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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

電子決済 

電子決済って最近かなり浸透してきているようですが、それでも、日本はずいぶん遅れていると耳にします。
欧米の事情は知らないけれど、ご近所の中国や韓国ではとてつもない勢いで広がっているようで、NHKのドキュメント番組だったか中国では個人経営の小さな屋台とか、言葉は悪いですが物乞いのような人まで電子決済の端末をもっていて、人々がスマホをかざしてピッ!とやっているのにびっくり。

そうなるについては、偽札の問題や情報管理など、いろんな側面もあってのことではあるでしょうが、それにしても日本という国は、新しいことに対する切り替えは明らかに遅いなあと思います。

〜と尤もらしいことを言っているマロニエ君がいまだにスマホも持たず、ガラケーとiPadでお茶を濁している身なので、こんなことを言うことじたいがギャグのようですが…。
電話するぶんにはガラケーは使いやすいことと、服のポケットに入れるのに大きい物は避けたいというのがあってガラケーを使ってますが、その代償として結構重量のあるiPadをいつもカバンに入れて持ち歩くのも面倒くさいし、なんだかばかばかしいようにも思えてくるこのごろ。

いくらガラケーのほうが電話器として使いやすいと言ってみても、今はメールありLINEありで、電話で直接話をする機会も減っており、いつまでも電話のしやすさばかりを言い立てることじたい、いささか実情に合わなくなってきた気もしてきています。

いっぽう、聞くところではスマホには多種多様なアプリがあり(その点はiPadもある程度同じですがほとんど使っていない)、いろいろな電子決済機能もあるし、中にはスマホ限定の特典などというのもあるようで、時代の流れにはかないません。


さて、現在マロニエ君が唯一使っているのが、スマホとは関係ない、カード式の交通系電子マネーです。
普段はクルマ人間なので公共交通機関を使いませんが、以前関西旅行に行ったとき、同行した友人がこれを準備してくれており、どの電車に乗ろうともこれひとつでスイスイ、切符も買わずに改札を自在に出入りできる便利さに仰天したのがはじまりでした。

さらにこれで買い物までできると知って驚きは倍増。
それからというもの、すっかりこの交通系電子マネーにハマってしまい、べつに現金で払ってもいいようなところまで、わざわざこのカードを使うようになりました。
なにがいいと言ったって、細かい単位の支払いやお釣りといった面倒から解放され、ピッ!という音がすればすべては一瞬でおしまい、こんなに爽快なことはない!と興奮したものでした。

惜しいのは上限が2万円で、予めチャージしておかなくてはいけないことと、以前はチャージできる端末が限られた場所にしかなかった(毎日駅などを利用する人はいいかもしれませんが)ことですが、今ではコンビニでも可能になり、この問題もほぼ解決されました。

店舗によっては、レジの対応が不慣れなところもあり、その操作に手間取ったり、いきなりこちらの手からカードをもぎ取り、お店の人が目の前の読取器(というのか知らないけど)に押し付けて「ピッ!」とやって「お返しします」などといって返してくること。
あのカードはいわば個人の財布ですから、それをヒョイと取られて「えっ?」と思ったことは何度かありました。

それより気になるのは、カードをかざす際、読取器との間にほんの少し距離(2〜3cm)をおいていると、注意口調で「機械につけてもらっていいですか?」などと怒られてしまうことがあること。

はじめはそうなのかと思ったけれど、これは経験上カードと機械を密着させるかどうかではなく、読取器がカードを認識し決済するまでにちょっとしたタイムラグがあるのを、レジの人のほうが待ちきれずに、カードのかざし方が不十分なためと思ってしまうようです。

でも、聞いた話では、頻繁に電車など利用する人はカードを財布に入れたまま改札を出入りしているとか!
改札にある読取器は、性能もよほど良いのかもしれないけれど、もしお店で財布のままかざしたらどうなるのか、そこまで挑戦してみる勇気はまだありません。

福岡ドームもヤフードームになり、いつの間にかヤフオクドームになっていると思ったら、近い将来PayPayドームになるんだそうで、なんともめまぐるしいことですが、それだけ電子決済はこれからの社会の主流になっていくのでしょうね。
もはやガラケーにしがみつく理由もなくなってきたようだから、次の契約更新では検討の余地がありそうです。

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2019/11/18 Mon. 01:54 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ニュウニュウのいま 

クラシック倶楽部の視聴から。
ニュウニュウ・ピアノリサイタル、プログラムはショパンの即興曲第2番/第3番、ソナタ第2番、スケルツォ第3番、リストのウィーンの夜会。
2019年6月、会場は神奈川県立音楽堂ですが、無観客なので同ホールでの放送用録画かと思われます。

6月といえば、福岡でも同時期に彼のリサイタルがあって、気が向いたらいってみようかと思っていたけれど(結果的には行かなかったのですが)、上記曲目がすべて含まれるものでした。
NHKのカメラの前での演奏であるほうが気合も入っているだろうし、マロニエ君は実演にこだわるタイプではないから、ただ巡業先の中の演奏のひとつを聴くよりむしろ良かったような気も。

中国人ピアニストといえば、すでにラン・ラン、ユンディ・リ、ユジャ・ワンという有名どころが日の出の勢いで活躍しており、ニュウニュウのイメージとしては、彼らよりもうひとつ若い世代のピアニストといったところ。
いずれも技術的には大変なものがあるものの、心を揺さぶられることはあまりない(と個人的に感じる)中国人ピアニストの中で、マロニエ君がずいぶん昔に唯一期待をかけていたのがニュウニュウでした。

10代の前半にEMIから発売されたショパンのエチュード全曲は、細部の煮詰めの甘さや仕上げの完成度など、いろいろと問題はあったにせよ、この難曲を技術的にものともせずに直感的につかみ、一陣の風が吹きぬけるがごとく弾いてのけたところは、ただの雑技や猿真似ではない天性のセンスが感じられました。
まさに中国の新しい天才といった感じで、うまく育って欲しいと願いましたが、その後ジュリアードに行ったと知って「あー…」と思ったものでした。

個人的な印象ですが、これまでにも数々の天才少年少女がジュリアードに行ってしばらくすると、大半はその輝きが曇り、小さくまとめられた退屈な演奏をする人になってしまうのを何度も目にしていたからです。
さらには俗っぽいステージマナーなどまで身につけるのはがっかりでした。
誰かの口真似ではないけれど、セクシーでなくなるというか、才能で一番大事な発光体みたいな部分を切り落とされてしまうような印象。
そうならなかったのは、五嶋みどりぐらいでしょうか?

冒頭インタビューで、ジュリアードでは舞踊やバレエの友人ができ、彼らから多くのことを学んだと語り、ピアノの演奏も視覚的要素が大切と思うので、演奏には舞踊を取り入れているというような意味のことを語っていました。
ステージに立つ人間である以上、視覚的効果も無視できないというのはわかるけれど、直接的にそれを意識して採り入れるとはどういうことなのか、なんだか嫌な予感が走りました。

で、演奏を視聴してみて感じたことは、音楽家というよりはパフォーマーとして活動の軸足を定めてしまったような印象で、舞踊の要素なんかないほうがいい!としか思いませんでした。
どの曲も危なげなく、よく弾き込まれており、カッチリと仕上がってはいるけれど、そこに生身の、あるいはその瞬間ごとの魅力や表現といったものは感じられず、誰が聴いても大きな不満が出るようなところのない、立派な演奏芸で終わってしまっている印象でした。

また、ニュウニュウに限ったことではありませんが、曲の中に山場や聴きどころのない、全体を破綻なく均等にうまく弾くだけで、ドキッ!とするような魅力的な瞬間といったものがないのは、これからを担う若い演奏家が多く持っている問題点のような気がします。
好きな演奏というのは、ある一カ所もしくは一瞬のために聴き返すようなところがありますが、現在のニュウニュウの演奏は何度も繰り返して聴きたい気持ちにはならないものでした。

音はいささかシャープで温かさが足りないかもしれないけれど、それでもかなりよく楽器を鳴らせる人のようで、この点では上記の4人中随一ではないかと思いました。

2019/11/13 Wed. 02:28 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シンプルは至難 

BSクラシック倶楽部でスペインの巨匠、ホアキン・アチュカロの演奏に接しました。
この時の放送はアラカルトで、55分の放送時間のうち前半はキアロスクー四重奏団の演奏会だったため、アチュカロの演奏はファリャのスペイン小曲集から2曲と火祭の踊り、アンコールでショパン:ノクターンop.9-2、ドビュッシー:月の光、ショパン:前奏曲No.16というものでした。

ホアキン・アチュカロは日本ではさほど有名なピアニストではなく、マロニエ君も持っているCDで記憶にあるのはシューマンの幻想曲とクライスレリアーナぐらいです。
きわめて真っ当なアプローチの中に、温かな情感が深いところで節度をもって息づいていることと、音が美しく充実していたことが印象的でした。

この演奏会は今年の1月で、その時点で御歳86という高齢であることも驚くべきで、はじめのファリャは、想像よりゆるやかで落ち着いたテンポのなかで進められました。
普通はスペイン物となると、どうしてもスペイン風であることを意識した演奏が多く、激しい情熱、そこに差し込む憂いなど、交錯するものが多いけれど、さすがは本家本元というべきか、ことさらそれを強調することはなく、むしろゆったりとエレガントに演奏されたのが新鮮でした。
尤も、壮年期はもっと激しく弾いたのかもしれませんが…。

この30分ほどの演奏の中で、最も感銘を受けたのはショパンのノクターンでした。
きわめてデリケートな、ニュアンスに富んだ美しいショパンの真髄がそこにはありました。
アーティキュレーションの中のさらにわずかな息遣いがハッとするようで、まさに鳥肌の立つような、泣けてくるような演奏。
決して完璧な演奏というのではないけれど、この一曲を聴けただけでも視聴した価値があったし、これはちょっと消去する訳にはいかないようです。

同曲で感激したのは、記憶に残るものでは晩年のホルショフスキーがあったし、CDではリカルド・カストロにもマロニエ君の好きな名演があります。

この変ホ長調 op.9-2 は、ノクターンの中でも最も有名なもので、しかも自分でも弾けるほど音符としては難しいものではないけれど、理想的な演奏ということになると、さてこれがピアニストでも難しい至難という不思議な曲。
ひととおりの技術を身につけた人なら、音数の多い曲をあざやかに弾くことで、おのずと曲のフォルムは立ち上がりますが、ほんとうに難しいのは、こうしたシンプルで行間は全て自分で処理しなくてはいけない領域だろうと思います。

全般的に見ると、この曲は年齢を重ねないと弾けないものかとも思ってしまいます。
これほどショパンの大事な要素がぎっしりつまった曲というのはそうはないように思われ、親しみやすいメロディーの裏に次々に見落としてはならない要素が現れは消え、多くの弾き手がその多くを見落としながら表面を通りすぎてしまいます。

ショパンのノクターンといえば、遺作の嬰ハ短調 20番とされるものや、ハ短調 13番 op.48-1 などを好む向きもありますが、ある程度きちんと弾けばなんとかなるところがあるのに対し、op.9-2 は演奏上の背骨になるようなものがない危うさがあり、これを繊細かつ適切なニュアンスを保って聴かせるというのはなかなかできることではない。

単純に歌ってもダメ、ルバートやアクセントにもショパンらしさが要求され、f にもあくまで抑制を保つなど細心の目配りが必要で、なにか一つ間違えても雰囲気が崩れてしまうので、気が抜けません。
だからといって、あれこれ注意を張り巡らせて弾いていると、今度はその注意と緊張でこわばってしまい、まさにあちらを立てればこちらが立たずとなる。

ピアノの難しさというと指のメカニックや超絶技巧、所見や暗譜の能力などばかりに目が行きますが、最終的な難しさはこういうところにあるとマロニエ君は思うのです。

アチュカロはとくに気負ったところもない様子で、ホールの空気をこの曲の静謐な世界で満たしていたようで、こういう聴かせ方をする人は今後ますますいなくなることでしょう。
月の光も素晴らしかったけれど、やはりショパンのop.9-2が白眉でした。

2019/11/06 Wed. 02:16 | trackback: 0 | comment: -- | edit

伝統と陰影 

即位の礼も終わり、令和の時代も本格始動というところですね。

ああいうロイヤルイベント(皇室に使うべき言葉かどうかはわからないけれど)は結構好きなので、生放送を録画して、当日の夜はじっくり視てみました。
もっとも日本的な、簡素な美しさの頂点、そして日本という国の文化の根幹を目にする思いです。

ただ、畏れながら申し上げるといくつかの違和感がないでもなかったというのが正直なところです。
すべてが「伝統に則り」という文言がつけられますが、式典の舞台は当然ながら皇居新宮殿。

この皇居はむかしは言わずと知れた江戸城で、武家である徳川の居城。
明治維新によって皇居となり、しかも宮殿は空襲で消失、現在の新宮殿は戦後の技術の粋を尽くして昭和に建てられたもの。
いわば出自も時代もミックスされたもので、それは大変に素晴しいもの。

ただ、戦後に建てられた和のモティーフとモダンの類まれな融合である新宮殿と、そこへ両陛下が儀式のクライマックスでお入りになる高御座と御帳台が置かれている光景が、もうひとつ溶け合っているようには見えませんでした。
これらは平成の折には京都から運ばれたと聞きますが、新宮殿の最も格式の高い松の間に設置されますが、やはり前回同様、どこかしっくりこない印象が残りました。

あれがもし京都御所であったら、すべては美しいハーモニーのように響き合ったことでしょう。
平安絵巻から飛び出してきたような高御座と御帳台の姿形、大胆で独特な色遣い、これは建築にも同様の要素が求められるような気が…。

平安絵巻といえば、皇后さまをはじめ女性皇族方は御髪はおすべらかし、お召し物は十二単という平安時代からの伝統のものですが、それが新宮殿のガラスと絨毯が敷き詰められた現代風の廊下を静々と進まれる光景が、絵柄としてどうしても収まりません。

また高御座と御帳台が置かれた松の間の照明にも疑問を感じました。
よく見ると、松の間の両サイドの壁面上部には、まるで劇場用のような明器器具がずらりと配置されており、それらが一斉にこの空間をまばゆいばかりに照らし出していました。

しかし、両陛下および皇族方の装束、高御座と御帳台など、本来これほどの強力な照明にさらされるべきものだろうかという疑問が湧いてなりません。
昔の天皇は、映画などで見るように、御簾の向こうに静かにおわすばかりで、なにかと神秘のベールに包まれていたもので、そこにいきなり現代的な強力な照明をあてるのはどうなのか…と思うのです。

谷崎潤一郎の『陰影礼賛』という評論の中で、日本の文化は薄暗い光のなかで真価を発揮するよう、あらゆる事物が考えられ作られていると述べられています。
美しい漆に施された絢爛たる蒔絵や歌舞伎の舞台でさえも、本来は薄暗い光のなかで見るのがちょうどよいようになっている由で、ここでは白すぎる歯までもが、そういう美意識の中では好ましく無いというように書かれていた覚えがあります。

十二単のあのどこか生々しい色彩も、薄暗い御所の光を前提としてでき上がったものかもしれないと思うと、伝統と現代性の和解をもう少し探ってもよいのではないかと思いました。

普段は端正な美しさを極めた新宮殿も、どことなくホテルの催場ように見えてしまい、せめて高御座と御帳台が置かれた松の間の照明だけでも、もう少し繊細で幻想的なこだわりがあったら…という気がしました。
それにしても、自分の生涯で、すでに二度の即位の礼を目にできたとは嬉しきことでした。

2019/11/01 Fri. 00:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ジャン・チャクムル 

トルコの若いピアニスト、ジャン・チャクムルの来日公演をBSのクラシック倶楽部で視聴しました。

最近のコンクールというものにほとんど関心がないこともあり、この人が昨年の浜松国際ピアノコンクールの優勝者ということも、この番組ではじめて知りました。
よく考えてみると、NHK制作のこのコンクールのドキュメントがあったのだから、それで覚えていてもよさそうなものですが、この時はある日本人ひとりに異常なほどフォーカスしすぎており、その他のコンテスタントについてはほとんど採り上げられなかったこともあって印象にありませんでした。

それで、はじめて浜松コンクールのことを検索したら、この人が昨年第10回の優勝者であり、このコンクールが3年に一度開催されていることも今回ようやく知りました。
マロニエ君はこれだけピアノが好きで、ピアニストにも興味津々なのにもかかわらず、関心がないところは切り落としたように目が向かないためか、しばしばこういうことが起こります。

今回視聴したコンサートは今年8月にすみだトリフォニーホールで行われたもので、プログラムはメンデルスゾーンのスコットランド・ソナタ、シューベルトのソナタD568、バルトークの組曲「野外で」という、個人的には好ましく感じるものでしたし、プログラミングという段階ですでにピアニストのセンスの一端が窺えるもの。

演奏を聴いて真っ先に感じることは、近頃の若いピアニストにしては呼吸と力の配分があって心地よさがあるということと、出てくる音楽に一定のフォルムと生命感があるということでした。
さらにいうと、演奏に際してわざとらしい自己主張など多くを盛り込むなく、作品の求める自然なテンポやアーティキュレーションを崩さないことは、今どきにしては珍しいタイプだと感じました。

多くの若者は評価のポイントが稼げるような演奏はいかなるものかを心得て弾いているのが透けて見え、必要以上にタメや間をとったり、どうでもいいような価値のないディテールの細部とかを見せつけることに専念しすぎたあげく、肝心の音楽が停滞することがしばしばですが、チャクムルにはそれがなく、心地よい運びで音楽が前進します。

いわゆる最上級の天才的なピアニストの演奏を味わうといったものではないけれど、楽曲の世界を心地よく周遊させてくれる、スマートな案内人のようなピアニストだと思いました。

それを裏付けるように、インタビューでも概ね次のようなことを言っていましたが、チャクムルはある程度その言葉通りの演奏ができている人だと思い、言行一致というか納得できるものでした。
「演奏家はコンサート中に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自然に立ち上がります。練習や準備を重ね、そこを理解できるようにするのです。音楽の意味をすることと、ひらめきで弾くのとはちがいます。」

個人的には、この領域に留まる演奏というのはさして魅力を感じないことも事実ですが、演奏のプロフェッショナルとしては実際的で、変な自己アピールを押し付けられるよりは、こういう演奏をしてもらったほうがストレスなく快適というのも事実。
こういうピアニストが、知られざる作品を録音したり、実際のステージでも紹介してくれたらいいなぁと思います。


ピアノはカワイのSK-EXが使われていましたが、調べてみると、チャクムルは浜松コンクールの時からこれを弾いて優勝しており、かなりこのピアノを気に入って信頼もしているのでしょう。

実際にチャクムルの演奏や言葉に触れてみると、彼がSK-EXを選ぶというのもわかるような気がします。
マロニエ君もいつだったか最新のSK-EXをゆっくり触らせてもらいましたが、以前のカワイに比べて一段と洗練が進んで、没個性的ではある反面、嫌う要素も少なくなって、よりオールマイティなピアノにアップグレードしていると思いました。
とくに印象的だったのは、今回の演奏を聴いてもそうですが、カワイとしてはかなり雑音が少なくなっており、素朴で牧歌的でもあったものがぐっと都会風なテイストに寄せてきたという印象です。

チャクムルのようなスタンスで演奏をするピアニストにとって、ヤマハは華美にすぎるし、スタインウェイはピアノそのものが前に出すぎるだろうから、そうなると消去法でいってもカワイということになったのだろうと、勝手に想像し、勝手に納得です。

SK(シゲルカワイ)といえば、数年前に購入された知人がいて、先日お宅におじゃましてちょっと触れさせていただきましたが、いい感じに熟成されており、すっかり感心させられました。
「新品時がピーク」といわれる国内産ピアノでは、しっかりと成長しているのは素晴らしいことです。
この価格帯で買えるピアノとしては、かなり有力な存在で、好みにもよりますが有名メーカーのセカンドラインあたりを狙うよりは賢い選択となるのかもしれません。
ただし、あのロゴマークとカーボン素材のアクションに抵抗感がなければ…ですが。

2019/10/26 Sat. 02:18 | trackback: 0 | comment: -- | edit

軽い! 

楽しくありたいブログに、体の不調のことなど書いても意味がないし、だいいち無粋であり敢えて触れていませんでしたが、マロニエ君は今年の夏頃から少し膝の痛みを感じるようになり、整形外科など医療機関にもいちおう行ってみました。
これといって明確な原因もわからず、レントゲンを見ても幸い大したことでもないというわけで、その後は放置状態に。

主だった原因を強いて探すなら、運動不足と年齢的なもの、あとはストレスといったところが専門家のおおよその結論。
ただ、車の運転やピアノのペダル操作が、たまにつらい時があり、この先ピアノと車という人生2つの楽しみを取り上げられる時がくるのかと思うと、これはさすがに困ったことになったと思いました。

これで初めてわかったことですが、車のペダル操作に比べると、ピアノのそれは比較にならないほどの骨と関節と筋肉の労働であるということ。

さらにいうと、車のアクセルはなにしろ軽くて、そっと踏んで発進し、あとは交通状況に応じて離したり少し踏み足したりと、その動きもおだやかなものですが、ピアノのペダルときたら、ペダルじたいがかなり重く踏みごたえがある上に、その微妙な力加減や頻度というか踏む回数という点では、車とはおよそ比較にならないほどの運動量であることを知りました。

そもそも、車のアクセルはわずかな操作に終始すればいいのに対して、ピアノはまるで小動物のように絶え間なく踏んだり離したり、場合によっては小刻みにつつくような動きが必要で、しかもペダルもかなりの踏力を要することが判明、かくしてピアノは膝にとってはかなりハードな楽器であることを今ごろになって知りました。

幸いそれほひどい症状ではないから、注意してやれば弾けなくはないけれども、マロニエ君の場合、ピアノは純然たる趣味であるし、レッスンに通っているわけでも人前で弾くといった目的があるわけでもないので、弾かないならいつまでも無制限に弾かないで済んでしまいます。
そんなわけで自室のアップライトは気が向いたら触ることはあっても、リビングに鎮座しているグランドはほとんど手付かずの状態が続いていました。
しかも、そのグランドのペダルは標準的なものよりもやや重めで、技術者の方に聞いたら、中のスプリングを交換するとかあれこれの対策をいくつかおっしゃっていましたが、どうせ劇的に軽くなるわけじゃなし、面倒臭いこともあってついそのままに。

それを知人に話していたら、先日遊びに寄っていただいた折、なんとわざわざペダルの補助装置というのをお持ちくださっており、目の前に現れたそれは、金属製の手のひらにのるほどの小さな器具でした。
そういえば、こういうものがあることはネットか何かで見たような覚えはありますが、現物を見るのも触るのもこれが初めて。
それをペダルに差し込み、上からネジを閉めるだけで装着完了。

たったこれだけのことなのに、なんたることか、ウソみたいに軽くなっているではありませんか!
キツネにつままれているようでしたが、何回踏んでも、あっけないばかりに軽くて、どうしてこんなことができるのか、わけがわかりませんでした。
もともとのペダルにその装置を取り付けるから、踏む位置が約6cmほど手前に出てくるため、テコの原理でそうなるのか?とも思いますが、それにしてもその変化というのがあまりにも強烈で、こちらの頭のほうがついていけない感じでしたが、頭がついてこれなくても実際に重さはこれまでの数分の一というレベルになっているのですから、楽であることだけは紛れもない事実。

それにしても、なぜこんなに劇的に軽くなるのか、いまだに謎です。
テコの法則にくわえて、その装置じたいのわずかな重さも関係があるのかも…など思いを巡らすばかり。
もしそうだとするなら、これは鍵盤の法則を思い出させるもので、短いグランドより大型のほうが鍵盤も長くなり、そのほうが軽くコントロールもしやすいというのに似ているし、あるいは装置じたいの重さも一役買っているとしたら、これは鍵盤の鉛調整のようで、ピアノとはかくも微妙なバランスの上に成り立つ世界なのかと思う他ありませんでした。

いずれにしろ、思いがけなく良い物を教えていただきました。
あまりの効果に驚愕し、すぐに自分でも購入しようと思っていたら、なんともうひとつあるからどうぞ使ってくださいという望外のご厚意をいただき、とんでもないと思ったけれど、頑としてそのように仰るものだから、ついにはお言葉に甘えて使わせていただくことになりました。
かなり疎遠になっていたグランドですが、おかげで少し寄りを戻せるかもしれません。
なんともありがたいことでした。

ペダルの重さが気になる方は、断然オススメです。

2019/10/21 Mon. 02:09 | trackback: 0 | comment: -- | edit

リシャール=アムラン 

久しぶりにネットからCDを購入しました。

これという明確な理由があるわけではなく、とくに欲しいと思うCDがさほどなかったことと、すでにあるCDの中から聴き直しをするだけでも途方もない数があって聴くものがなくて困っているわけではないし、一番大きいのは新しい演奏家に対する期待が持てないことかもしれません。

また、慢性的なCD不況故か、リリースされる新譜も激減しており、店舗でもネットでも新譜コーナーには何ヶ月も同じものが並んでいたりと、この先どうなるのか?…といった感じです。
以前は、毎月続々と新譜がリリースされ、興味に任せて買っていたらとてもじゃないけど経済的に追いつかないほどでしたので、この業界も大変な時代になったということがよくわかります。

実際、若いピアニストでも興味を覚える人(つまりCDが出たら買ってみようと思えるという意味)というのはほとんどなく、大体の想像はつくし、もうどうでもいいというのが正直なところ。
そんな中で、わずかに注目していたのが2015年のショパンコンクールで2位になった、カナダのシャルル・リシャール=アムランで、彼のCDはショパン・アルバム(コンクールライヴではないもの)とケベック・ライヴの2枚はそれなりの愛聴盤になっています。

現代の要求を満たす、楽譜に忠実で強すぎない個性の中に、この人のそこはかとない暖か味と親密さがあり、けっして外面をなぞっただけのものではないものを聞き取ることができる、数少ないピアニストだと感じています。

とくにケベック・ライヴに収録されたベートーヴェンのop.55の2つのロンドとエネスコのソナタは、ショパン以外で見せるアムランの好ましい音楽性が窺えるものだと思います。
テクニック的にも申し分なく、しかもそれが決して前面に出ることはなく、あくまでも表現のバックボーンとして控えていることが好ましく、常に信頼感の高い演奏を期待できるのは、聴いていてなにより心地よく感じています。

さて、このアムランはそのショパンコンクールの決勝では2番のコンチェルトを弾きました。
このコンクールでは、決勝で2番を弾いたら優勝できないというジンクスがあるらしく、それを唯一破ったのがダン・タイ・ソンで、入賞後のインタビューで「なぜ2番を弾いたのか?」という質問に、アムランは「1番はまだ弾いたことがなかったから…」というふうに答え、「いずれ1番も練習しなくてはいけない」と言っていましたが、それから3年後の2018年に、そのショパンの2つのコンチェルトを録音したようです。
指揮はケント・ナガノ、モントリオール交響楽団。

前置きが長くなりましたが、今回購入したうちの1枚がこれでした。
添えられた帯には「アムランの芳醇なるショパン。ナガノ&OSMとの情熱のライヴ!」とあるものの、聴くなりキョトンとするほど整いすぎて、まさかライヴだなんて想像もできないようなキッチリすぎる完成度でした。

決して悪い演奏ではないけれど、演奏自体も録音を前提とした安全運転で、マロニエ君にはこれをやられると気分がいっぺんにシラケてしまいます。
演奏というのは、ワクワク感を失って額縁の中の写真のようになった瞬間にその価値がなくなると個人的には思っていますが、こういうものが好きな人もいるのでしょうが、個人的にはとてもがっかりしました。

リシャール=アムランという人は、自分を認めさせようという押し付けがなく、おっとりした人柄からくるかのような好感度の高さがあるけれど、このCDでよくわかったことは、でもキレの良さなどはもう少しあった方がいいということでしょうか。
それから、はじめのショパンのアルバムの時から少し気になっていたけれど、装飾音がいつもドライで情緒がないことは、今回もやはり気にかかりました。
とくにショパンの装飾音は、それが非常に重要な表情の鍵にもなるので、この点は残念な気がします。
初めに感じたことは、時間が経過しても曲が変わっても同じ印象が引き継がれてしまうのは、やはり人それぞれの話し方のようなもので、深いところで持っているクセなんだなぁ…と思います。

それでも全体としてみれば、今の若手の中では好きなほうのピアニストになるとは思います。

2019/10/16 Wed. 02:32 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シンプルで見えるもの 

最近、つくづく感じることですが、ピアノを弾く上で極めて大切なこととして、音数の少ないスローな曲をいかに人の心を惹きつけるよう美しく演奏できるかということ。

これはアマチュアはもとより、プロのピアニストでもできていないことが多く、そもそも、そこに重きが置かれていないことを折にふれて感じます。
大事なことはもっぱら派手な、機械的な技巧ばかり。

技巧といえば、難曲を弾いてのける逞しい超絶技巧のことだと考えられており、そのあたりの思い込みはどれだけ時間が経っても変化の兆しさえありません。
シンプルな曲を美しく弾くことも、自分の演奏に対して常に判断の耳を持つことも技巧であり、タッチや歌いまわしや音色の変化を適切に使い分けることも技巧だと思いますが、それを建前としてではなく、心底そう思っている人というのはかなり少ないでしょう。

ピアノを弾く人の言葉からも、聞こえてくるのは「かっこいい曲」などというワードだったりして、それはほとんどが有名どころの大曲難曲を弾けることであって、そのための鍛えられた技術がほしいだけ。

たしかに、指が早く正確に確実に力強く動こくことは大切で、それなくしては音楽も演奏もはじまらないというのも事実。
だとしても、それだけしか見えていないことは、音楽をする上で致命的なことではないかと思います。
自分の技量に少し余裕をもてる曲を、美しく歌うように演奏するための努力や工夫をすることには、実際にはほとんどの人が関心がなく、仮にそうしたいと思っても、そのために何をどうしたらいいのか、いまさらわからない。
その点、機械的練習は、気力と環境さえあれば、一日何時間でもがむしゃら一本道で訓練を続けることが可能。


アマチュアばかりではなく、プロのピアニストでも同じような問題が見て取れることはしばしばで、いま注目される日本人の旬のピアニストといえば、だいたいあのへんか…と思う顔ぶれが5人〜10人以下ぐらい浮かびます。

この中で「音数の少ないスローな曲」を、センスよく美しく、聴く人の心の綾に触れるような繊細な情感と注意をもって適切に弾ける人がどれだけいるかと考えたら、かなり疑わしくなる。

キーシンが12歳でデビューして、ショパンの2つの協奏曲を見事に弾いたことで世界は驚愕しましたが、そのときにアンコールで弾いた憂いに満ちたマズルカ2曲と、スピードの中に悲しみが走るワルツの演奏は、12歳の少年とは信じられない人の心の奥底に迫ったもので、まさに大人顔負け、震えが出るものでした。

このところ、ピアノはスポーツ競技の別バージョンのようにして、コンクールを舞台にしたアニメや映画が盛んで、先日もとある番組でそれをテーマに出演者やピアニストがスタジオにゲスト出演。
いまや、ピアニストもこういう映像作品の演奏担当ピアニストに抜擢されることがブランドになるらしく、それからして演奏家の世界も時代に翻弄されているようです。

そのうちのひとりが、とある番組でドビュッシーの「月の光」を弾いていたけどよくなかったと知人から聞き、録画していたのでさっそく視てみたところ、なるほど!というべきダサくてピントの外れた演奏で驚きました。
有名な出だしは、やたら粘っこく間をとって一音々々意味ありげに行くかと思うと、急に意味不明に激しく燃え上がったり、ある部分はあっという間に通過してみたり、なんじゃこりゃ?と思いました。

好意的に見ても、まるで説明的に弾かれたシューマンみたいな演奏で、およそドビュッシーとかフランス音楽は一瞬も聴こえてきませんでした。
この人は、現在日本を代表するピアニストのひとりで、マロニエ君もベートーヴェンの協奏曲などはわりに好印象をもって聴いていただけに、こんな程度のものだったのか…とがっかりでした。

それだけ、ゆっくりしたシンプルな曲というのはその人の音楽上の正体を露呈してしまいます。
プロのピアニストにとって「月の光」なんて、技術的には取るに足らないものでしょうけど、それだけにその人の美意識やセンス、音楽的育ちやイントネーションなどがあからさまに見えてしまいます。

以前、アンヌ・ケフェレックが来日公演で弾いた同曲の夢見るような美しさがむしょうに恋しくなりました。

今どきのピアニストは演奏精度という点では一定のこだわりを持っているらしいけれど、ほぼ共通していることは、音楽が横の線になって流れてゆく生命力が弱いし、ここぞというツボにもはまらず、常に縦割りで拍とハーモニーが淡々と支配するだけ。

せっかく音楽を聴こうとしているのだから、ストレートに音楽を聴かせてほしいものです。

2019/10/11 Fri. 02:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アニメは苦手 

マロニエ君の苦手なもののひとつにアニメがあります。

子供の頃は藤子不二雄だトムとジェリーだと、ずいぶん熱心に見ていましたが、最近の日本のサブカルチャーとして世界からも高く評価されているという最近のアニメは、きっと素晴らしいのだろうけれど、どうも我が身には馴染まないようです。

夜中にテレビなどでもよくやっていますが、ろくに見たこともないし、ジブリというのも言葉はよく耳にはしていたけれど、それが何であるのかも、実を言うとつい最近知りました。

というようなわけで、かなり話題になった『ピアノの森』もまったく見たことがなく、せっかくピアノがメインだというのにあまり見ようとも思いませんでした。
いつだったかNHKで再放送があるというので、「一度ぐらい」という思いから、念のために録画だけはしていましたが、見るほうはなかなか腰が上がらず、この夏ぐらいから一大決心の末にポツポツと見はじめました。

根本的にマロニエ君はアニメの楽しみ方というのを知らないし、慣れていないせいか、どうしても違和感や突っ込みどころのほうが意識のセンサーに引っかかり、いちいちそうなる自分が鬱陶しくさえ感じます。

これはアニメであって、映画でも現実でもないのだから、つべこべいわずに大きなところで愉しめばいいと自分に言い聞かせつつ、その単純なことがなかなか難しく、昔のアニメよりどこが優れているのかもすぐにはわかりません。

ひとつにはリアリティとファンタジーのバランスにも問題があるのでは?と思ってみたりします。
『ピアノの森』は出てくるピアノとかホールなど、特定のものはやけに正確に描写されているかと思えば、それ以外はかなりデフォルメされたアニメ調だったりと画調がまず一定でなく、中途半端にリアルすぎるんだろうと思います。
ショパンコンクールでのワルシャワフィルハーモニーホール、スタインウェイやヤマハなど、現実そのものをそのまま写しとったような絵柄がバンバン出てくるあたりも、この作品の魅力であるのかもしれないけれど、妙な生々しさも含んでいて、リアルならリアルに統一して欲しい気持ちになります。

テーマ曲がショパンのop.10-1というところは新鮮でよかったけれど、この作品のタイトルでもあるところの、森の中にスタインウェイDが捨ててあるという設定だけでも、湿度は? 雨が降ったら? …などと、アニメ鑑賞者としては甚だ無粋なことなんでしょうが、そっちが気になって仕方ない。

それと、あれ、絵はうまいんですか?
ごくたまに本当に曲のとおりに指が動いて、よくそこまで研究されているなぁと驚くシーンもあったけれど、全体としてはアニメというわりに静止画がやけに多く、演奏中の人物も、それを固唾を呑んで聴き入る聴衆も、ほとんどが静止画で、セリフや音楽だけが進行するのは、ちょっとした驚きでした。
今どきのことだから、昔に比べてよほど精巧緻密に絵が動くのかと思ったら、こうも静止画が多用されるのかとびっくりしましたが、考えてみれば絵を動かすことがアニメにとってコストに直結することだと思えば、静止画が多いのはコスト削減ということなのかもと、なんとなく残念な納得の仕方をしてしまいましたが、せっかくアニメを見ているのにそういう裏事情を考えることじたいがもう楽しくない。
いずれにしろ、こうなると、声優のセリフつき紙芝居&ときどき動くものと思ってしまうし、動いても画面の中の小さな一カ所だけであったり、焦る人物の眉毛だけがピリピリと動いたりで、昔のアニメのほうがよほど自然で滑らかだったのでは?と思いました。

また、演奏を担当しているのは現役の若い人気ピアニストだということで、その3人をスタジオに招いて演奏とトークの混ざった番組をアニメ本編より先に見ていました。
ならば、演奏はよほど本格的なものかと期待していたのですが、アニメの中で聴こえてくるのは、どれも線の細い、縮こまったような演奏ばかりで、どういう意図で演奏されているのかマロニエ君にはまったく意味不明。

せかっくアニメなんだから、演奏ももっと表現が強調されたものであってもいいような気がするのですが、全然そうではない。
そもそもアニメとはなにがリアルでなにが誇張されるのか、その線引もまったく不明。

そのあたりのことがさっぱりわからず、ことほどさようにアニメに入り込めないマロニエ君というわけです。
やっぱりアニメはドラえもんとかちびまる子ちゃんがしっくりくるマロニエ君でした。

2019/10/05 Sat. 02:14 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ズンとラー 

ロシアを代表すバレエ団といえば、いわずとしれた「ボリショイ・バレエ」と「マリインスキー・バレエ」。

マリインスキーバレエというのが本来の名称ですが、ソ連時代は「キーロフ・バレエ」として知られており、むかしマロニエ君が子供の頃に来日公演をやっていた時代は、少なくとも日本では「レニングラード・バレエ」の名で親しまれていました。

そのマリインスキー・バレエの附属学校として有名なのがワガノワ・バレエ・アカデミー。
ここに入学するには、本人はもとより、両親の家系までさかのぼって、バレエにふさわしい体格の持ち主か、太る体質の心配はないかまで調べられ、さらに入学後も太ってきたら退学になるという徹底ぶりというのは、以前からかなり有名な話でした。

NHKのBSプレミアムで、この学校の男子生徒に密着し、迫り来る卒業試験から各バレエ団の入団オーディションまでを追ったドキュメントが放送されました。

5〜6人の男子学生がその対象で、校長(元ダンサーのニコライ・ツィスカリーゼ)自ら彼らに対して連日熱い指導が続けられます。

そこにはクラストップの有望株と目されて、すでにプロ並みのしっとりした表現力を身に着けた者、あるいは長身と甘いルックスに恵まれるも今ひとつステージのプロになるための気構えの足りない者など、いろいろな生徒がいます。
その中にアロンという、英国人の父と日本人の母を持つ青年がいて、非常に努力家で優秀な生徒でしたが、周りに比べると、やはり手足の長さが不足気味、身長もやや低めで、それが彼のハンディになっていました。

目鼻立ちや雰囲気にはさほど日本人っぽさはないように見えますが、いざ白いタイツを履き、ロシアや北欧などの青年と並んで練習に励むと、やはり日本人のDNAの存在を感じないわけにはいかず、日本人のコンプレックスの根底にあるものは、ひとことで言うなら体格に行き着くのではないかということをあらためて感じずにはいられませんでした。

顔も濃い顔立ちで、普通に街にいればむしろラテン系の良い部類のようにも見えそうですが、なにしろロシアバレエの精鋭が集まる場所というのは、たとえ学校でも、すべてにおいて基準が違います。

そのアロン君、日本的なのは体格だけではありませんでした。
お母さんが日本人というだけで、英国生まれの英国育ちで日本語も番組中はひとこともじゃべらないほどヨーロッパ人だし、その踊りはとてもうまいのだけれど、どこか日本らしさがあって、のびのびとした流れや軽さがありません。

すると指導にあたるツィスカリーゼ校長が、なんとも鋭いコメントを浴びせました。

曰く、「日本人の歌い方の「ズン!」という感じで踊っている、もっと「ラー!」という感じで踊りなさい。」
まったく仰せのとおりでした。
アロン君に限ったことではなく、日本人のバレエは技術はとっても上手くなっているけれど、この「ズン!」という感じはいまだにつきまとっているのは、精神の奥深くにある何かが作用しているように感じます。

テクニックがテクニックで留まり、決まりのポーズやステップを覚えて並べていくだけで、体の動きが開放された軽やかな踊りとして見えません。
やはり日本人が自己主張が気質として弱いため、高度なテクニックの獲得までが目的になっている気がします。

そのテクニックが表現の手段として用いられるステージに至らない。
なぜかと考えますが、日本人は生まれながらに自己表現は慎むように遠慮するように育ってきて、だから気がついたときには表現したいものがない、もしくは小さいからではと思います。
行き着く先は、磨き上げたテクニックだけを拠り所にするという結果になるのではないかと思いました。

言われた方のアロン君は、「日本の歌も知らないし…」と困惑していましたが、その日本らしさは無意識に踊りに出てしまうもの、これぞ先祖から受け継いだ遺伝子のなせるものか?と思いました。
これは器楽の演奏にも同じことが感じられます。

器楽は肉体そのものを見せるパフォーマンスではないから、いくぶんマシとは思うけれど、やはり「ラー!」ではなく「ズン!」であるし、さらにいうなら歌ってさえいないことも珍しくありません。
日本人のパフォーマンスというのは、どこか真似事のようで暗くて閉鎖的に感じることが多いです。
ヴァイオリンなどでは、マロニエ君の個人的印象でいうと比較的関西圏から優れた演奏家が出るように思いますが、関西は日本の中では最も自己主張の強い地域性ということが関係しているのかもしれません。

2019/09/30 Mon. 01:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

時代の音 

当たり前なのかもしれませんが、ピアノの音というのも時代とともに少しずつ変化していくもの。

他の工業製品のように絶えず新型が出てくる世界ではないけれど、ピアノもとりまく社会環境、時代の好みや価値観、弾く人のニーズによって変化していくようです。

〜ということぐらいはわかっていましたが、最近はひしひしとそれを感じ始めています。

それが、毎年少しずつ変化しているのか、ある程度のスパンや区切りで大きく変わるのか、そのあたりは定かではないけれど、たとえば10年単位で見てみると、大雑把な世代というものがあることに気づきます。

例えばハンブルク・スタインウェイでは、1960年代、1970年代、1980年代、1990年代、2000年代とそれぞれの時代の音があって、古いほど太くて素朴な音、新しくなるほど華やかさが増す一方で、腹の底から鳴るようなパワーは痩せてゆき、その流れはとどこまで行くのか…という印象があります。

とりわけ昨年あたりからの新型は、なんとなく本質的なところまで変わってしまったようで、表面的には「いかにも鮮やかによく鳴っているよね」といわんばかりにパンパン音が出るキャラクターですが、その実、ますます懐の深さや、表現の可能性の幅はなくなり、整った製品然としたピアノになっているようにも感じます。

味わいだの、陰翳だの、真のパワーだのという深く奥まったこと(すなわちピアノの音の美の本質)をとやかく論じるより、新しい液晶画面のように、明るくクリヤーでインパクトのあるもののほうが、ウケるということだとも思えます。
そうしないと、大コンクールという国際舞台でもピアノも選ばれるチャンスを逸するということかもしれません。

もちろん大コンクールでコンテスタントに選ばれることがそんなに大切なのか?と思うけれど、そういう考え自体がきっともう古いのであって、メーカーにとってはこれが最優先であろうし、だからもうブレーキが掛からない。
どれだけ本物であるか時間をかけて出る答えより、パッとすぐに結果が出ることのほうが優先される時代。

ヤマハはCFXが登場して10年ぐらいになるのでしょうか?
はじめはいかにも歯切れよく、リッチで上質な音が楽々と出るピアノというイメージでした。
当初は演奏会で聞いても、モーツァルトまでぐらいの作品であれば、場合によってはスタインウェイより好ましいかも…と思えるような瞬間もあるピアノでしたが、その後はまた少しずつ違うものになっていった印象。
個人的なCFXの印象では、年々音の肉付きが薄くなり、懐も浅くなってきた気がします。

実は、こんなことを書いたのは、ちょっとしたショックを受けたから。
最近プレーヤーのそばに置いているCDがかなり聴き飽きてきたので、なにかないかと棚をゴソゴソやっていたら、フランスのピアニスト、ジャン=フレデリック・ヌーブルジェによるベートーヴェンのハンマークラヴィーアが出てきたので、これを聴いてみることに。
久しぶりでしたが、その鮮やかな演奏もさることながら、ピアノの音にはかなり驚きました。

録音は2008年にフランスで行われたもので、ピアノはヤマハCFIIISなのですが、これが「今の耳」で聴いてみると、なかなかいい音しているのには、かなり驚きました。
大人っぽく、しっとりしていて、深いものがあり、ある種の品位すら備えていました。

10年前ならなんとも思わなかったCFIIISの音が、こんなにも好印象となって聴こえてくるのは、それだけ最近のコンサートピアノ全体の音質が変わってきているからにほかなりません。

一時代前はヤマハもこういうピアノを作っていたんだと思うと、いろいろと考えさせられるところがありました。

いまや最新工法によるスタイリッシュなタワーマンションばかりが注目されがちですが、一時代前のずっしりとした作りの高級マンションの良さみたいな違いがしみじみ伝わってくるようでした。

いずれにしろ「重厚」というものは手が抜けず、裏付けるコストがかかるから、もう時代に合わないのでしょうね。

2019/09/24 Tue. 15:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

つづき 

パリの様変わりは、おそらくはパリだけのことではないのでしょう。
いつからということはわからないけれど、ヨーロッパはどこもかつての輝きを失っている気がします。

マロニエ君はとりあえずパリの状況に仰天して別の友人にその話題したところ、彼の知る学生でヨーロッパに留学経験のある人は、大抵何度かは強盗被害みたいなものに遭っているのが普通!?だと言われてしまい、「だったら、治安に関しては北京や上海のほうがはるかに安全では?」と言うと、「もちろん!」とこともなげに言われてしまいました。
まるでこちらの認識が遅れているかのように!

少なくとも20世紀までの、文化の中心である憧れのヨーロッパというものは、実際にはかなり失われてしまっているようで、留学などするにしても、治安に関してはかなりの覚悟が必要とのことで本当にびっくりしました。

曰く、テレビなどでよくある街角歩きのような番組では、切り取って編集し、いいところだけを作り上げるだけの由。
出演するタレントなどは、一見自由に動き回っているようにみえるけれど、スタッフなど常に周りから守られて、撮影隊も集団で行動するため、それがひとつの防御形態になっており、表面だけを見て気軽に個人旅行などをするのはリスクが有るとのこと。
べつに行く予定もなかったけれど、マロニエ君のような全身油断まみれのような甘ちゃんが立ち入るところではないようです。

こうなる背景のひとつは、移民問題や、あまりに行き過ぎた経済至上主義が世界中に蔓延した結果だというのはあると思います。
なにかといえば経済々々と、世界中そのことばかり。
そうなってくると、文化や芸術は直接的にお金になるものではないから、どうしても二の次になり、価値観の多様化とあいまってじわじわと価値を失い、価値を失えば豊かだった土壌は痩せて、新しい芽は出ないばかりか既存のものまで次々に枯れていくだけということなのかと思います。

そういえば、10年ぐらい?前のことですが、新聞紙上である記事を見たことを思い出しました。
福岡県出身の油彩画家の方で、長年パリで活躍して来られたという方で、年齢的にもまさに活動の絶頂期というタイミングで、パリのアトリエを引き払い、故郷の福岡県のどこか(お名前も場所も忘れました)に戻ってきたので、それを機に個展を開くという記事が載っていました。

その方のインタビューがありましたが、細かいことは忘れたけれど、その方が若いころ渡仏した頃からすると、近年のパリのあまりの変質ぶりに大いに落胆させられた。
年々芸術的な雰囲気が失われ、殺伐として、パリはもうあのパリではなくなった。
これ以上、自分がそこに留まる意味を感じられなくなったため、この度の帰郷となったという意味のことが述べられていました。

この記事を見た時は、へぇ…とは思いつつ、芸術家特有のちょっとしたことへのこだわりや気まぐれ、あるいは失礼ながら自分自身の行き詰まりもあるのでは…ぐらいに思っていました。

しかし、昔からパリの芸術と文化をリスペクトしていたその友人の、100年の恋も覚めたようなその様子を見て、これはやはり本当らしいと思うに至りました。


このところ日本への外国人観光客がずいぶん増えているようで、しかも多くがまた訪れたいという好印象を抱いて帰っていくとのことで結構なことではあるけれど、マロニエ君は正直いって不思議でなりませんでした。

日本のどこがそんなにいいんだろう?と日本人がこう言ってしまっちゃおしまいですが、まず安全で、人もそう危なくはないというだけでも日本の魅力なのかと、なんだか思いもしなかったことから納得できたような気になりました。

昨日もニュースで、海外からの旅行客が日本で落し物をしたところ、届け出があって戻ってきたというようなことを絶賛していましたが、こういうことが世界から見れば文化なのか?
ついには、遺失物を本国の持ち主へ送り返すビジネスも開始されるとかで、たしかに日本ならではのことかもしれませんね。

2019/09/19 Thu. 02:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

最近のパリ 

最近のパリの話というのを、久しぶりに会った友人から聞きましたが、かなりショッキングな内容でした。

一年ほど前にパリに行って戻ってきたとき、「我々が知るパリはもうどこにもない…」というようなことを電話で言っていたので、「またまた、大げさな!」と思っていたのですが、今回じかに詳しく聞いてみたところ、そこから語られる数々の話には少なからず驚かされるものがありました。

普通パリといえば「花の都パリ」という言葉が思い浮かぶように、芸術、美食、ファッション、その他もろもろの文化にかけては歴史的にも世界の中心として君臨した街。
パリを愛した芸術家は数知れず、その美しい街並み、すべてのものに息づくシックで斬新なセンスなど、マロニエ君もずいぶん昔に行ったパリはまさにそういう場所でした。

ところが近年の状況はさにあらず、街は殺伐とし、いわゆるパリジャン、パリジェンヌの大半は姿を消し、まったく似つかわしくない違った様子の人達でパリの街は溢れかえっているといいます。

ありとあらゆることに変化が起きており、例えば、かつては街のいたるところにあった美しい菓子店など、どこを見渡しても一気に払いのけられたように無くなり、かろうじて残る店も、商品は日持ちのする魅力ないものに合理化され、さらには昼食時間帯にはマックよろしく、パン(パン屋ではないのに)に何かを挟んだテイクアウト用の軽食を販売するなど、もはや伝統的なパリの気の利いた繊細なスタイルの多くは、ゼロではないだけで大半は消滅しているのだとか。

街角で土産として売っていたエクレアには「I LOVE YOU」の英字が踊り、地元の人々の優雅な生活を感じさせるものはことごとく消えているとかで、街全体は殺伐としているといいます。
ランドマークである凱旋門、エッフェル塔、オペラ座といった建造物はあるものの、でもそれだけで、街全体はほとんどスラム化しているといいます。
思わず涙しそうなノートルダム寺院の大火災は、こうしたパリの変化を象徴した惨事だったような気もしてきます。

なにより強く訴えていたのは、美しいパリのイメージとはかけ離れた治安の悪さで、いたるところにどこから来たのかわからないような怖そうな人達がたむろしているから、ただ歩いて通過することさえたじろいでしまうため、街歩きなんぞしたくてもできない状況だとか。

いっぽうルーブルやオルセーなどの美術館は、いずれもアジアの大国の人達でテーマパークのようにごった返し、有名作品の前ではワイワイガヤガヤ大声が飛び交い、揉み合うようにして自撮り棒で写真をとるなど、名画の世界に浸ることなどまったく不可能だとか。
日本の美術館のように静かに作品を鑑賞できるところは、アメリカのことは知らないけれど、もしかしたら日本ぐらいではないか…ともこぼしていました。

さらに驚くべき事件が追い打ちをかけます。
そもそも、この旅にはクリニャンクールの蚤の市にあるらしい楽器店に行く企みがあったというので、またバカなことを!とは思いました。
家族にも内緒でまとまった現金を持っていたらしいのですが、オペラ座近くのメトロの駅階段を登っていたところで、日中、突然背後から襲われ、有無を言わさず背中のリュックのファスナーを開けて現金を強奪されたというのです!!!
まさに一瞬のことで為す術もなく、さいわい現金は2つに分けていたため、1つは無事だったものの、その被害たるや笑っては済まされないような額で、聞いているこちらが心臓はバクバク、頭はクラクラしてきました。

警察に飛び込んでも訴えるだけの語学力もないし、上記のような街の状況からしても、取り返すことなど不可能だと悟って、被害届も出さなかったというのです。
それからというものさらに気を引き締め、リュックは背中ではなく体の前に提げるなどして全身注意の鎧を固めていたにもかかわらず、後日なんと再び歩いているところを物盗りに襲われ、今度は必死に防御して被害はなかったというのですが、相手は複数の場合が多いから、下手をすれば物陰に連れ込まれて命の危険さえあることを肌で感じたそうです。

帰国していろいろな人に話したところ、フランスに限らないそうで、スペインではターゲットを路地裏に連れ込み、口元を殴って前歯を折られてパニックになっているところで、身ぐるみ剥がれるという手口が多いのだそうで、今どきのヨーロッパとはそんなにも恐ろしいところなのかと驚愕しました。

この友人は、ロッシーニではないけれど音楽と美食を心から愛するため、一人旅のくせに高級レストランに行くことも目的で、それでも意地でいくつかの有名店には行ったというのですが、さすがに店内はどこも安全だったけれど、食事が済んで一歩店を出ると、とたんに再び恐ろしい危険と緊張感が広がり、要するに街全体が一瞬も気の抜けない無法地帯のようになっているということのようです

これがパリの現在の姿だなんて、考えたくはないですね。
近年日本のアニメがパリでも大人気などという話を聞いて首をひねっていましたが、環境自体がこれだけ変わっているということも考慮しなくてはいけないのかもしれません。

その友人は、佳き時代の終わりの頃から4回ほどパリに行ったけれど、もう二度と行くつもりはないそうです。

2019/09/12 Thu. 16:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ブラウティハム 

むかしと違って、何を聞いてもドキドキワクワクさせられることが極端に少なくなった、いわば演奏家の生態系が変わってしまったかのような今どきの演奏。
技術的な平均点はいくら向上しても、喜びや感銘を覚える演奏には縁遠くなるばかり。

そんなあきらめ気分の中、ひさびさに面白いというか、なるほどと頷ける演奏に接しました。

Eテレのクラシック音楽館の中からエド・テ・ワールト指揮によるN響定期公演で、冒頭がベートーヴェンの皇帝だったのですが、ピアノはロナウド・ブラウティハム。
オランダ出身のフォルテピアノ奏者として、旬の活躍をしているらしい人で、近くベートーヴェンの協奏曲全集もリリースされる予定ですが、ピアノは普通にスタインウェイのD。
(全集はフォルテピアノ使用の由)
その普通がとっても普通じゃないので、まずここで驚きました。

A・シュタイアーのときがそうであったように、フォルテピアノの奏者がモダンピアノを弾くと、どこか借りもののようなところが出てしまうことが往々にしてあるので、さほどの期待はせず視聴開始となりました。

ところが、その危惧は嬉しいほうに裏切られて、これまでに聴いたことのないような、センシティブな美しさに満ちた演奏に接することになりました。
とりわけ皇帝のような耳タコの超有名曲で、いまさら新鮮な感動を覚えるような演奏をするというのは生易しいことではありません。

なんといっても、聴いていて形骸化したスタイルではなく、音楽そのものの美しさが滲み出てくるのは強く印象に残りました。
もともとベートーヴェンの音楽は誇大妄想的で、葛藤や困難があって、それを克服する過程を音楽芸術にしたようなところがあるけれど、ブラウティハムはそこに意識過剰になることがないのか、曲本来がもつ純音楽的な部分をすっきりと聴かせてくれるようで、おかげでベートーヴェンの音楽に内在する純粋美を堪能させてもらえた気分でした。

特に皇帝でのソリストはヒーロー的な演奏をするのが常套的であるため、そうではない演奏となると貧弱で食い足りないものになりがちです。
ところが、この演奏は、そういうものとは根本的に別物。
深い考察や裏付けがきちんとしたところからでてくる音楽なので、そのような不満にはまったく繋がらなかったばかりか、これまで何百回聴いてきても気づかなかった一面を気づかせてくれたりで、これにはちょっと驚きでした。

それと、これまでの印象でいうと、一部の古楽器奏者には、自分達こそ正しいことをやっているんだという押しつけがあって、モダン楽器演奏の向こうを張るようなイメージがありましたが、ブラウティハムの演奏はそういう臭みがなく、ごく自然に耳を預けられる魅力がありました。

彼は決してピアノを叩かないけれど、それが決して弱々しくも偽善的でもなく、むしろ多くのモダンの演奏家よりも音楽そのものに対するパッションがあって、その上で、常にピアノを音楽の中に調和させようとするからか、音の大きくない演奏でも深い説得力があり、舌を巻きました。
ピアノがどうかすると弦楽器のようであったり、皇帝がまるで4番のようにエレガントに聴こえる瞬間が幾度もあって、とにかく美しい演奏でした。

今どきのピアニストによる、指だけまわって、型に流し込んだだけの簡単仕上げで、なんのありがたみもドラマもない、アウトレット商品みたいな演奏の氾濫はもうこりごりです。

アンコールでは「エリーゼのために」が弾かれ、そこでもわざとらしい表情を付けるなど作為が皆無の、節度ある自然なアプローチが、まるで初めて聴く曲のようだったし、2つの中間部も、これほど必然的に流れていくさまは初めて聴いたような気がして唸りました。

ベートーヴェンは、実はとっても優美な音楽ということを教えられました。

2019/09/06 Fri. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

定義と機会 

前回の記述で、ハンマー交換に関連して思ったこと。
それは、ピアノのオーバーホールの定義とは?そもそもなにをもってオーバーホールと云えるのか?ということ。
その基準を明確に示すものはおそらくなく、ハンマーと弦とチューニングピンを交換するだけでもそう言ってしまうことがあるようですし、かくいうマロニエ君もずいぶん昔は単純にそんな風に思っていたこともありました。

当然それには異論もあり、それなら「ハンマーと弦とチューニングピンを交換済み」とすべきだとする意見は尤もで、オーバーホールというからにはもっと広範な意味が含まれて然るべき。

では、どこまでやったらオーバーホールと言っていいのかとなると、ピアノの状態にもよるでしょうし、技術者の考え方にもよるでしょうから、これは答えに窮する問題ですね。

アクションや鍵盤まわりのほぼすべての消耗品を新品に換える、ダンパーのフェルトも交換、弦を外しフレームを外して塗装、響板のニスを剥がして補修までやって、なんならボディの塗装まですべてやり変えることもあるし、中にはピン板を作り直したり、響板そのものまで張り替えるということもあることを考えると、これは正直いってどこまでという線引は簡単にできるようなことではありません。

やるとなれば際限がないし、厳密なことを言い始めたら、鍵盤も鉛を入れたり抜いたりで痩せて傷だらけだから新造し、アクションも新品にするならそれにこしたことはない。
すべてのクロスやバックチェックも交換もしくは張替えて、なんなら金属パーツも交換。
そうなると、本当に何もかもということになり、最後に残るのは、ボディとフレームぐらいになるのであって、そうなると完璧なオーバーホールというのを超えてしまって、新造の要素が勝ったピアノになってしまう気がしないでもありません。

では、そこまですれば最高の音が約束されているかといえば、それは別の話で、陶芸が釜から出してみるまでわからないというのと同様、オーバーホールもやってみるまでわからない、あるいはそこから数年経ってみないとわからないという面があり、なかなかおいそれと手が出せるものではないでしょう。
とくに作業をする人の腕前にも大きく左右されると聞きますし、さらにいえばそれを受け取って、弾いて、管理していく側にも責任の一端がありそうです。

加えて費用の面でも、やればやるだけ値は嵩み、そうなるとよほどの高級ピアノであるとか歴史的な価値がある等、ごく一握りの特別なピアノだけがこの超若返り術を受けることができるわけで、一般的な量産ピアノではほぼありえない話になってしまいます。

わけても量産ピアノの場合、コストとの厳しい睨み合いになり、最低限の消耗品の交換に留めることが現実的なオーバーホールということになりそうです。
それでもそれなりの費用となるので、日本ではとくに高級品ではない国産ピアノのオーナーでそこまでする理解と覚悟をもって作業依頼される方は、ゼロとは言わないまでも、普通はおられないと思います。

それでなくても日本人は基本的に新しい物が好きで、古いものを手入れをしながら使うという文化や習慣が薄く、住まいも、クルマも、そしてピアノも、経済さえ許せば買い換えに勝るものなしという感性なので、そこまでするなら倍の金額を出しても買い替えを選ぶように思います。
かくして、ピアノは下取りに出されることに。

量産ピアノが大修理を受けるのは、大抵の場合、いったん所有者の手を離れたこのときのような気がします。
おどろくばかりの安値で買い取りされたピアノが、消耗パーツを交換して再生品として美しく仕上げられ、そこに利益が上積みされて、新品を買うより安い…ぐらいの微妙なプライスで販売される場合。

そう考えると、日本でピアノのオーバーホール(のようなこと)がおこなわれるケースの大半は、所有者を失ったピアノが、再び商品価値を与えられる場合ということになるのかもしれません。

2019/09/01 Sun. 02:20 | trackback: 0 | comment: -- | edit

続・軟化剤 

〜前回の続き。
軟化剤というものを初めて使ってもらい、約2週間経ってみて感じるところは、少なくともハンマーフェルトの柔軟性復活のためにはこれはかなり有効ではないか、ということでした。

ひとくちにピアノといっても立ち位置はいろいろです。
コストを惜しまず理想を追求できるのはステージ用など一握りに過ぎず、多くは、言葉は悪いですが妥協的も必要という状況に置かれたものだろうと思います。
で、ここでは、あくまで普通に気持よく使えればいいというピアノに関しての話。

普通に気持よくとはいっても、ハンマーもある程度使い込まれていくと賞味期限が迫ってくるのは当然で、正攻法で言うとハンマー交換になるのでしょうし、それを機にピアノ本体を買い替えに仕向けるのがメーカーの狙うところでしょう。
まるで「ハンマーフェルトの寿命がピアノ本体の寿命」であるかのようで、車でいうと「タイヤが減ったら車ごと買い換えてください」みたいな感じで、さすがに車でそれは通用しませんが、ピアノは…。
これもすごいとは思いますが、まあ企業とはどのみちそのようなもの。

もしハンマー交換になったとしても、決して安くはない費用(少なくとも安い中古アップライトが一台買えるぐらい?)がかかるし、馴染むまでには調整だなんだと手間がかかり、普通の機械のように壊れたパーツを交換してハイ終わり!というようなわけには行きません。
シャンクやローラーはどうなるのか、周辺の消耗品もこまごまとあったりすると、そこをどうするか、これはもう判断を含めて簡単なことではないでしょう。

軟化剤はそういう場面での、ある種の救いの神だと思いました。
もちろん、それですべてが解決ではないけれど、差し当たり目の前に迫った問題を、一定期間先送りにするぐらいのことはできると思います。

しかしピアノの技術の中では、軟化剤の使用はほぼ聞いたことがなく、意図的に無視されているのか、よほど研究熱心な技術者の方でないとこれを試してみようということにはならない空気みたいなものを感じます。

大半の方は、言い方は悪いかもしれないけれど、技術的に主流ではない手段を敢えて使って、万一批判の対象にでもなろうものなら仕事にも支障をきたすという心配も働くのか、君子危うきに近寄らずで、あえてそんなものに手を出さないという判断かと思われます。

深読みすると、軟化剤はもしかすると、業界ではかなり疎まれる薬剤かもしれません。
なぜなら、あまりにも手軽かつ効果的にハンマーフェルトの延命措置となり得るので、これが一般的に浸透したら、そりゃあ好ましくないことも出てくるでしょうし。

マロニエ君はいうまでもなく業界の人間ではないので、純粋に軟化剤の印象をいうと、かなり効き目は高く、かつ耐久力もあると思います。
古いフェルトの場合、針刺しによる音の軟化は一時的に針穴を開けてクッションを作っても、フェルトじたいの柔軟性が落ちているので、その効果も短命で、ぺちゃんこの枕を手でほぐしてもすぐ元に戻るような感じがあります。
その点、軟化剤はフェルトの弾力そのものを復活させるので、しなやかさが増すという感じがあり、針刺しとはまったく違います。
少なくとも、硬化剤で固めるのにくらべたら、軟化剤で柔らかさを出すほうが、まだナチュラルかなとも思えるし、2週間ほど近くたってもとくに衰える(もとの硬い音に戻る)こともないのは、やはり「すごくない?」って思います。

おまけに、圧倒的に簡単かつ安価で、調整のやり直しなども必要ない。
ハンマーを交換するとなれば作業だけでも大変な上に、新しいハンマーに合わせた各種調整がフルコースで必要となり、費用もさることながら、その時間や労力は並大抵のものではありません。

交換か、買い替えか、そのままガマンか、その三択に迫られたとき、とりあえずこの軟化剤でしのぎながら、ゆっくり考えるにはちょうどいいと思います。

2019/08/25 Sun. 13:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

軟化剤 

ピアノの整音に使われる手段の一つとして硬化剤があります。

使い方も技術者によって違いはあるようですが、薄めた硬化剤をハンマーヘッドの要所に塗布してフェルトに硬さを与え、音の華やかさや輪郭を出すためのもの。

硬化剤の功罪についてはいろいろあるようで、中にはこれを好まず一切使わないというポリシーの技術者さんもおられます。
せっかく弾力のあるフェルトに液剤を染みこませて、カチカチにしてしまうのだから、シロウトが考えてもさほど好ましいことのようには思えませんが、そこはあくまで使い方次第であり、経験と技術に負うところが大きいだろうと思います。

さて、マロニエ君は以前、ある遠方の技術者の方から硬化剤の逆の作用をもつ「軟化剤」なるものがあることを聞いていたので、機会あるごとに技術者さんにそのことを聞いてみると、話には聞くけど使ったことはないという方がほとんどで、中には存在自体をご存じない方もおられました。

あるとき「持っています」という調律師さんがおられたので、聞いてみるとご自身の工房で所有しているピアノでは使ってみたことがあるけれど、あくまでテスト段階とのこと。

話が前後しますが、我が家には話題にするほどもないような、古いカワイのGS-50というグランドがあり、さほど酷使したピアノではないものの、製造から30数年が経過してさすがにハンマーもややお疲れ気味のところがあり、そうかといってハンマー交換が必要というには至っておらず、そこまでする熱意もありません。

なので、このピアノに軟化剤を使ったらいいのでは?という考えは以前からあり、それをやってくれそうな技術者の方が見当たらずという状況が続いていたところへ、この方が「使用歴あり」ということがわかり、さっそくやってみてほしい旨を伝えました。
しかし、未だ上記のような段階で実践にはまだまだと、なかなか色よい返事は得られませんでした。
テスト段階のものを、お客さんのピアノに使うわけにはいかないということらしいのですが、聞いていると、これまで試してみた限りではそう悪い印象ではないらしいこともわかってきました。

では、このピアノを実験台に使ってくださいと言ってみたものの、そういう訳にはいかないとの反応で、そりゃそうかもしれませんが、マロニエ君があまりしつこく食い下がるものだから、では自分の工房にあるピアノで使っていましばらく観察してみるので、お待ちをということになりました。

調律師さんというのは職業柄なにか作業をするにあたって、おしなべて慎重な方が多いのですが、中でもこの方はさらにもう一段二段思慮深いらしく、そこまでしなくても…というほど、何をするにも慎重の上にも慎重を期されるようで、数ヶ月待つことになりました。

というわけで、半分忘れかけた頃にご連絡があり、使う量やハンマーのどこに塗布するか、時間経過とともにどうなるかなど、さまざまに実験をされたようで、そこで一定の結果を確認されたのか、本当によろしいのであれば少しずつやってみましょうか…ということになりました。

作業はというと、これがあっけないぐらい簡単で、アクション一式を引き出してハンマーの狙った場所に塗っていくというか、液をわずかに落としていくというもの。
初回は、中音域から次高音ぐらいまでまさに微量でお試しということになり、その日は放置して翌日音を出してみてくださいということでこの日は終わり。

翌日、どうなっているかと期待しつつ音を出してみると、たしかに音にまろやかな膜がうっすら加わっており、その確かな効果を確認できました。
しかし、あまりに微量だったためか、変化はあまりにも僅かで、さっそく報告するとともに次は少し量を増やしていただくようお願いしました。

というわけで、二回目となり前回より少し量を増やして使っていただき、前回同様、一晩置いて弾いてみると、今度はかなりまろやかな音質に変化しており、これは相当な効果のあることを実感しました。

シロウトの印象でいうと、針差しで得られた柔らかさには、固いものが針でほぐされた、技術者の経験と技が作り出すふくよかさと、咲き誇る花もいずれは萎んでいくような一種の儚い美しさがありますが、軟化剤の柔らかさはもっと極めが細かく、まんべんなく柔らかさが出た感じで、すぐに元に戻りそうな感じもありません。

よって、音を創造的に「作る」という面では針刺しにはかなわないかもしれませんが、延命措置としては、これはかなり有効な手段なのかもしれません。
しばらく耐久性なども観察してみるつもりです。

2019/08/20 Tue. 02:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シリアルナンバーの見方 

『ホロヴィッツ・ピアノの秘密 調律師がピアノをプロデュースする』(著者:高木裕 音楽之友社)という本を読んだところ、この本の中心的内容ではないけれど、長らくもやもやしていたものが解明される一節がありました。

スタインウェイ・ピアノのシリアルナンバーに関する記述で、実際に製造されたという年とシリアルナンバーがどうしても咬み合わないことがあり、疑問を感じていたものが解決することに。

具体的にいいますと、新品として仕入れた店が正確な記録として主張する製造年は、シリアルナンバーが示すものより1年以上新しいことがあり、このわずかな食い違いはなんだろうと思っていました。
べつに大したことではないし、こちらも業者でもないのでとくに深入りはせず、それで終わっていました。

スタインウェイ社のサイトなどを見ると、シリアルナンバーと製造年の対照表がありますが、その見方に関するガイドはなく、実はそこで重大な間違いがあったことが判明。

例えば553123(架空の数字)というピアノがあるとします。
表には、
554000 2000年
549600 1999年

というふうに書かれているので、554000より少し若い番号ということで、1999年製造のピアノなんだな…と判断していました。
これはマロニエ君のみならず、多くの技術者の方やディーラーなど専門家の方も、ほぼ同様だと思います。

ところが、この本を読んで思わず「えっ!」と驚いたのは、なんと、これらの対照表が示すのは
その年の「製造開始番号(Strarting Number)ではなく、Ending Number」とありました。
つまり、数字は「この番号から」ではなく「この番号まで」を表していて、それより「若い番号」が、その年の製造年となるので、553123であれば製造年は2000年ということになります。

これは「ニューヨーク本社の調律師ですら勘違いしている人が多い」のだそうで、ここを明確に説明されていることは、大きな収穫でした。
この説明によって、世の中の多くのスタインウェイは1〜2歳若返ったことになりそうです。
ちなみに数字は区切りであって生産台数ではないとのこと。


この本に書かれているのは、19世紀末から20世紀初頭にかけて製造されたニューヨークスタインウェイがいかに素晴しいもので、ピアノ史の中でも、それらがピークともいうべき楽器であるということが、全編を通じて述べられています。
その中の一台が、ホロヴィッツが初来日時にもってきたCD75というピアノで、現在は日本にあり、ほかに19世紀末のDなど、著者が代表を務める会社所有のピアノで、逸品揃いとのこと。

20世紀後半から現在に至るまでのピアノは、しだいに商業主義の要素を呑まされて、本来あるべき理想的なピアノとは言いがたいものになってきている面があることも頷けます。

この本を読むと、あらためてその音を聴かずにはいられなくなり、このところすっかり聴かなくなっていたホロヴィッツのCDを立て続けに5〜6枚ほど聴いてみました。
いずれも、1965年カムバックリサイタル以降のカーネギーホールでのライブ録音です。

ホロヴィッツのピアノは調整がかなり特殊だったらしく、とくに軽く俊敏なタッチにこだわったようですが、実際の音として聴いた場合どうなのかを確認してみたくなったというわけです。
果たして、耳慣れたハンブルクとはまったく別物で、風のような軽やかさと炸裂が同居し、魔性があり、その絢爛たる響きは、もう二度とこんなピアノは作れないだろうと思うものですが、ではそれが好みか…となると、そこはまた別の話。

触れたらパッと血が吹き出しそうな、刃物みたいな印象で、ホロヴィッツという、ニューヨークに棲む亡命ロシア人にしてカリスマ・ピアニストが紡ぎ出すデモーニッシュな音の魔術としてはうってつけだと思いますが、純粋に一台のピアノとして聴いた場合、ヒリヒリしすぎて必ずしも自分の好みは別として、これがホロヴィッツの好んだ音ということは確かなようです。

さらに上の世代のヨゼフ・ホフマンもニューヨーク・スタインウェイを弾いた大巨匠ですが、ホフマンの音はもっと厚みがあってふっくらしており、必ずしもホロヴィッツの好むピアノだけが、当時のスタインウェイを代表する音かどうかは疑問の余地がありそうでした。

2019/08/14 Wed. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

OHHASHIの本 

いつもながら情報には疎いマロニエ君ですが、またも人から教えていただいて『OHHASHI 幻の国産ピアノ“オオハシ”を求めて いい音をいつまでも』という本が出ていることを知り、さっそく購入/読了しました。

本棚には『父子二代のピアノ 人 技あればこそ、技 人ありてこそ OHHASHI』というのがあるので、大橋ピアノに関する書籍はこれで二冊目となりますが、発行は新旧いずれも創英社/三省堂書店となっており、これはどうも偶然の一致ではないのでしょう。

大橋幡岩という日本のピアノ史の巨星が成し得たとてつもない数/量の仕事、人柄、その足跡、大橋ピアノ研究所の設立に至る経緯などが簡潔に述べられ、あらためて日本のピアノ界にとって避けて通ることのできない、極めて歴史的な存在であったことがわかります。

読むほどにピアノを作るために生まれてきたような人物ということが伝わり、日本楽器(現ヤマハ)、小野ピアノ、山葉ピアノ研究所、浜松楽器、大橋ピアノ研究所と折々に居場所を変えながら、どこにいってもその冴え渡る能力は常に輝きを失わず、10代前半から84歳で亡くなるまで生涯現役、まさにカリスマであったようです。

また、ピアノだけでなく、工作機械なども多数設計している由で、その能力はピアノという範囲にとどまりません。
目の前に必要や課題があれば当然とばかりに学び、頭が働き、たちどころになんでも作り出して問題を克服できるという、ものづくりの天分に溢れかえった人だったと思います。

ただ根っからの職人であり理想主義であるため、ピアノ製造においても妥協を嫌い、手を抜かず、とことんまでやり抜く厳しい姿勢は、当然ながら利益を優先したい会社と意見が合わなくなり、そのたびに辞職を繰り返し、最後に行き着く先が自身の大橋ピアノ研究所の設立だったことも、まさに必然以外のなにものでもないでしょう。

大橋幡岩はピアノ製作の天才であり、職人原理主義みたいな人だったのかもしれません。
彼に決定的な影響を与えたのはベヒシュタインであり、日本楽器が招聘した技術者であるシュレーゲルによる薫陶は生涯にわたってその根幹を成したようです。

驚くべき仕事は数知れず、通常のピアノ設計/製作以外にも、ピアニストの豊増昇氏の依頼でベーゼンドルファー用の幅の狭い鍵盤一式を作ったり、通常のアップライトの鍵盤の下に、引き出し式でもう一段細い鍵盤が格納された二段鍵盤、あるいは日本楽器時代には奥行き120cmの超小型グランドピアノを試作していたり、戦時統制下ではグライダーのプロペラから部品まで、とにかくなんでもできる万能の製作者なんですね。

また彼は若い頃から「記録魔」だったようで、生涯にわたって書き留められた膨大な資料が残っており、いまだに完全な整理はできていないとのこと、どこを見渡しても、この人は尋常一様な人物ではなかったようです。

幡岩の死後、わずか15年ほどで息子で後継者の巌が急逝したことで、OHHASHIピアノ研究所(いわば)が廃業に追い込まれたことは、残念というありきたりな言葉では言い表すことができない、やるせないような喪失感を覚えます。

たいへん興味深く読ませてもらいましたが、興味深い故の不満も残りました。
というのも、わずか全212ページのうち、大橋幡岩や大橋巌、およびOHHASHIピアノに関する著述は138ページまで、それ以降は24ページにわたってごく一般的なピアノの仕組みの解説となり、さらにデータ、資料が続く構成になっていました。

できればもう少し詳細に、大橋父子や、その手から生まれたピアノに関する深いところを深掘りしていただき、細かく知りたかったところですが、さほど分厚い本でもない中で、本編ともいえる部分は全体のわずか65%に過ぎなかったのは、いかにも残念でというか、「えー、もう終わりー?」というのが正直なところでした。
とくにピアノ関連の本ならいくらでもある「ピアノの仕組み」の章など、あえてこの貴重なOHHASHI本の中に入れ込む必要があったのか疑問です。

また、タイトルはOHHASHIかもしれないけれど、大橋幡岩の名器であるホルーゲルや、いまだにその名が引き継がれて生産されているディアパソンについても、もっと詳細な取材を通して切り込んで欲しかったと思います。
浜松楽器に時代に生まれたディアパソンが、どのような経緯や条件のもとでカワイに生産委託されていったのか、また同じディアパソンでも、浜松楽器時代とカワイでは、どういう特徴や違いがあるかなども、もっと突っ込んだところを書いて欲しかったと思いますので、続編でも出れば嬉しいです。

この本を書かれたのは、ピアニスト/音楽ライターという肩書の長井進之介さんという方です。
まったく存じあげず、ネットで検索してみると、ラジオDJなどマルチな活動をしておられるようで、野球のイチローをインドア派にしたような感じで、いろいろなことに挑戦をされているご様子にお見受けしました。
このような本を上梓されただけでもピアノファンとしては感謝です。


もう少しで読了するというタイミングで、知り合いの技術者さんから電話で聞いた話では、大橋の甥御さんという方が浜松におられてピアノに関わる技術のお仕事をされており、その仕事ぶりは高い信頼に値する見事なものだそうで、幡岩のDNAが実はまだ完全には絶えていないことを知り、なんだかホッとしたような嬉しいような気になりました。

2019/08/08 Thu. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

砂の器の設定 

松本清張原作の『砂の器』はすでに何度も映画やドラマに繰り返される名作で、異なるキャストやそのつど時代背景などが変えられて、これまでにいくつものバージョンを観た記憶があります。

今年もフジテレビの開局60週年ドラマとして3月に放映されていたものを録画していて、最近ようやく見たのですがが、山田洋次さんなども制作に参加しているためか、細部が細かく作り込まれており(賛否両論あるようですが)、マロニエ君はわりにおもしろくできていると思いました。

当節はウィキペディアという便利なものがあるので、『砂の器』を調べてみると、テレビドラマだけでも6回も作られ、そしてこの作品を決定的にしたのは、やはり加藤剛主演の映画だったように思います。

『砂の器』というといつも思い出すのは、何十年も前のことですが親戚の女性が大真面目に発した一言。

当時はマロニエ君は、まさに軍隊的とでもいうべき厳しさで有名な音楽院のピアノのレッスンに通っており、当時はピアノの先生といえば暴君や独裁者は決して珍しいものではなく、まして高名な大先生ともなると、その仰せは天のお布令にも等しいものでした。
朝から晩まで、学校以外は一切の言い訳は通らないほどピアノ中心の生活を要求されていたものです。

当時はピアノのためといえば、それは生活のすべてに優先されるのが当然であり、学校のテストなどを理由に練習を怠ろうものなら、親子呼び出されて大目玉となるような時代でしたし、下レッスンの大勢の先生方も日頃から院長の存在にはピリピリの状態で、今どきの生徒をお客さん扱いする感性から言えば、まさに隔世の感がありました。

それでだれからも文句が出ることはなかったのですから、時代というのはすごいもんだと思います。
今だったらパワハラだなんだと、とうてい受け入れられるものではないでしょう。

親戚の女性は、そんな状況をいつも聞かされては呆れ返り、ピアノなんて子供にやらせるものじゃないと思っていたらしいので、そういう下地があるところへ『砂の器』を観たため、登場する親子が、故郷を追われて住む場所もないような放浪の幼年期を送っていたにもかかわらず、なぜか大人になったらピアノが弾ける人という設定がどうにも納得が行かないらしく、普通の安定した家庭でもピアノをやるのはあれほど大変というのに、いつの間にどうやってピアノの練習をしたんだろう?…と、そればかりが気になり、最後までそれが気になって仕方がなかったと言っていました。

そう聞かされて、マロニエ君も後年見たところ、父子が故郷を追われるようにして出奔し、悲しい放浪の身であった人物が、いきなり世間で注目の天才作曲家でピアノの名手になっているという、説得力のない展開には面食らったものでした。
映画なんだから、些事を気にせず楽しばそれでいいわけだけれど、いくらフィクションでも、あまりに説得力がないというのはマロニエ君も同感でした。

そのあたりが、最新のドラマ版では丁寧にフォローされており、幼少期からピアノが得意で発表会などにしばしば出場していたという設定に変わり、孤児院や養子先を経ながら、ついには日本のグレン・グールド?!?!と言われた山奥に隠棲するという天才ピアニストのもとにたどり着き、その人のもとで徹底的に腕を磨いたことになっていました。
これもかなり違和感がないわけではないけれど、それでもなんとか幼少時代からピアノをやっていて、音楽の才能があったという説明にはなっていたようです。

さらにいうなら、あの「宿命」という映画音楽のようなピアノ協奏曲のような、なんとも不思議な自作自演のコンサート、そういうものってどこかで開催されているのだろうか、これもかなり疑問です。


このところ、テレビCMなどを見ていても、グランドピアノがでてくるものがやたら増えてきている気がします。
また、いつだったか番組名はわからないけど、NHKでスタジオにヤマハのCFXと最小グランドの二台を並べ、「価格が1900万円と115万円の音の違い」みたいなことをやっていて、ホーという感じでした。

なぜ今ピアノが採り上げられる機会が増えたのかはわかりませんが、これだけあらゆることにハイテクが絡むと、ローテクの塊で、弾かれて音を出すこと以外に一切の機能がないくせに大きく重いグランドピアノという反時代的なものが、逆に面白がられているのかと思ったり。
アニメ『ピアノの森』の影響もあるのか…、今度は『蜂蜜と遠雷』も映画化されるようで、スポーツの延長で競い合いがウケているのか、そのあたりマロニエ君にはさっぱりわかりません。

2019/08/02 Fri. 02:36 | trackback: 0 | comment: -- | edit

好きなピアノを-2 

前回、一般のピアノ購入者だけでなく、ピアノ先生や技術者の方も専門的立場の意見として、YKが最も妥当な選択だと考えていることを思い出したので、もう少し。

何年も前のことですが、ある技術者さんとの間で、ピアノの評価が決定的に食い違いがあることを知って、内心非常に驚いた事がありました。

ある場所に貴重なハンドメイドのピアノがあって、それを所有者の方のご厚意で弾かせてもらったことがあるのですが、それはいわゆるYKのような量産ピアノにはない歌心、自然に広がるような響き、色の濃淡、心を通わす優しみがあって、それだけで楽しく、いつまでも弾いていたようなピアノでした。
ピアノとしての機能も充分で、いわゆるピアノという名の器具ではなく、本物の楽器といった趣がありました。

ところが、その技術者さんは至って冷淡というか、このピアノの良さをほとんど認めていないといった様子で、YKのような品質には及ばないと断じる発言がぽろぽろ出てきました。
所有者はご不在でしたので、技術の方も忌憚なく感想を言える状況だったのです。

低評価の理由は、音が均一でないとか、造りが曖昧でYのようにきっちりしていないなど、製品としての品質がまず気にかかるといった様子でした。
YKばかり触っている技術者さんは、どうしてもそれが当たり前となり、作りの精度や音が揃っているかということが判断のポイントのようで、そこに固執し、音質や表現力を一歩離れて判断してみようという気がないらしい印象をもちました。

もちろんある程度均一に整っていることは大事だけれども、そもそもの音質そのもの、曲が流れだしたときにどれだけ音楽的に歌える楽器かどうかのほうが重要で、人工的に味つけされた無機質な音がいくら整っていても、個人的にはそんなにありがたくはありません。

しかし技術者の方は、どうしても自分の職業上身についたポイントにフォーカスされて、そんな日常の習慣を急に変えることは難しいのかもしれないとは思いました。
また、専門家としての自負もおありだろうし、高名なピアニストなどが言うことならともかく、一介の音楽愛好家の意見や感想は、技術のことがわからないマニアのたわごとのように感じるのかもしれませんね。

たしかに技術者サイドで云えば、YK、とりわけYの製品は、仕事もしやすいようで技術者さんを悩ませるような問題もトラブルも皆無に近いのでしょうし、仮にあっても対処がしやすい、しかも音は揃ってよく出て、作りも機能も良いとなれば、評価が高くなるのも分からないではありません。

でも、技術者さんにとって仕事がしやすくても、無機質無表情な音がどれほど揃っていても、喜びがなければ意味がないし、それで本当に音楽をする心が育まれるのか、それが重要な点だと思います。
個人的には、簡単な曲を弾いているだけでも、そこに曲の世界が広がり、ニュアンスがにじみ出てくるような楽器であることが重要だと思うのですが、これはYK支持者にはいくら言ってもキレイゴトに聞こえるのか、なかなか届きません。

それと、技術者さんは半年か一年おきにやって来て、数時間そのピアノと接するだけで、終われば次のピアノにかかわるから、まあそんな安全第一みたいなことも言っていられるのかもしれませんが、弾くほうは年中そのピアノと付き合うわけで、そうなると表現力や喜びや楽しさは、何にも代えがたい最重要項目です。

キーに触れ、音を出すだけでちょっと嬉しくなるようなピアノ、そんなピアノで日々練習することの大切さは、そういうピアノと過ごしてみないとわからない。
ピアノというのはなかなか比較する対象もチャンスもないから、そこに気づかないまま長い期間をすごしてしまうことになり、かくいうマロニエ君も自分がそれに気づき始めたのは二十歳を過ぎてからのことでした。

今どきはみなさんコンビニ弁当やファミレスの食べ物などに含まれるという添加物への心配とか、食材の産地やオーガニックといったことにはかなりこだわりがあるのに、なぜかピアノとなるとずいぶん寛容だなあと思うばかり。

たしかに情報は極端に少ないし、専門家と称する方々やシェフに類するみなさんがこぞってコンビニやファミレスやレトルト食品を大絶賛して、街の小さな手料理を出すお店をけちょんけちょんにけなしまくるのですから、聞いたほうは「そういうものか」と思ってしまうのだろうとは思いますが…。

ピアノは人の言いなりではなく、本当に気に入ったものを側に置きたいものです。

2019/07/29 Mon. 02:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

好きなピアノを 

先日、知人と話題になったこと。
外国のことはわからないけれど、少なくとも日本では、どうしてピアノといえば大手の量産品、もしくは海外の高級有名ブランド、そのいずれしか売れないのか。

おそらく多くの人達はピアノを楽器として捉えるのではなく、車のような品質もしくはブランド性を求めているのではないかと思いました。
「楽器として捉える」なんて言ってみても、掴みどころがなく、「いい音」などといってみても基準がない。
ピアノ店に行ってもYかKばかり並んでいれば、しょせんはその中での相対的なもので、おおよそこんなものだと思ってしまうだけでしょう。

正直ボストンがどんな品質/位置づけなのかもわからないし、ディアパソンでさえも長年カワイが作ってきたにもかかわらず、マイナーブランドという括りから抜け出すには至らず、聞いたこともないという人のほうが圧倒的多数。

その判断となる耳を養うには、ひたすら多くを経験するしかありませんが、それも実際問題としてなかなか難しい。
仮の話ですが、もしもコンビニのデザート(便利で美味しいですが)しか食べたことがない人がいるとすると、味覚がそれに慣らされてしまって、突然手作りケーキなどを食べても、素直にそれを美味しいと感じることができるかどうか…。
要は耳を鍛える環境がほとんどないというのはあると思います。

YKであふれる店内に、もしぽつんと名も知れないピアノがあったとしても、不安しか感じないのはわかります。
逆にいかにYKが世間で認められ、多くの人がこれを選んできたということで頭のなかは整理され、買うならやっぱりYKの中からということになるような気がします。

ネットの質問コーナーなどを見ていると、回答者のYKがいいという異様なまでの偏重と思い込みには驚かされます。

まれにシュベスターその他に関心を持った人がいても、YKばかり触り慣れた技術者が出てきては全否定の嵐で、「手作りピアノなんて云うと聞こえはいいが、要するに町工場でトンカチで作っているようなものだから、品質のばらつきがあるし、リスクが高いからオススメはできません。もし音が気に入って、リスクがあることまでしっかり理解された上で買われるぶんはいいかもしれませんが、自分ならたぶん買わないです。」…みたいなことをいわれたら、そりゃあ大半の人はびびってやめてしまうでしょう。
「とんだ粗悪品をつかまされるところだった。やっぱり専門家の意見を聞いみるべき。」となり、せっかく開きかけた感性は潰されて、YKをお買い上げとなる。

でも、ばらつきが多いとかリスクがあるとか、見てきたようなことをいいますが、実際にどれだけの数を触り、経験した上で言ってるの?って思います。
YKでも、管理状態しだいでボロボロで、中古品では裁判に発展するような事案もあるとかで、当然ながらケースバイケースだと思います。
そのあたり、とくに技術者は現場を見てきた経験をもとに言いたい放題、「壊れても保証はないし、長く使われることを考えたら、品質が安定してオススメできるのはやっぱりYKということになりますね。」などと、まるで購入後数年で使えなくなる怪しい粗悪品でも買うように言うのですから驚きます。
こういう大手偏重の価値感が、日本の小さな良心的なピアノメーカーを駆逐してしまったようにも思います。

ピアノを楽器として見ようとする気持ちのかけらもなく、ただの工業製品としてしか捉えないのは、ピアニストなら片っ端から暗譜で弾けることだけを自慢にする御仁と同じようなもので、これほど魅力のない退屈なものはありません。

そもそも、昔の外車やパソコンじゃあるまいし、壊れるって何が壊れるんでしょう?
天下のヤマハだってアップライトのなんとかいうパーツは壊れたり切れたりするのが普通らしいし、グランドでもボンセンと言って巻線の弦が経年でダメになることもよくあることなのに、それらはまったく糾弾の対象になりません。

マロニエ君も過去何十年も、いろいろなピアノと付き合ってきましたが、自分の管理の悪さが原因のコンディションの悪化とか、消耗品の消耗以外で、壊れた、もしくは使うに値しない状態になってしまったということは一度もなく、技術者の言うリスクとはなんなのかいまだに不明です。
自分が使うピアノぐらい、一般論に縛られず、好きなものを側に置くことが最も大切だと思いますし、失敗しないため云々という言葉を聞きますが、それで好きでもないピアノを買ってしまうことのほうが、よほど深刻な失敗だと思うんですけどね。

2019/07/23 Tue. 03:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

挫折で自慢 

人の心の中には、自分をよく見せたいという欲望が潜んでいる…それ自体は珍しいことではありません。

中にはそういう野心も邪念なく、一切を飾らず清々しく生きておいでの方もあるけれど、多くの俗人は程度の差こそあれ、つい自分を飾ってしまうことはあるもので、それじたいを責められるものではないでしょう。

ただ、その意味するところや性質によって、笑って済ませられることもあれば、聞いていてあまり気持ちのよくないものもあるような気がします。

ピアノの世界にもいろいろあって、大半は書くわけにもいかないことばかりですが、このブログのネタ選びという観点から、ひとつを注意しながら書いてみることに。

世の中には、ピアニストをはじめ、先生からアマチュアまで、それなりに難曲を弾かれる方はたくさんいらっしゃるようですが、巧拙さまざまであるだけのことで、それだけではどうということもありません。
少なくとも譜面が読めて指が動くという点では、初心者より技術として上手いことは事実でしょう。
ところが、そこからとんでもない大風呂敷というか、いくらなんでもそれは止めたほうが…と思うような内容の発言があったりして、マロニエ君も直接/間接ふくめて、ひっくり返りそうな話をいくつも耳にしています。

たとえばそのひとつ、言葉はそれぞれですが、意味としては、
「自分にはむかし、芸大を受験して失敗したという、敗北の過去がある」というもの。

要するに、若いころ、結果はしくじったけれども東京芸大を受験した事があるという、コインの裏表みたいな意味を含んだお話。
すなわち、遠いむかしの自分には、芸大を受験するに値する実力があったんだという自己申告ですが、聞かされるほうは急に変なけむりでも吹きかけられるような心地です。

記憶にある数名の中で、その話が信用できたのは、たったひとりだけ。
やや下位の音大に行かれ、芸大で教えておられた高名な教師の直弟子となり、その後は長年にわたってリサイタルを続けておられるピアニストで、自主制作ながらCDも相当数あり、その演奏や話の前後からもこそに違和感がないことは、まあ納得できるものでした。

それ以外は…なんといったらいいか、ハッキリ言って万引きの現場でも見てしまったような感じ。
人より多少の難曲が弾けたり、いちおうどこかの音大を出て先生をやっているというような人の口から、ふいに、この手の言葉が出ることは非常に驚きで、たまらずその場から逃げ出したいような気分になるもの。

表向きは「受験に失敗した敗者である」という、我が身の不名誉をあえて告白するという立て付けになっているあたりが、まずもって悪質かつ甘いと感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

むかしのことで、もう時効でもあろうから話してもいいだろうといわんばかりに、自嘲気味な調子で語られるこの甚だしく野放図な発言。
失敗談という形式を借りて、芸大というブランドを無断使用しているようでもあり、そこに容赦なく流れ出すアンバランスは、オチのないジョークを聞かされたようです。

「落ちた」んだから、卒業名簿を繰られる心配もないし、昔の失敗した受験の証拠など、どこにもないということなのか。
そういうのはお止めになったほうがいいと思うんですけどね…。

2019/07/17 Wed. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

長江鋼琴 

チャイコフスキーコンクールでの衝撃デビューとなった中国製ピアノの「長江」。

その音は実際の空間ではどんな鳴り方をするのかわからないけれど、少なくともネット動画で聴く限りは、ちょっと前のハンブルクスタインウェイ風で、強いていうなら、現在のスタインウェイよりもやや重みのある感じさえあるような…。

全体のプロポーションはもちろん、椀木の微妙な形状、他社に比べてやや上下に薄いボディの側板から支柱がはみ出ているあたりまでそっくりだし、突上棒なんてハンブルクスタインウェイそのものという感じです。

それでもしや…と思ったこと。
それは長江ピアノの登場と、スタインウェイのマイナーチェンジには、因果関係があるのでは?ということ。

あくまでマロニエ君の個人的な想像の範囲を出ませんが、長江が世に出てくることを察知したスタインウェイが、差別化のためにディテールの変更したということも、まったく考えられないことではないような気が…。
折しも、スタインウェイはニューヨーク製とハンブルク製の共通化という、二重の意味合いもあったのかもしれません。

新しいハンブルクのDには、ハンブルクだけの伝統であった大屋根を止めるL字のフックが無くなり、それにより、もともと無いニューヨークとの共通化にもなるでしょうし、長江との差別化という副産物にもなる。
突上棒もニューヨーク風の二段式に形状を変えたので、長江が三段式のハンブルクデザインをいただく。

長江のほうは、前足がやけに前方寄りになっていると書きましたが、これはスタインウェイのコピーじゃないんだというアリバイ作りのための、意図的な位置ずらしではないかと思うのですが、これもあくまで想像。

コンクールのステージなので、譜面立てのデザインがわからずネットで探したら、あー、やっぱりハンブルクスタインウェイのスタイルで、これもスタインウェイのほうが形を変えてしまっています。

この真相は那辺にあるのか、似すぎることを嫌がってスタインウェイのほうが形を変えて逃げているのか、あるいは両社である種の合意が裏で成立しているものなのか、疑いだしたらキリがありません。

そもそも、中国のピアノといえばパールリバーとかハイルンなどしか有名どころは知らなかったところへ、いきなり長江というブランドが世界のステージに躍り出てきて、きっと業界でも驚きが広がっていることでしょう。

調べると、どうやら2009年の創業のようで、わずか10年で国際コンクールの公式ピアノに認められたあたりも、いかにも中国らしい巨費投入と技術模倣によるタマモノなのか、常識ではあり得ないスピードですね。

長江ピアノのサイトを見ると、意外なことに人民元での価格が出ており、円換算すると、188cmモデルが約500万円、212cmモデルが約580万円、275cmモデルが約1550万円となり、なんか微妙なプライスですね。
前2つの価格からすれば、275cmも900万円台ぐらいでは?という気もしますが、コンサートピアノが安すぎると面子に関わるからあえて高く設定されているのか、そのぶん品質も違うのか…どうなんでしょう。

因みにこの3モデルは、それぞれスタインウェイのA型、B型、D型にほぼ該当するサイズで、やはり直球で中国版スタインウェイのようです。
ま、F-35の模造品といわれるステルス戦闘機まで堂々と作って飛ばして配備してしまうお国ですから、それに比べれば、たかだかピアノなんぞ驚くにはあたらないのかもしれませんが…やっぱり驚きました。

いずれにしろ、ピアノの世界も相当へんな事になってきているようです。

2019/07/11 Thu. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

思わぬ衝撃 

第16回チャイコフスキー・コンクールが終わったようですね。

いまや、ネットを通じて実況映像を楽しむこともできるようですが、もはや世界が驚くような特別な逸材が出るとも思えず、出たなら出たで、あとからで結構という感じで、最近になってようやくその演奏動画の幾つかに接しました。

想像通りみんなよく弾けて、多少の好き嫌いはあるとしても、その中で優勝者が頭一つ抜きん出ていたらしいというのも納得できました。
ただ、このコンクールでフランス人の優勝というのは記憶にあるかぎりはじめてのような気もしたし、ファイナルでチャイコフスキーの協奏曲は王道の第1番ではなく、第2番を弾いたのもフランス人らしいような気がしました。

なんとはなしに感じることは、コンクールのスタイルは昔から変わらないのかもしれないけれど、そこに漂う空気はますます競技の世界大会という感じで、表現もアーティキュレーションも指定された範囲をはみ出すことなく、求められるエレメントに沿って、いかにそれを完璧にクリアできるかというのがポイントのようで、まったくワクワク感がありません。

この場からとてつもない天才とか、聴いたこともなかったような個性の持ち主があらわれることはあり得ず、上位数人ほどの順位が今回はどう入れ替わるかを見届けるためのイベントなのでしょう。
少なくとも稀有な芸術家がセンセーショナルに発掘される場ではないことは確かでしょう。

現代では、才能と教師と環境にめぐまれ、どれほどピアノがスペシャル級に上手くなっても、その先に待っているのはコンクールという「試合」であって、そこで戦い勝つことがキャリアの確立であり、いずれにしろ音楽の純粋な追求なんかではないのが現実。
コンクール出場は就活だから、メジャーコンクールで栄冠を取るまで、若い盛りの時期を年中コンクールを渡り歩いて心身をすり減らさなくてはならないわけで、それを考えるとお気の毒なような気がします。


ネットでつまみ食い的に見ただけですが、ピアノへの印象は、ますます各社のピアノは似てきたということ。
とくに落胆したのはスタインウェイで、昨年あたりから始まったモデルチェンジにより、見た目もずいぶん簡素化された姿になり、実際その音も、奥行きのない表面的インパクトばかりを狙った印象。

ヒョロッとした突き上げ棒の形状、あいまいな形状の足など、伝統的なメリハリの効いた重厚なディテールはなくなり、どこかアジア製の汎用品でもくっつけたようで、かなり軽い姿になってしまい、スタインウェイをそうしてしまった時代を恨むしかないのかもしれません。

今回なんといっても「うわっ!」と声が出るほど驚いたのは、なんと、中国製のピアノが公式採用されていることでした。
中国人のピアニストが弾いているピアノのボディ内側の化粧板が明るい色合いのバーズアイというのか、ウニュウニュしたものだったので、はじめはカワイかな?ぐらいに思ったのですが、カメラが寄っていくとカワイではなく、ファツィオリでもなく、むろんスタインウェイでもヤマハでもなく、なにこれ???と思っていると、手元が映しだされた瞬間我が目を疑いました。

そこに映し出されたのは、鍵盤蓋とサイドのロゴに毛筆で書いたような「長江」の文字でした!
ピアノに漢字とは、中国人ならやりそうなことではあるけれど、現実にそれを目にすると(しかもチャイコフスキー・コンクールのステージ上で)、あまりにすごすぎて頭がくらくらしそうでした。
しかもそのロゴデザインには英文字のYangtze Riverと毛筆の長江の文字が組み合わされて「Yangtze 長江 River」となっていて、左右バランスもばらばら。
中国人のセンス、すごすぎます!

意外なことに、音は、ロゴほど異様ではなく、まあそれなりの違和感はない程度のもっともらしいピアノの音ではありましたが、全体のフォルムはスタインウェイDのコピー(フレームはなんとなくSK-EX風?)という感じで、今の中国はすべてこのノリで世界を呑み込もうとしていることを、いやが上にも思い知らされました。

弾いているのは、中国人ピアニストだけのようにも見えましたが、さぞかしそうせざるを得ない事情があったのでしょう。
こんなピアノを見ると、なんかいろいろなことが頭をよぎってもういけません。

2019/07/05 Fri. 02:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イースタイン 

最近、とあるきっかけで一人の熱心なピアノファンの方と接点ができました。
驚いたことに同じ福岡都市圏内にお住まい、小学校のお子さんがいらっしゃる女性ですが、この方は弾くことはもとより楽器としてのピアノに深い関心をお持ちで、さらに知識もきわめて豊富で驚いているところです。

4月に東京に行ったとき、何人もの女性技術者とお会いして、その並々ならぬ実力に舌を巻いたものでしたが、マニアの分野にもこういう方がいらっしゃるのを知り、驚きはさらに倍増しています。
性別でものを言ってはいけない時代ですが、うかうかしていたら男性は本当に置いてけぼりを食らうことになりそうです。

ごく最近もメールのやり取りの中で、イースタインが話題となり、以下のようなメールがサラッと届きました。
これはもうマロニエ君ひとりで読むのはもったいないと判断し、ご了解を得て一部ご紹介します。

***
イースタインのGP(250型 200型 O型)を設計された杵淵直知さんの本にも、日本のピアノは日本的発声〜フォルテで喉を詰め、良く言えば日本的なさびみたいなものがある、童謡等の幼児の時代から喉を詰めた固い声を張り上げて歌う音に耳が慣らされてしまう、室内に於いても畳は美しい響きを吸い取り、がらんどうに近い天井も障子も音に旨味を与えるどころか外に逃げてしまう、機械的には世界の一流品に匹敵しながら音だけはどうしてこうなのか、日本民族の生活環境がそうさせるのではないか…等記されてました。

この杵淵さんは幡岩さんに師事しグロトリアンやスタインウェイ工場で技術を学ばれた後に帰国され日本で活躍されたそうですが、54歳の若さで脳溢血で急逝されています。
以前、あるピアノ店の調律師さんに聞いたのですが、調律は息を止めて音を合わせるから酸欠になって血管系の病気になりやすい、周りにもそれで急死した人が数人いるとのことでした。
だから昔は無理して一日4件調律にまわっていたそうですが、今は2件しかしないようにしているそうです。
ピアノが好きであれば、一日ピアノを扱えて羨ましいなぁー等と呑気に考えておりましたが、実はとても大変な仕事なのだと思いました。
長い時間メンテナンスされる技術者の方もいらっしゃると仰ってましたので…素人ながらも少し心配な気もいたします。

杵淵さんの本の中で響板についての記載もありました。
日本は現在(1970年代)エゾ松を使ったピアノは殆ど見当たらない、エゾ松は音に伸びがあり粘りもある。一般的日本人は日本製のものよりもアラスカのスプルースを輸入している、とした方が高級感があって喜ぶ…とのことでした。

響板の乾燥工程も他メーカーの乾燥室を見学したら、最も大切な時間という材料を使わなかったから経年による組織変化等の思いも及ばなかったのであろう、呆気に取られた、干大根と生大根で同じ干したものでも味は全く違うというわかりやすい例えもありました。

やはり音というのはそれまでの過程により良くも悪くも明瞭に反応してくれるのですね。とても興味深いです。
手工芸品が採算度外視になるのも仕方ないかと思いますが、贅沢ですが楽器は手工芸品であってほしいとも思ってしまいます。

イースタインは特に九州は殆ど存在してなさそうですね。
東洋のスタインウェイを目指して作られたとも記されておりました。
日本の高度な技術を戦争の為ではなく平和の為に作られたと聞いて素晴らしいと思いました。
U型はリットミューラーという名のピアノを参考に初のアップライトとして開発したモデル…とありました。工場の宇都宮の地名からUを取ったようです。

B型はブリュートナーのBの頭文字から来ているもので、(チューニングピンの埋め込んである鉄骨部分がくり抜かれ、真鍮製の板を埋め込んでいるのを模倣している)大橋デザインのディアパソンGPに弾いた感じが似ているとのことでした。
アップライトではB型が一番いいみたいですね。
因みにT型というのはB型をベーゼン仕様に設計変更したもの(設計した人の頭文字)だそうです。

2019/06/30 Sun. 02:07 | trackback: 0 | comment: -- | edit

たかが電話 

昔にくらべて大きく様変わりしたことは実にいろいろあるけれど、たとえば電話のかけ方もそのひとつでは。

各自が携帯電話を持つようになったことで、いつでも誰とでも自由自在に話ができるようになるとばかり思っていたら、結果からいうと、却って暗黙の制限みたいなものが生まれ、電話は昔よりよほどハードルが高いものになった印象があります。

電話するには、相応の理由、はっきりした要件、緊急を要する場合等でないかぎり、昔みたいに気軽にひょいひょい電話をするということは「してはならない」「しないことがマナー」みたいな空気が蔓延しています。

そもそも昔の通信手段は電話か郵便ぐらいだったから、電話の役割そのものが広かったといえるのかもしれませんが、現代はメールだなんだと選択肢が増えたぶん、電話で直接話をするのは身内もしくはよほど親しい人だけのように格上げされ、いきなり電話をするのは一種の不心得者であるかのような雰囲気に。

電話をするには、前もってメールやLINEなどの文字情報の往来段階があり、相手側からも応諾の確認が取れ、その結果として電話をすることへ扉が開き、晴れて相手の声を聞くことができるという段階を踏む必要もあり、さらには時間帯を気にし、仕事中、移動中、食事中等々何かの最中であってはならないという気を回しに回すうち、やがてだんだん面倒臭くなる。

それもあって、文字で済むことは、自分のペースで書いて送っておけば事足りるわけだからそれで済んでしまうし、だから人と人はますます会話をしなくなるのでしょう。

こうして個人の時間とプライバシーは守られる代わりに、みんなが付き合い下手となり、却って疎遠を招き、もしかするとひきこもりなどの増加もこういう社会風潮も一因では?と思ったり。

暗黙のルールというのは、誰がどうしろといったものではなく、気づかぬうちに常識と思っていたものが変質していくものらしく、それにはただ従うしかありません。

暗黙のルールといえば、着信記録に気がついてこちらからコールバックすると、相手が出ないためやむを得ず電話を切ると、すぐその相手からかかってくるというパターンがあって、それが一人に限らずわりによくあるので、ふと気がついたこと…。
それは、元は自分がかけた電話だから、コールバックしてくれた相手に電話代を負担させては申し訳ないということもあるらしく、その着信にはあえて出ず、しかも「いま」なら相手も電話で話せる状態だろうから、すぐにかけ直すということのようです。

たしかに、こまやかな気遣いだとは思うし、ちょっとしたマナーなのかもしれませんが、なにもそこまで気を遣わなくてはいけないものか?というのも正直なところです。
たかだか電話ぐらい、もっと気ままにかけたらいいじゃないかとも思うのですが、いまの世の中なかなかそうはいかないようです。

また今流行りなのか、通話開始から5分か10分か忘れましたが、それ以内なら無料、それを過ぎると有料みたいな電話があるようで、会話中しだいに落ち着きのない調子になり、いやにせわしげに切ったり、ついには「ちょ、ちょっとかけ直していいですか?」となって、あれもマロニエ君は好きではないですね。

それだとわかれば、こちらは話し放題のプランなのでいくらでもかけ直しますが、わからないと微妙に調子がヘンだったりして、ご当人も安さの代償として気が気でないだろうし、なんだかややこしい世の中になったものです。

もちろん安いことはそれ自体が意味があるし、自分もそういう恩恵には浴して生きている訳だから、そこだけエラそうにいう資格はないけれども、いずれにしろ潤いがないなぁと思います。
そもそも潤いというものは、ちょっと無駄なものとか、ないならないでもいいようなところから滲み出てくるものだと思うし、そこが実はとても大切だと思うのですが、今どきのように極限的な合理性の追求が是とされる時代は、そんなことはなかなか通用しないようです。

それでも尚くじけず、自分の自然な感性を踏みつけるようにして頑張らなくちゃいけない現代人は辛いですね。

2019/06/24 Mon. 02:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ネタ探し 

…ときどき思うこと。
自分で言うのもなんですが、そもそもブログって何のために書いているのだろうと。

言葉の上で尤もらしい理屈はいくらでも付けられますが、マロニエ君の場合、ひとことで言うなら自分の心にあることを、たとえ一人でも読んでくださる方があるなら伝えたいという、くだらぬ自己満足というのが一番近いような、もっと言うなら、なにげない日常でいろいろと見聞きしたり、考えたり、おもしろかったり、感動したり、落胆したり…まあそんなようなことを自分だけで抱えておくのが性格的にしんどく、人に話すツールとして使っているのかもしれません。

世の中にはいろんな人がいて、人に喋ったり伝えたりすることにさしたる価値を感じず、自分の中で処理・廃棄してしまうことが自然にできる人もいらっしゃるようですが、マロニエ君にはそれは無理というもので、人に喋ったり話をしないことがストレスになってしまいます。
そういう意味では、自分を開放しているだけかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

世の中の空気は年々制約の多いものになり、昔に比べると、人と自由闊達にワイワイしゃべるとか、本音で意見交換するなどという機会は激減し、その内容もその場限りの表面的なものになっていく気がします。
なにより、ネットやスマホの普及により、人と人とのナマの付き合いみたいなものは、まさに絶滅の嬉々に瀕しているよう感じられます。
はじめから、そういう時代に育ってきた若い人は現在のスタイルを抵抗なく受け容れられるのかもしれませんが、昭和生まれの生々しい時代を生きてきた者にとって、途中からルールが変わり、四方を規制の壁で囲まれるよう変更を強いられるのは、非常に窮屈で息苦しさを覚えるのも正直なところ。

ブログはそんな息苦しさの中にあって、せめてもの換気のためのささやかな小窓のようにも思います。

ただ、いくら「ささやかな小窓」などと言っても、ネットに掲載するということは、不特定多数の人がアクセスできる場であるのだから、誰でも見ることができるという点においては、やはり大それたことでもあり、ときどき怖くなることがあるのも事実です。

そうはいっても、こんなくだらないものを心配するほど見ていただけるはずもないわけだから、やはりごくささやかな小窓であることは実態として間違いないわけですが、それでもネットはネットなのだから、やはり一定の注意を払う必要はあるわけです。

ブログで一番大切で、しかも困るのは、ネタ選びです。
私信ではなく、ネット上に書き込みをするということは、いくら読む人はほとんどいないだろうとはいっても、それがゼロではない以上、なんでも思いつくまま書くわけにもいきません。

ここがネタ探しの難しいところで、本当に書きたいこと、拙いながらも文章にして人に伝えたいというようなことは、実際にはどれもこれも書けないことばかり。

そうかといって、当り障りのないつまらぬ日常のことなど書いても、それこそ意味が無いし、その隙間を漂う、微妙なネタ探しというのは、けっこう難しいのです。

とりわけピアノのネタは、業界ネタが多くて言えないことのオンパレード。
なので、ネタには事欠かなくても、書けることはほんのわずかという話を、ついネタにしてしまいました。

2019/06/19 Wed. 02:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ストリートピアノ 

ちかごろ、ストリートピアノというのか大変な盛り上がりをみせているようですね。

そもそもの発祥はどこなのか…海外なのか、そのあたりは知りませんが、とりわけこの1〜2年ぐらいは日本国内でも、雨後のたけのこのように数が増えているようで、そうなると次から次でいまさらながら日本って流行りものに弱いんだなぁと思います。

マロニエ君は数年前NHKのドキュメント72時間とかいう番組で、宮崎市の商業施設の一角に置かれたピアノが取り上げられたことでその存在を知ったと記憶していますが、本物にお目にかかったことはまだ一度もありません。
海外でも、駅や空港などに置かれたピアノを、通りがかりの人がおもいおもいに弾いて楽しむ様子が、よくテレビで流れているので、どうやらこれは世界的なブームでもあるのでしょう。

これに使われるピアノの多くが、弾かれなくなり処分に困り、粗大ゴミに限りなく近づいた、先のないピアノの再利用といった一面があるあたりは、廃物利用で多くの人が楽しめるという点では画期的なことかもしれません。
マロニエ君的には突っ込みどころもないではないけれど、こういう遊び心の領域にあまり目くじらを立てることは無粋というものだから、これはこれで素直に楽しい気分で眺めていればいいものだと思っています。

楽器の設置環境としては、かなり厳しい場所にピアノを置くということや、あまりに派手なペイントやラッピングが施されるというのは、単純に「わー!」とは思うけれども、かといって、黒や木目のピアノをそのままポツンと置いても、場所柄地味で雰囲気も暗いだけというのもわからないではないし、ポップに仕上げるのも致し方のないことかもしれません。

それでもピアノはピアノであって、Tシャツではないのだから、あまりにド派手なペイントなどを見ると、さすがにちょっと…と思うこともありますが、一方で今どきのなんでも禁止、なんでもダメ、とりわけ音の出るものにとっては甚だ肩身の狭い世の中で「どうぞ自由に弾いてください!」というのは、ずいぶん気前のいいものにも感じます。

だれがどう弾いてもいいのがストリートピアノのルールでしょうけど、個人的にはそこにも暗黙のルールがあるような気がします。
まずはやはり楽器に著しくストレスを掛けるような弾き方をしないなど、まあ常識レベルのことでもありますが、もう一つは、そこそこ弾ける人が、ここぞとばかりに腕自慢のための演奏をするのは適しない気がします。

もちろんストリートピアノというものが、誰でも自由に弾いていいという建付けである以上、巧拙不問なのがいうまでもないけれど、中には周囲の視線を意識し過ぎるほど意識しながら、難曲大曲をバリバリ弾く光景をYouTubeなどで見たことあり、あれってどうなの?って思いましたね。
妙に浮いていて、周りもよほど拍手喝采かとおもいきや、意外にそうでもなく、熱演し終わった奏者が「あれ?」みたいなこともあって失笑したり。

そういう人がこういう場所を使って過度な自慢を繰り広げると、その狙いが周りにも伝わってしまうようで、結果的に期待するほどの効果が上がらないんでしょう。

本人がカッコイイと思ってやっていることが、実はカッコ悪くて、むしろ周囲の意識が逆流しているときって、いたたまれなさとザマミロという気分がミックスになります。
上手くても下手でも、なにかしらのピュアなものが伴わないとストリートピアノの意味が無いような気がします。
いっそプロフェッショナルのピアニストが弾いてくれたらいいかもしれないけれど、「難曲が弾けるシロウト」というのが一番やっかいです。


今年の春頃だったか、小池さんの肝いりなのか、東京都庁の展望室には一般から寄贈されたグランドに草間彌生さんの水玉模様を貼り付けた「おもいでピアノ」なるものが登場したこともあってか、テレビニュースなどでストリートピアノの事が特集されていました。

引っ越しを機に、ピアノを手放すことを余儀なくされた女性にスポットを当て、半生をともに過ごしたというピアノをストリートピアノに提供するというもの。
「我が子を里親に出す心境」なんだそうで、なるほどと思いました。

番組によれば40年前には31万台売れていたピアノは、現在ではわずか1万3千台ほどになったというのですから、その落差は凄まじいものがあるんですね。
時代や価値感の変化はもとより、近隣への騒音問題は如何ともしがたいものがあり、音の出るものというのは喫煙並みに肩身の狭いものなのかもしれません。

2019/06/13 Thu. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガブリリュク 

日曜夜のEテレ・クラシック音楽館で放映された今年のN響定期から。
アレクサンダー・ガブリリュクのピアノ、パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を視聴しました。

ガブリリュクは昔、浜松コンクールで優勝した人だったけれど、マロニエ君はあまり興味をそそられなかった人で、コンクール終了からほどない時期だったと思いますが、ベートーヴェンの月光が入ったCDがリリースされ、それを買って聴いたことがあるぐらいでした。
それがあまり好みではなかったこともあり、それっきりで、たぶん彼の演奏を聴くのはそれ以来か、クラシック倶楽部などで聴いたのかもしれないけれど、ほとんど記憶らしいものがなく、事実上初めて聴くのに近い感じでした。

さて、これが思ったよりもよかった。
いい意味で「今どき」の演奏ではなかったため、つい「早送り」も「停止ボタン」も押すことがないまま最後まで聴き入ってしまいました。
考えてみたら、ラフマニノフの2番をじっくり通して聴いたのもずいぶん久々だったような気がしますが、曲も演奏もずいぶん懐かしいものに触れたような良さがあり、昔ならごく普通だったものが、今どきは新鮮なものに感じるようになったことをはっきり認識させられました。

力強いタッチ、大きくて厚みのある手、余裕のある技巧、見せつけのためのヘンな誇張やわざとらしさのない、ストレートな喜怒哀楽を含んだ話を聞くようで、必要な場所に必要なパンチもあれば、リリックなところはそのようになるメリハリもあって、それだけでも心地よく感じるものです。

今どきの若いピアニストでうんざりしていることを繰り返すと、線が細く、楽器が鳴らず、なにも感じていないのに感じている素振りをところどころに入れたり、あるいは完成された解釈やアーティキュレーションをコピペのように用いる。
さらに自己顕示のための見せ所はいくつか設けて、意味もなく音楽の流れを停滞さるなど、そういう首尾一貫しないものの寄せ集めだから当然演奏としての辻褄は合っていないけれど、指はほとんどミスもなく動くため、曲は終わりまで進み無事終了ということにはなる。

その点ガブリリュクは、とくにどこがどうというような特筆すべきことはないけれど、情熱と活気を伴いつつ、真っ当なテンポにのってぐんぐん前に進んでいくだけでも快適でした。

とくにライブでのコンチェルトの場合、ソロとオケがピッタリ合うことは建前としては必要だけれども、それだけで良いのかといえばマロニエ君はどこかそうは思えませんし、あまり小ぎれいにまとまり過ぎると室内楽のようになってしまうこともしばしば。
やはりソロ対オーケストラという形態を考えると、節度は必要だけれども、即興性やわずかなズレやはみ出しであるとか、ほんの心もちソロが全体を引っ張っていくような、生命感を感じる演奏をマロニエ君は好みます。
興がノッて、ときに飛ばしすぎの危険を感じるほど、推進力をもって進むときの気持ちよさは、協奏曲を聴くときのちょっとした醍醐味のようにも思うのです。

ガブリリュクの演奏は、今どきのシラけた演奏のもやもやを吹き飛ばしてくれるような、筋の通った演奏でした。
突っ込みどころもないわけではなく、彼の演奏のすべてを肯定するには至らなかったものの、一回の演奏としては、単純に満腹感を得られる演奏でしたし、ステージの演奏の魅力というものは、まずはこういうところからではないかと思います。

2019/06/07 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit