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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

ベーゼンドルファー280 

過日のNHK-Eテレ『クラシック音楽館』では、後半にアンドラーシュ・シフによるベートーヴェンが放映されました。
このコロナの時期、もしや日本においでになるのか、夫人の塩川悠子さんもご一緒でしたが、いかにもNHKのスタジオ収録という感じであったし、新しいベーゼンドルファーを使って「告別」が演奏されました。

ヤマハの子会社となってからのベーゼンドルファーについては賛否さまざまあるようですが、この時のピアノは旧275の後継ともいえる280(うしろにVCというのがつくものもあるようですが、その違いが何であるかはしりません)でしたが、これはこれでとても良いピアノだと思いました。

以前のベーゼンドルファーは、素晴らしく良い時とあまりそうは思えない(マロニエ君の主観)ときのばらつきが多く、ハッとするような純粋でこれ以上ないような美しい音を聴かせることがあるかと思えば、一転して蓮っ葉な品のない音であったり、虚弱な感じで鳴りがイマイチな感じを受けることも珍しくはありませんでした。
また、繊細といえば聞こえはいいですが、とても現代のホールでのソロには向かないというような楽器もあるなど、コンサートピアノとしては不安定という印象を持っていました。
さらに楽器の個性も強く、曲を選ぶところもあって、ピアニストがいつでも安心して弾ける、あるいはまた聴衆が安心して聴けるピアノというには、いささか問題も抱えているようにも思っていました。

それがこの新しい280では、上記のようなマイナス面がかなり克服されており、ベーゼンドルファーのヨーロッパ的なトーンと気品はそのままに、ほどよいパワーと現代性を備え、これなら安心してステージに載せられるピアノになったと思いました。

シフの演奏もこの時は好調で、コンチェルトの全曲演奏とか後期のソナタ、あるいは熱情やワルトシュタインでは物足りない場面もあったけれど、この中期の中では後期寄りの作ともいえる「告別」では、シフの美点が活かされて、ピアノの音とあわせて素敵な演奏が聞けたと思いました。
そういえば、コンチェルトの時のアンコールの「テレーゼ」も非常にチャーミングな演奏で、この人はこういう音数が多すぎず、リリカルな要素を随所に必要とするような曲を弾かせたら、最良の面が出るのだと思います。

それはいいけれど(以前にも書いたことがあること)最近はピアノの大屋根を、本来の角度よりもさらに上まで大きく開けるということが流行っているようで、あれは個人的には賛同しかねます。
そのための茶色の長い棒まであるようで、本来の突上棒を取り外し、付け替えて使うことが今のトレンドなのかどうかしらないけれど、見るからに無様で、大屋根が開かれすぎたピアノは、フォルムも崩れて見ちゃいられません。

アンスネスの日本公演で見たのが始まりでしたが、最近は海外でもしばしば見受けられ、キーシンのような深いタッチの人さえそれで弾いていたりと、これはあきらかに何らかの効果が見込まれてのことだということでしょう。

ピアノを不格好に見せるのが目的のはずはないから、もっぱら音の問題だろうと思います。
従来の角度より広く開けることで、音が上下方向に立体的に広がる、あるいは大屋根に反射して派手さがでるとかエッジの効いた音になるなど、おそらくは様々な実験を通じて何らかの効果が立証されたんでしょうね。

マロニエ君の印象としては、たしかに音が生々しくなり、滑舌が良くなり、いかにもパワーアップしたピアノのようになるといえばいえないこともない。
しかし、音が妙に直線的で、深みがなくなり、ピアノをホールで聞く際の音響としてのゆらぎとか膨らみがなくなるようにも思われます。

今回のシフでは、スタジオ収録にもかかわらず、この茶色くて長い突上棒が使われており、あれはなんだかいやだなぁ…と思います。
心配なのは、これが常態化してくると、メーカーのほうでも忖度して、この長めの突上棒を標準で取り付けてくる可能性があるんじゃないかと思うと、そんなことにだけはなってほしくないものです。

ベーゼンドルファーの280に話を戻すと、これには頑として否定される方(おそらくはヴィンテージのベーゼンドルファーの音をご存知の方でしょう)もおられますが、マロニエ君は決して悪くないと思ったし、このピアノを使ったリサイタルでもあれば、ひさびさにホールに出向いて聴いてみたいもんだと思いました。
とくに最近のように、どのメーカーもコンサートグランドでは無個性化が進んでいる(コンクールのせい?)中で、このピアノには節度は保ちつつも個性があって、フォーマルな気品があり、さすがだと感心しました。

シフはどちらかというと楽器を深く鳴らすようなタイプのピアニストではないので、別のピアニストで、いろいろな作品を聴いてみたいものです。

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2020/09/16 Wed. 01:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

達筆で雄弁 

最近の若手ピアニストの演奏(そんなにいろいろ聴いているわけではないけれど)に思うこと。
昔よりも平均して技術が向上していることは広く言われて久しいことですが、その演奏は現代人の習性ゆえか、音楽そのものよりは露出に重きがおかれ、何か緒をつかんで有名な存在になろうという野心の旺盛さが感じられて仕方ありません。

少し前までは、平均的な技術が向上するのは単純に素晴らしいことだと思っていたけれど、もはや器楽演奏者にとっては弾けて当たり前ということなのか、それ以外のなんらかの要素が問われているようで釈然としません。

効率的によく訓練され、見ていて不安感や苦しさなどないまま、どんな曲でもサラサラと弾いてしまうので、ある意味お見事ではあるでしょうが、一番大事なもの、つまりその人がいま目の前で音楽をやっている、一期一会の演奏に立ち会っているといったような音楽の核心に迫る要素がなく、弾いている自分をビジュアルとして見せている感じさえあったり。

もちろん本番の陰では、人しれぬ練習や努力はあるとは思うけれど、結果として我々が接する演奏には、目の前で奏される音楽より、その人が有名人として認知されるための一手段一場面にうまく付き合わされているだけといった印象がつきまということが、どうしても払拭できないのです。

個性などあってもあるうちに入らないほど微々たるもので、レパートリーも幅広いといえば聞こえはいいけれど、要するに有名どころは概ね準備できているから、いつでもオファーに応じられます!といった感じで、その人が何を得意とするのかも分からないし、どういう時代のどういう音楽に興味の中心を置いているかもまったく不明。

試験やコンクールでやってきた曲から押し広げて、コンサートで求めに応じるための必要な曲を一通りマスターしているという、自分の意志というよりは、まるでプロの課題曲みたいな印象しかないのです。
むかしどんなに難曲と言われた曲でも、あるいは内容的な成熟が伴わないうちは公の場で弾くべきではないといわれたような曲でも、今の人はあっけらかんと弾いてしまうようです。

それだけ「上手くなった」といえば、それはメカニックや暗譜の能力という点ではそうかもしれません。
でも、聴いている側が音楽の喜びに浸って、曲の、あるいは演奏のなんとも言いがたいひだのようなところに触れて酔いしれたり、何度も繰り返し聴いてみたいと思わせるような魅力がないことは、大半に共通していることのように思います。

こういう現象と、あるときフッと重なったことがありました。

最近はテレビ番組の中でクイズ(それもゴールデンタイムにレギュラー化したり、やたら大型番組だったり)がやたら増えてきたように思います。
出演者も昔のように一般人が公募で出てくるようなものじゃなく、一流大学生の軍団あり、あるいは有名大学出身のインテリ芸能人(変な言葉!)と言われるような知識の達人ばかりで、クイズと言っても視聴者参加でほのぼの楽しむようなものではなく、その道の精鋭やプロが頂上決戦するエリート同士の戦いをただぽかんと見るだけ。
そこで繰り広げられるのは当然ながら呆れるばかりの知識量。

そこでマロニエ君が驚くのは知識量だけではなく、回答者がボードに書く文字が信じがたいほど悪筆で汚いこと。
もちろんクイズだから、きれいな字を書く暇はなく、時間勝負の場合もあり、美しい字である必要はないといえばそうなんですが、それでも限度というものがあると思うのです。
ダメ押しではないけれど、筆順(今は「書き順」というそうですね)も冒涜的にめちゃくちゃ。

字の美しさは演奏の美しさと大いに通じるところがあるとマロニエ君は考えていますが、昔の人は、字が下手なことを大いに恥じたし、上手い人はそれだけでまず一目置かれ尊敬されました。

で、これは喩えがいささか極端かもしれませんが、今のピアニストは音楽の文字に例えると、「漢検一級」みたいなものはお持ちかもしれないけれど、それを手で書いた時、一文字一文字がわざとではないか?と思うほど美しくない。

文字には楷書から行書までさまざまあって、基本形の美しさはいうまでもなく、崩していくときにどういう運びや流れで次に繋がっていくかということがとても重要で、ひとつひとつの文字の美しさと、それらが他の文字と並んで共存する場合の、絶妙のバランスや大小、筆圧、収まりの美しさなどがありました。
音楽が一音では成り立たず、旋律や和声を形成するのに似ているのかもしれません。

そういう意味で、昔の人は、単純な読み書きの技術や知識ではなしに、他の文化芸術と無意識に通底した味わいのある文字を書いたと思います。

そういう昨今の文化的時代背景が現代の若手ピアニストの演奏にも表れているような気がしたわけです。
音楽は演奏を通じてはじめて姿をあらわす芸術で、その演奏はもっと「達筆」で「雄弁」あってもらわなくては人の心を揺り動かすことはできないと思うこの頃です。

2020/09/11 Fri. 16:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

システム 

むかしに比べると、購入するCDの数もだいぶ減りましたが、それでも時々は購入しています。
マロニエ君ももはや古い人間になってしまい、いろいろな新しいテクノロジーが台頭してもついていけませんし、その気もありません。
いまどき嵩張るプラスチックケースに入ったCDを積み上げて、そこから聴きたい1枚をとりだして、そのつどプレーヤーに滑りこませるなんて、もはや古色蒼然たるやり方なのかもしれないけれど、自分はこうでなくては音楽を聴く気分と形が整いません。

今回、某大手の音楽専門ネットショップに注文していたCDは、これまで室内楽以外ほとんどきいたことのないボルトキエヴィキのピアノ作品集でした。
8巻からなるバラ売りものですが、それを注文したのが6月の中頃。

一部は在庫がないようで、海外発注をかけてくれているようですが「なかなか手に入らないので今しばらくお待ち下さい」というメールが数回届いていましたが、あるとき「このCDはあいにく取り寄せができません」という旨のメールが届きました。
具体的には5枚は準備出来ているが、残り3枚が入手困難というわけです。

その時点で「準備出来ているものだけでも購入する」か「すべてをキャンセルするのか」を選ばなくてはならず、マロニエ君はあるだけでも聴いてみたいので、5枚だけでも購入するという選択をしました。

で、数日後には送ってくるものと思っていたら、一向に届かず、おかしいなぁ…と思っていたら近隣のコンビニ留めでそれを自分で取りに行くということになっていたようですが、注文から2ヶ月以上経っていることもあって、そんな認識がまったく頭にありませんでした。
このあたりの注意が悪かったのは専らマロニエ君の責任ということになります。

というのも、これまで購入するCDは長いこと自宅に届いていたので、今回もそうだと思い込み、それ以上の注意をしていなかったのです。
すると、ある日「コンビニでの保管期限を過ぎたのでキャンセル扱いとなりました」というメールが届き、この時点でびっくり仰天、はじめてコンビニ受け取りということに気がついたわけです。
保管期限を見ると、メールを目にした時点で期限失効から12時間が過ぎるかどうかというところでした。
あわてて当該のコンビニに電話すると、その荷物はまだお預かりしていますが、おそらく返品扱いになっているので、お渡しできるかどうか不明、詳細の書かれた紙などを持って来ていただけたら処理をやってはみますとのこと。

というわけで、すぐにそのメールをプリントし、部屋着のままコンビニへと飛び込みました。
幸い電話に出た方がおられたので、すぐに店内のなんとかいう名前の端末に向かって操作をしてくださいましたが、やはり自動的に返品処理となった後で、その端末からはどうすることもできないので、購入者とショップの間でやりとりをして欲しいというわけで、こちらの連絡先を残して一旦帰宅することに。
コンビニ側も回収業者には品物を渡さないですむように言ってみますと、とても協力的でした。

ところが、その発送元のネットショップに連絡しようにも、ご多分に漏れず電話番号が書かれておらず、あせりながらパソコンと格闘した末に、ついにカスタマセンターの電話番号なるものを他から突き止めさっそく電話し、事情を説明しました。
内容はすぐに伝わり、今どきなので、これまでの購入履歴などもわかったようで、あれこれ手を打ってくれたようですが、先方が言うにはいったん回収命令が下ったものに撤回の指示はできないことになっているとのこと。
二ヶ月以上も待っていたCDなので、キャンセルする気は毛頭なく購入したい旨を伝えると、結論としては、いったんこのまま品物を送り返し、しかる後にもう一度発送しますので一週間ほどお待ち下さいということで、それで話は決着しました。

もちろん、その間メール連絡などは来ていたのだろうし、それを一字一句見逃さないための注意を怠ったこちらに責任はすべてあるといえばそうなるわけで、店側はやるべきことはキチンとやったということもわかります。
しかし、現実的には毎日見たくもないようなメールが何十通も来るし、重要なものとそうではないものの取捨選択だけでもひと仕事で、こんな結果を招くほど重要なメールとは思わなかったというのが正直なところ。

いずれにしても品物はもうコンビニまで来ているというのに、それをまたどこか遠く(おそらく関東でしょう)まで返送し、再度送り直すとは、システムには適っていても今どきのコストと効率重視の世の中にあって、なんとバカバカしく無駄なことかと思いました。

ショップに落ち度はないし、コンビニも親切で協力的だったし、2ヶ月強も待ったCDだからマロニエ君としてもキャンセルする気などさらさらない。
寝坊でもして飛行機が離陸してしまったというのならともかく、目の前にある荷物を時間切れというだけで受け取ることさえできないなんて、システムというものがそんなにすべての中心でエライのだとすると、なんだかとてもやりきれない気持ちになりました。

メール確認を怠ったマロニエ君が一番の責任者といえばその通りなのですが、人間は忘れることもミスすることもあるし、保管期限から何日も経過していたというならともかくも、まだ目の前にあるというのに、そういう場合のちょっとした融通さえもきかないのは、率直に言わせてもらえばそのシステム構築にも問題があるのではないかと思いました。

システムというのであれば、(少なくとも品物が回収される前なら)操作によって回収を撤回する機能を追加すればいいじゃないかと思いました。

2020/09/06 Sun. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

決め手は重さ 

少し前のことでしたが、ある技術者の方から、至極もっともといいましょうか、大いに納得の行く話を伺いました。
ピアノのハンマー交換をする場合、何に最も留意すべきか?

こういうことは技術者さんによっても流儀はいろいろだろうと思われるので、あくまでもお話を伺った技術者さん個人のお考えとして紹介しますが、その方は「ハンマーの重さに対する注意につきる」といわれました。
ふつうハンマー選びというと、レンナーだアベルだというような単純な話になりがちですが、各社とも等級はいろいろあって、一概にどうともいえないようです。

その方が言われるには、それなりの品質のものであればメーカーはそれぞれだし一長一短で、それ以外にも優れたハンマーを作る会社はあるし、さらに取り付けるピアノの年代や相性、弾く人の好みなどとても一概にはいえないようです。

それより、メーカー以上に守る(こだわる?)べきことがあるとすれば、それはハンマーの重量。
これは決して外せない要素だと言われました。
ピアノの設計やアクションの作りに対して、最適な重さのハンマー(シャンクも含むとおもいますが)であるかどうか、この点をその方はもっとも注意されるそうです。
とくに古いピアノなど、データが豊富でないピアノになるとさらにその点は細心の注意が必要らしく、これを誤ると、どれだけいい音がしても、弾きにくくて好かれないピアノになり、ピアノそのものの価値を左右するに至るというのは納得でした。

その点の注意を怠って、安易に有名ブランドハンマーを取り寄せて交換すると、タッチの面で思ったような結果が得られないピアノというのはかなりあるそうで、多くの技術者はこの部分をハンマー交換時のリスクとしているようですが、決してそうではなく技術者がそこをよく認識し注意さえしていればそういう間違いは起こらないとのこと。

我々一般ユーザーにとって、信頼している技術者さんが吟味して仕入れたブランド品のハンマーなら、まさかそれが不適合だったとは思いませんものね。
重すぎるハンマーがつけられてしまったが最後、整調などでいくら小細工を繰り返しても基本的な解決には至らず、気持ちの良くないピアノになり、最悪の場合はピアノそのものが嫌われてしまうこともあるでしょう。
こういう場合、もともとのサイズが違ってしまうぐらい大胆にフェルトを削ってダイエットすれば、その分の効果はあるかと素人考えで思いますが、それではハンマーそのものの価値を毀損するようでもあるし、そもそもの選択ミスをそんなかたちでカバーするのもおかしいですよね。

話は変わるようですが、マロニエ君は無類のクルマ好きでもありますが、通常の好ましい実用車の場合、日常の使用でどの性能が最も乗員に寄与するかというと、それはエンジンでもパワーでも燃費でもなく、日常的な使用範囲における「乗り心地」です。
段差を乗り越えた時のいなし方、揺れの少ない節度感あるボディ制御、駐車場から表通りに出て加速して、流れに乗って走行する際にもっとも気持ちの良く感じる性能は、キチンと腰のある繊細でしなやかなサスペンションです。

これをピアノに当てはめますと、もちろん音や響きも極めて大切ではあるけれど、まずはしっとりと弾きやすく、程良い抵抗とコントロール性を兼ね備えた「上質なタッチ」だと思います。
マロニエ君は、音とタッチのいずれが大事かというと、悩んだあげくの究極の選択ではタッチかなぁ?と思います。
音は元のピアノがよければ優秀な技術者の力を借りてあるていど磨けますが、タッチはなかなかそうはいきません。
打弦距離だのなんだのと調整箇所はいくらもありますが、そもそも重いハンマーが悪さをしている場合、いくら技術者さんが中腰で汗水たらして時間をかけてがんばってくださっても、さほどの劇的変化は起こりません。

ハンマーの重量さえ適正なら、技術者さんも音色やパワーや調律など他のことに労力と時間を使えますが、これがボタンの掛け違えのように、出発の時点で間違っていると、あまり効果のない調整等でお茶を濁す以外にどうすることもできません。
そういうわけで、上記の技術者さんがおっしゃるハンマー交換の場合、最も重要な点は「適正な重さに細心の注意を払う」というのは大いに納得の行くお話でした。

こんなことを言っちゃ怒られるかもしれませんが、そこさえきちんとしていれば、レンナーでもアベルでもRGでも、そんなにワアワアいうような大問題ではないんじゃないかと思いますけどね。
もちろん、フェルトのクズを固めて作ったような安物じゃダメでしょうけど。
2020/09/02 Wed. 02:24 | trackback: 0 | comment: -- | edit

Akiko’s Piano 

終戦の日の8月15日、NHK-BSのドキュメンタリードラマで『Akiko’s Piano 被爆したピアノが奏でる和音(おと)』という番組が放映されたので、録画を視聴しました。

このピアノは広島の原爆投下によって亡くなった河本明子さんが愛奏していたピアノとして有名なもので、修復もオリジナルを重視して極めて慎重に行われ、すり減ったハンマーもあえて交換しないことで明子さんが弾いていた当時の状態を保持、原爆によってついたキズなどもそのまま残されているもの。

数年前アルゲリッチが広島にやってきた時にもこのピアノを弾いてみた映像があるほか、リシャール・アムランやピーター・ゼルキンなども、当地に赴いた際にこのピアノを弾いているようです。
アメリカ製のアップライトで、昔のピアノらしくやわらかい音のする楽器で、いまどきのビンビンした音の出る無神経なピアノとはまるで違うようです。

番組の大半は有名俳優陣によるドラマで占められ、明子さんが家族とともに戦時下を懸命に過ごし、学校生活を送り、勤労奉仕に駆りだされ、ついに運命の8月6日に爆心地の近くで被爆して、瀕死の状態で歩いて家の近くまで戻って倒れこんでいるところを両親に発見され翌日亡くなるまでが描かれていました。

ピアノのフレームにはそれらしき文字は見当たらなかったけれど、調べてみるとボールドウィン社製のピアノらしく、父君がアメリカから持ち帰られたものだったようです。
当時はピアノなどあろうものなら、金属供出などで没収されるのが普通だったと聞いていますが、よくぞ無事に生きながらえたものだと思うし、そういう強運を持った何か特別なピアノだったんでしょうね。

さて、番組後半では、被爆75年を節目として現代作曲家の藤倉大氏によって作曲された、ピアノ協奏曲第4番Akiko’s Pianoという作品が披露されました。
広島出身の萩原麻未さんがソロを務められ、下野竜也指揮の広島交響楽団で、ステージにはスタインウェイDと明子さんのピアノの2台が並べられ、曲の後半では、静寂の中を萩原さんがお能のようにゆっくりと明子さんのピアノへと移動し、スポットライトの下で続きのソロが弾かれて曲が終わるというもの。

ここから先はあえて勇気を振り絞って書きますが、この作品、マロニエ君には理解も共感も及ばず、ドラマで描かれた明子さんとはまったく異質な印象しか受け取ることができませんでした。
作曲の意図ととして明子さんとそのピアノが主役だと述べられ、「亡くなった人のレクイエムではなく、もし明子さんが生きていたらどんな未来が待っていたかを想像して作曲した」というようなことが語られ、テロップには「Music for Peaceという普遍的なテーマを一人の少女の視点で描く」といった言葉が並びました。
けれども、マロニエ君の旧弊な耳には、果たしてこれが音楽なのか?とさえ思うような奇抜でやたら暗いものにしか聞こえませんでした。

ピアノが好きだった明子さん、ショパンが好きで、戦時中を懸命に生きたけれど、最後は非業の死を遂げることになってしまった明子さん。
明るく聡明で、周囲から愛され、分厚い日記帳が何冊も積み重なるほどの膨大な日記を、流れるような美しい文字で綴って残した明子さん。
藤倉大氏はこれを作曲するにあたりインスピレーションを得るためか、わざわざ明子さんのピアノに触れるために広島までやってきて書き上げた作品とのことで、そういう内容になっているのかもしれないけれど、あいにくと低俗な耳しか持ち合わせないマロニエ君には、作品の価値はわからずじまいでした。

現代音楽の理解者に言わせれば、おそらく素晴らしい作品なのかもしれません。
ピアノは常に旋律とも音型ともつかないような意味深な音を発する中、背後では弦がたえずヒーヒーと鳴っており、ときどきピアノの音が激しくなったり、またそのうち静寂のようなものに包まれる、そんなことの繰り返しのように聞こえました。
いったいどこにピアノ協奏曲Akiko’s Pianoを見い出し感じればいいのやら見当もつきませんでした。

この作品の価値を云々する気はないし、そんな能力もないけれど、放送時間の大半を費やして放映されたドラマでは、明子さんとその家族や友人達は活き活きと描かれ、最後こそ原爆という悲劇に至るものの、それ以外はとくだん悲惨な話というわけでもなく、むしろ戦時中の人々の温かな人間模様がそこにはありました。

藤倉大氏はお顔は覚えがあったけれど、どれだけ気鋭の作曲家でおいでなのかは残念ながら知りません。
いかにも一般人の理解不能を前提としたような作品で、しかも偏見かもしれないけれど、日本人的な書生っぽい主張にあふれた作品のようにしか聞こえませんでした。

会場にわざわざ足を運んで聴きに来られた聴衆のみなさんは、あの作品をどのように感じられたんだろうと心から思います。
原爆投下という残虐行為は許されることではないけれど、でも、明子さんというピアノが好きだった19歳の少女に焦点を当てるのであれば、もう少し別の方法もあったのでは?とも思います。
明子さんは家族や友人(そしてピアノ)に囲まれて、楽しい時間もたくさん過ごされたと思いますが、彼女をあらわす音楽が結局こういうものになるのなら、マロニエ君はどうにもやりきれないものが残ります。

そこに、マロニエ君が現代音楽を介さない無粋者だということが横たわっていることも否定はしません。
しかし「音楽」というものがあれほど素晴らしく魅力的であるのに、その前に「現代」という二文字がくっついたとたん、なぜあのように難解で苦行的なものになってしまうのかが皆目わからないのです。
モーツァルトは、聴いた人間がなにか深い悲しみの中に投げ込まれてしまうような作品をたくさん書いたけれど、表向きは嬉々としていてまったくそんな顔はしていません。
ピカソのゲルニカが表現したものは、壮絶な戦争悲劇ではあるけれど、それをつきぬけたところに圧倒的な芸術作品に接する感動というものがあるし、そんな特別な例を引かずとも現代建築、現代文学、現代アートはいずれもそういう迷路に連れて行かれるようには思えません。

ごく単純な話に戻すと、主役は河本明子さんであり彼女のピアノであり、それは作曲者ご自信も仰っていたこと。
ですが、ピアノが好きでショパンを好んでいたという明子さんが、あの作品を聴いて素直に喜ぶのか?これが最大の疑問といってもいいかもしれません。
これがいつまでも消化しきれずに残ってしまう単純な疑問です。

おまけにこの作品は明子さんにではなく、マルタ・アルゲリッチという当代きってのピアノのスーパースターに捧げられているというあたり、いよいよもって意味不明でした。

2020/08/28 Fri. 01:27 | trackback: 0 | comment: -- | edit

演奏家はエリート? 

先日、録画の中に、NHKのクラシック音楽館だったか正確ではないけれど「1957年のカラヤン…」というようなタイトルの映像がありました。
同年にベルリン・フィルを率いて来日した折の旧NHKホールにおける演奏会から、ベートヴェン「運命」の第1/3/4楽章が放送されましたが、カラヤンの評価は横に置くとして、理屈ではない、率直な演奏の魅力と、それに触れる喜び・高揚感というものを考えさせられました。

海外の一流オーケストラの来日公演などまだまだ少ない時代において、当時の最高のスターであるカラヤン/ベルリン・フィルともなれば、クラシックにおけるビートルズ公演のようなものでもあったことでしょう。
そんなスターが日本にやってきて、圧倒的な演奏をどうだとばかりに披露することができた時代。

思わず唸ったのは、とにかく明晰明快、流麗で、パワーがあって、そりゃあ、ああいう演奏会に行ったら、だれもが酔いしれ興奮して大半の場合ファンになるでしょうし、CD(当時はレコード)も売れるでしょう。
カラヤンの人となりや、楽曲の解釈、演奏スタイルなど、現代の目から見れば突っ込みどころはあるかもしれないけれど、「音楽は歌である」「音楽はダンスである」という本質を突いた言葉があるように、音楽を聴くということは、まずは「音を浴びる快楽」だとマロニエ君は思います。
音楽によってもたらされる非日常の感銘や陶酔感、非日常を全身で感じることだと思います。

今の演奏は、あまりにテクニカルで、規格品的で、しかも学究的に固まってしまって娯楽や快楽の要素、演奏者の個性や冒険的解釈に対して、あまりに不寛容になったと思います。
演奏家もビジネスの要素が強まり、ライバルが多い中、オファーが来なくなるのが一番怖いから、嫌われないことが第一の演奏に意識が働いているのが見えすぎて、平均化された退屈な演奏になるのは必然。

いっぽう、聴衆の質も下がって、演奏の真価を見極めようとか、微妙なところに宿る芸術性を解する耳を持った人は激減しており、評価は技術と知名度と権威性だけがものをいうようになりました。

技術を磨いて、コンクールに出て上位を勝ち取り、レパートリーを増やして出世街道を歩くのは、ほんらい演奏家というより職業エリートの進むべき道筋。
いまでは、芸能界でさえ東大を筆頭に有名大出身者が幅を利かせる肩書社会。
当然、断崖絶壁に立って、これだというものにかけて一発勝負をする気概や度胸なんぞ失って、できるだけ好き嫌いの分かれない、中庸な演奏に終始することが、次のオファーに繋がるという戦略ばかりが透けて見えて、ちっともエキサイティングじゃありません。

芸術家(といえるかどうかはともかく)でも昔のように暴君的にふるまったりエゴを撒き散らしたり、次々に共演者に手を出して浮名でも流そうものなら、もう一発アウトなじだいですからね。
もちろん、そんな破天荒がいいことだとは思わないけれど、でも優秀有能でみんなに好かれるエリート社員みたいな人の手から、本物の魅力ある、聴く人の心を揺さぶり、天空高く旅させてくれるような演奏ができるかといえば…それは無理だと思います。
ここが、時代と芸術家の折り合いの難しいところでしょう。

すべてにシナリオがあり、最後だけこれみよがしに盛り上げて拍手喝采に持って行くという筋書きでは感動さえもニセモノで、むしろそんなものに乗せられてたまるか!という反抗心が沸き起こるのがせいぜいです。

地方のオーケストラでもとっても上手くなっているし、世界のトップと言われるオケでも、真の感銘を与えるような大した演奏をするわけでもなく、とにかく平均点だけが上がっている。
世界的なスターはいないけど、ちょっとしたピアニストでもラフマニノフの3番をしれっと弾いたりする、そんな時代だから演奏も多くが消費材のようになってしまい、わざわざ録音して残す意味もなくなっている。

聴きに来たお客さんをいい意味で満足させるような演奏、人の心を鷲掴みにして、強い力でぐいぐい山あり谷ありの世界へ引き回してくれるような、そんな体験も、演奏会のもっとも重要な役割だと思うのですが、すべてが変わってしまったようですね。

2020/08/23 Sun. 01:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

BかCか? 

前回に続いて…ということでもないけれど、スタインウェイのグランドピアノの中で、最高にバランスがいいモデルは何か?
これには、昔から技術者はじめ多くの人によってB型だとされている観があり、もはや異を唱えることさえできない定説のようになっています。

B型こそはグランドの理想形。
置く場所と予算さえ許すなら、ぜったいBがいい。
C型より一つ小さいBのほうがバランスがよくピアノとして優れている〜等々、こんな言葉をどれだけ聞いたことでしょう。
そういう声に押されて、B型こそベストと信じて購入された方も少なく無いと思いますし、マロニエ君もそこまで言われると言葉の力もあるから、半ばそういうものか…と思っていた時期もありました。

もちろん折にふれてB型には幾度か触れたことはありますが、素晴らしいピアノであることに異論の余地はむろんないですよ。
低音もそれっぽくよく鳴るし、全体に華やかでキレがあり、中型ピアノならではの軽快さもあり、いかにもスタインウェイらしくてわかりやすく、人気というのも納得です。

個人的な印象としては、Bにはとりわけブリリアントな個体が強く、やわらかで落ち着いた感じのBというのは、たまたまなのかもしれないけれど、新旧いずれもあまり経験した記憶がありません。
小型ピアノには望めない低音の美しさがあるいっぽうで、鍵盤が短い(鍵盤からハンマーまでの距離)のか、入力に対する反応も素早く、一台に求められる要素が凝縮されているのは、まるで取り回しの良い中型高級セダンみたいな感じ。

ただ、聴く側の立場で言わせてもらうと、Bには絶えず「薄い」感じがつきまとうようのは拭えません。
数少ないBによる演奏や録音を聴くと、残念ながらややわめいている感じを受けます。
貫禄ある大人というより、若々しいスリムな青年といった印象。

これまで、Cの評価がBほど高くないためか、さほど注目していませんでしたが、音や響きの印象でいうとCはおっとりしてDの短胴版のようでもあり、対してBは中型グランドのトップモデルといった感じを受けないこともなく、そこには一段の隔たりがあるところが最大の違いではないか?と思いました。
「打てば響く」という反応の良さで言うとBになるのでしょうか。

だとすれば、弾いて痛快なのはBかもしれませんが、鑑賞目的で客席から聴くことを考えたら、マロニエ君はCのほうが好ましいように思います。

青柳いづみこさん(たしかハンブルクBのユーザー)が著書の中でドビュッシーの前奏曲集を演奏するにあたって、どこだったかホールではない会場でピアノを準備する際に、この作品を弾くにはBでは表現できないものがあるのでぜひDを準備して欲しいとリクエストしたという記述があり、その時は「へええ?」と思ったけれど、今なら少しわかる気がします。

一番顕著に感じたのは、キーシンがアメリカの大学内で学生たちに囲まれてショパンのスケルツォを演奏する動画がYouTubeにありますが、そこにあったピアノはハンブルクのBでしたが、キーシンのあの全身全霊を傾けるようなこってりしたタッチの連続放射にピアノがついていかず、ほとんど悲鳴のような感じになったのを見て、さすがのBにもこのような限界があることを思い知らされたものです。

誤解しないでいただきたいのは、それでBを否定しているのではさらさらなく、ピアノはその目的や置く場所によって、さまざまな特性があるのだということが言いたいわけです。
メーカーによるBの説明では、小さいホールやサロンコンサートにも最適というようなことが述べられているけれど、このモデルが本当に素晴らしいのは、むしろ弾いている本人がこの上ない満足を得られるプライベートスペースなのかもしれません。

ピアノの難しいところは、奏者当人が弾きながら感じているものと、鑑賞する側の印象では、必ずしも一致していないと点が少なくないということかもしれません。
その点でBは、プライベートな部屋や空間で我一人弾いて楽しむ(あるいは練習や創作活動など)というシチュエーションにおいて、おそらく右に出るものはないのだろうと思います。

技術的な観点から、BとCのどちらが楽器として優れているかは、マロニエ君ごときにわかるはずもないことですが、鑑賞する立場として好みだけで言わせていただくと、やはりBにはサイズからくる限界を感じます。
やっぱりCの大人っぽい余裕と穏やかさには魅力に感じます。

Bといえばいつも思いだすのが某楽器店にあった戦前のA3(奥行き200cmのモデルで、ちょうどAとBの中間サイズ)で、これがもう「ウソー!?」というほど、パワーがあり溌剌としたいいピアノでした。
店主の談によれば、Bを喰ってしまうからカタログから落とされたモデルだそうですが、その真偽はともかく、ひとついえることはスタインウェイのA188とB211って、サイズが離れすぎている気はします。

ヤマハでいうとC3Xの次はC6Xになるようなもので、5に相当するサイズがないんですが、これはこのままでいいんでしょうかねぇ。
2020/08/18 Tue. 03:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

廃墟でベートーヴェン 

ずいぶん前のBSプレミアムシアターで、バレエの後半にアレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタというのがありました。
この人は、前々から非常に時代や流行に聡いピアニストという印象があり、おそらくは今年のベートーヴェンイヤーを見据えて制作されていた映像なんでしょう。

映像の舞台となっているのは、たいそう荒れ果てた廃屋。
今どきのことだから本物か作り物かは知らないけれど、壁も床もボロボロの、白っぽい廃墟の中をタローがゆっくりと歩を進めると、奥まった部屋に、いかにもという感じで白い布が被せられたピアノらしきものがり、その前で立ち尽くす。
場面が変わるとほどなくop.109が鳴り出すというものですが、そのピアノはこの廃屋に合わせてわざと汚れが塗りつけてあるけれど、実は最新スタインウェイC型であるところが苦笑してしまいます。

ここまで芝居がかったことをするのなら、ピアノもそれに応じてヴィンテージを使ってもよかったのでは?と思うし、高価な最新の楽器を演出のためにわざわざ汚してしまうという行為は、そんなに重要なことだろうかとも感じたり。

床も天井も荒れ果て、壁は剥がれ落ち、場所によっては汚水が溜まっているような屋敷に放置されたことになっているピアノですが、その音はというと、新しいピアノ特有の若々しい新緑のような音色と、いかにも整った均一な響きを持っており、この演出があまりにちぐはぐですべてがウソっぽくなっているようでした。

演奏はいかにも現代基準といわんばかりに尤もらしく弾けてはいるけれど、演奏者の個性とか、曲と奏者の間に発生すべき反応、解釈、問いかけ、新しい切り口などはマロニエ君が聴く限りでは見あたらず、ただこの曲の平均的な音が虚しく聞こえてくるだけでした。
長年かけて出来上がったスタイルを模倣するように弾いているのか、定められた規格品みたいな演奏。

大勢の人の研究と時間によって練り上げられた解釈と演奏様式は時代を支配するものだから、それを土台にするのはわかるけれど、そこにピアニスト自身から発せられるメッセージ性、なにか心を震わすような情熱とか、演奏を通じた語りかけがあってこその演奏芸術だと思うのですが、近ごろのピアニストはそういう自我さえないのか、多くの場合、無難に整った(個性という意味では極めて地味な)演奏で済ませてしまうことがあまりに多く、こうしてみんなで演奏をつまらないものにしているように思います。

ちなみにこれは、このピアニストに限ったことではない、近年しばしば感じる問題です。
演奏を聴かせたいのか、こういう映像の中の弾いている自分の姿をアピールしたいのか、音に惹き込まれないからあれこれと余計なことを考えてしまい、しまいにはさっぱりわからなくなります。

ところで、マロニエ君はスタインウェイのC型については多くを知りませんでしたが、技術者や専門家の間ではBこそがベストバランスで、Cはそれには及ばないというようなことがいわれたりしますが、今回のビデオを聴いた限りでは、まったくそのような印象は持ちませんでした。

それどころか、C型とはこんなにも素晴らしいピアノだったのかと、驚きつつ感心してしまって耳を澄ませていましたが、これはほとんどDと遜色ないものだと思いました。

スタインウェイの中でベストバランスモデルとして定評のあるのがB型ですが、実をいうと(演奏を聴くぶんには)個人的にいささか過大評価では?と思うところもあったところ、Cのあまりの違いにはじめはびっくりしつつ、やがては疑いへと変化していきました。

というのも、別の場所できちんとした音源を作り、この廃屋&C型は映像のためのセットではないか?
ネットでいろいろと調べてみましたが、もともと検索力の低いマロニエ君の前にはそれらしき証拠はなにもなく、諦めかけたとき、いつも購入するCDネットショップのサイトをみたら、ちょっと引っかかることが。

アレクサンドル・タローによるベートーヴェンの最後の3つのピアノ・ソナタのCDがあり、この廃屋での演奏と思しき映像DVDがセットになっています。
知るかぎりでは、彼はこれまでほとんどベートーヴェンのCDはなく、これは2018年にパリのサル・コロンヌで録音されているもののようで、解説には「付属のDVDには、CDと同内容の全曲演奏映像を収録」とあるので、これはやはりホールにおけるDによる演奏という可能性もあり、ならば納得という感じ。

C型であれだけの音が出てくるとすれば驚き以外のなにものでもなかったけれど、音源が別となると、映像での演奏風景はいわゆる「口パク」ならぬ「指パク」ということになるのでしょうか。
ま、映像作品なんてものはえてしてそういうものなのかもしれないので、あまりそのあたりをとやかく言っても仕方がないのかもしれません。
なんでもフェイクが当たり前の世の中、もはや何を信じていいのかわからない…変な気分です。

2020/08/13 Thu. 01:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

スターの条件 

8月2日放送の『情熱大陸』はいま日本で旬のピアニストである反田恭平さんによる、このコロナ禍の中で試みる有料音楽配信という新しい音楽活動にスポットを当てたものでした。
多くのプロフェッショナルな音楽家が、コロナのせいで活躍の場を奪い去られる中、反田恭平という新進人気ピアニストが旗手となって新たなスタイルに挑戦しようとする様子をとらえたものです。

それに対する意義や判断力はマロニエ君は持ち合わせないので、そのことをここで書いてみようと言うのではありません。

この番組の内容とは直接の関係はないけれど、あらためて反田恭平さんという人を見ていて、なぜ彼が現在日本でトップの人気があるのかということを考えてみるチャンスになったので、そのことに触れてみたいと思います。

現代は苛烈なまでの大衆社会なので、昔のように芸術的な深みや精神性といったものを果てしなく掘り下げ、追い求め、享受する時代ではなくなりました。
芸術には、芸術家はもちろん、受け手の側にもそれなりの素養と修練と熟成が求められ、そういうことは(残念なことではあるけれど)年々時代に合わなくなり、もはやそういう求めも価値もほぼ喪失されてしまったように思います。

芸術性なんぞといったって、これという基準があるわけでもなし、ごく一握りのわかる人がわかるだけのこと。
そんな少数を相手にしていては、現代の厳しいビジネス第一主義の社会では商売もあがったりになるだけ。

さらに、芸術家といえるような人ならまだしも、クラシックの訓練を積んできたという人達は、全体にどこか浮世離れのした、純粋培養の中でイビツに育った線の細さのようなものがあり、大衆的な人気を博そうにも、まるで訴求力がないしパンチがないし、どこぞの大臣発言じゃないけれどまったくセクシーじゃない。

そこへもってくると、反田恭平さんというのは、およそ聴衆の心が素通りしてしまうような無機質な雰囲気ではなく、どこか昔のEXILEのメンバーか何かのような逞しさや体臭やワルっぽさがあり、いかにも非クラシック的な雰囲気があって、聴き手と同じ目線や感性をもっていそうなイメージが漂っています。
言葉遣いも、長年お偉い先生方との縦社会で培われた、慎重でステレオタイプのお行儀のいい丁寧語を話さず、スノビズムもなく、思ったことを言葉少なにズバリと口にするような今どきの若者の世代臭があります。
おまけに普段はどちらかというと無愛想で、洗練や選民意識を暗示するかのような微笑みもなく、いかにも今どきの健康で朴訥な男子という印象を与えるのだと思います。

ヘアースタイルはちょんまげでお顔はいかにも歴史画にみるような純和風で、まるでお能の落ち武者のようなニヒリズムと気迫があり、いわゆる今どきのキレイ系の目筋の整った無機質なイケメンでもない。
このあたりがまずもって現代では珍しい。

それに加えて一切の危なげのない、シャープで卓越した演奏技術があり、マロニエ君は反田氏の音楽には精神性を感じないけれども、彼がピアノと対峙して見せるその技巧そのものには、まるで剣術の師範代のような収斂された美しさ、すなわち精神性が宿っていると思います。
これは誰の目にもわかるピアニストとしての圧倒的かつ新種の武器であり、彼の一番のピアノ演奏上のウリは、やはり技術の冴えだと思います。
現代は芸術・文化より、経済・スポーツ重視の時代。
人の心の内側を覗き見て表現とするような細やかな陰影とか、一瞬の呼吸や風のひと吹きの中に込められる儚いような芸術性より、この明快で輝く技術こそが、人々の感動を誘い出しゲットするのだと思います。
その技術はあればあるだけいいし、しかもそれはクオリティという仕上げの研磨がかかっていないといけません。

こういう諸々の要素を、一身に集約したピアニスト。
それが反田恭平という人なんだと思います。

おまけに彼には不思議なスター性があって、彼の存在は、人の心の中に刻み込まれるものがある。
俳優でもそうですが、どんなに美男美女でもこれのない人は大成しないし、ビジュアルはイマイチでも、このスター性という摩訶不思議な天からの授かりもので主役を張り、第一線で活躍する人というのがいますが、反田さんはそういう意味でもまさに時代が産んだスターなんだと思います。

彼よりもっとイケメンでピアノも上手い人は探せばいるでしょうけど、それだけじゃもうダメなんですね。
そういう意味では、どんなにコンクールで優秀な成績をおさめるような若者が出てきたとしても、トータルで彼を超えるのは生半可なことではないし、だから反田さんの天下はしばらくは安泰なのだろうと思います。
2020/08/07 Fri. 02:54 | trackback: 0 | comment: -- | edit

AIの音楽 

先日のNHKの『らららクラシック』では、なんとも不気味なものを見せられました。
「AI音楽の特集 テクノロジーと音楽」というタイトルで、現在、AIがどれだけ音楽の世界に入ってきているかをざっと紹介する内容でした。

昨年末、AI美空ひばりというのがあったように、AIという技術革新によって、これまで思いもしなかったような可能性が広がっているということのようですが、個人的にはその技術には驚きつつも、どうにも後味のスッキリしないものだけが残りました。

このコロナ禍でリモート合奏するなどの使い方はあると思いますが、ドイツ・フライブルクにある音大では入試もリモートで、海外で演奏するピアノと音大のピアノをAIで繋いで演奏判定をやっており、今後の試験のあり方も変わっていくかも…というようなことで、いきなり唖然。
これで合格したら、そのときは実際にドイツに移り住んで学校に通うのか、そうではないのか、もうまったくわからない。

スタジオでは、グレン・グールドの演奏特徴を盛り込んだAIが、グールドが生前演奏していない曲としてフィッシャーの「音楽のパルナッスム山」から、というのが披露されました。
そのための装置を組み込んだヤマハピアノを使って無人演奏が行われましたが、なんとなくグールド風というだけで、本人が現れて目の前のピアノをかき鳴らしているような感覚になれるのかと思ったら、結果はほど遠いものでした。

なによりもまず、あの天才のオーラがまったくない。
タッチにはエネルギーも熱気もないし、いっさいのはみ出しや冒険がない、ただのきれいなグールド風な音の羅列としか思えないものでした。
名人の演奏とは、その場その瞬間ごとのいわば反応と結果の連続であり、どうなるかわからない未知の部分や毒さえも含んでいるもの。
鑑賞者はその過程にハラハラドキドキするものですが、それがまったくゼロ。

スタジオにゲスト出演していた、この道のエキスパートらしい渋谷慶一郎氏をもってしても「本物には狂気があるから、AIにそれができるようになたらおもしろいことになる」というような意味のことを云われていましたが、それが精一杯の表現だったと思います。

ほかには、やはりヤマハの開発で人工知能合奏システムというものがあり、生のヴァイオリニストのまわりにたくさんのマイクを立て、それを拾って、瞬時に解析しながら傍らのピアノからピアノパートが演奏されるというもので、共演者のテンポや揺らぎなどにも自在に対応するというもの。

演奏したヴァイオリニストも「違和感なく弾けた」とこれを肯定しており、渋谷慶一郎氏なども「音大生はみんな上手くなると思う」とポジティブなことを仰っていました。
たしかに、どんなテンポでも間合いでもAIが文句も言わず合わせてくれて、しかも機械だから疲れ知らずで、無限に付き合ってくれるという点はそうかもしれません。

でも、マロニエ君としては、手段がどうであれ出てくる音は整ってはいるけれど音楽として聴こえず、どうにも受け容れがたいものがあります。
新しい物を受け容れないのは、印象派の画家達が当初まったく見向きもされなかったことや、春の祭典の初演が大ブーイングとなった先例があるように、その真価が理解できず、固定概念に凝り固まった人特有の拒絶反応だと云われそうですが、それとこれとが共通したこととは思えないし、もちろんマロニエ君は固陋な保守派であっても一向に構いません。
いやなものはいやなだけ。

AIが共演者の音を拾って反応するということは、この場合ピアノの演奏が先を走ったり共演者を引っ張ることはなく、あくまでもヴァイオリンの脇役として影のようについてまわるだけとなります。
すると、終始自己中でいいわけで、相手と合わせる技術やセンスというのは磨かれないのでは?

ピアノ伴奏を人に頼む面倒もなく、便利というのはそうかもしれません。
でも芸術って便利なら良いの?という問題にも突き当たります。

また、作曲ソフトなるものもあり、AIが4つの旋律などを候補として提示して、その中から選んでくっつけたり貼り合わせたりするのだそうで、これがスマホアプリのお遊びならいいけれど、作曲家の創作行為の新しい可能性というようなことになってくると、それを肯定し賞賛する言葉や理屈はどれだけつけられても、要はコピペみたいな作品としか思えませんし、こんなことをしていたら、最後は全部AIに任せればいいじゃんということになりはしないかと思います。
今はまだ発展の過程だから生身の人間が主役になっているけれど、やがてAIとAIが合奏し、曲もAIが作るようになり、人間の出る幕はなくなるとしか思えませんでした。

クリエイティブな世界に身を置く人達は、AIのような時代の先端テクノロジーは受け容れるスタンスをとるフリをしないと、視野の狭い頭の凝り固まった人間と思われるのが怖くて、なかなか否定するわけにもいかないのだろうとも思います。

AIに頼めば、バッハのゴルトベルクに100のバリーションを作ることも、ベートーヴェンの交響曲第10番を生み出させたり、ショパンのバラードの第5番でも第6番でも増やすことは可能なんでしょう。
でも、そんなものはおもしろいのは初めだけ、後世に残る遺産になる訳がない。

テクノロジーの進歩という側面では驚嘆はするし、そこに拍手は贈りますが、そんなにすごい能力があるのなら、まずはコロナウイルスの特効薬でも作って欲しいものです。

2020/08/01 Sat. 02:10 | trackback: 0 | comment: -- | edit

弾き手しだい 

たまるいっぽうの録画ですが、その整理を兼ねて見てみることに。
NHK-Eテレのクラシック音楽館をたまたま2つ続けて見たら、そこに登場するピアニストのあまりの違いに笑いました。

そのひとつとは、4月12日放送のN響第1931回定期公演。
ツィモン・バルトのピアノ、指揮はクリストフ・エッシェンバッハで、ブラームスのピアノ協奏曲第2番。
ブラームスのピアノ協奏曲は2曲とも、その長大さに対して、派手な見せ場的なところがないからか、演奏されることは少ないけれど味わい深くとても好きな曲。

冒頭、ツィモン・バルトとエッシェンバッハの会話が流されたけれど、30年来の付き合いだそうで、バルトが若い頃、ピアノか指揮のどちらにするかで悩んでいた時に適切なアドバイスをしてくれた、自分にとっては音楽上の父などと言っていました。
またブラームスの協奏曲に対しても、若いころと今では演奏がいかに変わってきたかなどのコメントが。

さて演奏がはじまると、これまでのN響コンサートではあまり経験のないような違和感が。
あまり細かく言うのはよしますが、マロニエ君に言わせるとおよそプロのピアニストの演奏とは思えぬような違和感の連続で、ジュリアード音楽院出身とのことですが、そこにさえも違和感という感じ。
そもそもエッシェンバッハ自身が、若い頃はあれほど才能にあふれた有名ピアニストであったにもかかわらず、この人のどういうところをそんなに認めているのかがわかりません。

アメリカ国内の風船がいっぱいならんだような音楽イベントとかならとかく、プロのピアニストとしてわざわざ遠い日本へやってきて、テレビ収録が前提のN響と共演し、報酬を得て帰るということ、これも違和感でした。
ちなみに、このツィモン・バルトという人は、ものすごいマッチョな体格と風貌で、YouTubeで検索したら、若い頃はシュワルツネッガー張りの筋肉を見せながらタンクトップ姿でピアノを弾いたりしており、現代はまさに何でもありの時代なんだということをあらためて痛感。

ピアニストとしては逞しすぎる体格が災いするのか、すぐに音が割れてしまいます。
そのためか曲の大部分は抑えめな小さな音で弾いていますが、音に芯はなく音型も不明瞭、常にふがふがしたような演奏になります。
ソロの入るタイミングが変だったり、技術上の都合なのか普通に進めばいいところをやたら伸縮つけたり、ある部分ではラブシーンみたいに過度な表情をつけたりで、すべてがちぐはぐで独りよがりに感じるものでした。
エッシェンバッハはというと無表情にただ両腕を上下させているだけだし、N響の人達も仕方なくじっと楽譜を見ながら仕事をしているといった雰囲気でした。

それでも終わったら優しい日本人はちゃんと拍手はするし、大きな演奏会では「オーッ!」とか叫ぶ役目の人が必ずいるので、ご当人は満足かもしれません。
番組冒頭では、NHKが「アメリカを代表するピアニスト」とアナウンスしましたが、果たしてアメリカでどれだけの人がそう思っているのか、政治家でもないから支持率がでることでもないですけど…。

続いて、3月22日放送のN響第1929回定期公演。
こちらは若干20歳、ロシアのダニエル・ハリトーノフ、指揮はスペインのパブロ・エラス・カサド。
リストのピアノ協奏曲第1番が演奏されましたが、これはなかなか見事な演奏でした。

まずピアノの音がしなやかで肉づきがあって美しい。
同時にピアノって「ここまで」弾く人によって音が変わるのかということは驚くばかり。
さらには、指は文句なく回るし、リズム感もよく、演奏には勢いとメリハリがあり、いまどきの若者にしては妙にシラケた感じもなく、聴き手にも瞬間ごとに燃焼していることが伝わってくるものでした。
音楽的には特段の個性とか深い芸術性といったものは感じなかったけれど、プレーンな心地よさがあり、ストレスなく快適に、さらには演奏というパフォーマンスにも一定の満足を覚えながら聴き進むことができました。

アンコールはやけに技巧的で聴き覚えのない曲だと思ったら、このハリトーノフ自作の「幻想曲」だそうで、いずれにしろ大変な才能の持ち主であることは十分わかりました。

ロシアという国は、政治体制などはともかく、こと音楽のような分野に限っていうなら、いまだにこういう素晴らしい才能にあふれた若者がしっかりと送り出されてくることには感嘆を禁じ得ません。

12歳で衝撃のデビューをして世界を驚愕させたキーシンも来年は50歳!!!
彼がロシアピアニズムの中から出てくる事実上の最後のピアニストかな?などと思っていましたが、とりあえずまだその土壌は枯れてはいないようです。

2020/07/27 Mon. 02:24 | trackback: 0 | comment: -- | edit

Fの真髄は? 

ここ最近は、偶然も重なってか、TVでファツィオリを目にする機会が多かったように思います。

反田恭平さんが『題名のない音楽界』のスタジオ収録でもF308を弾いておられたし(おそらくこのために持ち込まれたものでしょう)、クラシック倶楽部では再放送でアンジェラ・ヒューイットの紀尾井ホールでのバッハ・リサイタルでF278。
ほかには、クイズ番組でも「何の曲を演奏しているところでしょう?」という問題で、場所はわからないけれど、使われているのがファツィオリで、この出題場面で使われるピアノは、これまでにも戦前のベヒシュタインとかニューヨークスタインウェイだったりと、かなりマニアックなピアノ揃いで不思議。

さてファツィオリですが、マロニエ君にとっては現在尚これほど難解なピアノもなく、いまだに聴けば聴くほど疑問が深まっていくのは如何ともし難いところです。

それは一言でいうなら、ファツィオリというピアノの個性というか、音の美しさの特徴がつかめないということに尽きます。
最高級の材料が吟味され、職人の手作業によって注意深く作られたピアノだけがもつ上質感というのは感じるけれど、ファツィオリ固有のトーン、いわば楽器がもつ固有の「らしさ」みたいなものがいまだに聞こえないのです。
もしかすると、そういうものはないのかもしれないとさえ思うこのごろ。

マロニエ君は、過去にファツィオリのことを高級ヤマハみたいなイメージと表現したこともあったし、今回の印象ではまたべつのピアノとの共通点をイメージしたけれど、何に似ているというようなことではなく、これぞファツィオリ!というものがいまだに見い出せないのです。
もちろんそこにはマロニエ君の耳が劣っているからということもあるとは思いますが。

表面的なブリリアントな音ではなく、深みとコクのある、まろやかな音を目指していることもわかる気がするし、それは今どきのパンパン鳴らすだけのピアノとは逆の、ピアノ本来の在り方だとも思うのですが、それ以上のものが見えてきません。


音楽発祥の国、イタリアが生み出したピアノで、この国のすべてのアートに通じる色彩や官能や享楽の要素にあふれているのかというと…あまりにも優等生然としていてるのも意外だし、イタリアものに不可欠の「太陽」を感じない。
むしろ特徴のない無国籍風の音に聴こえてしまうたびに、このピアノの核心はなんなのか探しまわるばかりです。

ファツィオリを評して、「イタリアらしく明るい色彩感にあふれたピアノ」というけれど、マロニエ君としては、とくに否定もしないけれども共感と言うまでには至らず、わかる方に教えてほしいものです。

ピアノは楽器であり主役は作品と演奏なので、主張の強すぎるものより、演奏者の黒子に徹するようなものがいいのだという考え方もあるかもしれませんが、個人的にはそこまでの割り切りはできないし、楽器そのものの魅力や美しさというのも音楽を聴くにあたっての楽しみの一つであり、それはおおいに必要なことだとも思うのです。

昨年、東京のショールームでほぼすべてのサイズを触らせていただいたときも、量産ピアノとはまったく次元の異なる濃密さがあり、さらに極上の調整がなされていることもあって、弾いていてこれほど気持ちのいい快適なピアノというのはそうないという貴重な経験ができました。
ただ、それは最高の状態に仕上げられた技術者の腕に負うところも大きいと思われ、その状態が少しでも崩れたときにどういうピアノになるのかというのは興味があります。

海外で収録された動画などを見ていると、必ずしも日本のファツィオリのように最高の調整を受けていないらしいものがあって、中には音もかなり荒れた感じだったりすると、よほど高度な調整を必要とするピアノなのかな?とも感じます。

「名は体を表す」というように、あの素晴らしいFAZIOLIのスタイリッシュなロゴそのものみたいな音を期待していしてしまいますが、やはりマロニエ君にはかなり難解なピアノのようです。


2020/07/21 Tue. 02:04 | trackback: 0 | comment: -- | edit

大事なこと? 

くだらないといわれそうなこと。

マロニエ君がスマホをもつようになったのは昨年12月の初旬のことでした。
その手続きに際しては、プランがどうの、この説明、あの説明、ここにもあそこにもサイン、在庫確認だ、なんだかんだでソフトバンクのショップ滞在時間は、実に2時間オーバーというヘビー級のものでした。
もうクタクタで、店を出た時は、めまいがしそうでした。

その一連の手続きの中に、画面に保護のためのシールというのがセットでついているとかなんとかで、よくわからないまま貼ってもらいましたが、その保護シートがいつごろだったか、はじめは汚れかと思ったら上のほうに小さな浮きのようなものが現れ、時が経つにつれ増大していきました。

あまり気にせず使っていましたが、ついには横幅いっぱいにまで成長したために、さすがにこれはマズイと思いショップに行くと、ニコリともしないベテラン風の女性が出てきて「ご用件は?」と聞いてくるので、ざっと説明をすると、保護シートの保証期間は6ヶ月です、昨年の12月でしたら保証期間は切れておりますので新たにお買い求めていただくことになりますが!とにべもなく至って事務的にいうのに内心ムッとなりました。

浮きが出たのはずいぶん前だったことを説明すると、奥の人間と相談しながら、今度は若い男性が対応に出てきて、端末をお預かりしますと言われ、名前や生年月日などを書かされて、さらにまたこちらにやってきて身分証明書といって免許証まで提示させられました。
それから待つこと15分ほど。

なんらかの処理をしてくれているものと思っていたら、やっと預けたスマホを手に戻ってきたその店員が口にした内容は、なんと、はじめの女性と何も変化のない、まったく同じことの繰り返し。
さらに保護シートというものは浮いてくるものだから、仕方がない事だという主張。
だったら、なんのために名前を書かせたり、身分証明として免許証まで見せたり、さんざん待たせたりしたのか。

最近は、何事にも努めておとなしくしているマロニエ君ですが、さすがにこの時は納得がいかず、今日の今日、保護シートが突然浮いてこの状態になったわけではなく、はじめはよく分からず様子を見ていたこと、また、購入時に保護シートは浮いてくるものという説明はなかったし、そもそも保護シートにまで保証期間があって、それが6ヶ月というのも知らなかった。
1年も経っているというならともかく、保証が切れて1ヶ月たらず、しかも浮きの発生は6ヶ月以内で時間とともにだんだんひろがってきたもの、さらには10年以上にわたって家族分を含めてこの店だけを利用してきて、あげくこのような規定ルールを冷たく言い渡されるのは不愉快であること、よって交換には及ばないことを伝え、すぐに店を出る準備をはじめました。

するとその店員は再度奥に行って相談したのか、戻ってくるなり「今回だけ特別に!」ということで無償で張り替えてることになりました。
どうせ千円やそこらのもので、ネット上には山のように売っているようなものですよ。
普段から過剰なサービスをエサにしては顧客の取り合いに明け暮れていながら、いざとなるとこんなお粗末な対応をして、せっかく贔屓にしている顧客の心象を著しく害するのはどういう了見なのかと思いました。
それと、マロニエ君はべつに無償交換にこだわっているのではなく、その際の対応があまりに木で鼻をくくったような、申し訳ないという気持ちのかけらもない冷淡で不愉快きわまる対応、これに憤慨したのです。
むこうだって商売なんだからお客さんには笑顔で接し、申し訳ないけれどもこれこれの事情があり、こういう対応にならざるをえないと礼を尽くしていわれればそれでいいのですが、こちらの気持ちという一番肝心な部分をいきなりバサッと斬りつけてくるような対応には不快感しかありませんでした。

さらに同じ日、そのすぐ近くのスーパーに行くと、購入商品を袋に詰めるスペースで「お客様の声」というのがボードに張り出してあり、直筆で同情を禁じ得ないことが書かれていました。
スーパー内のベーカリー店でパンを購入したところ、並んでレジを済ませたら、なんと自分の次の人から半額となり、非常に不愉快だったということが綴られていました。

半額にするなら、やはりそこはちょっとお客さんが途切れてからにするとか、ちょっと前倒しして半額扱いにするとか、商売というものはそういうちょっとした気遣いや心遣いが後々に響くもので、あまりに無神経なやり方だと思います。
少なくとも、不愉快な思いをさせられたら、傷ついた側はいつまでも覚えていますからね。

こういうことは人によっては「くだらない」「大したことじゃない」などと一蹴される可能性がありますが、我々生身の市井の人間の生活感情においてはそういうことはくだらないこととはマロニエ君は断じて思いません。
事象としてはくだらないかもしれないけれども、そこに生じた不快感はまぎれもなく本物です。
ささやかなことで喜んだり幸せな気持ちになることは大事だというなら、その逆もコインの裏表で同じことでしょう。

2020/07/16 Thu. 01:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

TVにみるピアノ 

NHKのテレビから、ピアノに関すること…。

朝ドラの『エール』(現在進行が止まっている)は音楽家の話だから、折りに触れてピアノが出てきます。
物語上の場所が変わっても、学校でも、レコード会社でも、どこかのステージの場面でも、使われるのはどうやら同じピアノのようで、きっと撮影の都合上、一台を使いまわしているんでしょうね。

ピアノは明らかにスタインウェイのBですが、ロゴが出てくることは一切ないどころか、鍵盤すら出てくることはほとんどなく、いつも斜め横やうしろ姿などばかり。
それはともかく、そのピアノにはきわめて不可解な部分があり、ピアノが映るたびにやたら気になります。

何かというと、ピアノの足の下の部分が、いつも真っ黒な立方体のような大きな箱で覆われており、これがとにかく異様なのです。
そこには、よほど見えてはならないものがあるのかと想像をたくましくしてしまいますが、それは一体何なのか?

普通のピアノの足ならべつに見えてマズいわけはないし、わざわざあんな箱状のものを被せて覆い隠すとしたら…唯一考えられるのは、大型のキャスターがついていて、それがドラマ内での昔のピアノの姿として似つかわしくない…とでも判断されたぐらいしか考えられません。

別番組『らららクラシック』では、同じくB型が足元まで写った映像がありましたが、そこにはコンサートグランドほど巨大ではない、やや小ぶりのダブルキャスターがついているので、あの黒い箱の中はおそらくこれだろうと推察されました。
だとしても、そんなに見えてはいけないものとも思えないし、それでも隠すのであれば、もっと控えめにキャスターだけ黒い布で包んで覆うぐらいでもよかったのでは?
とにかくあれは違和感バリバリで、ピアノの足先がかなり大きな真っ黒の箱のなかに3本ともズボッと突っ込んだ姿で、あんなのこれまでに見たこともないものでした。

ふつうはピアノの足なんて注目する人はいないのだろうし、真っ黒の箱だから目立たないという現場の判断だったのかもしれませんが、少数でも気がつく人は必ずいるわけで、その結果は小型のダブルキャスターそのままより何倍も異様な光景になっているとマロニエ君は断言したい。

尾行などのため顔を見られないよう、黒い大きなサングラスをかけ、マスクをして、長い髪のカツラと帽子まで被った姿は、よほど目立って人目につてしまったというようなお笑いのオチがありますが、まさにそんな印象。

東京のNHKには、コンサートグランドなんて何台でもゴロゴロありそうですが、却って普通サイズのグランドとか日本製のピアノは小道具としても一台もないんでしょうか…。


テレビで見たピアノということで、今ふと思い出しましたが、日曜美術館で「ようこそ!私たちの美術館」というのをやっていましたが、京都市京セラ美術館が紹介されたときのこと。

中村大三郎画伯が大正期に描いた「ピアノ」というそこそこ有名な作品がありますが、それはこの美術館の収蔵作品だったことをこのとき初めて知りました。
四曲一隻の大きな屏風に描かれた日本画で、赤い振り袖を着てピアノを弾く女性(中村画伯の夫人の由)が描かれていますが、画面の3/4ほどは大きなグランドピアノが占めるという、ちょっとほかに類を見ない大胆な構図。
鍵盤蓋には「ANT. PETROF」とはっきり書かれており、この絵は昔(2000年前後?)ペトロフの日本輸入元だったRHFセンターのサイトなどでも紹介されていました。

ここに描かれたペトロフは、大正期に地元の人の募金によって小学校に購入されたピアノで、そのピアノがなんと現存しているということでごく短時間でしたが実際のピアノも紹介されました。
足の形状や、大屋根を支える棒にあしらわれた金色の装飾など、まさに絵になったピアノそのものでした。
しかもかなり大型のグランドで、さぞ高かったんでしょうね。

学校にかぎらず、文化に関しては、昔のほうが選択肢がなかったこともあって意外に贅沢だったんだなあと思うこのごろです。


2020/07/12 Sun. 12:50 | trackback: 0 | comment: -- | edit

家ピアノー蛇足 

以下は、もはやNHKの番組とは何ら関係ない内容ですが、家のピアノということから違った話をすると、ピアノといえば置き場所さえあるならグランドこそが本家本流みたいな認識があり、「いつかは自宅にグランドピアノを!」といった声は何度か耳にしたことがあります。

でも、本当にグランドが必要かどうかは、各自よく考えてみる必要があるのではと思います。
必要はなくても「ただ、グランドが欲しいー!」というのはもちろんそれはそれでアリですが、ピアノ経験者のアドバイスのようなことに流されて「アップライトはダメ」…と刷り込まれるのはいささか迷惑では。

ピアノをある程度やった人とか先生など、バリバリ弾くだけで音楽や楽器にあまり関心がないような方に限って、なぜか口を揃えて「グランドじゃないとダメ!」みたいなことを言われ、購入予定者に変な影響を与えるのはなんなのかと思います。

たしかにグランドは構造的にもピアノの本来の自然な形であるし、グランドだけがもつ秀逸なアクションなど、機構上のメリットがあるのは事実で、そこに大きく異論はないけれど、音楽専門家を自認する人達のグランド必要論みたいなものを聞くと、どうも価値観に偏りがあり釈然としない印象しかありません。

日本は何事においてもグレードとかクラスとかランクとか、あらかじめ人によって決められた価値が幅を利かせ、それを鵜呑みにし、自分で判断するよりそちらが正しいらしいと思ってしまう。

東大を出たとか、コンクールに優勝したとか、大会社の社長とかいうとすぐに一目置いて、尊敬のレッテルが貼られてそれで終わり。
与えられたヒエラルキーにそうまで無批判で従順なのは、まさに権威主義、ブランド志向ではないか。

すっかりそこに与して、その気になって、ステータスとしての価値も感じながらグランドを買って満足するのであれば、それはそれで意味はあるのかもしれませんが。

ただ、家にグランドピアノを入れるというのは、美的観点からするとある程度上手に置かないと、ピアノがそこで一番エラいもののように鎮座して、却って滑稽になる場合もあるように思うことも。

自宅にグランドピアノが設置された光景で目に浮かぶのは、白もしくは花柄などのクロスが貼られた清潔そうな部屋、淡い色の規格品風のカーテンがあって、床はフローリング。
部屋の雰囲気のためにとても大切な照明は、何の工夫もないシーリングライトの無機質な光で、塾の教室みたいな白。これだけで、聞かなくてもピアノの主がどんな弾き方をするのか想像できるよう。
さらに、椅子やペダルのあたりには却って滑りそうな小さい敷物、部屋のどこかに結婚式のブーケみたいな造花、楽譜棚にはネコなどのかわいい系の置物など。
きわめてレッスン的おけいこ的ではあるけれど、肝心の、音楽のある生活の香りや文化的芸術的な香りは…。

欧米人にはまず絶対にあり得ないセンスで、ひとつひとつのチョイスや配置はこまごまして控えめにもかかわらず、出来上がったものには独特の大胆さがあり、ああいう雰囲気の中で目にするグランドピアノって強烈な違和感を感じるのはマロニエ君だけでしょうか?
とくに日本人は、内装とかインテリアのイメージにはっきりした主張がないのかバラバラで控えめ、と、せめてものアクセントのつもりなのか、いい大人が子供っぽいかわいい系の置物とか、甘ったるいお菓子みたいな世界にしてしまうのはなぜなのか、まったく理解に苦しみます。

前置きが長過ぎましたが、その点で、成熟した大人のセンスで手際よく生活空間に収められたアップライトピアノは、とてもスタイリッシュで、住む人の趣味の良さとか、豊かな人生のワンシーンみたいなものを感じて好ましい。
グランドのようにピアノが中心になっていないのもプラスに働くのかもしれません。

そもそも、家でただ音楽を楽しむのに、そんなにグランドのタッチや音量は必要なのか?
さらに、日本人はピアノを買うのも自然な楽しみとしてではなく、レッスンや、受験や、発表会、趣味の目標など、そこに必ず勉学的な目的をくっつけないと気が済まないようです。
子供のためにピアノを買うというのはよくありますが、なんでその家のピアノライフのスタートを子供が背負わされるのか。
そうではなく、ピアノのある家に子供が生まれ、成長するにつれ自然に触れるようになってきた、じゃあそろそろレッスンにでも行かせてみるか…こういう順序であってほしいと思うんですけど。

だからなのか、自宅のピアノって特別感が強すぎて浮いており、もっと生活の一部としてピアノと普通に仲良くしたらいいと思うのですが、そうなるほど生活の中にピアノや音楽は根を下ろしていないということかもしれません。

2020/07/07 Tue. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

家ピアノ 

先日、NHKで『家ピアノ』という番組をやっていました。
コロナ禍で仕事がキャンセルとなり、自宅待機を余儀なくされた音楽家やタレントさんがピアノと過ごす様子を取り扱った番組で、出演したのは東儀秀樹さん、久石譲さん、千住明さん、ふかわりょうさんなど(あとは忘れました)。

その内容じたいは特段どうというものではありませんでしたが、あらためて感じたのは、自宅にピアノがある景色はやはりいいものだということ。
以下、番組とは直接関係ないけれど、そこから感じたことなど。

昔は映画やドラマでも、住まいにピアノがあるという光景はそれほど珍しいものではなかったけれど、時代とともにしだいに姿を消し、今や素敵な住まいのシーンというと、ほぼモデルルームのようなスタイリッシュ調が主流に。

今どきの戸建住宅やタワーマンションの中があんなテイストになっているのかどうか知らないが、そこには住人のセンスとか価値観が投影された個性もなく、インテリアのカタログ写真そのまんまみたいな世界。

むかしは、家に年ごろの子供がいたらピアノを買ってお稽古させるといった単純な構図があって、テレビや応接セットや学習机と同じように、変なカバーがかかったピアノなんかがあって、あのおかずの匂いがしそうな雰囲気もイヤだったけれど、片やいまどきのピアノなんぞ眼中にもないといったカッコだけの世界も行き過ぎでちょっと苦手です。

もはやピアノが顧みられなくなったぶん、今あえてピアノを自宅に置く人というのはやはりそれなりの意思と目的を持ってのことだろうと思います。
少なくともそれが、使いもしない百科事典みたいなピアノでないことは進展なのかも。
でも、マロニエ君が本当に「いいな」と思える光景は、なによりもまず「おけいこ臭」とか「レッスン臭」が一切しないことで、こころ豊かな生活のために家の中に音楽がそばにあって、絵画や本があるようにピアノがあるという自然な雰囲気が感じられるピアノのある光景です。

コロナ禍であらためて再確認したことは、ピアノはまさに家で一人で楽しむことができるということ。
もちろん他の楽器と合わせたり、仲間内で音楽を楽しむのもおおいに結構ですが、基本は一人で楽器といくらでも向き合って楽しめるところが最大の特徴で、これはまさにピアノの特権。

そういう意味では、どれだけピアノ好きを標榜しても、弾くためのモチベーションをレッスンや発表会や弾き合い会などに置いているのは、なんとなく好きの内容がどこか似て非なるものに思えてしまいます。
ピアノを手段にした自己達成とか、人前演奏への挑戦とか、その先にある音楽そのものではない何かの欲求を追い求める人のように感じてしまうわけです。
この匂いのする人としない人では、話をしていても、その密度も楽しさもまったく違います。

そういう人が思いのほか多くてウンザリなのですが、さすがにこの番組で登場された方々は、有名な音楽家であり作曲界であるなど、いずれもそういう匂いがないという点では、見ていて清々しさがありました。

それと、普段テレビで見るピアノの大半は、演奏会の録画やスタジオ収録されたもので、音響的にもそれなりの配慮のされたものですが、今回は自宅や個人的な仕事場などで、久石譲さん、千住明さんはスタインウェイでしたが、やはりこうした状況で聴いても、その音の美しさはさすがと唸るものがあったし、いっぽうヤマハのアップライトでもきれいに調律・整音されたと思われるものがあって、それはやはり気持ちのいい音で鳴っていました。

きれいに整えられたピアノは上品で美しいですね。

2020/07/02 Thu. 02:00 | trackback: 0 | comment: -- | edit

どこにいくのか? 

21世紀になってからでしょうか、世界の主だった大都市の景観は、いずれも趣のない無国籍風高層ビルが林立する姿に変貌。
はじめは中国やアメリカだけかと思っていたら、世界中のあちこちがどうも似たような調子で、グローバルかなにかは知らないけれど大同小異の眺めに。
道路も街路樹も美しく整えられ、様々な機能も充実し、無数のカメラに監視され、路上はSUVやハイブリッドカー、人々はスマホを手に行き交い、世界のあらゆる情報が瞬時に手に入る今どきの世界。

…。
内田光子&ラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンのピアノ協奏曲を買ったら、オマケなのか抱き合わせなのか、同じくラトル/ベルリン・フィルのベートーヴェンの交響曲全曲がセットになっていたので、単独ではまず買わないだろうけど、せっかくなのでもちろん聴いてみました。

世界のトップオケとして誉れ高いベルリン・フィルの演奏は、さらに切れ味鋭く鍛え上げられ、かつ時代を強く反映した解像度の高すぎる演奏で、オーケストラがここまで一体感をもってクリアな演奏を繰り広げることにただもうびっくり仰天でした。
昔から「一糸乱れぬ」という表現があるけれど、もはやそんな生ぬるいものではなく、まさにAIが演奏しているのでは?と思うほど「合って」いるし、機能的で、制御自在で、それはもう…どことなく作品を軽んじている気がするほど。
しかもこちらもライブ録音(2015年)だというのだから、もはや開いた口がふさがりません。

最初に聴いたときは、ほとんど恐怖に近いものさえ感じ、すっかりビビッてしまい、CDの箱をヒョイと指先で遠ざけ自分は椅子の背に逃げてしまうほどでした。
でも、気を取り直しながら、恐る恐る何度か聴いてみることになりました。

すごいけれど、CG映像を多用した映画みたいに技術で作品を呑み込んでしなうような胡散臭さがある。
まるでベートーヴェンがあのむさ苦しい肖像画の中から抜けだして、エステに行って、スタイリッシュなスーツに身を包み、最新のメルセデスに乗って、タッチ画面を操作しながら颯爽と疾走していくみたいな世界。

第1番はキュッとまとまっていたけれど、第2番などはもうすこしふくよかさなどもあればいいと思ったし、田園はあまりにスッキリしてせいぜいセントラルパークぐらいの感じだし、英雄や第7番などには、あの恰幅も体臭も除去されて、体脂肪を落とし過ぎで却って貧相に見える筋トレマニアみたいな感じも。

その調子でやるものだから第8番などは、まるで第九の前の序曲のよう。

個人的に最良の出来だと感じたのは第九で、このいささか誇大妄想的な大作に見通しのいいシルエットと構造感が見えてくるようで、場合によってはこういうこともあるんだなぁという感じでしょうか。
ただ、いずれにしろ、どれをとってもスタイリッシュの極みではあるものの、ベートーヴェンって、そんなに遮二無二スタイリッシュにしなきゃいけないんでしょうか?

あざやかな手腕も度が過ぎると、真に迫るものや、人間的な本音とか温か味から遠ざかり、ただ先へ先へと追い立てられているようでした。

これを聴くと、今どきの理想的な演奏傾向のガイドラインが示されているようで、いやでも今どきの現実を思い知らされたような、時代は思ったより遙か先へ行ってしまったことを認識させられたような気分でした。

むかし、クラウディオ・アバドがベルリンフィルの常任指揮者になったとき、カラヤンというしばりからついに抜けだし、解き放たれて、なんという清々しい新しい風が吹きはじめたものかと思ったものですが、いま振り返ってみれば、それさえすっかり古びたフィルム写真を見るような思いがしました。

手作業の演奏までもが、先端テクノロジーを模倣しているようで、これも時代の必然なのかもしれません。
同時に、音楽そのものが目的を見失っているようでもあり、この先、音楽が、演奏が、どうなっていくのか、まるでわからなくなってしまいました。

2020/06/26 Fri. 02:43 | trackback: 0 | comment: -- | edit

既読 

ずいぶん前でしたが、LINEの「既読」というこんな些細なものをめぐってイジメや事件になるなど、社会問題になったことがありました。

当時のマロニエ君はLINEがメールとどう違うのかもよくわかっていなかったくらいで、「キドクって何?」というような感じで理解がついていかなかった覚えがあります。
中でも驚愕したのは、小学生か中学生で、LINEのメッセージが来たら10分だか15分だか、それぐらいの時間内に返信しなければ仲間はずれにされ、イジメの対象になるという恐ろしいもので、故に子どもたちも常にストレスにさらされているというものでした。

それが今現在どうなっているのかは知りません。

ただ、そういうことが尾を引いているのか、この「既読」という小さな文字の有無に気を遣うというのが後遺症となって残っているのか、既読という小さな文字の向こう側に人の心の動きが読み取れることがあります。

マロニエ君なんぞは、そもそもスマホ歴も浅いし苦手だし、交友関係も広くはないからそんなにたくさんの人とLINEのやり取りをしているわけではないけれど、それでも、人によってちょっとした性格とか神経の動きを感じることは…ありますね。

全体からみれば一部の方ではあるものの、あきらかに既読マークが表示されることを意図的に回避していると思われる(気がする)場合があって、もちろん確証はありませんが(そうだとすると)たかだかLINEごときにそんなに神経を張りつめなくてもいいのでは?と思うことがあるわけです。

それは、既読がついた以上はコメントしなくちゃいけないけれど、すぐにはそれをしたくない、もしくはできない状況、面倒だからあとでいい…大方そんなところでしょう。
読んだのに返事しないとこちらに失礼と気を遣ってくださっているのか、すぐに返事しないことで自分の印象が悪くするという保身なのか、そのあたりはよくわかりませんが、とにかく敢えてコメントを開かないことで既読表示を回避し、「まだ読んでいませんよ」「だから返信に至らないのです」という作為を感じるのです。

マロニエ君にしてみれば、そんなにすぐ返事をしていただかなくても一向に構わないし、あとからでも返事もらえたら幸いという程度ですが、そういうちょっとしたことでこまごま気を遣われるというか、悪くいえば小細工されるというのは妙にわかるもので、不思議ですよね。
そして、残念ながらこれ、さほど狙い通りの効果をあげている…とも思いません。

スマホとの接し方というのもむろん人それぞれだから一概には言えないけれど、今どき、平日の昼間とかならともかく、夜間や休日にそう長いことLINEを見ない、つまりスマホを触りもしないということは、一般的にはあまり考えられません。
むしろ、心配になるほど、大多数の人はなにかというとスマホに触っていないと落ち着かない場合が多く、人の手がスマホを離れることのほうがずっと難しいし、そのほうがよほど稀だと思うのです。

いったんスマホを手にして、LINEなんかをやりはじめるということは、良し悪しは別にして、一定時間おきに何かをチェックをするという少々のことでは元に戻れない習慣に冒されてしまったと見るのが一般的で、だから、まったく既読がつかないほど丸一日これに触れないなんてことのほうが現実的に想像しにくいわけです。

現に知人などに会っていても、今どきはごく自然な動きでスマホをさりげなく触ったり、音がすればチェックするという動作はしょっちゅうで、仕事中など明確に禁止された状況以外で、自らにケジメの線を厳しく引いて、きっぱり遮断できてしまうという人がいるとすればそれは相当の強靭な意志の持ち主であり、チョー珍しいと思います。
そんなチョー珍しい人がそんなにたくさんいるとも思えないわけです。

だから、やっぱり意図的に開かないようにしていらっしゃるんだなあ…そんなにしなくてもいいのになあ…と思うわけです。

むしろ、あるていどのタイミングで既読がつくほうが自然だし、あとから自由なタイミングでコメントを返してもらえるほうが、個人的にはよほどホッとするわけで、返信するまで既読を付けない状態をキープすることのほうが、よほどピリピリした緊迫感があって疲れます。

2020/06/21 Sun. 02:01 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ピアノの近代史-2 

企業というのは、どれだけ時を経て巨大化しても、創業者のキャラクターや社風というものはふしぎに残る気がします。
その体質や個性は、良い意味でも逆の意味でも必ず引き継がれて、生物に遺伝子があるのと同様、企業にもDNAがあって脈々と受け継がれるらしいことを感じずにはいられません。

ただし、山葉寅楠という人の影響力はヤマハ一社に収まるものではなく、彼の蒔いた種によって日本のピアノ製造界の方向性、さらにはそれを弾いていく人達のスタンスや価値観のようなものまで、計り知れない影響を及ぼしたように感じるのはいささか大げさでしょうか?

伝統ある一流品がクラフトマンシップによって生み出すところの音色とか音楽性といった、どこか基準も曖昧で捉えどころのないものより、機能の高さ・造りや動作の優秀さ・確実性の高い音を保ちながら、コストパフォーマンスで勝負をかければ価値は明快となり、ピアノには機械物としての側面もあるから、安くて優秀な製品というのはこの業界では画期的なことだったのでしょうね。

今日では世界に知れわたる日本製品の優秀さですが、ピアノはその先駆けのひとつだったのではないかと思います。

環境にも酷使にもへこたれない強靭さがあり、音にはパンチがあって、しかも大量生産で安くいのに高品質で信頼が性高い。
そんなピアノはそれ以前にはなかったのではないかと思います。

まさに寅楠の目論見は大当たりというところでしょう。

初のアメリカ視察においても、彼の目はもっぱら生産方法や量産技術に注がれたようで、あとに人に続く人達が本場のピアノの音や職人の技巧に魅せられ薫陶を受けていたのとは対象的だったような印象で、そこが(個人的に共感はしないけれど)並の人物ではなかったところでもあるのだろうと思います。

さらに驚くべきは、ピアノやオルガンにとどまることなく、ありとあらゆる業種に手を広げて、事業の多角化を貪欲にめざすあたりも、まさに辣腕経営者のそれで、現代ならばさしずめIT企業のCEOといったところでしょうか?
寅楠は紀州藩士の三男で、出自としては武家の生まれだったようですが、紀州といえば紀伊國屋文左衛門を産んだ土地柄でもあり、商いの才覚を生み出す土壌があるのかもしれません。

寅楠がオルガンづくりを決意したのも、修理依頼された舶来オルガンの価格を聞いて驚き、それなら自分がもっと安く作れば大いに儲かるとすかさず反応したようで、なにごとにもピンとひらめいて商機と捉える直感力と実行力は凡人ではないようです。

よってヤマハはビジネスが絶対優先であって、すべての製品にはその厳しい精神が流れていると思います。
どれだけ長く使っても愛着が湧いてくるような、どこかしら愛おしいような部分はないとはいいませんが少なく、いつも無表情で醒めたものを感じます。
利益は二の次にして、理想を追い求めるような甘ちゃんではないのでしょう。

むろん音質も大事にしたとは思うけれど、高い工作精度、耐久性、信頼性などに秀でるほうが実際的で、不特定多数の人が弾く学校や、絶え間ない練習やレッスンによる酷使、その他厳しい環境で使われる場面でのタフネスとなると、おそらくヤマハの右に出るものはない。
中東やアフリカで頼りにされるランクルみたいに、これ以上ない頼もしい製品であることも確かでしょう。


あらためて感じたこと。
以前も少し書いた覚えがありますが、浜松のオルガン修理に駆りだされた山葉寅楠を傍で支え、協力したのが河合喜三郎という人物で、喜三郎は寅楠に対して場所や資材など、さまざまな支援を生涯続けたとありました。
のちに登場する河合小市とは血縁関係にはないとのことですが、日本のピアノ史のこんな第一歩の場面の登場人物の名が、山葉と河合だったというのは、まさに「事実は小説より奇なり」ですね。
2020/06/15 Mon. 02:16 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ピアノの近代史-1 

『ピアノの近代史──技術革新、世界市場、日本の発展』井上さつき著(中央公論新社)を読みました。
内容としては「ヤマハを中心とするピアノの近代史」といった印象でした。

世界のピアノ史では、まずはじめにお約束のようにイタリアのクリストフォリが強弱のつけられるフォルテピアノを発明したところからはじまりますが、日本のピアノ製造史で必ず述べられるのが、明治の中頃、浜松の小学校にあるオルガンの修理が必要となり、白羽の矢が立ったのが機械修理職人の山葉寅楠だったというところから始まるのがほぼ通例。

この寅楠とオルガンの出会いが日本の楽器製作の夜明けとなり、見よう見まねでのオルガンを作り、それはやがてピアノ製造へとなり、途中世界大戦を経るもののそれでもなお躍進を続け、ついには世界を席巻するまでになる楽器製造のサクセスストーリーとでもいっていいかもしれません。

ただ、マロニエ君のようなピアノマニアとしては、日本のピアノの近代史となれば、今はなきメーカーが生み出した名品などにも少しは触れられているものかと期待していましたが、ここでは専らヤマハとカワイの企業史のような内容でした。
日本のピアノ史を語る以上、触れない訳にはいかないメーカーはいくつかあると思うのですが、そのあたりがスルーされていたのは残念でした。

この本を読み終わって最も強く印象に残ったのは、ヤマハとカワイという二大メーカーは、モデル構成から価格帯まで酷似しているものの、それぞれの創業の精神というか、出発時点での企業理念はかなり違っていたんだなあ…と思われることでしょうか。
ヤマハは創業者のはじめの第一歩から、西洋楽器という非常に高価なものを国産化し大量生産することに大きなビジネスの可能性を見出していたのに対し、カワイの創業者はあくまでクラフトマンシップの職人気質であり、優れたピアノづくりを追求する人だったようです。

山葉寅楠は大正5年に亡くなっており、活躍の大半を明治時代で過ごした人ですが、楽器製造以外にも様々な業種に手を伸ばすマルチな経営者であったのに対し、河合小市はピアノ一筋。
戦時下でピアノが作れないときでも、ヤマハは飛行機のプロペラなどいかようにも時局に対応していたのに対し、カワイはピアノ以外のものを作って窮状をしのぐことも工場を疎開することも嫌がり、ついには空襲により全焼。
戦後ピアノ製造が復活した際は、完成品はすべて小市が検品をして、すこしでも納得がいかないと工場へ押し返したんだとか。

経営者としてどちらが正しいのかはマロニエ君にはわかりませんが、どちらのピアノに心惹かれるかといえば、それはやはり小市のような人の作るピアノであることは偽らざるところ。

そもそも、戦前のヤマハを現場で支えた重要なひとりが「天才小市」と言われた河合小市だったのですから、それもまあ納得です。
そういう違いは、100年の時を経て世界に君臨するピアノメーカーになっても、両社の最も底の部分に流れているものは変わっていないと感じます。

ヤマハが楽器の総合メーカーであるだけでなく、オートバイその他まで幅広く作っているのも、寅楠のキャラクターと無関係とは思えないし、小市のピアノづくりに回帰したというSKシリーズの誕生なども、その精神の現れなのかもしれません。

もちろんどんな世界にも文字にできないような事もたくさんあったでしょうし、企業というのはきれい事では済まない闇の部分もあるから、事はそう単純ではないとは思いますが、何がいいたいかというと企業体質というのは間違いなくあるわけで、それは容易く変わるものではないということと、その製品には必ずその体質・体臭みたいなものが投影されているということでしょうか。

使う側も、そこは知識や理屈ではなしに、肌感覚で感じるものです。
ちなみに、小市のピアノは深くまろやかなトーンで、一時はそれが時代に合わないとされたそうですが、そこに再び回帰し、復活させるべく生まれたのがSKシリーズだそうです。
2020/06/11 Thu. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

修理は掃除! 

このひと月ぐらいのことでしょうか。
リビングのテレビに繋いでいるブルーレイ・レコーダーから、「ウー」とか「ジーー」とかいう、なんとも嫌な感じの音がするようになりました。

はじめは「たまたまだろう…」ぐらいに軽く考えていたのですが、一向に収まる気配はないどころか、その音は確実に強くなってくる感じで、これは寿命が近いのかと思い、なんだか無性に焦って、用心のために新しいレコーダーを買いました。
だって、修理に出せば2015年製なので保証期間は切れているし、買い換えたほうがいいぐらいの修理代がかかりますよと告げられるに決っているし、その間、録画などできない状態が1週間から10日はかかる等々がわかっていたから。

とはいうものの、レコーダーの中には録画している夥しい数の番組があって、それらを見ないまま新しいレコーダーに交換する決断もつかず、数も数なのでそれをディスクにダビングするのも面倒くさくてしたくない。
特別な方法によっては、溜まった録画をそっくり新しいほうも移し替えることも不可能ではないようですが、方法がよくわからないし、面倒だし、とりあえず見られるから危ないとは思いつつ先延ばしに…。

しかし昨日の夜、NHKのケネディ暗殺の前編を見ていたら、何の前触れもなくプッと切れてしまいました。
ついにその瞬間がきたらしく、よく見るとレコーダーの電源が切れており、再度スイッチを入れたらONにはなって、一度は胸をなでおろして視聴を再開するも、またプッと切れる。
それを何度か繰り返しましたが、ものの1分もしないうちに勝手にOFFになってしまい、ついに観念しました。
問題は、そのレコーダーの中にはクラシック倶楽部やプレミアムシアターなどのまだ見ていないもの、ほかにも映画とか、マロニエ君の好きな警察密着番組などがびっしり入っており、それが一瞬で見られないものになってしまったと思うと目の前が真っ暗になりました。

しばし呆然としたところで、以前YouTubeで見た覚えのある「ヤフオクで手に入れたジャンク品のAV機器を修理する」みたいな動画が面白くて、何本か見たことを思い出しました。
多くの場合、再生しなくなったり、CDは音飛びしたりという症状ですが、実際の原因というのは故障というほどのものではなく、大半はCDのピックアップセンサーを掃除する(最悪の場合交換)というようなことで、ほとんどが解決していました。

こうなったら仕方がない、これをやってみることに。
ビデオの場合、電源、テレビとの接続ケーブル、アンテナなど計5本の線が差し込まれているので、位置を間違えないようまずその部分の写真をスマホで撮り、ひとつひとつ外していきます。

電気モノに詳しいわけでもないし、機械いじりはむしろ苦手で、えらく大それたことをやるようですが、もうそれしかないのだからこれこそダメモトです。
テーブルに新聞を広げ、本体の背後や裏側に付けられたネジを緩め、慎重にフタを開けてますが、これが機種ごとにネジの位置も役目も様々だったり、プラスチック部分を固定している爪を折らないように気をつけるというのも注意点として覚えていました。
内部があらわになるまでに15分ぐらいかかりましたが、果たしてそこには無数の複雑な基盤が並び、その横にハードディスク、さらにディスクの可動部があります。

中は万遍なくパウダー状の灰色の埃で覆われており、まずは掃除機で慎重に全体のホコリを取れるだけ取り、次いで綿棒で基盤とか小さな配線などを傷めないように、やさしくゆっくりと掃除しました。
内部の冷却のためか、小さな扇風機みたいなものがあって、その周りはとくに埃が集中していたので、綿棒を何本も取り替えながら30分ほどクリーニング。

自分でできるのはここまでというところまでとにかくやって、逆の手順で組み上げて、最後にスマホの写真を見ながらケーブルを繋いでいきます。
内部はもちろんですが、機械の真下なども恥ずかしいほど埃が溜まっており、この際きれいにしたのはいうまでもありません。

さあ、高鳴る胸を抑えつつ電源を入れてみると、無事ONに。
ドキドキしながら、さっき見ていたケネディの…を再生してみると、とりあえずきれいに映ったし、数分経ってもプツンと切れる様子はありません。
それに、ふと気がつけば、あの忌まわしい「ウー」とか「ジーー」の音もまったくしなくなっています。
どうやら修理ができたようで、こころなしか画面も前よりも明るく鮮明になっているような気がしましたが、これは嬉しさもあってそう見えているだけかもしれません。

もし修理に出したら、「掃除したら終わりました」ではお金も取れないから、あえて何かの部品を交換されて、相応の費用と時間と手間がかかったかと思うと、うれしくてうれしくて、思わず「ヤッター!」と叫びたいほどでした。
機械に弱いマロニエ君が自分で解決して、また音楽を聴いたりよしもと新喜劇を見たりできるかと思うと、ああうれしや!これが達成感というものか!と思いました。
YouTubeで説明してくれたお兄さんに心からのお礼をいいたいです。

そうすると、新しく買って開けてもいないブルーレイ・レコーダーはどうなるんだろう…。
まっ、いっか!

2020/06/06 Sat. 12:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

思わぬかたち 

コロナ発生以降、社会の主流になったもののひとつつがリモート☓☓☓。

多くの会社や学校などが雪崩を打ったようにこちらに移行し、ピアノのレッスンなど、各種お稽古事に至るまで軒並みリモートレッスンへと形を変え、何事であれ人と人は距離を取ることが厳しく求められることに。

やむを得ぬこととはいえ、これは、きっといろいろなことに影響が及ぶのは必至で、思わぬことが思わぬかたちに変わっていくことを、もはや私たちはコントロールする手立てもない気がします。
当然なが物理的距離をとることは、必然的に精神的な距離も開くことになり、ますます殺伐とした世の中になるような…。

さっそく「リモハラ」とかいう弊害まで出始めているとかでびっくり。
自宅の背後の映り込みから個人のプライバシーや趣味・趣向などを知られて、上司から大勢の前でそのネタでいじられたり、やたら大きなテレビを持っているな!などと言われたり、いろいろあるそうです。
勤務時間とはいえ、常にONの状態(やったことがないのでわかりませんが)を求められるので気が休まらないとか、クライアントを交えた会議やプレゼンテーションでもっと顔の表情をつける、手を高い位置にして拍手をするなど、業務以外の細かい指示などもあって、これらが新たなストレスなんだとか。

オンライン飲み会というのも流行っているそうですが、これが相当に問題をはらんでいて、評判が悪いらしい。
それぞれが自宅なので、料金の心配も、閉店の心配も、終電の心配もないから、まさにエンドレスで延々続くのだとか。
ある証言によると、これが午後8時から翌朝5時まで延々9時間にわたったりするそうで、これはもう虐待では?
スタジオでは「適当に退出すればいいじゃないですか!」などといいますが、上司はじめ職場の人間関係がある中で、「じゃあ私はこの辺で失礼します。プチッ!」というわけでにはいかないでしょう。


それはともかく、こんなリモート☓☓☓をいつまでもやっていると、ついには同居家族以外は遠い存在となり、水槽の中の小魚みたいにならないとも限りません。

過日の新聞にありましたが、在宅ワークに慣れるといまさら会社に行くのが嫌になり、それも猛烈にイヤダ!という人が増えているそうで、このまま在宅ワークのままでいたいという人が優に60%を超えたそうです。

これもまさに「思わぬことが思わぬかたちに変わっていく」現象のひとつでしょうね。

思わぬ変化を、別の事例でいうと、コロナ以降まず変わったのは車を運転していて、一部の人の交通マナーが極めて悪くなったこと。
緊急事態宣言からこっち傍若無人な動きとすごいスピードであたりを蹴散らすように走る車が、あきらかに増えました。
狭い車間で狂ったように車線変更する、まさかというタイミングで割り込んでくるなど、一度出かけるとだいたいこの手の車を数台は必ず見ることになりました。
道路上というのは、一定の秩序と信頼関係によって安全を維持しているわけですが、ちかごろはこの手合がいつどこから現れるかわからず、気が抜けません。
全体からすればごく一部でしょうが、その一部がもたらす悪影響というものは間違いなくあるわけで、つられて悪化するドライバーもどんどん出てくるとすると、これも一種のウイルスみたいなもの。

また、夜の歩行者や自転車のルール違反も目に見えて増えており、自転車はもともと我が物顔で車道・歩道・逆車線・信号無視など、知ったことか!とばかりにかっ飛ばしていたものが、さらに拍車がかかってカラスみたいになっているし、歩行者も、信号無視や横断歩道のない夜間の幹線道路を平然と横断したりと、まあとにかくこちらも注意してはいますが、こわいのなんの。

とくに車の無謀運転は、単にスピード出しすぎといった問題ではなく、精神的にキレてしまったような動きがしばしばで、それでなくてもストレス社会であるところへコロナがトドメとなって、その恨みが運転に出ているという感じもします。
数時間前も市内幹線の県道を、いかにも仲間同士といった3台のクルマが、猛烈なスピードで走っていくのをとある駐車場から目にしましたが、何かのタガが外れてしまったのか、とにかく巻き込まれないよう願うのみです。

2020/06/01 Mon. 02:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

緊張感はむしろ上昇 

新型コロナウイルスは、今のところ落ち着きを見せており、世界的にも徐々に経済活動を再開する動きが出ているようですね──もちろん国や地域によって差はありますが。
日本国内もしだいに感染者が減少して、いろいろな動きが出始めていますが、第2波を注意しながらのあくまで慎重かつ限定的なもので、緊急事態宣言下よりもある種の深刻さを感じています。

以前このブログに、竹中平蔵氏が「収束しても、決して以前と同じ世の中には戻らない」という意味のことを発言されたと書きましたが、すでにその兆しが出始めているのかもしれません。

海外の大手航空会社が倒産したのが象徴的ですが、じっさいぽつぽつ倒産などの話も出始めており、むしろこれからのほうが経済が被った打撃の結果がじわじわと確実に出てくるようで、暗澹たる気分になるばかり。

ファミレスで有名なロイ◯ルホストは福岡が地元ですが、つい先日もグループが運営する関連店舗のうち、全国で70店ほどを閉めるという報道があり、じっさい店の前を通ってもどこもお客さんはまばら。

また街のいたるところで夜中まで営業していたスポーツジムは、緊急事態宣言解除後もどこも暗く閉ざされたまま、再開の目処も立たないのでしょうし、再開しても客足は大幅に遠のくでしょうか。

これまで福岡市は慢性的なホテル不足で、どこも常に満室みたいな状況でしたが、現在は窓に明かりが灯っているのは見上げても2つか3つといった状況で、中には完全に閉めてしまっているホテルもちらほら見かけるほど。

病院は忙しいのかと思えば、なんと赤字のところが少なくない由。
コロナの現場では医師をはじめ関係者の方々は寝る暇もないほどの激務が続くいっぽうで、それ以外は院内感染等を恐れてか…以前のように人の足が気軽に病院に行かなくなり、経営面では非常に厳しいのが実情だとか。

コロナ不況が最も端的に見えてしまうのが空港かもしれません。
福岡空港は市内博多区にあり、近くを車でよく通るのですが、小さな空港にもかかわらず、その離発着数ときたら普段は異常なほどで、時間帯によっては離陸するにも旅客機が誘導路で渋滞、到着も空中で4機ぐらい縦に列をなしているのがこれまで普通の光景でしたが、この忙しい空港からもののみごとに飛行機の動きがなくなりました。
一説によると9割減便だそうですが、まさにそんな感じで、たまに思い出したように到着してくる機体が目に入ると、なんだか懐かしいようなありがたいような、どこか悲しいような気分になります。
これが時間とともにかつての賑わいを取り戻すのかどうか、今のマロニエ君にはちょっとイメージ出来ないし、実際どうなんでしょうね。

ニュースによれば九州全体で毎月平均40万人近くあった外国人の入国が、先月はわずかに30数名というのですから、単純に言っても1万分の1以下に減少しているわけで、やはり驚愕の数字です。
営業を再開した映画館なども前後左右を間隔をあけながらということで、これはもちろん感染防止のためには必要なことですが、何事もこの調子でということになると、とても本来の経済活動とは言いがたく、そこから利益を生み出していくなど至難の業でしょうね。

いまだにブラジルなどでは感染拡大が止まらず、毎日2万人という猛烈なペースで増加だそうです。
さらに今後は世界第2位の人口を擁するインドで拡大という話もあって、これはコロナウイルスという目に見えない敵と戦う、まさに第3次世界対戦といっていいのではないかと思います。

2020/05/25 Mon. 02:10 | trackback: 0 | comment: -- | edit

違和感 

いつだったか「題名のない音楽会」で、葉加瀬太郎氏がヴァイオリンを弾く若い人たちを相手に、プロの演奏者としてやっていけるためのレッスンというかアドバイスをするという内容の放送がありました。

中心となる教えは「今はポップスも弾けないと食っていけない!」とする考え方で、この方はたしかにそっちで成功したかもしれませんが、それが現代一般の標準のように云われるのはどうでしょう。

自作の情熱大陸を題材に、いかにクラシックの演奏作法から離れたノリノリのパフォーマンスとして弾きこなせるかというようなレッスンで、こういう面を習得することが演奏チャンスに繋がるというもの。

いかにももっともなようにも聞こえますが、本当にそうでしょうか?
現在、世界的な潮流としてクラシック音楽が衰退していることは事実ですが、さりとて演奏者がポップスの演奏技術を身につけたからといって「食っていける」ほど事は単純ではないでしょう。

たしかにピアノでいうと、往年のカーメン・キャバレロとか近年では羽田健太郎さんのように、別ジャンルで見事に花を咲かせた人はいますが、それは彼らの才能がもともとそっちに向いていたというだけ。
あの大天才のフリードリヒ・グルダをもってしても、ジャズではついにものになりませんでした。

現実を見据えて「クラシックじゃ食えないからポップスの弾きこなしも必要」というのなら、名もないヴァイオリニストがポップスを上手く弾くからといってチケットが売れるとは思えないし、うっかり別ジャンルに手を付けると、よほど注意しないとその色がついて現実的にはクラシックでの活躍もさらに難しいものになると思います。

演奏の引き出しを増やすというより、限りなく他のジャンルへの宗旨替えを意味するように感じます。
そっちに行った人が、いまさらクロイツェルを感動的に弾いたり、バッハの無伴奏ソナタやパルティータで聴く人の魂に訴えるなどということがあるとは思えません。

また、今回の先生自身が、申し訳ないけれどクラシックでやっていけるタイプとも思えず、アイデアに長け、時流に乗る才覚と運があり、さらには独特の風貌や注目を集めるお相手との結婚など、さまざまな要因が重なって現在のエンターテイナーとしての地位を得ている複合の結果であって、ただポップスも弾けなきゃダメというだけでは全体の半分も説明になっていません。

ヴァイオリンでいえば女性にも多くのテレビに出演し、毒舌トークで名を挙げて、ステージでは女性だけの奇妙な集団演奏の長としてやっている方もおられるようです。
これらの方に共通するのは、まずタレントとしての知名度というか世間の認知がしっかりあり、それを土台に様々なステージ活動が考え出され、あるいは継続できていると見るべきだと思うし、さらにお父上は元大手レコード会社のディレクターという企画マンであるなど、見えない仕掛けがいろいろあるからでしょう。

本当に若者に「食える」ための実践的な助言をするのであれば、まずは広告会社顔負けのアイデアで顔と名前を世間に印象づけ、多くのTV番組等からオファーが来るよう仕向けて、早い話がほぼ芸能人化してお茶の間の中へ入り込み、そのあとで特定のファンにフォーカスした至ってくだけたコンサートをする…とまあ、あえて言葉にすればそういうことではないかと思います。
ピアニストでもなにかというとテレビ出演して、活動の地固めをしておいでの方はいらっしゃいます。

音楽家としての進む道として正しいかどうかは別としても、これとて一朝一夕にできるようなことではなく、この厳しい過当競争の中で本当に稼ごうとするのは、そんなに単純なことではないはずです。
将来のかかる若者の人生に、物事のある一面だけを伝授しても、それだけでは機能しないし無責任だろうと思います。

それと、器楽の演奏にかぎらず、どのジャンルにおいても一途に修業を重ね、はるばる歩んできた道以外のことをしろ、でないと食えないぞといわれたら、それはかなり陵辱的なことであるし、しかもなんの保証があるわけでもないでしょう。
この番組では、そういう意味でのリアリティが欠けていたと思うわけです。

小説家であれ、画家であれ、俳優であれ、その技術や才能を使って本業以外のことをやれと言われるのは(当人が望む場合はべつですが、それがあたかも社会一般の厳しい現実のように断じられるのは)、とてもではないけれど賛成しかねるのです。

音楽に近いところでいうなら、調律師さんにその技術を応用して、農機具の修理も、ご近所のトイレの修理もできないと「今は食っていけないよ!」といわれたら、やはりいい気持ちはしないだけでなく、結局は本業まで傷つけてしまうと思います。

尤も、いまは新型コロナウイルスによって、あらゆるものが危機に瀕していますが…。
2020/05/20 Wed. 23:39 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ちょっと休憩 

あまりに立て続けに内田光子/ラトルのベートーヴェンを聴いたものだから、さすがに耳休めしたくなったのと、せっかくの名演が飽きてしまうのが怖いので、いったん横に置いて他のものを聴くことに。

手持ちのCDの中には、購入後1〜2回聴いたのみで、そのまま長いこと棚に放り込まれたものもいろいろあり、その理由はいろいろですが、いわゆる期待はずれであったり端的にいってあまり好みじゃなかったというようなことです。

今回引っ張りだしたものの1枚が、ピアニスト、ベンジャミン・グローヴナーのCD。
ショパンの4つのスケルツォの間にノクターンをはさんで7曲とし、そのあとはショパンの歌曲をもとにしたリストの編曲、リストの「夢の中に」、最後はラヴェルの「夜のガスパール」というもので、意欲的な選曲のようでもあるけれど、実はその意図がよくわからないもの。
「夜」というものに引っ掛けているのかとも思ったけれど、するとそもそもショパンのスケルツォがどう意味を持つのか、よくわからないけれど、ま、それはそれ。

グローヴナーはイギリス出身の天才だそうで、このアルバムを録音した時点で19歳というのだから、すごい才能を持った人というのは確かなんでしょう。
購入した時のはっきりした印象もほとんどありませんでしたが、聴き始めてほどなくして、このCDを購入後そんなに聴かなかった理由がわかりました。

とにかく技巧優先で、すべてを技巧の勢いにのせて推進していくタイプの演奏だから、音楽の繊細な息づかいが伝わってハッとするとか、ショパンでいうと特有の雰囲気、あるいは随所に散りばめられたディテールの香りみたいなものを聴き手に伝えるような試みもなく、もっぱら山道をスポーツカーでぐんぐん走っていくいくような感じ。
こういう人の弾くノクターンなどは、腕のふるいがいがないのか、いかにも「ゆっくり」「おさえて」「小さな音」で弾く分別も持っていますよという、なにか言い訳のように聴こえます。
技巧曲を際立たせるための中継ぎのようで、こっちも却って落ち着かないような気になるもの。

せっかくなので全体を2回通して聴いたけれど、はっきり言ってしまえば、なんの感銘も喜びも得られませんでした。
冒頭のスケルツォ第1番も、静寂を打ち破るようなあの激しい和音のあとは、まるで豹かなにかの筋肉の躍動のようだし、中間部の有名なポーランドのクリスマスの旋律になると、一転してただ聞き取りづらいような弱音で通過し、ふたたび筋肉の躍動に戻る。

続くノクターン第5番でも、あの有名なメロディーの中に織り込まれる装飾音を、いかに拍内でこともなげにマジシャンのように片付けてしまえるかという点を誇示されているようでした。

もちろんこの21世紀にそれなりに認められて世に出て、十代前半で名門デッカと専属契約をするような人だから、大変な才能だとは思うけれど、それでもプロのピアニストとして継続的に成立するかというと、あまりそうは思えず、あらためて大変な職業だということを考えさせられました。


久々に、ダン・タイ・ソンのマズルカを聴くことに。
お得意のショパンとあってたいへんよく考えられ、やわらかで、クリーンで、聴きやすい演奏。
欠けているとすればふたつ。
きれいだけど、すべてが予め準備されており、いま目の前で生まれたような反応や儚さを感じない。
また、ショパンではアクセントやルバートというか、いわゆるタメをどこにどれだけ設定するか/しないか…が大きな鍵になるけれど、そこに若干のアジア臭を感じるのが残念。

ショパンついでに、リシャール=アムランのバラード/即興曲。
癖がなく、キチッとよどみなく弾かれているけれど、身をまかせて乗っていける場所がなく、意外に雰囲気のない無機質な演奏。
ピアノはなんだろう?
時間とともにだんだんに耳障りな、刺さる感じの音になってくる点が気になるけれど、ブックレットに記載はないようでした。

2020/05/14 Thu. 02:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

第3番以降 

前回は、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲のCDが届いてすぐだったので、書いた時点で聴いたのは第1番、第2番のみでした。

時間的な問題もあったけれど、その日、敢えて先に進まなかったのは、第3番以降はとくに念入りに聴きたかったので、1枚目のみに留めておこうという思惑もありました。

よく知られていることですが、作曲順でいうと2-1-3-4-5で、
第2番 どこかモーツァルトのコンチェルトの影を感じつつベートーヴェンの個性がまだ控えめ。
第1番 ベートーヴェンらしさがぐんと押し広げられて、明らかにモーツァルトの模倣から手を切っている。
第3番 得意のハ短調となり、ベートーヴェンの体臭がムンムンするような大曲に。
第4番 いきなり向きが変わり、この世のものとは思えぬ美しさを湛えた繊細で奥深い傑作。
第5番 すべてを総括するような肯定的で力強い傑作にして超有名曲。

あんな4番のあとに5番のような英雄的なものを書いたという点では、モーツァルトが40番のあとにジュピターを書いたことなどを連想してしまいます。

ま、そんなことはどうでもいいのですが、曲も3番からは佳境に入った感じで、演奏はいずれも見事なものでした。
とくに第3番では、旧盤で感じていた違和感はまったくなくなり、期待した通りの流れの上に、さらに内田の深まりやアイデアの閃きが次々に加わっています。
平行調ということもあるのか、第5番も概ね似たような印象。
この曲には勢いだけで派手に弾く演奏、皇帝という名曲についた外皮のイメージだけで弾く演奏、あるいは今風に低い温度で淡々と弾くだけといったものがほとんどですが、内田はいうまでもなくいずれでもありません。
細部まで詳しく、まるでビス一本見落とさない整備士のように作品を点検し、作品/演奏として再構築されたようです。
これまでについた俗っぽさや手垢を一度きれいに洗い流して慎重に組み上げられた文化財のようで、深みと初々しさが同居する演奏。
とくに第3楽章などは、爽快さをもって天空を駆け抜けるごとくで、和音やffの力だけに頼る演奏に対する、内田の確信的な答えを見せられた思いです。

しかしなんといっても5曲中もっとも強い感銘を覚えたのは(予想通りに)第4番でした。
第4番に関してはメータやヤンソンスとの共演など、DVDや動画で聴いていましたが、やはりCDとしてオーディオの前でキチッと耳を傾けるのは違います。

内田光子という稀代のピアニストの持ち味が、最も活かされる曲がこの第4番であることは、多くの音楽ファンの共通認識でしょう。
この曲で最高度に発揮される演奏の妙技は、モーツァルトやシューベルトで培われたであろうタッチの粒立ちの絶妙さ、芯があるけれども薄墨のような軽さ、弱音に込められる息の長い信じがたいような集中力など、とにかく耳が離せません。
まさに一音で色を変え、一瞬で向きを変える、内田以外では聴くことのできないデリカシー芸術を随所で聴かせます。

わけても第2楽章は奇跡的な美しさで圧倒されました。
ピアノの音すべてが内田の呼吸そのものであるかのようで、一つの究極を体験させられたような心地でした。
4番の第2楽章は、この曲のある意味聴きどころでもありますが、これ以上芸術的で神経の行きわたった演奏はこれまでに聴いたことがないと思われ、思わず涙があふれてくるのを抑えようもありませんでした。
この楽章ひとつのためだけにも、このセットを購入した価値があったと思います。

2020/05/09 Sat. 02:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

再録の必要と不必要 

最近はだんだんCDを買わなくなっています。
理由をひとことで言うなら、だいたい予測がついて、わくわく感がなくなったから。

CDというすでに山のように持っているものを、さらに買い続けるというのは、より素晴らしいものを聴きたいという常習性みたいなもので、要は気持ちの欲するままの行動だから、その気持がなえてくればそれでお終いでしょう。

なので、以前のようにめったやたらと買うことはなくなったし、これといって興味をそそる新譜が出てくるということも激減、作る側も、買う側も、ガクンとパワーが落ちてしまったというのが正直なところだろうと思います。

そうは言っても、これだけは何としても買っておかなければならないCDというのはたまにあるわけです。
たとえば、内田光子&サイモン・ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲がそれで、これは10年前のライブ録音をCD化したもの。
内田光子はすでにフィリップスから、クルト・ザンデルリンクの指揮で同全曲を録音しているけれど、あれは個人的にはイマイチと思っていたし、その後の内田のライブでの素晴らしさを知るにつけ、ぜひ再録をしてほしいと願っていました。
それがまさにカタチになったといえるCDです。

ただし発売後すぐに購入したわけではなく、CD注文の時は割引の事情やらなにやらで、ちょっと先送りにしていたけれど、こういうものは買えるときに買っておかないとなくなってしまう恐れもあるし、コロナで外出自粛の折、じっくり聴くのにちょうどいいというのもあって今回購入することに。

するといつの間にか、ラトル/ベルリン・フィルによるベートーヴェンの交響曲全曲まで抱き合わせになっていて、しかもお値段同じというすごいことになっていました。

さっき届いて、さっそくピアノ協奏曲の第1番から聴いていますが、ライブならではの気迫と一過性の魅力があり、内田の隅々までゆきわたる尋常ではない集中力と丁寧さ、音楽の息吹、気品、音色のバランス、そしてなにより趣味の良さが光る、おかしな言い方かもしれないけれど美術品のような演奏です。
ここまで芸術に徹したピアニストは二度と出てくることはないだろうことを、いまさらながら痛感。
内田光子の凄さというものは、もはやナニ人というようなことはまったく問題ではない次元のもので、厳密に言うなら、彼女は流暢な日本語が話せて、日本の文化にも通じたヨーロッパ人だと思います。

ネットで調べてみると、このCDに関しての内田光子のインタビューがありました。
「私自身は同じ曲を何度も録るの、好きじゃありません。それは演奏家の驕慢(きょうまん=おごり)です。よく3度も録り直して、最初のが一番良かったなんてケースもあるでしょ?大好きなサイモンとの記念でもあり、『出しても構わないでしょう』となったので」と述べているのはいささかショッキングでした。

この発言は、どうしてあのガチガチに突っ張ったようなモーツァルトのソナタ全集を、円熟の演奏で録り直さないのかと長らく疑問に思っていたことへの答えというか、彼女のスタンスが示されているようでもありました。

個人的には、内田光子のこの考えには半分賛成、半分反対ですね。
たしかにまたか!という感じで同じ曲や全集を録音したりする人に驕慢を感じることはあるけれど、逆に、録り直すことが必然と感じる場合があることも事実。
内田光子の場合は、モーツァルトのソナタ全集とベートーヴェンのピアノ協奏曲全曲はその必要を感じるもので、両方に共通しているものは、筋はいいのだけれど、まだ充分に熟成されていないものを食したような印象が残ること。
ベートーヴェンはそれが達成されたわけですが、モーツァルトで世界のステージの住人になる切符を掴んだ内田が、そのソナタ全集をあれでいい、録り直しの必要はないと思っているとしたら、それはそれで逆の驕慢だとも思うのです。

たしかに、3度も録り直して最初のが一番良かったなんてケースは、思い当たる音楽家が何人か浮かぶし、その点では彼女の考えはいかにもいさぎよく立派だとも思います。
ただ、ご本人はどう思っておられるのか知らないけれど、モーツァルトのピアノ協奏曲に関しては、彼女の振り弾きによるクリーヴランド管弦楽団との再録は個人的には成功しているとは思えないし、初めのジェフリー・テイト/イギリス室内管弦楽団との全集のほうがはるかに聴いていて胸に迫るものがあり、魅力があったと思います。

再録することで細部の考証などは正せたのかもしれないけれど、マロニエ君にとってはそんなことは大したことではなく、魅力あふれる芸術的な演奏というものは、学究的な価値とは別のものだと思うのです。

モーツァルトのソナタ全集を再録しない理由で、もし納得できる理由があるとしたら、それは「もうやりたくないから」という場合ですね。

2020/05/04 Mon. 12:39 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ギックリ腰 

コロナウイルスで緊急事態宣言、外出自粛など、日々を過ごすだけでも気を張ってストレスを感じるこんなときに、なんたることか、ギックリ腰になりました。

朝起きてしばらくして、着替えをして、床で靴下を履いて普通に立ち上がろうとした瞬間、腰まわりを稲妻に打たれた(ことはないけれど)ような感触が走り、そのまま立ち上がることができなくなりました。
まわりの机やら何やらを掴みながら決死の思いで立つことは立ったけれど、まず頭をよぎったのは「…これはエライことになった!」ということ。

当然それから何をするにも大変で、昼食を食べるのもやっと、ちょっとしたものに手を伸ばすことさえ強烈な傷みに襲われるし、そもそも真っ直ぐ座っているだけでもグラグラして文字通り腰が座りません。

どうしてまたこんな時期に、なにか不自然な姿勢をとったわけでもなく、変な力をかけたわけでも、重いものを持ったわけでもないのに、よほど日ごろの行いが悪いのか、なにかの罰が当たったのか、単にそういう歳なのかわからないけれど、目の前の現実がただただ腹立たしくて情けない気分。

ちょうど休日だったこともあり、午後はふらふらと壁伝いに自室に戻ってパソコンなどをやっていましたが、しばらく椅子に座って次に立ち上がろうとすると、それこそ耐え難いような激痛に襲われ、身体はくの字になったまま伸びないし、1メートル歩くのにも汗ばむほど。
本当にこれは大変なことになったと、ほんとうに泣きたいくらいでした。

何年も前の大晦日に、その時は自分の不注意からやはり腰を痛めたことがあったけれど、治るのにはずいぶん長くかかったし、コルセットが手放せない日々を送ったことでもあり、これから先のことを思うと暗澹たる気分になりました。
症状は時間経過とともに間違いなく悪化しているのがわかり、ベッドに横になるのも汗ばむほど難儀だし、横になったらなったで数センチ身体をずらすこともできません。

ちょうど知り合いのドクターにLINEでこのことを伝えると、専門ではないものの「そのうち治りますよ」という感じの軽い応答でしたが、しばらくして「えっ?」と思うようなコメントが届きました。

なんと、安静一辺倒かと思っていたら「最近は普通に歩いたほうが快復が早いという話が多い」のだそうで、整体師の中には逆さ吊りのような荒業をかける人もあるらしいということが書いてありました。

あまりの辛さから、この際どんなことでもやってやれ!という、ほとんど捨て身のような気分で、ゆっくりと腰をまっすぐに立てていたらどうにかなることがわかったので、階段の登り降りをやってみました。
普通なら、とてもそんな恐いことをする勇気などないマロニエ君ですが、これからはじまる辛く不自由な、脂汗まみれの毎日を考えたら、もうどうなってもいいというようなヤケクソの勇気が湧き上がり、痛さを無視して上ったり下りたり7〜8往復ぐらいすると、少なくともそれでひどくなる気配はなかったので、しばらく休憩して、ヨーシ!とばかりに夜の散歩に出かけました。

それでわかったことは、ギックリ腰といえども真っ直ぐに立って、真っ直ぐに歩くぶんには、思ったよりも歩けるということでした。
大事をとって家からなるべく離れないよう心がけながら、それでも数ブロックぐらい歩いたら、後半はさすがにちょっと辛くなってきましたが、なんとか無事に帰宅することができました。

それでも、就寝時は寝返りも打てないのは辛かったけれど、翌日はだいぶ収まってさらに散歩を続けると、夕方にはずいぶん症状が改善されており、前日に比べたら劇的な変化を遂げていました。

ギックリ腰=痛くて長期戦というこれまでの認識からすると、わずか一日でこれほど痛みが減るのは望外の事で、信じられない気持ちでした。
すでに4日を超えましたが、さほどの辛さもなく、注意深くしていれば普通に生活できて、車の運転をして食料品の買い出しにも行けるようになりました。

もちろん、医師でもないマロニエ君としては、無責任なおすすめはできませんが、たまたま自分にはこれが良かったようでした。

2020/04/30 Thu. 02:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit

収束後の世界は… 

先日のEテレ-クラシック音楽館をみていたら、長引くコロナウイルス感染拡大の波を被った音楽界の様子をとらえた内容となっており、演奏機会を失った音楽家たちが発するメッセージと、過去の演奏などで構成された番組でした。

中でも指揮者で鍵盤楽器奏者の鈴木優人さんが、過日のバッハのヨハネ受難曲が「私の最後の演奏になった」という言い方をされたのは、おもわずドキッとさせられました。
もちろん、コロナウイルスによって公開演奏が一時的にできなくなる直前の「最後」という意味ですが、なんとはなしにそれ以上の深刻な響きがあったような気がしたのでした。

音楽家に限らず、あらゆる職業の人達が同様の苦しみの中におられることはいうまでもありません。
朝起きて外の景色を見ると、ときに眩しいばかりに美しい快晴の日があって、木々は風にそよぎ、目にはあたかも穏やかな平和な景色に見えるのに、実際にはこんなひどいことになっているなんて、そのたびにウソみたいな気がします。

以前テレビの討論番組の中で、竹中平蔵さんが言われた言葉はちょっと忘れることができないものでした。
もう録画は消去したので、正確に写しとることはできないけれど、要するにいつかこのコロナウイルスが収束しても、そこから始まる世界は決して元通りではないというものでした。

これだけの災厄を経験した世の中は、それ以前と以降では、明らかになにかが「変わる」というのです。
その根拠としてSARSやリーマンショックの前後をみると、そこを契機にあきらかに世界は「変わった」んだとか。

いまや世界の経済を牛耳り、人々の暮らしのカタチさえ変えてしまったGAFA (グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾンの頭文字をとったもの)は、リーマンショックの後に急速に躍進してきたもので、それ以前は大して意識もされなかったこれらの新興企業が驚くべき短期間に世界を席巻したということをみても、言われてみればそうだなと思いました。

コロナウイルスにとっては、国境も政治も経済も人種も知ったことではなく、まさに目に見えない悪魔となって地球上を飲み込む勢い。
こんなパンデミックの恐ろしさに震えながら過ごす毎日はいつまで続くのか…。

これは事実上の、砲弾が飛んでこないだけの第三次世界大戦のようでもあり、ノストラダムスの大予言が20年ばかりズレて起こったといえなくもない状況で、これだけのことを経験させられた世界は、たしかに竹中さんの云われるように、収束後は以前の通りということにはならないでしょうし、よく考えたらなるはずがないでしょう。

それがどんなものになるのかはわかりませんが、少なくとも今回世界を恐怖に落し入れたコロナ騒動は、SARSやリーマンショックどころではなく、それを思うとその向こうにどんな新しい世界が待ち受けているのやら、不気味な気さえします。

また、終わった時は、ただ終わった!というだけなのか?
現在は感染拡大防止と収束にむけて世界中が全エネルギーを注ぎ込み、文字通り戦いの最中ですが、これが一段落したら、発生源の原因究明、これほどの拡散に至った初期対応への検証など、相応の責任追求というのは厳しくなされるのか否か、こちらも気になるところ。

夥しい数の感染者、亡くなった方、ありとあらゆる予想だにしなかった途方もない損失損害、無事に生き延びたにしろ、その間に味わった不安と不自由と苦痛は、これはちょっとやそっとのものではないですからね。
収束したら「ハイおわり、お疲れ様、パチパチパチ」では済ませられないと思うのですが…。

2020/04/25 Sat. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

BOXセット2 

例えばヘンスラーのバッハ大全集は、びっしり並ぶ172枚のCDにJ.S.バッハのほぼすべての作品が収録されており、これを聴くだけで数ヶ月を要しました。
ほかにもフルトヴェングラー107枚、モーツァルト全集170枚、グラモフォンのブラームス46枚、ブルーノ・ワルター39枚といった具合で、マロニエ君は「1枚のCDを1度聴いたら、ハイつぎ!」という聴き方ではないので、1セット聴くだけで大河ドラマ級の仕事になります。
いやいや、大河ドラマはたかだか週に1回45分ですが、CD・BOXセットの場合はほぼ毎日だから、時間的には桁違いです。

しかも、ひたすらそれだけを聴き続けることは精神的にしんどいし、自分なりの清新な気分を保つためにも、ときどき途中下車しながらのペースなので、そうなるとこれがもうなかなか進みません。

ごく最近もエラートのパイヤール全集133枚をようやく聴き終えて、ふだん耳にすることもない大量のバロック音楽に触れることはできたものの、正直、途中で疲れてきたのも事実で、ほぼ3ヶ月以上聴き続けてやっと終わった時にはもうお腹いっぱい、しばらくは結構となってしまいました。

フランス系で思い出しましたが、ミシェル・プラッソンのBOXセットも大量で、その時はめずらしいフランスの管弦楽曲漬けになっていたのに、今振り返ればそれっきりだし、本当は恥ずかしくて書きたくないけれどカラヤンのEMIの全集というのがまたとてつもない量で、これはカラヤンというのが続かずに途中棄権したまま。

こうしてみるとマロニエ君はピアノマニアのわりにBOXセットではピアノ以外のジャンルばかり買っているようです。
ピアノでセット物といえば、ずいぶん昔ですが、GREAT PIANISTS OF THE 20th CENTURYという、とんでもなく壮大なセットが販売されたことがありました。
しかもこれ、最近のように既存の音源を片っ端からBOXセットにして投げ売りするよりずっと前のことで、むしろ「いいものを作れば高くても売れる」という考えがまだ通用していた時代の、いわば入魂の豪華セットでした。

たしかスタインウェイ社が主導して、20世紀の偉大なピアニストを70人ぐらいを選び出して、その名演を集めたセット。
音源はレーベルを超えて集められており、立派な取っ手がついた小さなスーツケースのような専用ケース2つに収められ、一人のピアニストにつき2枚〜6枚で、計200枚ぐらいのセットでした。
当時からその70人余の選定には異論もあり、個人的にはタチアナ・ニコラーエワが入っていないことは納得できませんでしたし、日本人で選ばれたのは内田光子ただ一人でした(これは当然だと思うけれど)。

かなり高額でしたが、これはどんな無理をしてでもゲットしなくてはという意気込みから買ってみたものの、全部聴いたのかといえば、それは未だに果たせていません。
ゲットしたことで達成感にひたってしまい、たしか1/3も聴いていないと思います。
今もピアノの足下の薄暗いところに、ドカンとふたつのトランク状のBOXが重ねられており、そろそろこれを引っ張りだして順次聴いていこうかとも思いますが、なかなか着手には至りません。

それはともかく、多くの音楽・演奏を幅広く聴くことも大事だとは思うけれど、前回書いた通り、一つの演奏(アルバム)を繰り返し集中して聴くことのほうが、やっぱり得るものは大きいし、大事なものが残るような気がするのは事実です。

LPの時代、1枚のレコードを擦り切れるまで聴いたというような話は昔よくある事だったようですが、そうして得たものはその人の心に深く刻みつけられ、無形の精神的な財産や教養になっていると思います。

そんな吸収の仕方というか、限られた環境で貴重な音楽に接するときの気分というものは、今のようにデータの洪水の時代にはあるはずもなく、だからみんな知識はあっても器が小さく、却って無知で底が浅いのはやむを得ないことだと思われます。
人から聞いた話では、月に1000円ほどを支払えば、ネットで世に存在する大半のCD音源が際限なく聴けるそうですが、表現が難しいけれど、こういう物事が元も子もないような便利さと、音楽を聴くという喜びとか精神的充足感は、どこか根本のところでまったく相容れないものがあるようにも思い、それを利用しようとは思いません。

いくら高価な珍味でも、バスタブいっぱいキャビアがあったら食べる気にもなりませんよね。
CDのBOXセットは、それでもまだ自分でお金を出して買うだけマシかもしれませんが、それでも有難味という点では価値が薄れていくという危険は大いに孕んでいると思います。


2020/04/20 Mon. 02:07 | trackback: 0 | comment: -- | edit