちに、はじめの変化はなくなって行きました。

来宅された技術者さんにも電話して事の顛末を伝えましたが、むろん何一つ心当たりはないばかりか、そういう事例は聞いたことがないということで、そりゃあそうだろう…あれは単なる錯覚だったのか?とも思いましたが、でも、変化したときのあの「感動」は今でもしっかりと覚えています。

それいらい変化はなく、幸いなことにパワーはあるほうで定着しているようです。
むろん、原因はなにひとつ分からずじまいのまま。
思いもよらない出来事でしたが、こういう謎めいたことも手作り楽器ならではの面白さだと思うことにしました。

2018/07/24 Tue. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

冒険のお値段 

5月に某ショッピングモールのピアノ展示販売会でグランフィール装着のピアノに触れて、そのタッチ感の素晴らしさ、コントロール性の大幅アップに感激したことはすでに書きました。

アップライトピアノの小さな革命といってもいいもので、自室のシュベスターに取り付けたいのはやまやまですが、なにしろその価格は税別20万円以上で、ちょっとした中古アップライトがもう一台買えてしまうほどの金額なので、やはりちょっと迷ってしまいます。

モールに出店していた楽器店のホームページを見ると、そこの展示場に行けば再度試弾できることがわかり、もう一度試してみたいと思って電話してみたところ、折よくグランフィールを取り付けられたという技術者の方が電話に出られ、説明もしていただけるとのことで後日行ってみることになりました。

ずらりと並ぶアップライトピアノの中に、1台だけグランフィール付きがあり、おそらく展示会にあったものと思われました。
ピアノの常で、モールの広い空間と一般的な展示室では印象の異なる点こそあったものの、概して好印象であることは変わりありません。
ところが、そのとなりには瓜二つと言ってもいいほとんど同じ機種のグランフィールが「ついていない」のピアノが並んでおり、グランフィールの有無を弾き比べることができたのですが、これはこれで悪くないタッチ感があり、その差は価格相応とまでは言えない気がしてきました。

ここで考慮すべきは、ピアノのタッチのように微妙なところがものをいう場合、並んでいるピアノを弾き比べることは必ずしもプラスばかりとは限らず、却って判断が乱れてわかりにくくなることがあることです。
そもそもタッチ感というのはある程度の時間をかけて弾いたときに、わずかなことが積もり積もって大きな違いとなって出てくることがあり、やたらあれこれ触ったりするだけで、簡単に結論を出せるようなものでもないようです。
例えば椅子などもそうですが、ショールームや売り場でいくら掛け比べしても、真の評価が下せるのは購入して何時間も何日も使ったときに判明するものだったりするように。

それだけグランフィールは奥の深い機構であることも事実でしょう。

付ければたぶん弾くのが数倍楽しくなると思いますし、中にはこれならグランドは要らないという人もいるかも。
とくにアップライト特有のあの上品とはいえないアバウトなタッチと、デリカシーに欠ける発音が好みでない人にとっては、目からウロコでしょう。
ピアノを弾く楽しさや気持ちよさが上乗せされることや、グランドへの買い替えと比較すれば安いという考えも成り立ちますが、現実の施工内容と価格を考えると、その判断はまさに人それぞれの価値観しだいというところ。

そもそもアップライトピアノというものは、ほんらい横が自然であるべきものを縦にするにあたり、無理を重ねた妥協の産物なので、生まれながらに構造上の欠陥があると思います。
早くから改良の余地のない完成形にまで行き着いたグランドアクションに対し、アップライトのそれは、改良できるのもならどしどしやってほしいところで、グランフィールはアップライトのアクションの欠陥や制約を補うアシスト機能といってもいいのかもしれません。

アップライトのアクションにはダブルエスケープメントがないせいか、なにかというとグランドに比べて連打性能のことばかりが強調されますが、マロニエ君はそんな超高速連打などあまりできないし、そこにはとくだんの不自由は感じていません。
それより大きく問題としたいのは、弱音域のコントロール性や、軽やかな装飾音の入れやすさ、音色の微妙な濃淡とか表情付けに対するセンシティブな反応であって、これらは場合によっては音よりも重視するところなのですが、アップライトではついワッと大きな音になったり、ベチャッとした音質になったり、音色変化に対する反応やコントロールの幅が狭いことには不満を感じます。

グランフィールはその点で、アップライト特有のクセや不自然さがかなり消えて、弾く人のイメージそのままに自在なコントロールが可能なタッチになっていることは、驚くべき画期的な発明だと思います。

ただし、今回わかった最も重要なことは、あくまで元になるピアノのタッチが基本となるので、グランフィールを取り付けるといっても、それぞれのピアノの状態からのスタートとなり、装着後の効果も各ピアノによって異なるということ。
その点でいうと、ヤマハは音に関してはいろいろな好みや評価があるものの、アクションのクオリティに関してはやっぱり一流だと思います。

その一流の上に取り付けられたグランフィールの効果が、どのピアノにもあてはまるものではなく、各メーカーの各ピアノによっても結果に差がでるのは当然といえば当然で、ここは見落としてはならないところ。
ただ、そうなると自分のピアノで結果がどうなるかは付けてみないとわからないということになり、一定の冒険心と覚悟は必要で、それにはやっぱりこのお値段は気軽に踏み出せるものではありません。

2018/07/19 Thu. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

スペシャル? 

ネットなどを見ていると、技術者が仕上げたカスタムピアノとかスペシャル仕様というようなピアノがたまに目に止まりますが、これってどうなんでしょう?

外観に関することもあるかとは思いますが、ここでいいたいのは中古ピアノを商品として仕上げたりリニューアルする際に、弦やハンマーなどを純正ではない輸入物のブランド品に交換して、独自の調整を施すことでオリジナルよりもワンランク上の音を目指したというもの。
なるほどという気もしないではないけど、本当に言うほどの効果があるものでしょうか?

マロニエ君も過去に何度かそのたぐいのピアノに触れたことはありますが、おー!と思ったようなことは実は一度もありません。
そもそもその前の状態を知らないし、オーバーホールが必要なほど消耗品類がダメになっているピアノの場合、それらを新しいものに交換しただけでも見違えるようになるはず。
本当にスペシャルと言えるほどの違いがあるのかどうかを確認するためには、新しめのピアノでパーツ交換をしてみることだと思いますが、普通そんなことはしませんから、要するにどの程度の差があるか本当のところはよくわからないというのが実感です。

ハンマーなどは、メーカーによる個性や特徴もあるとは思いますが、それよりも等級というか品質のほうが重要ではないかと思います。
同じメーカーでも安いものから高級品まであり、大事なのはそれぞれのハンマーの品質。

中にはありふれた国産の量産ピアノにレンナーのハンマーを付け、ややダイヤモンド型に整形するだけして「スタインウェイ仕様のハンマー装着」などと書かれ、きっちり手を入れているから実質は世界の名品並みのように変身させているといったような記述を見ることがあります。

もちろんどんなピアノでも使うハンマーは良いものであるのに越したことはないでしょう。
ただ、ピアノの音や性格の根本となるのは当然のことながら設計であり、これで大方の良し悪しや方向性など個性が決まってしまうと思われます。
日本の伝説的なピアノ職人である大橋幡岩氏は、設計図を描いたらそのピアノの音が聴こえてくるとまで言っておられるほど。

設計による根本の器や性格が決まっているピアノに、後からどんなに良質の弦やハンマーを奢ってみたところで、しょせんは気休め程度の変化に留まるのでは?とマロニエ君は思うのです。

いつも書いているように、ピアノを生かすも殺すも技術者と管理しだいという基本は変わりませんが、それは、あくまでピアノが生まれ持っている能力を最良の状態で引き出すということであって、設計そのものの話とは次元が異なります。
設計如何によって各々のピアノ個性や音色や能力は決まるので、ここがやはり楽器としての根本であり、どんなに優秀な技術者であろうとも、設計を凌駕するような魔法みたいなことができるわけでもない。

それほど設計というのは動かしがたいピアノの潜在力と性格を決するものだと思います。
同じ設計の中で、違いが出せる要素は厳密にはいろいろあると思われますが、もっともわかりやすいところでは響板ではないかと思いますし、フレームの鋳造方法などもあるのかも。

響板の良否というのはかなり影響があると思われ、良質な木材を天然乾燥したものと、普及品を人工乾燥したものでは、同じ設計でもかなり音や響きの差がでるのは間違いないと思います。
いい響板だと音に色艶や深味がでるし、伸びがあって柔らか、ボリュームも出ますが、響板の質が劣ると音が人工的で鳴りが痩せていき、スケールの小さい楽器になってしまうのではないかと思います。

ただし、マロニエ君の拙い経験でいうと、基本的な音色や音の性格は、それでも設計に拠るところが大きいのか、材料の質が落ちても、ピアノ全体としての性格や音の傾向みたいなものはあまり変わらない気がします。

同じピアニストが軽くリハーサルで弾いたときと、本番で真剣に弾いた時の差ぐらいで、まあそれも大きな違いといえばそうなんですが、すくなくとも別人が弾くほどの差にはならず、根底は同じところから出てくるものということです。

車でいうと、タイヤやダンパーをちょっと別メーカーのいいものに交換しても、その差はなるほどあるにはあるけれど全体が変わるわけではなく、言ってしまえば自己満足レベルを大きく出ることはないのです。
すくなくとも、腕利きのメカニックがパーツ交換して高度なセッティングをすれば一定の好ましい変化が起こる場合はありますが、だからといって価格が何倍もする高級車並とかポルシェと同等なんてことには、絶対になりません。

ピアノはわかりにくいものだけに、専門家の意見を鵜呑みにしがちですが、それだけに気をつけたほうがいいかもしれませんね。中には技術者自身が素晴らしい良くなったと信じ込んでいるケースもあるので、こうなると判断はいよいよ困難を極めます。


2018/07/14 Sat. 15:24 | trackback: 0 | comment: -- | edit