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ぴあのピアの徒然日記

福岡でピアノを楽しむサークル、ぴあのピアの日記です。コメントは機能していませんので、メールを頂けると助かります。

なんだかヘン 

やむを得ぬわけあって、あるコンサートに出かけました。

今どきは、よほどの人気アーティストでもない限り、純粋にそのコンサートに興味を抱き、任意にチケットを購入して演奏を聴きに来るオーディエンスというのは、まずほとんどないといっても過言ではないでしょう。
とりわけ地方の演奏家等であれば、会場は友人知人生徒と保護者および何らかの縁故のある人達の大集会と化すのはほぼ毎度のこと。
会場内は、互いに知り合い率が高いものだから、あっちこっちでお辞儀や立ち話だらけ。
逆にいうと、演奏者を中心に何らかの繋がりでホールの座席を埋めるというのは(有料のコンサート開催の在り方としてはどうかとは思うけれども)、それはそれで大変なことだろう…すごいなあ…とヘンな感心もしてしまいます。

もし自分だったら、何をやろうにも(やれることもないけれど)自分のなにかしらの縁故だけでホールの座席をそこそこ埋めるくらいの人を集めるなんて、とてもではないけれどできる事ではありません。

それはともかく、だから、どう見ても音楽には興味も関わりもないような雰囲気の人が目立ち、開演後も身をかがめて通路を降りてきては着席する人がいつまでも続いたりと、会場がどことなく異質な空気に包まれます。
とくに演奏中、通路を人が動くというのは、聴いている側からするとなんとも迷惑な話です。
さらに、どういう事情があるのかわからないけれど、こんどは席を立ってコソコソと会場を出て行く人までいるなど、まるで映画館のよう。

どんなに身をかがめて動いても、演奏中の客席内の人の動きはメチャクチャ目立つので、どうしても気になってそれがすむまでは演奏もそっちのけになってしまいます。

さらに参ったのは、ソナタの楽章間でためらうことなく拍手をする人が大勢いて、何人かが手を叩くと多くがつられて手をたたきます。
それにつられない人よりつられてしまう人のほうが多いから、この流れが一向にとまらない。
この日のプログラムは、ふだんあまり耳にする機会の少ない曲(しかもソナタだけでも3曲)で構成されており、そのこともそういう現象を引き起こす要因のひとつだったのかもしれませんが、だとしても手許のプログラムには曲目が書いてあるわけだから、少しでもコンサートの心得というか経験があればわかりそうなものだと思いました。
わからないのであれば、少なくとも静寂を破って一番乗りで手を叩くようなことはしないで、まずまわりの様子を伺うくらいの気遣いがあったらと思いました。

演奏者もはじめのうちは軽くお辞儀をしたりしていたけれど、そのうちウンザリしたのか、以降はあからさまに無視していましたが、それでも一向に気づかない御方がずいぶんとたくさんいらっしゃるようでした。

逆に言えば、そんなこともわからないような人まで広く動員されることで、なんとかコンサートが成り立っていると見ることもできそうです。
マロニエ君も半ばうんざりしながら「そういえば『拍手のルール』とかいう本があったなぁ…」なんてことも思い出したりしましたが、とにかくなんだかとても変な気持ちになりました。

この日、いいなと感じたのは、トークが最低限のご挨拶だけで、聞きたくもない曲目解説などに時間を取られなかったことと、アンコールも一曲のみで、そのあとは鳴り止まぬ拍手を制するようにサッとステージの照明が落とされ、同時に客席が明るくなったことで、さっさとお開きになったこと。

この日のコンサートに限らず、本来の演奏に対してはほとんどパラパラだった拍手が、アンコールのおねだりタイムになると俄然熱を帯び、とめどなく手を叩くのは悪しき習慣で、これがあまりにあからさまになると演奏者に対して失礼だというのがマロニエ君の持論です。
演奏者はプログラムに関しては大変な練習を積んでその日に挑んでいるのに、そっちでは気の毒なほど閑散とした拍手しかしなかったくせに、アンコールの要求だけはやけに張り切って手を叩くというのはいかがなものか…。

もし同じ曲でも、前もって決められたプログラムとして本番で演奏されたなら、これだけの拍手は絶対しないはず。
そういうことが嫌なので、一曲のみできっぱり終わりにしたところは、却ってすっきりしました。


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2017/08/15 Tue. 02:48 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ぶきみな音 

つい先日の深夜のこと、そろそろ休もうかと自室に上がろうとエアコンと除湿機をOFFにしたところ、静寂の中からウーッという唸るような音が聞こえてきます。

はじめは冷蔵庫の作動音かな…と思って近づくと、音はまったく全然別のところから聞こえてきます。
それがどう耳を澄ましても、どこからの音か、なんの音なのか、見当もつきません。
壁のようでもあり、天井のようでもあり、あちこちに移動してみるけれど、どうもいまいちわからない。しかし、変な音がしていることは確かで、しかも普段聞くことのない音なので、やはり何なのか気にかかります。

真夜中のことでもあり、こんな正体不明の音が突如するなんて不安は募るばかり。
このまま放置して自室に戻ることもできず、さりとて室内はもう見るところもないし、思い切って懐中電灯を手に勝手口から外に出てみると、それまでウーッといっていた音は一気に音質が変わり、シャーーーッという尋常でない音が耳をついてきました。

「これは水の音」ということがすぐわかり、どうやら足元からのものらしく、屈んでみると地面の奥で水が勢い良く水が流れているのがわかりました。水道管からの水漏れであるらしいことは疑いようもありません!
こういうときって、あまりにも不意打ちをくらったようで、咄嗟に何をどうしていいのかもわからないものですね。
でも、非常にやっかいな、困ったことになったということだけは理解できました。

家の中に戻り、水道なら、やはり水道局だろうとホームページを見てみることに。
それによると、水漏れは陥没事故なども誘発する危険があるので、発見したら一刻も早く連絡をするようにと警告的に書かれています。
そういえば、いぜん福岡市では博多駅前の大陥没事故があって、その規模は全国ニュースになるほどのものだったし、水道局も注意喚起を強めているように思われました。
このとき深夜2時を過ぎていたけれど、フリーダイヤルで24時間受け付けになっており、ともかく電話をしてみることに。

電話に出た担当者は、こちらの住所と、水漏れ箇所は敷地の内側か外側か、というようなことを聞いてきます。
どうやらそれによって修理費用を誰が負担するかが変わってくるようで、この場合あきらかに敷地内だったので、そう伝えると、修理の作業をする水道局の指定業者を案内するので、メンテナンスセンターというところに電話するように言われました。

こちらも24時間対応となっていますが、なかなか電話に出ない。
諦めかけたころ、ようやく男性が出てきて、さっきと同様のことをきかれましたが、その次に言ったことが呆れました。
「この時間ですから、これからすぐに作業員が動くことはありませんので」
「は?」
「水道の元栓を閉める場所はわかりますか?」
「たぶん(あれかなと思って)わかるかもしれません」
「では、そこを開けて、右側にある水道メーターの中のパイロットを見てください。回っていたら水漏れです」
パイロットを見る?…シロウトにいきなりそんなこといわれてもわかりません!
そもそも、こんな夜中に真っ暗闇の外に出てそんなもの見なくったって、地面の中でジャージャーいってる音を聞けば水漏れにきまっているし、だから電話してんじゃん!と思ったけれど、そこは我慢しました。
「で、パイロットが回っていたら、左の止水栓を閉めてください。それで水は止まりますから、朝8時30分すぎにまた電話してください。」

朝8時30分を過ぎると、担当者が交代し、修理業者を紹介するということのようでした。
じゃあ、なんのための24時間対応?と思いましたが、道路や大規模なトラブルの場合は作業隊も動くのでしょうが、一般家屋の水漏れ程度なら一旦元を閉めさせて、対処は翌朝からでいいということなんだろうと思いました。

というわけで止水栓を閉めると音もしなくなり、とりあえずやれやれという感じでした。
とはいえ、最初に音に気づいてからこの電話が済むまでにもかなりの時間がかかったし、朝は朝で修理依頼の電話をしなくちゃいけないし、こうなると、なかなか寝付けず、朝まで寝たり起きたりの繰り返しでした。

時間通りに電話をすると、昨夜とは打って変わってハキハキした女性の声で対応され、それからしばらくして指定業者がやってきて修理開始。
やむを得ず、敷き詰められていた石造り風のタイルも一部を壊すことになり、地面には立派な落とし穴ができるほどの穴を掘るなど、汗みずくになって一日がかりで修理は行われ、夕方前に終わりました。しかも作業員の方はこの酷暑の炎天下の中、作業用の長袖シャツに長いズボン、長靴を履いて、軍手をして、頭には冬のような被りものを巻きつけて、黙々と作業をしてくださいました。
どんなジャンルでも、プロの職人というのはやはり大したものです。

数時間とはいえ、止水栓を閉めれば、家中のすべての給水がストップして不便なことといったらありません。
修理完了後、蛇口をひねればサーッと水が出る、そしてもうあのぶきみな音もしない、そんな当たり前のことにありがたさを痛感しました。


2017/08/11 Fri. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

グランフィール 

またしても友人に教えられて、興味深い番組を見ることができました。

TBS系の九州沖縄方面で日曜朝に放送される『世界一の九州が♡始まる!』という番組で、鹿児島県の薩摩川内市にある藤井ピアノサービスが採り上げられました。
主役はいうまでもなくここで開発された「グランフィール」。
これを装着することで、アップライトピアノのタッチと表現力をグランド並みに引き上げるという画期的な発明です。それを成し遂げたのがここの店主である藤井幸光さん。

グランフィールは2010年に国内の特許取得、2015年には「ものつくり日本大賞」の内閣総理大臣賞を受賞、いまや日本全国の主なピアノ店で知られており、ついには本場ドイツ・ハンブルクでもデモンストレートされたというのですから、その勢いは大変なもののようです。

もともとアップライトとグランドでは、単に形が異なるだけでなく、弾く側にとっての機能的な制約があり、とくにハーフタッチというか連打の性能に関してはアクションの構造からくる違いがあり、グランドが有利であることは広く知られるところ。
具体的にはグランドの場合、打鍵してキーが元に戻りきらない途中からでも打鍵を重ねれば次の音を鳴らすことが可能であるのに対して、アップライトは完全に元に戻ってからでないと次の音がでないという、決定的なハンディがあります。

そんなアップライトに、グランド並の連打性を与えるということは、世界中の誰もができなかったことで、それを藤井さんが可能にしたところがすごいことなのです。
キーストロークの途中から再打弦ができるということは、小さな音での連打が可能ということでもあり、そのぶんの表現力も増えるということ。通常のアップライトでは毎回キーが戻りきってから次のモーションということになるため、演奏表現にも制約ができるのは当然です。
例えば難曲としても知られるラヴェルの夜のガスパールの第一曲「オンディーヌ」の冒頭右手のささやくような小刻みな連続音は、和音と単音の組み合わせによるもので、それを極めて繊細に注意深く、ニュアンスを尽くして弱音で弾かなくてはならず、あれなどはアップライトではどんなテクニシャンでもまず無理だろうと思われます。
それが、グランフィールが装着されていたら可能になるということなら、やっぱりすごい!
もちろん夜のガスパールが弾ければ…の話ですが。

マロニエ君は2011年に、ピアノが好きでここからピアノを買われた方に連れられて藤井ピアノサービスを訪れ、いちおうグランフィールにも触れてはみたものの、上階にすごいピアノがたくさんあると聞いていたため、わくわく気分でそっちにばかり気持ちが向いて、あまりよく観察しなかった自分の愚かしさを今になって後悔しているところです。

その構造については長いこと企業秘密だったようですが、今回のテレビでちょっと触れられたところによれば、ごく小さなバネが大きな役割を果たしているようでした。もちろんそこに到達するには長い試行錯誤があってのことでしょうし、藤井氏が目指したのは「シンプルであること」だったそうです。

しかもそれは既存のアップライトに後付で装着することができて、技術研修を受けた技術者であれば装着することが可能、それを88鍵すべてに取り付けるというもの。
また、このグランフィールを取り付けた副産物として、キレのある音になり、さらにその音は伸びまで良くなるというのですから、まさに良い事ずくめのようでした。料金は20万円(税抜き)〜だそうで、きっとそれに見合った価値があるのでしょう。

開発者の藤井さんは、もともと車の整備の勉強をしておられたところ、高校の恩師のすすめでピアノの技術者へと転向されたらしく、車にチューンアップというジャンルがあるように、ピアノも修理をするなら前の状態を凌ぐようなものにしたい、つまりピアノもチューンアップしたいという気持ちがあったのだそうで、そういう氏の中に息づいていた気質が、ついにはグランフィールという革新的な技術を生み出す力にもなったのだろうと思いました。

これはきっと世界に広がっていくと確信しておられるようで、それが鹿児島からというのが面白いとコメントされていました。
たしかに、大手メーカーが資金力や組織力にものをいわせて開発したのではなく、地方のいちピアノ店のいち技術者の発案発明によって生みだされてしまったというところが、面白いし痛快でもありますね。

鹿児島は、歴史的にも島津斉彬のような名君が、さまざまな革新技術の開発に情熱を傾けたという歴史のある土地柄でもあり、藤井さんはそういう風土の中から突如現れたピアノ界の改革者なのかもしれません。

2017/08/07 Mon. 02:22 | trackback: 0 | comment: -- | edit

まくら 

人によりけりだと思いますが、枕ほど、しっくりくるものを選ぶのが難しいものもないというのがマロニエ君の実感です。

中には、どんな枕でも意に介さず、あってもなくても平気で、横になるなり爆睡できる猛者がいるいっぽうで、ちょっとでも違ったらたちまち寝付けず、中にはマイ枕持参で旅行に出かける人(実際に実行しているかどうかは知らないけれど)までいるなど、ここは非常に個人差がわかれるところでしょう。

マロニエ君も睡眠には苦労するほうで、どこでもすんなり眠れる人が羨ましくて仕方ありません。
当然、枕との相性は非常に微妙で、そのほとんどが合いません。

昔、自分に合ったお気に入りの枕があったのですが、あまりにも長く使ったため、いくらなんでももう潮時だと思ってこれを退役させ、あればまたこれに戻ってしまうだろうからと、思い切って処分しました。
後継枕はないままの処分でしたから、さっそく新しい枕が必要となりました。
合わないで放ってある枕がいくつもありますが、どれもイマイチ。

とくにダメなのが、今流行の低反発スポンジを使った枕で、自分の頭の分だけじわじわ凹むなど、気持ち悪くて仕方がないし、それにあのネチョッとした陰湿な感じが馴染めません。
かといって、高級快適とされる羽根枕は、見た目は華やかでも寝るとすぐにペシャンコになるし、柔らかすぎ。
一定の高さが保持できず、腰がないのがダメ。

柔らかすぎるのがいけないなら、そば殻枕というのもあるけれど、あそこまでいくと硬すぎるし雑で臭いも気になります。おまけに、ちりちりぎしぎし耳元で独特の音がするし、当たりの優しさがないので、あれではくつろげない。

パイプ枕はそば殻よりはおだやかだが、いかにもそれらしいボコボコした感触がダメ。

さらに最近では、頭を置くところだけ凹んだ形状のものとか、高さが任意に変えられるというアイデア商品風のものもあるけれど、これも試してみてどうにも馴染めず、とても「眠り」という難しいところへ入っていく助けにはなりそうもありません。

いつごろからだったか、オーダー枕のようなものがあり、自分の好みに合わせて、中の詰め物の量や高さを整えてくれるというものも出てきましたが、これらはお値段の方もそれなりで、あまりに多くの失敗を重ねているマロニエ君としては、そんなお高いものを買ってまた失敗に終わるのも嫌で、そちらには手を出しませんでした。
とくにデパートなどでは、売り子さんからつきっきりで薦められることを思ったら、結局最後は「買わされるだけ」という気がして、こちらもあまり近づかないようにしました。

いっぽう、暫定的に毎日使っている枕はどこで買ったものか覚えていないけれど、ごく普通なありきたりのもので、高さが微妙に足りないということで、バスタオルを薄くたたんで下に敷くなどの工夫はしてみるものの、決してしっくりは来ていません。

そんなことでお茶を濁しているうちに、ますます寝付きは悪くなるし、やっと寝ても2時間ぐらいで目が醒めて、そんなことを繰り返しながら朝まで繋いでいるといった状態で、これはマズイと思うように。

いらい、枕が売っているのを見ると、いちおう見てみる習慣だけがついてしまったマロニエ君で、某店では枕もたくさんの種類がずらりと並んでいて、良さそうなものをお試し用のベッドで確認するなどしましたが、「これだ」というものには行き当たりません。

ところがマロニエ君の求めている枕は思わぬところにあったのです。
別の用でニトリに行ったとき、やはりちょっと枕の売り場を覗いてみたら、気になるものがひとつだけあり、やはりお試し用のベッドがあるのでそこで横になってみると、これまでになくハッとするほどいい感じでした。
価格も5000円ほどと、まあ普通なのでついに買ってみたところ、これがもうバッチリでした。

いらい、寝付きも多少よくなったし、途中で目がさめることも激減、睡眠時間も長くなりました。
5000円で毎日の健康と快適が得られたかと思うと、安いものです。
いよいよというときは、やはり2~3万する枕を検討する必要があるかなぁ…とも半ば覚悟し始めていたのですが、際どいところで安く済みました。
こんなに合う枕は滅多にないから、予備にもう一つ買っておこうかな?

2017/08/03 Thu. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

『ピアノと日本人』 

TV番組のチェックのあまいマロニエ君ですが、友人がわざわざ電話でNHKのBSプレミアムで『今夜はとことん!ピアノと日本人』という90分番組があるよと教えてくれたので、さっそく録画して見てみました。

ナビゲーターというのか出演は、女性アナウンサーとジャズピアニストの松永貴志氏の二人。
あとから聞いたところによると、そのアナウンサーは民放出身の加藤綾子さんという有名で人気のある人だそうで、今回NHKには初登場らしいのですが、マロニエ君は今どきの女子アナが苦手で興味ゼロなので、どの人も同じようにしか見えず「へーぇ」と驚くばかり。
音大出だそうで、冒頭でマニキュアを塗った長い爪のままショパンのop.9-2のノクターンを弾いていましたが…そんなことはどうでもいいですね。

印象に残ったシーンを幾つか。
日本に最初にやってきたピアノはシーボルトのピアノというのは聞いたことがありましたが、それは山口県萩市に現存しているとのこと。
江戸時代、豪商だった熊谷義比(くまやよしかず)が膝を痛め、その治療で長崎のシーボルトの診察を受けたことがきっかけで交流が始まり、日本を離れる際に熊谷氏へ贈ったスクエアピアノでした。
それが今も熊谷家の蔵の中に展示保管されており、ピアノの中には「我が友 熊谷への思い出に 1828年 シーボルト」と筆記体の美しい文字で手書きされていてました。
日本最古のピアノというのもさることながら、いらい200年近く熊谷家から持ち主が変わっていないということも驚きました。

東京芸大ではバイエルが話題に。
メーソンが来日した折、日本にこの教則本を持ち込んだのが始まりということですが、その後にウルバヒという教本も登場し、両書はその目的がまったく異なっていたとのこと。
バイエルが指使いの訓練を重視しているのにくらべて、ウルバヒは音楽の楽しさや美しく曲を弾くためのテクニックを学ぶ練習曲が多いようで、この場面で登場したピアニストの小倉貴久子さんが弾いたのはウルバヒの中にあるシューベルトのセレナーデで、マロニエ君だったら迷わずウルバヒで学びたいと思うものでした。
しかし、当時すでに先行したバイエルが定着しつつあり、多くの先生がそれをもとに指導を始めて体系化されつつあり、ウルバヒでは指導方法がわからなかったという事情もあって、すぐに消えてしまったようでした。もしこれが逆だったら、日本のピアノ教育もまた違ったものになっていたような気もしました。なんとなく残念。

大阪では堺市にある、クリストフォーリ堺を二人が訪ねます。
ここは世界的にも有名な、歴史的ピアノの修復をする山本宜夫氏のコレクション兼工房で、氏は「神の技をもつ」と賞賛されてウィーンなどからも修復の依頼があるのだとか。
建物の中には歴史ある貴重なピアノが所狭しと並び、工房ではチェコ製のピアノが響板割れの修復をしているところでした。響板はピアノの一番大事なところで人間の声帯にあたり、これが割れることは致命傷だと山本氏は言いつつ、割れた部分にナイフを入れてすき間を広げ、修復するピアノに使われている響板と同じ時代の同じ木材を細く切ってていねいに埋め木がされていきます。
それにより、修復後は割れる前よりもよく響くようになるとのこと。
「割れる前よりよく響く」とはどういうことかと思ったけれど、その理由についての説明はありませんでした。時間経過とともに枯れて張りを失った響板が埋め木をすることでテンションが増すなどして、より響きが豊かになるということだろうか…などと想像してみますが、よくわかりません。

熊本県山鹿市のさる呉服屋が、大正時代にスタインウェイを購入。
そこの娘が弾くピアノの音に、隣りに住む木工職人の兄弟が強い関心をもち、娘に弾いてくれとせがんではうっとりと聞き惚れています。
当時のピアノは家が何軒も建つほど高価だったため、一般庶民はもちろん、学校などでもピアノなどないのが普通の時代。このピアノの音を子どもたちにも聴かせたいという思いが募り、木でできているようだし、買えないならいっそ作ってみようと一念発起します。
木村末雄/正雄の兄弟は、呉服屋の迷惑も顧みず、毎日々々ピアノの構造を確認しながら、見よう見まねで製作に没頭、数年の歳月を経てとうとうピアノを完成させたというのですから驚きました。
木村ピアノは十数台が作られ、現存する1台が山鹿市立博物館に置かれています。
幅の狭い、見るからにかわいらしいアップライトで、内部の複雑なアクションまで見事に作り込まれており、楽器の知識もない木工職人が、呉服屋のピアノを参考にこれだけのものを作り上げたその技と熱意は途方もないものだと思いました。まさに日本人の職人魂を見る思いです。

これを有名な芝居小屋である八千代座に運んで、地元の子供達を招いて松永貴志氏が演奏を披露。
すると、子どもたちが返礼としてこのピアノを伴奏に美しい合唱を聴かせてくれました。
山鹿市にこんなピアノ誕生の物語があるとは、まったく知りませんでしたが、いろいろと勉強になる番組でした。


2017/07/30 Sun. 00:12 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感銘と疲れ 

少し前にBSプレミアムシアターで放送された、グリゴーリ・ソコロフのリサイタルをやっと視聴しました。

2015年8月にフランスのプロヴァンス大劇場で行われたコンサートで、映像はブリュノ・モンサンジョンの監督。
この人はリヒテルのドキュメンタリーなども制作しているし、グールドを撮ったものもあるなど、音楽映像では名高い映像作家。

曲目はバッハのパルティータ第1番、ベートーヴェンのソナタ第7番、シューベルトのソナタD784と楽興の時全曲。
ステージマナーは相変わらずで、ムスッとした仏頂面で足早にピアノに向かい、最低限のお辞儀をしてすぐ椅子に座り、弾き終えたら面倒くさそうに一礼すると、顔を上げるついでに身体はもう袖に向かってさっさと歩き出すというもの。

笑顔など最後まで一瞬もない徹底ぶりで、そんなことはピアノを弾く/聴くために何の意味もないといわんばかり。
聴衆との触れ合いやサービス精神など持ち合わせていないお方かと思ったら、アンコールにはたっぷりと応えるところは意外でした。
結局ショパンのマズルカを4曲、前奏曲から「雨だれ」、ドビュッシーの前奏曲集第2巻より「カノープ」と実に6曲が弾かれ、まるで第3部のようで、これがソコロフ流の聴衆へのサービスなのかも。

全体の印象としては、ぶれることない終始一貫した濃厚濃密な演奏を繰り広げる人で、そんじょそこらの浅薄なピアニストとはまったく違う存在であるということはしっかりと伝わりました。
とくにタッチに関しては完全な脱力と、指先から肩までぐにゃぐにゃのやわらかさで、猫背の姿勢からは想像もつかないダイナミクスの幅広さが驚くべき印象として残ります。
さらに音に対する美意識の賜物か、その音色の美しさには眼を見張るものがあり、弱音域でのささやくような音でも極上の質感があるし、いっぽういかなるフォルテシモでも音が割れず、そこには一定のまろやかさが伴うのは驚異的。
しかもすべてが厳しくコントロールされているのに、奔放な要素も併せ持っているのは驚くべきこと。

また演奏にかける集中力は並大抵ではなく、とてもツアーであちこち飛び回って数をこなすといったことはできないだろうと思われます。

ただ、解釈に関しては本人にしてみれば一貫しているのかもしれないけれど、聴く側からすると、作品や作曲家によってばらつきが大きく、ソコロフの考えに相性の良いものとそうでないものの差が大きいように感じたことも事実。

個人的に最もよかったのはシューベルトで、ソナタD784は普通でいえば退屈な曲ですが、それをまったく感じさせない深遠な音楽として聞く者の耳に伝えてくれましたし、楽興の時も、多くの演奏家が多少の歌心を込めつつ軽やかに、どこか淡白に弾くことが多いけれど、ソコロフは6曲それぞれの性格を描き分けながらずっしりとした重量感をもってエネルギッシュに弾き切り、ソナタとともに作品が内包する新たな一面を見せてもらったようでした。

ベートーヴェンは賛否両論というべきか、この人なりのものだろうとまだ好意的に捉えることができるものの、ショパンになるとまったく共感も理解もできないもので、マズルカの中には聴いていてこちらが恥ずかしいような、どこかへ隠れたくなるような気分になるものさえありました。

この人は、一見オーソドックスでありのままの音楽を、その高潔な演奏で具現化している巨人といった印象もあるけれど、耳を凝らして聴いてみると、作品のほうを自分の世界にねじ込んでいるようにもマロニエ君は感じました。
そういう意味では作曲家の意志を忠実に伝える演奏家というより、ソコロフのこだわり抜いた極上の演奏芸術に触れることが、このピアニストを聴く最大の価値といえるのかもしれません。

まったく見事な、第一級の演奏であることは大いに認めるものの、全体としてあまりにも重く、遅く、長くかかる演奏で、30分ぐらい聴くぶんにはびっくりもするし感銘も受けますが、2時間以上聴いていると、これだけのピアニストを聴いたという喜びや充実感もあるけれど、なにより疲労のほうが先に立ってしまいます。

使われたピアノも素晴らしく、ソコロフの演奏に追うところも大きいとはいえ、濁りのない独特な美しさをもったスタインウェイだったと思います。とくに印象的だったのは音が異様なほど伸びることで、これは秀逸な調律によるものという感じも受けましたが、果たしてどうなんでしょう。


2017/07/25 Tue. 02:17 | trackback: 0 | comment: -- | edit

アジアの覇者二人 

ここ最近テレビで見た演奏から。

日曜のクラシック音楽館で、N響定期公演の残り時間に「コンサートプラス」というコーナーがあり、二週続けてハオチェン・チャンがスタジオ収録した演奏が放送されました。

ハオチェン・チャンは2009年のヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで、辻井伸行と同時優勝した中国出身のピアニストですが、この人の演奏を聴くのは実はこれが初めてでした。
一週目はリストの鬼火、ヤナーチェクのピアノ・ソナタ「1905年10月1日」、ヒナステラのピアノ・ソナタ第1番、二週目はシューマンの「子供の情景」。

長い美しい指が特徴的で、リストの鬼火をものすごいスピードで弾きはじめたのにはびっくりしつつ、あまりにスポーツライクで情感や温もりがなく、マロニエ君の好みではないことがいきなり判明。
ただし、全体に冷やりとすようなシャープさという点は、良くも悪くもこの人の特徴なのかも。

あまり馴染みのないヤナーチェクのソナタなどは、むしろ独特の臭みが消えてスタイリッシュに聴こえないこともなかったけれど、シューマンになると、やはり説得力のある音楽というより指先のクオリティで弾いていることが鮮明となり、ちょっとついていけない気分に陥りました。
もっとも気になるのは、作品が生きている感じがまったくしないこと…でしょうか。

最近のコンクール覇者の例にもれず、大変な技巧の持ち主ではあるようで、なんでも苦もなく弾けるだけの技術的余裕はあるようですが、こういう演奏に接すると、そもそもピアノの演奏というものをどんな風に捉えているのか、本人はもとより時代の価値観にも疑問に感じてしまいます。

ピアノの演奏が、いっそフィギュアスケートのように、多少の芸術性も要求されつつも根本はあくまで競技目的として成り立っているのなら、こういう人が金メダルとなるのは納得できますが、そこから発生する音は、音楽として多くの人々が喜びを感じたり心の慰めに値するものかというと、そういうものとは大きく距離をおいたものらしいと感じました。

余談ですが、ハオチェン・チャンはメガネをかけている写真(モテないガリ勉君みたい)しか知りませんでしたし、冒頭のインタビューではそのメガネ姿でしたが、演奏中はこれを外していて、それが結構イケメンだったのは意外でした。
今どきのことなので、その意外性も計算された「売り」なのかもしれませんが。

さらにその翌週の同番組では、サロネン指揮のフィルハーモニア管弦楽団の来日公演が放送されましたが、オールベートーヴェンプロで、二曲目のピアノ協奏曲第3番では、ソリストがショパンコンクール優勝のチョ・ソンジンでした。
韓国には芸術性に優れたピアニストが多くいますが、その中ではソンジンはむしろ学生風で、マロニエ君としてはなぜこの人が優勝したのかいまだにわからないし、やたら日本でよく演奏する人だなあと思っていたので、正直またかと思いました。

この人のベートーヴェンは初めて聴きますが、基本的な印象はなにも変わらずで、音楽的にあまり成熟感がなく、むしろ音楽的拙さを感じる演奏である点もショパンなどと同じです。
それでも、ハオチェン・チャンの体脂肪を極限まで落としたような演奏を聴いたあとでは、ソンジンがまだしもふくよかで、ところどころにハッとする美しさを感じる場面があったことも事実。

この人は繊細なところが得意のようで、ショパンのコンチェルトでも第2楽章が出色だった記憶がありますが、そんな彼がベートヴェンということだからかタッチにも一段と力がこもり、無理に大きな音を出そうとしているような感じがあって、だからどうしても音が刺々しくなるように感じました。
アンコールにモーツァルトのソナタの緩徐楽章、残り時間に別のコンサートからショパンの13番c-mollのノクターンがおまけで流れましたが、やはりどれも共通するのは練れていないというか、要は未熟な感じで、作品の核心へ到達しているようには思えませんでした。

2017/07/21 Fri. 01:51 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ヒューイット 

クラシック倶楽部で、アンジェラ・ヒューイットの来日公演の様子が放送されました。
今年の5月に紀尾井ホールで行われたリサイタルから、バッハのインヴェンションとシンフォニア(全30曲)というもので、これらをまとめてステージの演奏として聴くのはなかなかないことなので、おもしろそうだと思いながらテレビの前に座りました。

実は、マロニエ君はアンジェラ・ヒューイットの演奏はCDで少し触れてはいた(ベートーヴェンのソナタやバッハのトッカータ集など)ものの、その限りでは深さを感じず一本調子で、あまり興味をそそられることはないまま、それ以上CDを買うこともありませんでした。

見た感じも、芸術家というよりカナダの平凡な主婦という感じで、写真はいつも同じ単調な笑顔だし、少なくとも鋭い感性の持ち主であるとか、デリケートな詩的世界の住人のようには思えませんでした。
手許にあるCDも、あまり深く考えずおおらかに弾いていくだけといった感じですが、これだけ評価が高いからにはおそらくこの人なりの値打ちがあるのでしょう。それがマロニエ君には今ひとつ伝わらず、ただ教科書的に正しく弾いているだけにしか聴こえません。

番組冒頭のナレーションでは「オルガニストの父が弾くバッハを聴いて育つ。1985年トロント国際バッハピアノコンクール優勝。バッハの演奏と解釈では世界的に高く評価され『当代一のバッハ弾き』と称されている。」と、バッハに関して最上級の言葉が出たのにはまずびっくりでした。

過去ではあるものの、同じカナダ人でバッハといえば空前絶後の存在であるグレン・グールドという神がかり的バッハ弾きもいたわけだし、当代のバッハ弾きというならアンドラーシュ・シフという最高級のスペシャリストがいるし、他にもバッハでかなりの演奏をするピアニストは何人もいるわけで、そんな言葉を聴いたこの段階で大いに首をひねりました。

さらに「2016年から4年かけてバッハの鍵盤作品全曲を演奏する『バッハ・オデッセイ』に取り組んでいる。」そうで、この日本での演奏会もその一環の由。

本人の発言としては、
「バッハが我々の心を打つのは喜びを踊りのリズムで表現しているから」
「バッハ自身の喜びと踊りが相乗して、我々を心地よくしてくれる」
「旋律や主題がどのように美しく流れるのかを聴くのも魅力のひとつ」
「現代のピアノの利点は2声3声のインベンションで顕著に現れる」
「音色の違いで複数の声部を聴き分け、さらに音楽の構造を理解できる」
などとおっしゃっていましたが、実際の演奏から、これらの発言の意味を音で確認することはマロニエ君にはできなかったと言わざるを得ませんでした。

音楽の場合、事前にどんな言葉を述べても、それを客観的に演奏から照合し保証する義務がないから、発言と演奏の食い違いはしばしば遭遇することで、今回もまたそれかと思いました。

思うに踊りのリズムというのは、ただノンレガートで拍を刻むだけではなく、各声部の絡みとかフレーズに込められた歌や息づかいが相まって、自然に心や身体が揺れてくるものだと思うのですが、ヒューイットのリズムには肝心の呼吸感が感じられず、踊りというよりむしろメトロノーム的に聴こえました。

声部の弾き分けもむろん聴き取りたいけれど、タッチもクリアさがないのか、むしろ埋没しがちで音符がはっきりせず、この点ひとつでも彼女はシフのバッハ──いくつもの花が咲き競うように各声部が歌い出す演奏──を聴いたことがあるのだろうか…と思いました。
とりわけインヴェンションともなると自分でも弾く曲なのでピアノ経験者はよく知っているはずですが、まるでよそ事みたいで、不思議なくらい曲が耳に入ってきません。

ご自分では現代のピアノの利点云々と言われるけれど、ヒューイットの平坦な弾き方は現代のピアノの機能を十全に使っているとは言いがたく、いつも乾いた音が空虚に鳴るだけ。
ましてや各声部が交わったり離れたり、右に行ったり左に寄ったり内声が分け入ったりする、バッハを聴くとき特有の集中とワクワク感がありません。

マロニエ君の耳には、教科書的で生命感のない昔の退屈なバッハを思い出させるばかりで、冒頭の「解釈も世界的に高く評価され」とはなんだろうという感じに聴こえてしまうのは非常に困りました。
もちろん聴くべき人がお聴きになったら、その高尚な価値をきちんとキャッチできるのかもしれませんが。

バッハはある程度弾ける人が弾いたら、作品の力でとりあえず形になる音楽だと思っていましたが、必ずしもそうでないことがよくわかりました。


2017/07/17 Mon. 02:21 | trackback: 0 | comment: -- | edit

今どきはご用心! 

最近はネットでモノを売買するにも、いわゆるヤフオク以外のいろんなサイトが増えてきていますね。

普段の足代わりにしている車を買い換えることになったのですが、なにぶん年式が古いために下取りと言ってもほとんど値段らしい値段はつきません。でも、乗ろうと思えばまだまだ数年間/数万キロは充分使える状態ではあるし、どうしたものかと思いました。

マロニエ君の場合、クルマ好きであることや性格的なこともあって、自分で言うのもなんですがとてもきれいで、機関的にも常に整備をしているので不具合は全くといっていいほど無いので、そこを理解して乗ってくださる方があれば嬉しいし、実際少しでも高く売却できればありがたいということもあり、はじめこの手のサイトに出品してみました。

はじめはヤフオクと似たようなもので、より地域色の強いものだろうぐらいに思っていました。
掲載してほどなくして、いくつかの反応があるにはありましたが、なんといったらいいか、お店で言うなら「客層」が違うような印象を持ちました。

くわしい商品説明とともに、価格を提示しているにもかかわらず、❍万円で売ってくださいとか、どうしても明日ほしいとか、からかっているのかと思うようなものがいくつか続いて、なんとなくあまり希望の持てるところじゃないような気がしてきました。
そんな中、とても興味があり直接話しがしたいからと、自分の携帯番号を知らせてきた人がありました。

とりあえず電話してみると、同県異市の方のようで「写真でも程度の良さがひしひしと伝わりました!」「ぜひ見せてほしい」とえらく前向きな感じで言われました。さらに明日は営業の仕事で福岡市内へ行くので、よかったらお昼にでも見せてもらえないかということで、マロニエ君もこういうことはタイミングだと思うので、できるだけ意に沿うよう努力して時間を作ることに。

家からは少し距離もある、大型電気店の駐車場で待ち合わせをしたところ、現われたのはスーツ姿の今どきの普通の男性で、さっそく車を見ながら「これはいい!」「すごいきれいですね〜」「こんなのお店じゃないですよね」などと褒めまくりで、かなり興奮気味な様子でした。
せっかくなので試乗もどうぞということになり、その人がハンドルを握りマロニエ君が助手席に乗りましたが、昼休みなのであまり時間がないといっていたわりにはずいぶん走り回って、はっきりは覚えていませんが30分近く走って、ようやくもとの駐車場に戻りました。

すると「ぜひ買いたいので、ネットの掲載を取り下げてもらうことはできますか?」といきなり言われました。
それほど気に入ってもらえたのは嬉しいけれども、いきなりそれはできません。
「少し手付け金をいただくなど、なんらかの約束を交わした上でないと、すぐに掲載を取り下げることは難しいですね」というと、「…ですよね」となり「じゃあ、日曜の受け渡しは可能ですか?」という提案をしてきました。

車の売買は、一般的には「車両本体+名義変更に必要な書類一式」と「車両代金」を交換すれば成立します。
このときが木曜で、日曜の受け渡しということは3日後です。
書類は印鑑証明さえ取ってくればすべて揃う状態だったので、「可能です」と言いましたが、ずいぶん急な話だなあとは思い、別れ際に念のためにもう一度「では、確認ですが、さっそく書類の準備をはじめていいということですか?」ときくと「はい、お願いします」「夜、詳しいことはまたお電話します!」ということでその場は終わりました。

帰宅後、すぐに区役所に行って印鑑証明を準備をしました。
ただ、自分でも迂闊だったのは、こちらの名刺は渡したけれど、向こうのはもらっておらず、携帯番号以外の連絡手段の交換ができていませんでした。これはまずいと思って、携帯のショートメールで、メールアドレスなどを教えてほしいと書きましたが、なぜかまったく反応はなく、それどころか夜の電話もついにかかってきませんでした。その間、何度かショートメールも送りましたが、一切返信はありません。

このあたりで不安は強い違和感へと変わり、「やられた」と思いました。
平日の昼間、無理して時間を作って車を見せに行き、さんざん乗りまわされ、日曜の受け渡しまで応諾させられ、急ぎ書類まで揃えたあげくのことですから、かなり不愉快でしたが、腹を立てても仕方がなく、別に車を取られたわけでもないので、もうこの人のことは忘れることにしました。

ところが翌日、夕食中に突然この人から電話があり、「昨日はすみません、家で揉め事がありまして、どうしてもご連絡できませんでした」「すぐにメールアドレスを携帯に送ります」ということですが、もうこのときは半信半疑でした。
だって、どんなに忙しくても、揉め事があっても、本当にその気ならメールの返信ひとつぐらい、その気があればできないはずがありません。

しばらくするとメールアドレスは知らせてきたので、そこに、受け渡しの場所と時間を決める必要があること、せめて互いのフルネーム、住所ぐらいは交換しましょうと、必要なことを書いて送りましたが、それに対する返事はまたありません。
さらに翌日の土曜、向こうからの着信履歴があったので何度かかけ直しましたが、決して出ることはなく、こういう人とこれ以上かかわるとろくなことはないと判断し、「今回のお取引はご遠慮させてください」とメールで伝えました。

結局、この人はいったい何がしたかったのかわかりませんが、ネット社会の不気味さを勉強させられる出来事でした。


2017/07/12 Wed. 02:44 | trackback: 0 | comment: -- | edit

大雨特別警報 

今夜、ついに雨が止みました。
一時的にしろ、それだけでも感激するほど降り続きました。

先週までは、梅雨だというのに妙に晴天続きで、うまくすればこのまま梅雨明けとなり、むしろ水不足のほうが心配かなぁ…などと思っていたら、とんでもない間違いで、北部九州には未曾有の大雨による甚大な被害がもたらされました。
ここ数日、テレビニュースからは「観測史上最高の…」というフレーズを何度聞いたかわかりません。

大雨特別警報という最高度の警報が発表され、「命を守る行動をとってください!」とものものしい言葉がテレビ画面に映し出され、アナウンサーも同じことを言いますが、それって何をしたらいいのか皆目見当がつかないものですね。

幸いマロニエ君の住む福岡市は、今回目立った直接的被害はないようでしたが、県内のあちこちの地域では、何人もの死者まで出るほどの深刻な結果となり、あらためて自然災害の恐ろしさ、どうしようもなさを痛感させられました。

通常、だれでも雨が降るのは嫌だけれど、少しのあいだ辛抱すればやがて終わるものという、生まれた時から身に付いた感覚をもっています。
ところが、今回の雨はものすごく密度の濃い雨で、うんざりするほどの長期間でした。
これほどの激しい大雨でありながら、時間が経てども経てどもまったく収束しないというのは、かつてあまり経験したことのないもので、じわじわと恐怖が忍び寄ってくるようでした。

夜から降りだした激しい雨が、真夜中になってもまったく衰えず、翌朝目がさめてもそのままで昼を迎え、午後になり、夕方になり、夜になり、真夜中になり、さらにまた翌日になっても一向に収まることがないというのは相当不気味なものです。

さらには、降り出して二日目だったか、夜半からは無数の雷がひっきりなしに鳴りっぱなしで、それが何時間も続くというのもはじめて経験するものでした。
とにかく何もかもが今回はケタ違いだったようです。

これじゃあ地盤もユルユルでしょうし、人間もしおれてカビが生えそうです。
むろんピアノの前の除湿機はフル稼働で、大きめのはずのタンクは半日で満杯になりました。
もう雨は当分御免被りたいものです。

2017/07/08 Sat. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

イタチ 

こないだの日曜日、友人がやってきたときのこと。

何かお昼を作ろうと冷蔵庫をガサゴソやっていると、奥のほうから真空パックされた5本入りのソーセージが出てきました。
すっかりその存在を忘れていて、見れば賞味期限を4ヶ月!も過ぎており、真空パックの場合1~2週間ぐらいであれば期限切れでも平気で食べてしまうマロニエ君ですが、さすがに4ヶ月ではちょっと食べる勇気はありません。

ゴミ箱に放り込もうとすると、友人が庭に置いてみよう?と言い出します。
マロニエ君宅の付近はカラスが少なくなく、ゴミを出すにもその被害を想定していちいちネットを掛けたりするぐらいだから、そんなことしたらみすみすカラスにくれてやるようなものと言いましたが、友人は面白がってどうしても庭に置いてみようと、いい歳をして子供のようなことを言い出しました。

マロニエ君もどうせ捨てるのだからと好きにさせていたら、友人はパックをあけて5本のソーセージを庭の中央にばらまきました。

結局はあとで拾って始末しなくてはいけないだろうと思っていたところ、置いてから10分か15分ぐらい経った時でしょうか、友人の「あっ、見て見て!」という声で庭に目をやると、これまで見たこともない茶色の小動物がちょこちょことやってきて、ソーセージを口にくわえたかと思うと、あっという間に小走りにどこかに消えていきました。

マロニエ君宅の隣家は庭も広く、一部が藪のようになっているのでそのあたりに棲んでいるのか、あるいは隣家の屋根裏あたりが住処なのか、とにかくこれまで一度も見たことのない体調30cmほどのイタチ君のようでした。
友人も思いがけない珍客の到来に大満足の様子で大はしゃぎ。

それから数分後、「あ、また来たよ!」というので見ると、さっきと同じイタチが、細長い身体を波打つようにくねらせるようにしながらやってきて、また1本ソーセージをくわえて同じ方向に去って行きました。
思いがけないごちそうを発見して興奮しているのか、イタチ君はその後も数分間隔でやってきて、けっきょく5本全部のソーセージを持って行ってしまいました。

その後も、まだ何かないのかと思っているらしく、何度もやってきては、今度は庭の隅や塀の上なんかもぐるぐる走り回ってごちそうを探しまわっていました。
イタチなんてどんな動物かは知らないけれど、窓越しに見ているぶんにはちょっと可愛いくもありました。

帰る方角は決まってお隣の藪の方なので、きっと近くに住処があってそこには家族がいるのか、自分だけなのかはわかりませんが、面白いものを見ることができたという思いと、でも、あれを食べて大きくなってまたこっちに来るようなことになったら困るなあという気分でした。

不思議なのは、いつも悩みの種となっているカラスがまったく来なかったこと、さらには普段は一瞬もその姿を見せたことのなかったイタチ君が、最初にどうやって我家の庭にばらまかれたソーセージに、ああも短時間で気がついたのかということ。

まあ、順当に考えれば、相手は野生動物でもあるし、人間には想像もつかないような嗅覚でもあるのでしょう。


2017/07/06 Thu. 02:08 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ラフマニノフ 

ラフマニノフは決して嫌いな作曲家ではないけれど、ピアノのソロの作品を続けて聴いているといつも同じ気分に包まれます。

先日もCD店に行った折、なつかしいルース・ラレードのラフマニノフの全集がボックスで出ていて、しかも今どきの例に漏れず非常に安く売られていたので購入しました。
LPの時代にこつこつ1枚ずつ買い集めたものが、今はこうして1/10ほどの値段で一気に苦労もせずにゲットできるのは、ありがたいようなつまらないような、ちょっと複雑な気分が交錯します。

CDでは5枚組みですが、記憶が正しければ、LPではもっと枚数があったと思ったけれど、内容が減らされた感じもなく、CD化にあたり1枚あたりの収録時間の関係で枚数が少なくできたのかもしれません。

ルース・ラレードはとくに好きというほどのピアニストではなかったけれど、当時はまだ一人のピアニストが一人の作曲家に集中的に取り組み、その作品を網羅的にレコーディングするということが非常に少なかったし、とりわけラフマニノフの多くの作品を音として聴くには彼女ぐらいしかなかったという事情もあったように記憶しています。

LPの時代からそれほど熱心に聴いていたわけではなかったけれど、いざ音を出してみると、ひと時代前の演奏、すなわちどんなテクニシャンであってもどこかに節度と柔らかさと演奏者の主観が前に出た演奏で、いまどきの過剰な照明を当てたような演奏とは違い、なにかほっとするものを感じました。

ただ、冒頭の話に戻ると、ラフマニノフのソロのピアノ作品だけを続けざまに聴いていると、良い表現ではないかもしれませんが「飽きて」くるのです。
例えば前奏曲なども、どれも中途半端に長いし、重いし、ひとつ終わったらまた次のそれが始まるといった感じで、音楽というよりはなにか建築家の作品を次々に見せられるようで、だんだん疲れてきます。

エチュードタブローなども同様で、最後まで一定の集中力を維持しながら聴くのがちょっと辛くなります。
ちょっと集中して聴く気になるのはソナタぐらいで、ソナタは有名な第2番はむろん素晴らしいし、普段ほとんど弾かれない第1番も面白いし、ショパンの主題による変奏曲などもすきな作品と感じます。

というわけでせっかく買ったルース・ラレードも、3枚聴いてまだ残り2枚は手付かずで聴いていません。

そこで、演奏者を変えたらどうだろうと思い、手短にあるもので探して、ルガンスキーの前奏曲集を聴いてみましたが、やはり結果は同じでなんか途中でどうでも良くなってくる。
とくにルガンスキーは曲を変な言い方ですが、くちゃっとまとめすぎて、ラフマニノフ特有の雄大さや余韻のようなものを残してくれない気がします。

そういえば以前NHKのスタジオだったか、ジルベルシュタインがやはりラフマニノフだけを弾いたことがありましたが、この時も一曲終わって次が始まるたびに、なんだか疲れが出てしまうようで、とうとう最後まで見きれずに終わったこともありました。

でも繰り返しますが、ラフマニノフが嫌いなわけではないのです。
これはなんなのかと思います。


2017/07/02 Sun. 12:30 | trackback: 0 | comment: -- | edit

一瞬の悪夢 

いささか滑稽な話ですが、人間はいつ何時、どんな目に遭うかわからないという経験をしました。

日曜の夕方、外出する前に車の窓を拭こうとしてバケツに水を溜めようとしたときのこと。
我が家のガレージの水道には、洗車のために長い巻取り式のホースリールを取り付けています。

そのホースは先端を回転させることにより、水の出方が4種ほど変化するようになっているものですが、それをいちいち動かすのも面倒なので「シャワー」の位置のままにしていたのです。
この日はちょっと急いでいたため、つい蛇口をひねる量が大きめだったのか、はじめバケツ内でおとなしくしていたホースが突然、コブラの頭のように動き出し、すぐ脇で窓拭き用ウエスの準備をしていたマロニエ君に向かって、盛大にシャワーの雨を浴びせかけました。

この予期せぬ事態に、もうびっくり仰天!
外出用に着替えていた服は上下とも無残なまでにびしょ濡れとなり、おまけに動きまわるシャワーヘッドを追いかけているうちに、水は目の前にある車にも容赦なく水を振りまき、車も1/3ほどがびしょびしょです。

というわけで、人も車も仲良く水浸しとなりました。
服のほうはというと、とてもちょっと待ったぐらいで乾くようなレベルじゃないので、一旦家に戻って全部着替えるほかはありませんでしたが、急いでいるときに限ってこんな理由で着替えをするときの、なんと情けなかったことか!

この日は梅雨にもかかわらず、せっかく雨は降っていなかったのに、車の左側はたったいま雨の中を走ってきたかのように屋根まで水滴だらけで、このときは笑う余裕もないほどでした。車のほうは普通なら放っておくところでしょうけど、雨水と違い、水道水は放置すると塗装のシミになるので、マロニエ君としてはそのままということができず、ここから車の水の拭き取り作業までやるハメに。

途中、何度かバケツの水でぞうきんを洗いますが、腰をかがめたときにビビーッと針で刺すような痛みがあることが判明。
はじめは大して気にも留めなかったけれど、何度やってもあきらかで、しかもその痛みは決して小さいものではなく、シャワーがこっちに向かって攻撃してきたときにあまりにも慌てて、ふだんあり得ないようなアクションでのけぞったのが原因だというのはあきらかでした。

これは困ったことになったとは思ったけれど、まあそのうち治るだろう…というか治るのを待つしかないわけで、とりあえず人との約束もあり出発することに。
運転中はシートに身体も収まっているのでわかりませんでしたが、40分ほどで目的地に到着、車を降りようとしたときに初めて猛烈な激痛が体中を貫きました。
右足を地面に出して立ち上がろうとすると、その痛みもさることながら、まったく力も入りません。
やむを得ず両足を外に出し、友人の手助けで両手を支えてもらいながら、数分間かけてやっとの思いで車の外に這い出すことができましたが、激痛は収まらず、支えがなければその場に立っていられないほどでした。

これでは歩くこともままならず、ゆっくりゆっくり腰を伸ばしてみると少しずつ痛みが収まり、それからゆっくりではあるもののようやく歩けるようにはなりました。立って歩くというかたちが定まってくると、なんとかそのことはできるようになるのですが、また座る/立つということになると、そのたびに脂汗が出るような痛みが腰から背中にかけて襲ってきました。

思いがけない水攻めに遭って、イナバウアーではないけれど、咄嗟によほどむちゃな身体が壊れるような動きをしたのでしょう。

その日はなんとか無事に自宅に帰り着きましたが、やはり最も厳しいのは車から降りるときでした。
車のシートは普通の椅子と違って深く座り、運転は腰に重心をかけているから、そのカタチがいったん固まると、今度は腰を伸ばすという変化が一番きついようです。車から降り立ったときは精も根も尽き果てたようでした。

一旦こういうことになると、日常生活も不便の連続で、何をするにも腫れ物にさわるような慎重な動きになってしまい、健康の有り難みをイヤというほど知らされます。
まあ、これが自分の腰ぐらいだからいいようなものの、例えば深刻な交通事故なども大抵は直前まで予想もしないような僅かなことが発端となって起こってしまうのだろうと思うと、あらためて気を引き締めておかなくてはいけないと思いました。

早く治って欲しいけれど、この手合は時間もかかるでしょうし、焦ってもどうにもなりませんね。
たかだか車の窓を拭くというだけのことが、えらいことになったものです。



2017/06/27 Tue. 02:05 | trackback: 0 | comment: -- | edit

ダン・タイ・ソン 

ずいぶん久しぶりでしたが、ダン・タイ・ソンのピアノリサイタルに行ってきました。
せっかくチケットを買われたのに、ご都合がつかなくなられた方からチケットをいただいたのです。

プログラムは前半がショパンのop.45の前奏曲で始まり、続いてop.17-1/7-3/50-3というマズルカ3曲、スケルツォ第3番、リストのジュネーヴの鐘/ノルマの回想、そして後半はシューベルトの最後のソナタD960というものでした。

冒頭の前奏曲はいかにもショパンらしく、薄紙を重ねるように転調を繰り返していく作品ですが、その儚さとセンシティヴな曲の性格をあまりに強調しようとしすぎてか、いささか冗長でむしろ本質から離れてしまっているようでした。
この曲は表面的にはあくまでも緩やかで覚束ない感じですが、その底に激しい情熱が潜んでいるように思うけれども、そういうものはあまり感じられませんでした。
3つのマズルカを経てスケルツォに至りますが、どうもこの曲はダン・タイ・ソンには合っていない曲に思われ、繰り返される両手のオクターブの炸裂が今ひとつ決まらないのが残念。
しかしそんな中にも、いかにもこの人らしい美しい瞬間はいくつもあって、そういうときはさすがだなあ感じることもしばしばでした。

ジュネーヴの鐘も全体に流れる優しげな曲調とあいまって、とても美しい気品あふれるリストでした。
いっぽいう、ヴィルトゥオーゾ的要素満載のノルマの回想は、ショパンのスケルツォ以上にダン・タイ・ソン向きではないと思える選曲で、派手な技巧が次から次へと繰り出されるこの曲をコントロールしきれているとは思えず、よく知っている曲のはずなのに、演奏にメリハリが乏しくなるからか、こんなところがあったかな?と思えるようなところが何ヶ所もあって、どこを聴いているかわからなくなるようなところさえありました。

この日、最も素晴らしいと感じたのは後半のシューベルトで、曲の性格、技巧、さらには最近この曲のCDを出しているようで、そのぶん深く手に馴染んでているようでもあり、もっとも自然に安心して心地よく聴くことができました。
とりわけ出だしの変ロ長調の第1主題の、静謐さ、これ以上ないというデリケートな表現はことのほか見事だったと思います。

アンコールはショパンの遺作のノクターンで(個人的には別のノクターンが聴きたかったけれど)、いまだにダン・タイ・ソンの真骨頂はショパンのノクターンにあるという印象を再確認しました。彼のノクターンには芯があって、それでいて繊細を極め、透明で、表現にも一切の迷いがないところは他を寄せ付けない美しさと強い説得力があります。

全体を振り返って、いかにもダン・タイ・ソンらしく、誠実な演奏でピアニストとしての一夜の義務をしっかりと果たしてくれたと思います。しかし、できることならその人の最良の面が発揮しやすいプログラムであってほしく、とくに前半はどういう意図で並べられたものか、よくわかりませんでした。

プログラムそのものが、ひとつの曲と言ってしまうのは飛躍がすぎるかもしれないけれど、少なくとも聴く側にとっての流れや積み上げといったらいいか、料理でも出していく順序というのがあるように思います。
すくなくとも前半のそれはダン・タイ・ソンに合うかどうかだけでなく、聴いていてなんとも収まりの悪い、しっくりこないものを感じました。マズルカ3曲でさえ、なんでこの3曲がこういう風に並ぶんだろうと納得できませんでしたし、前半の最後がノルマの回想で、休憩を挟んでシューベルトのD960になるというのも、もし自分だったら思いもよらない取り合わせです。

プログラムの組み立てというのは多種多様で、非常に難しいものがあります。
あれっという意表をついたようなプログラムが、聴いてみるとなるほどと感心することも中にはあり、いろいろなあり方があるわけですが、これも要はセンスの問題だと思います。

ダン・タイ・ソンはあくまでもその誠実で良質な演奏が魅力で現在の地位を保っているのでしょう。
惜しいのは、世界の一流ピアニストとしてはテクニックはギリギリで、曲によって余裕があれば聴かせる演奏になるけれど、ある線を超えるとただ弾いてるだけの演奏になってしまうので、彼の場合は、聞く側に不満の残るような曲はあまり選んでほしくないと、マロニエ君などは勝手なことを思ってしまいます。


2017/06/23 Fri. 02:19 | trackback: 0 | comment: -- | edit

忘れていた新進気鋭 

少し前のことでしたが、イタリアの新進気鋭ピアニストということで、ベアトリーチェ・ラナという女性によるゴルトベルク変奏曲のCDを購入しました。
レーベルはワーナークラシックス。

聴いた感想を書かなかったのは、わざわざ書くべきことがマロニエ君としてはあまり見つからずじまいだったから。
至って普通で、今風で、正確で、とくに何かを感じることもないままキチッと弾き進められて行く感じがするばかりで、印象深いところがなにもなかったからでした。
もちろん、いまどきメジャーレーベルからCDを出すような人でもあるし、2013年のクライバーンコンクールで第2位になった人らしいので、テクニックはそれなりのものがあるし、ましてセッション録音なのでキズもミスもなく、演奏というより、どこかいかにもきれいに出来上がった商品という印象でした。

ディスコグラフィーを見ると、チャイコフスキーの1番やプロコフィエフの2番、あるいはショパンの前奏曲やスクリャービンの2番のソナタなどがあるようで、そこでどんな演奏をしているかはわからないけれど、少なくともこのゴルトベルクで聴く限りは、どちらかというと細い線でデッサンしていくような演奏で、イヤ味もないし、いちおう要所要所でメリハリも付けることを忘れていない人という感じでした。
少なくとも強烈な個性とか強い魅力で聴かせるタイプではなく、いかにも国際コンクールに出て成績優秀、最終予選までは残っても、第1位にはならない人…そんな感じといったらいいでしょうか(実際の戦歴は知りませんが)。

そんな印象だったので、名前さえすっかり忘れていたところ、少し前のNHKのクラシック音楽館でN響定期のソリストとしてこの人の名前が出てきたので、そのとき「どこかで見たことのある名前」という感じでやっと思い出しました。
クライバーンコンクール入賞者として、各地各楽団から呼ばれる名簿に入っていて、こうして世界を回り始めているのかもしれません。

曲はベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番でしたが、ライブだけにゴルトベルクとはずいぶん印象の異なる、この人の素の姿を見聞きすることができた気がしました。
説明的であったり構成感をもって弾くタイプではないようで、どちらかというとテンポ感とセンスを前に出す感じ。
指の動きはいいようで、そこを活かしてサラサラと演奏は進み、ところどころに多少の解釈というかデフォルメ的なものも織り込まれているけれど、マロニエ君の耳にはそれがあまり深い説得力をもっては聴こえなかったし、場合によっては浅薄なウケ狙いのような印象さえ持ってしまいました。

仕事も恋愛も確実にゲットして、あたり構わず巻き舌の早口で喋る今どきのデキる女性みたいで、その点ではゴルトベルクでは、ずいぶん慎重にきちんと弾いたんだなぁ、ということが察せられました。
ただ、ピアニストとしての器としてはさしたるサイズではないという感じをうけたことも事実です。

事前にインタビューがあったけれど、指揮者のファビオ・ルイージ氏とは、とくにこの曲ではリハーサルが必要ないほど何度も共演しているが、そのたびに新しい発見があります…と、マロニエ君としては聞いたとたん引いてしまう紋切り型の例のコメントがこの人からも飛び出したときは思わずウンザリしました。
なぜ、みんなこの手垢だらけの言葉がこうも好きなのか、聴衆に対して、同じ曲を何度も演奏することに対する言い訳の一種なのか…。


テレビといえば、題名のない音楽会で反田恭平氏が出る回を見ましたが、シューマン=リストの献呈以外は、パーカッションとのコラボという試みでした。
彼は国際的にはどうなのかは知らないけれど、少なくとも日本国内ではベアトリーチェ・ラナよりは数段上を行く「新進気鋭」で、そんな注目のピアニストが従来通りの決まりきった演奏を繰り返すだけなく、新しいことに挑戦することは素晴らしいことだと思います。

…それはそうなのだけれど、このときやっていることそのものには大いに疑問符がつきました。
ラヴェルの夜のガスパールからスカルボを演奏するにあたり、パーカッションと組んでの演奏で、しかもピアノの内部(弦の上)には定規や金属の棒のようなものをたくさん散りばめて、チンジャラした音をわざと出し、パーカッションとともに一風変わったスカルボにしていたのですが、これがマロニエ君には何がいいのやら、さっぱりわからなかったし、正直言って少しも面白いとは思いませんでした。

保守的な趣味と言われるかもしれないけれど、個人的にはやはりどうせなら反田氏のソロだけで聴きたかったし、そのほうがよほどスカルボの不気味さがでるだろうと思えてなりません。
それはそれとして、折々に映しだされる反田氏の秀でた手の動きは、やはり見るに値するものがあり、ほどよく肉厚な大きな指が苦もなく自在に鍵盤上を駆けまわるさまは、見ていて惚れ惚れするというか、なにか胸のつかえが下りるような爽快感があります。

若いテクニシャンでならすピアニストでも、手の動きとか使い方に関しては、個人的にユジャ・ワンのどこか動物的な指よりは、反田氏の手のほうがずっと心地よい美しさを感じます。

2017/06/19 Mon. 01:53 | trackback: 0 | comment: -- | edit

稀有な出来 

ピアノのブログにたびたび車の話を書くのもどうかと思いますが、以前の続きでもあり、訂正でもあり、意外な発見でもあるようなことがあったのでちょっと書いておきたくなりました。
というか、車の話というよりは、モノの善し悪しを左右する微妙さや分かれ目についてのことと捉えていただけたら幸いです。

某辛口自動車評論家が自身の著書の中で、フォルクスワーゲン・ゴルフ7(7代目のゴルフ(2013年発売))の、1.2コンフォートラインというモデルを「ほとんど神」「全人類ほぼ敗北」という、あまり見たことのないような激賞ぶりだったので、そこまでいわれると、ちょっと乗ってみたくなってディーラーに試乗に行ったことを以前書きました。

評論家氏の表現をもう少し引用すると「1周間前に乗ったアウディA8(アウディの最高級車)にヒケをとらないレベル」「Aクラス(メルセデス)、V40(ボルボ)、320i/320GT(BMW)、アルピナB3(BMWのさらに高級仕様)、レクサスLS、E250/E400(メルセデス)、アストンマーティン(車種略)、S400/550(メルセデス)、レンジローバーなど2013年はいろんなクルマで往復5~800kmのロングドライブにでかけたが、ゴルフの巡航性はマジでその中でもトップクラス、疲労度は1000万円クラスFクラスサルーンとほとんど大差なかったのだから、全人類敗北とはウソでもなんでもない。」「実に甘口で上品なステアリング。走り出しも静かでフラットで、滑るよう。」「お前はレクサスか」というような最高評価が、単行本の中で実に16ページにわたって続きました。

俄には信じられないようですが、この人はベンツであれフェラーリであれ、ダメなものはダメだと情容赦なくメッタ斬りにする人で、じっさい彼の著書や主張から学んだことは数知れず、とりわけ今の時代においては絶滅危惧種並みの人です。

その彼がそれほど素晴らしいと評するゴルフ7とはいかなるものか、マロニエ君もついに試乗にでかけたのですが、結果はたしかに悪くはないけれど、その激賞文から期待するほどの強烈な感銘は受けずに終わったことは以前書きました。ただし、試乗したのがヴァリアントというワゴン仕様で、通常のハッチバックとはリアの足回りが異なり、ハッチバックとの価格差を縮めるために快適装備が簡略化され、そしてなにより全長が30cm長くて重心が高く、車重も60kg重いという違いがあったからではないか…とあとになって考えました。
クルマ好きなくせにずいぶんうっかりな話です。

そこで、ディーラーには申し訳なかったけれど、再度ハッチバックでの試乗をさせてほしいと申し入れました。
日時を約束して再び赴くと、某辛口自動車評論家が激賞したものと同じ仕様の、つまりワゴンではなくハッチバックの1.2コンフォートラインが準備されていました。助手席に乗ってシートベルトをした営業マンの「ドーゾ」を合図に慎重に動き出して数秒後、「え?」これが前回とはまったくの別モノなことはすぐわかりました。
前回「車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかる」と大そう生意気なことを書きましたが、その動き出し早々、なんともいえないしっとり感、緻密でデリケートな身のこなし、ハンドル操作に対する正確無比かつリッチな感触など、車のもつあれこれの好ましい要素にたちまち全身が包まれました。

ディーラーの裏口からの出発だったので、細い道を幾度か曲がりながら幹線道路に出ましたが、その上質な乗り味は狭い道での右左折でも、ちょっとしたブレーキの感触でも、国道へ出てからの加速でも、すべてが途切れることなく続きます。

自動車雑誌も評論家も、昔のような歯に衣着せぬ論評をする気骨のある風潮は死滅しているのが現状で、誰もが誰かに遠慮して本当のことを書かなくなりました。いうまでもなく常にスポンサーの顔色をうかがい、本音とは思えぬ提灯記事ばかりが氾濫しているのです。
というわけで、現在では、この人の言うことだけは信頼に足ると思っていた某辛口自動車評論家だったのですが、第一回目のワゴンの試乗以来、もはや彼の刀も少々錆びてきたんじゃないか…という失望の念も芽生えていたところでした。

しかし、それは嬉しい間違いだったようで、さすがに「神」かどうかはともかく、なるほど稀に見る傑出した1台だということはすぐに伝わりました。価格はゴルフなりのものですが、これが何台も買えるようなスーパープライスの高級車の面目を潰してしまうような(走りの)上質感と快適性とドライビングの爽快さを感じられる稀有な1台であることは、たしかにマロニエ君も同感でした。
ボディは軽く作られている(現在の厳しい安全基準とボディ剛性を維持しながら、ゴルフのような世界中が期待する名車を軽く作るというのは、ものすごく大変なこと!)のに剛性は高く、小さなエンジンを巧みに使いながら、まったくストレス無しに軽々と、しかもしなやかさと濃密さを伴いながらドライバーの意のままにスイスイと走る様には、たしかにマロニエ君もゾクゾクもしたし口ポカンでもありました。

ついでなので、1.4ハイラインという、もう少し高級な仕様に乗ってみましたが、こちらは確かにエンジンパワーは一枚上手ですが、1.2コンフォートラインにあった絶妙のバランス感覚はなく、従来のドイツ車にありがちなやや固い足回りと、上質な機械の感触を伴いながらある種強引な感じでズワーッと走っていく感じでした。これ1台なら大満足だったと思いますが、1.2の全身にみなぎるしなやかな上質感を味わってしまうと、相対的にデリカシーに欠ける印象でした。

べつに無理してオチをつけるわけではないけれど、結局、車も楽器と同じだと思いました。
要は理想の設計とバランス、各部の精度の積重ねが高い次元で結びついた時にだけ、まるで夢の様な心地良いものがカタチとなって現れることが稀にあるということ。それは同じメーカーの製品であってもむろんすべてではなく、なにかの偶然も味方しながら、ときに傑出したモデルが飛び出してくるということでしょうか…。
濃密なのに開放され、奇跡的なのに当たり前のようなバランス、ストレスフリーで上品な感じは、まさに良い楽器が最高に調整された時に発する、光が降り注ぐような音で人々に喜びを与えてくれる、あんな感じです。


2017/06/15 Thu. 01:26 | trackback: 0 | comment: -- | edit

価値はいずこ? 

日本人による日本製のピアノに関する評価基準というのは、大メーカーの製品ばかりが中心らしく、楽器としての正当な評価がなされてはいないだろうと思ってはいたけれど、根深い大ブランド偏重という点では、やはり驚くべきものがあるようです。

具体的なブランド名は敢えて書きませんが、ネットの相談コーナーを見ていると、国内で一定の評価を得ているいくつかの手造りピアノと、大手による大量生産のピアノ(どちらも中古)のいずれを購入しようかと悩んでおられる方の質問がありました。

価格はブランド力の違いからか、良質な素材を使っていると定評ある手造りピアノのほうがむしろ安く、単なる量産品のほうが逆に高額だったりで、ずらりと書き込まれた回答者達は、技術者/一般ユーザーいずれも大手の製品を当然のように勧めていることにびっくり。
それも楽器としての価値や魅力、音の善し悪しに照準を当てた話ならともかく、大したこともないわずかな安心感や、さらには将来の買取価格/リセールバリューに関する価値ばかりが大真面目に取り沙汰されていることに愕然としました。

これから手に入れて長い時を共にするピアノであるのに、果たしてどれが本当に弾いて楽しく喜びを得られるかという記述はひとつもなく、主にわずかな買取価格の話にばかり終始します。手作り品のほうは知名度が低いから殆ど値がつかないとか、下手をすれば処分代をとられることもある、それに比べれば量産品のほうがまだかろうじて値がつくわけで、だから有名メーカーの方を買われることをおすすめしますといった主旨のもの。

これが業者間の話なら、事はビジネスだからそういった意見もまだいいとしても、一般のユーザーに宛てたアドバイスがそこだったことにとても驚かされたというかショックを受けました。

たしかに相談者がどういった部分に重点を置いて相談されているかまでは正確にわからなかったことも事実ですが、すくなくとも質問の感じからして、それをさらに将来手放すときの金銭的価値の話ではなく、ピアノとしてどっちを選んだほうがいいでしょうか?という、単純かつ漠然としたものだったように感じられました。
おそらく、音の感じとかピアノとしての味わいや音楽性などのことと、機構的な心配はないかといったことだろうと思います。
とこらが、回答者はすべて「買取の場合にどれだけ値がつくか」という一点のみに終始し、純粋に楽器としての良し悪しに対する記述は一つもないのには言いようのない価値基準の貧しさを感じました

これからピアノを買って、家において、弾いて、音楽に触れ、ピアノと関わろうというのに、将来手放すときの金銭的価値が残るか残らないか、そういうことばかりに価値を置き、だから大手メーカーがオススメだと何人もの人が堂々と言ってのける感性には、本当に驚かされました。
極め付きは「わざわざ❍❍万円(売値)の処分困難な粗大ゴミをあえて買いますか?」といった強烈な言い回しで、こんなにも文化意識の欠落した寂しい考え方があるのかと思わず背筋が冷たくなりました。

たしかに、手作りとは名ばかりの、アジア製の得体のしれないたぐいのピアノならわかりますが、れっきとした日本のピアノ史に名を残す名器と言われるようなピアノが、いざとなるとこのような不当な扱いを受けていることにただもう唖然とするばかり。

たしかに、将来手放すときにいくらかの金銭的な価値が保持されればそれに越したことはないかもしれませんが、もともとが安い中古品で、出てきた価格はせいぜいちょっとした電子ピアノぐらいのに毛の生えた程度の価格です。
100万円も出すというのなら少しはリセールバリューの面も気になるのはわかりますが、こんな価格帯で職人の気骨で作り上げられたピアノがあり、しかも弾いた人が音色や響きが気に入ったとすれば、それが最も大切なことではないかと思うのですが…。

おまけに回答者の言い分としては、そもそもそんなピアノはタダ同然もしくは処分料を取って仕入れるのだろうから、販売する業者は「ボロ儲けのはず」で、そんなボロい商売にまんまと乗せられるようなことは自分はしない!というようなニュアンスの記述まである始末です。
でも、いくら仕入れが安くても、今どきピアノなんてそう簡単に売れる品目ではないし、中古の場合、商品として仕上げるためには相当の労力が必要とされ、おまけに売れるまで在庫としてかかえるリスクまで考えれば、ボロ儲けだなんてマロニエ君にはとても考えられません。

そういえば思い出しましたが、車でも新車を買う際、自分が一番気に入った色ではなく、将来下取に出したときに少しでも有利になる人気色で決める人が少なくないらしいのですが、こういうこともどこかおかしいなと思います。

それでも車は何色でも機能的には無関係ですが、ピアノはメーカーや材質や製造者のこだわり如何によって音や響き、ひいては音楽する喜びまでまったく変わってくるというのに、大量生産の大メーカーでないピアノは粗大ゴミだと決めつけ、相談者へさも真実のアドバイスであるかのように言うとは、その勘違いと偏りはいささか度が過ぎていやしないかと思いました。

だったらベニヤ板みたいな響板に羊毛のクズを固めたようなカチカチの超安物ハンマーが付けられた、音階の出るおもちゃみたいな音しかでなくてもても、鍵盤蓋に有名メーカーのロゴさえあればいいということですね。
これが悲しき現実なんでしょうか…。

2017/06/11 Sun. 01:29 | trackback: 0 | comment: -- | edit

感銘の不在 

BSで録画しているものの中から、マリインスキー・バレエの『ジゼル』を見ました。

昔はチャイコフスキーの3大バレエを始め、ジゼルなどのクラシック・バレエはよくテレビでも放映されていた記憶がありますが、最近はもっぱら創作バレエ的な現代もののほうに軸足が移っていったのか、中には美しいもの斬新なものもあるけれど、マロニエ君にとっては30分見ればいいという感じで、古典の名作を落ち着いて見る機会が減ったように思います。

そういう意味でも『ジゼル』全2幕をじっくり見られるのはずいぶん久しぶりな感じでした。
ジゼルを踊ったのは、最近の顔ぶれはあまり詳しくないけれど、どうやら同バレエ団のプリンシパルらしいデァナ・ヴィニショーワ、アルブレヒトはパリオペラ座からの客演でマチュー・ガニオ。

ボリショイと並び称される伝統あるマリインスキー・バレエがホームグラウンドでおこなった公演とあって、それなりに期待したのですが、オーケストラを含めて(指揮もゲルギエフではないし)全体に印象の薄い、軽い感じで、現在のメンバーでそつなくこの名作を踊りましたという感じだけが残りました。

要するに他のジャンルと同じ傾向がバレエにも波及しているというべきなのか、みんな上手いし、決められた振付を難なくこなしてはいくものの、観る側に深い感銘というのが伝わってこないもので、器楽演奏でもオーケストラでも、なんでもがこういう流れに陥る時代が、ジャンルを超えて浸透しているということでしょう。

マリインスキー・バレエのジゼルならメゼンツェワの映像も残っているし、写真以外では見たことはないけれど、往年の名花であったイリナ・コルパコワもオーロラ姫の他にジゼルを得意としたそうですし、ボリショイの歴史にその名を残すプリマであったマクシモワもジセルがお得意だった由。
また、1980年代だったか、ボリショイの芸術監督であったグリゴローヴィチの舞台を、当時のNHKが集中的に収録したことがありましたが、あの時代のボリショイで女王のごとく君臨していたナタリア・ベスメルトノワが踊ったジゼルは、さすがに若いうぶな娘には見えなかったけれど、それはそれは濃厚で彫りの深い芸術そのものの踊りでした。
おまけに、それからほどなくしてボリショイの日本公演があって、ほぼ同じメンバーで実演のベスメルトノワのジゼルを堪能することができましたが、ずっしりとした百合の花のような踊りは他を圧して、一瞬一瞬が味わい深かく、しかも正統的かつエレガントであったのは一生忘れることはないと思います。

その点、今度見た新しいジゼルは、なにもかもが安く仕立てられた簡易製品のようで、みんな上手くてべつだん問題はないけれど、真にいいものに触れたときだけにある、心の深いところが揺さぶられて覚醒させられるような後味はまったく残りませんでした。
ミスもなく、テクニックもあり、決められた通りの振り付けを淡々とこなしていくだけで、別のキャストでもいいという感じ。

昔のままだったのは、マリインスキー劇場の、まるで王が引きずる豪奢な衣装のような緞帳だけでした。


何もかも安く仕立てられたということでふと思い出しましたが、辛口批評で評判のさる自動車評論家の単行本を読んでいると、7世代目に当たるVWゴルフを「神」とまでいって絶賛しまくっていたので、そんなにも素晴らしい現行ゴルフとはいかなるものか、将来の買い替えへの予備知識も兼ねて試乗に行きました。

工業製品としては、一部の隙もなく作られているし、今時のぶくぶくしたデザインではなくてカッコもいいし、さすがあれだけ褒めちぎるだけのことはあるらしいと、期待に胸を膨らませてスタートしました。
ちなみに、車の良し悪しというのは、大げさにいうと10m走らせただけでわかります。
もちろん悪くはありませんが、期待ほどではない。そこそこいいのですが、なにも「神」を引き合いに出すほどいいのかというと、それほどでもありませんでした。

試乗したのはヴァリアントというワゴンタイプで、辛口評論家が絶賛していたのは通常のハッチバックタイプでしたので、その差はいくらかあったかもしれません。助手席のディーラーの人に聞いてみると、ワゴンタイプのほうが重い荷重を想定してリアのスプリングレートが多少ハードに仕立てられているので、普段の乗り心地は若干固いとのこと。
また、エンジンは時代の趨勢によって「ダウンサイジング」といって、小さな排気量にターボを付けて、より大きな排気量のエンジン並にパワーとトルクを得ながら低燃費も両立するというもので、これがまた「1.2リッターとは思えない力」と書かれていたけれど、マロニエ君は正直いってあきらかに実用性の点からいってもアンダーパワーで「ちょっときついなぁ…」と感じました。

車のことをわざわざここに書いた理由は全体的な印象故で、実用車としての完成度、装備、パワーや燃費、ハンドリングなど、ひとつひとつの要素はよく出来ておりちゃんと時代の要求をちゃんとクリアされているけれど、全体からにじみ出る雰囲気にどうも安っぽさが隠せないというか、いかにも現代のテクノロジーで作られた、ギリギリによく見せようとした車という出自が隠せていませんでした。
見た目も立派だし、なかなかのグッドデザインでもあるけれど、製品から醸しだされる重みとか充実感、もう少し甘っちょろい言い方をするなら、かつてのドイツ車にあった、いいものだけがもつ有り難みとか作り手のプライドのようなものを感じるまでには至りませんでした。

この現代最高と評されるジゼルとゴルフに、なにやらとても残念な共通項を見た気がしたわけです。


2017/06/06 Tue. 01:55 | trackback: 0 | comment: -- | edit

相談 

車の仲間である某氏から、思いがけなくピアノの相談を受けました。

車の集まりではピアノのピの字も口にしないのですが、まあそれでもマロニエ君がピアノ好きであることを何かの折にチラリと話したことが相手の方の記憶の底に残っていたようです。

その相談というのが、30数年前にカワイのアップライトピアノを買われて、それをさらにそのお子さんが受け継いで弾いておられるようで、なんとも素敵な話です。
中学生ぐらいになり、だいぶ上達したとのこと。
ところが、ピアノの先生のところにはグランドがあって、お子さんによれば先生のところのピアノは弾きやすく、それに比べると自分のピアノは甚だ弾きづらいとのこと。
とくに強弱の差がつけにくいとあって、それが思った通りに弾けないという点に不満が募っているらしく、どうしたものか…ということでした。

すでに古いピアノではあるし、機能的にもそういう「問題」が出ているから買い替えも検討中とのこと、ピアノといえども機械ものなのでそういうものだろうか?というご相談を受けたというわけです。

もちろんマロニエ君は専門家ではなく、一介のピアノ好きにすぎず、責任ももてないので断定的なことは敢えて言いませんでした。
言えることといえば、グランドとアップライトではアクションの構造がまったく違うので、グランドを買われるのならともかく、同じアップライトをただ新しいものに買い換えられるのであれば、事前によく考えてみるべき余地があるということ。

言うまでもなく、ピアノは木材の他に金属、多くのフェルトなどの天然素材を多用し、それらは弾かれることと経年変化によって「消耗」するものだということ、無数のパーツがまさに精密機械のように複雑に組み上げられ、機能し合うことによってピアノ本来の弾き味を作り出しているということを簡単に説明しました。
ほんらい弾力があるべきものが固く潰れてしまえば本来の柔軟な動きは阻害され、とりわけ微妙なタッチコントロールはにづらくなるわけで、もともと機械ものにはめっぽう詳しい方なので、車と楽器という違いはあれども、理屈はあるていどすんなり理解されたようでした。

で、素人のマロニエ君が想像でいくら何を言ってみたところで埒が明かないので、ひとまずオススメしたのは、信頼のおけるプロの技術者の目でそのピアノが現在どのような状態になるかを見てもらい、各所の調整や簡単な消耗品の交換によって本来の機能を取り戻せるのか、価格はどれぐらいか、あるいはもっと本格的なオーバーホールが必要なのか、そのあたりのことを正しく判断してもらうのが最良ではないかといいました。

さらに最も気をつけるべきは、優れた技術を持たれた方というのは当然としても、メーカー系の技術者には決して依頼せず、販売ノルマのかかっていない、フリーの技術者さんに診てもらうという点だといいました。
べつにメーカー系の方を批判するつもりはありませんが、メーカーに在籍してそこから給金をもらっているからには、上から新品の販売圧力がかかっているのは当然だからです。これは世の常ともいうべきことで、どんなジャンルでも似たりよったりかもしれませんが、とくにピアノ業界はその傾向が強いように感じるからです。

聞いた話では、簡単にできる修理も調整も敢えてしないで、素人にわからない専門用語を並べ立てて買い替えに誘導するというあまり感心できないやり方です。もちろん新品が売れて初めて利益が出る会社にしてみればやむを得ない手段かもしれませんが、でもやはりマロニエ君は充分修理や調整の可能なものを「できない」と言いくるめて、望まない買い換えを強引にさせるというやり方には賛成しかねるのです。

昔のピアノはとくに一流品でなくても、あたりまえに木材をはじめ普通に天然素材を使って作られていましたが、今のピアノは(聞いた話ですが)外目は立派すぎるほどの分厚くてピカピカの塗装で覆われているから見てもわからないけれど、普通の人が木だと信じている部分の多くに、木の屑を集めて固めた集成材はじめ、ひどい場合はプラスチックなども多用されている由。とても楽器と呼べるようなものではなく、心に滲みない機械的な音階の出る製品に成り下がってしまっているとも聞きます。

不幸にして家が火災になったところ、木だと思っていたピアノ(全部ではないでしょうけど)がドロドロと溶け出してプラスチックが多用されていたことがわかったという話も聞いたことがありますし、おそらく技術者さんたちはもっとお詳しいのでしょうけれど、みなさん業界に身をおいてお仕事をされるためか頑なに口をつぐんでおられるようです。

また、有名な日本製ブランドは名乗っていても、とくにアップライトに関してはアジア製であったり、あるいは「日本製」とするために、ほとんど海外で出来上がったものを輸入して、最終組み立てだけ日本でおこなうというようなことだけするようなケースも珍しくないそうです。
何かの本で読みましたが、ほとんど完成したピアノを途上国から輸入して、ペダルだけ日本で取り付けて「日本製」とするような場合もあるようで、マロニエ君だったらそんなピアノは絶対に欲しくはありません。

できたら、最低限の消耗品の交換と調整によって、本来のきちんとした機能を取り戻してくれることを願っています。

2017/06/03 Sat. 01:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

カーナビもほどほどに 

先般書いた関西への旅ですが、今回は途中出雲方面に立ち寄ることなどもあって、車で行きました。

車本体にもカーナビはありますが、マロニエ君も時代の趨勢に従って今回はiPod miniをアームレストに置いて、グーグルナビをメインに、車載のカーナビをサブ機として走りました。

急ぐときの使いやすさ、見やすさ、ルートの種類が選択できることなど、カーナビのほうがまだまだ上を行く点も多いけれど、グーグルナビがなによりも優勢なのは、地図情報が常に最新のバージョン(しかも無料)である点でしょう。
で、途中まではグーグルナビを使っていたのですが、2日目に大阪市に入るあたり、宿泊地であるホテルを目指すときにはカーナビを使いましたが、結果からいうとこれが大いなる間違いでした。

大阪での宿は安くて快適・便利に泊まれたらいいというわけで、JR福島駅(大阪駅のとなり)の真ん前にあるホテル阪神を予約していました。
しかし、マロニエ君は東京の道はだいたいわかるけど、大阪はまったくチンプンカンプンなので、ひたすらカーナビの指示に頼りっきりでした。

いよいよホテルが近づいてきたという時、隣の友人が「あ、ここを左折!」とほとんど叫び声に近い言い方をし、慌ててハンドルを左に切りましたが、そこは福岡でも走ったことのないような信じられないほどの狭い道で、道というより路地裏といったほうがいいようなところでした。

しかもただ道が狭いだけではなく、いろいろな看板やら自転車がひしめき合い、普通の判断じゃ通るのは無理。
とてもじゃないけれどこんなところを走る自信はありませんが、カーナビはこの道だと言っているし、目指すホテルは(この時点ではよくわからないけれど)目前のようで、とにかく最大限の注意をしながら「行くしかない」ということになりました。

やがて左に曲がる指示が出ますが、とても曲がれるような幅はないし、あいかわらず多くの自転車はじめガチャガチャとモノが無造作に飛び出しているし、さらに曲り角には意地悪のように電柱が何本もあって、これは無理と言いましたが、だからといってホテルをスルーするわけにも行かない。

左右のミラーなど数センチ、脂汗の出るような思いで、なんとか曲がることだけはできたものの、なんとすぐ先は行き止まりではないですか!!!さらに追い打ちをかけるように後ろから軽トラがこの道に入ってきました。

バックして自分の車をどかさないことにはどうにもならず、この時点でもうほとんどパニックでした。
前進でさえやっとの思いで左右数センチのすき間を狙いながらやっと入ってきた道を、今度はバックで、しかもさっき途中で左折した角をバックで曲がらないことには、後ろで待っている軽トラが前に進むことはできません。
さすがにこの軽トラもこちらが難渋しているとわかっているらしく、おとなしく待ってくれてはいます。

マロニエ君の車は今時にしては大型車の部類なので、これはとても無理だと思いましたが、ここで車を捨てていくわけにも行かず、何度も切り返しながらバックで左の角に入ろうとしましたが、あまりの狭さに身動きが取れず、ついに車が電柱に接触しまいました。
全身脂汗に包まれながら、なんとかその場を脱したものの、車を降りてみると、フロントの右側(あまりにも後ろと右側に気を取られていたため、こっちの注意が手薄になっていたようです)にザーッと電柱でこすった傷跡が残り、もうがっかり。

車をぶつけるのにどこならいいということもないけれど、やはり遠い旅先でそういう事が起こるのはショックも倍増です。
その後、カーナビを無視して大きな道に出て、普通にホテルを探すと、なんとさっき通ってきたばかりの福島駅前の大通りに面した大きな建物がそれで、そこには堂々たるエントランスというか、かなり広い車寄せまであるのを見たときは、二度腰が抜けました。
つまり我々は、カーナビ様の命令に盲従しすぎたため、目指すホテル前を通過したあげく、あのジャングルのような路地裏に迷い込んでしまったのでした。

痛い教訓でしたが、カーナビというのはルートも情報も決して絶対なものではなく、とくに目的地のどこを示すかによって最後のルートが大きく影響を受けのは、よほど要注意であると身を以て経験させられました。
これがはじめから正面玄関を示してくれていれば、何も事はおこらなかったはずなのに、地元ならともかく、見知らぬ土地でこそ頼りにするのがカーナビで、それをいちいち疑うことはやはりしないし、言われる通りにしてしまうのが困りものです。

それ以外は無事に福岡に戻って、車はさっそく板金修理に入っていましたが、昨日やっと連絡があり、塗装の修理が終わったそうです。やれやれ。


2017/05/31 Wed. 01:58 | trackback: 0 | comment: -- | edit

うれしい変身 

シュベスターの調律を含む、各種調整をやっていただきました。

前回書いたように、音の良さも霞んでしまうほどに納品後の調律は乱れ、タッチもバラバラ、ペダルのタイミングも過剰気味で、せっかくの日本屈指の手造りピアノであるはずなのに、それらしき片鱗はあまり感じられない状態でした。

これまでのグランドの調整経験からしても、この状態が気落ちよく弾けるようになるまでには、相当の時間が必要だろうし、それでもどうなるかは保証の限りではなかったので、事前に技術者さんにメールをし、納品から10日ほど経っての印象、とりわけ問題と思われる箇所等を書き出して具体的に伝えることにしました。

そのほうが技術者さんにこちらの不満点というか、希望を文書で伝えることができるし、そういう心づもりで来ていただいたほうが、いきなり伝えるより良いだろうと思っての配慮でもありました。
図らずも長文になったメールに対して届いた返事は、たったの一行「メール確認致しました。〇〇日(約束の日)に調整しますのであと少しおまちください。」というもので、これにまずひっくり返りました。

普通の調律師さんなら、いろいろな説明やらなにやらで、当方を少しでも安心納得させるようなことをいくらかは書かれるのが普通ですが、このシンプルさはまるで結果しか興味のない武士のようでした。
とはいえ、ご本人はとてもあたりの良い、優しい素晴らしい人柄の方なので、文章になると一転してそういうふうになる男性っていますから、まあともかく約束の日を待つことにしました。

当日、ピアノのある部屋に案内したあとは、メールを出していることでもあるし、技術者さん側からもとくに質問たしきこともないので、直ちに作業開始となりました。加えて驚いたのは「グランドは多少時間がかかりますが、アップライトの場合はだいたい2時間ぐらいで終わると思います。」と、いともすんなりいわれたこと。
えっ!?ほんとうに!?

まあ、こちらとしては結果が良ければ途中経過はどうでもいいわけで、まずはやっていただく事になりました。

冒頭にも書いたようにタッチはバラバラで、だいたい白鍵は50kg以上、黒鍵に至っては60kg以上もあって、弾きにくいといったらないし、しなくてもいいミスタッチをしたり、出るべき音がでない、逆に必要以上の強い音が出るなど、要するに乱れまくっていました。
また右ペダルもちょっと踏んだだけで過剰反応し、ほとんど調整らしきものが効かずにワンワン響くだけだったし、調律に至ってはただ唸りが出ているというレベルではなく、素人でもわかるほどあちこちの音が1/4ぐらい下がっていたりと、まあとにかく散々だったのです。

作業開始から2時間ほど経った頃、「すみません、もう少し時間がかかりそうです」といわれ、こちらも「そりゃそうだろう」と思いましたが、プラス1時間ほど経ったころ別室にいると携帯に電話が鳴り、「だいたい終わりました」と言われてまたびっくり。
部屋に行くともう片付けに入っています。
お定まりの「どうでしょう、ちょっと弾いてみてください」と言われ、ちょっと鳴らしてみると、「えっ、これが同じピアノ!?」というほど音からタッチから、何もかもが良くなっていて、ただもうびっくり仰天でした。

無論調律をしているので音程が揃って気持ちいいのは当然としても、音色ものすごく良くなっているし、タッチは全体になめらかで均一で、コントロールも効くしとても弾きやすくなっていました。
ペダルも踏んだ感触と効き方がリニアになっているし、あれだけの問題をこんなにすんなり解決できるというのは、マロニエ君の長いピアノ生活の中でもまったく初めての経験でした(翌日経ってみると、鍵盤のダウンウェイトは平均して50kg前後にきれいに収まっていて、いやはやお見事!)。

この方の技術が特別なのか、あるいははじめに言われたようにアップライトはそれほど調整に手間暇がかからないのか、そのあたりのことは今だ不明ですが、いずれにしろこんなに驚いたことはありませんでした。

それと、ときどき仕上がり具合を確かめるためか、ジャズ風な曲を試し弾されているのがドア越しに聴こえるときが幾度かありましたが、その音の美しいことは思わず立ち止まるほどで、これがシュベスターたる所以かと感銘を受けました。
決してエッジの立った音ではないのに、色艶があって、どこまでも澄みわたった美しい音色は、これまで一流品以外のピアノからはついぞ聴いたことのないもので、たしかに上質な音であるばかりか、きわめて音楽的なのです。

自分で弾いても、楽器を弾いているという実感がたえずあり、弾くごとに心が刺激されところは特筆に値するピアノだと思います。きれいなような音は出るけれども心の通わない大量生産品とは、ここがまったく違うところだと思いました。
個人的にシュベスターはかなり自分の好みに合うピアノのようです。


2017/05/27 Sat. 02:03 | trackback: 0 | comment: -- | edit

環境の変化? 

大阪・神戸で一流ピアノ三昧に明け暮れ、帰宅した翌日のこと。
先日納品されたシュベスターを数日ぶりに弾いてみると、とても美音とは言いかねる混沌とした音にびっくりしました。

もちろん関西で弾いてきたピアノは最高ランクの一級品ばかりだったので、自分の耳も感覚も良い方に少し狂ってしまっていたかもしれませんが、それにしても「これはあまりにも…」と思いました。

納品前に軽くやったという調律は、時間が経つにつれますますバラバラに狂ってしまっているようで、ちょっと何曲か弾いてみましたが、早急にどうかしないと…という印象でした。
納品早々に、丸4日ほど放置していたわけですが、所詮はヤフオクで衝動買いしたピアノですから、何があっても不思議じゃありません。

「もしかしてピンズル?」というイヤな疑念が頭をかすめます。
古めのピアノにはチューニングピンがきちっと止まらなくなるピンズルという症状が出てしまうことがあり、納品から一週間も立たないうちにここまで狂ってしまったのは、そのせいではないかとまず思い、とりあえず技術者さんに電話してみることに。
納品調律は来週後半に約束はしているけれど、これではあんまりなので、もし可能ならもう少し早く来てもらって、少しでも早くきちんとした律調をやってもらいたい衝動に駆られました。

電話に出た技術者さんによると、果たしてピンズルは調律をやっているとだいたい感触でわかるのだそうですが、我がシュベスターには幸いまったくそういった兆候は見られなかったので心配には及ばないとのこと、それはそれで一安心ではありました。
でも、それなら、なんでこんなに狂ってしまったのかという疑問が残ります。

技術者さんが云われるには、ピアノは納品のための移動や環境の変化によって大幅に狂ってしまうことが珍しくないので、納品調律もすぐにはやらず、新しい環境に馴染むまで、できれば最低一週間は待ったほうが自分は良いと思いますと言われました。
考えてみれば3月上旬から5月という、日ごとに天候が激変する季節に、冷暖房のない厳しい環境でまるまる2ヶ月間を過ごしたわけで、それがいきなりエアコンのある室内へとにやってきたのですから、たしかに環境の変化というのはかなりのものがあるだろうと思いました。

中には納品時に運送屋と同道して、すぐに納品調律されるケースもありますが、それなら買った側も納品初日から調律の整った状態で弾けるというメリットはあるかもしれませんが、長い目で見れば時間を置いたほうが調律の安定という点では望ましいようです

というわけで、現在のところシュベスターの本来の良さは発揮されているとは言い難いけれど、弾いているうちにわずかに復調するような部分もないではなく、やはり優しげな音を出すピアノということは次第に思えるようになりました。
しかし、繰り返すようですが、前日まで関西で極上のヴィンテージスタインウェイのDのあれこれや、カワイのSK-7など、通常ではめったに触れる機会のないピアノにばかりに接してきたせいで、マロニエ君の音に関する尺度もずいぶん変化してしまったらしいことも、こうした印象に繋がってしまったかもしれません。

そもそも、価格的にも形状的にもお話にならないぐらい違うピアノですから、比較すること自体がナンセンスですが、それでもシュベスターの歌心と鷹揚な個性は、狂ってしまった音の中からときおり聴こえてくるものがあり、ピアノはこのブログを書いているパソコンのある机のすぐ真後ろにあるのですが、存在にイヤ味も圧迫感もなく、なんだかとってもかわいい奴だなあと思います。
というのも、ピアノというのは大きいだけに一歩間違えると、部屋の中での存在はとても無遠慮で暑苦しいものにもなることがあるというのはマロニエ君の長年の経験から得た印象です。
これがもし大手量産メーカーのピアノだったら、その危険度も高く、ちょっとしたことですが気持的にそういうふうに思えるだけでも、シュベスターは愛すべき存在だと思います。

シュベスターとはドイツ語で姉妹という意味だそうですが、そういう愛情とか優しさみたいなものをどこかに持ってるピアノで、楽器というのはコンサート用などは別として、家庭でポロポロ弾いて楽しむには、そんな優しい感じの要素もあるていどは必要な気がします。
というわけで、買い方はめちゃくちゃだったにもかかわらず、そこにあるだけで優しい気持ちになれるピアノだったということは、買ってよかったなぁと思うこの頃です。


2017/05/23 Tue. 01:34 | trackback: 0 | comment: -- | edit

関西ピアノ旅 

ほんの数日間ですが、関西まで行ってきました。

目的はいくつかあったけれど、そのうちのひとつは知人が昨年買われたスタインウェイを見せていただくということでした。
大阪の地理にはまったく不案内なので、乗るべき電車と駅名を教えていただき、その通りに行って見ると改札を出たところに知人が待っててくれました。

まずは大阪らしく「二度漬け禁止」の串かつで食事をし、それからご自宅に伺いました。
部屋にお邪魔すると、気品あるつや消し塗装を纏ったModel-D(コンサートグランド)が鎮座しています。
すでに大屋根を開けておられたので、まるで巨大な黒い怪鳥が羽を大きく広げているようでした。

雑談を交わしながら、知人が弾かれるのを聴かせていただいたり、こちらも少し弾かせてもらったりという時間を過ごしましたが、とにかく素晴らしい能力を有するピアノでした。シリアルナンバーが38万台という、ハンブルクスタインウェイの黄金期と言われる時代のピアノで、全体にまろやかで太い音、低音に至ってはピアノも空気も震えるように深く鳴り響き、さすがと唸らされる点が随所に確認できました。

スタインウェイにも世代ごとの特徴というのがあり、この38万台というのは西暦でいうと1960年代の前半にあたり、ルビンシュタインやアラウの絶頂期にも重なるし、壮年期のミケランジェリ、あるいは若いポリーニやアルゲリッチが世に登場して唖然とするようなスーパーピアニズムで世界を驚かせた、あの時代です。
このころのスタインウェイは、後年のようなブリリアント偏重の音色ではなく、ピアノが持っている豊かな潜在力で音楽を自在に表現し、弾く者・聴く者の魂を揺さぶった、いかにもピアノの王道らしい豊かな響きがあふれていると思います。

いわゆるキラキラした音ではないのに、まぎれもないスタインウェイサウンドはしっかりあって、この時代のスタインウェイが今日の同社の名声を不動のものにした(少なくともハンブルク製では)といっても良いかもしれません。
マロニエ君の下手な表現でいくらあれこれいってもはじまりませんが、音の中にたっぷりとした「コク」のある佳き時代の本物の音です。

とくにイメージするのは、アラウの演奏でよく耳にする肉厚で、温かくて重厚、そしてなにより美しく充実感のあるあの音でした。
今のピアノのように、基音は細いのにキラキラ感ばかり表に出したり、パンパンとうるさく鳴らすだけの表面的な音とはまったく次元の異なる、まさに設計・材料・思想なにもかもが理想を追求できた時代のピアノでしょう。

こんなピアノに触れられただけでも、大阪まで行った甲斐がありました。


また、せっかく大阪まで来たことではあるし、実はこれまで一度も行くチャンスのなかったカワイの梅田ショールームにも足を伸ばしてみました。
こういうところに行って、買いもしないのにありったけのピアノを弾いてまわる勇気など持ち合わせない小心者のマロニエ君なので、ちょっとだけとお店の方に断ると快諾を得たので、ガラス張りの試弾室?の中にズラリと並んでいるうちの、GX2(だったか)という、レギュラーシリーズの小さめのグランドに少し触れてみましたが、さすがにメーカーのショールームに展示されているピアノだけあって調整もよくされているし、音にも良い意味でのおろしたての美しさがありました。なによりすべての動きにやわらかい膜がかかったような新品アクション特有の繊細でなめらかな弾き心地には素直に感動しました。

背後から店員の方が静かに近づいて来られて「よかったらあちらのシゲルカワイもどうぞ」と言われ、云われるままついて行くととなりにある小さなサロンのようなところのステージにSK-7が置かれていて、どうぞこれを弾いてみてくださいと言われました。
これまでシゲルカワイはSK-6までの全機種と、SK-EXしか弾いたことがなかったので、むろん恥ずかしさもあったけれど、ある意味スタインウェイなどよりも触れるチャンスの少ないSK-7だと思うと、ここで遠慮をしていては稀有なチャンスを逃すことになるだろうと思い、恥を忍んで少し弾かせてもらいました。

いかにも現代的で、ブリリアントで、まるで上質な洋酒のようで(マロニエ君は下戸ですが)、SK-6よりずいぶん格上な感じがしました。これはもう高級品の部類だと思ったのも道理で、お値段も約600万円也だそうで、さもありなんという感じでした。

ただ、梅田ショールームは有名なわりには想像していたほどの規模ではなく、福岡の太宰府ショールームのほうが台数や種類もあるような気がしたのですが、なにしろ大阪のど真ん中という場所柄でもあり、やみくもに広くはできないのかもしれません。
でもとってもすてきなお店でした。


最終日は、せっかくついでに神戸のヴィンテージスタインウェイで有名な日本ピアノサービスにも立ち寄りました。
マロニエ君はここに行くのはもう3度目か4度目だと思いますが、先代がお亡くなりになってからはじめて伺いました、
あのカリスマ性をもった先代がおられない店はどうなっているのかとも思いましたが、ご子息方がこの店の理念と精神を何一つ変えることなくがっちりと受け継がれており、置いてあるピアノもあいかわらずの名品揃いで、ようするに良いものは何も変わっていませんでした。

先代が最後にニューヨークに行かれた際に買ってこられたという、ジュリアード音楽院にあったというDはニューヨーク・スタインウェイにしては珍しい艶出し仕上げでしたが、まんべんなく良く鳴るし、なんともいえずリッチで深い音がして、まさに文句なしの1台という印象。
またその傍らに置かれた、A3(A型のロング、現在生産されていない奥行き約200cmのモデル)も言われなければB型と思ってしまうほど良く鳴るピアノで、音よし響きよし、バランスに優れ品格もあるというあたり、「ああ持って帰りたい」と思うようなミドルサイズの1台でした。

新品のピアノにはむろん新品にしかない良さがあり、それを否定するものではありませんが、やはり個人的に深く惚れ込んでしまうというか、魂をもって行かれそうになるのは、マロニエ君にとっては古い時代のピアノのようです。
潜在力のある古いピアノに、最高の整備と調整を惜しみなく施す、これがピアノの理想のような気がしました。

いろいろありましたが、ピアノに関しては収穫多き旅でした。


2017/05/19 Fri. 02:09 | trackback: 0 | comment: -- | edit

我が家での印象 

シュベスターが納品されました。
調律がまだなので本来の状態とは思えませんが、それでもとても軽やかによく歌ってくれるピアノだと思います。
とくに中音から次高音あたりは、柔らかでデリケート、華やかでくっきりした輪郭があって、ピアノがもっとも旋律を奏でることの多い部分が美しいピアノだと想います。

もちろん個体差があるでしょうし、何台ものシュベスターを経験したわけでもないから、他の個体がどうなのかはわかりませんが、少なくとも我が家にやってきたピアノに関していうと、ゆったりした曲を、デリケートに弾けば弾くほど、このピアノの懐の深さというか、得意とするところがどこまでも出てくるように感じました。

スタインウェイのような第一級品は別ですが、いわゆる大量生産のピアノは、アスリート的なテクニックをもった人ができるだけバリバリ弾いたほうが演奏効果が上がるように思うし、ピアノの価値もそういうときにでるようで、あまりタッチのこだわりとか、音色の変化の妙、ピアニシモの聴かせどころという部分ではとくに特徴らしきものが出るようには思いません。
その点、シュベスターはフォルテがダメというわけではないけれど、繊細なものを求めていくときのほうで本領を発揮して、どんなに柔らかく小さく弾いても音楽的なテンションを決して失わないところは素直に凄いなあと思います。
同じ曲でも、早めにさっさと弾くより、よりゆっくりと、より注意深く、気持ちを込めて弾けば弾くほど、納得の仕上がりになるのは素晴らしいと思うし、これがマロニエ君の好きなタイプのピアノです。

ただし、つい先日、工房というか倉庫で弾かせてもらったときと、我が家で弾いてみて最も違う点は「響き」の特性だと思いました。

これはシュベスターの問題というより、アップライトピアノ全般が共通して抱える問題のように感じます。
広い空間では、アップライトピアノの後ろ部分は広い空間に向けて開放されているので、そこからきれいに抜けたような響き方をしますが、通常の家などではアップライトは後ろに大きな空間をとって設置することはまずなく、大抵の場合、後ろ部分を壁にかなり寄せて置くスタイル(ほとんどくっつけると言ってもいい状態)となります。

そのため、楽器から最もダイレクトに出てくる音を、もったいないことに壁で塞いで、そこがいつもフタをしたような状態になってしまうようです。

グランドで言えば、お腹から下の部分に当てものをしていつも閉めきっているようなもので、これでは本来の響きを発揮させることはできませんが、かといってアップライトをわざわざ壁から話して置くというのも、欧米人の住むような広い部屋ならともかく、普通は現実的になかなかできることでもないでしょう。
だいいちそんな広い空間があれば、やはりグランドでしょうし。
つまり、アップライトはグランドに比べて、常に響きという点で設置環境で大きなハンディを背負っているというべきかもしれません。

書き忘れていましたが、個人的に「この」シュベスターの魅力のひとつだと思うのがタッチでした。
アップライトはみなストンと下に落ちるタッチ感かと思っていたら、あにはからんやコントロール性があり、音色変化がつけやすいのです。
それはとりもなおさずタッチに一定の好ましい抵抗があるということです。
この好ましい抵抗があることによって、奏者はタッチのコントロールが効くのですが、技術者さんの中にはなめらかで軽いタッチがいい、もしくはそうであることがみんなに好まれると信じこんで、まるで電子ピアノのような軽いペタペタのタッチにしてしまう場合があります。

そういうペタペタ感の無いことは麗しい音色と相まって、シュベスターを買ってよかったと思える部分です。
さらには気になっていたヒビですが、技術者さんの言われる通り、自室に入れてみるとほとんど気にならないレベルであることがわかり、これを無理して修理したり塗り直したりしなくてよかったとしみじみ思いました。
ときどきは人の言うことにも素直に耳を貸すべきですね。

こう書くといいことずくめのようですが、低音にはいささか不満が残りました。
まともな調律がなされていないので、現時点で結論めいたことを言うべきではないかもしれませんが、単音ではそれほど悪くないけれど、重音・和音になったときのハーモニーがあまりきれいではなく、このあたりは改善の余地があるのか、こんなものなのか現在のところ未知数です。

とはいえ、弾いていてとても豊かな気持ちになれるピアノで、これは楽器としてまず大切なことだと思います。
それともうひとつ気に入っているのは鍵盤蓋に輝く「SCHWESTER」という文字で、字面といい書体といい、なんともいえない趣がありますし、正直をいうと日本のピアノで、これほどいいと思えるのはひとつもありません。
音とは直接関係ないことですが、こういうことってマロニエ君は意外に大切だと思います。


2017/05/14 Sun. 01:47 | trackback: 0 | comment: -- | edit

いざとなれば階段? 

工房到着からすでに2ヶ月、ヤフオクの落札からそろそろ3ヶ月が近づき、ようやく納品日も決まって我が身に距離が縮まってきた我がシュベスターですが、その作業のスローさには正直しんどいものがありました。

もともとマロニエ君の予想からすれば、せいぜい10日から2週間ぐらいかなと勝手に思い込んでいたので、はじめのうちは性格的にかなり耐え難い気分が続くことになりました。
技術者さんの方針もいろいろで、作業を集中的に一気にやってしまうところもありますが、今回はその真逆というか、こういうやり方もあるということで職人さんの世界もいろいろあっるということで、たいへん勉強になりました。

救いは、その技術者さんはものすごく人柄の良い方で、センスもあるし、決していい加減な仕事はされないという信頼感でした。
他の仕事も多くかけもちしておられるという事情もあって、あまりせっつくのも気が引けるし、無理を頼めば本当に睡眠時間を削ってでも無理をされそうでそれは却って怖いので、とにかく先方のペースに任せることに。
なので途中から完全にこちらの気構えも切り替えました。

恥をさらすようですが、もともとマロニエ君は「待つ」ということが子供の頃から再大の苦手要素のひとつで、その苦痛はなかなか普通の人には理解の及ばないものかもしれません。なので、自分の努力によってなんとかなるものなら大抵のことは頑張りますが、今回の塗装補修などは、こちらが頑張れる余地はゼロで、ひたすら技術者さんにお任せするしかありません。

塗装以外にも、日中は調律の仕事がおありのようだし、当然ながら他の急ぎの仕事があれこれ割り込んできてもいるでしょう。さらには塗装なので天候には最も左右され、雨になると塗装の作業は完全無条件でストップするそうです。あれやこれやで遅れに遅れて、当初は4月の中頃か後半ぐらいといわれて(それでも驚いた)いたものが、けっきょく5月中旬になりました。

前回も書きましたが、磨いても消えない何本ものヒビはあるし、それが部屋に置いたときにどんな感じを受けるかもわかりません。
でも、冷静になれば、決して負け惜しみではなしにマロニエ君は今どきの新品ピアノの、まるで電気製品のような異様なピカピカのあの雰囲気も音も好きではなく、だから古い手造りのピアノをゲットしたといういきさつがあったわけで、初心をしっかりと思い出すことに。
それ以外はさすがはピアノ専門の木工職人さんだけのことはあって、塗装も、金属類もまったく見事な仕上がりでした。

運びこむ部屋は自宅の二階になるので、道路からユニック(トラックに装着されたクレーン)で二階のベランダに上げて、そこの窓枠などを外して屋内に運び入れ、あとはドアや廊下を経由して設置場所まで移動する予定です。
一度も下見に来られなかったので大丈夫かと思っていましたが、以前も別の運送会社がその方法で入れたことがあると伝えると「大丈夫です!」とのことで、おまけに「どうしてもダメな場合は階段から上げます」という豪快な事を言われ、なんと頼もしい事かと感心しました。

ピアノの運送屋さんにも個性がいろいろあって、階段は絶対にいやがる会社もあり、クレーンを使うために事前の打ち合わせから入念な下見までされるところもありますが、マロニエ君はなんとなく感覚的に、あまりに慎重すぎるような姿勢を見せられると却ってイヤミな感じを受けるし、ダイジョウブ、なんとかなる/なんとかしてみせると胸を叩いてくれるタイプのほうが好きです。

マロニエ君はこれまでにもかなりの回数、さまざまな運送会社から、さまざまなサイズのピアノを自宅に出し入れしてもらった経験がありますが、搬入搬出でトラブったり傷をつけられたようなことは一度もなく、どこもプロの運び手としてしっかりした仕事をされるという点では本当に立派だと思うし、そのあたりは日本の会社はしっかりしていて信頼感が高いと思います。

以前、『パリ左岸のピアノ工房』だったか、そんなタイトルの本の中で著者がついに小型のグランドを購入し、自宅のアパルトマンに納品されるシーンがありますが、何階だったか忘れましたが(たぶん2階以上だったような)、屈強なひとりの男性が背中にピアノを括りつけて、階段を怪力でよじ登ってくるシーンがあり、たいそう驚いた覚えがあります。

ヨーロッパは何かと厚みのある高度な文化圏と思っていますが、意外なところで旧態依然としたスタイルが残っていたりして驚きとともに笑ってしまいます。その点では日本は地味だけれど、全国隅々まで道路が舗装されているように、そんな方法でピアノを搬入するなんてあり得ないし、さりげなくも近代性が整った国だなあと思います。
ショパン・コンクールの会場であるワルシャワフィルハーモニーも、あれだけ国家的イベントであるにもかかわらず、ピアノ用のエレベーターなんぞなく、すべて地上から人海戦術で階段をぐるぐるまわって、あの巨大なコンサートグランドをステージまで運び上げると知って、そのローテクぶりには心底おどろきました。


2017/05/12 Fri. 12:42 | trackback: 0 | comment: -- | edit

作業終了 

ヤフオクでシュベスターを落札したのが2月の下旬。
それから運送の手配をして、福岡に到着したのが3月上旬、さらにそれから約2ヶ月が経過しました。
仕上がりがいつ頃になるのか、はじめは少しでも早くと思って気を揉んでいましたが、途中からどうもそうはいかないらしい気配を悟ってからは半分諦め気分に突入。
それが、ついに「できました」という一報を受けるに至り、ゴールデンウィークの最後の日曜の夜、工房に見に行ってきました。

全身のあちこちに認められた細かい凹み傷等はパテ埋めして直し、塗装も必要箇所は塗り直しをして、蝶番やペダルなどの金属類もピカピカとなって見違えるようにきれいになりました。
2ヶ月というのが妥当かどうかはともかく、ここまででも大変な作業だったろうと思います。
ただし、ボディのあちこちを走り回る塗装ヒビだけは磨いても消えることはなく、これだけは如何ともし難いものでした。

どうしても直したい場合は塗り直しをすれば可能なのですが、以前も書いたようにこの職人さんは、古いものの味わいに敏感で、そのあたりの感性というか美意識を持っておられます。
その方の意見によると、このヒビはこのピアノの味として残しておいても悪くはないんじゃないかということで、マロニエ君も冷静に考えてみましたが、古いピアノの塗装だけ(中まで全部オーバーホールするのならともかく、外側の見てくれだけ)を新しくするのも見方によっては物欲しそうでもあるし、言われている意味も自分なりに納得できたので、美しくはしてもらうけれど、ヒビはそのままにすることにしました。

いちおう整音と簡単な調律も終えた状態ということでちょろちょろっと弾いてみたのですが、その音の良さには想像以上のものがあり、シュベスターが一部の愛好家の間で根強い人気があるらしいのも大いに納得できるものでした。

技術者の方も言っていましたが、「このピアノは僕がいうのもなんですが、塗装とか外装はどうでもいいというか、べつに(マホガニーの木目ですが)黒でも良かったんじゃないかと思う」と斬新なことを言われます。
それほど、このピアノの価値は音そのものにあるのであって、だからそれ以外は大した問題じゃないという意味のようでした。

マロニエ君は普通は音だけでなく、外観も結構気にするミーハーなんですが、たしかにこのピアノに関しては彼の意見が何の抵抗もなくすんなり気持に入ってきたのは、それがいかにも自然でこのピアノに合っていると思ったからだと思います。
このピアノは、その固有の音色やふんわりした響きを楽しみながら弾くための楽器であって、それ以外のことは二の次でいいと思わせる人格みたいなものを持っている気がします。

重複を承知で書きますと、シュベスターのアップライトはもともとベーゼンドルファーのアップライトを下敷きにして設計開発されたそうですが、悲しいかなマロニエ君はベーゼンドルファーのアップライトはむかし磐田のショールームでちょっと触ったぐらいで、ほとんどなにも知りません。
むろんシュベスターはベーゼンのような超一流ではないけれど、独自の繊細さや優しげな響きが特徴だというのは確かなようだと思いました。
繊細といっても、けっしてか弱いピアノという意味ではなく、音に太さもあるけれど、それが決して前に出るのではなく、あくまでもやわらかなバランスの中に包み込まれる全体の響きのほうが印象に残ります。
少なくとも無機質で強引な音をたてる大量生産ピアノとはまったく違う、馥郁としたかわいらしい音で、弾く者を嬉しい気分にさせてくれます。

大別すればベーゼンドルファーはオーストリアなのでドイツ圏のピアノということになるのかもしれませんが、シュベスターはもっと軽やかで甘さもあり、こじつければちょっとフランスピアノ的な雰囲気も持ち併せているように思いました。
このあたりはプレイエルに憧れるマロニエ君としては嬉しいところですが、それはあくまで勝手な解釈であって、本物のプレイエルはまたぜんぜん別物だとは思いますけど。

その点でいうと、以前愛用したディアパソンはあくまでも堅牢なドイツピアノを参考としながら昔の日本人が作ったという感じがあり、その音色の一端にはどこか昭和っぽい香りがあったように思います。(現行のディアパソンには昭和っぽさはありません、念のため)

シュベスターの特徴とされる北海道のエゾ松響板のおかげかどうかはわかりませんが、量産された響板をなにがなんでも鳴らしているという「無理してる感」がまったくなく、どの音を弾いてもほわんと膨れるような鷹揚な響きが立ち上がって、楽器全体がおっとりしているようにも思いました。

不思議というか幸運だったのは、塗装面にあれだけヒビがたくさんあったにもかかわらず、肝心の響板は、ずいぶん細かく点検していただきましたがどこにも割れのようなものはなく、楽器としての肝心な部分は望外の健康体を保ってくれているということでした。

あと技術者さんが言っていたことですが、すごくしっかり作られていたということ。
塗装の修正をしたりパーツ交換したりする際に、あちこちの部品を外したり分解したりするそうですが、それが通常のピアノに比べてずいぶん大変だったらしく、そのあたりにも手造りピアノの特徴なのか、製作者の良心のようなものが感じ取れる気がしました。

まだ自宅に納品されていませんから、実際に部屋に入れてみてどんな印象を持つかは未知数ですが、なにしろヤフオクで実物も見ず、音を聴くこともせずいきなり入札するという、ピアノの買い方からすればおそらく最もやってはいけない入手方法であって、いわば禁じ手のような買い方をしてしまったわけですが、そんな危険まみれの購入にしては、覚悟していたよりずっといいものだったようで、とりあえずラッキーでした。

2017/05/09 Tue. 02:40 | trackback: 0 | comment: -- | edit

センスは命 

先日のこと、お世話になっている調律師さんからご連絡をいただき、❍月❍日の午後ちょうどついでがあるので短時間だけですが寄りましょうか?というお申し出がありました。

実はこの方、このブログを(こちらから教えたわけでもないのに)読んでくださっているそうで、いぜん「調律が少し乱れてきた…」的なことを書いていたことをちゃんと覚えていてくださったらしく、それを少し整えるために「拾う程度」ですがやりましょうか?ということ。
こちらとしては願ってもないことなので、ありがたくそのお申し出を受けることになりました。

そのあとも別の御用がおありの由で、わずか1時間ほどの作業ではありましたが、ざっと全体を確かめてから、淡々とした調子で整音と調律を必要箇所のみされのですが、こちらからはとくに希望も出さなかったにもかかわらず、あっと驚くような素晴らしい状態に復活ました。

そもそも、この方には高度は技術に加えて「センス」があるのだと思います。
センスというのは持てる技術を何倍にも増幅する力があり、逆にここが劣っているとどんなに良い技術を持っていても最大限それを発揮することはできません。
しかも、これはわざわざ学んだり教えられたりといったことはできないので、いわば天性の領域です。

何かのTV番組でしたが、一人前の鮨職人になるには旧来の徒弟制度のもとで十年ぐらいの厳しい修行に耐えぬくのだそうですが、そんなことが本当に必要なのか?というようなことで意見が戦わされ、個人的に好きではないけれどホリエモンが「そんなのナンセンス、合理的な技術習得と、あとはぜったいにセンスの問題!」と、反対派を押し切って何度も言い張っているのをみたことがありました。

マロニエ君はこの意見に100%賛成するつもりはないし、多くの無駄の中に実は大切なものが多く含まれていると思うのも事実。とくに本物の技術の習得とならんで鮨職人としての精神的成熟には、やはり一定の時間も忍耐もかかると思います。
でも、じゃあそれがすべて正しいのかといえば、そうとも言い切れず、やたら根性論だけをふりかざすのも不賛成で、そこには冷静かつ合理的訓練に加えてセンスがなくては、ただ昔ながらの徒弟制度を通過するだけでは本物の花は咲きません。

ピアノの場合も、どれだけ多くの経験を積み、うんちく満載で、こまかい知識が豊富でも、結果として感銘を与える音、気品と表現力で聴くものを魅了する最上級の音を作ることのできる人は、これまでの経験でもそうざらにおられるとも思えません。
職人としての高度な技術の持ち主、あるいはコンサートチューナーで自他共に一流と認識される方は事実たくさんいらっしゃいますが、それが本当に最高の音や弾き心地、表現力に繋がっているかといえば、必ずしもそうでもないとマロニエ君は思っています。
センスが無い(もしくは足りない)ため、持てる技術を活かしきれていない人は少なくないし、これはいうまでもないことですがピアニストも同様です。

冒頭の方は、たまたまマロニエ君がその店に立ち寄って、そこに展示されていたピアノに触れ、その素晴らしさに感銘を受けたことからご縁ができたことは、以前にも書きました。

初めて我が家に来られたときに、いきなり「❍❍さん、マロニエ君でしょう?」と言われときは、思いがけず正体をあっさり見破られたようで肝をつぶしましたが、その後もプロの調律師の方がこんなくだらないシロウトの戯言に目を通してくださっているなんて思いもよりませんでした。

たしかにブログはネット上に存在するものなので、どこの誰がどんな気持ちで読まれているかわかりません。
普段はただ漫然と思ったままを書いているだけですが、つい先日もある方からメールをいただき「❍月❍日と☓月☓日の記事はそれぞれやや内容に重複があるような気がしますが…」などと指摘されたりして、いまさらながら心しなくてはならないと思いを新たにしました。

話は逸れるようですが、車やバイクのエンジンオイルというのは、一定期間/距離に応じて交換します。その際、全部交換するに越したことはないのですが、急場しのぎには、そのうちの1Lだけでも新油に入れ替えると、全交換した時とほとんど遜色ない良いフィールが蘇るというのはモータリストの間ではそこそこ有名な話です。
もしかしたらピアノも同様で、今回のわずか1時間の調整でこれほど劇的に変化したということは、「神は細部に宿る」のたとえの通り、良い状態というのはそれほど僅かで微妙なものが大事な鍵を握り、良否を左右するという一面があるのではないかと思いました。

短時間の整音と調律の結果、気品としなやかさとブリリアンスが見事に並び立った、まるでCDから聴こえてくる音そのものみたいになっていて、これじゃあマロニエ君の下手な弾き方ではあまりにもったいなくて、却って思い切って弾けません。

かように音に対するセンスというのはその人固有もので、美とバランスの感覚の問題です。
きれいでもあまり小細工や苦労のあとが見えるもの、主張の強すぎるもの、ひとりよがりなものはマロニエ君は好みではなく、あくまで自然で労少なくしてさらりと出来上がったような感じのする最高のもの、これこそが好みです。

2017/05/06 Sat. 02:36 | trackback: 0 | comment: -- | edit

活気の衰退 

何とはなしに、ちょっとしたことで寂しい時代になってきたなあと思うことがあります。
一例が、いろいろな店舗の夜の営業時間、とくに深夜営業を売り物にしていた飲食店(アルコールを伴わない店とかファミレスのこと)などの営業時間が軒並み短くなっていくことや、夜、気軽に車で行ける書店がどんどん減ってきていることなどにそれを感じます。

ファミレスの代表ともいえるロイヤルホストなどは、以前ならあちこち24時間営業も珍しくなかったのに、今では一律(例外はあるのかもしれませんが)0時閉店ということになってしまったようです。
これには今の世相というか、人々の生活パターンの変化が深く関わっているのは明らかでしょう。

例えば名前を出したついでにいうと、土日のロイヤルホストなど夕食時間帯に行こうものなら、それこそ入口のドアから人がもりこぼれそうなほど順番待ちのお客さんで溢れかえり、名前を書いて席が空くのを満員電車よろしく待たなければならないほど、それが8時過ぎぐらいをピークに一気に人が減り始め、10時を過ぎる頃にはさっきまでの喧騒がウソのようにガラガラになってしまいます。

車の仲間のミーティングなどでは、ファミレスは時間を気にせず談笑できる不可欠の場所だったのに、少し遅くなるとついさっきまでざわざわしていた店内は一気に潮が引いたようになり、閉店時間が迫ると残りの僅かな客は否応なしに追い出されてしまうようになりました。

マロニエ君の世代の記憶でいうと、以前は深夜の時間帯はもっと世の中に活気やエネルギーがあふれていました。
とくに若い人は夜通し遊ぶというようなことは平気の平左で、各々なにをやっていたのかはともかく、明け方に帰るなんぞ朝メシ前でしたし、当時の中年世代だってもっと活発でエネルギッシュだったように思います。

過日、連休で遠出をしたところ終日猛烈な渋滞に遭い、疲れてヘロヘロになって帰ってきたことを書きましたが、呆れるほど日中の人出はあるのに、ある時間帯(おそらく8時から9時)を境に、まるで動物が巣穴に戻るように人はいなくなります。
以前より、明らかに早い時間帯に、申し合わせたようにみんな帰宅の途に就くのでしょう。

昔は厳しい門限なんかを恨めしく反抗的に思うことがあったのに、今じゃそんなものはなくても、自然に、ひとりでに帰って行ってしまう真面目ぶりには驚くばかりです。
それだけ、夜の外出が現代人にとって楽しくないということもあるしでしょうし、翌日の仕事や学校に備えるという配慮も働くのか、あるいは体力気力おサイフの中も乏しいのかもしれません。それ以外の要因もあるのかもしれませんが、とにかく世の中全体が節約志向で元気がなく、まるでひきこもりのような印象を覚えます。

深夜まで出かけるというのは、基本的には相手あってのことで、今時のようにスマホ中心の、人と人とが淡白な交流しかしないようになると必要もなければ魅力も失ってしまったのかもしれません。
それに追い打ちをかけるように、現代はどこか不自然な感じに家族中心主義的で、それ以外の交際はずいぶんと痩せ細ったようにも思います。

さらにもうひとつ驚いたのは、友人がテレビで聞いたそうですが、やはり24時間営業をはじめ深夜営業のファミレスやファストフード店が、全国的にものすごい勢いで減っているらしく、その一因が若者の車離れにもあるというのです。
たしかにこういう店は車で行くことを前提としていますから、仲間内で誰も車を持っていないことが普通(らしい)今どきの若者の行動パターンにはそぐわなくなり、だんだん深夜の客足が遠のくのも無理からぬことかと思いました。

本屋も、それが悪いという意味ではないけれど、あるのはたいてい同じ名前の店ばかりで、書店と言っても店内のかなりの部分はDVDなどのレンタルなどが大手を振り、書籍売場はずいぶん剥られて、置かれている本も、大半が雑誌かコミックか実用書のたぐいばかりで、本らしい本というのは無いに等しく、これひとつみても文化が衰退している感じです。

いろんな楽しみが増えたといえばそうなのかもしれませんが、あまりのスピードについていけないし、むかしからある普通の楽しみは、まさに絶滅危惧種ですね。

2017/05/03 Wed. 01:54 | trackback: 0 | comment: -- | edit

真っ当な価値 

BSプレミアムのクラシック倶楽部の録画から、昨年のアンスネスの来日公演の様子を視聴しました。
曲目は、本編とアラカルトを併せるとシューベルトの3つのピアノ曲、シベリウスの小品、ショパンのノクターンとバラード第4番、さらにシベリウスのソナチネ、ドビュッシーの版画というもので結構な時間と量になりました。

アンスネスのCDは何枚か持っているけど、それらは悪くもないけれど、特段の感性のほとばしりもなければ才気に走ったところも毒の香りもない、要するにこの人でなければならない特別な何かがあまり見いだせない、どちらかというと凡庸なピアニストという印象を持っていました。
今回、音だけ聴いていてはわからないことが、映像を見ることでわかったような気がする部分もありました。

それを適確な言葉で言い表す能力はマロニエ君にはないけれど、喩えていうならカチッと仕立てられた上等なスーツみたいな演奏だと思いました。
常識の中に息づく美しさや自然の心地よさ、音楽的礼儀正しさとでもいえばいいのか、一見目立たないけれど、非常に大事なものが確乎として詰まっているピアニストだと思いました。

2月の放送でN響とシューマンの協奏曲を聴いた時と同様、ソロリサイタルでもやはりピアノの大屋根はつっかえ棒になにかを継ぎ足してまで盛大に開けられていて、こうすることに音響上のなにかこだわりがあるものと思われます。
ただし、視覚的にはいかにもへんで、これによってスタインウェイのあの美しいフォルムは崩れ去り、少なくとも見た目はかなり不格好なピアノとなっています。

ただしその効果なのかどうかはわからないけれど、通常よりも明るく太い音のように感じられ、普通のスタインウェイよりも、どこか生々しいというか直接的な感じがしたのは気のせいではないような気がします。
もちろんピアノそのものやピアニストによって音はいかようにも変わるものだから、その要因がなんであるのかはしかとは突き止めきれませんが、結果的にこれはこれでひとつの在り方だというふうにマロニエ君は肯定的に捉えたいと思う音でした。

アンスネスのピアノは、どこにも作為の痕がなく、ほどよく重厚で、誠実にかっちり楽曲を再現することに徹しているところはあっぱれなほどで、解釈もテンポもアーティキュレーションも、呆れるほどにノーマル。
それでいて、今どきのカサカサした空虚な演奏ではなく、聴き応えのある実感があるし適度な潤いも必要な迫力もちゃんとある。
そしてなにより男性的安定感にあふれており、安心してゆったりと身を預けることができる演奏でした。

アンスネスのピアノで今回はじめて意識的に感じられたことは、楽譜に書かれた音がすべてきっちり聴こえてくることで、シベリウスをはじめ、シューベルトもショパンもドビュッシーも、それでいささかも不都合なく自然に耳に届いてくる、一見とても当たり前のようで、実はこれまで聴いた覚えのないような不思議な快適さだったように思います。

なかでもドビュッシーは、多くのピアニストが絵の具をにじませるような淡い演奏に傾倒しがちなところを、アンスネスはいささかもそんなことせず、あくまでも一貫性のある自分のスタンスを守りつつ、それでいてなんの違和感もなく落ち着きをもって安らかに楷書で聴かせてくれる点で、オーソドックスもここまで徹すれば、これがひとつの個性に違いないと感心してしまいました。

これは演奏を細分化したときの、音のひとつひとつに明瞭な核があって堅牢ですべてが揃っており、そこからくる構築感が自然と全体を支えているように思います。

番組の「アラカルト」では、たいていふたつの異なる演奏会が組み合わされ、このときの後半はアレクセイ・ボロディンのピアノリサイタルでした。
プロコフィエフのロメオとジュリエットから10の小品を弾きましたが、堅固な中にしなやかさが息づくアンスネスのドビュッシーの見事さのあと、そのまま連続してボロディンを聴くことになりましたが、技巧派で鳴らしたロシアのピアニストにしては、その「核」がなく、強弱やアーティキュレーションにおいて、音にならないようなところ、あるいは表面的な音質が目立ちました。
体格はずいぶんと立派ですが、出てくる音は意外なほど軽くて気軽なものに聴こえました。

ちょっと分厚い本をもった時、心地よい重みがズシッと指先に伝わってくる心地よさみたいなものがありますが、アンスネスのピアノにはそういう真っ当な良さ(しかも現代ではどんどん失われているもの)があるように思いました。

アンスネスには高速のスピード感とか、指の分離の良さからくる技巧の鮮やかさといったものはありませんが、派手な技巧よりも大事なものがあるという当たり前のことを、静かに問い直し教えてくれたようです。


2017/04/29 Sat. 02:25 | trackback: 0 | comment: -- | edit

父から子へ 

先日の日曜のこと、ちょっとした用があって郊外まで友人と出かけた帰り道、夕食の時間帯となったので、どこかで食べて帰ろうということになりました。

ところがマロニエ君も友人も外食先として思いつくレパートリーをさほどが多くもたない上、前日も数日前も外食だったので、同じものは嫌だし、日曜ということもあって、どこにするかなかなか思いつきません。
あれもダメ、これもイマイチ…という感じで、どうも適当なところがないのです。

やむなく行き先が定まらないまま車を走らせていると「餃子の王将」のネオン看板が目に入り、いっそここにしようかということになりました。
しかし幹線道路に面したそこはかなりの大型店舗であるにもかかわらず店内は超満員!
ガラス越しに待っているらしい人が大勢見えるし、駐車場も止められない車がハザードを出して待機しているため、ここはいったんスルーすることに。

そこから車で10分ほどの国道沿いにも同じ名の店があったことを思い出し、そちらへ向かうことに。
こちらも駐車場は満車に近かったけれど、なんとか1台分のスペースは探し当てたし、すこし外れた場所であるぶん店内の混雑も先ほどの店舗よりいくらかおだやかでした。

少し待って席に案内され、さあとばかりに分厚いメニューを開こうとすると、すぐ横からやけに大きな話し声が聞こえてきました。
父と若い息子の二人連れらしく、父親のほうがさかんにしゃべっていて、息子は聞き役のようでした。
いきなり、
「ま、お前も、野球して、大学に入って、オンナと同棲して、今度は就職だなぁ!」と感慨深げに言いますが、その父親の横は壁で、それを背にこっちを向き、通りのいい大声でしゃべるものだから、困ったことに一言一句が嫌でも耳に入ってくるのでした。

マロニエ君は一応メニューを見ていたのですが、その父親から発せられる奔放な話し声が次から次に聞こえてくるのでなかなか集中できません。
友人もマロニエ君がこういうことに人一倍乱されることを知っているので、困ったなぁという風に笑っています。

こういうあけすけな人が集まるのも「餃子の王将」の魅力だろうと思いつつ、店員が注文をとりにきたので、まず「すぶた」と言おうとした瞬間、さっきの「オンナと同棲して」という言葉が思い出されて、可笑しくて肩が震え出しました。
気を取り直してもう一度「すぶた」と言おうとするけれど、笑いをこらえようとすればするほど声が震えて声にならず、それを察した友人がすかさず代ってくれて、無事に注文を終えました。

その父親は、自分が務めた会社をあえて「中堅だった」といいながら、自分がいかに奮励努力して、同朋の中でも高給取りであったかを、具体的な額をなんども言いながら息子に自慢しています。
「だから心配せんでいい!(たぶん学費のこと)」というあたり、なんとも頼もしい限りで、大学生と思しき息子も自慢の父親であるのか、そんな話っぷりを嫌がるどころか、むしろ殊勝な態度で頷きながら食べています。

「お前の野球は、無駄じゃなかったよ。それがいつかぜったい役に立つ筈。」と励ますことも忘れません。

そのうち父親の話は、人間は海外へ出て見聞を広げなくてはならないといった話題に移っていきました。
自分がそうだったらしく、いかに数多くの海外渡航を経験したかをますます脂の乗った調子で語りだし、同時に息子の同棲相手の女性が一度も海外旅行を経験したことがないということを聞いて、そのことにずいぶん驚いたあと、いささか見下したような感じに言い始めました。

「ま、最初は釜山に焼き肉を食べるのでもいいんだよ、まずは行ってみろ」というような感じです。
日本にだけいてはわからないことが世界には山のようにあるんだということが言いたいようで、それはたしかに一理あるとも思えましたが。

翻って自分はどれだけの国や都市、数多くの海外経験を積んだかという回想になり、これまで訪れた行き先の名が鉄道唱歌の駅名のようにつぎつぎに繰り出しました。ずいぶんといろいろな名前が出ましたが、どうも行き先はアジアの近隣諸国に集中しているようで、訪米の名は殆どなく、唯一の例外は「ハワイだけでも21回は行ったなあ…」と誇らしげに、目の前で焼きそばかなにかを頬張る息子に向かって言っています。

はじめはよほど旅行が趣味のお方かと思っていたら、どうやらすべて仕事で「業務上、行かされた外国」のことのようでした。
さらに、「ホテルはヒルトン…シェラトン…ほとんど5ツ星ばかりだった。そういうところに行かんといかん!」と、最高のものを知らなくちゃいけない、安物はダメだ、お前もそういう経験ができるようになれよという、陽気な自慢と訓戒でした。

海外ではずいぶんたくさん星のついた高級ホテルばかりをお泊りになった由ですが、いま息子とこうしている場所は「餃子の王将」というのが、マロニエ君からみれば最高のオチのようにも思えましたが、それはそれ、これはこれというところなんでしょう。
終始悪気のない単純な人柄の父親のようで、久しぶりに会った息子に、父の愛情と威厳を示す心地良い時間だったようでした。

さらに驚いたのは、息子も父親の話に気分が高揚してきたのか「そんな仕事がしてぇ!」と言い出す始末で、ここでマロニエ君は思わず吹き出しそうになりましたが、食事をしながら、真横からどんな球が飛んできてもポーカーフェイスというのは、かなりスタミナのいる時間でした。
それにしても今どき珍しい、父子の麗しき姿を見せられたようでもあったことも事実です。

2017/04/26 Wed. 01:45 | trackback: 0 | comment: -- | edit