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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

好きなピアノを 

先日、知人と話題になったこと。
外国のことはわからないけれど、少なくとも日本では、どうしてピアノといえば大手の量産品、もしくは海外の高級有名ブランド、そのいずれしか売れないのか。

おそらく多くの人達はピアノを楽器として捉えるのではなく、車のような品質もしくはブランド性を求めているのではないかと思いました。
「楽器として捉える」なんて言ってみても、掴みどころがなく、「いい音」などといってみても基準がない。
ピアノ店に行ってもYかKばかり並んでいれば、しょせんはその中での相対的なもので、おおよそこんなものだと思ってしまうだけでしょう。

正直ボストンがどんな品質/位置づけなのかもわからないし、ディアパソンでさえも長年カワイが作ってきたにもかかわらず、マイナーブランドという括りから抜け出すには至らず、聞いたこともないという人のほうが圧倒的多数。

その判断となる耳を養うには、ひたすら多くを経験するしかありませんが、それも実際問題としてなかなか難しい。
仮の話ですが、もしもコンビニのデザート(便利で美味しいですが)しか食べたことがない人がいるとすると、味覚がそれに慣らされてしまって、突然手作りケーキなどを食べても、素直にそれを美味しいと感じることができるかどうか…。
要は耳を鍛える環境がほとんどないというのはあると思います。

YKであふれる店内に、もしぽつんと名も知れないピアノがあったとしても、不安しか感じないのはわかります。
逆にいかにYKが世間で認められ、多くの人がこれを選んできたということで頭のなかは整理され、買うならやっぱりYKの中からということになるような気がします。

ネットの質問コーナーなどを見ていると、回答者のYKがいいという異様なまでの偏重と思い込みには驚かされます。

まれにシュベスターその他に関心を持った人がいても、YKばかり触り慣れた技術者が出てきては全否定の嵐で、「手作りピアノなんて云うと聞こえはいいが、要するに町工場でトンカチで作っているようなものだから、品質のばらつきがあるし、リスクが高いからオススメはできません。もし音が気に入って、リスクがあることまでしっかり理解された上で買われるぶんはいいかもしれませんが、自分ならたぶん買わないです。」…みたいなことをいわれたら、そりゃあ大半の人はびびってやめてしまうでしょう。
「とんだ粗悪品をつかまされるところだった。やっぱり専門家の意見を聞いみるべき。」となり、せっかく開きかけた感性は潰されて、YKをお買い上げとなる。

でも、ばらつきが多いとかリスクがあるとか、見てきたようなことをいいますが、実際にどれだけの数を触り、経験した上で言ってるの?って思います。
YKでも、管理状態しだいでボロボロで、中古品では裁判に発展するような事案もあるとかで、当然ながらケースバイケースだと思います。
そのあたり、とくに技術者は現場を見てきた経験をもとに言いたい放題、「壊れても保証はないし、長く使われることを考えたら、品質が安定してオススメできるのはやっぱりYKということになりますね。」などと、まるで購入後数年で使えなくなる怪しい粗悪品でも買うように言うのですから驚きます。
こういう大手偏重の価値感が、日本の小さな良心的なピアノメーカーを駆逐してしまったようにも思います。

ピアノを楽器として見ようとする気持ちのかけらもなく、ただの工業製品としてしか捉えないのは、ピアニストなら片っ端から暗譜で弾けることだけを自慢にする御仁と同じようなもので、これほど魅力のない退屈なものはありません。

そもそも、昔の外車やパソコンじゃあるまいし、壊れるって何が壊れるんでしょう?
天下のヤマハだってアップライトのなんとかいうパーツは壊れたり切れたりするのが普通らしいし、グランドでもボンセンと言って巻線の弦が経年でダメになることもよくあることなのに、それらはまったく糾弾の対象になりません。

マロニエ君も過去何十年も、いろいろなピアノと付き合ってきましたが、自分の管理の悪さが原因のコンディションの悪化とか、消耗品の消耗以外で、壊れた、もしくは使うに値しない状態になってしまったということは一度もなく、技術者の言うリスクとはなんなのかいまだに不明です。
自分が使うピアノぐらい、一般論に縛られず、好きなものを側に置くことが最も大切だと思いますし、失敗しないため云々という言葉を聞きますが、それで好きでもないピアノを買ってしまうことのほうが、よほど深刻な失敗だと思うんですけどね。

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2019/07/23 Tue. 03:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

挫折で自慢 

人の心の中には、自分をよく見せたいという欲望が潜んでいる…それ自体は珍しいことではありません。

中にはそういう野心も邪念なく、一切を飾らず清々しく生きておいでの方もあるけれど、多くの俗人は程度の差こそあれ、つい自分を飾ってしまうことはあるもので、それじたいを責められるものではないでしょう。

ただ、その意味するところや性質によって、笑って済ませられることもあれば、聞いていてあまり気持ちのよくないものもあるような気がします。

ピアノの世界にもいろいろあって、大半は書くわけにもいかないことばかりですが、このブログのネタ選びという観点から、ひとつを注意しながら書いてみることに。

世の中には、ピアニストをはじめ、先生からアマチュアまで、それなりに難曲を弾かれる方はたくさんいらっしゃるようですが、巧拙さまざまであるだけのことで、それだけではどうということもありません。
少なくとも譜面が読めて指が動くという点では、初心者より技術として上手いことは事実でしょう。
ところが、そこからとんでもない大風呂敷というか、いくらなんでもそれは止めたほうが…と思うような内容の発言があったりして、マロニエ君も直接/間接ふくめて、ひっくり返りそうな話をいくつも耳にしています。

たとえばそのひとつ、言葉はそれぞれですが、意味としては、
「自分にはむかし、芸大を受験して失敗したという、敗北の過去がある」というもの。

要するに、若いころ、結果はしくじったけれども東京芸大を受験した事があるという、コインの裏表みたいな意味を含んだお話。
すなわち、遠いむかしの自分には、芸大を受験するに値する実力があったんだという自己申告ですが、聞かされるほうは急に変なけむりでも吹きかけられるような心地です。

記憶にある数名の中で、その話が信用できたのは、たったひとりだけ。
やや下位の音大に行かれ、芸大で教えておられた高名な教師の直弟子となり、その後は長年にわたってリサイタルを続けておられるピアニストで、自主制作ながらCDも相当数あり、その演奏や話の前後からもこそに違和感がないことは、まあ納得できるものでした。

それ以外は…なんといったらいいか、ハッキリ言って万引きの現場でも見てしまったような感じ。
人より多少の難曲が弾けたり、いちおうどこかの音大を出て先生をやっているというような人の口から、ふいに、この手の言葉が出ることは非常に驚きで、たまらずその場から逃げ出したいような気分になるもの。

表向きは「受験に失敗した敗者である」という、我が身の不名誉をあえて告白するという立て付けになっているあたりが、まずもって悪質かつ甘いと感じてしまうのはマロニエ君だけでしょうか。

むかしのことで、もう時効でもあろうから話してもいいだろうといわんばかりに、自嘲気味な調子で語られるこの甚だしく野放図な発言。
失敗談という形式を借りて、芸大というブランドを無断使用しているようでもあり、そこに容赦なく流れ出すアンバランスは、オチのないジョークを聞かされたようです。

「落ちた」んだから、卒業名簿を繰られる心配もないし、昔の失敗した受験の証拠など、どこにもないということなのか。
そういうのはお止めになったほうがいいと思うんですけどね…。

2019/07/17 Wed. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

長江鋼琴 

チャイコフスキーコンクールでの衝撃デビューとなった中国製ピアノの「長江」。

その音は実際の空間ではどんな鳴り方をするのかわからないけれど、少なくともネット動画で聴く限りは、ちょっと前のハンブルクスタインウェイ風で、強いていうなら、現在のスタインウェイよりもやや重みのある感じさえあるような…。

全体のプロポーションはもちろん、椀木の微妙な形状、他社に比べてやや上下に薄いボディの側板から支柱がはみ出ているあたりまでそっくりだし、突上棒なんてハンブルクスタインウェイそのものという感じです。

それでもしや…と思ったこと。
それは長江ピアノの登場と、スタインウェイのマイナーチェンジには、因果関係があるのでは?ということ。

あくまでマロニエ君の個人的な想像の範囲を出ませんが、長江が世に出てくることを察知したスタインウェイが、差別化のためにディテールの変更したということも、まったく考えられないことではないような気が…。
折しも、スタインウェイはニューヨーク製とハンブルク製の共通化という、二重の意味合いもあったのかもしれません。

新しいハンブルクのDには、ハンブルクだけの伝統であった大屋根を止めるL字のフックが無くなり、それにより、もともと無いニューヨークとの共通化にもなるでしょうし、長江との差別化という副産物にもなる。
突上棒もニューヨーク風の二段式に形状を変えたので、長江が三段式のハンブルクデザインをいただく。

長江のほうは、前足がやけに前方寄りになっていると書きましたが、これはスタインウェイのコピーじゃないんだというアリバイ作りのための、意図的な位置ずらしではないかと思うのですが、これもあくまで想像。

コンクールのステージなので、譜面立てのデザインがわからずネットで探したら、あー、やっぱりハンブルクスタインウェイのスタイルで、これもスタインウェイのほうが形を変えてしまっています。

この真相は那辺にあるのか、似すぎることを嫌がってスタインウェイのほうが形を変えて逃げているのか、あるいは両社である種の合意が裏で成立しているものなのか、疑いだしたらキリがありません。

そもそも、中国のピアノといえばパールリバーとかハイルンなどしか有名どころは知らなかったところへ、いきなり長江というブランドが世界のステージに躍り出てきて、きっと業界でも驚きが広がっていることでしょう。

調べると、どうやら2009年の創業のようで、わずか10年で国際コンクールの公式ピアノに認められたあたりも、いかにも中国らしい巨費投入と技術模倣によるタマモノなのか、常識ではあり得ないスピードですね。

長江ピアノのサイトを見ると、意外なことに人民元での価格が出ており、円換算すると、188cmモデルが約500万円、212cmモデルが約580万円、275cmモデルが約1550万円となり、なんか微妙なプライスですね。
前2つの価格からすれば、275cmも900万円台ぐらいでは?という気もしますが、コンサートピアノが安すぎると面子に関わるからあえて高く設定されているのか、そのぶん品質も違うのか…どうなんでしょう。

因みにこの3モデルは、それぞれスタインウェイのA型、B型、D型にほぼ該当するサイズで、やはり直球で中国版スタインウェイのようです。
ま、F-35の模造品といわれるステルス戦闘機まで堂々と作って飛ばして配備してしまうお国ですから、それに比べれば、たかだかピアノなんぞ驚くにはあたらないのかもしれませんが…やっぱり驚きました。

いずれにしろ、ピアノの世界も相当へんな事になってきているようです。

2019/07/11 Thu. 02:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

思わぬ衝撃 

第16回チャイコフスキー・コンクールが終わったようですね。

いまや、ネットを通じて実況映像を楽しむこともできるようですが、もはや世界が驚くような特別な逸材が出るとも思えず、出たなら出たで、あとからで結構という感じで、最近になってようやくその演奏動画の幾つかに接しました。

想像通りみんなよく弾けて、多少の好き嫌いはあるとしても、その中で優勝者が頭一つ抜きん出ていたらしいというのも納得できました。
ただ、このコンクールでフランス人の優勝というのは記憶にあるかぎりはじめてのような気もしたし、ファイナルでチャイコフスキーの協奏曲は王道の第1番ではなく、第2番を弾いたのもフランス人らしいような気がしました。

なんとはなしに感じることは、コンクールのスタイルは昔から変わらないのかもしれないけれど、そこに漂う空気はますます競技の世界大会という感じで、表現もアーティキュレーションも指定された範囲をはみ出すことなく、求められるエレメントに沿って、いかにそれを完璧にクリアできるかというのがポイントのようで、まったくワクワク感がありません。

この場からとてつもない天才とか、聴いたこともなかったような個性の持ち主があらわれることはあり得ず、上位数人ほどの順位が今回はどう入れ替わるかを見届けるためのイベントなのでしょう。
少なくとも稀有な芸術家がセンセーショナルに発掘される場ではないことは確かでしょう。

現代では、才能と教師と環境にめぐまれ、どれほどピアノがスペシャル級に上手くなっても、その先に待っているのはコンクールという「試合」であって、そこで戦い勝つことがキャリアの確立であり、いずれにしろ音楽の純粋な追求なんかではないのが現実。
コンクール出場は就活だから、メジャーコンクールで栄冠を取るまで、若い盛りの時期を年中コンクールを渡り歩いて心身をすり減らさなくてはならないわけで、それを考えるとお気の毒なような気がします。


ネットでつまみ食い的に見ただけですが、ピアノへの印象は、ますます各社のピアノは似てきたということ。
とくに落胆したのはスタインウェイで、昨年あたりから始まったモデルチェンジにより、見た目もずいぶん簡素化された姿になり、実際その音も、奥行きのない表面的インパクトばかりを狙った印象。

ヒョロッとした突き上げ棒の形状、あいまいな形状の足など、伝統的なメリハリの効いた重厚なディテールはなくなり、どこかアジア製の汎用品でもくっつけたようで、かなり軽い姿になってしまい、スタインウェイをそうしてしまった時代を恨むしかないのかもしれません。

今回なんといっても「うわっ!」と声が出るほど驚いたのは、なんと、中国製のピアノが公式採用されていることでした。
中国人のピアニストが弾いているピアノのボディ内側の化粧板が明るい色合いのバーズアイというのか、ウニュウニュしたものだったので、はじめはカワイかな?ぐらいに思ったのですが、カメラが寄っていくとカワイではなく、ファツィオリでもなく、むろんスタインウェイでもヤマハでもなく、なにこれ???と思っていると、手元が映しだされた瞬間我が目を疑いました。

そこに映し出されたのは、鍵盤蓋とサイドのロゴに毛筆で書いたような「長江」の文字でした!
ピアノに漢字とは、中国人ならやりそうなことではあるけれど、現実にそれを目にすると(しかもチャイコフスキー・コンクールのステージ上で)、あまりにすごすぎて頭がくらくらしそうでした。
しかもそのロゴデザインには英文字のYangtze Riverと毛筆の長江の文字が組み合わされて「Yangtze 長江 River」となっていて、左右バランスもばらばら。
中国人のセンス、すごすぎます!

意外なことに、音は、ロゴほど異様ではなく、まあそれなりの違和感はない程度のもっともらしいピアノの音ではありましたが、全体のフォルムはスタインウェイDのコピー(フレームはなんとなくSK-EX風?)という感じで、今の中国はすべてこのノリで世界を呑み込もうとしていることを、いやが上にも思い知らされました。

弾いているのは、中国人ピアニストだけのようにも見えましたが、さぞかしそうせざるを得ない事情があったのでしょう。
こんなピアノを見ると、なんかいろいろなことが頭をよぎってもういけません。

2019/07/05 Fri. 02:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イースタイン 

最近、とあるきっかけで一人の熱心なピアノファンの方と接点ができました。
驚いたことに同じ福岡都市圏内にお住まい、小学校のお子さんがいらっしゃる女性ですが、この方は弾くことはもとより楽器としてのピアノに深い関心をお持ちで、さらに知識もきわめて豊富で驚いているところです。

4月に東京に行ったとき、何人もの女性技術者とお会いして、その並々ならぬ実力に舌を巻いたものでしたが、マニアの分野にもこういう方がいらっしゃるのを知り、驚きはさらに倍増しています。
性別でものを言ってはいけない時代ですが、うかうかしていたら男性は本当に置いてけぼりを食らうことになりそうです。

ごく最近もメールのやり取りの中で、イースタインが話題となり、以下のようなメールがサラッと届きました。
これはもうマロニエ君ひとりで読むのはもったいないと判断し、ご了解を得て一部ご紹介します。

***
イースタインのGP(250型 200型 O型)を設計された杵淵直知さんの本にも、日本のピアノは日本的発声〜フォルテで喉を詰め、良く言えば日本的なさびみたいなものがある、童謡等の幼児の時代から喉を詰めた固い声を張り上げて歌う音に耳が慣らされてしまう、室内に於いても畳は美しい響きを吸い取り、がらんどうに近い天井も障子も音に旨味を与えるどころか外に逃げてしまう、機械的には世界の一流品に匹敵しながら音だけはどうしてこうなのか、日本民族の生活環境がそうさせるのではないか…等記されてました。

この杵淵さんは幡岩さんに師事しグロトリアンやスタインウェイ工場で技術を学ばれた後に帰国され日本で活躍されたそうですが、54歳の若さで脳溢血で急逝されています。
以前、あるピアノ店の調律師さんに聞いたのですが、調律は息を止めて音を合わせるから酸欠になって血管系の病気になりやすい、周りにもそれで急死した人が数人いるとのことでした。
だから昔は無理して一日4件調律にまわっていたそうですが、今は2件しかしないようにしているそうです。
ピアノが好きであれば、一日ピアノを扱えて羨ましいなぁー等と呑気に考えておりましたが、実はとても大変な仕事なのだと思いました。
長い時間メンテナンスされる技術者の方もいらっしゃると仰ってましたので…素人ながらも少し心配な気もいたします。

杵淵さんの本の中で響板についての記載もありました。
日本は現在(1970年代)エゾ松を使ったピアノは殆ど見当たらない、エゾ松は音に伸びがあり粘りもある。一般的日本人は日本製のものよりもアラスカのスプルースを輸入している、とした方が高級感があって喜ぶ…とのことでした。

響板の乾燥工程も他メーカーの乾燥室を見学したら、最も大切な時間という材料を使わなかったから経年による組織変化等の思いも及ばなかったのであろう、呆気に取られた、干大根と生大根で同じ干したものでも味は全く違うというわかりやすい例えもありました。

やはり音というのはそれまでの過程により良くも悪くも明瞭に反応してくれるのですね。とても興味深いです。
手工芸品が採算度外視になるのも仕方ないかと思いますが、贅沢ですが楽器は手工芸品であってほしいとも思ってしまいます。

イースタインは特に九州は殆ど存在してなさそうですね。
東洋のスタインウェイを目指して作られたとも記されておりました。
日本の高度な技術を戦争の為ではなく平和の為に作られたと聞いて素晴らしいと思いました。
U型はリットミューラーという名のピアノを参考に初のアップライトとして開発したモデル…とありました。工場の宇都宮の地名からUを取ったようです。

B型はブリュートナーのBの頭文字から来ているもので、(チューニングピンの埋め込んである鉄骨部分がくり抜かれ、真鍮製の板を埋め込んでいるのを模倣している)大橋デザインのディアパソンGPに弾いた感じが似ているとのことでした。
アップライトではB型が一番いいみたいですね。
因みにT型というのはB型をベーゼン仕様に設計変更したもの(設計した人の頭文字)だそうです。

2019/06/30 Sun. 02:07 | trackback: 0 | comment: -- | edit

たかが電話 

昔にくらべて大きく様変わりしたことは実にいろいろあるけれど、たとえば電話のかけ方もそのひとつでは。

各自が携帯電話を持つようになったことで、いつでも誰とでも自由自在に話ができるようになるとばかり思っていたら、結果からいうと、却って暗黙の制限みたいなものが生まれ、電話は昔よりよほどハードルが高いものになった印象があります。

電話するには、相応の理由、はっきりした要件、緊急を要する場合等でないかぎり、昔みたいに気軽にひょいひょい電話をするということは「してはならない」「しないことがマナー」みたいな空気が蔓延しています。

そもそも昔の通信手段は電話か郵便ぐらいだったから、電話の役割そのものが広かったといえるのかもしれませんが、現代はメールだなんだと選択肢が増えたぶん、電話で直接話をするのは身内もしくはよほど親しい人だけのように格上げされ、いきなり電話をするのは一種の不心得者であるかのような雰囲気に。

電話をするには、前もってメールやLINEなどの文字情報の往来段階があり、相手側からも応諾の確認が取れ、その結果として電話をすることへ扉が開き、晴れて相手の声を聞くことができるという段階を踏む必要もあり、さらには時間帯を気にし、仕事中、移動中、食事中等々何かの最中であってはならないという気を回しに回すうち、やがてだんだん面倒臭くなる。

それもあって、文字で済むことは、自分のペースで書いて送っておけば事足りるわけだからそれで済んでしまうし、だから人と人はますます会話をしなくなるのでしょう。

こうして個人の時間とプライバシーは守られる代わりに、みんなが付き合い下手となり、却って疎遠を招き、もしかするとひきこもりなどの増加もこういう社会風潮も一因では?と思ったり。

暗黙のルールというのは、誰がどうしろといったものではなく、気づかぬうちに常識と思っていたものが変質していくものらしく、それにはただ従うしかありません。

暗黙のルールといえば、着信記録に気がついてこちらからコールバックすると、相手が出ないためやむを得ず電話を切ると、すぐその相手からかかってくるというパターンがあって、それが一人に限らずわりによくあるので、ふと気がついたこと…。
それは、元は自分がかけた電話だから、コールバックしてくれた相手に電話代を負担させては申し訳ないということもあるらしく、その着信にはあえて出ず、しかも「いま」なら相手も電話で話せる状態だろうから、すぐにかけ直すということのようです。

たしかに、こまやかな気遣いだとは思うし、ちょっとしたマナーなのかもしれませんが、なにもそこまで気を遣わなくてはいけないものか?というのも正直なところです。
たかだか電話ぐらい、もっと気ままにかけたらいいじゃないかとも思うのですが、いまの世の中なかなかそうはいかないようです。

また今流行りなのか、通話開始から5分か10分か忘れましたが、それ以内なら無料、それを過ぎると有料みたいな電話があるようで、会話中しだいに落ち着きのない調子になり、いやにせわしげに切ったり、ついには「ちょ、ちょっとかけ直していいですか?」となって、あれもマロニエ君は好きではないですね。

それだとわかれば、こちらは話し放題のプランなのでいくらでもかけ直しますが、わからないと微妙に調子がヘンだったりして、ご当人も安さの代償として気が気でないだろうし、なんだかややこしい世の中になったものです。

もちろん安いことはそれ自体が意味があるし、自分もそういう恩恵には浴して生きている訳だから、そこだけエラそうにいう資格はないけれども、いずれにしろ潤いがないなぁと思います。
そもそも潤いというものは、ちょっと無駄なものとか、ないならないでもいいようなところから滲み出てくるものだと思うし、そこが実はとても大切だと思うのですが、今どきのように極限的な合理性の追求が是とされる時代は、そんなことはなかなか通用しないようです。

それでも尚くじけず、自分の自然な感性を踏みつけるようにして頑張らなくちゃいけない現代人は辛いですね。

2019/06/24 Mon. 02:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ネタ探し 

…ときどき思うこと。
自分で言うのもなんですが、そもそもブログって何のために書いているのだろうと。

言葉の上で尤もらしい理屈はいくらでも付けられますが、マロニエ君の場合、ひとことで言うなら自分の心にあることを、たとえ一人でも読んでくださる方があるなら伝えたいという、くだらぬ自己満足というのが一番近いような、もっと言うなら、なにげない日常でいろいろと見聞きしたり、考えたり、おもしろかったり、感動したり、落胆したり…まあそんなようなことを自分だけで抱えておくのが性格的にしんどく、人に話すツールとして使っているのかもしれません。

世の中にはいろんな人がいて、人に喋ったり伝えたりすることにさしたる価値を感じず、自分の中で処理・廃棄してしまうことが自然にできる人もいらっしゃるようですが、マロニエ君にはそれは無理というもので、人に喋ったり話をしないことがストレスになってしまいます。
そういう意味では、自分を開放しているだけかもしれませんが、正確なところは自分でもよくわかりません。

世の中の空気は年々制約の多いものになり、昔に比べると、人と自由闊達にワイワイしゃべるとか、本音で意見交換するなどという機会は激減し、その内容もその場限りの表面的なものになっていく気がします。
なにより、ネットやスマホの普及により、人と人とのナマの付き合いみたいなものは、まさに絶滅の嬉々に瀕しているよう感じられます。
はじめから、そういう時代に育ってきた若い人は現在のスタイルを抵抗なく受け容れられるのかもしれませんが、昭和生まれの生々しい時代を生きてきた者にとって、途中からルールが変わり、四方を規制の壁で囲まれるよう変更を強いられるのは、非常に窮屈で息苦しさを覚えるのも正直なところ。

ブログはそんな息苦しさの中にあって、せめてもの換気のためのささやかな小窓のようにも思います。

ただ、いくら「ささやかな小窓」などと言っても、ネットに掲載するということは、不特定多数の人がアクセスできる場であるのだから、誰でも見ることができるという点においては、やはり大それたことでもあり、ときどき怖くなることがあるのも事実です。

そうはいっても、こんなくだらないものを心配するほど見ていただけるはずもないわけだから、やはりごくささやかな小窓であることは実態として間違いないわけですが、それでもネットはネットなのだから、やはり一定の注意を払う必要はあるわけです。

ブログで一番大切で、しかも困るのは、ネタ選びです。
私信ではなく、ネット上に書き込みをするということは、いくら読む人はほとんどいないだろうとはいっても、それがゼロではない以上、なんでも思いつくまま書くわけにもいきません。

ここがネタ探しの難しいところで、本当に書きたいこと、拙いながらも文章にして人に伝えたいというようなことは、実際にはどれもこれも書けないことばかり。

そうかといって、当り障りのないつまらぬ日常のことなど書いても、それこそ意味が無いし、その隙間を漂う、微妙なネタ探しというのは、けっこう難しいのです。

とりわけピアノのネタは、業界ネタが多くて言えないことのオンパレード。
なので、ネタには事欠かなくても、書けることはほんのわずかという話を、ついネタにしてしまいました。

2019/06/19 Wed. 02:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ストリートピアノ 

ちかごろ、ストリートピアノというのか大変な盛り上がりをみせているようですね。

そもそもの発祥はどこなのか…海外なのか、そのあたりは知りませんが、とりわけこの1〜2年ぐらいは日本国内でも、雨後のたけのこのように数が増えているようで、そうなると次から次でいまさらながら日本って流行りものに弱いんだなぁと思います。

マロニエ君は数年前NHKのドキュメント72時間とかいう番組で、宮崎市の商業施設の一角に置かれたピアノが取り上げられたことでその存在を知ったと記憶していますが、本物にお目にかかったことはまだ一度もありません。
海外でも、駅や空港などに置かれたピアノを、通りがかりの人がおもいおもいに弾いて楽しむ様子が、よくテレビで流れているので、どうやらこれは世界的なブームでもあるのでしょう。

これに使われるピアノの多くが、弾かれなくなり処分に困り、粗大ゴミに限りなく近づいた、先のないピアノの再利用といった一面があるあたりは、廃物利用で多くの人が楽しめるという点では画期的なことかもしれません。
マロニエ君的には突っ込みどころもないではないけれど、こういう遊び心の領域にあまり目くじらを立てることは無粋というものだから、これはこれで素直に楽しい気分で眺めていればいいものだと思っています。

楽器の設置環境としては、かなり厳しい場所にピアノを置くということや、あまりに派手なペイントやラッピングが施されるというのは、単純に「わー!」とは思うけれども、かといって、黒や木目のピアノをそのままポツンと置いても、場所柄地味で雰囲気も暗いだけというのもわからないではないし、ポップに仕上げるのも致し方のないことかもしれません。

それでもピアノはピアノであって、Tシャツではないのだから、あまりにド派手なペイントなどを見ると、さすがにちょっと…と思うこともありますが、一方で今どきのなんでも禁止、なんでもダメ、とりわけ音の出るものにとっては甚だ肩身の狭い世の中で「どうぞ自由に弾いてください!」というのは、ずいぶん気前のいいものにも感じます。

だれがどう弾いてもいいのがストリートピアノのルールでしょうけど、個人的にはそこにも暗黙のルールがあるような気がします。
まずはやはり楽器に著しくストレスを掛けるような弾き方をしないなど、まあ常識レベルのことでもありますが、もう一つは、そこそこ弾ける人が、ここぞとばかりに腕自慢のための演奏をするのは適しない気がします。

もちろんストリートピアノというものが、誰でも自由に弾いていいという建付けである以上、巧拙不問なのがいうまでもないけれど、中には周囲の視線を意識し過ぎるほど意識しながら、難曲大曲をバリバリ弾く光景をYouTubeなどで見たことあり、あれってどうなの?って思いましたね。
妙に浮いていて、周りもよほど拍手喝采かとおもいきや、意外にそうでもなく、熱演し終わった奏者が「あれ?」みたいなこともあって失笑したり。

そういう人がこういう場所を使って過度な自慢を繰り広げると、その狙いが周りにも伝わってしまうようで、結果的に期待するほどの効果が上がらないんでしょう。

本人がカッコイイと思ってやっていることが、実はカッコ悪くて、むしろ周囲の意識が逆流しているときって、いたたまれなさとザマミロという気分がミックスになります。
上手くても下手でも、なにかしらのピュアなものが伴わないとストリートピアノの意味が無いような気がします。
いっそプロフェッショナルのピアニストが弾いてくれたらいいかもしれないけれど、「難曲が弾けるシロウト」というのが一番やっかいです。


今年の春頃だったか、小池さんの肝いりなのか、東京都庁の展望室には一般から寄贈されたグランドに草間彌生さんの水玉模様を貼り付けた「おもいでピアノ」なるものが登場したこともあってか、テレビニュースなどでストリートピアノの事が特集されていました。

引っ越しを機に、ピアノを手放すことを余儀なくされた女性にスポットを当て、半生をともに過ごしたというピアノをストリートピアノに提供するというもの。
「我が子を里親に出す心境」なんだそうで、なるほどと思いました。

番組によれば40年前には31万台売れていたピアノは、現在ではわずか1万3千台ほどになったというのですから、その落差は凄まじいものがあるんですね。
時代や価値感の変化はもとより、近隣への騒音問題は如何ともしがたいものがあり、音の出るものというのは喫煙並みに肩身の狭いものなのかもしれません。

2019/06/13 Thu. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ガブリリュク 

日曜夜のEテレ・クラシック音楽館で放映された今年のN響定期から。
アレクサンダー・ガブリリュクのピアノ、パーヴォ・ヤルヴィの指揮によるラフマニノフのピアノ協奏曲第2番を視聴しました。

ガブリリュクは昔、浜松コンクールで優勝した人だったけれど、マロニエ君はあまり興味をそそられなかった人で、コンクール終了からほどない時期だったと思いますが、ベートーヴェンの月光が入ったCDがリリースされ、それを買って聴いたことがあるぐらいでした。
それがあまり好みではなかったこともあり、それっきりで、たぶん彼の演奏を聴くのはそれ以来か、クラシック倶楽部などで聴いたのかもしれないけれど、ほとんど記憶らしいものがなく、事実上初めて聴くのに近い感じでした。

さて、これが思ったよりもよかった。
いい意味で「今どき」の演奏ではなかったため、つい「早送り」も「停止ボタン」も押すことがないまま最後まで聴き入ってしまいました。
考えてみたら、ラフマニノフの2番をじっくり通して聴いたのもずいぶん久々だったような気がしますが、曲も演奏もずいぶん懐かしいものに触れたような良さがあり、昔ならごく普通だったものが、今どきは新鮮なものに感じるようになったことをはっきり認識させられました。

力強いタッチ、大きくて厚みのある手、余裕のある技巧、見せつけのためのヘンな誇張やわざとらしさのない、ストレートな喜怒哀楽を含んだ話を聞くようで、必要な場所に必要なパンチもあれば、リリックなところはそのようになるメリハリもあって、それだけでも心地よく感じるものです。

今どきの若いピアニストでうんざりしていることを繰り返すと、線が細く、楽器が鳴らず、なにも感じていないのに感じている素振りをところどころに入れたり、あるいは完成された解釈やアーティキュレーションをコピペのように用いる。
さらに自己顕示のための見せ所はいくつか設けて、意味もなく音楽の流れを停滞さるなど、そういう首尾一貫しないものの寄せ集めだから当然演奏としての辻褄は合っていないけれど、指はほとんどミスもなく動くため、曲は終わりまで進み無事終了ということにはなる。

その点ガブリリュクは、とくにどこがどうというような特筆すべきことはないけれど、情熱と活気を伴いつつ、真っ当なテンポにのってぐんぐん前に進んでいくだけでも快適でした。

とくにライブでのコンチェルトの場合、ソロとオケがピッタリ合うことは建前としては必要だけれども、それだけで良いのかといえばマロニエ君はどこかそうは思えませんし、あまり小ぎれいにまとまり過ぎると室内楽のようになってしまうこともしばしば。
やはりソロ対オーケストラという形態を考えると、節度は必要だけれども、即興性やわずかなズレやはみ出しであるとか、ほんの心もちソロが全体を引っ張っていくような、生命感を感じる演奏をマロニエ君は好みます。
興がノッて、ときに飛ばしすぎの危険を感じるほど、推進力をもって進むときの気持ちよさは、協奏曲を聴くときのちょっとした醍醐味のようにも思うのです。

ガブリリュクの演奏は、今どきのシラけた演奏のもやもやを吹き飛ばしてくれるような、筋の通った演奏でした。
突っ込みどころもないわけではなく、彼の演奏のすべてを肯定するには至らなかったものの、一回の演奏としては、単純に満腹感を得られる演奏でしたし、ステージの演奏の魅力というものは、まずはこういうところからではないかと思います。

2019/06/07 Fri. 02:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

大事なこと 

このネット社会ではピアノ販売も例外ではないようで、すべてではないかもしれませんが、多くのピアノ店はネットをなんかのかたちで活用されているのは今更いうまでもないことでしょう。

過日行かせてもらったヴィンテージピアノ専門の某工房では、仕上がったピアノはすべて、ご店主と昵懇の間柄という男性のピアノの先生が工房内でじっくり試奏され、それを動画撮影してホームページにアップするというスタイルを取られています。

この方は、この工房との関係からか、夥しい数のヴィンテージピアノを経験されている由で、いわゆる普通の「ピアノの先生」といったイメージではなく、ヴィンテージピアノの専門家のような風情が漂っています。

しっかりしたタッチで、音は温もりがあって明朗、それぞれのピアノに対して変に弾き手の個性を入れず、ストレートにきちんと弾かれるそのスタンスは安心感さえ覚えます。

先日のこと、工房のご厚意で仕上がったピアノの動画DVDが送られてきました。
なんでも、いつもは演奏の様子だけを撮影されるのを、工房スタッフの方のアイデアでカメラを回しっぱなしにしてみたというので、演奏の合間に交わされる雑談の様子やその内容まで視聴することができました。

感心したのは、やはりというべきか、それぞれのピアノの特徴や美点をすぐに感じ取って、それを大事にするような演奏が自然にできてしまっている点。
ピアノ店の動画だから、あえてそういうことを心がけているというようなわざとらしさはまったくなく、長年の経験から本能的に楽器の個性を感じ取り、すんなりとそれを踏まえた演奏になるという感じでした。

これは楽器を奏する者としては、ある意味では当たり前のことであり、楽器のコンディションや個性に反応しながら弾いていくというのはきわめて重要かつ自然なことのはずですが、実はピアノの世界でこの当たり前はなかなかない事で、この面ではおそろしく鈍感な弾き手が多いのも現実でしょう。

どんなピアノかなどお構いなしにやたらと弾くだけの人って、ほかの楽器に比べて、ピアノはとても多いと思います。
演奏するにあたり、楽器のことを考えない人は、同じように作品のこともあまり考えていなくて、ただ自分が取り組んでいる課題(曲)を技術として弾き通すことばかりに全エネルギーを注いでいる。

楽器は自分にとって弾きやすいか、そうでないか…要するに道具でしかなく、楽器を慈しみ対話して、そのピアノが喜ぶような演奏をしようとする人って、本当に稀だと思います。

対人関係においても、相手の反応や場の空気を読みつつ柔軟に対応できる人と、そんなことはお構いなしに一方的にしゃべりったり自慢したりする人がいますが、ピアノの場合、残念ながら後者のほうがはるかに多い気がします。


話が逸れましたが、この先生がおっしゃるには、ヴィンテージピアノはバンバン弾くのじゃなく、繊細に弾くことが大切、それぞれのピアノの光るところを探すこと、振動を感じること、きれいにではなく気持よくピアノが響くところを探って弾くことが大事だと、さりげない雑談の中で語っておられ、いちいち御尤も。
しかしそれは、ヴィンテージピアノに限ったことではなく、新しいピアノを弾くときにも、そっくりそのまま当てはまることだと思うのです。
ただそれがヴィンテージピアノにおいては、より顕著に楽器が求めてくるというだけで、楽器に相対する心得としては同じことだと思いました。

佳き時代のヴィンテージピアノは、弾き方しだいで本当に美しい、心にしみるような音で歌ってくれる反面、ぞんざいで無理強いをすると、たちまちそれが音として出てしまうなど、適当にお茶を濁してはくれません。
現代の量産ピアノはその点で、汚く弾けば汚く鳴るという面が薄いから、良くも悪くも表現のレンジが狭く、演奏を芸術として磨き高めるには楽器が厳しい教師とはなり得ないかもしれません。
常にセンシティブな感覚を身につけるというだけでも、ヴィンテージピアノっていい勉強になると思います。

また、大いに共感したのは、その先生によれば大曲を弾くより、シンプルな曲を弾くほうがピアノの良さもわかりやすいというようなことを言われていましたが、そもそもシンプルな曲を美しく弾くことのできない人が、どんなに大曲難曲を弾けたところで、当人の自己満足以外ほとんど意味を見出せません。

むかしある集まりにいたとき、ひとりだけ自分の技量を心得て、ギロックの小品を徹底的に練習して、さても見事に鑑賞に堪える演奏として弾く人がいましたが、こういう人こそ素晴らしいと思うし今でも記憶に残っています。

要するに、大事なことはどこにあるかという問題であり、価値感は人格をあらわすものだと思います。


2019/06/01 Sat. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ホール拝見 

福岡市から南へ40数キロほど南下すると久留米市があります。
人口30万ほどの街ですが、古くから医学の街でもあり、ブリジストンタイヤの創業の地でもあるし、一方で青木繁や坂本繁二郎のような多くの画家を排出した地でもあります。

市内にはブリジストンの石橋正二郎氏が寄贈した石橋文化センターがあり、東京のブリジストン美術館と連携した日本有数の美術コレクションを展示する石橋美術館ほか、石橋文化ホールなどがあり、ブリジストンの躍進と地元への貢献を肌で感じることができる場所です。

その久留米市に、2016年だったか久留米シティプラザという複合施設が街の中心部に作られました。
古くからあった百貨店の跡地と、それに隣接する六ツ門広場という広いイベントスペースを潰して作られた大掛かりな文化施設のようです。

写真で見る限り、ずいぶん立派なホールで、一度行ってみたいと思っていたのですが、なかなか情報も伝わらず、ネットで調べてもこれというコンサートなどはあまりないようで、行く機会が見つからない状態だったですが、知人が久留米市市民オーケストラというアマチュアオケの後援のようなことをやっているとかで、そのオケの定期演奏会があると聞き、ホールを見るには良いチャンスだと思って行ってみることに。

久留米市のまさにど真ん中、街並みの中でも目立つ建物は二棟に分かれ、しっかりとした地下駐車場があり、外から見ても建物内に入っても、これはずいぶんがんばったなぁ…と思ってしまうほど立派なもので、まるでバブル時代にタイムスリップしたような感覚に陥りました。
全体の規模、エントランスやロビーなどの広々した作り、さらにメインのホールはおよそ1500人収容の、細部まで凝った意匠が散りばめられた贅沢な仕上げで、見ているだけで圧倒されるものがありました。

サイドの客席はセンター/左右と三方向に別れ、それが互い違いに5階まで続き、ホール全体は赤い色調の木目で張り巡らされており、それが床から舞台の反響板、各階の背後の壁にいたるまで徹底されています。
規模的にいうと、通常の大ホールはだいたい1800〜2000人規模のものが多く、その半分もしくは1/3ぐらいのものが中ホールとされるものが多いですが、1500人というのはその間というか、ちょっと一回り小さな大ホールといったところで、個人的には2000人規模のホールは大きすぎて好きではないので、より好ましいサイズだと思います。

福岡市にもこれぐらいの規模の施設があればいいなぁと思えるもので、音響も節度があり、濁らないクリア感があって、やはり音響設計は日々進化しているのだろうと思いました。
その点、福岡市内にあるメインのコンサートホールは最悪の音響にもかかわらず、改善の気配もなく、会場がここである限りマロニエ君は足を運びたくない筆頭のホールで、自分の地元のホールがこんな有様とは、なんたる不幸かと思うばかり。


この日のコンサートでは、冒頭の「魔弾の射手」序曲に続いて、2曲目がベートーヴェンの「皇帝」で、ピアニストはゲストとして招かれたとおぼしき若手の日本人ピアニストでした。
線の細い、今どき世代のヘルシー弁当のような演奏で、曲は確かに皇帝だけど、ドラマのないさらさら通過していくBGMのようでした。
「皇帝」ぐらいの超有名曲になれば、嫌でも一定のイメージが張り付いており、例えば全盛期のポリーニが汗みずくになり、唸り声を上げ、凱旋するヒーローのごとく弾いた皇帝にくらべたら、そのエネルギーは数分の一に減っていることでしょう。

昔のV8エンジンのベンツSクラスとプリウスぐらいの燃料消費の差がある感じですが、ガソリンなら使うのは少ないほうがいいけれど、聴衆に聴かせるステージ上の音楽まで、こうまで切り詰めてしまう必要があるのか、もはやマロニエ君なんぞにはわかりません。

ただし、思いの外よかったのは第二楽章で、これはかなり美しく弾かれたし、アンコールとしてメンデルスゾーンの無言歌集から「ヴェニスの舟歌」も同様で、柔らかい枝がしだれるようで、この2つが聴けただけでも収穫だと思いました。

オーケストラは、なにぶんにもアマチュアですから、普通の感想を持ってはいけないのでしょう。
みなさんとても熱心に練習されていると思うし、おりおりにあのような立派な会場で定期演奏会があるとなれば、やりがいも感じておられることとも思います。

施設その他を見物してまわっていたので、ホール内に入ったのは開演直前でしたが、なんと1階はほとんど満席で、案内の人から「最前列の右側しかありません」といわれ、あわてて2階に。
それもダメでついに3階まで上がって辛うじて空きを見つけたほどの盛況ぶりでした。

その移動時に感じたのは、センターと左右が段違いになっているためか、それぞれに繋がる通路が、からくり屋敷の迷路のように複雑でわかりにくく、いったん出てもどっちがどうなっているのかまったくわからなくなり、開演時間が迫っていることもあってほとんどパニック寸前でした。
案内の人に聞いても、瞬時に答えられず、これはちょっと凝り過ぎかもしれません。

2019/05/26 Sun. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

時代の流儀 

iPadでのメールやLINEなど、いわゆるタッチ画面で文章を書くのが苦手なので、少しまとまった量になると一旦パソコンで書いて、それを自分に送信しコピペして送るのですが、ひょんなことから知人が別売りの便利なキーボードがあることを教えてくれました。

そんなこと常識なのかもしれませんが、マロニエ君はそっちのほうはからきし苦手なので、あれば便利かも…と思い、いわれるままにそのメーカーと機種をアマゾンに注文したところ驚くべきことが。

お昼少し前に注文したものが、なんと5時間後にはそれが届いて、その早業にビビリました。
発送元を見るとアマゾンの千葉県市川市となっていますが、九州にも大きなセンターのようなものがあるらしく、売れ筋のアイテムは揃っているのかもしれません。

それにしても、大変な時代になったものだとあらためて思ったし、これでは店頭販売が年々廃れていくのも仕方ないかと思います。
我が身をふりかえっても、たしかに店舗に足を運んで商品を見て、触って、比べて、その範囲の中から買うという行動が激減してることに気づきます。
現物確認さえあきらめれば、多種多様な中から商品を選ぶことができるし、その選択肢の多さは、とうてい実店舗がかなわないもので、しかも同時に価格の比較もできるとなれば、そちらが主流にならざるを得ません。
さらに、実際に出向く必要がないから、そのための時間も交通費も駐車料金もかからずで、とくに実用品はネット購入ということに(くやしいけれど)なります。

自分も利用しておいて言えた立場ではないけれど、こうして必要最小限の合理的なエネルギーで動いていくから、世の中は一向に活力が出ないような気がするし、ムダがなく安いことが全てに勝る正義のようになっていくことに殺伐とした怖さを感じながら、かくいう自分を含めて後戻りはできないレールの上を進んでいるようで、それがさらに恐ろしさを感じます。

そのうち本当にドローンがお届けに飛んでくる日もくるのかも…。


買い物といえば、先日H&Mでちょっとした安いシャツを買おうとしたら、さんざんレジに並ばされたあげく「袋代が20円かかりますが、よろしいでしょうか?」とにべもなく言われました。
咄嗟のことで、もしそれを拒否してシャツを裸で持ち去るのはさすがにどうかと思ったし、後ろにはレジを待つお客さんが何人も並んでいたので、ここは早く済ませることが大事なような気がして、考える時間もないまま承諾しました。

すると、小さな白いビニール地に赤でH&Mのロゴが入った袋がカウンター上におかれたものの、畳んだシャツ一枚がどうにか入るぐらいの小さなサイズで、こんなちっちゃな袋が20円もするの?と非常にびっくりしたし、なんともいえない不快感を抱きながら支払いを済ませ、店を後にしました。
スーパーのレジ袋だって、まだ大きいのが3円ぐらいで、こんなに小さいペラペラのビニール袋が20円とは、どうにも納得がいきません。

これはひとえに気分の問題で、商品代があと20円高くてもまったく構わないけれど、こういうことはできたらしないでほしいと個人的には思いますが、これも時代と割り切らなくてはいけないのかと思うと、無性に楽しくない気分。
とりわけ、外資系の会社というのは、客の心情などといったものを考慮しないのか、ずいぶんとドライで大胆なことをやるようで、そのあたりはどうにもマロニエ君は馴染めません。

会社側にしてみれば、いくらでも主張や理屈はあるのでしょうが、来店して商品を買ったお客さんに、それを持ち帰るための袋が必要ならを20円よこせというのは、マロニエ君が経営者ならぜったいしないと思う部分。

スーパーの有料レジ袋はさすがにもう当たり前になったので、マイバッグ持参で行くけれど、さすがに服を買うときまでそんな準備をしたくはないし、なんとなく通りがかりに立ち寄って買うということもあるわけで(今回が正にそう)、そのために常時袋のようなものを忍ばせておくなんてまっぴらごめんで、かといってあんな小さな、ゴミ用としても使い道もないような小さなビニール袋に20円出させられるのは、やっぱり納得はしかねます。

ゴミといえば、回収のための有料袋が福岡市の場合、最小サイズが15Lで15円なのですが、それよりも高いなんて、いったいどういうことかと思いました。

最近は、いろいろと理由はあるにせよ、どうにもしっくりしないようなルールがあまりに多いのは、それだけでも人生のいくらかをスポイルされているような気がします。
ひとつひとつは「たかだか!」というレベルのことですが、その「たかだか!」もずんずん積み重ねられたら、意外に大きなものになりますからね。


2019/05/20 Mon. 02:46 | trackback: 0 | comment: -- | edit

非文化 

日本人のある指揮者の方が、本の対談の中で、
「日本では西洋の芸術が文化になっていない」というテーマの講演があるといい、「文化とは血の中にあり感覚となっていて生活に密着しているものだが、日本では西洋音楽はまだ文化になっていない。血の中にないから、哲学や思想など頭で考え分析できるもののほうが近づきやすい…」と述べるくだりがあり、フランス音楽への理解が浅いのも「哲学的根拠のようなものを感じさせる音楽でないと、真の芸術ではない、という考えが日本にはある」と発言されており、おおいに膝を打ちました。

西洋の音楽というと、高尚な芸術として一部の人達に愛好されるものという敷居みたいなものがあって、普通にファッションやスポーツなどに接するように、日々の生活の中にごく自然にクラシック音楽が浸透し存在する状態、つまりは文化と呼べる領域にはまったく至らないようです。

世界的に見てもトップレベルではないかと思える、柔軟な感性を持つ日本人。
異国のものをすんなり受け容れ、自分達の生活に採り入れるなどお手のもの。
しかるに、西洋音楽がもたらされて一世紀以上経つというのに、こちらはいまだに専門家や愛好家だけの芸術ジャンルとしてソフトに隔離されており、およそ日常の中に文化として息づいているとは思えません。

例えばコンサートのプログラムにしても、多くの日本人は今だに演奏より曲目にこだわります。
それもただ自分が知っている曲があるかどうか、耳慣れた名曲が含まれているかどうか、問題はいまだにそのあたりを行ったり来たりしてことに唖然とします。

演奏者も、チケットを売るため有名曲を入れるよう主催側から強く要望され、不本意なプログラムにならざるをえないことは少なくないとか。

知っている曲を生で聴きたいというのもわかるけれど、では、知らない曲だとそんなに退屈ですか?というのがマロニエ君の正直なところ。
その人たちが映画や小説や美術館の作品に触れるとき、多くの作品を前もって「知っている」わけではなく、大半は「初見」でも文句は出ないのに、音楽だけは、どうして知っている曲じゃないといけないのかがわからない。

他のものと同じように、ただ楽しみとして自然に芸術に触れ、それを日々の中にやわらかに溶け込ませる、そこがどうも日本人には難しいらしいようです。
必ずやご大層なものになり、高尚で、専門的で、研鑽の対象という捉え方をするのは、楽しむことより身構えて勉強することのほうがしっくりくるからでしょうか。

それを感じるのは、アマチュアのピアノ演奏でも、ほとんどの人は技術的に余裕のもてる曲を選んで表現の美しさを追求することはなく、身の丈以上の大曲難曲に挑もうとする傾向。
これも根っこのところで、音楽を本当に楽しめていないから、演奏というパフォーマンスに重きを置き、そのための練習という技術の世界に迷い込む。
音楽(に限らず芸術を)を心の糧として楽しむことは、人生そのものの在りようやセンスの問題で、人に見せたり自慢したりすることではないから、それはただ練習という一本道というわけにもいかず、一朝一夕には達成できないことかもしれません。

そもそも「楽しみ方」を知らないのが良くも悪くも日本人なのかもしれませんけれど。

技術なら優劣が明確で、そこにヒエラルキーが生まれます。
日本の楽譜には、初級、中級、上級といった区分けがありますが、ああいうのが日本人は好きですね。
自分の感性や経験で判断しないから、人が分類してくれたものに従うほうが楽なのかも。

なので、ピアノ演奏も難易度別の技術と捉え、相撲の番付、将棋の段、算盤の級のような、わかりやすい階段を登ることは好きなようです。
そういえばピアノにはグレードという言葉があるようですが、「グレードを上げる」ことがモチベーションになり、ピアニストやコンクールで奏されるような有名な技巧曲を弾けることが「カッコいい」わけで、それが達成できれば周りから評価され一目置かれるから、それを目指すという図式。

要するに、音楽とは名ばかりで、根底には技術のピラミッドが立っているから、そうなると子供でも弾けるような易しい曲を、いかに美しく演奏するかということとは、まるで別の道になってしまうんですね。

つまり「日本では西洋音楽はまだ文化になっていない」となる所以がそこだと思います。


2019/05/15 Wed. 02:23 | trackback: 0 | comment: -- | edit

制御を聴かせる大器 

BSクラシック倶楽部から、今年2月のアブデーエワの日本公演から、ショパンのマズルカOp.7-3/Op.59、ソナタ第3番、シューベルトの楽興の時から第3番。

演奏スタイルは、少し忘れていたものをすっかり思い出すようにアブデーエワ流が健在でした。
年齢的にピアニストとしての黄金期に入ろうかという時期で、彼女が優勝したショパンコンクールからはや9年が経過ですが、特段の深化や変化は個人的には感じませんでした。

緻密な演奏プラン、理性の絶対優先のような演奏は大変立派だけれど、まるで音の講義にでも接しているようで、音楽を聴いているのになぜか音楽がこっちにきてくれず、もどかしさがまとわりつくのも以前とまったく変わりなし。

この人の演奏を聴いていて常に離れることのないのは、遊びのなさと過剰とも思えるコントロールという行為。
コントロールとは音楽を自然に美しく鳴り響かせるために裏で支えるものかと思っていたけれど、アブデーエワのそれはコントロールそのものがむしろ見せどころのようであり、これはある種かたちを変えた技術自慢のようにも思えます。

曲は隅々まで支配され、ピアニストがすべてを手の内に囲い込んでいるような印象を受けるのは、とりわけ女性ピアニストとしては稀有なことだと思うし、それだけ大器であるということでもあるのかもしれません。

マズルカを凛とした音楽として、大曲と同等に取り扱って弾くことは必要なことだとは思うけれど、あそこまで深刻で、息を殺して、まるでベートーヴェンの後期のソナタでも弾くようにやられると、なにかが違うんではないかと思ったり。
個人的にはもう少し力の抜けた、ふわりと浮かんできた詩の断片を音にするような、ショパンのこわれやすい心情がピアノを通して彷徨うようなニュアンスで進んでいくマズルカのほうが好み。

もう少し踏み込んでいうと、どの曲にもそれぞれ冒頭もしくはそれに近い部分に、その作品の顔ともなるべき主題や旋律があって、それがあれこれに展開して帰結するというのが多くの作品の作りだけれど、そのはじめの顔がこの人のピアノではほぼ無表情で、ひたすら説明的かつ慎重に音が並んでいくだけ。
聴いていて、核となるべきフレーズや動機がほとんど掴めないまま先に進んでいくため、つい自分で曲を補足しながら聴くという脳内作業をしており、なんとも収まりの悪い椅子に座っているようで、たえず体を動かしてしまうようなストレスを感じます。

それと、あれだけ長身で恵まれた体格をしているのに、やけに椅子が高いことも気になります。
高い椅子は、大きな音を出したり楽器や作品を支配するには有効かもしれないけれど、うるおいのある美しい音でピアノを深く鳴らすとか、ディテールのしっとりした語り、心の襞に触れるようなニュアンスが失われる気がします。

コンサートピアニストというのは、やはり聴衆に聴かせることが大前提で、それぞれのやり方で音楽的エクスタシーを聴衆が与えられなくては、聴く意味がない気がします。


クラシック音楽館から、真田丸の主題曲の演奏で有名になったヴァイオリニストの三浦文彰さんと、ピアノの江口玲さんによる共演で『三浦文彰☓デジタルアート』と銘打った、東京臨海副都心のチームラボ・ボーダレスで行われた演奏を視聴しました。
ピアノはニューヨーク・スタインウェイのLかO(たぶん)という、すくなくともテレビで見るには珍しい家庭用サイズのもの。

この2人、タイプはまったく違うけれど共通しているのは、きわめてオーソドックスな路線の演奏でありながら、今どきのどこかシラけたところがなく、しっかりと血の通った心にそのつど何かが届いてくる演奏をされることだと思います。
ズシッとした重みと、弾いているという実感があるのは極めて大事なことだし、これがなくてはどれほど素晴らしい技術や解釈であっても聴く気になれないし、演奏家としてまずもって必要なのはここだろうと思います。

家庭用サイズであっても、スタインウェイはしっかりスタインウェイで、とくにニューヨークの個性満載な音でした。
いつ頃の楽器かは知らないけれど、枯れた感じの音色がプログラム中にあったモーツァルトの時代のピアノのように鳴り響き、あまりにもぴったりで唖然としたほど。
モーツァルトのヴァイオリンソナタは、本来ピアノが主役の作品と言われますが、このお二人が演奏されたKV454では、まさに二重奏という感じで、両者ともモダン楽器をモダン奏法で弾いているのに、まるで18世紀の風が吹いてくるようでした。

江口さんは共演ピアニストとしての定評では随一の方ですが、いつ聴いても安定と信頼感にあふれ、その逞しいサポート力は聴くたびにさすがと思わせられる方です。
上手い人の手にかかると、曲のほうが自然にこちらへ寄ってきてくれる感じがします。
聴こうと努力しなくても、すいすい入ってくる演奏って心地いいですね。

そういう意味では非常にこのふたつ、対照的な演奏だと思いました。

2019/05/10 Fri. 02:11 | trackback: 0 | comment: -- | edit

東京ピアノ巡り-おまけ 

【銀座山野楽器】
最終日、飛行機が最終便で少し時間があったので、急に思い立って寄ってみることに。

ベヒシュタインConcert 8、スタインウェイV-125、ベーゼンドルファー120、ヤマハSU7をほんの少し触りました。
アップライトの横綱揃い踏みのようで、むろん素晴らしく、音も弾き心地もいかにもという感じに整っているところは、いずれも日本式にお行儀よくさせられて店頭に並んでいる感じ。
輸入物は500万円前後、SU7はヤマハアップライトの最高峰で240万円。

ベヒシュタインとベーゼンドルファーは本来もっとそれぞれの個性や持ち味があっていいような気もしましたが、ここでは端正に整っていることのほうが求められるのか、腕利きシェフの料理というよりは、リッチだけどクセのない一流ホテルのディナーみたいで、それが日本人的な高級品の見せ方なのかと思います。

そんな環境でも個性を隠せないのがスタインウェイとヤマハでした。
スタインウェイはあのブリリアントに通る中音から次高音、美しく引き締った官能的な低音など、ヨコのものがタテになっただけで紛れもないスタインウェイであることに感心させられました。
ヤマハも、さすがにこのへんになるとひじょうに美しく、ヤマハ最高ランクの材料を使い、注意を払いながら作られたヤマハの逸品というのは触れるなりわかりましたが、表情にはやや乏しいことと、低音の巻線部分になるとヤマハらしいビーンという、多くの日本人には耳慣れたあの音がするあたり、やっぱりヤマハにはヤマハの遺伝子があることを痛感しました。

どのピアノにも「ご試弾の際は…」の札が鍵盤上に置かれているので、お店の方に申し出るとすぐに応じていただきましたが、その札を外しながら「いちおう商品ですので、あまり長時間のご試弾はご遠慮いただきたい…」というようなことを言われました。

もとよりそんな気はないし当然の申し渡しとは思いましたが、考えてみれば試弾をいいことに、お店の商品を延々と弾きまくる輩もいるのだろうし、実際そんな被害にも店は遭ってきたのだろうと察せられました。


話は変わり、マロニエ君はかなりの車依存人間なので、東京滞在中もレンタカーを利用しました。
人によっては「エー、東京で車なんて却って不便、こわい、道がわからない、電車のほうが便利、なんでわざわざ!」といったようなことを言われますが、幸い道はだいたい頭に入っているし、駐車場探しなどは多少あるけれど、それでも実際には言われるほど大変でもムダでもなく、なにより車があるのは圧倒的に「楽」です。

昔に比べると東京は車の密度がずいぶん減ったのか、ほとんど渋滞のようなこともなく、昼夜とわずどこにでもスイスイ行けるのでむしろ自由度が広がり、しかも車に乗っている間はシートに座っているから休憩にもなるし、外部と遮断されたプライベート空間でもあり、マロニエ君にとっては快適でしかありません。
これが移動のたびに駅まで歩き、人の波に揉まれて、階段やエスカレーターを上ったり下ったりするのかと思うと、個人的にはとても自信がありません。

とくに夜、気ままに出かけたりドライブもできるのは車があったればこそで、個人的には圧倒的に時間を満喫できます。

夜、日用品を買うのに、豊洲にある大きなホームセンターに行ったり、遠巻きにしか見たことのなかった東京スカイツリーがどれほど高いのか見に行ったり。
こういう気ままな動き方は、電車や地下鉄ではなかなかできません。
その、東京スカイツリーですが、たしかに立派なタワーであることに異存はないけれど、夜の照明で飾られた様子などは上海などを連想してしまい、個人的には東京タワーのほうがずっと好きだなぁと思いました。
エッフェル塔には及ばないけれど、今にして眺めてみればよほど趣があり、昭和生まれにはしっくり来ますね。

以前は週に二〜三回は通っていた目黒通りや環八などは、ずいぶんと景観や雰囲気が変わり、交通量も減ってへえと思ったし、クラビアハウスに行くのに通った第三京浜にいたっては、鄙びた地方の高速道路かと思うほど交通量はガラガラで、これにはかなりびっくり。
以前の東京は、車といえば常に渋滞との戦いで、少しでも進めるルートを考えることに頭をフル回転させながらの運転でしたが、今やどの道もあっけないほど走りやすくなり、ちょっと肩透かしを喰らったようでした。

車を返却した最終日のみ、やむを得ず電車での移動を余儀なくされましたが、マロニエ君にとっては慣れないこともあってやはり大変です。
どこどこへ行くには何線に乗って、どの駅で乗り換えるかなどと考えて、実際、歩き量も疲れ量も倍増。
今はカーナビもあるし、車のほうがはるかに安楽と思いますが、なかなかこの点は賛同者がきわめて少ないのが不思議です。

2019/05/04 Sat. 01:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

東京ピアノ巡り-2 

【クラビアハウス】
親しくさせてもらっているピアノ店で、ちょうど見せたいピアノもあるから「ぜひ来てください!」と言っていただき、おじゃますることに。
1902年製というイバッハのアップライトがあり、手の込んだ装飾やデザインなど、威厳ある重厚な佇まいは現代の量産アップライトが組み立て家具のように思えてしまうほどで、昔はアップライトでもここまで手の込んだものを作っていたことに驚きつつ、その背後にある文化にも圧倒されます。
中までしっかりと手が入っており、とくにオーバーダンパーとかいう古い機構などは現代の方式に改められている由で、思いのままのタッチでとても弾きやすいことが印象的。
音はまさにヴィンテージで、枯れた音で芯があるのにふわんと鳴るのが心地よく、ずっと弾いていたいようなピアノでした。

他には明るいマホガニー艶出しのスタインウェイA型(内外ともに新品のように修復されているけれど、実は戦前のモデル)、美しいプレイエルやブロードウッドのグランド、さらには以前あった6本足のベヒシュタインの外装ができ上がっており、その素晴らしさたるや息が止まるほど。
ダークブラウンのボディには、繊細を極めた木工による象嵌細工が惜しげもなく施されていて、あまりの見事さ、装飾模様の上品さなど、もはや美術品といっていいほどで、ただただため息の連続でした。
フレームは外されていて弾ける状態ではなかったけれど、本当に美しいものというのは目にするだけで人を幸福で豊かな気持ちにするもので、やっぱり昔のヨーロッパの文化はとてつもないことを痛感。

届いたばかりという19世紀の終わりごろのスタインウェイBは、内部は凄まじい汚れで、タッチもバラバラ、音もめちゃめちゃでしたが、わき上がるような不思議な生命感があり、とても大きくて深いものをもったピアノでした。
ご主人によると、響板が例外的に素晴らしいものだったから仕入れられたそうで、これを一年ほどかけて仕上げていかれるとのこと。
ほかにもフレームを下ろした同時代のO型?、3年越しの修理が出来きたというベヒシュタインのグランドなど、ヴィンテージピアノは一台一台があまりに見るべき点が多く時間が足りないようでした。

日本に輸入ピアノを扱う店は数あれど、これほど徹底した修理や調整がなされた上で、しかも耳を疑うような良心的な価格で販売するヴィンテージの専門店が日本にあることは、なんと貴重なことかと思います。
『パリ左岸のピアノ工房』という本があったけれど、ふとそんなヨーロッパの良心的なピアノ店が、ひょっこり横浜に舞い降りたという感じです。

【ピアノパッサージュ】
ベヒシュタインの新旧いろいろを中心に、グロトリアンの新品アップライトやヴィンテージの200cmぐらいのグランド、ほかにはスタインウェイが数台、戦前のプレイエルのグランドとアップライト、何台かのペトロフなど。

ベヒシュタインのアップライトの中には小型でもかなり素晴らしいものがあって驚かされますが、なにぶんにもシリーズが煩雑で、どれがどういう位置づけなのか把握するだけでも大変で、さらにシリーズ名も変わったりと、混迷を深めるばかり。
以前は、上級シリーズとレギュラーシリーズでは、鍵盤上の表記が「C.BECHSTEIN」と「BECHSTEIN」というところで区別できていたけれど、現在はレギュラーシリーズも「C」が付くようになってしまい、いよいよわけがわかりません。
もしや意図的に分かりづらくしているのでは?と勘ぐりたくなるほどで、せっかくピアノは素晴らしいのに、シリーズ構成という点ではどことなくトリックのような印象をもってしまうところは、一流メーカーのモデル展開としては疑問を感じるところ。
(むろんこれはメーカー側の問題であって、お店とは関わりないことですが)

とはいえ、ヨーロッパ製の小型アップライトをあれこれと触れさせてもらいました。
それなりものから舌を巻くような極上品まで幅広く、これは実に面白い世界だと思われて、ある意味ではグランドよりマニアックな世界かもしれません。
とりわけ現代のベヒシュタインは、お叱りを承知で言わせてもらうと、魅力的なアップライトの製造に支えられて一流ブランドの名を保っているようにも思われます。
他の追従を許さぬ上質なアップライトを作るいっぽう、グランドではもう一皮むけてほしいもどかしさが残るのは、以前から感じていたことでしたが、今回も同様の印象で、そのあたりは風変わりなメーカーだと思います。

クラビアハウスでも同様でしたが、いまや何人もの女性の技術者が第一線で活躍されていることには、あらためて感銘と頼もしさを覚えました。
昔は技術や職人といえば男性の世界というような固定化されたイメージがあったけれど、それは愚かしい間違いであったことが見事に証明されており、みなさん知識も経験もひじょうに豊富で、さらにはピアノの技術者としての矜持も高く、大したものだと思いました。

なんでも話はサクサクと通じるし、自己顕示欲が強くて自説にこだわる面倒臭い男性より、遥かにサッパリしていてストレート、しかも気概は充分以上なものがあってお見事。
優秀な女性技術者の台頭によって日本のピアノ技術者のレベルはより向上する気がしました。

2019/04/29 Mon. 02:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

東京ピアノ巡り-1 

4月中旬、所用で東京に数日間滞在しましたが、折悪しく平日で、とりわけ多くのピアノ店で火/水定休日のところが多いのは残念でした。
そんな中から、こちらの都合と時間を合わせながら、なんとかやりくりしてピアノ店を訪ねました。

以下、そのレポートを思いつくまま書いてみます。

【ファツィオリ】
飛び込みで行ったので、ダメモト覚悟でしたが、正午少し前にドアを開けたら真っ暗。
ほぼ留守だろうと思いながら声をかけると、ようやく奥から人の気配がして、暗闇の中から日本語の達者な若い外国人が出てきて、それ以降はきわめて親切に対応していただきました。

ピアノはF212/F228/F278/F308の4種を試しましたが、いずれも素晴らしい弾き心地で、むろんピアノそのものもいいけれど、精妙を極めたすばらしい調整にも驚きました。
F183は一台は売約済み、もう一台は届いたばかりの未調整で、いずれも弾けませんでした。
ちなみに、最小サイズのF156は受注生産で、価格はF183と同額とのこと。

F212/F228はそれぞれすばらしいものであったし、F278/F308の違いは、CDで感じていたこととあまりにも同じで、一般にCDはアテにならないと主張する人は多いけれど、個人的にはかなり信頼に足ることを実感。

あらためて言うまでもなく、あくまで個人的な印象ですが、F308はラインナップ頂上に君臨する、いわば鳳凰のような存在だろうという気がしました。
ご案内いただいた方は、流暢な日本語で、F308がいかに深い潜在力を秘めたピアノであるかをしきりに述べておられたけれど、私には、弾いてみた印象では真の主力はF278だと思いました。

とはいえどのモデルも、とても美しい上質感のある音で、ブリリアントかつまろやかで、クセがなく、弾いていて非常に心地よいことには感銘を受けました。
設計を間違えず、最良の材料と手間ひまを惜しまず作ったら、ピアノはこうなるだろうという正しい公式と答えを見せられる感じでした。

ただ、最終的に着地点が見いだせないのは、なんだろうかと考えました。
ひとつ思ったことは、ファツィオリは自己主張をせず、もしや個性がないことを狙っているのか…ということ。
楽器は演奏のための道具なんだから、だったらそれが理想じゃないかという向きには理想的とも思いますが、個人的にはいつも画竜点睛を欠く感じがつきまとうのも、やはりそのあたりなんだろうと思われます。

楽器は楽器に徹するか、そこに多少の個性が必要か、これはそう簡単に答の出る問題ではないでしょう。
あくまで想像ですが、ファツィオリが目指しているのはファツィオリの音ではなく、もっとシンプルで純粋な「美しいピアノの音」という理想なのかもしれません。
それはそれでアリかもしれず、ある程度それは実現されていて、ファツィオリに比べればヤマハでもヤマハの音がするわけで、ここまで個性を消すことは、もしかしたらものすごいことなのかもしれません。

ちなみにマロニエ君は、個人的には楽器に個性はやはり欲しいし、必要だと考えるほうのタイプで、どこかにわずかな不均衡や野趣を含むものが好みで、あまりに純粋一途なものは苦手かもしれません。

ファツィオリを最も活かすことのできるピアニストはだれかと思ったら、ただひとり思い浮かんだのがミケランジェリでした。
あの、最上のビロードのようなタッチと何層にも弾き分けられる多彩な音色で、病的なまでにこだわり抜いた音の絵画を描いていく手段として、ファツィオリは最高の絵筆になったかもしれない気がしました。

そう考えてみると、ミケランジェリはスタインウェイをかなりファツィオリっぽい、まろやかで濃密な、それでいて楽器が前に出ることのない厳しく制御のかかった独特な音にしていたように思われます。
それなのに…この稀代の天才とファツィオリは、わずかな時代のずれで、ついにすれ違ってしまったことが非常に残念に思われます。

ショールームのピアノに話を戻すと、その素晴らしさを支える要素として忘れてならないのは、精密を極めた調整がもたらすコンディションがファツィオリの素晴らしさの一部になっていることでした。
ずいぶん前、とある楽器店でちょっと触れたF183は、新品であるにもかかわらず、音といいタッチといい、とても価格に見合ったものとは思えないものでしたが、今回のファツィオリはまるきり別物でした。

音のなめらかなバランス、音色の揃い方、繊細でスムーズな思いのままのタッチなど、ふいに訪れたにもかかわらずこれほど常時見事に調整されているのは驚くほかありません。

もともとの美人が、さらにプロのメイクやライティングで輝いている状態なのでしょうけど、もし購入するとなれば、化粧崩れも出るだろうし実生活ではスッピンにもなる。
そのときにどういうピアノになるのか…却って不安になるような調整でした。
ま、買えるはずもないので、そんな心配をする必要もないですが。

2019/04/24 Wed. 02:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ダルベルトとトラーゼ 

BSのクラシック倶楽部アラカルトは、おそらくは個々の演奏家のプログラムから、55分の番組で入りきれなかった演奏を2人づつまとめて放送されるもののようです。
そんな中から、印象に残ったものを。

【ミシェル・ダルベルト】
昨年11月の浜離宮朝日ホールで行われたリサイタルから、ショパンの幻想曲、ドビュッシーの映像第1集。
いきなりですが、マロニエ君は昔から趣味じゃない人。
この人のピアノはCDを聴いても実演に接しても同じで、その甘いマスクとは裏腹に演奏はどちらかというと無骨、ニュアンスとかデリカシーというものがあまり感じられません。
近年の若い人のように、そつなくきれいに弾くだけの無個性無感動な演奏もどうかとは思うけれど、その点でいうとダルベルトは明らかに昔の世代の自分流を押し通すピアニストでしょう。

フランスのピアニストにときおり見かけられるタイプで、迎合的ではないところはいいけれど、細部にまで神経の行き届いた演奏ではなく、何を聴いても同じ調子で、気持ちが乗れないまま終わってしまいます。
もし違っていたら失礼だけれど、ただ弾きたいものを自分のスタイルで押し通してタイプでしょうけど、そのスタイルがよくわからずこの人なりの聴き所がどこなのかはいまだに掴めません。

ピアノはドビュッシーを意識して準備されたのか、珍しくベヒシュタインでした。
D-280かD-282かはわからないけれど、おそらく新しいものを使う日本のことだから282なのだろうと推測。

D-282というのはマロニエ君の理解の及ばぬピアノで、ベヒシュタインらしい特徴を残しつつ、現代のステージでも通用するコンサートピアノとしてのパワーその他を盛り込んでいるものと想像されますが、どうにもよくわかりません。

ベヒシュタインのカタログを見ていると、ひとつひとつの音の透明感や分離の良さ、和音になったときのハーモニーの美しさなどが特徴だということが随所に謳われているけれど、ショパンの幻想曲のような作品で音数が多く激しい曲調の部分にさしかかると、むしろ音が暴れ出し、あげくに混濁してしまうよう聞こえてしまい、ますます首をひねってしまう始末。

その点では、映像の第一曲のような緩やかな曲では発音のインパクトによる独特な効果があるし、この日は弾かれなかったけれど、たとえばベートーヴェンなどがベヒシュタインに似合うのは、むしろその特性ゆえだろうと思います。
ベートーヴェンは美しく澄んだトーンの音楽ではなく、苦悩や混沌の中から精神の高みへと到達するようなところに聞き所があるようなものだから、楽器も清濁併せ持ったものあるほうがふさわしい。
なので、はじめからスマートに整った響きのスタインウェイなどで弾かれても、もうひとつベートーヴェンらしく聞こえない場合がありますが、ベヒシュタインならばその野性味を駆使して自然に表現できるような気がします。

【アレクサンドル・トラーゼ】
プロコフィエフのソナタ第7番。
これまでに聴いたこともないような、瓦礫がそこらに荒々しくころがっているような、作品が産み落とされた時代の空気がそのままに伝わってくるような演奏でした。
とくに「戦争ソナタ」という名にふさわしく、グロテスクで、生臭く、容赦ない炸裂が何度でも繰り返され、これは本来こういう曲だったのか!と思わせられる瞬間がなんども到来するあたり、思わず聴き入ってしまいました。
以前のこの人のコンサートの様子には???と思うところもあったけれど、ツボにハマればすごい人なのだということも納得。

現代のピアニストの誰もが、この曲をロシアの技巧的なピアノ作品として、ピアニズム主導でスタイリッシュにまとめ上げて弾いてしまうことに対する、一種の警鐘ともとれるようなごつごつしたプロコフィエフで、久々に面白いものが聴けた気がします。
もしかするとまとめるどころか、散乱していなくてはいけない音楽なのかもしれないと思いました。

トラーゼは恰幅もよく、打鍵する力が強いのか、ピアノを鳴らす力も平均的なピアニストより一枚上をいっており、とくに強打ではなくても、すべての一音一音が太くて芯があり、今どきはそれひとつでも印象的。

むろん、大きな音を出せるから良いなどと言うつもりは毛頭ないけれど、現代の多くの若手ピアニストがガラス瓶で育った植物みたいな細い音しか出さなくなったし、昔の人のように全身全霊をこめて楽器に思いのたけをぶつけるというような迫力がありません。
どちらが本来のピアノ演奏として正しいことかどうかはさておいて、聴く側は、節度ある知的で美しい演奏も魅力だけど、時には駆け上るような燃焼感であるとか渾身のパフォーマンスというのは期待するのであって、これは理屈じゃなく本能の問題では。

多くの若手は、ミスをせず、無理をせず、推奨テキストと解釈にしたがって、よく動く指を武器に、ただきれいで正確なだけの演奏を目指すようになってしまい、即興性や冒険心を失っていることには危機感を覚えます。

他の音楽ジャンルではエネルギッシュな興奮に酔いしれることを良しとするいっぽうで、クラシックの演奏だけが精度や解釈ばかりにこだわって、あげく小さな細工物のようになってしまうことに、さすがにもう飽き飽きしてきました。
今どきは何かあると「命の大切さ」ということが叫ばれますが、音楽にも命の大切さは大事であるし、それが我々が音楽を楽しむ際の一丁目一番地ではないかと思うんですけどね。

トラーゼの演奏は、ただ単に面白いだけでなく、時流に対する反抗の精神も秘められているようでした。

2019/04/19 Fri. 01:31 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ハイルーセン 

浸透潤滑剤というのがあるのをご存知でしょうか?

動かないネジを緩めたり、いろいろな機械の可動部分の動きをズムーズにするシリコンなどの潤滑剤で、スプレー缶で細長いノズルが付いており、説明を見ても「締りや滑りの悪い敷居やサッシ」「カーテンレールの滑り」「タンスの引き出し」「PCマウスの動きがスムーズに」「ハサミの切れ味がよみがえる」などなんでも使えます。

車の世界ではよくあるもので、その最も代表的なのが「呉工業 CRC-556」などで、これはべつに車専用というわけではなく、なにかと使われている方は多いと思います。

「動きの渋くなった扉や戸棚の蝶番」「ギシギシ音の解消」にもよく使われるし、ピアノの調律師さんも道具箱の中にこれが入っているのは何度も見たことがあります。

以前書いた、日本製のコンサートベンチ(ピアノの椅子)のギシギシ音ですが、調整してくださった技術者さんも当然このCRC-556は使われたようですが、これの欠点は、その効果が短命で持続力に欠けるという点にあります。

使う対象にもよりますが、だいたい一週間から10日、ひどい場合は2〜3日で効果がなくなります。

ところが、世の中にはすごいものがあるんですね。
知人の話で、どうやっても消せなかった車の足回りから聞こえてくるキシミ音が、ディーラに出したらものの見事に治った上に再発もしないため、一体どういう修理をしたのかディーラーに聞いそうです。
ところが、はじめはなかなか教えてもらえず、問い詰めてしぶしぶ言ったのがトヨタのハイルーセンEVOという浸透防錆潤滑剤を塗布したということ。

そのディーラーがトヨタではないこともあり、それを使っていたこともなかなか言えなかった理由のようでした。
トヨタの部品販売店に行けば取り寄せてくれますし、アマゾンでも買えるものです。

車のサスペンションのゴムブッシュの境目や取付部などに塗っておくと動きが軽くなめらかになって、乗り心地が良くなるというので、講習をかねてそれをプシュプシュやっては走ってみるというような実験をしましたが、たしかにサスの当たり(とくに初動)が滑らかになり、車全体がスムーズになったかのようでした。

さっそくマロニエ君も購入したのは言うまでもありません。
価格は1缶2000円しないぐらいで、成分は「鉱物油、石油系溶剤、防錆剤」とあるだけですが、無色透明のサラサラした液体です。

はじめは車に使っていましたが、キッチンの食器収納の扉の動きが年々渋くなり、しまいには開閉にともない金切り声のようなとてつもない音を立てるので、「そうだ!」とこのハイルーセンを思い出し、その収納棚の扉を支える3つの蝶番にプシュプシュとやってみました。
結果は、その強烈な音がウソのように消えただけでなく、動きが超スムーズになりすぎて、いつもの力加減だとその扉に埋め込まれたガラスが割れるのではないかというほどの勢いでスパーン!と閉まりました。

それからというもの、家の中にも置くようになり、なにかというとこれを用いました。
それなのに、最も大事な使い道を思いつかなかったのですから、マロニエ君も相当抜けています。

以前、むかし買ったコンサートベンチが何度調整してもらってもギシギシ音が出ると書いたことがありますが、それはあいかわらずで、実をいうともうずいぶん長いことそうなので、半ば慣れてしまっていたのです。

でも、ついにピアニッシモの部分で、ギギッ!となったとき、「あっ、このコンサートベンチにハイルーセンを使ったら!?」ということが頭に降りてきました。
思い立ったら矢も盾もたまらず、大急ぎでそれを持ってきて、よいしょと重いベンチをひっくり返しました。

立派な表に対して、裏は意外に雑な作りで、木枠の中に鉄の骨が2組のX状に組み合わされて、それが伸縮して上下調整をしているようでしたので、その可動部分や木と鉄の接合部のボルトなど、思いつく限り注意深く噴きつけました。
そしてそのまま一晩放置。

翌日、ちょっとした胸の高鳴りを覚えながら裏返ったベンチをもとに戻し、座ってみる、果たしてギシギシ音はものの見事に消えていて、どんなに体重を左右にずらしても、まったく音がしません。
それからひと月以上が経過しましたが、その状態にまったく変化なしです。

自動車雑誌によると、トヨタは下請けメーカーに要求するクオリティも、その他のメーカーとはまるで違うとのことですが、このハイルーセンを使っただけでもそのスゴ味みたいなものを実感せずにはいられませんでした。
これはきっとピアノの内部にも役立つすぐれものだと思いますが、悲しいかなマロニエ君のようなシロウトでは試すことはできません。

2019/04/12 Fri. 02:39 | trackback: 0 | comment: -- | edit

反田さん牛田さん 

つい先日、反田さんのショパンについて書きましたが、少し補足。

久しぶりにタワーレコードに立ち寄ったところ、お得意のラフマニノフの新譜が出ており、試聴コーナーにセットされていたので、これこそ本領発揮だろうと思って聴いてみることに。

曲はピアノ協奏曲第3番(ロシア・ナショナルフィル、指揮アレクサンドル・スラドコフスキー)、ソナタ第2番、op.23の前奏曲から2曲。
協奏曲は昨年10月のモスクワ、ソロは同11月に福島音楽堂での録音。

まず驚いたのは、ゆったりしたテンポ感でした。
気になったのは、実際のテンポそのものより、ビート感というか流れの推進力がなく、その場その場を確かなものとするような方向性なのか、どこを切り取ってもきっちり刻印されたように弾いている感じ。
たしかな技巧に恵まれ、せっかくこの3番という壮大な協奏曲を弾いているのに、これまでの反田さんのイメージからすれば、期待するものとはちょっと違うものを見せられているようでした。

もちろん全曲を聴いたわけではないし、店頭のあまり音のいいとはいえないヘッドフォンを通じて聴いただけなので、それで断定的なことは言えないけれども、それでもそこで感じたことというのはあるわけです。

あとに残ったことは、過日のショパンのときと同様、この人はいま何を目指しているのか…ということ。
ショパンコンクールを狙っているのでは?と前に書いたけれど、リストやラフマニノフを得意とし、ショパンも手中に収め、コンクール歴もこの際追加できるものは追加して、ピアニストとしての王道を目指しているんでしょうか。
個人的には、この人はこの人なりの個性や強みを活かして、いい意味での異端であってほしいのですが、もしかすると今の時代はそれを許さず、ディテールを整え、露出を増やし、キャリアや権威を身にまとい、なんとしてでも大物に仕立てあげなくてはいけないのかなぁ…と思います。

浅黒い肌に総髪、鼻の下とアゴにヒゲを生やして、まるで秘術でも使う忍者か、どこかのバーテンダーかマジシャンか、はたまた平氏の落武者のようでもあり、すくなくともピアニストっぽくない風貌も見る人のインパクト感に加勢しているのかも。
くわえてぶっきらぼうな態度がいかにも今どきの男子風で、どこかひ弱で線が細くて、なめらかなトークのできる音大生あたりにはない、野趣がある点も魅力なのかも。
その演奏の特徴はアーティスティックな感性主導かと思いきや、意外なほどエゴはなく、もっぱら健康でシャープで法令遵守タイプなので、サラッと時代の基準に合わせてやっていける人なのかもしれません。


同じ頃、民放BSでは牛田智大さんと小林研一郎さん指揮の読売日本交響楽団による、チャイコフスキーの第1番というのがありました。

この方も現代の若手ピアニスト特有の要素を備えていて、しっかりしたメカニックを備え、この難曲を滞りなく弾けますよということを聴衆と視聴者に、予定通りに示したような演奏でした。
くわえて、きれいな王子様風の雰囲気、甘いマスクと絶やさぬスマイルは反田さんとは正反対。

子供の頃から注目され、浜松コンクールで第2位になるほどだから、もちろん上手いし危なげなく弾けてはいるけれど、プロの演奏会というよりは、どこかコンクール風の雰囲気が拭えず、まだ演奏家としての確定された存在感が足りないのかとも思いました。

なにより感じるのは(牛田さんに限りませんが)、とかく今の若い人の演奏には、作品への敬愛の念とか、そこからインスパイアされた自己主張とか表現の試みというものがなく、むしろそこは排除するほうに育てられてきたという感じがすること。
演奏している当人が、その作品の中に没入して曲が鳴り響くというのではなく、山積みされた楽譜があり、音符や指示があり、それを覚え込んで徹底的に練習して今に至っているという現実が見えてしまいます。

自分がどう感じてどう解釈しているかという要素が見当たらないのは、それが競い合いでは却って裏目にも出る要素だから、消さなくてはいけないのかもしれません。
聴く側も、演奏という名目でのアスリートとしての能力だけを求めているように思えるふしがあり、そのほうがフィギュアスケートみたいでわかりやすいからでしょうか。
過当競争の世の中に生まれ、コンクールがあり、それに沿った指導環境の中で育ってくれば、勝ち抜くにはそうなるのは必然かもしれず、やむを得ぬこととは思いますけど…。

そもそも演奏の最も大事なことは、聴いている人に「また聴きたい」と思わせることだと思いますが、ひょっとすると音楽性だの個性だのを云々することが、すでに時代遅れなのかもしれません。

2019/04/06 Sat. 02:37 | trackback: 0 | comment: -- | edit

歯みがき 

早いもので4月となり、平成の御世もあとひと月ですね。

奥歯が少ししみるので、2年ぶりぐらいに歯医者さんに行きました。
ここは治療というか施術というか、ようするに仕事がとても丁寧で、これまでに被せ物などをしても、一度も違和感などを感じたことがなく、治療のための治療は一切せず、人にも自信をもっておすすめできる歯医者さん。

毎度のことながら、歯磨きの大切さを教わり、さらに磨き方をいまさらのようにこまかく教えていただき、決意を新たにしているところですので、少しご紹介を。

まず驚くのは、ブラッシングに際しては、歯磨き粉には一切頼るなという考え方。
以前もこの先生は「私達は、歯磨き粉のチューブ1本使うのに半年ぐらいかかりますよ」といわれたので、またまた大げさな!と思って聞き流していましたが、どうやら本当のようでした。

スーパーや薬局に行くと、いろいろな歯磨き粉がズラリと並んでいて、中にはずいぶん高価で医薬品のような効能を謳っているものなどありますが、何度か使ったこともあるものの効果がよくわからず、いらい、また元に戻って、マロニエ君が使っているのは、だいたい500円前後のもの。

ところがこの歯医者さんがいわれるには、歯磨き粉そのものでどうこうということは、ほとんどないと考えてよろしいとのこと。
むしろ歯磨きで重要なのは、使うブラシと丁寧な磨き方がほとんど全てで、歯磨き粉はただの快感と自己満足のためであり、使わないなら使わないでも一向に構わないとのこと。
つまり、一般で言うところの「石鹸なし/水洗い」でよいというわけです。

大事なことは、先の細いブラシを使って、力を入れずやさしく一本ずつぐらいの気持ちで丁寧にブラッシングすることだそうです。
さらに歯間ブラシを使って歯と歯の間に異物を残さないこと。

難しいのは、「力を入れない」ことで、歯磨きは昔の雑な習慣で、ついゴシゴシやりたくなってしまいますが、それは歯茎を痛めるだけで何一つメリットはなく厳に慎むべしとのこと。
力をかけすぎると、歯茎が傷ついたり下がったりで、知覚過敏や歯槽膿漏の原因になるなどいいことはひとつもなく、そもそも力で歯や口の中をきれいにしようというのがまったくの間違いですね。

試しに先生が歯ブラシを手の甲に当てて「これぐらいの力加減」というのをやられましたが、本当にふわふわっと毛先が優しく当たる程度。

だいたい「歯磨き」という言葉がいけないのではないかと思います。
歯磨きというと、文字通り歯の表面を磨いてピカピカにするイメージですが、肝心なことは歯と歯の間、あるいは歯と歯茎の境目に付着した汚れや異物をていねいに取り除くことであって、これは精密なお掃除だと思います。
しかも、歯は硬いけれど、歯茎はとても傷つきやすい皮膚だということを忘れがちで、結果、歯茎をかなりいたぶっているんですね。

「歯磨き粉はなくてもいいもの」という認識があまり広まると、そちらのビジネスにも支障があるからかほとんど浸透していないのかもしれませんが、なるほど歯磨き粉は大した役割を果たしているわけではないことが実感できてきました。

というわけで、歯磨き粉なしで何度かやってみましたが、…気分的にこれはさすがにダメでした。
いっさい泡がないという感触は、まるで張り合いがないというか、気持ちよさがまったくないというか、ここはやはり先生の言われるように自己満足のために、これまでよりぐっと少量でいいからつけてみると、それでちょうどいいことがわかりました。

歯ブラシを手にするや、ついできるだけ短時間で、一気呵成にガーッと歯磨きをしたい人は昔は多かったと思いますが、いったんそれを捨て去って、たとえば…ピアノできれいな弱音を出すような気持ちでやってみると、ああそういうことか!と思えるようになるもんですね。

はじめの何度かは違和感が先に立ちますが、すぐに慣れてきて、正しい歯磨きが楽しくなりますよ。

2019/04/01 Mon. 02:01 | trackback: 0 | comment: -- | edit

中古CD Vol.3 

中古CD、第3弾です。
CDと言っても、新品と中古ではこちらのスタンスもチョイスの基準も違いますが、だからこそ訪れる思いがけなさというか、要は冒険できる点が最大の魅力です。
わずかに以前よりも失敗が少なくなってきたような気もしますが、一番大事なことは勘ですね。

❍【キュイ 25の前奏曲】
ロシア5人組のひとり、チェーザレ・キュイによるピアノのための25の前奏曲。バッハやショパンとは違った順序で全調性をまわり最後に再びハ長調に戻るということで25となる作品。演奏はジェフリー・ビーゲルというアメリカ人のピアニストで、録音もアメリカ・インディアナ州で行われているが、ピアノはベーゼンドルファーのインペリアル。キュイは本業は軍人で、その余技として作曲をしていたらしいが、その作品はとても余技といえるようなものではない本格派で、しっかりと聴き応えのある悲壮的で重厚な曲調が並ぶ。しかしロシア5人組と他の4人と違うのは、民族臭がなくむしろ西ヨーロッパ的な雰囲気を持つもの。いかにも意味ありげな調子だが、何度も聞いているとそれほどのものにも思えないが、ロマン派の隠れた作曲家という点では十分に通用すると思う。


△【アンドレ・プレヴィン フランス室内楽】プーランクのピアノと管楽器のための六重奏曲、ミヨーの演奏会用組曲「世界の創造」(室内楽版)、サン=サーンスの七重奏曲という字面で見るとやけに本格的でものものしい印象だが、聴いてみると音楽の中に惹きこまれるような作品というよりも、音楽による遊びといった印象。作曲者も三者三様かとおもいきや、どれを聴いても大差無いように聞こえてしまうし、まるで昔のドタバタアニメの効果音楽みたいで、フランス音楽の中にはこういう流派もあるなあということを思い出す。楽しさはあるからたまに聴くのはいいけれども、あくまで気が向いた気だけ楽しむものという一枚。ジャケットデザインは黒バックに青とグレーと赤の太い線だけで顔が描かれたシャレたもので、ほとんどこれで買ったようなもの。


❍【蟹 タブラトゥーラ】リュート奏者のつのだたかし氏を中心とする中世古楽器のグループで、前回、波多野睦美さんの歌に感銘し、その流れで購入したもの。楽器はリュートはじめ、フィドル、リコーダー、パーカッションなど多数で、なんとも不思議な音楽にはじめは大いに戸惑う。古楽器といってもここまでくるとかえって新しくもあり、東洋的なのか西洋的なのかさえわからない。ライナーノートによると結成は1984年とあるので、30年以上の活動実績があるということか。全15曲、そのうち古いものは13世紀のフランスのものなど6曲で、それ以外はメンバーによるオリジナルらしい。耳慣れた主題や動機が幾重にも展開し様々に遍歴し再現して解決するという、いわば音の起承転結ではなく、どちらかというとテンポや旋律の繰り返しが主体の、音楽の原型とはこのようなものだったのかと想わせるもの。こういう音楽に触れられたという点で❍。タイトルの通り蟹の絵をあしらったジャケットがハッとするようなセンスにあふれていて、これを目にするだけでも価値がある。

❍【ヘンゼルト・ピアノ作品集】セルジオ・ガッロによる演奏。ヘンゼルとは19世紀に活躍したドイツロマン派の音楽家で、この時代によくある作曲家兼ピアニスト。リスト、ショパン、シューマン、フンメル、タールベルクらとほぼ同年代の人物だが、その名前も作品ではほとんど耳にすることのないため、珍しいCDとして購入。いずれも耳に馴染みやすい、甘く叙情的なサロン音楽という感じで、ところどころにリストやシューマンを想わせる瞬間があるし、全体としてはこの時代特有の空気を感じる。上記のキュイに比べると、ずいぶん軽い感じがあり、それがロシアとヨーロッパの差のようにも思える。どこか女性作曲家の作品のようにも感じるけれど、ライナーノートにあった写真は、鋭い眼光にチャイコフスキーのような髭の老紳士で、その作品と風貌はギャップを感じることに。ピアノはおそらくスタインウェイだと思うが、温かみのあるふくよかな音が印象的。

△【シャルヴェンカ ピアノ作品集1】19世紀後半から20世紀初頭にかけて活躍した、ポーランド系ドイツ人の作曲家兼ピアニストの作品。ポーランド系というだけあって、ショパンからの影響を随所に感じるし、ピアノ・ソナタ、即興曲、5つのポーランド舞曲、ポロネーズと曲のスタイルもショパン風。ただし、ポーランドの香りやリズムがそうであっても、ショパンの洗練を極めた美の極致とか触れると壊れるような詩情はなく、才能はあってもあくまで平凡な発想の作品。演奏はセタ・タニエル。このシリーズは確認が取れただけでも第4集まで出ているようだけれど、それを買い揃えたいかといえば…ま、これだけでいいかなという感じ。上記のヘンゼルトと同様、このような普段耳にする機会のない作品に音として触れられることも、中古CDの魅力で、これらを新品で買うことはなかなか難しいだろう。

☓【アマウラ・ビエイラ名演集】セール対商品の中からなんとも変わった雰囲気のCDを発見。ブラジルの作曲家兼ピアニストらしいが知らなかった人なので、ネット検索すると度々来日して280回を超えるコンサートをしているという。くるみ割り人形の編曲から、ドビュッシー、ショパン、リスト、シューベルト、サン=サーンス他自作まで15曲に及ぶアルバム。演奏自体は常套的なもので、とくに変わったところはないけれど、はじめの音が鳴りだ瞬間、その音質に驚愕。まるで自宅でシロウトが録音したかのような、マイクが近くて残響ゼロの音。データをよく見るとサンパウロのスタジオで録音されたもののようだが、クラシックの録音経験の殆ど無い人達によって収録されたものとしか思えなかった。

2019/03/27 Wed. 02:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ちょい開け 

過日、マロニエ君に日本調律師協会の過去のカレンダーを送ってくださった方のメールの中に「ヤマハで言うトップサポート」という言葉が出てきて、不勉強なマロニエ君はすぐになんのことかわからず、さっそく調べてみることに。

判明したことは、アップライトピアノの上部の板をほんの少し開けるための機構。
アップライトの場合、ボディの一番上の水平の板は前屋根と後屋根というものに前後で分割されているのがほぼ一般的で、前屋根は後ろへ向かって180°バタンと開くようになっており、開けた状態では前屋根と後屋根がちょうど重ね合わせるかたち。

マロニエ君はまさかここにカバーをかけるといったことはしていないものの、ついあれこれの楽譜を積み上げてしまって、前屋根をわざわざ開けて弾くことはまずありません。アップライトピアノでは上がちょうど便利な楽譜置場になっているというのは、わりによくある光景ですね。

さて、その「ヤマハで言うトップサポート」とは、ボディ内側に仕組まれた短い棒を立てることで、前屋根をほんのちょっとだけ開けるというもの。
この方のピアノにはそれがあって、そのわずかな開閉の違いがもたらす響きの違いを楽しんでおられるようでした。
シュベスターにないことはご存じで、まずは本を数冊挟むなどして試してみることを薦められたので、すぐに楽譜を床におろし、文庫本を3冊ほどを輪ゴムでまとめて前屋根が3〜5cmほど開くよう、そこに挟んでみました。

さっそく弾いてみると、こんな僅かな事にもかかわらず、思わず「エッ!」といいたくなるほど音の体感差がありました。
なんといってもまず格段にダイナミックでパワフルになり、発音の細かい点までバンバン聞こえてくることに驚かされます。

普通に前屋根を180°開けだだけでは、音は上に抜けていくのか、こんなことはないし、調律時には鍵盤蓋から上下のパネルまで全部外して作業されるので、その状態で音の確認をするときなども、ほとんど何も遮るものがない状態で弾くことはありますが、そのときも音が裸になった感じはあるものの、こんな独特な感覚を味わったことはありませんでした。

まるで、エアコンの吹き出し口の前に立っているように、音がこっちをめがけて一斉に流れだしてくるようで、全身で音を浴びているような感覚です。

音量じたいも上がるほか、低音などは厚みが増して、響板の振動そのものを感じるようで、ときにうるさいぐらいに感じることもありました。
タッチまでまるで反応が良くなったみたいで、こう書くと良い事ずくめのようですが、そうとばかりは言いません。

自分の弾き方のまずさやペダリングの問題点などもはっきり認識できるのは練習にはいいとしても、ちょっと困ったのは、音によって、音色や響き方などに違いやムラがあったり、個々の音に良くも悪くも特徴があることが明瞭となり、ある音は響板の深いところで鳴っているのに、ある音はずいぶん手前に聞こえたり、これまでは気にならなかったようなことなども次々に白日のもとにさらされることでしょうか。

暗がりで素敵な空間と思っていたところが、昼には見えなくていいものまで見えるようでもありますが、それでもやはりおもしろいものだと思います。

数日これで弾いてみて、再び元に戻してみると、とりあえずまとまりというか収まりは良くなるかわりに、なんとなく力ない響きのように感じてしまい、人間の慣れというものは困ったものです。

さらにその方のメールによると、この効果はピアノやメーカーによっても違いがあるのだそうで、ご実家の大手の量産ピアノでは少し改善するぐらいで、さほど音に包まれるような強烈な感じにはならないのだとか。

もしかすると、この前屋根の「チョイ開け」こそが、良いピアノかどうかの判断手段になるのかもしれません。
とくにピアノ選びの時には、チェック項目のひとつに加えてみるのも無駄ではないでしょうし、文庫本をちょっと挟むぐらいなら、お店もやらせてくれるでしょう。

2019/03/22 Fri. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

反田さんのショパン 

BSのクラシック倶楽部で、反田恭平さんの最新ショパン演奏が放映されました。
プログラムはアンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ、マズルカop.56-3、ソナタ第3番。
今年1月の収録で、会場は立川市のチャボヒバホール、ピアノはファツィオリのF308。

現在、ポーランド国立ショパン音楽大学に在籍中だそうで、そこでショパンの研鑽に取り組んでおられるとのこと。

反田さんは、いま最も注目される前途有望な日本人ピアニストのひとりだろうとは思いますが、ことショパンに関しては、彼のピアニズムや持ち味からすると、さほど相性が良いわけではないというイメージがありました。
ショパンよりはリスト、ドビュッシーよりはラヴェル、ドイツものよりロシアものというタイプ。
にもかかわらず、わざわざショパンにフォーカスするのか…と思ったし、もしかすると敢えて苦手なものを克服するという挑戦者の気持ちなのか、はたまた次のショパンコンクールが射程にあるのか。

ご本人の弁によると「7、8歳のころからショパンを弾き始めて、いろいろな作品に出会ったが、どういうふうにショパンを弾くのが正しいのか、ちゃんと学びたくて」とのこと。

このコメント、ちょっとひっかかるのはショパンの弾き方に「正しい」ということがあるのか、マロニエ君にはすこし首を傾げたくなります。
たしかにショパンは、多くの人が弾きたがるわりに、演奏のあり方という点ではきわめて自由度の少ない作曲家であるし、あきらかに「間違った」演奏が氾濫している気がします。
かといって「これが正しい」ということを規定するのは甚だ難しいことで、誰それや権威によって「こうだ」と断じられるようなものではないのではないか…ということ。

更にいうと、ショパンの根っこはポーランドにあるとしても、その高貴とでもいいたい美の結晶のようなピアノの芸術は、もはや国境を遥かに超えた存在だし、父親はフランス系、また祖国を離れて生涯をフランスで過ごし没したことなどを考えると、事はそう単純ではない気がするのです。
とりわけ、それぞれの作品に散りばめられた洗練の極致は、とうていポーランドというヨーロッパの一国のみで育まれ、今もその芸術的主権を出身国だけが握っているとはマロニエ君には思えない。

ショパンらしい演奏とは、ショパンの美意識、センスや好み、様式感を敏感に汲み取り、それがさほどの苦労なく共感できる者だけが体現できることで、つまり本質的には独学に委ねられるべきで、あまり人から事細かに叩き込まれるようなものではないと思うのです。


さて、今どきの、そつなく弾きこなすだけでワクワク感のかけらもないピアニストが多い中、反田さんは久々にナマの肉体から出てくる手応えみたいなものがあって、筋肉質な演奏がその魅力ではないかと思います。
少なくとも彼がピアノの前に座るなら、聴いてみたいという気にさせるだけのものはある。

今回のショパンは、しかし、彼の自然さから何か大事なものが遠のいた感じ。
音楽表現上のコントロールなのか、個人的にはもっと大きな制御のかかった感じを覚えました。
ポーランドで学んだことをよく守り、注意深く弾いているのか、普遍的な意味でのショパンとしてのまとまりと見れば、よくなっているのかもしれないけれど、曲そのものが奏者の体を使って自由に羽ばたいていくような感覚とか、随所に仕込まれた詩的な要所が大きく意味をもって語ってくるような生々しさがなく、楽譜に書き込まれた多くの注意事項をよく守り、よくさらって弾いているという感じが前に出ているようでした。
細部にまで注意を張り巡らすことは大事だけれど、それで音楽の推進力が失われてしまっては、作品も演奏も縮こまってしまうだけで、大ポロネーズなど高揚感をもって弾き切って欲しいところを、なんども冷静に姿勢を撮り直すような感じがあるのは、正しいこととは思えませんでした。

またop.56-3のマズルカは一般的な人気曲ではないけれど、マズルカの中では最大級のもので、個人的にとても好きな作品のひとつですが、その悲しみや移ろいがこまやかに伝えられたとは言いがたく、聴く者の心を揺らす大事なところで、シャシャッと処理されていくあたりなどを目の当たりにすると、やはりショパンとはもともと相性が良くないのではないかと思いました。

とくに反田さんぐらいの方になると、大きくピアニズムというだけでなく、細かい単位での演奏フォームというものがあり、そのフォームがショパンに適合しているとは感じませんでした。

ファツィオリについても書きたかったけれど、だらだらと長くなってしまったので、またいずれ。

2019/03/16 Sat. 18:33 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヤマハのすごさ 

遠方に出掛けた折、ヤマハのグランドのうちCXシリーズをほぼ全機種展示しているお店があるというので、ついでといってはなんですが、ちょっと覗かせてもらいました。

ヤマハにはもともとあまり興味はないけれども、現行のCXシリーズは、調律師さんの中には「そこそこいいと思います」というような、一定の評価をされる方もおられます。
日本製品として世界からの評価を得ている量産ピアノという客観的事実を思えば、その最新モデルとはいかなるものか、ちょっと触れてみることも無駄じゃありません。

店内に入ると、うわ、お客さんはゼロ。
お店の方が二人ほどおられて立ち話をしておられましたが、こちらの入店を機にもう一人はどこかに行ってしまわれ、かなり広い店内にはお店の方とマロニエ君の二人きりになりました。
一音出しても店内に響くような静寂の中で、どうぞと言われても「では!」とばかりに試弾をしてしまうような度胸は到底持ち合わせていないので、うわぁ…まいったなぁ…という感じ。

人差し指でぽとんぽとんとやっているだけではどうなるものではないから、おずおずと遠慮がちに断片的に弾いていると、お店の方はこちらの心情を察してか、そっと奥の方へ行ってくださいました。
こういうのも「忖度」というんでしょうか。
とにかく台数が揃っている店で、新品はC1X、C2X、C3X、C5X、C6X、C7Xと横並びし、更にむこうには中古のCFIIIがありました。
ほかにもアップライトなどたくさんあったけれど、とても手が回りません。

というわけで、なんとか新品グランドはひととおり試しました。

もっとも印象に残ったことは、ヤマハというメーカーの恐ろしいまでに計算され尽くした見事な商品構成。
こうして順番に弾き比べていくと、ひとつサイズが大きくなるにつれ、良さがそのぶんだけ確実に加算されていくという事実。
大から小への逆コースもやはり同じ。

だからといって小さいモデルが悪いわけではなく、それでも十分商品として成立して完成されており、買った人はちゃんと満足を得られるようになっているから、決して後悔することはない。
価格の差もそれに準じたもので、どこかの段階で急に高くなるということもなく、マトリョーシカのようにまず大きさの順番があり、そこには納得できる価格差があり、そしてなによりもすごいのは弾き比べてみたとき、少しずつまるで等間隔の階段を一弾ずつ登るようにちょっとずつ良くなっていく、その考えぬかれた性能差を作り出す技術。

たとえば、C3Xを弾いたらそれなりにまとまっているいるけれど、C5Xに移ったら、全体が確実にはっきり、しかしあくまで節度をもって一段良くなる。
さらにC6Xに移るとさらにやわらかさとゆとりが出て、落ち着きが加わり、ここからが大人という感じ。
C7Xに移ると、もうひとつ先が開けて、ブリリアンスが加わりコンサートピアノのエッセンスみたいなものがちょろっと入ってくる。
このあたりの徹底して計算された「差」の出し方は、まさにヤマハの均等な製品づくりにおける陰の実力を見るようで、その見事さが、とてつもないメーカーだと思いました。

少なくともこの日試したグランドは、大きく高価になるほど「良くなる」のであって、そのわかりやすさは、とくに音楽やピアノに精通していない入門者や楽器に疎い先生達などにも、すぐに理解でき体感できるもので、そのサイズ/価格差は誰もが納得できるもの。
その背後に楽器を生み出す工房の気配は感じなかったけれど、巧妙に計算され、最高の工場で生産された日本製品の凄みがありました。

それが楽器作りにふさわしいかどうかは賛否あるとしても、ピアノというものをここまで製品として昇華させたということは、超一流の技術のなせる結果であって、その企業力にはビビリました。

ついでに、中古のCFIIIにもちょっと触りましたが、ヤマハといえどもコンサートグランドというのはまったくの別世界となり、ここではじめて楽器という有機的な感触を受けました。
量産モデルに比べると、格段にものごしがやわらかで底が深く、音もがなり立てず、秘めたる力と慎みがあり、タッチも精妙。
いかようにもお応えしましょうというリッチなおもてなしのよう。

久々にヤマハ一色の時間でしたが、とても貴重な体験になりました。

2019/03/11 Mon. 02:20 | trackback: 0 | comment: -- | edit

またまた中古CD 

中古CDの当たり外れは、困ったことにちょっと病みつきになってきたかもしれません。
もともとが、ダメモトでやっていることなので、失敗してもさほどの痛手ではないのですが、それでもみみっちいドキドキ感はあるのです。
前回までの経験として、あまりの激安はやはりゴミになる確率が高いので、そのへんはより注意することに。

△【アルバン・ベルク弦楽四重奏団のモーツァルト】
思い込みかもしれないけれど、モーツァルトの弦楽五重奏曲といえばあのg-moll KV516のような不朽の名作があるにもかかわらず、意外にもこれといったCDがあるようでない印象。アルバン・ベルク弦楽四重奏団は、1980年代ぐらいからかずいぶん流行った時期があり、マロニエ君もその波にのせられてベートーヴェンの全集など買い揃えたりしたが、技巧的で見事だが、今の耳で聞くとやけに力んでいるようで、そこがいささか古臭くもあり、心から作品の躍動を楽しめるというのとはちょっと雰囲気が違った気がする。五重奏なので、ヴィオラをもう一人加えたもので、この時代特有のやや固く叙情を排した印象だが、とりあえず演奏自体がしっかりしているので聴くには値する。ただし、これでこの作品の核心に触れられるかというといささか疑問が残る。モーツァルトの弦楽五重奏曲でとくに第3番/第4番というのは、何十年来耳にしているから、いかに傑作といえども、そう何度も繰り返して聴く気になれないのが残念。

☓【グールドのリパフォーマンス】
2006年の発売当初からかなり話題だったがどうしても気乗りがせずに買わなかったCD。いわゆる現代のコンピュータ制御による精巧な自動演奏を用いて、1955年のゴルトベルク変奏曲をヤマハのコンサートグランドで再現録音したもの。マロニエ君はそもそも自動ピアノというものが、演奏者と楽器の関係なしに成り立つものである以上、まったく興味がわかないし、それは現代のハイテクをもってしても覆ることはないことを確認することになった。解説文にはこのシステムがいかに優れたものであるかということが縷縷述べられてはいるが、要するに、聴いてみて、まったくの技術屋の機械遊び以外のなにものでもないと思った。タッチは浅く骨抜き、なにより気が入っておらず、うわべだけの霞みたいな演奏は、新録音であろうとサラウンドなんたらであろうと無意味。耐えられずにオリジナルのモノラル録音を鳴らしてみると、いっぺんに目の前が明るくなるような爽快さがあった。モノラルで結構、マロニエ君にとっては精神衛生にもよろしくない1枚。

❍【ドラティのバルトーク】
どんなに音楽が好きでも、あまり馴染みのないまま来てしまった名曲というのは人それぞれあるもので、マロニエ君にとって、バルトークの「管弦楽のための協奏曲」と「弦楽器、打楽器とチェレスタのための音楽」がまさにそれ。つかみどころのない難解な作品のイメージがあったけれど、いざ腰を据えて聴いてみるとまったくそんなことはなく、わりにすんなり馴染むことができたし、なかなかおもしろい作品でかなりの回数を繰り返し聴くことになった。上記のモーツァルトで述べたように、聴き始めの頃だけにある新鮮さというのは、回を重ね時を経るうちにしだいに失われていくのは如何ともしがたいが、そういう意味でも大いに楽しむことができた。いずれも大変な力作で、良いオーケストラの演奏会で聴くには好ましいだろう作品。そもそもマロニエ君は、マーラーやブルックナーに多くあるように、長大な管弦楽のための作品で、曲の出だしが聞こえにくいような感じで開始されるのが、やたら思わせぶりで泥臭く思ってしまうところがある。

❍【ジョシュ・ガラステギのバレエレッスン用CD】
スペイン出身のピアニストらしいが、マロニエ君はまったく知らなかった人。後でネットで検索すると、バレエのレッスン現場ではバリシニコフの時代からこの分野で有名なピアニストだったらしい。曲はバッハからチャイコフスキー、スペイン物まで有名な曲をバレエスタジオでの練習用に編曲したもので、音楽として鑑賞するものではないけれど、マニア的にはなかなか面白いCDだった。なにより印象的だったのは、一切の記載はないけれど、きめ細やか(これは稀有なこと)でしかも朗々とよく鳴る理想的なニューヨークスタインウェイの音が聴けるという点。個人的な印象で云うと、製品ムラというか平均的なクオリティでいうと圧倒的にハンブルク製だと思うが、ごくたまにある当たりのニューヨークの中にはとてつもない逸品があるようで、まさにその音を聴けるだけでも購入した甲斐があったというもの。ちなみにこれ280円だったけれど、ネット上ではなんと4700円というのにはびっくり。

☓【カテリーナ・ヴァレンテ】
この人のことを知らないマロニエ君は、昔のフォーマルな装いの写真からしててっきりクラシックの歌手だた思い込み、閉店間際、4枚組で500円ということもあってついでに購入。はたして音を出してみると古き良き時代のポピュラーで、いわゆるヨーロッパの歌謡曲だった。自分の無知が招いたことだし、クラシックの棚にあったのも要因。ま、たまに車中などでガラッと気分を変えるのにいいかも。


2019/03/06 Wed. 02:06 | trackback: 0 | comment: -- | edit

カレンダー 

日本調律師協会が作られるカレンダーが素晴らしいことは以前のブログに書きました。
月ごとにマニアックなピアノの美しい写真が掲載されていることに驚いたと書いたら、このブログがきっかけで時々メールのやり取りをする方からご連絡がありました。

昔のものもみてみたいと書いたのですが、あくまで機会があればという程度の軽い気持ちだったのですが、その方は手許にあるのでよかったらお送りしましょうか?というありがたいことをお申し出をくださったのです。
なんだか厚かましいような気もしたけれど、見てみたいことは事実だし、せっかくのご厚意なのでお言葉に甘えて送っていただきました。

封筒を開けると、なんと昨年を頭に3年分も入っていてびっくり!
昔の聞いたこともないようなメーカーのピアノが次々に登場するのは見るだけでも価値があり、最後のページには2016年/2017年は「浜松楽器博物館」、2018年/2019年は「武蔵野音楽大学楽器ミュージアム」とあり、大きな組織がきちんと保存しているピアノというわけで納得でした。
つまり、これらは日本に存在しているピアノというわけで、いずれもが過去に何らかの理由で日本にやってきたピアノ達ということになるのでしょう。
昔のほうが数は圧倒的に少ないだろうけれども、マーケテイングだなんだということがないだけに、ピアノにしても多種多様なものが輸入されていたようにも思われ、現代は「多様性の時代」などというけれど、そうとも言い切れない側面もあるような気がしました。

現代の日本で、これだけ多様なメーカーのピアノが入ってきても、まず需要もないだろうし、当のメーカーもなくなったりで、ほとんどが有名ブランドのもので絞められるし、なにより国産量産ピアノの普及によって全国津々浦々まで埋め尽くされ、さらにはそのピアノさえも引き潮となって数を減らしていっているところでしょう。


カレンダーに話を戻すと、毎年いただく海外メーカー系のカレンダーでよく目にするものは、デザインやレイアウトなど制作の経緯は知らないけれど、見るたびに首を傾げるほどセンスがなく、とても使いたくなるようなものではない。
また、今年は日本メーカーのものもたまたま入手しましたが、さらにダサく、見たくもない音楽系タレントのような人の羅列で、いいカレンダーというよりは「ああ、この人達がこの会社と深いつながりがあるんだな」と思えるだけの、自分が使うことはまったくイメージ出来ないようなもの。
どうしてこんな感覚がまかり通るのか、まったくもって理解に苦しみます。

それにひきかえ、この日本調律師協会のカレンダーは本当にすばらしく、普通はカレンダーなど用済みになればゴミ箱行きですが、なかなか捨てる気にもなれません。
どういうカレンダーを作りたいかが明快で、必要以上の狙いが盛り込まれていないことも、却ってこの協会に交換を抱けるし清々しさがあります。
これだけ珍しいピアノを題材にしていれば、いつかネタ切れになるのかもしれないけれど、できるかぎり続けてほしものだ願っています。


近年は、年末といってもカレンダーをいただく機会は少なくなったし、いただいても以前のように単純に部屋に架けて使うということはなくなったのではないでしょうか。
最近は企業や団体なども、カレンダーを作るという恒例行事じたいが激減してるそうで、むかしは筒状に丸められた使わないカレンダーの山が積み上がっていたものですが、ここ最近はそれはすっかりなくなりました。

聞くところによれば、企業も経費節減の折柄、費用ばかりかかってタダで配布しても、大半が使われることなく廃棄されるオリジナルカレンダーというものが、早々に整理の対象になったようです。
いっぽうで、使う側も、絵や写真付きのカレンダーというものが流行らなくなり、実用に徹した文字だけの機能的なカレンダーが好まれ、さらにそれが100円ショップなどで大小様々に売られるものだから、もはや観光写真や見飽きたドガやルノワールの絵がついたようなカレンダーを無抵抗にぶら下げているところなど、ほとんど見なくなったような気がします。

企業カレンダー全盛の頃には、一部にはデザイン優先の気の利いたいいカレンダーもありましたが、全体的傾向としては大同小異、とりわけ音楽関係のそれはセンスがなかったという記憶しかありません。
それでも比較的まともだったのが、グラモフォンのずっしり重い大判カレンダー。
カラヤン、ベーム、ポリーニ、アルゲリッチといったこのレコード会社所属のスター達の写真が12枚、マットな黒ベースに、墨一色で仕上げられたもので、これだけは見るのがちょっと楽しみではありました。

それでも、実際に部屋にかけて使ったことは一二度あるかないかで、結局実用性が低いために使わず、もったいないといって何年もとっておいたりしたものの、最後は廃棄処分に鳴るだけ、それが大半のカレンダーの運命でしょう。

そんな中、日本調律師協会のカレンダーは久々に見るのが楽しい貴重なもので、資料性も高く、これは可能な限り保管していくだけの価値のあるものだと思いました。

2019/03/02 Sat. 00:13 | trackback: 0 | comment: -- | edit

シュベスターのグランド 

シュベスターネタで、もうひとつくだらぬことを。

今どきのネット社会では、どなたもそうだろうと思いますが、自分の興味の対象については、必要もないものまでついあれこれ貪欲に見てしまうもの。
ネットというのはそういう意味では、人のガツガツした部分をイヤでも煽ってくるようです。

くだらない、もっと時間を有意義に使うべき、と頭では思うものの、どうしても興味本位に手先が動いてしまい、ばかばかしい検索をしては、自分にとって欲しい情報から連続して関係ないものまで覗き見るというほうが正しいかもしれません。
そんなことをやっている中で、ネット上ではかなり有名なピアノ店に、シュベスターのグランドがありました。

シュベスターのグランドというのは、それ自体がレア物で、サイズもG60という奥行き183cmの一種類のみですが、多くの個体はもうボロボロで、大掛かりな再生作業を必要とするものが大半のようです。
その中に、珍しくかなり状態のいい一台がありました。
見つけたのは昨年秋ごろだったと思います。

このピアノ店のご主人がかなりのトーク名人で、いかにもフレンドリーにわかりやすくハキハキと説明をされ、ピアノもそれなりに弾けていつも簡単なものを肉厚なタッチで弾かれるので、どんな音のするピアノなのかもかなり分かるようになっています。
果たしてそのシュベスターのグランドは、状態もまあまあだし、なによりその音は軽やかなフランスピアノのようで、聴くなり気に入ってしまいました。

その動画は販売を目的としたもので、状態のいいシュベスターのグランドというのはめったにないこともあり、これはすぐに売れるだろうと思っていました。

ところが、予想に反してなかなかそうはならなかったようでした。
おそらく、これからピアノを買うという人の大半は、やはり大手の新品、もしくはそれに近いものに需要が集中するのか、このめったにない魅力的なピアノであってもなかなか買い手が現れず、ずいぶん長いこと動画もアップされたままでした。

大手メーカーのこのサイズなら、遥かに材質も劣り、音もデリカシーのない大雑把なものであっても、世間一般の定評を得ているから人気もあり、需要も多いことを思うと、ピアノは正当な評価を得るのが殊のほか難しい商品だと思わずにはいられません。

置く場所があれば、さっそく見に行って連れて帰りたいくらいですが、さすがにそれはムリ。
いつしか、この動画はマロニエ君にとって「時折見てはその音を聴いて楽しむもの」となり、一週間に一度は見ていたような気がします。

今年になってもその状態は続いていましたが、2月に入ってしばらくした頃だったでしょうか、いつもの様にその店のホームページから商品一覧を見ると、…あれ?
ついにそのシュベスターの動画がなくなっていました。
お店の商品なんだから売れたら、その動画も無くなって当たり前なんですが、なんとはなしにそこに行けば見られるのが普通みたいになっていたので、とつぜん消えてなくなるのは甚だ勝手ではあるものの、とてもショックでした。

不思議なのは、多くの点でアップライトのうちのシュベスターと共通した音の特徴がある点で、同じメーカーだというだけで、グランドとアップライトでは、形状もまるで違うのに、なぜこれほど相通じる音が出せるのかと思います。
たしかにスタインウェイはアップライトでもスタインウェイの音がするし、これって考えてみたらなぜそういうことができるんだろうと思います。

その後、くだんの動画は、未練がましく探してみたら、「嫁いだピアノリスト」というところにまだ存在しているのを見つけたので、とりあえず安心。
さっそくお気に入り登録しました。

2019/02/25 Mon. 01:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

花の命は… 

先に書いたシュベスターの調整。
今回のそれは殊のほか上手くいって、音を出すたびにハッとするような喜びを感じるピアノになりました。
手作りとはいえ、しょせん高級品でもないアップライトで、こういう状態が到来することは、そういつもあることではないでしょう。

全体に甘い音色、透明感、倍音、頼もしくキザな低音、さらにはシュベスター特有の憂いを含んだ明るさなど、弾けば曲が響きをまとい表情を作っていくあたり、さも価値のある楽器みたいな気配も加わって、再び階下のグランドには触れない日々が続きました。

このシュベスターは製造年代から言えば40年ぐらい経過したものではあるけれど、その音は大手の大量生産の音とは根底のところで違っており、贔屓目にいうならややヴィンテージ風なところがあり、それを楽しむことがこういうピアノの魅力だと思います。

メーカーに関係なく、ヴィンテージもしくはヴィンテージ風の音に慣れてしまうと、なかなか現代の新しいピアノ(高級品は別として、一般的な量産品の音)を受け入れることは、かなり難しくなるような気がします。
それは、ボディは鳴っていないのに、妙な感じにパワフルで、人工的な整ったような無機質な音がバンバン押し寄せてくるあの感じ。

もちろん価値感は人それぞれなので、一概には言えないけれども、音楽を愛好し、ピアノを喜びの対象として捉える向きには、楽器の発する音というのは、自分の感性に直に訴えてくるものかそうでないかは、その楽しさの質という点において、ずいぶん違ってしまうとマロニエ君は考えます。
どんなに精巧できれいでも、工業力が前面に出ているようなピアノは、どうしても心が癒やされることはなく、弾き手もつい技術に走り、ピアノの音を楽しみ、音楽を紡いで幸せになるという感覚を失っていく気がします。

とくにピアノは楽器を標榜しながら、実際には消費財とみなされて新しい物が幅を利かせ、それが標準という顔をしているし、教師や専門家にもそこに疑いを持つ人はさほど多くはありません。
また技術者も、多くの場合が販売ビジネスにも絡んでいる立場から、なかなか核心には迫らないし、あるいはそれに慣れすぎて、理想の音の基準が変質してしまっている気配がなくもない。

そのあたりは、技術者の方にとってはその技術を顕す対象としてピアノがあるから、日本製の精度の高いピアノ、すなわちクオリティの高い仕事がしやすいピアノはどうしても評価があがるし、ヴィンテージ系のピアノに関しては(一定の味があることは認めつつも)、職人としての本能みたいなものがあって、作りの甘さであるとか、音のムラ、新しいピアノにはないような欠点や衰えがどうしても目につくのだろうと思います。

これは、昔の巨匠たちがもし現代のコンクールに出たら、予選さえ通過できないだろうというのと、同じようなことかもしれません。


さて、シュベスターですが、先の調律で音を柔らかくして欲しいと依頼して、ほぼそのようにしてもらった経緯は前回書きましたが、そのときの仕上がりというのがあまりに完成度が高く、かつ繊細だったので、内心「あー、あとは崩れていくだけだろうな…」という一抹の憂慮がありました。
それから2週間ほどしたら、その精妙の限りを尽くした極上の音は雪景色が溶けていくようにしだいに薄れ、完全とは言わないまでも、かな以前に近い音(の硬さ)に戻ってしまいました。

ちなみにこの方はコンサートチューナーでもあり、一夜のコンサートのためのピアノなら素晴らしいものだったと思いますが、やはり家庭用ピアノの調整では、ある程度の耐久性への考慮という側面も欲しいと思ったりで、難しいところですね。

素人考えでは、単純にもっと針刺しをしてハンマーフェルトを柔らかくすればいいのにと思うけど、そう単純なものでもないのでしょうし、時間経過したハンマーはすでに柔軟性を失っていることもあるでしょう。
いずれにしろ毎月調整を頼むわけにもいかないので、もう少しだけ耐久性のある方法はないものかと思うばかりです。

ちなみにこの方から聞いた話では、有名なM商会の技術者には、なんとシュベスター出身の方がわりにおられるそうで、この思いがけない不思議な話にはきょとんとしてしまいました。

2019/02/20 Wed. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

1勝5敗 

古本店で漁る中古CDというのは、やはり良い物に出会う打率は高くはないようです。
もちろんマロニエ君の見極め力が低いから…と言えばそうなんですが。

本来欲しいものや新譜などはネットで新品を購入しますが、よく熟考した上でも失敗はつきもの。

そもそも中古CDは、新品ならまず買うことはないものに敢えて挑戦するわけで、ハイリスクとなるのは必至。
最近もかなり失敗を重ねてしまいました。
5枚中、4枚が失敗(☓)、成功(❍)はたった1枚で、以下の通り。

☓【バッハのピアノ曲】
べつに興味をひくピアニストでもなく、フランス風序曲やイタリア協奏曲など曲もあえて買う必要はないものだったが、ニューヨークでの録音とあり、いかにも大雑把でアメリカチックな雰囲気のCD。マロニエ君は今だにグールドやシェプキンのイメージを引きずっていて、ニューヨーク、バッハ、ピアノとくるとなぜか反応してしまうところがあり、我ながらもうそろそろそんな妄想は捨て去るべきところ。NYスタインウェイの軽やかな響きで聴く現代的なバッハのイメージは見事に裏切られ、モダンのかけらもなく、ピアノの音もどこか重い。ブックレットを見ると、え!?Hamburg Steinway Dとあり、どうりで!と思いつつ、なにひとつ見るべきところのないものでガックリ。

☓【フランクの初期ピアノ曲集】
ナクソスレーベルらしい珍しいアルバム。バラード、4つのシューベルトの歌曲のトランスクリプション、ポーランドの2つの歌による幻想曲、アクス・ラ・シャペルの思い出という内容。出だしからしてどうしようもなくダレてしまう曲、シューベルトの歌曲もただ歌をピアノで弾きましたというだけの感じだし、ポーランド…は聴き覚えのある旋律と思ったらショパンの「ポーランド民謡による幻想曲」のそれだが、ショパンのそれとは雲泥の差で、げんなりするほど退屈。どれも一度聞くのがやっとで、あのピアノ五重奏やヴァイオリンソナタなどを思わせるものはどこにもない。ピアノは音もボワーンとして楽器も調律もまったくみるところナシ。

☓【小沢/サイトウ・キネンの第九】
2002年9月、松本文化会館で行われた演奏会のライブCD。ぜんぜん小沢ファンではないけれど、むかしこの期間限定オーケストラが始まった頃、ブラームスのシンフォニーで聴いた熱気と精緻さが結びついた新鮮な演奏にびっくりした記憶があったので、ベートーヴェンはどうかと購入。果たして、あのブラームスの感動は何だったのかと思うほど無感動。耳をすませばオケの演奏は機能的だし歌手もうまいけれど、総じて覇気がなく、要するになにも迫って来ないし聴く意味が感じられない。会場のいかにも多目的ホール然としたデッドで仕切られたような音響も追い打ちをかけるのか、音に幅がなく縮こまっているようで、がんばって2回聴いたけれど、こういう演奏はとりわけ第九ではしんどい。自宅でCDを聴くのにわざわざこれである必要はなく、フルトヴェングラーでリセットしたくなる。

☓【シフのスカルラッティ】
今を旬とばかりに冴えわたるバッハなど、現代の最も雄弁かつ信頼のおけるピアニストのひとりであるシフ。彼のスカルラッティならさぞやと思ったものの、全体に遊びがなく、固くて艶のない演奏に拍子抜け。スカルラッティの嬉々とした滑舌や色彩とは程遠い、モノクロームな世界。録音もイマイチ。データを見ると1987年の録音で、シフの輝けるピアノを聴くには、もう少し時を待つ必要があったらしい。考えてみれば初回のバッハ全集も途中から急に良くなるところがあって、この人はある時期を境に一気に熟成が進んだと思われる。これはその花開く前の演奏。そういう意味ではスカルラッティも再録を望みたいもので、少なくともこのアルバムに関しては何度も聴こうという気にはなれない。

❍【ひとときの音楽 波多野睦美】
いま注目のメゾソプラノ。歌手といえば一昔前までは華やかなオペラを目指すか、端正なリート系に寄せるかが一般的だったが、この人は中世・ルネサンス期から近現代までの幅広いレパートリーをこなす異色の歌い手。このアルバムでもパーセルを8曲、ほかにヘンデル、モンテヴェルディ、バッハという内容。バックもバロックヴァイオリンの第一人者である寺神戸亮さんはじめその道のスペシャリストが居並び、開始早々、あまりに自然にバロックの時代にいざなわわれる。絹糸のような美しい透明な声、少しもわざとらしさのない様式感、迷いのない澄明な表現で、ともすれば黴臭く聞こえてしまうこれらの曲を、まったく違和感も前提も注釈もなしに、心地よい音楽として聴かせてくれるのは大したものだと思う。ヴィブラートも必要なときにだけ最小限で用いられて装飾音のよう。丁寧で気品があり、かといっていちいち何かを鼻にかけるところもないナチュラルな美がある。すっかり気に入って、何日間もこれ1枚を聴いて過ごした。

たまにこういうことがあるから、ついまたやめられなくなるという繰り返しになるんですね。
考えてみれば5枚で新品一枚分と思えば価格的には許せますが、困るのは聴かないCDがずんずんと積み上がっていくこと。
2019/02/15 Fri. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit