09 « 1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.» 11

ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

思いつくまま 

身も心もイヤ~なカビが生えてきそうな、陰気な雨模様がずーっと続いてて終わりませんね。
報道によると、どうやらほぼ全国的なもののようで、こればかりは打つ手がありません。

福岡の場合で言うと、土曜から降り始めた雨は日曜にはさらに深刻なものとなり、朝から晩までしたたかに降り続きました。
月曜もほぼ同様の状態がつづき、火曜の夜にほんの少しだけ止みましたが、その後はまたしても降ったり止んだりの繰り返しで、ここまでくると青い空も忘れかけた気分です。

週間予報を見ていると、晴れマークはひとつもなく、来週以降も連続して黒っぽい雲か傘のマークばかり並んでいて、まるで黒いパールのネックレスのように連なっています。さらに追い打ちをかけるように、今年はもう終わったものだと思い込んでいた台風までやってくるようで、選挙の日曜には沖縄に達し、翌日から日本列島に向かって北上してくるというのですから、秋らしい、澄んだ空気を思いっきり満喫するのも当分は諦めなくてはならないようです。

だいたいお天気のことを書くときはネタがないときなんですが、よく思い返してみると、先週は横浜のピアノ屋さんが福岡への納品ついでに我が家にも立ち寄ってくださり、楽しいひと時を過ごすことができました。

この方はピアノはもちろん、ときには車までヨーローッパから輸入されているらしく、お店のキャラクターにもなっている1963年のオースチンA35バンが先ごろカー・マガジン誌から取材を受けたとのことで、マロニエ君がピアノと同様、車も好きだということをどなたからか聞かれたらしく、その本をおみやげに持ってきてくださいました。

そのオースチンA35バンの記事は巻頭のカラー4ページにもわたる堂々たるもので、見開き2ページにわたりピアノ店の店頭で車のハッチが開き、そこへご主人がベヒシュタインの鍵盤蓋を抱え、今まさに積み込もうとするショットで、いきなりのけ反りました。
オースチンA35バンは、バンという名の通り商用車ですが、その造形は優雅な曲線に包まれたなんともかわいらしい車です。
フロントシートのすぐ後ろは荷室になっていますが、そこにはグランドピアノのアクション/鍵盤一式がきれいに収まっている写真が1ページまるごと掲載されているし、さらには店内のピアノやお仕事の様子などまでも紹介されていて、ピアノの本か車の雑誌かわからなくなるようで、大いに驚かされました。

こういうものを見せられると、かなり個人的かつこじつけのようではありますが、ピアノと車は精神的にどこか切っても切れないなにかがあるように思えてなりませんでした。

車の話が出たついでに少し書きますと、マロニエ君は普段の足にVWゴルフ7の1.2コンフォートラインというのに乗っています。
よく出来た現代の車の例に漏れず、ほとんど故障らしきものはないのですが、ちょっとしたフィールの問題で現在ディーラーに入院中で、その間の代車として同じくゴルフ7のワゴンの1.4ハイラインというのを貸してくれました。
ワゴンボディなので、通常のモデルより全長が少し長くて、そのぶん荷室は広く、エンジンはひとまわりパワーがあり、内装やシートの素材なども少しずつ高級な仕様になっていますが、走りだしたとたん、自分の車との本質的な違いにおおいに戸惑いました。

タイヤはより幅広でスポーティなサイズになるし、車重は140kgも重く、リアのサスペンションはワゴンということを考慮されて、かなり硬いセッティングになっています。前を向いて走ってもワゴンの荷室がうしろからついてまわるため、いつもカラのリュックを背負って動いているみたいで、なんとなく重心も高いしバランスも違ったものになっています。
これはこれでとても良くできた車であるし、ワゴンを本当に必要とする向きには良い1台とは思うけれど、個人的には圧倒的に自分の車のほうが軽快かつしなやかで好ましく、しかも価格が55万円も高いことを考えると、マロニエ君にはまったく無用のプラスアルファということを痛感しました。
今どきの流行りだからといってカッコだけでワゴンを選ぶと、とくに車の走りにこだわる人には予想外のこともあるだろうと思いつつ、自分の車の退院をひたすら待っているところ。

…雑誌の話からつい車のほうに行きましたが、ピアノへ話を戻すと、その日はせっかく遊びで立ち寄っていただいたにもかかわらず、話の流れでシュベスターの調律をやっていただくことになりました。
新旧内外ありとあらゆるピアノの修理をやられている方の目に、ヤフオクからクリックひとつで買ったシュベスターがどう評価されるか興味津々でした。どんなことを言われても傷つきませんから率直になんでも言ってください!と頼みましたが、果たしてとても状態が良いとのお褒めをいただくことになり、もちろん嬉しいけれどいささか拍子抜けしてしまいました。

外観がかなり荒れたピアノだったものの、内部の写真はそれほど悪くないように見えたことが今回はたまたま間違いではなかったようで、とてもきれいでほとんどやることがないというようなことまで言っていただき、そこには社交辞令が多分に盛り込まれているとは思いますが、それを割り引いたとしても、あんなめちゃくちゃな買い方のわりには、まあ結果は良かったほうか…と胸をなでおろすことができました。

スポンサーサイト
2017/10/20 Fri. 02:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

マックス・レーガー 

19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍したドイツの作曲家、マックス・レーガーのピアノ作品全集という珍しいものがあることを知り、さっそくCDを購入してみました。

マロニエ君はレーガーの作品といえば、バッハの主題による変奏曲とフーガop.81と、ブランデンブルク協奏曲全曲のピアノ連弾への編曲しか知らず、op.81はなかなか聴き応えのある大曲であることから、他にどんな作品を残したのかという興味がありました。
ウィキペディアによれば、徴兵され従軍、除隊したのが1898年で20世紀幕開けの直前だったようですが、1916年に43歳の若さで世を去るため、彼の音楽活動は20年にも満たない短いものだったようです。

詳しい理由はわからないけれど、オペラと交響曲はいっさい手がけず、主な作品は室内楽や器楽曲、管弦楽曲や声楽曲などで、とくに目を引くのは変奏曲やフーガの作品が多いこと。

CDは12枚組からなるピアノソロ作品のボックスセットですが、そこにはソナタなどは見当たらず、まとまった数の小品群からなる作品集が多いことが目を引くし、あとは前奏曲とフーガのたぐい、さらには変奏曲などが目につきます。
ヴァイオリンソナタ9曲、チェロソナタでさえ4曲も書いているのに、ピアニストでもあったレーガーにピアノソナタがないのは謎です。
1枚を数回ずつ12枚を聴き通すのに数日を要しましたが、まあなんとなく全体像は自分なり掴めた気がします。

レーガー自身も自分をドイツ三大Bの正当な後継者として位置づけることが好きだったようで、さらにはリストやワーグナーの影響、ブルックナー、グリーグ、R.シュトラウスへの傾斜もあることを認めていたようで、それらが概ね納得できる音楽でした。
作品集が多いのはブラームスやシューマンのようでもあるし、変奏曲はベートヴェン、フーガはバッハを想起させますが、それだけドイツ音楽の先達に対するリスペクトはかなり強い作曲家だったようです。

どれも特に耳に心地よいわけでもなければ、難解で放り出したくなるようなものでもなく、そのちょうど中間という感じですが、この時代の特徴とでもいうべきか…作品は全体に暗く重く、耳あたりの良い軽妙な叙情性といったような要素などは見当たりません。
ウィキペディアによれば「晦渋な作風という意味で共通点のあるブゾーニとは、互いに親しい間柄であった。」とあって、まさになるほど!と納得させられる印象でした。ただし、個人的にはブゾーニの作品のほうがはるかに異端的でグロテスクでもあるとは思いますが。

12枚のCDの最後に当たるVol.12に「バッハの主題による変奏曲とフーガop.81」があり、さすがにここに到達した時は耳にある程度馴染んでいるぶんホッともしたし、やはりよくできた作品で、後世に残るに値するだなあという実感がありました。

他の作品の中にも、なんともいえず心に染みこんでくるような部分とか、はっとする瞬間などは随所に散見され、並の作曲家でないことはよくわかりましたが、全体としてレーガーの作風はこうだという明快な個性のようなものには立ち至っていないような気がしたのも事実です。

これだけのものを生み出すことのできる並外れた才能があっても、その大半は後世まで演奏され続けることなく、ほとんどが埋もれた状態になるのが現実であり、それを思うと、単純に演奏される頻度が高い作品=傑作というわけではないけれども、それでも我々の耳に名曲として残っている作品(あるいは作曲家)はいかに選りすぐりのものであるかという厳しい現実を思わないではいられません。

余談ながら、この12枚からなる全集、演奏はドイツ出身のピアニスト、マルクス・ベッカーで、1995-2000年にかけて録音されているようでした。
どういうピアニストかは事前には知らない人だったけれど、まったく安定した危なげのない技巧と、説明文の中にも「演奏難易度の非常に高い作品の数々を終始完成度の高い演奏…」とあるのはマロニエ君も同感で、高い信頼感をもって聴き進めることができました。
これが格落ちのピアニストであれば、印象もずいぶん違うものになったことだろうと思います。

ちなみにボックスの表記を見て戸惑ったのは、作曲家がマックス・レーガー(Max Reger)にあるのに対して、ピアニストはマルクス・ベッカー(Markus Becker)と、響きも字面も酷似しており、はじめどっちがどうなのか、あれっあれっと戸惑ってしまいました。

マルクス・ベッカー氏もまさか名前が似ているからマックス・レーガーの全集を作り上げたわけではないと思いますが、奇妙な符合です。
あるいはドイツ人の発音では全然そんなことはないのだろうか…。

いずれにしろ、作曲家であれピアニストであれ、音楽におけるドイツの厚みというものをまざまざと見せつけられたようでした。


2017/10/16 Mon. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

理解不能 

今どきの人の行動を見ていると、やたら悪意に解釈する気はないけれども、ときどきその心中を図りかねることがあります。

例えば、満車の駐車場などで出る車を待っていると、人が戻ってきて車に乗り込んでも、ここからが不自然に長い時間を要します。
昔なら待っている車があることがわかれば少しでも急いで出るなどして、スペースを譲ったりしたものですが、最近ではそんな状況だと、逆にわざとじゃないかと思うほどゆっくり荷物を積んだり、何かゴソゴソと車内の整理のようなことが始まったり、エンジンが掛かってヘッドライトまで点灯しても、それからが異様に長くかかったりします。
こちらも少し近くに寄ってハザードを点滅させていたりするので、待っている人がいるということは十分わかっているのに、とにかく時間をかけるだけかけたあげく、いくらなんでももう動くだろうと思っていると、今度はスマホをいじり始めたりで、こんなパターンはもはや珍しくないほど蔓延しています。

そんなことをしているうちに、別の場所が空いたりすれば、こちらもすかさず空いたほうへ入れるのはいうまでもありませんが、すると故意か偶然か、はじめに待っていたほうの車もスルスルと動き始めたりして、呆れることがあります。

他車も待っているようだから、できるだけ早く譲ってあげようの逆で、待たれているからあえて動きたくない、駐車スペースを明け渡したくないというささやかなイジメの心理のあることが伝わってくるもので、こういうこともストレス社会だなぁと思うしだい。
せっかく自分が止めている場所を他人が欲しがっているということは、それを確保している今の自分はそのぶんの既得権を有する立場で、出るタイミングはあくまでも自由なのだから、その自由枠を最大限行使して合法的な嫌がらせをすることで、いっときの快を得ているのか。

また、こんなことも。
ある日の夜、ミスタードーナツにドーナツを買いに行った時のこと。
マロニエ君が店のドアに近づこうとすると、タッチの差でアラフォーぐらいのおしゃれな女性がツーンとした感じで先に店内に入りましたが、これが運の尽きでした。
時間的なこともあってか、売り場には店員さんがひとりだけで、この女性もマロニエ君も「持ち帰り」だったのですが、そのドーナツ選びにかける時間の長さときたら、そりゃあ尋常なものじゃありませんでした。

店員さんも、持ち帰りと聞いて白いトレーとトングを左右の手に持って構えているのですが、ゆーっくりと全体を見回し、少し腰を折った格好で視線を右から左へ、今度は左から右へ、上から下へ、かとおもうと斜めに視線は移ろい、その熱心な様子は芸術鑑賞じゃあるまいし、なかなか一つ目さえ決まりません。
これはどうなるのかと思っていたころ、ボソッとつぶやくような声でなにか言うと、店員さんもすかさずそれをトレーに載せますが、あくまで1個だけで、その次がまた決まりません。
こんな調子では先が思いやられて、マロニエ君はその女性の横から、何にしようかと見たり覗いたりしてみますが、それでもこの異常なペースはまったくびくともせず、正直マロニエ君もイライラしてきたし、店員さんもきっとそうだろうと思っていると、やはりそうだったのか…二度ほど目が合いました。

いつ果てるともないこの状況で10分ぐらい経過した頃でしょうか、さすがに店員さんもずっと棒立ちになっているこちらのことを気の毒に思ったらしく、飲食スペースでコーヒーのおかわりを注いで回っている男性が戻ってきたチャンスを捕まえて、小声で私の方を接客するように促してくれました。
別に時間を計ったわけではないけれど、この女性客はひとつ選ぶのに平均2分ぐらいはかかる感じで、しかも一種類につきあくまで一個で、最終的にわかったところでは7個買っていたようでした。単純計算でも14分ですが、たしかにそれぐらいかかった気がします。

たかが(本当にたかが!)ドーナツを買うのに、何でそこまでできるのか、そもそもドーナツなんてそこまでして厳選吟味するようなものじゃなくて、もっと気軽に楽しむおやつで、マロニエ君には到底理解できません。
譲り合う気持ちの欠落やうしろに人が待っていることがまったく気にならないのか、あるいは駐車場と同じく、人が待っているからなおさらゆっくりするのか、お客として当然の権利だと思っているのか、あるいは何も意識できないほどドーナツ選びに全神経が集中しているのか。

マロニエ君はとなりのレジが開いたことで、ありすぎる時間ですっかり決めていた3種☓2=6個をつげるとそれらは手早く箱詰めされましたが、いかんせん遅すぎたようで、お釣りを待っているタイミングで、なんと、またして一歩先に隣の女性が先に店を出て行きました。クー!
しかも駐車場では、隣の車の運転席にその女性が乗っていてまたびっくり。
ここでもすぐに車を出そうとはせずに、今度はスマホを頬に当て、悠然とどなたかと会話のご様子でした。


2017/10/11 Wed. 01:57 | trackback: 0 | comment: -- | edit

『そして父になる』 

ひょんなことから、普段あまり見ないような映画を見ました。
福山雅治主演の『そして父になる』が、たまたまテレビ放映されたので、どんなものだろうと思って録画していたもの。

出産した病院の看護師によって、同じ日に生まれた子供が故意に取り替えられたことから起こる悲劇と、それを取り巻く人間模様を描いた映画。

病院からの通告よってその事を知らされる衝撃、そこからはじまる親子の愛と悲しみ、突きつけられた過酷な現実が切々と綴られます。
6歳という、年齢的にもかわいい盛りの時期で、自意識や人格ができあがり、さまざまなことが認識できてくる年齢であるだけ、よけいに痛々しさも増すようでした。
マロニエ君は映画のことはよくわからないので、ただ面白いか、楽しいか、心地良いか、味わいがあるか、美しいか等で評価してしまいます。

ところが、この映画はそのどれにも当てはまらないもので、全編に陰鬱な悲しみが漂い、「いい映画を見た!」というのとはまたちょっと違った後味の残る作品だったように思いました。

福山雅治演じる父親は、何事によらず勝つことに価値を見出すエリート建築家で、高級マンションに暮らし、大きな仕事を手がけ、車はレクサス。いっぽうは街の小さな電気店で、なにごとも本音でわいわい楽しく生きるという庶民的な家庭で、いかにも対象的な価値観がコントラストになっています。

そんなふたつの家族同士が交流を重ねながら、やがて血の繋がった両親のもとにそれぞれ引き取られる二人の子供がなんとも悲しげでした。

つくづく思ったのは、福山さんは名にし負うイケメンのミュージシャン/俳優ですが、この役は見ていて最後まで違和感が拭えず、決して彼の本領ではなかっただろうという印象を持ちました。
一流企業のエリートで、高給取りで、子供にも他者よりも抜きん出ることを常に期待しているようなギラギラした野心的な男のイメージがどうにもそぐわないのです。

マロニエ君のイメージでは、福山さんもっと夢見がちで、仕事臭のしないしなやかな男性のかっこよさだろうと感じるだけに、この役に適した俳優はいくらでもいたはずとも思うけれど、福山さんありきで作られた映画なんだったらやむを得ないのかも。
そのあたりの芸能事情にはさっぱり疎いので、もうこれぐらいにしておきます。

意外だったのは、使われた音楽にピアノが多かったことで、冒頭はブルグミュラーの25の練習曲の『素直な心』からはじまり、その後はバッハのゴルトベルク変奏曲のアリアが折りに触れて挿入されました。
それに、記憶に間違いがなければパルティータ第2番の一節もあったような…。

ゴルトベルク変奏曲のアリアは、そのゆったりしたテンポ、特徴的な装飾音が、えらくまたグールド風だなあと耳にするなり思ったのですが、最後のクレジットがでるところでは、なんとグールドのあの唸り声まで入っており、ああもうこれは間違いないと思いました。

はじめのうちグールドだと確信が持てなかったのは、音がずいぶん違う気がして、まるで電子ピアノのように聞こえたからでした。
たまたまなのか、あるいは訳あってそういう処理がかけられているのか、この映画を見るような世代には電子ピアノ風の音が馴染みがいいのか、あるいは映画の中で子供がピアノの練習を電子ピアノでやっているところから、そういう音でいまどきの雰囲気を出そうとしたのか…。

グールドのゴルトベルク変奏曲といえば、猟奇的な映画で話題になった『羊たちの沈黙』でも、レクター博士が差し入れとして要求するのがそのカセットテープでしたが、これほど対極的な映画にもかかわらず同じ音楽が使えるというところにも、バッハの音楽の底知れない深さを感じないではいられませんでした。


2017/10/06 Fri. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

天才現る! 

最近見たテレビの音楽番組の録画から。

BS朝日の『はじめてのクラシック』で、わずか13歳の奥井紫麻(Okui Shio)さんのピアノで、グリーグのピアノ協奏曲が放送されました。
共演は小林研一郎指揮の新日本フィル。

現在モスクワ音楽院に在籍中で、ヨーロッパのオーケストラとはたびたび共演しているようですが、日本のオケとは初めてとのこと。
音楽の世界での「天才」の二文字は、実は珍しくもなんともないもので、特にソリストの場合は天才だらけと言っても過言ではないために、その演奏を聴いてみるまではマロニエ君は何ひとつ信じないようになっています。
天才といっても、天才度の番付はいろいろあるわけで、我々が求めているのはその十両クラスの天才ではなく、いってみれば何年にひとり出るかどうかの天才なんです。
そして、この奥井紫麻さんは、横綱級かどうかはともかく、かなりの上位に入る天才だと思いました。

リハーサルの様子も少し放送されましたが、これは本物と思わせるだけのオーラと、しっかりと筋の通ったぶれない音楽がそこに立ち上がっているのを忽ち感じました。
案内役の三枝氏が「ピアノを習い始めてわずか6年ほどでこれだけ弾けるんですから、嫌んなっちゃいますね」というようなコメントを述べましたが、たしかにその通りであるし、逆にいうとそれぐらいでないと真のソリストとしてはやっていけないほど強烈に狭き門であるのが演奏家の世界だろうとも思います。

身体も指も、まだ細くて華奢な子供であるし、ピアノの音も充分に出てはいないけれど、彼女の演奏に宿る集中力と、切々とこちらに訴えてくる音楽には、常人ではあり得ない表現と落ち着きがありました。特別変わったことをしているわけではないのに、心へ直に訴えくてくるものがあるのは、それが本物である故でしょう。
ただ指が正確によく回って、書かれた音符をただ追っているのではなく、音楽の意味するものがすべてこの少女の全身を通過し、その感性で翻訳されたものが我々の耳に届いてくるのですから、これは凄いと思いました。

リハーサルの様子からインタビューまで整えられていざ迎えた本番だったのに、なんたることか、いよいよ放送されたのは第1楽章のみで、それはないだろう!と心底がっかりしました。
これだけ大々的に紹介しておきながら、一曲全部も通すことなく終わり、あとはオケが展覧会の絵かなにかやっていましたが、憤慨しまくってそれ以降はまったく見る気になれませんでした。

これまでにも、天才だなんだと言われた日本人ピアニストは何人もいますが、その演奏はスカスカだったり、ピアノと格闘しているようだったり、聴いてみるなり興味を失うような人が大半です。
奥井さんは、それらとは明らかに違ったところで呼吸しているようで、落ち着きや、演奏から伝わる真実性、品位、老成など、わずか13歳にして、もっと聴いてみたいと思う存在でした。


もうひとつは、おなじみEテレの『クラシック音楽館』で、デトロイト交響楽団の演奏会がありました。
アメリカ音楽によるプログラムで、指揮はレナード・スラットキン。
この中にガーシュウィンのラプソディ・イン・ブルーがあり、ピアノはまたしても小曽根真氏。

やはりこの人の演奏のキレの悪さはかなり目立っていて、本来コンサートの中頃に登場する協奏曲では、アメリカ作品、ジャズピアニスト、おまけに超有名曲という要素があれば、プログラムとしてもまさに佳境に差し掛かるところではありますが、小曽根氏は笑顔は印象的だけれど、そのピアノには独特の鈍さと暗さがあり、聴けば聴くほどテンションが落ちてくるのがどうにもなりません。

とくにこの人が随所で差し込む即興は、その前後の脈絡もなければ才気も感じられないもので、いつも時間が止まったように浮いてしまっているし、ジャズの人とは思えぬほどリズム感があいまいで、妙な必死さばかりが伝わります。あちこちでテンポや強弱がコロコロ変わるのも意味不明で、オーケストラもかなり皆さんシラケた表情が多く、こういうときは外国人のほうがストレートに顔に出るんだなあと思います。

演奏前にスラットキンと小曽根氏の対談がありましたが、スラットキンは小曽根氏持ち上げるばかりだし、小曽根氏も相手がマエストロというより音楽仲間といったスタンスでしゃべっていました。
驚いたのは小曽根氏が「ラプソディ・イン・ブルーでの僕の最大のチャレンジはカデンツァ(即興のソロ)を面白くするためにいかに自分を鼓舞するか。それも無理しているように聞こえたらダメで…」というと、すかさずスラットキンが「自然でなければならない」と言葉をつなぐと「そう!」と小曽根氏。
トドメは「(自然なものでなければ)作品からかけ離れてしまうし、聴衆やバンドをほったらかしにしてしまう」とまでコメント。

これって、「すべてが逆」に聴こえてしまったマロニエ君には、自分のやっていることは「面白くて」「無理してなくて」「自然で」「作品から離れず」「聴衆やオケをほったらかしにしない」し、そのあたりはよく心得ていて、その上での演奏なんですよというのを、演奏前にしっかり言い訳していたように思えました。

2017/10/02 Mon. 02:38 | trackback: 0 | comment: -- | edit

クラビアハウス-2 

前回のクラビアハウス訪問記で書ききれなかったことをいくつか。

知人がネット動画の音を聴いてこれだと目星をつけていたのは戦前のグロトリアンシュタインヴェークだったのですが、実物に触れてもそこに食い違いはなかったようで、あっさりこれを購入することになりました。
もちろん、他の3台も触って音を出してみた上でのことですが、各ピアノの個性やタッチなどから、この1台に決したのは極めて自然なことだと思われました。

それほどそのグロトリアンは1台のピアノとしての完成度が高くて自然でした。
曲や弾き手を広く受け容れる懐の深さがあり、いい意味でのきれいな標準語を話すようなピアノでしたから、なにか突出した個性を得るためその他のなにかを犠牲にするということがまったくないピアノだというのが率直なところ。

あくまでも個人的な意見ですが、ベーゼンドルファーやプレイエルは、これらのピアノに思い入れがあるとか、すでになんらかのピアノを持っている人が、さらに自分の求める方向性を深く追求するために購入するには最高のチョイスになり得ると思いますが、そうでない場合はもう少し普遍的な要素を持ったピアノのほうが賢明かもしれません。

その点では、中間的な個性かもしれないのがブリュートナーで、一応どんな音楽にも対応できるピアノではあるけれど、それでもなおドイツ臭はかなりあるので、弾き手の趣味や好みの問題が出てくるとは思います。
艷やかで量感のある音なので、やはりドイツ音楽が向いていそうで、とくにバッハなどには最良かもしれません。

ドイツ臭といえば、工房で修理中であったアートケースのベヒシュタインはさらにその上をいくもので、発音そのものがまるでドイツ語のアクセントのようでした。ちょっとベートーヴェンなどを弾いてみると、うわぁと思うほどその音と曲がピタッと来るので、やはり生まれというのはどうしようもないもののようです。
そういえばマロニエ君がバックハウスの中でも最も好きな演奏のひとつである、ザルツブルク音楽祭でのライブ録音のヴァルトシュタインは、いつものベーゼンドルファーではなく、なぜかベヒシュタインのEで、それがまたいい具合に野性味があって良かったことを思い出しました。

その点でいうと、スタインウェイは何語ともいいがたい音だと言えそうで、強いて言うなら、もっとも美しい英語かもしれないし、あるいは何カ国語も流暢に話せるピアノかも。それでもニューヨークはまだアメリカ的要素があるけれど、ハンブルクはまさに国籍不明。

さて、そのベヒシュタインのところで話題になったのが響板割れについてでした。
マロニエ君は響板割れというのは目に見える響板のヒビや割れのことだと思っていたのですが、そればかりではないということを聞いたときは意外でした。

ヴィンテージピアノの多くには響板割れはしばしば見られるもので、それらは必ずしも見てわかるものではなく、冬場だけ木が収縮してようやくわかるものがあるなど状態もさまざまで、目視だけでは油断はできないのだそうです。
クラビアハウスではピアノを修理する際、この見えない響板割れを突き止めるために、特殊な液体を使って割れの有無を確かめるのだそうで、新品のようにレストアされたプレイエルにも、よく見ると響板割れをきれいに埋め木で補修した跡があり、こうして手を入れることでピアノは人間よりも長い寿命を生き続ける楽器であることがよくわかります。

ここのご主人は、驚いたことにこの10年の間に40回!!!ほどもピアノの仕入れのためにヨーロッパへ行かれたそうで、その際には裏の裏まで徹底的にピアノをチェックして納得のいくものだけを購入される由で、一度に多くても2~3台、場合によってはゼロで帰ってくることもあるとのことでした。もちろんその納得の中には、ピアノの状態に対する価格の妥当性という面もあるのだとは思いますが、とにかくその手間ひまたるや気の遠くなるような大変なものというのが率直な感想です。

前回も少し触れましたが、ここの価格は望外のもので、疑り深い人はその安さから不安視することもあるかもしれないと思うほどですが、マロニエ君の結論としては、購入者はピアノの状態を見て聴いて触れることは当然としても、お店の方の人柄とかピアノに対するスタンスというものが、もうひとつの大きなバロメーターになると思います。
というのも、ピアノのような専門領域を多く含んだものを購入する場合、すべてを素人が自分でチェックすることはまず不可能で、あとはお店に対する信頼しかないわけです。
とりわけヴィンテージと言われるピアノになればなおさらで、修理や調整を手がけ、すべてを知り尽くした人だけが頼りです。

最後に、ヴィンテージピアノといっても、きちんと適切な修理調整をされたものは、けっして一般的なイメージにある古物ではないことを強調しておきたいと思いますし、下手をすれば人工合材の寄せ集めのような新品ピアノなどより、この先の寿命もよほど長いかもしれません。
今回弾かせていただいたいずれのピアノも(とくに3台は戦前のもの)、古いピアノにイメージしがちな骨董的な雰囲気とか、賞味期限を過ぎたもの特
有のくたびれた感じなどは皆無で、90年ほども前のピアノという事実を忘れてしまうほど健康的でパワーがあって、少なくとも自分の命のほうが短いだろうなぁと思えるものばかりでした。


2017/09/26 Tue. 02:02 | trackback: 0 | comment: -- | edit

クラビアハウス 

横浜のクラビアハウスに行ってきました。
ここはマロニエ君が数年前からホームページ上で注目していたピアノ店で、いつか機会があれば行ってみたいと思う筆頭候補だったのですが、このたびふとしたことから念願が叶いました。

この店はご主人自らヨーロッパに出向き、自分の納得のいくピアノを買い付けては日本に送り、工房でじっくり時間をかけて仕上げたものを順次販売するというスタイルのようです。
ホームページでは、仕上がったピアノを紹介する際に必ずと言っていいほど演奏動画が添付されており、マロニエ君はこれまで、ここの動画のあれこれをどれほど見て聴いて楽しませてもらったかわかりません。

特別な装置で撮られたものではないようですが、パソコンのスピーカーで聴くだけでも、それぞれのピアノの特徴が思いのほかよくわかり、飽きるということがありませんでした。

知人がヴィンテージピアノに興味を抱いているようなので、ならばとここのホームページを教えたところ、その中の一台の音色にすっかり魅せられたらしく、たちまち航空券等の手配をして、すぐにも横浜に行く手はずを整えてしまいました。
それで、かねてよりマロニエ君自身も行ってみたいピアノ店であったことから、それならというわけで同行することになったのです。

こういうチャンスでもないと、購入予定もないのに、興味に任せてピアノ店を訪れて話を聞いたりピアノを弾いたりするという行為があまり好きではないし、まして近い距離でもないので、今しかないかも…というわけで思いきって腰を上げた次第。

クラビアハウスは保土ヶ谷区の住宅街にあってわかりにくいということから、ご主人自ら最寄り駅まで車でお出迎えくださり、お店へとご案内いただきました。

表にはかわいらしい花々が咲き乱れ、まるでヨーロッパの小さなピアノ工房を訪れるような感じ(行ったことはないけれどあくまでイメージ)で、控えめな入口をくぐると、そこには眩いばかりにいろいろなピアノがずらりと並んでいて、やはり普通のピアノ店でないことは一目瞭然でした。
普通は外観は派手でも、中に入ったらガッカリということが少なくないけれど、クラビアハウスはまったく逆で、さりげない店構えに対して中はまさにディープなピアノがぎっしりという驚きの店でした。

入り口から左手には工房があり、右手には仕上がったピアノが所狭しと並んでいます。
どれも技術者の手が惜しみなく入ったピアノだけがもつ独特の輝きがあり、この工房でいかに丁寧に仕上げられたピアノ達かということが物言わずとも伝わってきました。
グランドに限っても、このときベーゼンドルファー、ブリュートナー、プレイエル、グロトリアンシュタインヴェークという、綺羅星のような銘器が揃っていましたし、さらに工房には作業中と思しき六本足の華麗なアートケースをもつベヒシュタイン、さらにはもう1台ブリュートナーがありました。

展示スペースにある4台のグランドのうち、ベーゼンドルファーとプレイエルは我々のために試弾できるよう急遽組み上げられたのだそうで、こまかい調整はあくまでこれからとのことでしたので、この2台については多少そのつもりで見る必要がありそうでした。
ごく簡単に、それぞれの印象など。

《ベーゼンドルファー》
調整はこれからという言葉が信じられないほど、軽くてデリケートなタッチとソフトな音色はまさにウィーンの貴婦人のようで、他のどのピアノとも違う、ベーゼンドルファーの面目躍如たるものを醸し出すピアノ。こういうピアノでひとり気ままにシューベルトなどを弾いて過ごせたら至福の時でしょう。
1922年製の170cm。外装は黒から木目仕様に変更されたものらしく、普段なかなか目にすることのない渋い大人の色目で、淡い木目を映し込んだ美しいポリッシュ仕上げ。

《プレイエル》
マロニエ君の憧れでもあるプレイエル。さりげない寄木細工のボディ、シックで控えめな色合い、明るさの中にも憂いのある独特な音色と、よく伸びる次高音など、いまさらながらショパンがサマになる、フランスというよりもパリのピアノ。
惜しむらくはタッチがピアノの個性に似合わず全体に重めで、このあたりが調整途上である故かと納得する。
新品のように美しかったが、聞けばかなりの状態からここまで見事に蘇ったとのことで、その高い技術力に唸るばかり。

《グロトリアンシュタインヴェーク》
この日の4台の中で、最もバランスに優れ、違和感なくヴィンテージピアノを満喫できるのは、おそらくこれだろうという1台。グロトリアンはスタインウェイのルーツともいえるメーカーで、クララ・シューマンやギーゼキングが愛用してことでも有名。
その音色は最もスタインウェイ的な華と普遍性が感じられ、ピアノとしてのオールマイティさはグロトリアン時代から引き継がれたこの系譜のDNAであることがわかる気がした。
その音色は甘く温かく、過度な偏りのない点が心地よい。

《ブリュートナー》
このメーカー最大の特徴といえるアリコートシステムをもつため、芯線部分は通常が3本のところ、4本の弦が貼られているためやたら弦やピンが多い印象(ただし実際に打弦されるのは3本)。全体に手応えのあるタッチと、それに比例するような強めのアタック音と、実直さの中に艶やかさが光る音色。
明るめの美しい木目仕様で、フレームには亀甲型の穴と、鮮やかな青いフェルトが鮮烈な印象を与える。
1978年製の165cmで、この4台の中では最も製造年が新しく、ヴィンテージというにはやや新しめの音かもしれない。

~以上どれもが本当に素晴らしいものばかりで、いつまでもその余韻が残るようなピアノ達でした。

ちなみにクラビアハウスで注目すべきは、その品質の良さだけでなく、かなり良心的な価格でもあることで、これは購入検討する際には見逃せない点だと思います。
実際もっとクオリティの劣るピアノを、はるか高値で売る店はいくらでもあるので、なんと奇特なことかと思いますが、ここのご主人のおっとりした飾らないお人柄に触れていると、それも次第に納得できるようでした。

ヴィンテージピアノに興味のある方は、一度は訪ねておいて損はない店だと思います。

2017/09/22 Fri. 01:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

譜面立ての不思議 

概ね気に入っているシュベスターではありますが、このピアノを弾いていて、ひとつだけひどく不自由に感じるところがあります。
それはアップライトピアノ全般に言えることなので、とくにシュベスター固有の問題点とは言えないのですが、譜面立てに関すること。

グランドピアノの場合は、水平に畳まれた譜面台を使用時に引き起こして(自分の好きな角度で)使いますが、アップライトの多くは鍵盤蓋の内側に細長い譜面立てが折り畳まれており、使用時はそれを手前に倒して、そこへ楽譜を載せるというスタイル。
(そうではない形状の譜面立てをもつアップライトもありますが、鍵盤蓋内側のものが圧倒的多数)
楽譜を置く部分はグランドの場合は水平であるのに対して、アップライトの場合は構造上の問題からか、かなりの角度(傾き)がついています。

それだけでも少し使いにくいのに、その細長い板の手前側の縁がわずかにせり上がるように作られており、これはおそらく楽譜が不用意に滑り落ちないための配慮のつもりだろうと一応は推察されるけれども、これが決定的にいけません。

というのも、弾きながらページをめくるときは、できるだけ曲が途切れないよう、手早くサッと一瞬でめくるものですが、その譜面台前縁のせり上がった部分に楽譜が干渉してひっかかり、その部分が強く擦れてシワになって、みるみるうちに楽譜の下の部分が傷んでしまうばかりか、最悪の場合は破れることもじゅうぶんありそうです。

グランドの譜面立てではそんな不都合は一切ないのに、なぜアップライトではこういう理解に苦しむ作りになっているのか、まるで合点がいきません。
その譜面台の板の角度がもし水平で、表面がツルツルなら、あるいは楽譜が滑り落ちる可能性があるというのもわかりますが、この手の譜面立ては「鍵盤蓋に対して直角に開くよう」になっています。
そこで問題なのは、アップライトピアノの標準的な鍵盤蓋は、グランドのように垂直に開くのではないこと。
直角よりも後ろへ寝かすように開きますから、その鍵盤蓋に直角に取り付けられた譜面立ては、横から見るとおよそ30度ぐらいの角度がついていて、滑り止めの前縁などなくても楽譜が落ちることはまず考えられません。

ではもし、そのせり上がった前縁がなければいいのかといえば、そうでもなく、鍵盤蓋がカーブして手前に伸びた部分に楽譜の背が当たるので、そのぶん角度がついて、どっちにしろ楽譜はめくれば譜面立てに干渉することは避けられません。

それにくわえて、わざわざ滑り止めの縁まである!
つまり「角度」と「滑り止めの縁」というふたつの理由から楽譜をサッとめくることができず、毎度毎度、楽譜の下の部分がその縁に引っかかっては皺になってしまうのが使いにくいし、それがいやならいちいち楽譜を持ち上げてページをめくる必要があります。
こういうことは、ピアノを弾くにあたってかなりのストレスにもなり、これは構造的な欠陥だと断じざるを得ないのです。
しかも、メーカーを問わずアップライトピアノの場合、多くがこのスタイルになっているのは、まったく不可解という以外にありません。

ピアノの製作者のほうには、楽譜を「めくりやすく」という実践的な考えや見直しがないのか、とにかく使う人のことをまったく考えていない構造だというのがマロニエ君の結論です。

試しにそこへ細長い板を置いてみましたが、前縁に干渉しない高さなっても、前述のように楽譜が鍵盤蓋のカーブに当っているために角度が生じて要るため、やはり楽譜は譜面立てそのものに干渉してしまいます。そこで、奥に鉛筆を一本置いてその上に板を乗せて角度をなだらかに変えてみると、これでようやく楽譜をスムーズに(つまりグランドと同じように)めくることができました。

ほんらい、ありのままで問題なく使えるのが当たり前であるはずなのに、このように二重の欠陥を有しながら、何十年も改善されることなく放置されていることにはただもう驚くばかりで、それは日本の大手のメーカーも同様なので、なぜこんな使いにくいスタイルがスタンダードになっているのか、まったく理解に苦しみます。

悪趣味で鬱陶しいカバーなどを何十種も作るより、こういう機能改善をするためのグッズでも販売してもらいたいものです。
むろん、メーカーが使いやすい譜面立てを考案・制作してくれることが一番ですが。

2017/09/17 Sun. 15:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シュベスター近況 

中古ピアノの買い方としては、ネットオークションという、いわば最悪というか、一番やってはいけない方法で入手したシュベスター。

ピアノを買うにあたり、実物を見ることも触れることも音を聴くことも一切せず、写真のみで入札ボタンを押してしまった無謀きわまりないやり方です。とくに中古品はどんな使い方をされてきたかもわからないし、コンディションもバラバラで、とんでもないピアノかもしれません。
いや、とんでもないピアノであるほうが確率は高く、そうでないことのほうが珍しいかも。
まして素人の場合、もし実際に見て触れたとしても、プロのような正しい判断ができるわけではなくじゅうぶん危険なのに、ほとんどやけっぱち同然で入札〜ゲットしたのですから、よくもそんな無茶なことをしたものだと、いま考えると自分で呆れます。

しかも出品者はピアノ業者でも個人オーナーでもなく、家具などを扱うリサイクル店だったため、楽器の知識などもない相手でしたから、質問なども諦めておりまさに冒険でした。

写真から、濃い目のウォールナットのそれは、外観はあまりいい感じではないことは見てわかりましたが、それでもこのとき、無性にシュベスターという日本の手造りピアノが欲しいことに気分は高揚し、値段も大したことないことも拍車がかかってこのような暴挙へとなだれ込んだ次第でした。
とくに響板には、その性質が最も適しているとされながらも、厳しい伐採規制で量産品では不可能とされる北海道の赤蝦夷松を使っていること、設計はベーゼンドルファーのアップライトを手本としているらしいことも大いに魅力に思われました。

落札から約2週間後、外装の補修のため、ピアノ塗装をメインにする工房(木工作業塗装一級技能士の資格をお持ちの技術者)に届けてもらったシュベスターは、さっそくプロのチェックを受けることに。
果たして楽器としての内部的な部分はこれといった問題もなく、外装の補修のみで納品できるとのことで、これは望外のうれしいビックリでした。
実を言うと、とんでもないものが来るのではないか(響板割れやピンルーズなど)という不安もあり、一応それなりの覚悟はしていたのですが、いずれの問題もないという報告で、この点は非常にラッキーだったとしか云いようがありません。

塗装工房では他のピアノの作業との兼ね合いもあってずいぶん時間がかかりましたが、この道のスペシャリストの方の丁寧な作業のおかげで、見違えるほど美しく蘇り、いまも自室のデスクの真後ろにシュベスターは静かに佇んでいます。

やはり自分の部屋にピアノがあるというのは、ピアノに触れるチャンスが圧倒的に増えるもので、以前よりピアノを弾く時間がずっと増えたような気がします。とはいってもマロニエ君の低次元の話であって、これまで5~10分ぐらいだったものが、せいぜい30分前後になったという程度ですが。

よくある某大手メーカーのアップライトは、高級機種とされるものでも弾いてみてぜんぜん楽しくないですが、シュベスターはなによりもまず弾きたい気持ちにさせてくれるところが、このピアノ最大の特徴のように思います。

そして、多少の失笑を買うことを覚悟でいうと、たしかにベーゼンドルファーに通じる雰囲気がちょっとだけあるし、音を出すだけでもとても楽しく、ピアノと対話しているような感覚が途切れないところがなんともいえません。
生意気に曲との相性もあったりして、バッハやベートーヴェン、シューベルトなどはいいけれど、ショパンはどうにもサマにならないところもベーゼンのようで、つい笑ってしまいます。

納品前の整音は、とりあえずソフトな音を希望していたので、しばらくはそんな音でしたが、2〜3ヶ月もするとだんだん弦溝が深くなり、艶めいた輪郭のあるよく通る音色になってきて、より個性的になっています。

今回のようなギャンブル的な買い方は絶対に人にすすめられることではないけれど、大量生産の表情のない音が出るだけのピアノがどうしても嫌だという方には、シュベスターは自信をもっておすすめできると思います。
そこそこの値段だし、それこそ磐田に行って注文すれば、貴重な材料を使った手造りピアノが今でも新品で手に入るわけで、こんな素晴らしい道がか細いろうそくの光のようではあるけれど、かろうじて残されているのは嬉しいことです。


2017/09/12 Tue. 02:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

二人のブラームス 

休日には、ときどきテレビ番組の録画の整理をすることがあります。
これをしないと録画はたまる一方で、つまり見る量が録画する量に追いつかないということ。

BSプレミアムのクラシック倶楽部も例外ではなく、毎日の録画の中から実際に見るのはほんの一握りに過ぎません。
タイトルだけ見て消去するものもあるけれど、いつか見てみようとそのままにして何ヶ月も経ってしまうこともしばしばで、そんな中からある日本人著名ヴァイオリニストの演奏会の様子を見てみることに。

曲は、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第1番と第3番。
インタビューの中でも自分にとってブラームスは最も身近に感じる存在などと語っていて、彼女にとって特別な作曲家であるらしく、実際の演奏もよく準備され弾き込まれた感じがあり、とくに味わいはないけれども普通に聴ける演奏でした。
ピアノはえらく体格のいい外国人男性で、これらの曲のピアノパートの重要性を意識した上で選ばれたピアニストという感じがあり、両者ともに、いかにもドイツ音楽っぽくガチッとまとめられた印象。

身じろぎもせずにじっと聴き入っていたわけではなく、その間お茶を呑んだり、新聞を見たり、雑用をしながらではありましたが、自分なりにちゃんとステレオから音を出して、いちおう最後まで聴いてから「消去」しました。
さて、次はと思って見たのは、同じ女性ヴァイオリニストで、こちらはジャニーヌ・ヤンセンの来日公演でした。

冒頭鳴り出したのは、なんとさっきの2曲の間を埋めるように、ブラームスのヴァイオリン・ソナタの第2番で、その偶然に驚きましたが、それ以上に驚いたのは、あまりの演奏スタンスの違いというべきか、湧き出てくる音楽のやわらかさであり自然さでした。
専門家などに言わせればどういう見解になるのかはわからないけれど、ブラームスが本来目指したのはこういう音楽だったのだろうと、マロニエ君は勝手に、しかし直感的に思いました。
少なくともさっきのような、動かない銅像みたいな演奏ではないはず。

変に頑なな気負いがなく、呼吸とともに音楽が流れ、とにかく自然でしなやか。
それでいて自己表現もちゃんと込められている。
ピアノのイタマール・ゴランも、マロニエ君はどちらかというと好きなほうのピアニストではなく、とくに合わせものでは相手を煽るようなところがあったり、ひとりで暴走するようなところがあるけれど、さっきのガチガチの演奏が耳に残っているので、比較にならないほど好ましく感じました。

さっきの日本人は、ひとことで言うと冒険も何もなく、ただ正しく振る舞おうとしているだけの演奏で、これは日本人とドイツ人の演奏者によくあるタイプという気がします。
音大の先生の指導のような演奏で、それでもブラームスをリスペクトしてはいるというのは本当だろうけれど、音楽に必要な表現や語りがなく、いかめしい骨格となにかの思い込みに囚われていてる感じ。
その結果、聴く者に音楽の楽しさも喜びも与えず、ただ勉強したブラームスの知識を頭に詰め込み、信頼できる譜面の通りにしっかり弾いている自分は正しいと思い込んでいるだけで、演奏上のいろいろな約束事を守ることに一所懸命な感じばかりが伝わります。

それがヤンセンの演奏に切り替わったとたん、堅苦しい教室から外へ出て、自然の風に吹かれて自由を得たような開放感がありました。

最近の日本の若手のヴァイオリニストには、そういう点ではずっとしなやかに音楽に向き合う人も出てきているようだけれど、少し前の世代までの日本人の演奏家には、どんなに大成してもその演奏にはお稽古の延長線上のような、独特の「重さ」と「楽しくなさ」がついてまわる気がします。
せっかく美しい作品を奏でているのに、いかつい表情ばかりが前に出て、聴いていて美しい音楽に自然に身を委ねるということが、できないというか知らないんだろうという気がします。

テクニックも充分で、かなりいいところまで行っているのだけれど、悲しいかなネイティブの発音には敵わないみたいな、努力と汗にまみれた日本人臭がするのは、なんだか切ない気分になりました。
テクニック上では「脱力」ということがよく言われますが、それよりももっと大事なのは、音楽に精通した上で気持ちが脱力することではないかと思います。

マロニエ君はブラームスのヴァイオリン・ソナタは第1番がとくに好きだったけれど、演奏のせいか、今は第2番が一番好きな気がしてきました。

2017/09/07 Thu. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

4人のスターピアニスト? 

毎週日曜朝の音楽番組『題名のない音楽会』で、「4人のスターピアニストを知る休日」と題する放送回がありました。
番組が始まると、この日はホールではなくスタジオのセットのほうで、てっきりそこへ4人のピアニストを呼び集めるのかと思ったら、すべて過去の録画からの寄せ集めで、まずガッカリ。

4人の内訳はラン・ラン、ユンディ・リ、ファジル・サイ、辻井伸行という、なんでこの4人なのかも疑問だけれど、そこはテレビ(しかも民放)なので、さほどの意味もないだろうと思われ、それを深く考えることなどもちろんしません。
残念ながら全体としてあまり印象の良いものではなかったので、書くかどうか迷いましたが、せっかく見たのでそれぞれの感想など。

【ラン・ラン】
この人のみ、この番組のスタジオセットの中に置かれたスタインウェイで弾いていましたが、これもどうやら過去の録画のようでした。
ファリャの「火祭の踊り」を弾いている映像でしたが、マロニエ君はどうしてもこの人の演奏から音楽の香りを嗅ぎ取ることはできないし、ハイハイというだけでした。
本人はどう思っているのか知らないけれど、聴かせる演奏ではなく、完全に見せる演奏。
必要以上に腕を上げたり下げたり、大げさな表情であっちを見たりこっちを見たり、睨んだり笑ったり陶酔的な表情になったり、とにかく忙しいことです。
テンポも、やたら速いスピードで弾きまくる様は、まさにピアノを使った曲芸師のよう。
それでもなぜか世界中からオファーがあるのは、慢性的なクラシック不況の中にあってチケットが売れる人だからなのでしょうけど、だとするとなぜこの人はチケットが売れるのかが疑問。

ただ、ラン・ランの場合、この見せるパフォーマンスには憎めない明るさもあり、「ま、この人なら仕方ないよね」という気にさせられてしまうものがあって、彼だけはその市民権を得てしまった特別な人という感じがあるようです。
ピアノを離れたときの人懐っこい人柄などもそれを支えているのかも。

【ユンディ・リ】
ショパンのスケルツォ第2番。こちらはホールでの演奏。
ショパン・コンクールの覇者で、ラン・ランのような能天気ぶりも突き抜けた娯楽性もないから、こちらは知的で音楽重視の人のように見えるけど、果たしてどうなんでしょう。
こちらもかなり早いスピードで弾きまくり、自分の演奏技能を前面に打ち出した、詩情もまろやかさもないガラスのようなショパン。
音楽的なフォルムは、音大生的に整っているようにも見えますが、細部に対する目配りや情感は殆どなく、これみよがしな音列とフォルテと技術の勢いだけでこの派手な曲をより派手に演奏しているだけ。
ショパンの外観をまといながらも核心に少しも到達せず、細部に宿る聴かせどころはすべてが素通りという印象。

ラン・ランとユンディ・リは相当のライバルと思われるけれど、ピアノを弾くエンターティナーvs優勝の肩書を持ったイケメンピアニストぐらいの違いで、本質においてはどっちもどっちという印象でしょうか。武蔵と小次郎?

【ファジル・サイ】
なにかコンチェルトを弾いた後のアンコールと思われるステージで、お得意のモーツァルトの「トルコ行進曲」をジャズ風にいじった自作のアレンジ。
好き嫌いは別にして、この人がこういう事をするのは非常にサマになっているというか、ツボにはまった感じがあって、コンポーザーピアニストでもある彼の稀有な才能に触れた感じがあるのは確かです。
このサイによる「トルコ行進曲」は人気があって楽譜が出ているのか、何度か日本人ピアニストが弾くのを聴いた事があるけれど、ただのウケ狙いと、これが弾けますよという腕自慢としか思えないものばかりではっきり言ってウンザリするだけ。
ところが、本家本元はさすがというべきで、全身から湧き出る音とリズムには本物の躍動があり、余裕ある圧倒的な技巧に支えられて、聴くに値するものだったことに感心。
今回の4人中では、唯一もう少し他の曲も聴いてみたいと思わせるピアニストでした。

【辻井伸行】
こちらもコンチェルト演奏後のアンコールのようで、ベートーヴェンの「悲愴」の第2楽章。
この超有名曲にして、あまりに凡庸な演奏だったことに面食らいました。
この人はある程度の音数があって、速度もそこそこある曲をノリノリで弾くほうが向いているのか、こういうしっとり系で酔わせてほしい曲では彼の良さがまったく出てこないことが露呈してしまったようでした。
きちっとした思慮に裏付けられた丁寧な歌い込みや、心の綾に触れるような深いところを表現することはお得意でないのか、あまりにもただ弾いてるだけといった感じで、辻井さんのピアノの魅力や美しさを受け取ることはできず、肩透かしをくらったようでした。

~以上、あまり芳しい感想ではありませんでしたが、まあそれが正直な印象だったのでお許しください。


2017/09/03 Sun. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

光回線 

我が家にとっては、何年来の懸案であった光回線への移行をついに果たしました。

光回線にしませんか?というのは、いろんな会社からイヤというほど電話攻勢をかけられまくって、中にはNTTを名乗るからそうかと思っていたら、そうではないものであったり、あまりにも数が多すぎてもうなにがなんだかわからなくなり、一時はそれとわかると片っ端から断っていましたが、そのあまりのしつこさに根負けして、ついに応じたことも数回ありました。

そして設置工事まで来てもらったことも数回ありましたが、これが下調べから始まって、我家の場合はなかなか超えられないラインがいくつかありました。

詳しいことは、よくわからないから書けないし、書いても意味が無いのでいずれにしろ省きますが、とにかく現状把握と称して、家の中をすみずみまで見ず知らずの工事関係者が動きまわってはなにかを探して回るのは、やむを得ぬこととはいいながら気持ちのいいものではありません。

とくに配線取り回しの関係なのか、電話回線どうなっているかを調べるのは、住人でさえ知らないような部分をああでもないこうでもないと見て回るのですからウンザリです。

このあたりは、新しい家とかマンションならはじめからその前提で設備されているのでしょうが、あとからの追加設置というのは、美観の問題も含めて思ったよりスムーズに行かないものです。

実を言うと、今回はたしか3度目ぐらいの挑戦でした。
ひどいときは外部から引いてきた光回線の真っ黒い線を、家のコンクリートの外壁に這わせた上で、最後は穴を開けて家の中に持ってくるというもので、さらには見るも無様で大きな金具を外壁の数ヶ所にわたってドリルで穴を開けながら取り付けていくというのですから、たかだか光回線ごときで家をそんなに傷つける決断はつきませんでした。

これまで使っているADSLよりも光回線にしたほうが安定して速度も早いのだそうで、たしかに時代は光回線へ移行しているのはわかるけれど、家にいくつも穴を開けて無粋な線を這わせるなど、そんなみっともない姿にしてまで、通信速度を上げようとも思いませんでした。
さらには家の中でも配線は隠されず、壁や天井の中を通すという作業は絶対に無理だと言い張ります。

マロニエ君は、電線のたぐいが家の中にしろ外にしろ目に見える部分にむき出しになるのが嫌なので、それなら結構と工事をキャンセルしてきたのでした。

そのあたりも伝えた上で再挑戦をいってくるので、ついにまた来てもらうことになり、今回は設置場所から線の取り回しなども最も合理的な方法を熟慮した結果、家には一箇所の穴も開けることなく済んだのは嬉しい限りでした。

ただし、マロニエ君がもう一つイヤなのは、工事は光ケーブルとやらを引いてきて家の中に入れ、専用モデムに繋いで電源を入れるところまでで、あとの設定はユーザー自信が行わなくてはならないというものでした。
マロニエ君はこういうことが恥ずかしいくらい苦手なので、この段階で設定ができずネットが遮断されることを最も恐れていました。

「簡単です!」「みなさんやられてます!」というけどそんなことは信用できません。
案の定、これが大変でその手に詳しい友人に来てもらってやってもらっても、なかなかすぐには終わらず、結局、友人がサポートセンターに電話するなどして、1時間ぐらい奮闘してようやくネットが繋がりました。

自分はべつにネット依存症でもないつもりですが、不思議なもので、ネットが途切れて繋がらない状態というのはとても不安で、まるで世間から孤立しているようで無性に嫌なものですね。こんな気分になることが、すでにネット依存症である証拠かもしれませんが…自分では認めたくはないです。

さて、その最大の謳い文句である通信速度ですが、どれほどスイスイと素早いのかと思っていたら、なんのことはない、ほとんど違いがわからないレベルで、これにはかなりガッカリでした。
普通のホームページを見るぐらいではまったく違いらしきものは感じられず、強いて言うならYouTubeなど動画を見る時に途切れることなどがなく、ちょっといいかな…という気がする程度でした。

逆にいうと、時代遅れと言われて久しいADSLって、実はそんなに悪くもなかったんじゃないかと思いました。


2017/08/29 Tue. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れかけていた曲 

8月6日のEテレ・クラシック音楽館では非常に珍しいというか、長いことご無沙汰していた曲を耳にする機会となりました。

パーヴォ・ヤルヴィ指揮のN響定期公演で、フランスプログラムが放送され、デュティユーの「メタボール」に続いて、サン=サーンスのピアノ協奏曲第2番。
もしかしたら20年ぶりぐらいに耳にしたんじゃないかと思われて、まるで昔の知り合いにばったり出くわしたような感じでしょうか。

もっと正直にいうと、サン=サーンスのピアノ協奏曲というものの存在を半ば忘れかけているような感じでもあったので、急に思い出させてもらったような懐かしさについ笑ってしまうような説明のしにくい感じになりました。
サン=サーンスは名前が有名わりには、肝心の曲はそれほど知られていないと思います。

最もよく知られているのが『動物の謝肉祭』で、その中でも「白鳥」はバレエ「瀕死の白鳥」にも使われるなど、誰もが知る有名曲。
ところがそれ以外となると、ぱったりと止まってしまうのでは。

ぐっと下がって、思いつくのは交響曲の第3番が「オルガン付き」として知られているし、ピアノ協奏曲もベートーヴェンと同様も5曲も作られているのにかろうじて演奏されるのはほとんどが今回の第2番か第5番「エジプト風」ぐらい。
あとはヴァイオリン協奏曲第3番とヴァイオリンソナタ、そしてオペラ『サムソンとデリラ』ぐらいでしょうか。
実際にはまだまだたくさんの作品がありますが…。

それはさておき、今回のソロは河村尚子さん。
この人を演奏に接していつも感心するのは、いつ聴いてもきちんとよくさらっている(練習している)こと。
これだけしっかり準備されているということは、それだけでも演奏会に対する意気込みというか、ステージに立つための真面目さ真剣さが伺えて、そこに聴く価値が高まるというもの。

それと、現代の若いピアニストの中では、珍しく演奏に燃焼感があり、少なくともこのピアニストは演奏中、その作品の中を生きているという演奏家なら本来当たり前だと思えるようなことが、ちゃんとできているというところが魅力だと云う気がします。
細部まで目配りの行き届いた演奏でありながら、全体の構成の把握もできているし、メリハリがあり聴いていて違和感を感じることがほとんどありません。

現代的な演奏クオリティを保ちながら、音楽がもつ本能や息づかいがそのまま音に直結して、「いま、ここ」での表現を作り出す感覚がある。
河村尚子さんの演奏を聞いていると、その両立を証明してもらっているようです。

マロニエ君の場合、サン=サーンスのピアノ協奏曲といえばアントルモンとかチッコリーニなどの全集だったし、第2番はルービンシュタインなども弾いていましたが、どれも古いピアニストだったので、河村さんの演奏はやはり新しい時代特有のクリアさの魅力もあり、これまで聴いた覚えのないような細かいディテールも聴こえてくるなど、発見も多々ありました。
ただ、個人的にはサン=サーンスのピアノ協奏曲にはフランスの安酒場的なニュアンス(より正確に言うならサン=サーンスの生きた時代のヴィルトゥオーゾ趣味というべきか?)を感じていましたが、その点ではこの新しい演奏を聴いてもなんら変化するところはありませんでした。

さらにいうと、河村さんのピアノにはいい意味でのスレンダーさがあり、日本人ピアニストが感情表現や歌いこみをしようとすると、どうしてもダサい感じがつきまとってしまうことが多いのですが、そういう日本人的な悪癖に陥ることなく、適材適所に必要なことをして、サッと切り上げるといったあたりのセンスが良いことにも感心させられます。
音楽のフォルムが美しいということでしょうか。
日本人のピアノ演奏はとくに素人の演奏でより顕著ですが、感情たっぷりとなると大げさに手を上げ下げしたり、フレーズの入口と出口でだけさも注意深げな素振りを見せますが、ただ速度を落として肩で呼吸をしているだけで、音としては大事なポイントがどこにあるかをまったく取り違えていたりで、それはプロのピアニストにもよく見られる現象です。

そういう意味で河村さんは、見た目は昭和風の日本人だけれど、彼女の指から出てくる音楽は日本人離れした音楽表現ができる人で、その点では国際人といえると思います。

河村さんが作品に没入して、演奏以外のものを捨て去り、作品の喜怒哀楽がそのつど顔の表情にも刻々と現れながら音楽に打ち込む姿は、なんとなくチョン・キョンファを連想させるところがあるようにも感じました。

2017/08/25 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ストラドの秘密 

Eテレで毎週日曜に放送される『クラシック音楽館』は、N響の定期公演の様子を放送するのがほとんどを占めており、たまにそれ以外の内外のオーケストラ演奏会を採り上げる番組ですが、7月後半の放送回では『ジェームズ・エーネスとたどるバイオリン500年の物語』と題された、これまでとはまったく色合いの変わった内容でした。

タイトルの通り、現在トップバイオリニストのひとりであるジェームズ・エーネス氏が2時間の全編を通じて登場し、演奏はもちろん、話をしたり、工房を訪ねたり、実験に参加したりと、あれだけの花形ヴァイオリニストをNHKの番組にこれほどの長時間出演させたというのは、それだけでもNHKはすごいなぁとやっぱり思ったし、内容もずっしりと見応えのあるものでした。

演奏も盛りだくさんで、バイオリン作品の起源ともされるコレッリのソナタ、ヴィヴァルディの四季からのいくつか、バッハの無伴奏ソナタ第1番からフーガ、ベートーヴェンの協奏曲から第3楽章、パガニーニのカプリースから24番、ブラームスのソナタ第1番から第1楽章、バルトークのバイオリンとピアノのためのラプソディー第1番。バッハの無伴奏パルティータ第2番からサラバンドと幅広い時代の作品を弾いてくれました。
ベートーヴェンの協奏曲だけは15年前にN響と共演した折の録画でしたが、他はすべてNHKのスタジオで今回この番組のために収録されたもののようでした。

また、NHKでは以前にストラディヴァリウス(ストラド)の秘密を探る番組を放送した時から、オールドイタリアンの秘密を探るための様々な実験を音響学が専門の牧弘勝教授監修のもとで行っていました。それは42個のマイクが演奏者を取り囲み、ストラドの音にはどのような指向性があるのかという点を科学的に実証しようという試みですが、それにも今回エーネス氏は参加してストラドの秘密の解明に協力していました。

そのひとつの結果として、ストラドはとくに前(ホールなら客席側)に向かって音が放射され、そこにゆらぎがあるということがわかったようです。

エーネス氏の次に多く登場したのが、バイオリン修理職人の窪田博和氏でした。
氏は以前の番組でも、オールドイタリアンの特徴のひとつとして、氏がたどり着いた考えによれば、表板はどこを叩いても音程がほぼ揃っていることが必要であるといっていましたが、その主張はさらに追求され、一層の深まりを見せているようでした。

窪田氏の工房にあった400年前に作られたというガスパロ・ダ・サロのバイオリンには、表板にはなんと木の節があり、そこはとくに薄く削られていることで氏が提唱するように音程が他の部分と同じように保たれているとのこと。
氏の主張やこのガスパロの作りなどから考えると、オールドイタリアンは音程の理論で作られたという点が一番大事であり、材料ではないということになるようです。

エーネス氏はこの窪田氏のもとを訪ね、愛器である1715年製の「バロン・クヌープ(黄金期のストラド)」をケースから取り出して見せていましたが、窪田さんが表板のあちこちを軽く叩くと、やはりその音程は揃っており、ストラディバリウスは完璧だと言っていました。

窪田氏は銘器の修理だけでなく、この音程に留意し、ニスなどもオールドイタリアンの特徴に基づいたバイオリンの製作もはじめられているようで、そのひとつをエーネス氏が試奏していました。
彼はとても美しい音だと褒めていましたが、テレビでもわかるぐらいにバロン・クヌープとは明らかな違いをマロニエ君は感じました。
この楽器を上記の実験に供したところ、ストラドにみられた音の強い放射やゆらぎが乏しいという結果も明らかに。

窪田氏によると、表板のどこを叩いても音程が揃うように削ることに加えて、横板は薄くすることで表板よりも音程が低くならなくてはならないという法則があるようでした。
しかし今以上横板を薄くすることはできないため、今度は表板の裏に石灰の粉をふりかけて塗りこむような処理が施されました。こうすることで表板の音程が上がり、相対的に横板の音程は表板に対してさらに低くなるというわけ。
これはストラディヴァリが石灰の粉を使っていたということが書かれた文献があるようで、そこから思いつかれたようでした。

果たしてその結果は、著しい改善が認められ、牧教授の実験データからもストラドとほとんど同じようなデータが示されたというのですから驚きでした。
さてこれが、世界中が渇望するストラドの製法の核心なのか。
窪田氏によれば、これを秘密にして窪田氏が製作してもとても間に合うものではないので、世界中に公開することで、より多くのバイオリンが製作されることを望むと言われていたことも印象的でした。

エーネス氏の演奏も随所で堪能できたし、興味深い事実にも触れられて、とてもおもしろい番組でした。


2017/08/20 Sun. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

なんだかヘン 

やむを得ぬわけあって、あるコンサートに出かけました。

今どきは、よほどの人気アーティストでもない限り、純粋にそのコンサートに興味を抱き、任意にチケットを購入して演奏を聴きに来るオーディエンスというのは、まずほとんどないといっても過言ではないでしょう。
とりわけ地方の演奏家等であれば、会場は友人知人生徒と保護者および何らかの縁故のある人達の大集会と化すのはほぼ毎度のこと。
会場内は、互いに知り合い率が高いものだから、あっちこっちでお辞儀や立ち話だらけ。
逆にいうと、演奏者を中心に何らかの繋がりでホールの座席を埋めるというのは(有料のコンサート開催の在り方としてはどうかとは思うけれども)、それはそれで大変なことだろう…すごいなあ…とヘンな感心もしてしまいます。

もし自分だったら、何をやろうにも(やれることもないけれど)自分のなにかしらの縁故だけでホールの座席をそこそこ埋めるくらいの人を集めるなんて、とてもではないけれどできる事ではありません。

それはともかく、だから、どう見ても音楽には興味も関わりもないような雰囲気の人が目立ち、開演後も身をかがめて通路を降りてきては着席する人がいつまでも続いたりと、会場がどことなく異質な空気に包まれます。
とくに演奏中、通路を人が動くというのは、聴いている側からするとなんとも迷惑な話です。
さらに、どういう事情があるのかわからないけれど、こんどは席を立ってコソコソと会場を出て行く人までいるなど、まるで映画館のよう。

どんなに身をかがめて動いても、演奏中の客席内の人の動きはメチャクチャ目立つので、どうしても気になってそれがすむまでは演奏もそっちのけになってしまいます。

さらに参ったのは、ソナタの楽章間でためらうことなく拍手をする人が大勢いて、何人かが手を叩くと多くがつられて手をたたきます。
それにつられない人よりつられてしまう人のほうが多いから、この流れが一向にとまらない。
この日のプログラムは、ふだんあまり耳にする機会の少ない曲(しかもソナタだけでも3曲)で構成されており、そのこともそういう現象を引き起こす要因のひとつだったのかもしれませんが、だとしても手許のプログラムには曲目が書いてあるわけだから、少しでもコンサートの心得というか経験があればわかりそうなものだと思いました。
わからないのであれば、少なくとも静寂を破って一番乗りで手を叩くようなことはしないで、まずまわりの様子を伺うくらいの気遣いがあったらと思いました。

演奏者もはじめのうちは軽くお辞儀をしたりしていたけれど、そのうちウンザリしたのか、以降はあからさまに無視していましたが、それでも一向に気づかない御方がずいぶんとたくさんいらっしゃるようでした。

逆に言えば、そんなこともわからないような人まで広く動員されることで、なんとかコンサートが成り立っていると見ることもできそうです。
マロニエ君も半ばうんざりしながら「そういえば『拍手のルール』とかいう本があったなぁ…」なんてことも思い出したりしましたが、とにかくなんだかとても変な気持ちになりました。

この日、いいなと感じたのは、トークが最低限のご挨拶だけで、聞きたくもない曲目解説などに時間を取られなかったことと、アンコールも一曲のみで、そのあとは鳴り止まぬ拍手を制するようにサッとステージの照明が落とされ、同時に客席が明るくなったことで、さっさとお開きになったこと。

この日のコンサートに限らず、本来の演奏に対してはほとんどパラパラだった拍手が、アンコールのおねだりタイムになると俄然熱を帯び、とめどなく手を叩くのは悪しき習慣で、これがあまりにあからさまになると演奏者に対して失礼だというのがマロニエ君の持論です。
演奏者はプログラムに関しては大変な練習を積んでその日に挑んでいるのに、そっちでは気の毒なほど閑散とした拍手しかしなかったくせに、アンコールの要求だけはやけに張り切って手を叩くというのはいかがなものか…。

もし同じ曲でも、前もって決められたプログラムとして本番で演奏されたなら、これだけの拍手は絶対しないはず。
そういうことが嫌なので、一曲のみできっぱり終わりにしたところは、却ってすっきりしました。


2017/08/15 Tue. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ぶきみな音 

つい先日の深夜のこと、そろそろ休もうかと自室に上がろうとエアコンと除湿機をOFFにしたところ、静寂の中からウーッという唸るような音が聞こえてきます。

はじめは冷蔵庫の作動音かな…と思って近づくと、音はまったく全然別のところから聞こえてきます。
それがどう耳を澄ましても、どこからの音か、なんの音なのか、見当もつきません。
壁のようでもあり、天井のようでもあり、あちこちに移動してみるけれど、どうもいまいちわからない。しかし、変な音がしていることは確かで、しかも普段聞くことのない音なので、やはり何なのか気にかかります。

真夜中のことでもあり、こんな正体不明の音が突如するなんて不安は募るばかり。
このまま放置して自室に戻ることもできず、さりとて室内はもう見るところもないし、思い切って懐中電灯を手に勝手口から外に出てみると、それまでウーッといっていた音は一気に音質が変わり、シャーーーッという尋常でない音が耳をついてきました。

「これは水の音」ということがすぐわかり、どうやら足元からのものらしく、屈んでみると地面の奥で水が勢い良く水が流れているのがわかりました。水道管からの水漏れであるらしいことは疑いようもありません!
こういうときって、あまりにも不意打ちをくらったようで、咄嗟に何をどうしていいのかもわからないものですね。
でも、非常にやっかいな、困ったことになったということだけは理解できました。

家の中に戻り、水道なら、やはり水道局だろうとホームページを見てみることに。
それによると、水漏れは陥没事故なども誘発する危険があるので、発見したら一刻も早く連絡をするようにと警告的に書かれています。
そういえば、いぜん福岡市では博多駅前の大陥没事故があって、その規模は全国ニュースになるほどのものだったし、水道局も注意喚起を強めているように思われました。
このとき深夜2時を過ぎていたけれど、フリーダイヤルで24時間受け付けになっており、ともかく電話をしてみることに。

電話に出た担当者は、こちらの住所と、水漏れ箇所は敷地の内側か外側か、というようなことを聞いてきます。
どうやらそれによって修理費用を誰が負担するかが変わってくるようで、この場合あきらかに敷地内だったので、そう伝えると、修理の作業をする水道局の指定業者を案内するので、メンテナンスセンターというところに電話するように言われました。

こちらも24時間対応となっていますが、なかなか電話に出ない。
諦めかけたころ、ようやく男性が出てきて、さっきと同様のことをきかれましたが、その次に言ったことが呆れました。
「この時間ですから、これからすぐに作業員が動くことはありませんので」
「は?」
「水道の元栓を閉める場所はわかりますか?」
「たぶん(あれかなと思って)わかるかもしれません」
「では、そこを開けて、右側にある水道メーターの中のパイロットを見てください。回っていたら水漏れです」
パイロットを見る?…シロウトにいきなりそんなこといわれてもわかりません!
そもそも、こんな夜中に真っ暗闇の外に出てそんなもの見なくったって、地面の中でジャージャーいってる音を聞けば水漏れにきまっているし、だから電話してんじゃん!と思ったけれど、そこは我慢しました。
「で、パイロットが回っていたら、左の止水栓を閉めてください。それで水は止まりますから、朝8時30分すぎにまた電話してください。」

朝8時30分を過ぎると、担当者が交代し、修理業者を紹介するということのようでした。
じゃあ、なんのための24時間対応?と思いましたが、道路や大規模なトラブルの場合は作業隊も動くのでしょうが、一般家屋の水漏れ程度なら一旦元を閉めさせて、対処は翌朝からでいいということなんだろうと思いました。

というわけで止水栓を閉めると音もしなくなり、とりあえずやれやれという感じでした。
とはいえ、最初に音に気づいてからこの電話が済むまでにもかなりの時間がかかったし、朝は朝で修理依頼の電話をしなくちゃいけないし、こうなると、なかなか寝付けず、朝まで寝たり起きたりの繰り返しでした。

時間通りに電話をすると、昨夜とは打って変わってハキハキした女性の声で対応され、それからしばらくして指定業者がやってきて修理開始。
やむを得ず、敷き詰められていた石造り風のタイルも一部を壊すことになり、地面には立派な落とし穴ができるほどの穴を掘るなど、汗みずくになって一日がかりで修理は行われ、夕方前に終わりました。しかも作業員の方はこの酷暑の炎天下の中、作業用の長袖シャツに長いズボン、長靴を履いて、軍手をして、頭には冬のような被りものを巻きつけて、黙々と作業をしてくださいました。
どんなジャンルでも、プロの職人というのはやはり大したものです。

数時間とはいえ、止水栓を閉めれば、家中のすべての給水がストップして不便なことといったらありません。
修理完了後、蛇口をひねればサーッと水が出る、そしてもうあのぶきみな音もしない、そんな当たり前のことにありがたさを痛感しました。


2017/08/11 Fri. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

グランフィール 

またしても友人に教えられて、興味深い番組を見ることができました。

TBS系の九州沖縄方面で日曜朝に放送される『世界一の九州が♡始まる!』という番組で、鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスが採り上げられました。
主役はいうまでもなくここで開発された「グランフィール」。
これを装着することで、アップライトピアノのタッチと表現力をグランド並みに引き上げるという画期的な発明です。それを成し遂げたのがここの店主である藤井幸光さん。

グランフィールは2010年に国内の特許取得、2015年には「ものつくり日本大賞」の内閣総理大臣賞を受賞、いまや日本全国の主なピアノ店で知られており、ついには本場ドイツ・ハンブルクでもデモンストレートされたというのですから、その勢いは大変なもののようです。

もともとアップライトとグランドでは、単に形が異なるだけでなく、弾く側にとっての機能的な制約があり、とくにハーフタッチというか連打の性能に関してはアクションの構造からくる違いがあり、グランドが有利であることは広く知られるところ。
具体的にはグランドの場合、打鍵してキーが元に戻りきらない途中からでも打鍵を重ねれば次の音を鳴らすことが可能であるのに対して、アップライトは完全に元に戻ってからでないと次の音がでないという、決定的なハンディがあります。

そんなアップライトに、グランド並の連打性を与えるということは、世界中の誰もができなかったことで、それを藤井さんが可能にしたところがすごいことなのです。
キーストロークの途中から再打弦ができるということは、小さな音での連打が可能ということでもあり、そのぶんの表現力も増えるということ。通常のアップライトでは毎回キーが戻りきってから次のモーションということになるため、演奏表現にも制約ができるのは当然です。
例えば難曲としても知られるラヴェルの夜のガスパールの第一曲「オンディーヌ」の冒頭右手のささやくような小刻みな連続音は、和音と単音の組み合わせによるもので、それを極めて繊細に注意深く、ニュアンスを尽くして弱音で弾かなくてはならず、あれなどはアップライトではどんなテクニシャンでもまず無理だろうと思われます。
それが、グランフィールが装着されていたら可能になるということなら、やっぱりすごい!
もちろん夜のガスパールが弾ければ…の話ですが。

マロニエ君は2011年に、ピアノが好きでここからピアノを買われた方に連れられて藤井ピアノサービスを訪れ、いちおうグランフィールにも触れてはみたものの、上階にすごいピアノがたくさんあると聞いていたため、わくわく気分でそっちにばかり気持ちが向いて、あまりよく観察しなかった自分の愚かしさを今になって後悔しているところです。

その構造については長いこと企業秘密だったようですが、今回のテレビでちょっと触れられたところによれば、ごく小さなバネが大きな役割を果たしているようでした。もちろんそこに到達するには長い試行錯誤があってのことでしょうし、藤井氏が目指したのは「シンプルであること」だったそうです。

しかもそれは既存のアップライトに後付で装着することができて、技術研修を受けた技術者であれば装着することが可能、それを88鍵すべてに取り付けるというもの。
また、このグランフィールを取り付けた副産物として、キレのある音になり、さらにその音は伸びまで良くなるというのですから、まさに良い事ずくめのようでした。料金は20万円(税抜き)〜だそうで、きっとそれに見合った価値があるのでしょう。

開発者の藤井さんは、もともと車の整備の勉強をしておられたところ、高校の恩師のすすめでピアノの技術者へと転向されたらしく、車にチューンアップというジャンルがあるように、ピアノも修理をするなら前の状態を凌ぐようなものにしたい、つまりピアノもチューンアップしたいという気持ちがあったのだそうで、そういう氏の中に息づいていた気質が、ついにはグランフィールという革新的な技術を生み出す力にもなったのだろうと思いました。

これはきっと世界に広がっていくと確信しておられるようで、それが鹿児島からというのが面白いとコメントされていました。
たしかに、大手メーカーが資金力や組織力にものをいわせて開発したのではなく、地方のいちピアノ店のいち技術者の発案発明によって生みだされてしまったというところが、面白いし痛快でもありますね。

鹿児島は、歴史的にも島津斉彬のような名君が、さまざまな革新技術の開発に情熱を傾けたという歴史のある土地柄でもあり、藤井さんはそういう風土の中から突如現れたピアノ界の改革者なのかもしれません。

2017/08/07 Mon. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

まくら 

人によりけりだと思いますが、枕ほど、しっくりくるものを選ぶのが難しいものもないというのがマロニエ君の実感です。

中には、どんな枕でも意に介さず、あってもなくても平気で、横になるなり爆睡できる猛者がいるいっぽうで、ちょっとでも違ったらたちまち寝付けず、中にはマイ枕持参で旅行に出かける人(実際に実行しているかどうかは知らないけれど)までいるなど、ここは非常に個人差がわかれるところでしょう。

マロニエ君も睡眠には苦労するほうで、どこでもすんなり眠れる人が羨ましくて仕方ありません。
当然、枕との相性は非常に微妙で、そのほとんどが合いません。

昔、自分に合ったお気に入りの枕があったのですが、あまりにも長く使ったため、いくらなんでももう潮時だと思ってこれを退役させ、あればまたこれに戻ってしまうだろうからと、思い切って処分しました。
後継枕はないままの処分でしたから、さっそく新しい枕が必要となりました。
合わないで放ってある枕がいくつもありますが、どれもイマイチ。

とくにダメなのが、今流行の低反発スポンジを使った枕で、自分の頭の分だけじわじわ凹むなど、気持ち悪くて仕方がないし、それにあのネチョッとした陰湿な感じが馴染めません。
かといって、高級快適とされる羽根枕は、見た目は華やかでも寝るとすぐにペシャンコになるし、柔らかすぎ。
一定の高さが保持できず、腰がないのがダメ。

柔らかすぎるのがいけないなら、そば殻枕というのもあるけれど、あそこまでいくと硬すぎるし雑で臭いも気になります。おまけに、ちりちりぎしぎし耳元で独特の音がするし、当たりの優しさがないので、あれではくつろげない。

パイプ枕はそば殻よりはおだやかだが、いかにもそれらしいボコボコした感触がダメ。

さらに最近では、頭を置くところだけ凹んだ形状のものとか、高さが任意に変えられるというアイデア商品風のものもあるけれど、これも試してみてどうにも馴染めず、とても「眠り」という難しいところへ入っていく助けにはなりそうもありません。

いつごろからだったか、オーダー枕のようなものがあり、自分の好みに合わせて、中の詰め物の量や高さを整えてくれるというものも出てきましたが、これらはお値段の方もそれなりで、あまりに多くの失敗を重ねているマロニエ君としては、そんなお高いものを買ってまた失敗に終わるのも嫌で、そちらには手を出しませんでした。
とくにデパートなどでは、売り子さんからつきっきりで薦められることを思ったら、結局最後は「買わされるだけ」という気がして、こちらもあまり近づかないようにしました。

いっぽう、暫定的に毎日使っている枕はどこで買ったものか覚えていないけれど、ごく普通なありきたりのもので、高さが微妙に足りないということで、バスタオルを薄くたたんで下に敷くなどの工夫はしてみるものの、決してしっくりは来ていません。

そんなことでお茶を濁しているうちに、ますます寝付きは悪くなるし、やっと寝ても2時間ぐらいで目が醒めて、そんなことを繰り返しながら朝まで繋いでいるといった状態で、これはマズイと思うように。

いらい、枕が売っているのを見ると、いちおう見てみる習慣だけがついてしまったマロニエ君で、某店では枕もたくさんの種類がずらりと並んでいて、良さそうなものをお試し用のベッドで確認するなどしましたが、「これだ」というものには行き当たりません。

ところがマロニエ君の求めている枕は思わぬところにあったのです。
別の用でニトリに行ったとき、やはりちょっと枕の売り場を覗いてみたら、気になるものがひとつだけあり、やはりお試し用のベッドがあるのでそこで横になってみると、これまでになくハッとするほどいい感じでした。
価格も5000円ほどと、まあ普通なのでついに買ってみたところ、これがもうバッチリでした。

いらい、寝付きも多少よくなったし、途中で目がさめることも激減、睡眠時間も長くなりました。
5000円で毎日の健康と快適が得られたかと思うと、安いものです。
いよいよというときは、やはり2~3万する枕を検討する必要があるかなぁ…とも半ば覚悟し始めていたのですが、際どいところで安く済みました。
こんなに合う枕は滅多にないから、予備にもう一つ買っておこうかな?

2017/08/03 Thu. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

『ピアノと日本人』 

TV番組のチェックのあまいマロニエ君ですが、友人がわざわざ電話でNHKのBSプレミアムで『今夜はとことん!ピアノと日本人』という90分番組があるよと教えてくれたので、さっそく録画して見てみました。

ナビゲーターというのか出演は、女性アナウンサーとジャズピアニストの松永貴志氏の二人。
あとから聞いたところによると、そのアナウンサーは民放出身の加藤綾子さんという有名で人気のある人だそうで、今回NHKには初登場らしいのですが、マロニエ君は今どきの女子アナが苦手で興味ゼロなので、どの人も同じようにしか見えず「へーぇ」と驚くばかり。
音大出だそうで、冒頭でマニキュアを塗った長い爪のままショパンのop.9-2のノクターンを弾いていましたが…そんなことはどうでもいいですね。

印象に残ったシーンを幾つか。
日本に最初にやってきたピアノはシーボルトのピアノというのは聞いたことがありましたが、それは山口県萩市に現存しているとのこと。
江戸時代、豪商だった熊谷義比(くまやよしかず)が膝を痛め、その治療で長崎のシーボルトの診察を受けたことがきっかけで交流が始まり、日本を離れる際に熊谷氏へ贈ったスクエアピアノでした。
それが今も熊谷家の蔵の中に展示保管されており、ピアノの中には「我が友 熊谷への思い出に 1828年 シーボルト」と筆記体の美しい文字で手書きされていてました。
日本最古のピアノというのもさることながら、いらい200年近く熊谷家から持ち主が変わっていないということも驚きました。

東京芸大ではバイエルが話題に。
メーソンが来日した折、日本にこの教則本を持ち込んだのが始まりということですが、その後にウルバヒという教本も登場し、両書はその目的がまったく異なっていたとのこと。
バイエルが指使いの訓練を重視しているのにくらべて、ウルバヒは音楽の楽しさや美しく曲を弾くためのテクニックを学ぶ練習曲が多いようで、この場面で登場したピアニストの小倉貴久子さんが弾いたのはウルバヒの中にあるシューベルトのセレナーデで、マロニエ君だったら迷わずウルバヒで学びたいと思うものでした。
しかし、当時すでに先行したバイエルが定着しつつあり、多くの先生がそれをもとに指導を始めて体系化されつつあり、ウルバヒでは指導方法がわからなかったという事情もあって、すぐに消えてしまったようでした。もしこれが逆だったら、日本のピアノ教育もまた違ったものになっていたような気もしました。なんとなく残念。

大阪では堺市にある、クリストフォーリ堺を二人が訪ねます。
ここは世界的にも有名な、歴史的ピアノの修復をする山本宜夫氏のコレクション兼工房で、氏は「神の技をもつ」と賞賛されてウィーンなどからも修復の依頼があるのだとか。
建物の中には歴史ある貴重なピアノが所狭しと並び、工房ではチェコ製のピアノが響板割れの修復をしているところでした。響板はピアノの一番大事なところで人間の声帯にあたり、これが割れることは致命傷だと山本氏は言いつつ、割れた部分にナイフを入れてすき間を広げ、修復するピアノに使われている響板と同じ時代の同じ木材を細く切ってていねいに埋め木がされていきます。
それにより、修復後は割れる前よりもよく響くようになるとのこと。
「割れる前よりよく響く」とはどういうことかと思ったけれど、その理由についての説明はありませんでした。時間経過とともに枯れて張りを失った響板が埋め木をすることでテンションが増すなどして、より響きが豊かになるということだろうか…などと想像してみますが、よくわかりません。

熊本県山鹿市のさる呉服屋が、大正時代にスタインウェイを購入。
そこの娘が弾くピアノの音に、隣りに住む木工職人の兄弟が強い関心をもち、娘に弾いてくれとせがんではうっとりと聞き惚れています。
当時のピアノは家が何軒も建つほど高価だったため、一般庶民はもちろん、学校などでもピアノなどないのが普通の時代。このピアノの音を子どもたちにも聴かせたいという思いが募り、木でできているようだし、買えないならいっそ作ってみようと一念発起します。
木村末雄/正雄の兄弟は、呉服屋の迷惑も顧みず、毎日々々ピアノの構造を確認しながら、見よう見まねで製作に没頭、数年の歳月を経てとうとうピアノを完成させたというのですから驚きました。
木村ピアノは十数台が作られ、現存する1台が山鹿市立博物館に置かれています。
幅の狭い、見るからにかわいらしいアップライトで、内部の複雑なアクションまで見事に作り込まれており、楽器の知識もない木工職人が、呉服屋のピアノを参考にこれだけのものを作り上げたその技と熱意は途方もないものだと思いました。まさに日本人の職人魂を見る思いです。

これを有名な芝居小屋である八千代座に運んで、地元の子供達を招いて松永貴志氏が演奏を披露。
すると、子どもたちが返礼としてこのピアノを伴奏に美しい合唱を聴かせてくれました。
山鹿市にこんなピアノ誕生の物語があるとは、まったく知りませんでしたが、いろいろと勉強になる番組でした。


2017/07/30 Sun. 00:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感銘と疲れ 

少し前にBSプレミアムシアターで放送された、グリゴーリ・ソコロフのリサイタルをやっと視聴しました。

2015年8月にフランスのプロヴァンス大劇場で行われたコンサートで、映像はブリュノ・モンサンジョンの監督。
この人はリヒテルのドキュメンタリーなども制作しているし、グールドを撮ったものもあるなど、音楽映像では名高い映像作家。

曲目はバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタ第7番、シューベルトのソナタD784と楽興の時全曲。
ステージマナーは相変わらずで、ムスッとした仏頂面で足早にピアノに向かい、最低限のお辞儀をしてすぐ椅子に座り、弾き終えたら面倒くさそうに一礼すると、顔を上げるついでに身体はもう袖に向かってさっさと歩き出すというもの。

笑顔など最後まで一瞬もない徹底ぶりで、そんなことはピアノを弾く/聴くために何の意味もないといわんばかり。
聴衆との触れ合いやサービス精神など持ち合わせていないお方かと思ったら、アンコールにはたっぷりと応えるところは意外でした。
結局ショパンのマズルカを4曲、前奏曲から「雨だれ」、ドビュッシーの前奏曲集第2巻より「カノープ」と実に6曲が弾かれ、まるで第3部のようで、これがソコロフ流の聴衆へのサービスなのかも。

全体の印象としては、ぶれることない終始一貫した濃厚濃密な演奏を繰り広げる人で、そんじょそこらの浅薄なピアニストとはまったく違う存在であるということはしっかりと伝わりました。
とくにタッチに関しては完全な脱力と、指先から肩までぐにゃぐにゃのやわらかさで、猫背の姿勢からは想像もつかないダイナミクスの幅広さが驚くべき印象として残ります。
さらに音に対する美意識の賜物か、その音色の美しさには眼を見張るものがあり、弱音域でのささやくような音でも極上の質感があるし、いっぽういかなるフォルテシモでも音が割れず、そこには一定のまろやかさが伴うのは驚異的。
しかもすべてが厳しくコントロールされているのに、奔放な要素も併せ持っているのは驚くべきこと。

また演奏にかける集中力は並大抵ではなく、とてもツアーであちこち飛び回って数をこなすといったことはできないだろうと思われます。

ただ、解釈に関しては本人にしてみれば一貫しているのかもしれないけれど、聴く側からすると、作品や作曲家によってばらつきが大きく、ソコロフの考えに相性の良いものとそうでないものの差が大きいように感じたことも事実。

個人的に最もよかったのはシューベルトで、ソナタD784は普通でいえば退屈な曲ですが、それをまったく感じさせない深遠な音楽として聞く者の耳に伝えてくれましたし、楽興の時も、多くの演奏家が多少の歌心を込めつつ軽やかに、どこか淡白に弾くことが多いけれど、ソコロフは6曲それぞれの性格を描き分けながらずっしりとした重量感をもってエネルギッシュに弾き切り、ソナタとともに作品が内包する新たな一面を見せてもらったようでした。

ベートーヴェンは賛否両論というべきか、この人なりのものだろうとまだ好意的に捉えることができるものの、ショパンになるとまったく共感も理解もできないもので、マズルカの中には聴いていてこちらが恥ずかしいような、どこかへ隠れたくなるような気分になるものさえありました。

この人は、一見オーソドックスでありのままの音楽を、その高潔な演奏で具現化している巨人といった印象もあるけれど、耳を凝らして聴いてみると、作品のほうを自分の世界にねじ込んでいるようにもマロニエ君は感じました。
そういう意味では作曲家の意志を忠実に伝える演奏家というより、ソコロフのこだわり抜いた極上の演奏芸術に触れることが、このピアニストを聴く最大の価値といえるのかもしれません。

まったく見事な、第一級の演奏であることは大いに認めるものの、全体としてあまりにも重く、遅く、長くかかる演奏で、30分ぐらい聴くぶんにはびっくりもするし感銘も受けますが、2時間以上聴いていると、これだけのピアニストを聴いたという喜びや充実感もあるけれど、なにより疲労のほうが先に立ってしまいます。

使われたピアノも素晴らしく、ソコロフの演奏に追うところも大きいとはいえ、濁りのない独特な美しさをもったスタインウェイだったと思います。とくに印象的だったのは音が異様なほど伸びることで、これは秀逸な調律によるものという感じも受けましたが、果たしてどうなんでしょう。


2017/07/25 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アジアの覇者二人 

ここ最近テレビで見た演奏から。

日曜のクラシック音楽館で、N響定期公演の残り時間に「コンサートプラス」というコーナーがあり、二週続けてハオチェン・チャンがスタジオ収録した演奏が放送されました。

ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、辻井伸行と同時優勝した中国出身のピアニストですが、この人の演奏を聴くのは実はこれが初めてでした。
一週目はリストの鬼火、ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」、ヒナステラのピアノ・ソナタ第1番、二週目はシューマンの「子供の情景」。

長い美しい指が特徴的で、リストの鬼火をものすごいスピードで弾きはじめたのにはびっくりしつつ、あまりにスポーツライクで情感や温もりがなく、マロニエ君の好みではないことがいきなり判明。
ただし、全体に冷やりとすようなシャープさという点は、良くも悪くもこの人の特徴なのかも。

あまり馴染みのないヤナーチェクのソナタなどは、むしろ独特の臭みが消えてスタイリッシュに聴こえないこともなかったけれど、シューマンになると、やはり説得力のある音楽というより指先のクオリティで弾いていることが鮮明となり、ちょっとついていけない気分に陥りました。
もっとも気になるのは、作品が生きている感じがまったくしないこと…でしょうか。

最近のコンクール覇者の例にもれず、大変な技巧の持ち主ではあるようで、なんでも苦もなく弾けるだけの技術的余裕はあるようですが、こういう演奏に接すると、そもそもピアノの演奏というものをどんな風に捉えているのか、本人はもとより時代の価値観にも疑問に感じてしまいます。

ピアノの演奏が、いっそフィギュアスケートのように、多少の芸術性も要求されつつも根本はあくまで競技目的として成り立っているのなら、こういう人が金メダルとなるのは納得できますが、そこから発生する音は、音楽として多くの人々が喜びを感じたり心の慰めに値するものかというと、そういうものとは大きく距離をおいたものらしいと感じました。

余談ですが、ハオチェン・チャンはメガネをかけている写真(モテないガリ勉君みたい)しか知りませんでしたし、冒頭のインタビューではそのメガネ姿でしたが、演奏中はこれを外していて、それが結構イケメンだったのは意外でした。
今どきのことなので、その意外性も計算された「売り」なのかもしれませんが。

さらにその翌週の同番組では、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演が放送されましたが、オールベートーヴェンプロで、二曲目のピアノ協奏曲第3番では、ソリストがショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンでした。
韓国には芸術性に優れたピアニストが多くいますが、その中ではソンジンはむしろ学生風で、マロニエ君としてはなぜこの人が優勝したのかいまだにわからないし、やたら日本でよく演奏する人だなあと思っていたので、正直またかと思いました。

この人のベートーヴェンは初めて聴きますが、基本的な印象はなにも変わらずで、音楽的にあまり成熟感がなく、むしろ音楽的拙さを感じる演奏である点もショパンなどと同じです。
それでも、ハオチェン・チャンの体脂肪を極限まで落としたような演奏を聴いたあとでは、ソンジンがまだしもふくよかで、ところどころにハッとする美しさを感じる場面があったことも事実。

この人は繊細なところが得意のようで、ショパンのコンチェルトでも第2楽章が出色だった記憶がありますが、そんな彼がベートヴェンということだからかタッチにも一段と力がこもり、無理に大きな音を出そうとしているような感じがあって、だからどうしても音が刺々しくなるように感じました。
アンコールにモーツァルトのソナタの緩徐楽章、残り時間に別のコンサートからショパンの13番c-mollのノクターンがおまけで流れましたが、やはりどれも共通するのは練れていないというか、要は未熟な感じで、作品の核心へ到達しているようには思えませんでした。

2017/07/21 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヒューイット 

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。


2017/07/17 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

今どきはご用心! 

最近はネットでモノを売買するにも、いわゆるヤフオク以外のいろんなサイトが増えてきていますね。

普段の足代わりにしている車を買い換えることになったのですが、なにぶん年式が古いために下取りと言ってもほとんど値段らしい値段はつきません。でも、乗ろうと思えばまだまだ数年間/数万キロは充分使える状態ではあるし、どうしたものかと思いました。

マロニエ君の場合、クルマ好きであることや性格的なこともあって、自分で言うのもなんですがとてもきれいで、機関的にも常に整備をしているので不具合は全くといっていいほど無いので、そこを理解して乗ってくださる方があれば嬉しいし、実際少しでも高く売却できればありがたいということもあり、はじめこの手のサイトに出品してみました。

はじめはヤフオクと似たようなもので、より地域色の強いものだろうぐらいに思っていました。
掲載してほどなくして、いくつかの反応があるにはありましたが、なんといったらいいか、お店で言うなら「客層」が違うような印象を持ちました。

くわしい商品説明とともに、価格を提示しているにもかかわらず、❍万円で売ってくださいとか、どうしても明日ほしいとか、からかっているのかと思うようなものがいくつか続いて、なんとなくあまり希望の持てるところじゃないような気がしてきました。
そんな中、とても興味があり直接話しがしたいからと、自分の携帯番号を知らせてきた人がありました。

とりあえず電話してみると、同県異市の方のようで「写真でも程度の良さがひしひしと伝わりました!」「ぜひ見せてほしい」とえらく前向きな感じで言われました。さらに明日は営業の仕事で福岡市内へ行くので、よかったらお昼にでも見せてもらえないかということで、マロニエ君もこういうことはタイミングだと思うので、できるだけ意に沿うよう努力して時間を作ることに。

家からは少し距離もある、大型電気店の駐車場で待ち合わせをしたところ、現われたのはスーツ姿の今どきの普通の男性で、さっそく車を見ながら「これはいい!」「すごいきれいですね〜」「こんなのお店じゃないですよね」などと褒めまくりで、かなり興奮気味な様子でした。
せっかくなので試乗もどうぞということになり、その人がハンドルを握りマロニエ君が助手席に乗りましたが、昼休みなのであまり時間がないといっていたわりにはずいぶん走り回って、はっきりは覚えていませんが30分近く走って、ようやくもとの駐車場に戻りました。

すると「ぜひ買いたいので、ネットの掲載を取り下げてもらうことはできますか?」といきなり言われました。
それほど気に入ってもらえたのは嬉しいけれども、いきなりそれはできません。
「少し手付け金をいただくなど、なんらかの約束を交わした上でないと、すぐに掲載を取り下げることは難しいですね」というと、「…ですよね」となり「じゃあ、日曜の受け渡しは可能ですか?」という提案をしてきました。

車の売買は、一般的には「車両本体+名義変更に必要な書類一式」と「車両代金」を交換すれば成立します。
このときが木曜で、日曜の受け渡しということは3日後です。
書類は印鑑証明さえ取ってくればすべて揃う状態だったので、「可能です」と言いましたが、ずいぶん急な話だなあとは思い、別れ際に念のためにもう一度「では、確認ですが、さっそく書類の準備をはじめていいということですか?」ときくと「はい、お願いします」「夜、詳しいことはまたお電話します!」ということでその場は終わりました。

帰宅後、すぐに区役所に行って印鑑証明を準備をしました。
ただ、自分でも迂闊だったのは、こちらの名刺は渡したけれど、向こうのはもらっておらず、携帯番号以外の連絡手段の交換ができていませんでした。これはまずいと思って、携帯のショートメールで、メールアドレスなどを教えてほしいと書きましたが、なぜかまったく反応はなく、それどころか夜の電話もついにかかってきませんでした。その間、何度かショートメールも送りましたが、一切返信はありません。

このあたりで不安は強い違和感へと変わり、「やられた」と思いました。
平日の昼間、無理して時間を作って車を見せに行き、さんざん乗りまわされ、日曜の受け渡しまで応諾させられ、急ぎ書類まで揃えたあげくのことですから、かなり不愉快でしたが、腹を立てても仕方がなく、別に車を取られたわけでもないので、もうこの人のことは忘れることにしました。

ところが翌日、夕食中に突然この人から電話があり、「昨日はすみません、家で揉め事がありまして、どうしてもご連絡できませんでした」「すぐにメールアドレスを携帯に送ります」ということですが、もうこのときは半信半疑でした。
だって、どんなに忙しくても、揉め事があっても、本当にその気ならメールの返信ひとつぐらい、その気があればできないはずがありません。

しばらくするとメールアドレスは知らせてきたので、そこに、受け渡しの場所と時間を決める必要があること、せめて互いのフルネーム、住所ぐらいは交換しましょうと、必要なことを書いて送りましたが、それに対する返事はまたありません。
さらに翌日の土曜、向こうからの着信履歴があったので何度かかけ直しましたが、決して出ることはなく、こういう人とこれ以上かかわるとろくなことはないと判断し、「今回のお取引はご遠慮させてください」とメールで伝えました。

結局、この人はいったい何がしたかったのかわかりませんが、ネット社会の不気味さを勉強させられる出来事でした。


2017/07/12 Wed. 02:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

大雨特別警報 

今夜、ついに雨が止みました。
一時的にしろ、それだけでも感激するほど降り続きました。

先週までは、梅雨だというのに妙に晴天続きで、うまくすればこのまま梅雨明けとなり、むしろ水不足のほうが心配かなぁ…などと思っていたら、とんでもない間違いで、北部九州には未曾有の大雨による甚大な被害がもたらされました。
ここ数日、テレビニュースからは「観測史上最高の…」というフレーズを何度聞いたかわかりません。

大雨特別警報という最高度の警報が発表され、「命を守る行動をとってください!」とものものしい言葉がテレビ画面に映し出され、アナウンサーも同じことを言いますが、それって何をしたらいいのか皆目見当がつかないものですね。

幸いマロニエ君の住む福岡市は、今回目立った直接的被害はないようでしたが、県内のあちこちの地域では、何人もの死者まで出るほどの深刻な結果となり、あらためて自然災害の恐ろしさ、どうしようもなさを痛感させられました。

通常、だれでも雨が降るのは嫌だけれど、少しのあいだ辛抱すればやがて終わるものという、生まれた時から身に付いた感覚をもっています。
ところが、今回の雨はものすごく密度の濃い雨で、うんざりするほどの長期間でした。
これほどの激しい大雨でありながら、時間が経てども経てどもまったく収束しないというのは、かつてあまり経験したことのないもので、じわじわと恐怖が忍び寄ってくるようでした。

夜から降りだした激しい雨が、真夜中になってもまったく衰えず、翌朝目がさめてもそのままで昼を迎え、午後になり、夕方になり、夜になり、真夜中になり、さらにまた翌日になっても一向に収まることがないというのは相当不気味なものです。

さらには、降り出して二日目だったか、夜半からは無数の雷がひっきりなしに鳴りっぱなしで、それが何時間も続くというのもはじめて経験するものでした。
とにかく何もかもが今回はケタ違いだったようです。

これじゃあ地盤もユルユルでしょうし、人間もしおれてカビが生えそうです。
むろんピアノの前の除湿機はフル稼働で、大きめのはずのタンクは半日で満杯になりました。
もう雨は当分御免被りたいものです。

2017/07/08 Sat. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イタチ 

こないだの日曜日、友人がやってきたときのこと。

何かお昼を作ろうと冷蔵庫をガサゴソやっていると、奥のほうから真空パックされた5本入りのソーセージが出てきました。
すっかりその存在を忘れていて、見れば賞味期限を4ヶ月!も過ぎており、真空パックの場合1~2週間ぐらいであれば期限切れでも平気で食べてしまうマロニエ君ですが、さすがに4ヶ月ではちょっと食べる勇気はありません。

ゴミ箱に放り込もうとすると、友人が庭に置いてみよう?と言い出します。
マロニエ君宅の付近はカラスが少なくなく、ゴミを出すにもその被害を想定していちいちネットを掛けたりするぐらいだから、そんなことしたらみすみすカラスにくれてやるようなものと言いましたが、友人は面白がってどうしても庭に置いてみようと、いい歳をして子供のようなことを言い出しました。

マロニエ君もどうせ捨てるのだからと好きにさせていたら、友人はパックをあけて5本のソーセージを庭の中央にばらまきました。

結局はあとで拾って始末しなくてはいけないだろうと思っていたところ、置いてから10分か15分ぐらい経った時でしょうか、友人の「あっ、見て見て!」という声で庭に目をやると、これまで見たこともない茶色の小動物がちょこちょことやってきて、ソーセージを口にくわえたかと思うと、あっという間に小走りにどこかに消えていきました。

マロニエ君宅の隣家は庭も広く、一部が藪のようになっているのでそのあたりに棲んでいるのか、あるいは隣家の屋根裏あたりが住処なのか、とにかくこれまで一度も見たことのない体調30cmほどのイタチ君のようでした。
友人も思いがけない珍客の到来に大満足の様子で大はしゃぎ。

それから数分後、「あ、また来たよ!」というので見ると、さっきと同じイタチが、細長い身体を波打つようにくねらせるようにしながらやってきて、また1本ソーセージをくわえて同じ方向に去って行きました。
思いがけないごちそうを発見して興奮しているのか、イタチ君はその後も数分間隔でやってきて、けっきょく5本全部のソーセージを持って行ってしまいました。

その後も、まだ何かないのかと思っているらしく、何度もやってきては、今度は庭の隅や塀の上なんかもぐるぐる走り回ってごちそうを探しまわっていました。
イタチなんてどんな動物かは知らないけれど、窓越しに見ているぶんにはちょっと可愛いくもありました。

帰る方角は決まってお隣の藪の方なので、きっと近くに住処があってそこには家族がいるのか、自分だけなのかはわかりませんが、面白いものを見ることができたという思いと、でも、あれを食べて大きくなってまたこっちに来るようなことになったら困るなあという気分でした。

不思議なのは、いつも悩みの種となっているカラスがまったく来なかったこと、さらには普段は一瞬もその姿を見せたことのなかったイタチ君が、最初にどうやって我家の庭にばらまかれたソーセージに、ああも短時間で気がついたのかということ。

まあ、順当に考えれば、相手は野生動物でもあるし、人間には想像もつかないような嗅覚でもあるのでしょう。


2017/07/06 Thu. 02:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ラフマニノフ 

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。


2017/07/02 Sun. 12:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

一瞬の悪夢 

いささか滑稽な話ですが、人間はいつ何時、どんな目に遭うかわからないという経験をしました。

日曜の夕方、外出する前に車の窓を拭こうとしてバケツに水を溜めようとしたときのこと。
我が家のガレージの水道には、洗車のために長い巻取り式のホースリールを取り付けています。

そのホースは先端を回転させることにより、水の出方が4種ほど変化するようになっているものですが、それをいちいち動かすのも面倒なので「シャワー」の位置のままにしていたのです。
この日はちょっと急いでいたため、つい蛇口をひねる量が大きめだったのか、はじめバケツ内でおとなしくしていたホースが突然、コブラの頭のように動き出し、すぐ脇で窓拭き用ウエスの準備をしていたマロニエ君に向かって、盛大にシャワーの雨を浴びせかけました。

この予期せぬ事態に、もうびっくり仰天!
外出用に着替えていた服は上下とも無残なまでにびしょ濡れとなり、おまけに動きまわるシャワーヘッドを追いかけているうちに、水は目の前にある車にも容赦なく水を振りまき、車も1/3ほどがびしょびしょです。

というわけで、人も車も仲良く水浸しとなりました。
服のほうはというと、とてもちょっと待ったぐらいで乾くようなレベルじゃないので、一旦家に戻って全部着替えるほかはありませんでしたが、急いでいるときに限ってこんな理由で着替えをするときの、なんと情けなかったことか!

この日は梅雨にもかかわらず、せっかく雨は降っていなかったのに、車の左側はたったいま雨の中を走ってきたかのように屋根まで水滴だらけで、このときは笑う余裕もないほどでした。車のほうは普通なら放っておくところでしょうけど、雨水と違い、水道水は放置すると塗装のシミになるので、マロニエ君としてはそのままということができず、ここから車の水の拭き取り作業までやるハメに。

途中、何度かバケツの水でぞうきんを洗いますが、腰をかがめたときにビビーッと針で刺すような痛みがあることが判明。
はじめは大して気にも留めなかったけれど、何度やってもあきらかで、しかもその痛みは決して小さいものではなく、シャワーがこっちに向かって攻撃してきたときにあまりにも慌てて、ふだんあり得ないようなアクションでのけぞったのが原因だというのはあきらかでした。

これは困ったことになったとは思ったけれど、まあそのうち治るだろう…というか治るのを待つしかないわけで、とりあえず人との約束もあり出発することに。
運転中はシートに身体も収まっているのでわかりませんでしたが、40分ほどで目的地に到着、車を降りようとしたときに初めて猛烈な激痛が体中を貫きました。
右足を地面に出して立ち上がろうとすると、その痛みもさることながら、まったく力も入りません。
やむを得ず両足を外に出し、友人の手助けで両手を支えてもらいながら、数分間かけてやっとの思いで車の外に這い出すことができましたが、激痛は収まらず、支えがなければその場に立っていられないほどでした。

これでは歩くこともままならず、ゆっくりゆっくり腰を伸ばしてみると少しずつ痛みが収まり、それからゆっくりではあるもののようやく歩けるようにはなりました。立って歩くというかたちが定まってくると、なんとかそのことはできるようになるのですが、また座る/立つということになると、そのたびに脂汗が出るような痛みが腰から背中にかけて襲ってきました。

思いがけない水攻めに遭って、イナバウアーではないけれど、咄嗟によほどむちゃな身体が壊れるような動きをしたのでしょう。

その日はなんとか無事に自宅に帰り着きましたが、やはり最も厳しいのは車から降りるときでした。
車のシートは普通の椅子と違って深く座り、運転は腰に重心をかけているから、そのカタチがいったん固まると、今度は腰を伸ばすという変化が一番きついようです。車から降り立ったときは精も根も尽き果てたようでした。

一旦こういうことになると、日常生活も不便の連続で、何をするにも腫れ物にさわるような慎重な動きになってしまい、健康の有り難みをイヤというほど知らされます。
まあ、これが自分の腰ぐらいだからいいようなものの、例えば深刻な交通事故なども大抵は直前まで予想もしないような僅かなことが発端となって起こってしまうのだろうと思うと、あらためて気を引き締めておかなくてはいけないと思いました。

早く治って欲しいけれど、この手合は時間もかかるでしょうし、焦ってもどうにもなりませんね。
たかだか車の窓を拭くというだけのことが、えらいことになったものです。



2017/06/27 Tue. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ダン・タイ・ソン 

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。


2017/06/23 Fri. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れていた新進気鋭 

少し前のことでしたが、イタリアの新進気鋭ピアニストということで、ベアトリーチェ・ラナという女性によるゴルトベルク変奏曲のCDを購入しました。
レーベルはワーナークラシックス。

聴いた感想を書かなかったのは、わざわざ書くべきことがマロニエ君としてはあまり見つからずじまいだったから。
至って普通で、今風で、正確で、とくに何かを感じることもないままキチッと弾き進められて行く感じがするばかりで、印象深いところがなにもなかったからでした。
もちろん、いまどきメジャーレーベルからCDを出すような人でもあるし、2013年のクライバーンコンクールで第2位になった人らしいので、テクニックはそれなりのものがあるし、ましてセッション録音なのでキズもミスもなく、演奏というより、どこかいかにもきれいに出来上がった商品という印象でした。

ディスコグラフィーを見ると、チャイコフスキーの1番やプロコフィエフの2番、あるいはショパンの前奏曲やスクリャービンの2番のソナタなどがあるようで、そこでどんな演奏をしているかはわからないけれど、少なくともこのゴルトベルクで聴く限りは、どちらかというと細い線でデッサンしていくような演奏で、イヤ味もないし、いちおう要所要所でメリハリも付けることを忘れていない人という感じでした。
少なくとも強烈な個性とか強い魅力で聴かせるタイプではなく、いかにも国際コンクールに出て成績優秀、最終予選までは残っても、第1位にはならない人…そんな感じといったらいいでしょうか(実際の戦歴は知りませんが)。

そんな印象だったので、名前さえすっかり忘れていたところ、少し前のNHKのクラシック音楽館でN響定期のソリストとしてこの人の名前が出てきたので、そのとき「どこかで見たことのある名前」という感じでやっと思い出しました。
クライバーンコンクール入賞者として、各地各楽団から呼ばれる名簿に入っていて、こうして世界を回り始めているのかもしれません。

曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番でしたが、ライブだけにゴルトベルクとはずいぶん印象の異なる、この人の素の姿を見聞きすることができた気がしました。
説明的であったり構成感をもって弾くタイプではないようで、どちらかというとテンポ感とセンスを前に出す感じ。
指の動きはいいようで、そこを活かしてサラサラと演奏は進み、ところどころに多少の解釈というかデフォルメ的なものも織り込まれているけれど、マロニエ君の耳にはそれがあまり深い説得力をもっては聴こえなかったし、場合によっては浅薄なウケ狙いのような印象さえ持ってしまいました。

仕事も恋愛も確実にゲットして、あたり構わず巻き舌の早口で喋る今どきのデキる女性みたいで、その点ではゴルトベルクでは、ずいぶん慎重にきちんと弾いたんだなぁ、ということが察せられました。
ただ、ピアニストとしての器としてはさしたるサイズではないという感じをうけたことも事実です。

事前にインタビューがあったけれど、指揮者のファビオ・ルイージ氏とは、とくにこの曲ではリハーサルが必要ないほど何度も共演しているが、そのたびに新しい発見があります…と、マロニエ君としては聞いたとたん引いてしまう紋切り型の例のコメントがこの人からも飛び出したときは思わずウンザリしました。
なぜ、みんなこの手垢だらけの言葉がこうも好きなのか、聴衆に対して、同じ曲を何度も演奏することに対する言い訳の一種なのか…。


テレビといえば、題名のない音楽会で反田恭平氏が出る回を見ましたが、シューマン=リストの献呈以外は、パーカッションとのコラボという試みでした。
彼は国際的にはどうなのかは知らないけれど、少なくとも日本国内ではベアトリーチェ・ラナよりは数段上を行く「新進気鋭」で、そんな注目のピアニストが従来通りの決まりきった演奏を繰り返すだけなく、新しいことに挑戦することは素晴らしいことだと思います。

…それはそうなのだけれど、このときやっていることそのものには大いに疑問符がつきました。
ラヴェルの夜のガスパールからスカルボを演奏するにあたり、パーカッションと組んでの演奏で、しかもピアノの内部(弦の上)には定規や金属の棒のようなものをたくさん散りばめて、チンジャラした音をわざと出し、パーカッションとともに一風変わったスカルボにしていたのですが、これがマロニエ君には何がいいのやら、さっぱりわからなかったし、正直言って少しも面白いとは思いませんでした。

保守的な趣味と言われるかもしれないけれど、個人的にはやはりどうせなら反田氏のソロだけで聴きたかったし、そのほうがよほどスカルボの不気味さがでるだろうと思えてなりません。
それはそれとして、折々に映しだされる反田氏の秀でた手の動きは、やはり見るに値するものがあり、ほどよく肉厚な大きな指が苦もなく自在に鍵盤上を駆けまわるさまは、見ていて惚れ惚れするというか、なにか胸のつかえが下りるような爽快感があります。

若いテクニシャンでならすピアニストでも、手の動きとか使い方に関しては、個人的にユジャ・ワンのどこか動物的な指よりは、反田氏の手のほうがずっと心地よい美しさを感じます。

2017/06/19 Mon. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

稀有な出来 

ピアノのブログにたびたび車の話を書くのもどうかと思いますが、以前の続きでもあり、訂正でもあり、意外な発見でもあるようなことがあったのでちょっと書いておきたくなりました。
というか、車の話というよりは、モノの善し悪しを左右する微妙さや分かれ目についてのことと捉えていただけたら幸いです。

某辛口自動車評論家が自身の著書の中で、フォルクスワーゲン・ゴルフ7(7代目のゴルフ(2013年発売))の、1.2コンフォートラインというモデルを「ほとんど神」「全人類ほぼ敗北」という、あまり見たことのないような激賞ぶりだったので、そこまでいわれると、ちょっと乗ってみたくなってディーラーに試乗に行ったことを以前書きました。

評論家氏の表現をもう少し引用すると「1周間前に乗ったアウディA8(アウディの最高級車)にヒケをとらないレベル」「Aクラス(メルセデス)、V40(ボルボ)、320i/320GT(BMW)、アルピナB3(BMWのさらに高級仕様)、レクサスLS、E250/E400(メルセデス)、アストンマーティン(車種略)、S400/550(メルセデス)、レンジローバーなど2013年はいろんなクルマで往復5~800kmのロングドライブにでかけたが、ゴルフの巡航性はマジでその中でもトップクラス、疲労度は1000万円クラスFクラスサルーンとほとんど大差なかったのだから、全人類敗北とはウソでもなんでもない。」「実に甘口で上品なステアリング。走り出しも静かでフラットで、滑るよう。」「お前はレクサスか」というような最高評価が、単行本の中で実に16ページにわたって続きました。

俄には信じられないようですが、この人はベンツであれフェラーリであれ、ダメなものはダメだと情容赦なくメッタ斬りにする人で、じっさい彼の著書や主張から学んだことは数知れず、とりわけ今の時代においては絶滅危惧種並みの人です。

その彼がそれほど素晴らしいと評するゴルフ7とはいかなるものか、マロニエ君もついに試乗にでかけたのですが、結果はたしかに悪くはないけれど、その激賞文から期待するほどの強烈な感銘は受けずに終わったことは以前書きました。ただし、試乗したのがヴァリアントというワゴン仕様で、通常のハッチバックとはリアの足回りが異なり、ハッチバックとの価格差を縮めるために快適装備が簡略化され、そしてなにより全長が30cm長くて重心が高く、車重も60kg重いという違いがあったからではないか…とあとになって考えました。
クルマ好きなくせにずいぶんうっかりな話です。

そこで、ディーラーには申し訳なかったけれど、再度ハッチバックでの試乗をさせてほしいと申し入れました。
日時を約束して再び赴くと、某辛口自動車評論家が激賞したものと同じ仕様の、つまりワゴンではなくハッチバックの1.2コンフォートラインが準備されていました。助手席に乗ってシートベルトをした営業マンの「ドーゾ」を合図に慎重に動き出して数秒後、「え?」これが前回とはまったくの別モノなことはすぐわかりました。
前回「車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかる」と大そう生意気なことを書きましたが、その動き出し早々、なんともいえないしっとり感、緻密でデリケートな身のこなし、ハンドル操作に対する正確無比かつリッチな感触など、車のもつあれこれの好ましい要素にたちまち全身が包まれました。

ディーラーの裏口からの出発だったので、細い道を幾度か曲がりながら幹線道路に出ましたが、その上質な乗り味は狭い道での右左折でも、ちょっとしたブレーキの感触でも、国道へ出てからの加速でも、すべてが途切れることなく続きます。

自動車雑誌も評論家も、昔のような歯に衣着せぬ論評をする気骨のある風潮は死滅しているのが現状で、誰もが誰かに遠慮して本当のことを書かなくなりました。いうまでもなく常にスポンサーの顔色をうかがい、本音とは思えぬ提灯記事ばかりが氾濫しているのです。
というわけで、現在では、この人の言うことだけは信頼に足ると思っていた某辛口自動車評論家だったのですが、第一回目のワゴンの試乗以来、もはや彼の刀も少々錆びてきたんじゃないか…という失望の念も芽生えていたところでした。

しかし、それは嬉しい間違いだったようで、さすがに「神」かどうかはともかく、なるほど稀に見る傑出した1台だということはすぐに伝わりました。価格はゴルフなりのものですが、これが何台も買えるようなスーパープライスの高級車の面目を潰してしまうような(走りの)上質感と快適性とドライビングの爽快さを感じられる稀有な1台であることは、たしかにマロニエ君も同感でした。
ボディは軽く作られている(現在の厳しい安全基準とボディ剛性を維持しながら、ゴルフのような世界中が期待する名車を軽く作るというのは、ものすごく大変なこと!)のに剛性は高く、小さなエンジンを巧みに使いながら、まったくストレス無しに軽々と、しかもしなやかさと濃密さを伴いながらドライバーの意のままにスイスイと走る様には、たしかにマロニエ君もゾクゾクもしたし口ポカンでもありました。

ついでなので、1.4ハイラインという、もう少し高級な仕様に乗ってみましたが、こちらは確かにエンジンパワーは一枚上手ですが、1.2コンフォートラインにあった絶妙のバランス感覚はなく、従来のドイツ車にありがちなやや固い足回りと、上質な機械の感触を伴いながらある種強引な感じでズワーッと走っていく感じでした。これ1台なら大満足だったと思いますが、1.2の全身にみなぎるしなやかな上質感を味わってしまうと、相対的にデリカシーに欠ける印象でした。

べつに無理してオチをつけるわけではないけれど、結局、車も楽器と同じだと思いました。
要は理想の設計とバランス、各部の精度の積重ねが高い次元で結びついた時にだけ、まるで夢の様な心地良いものがカタチとなって現れることが稀にあるということ。それは同じメーカーの製品であってもむろんすべてではなく、なにかの偶然も味方しながら、ときに傑出したモデルが飛び出してくるということでしょうか…。
濃密なのに開放され、奇跡的なのに当たり前のようなバランス、ストレスフリーで上品な感じは、まさに良い楽器が最高に調整された時に発する、光が降り注ぐような音で人々に喜びを与えてくれる、あんな感じです。


2017/06/15 Thu. 01:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit